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■ハリスンの夢
収録CD
(ブラスバンド)
スペシャル >>インデックス
樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ−トファイル」
ファイル・ナンバ−12
ピ−タ−・グレイアム:ハリスンの夢
HARRISON’S DREAM
(Peter Graham)
File No.12-15:誕生秘話とコンポーザーズ・ノート

 ブラス・バンド用、ウィンド・オーケストラ用の2つのバージョンが、同じスケッチから作られたピーター・グレイアムの『ハリスンの夢』。

 この作品の楽譜は、アメリカの指揮者ドナルド・ハンスバーガーから自らの名前を冠したワーナーのシリーズの中の1曲として出版したいとの申し出を受け、最終的にウィンド・オーケストラ版だけがアメリカで出版。しかし、作曲家本人も詳しくは語ってくれないが、その後の展開は、アメリカとイギリスの著作権の考え方の違いや、契約による制約などのため、どうやら作曲者にとってすべてがハッピーというわけではなかったようだ。

 筆者も、彼自身の出版社グラマーシーからの出版が考えられていた当時に準備が進められていたスタディ・スコアがアメリカでは不要ということで出版されなくなってガックリ。いろいろな意味で、ほんとうに世の中いろいろあるなと勉強させられた作品となった。

 また、2002年に最初の<作品ファイル>を書いて以降、個人的事情により、次のファイルになかなか進めなかったこともあって、この間ほんとうにいろいろな方からさまざまな質問を受けた。その内容のほとんどは、ここまでのファイルのどこかに織り込んでおいたが、つぎの質問だけは、多くのウィンド・ミュージック・ファンの興味をそそることになりそうなので、ぜひとも書きとめておきたい。

 それは、ウィンド・オーケストラ版を委嘱し、初演したアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドの隊長で指揮者のロウル・E・グレイアム大佐が、当時“ブラス・バンド版の存在を知っていたのかどうか”という質問だった。

 この点に関し、<作品ファイル>に書いた重要ポイントを時系列で整理すると、

【2000年 7月】ブラス・バンド版完成
【2000年10月】ブラス・バンド版初演
【2000年11月】ウィンド・オーケストラ版完成
【2001年 1月】ウィンド・オーケストラ版初演

となる。このため、ウィンド・オーケストラ版の情報が日本にも伝わった2002年時点からみると、一部にそれは既存のブラス・バンド版からの編曲だと思われてしまったのも無理はなかった。

 しかし、ピーターが、アメリカ空軍からいきなり掛かってきた国際電話で新作を委嘱されたのは、実は2000年の始めだった。

 この当時、彼は全英ブラス・バンド選手権のコミッティーから委嘱された同年10月の最終決勝のためのテストピース(後のブラス・バンド版)を書くためのスケッチに着手しており、それと並行してもうひとつの大きな作品を書くにはかなり無理があった。

 そこで、同じスケッチから異なる2つのバージョンを書くことを全英選手権の委員会に諮った結果、委員会は、ウィンド・オーケストラ版の初演が全英選手権より後の2001年2月頃(実際には同1月25日)になることを条件としてそれを了承した。いかにもイギリスらしい裁定だったが、これにより、その後、ブラス、ウィンドの2つのバージョンは、並行してスコアリングの作業が進められることになった。

 この当時の状況をピーターに訊くと、あるときはブラス・バンド版が先行し、あるときはウィンド・オーケストラ版が追い越すようなペースだったというからおもしろい。また、ときには、片方を書いているときに浮かんだアイディアをもうひとつのバージョンに生かしたり、それを使うために前に戻って書き直したりと、結構クロスさせながらの作曲だったという。

 そして、件の質問をピーターにぶつけたのは、アメリカ空軍のCD完成後だった。その問いに対し、ピーターは明快に答えている。

 『ロウル(グレイアム大佐)は、ブラス・バンド版の存在自体まったく知らない。恐らく、今もね。』

 この発言は、我々につぎのような事実を語りかけてくれる。

 まず、『ハリスンの夢』ウィンド・オーケストラ版が、当時未完の同題のブラス・バンド曲の“編曲バージョン”としてアメリカ空軍バンドから委嘱されたものではなかったこと。そして、作曲者も、委嘱を受け、あくまでウィンド・オーケストラの新作オリジナルとして作曲に取り組んだことを。

 幸いなことに、2つのバージョンは、それぞれ異なるジャンルのスーパー・ヒットとなった。そして、ウィンド・オーケストラ版は、ABAオストウォルド賞を受賞。ピーター、あなたはすごい!!

 終わり良ければすべて良し。

 7年ごしのラクガキとなったが、最後に作曲者がウィンド・オーケストラ版の脱稿直後について書いたノートの和訳を紹介し、この稿を終えることとしたい。(訳 / 樋口幸弘)


【コンポーザーズ・ノート】ハリスンの夢

▲ピーター・グレイアム(Peter Graham)

 

 1707年10月22日の午後8時、イギリス海軍の旗艦“アソシエーション(Association)”は、シリー諸島沖で、乗組員全員を失う原因となった岩礁に衝突しました。この夕べの残り時間には、艦隊の残り3隻の軍艦が、同じ運命をたどりました。1,647人の元乗組員のうち、26人だけが生き残りました。この不幸は、その当時の最も緊急を要す科学的な問題となっていた“経度を計算できない”ということが直接引き起こした結果でした。それは、経度問題を国家意識の最優先事へと押し出し、“経度法”を大急ぎで成立させました。議会は、誰であれ、このジレンマを解決する方法または装置を考案した者に与える賞金20,000ポンドの基金を作りました。

 大工であり、独学の時計技師だったジョン・ハリスンにとって、これは40年つきまとう強迫観念の起点となりました。経度を計算するためには、船上の時間と母港または経度が知られている場所の時間を、正確に同じ瞬間に知る必要があります。ハリスンの夢は、大胆な工学的成果となる、この計算を可能にするひじょうに精密なひとつの時計を作ることでした。

 この作品は、デーヴァ・ソベル著“Longitude(経度)” で鮮やかに甦らされた、この壮大な物語のさまざまな局面にもとづいています。音楽の多くは、機械的な音と、正確に数学的で韻律的な流れに沿って作られています。時計技師の仕事場の、耳にこだまするようなさまざまな音が、悪夢の中の情景、すなわち、(失われた)無数の命が解決を願っていたという現実的認識にハリスンが取り憑かれているさまと交錯します。作品の情緒的な核心は、1707年10月22日の夜を映し出します。ここは、8つのチャイムの音が響く中に頂点に達し、ハンド-ヘルド・ベルの音で水夫たちの魂の象徴的な昇天を表します。

 ほぼ2世紀の隔たりが、あの夜の惨禍から我々を情緒的に遠ざけてしまうかもしれませんが、『ハリスンの夢』が伝える隠喩は、時を超越して残っています。

ピーター・グレイアム
チェシャー
イングランド
2000年11月

(完)


(c)2008,Yukihiro Higuchi/樋口幸弘
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