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【話題】

佐渡裕、『題名のない音楽会』司会者に決定!
  〜強烈だった、かつての『題名〜』秘話〜

Text:富樫鉄火(音楽ライター)

 4月から、TV『題名のない音楽会』(テレビ朝日系列、日曜朝9時〜)の司会を、指揮者の佐渡裕が担当することになって話題になっている。1年の大半を海外で活動している人気指揮者が、よく引き受けたものだと驚かれた人も多いだろう。

 だが、佐渡は、以前からこの番組には何度か出演していて、しかも「吹奏楽」を話題にすることも多かった。番組中で、埼玉県立伊奈学園総合高校に、≪アルメニアン・ダンス パート1≫を指導したのも記憶に新しいところだ。

 それだけに、今後、番組でも吹奏楽を取り上げる頻度が高くなるのでないかと、私など、密かに期待しているのだが。

 佐渡にとって、この番組は、『オーケストラがやってきた』(TBS系列)とともに、少年の頃から親しみのある番組だったらしい。先日のシエナ・ウインド・オーケストラ定期演奏会でも、佐渡自身、曲間のトークでそのことを語っていた。

 この番組は、1964年、テレビ東京で始まった(土曜の夜放映)。その後、視聴率低下で打ち切りになりかけたが、スポンサーの出光興産が支援継続を表明したので、そのまま現・テレビ朝日に「移籍」。最初は土曜夜の放映だったが、その後、日曜朝に移って、現在に至っている(最初は、日曜午前の、もっと遅い時間帯だったが、徐々に繰り上がっていまは9時〜である)。

  実は、私事で恐縮だが、私は、中学〜高校〜大学の計10年間、『題名のない音楽会』の、渋谷公会堂における公開録画をほぼすべて、ナマで見ている。1970〜80年代にかけてだ。私の音楽体験の原点は、この番組であり、青春時代は『題名〜』とともにあったのである(詳述は省くが、就職も、この番組が間接的に影響している)

 当時の企画・司会は、番組創設者でもある作曲家・黛敏郎だった。1997年の黛の死後、番組のコンセプトは大きく変わって、現在は、いわゆる「楽しい音楽番組」スタイルになったが、黛時代の『題名〜』は、実に「恐ろしい番組」であった。
  「佐渡裕・司会決定記念」を機に、本来『題名〜』がどういう番組であったか、思い出話を、少しばかり書いておきたい。

■驚くべき企画の数々
  当時の『題名〜』は、隔週金曜日の夜、渋谷公会堂で、2回分を一夜で収録するスタイルだった(時折、海外での録画収録などもあった)。中学に入ってすぐ、「観覧希望」ハガキを出したら入場券が送られてきたので、何回か繰り返しているうちに、名簿にでも登録されたのか、以後、自動的に毎回送られてくるようになった。かくして隔週金曜日の夜の多くを、私は渋谷公会堂で過ごすことになった。とにかくナマ・オーケストラをタダで聴けるのがうれしかった。

 オーケストラは、私が行っていた時期は、東京交響楽団だった(そもそも、同楽団支援のために企画された番組だった)。番組創始期は黛自身が指揮することもあったが、当時は福田一雄や手塚幸紀がよく指揮していた。

 黛時代の『題名〜』は、毎回、「疑問」や「仮説」のワンテーマを設け、それをナマ演奏で実証し、黛が(時にはゲストを交えて)解説する形式だった。基本精神は「パロディ」と「批判」である。このテーマが実にユニークで鋭く、「恐ろし」かった。

 忘れられないテーマは山ほどある。

 私がいまでも如実に覚えているのは「さだまさしの研究」である。確か≪関白宣言≫だったと思うが、舞台上に巨大な楽譜(歌詞付き)を出し、いかに日本語の抑揚とメロディの抑揚が一致していないか、そのために、日本語の美しさを壊し、歌謡曲をだめにしている……という主張を、ねちっこく実証していくのである。そして、日本語と旋律を一致させた作曲家として山田耕筰作品を引き合いに出し、最後には、「歌謡曲でこれを成功させた稀有な傑作」として、尾崎紀世彦≪また逢う日まで≫を、本人を呼んで東京交響楽団のバックで歌わせたのである(黛はこの曲がたいへんお気に入りで、ほかの回でもしばしば取り上げている)。
  さすがに、さだまさし本人は呼ばれていなかったが、こんな番組をつくられて、どんな気分だったろうと、ヒヤヒヤしながら見たものだ。

 超巨大編成のベルオーズ≪レクイエム≫を、初演当時の編成を再現して演奏したこともあった。あれには驚いた。オケや合唱など、全部で数百人いたと思う(東京交響楽団だけでは足りず、新日フィルも呼ばれていたような記憶がある)。当然ステージ上に奏者は乗り切れず、1階席の三分の一ほどをつぶして特設舞台をつくってステージ向きにバンダをならべ、「超巨大立体音響」で演奏したのだ。あの回は、観客数と演奏者数が、ほぼ同数だったはずだ。いったい、なぜこんなことが行なわれているのか、意味もよくわからないまま、私は客席で呆気にとられていた。

 ストラヴィンスキー≪春の祭典≫は、小節ごとに複雑な変拍子になることで有名な曲だが、このスコアを「単純な四分の四拍子」に書き直し、フルスコアとパート譜をつくって岩城宏之&東京交響楽団に演奏させる、とんでもない企画もあった。岩城は、ただシンプルに、正確な四拍子で指揮をする。これにオーケストラがついていけるかという実験である。たまったものではない。よくぞあんな企画を、東京交響楽団が承知したものだと思う。

 人間は、どこまで高い声・低い声が出るのかという、驚異の人体実験が行なわれたのも忘れられない。
  高い声では、黒柳徹子が呼ばれ、モーツァルト≪魔笛≫の、夜の女王のアリア、あのコロラトゥーラの最高音の部分を半音ずつ上げながらリピートしていき、どこまで出るか……が実演された。最後は「絶叫」だった。
  低い声は、デュークエイセスが呼ばれ、≪ドライボーン≫を、やはり半音ずつ下げてリピートさせた。次第に音量が少なくなり、会場が息を潜めて「最低音」に耳を傾けていた。

 美空ひばり、八代亜紀、北島三郎といった大物演歌歌手を呼んで、オペラのアリアを歌わせたこともある。

 「山本リンダの研究」の時は、渋谷公会堂がパニックに陥った。何しろゲストが、当時人気絶頂の山本リンダ本人である(よく出演したと思う)。これに予想以上の観客が詰めかけた(入場券は、歩留まりを予想して、いつも定員より多めに配布されている)。結果、開演ぎりぎりに来た人たちが締め出され、前の噴水広場で、スタッフたちと押し問答になった。広場には、オジサンばかり50人近くいたと思う。警察官も仲裁・整理に駆けつけていた。この騒ぎで収録開始が遅れたほどだった。
  しかし、東京交響楽団のナマ演奏をバックに、派手な照明の下で≪狙いうち≫を歌って踊る山本リンダは、すごい迫力だった。私は、あとにも先にも、あんな光景をナマで見たことはない。

 ある回では、冒頭、突然、ヨハン・シュトラウスの≪常動曲≫が始まってびっくりしたこともある。この曲は、当時、TBSで放映されていたライバル番組『オーケストラがやってきた』のテーマ曲だ。この回のゲストは、『オーケストラ〜』の司会・山本直純だったので、それにひっかけたお遊びだった。ちなみに『題名〜』にもテーマ音楽がある。≪聖者の行進≫である。テレビ朝日に移ってからはめったに演奏されなかったが、時折、番組中で演奏されることがあり、そのたびに黛が「テーマ音楽ではありますが、ほとんど演奏しておりません」と説明し、笑いを誘っていた。

 観客参加の「クイズ大会」もよくあった。曲名を伏せて演奏し、観客に作曲者名を叫んで当てさせるのである。どう聞いてもモーツァルトとしか思えないのに、正解がベートーヴェンだとか、そのひねり具合が面白かった。
  ロシア風近代音楽が出題されたとき、ある観客が「ショスタコーヴィチ!」と叫び、黛が「う〜ん、惜しいです。かなりいいところまで来てます」といったので、私があてずっぽで「プロコフィエフ!」叫んだら、「はい、当たりです! どちらの方ですか……ああ、そちらの若い方。おめでとうございます。あとで記念品を差し上げますので、舞台裏へおいでください」といわれ、テレビ朝日のボールペンをもらって帰ったことがある。曲は……何だったろうか、もう覚えていないが、確かバレエ音楽の一節だったような記憶がある。

 「盗作の研究」も何回かあった。私が忘れられないのは、ショパンのピアノ協奏曲第1番の主題が、そのまま≪北の宿から≫になる演奏だった。確かによく似ているのだ。
  モーツァルトのある歌曲が、いつしか≪早春賦≫になり、さらには≪知床旅情≫になったのには恐れ入った。いわれてみると、3曲とも冒頭は「同じ旋律」である。これらを「盗作」といっていいかどうかは疑問だが、それでも堂々と「盗作の研究」と題してやれるのは「黛敏郎」だからであって、これがほかのタレント司会者だったら、抗議が来ていただろう。

■放送中止になった企画
  社会問題にまでなり、放送中止に追い込まれた幻の回「教育勅語のすすめ」も、私はナマで見た。これもまた、驚くべき内容だった。
  冒頭、突然、10歳くらいの少年が一人で舞台に登場し、「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニコヲ樹ツルコト深厚ナリ……」と、戦前の教育勅語を、何も見ないで一気に朗読したのである。なんだかよくわからなかったが、客席からは万雷の拍手が送られた。戦後30年ほどたっていのに、「教育勅語」全文を暗証している小学生がいたことに、驚かされた。
  そして司会の黛敏郎が登場し、「実は、いまの少年は劇団の所属で、今回の番組のために、わざと覚えてもらったのです」と種明かしをする。つまり、いまの小学生でも、簡単に暗誦できる文章であることを、実証したかったというのだ。そして、戦前の教育がいかに素晴らしかったかを、黛がえんえんと説くのであった(音楽は、何を演奏したか忘れてしまった。確か、戦前の軍国マーチをやったと思う)。右翼思想の黛だから、こういう企画があってもおかしくはないが、さすがに強烈で、収録後、どこかから内容が漏れて、放送前に国会で問題になり新聞沙汰にされて、結局、放送中止になった。ナマで見ておいてよかったと思った。

 黛敏郎の司会は、決してカタブツではなかった。その「コメディアン」ぶりに驚いたのは「オペラ・ウィークエンダー」の回である。
  当時、日本テレビで「テレビ三面記事/ウィークエンダー」なる人気番組があった。毎週、実際に起きた事件を、レポーターが「再現ドラマ」を交えながら面白おかしく解説する番組である(その中に、必ずエロ・シーンがあったので話題になった)。桂朝丸(現・桂さこば)、泉ピン子、高見恭子などは、このレポーター役で人気が出た人たちだ。
  これを「オペラ」でやろうというのである(確か、「ウィークエンダー」と同じレポーターも呼ばれていた)。
  「闘牛士殺人事件」(カルメン)、「トスカ飛び降り自殺」など、オペラ内の殺人事件が、レポーター報告で解説され、再現ドラマのかわりに、ステージ上で、本物のオペラ歌手とオーケストラが、その問題の場面を実演するのである。
  この時、黛敏郎は、本家の司会者・加藤芳郎(漫画家)に扮し、付けヒゲで登場した。そのモノマネぶりが、本物の加藤芳郎にあまりにそっくりで、驚いたことがある。

 暮れになると「政治家紅白歌合戦」が開催され、自民党から共産党まで、与野党混在で、歌自慢の政治家が登場し、オーケストラをバックに歌いまくった(当時、カラオケなんて、まだなかった)。忙しい時期に、よくあれだけの政治家が集まったものだと思う。

 民族音楽研究家の小泉文夫も、よくゲストに招かれていた。黛と小泉の対話は実に面白くて、特にバリ島のガムラン音楽を、ナマで聴かされたことは忘れられない。最初、東京交響楽団がいないのでがっかりしたのだが、ナマ演奏が始まると、こんな不思議な音楽がこの世にあるのかと、陶然となった。その小泉文夫も、もうこの世にいない。

■佐渡裕に期待!
  こうして書いているときりがない。これらを読んだだけでも、とんでもない音楽番組だったことがお分かりいただけると思う。
  以上は、10年間の中の、ほんの一部の思い出である。よくぞまあ、毎回毎回、あんなカネと手間がかかる企画をやっていたものだ。

 しかも、実際の収録は、ほぼ「編集不要」の段取りで行われていた。30分番組なので、正味25分前後だと思うが、カメラが回り始めてから終わるまで、そのまま25分ぴったりで進行するのである。だから、放送を見ると、カットなどの編集形跡が、ほとんど感じられない。それほど入念な準備とリハが行われたのであろう。ナマ放送でやっても大丈夫だったのではないか。

 また、黛の司会は特筆に価するうまさで、台本はおろか、カンペも見ない。客席から見ていても、下からADが何か指示を出していた様子も、記憶にない。せいぜい、複雑なゲストや曲名などの固有名詞を書いた小さなメモを掌の中に持っている程度で、あとは、まったく淀みなく、まるで暗誦した文面を読んでいるような正確な日本語でキチンと語るのだ。

 実は、私は、毎回の収録終了後、客席内のカメラマンのもとへ行ってガリ版刷りの台本をもらっていた。それを読むと「スカスカ」なのである。つまり、あまり詳しいことが書かれていないのだ。せいぜい、タイムと、曲名・演奏者名に、ゲストの「出」と「入り」、あとは「黛:解説……曲の由来」程度しか書かれていない。どうやら、あまり詳細な台本もつくられていなかったようだ。それでいて黛の語りは時間ピッタリ。高級スーツをビシッと着こなし、少々猫背ぎみではあったが、スラリと屹立し、カメラのほうをじっと見て話す。作曲家として「天才」だったことはいうまでもないが、テレビタレントとしても「天才」だったと思う。

 先述のように、その後、番組のコンセプトが変わったので、いまの『題名〜』には、黛時代のような「毒」のある内容は、めったにない。だが、クラシック系音楽を面白く聴かせるという方針だけは、ちゃんと保たれている。
  その意味で、佐渡裕ほどぴったりな司会者は、いないであろう。ぜひ楽しい番組を期待したい。そして時折は、黛時代のようなパロディ&批判精神も発揮していただきたいと願っている。もちろん「吹奏楽」も!
<敬称略>

(2008.02.05)


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