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2001年10月21日発売!
March Masterpieces
マーチ・マスターピース〜世界のマーチ名演集
"The President's Own"United States MARINE BAND

マーチの真髄を極めた超名盤、遂に登場!
 解説=高橋誠一郎(東京国際スーザ研究所)

 今日“マーチ王”として世界的に知られているスーザ(1854〜1932年)が最初にその称号を与えられたのは、スーザ・バンド時代(1892〜1932年)より以前のアメリカ海兵隊バンド・第17代隊長時代(1880〜1892年)のことであった。
 時を経ること100有余年の1992年、8代あとの第25代隊長ブージョワー大佐の指揮の下、マーチ王の筋金入りの演奏技法を継承する同バンドが演奏・録音したのがこの大傑作CDである。
 このマーチ集は“超名盤”と称するに値する2つの特長を持っている。
 1つは、その演奏解釈である。ミリタリー・バンドでありながら、アメリカ海兵隊バンドは機能音楽としてのパレード・マーチ・スタイルではなく、鑑賞音楽としてのコンサート・マーチ・スタイルを採用している。元祖スーザの考案した、この芸術的なマーチ演奏解釈法によって、マーチという小品傑作は“3分間のシンフォニー”とも言うべき、音楽芸術の域に高められている。
 2つ目は、選曲のセンスと配列の妙である。元来、民俗音楽の1ジャンルとも形容しうるマーチは、その国々の民族的特性が旋律線やリズム、ハーモニー構造、テンポ、さらには曲想、曲調にいたるまで、音楽的特徴として反映されている。各国のマーチを聴いた時、その国の民衆の心の琴線に触れたような感慨を覚えるのも、それ故と言えよう。このCDでは、そんな世界13ヵ国のマーチ21曲が実に見事な選曲と配列で収録されている。
 この2つの特長は互いにリンクしあい、相乗効果をもたらしながら、このCDをして“マーチの醍醐味を我々に教えてくれる、類稀なる傑作アルバム”にならしめているのである。
 今日、大変残念なことに、純粋素朴かつ奥儀の深いこのマーチという小品傑作は、私たちに忘れ去られようとしている。それゆえに、今回のマーチ・ディスク史上でも特筆すべき超名盤の日本リリースは、大いなる快挙として心から喜びたい。
 これを手にした皆さんには、じっくりとこの名盤と対峙して鑑賞していただきたい。心と体の両面からこの名演を存分に味わっていただきたい。そして、マーチの真髄に触れ、マーチのすばらしさを再発見――あるいは新発見――していただきたい。

■収録曲
「試聴」の印のある曲は、 RealPlayer 8 Basic にて試聴ができます。
 古いバージョン他のメディアではファイルが開かない場合があります。ご注意ください!
・RealPlayer 8 Basic - は無料でダウンロードできます。
ダウンロードはこちら


演奏:アメリカ海兵隊バンド
ディレクター:ジョン R.ブージョワー大佐
   Colonel John R.Bourgeois, Director
試聴の音色は、原音に圧縮処理をおこなったもので、非常にレンジの狭いものとなっております。あらかじめご了承ください。

1. 行進曲「サウンド・オフ」(ジョン・フィリップ・スーザ)
2:53 試聴

2. 名高き第22連隊マーチ(パトリック・S・ギルモア) 3:09

3. 行進曲「天啓」(W・パリス・チェンバース) 2:44

4.アブデュルメジト国王に捧げる行進曲(ジョアッキーノ・ロッシーニ) 3:13

5. ベルギー落下傘兵たちの行進曲(ピエール・リーマンス) 4:22 試聴

6. 行進曲「ペピータ・グレウス」(パスカル・ペレ・チョヴィ) 3:30

7.行進曲「連隊の子供たち」(ユリウス・フチーク) 3:24 試聴

8.ファイフ&ドラム「白い花形帽章」(伝承曲) 1:15

9.行進曲「ヴァルドレス」(ヨハネス・ハンセン) 3:43

10.インド風行進曲(アドルフ・セルニック) 4:11

11.儀礼行進曲「陸路からも、海路からも」(ケネス・J・アルフォード) 3:45

12.行進曲「バドンヴィレ」(グォルク・フェルスト) 4:16

13.行進曲「サン・ロレンゾー」(カヤターノ・A・シルヴァ) 3:56

14.医師たちの行進曲(ヨハン・ヴィヘルス) 3:24

15.ラデッキー行進曲(ヨハン・シュトラウス1世) 2:32 試聴

16.行進曲 作品99(セルゲイ・プロコフィエフ) 2:05

17.行進曲「我らの海軍」(リヒャルト・ティーレ) 2:21

18.行進曲「トリポリ」(アンジェロ・ダナ) 4:17

19.ファイフ&ドラム「ブライアン・ボルーのマーチ」(伝承曲) 2:27

20.ヨークシャー行進曲(ルートウィヒ・ヴァン・ベートーヴェン) 2:45

21.行進曲「スラブ女性との別れ」(ヴァッシーラ・イヴァノヴィッチ・アガプキン) 2:31


■曲解説
1.行進曲「サウンド・オフ」
  Sound Off
ジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa)
(1854年アメリカ合衆国ワシントンD.C.〜1932年アメリカ合衆国ペンシルバニア州レディング)

 スーザがアメリカ海兵隊バンドの第17代隊長に就任して5年目となる1885年の作品。海兵隊の上官の一人であった、ジョージ・ポーター・ヒューストン少佐に捧げられたもので、タイトルはドリル行進曲の1つである(故・赤松文治氏の説によると、バンドが持ち場を離れ、行進演奏して再び持ち場に戻ることを示す号令とのことである)。
 スーザは隊長就任以前(1873~1879年)に既に10曲のマーチを書いており、この曲は就任後19曲目のマーチなので、138曲中、通算29曲目のマーチということになる(現時点での調査によるので多少の通算番号の前後もありうる。以下も同様)
 彼の最初のヒット・マーチは、翌1886年の通算31曲目の「古代ローマ剣闘士」(The Gradiator)であり、その後、1888年の「忠誠」(Semper Fidelis/アメリカ海兵隊のモットーをタイトルにしたもので、現在公式マーチになっている)、1889年の「ワシントン・ポスト」(The Washington Post)、「雷神」(The Thunderer)とヒット・マーチを連発した。イギリスのとあるバンド・ジャーナルがスーザに“マーチ王”の冠したのは1889年の頃のことである。
 大ブレークする前の作品とはいえ、スーザは既に1880年の「われらの恋の戯れ」(Our Flirtation)で イントロ−A1−A2−B1−B2−Tr1−Bs1−Tr2−Bs2−Tr3というスーザ形式のフォーマット、つまり近代マーチの形式を確立していた。
 この「サウンド・オフ」はBが1回きりで小節というロング・メージャーズ展開の曲想であるが、基本的には一般のスーザ形式同様の構成である。
 この曲のトリオはTr1−Tr2−Bs1(中奏)−Tr3−Bs2(中奏)−Tr4という構成だが、このトリオの演奏法にコンサート・マーチ・スタイルの演奏法の大きな特色があるので説明しておこう。
 パレード・マーチ・スタイルのTr3とTr4はトゥッティのffの繰り返しとなっている。3の場合、主旋律を華やかに装飾するClのオブリガートは埋もれてしまうという事態が発生する。
 またffのグランディオーソを2回繰り返すので、どうしてもTr4のグランド・フィナーレの感激性が薄れてしまいがちになる。そこで指揮者は何とか変化をつけようとRitをしたがる。しかし、このRitはもっとも盛り上がるべきグランディオーソを最も盛り下げる悪効果をもたらすことになる(スーザは自作自演のマーチ演奏では、決してRitはしなかった)。
 では、コンサート・マーチ・スタイルの演奏法はというと、次の様になる。
 Tr3のff(特にメロディーのCrとカウンターのTb)をpもしくはタセットに変更し、Clのオブリガートを効果的に活かす様にする(但し、Clはワン・オクターブ下げる)。そして、Tr4のトゥッティのffでCr、Tbを参加させ、Clのオブリガートを元のオクターブに戻す。これでTr3とTr4は明確な音色、ダイナミックスのコントラスト効果が醸し出され、グランディオーソは正に劇的なグランディオーソとなるのである。
 さらにTr1とTr2では、メロディーのClのオクターブを下げ、より後半の盛り上がりが強調されるように“スーザ・テクニック”を駆使している(スーザ・バンドではさらにTr1−Tr2のダイナミクスをp−ppと変化させていた)
 以上、ダイナミックスを図示すると以下のようになる。
Tr1 Tr2 Bs1 Tr3 Bs2 Tr4
譜面 ff ff ff ff
アメリカ海兵隊 ff mf ff ff
スーザ・バンド ff mf(1) ff ff(2)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(1) オブリガート強調
(2) グランディオーソ

 このCDのアメリカ海兵隊バンドの演奏は、基本的にこのような鑑賞にふさわしいコンサート・マーチ・スタイルのアプローチによる演奏となっているので、各曲毎に一種の芸術的な気品、格調といったものが感じていただけるであろう。
2.名高き第22連隊マーチ
  Famous 22nd Regiment March
パトリック・S・ギルモア(Patrick S. Gilmore)
(1828年アイルランド〜1892年アメリカ合衆国ミズーリ州セントルイス)

 アイルランドに生を受けたギルモアは、アマチュア・バンドでコルネットを担当。1848年には連隊バンドのメンバーとしてカナダで従軍。19歳で除隊後、アメリカ合衆国マサチューセッツ州ボストンに移住し、そこの出版社に勤務するかたわら、巡業ミンストレル劇団で演奏活動をした。
 1849年にはバンドマスターとしても活動を開始、ボストン・ブリゲード・バンド、セーラム・ブラス・バンドなどの有名なバンドを指揮した。1858年には自分自身のプロのコンサート・バンド、ギルモア・バンドを創設した。このバンドは当時、“アメリカで一番優れたバンド”と好評を得た。南北戦争中は、ギルモア・バンドは第24マサチューセッツ歩兵連隊バンドとして従軍した。
 南北戦争後、1869年のナショナル・ピース・ビュビリーと、1872年のボストンの2つのイベント、ワールド・ピース・ビュビリーとインターナショナル・ミュージック・フェスティバルの音楽監督として大成功を収めた。
1873年、ボストンからニューヨークに移り、ニューヨーク第22連隊バンドのディレクターに就任。彼は有能なミュージシャンを集め、プロのコンサート・バンドとして活動した。最高時100名の編成を持ち、木管を主体にした同バンドは、再びギルモア・バンドの愛称で全米中の人気となり、アメリカ国内、カナダだけでなく、1878年にはヨーロッパにまでツアーをした。
 ギルモアのアメリカの吹奏楽界に対する貢献は大変大きいもので、“コンサート・バンドの父”と称えられている。25歳年下にあたるスーザにも、その音楽性、指揮振り(アトラクティブなアクションを売り物にしていた)、バンド運営という点で、多大な影響を与えた。
 後に、スーザが自らのプロのコンサート・バンドを創設(1892年、バンド名は当初、スーザス・ニュー・マリン・バンド、スーザス・ピアレス・バンド、スーザス・グランド・コンサート・バンドが使われ、1897年頃よりスーザ・バンドに落ちついた)したのも、ギルモア・バンドの成功例の影響も多大であった(事実、ギルモア・バンドのマネージャーをしたこともあったデビッド・ブレークリ−がスーザに独立を勧め、さらにスーザのバンドのマネージャーになったのだった)。
 スーザのバンドが無かったなら、ギルモアは“コンサート・バンドの王”の称号を与えられていたであろう。
ギルモアは1892年9月24日、セントルイスにて63歳で没したが、その訃報に接したスーザは、新設の自らのバンドの第1回目の記念すべきデビュー・コンサート(9月26日。ニュージャージー州プレインフィールド。ニューヨークから列車で約50分の所)の1曲目を急遽変更した。スーザはギルモアの作品、描写曲「死に行く魂の声」(Voice of a Departing Soul)をアレンジして追悼演奏し、ギルモアに敬意を表したのである(ちなみに、ギルモア・バンドはその後、D.W.リーブス.ヴィクター・ハーバート、G.E.ブリーゲルがディレクターとして引き継いだが、程なくスーザのコンサート・バンドにその地位を取って替えられてしまった)。
この『名高き第22連隊マーチ』は、1874年にギルモアが同連隊バンドのディレクターに就任した2年目の年に作曲されたものである。
 曲想としては、まだトリオの中奏は備えていないとはいえ、後の1880年にスーザが確立した近代マーチの形式の規範といえる構成美を備えた佳曲と言えるだろう。
 スーザをしても1874年の時点(20歳の頃)では、このマーチほどの構成美を確立するにはいたっていなかったので、ギルモアのマーチ作曲者としての知られざる功績を証明する曲であるといえよう。
 なお、ギルモアは60曲以上の作曲をしたが、声楽曲、歌曲、ポルカの他に、マーチとしては「第4大隊」(Fourth Battalion)、「セーラムへの旅程にて」(On the Road to Salem)、「ガーフィールド大統領」(President Garfield/葬送行進曲)、「グラント大統領」(President Grant)、「ニューヨークへの敬礼」(Salute to New York)、「メイン州の継承者たち」(Sons of Maine)(残念ながら全て未聴の作品である)がある。
 ルイス・ランバートのペンネームで作曲した「ジョニーが凱旋するとき」(When Jonny Comes Marching Home Again)は、今日でも大変有名だが、この曲はアイルランドの古謡の改作であった(この曲は後に、モートン・グルードの「アメリカン・サリュート」(American Salute)に使用され、さらに有名になっている)。
3.行進曲「天啓」
  Revelation

W・パリス・チェンバース(W. Paris Chambers)
(1854年アメリカ合衆国ペンシルバニア州ニューポート〜1913年アメリカ合衆国ペンシルバニア州ニューヴィル)

マーチ作曲史上、最もブリリアントでかつ演奏するのが難しいと言われているいくつかの曲で知られるチェンバースは、存命中はコルネットのヴァルティオーソとしての名声をも博していた。
 スーザと同じ年に生まれたチェンバースは、独学でコルネットを習得し、18歳のとき、キーストン・コルネット・バンドのリーダーとなり、25歳でペンシルバニア州ハリスバーグのキャピトル・シティー・バンドのディレクターになった。1888年(34歳)〜1893年(39歳)の間には、メリーランド州ボルティモアのグレート・サザン・バンドの指揮者兼コルネット・ソリストとして活躍した。世紀の変わり目頃には、ニューヨークのC.G.コーン楽器店の仕事をしながら個人レッスンを行なうなどしていた。1905年には自らのバンドを結成して、ヨーロッパとアフリカにロングツアーを挙行し、その名人芸で大好評を博した。
 この行進曲「天啓」は、1901年に著作権登録されているが、タイトルが示すように、後年に教会のオルガン風のコラールが挿入されている。
 チャンバースには3曲の賛美歌メドレー・マーチ「マーチ・リリジオーソ」(March Religioso)No.1〜No.3が存在するので、このマーチも讃美歌にインスパイアされて作曲されたのかもしれない。
 なお、チャンバースは何曲かのコルネット・ソロ曲と共に88曲のマーチを作曲しているが、今日最も有名なのが「シカゴ・トリビューン」(Chicago Tribune/1892年作品)と「古き旅団の兵士たち」(The Boys of the Old Brigate/1901年出版)の2曲である。「北国」(North wind/1895年出版)も、サーカス・マーチとしてよく使用されていた佳曲だが、日本でも1960年代半ば、山本正人指揮・東京吹奏楽団がレコーディングしていたので、オールド・マーチ・ファンには知られた曲となっている。
4.アブデュルメジト国王に捧げる行進曲
  March for the Sultan Abdul Medjid
ジョアッキーノ・ロッシーニ (Gioachino Rossini)
(1792年イタリア・ペーザロ〜1868年フランス・パシー)

 ロッシーニの管楽器好きは、このオペラにおける多用ぶりによく表われている。恐らく、フレンチ・ホルンとトランペットを演奏する父親の姿を家庭内でもよく目にしていたのであろう。1832年から1856年にかけて、トルコのアブデュルメジト国王のバンドマスターをしていたジュゼッペ・ドニゼッティ(有名な作曲家/ジェターノ・ドニゼッティの兄)は、自ら国王のためにマーチを作曲していたが、さらに弟とロッシーニにも同様の趣向のマーチの作曲を依頼し、この結果、ロッシーニのペンにより生まれたのがこのマーチである。
 元来「軍隊行進曲」(Marcia Militaire)とタイトルされたこのマーチは、ニュー・グローブ音楽辞典によるとロッシーニの唯一の吹奏楽曲である。
 トライアングルの使用は、トルコの打楽器群のラインナップを反映したものだが、モーツァルトとベートーヴェンの「トルコ行進曲」にも相通ずるトルコ・フレーバーも備えた曲調となっている。1852年に作曲され、1853年に出版されたが、このアメリカ海兵隊バンドの演奏には、ダグラス・タウンゼントのモダーン・アレンジが使用されている。
 ロッシーニが書いた数々のオペレッタの序曲で聴かれる華麗なる響きを彷彿させる、この知られざる佳作マーチの収録は、マーチ愛好家および研究家にとって大変有り難く、また貴重なものといえよう。
5.ベルギー落下傘兵たちの行進曲
  March of the Belgian Parachutists
ピエール・リーマンス
Pieter Leemans
(1897年ベルギー・スケルベーグ〜1980年ベルギー・ブリッセル)

 若い頃、リーマンスはベルギーの数名の優れた音楽家からピアノ、和声、作曲を学んだ。このマーチ・アルバムのほかの作曲家とは異なり、彼は管楽器を演奏していないようである。彼の専門楽器はピアノで、生涯の大部分をピアニストおよび指揮者として過ごした。第1次世界大戦中の1919年には1年間だけベルギー陸軍に服役したが、音楽隊勤務だったかどうかは定かではない。服役後は復学し、音楽博士号を修得した。
 高校教師を務めた後、1932年に同職を辞めて国営ベルギー放送局のピアニスト、指揮者、プログラム・ディレクターのポストに就任した。
 このマーチの創作過程は長いスパンにまたがっている。
 まず最初に、第1次世界大戦中の1919年、彼の所属する連隊の司令官の依頼によりマーチの作曲に着手したが、未完成に終わる。20数年後の1945年、第2次世界大戦の終了後、ある落下傘兵たちのグループと会合していると、リーマンスは再度マーチの作曲を依頼された。
 リーマンスは20数年前に未完成に終わっていたマーチのテーマを復活させ、その結果できあがった作品がこのマーチであった。今日、ベルギーを代表するマーチとして世界中に知られる牧歌調のこのマーチは、日本でもよく演奏されている。
 リーマンスは1980年に82歳で亡くなったので、つい最近まで生存していたということになる。その割には、写真も広まっておらず、その顔、姿形を拝見したことがない。そういう意味でも、マーチ研究、マーチ作曲家研究の輪が世界的に深耕して欲しいものである。
 なお、リーマンスは合唱曲・オーケストラ曲・室内楽曲・映画音楽と、多くのジャンルの作品を残したが、マーチとしては「奇襲部隊のマーチ」(March of the Commandos)、「古きブリュッセル」(Old Brussels March)、「ベルギー空軍」(Belgian Air Force)など■曲近くの作品がある。
6.行進曲「ペピータ・グレウス」
  Pepita Greus
パスカル・ペレ・チョヴィ(Pascual Perez Chovi)
(1900年頃スペイン・アルギネット〜1953年スペイン・アルギネット)

 チョヴィは7歳の時、ヴァレンシア市民バンドのディレクターからクラリネットとソルフェージュを学び、音楽の勉強をスタートさせた。11歳の時に同バンドに入団し、クラリネットを担当。次にE♭クラリネット、そしてB♭クラリネットのソリストとなった。
 その後、さらに作曲と指揮法を学び、アルギネット市民バンドの指揮者に任命された。
 この曲は彼の1番有名なパソドブレ(スペインのダンス風のマーチ)で、「霊感ある女流詩人、アンジェラージョセファ・グレウス・サエツ」に捧げられた。
 ジョセファのスペインにおけるニックネームは、ペピータであるので、この「ペピータ・グレウス」に落ちついた。
 闘牛場のトランペットのファンファーレ、中音域の大らかなメロディー、クラリネットの華麗なオブリガート、力強く豪華絢爛たるグランディオーソといった南欧ムードの横溢したこの名曲の超快演は、このCD「世界のマーチ集」をより国際色豊な色彩感溢れる、楽しいバリエーションの中に我々を導いてくれるものである。
 なお、チョヴィはほかにパソドーブル「スペインの花」(Flores de Espana)、「El Colegial」、マズルカ「A Ti」、ワルツ「Entre Azahar」、同「Marilola」等を作曲している。
7.行進曲「連隊の子供たち」
  Die Regimentskinder
ユリウス・フチーク(Julius Fucik)
(1872年頃チェコスロバキア・プラハ〜1916年ドイツ・ライトメリッツ)

 “チェコのマーチ王”として今日知られるフチークは、1885年から1890年までプラハ音楽院にて、バスーンとヴァイオリンを学び、さらにドヴォルザークから作曲を学んだ。
 1891年、19歳のときに第49オストローハンガリアン歩兵部隊連隊バンド(バンドマスターは「双頭の鷲の旗の下に」で有名なJ.F.ワーグナー)に入隊し、バスーンと打楽器を担当した。1895年プラハに戻り、ニュー・ジャーマン・シアター・オーケストラに入団したが、1896年には市民オーケストラ/合唱団の指揮者を務めた。
 1897年から1913年まではサラエボの第86歩兵連隊バンドの楽長を務めた。退役後は自らのオーケストラを組織すると共に楽譜出版社も設立した。
 この「連隊の子供たち」は、フチーク自身の長年の夢であったウィーン練兵場(Vinenna Parade Grounds)で演奏すべきマーチの作曲を実現化したもので、兄ルドルフへの手紙の中で次のように述べている。
「このマーチは真のウィーン風レジメンタル・マーチだ。ウィーンでも、そして世界中でも大ヒットして欲しい」
 フチークは49年というその短い生涯にもかかわらず、400曲近い作品を残している。オペレッタ、室内楽曲、ミサ曲、歌曲、ワルツ、序曲、ソロ曲(バス−ン・ソロのノベルティ曲、「クラウチング・オールド・ベア」が有名)に加え、約100曲のマーチを作曲している。
 「古代ローマ剣闘士の入場」(アメリカ名「雷鳴と稲妻」/サーカス・マーチとして有名)と、「フローレンティナー」の2曲は世界的に超有名曲となっているが、口笛の採用が青少年のイメージを描写しているこのマーチも、比較的よく演奏されている有名曲である。
他にマーチ作品として、
  「Attila」
  「Broddenrite」
  「Le demier Salut(The last Greeting)」
  「Furchtlos und Treu(Fearless and True)」
  「Herkules」
  「Leitmeritzer Schutzenkorps(The Leltmeritz Sharpshooter Corps)」
  「Unter der Admirals Flagge(Under the Admiral's Flag)」
などが知られている。
8.ファイフ&ドラム「白い花形帽章」
  The White Cockade<fife and drum>
伝承曲
traditional(イギリス〜アメリカ)

 この曲は1760年のイギリスのカントリー舞曲のコレクションの中にも収録されているほど古い曲である。1770年代のアメリカ独立戦争時にはアメリカのファイファー(横笛奏者)に借用され、マーチとして演奏された。1800年代になっても、この曲のポピュラリティーは続き、ダンス曲コレクションにも軍楽コレクションにも収録されていた。
 ここでは、伝統のファイフ(ピッコロの原型ともいえる横笛)と、伝統のドラム(皮製のヒモ張り深胴ドラム)を演奏し、現代のアメリカン・マーチの創生期における形といえる素朴な音楽を忠実に再現している(現在でもゲティスバーグの独立記念館やホワイトハウスでは、このファイフ&ドラム隊が再現されているので、ご覧になった方も多いであろう)。
 このCDには、ファイフ&ドラムの伝承曲、つまりアメリカン・マーチの原型といえる曲が2曲アクセント的に挿入されているが、歴史的興味からも音楽的趣向の味わいという意味からも、なかなか粋な選曲である。リスナーにとっても一種のチェンジアップとして、コーヒー・ブレークのつもりでリラックスして味わうのも音楽鑑賞の一興となるだろう。
9.行進曲「ヴァルドレス」
  Valdres
ヨハネス・ハンセン(Johannes Hanssen)
(1874年頃ノルウェー・Ullensaker―――――1967年 ノルウェー・オスロ)

 ハンセンの最初の楽器は、父親に教わったオルガンだった。
 10歳の時に独学でトランペットを学び、15歳までにはオスロの第2旅団バンドで学生プレイヤーとしてバリトンを演奏した。さらに弦バスを修得したハンセンは、22年間オスロのキャピトル・シアター・オーケストラで弦バス奏者として活躍した。
 数年間、オスロ・ミリタリー・スタッフ・バンドの楽長職にも就いていた彼は、指揮法と音楽理論の教育者ともなり、2冊の音楽理論書を著作した。
 この「ヴァルドレス」は彼の処女作で、ヴァルドレスとはオスロとベルゲンの間に位置する約400キロにわたる山岳地帯の名称である。1901年から1904年にかけて作曲されたこの曲のイントロのコルネット・ソロは、ノルウェー陸軍ヴァルドレス大隊の信号ラッパを含んだもので、他の部分のメロディーは民謡、あるいは民謡にインスピレーションを受けたメロディーが採用されている。
 牧歌風の大らかな風情と北欧の一抹の哀愁とを併せ持ったこの名曲を、アメリカ海兵隊バンドは強弱のメリハリの効いた快演で、味わい深い抒情ドラマに仕立て上げている。
 なお、ハンセンの主要作品は、オーケストラ作品ではあるが
  「Luftforsvarets Darademarsj」
  「Norsk Arme Revelje」
  「Honnormarsj」
  「Saw Sadera」
  「Festmarsj」
などのマーチも作曲している。
10.インド風行進曲
  Marche Indienne
アドルフ・セルニック(Adolphe Sellenick)
(1816年頃フランス・リブルン〜1893年フランス・Andelys)

 フランス陸軍バンドの楽長の息子として生まれたセルニックは、音楽の勉強をヴァイオリンからスタートし、ストランブール劇場のヴァイオリン奏者となった。その後、アルバンに師事してコルネットを学び、1847年にはファンファール・セルニック・バンドを創設。さらにストラスブールのナショナル・ガード・バンドの指揮を務めた。
 1854年にナポレオン3世の帝国親衛隊第2軽歩兵連隊バンドの隊長に任命された。
 1871年、ギャルド・レピュブリケースが2つの軍国に分割されたときには、第2軍国バンドの隊長となり、1873年に2つの軍国が再合併したとき、ポーリュスの後をついで名誉あるギャルド・バンドの第2代目の隊長となり、1884年まで在任した。
 セルニックは自らの作曲および編曲でレパートリーを充実させるとともに、演奏技術も飛躍的に向上させ、ギャルドの名声をさらに高めた。
 1877年のリヨンでの国際軍楽コンクールでは名誉賞を受賞、さらに1879年にはイギリス・ロンドンにツアーを行なった。
 ロンドンではフランス学校設立基金の募金のための慈善コンサートが行なわれたが、そのコンサートに列席されていた皇太子(後のエドワード7世)がインドに滞在していたことがあるのを知ったセルニックが作曲し、御前演奏したのが、この「インド風行進曲」である。
 彼は約30曲のマーチを含む全80曲の作品を残している。(故・赤松文治先生の著書「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ」(音楽之友社)には、セルニックの詳しい経歴と全作品リストが掲載されている。この項も同書を参考にさせていただいた)。
11.儀礼行進曲「陸路からも、海路からも」
  By Land and Sea
ケネス・J・アルフォード(フレデリック・ジョセフ・リケッツ)
Kenneth J. Alford
(1881年イギリス・ロンドン〜1954年イギリス・レイゲット)

 今日“イギリスのマーチ王”として世界的に知られているリケッツは、作曲家としてはケネス・J・アルフォードのペンネームを使用していた。
 石炭商人の息子として生まれたリケッツ(弟も、レオ・スタンレーのペンネームの作曲家である)は、14歳の時に少年楽手としてロイヤル・アイリッシュ・レジメント第1大隊バンドに入隊し、コルネット、ユーフォニアム、ヴァイオリンを担当した。1904年には、ネラーホールの王立陸軍軍楽学校に入学し、1906年から1908年までは同校の副音楽監督も務めた。卒業後、1908年から1927年まで、アーガイル・アンド・サザーランド・ハイランダース第2大隊バンドの楽長を務め、11曲のマーチを作曲した。1927年、大尉に昇進し、ケント州ディールにあるイギリス王立海兵隊バンド(日本での通称はロイヤル・マリーンズ・バンド)の音楽監督を命じられた。1930年にはプリマス基地の海兵隊バンドの音楽監督として異動し、1944年6月に少佐で退役するまで当地での任務を全うした。
 1927年から1944年までの海兵隊時代には、7曲のマーチを作曲した。
 プリマスの海兵隊バンドは愛称“リケッツ・バンド”として大変大人気を博した。
 スーザ同様、リケッツも大変優れた自作自演マーチ作曲家でありバンド・コンダクターであった。
 退役から1年弱の1945年5月15日、リケッツは64歳でその生涯を閉じた。
 彼の作曲した全18曲のマーチを紹介しよう。
 (1) The Thin Red Line
 (2) Holyrood
 (3) The Vebette
 (4) Colonel Bogey
 (5) The Great Little Army
 (6) On the Quarter Deck
 (7) Voice of the Guns 
 (8) The Middy 
 (9) The Vanished Army 
 (10) The Mad Major
 (11) Cavalry of the Clouds
 (12) Dunedin
 (13) H.M.Jollies
 (14) Old Panama        
 (15) Staudard of St.George
 (16) Army of the Nile
 (17) By Land and Sea
 (18) Eagle Squadron 
(1908年) シン・レッド・ライン
(1913年) ホリールード
(1913年) 騎馬哨兵
(1914年) ボギー大佐
(1916年) 偉大なる小陸軍
(1917年) 後甲板にて
(1917年) 砲声
(1917年) ミディー
(1918年) 消え失せし陸軍
(1921年) 気違い少佐
(1923年) 空の騎兵隊
(1928年) ダニディン
(1929年) H.M.ジョリース
(1929年) 古きパナマ
(1930年) 聖ジョージの御旗
(1941年) ナイル河の陸軍
(1941年) 陸路からも、海路からも
(1942年) イーグル飛行中隊

 長いこのミリタリー・キャリアにしては、全18曲というマーチの作品総数は決して多いほうではなく、むしろ少ないと言った方が正確だろう。しかしながら、1曲1曲が独創性を備えた極上のマスターピースであることに驚かされる。
 私の推測では、アルフォード(リケッツ)は、1曲1曲精密かつ丁寧に、あたかも精巧な建物を構築するが如く、職人のような精密さで18曲のマーチを創り上げていったように感じる。天才肌でメロディーとオーケストレーションが次から次へと湧き出てきたスーザの作曲プロセスと、アルフォードのそれとはまさに正反対のものであった様に推測されるのである。
 それはアルフォードの各楽器群の細に入り微に入りの巧妙な使い方、そして主旋律とカウンター・メロディーとオブリガートとの同じく計算され尽くしたが如き巧妙なつづれ織り振り、そして両者のリンクがもたらすダイナミズムのデリケートな抑揚感、そんな点にアルフォード独特の職人気質を感じるのである(例えは正しいかどうかわからないが、血液型になぞらえるとアルフォードはA型的、スーザにはO型的作曲家気質を感じるのである)。
 また、アルフォードのマーチには、多くのイギリス・マーチの特長である端正さからくる一種の格調と気品が感じられるが(一方、スーザを代表するアメリカのマーチには、情深い郷愁感と壮大な歓喜の爆発感が感じ取れる)、さらに一種独特の寂寞感も作風の奥深くに感じられる。
 これは、彼のミリタリー・マーチにも強く感じられるので、大変興味深い考察対象項目であろう。
 これまた私の推論となるが、リケッツは10代初めの頃に両親を失くしている。そのことがリケッツの心の奥底のキャラクターに影響を与えている気がしてならない。
“吹奏楽によるマーチでありながら、かくも美しく切ない名曲の数々が如何にして生まれたのか”―――――精鋭のリケッツ研究者による“リケッツ論”がいつの日か語られていることを、切に期待したいものである。
 さて、この「陸路からも、海路からも」は、イギリス海兵隊のモットーをタイトルとしたもので、Ceremonial Slow March(儀礼用スロー・マーチ)との添え書きが付いている。
 イントロの勇壮なメロディーに続くレジメンタル・ドラムのソロが実に粋でスタイリッシュであり、トリオでは当時のイギリス海兵隊の3つの基地のビューグル・コールがフィーチャーされている。
 また、このアメリカ海兵隊バンドの演奏はコンサート・マーチ・スタイル・ヴァージョンで演奏されているため、オペラティックな劇的エンディングがオプションとして付加されている(パレード・マーチ・スタイル・ヴァージョンでは省略され、演奏されない)
12.行進曲「バドンヴィレ」
  Badonviller
グォルク・フェルスト(Georg Furst)
(1870年ドイツ・フォイトヴァンゲン〜1936年ドイツ・ミュンヘン)

 フォトヴァンゲンの市民バンド楽長の10人の子供の長男として生まれたフェルストは、1888年〜1889年(18〜19歳)にニュールンベルグの音楽学校に学び、1889年、ミュンヘンのバヴァリア歩兵連隊バンドに入隊した。
 1902年には、バンブルグの第5バヴァリア歩兵連隊バンドの副隊長となり、1911年からはミュンヘンの連隊バンドの楽長となった。1920年には第19歩兵連隊の楽長となり、1935年4月に退役するまでその職にいた。
 この曲は1914年8月12日のバヴァリアン歩兵連隊のフランス領バドンヴィレでの勝利を祝して作曲された。
 その後、ナチスの時代には、統領ヒトラーの愛好曲となり、曲名もドイツの地名に因んだバーテンヴァイラーに改名された。
 第2次世界大戦後は、上記の事情によりドイツ国防軍本部軍楽隊での「バーテンヴァイラー」のクレジットでの演奏は禁止されるなど、演奏に関してはある種の制限を受けている。
 しかし、イギリスや日本では純粋なる傑作マーチとして演奏されている。特に日本ではドイツ行進曲愛好会の尽力により、積極的に演奏されてきている。
 このアメリカ海兵隊バンドの選曲及び演奏は、そういう意味でも注目に値しよう。
13 行進曲「サン・ロレンゾー」
  San Lorenzo
カヤターノ・A・シルヴァ(Cayetano A. Silva)
(1868年ウルグアイ〜1920年アルゼンチン・ロザリオ)

 アルゼンチンの、サン・ロレンゾー(アルゼンチンの読みだとサン・ロレンソー)に生まれたシルヴァは、12歳の時に同地のサン・カルロス・コンベントにてコルネットを学び、さらにはヴァイオリン、フレンチ・ホルン、ハーモニー、楽典も学んだ。
 その後、ブエノスアイレスに移り、いくつかの歩兵連隊バンドの楽長を務めた。
 そのあと、家族と共にアルゼンチンを西へ移動しながら、その途上の各地でバンドを組織して活動し、最終的にはロザリオに定住して同地で教師兼指揮者として生涯を全うした。
 この曲は1813年のサン・ロレンゾーの闘い(アルゼンチンの近衛兵とスペイン君主主義者との闘い。サン・ロレンゾーはロザリオの北、24キロのところに位置している)。の100周年祝祭のために作曲されもので、その準備期間だった1908年〜1909年頃の作品と思われる。
 この曲は作曲されるや否や好評を呼び、1909年12月30日にはビクター蓄音機会社がスーザス・バンド(同社のスタジオ・バンドで、スーザ自身のツアーリング・コンサート・バンドではない。しかし、スーザ・バンドのメンバーも現役/OBが多数在籍していたので、スーザも暗黙の了解としていた。ほとんどのファンは、実際のスーザ・バンドだと思っていた。指揮者は元スーザ・バンドのコルネット・ソリストだったウォルター・ロジャースだった)の演奏でレコーディングもしたし、1912年にはイギリスで楽譜が出版された。
 このように、この曲はアルゼンチンを代表するマーチとして作曲以来人気を博してきている。
 慈しみ溢れる故国への賛歌として、大変優美な趣向を備えたこのマーチは、マーチが大いなる人間の歓びの歌、つまり人間賛歌であることのよい証明と言えるだろう。
14.医師たちの行進曲
  Mars der Medici
ヨハン・ヴィヘルス(Johan Wichers)
(1887年ドイツ・ライン〜1956年オランダ・エンスヘデ)

 オランダとの国境近くのドイツで生まれた“オランダのマーチ王”ヴィベスは、少年期よりヴァイオリン、クラリネット、トランペット、フレンチ・ホルン、ドラムを演奏した。
 第1次世界大戦中はRijdendeの砲兵隊バンドでトランペットを担当し、その後オランダ鉄道に勤務した。
 1930年には、オーデンザールのSempre Crescendo Bandのメンバーとなり、1949年にはオーバーアイセル・フィルハーモニック・オーケストラの打楽器奏者となった。
 このマーチは、長い入院生活の間における医師たちの仕事振りに感謝の意を込め、1938年に作曲されたものである。
 医師たちの献身的な医療行為に対する心からの感謝の念と生への感謝、歓びがその深い慈愛感、優美感と共に大らかに謳われるこのマーチは、前曲同様、マーチが極上の人間賛歌であることの、良き証明と言えよう。
 なお、アメリカ海兵隊バンドによるやや速いテンポのこの演奏では、トリオの演奏が通常の演奏解釈と異なっている。通常2回のトリオは同じオーケストレーションで繰り返されるが、ここでは、1回目は中音の大らかなメロディー(カウンター風のメロディーともいえる)のみとし、2回目にクラリネット、鉄琴のメロディーをオブリガート風に入れている。
 どちらの演奏法がヴィベスのオリジナルの意図によるものかは不明だが、このアメリカ海兵隊バンドの解釈も新鮮で印象深いものである。
15.ラデッキー行進曲
  Radetzky March
ヨハン・シュトラウス1世(Johann Strauss I)
(1804年オーストリア・ウィーン〜1849年オーストリア・ウィーン)

“ワルツの父” ヨハン・シュトラウス1世(息子の2世は“ワルツの王”と呼ばれている)が1849年に作曲したマーチ。
 シュトラウスは生涯の最後の17年間、第1ウィーン市民連隊の楽長をしていたが、同年8月31日、自らの指揮でこの曲を初演した。現在、ウィーンのニュー・イヤー・コンサートのトリをはじめ、管弦楽団で演奏されることも大変多い。
 余談だが、スーザはシュトラウス父子の音楽に多大の影響を受けており、ライト・クラシックの3大作曲家の“スリー3”つまりシュトラウス、サリバン(イギリス)、スーザの一人であることを大変誇りにしていた。
16.行進曲 作品99
  March, Opus 99
セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev)
(1891年ロシア・ソンツォフカ〜1953年ロシア・モスクワ)

 農耕機械技師の一人息子として生まれ、母親からピアノの教育を受けたプロコフィエフは、幼少の頃から楽才振りを発揮。5歳の時には6曲のマーチを含む多くのピアノ曲を作曲した。
 1902年、13歳でセント・ペテルスブルグ音楽院に入学し、リムスキー・コルサコフ、リャドフなどに師事した。1918年アメリカに渡り、さらにロンドンやパリにも住んだが、1933年ソ連に戻った。
 彼の作品は、オーケストラ作品、カンタータ、バレエ曲、映画音楽と多岐にわたっているが、この曲は1943年〜1944年に作曲され、1944年4月30日にソビエト国務省吹奏楽団がラジオ放送で初演した。
17.行進曲「我らの海軍」
  Unsere Marine
リヒャルト・ティーレ(Richard Thiele)
(1847年ドイツ・ベルリン〜1903年没地不詳)

 ドイツの作曲家/指揮者のティーレは、その生涯の大部分を教会のオルガン奏者及びカリオン奏者として過ごした。指揮者としては一時ベルリンのクロールオペラ劇場で活動していたことがある。
 この曲は、1883年ローベル・リンデラーの脚本に作曲した同名のオペレッタの中で使われたマーチである。
 「われらの戦艦のマストには、黒白赤(ドイツ)の旗が誇らしくそよいでいる」という一節を含む歌詞がつけられているこの曲は、かつてはよく歌われていた。
18.行進曲「トリポリ」
  Tripoli
アンジェロ・ダナ(Angelo D'Anna)
(生没不詳)

 このマーチについては、イタリアのコンサート・バンド、クレアトーレ・バンドのレパートリーであったこと以外は、なにも判明していない(トリポリとは、アフリカ大陸北端の国、ソビアの首都のことで、古代ローマ帝国が統治していた所で、今も多くのローマ遺跡が残っている)。
 G.クレアトーレは1900年にイタリアのバンドを率いて渡米し、ツアーを行なった。
1902年に帰国すると、プロのコンサート・バンド、クレアトーレ・バンドを創設した。このバンドはオペラのトランスクリプションをはじめ、イタリア音楽のレパートリーの広さでは世界有数のバンドだった。
クレアトーレ・バンドはアメリカとカナダにもツアーを行ない、さらに新大陸で多くのレコーディングも残していった。そのうちの1曲がこのマーチである。
 このCDでの、アメリカ海兵隊バンドの演奏は、ロス・ヘイスティングによってその昔のクレアトーレ・バンドのSPレコードより採譜されアレンジされたものを使用している。
イタリアの“マルシア・シンフォカ”(シンフォニック・マーチ)の典型と形容しうるこの曲は、壮大でオペラ的な曲想を備えており、クラシックものが得意なアメリカ海兵隊バンドならではの超快演により、幻の“マルシア・シンフォニカ”が、ここに見事に甦っている。
19.ファイフ&ドラム「ブライアン・ボルーのマーチ」
  Brian Boru's March<fife and drum>
伝承曲
traditional(アイルランド〜アメリカ)

 ファイフ&ドラムの2曲目は有名なアイルランドの英雄、ブライアン・マック・セネーダイに因んで、命名されたアイルランドの伝承曲で、何世代にも渡って口頭伝承され今日に引き継がれてきている曲である。
20.ヨークシャー行進曲
  York'scher March
ルートウィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)
(1770年ドイツ・ボン〜1827年オーストリア・ウィーン)

 “楽聖”ベートーヴェンによるこのマーチは、1809年オーストリアの英雄アンドレア・ホーファーがナポレオンに対して蜂起したときに、愛国の念から作曲されたもので、当初は「ブレーメン国防軍行進曲」とされていたが、後にプロシア軍隊の下で、ヨークシャー・マーチとなったものである。
21.行進曲「スラブ女性との別れ」
  Farewell to a Slavic Woman
ヴァッシーラ・イヴァノヴィッチ・アガプキン(Vasilij Ivanovitj Agapkin)
(1884年Sjatjerove―――――1964年没地不明)

 アガプキンは幼少の頃、両親と共に黒海近くのアストラハニ州の州都に移り住んだが、8歳の時に両親が亡くなり、孤児になってしまった。しかし、すぐに同地の308th Tsarjob Battalionの少年楽手に採用された。その後ずっと陸軍軍楽隊の隊員として活動し続けたが、1912年タンボフ州の第7騎兵隊バンドに勤務していたとき(28歳の時)、このマーチを作曲した。
 当時、アガプキンは無声映画の伴奏ピアニストとしても活動していたが、この曲の作曲については次のように伝えられている。
 ロシア人とスラブ人が共同戦線を闘ったバルカン戦争のニュース・フィルムを見ていたアガプキンは、スラブ軍の兵士たちが妻子と別れ、戦場に旅立つシーンを見て、深いインスピレーションを得た。そして、このマーチを作曲したということである。
 “ロシアのマーチ王”、チャルネッキーの名作マーチ群(「モスコーへの敬礼」が特に有名)と並んで、現在ロシアで最も有名なマーチであるこの「スラブ女性への別れ」は、ロシア民謡に相通ずる、郷愁、哀愁を含んだ歌謡的な曲調をもっており、聴く者の心を深く揺さぶる名曲である。
 この曲については、私自身個人的に思い出のエピソードが2つあるので、ここで披露させていただこう。
 1つ目は、1997年6月27日に100数年振りにロシアの軍艦が日本に入港した時のことである。(場所は東京晴海埠頭)
 6月29日が軍艦開放デーとなり、機会を得た一般市民も友好を兼ねて同軍艦を訪問する機会を得た。軍艦の真横の埠頭では同艦の同乗バンドである海軍バンドが1時間半ほどプロムナード・コンサートを開催した。
 約20人と小編成ながら、魂のこもった力強い演奏で、ロシアのマーチやロシアの民謡、アメリカのジャズ曲などの親しみやすい選曲と共に、そのロシア・サウンドを十分に堪能させてくれた。
 そして最終曲が終わり、熱烈なアンコールに応えて演奏してくれたのが、アガプキンのこの名作マーチだった。
 心打つ名演だった。マーチ愛好家として、ロシアのバンドによるこのロシアの名作マーチの快演を聴けたことは、一生の記念になる良い思い出であった。
 さて、もう1つのエピソードは、1994年に、翌1995年のWASBE浜松大会の準備のために来日していたアメリカ海兵隊バンドの隊長・ブージョワー大佐を囲んで、同隊フランク・バーン高軍事務官(スーザ研究家でもある)、陸自中音の武田晃氏と一緒に東京丸の内の中華料理屋にて会食したおり、ブージョワー大佐が語ってくれたエピソードである。
 同バンドが1990年にソ連の5都市をツアーしたときのエピソードであるが、ぜひ、リスナーの皆さんも、そのエピソードのシーンを思い浮かべて、この世界マーチ旅の締めくくり曲を聴いていただきたい。

 ソ連でのコンサートは大盛況だった。初めて見るアメリカ大統領直属の由緒ある海兵隊バンドのりりしい姿とその快演に、ソ連の大観衆はスタンディング・オベーションで惜しみなく拍手を送贈った。
 ソ連の人々の暖かい賞賛に深く心を揺り動かされたブージョワー大佐は、感謝の気持ちと共に、アンコール曲「星条旗よ永遠なれ」を演奏した。
 ソ連でも有名なこのアメリカのナショナル・マーチに聴衆は再び大歓声で応えた。会場が1つになった様ようだった。
 ロシアの人々の心にアメリカの魂が深く刻み込まれるような一体感が生まれた。
 ロシアの観衆は心からアメリカの最高傑作マーチを称え、そしてアメリカを称えた。音楽を通じての心の国際交流―――――会場中が深い感動に包まれ、アメリカ海兵隊バンドの賞賛の嵐は終わることがなかった。
 心動かされたブージョワー大佐は聴衆の熱狂に応じ、聴衆に向かって一礼すると再びアンコールのタクトを振り上げた。
 満場の聴衆は固唾を飲んで見守った。
 イントロに突入した。聴衆は一瞬、驚きの中で息を呑み、次の瞬間、怒涛のような大歓声の渦が巻き起こり、会場は文字通り狂喜乱舞、大興奮のるつぼと化したのだった。

 そう、アメリカ海兵隊バンドは、ロシア国民に対する敬意を表し、ロシアの傑作マーチである「スラブ女性との別れ」を演奏したのであった。
 ブージョワー大佐は感慨深そうに「あの瞬間の聴衆の熱狂は、私の音楽人生の中でも最大級のもので、一生忘れられないだろう」と語っていた。
“3分間のシンフォニー”―――――マーチの真髄を極めた快演による世界マーチの旅もこのロシアのフェアウェル・マーチでもって、フィナーレとなる。
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