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セレクション
歌劇「ばらの騎士」組曲
ライブ!
キャンディード序曲
マーチ・マスターピース
ニーベルングの指輪
DISCOGRAPHY
2001年5月5日発売!
LIVE ! ライブ!〜吹奏楽の名曲がつまった白熱のライブ集
"The President's Own"United States MARINE BAND

「ライブ!」について
 解説=富永啓之(東京佼成ウインドオーケストラ)

 今まで、日本の市場に出回ることの少なかったアメリカ軍軍楽隊の音源の数々。
元来、これらのCDは各団体の広報・宣伝媒体としての要素が大きいもので、米国内でも「非売品」の扱いである為、当然、販路を確保し一般のリスナーへ流布することなどありえなかった。この海兵隊バンドのように、内容・クオリティの高い演奏をしている団体が多いのに、非常に勿体ない話でしかない。
 この度の「パワーハウス」によるアメリカ海兵隊バンドのCDシリーズ化は、画期的な企画の上に、世界を見回しても類を見ない「音源提供」をされる貴重な出来事である事を、日本の吹奏楽ファンは認識し、感謝しなければならない。

 前述のアメリカ軍軍楽隊とは何か。陸軍(Army)、海軍(Navy)、空軍(Air Force)、沿岸警備隊(Coast Guard)、そして海兵隊(Marine Corps)による部隊で組織されるアメリカ軍(Armed Forces of the United States)内に配備された、様々なシュチュエーションの現場で演奏をする事が任務の軍所轄音楽部門の総称である。その演奏形態は多岐に渡り、オーケストラからアンサンブル、室内楽、吹奏楽、合唱、さらにはジャズ・バンド(アンサンブル)、ジャズ・シンガーに至るまでを保有する大組織なのである。

 海兵隊バンドは、1798年に創立した200年を越える歴史を持つ、米国内で最も古くからある由緒ある在ワシントンDCの団体である。バンド名の「大統領のバンド(The President's Own)」という冠は、独立宣言の起草者で「Pen of Revolution」と呼ばれ今でも絶大に支持され続けている第3代大統領トーマス・ジェファーソン氏が与えた称号で、氏の大統領就任式(1801年3月)において海兵隊バンドが演奏したことに起因してのこと。
ちなみに大統領就任式は、今では華やかな大物タレント・映画俳優らが出演して盛り上げるが、彼らと同じステージで海兵隊バンドがファンファーレや入退場の音楽などで参加しているのはご存知だろうか。
 他にも国賓の歓待、国家レベルのイベントなどの行事に参加する任務、米国内主要都市でのコンサート・ツアー、定期演奏会など、演奏回数は年に500回を数え、その中にはホワイトハウスでの邸中晩餐会など、歴代大統領の公務に関わる演奏が含まれる。上記の就任式も合わせ、大統領直轄の行事参加が200年も続いているのが、正に「大統領のバンド」と名付いている所以である。

 今回紹介するのは、海兵隊バンドが行なった演奏会のライブである。ライブ録音は、確かに演奏にキズがあるかもしれない。が、それを上回る演奏の集中力、勢いや熱気を感じられることが大きな利点でもある。「イギリス民謡組曲」などの吹奏楽のベーシックなものから、「カテーナ」「アウェイデー」の様な現代的作品にまで広いレパートリーを持つ海兵隊バンドの珠玉の演奏に耳を傾けてみよう。

■収録曲
「試聴」の印のある曲は、 RealPlayer 8 Basic にて試聴ができます。
 古いバージョン他のメディアではファイルが開かない場合があります。ご注意ください!
・RealPlayer 8 Basic - は無料でダウンロードできます。
ダウンロードはこちら


演奏:アメリカ海兵隊バンド
指揮:ティモシーW.フォーリー大佐(1、7、8〜17)/
   ガンサー・シューラー(2)、フレデリック・フェネル(3〜5)/ジェームス・シンクレア(6)
   Conductor:Colonel Timothy W. Foley、Gunther Schuller、Frederick Fennell、James Sinclair
試聴の音色は、原音に圧縮処理をおこなったもので、非常にレンジの狭いものとなっております。あらかじめご了承ください。

1. 「ムーアサイド組曲」 より 第V楽章「マーチ」(グスターヴ・ホルスト)
4:28

2. 歌劇「海賊」序曲, 作品21(エクトール・ベルリオーズ) 9:15 試聴

  イギリス民謡組曲(レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ)
  3. I .行進曲 3:27
  4. II.間奏曲 4:18
  5. III.行進曲 4:02

6. ポストリュード ヘ調(チャールス・アイヴス) 5:00

7. カテーナ〜31の管・打楽器のためのリフレインと変奏曲(トリスタン・ケウリス) 13:54

  フランス組曲, 作品248(ダリウス・ミヨー)
  8.  ノルマンディー 1:47 試聴
  9.  ブルターニュ 4:50
  10. イル・ド・フランス 1:54
  11. アルザス・ロレーヌ 4:12
  12. プロヴァンス 3:06

13. アウェイデー(アダム・ゴーブ) 6:24 試聴

14. バンドのためのスケルツォ(ジョアッキーノ・ロッシーニ)
3:00

15. 行進曲「剣士の入場」(ユリウス・フチーク) 2:57

16. 行進曲「サーカス・ビー」(ヘンリー・フィルモア) 2:33 試聴

17. 行進曲「神秘なる聖堂の貴族達」(ジョン・フィリップ・スーザ) 3:36

■曲解説
「ムーアサイド組曲」 より 第V楽章「マーチ」
Moorside March from A Moorside Suite

グスタフ・テオドール・フォン・ホルスト/ trans.ゴードン・ジェイコブ
Gustav Theodore von Holst / trans.by Gordon Jacob

 スウェーデン系の祖先を持つホルストは、1874年9月21日、英国イングランドの中部にあるグロスターシャ州チェルトナムで生まれた。幼少より両親から音楽を学び、次第に才能を開花、地元の教会などでオルガンを演奏するなどしていた。1893年、19歳の時に、王立音楽院に入学、作曲とトロンボーンを学ぶ。この学校で生涯の友、ヴォーン=ウィリアムズに出会う。
 王立音楽院卒業後はカール・ローザ・オペラ・スコティッシュ管弦楽団でトロンボーン奏者として所属。1905年にはセント・ポール女学校の音楽主任。1918〜19年には、YMCAの援助の下、音楽オーガナイザーとしてイギリス軍へ従軍。指揮や講義で広く活動する。1919年には、母校王立音楽院の音楽科講師として戻った。
 ホルストは上記の様な教育者的側面と並行し、精力的な作曲活動を続けていた。1916年には、お馴染みの《組曲「惑星」》が作曲された(初演は1918年)。学生時代のヴォーン=ウィリアムズとの出会いより、民謡・郷土文学などに深い興味を持ったホルストは、そういった要素が盛り込まれた作風の曲を多く書いている。《吹奏楽のための第二組曲》もその中の1つである。
 《ムーアサイド組曲》は、1928年にクリスタル・パレス(イングランド)で行なわれた「クリスタル・パレス・ブラス・バンド・チャンピオンシップス」という金管バンドのコンクール課題曲として書かれたものである。この大会の後、多くの金管バンドに演奏されていたが、作曲家仲間であったゴードン・ジェイコブらの申し出で、吹奏楽編成の曲にアレンジされていった。そうした動きを見ていたホルストも、自らの手で吹奏楽編成に書き換え始めたが、病に倒れ、完遂することなく1934年ロンドンでこの世をさった。
 「ムーアサイド」は暗に民謡などを因した物を意味するが、実際に使われているメロディーは、全てホルスト自身が考えた。
 編曲をしたゴードン・ジェイコブは、多くの吹奏楽作品を残したイギリスを代表する作曲家。ヴァージナル作品の大家で、《「ウィリアム・バード」組曲》、《「オリジナル」組曲》、《祝典のための音楽》と吹奏楽を語る上では外せない作曲家の1人。
歌劇「海賊」序曲, 作品21
The Corsair Overture,Opus 21
ルイス・エクトール・ベルリオーズ/ガンサー・シューラー
Louis Hector Berlioz / trans.by Gunther Shuller

 1803年12月11日(享年1869年3月8日パリ)、フランス・ドフィーネ地方のラ・コート・サンタンドンで生まれる。12歳になる頃、フルート、ギター、歌、フラジョーレ(Flageolet:小型の縦笛)などを始め、次第に音楽に傾倒していくも、親には音楽家になることを反対されていた。1821年3月、18歳でグルーブルの大学入試に合格し、 同年11月パリの大学の医学部に写るためパリに上京。
本筋の勉強はおろそかに、ベルリオーズはオペラ座に通いつめ、多くの作品に触れ、なかでも《森のロバン(魔弾の射手)》が上演されていたカール・マリア・フォン・ウェーバーに深く影響を受けることとなった。
 すっかり医学への道を忘れ作曲家を目指したベルリオーズは、1826年、初めて「ローマ賞(この賞は欧州屈指の作曲賞だった)」に応募するも、あえなく落選。27年には《オルペウスの死》で本選出場、28年は《カンタータ「エルシニー」》で2位、29年は《クレオパトラの死》、30年に《カンタータ「サルダナバルの最後の夜」》でついにはローマ大賞を勝ち取る。この1930年という年は、かの《幻想交響曲》の初演された年でもある。これ以降ベルリオーズは、盟友フランツ・リストと共に表題音楽を志すようになる。また1840年に巨大編成の吹奏楽曲《葬送と勝利の大行進曲》が書かれている。
 《歌劇「海賊」序曲》は、ベルリオーズがフランスのマルセイユから、イタリアのリボルノまで船で旅した時、物凄い嵐に出会ったこと、そしてロード・バイロン(1788〜1824)の小説「海賊」などからヒントを得て、イタリア滞在中に書き上げた曲。
 この曲について、ベルリオーズが下記の様に述べている。
 「私は孤独な『海賊』の冒険劇から目が離せなかった。この海賊の(人の力ではどうにも変えられない)"容赦なさと優しさ""厳しいも寛大な部分がある"などの奇妙なコンビネーション、見かけとは正反対の印象(女好きだとか)、そして自身の優しさに辟易するところなどが、(心情の描写が)とても興味深い。嵐の夏(とても暑かった)の間、私はローマの聖ピーターズ教会で過ごした。(バイロンの海賊は)その懺悔の間で、心を落ち着かせる為の友であった。(板間に)座った私は、涼しさ・静けさを楽しんでいた。その静けさは外にある噴水の音以外は遮るものはなかった。その場所は私の楽しみであり、そこでは集中して本を読み下した。」
 《「海賊」序曲》は、当時のタイトル《ニースの塔》として、1845年1月19日、自身の指揮で初演をしている。編曲は1994年にピューリッツァー賞を受けた作曲家でホルン奏者、音楽学者でもあるガンサー・シューラーによるもの。
イギリス民謡組曲/English Folk Song Suite
I .行進曲 March,“Seventeen Come Sunday”
II.間奏曲 Intermezzo,“My Bonny Boy”
III.行進曲 March,“Folk Songs from Somerset”
レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ
Ralph Vaughan Williams

 ホルストと共に近代イギリスを代表する作曲家ヴォーン=ウィリアムズは、1872年10月12日ダウン・アンプニー(グロースターシャ)で生まれる。幼少からピアノを始め、6歳で初めての作品を書いた。1890年にロンドンの王立音楽院に入学、92年にケンブリッジ大学、94年に再び王立音楽院と長きに渡って作曲を勉強した。
 オルガン奏者、トロンボーン奏者など、生計をたてるための仕事と、作曲の勉強との忙しい生活の合間に、イギリス全土に広がる民謡の採譜をしていた。このことが後の作風に大きな影響を及ぼすこととなる。
 それまで勉強してきた作曲+民謡を組み合わせた《ノーフォーク・ラプソディ》を発表。そしてヴォーン=ウィリアムズが作曲家として活躍を始めるのは、実に30代に入ってからのことだった。
1914年に発表した《交響曲第二番(ロンドン交響曲)》で一躍イギリスの音楽界に知られる様になったものの、勃発した第一次世界大戦のため従軍、終戦後は王立音楽アカデミーにて教鞭を執るようになる。
 ヴォーン=ウィリアムズは、作曲のみならず、編集、出版、指揮、音楽祭の主宰など様々な活動を行っていた。しかも難聴などの問題を抱えながらも、晩年に近づくにつれて、創作意欲が増していったのには驚かされる。1958年8月26日、ロンドンで亡くなる。
 《イギリス民謡組曲》は、ヴォーン=ウィリアムズにとって初めての吹奏楽作品で、1923年に作られた。各楽章には自身が採譜をした以下の民謡を使っている。
 第一楽章 行進曲/《日曜日に17歳》《かわいいキャロライン》
 第二楽章 間奏曲/《マイ・ボニー・ボーイ》《緑の茂み》
 第三楽章 行進曲/《朝露を吹き飛ばして》《南部のドイツ人》《とても大きな樹》《ジョン・バーリーコーン》
 この曲を指揮するのは、ウィンドアンサンブルの提唱者で東京佼成ウインドオーケストラの桂冠指揮者としても有名な"マエストロ"フレデリック・フェネル。《イギリス民謡組曲》について、アメリカの雑誌「インストゥルメンタリスト」に連載をしていた。その話をまとめた本「ベーシック・バンド・レパートリー」は不朽の名著。
ポストリュード ヘ調/Postlude in F
チャールズ・エドワード・アイヴス/ケネス・シングルトン
Charles Edward Ives / trans.by Kenneth Singleton

 アイヴスは、1874年10月20日、アメリカ・コネティカット州のダンバリーで生まれる。幼少より、南北戦争時代に楽団長であった父親、ジョージ・エドワード・アイヴスから音楽の影響を受けることとなった。7歳でピアノ、オルガン、作曲、小太鼓を習い、早くからその才能は期待され、15歳になると地元のバプティスト教会のオルガン奏者になる程であった。
 1894年、名門イェール大学に入学し作曲を学ぶが、卒業する際にはNY生命保険会社に就職。傍らに教会でオルガンを弾いてはいたが、作曲を職業にすることによって、書きたくない物を書くのはイヤだと感じ「週末作曲家」の道を選ぶ。つまり平日は生命保険の仕事、週末だけ作曲活動に没頭するというサイクル。
 商才のあったアイヴスは、1907年にワシントン生命保険会社の代理店を友人と設立。青年実業家の道を選び、最終的には副社長まで上り詰めるも、1918年には心臓病を煩い、長引く病気により1929年には引退することとなった。アイヴスが作曲家として活躍したのは1902年から17年の間ほど。生命保険会社の職務に没頭していたのとほぼ同時期である。しかし作曲家としての評判はあまり高いものではなかった。
 キャリアの晩年、1947年《交響曲第三番「キャンプの集い」》がピューリッツァー賞を獲得し、一気に作曲家としての名声が高まることとなった。1954年5月19日没。
 アイヴスは上記「週末作曲家」時期の以前である「オルガン奏者兼作曲家」時期(1890〜92年)に書かれた作品には、トーンクラスター、4分奏、無調、復調などの技法が用いられ、これは父親ジョージの影響がやっていた音楽の影響が大きいと言われている。この《ポストリュード》やアイヴスの代表曲《「アメリカ」による変奏曲》も、基はこの時期に書かれている。そして1896〜97年に前述の大学でオーケストレーションを学んだ後で、書き直されている。
 《ポストリュード》とは? これはあくまで造語なのだが、「前奏曲=プレリュード」「間奏曲=インターリュード」の音楽用語を派生した形で生まれた「後奏曲」と訳すのが良いだろう。演奏会の最後で演奏する曲=アンコール・ピース的意味も含有しているものだ。
 アイヴス学者として著名な、北コロラド大学のバンド・ディレクター、ケネス・シングルトンによる編曲。
カテーナ:31の管・打楽器のためのリフレインと変奏曲
Catena:Refrains and Variations for 31 Wind Instruments and Percussion
トリスタン・ケウリス
Tristan Keuris

 トリスタン・ケウリスは、1946年10月3日オランダ中部のアーメルフォルトに生まれ、15歳の時にはすでにユトレヒト音楽院で作曲を習い始めた。その後1969年に作曲した作品で賞を受賞し、同校を卒業していった。
 その頃より、ケウリスの存在を知った多くの団体が、ケウリスの作品を演奏していった。それらはアムステルダム・コンセルトヘボウ、ヒューストン、BBCなどのそうそうたる面々である。1975年、管弦楽作品《シンフォニア》が、マチューズ・ファーミューレン賞を受賞。この受賞で一気に世界からの注目を集めることになった。その後は、アムステルダムのスヴェリンク音楽院、ユトレヒト音楽院などで後進の指導に当りながら、作品を書き続けていた。
 1982年、長年在住していたアムステルダム郊外イルヴァーサンの街より、文化賞を受ける。ケウリスはこの街に、1996年11月15日、50歳の若さでなくなるまで住み続けた。
 《カテーナ》は、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団(現ロイヤル・コンセルトヘボウ)の委嘱によって、1988年に作曲された。管弦楽団が委嘱した曲で、フルオケの管楽編成+打楽器での演奏を主眼とされているため、サクソフォーンやユーフォニアムがこの曲には使われていない。
 カテーナとはラテン語で「鎖」を意味する言葉。そしてリフレインは「反復句」。この2つの言葉が示す通り、同じ主題の繰り返しにより、12もの変奏曲が連なるこの曲を表現するための、実に具合の良い言葉が《カテーナ》なのである。
フランス組曲, 作品248/Suite francaise,Opus 248
I . ノルマンディー Normandie
II.ブルターニュ Bretagne
III.イル・ド・フランス lle de France
IV.アルザス・ロレーヌ Alsace-Lorraine
V.プロヴァンス Provence
ダリウス・ミヨー
Darius Milhaud

 ミヨーは1892年9月4日、フランスのエクス・アン・プロヴァンスに生まれ、3歳よりピアノ、7歳よりヴァイオリンを始めた。1909年、国立音楽院に入学、作曲を学ぶ。
 クローデル駐伯公使の秘書官として赴任していたリオから1919年にフランスに戻ると、オネゲル、オーリック、プーランク、タイユフェール、デュレーらと「フランス6人組」と称される様になった新芸術運動に参加した。1922年に訪れたアメリカでジャズに出会い、インスピレーションを受け、ジャズのイディオムを盛り込んだ、後の代表曲《世界の創造》を書き上げる(23年)。
 第二次世界大戦の激化に伴い、ナチスからの難を逃れるため、アメリカへ移住。カリフォルニア・ミルズ学校で教鞭を執る。終戦後(47年)にはフランスに戻り、パリ音楽院に着任、62年まで教鞭を執る。スイスのジュネーブで療養中に死亡、生まれ故郷に埋葬されている。
 《フランス組曲》は、アメリカに移住していた1944年〜45年の間に、リーズ出版社(Lees Music Company)から、同出版社による「現代作曲家・新作シリーズ」の1つとしての委嘱を受けて書かれた。完成後、エドウィン・フランコ・ゴールドマン指揮のゴールドマン・バンドにより初演が行なわれ、絶大な評価を受ける。この成功を受け管弦楽編成に編曲を施し、ニューヨーク・フィル・ハーモニック管弦楽団による演奏で管弦楽編成版の初演が行なわれている。
 《フランス組曲》には、第二次世界大戦中、制圧されていたフランスを連合軍が解放したことへの賞賛を主題にした曲です。その解放された地方の名前・地方の民謡が、それぞれの楽章に使われている。またその中でミヨーは、吹奏楽活動をしている若年層への啓蒙を年頭において、技術的に難のない且つ音楽的価値の高い曲になるよう充分な考慮をして書き上げた。このことが、《フランス組曲》が、長く演奏され続けている所以であろう。
アウェイデー/Awayday
アダム・ゴーブ
Adam Gorb

 ゴーブは1958年3月12日、ウェールズのカーディフに生まれる。10歳で作曲を始め、15歳の時(73年)に書いたピアノ曲《ピアノ奏者のアルファベット》が、3年後、BBC(イギリス国営放送)のラジオ3で放送された。
 音楽の研究をするために、1977年ケンブリッジ大学に入学。同校でヒュー・ウッドとロビン・ホーロウェイに学ぶ。1980年に卒業後、室内楽などの作曲をしつつ、いくつかの劇場でピアノ奏者としても仕事をしていた。1987年にポール・パターソンに出会い、個人的に学ぶ様になって以来、作曲により多くの時間を注ぎ込み始めていった。1991年、王立音楽アカデミーの上級作曲コースに入り、翌年92年には音楽修士号を取得。93年卒業。
 1992年に最初の吹奏楽作品《メトロポリス》を書き上げていた。《メトロポリス》は、93年にアカデミー作曲賞を勝ち取り、94年のウォルター・ビーラー記念賞などを受賞。イギリスのみならずアメリカでも急速に注目度が高まる。実際、アメリカで最高のマーチングバンドである「ブルー・デビルス」が、2001年度のコン
ペティションにゴーブの作品を取り上げることからも、その人気の高さは並みではない。
 現在はマンチェスターの北王立音楽学校で、作曲と現代音楽の主任を務めている。
 《アウェイデー》は、1996年に北王立音楽学校の委嘱で作曲された、ゴーブ5曲目の吹奏楽作品である。バーンスタインの《キャンディード》にインスピレーションを受けて書かれた。同年11月17日、ティモシー・レイニッシュの指揮で同学校の楽団により初演。その日のプログラムに、ゴーブはこう書いた。
「この5つの分開幕劇において、私のインスピレーションは、アメリカのミュージカル・コメディの横暴なまでの軽率さ、その制止できないハイな所など、素晴らしい日々から来たのです。皆さん、楽しんで下さい」
バンドのためのスケルツォ/Scherzo for Band
ジョアッキーノ・アントニオ・ロッシーニ
Gioachino Antonio Rosini/ rescored by William A.Schaefer)

 ロッシーニは1792年2月29日、イタリアのペーザロで生まれる。10歳の頃から父にホルンを習い始め、町の教会の聖歌隊では歌を勉強していた。12歳、ボローニャに移り住み、13歳になる頃には地元では名の知れたボーイソプラノ歌手として活動をしていた。地元ボローニャ音楽院に進みチェロを習う。
 卒業後はヴェネツィア、ミラノ、ナポリ、ローマ、ウィーン、ヴェネツィア、ロンドンとヨーロッパを転々としたが、1824年詩人ロード・バイロン(《海賊》のところにも出ている人と同一人物)の《追悼カンタータ》を書く。32歳になる頃までに、すでにオペラを3曲も書き上げているのは、異例の俊才だったと言えよう。
 1824年、パリのイタリア劇場の音楽監督に就任、36年までその座に就いた。その間の1825年9月、フランスのシャルル10世の国王戴冠を祝った劇的カンタータ《ランスへの旅》、《金色の百合の咲く丘》を作曲、翌年国王から「国王の(ための)作曲家」そして「フランス声楽の総監督」という称号を得る。1839年、母校ボローニャ音楽院の名誉院長に就任。以後1955年に、病気の治療のためパリへ移り住むも、闘病生活の後、1968年11月13日、パリ郊外のパッシーの街で生涯の幕を閉じる。
 「イタリアのモーツァルト」と称され、作品にはベートーヴェンやバッハの影響を強く受けたと言われる。作品には18世紀の古典的作風に加え、19世紀ロマン主義的要素の両面を持っている。
 吹奏楽(広義の意味で)の作品を幾つか残しているロッシーニだが、それらの作品は100年以上経ってからイギリスの美術館で発見された。《バンドのためのスケルツォ》もその中の1つで、1961年にアメリカの南カリフォルニア大学の教授ウィリアム・シェーファーが大英博物館で新聞紙に包まれていたのを見つけたのだった。
 《バンドのためのスケルツォ》は、メキシコのマクシミリアン皇帝のために作られた曲で、その時のタイトルは《バンドのためのファンファーレ》であった。イタリアでは「ファンファーレ」は吹奏楽のための曲という意味合いが強かったという。そして前述のシェーファーが出版するに際し、「ファンファーレ」ではなく「スケル
ツォ」というタイトルを付けた。
行進曲「剣士の入場」作品68
March,“Entry Entry of the Gladiators,”Opus 68
ユリウス・アルノースト・ヴィレム・フチーク
Julius Arnost Vilem Fucik

 フチークは1872年7月18日、チェコスロヴァキア(現在はチェコ)のプラハで生まれた。プラハ音楽院に12歳で入学を認められ、そこで作曲をドヴォルザークに学ぶ。音楽家としての才能は当時傑出した存在であった。オーストリア駐留ハンガリー軍のバンドで、バスーン奏者として3年間の任役期間を過ごした。
 1897年(25歳)よりオーストリアの第86連隊、第92連隊の軍楽隊長を歴任していく(〜1913年)こととなり、この在任期間が、作曲家としてのフチークが大成した要因であり、意志高揚のための行進曲を数多く書き残し、「チェコのマーチ王」と称される程である。これにオペレッタや合唱曲なども合わせおよそ400作
品を残した。
 軍を辞めた1913年、ベルリンで出版会社を設立するも、3年後の1916年9月15日、ガン手術の失敗により、44歳の若さでこの世を去ることとなる。
 この《剣士たちの入場》は、フチークがサラエボの第86連隊隊長在任中の1897〜1890年にかけて作曲され、作曲当初には《Grande Marche Chromatique》というタイトルであった。その後、フチーク本人がヘンリー・ジーンキーヴィッツ著の「クオヴァディス」という本に登場する剣士の姿に魅され、タイトルを直したと言われる。
行進曲「サーカス・ビー」/March,“The Circus Bee”
ジェームス・ヘンリー・フィルモア Jr.
James Henry Fillmore Jr.

 1881年、アメリカのシンシナティで生まれたフィルモアは、20世紀のアメリカ吹奏楽界において著名な作曲家であり、指揮者であり、指導者である。その作品の数は250を数え、この《サーカス・ビ−》の様なサーカス・マーチなどは現在でも演奏され続けている。作品に当時映画などで流行ったラグタイム、シンコペーションのリズムを取り入れるなどして、聴衆が聴きやすい作品が多いのが人気の高い一因である。自身が教鞭を執ったマイアミ大学には、身銭を切ってホールを建てた。現在その建物は「フィルモア美術館」となり、その収益の一部はフィルモアの遺族に渡されている。
 《サーカス・ビー》は、自身の出版社「フィルモア・ブラザーズ」の顕彰事業の一部として作曲され、1908年に同社より出版された。タイトルの「サーカス・ビー」とは、フィルモアが夢見た仮想のサーカス新聞の名前より。
行進曲「神秘なる聖堂の貴族達」
March,“Nobles of the Mystic Shrine”
ジョン・フィリップ・スーザ
John Philip Sousa

 吹奏楽に携わる者ならば、言わずと知れた存在「マーチ王」スーザ。スーザはこのCDの演奏をしているアメリカ海兵隊バンドの第17代隊長である。スーザは作品が多く知られているため、作曲家としての印象が強く感じられるだろうが、実際には優れた指導者・指揮者であり、コーディネーターとしての才もあった。1880年から92年までの隊長在籍期間中、「大統領直属のバンド」のレベルを飛躍的に向上させ、全米ツアーなどの画期的な活動を行ない、海兵隊バンドの名を全土に知らしめることとなった。
退任後スーザ・バンドを設立。引き続き多くのコンサートなどで、スーザの評価も実に高いものであった。
 この《神秘の聖堂の貴族達》はスーザの作品でも、非常に希な「短調」で始まる曲である。スーザが1922年に入会したThe Ancient Arabic Order of Nobles of the Mystic Shrine(AAONMS)による委嘱で書かれている。
セレクション
歌劇「ばらの騎士」組曲
ライブ!
キャンディード序曲
マーチ・マスターピース
ニーベルングの指輪
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