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■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第3回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

本物の音を聴くということ!

早いもので、4月末から開講した『おちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー』も3回目となりました。この春、中学や高校に入学された新入生のみなさまもようやく学校生活に慣れてきた頃だと思います。吹奏楽部に入部して初めての楽器を手にされた方は、きっと悪戦苦闘しながら練習されていることでしょう。フルートに関していいますと、なかなか音がまとまらず「どうやったら先輩たちのように綺麗な音が出るのだろう?」と悩んでいる人もいらっしゃるかもしれませんね。

フルートは楽器自体に振動体が付いていないので、吹いていても息の抵抗感を実感し辛い部分があります。ましてや、息の大半を外に捨てているようなものですので、“一生懸命吹けば吹くほど音にならない”と落ち込むことだってあります。

そんなとき、街角でパフォーマンスをしている大道芸人を想像してみましょう。現実には何もないのに、あたかもそこに透明な壁があるかのように手で押してみたり寄りかかったり…。フルートを吹くときも、自分の顔の前に透明な壁があると想像してみましょう。そして、その壁に当たった空気が跳ね返ってくるようなイメージを持つことができれば、息のスピード感やまとめ方、方向性が定まってきます。ちょっと強く押すと消えてしまうような壁ではなく、しっかりと息を跳ね返してくれるような壁をイメージして下さいね。それができれば、壁のどの部分にどれくらいの強さで息を当てればよいか工夫してみましょう。きっと、気持ちよく息が跳ね返ってくるポイントを見つけられるはずです。

さて、楽器が上達するには練習が大切ですが、それと同じくらい重要なことがあります。それは“本物の音を聴く”ということです! 楽器はひたすら机に向かって勉強するだけで100点満点が採れるようなものではありません。女性がファッション誌を見て「このヘアースタイル素敵!」とか「この服可愛い!」とか思うように、そこに具体的なイメージがあると上達は早くなります。身近にフルートの先生や上手な先輩がいることが理想的ですが、そうでない場合はCD等を聴くということも音のイメージ作りには有効です。今はYouTubeでも様々な名手の演奏を聴くことができますが、ネット上の音のクオリティーはかなり低いです。少しでも本物に近い音を体験するには、やはり圧縮されていないCD等の音源を聴くことをお勧めします。また、少しだけ高級なイヤフォン(ヘッドフォン)を使うということも効果的です。音楽を勉強する上で、品質の高い音の追求は大切にして下さいね。

生で聴く名手の音色

私が初めて世界的な名手の演奏を聴くチャンスは、高校1年のときに突然やってきました。当時ウィーン・フィルの首席フルート奏者だったヴォルフガング・シュルツさんが、香川県まで来て下さったのです! しかも正式なリサイタルではなく、音楽を勉強している人のために、地元大学の施設を使ってのプライベート的なコンサートでした。そこでは、とても身近な距離でシュルツさんの演奏を聴くことができました。それだけに、シュルツさんの暖かい音色とパワフルなオーラに、高校生の私は圧倒されっぱなしでした。シュルツさんもノリノリで、アンコールにも関わらずバッハのh-mollソナタの終楽章を演奏してくれたのがとても印象的でした。普通に考えて、アンコールにそんなキツい曲を演奏するなんて、信じられないですよね。今から思い出しても、感性の敏感な若い時期にこういう体験ができたことは、本当に幸せだったと思います。

高校時代に聴いたフルーティストで最も鮮明に印象に残っているのは、何といっても大好きだったオーレル・ニコレさんです。さすがにニコレさんは四国まで来て下さらなかったので、高校でフルートを専攻していた仲間たちと一緒に大阪まで聴きに行きました。金曜日、授業を早退して連絡船で本州に渡り、さらに在来線と新幹線を乗り継いで大阪まで約3時間の道のりでした。

大阪に着いて最初に向かったのは、当時関西随一のフルート楽譜が揃っていた三宅楽器さん。そこで夢中になってアンサンブルの楽譜を探したことを覚えています。そして阪急梅田駅の地下街にある喫茶店で軽い夕食をとった後、リサイタルが開催されるザ・シンフォニーホールへと向かいました。

ザ・シンフォニーホールという最高の音響空間で聴くニコレさんの音色は想像通り、いや想像以上に暖かく柔らかく私を包み込んでくれました。プログラムは、これまた大好きなオール・バッハ! とにかく最初から最後までテンション上がりまくりでした。その後、何度もニコレさんの演奏を聴きましたが、この時の感動は格別でした。終演後、どうしてもひと目ニコレさんに会いたくて楽屋口に行ってみると、幸運なことにサイン会が行われていました。私はバッハのソナタの楽譜にサインして頂きました。ニコレさんは今年(2016年)の1月に90歳で他界されましたが、このとき頂いたサインは私の一生の宝物です。


▲ニコレさんから頂いたサイン

さて、サインをもらうのに時間を費やしてしまい、私たちは高松へ戻る船の出航時間に間に合わなくなってしまいました。そこで、船が途中立ち寄る神戸まで国鉄で先回りすることで、何とか高松行きの船に乗ることができました。ところがこの夜、普段は穏やかな瀬戸内海が大しけで、あまり大きくない船の揺れること揺れること。翌朝、高松港に到着するまで、船酔いで気持ち悪くなりながら、ほとんど眠れないまま一夜を過ごしました。今となっては、田舎の高校生(私以外はみんな女の子!)のとんでもない珍道中でしたが、やはりあの時ニコレさんを聴けてよかったと思います。

忘れられない音色との出会い

自らのフルート人生を振り返ってみると、その時々で“忘れられない音色との出会い”があったことに気づかされます。第1回のセミナーでご紹介した野口博司先生や、シュルツさんやニコレさんとの出会いは、高校生だった私に大きな影響を与えました。そして国立音楽大学に進学した私に、さらなる“衝撃的な音”との出会いが待っていました!

私が4年間師事することになった先生は、この年の春までNHK交響楽団で首席フルート奏者を務めていた宮本明恭先生でした。そして最初のレッスンで聴いた宮本先生の音色には衝撃を受けました! それは、今まで聴いたことがないスピード感と情熱溢れるサウンドでした。先生の演奏は、まさにsemple appassionato(常に情熱的に)という言葉がぴったりでした。

当時の宮本クラスの門下生たちは、少しでも先生の音に近づこうと日々のロングトーンには余念がなく、誰が聴いてもすぐに“宮本クラス”とわかってしまうほどでした。宮本先生のレッスンでは、ちょっとでも魂のこもっていない音を出すと「音!、音!、音!」、「ヴィヴラート!、ヴィヴラート!」と叱られたものです。また少しでもリズムがぶれると「指!、指!、指!」と繰り返し注意されました。宮本先生は、「ロングトーンをするときもメトロノームを使いなさい。」とおっしゃいました。


その際、(a)のような遅いテンポではなく、その倍のテンポ(b)で行いなさいと。要するにロングトーンをするとき、ただ音を長く伸ばすのではなく、速いテンポを感じながら音を出すことが大切なのです。そうすることで、スピード感のある息を使って楽器を100%響かせることができると、先生から教わった気がします。そんな宮本先生の演奏の中で今でも忘れられない瞬間は、1988年のリサイタルで演奏されたエマヌエル・バッハのソナタの冒頭部分です。


▲C.Ph.E.バッハ:無伴奏フルートのためのソナタ 第1楽章より

曲はA(ラ)の音のオクターブ跳躍から始まりますが、このときのAの響きの輝きと奥深さは「フルートでこんな音出るの?」と思うくらい凄かったです。私の中でのフルートの価値観が変わった瞬間でした!

今から思えば、もっともっと宮本先生から学びたかったことが山ほどありますが、当時あまり練習熱心ではなかった私は、いつも早々にレッスン室を追い出されていました。あの頃、もっと真面目に練習していれば・・・と思ってもあとの祭りですね。しかしながら、そんな私でも先生から受けた影響が染み込んでいて、それが今までのフルート人生を支えてくれていると思います。宮本先生は先月80歳を迎えられ、そのフルートの音色もまだまだ健在のご様子です。納得がいかないところがあると、何度も何度も繰り返しさらいこむ先生のお姿からは、フルートと音楽に対する深い愛情を学ばせて頂きました。

音大を卒業してから…

音大での4年間は、非常に充実した時間でした。何より大好きな音楽に没頭できましたし、志を同じくする仲間たちとの時間は「この生活が一生続けばいいのに…」というくらい楽しかったです。しかしながら、そんな楽しい時間もいつしか過ぎていき、やがて卒業後の進路を考える時期となってきます。

私は「30歳までにプロ・オーケストラに入る!」という目標(結局、達成できませんでしたが…)を決めてはいましたが、やはり卒業後のことが不安でした。そこで、ちょうどこの年から宮本先生が大学院でも教鞭をとられることになったので、大学院を受験することにしました。同期のフルート専攻生では、同じ宮本クラスから3人が受験しました。先生は大学院受験の私たちのために、特別に時間を割いて指導して下さいました。試験の結果は私以外の2人は合格し、私だけ不合格でした。私の実力不足は当然として、大学院で何を学びたいかという具体的なビジョンもなく、何となく受けてしまったことも敗因かと、反省する日々でしたね。

年が明け、いよいよ卒業が迫ってきた頃、高校以来の友人から電話がかかってきました。彼は同じ高松第一高等学校でクラリネットを専攻し、同じく音大卒業を控えていた橋本眞介さん(現在:名古屋音楽大学准教授)です。そして次のように切り出したのです。

「俺たち、音大を卒業しても仕事ないよね。そこで考えたのだけど、俺たち吹奏楽好きだよね。だから、同じような吹奏楽好きが集まってお金を出し合い、年に何回かでも演奏会をやらないか?」

当然ながら、私は二つ返事でOKと答えました。気の合った仲間たちと、大好きな吹奏楽ができるチャンスを見逃すはずがありません! 橋本さんは武蔵野音大の仲間を中心に、私は国立音大の仲間たちに話しを持ちかけました。具体的なことは何も決まっていませんでしたが、楽器を吹き続けたいという人は興味を持ってくれました。1990年初め、音大の枠を超えて集まった仲間による吹奏楽団が、今まさに生まれようとしていました。

シエナ誕生秘話

~ブラス好きから生まれた夢のプロ楽団~

若い音楽家による自主的なプロ吹奏楽団を作るという発想。このアイディアが思わぬ急展開を迎えることになります。橋本さんがこの吹奏楽団のことをクラリネットの師匠である藤井一男先生に相談したところ、非常に興味を持って聞いて下さりました。そして少しでも若者の力になりたいと思われた藤井先生は、「ちょっと待って。自分たちでお金を出すのもいいけれど、何か応援できないか考えてみるよ。」と言って下さったのです。ここからがまさにミラクルといってよいほどのドラマティックな展開でした。

藤井先生が長年に渡って一緒に仕事をされてきた楽器メーカーのヤマハから“全面的にバックアップする!”とのご提案を頂いたのです。さらに、メンバーには毎月決まった給料も出すというではありませんか! 最初、この話しを聞いたときは本当に信じられませんでした。しかしこれは現実でメンバーの給料や運営にかかる経費、練習場の費用、打楽器の無償貸与、そして日本各地でのコンサートやクリニック等を、ヤマハが全面的にサポートしてくれることが決まりました。このスピード感は目まぐるしいほどで、ほんの数箇月で発足した新楽団にも関わらず、次から次へとコンサートの開催やCD録音が決まりました。そして楽団の運営については、藤井先生が代表を務める音楽事務所に一任するとのことでした。そこで先生は“定年を28歳にする”という斬新な提案を打ち出します。この楽団を若手中心に構成し“次なるステップへの架け橋”にしてもらいたいという思いの表れでした。この28歳定年制は、後に「もっと長期的に楽団の将来を考えて頑張りたい!」という団員の意向で撤廃されることになりますが、この定年制があったおかげで若くフレッシュな吹奏楽団が誕生することになります。

ところで、楽団をバックアップするヤマハより、2つ条件が提示されました。
(1) メンバーは全員ヤマハの楽器を使ってほしい。楽器は特別割引で提供する。
(2) メンバーは公募のオーディションで選出してほしい。

(1)については、巨額のバックアップをするわけですから、楽器メーカーとしては当然の希望ですね。もちろん宣伝効果も大切ですが、「オールヤマハのプロ楽団を聴いてみたい!」という楽器メーカーの夢もあったと思います。ただ人それぞれに愛用してきた楽器もあるだけに、このことでオーディションを受けるのを諦めた人も少なからずいました。

(2)も当然といえば当然の条件でしたが、吹奏楽団の創設を目指していた私たちにとっては、「俺たち、入れてもらえるのかな?」と焦ったのも事実です。実力重視のオーディションですので、情状酌量の余地は全くありません。フルートに限らず既に活躍されているフリーのプレーヤーは大勢いらっしゃったので、このオーディションは相当なプレッシャーになりました。募集人数はフルート奏者2名とピッコロ奏者1名。フルートはかなり高い競争率になると思い、私はちょっとだけ得意だったピッコロで受験することにしました。オーディション前夜は気持ちが高ぶって寝つけず、一睡もしない状態でオーディションに臨みました。数日後、無事合格の通知を頂いたときは本当にホッとしました。また、橋本眞介さんをはじめ一緒に楽団創設を目指してきた多くのメンバーたちも合格したと聞いたときは、本当に嬉しかったです。

さらにフルートで合格したのは、大学で1年先輩の木次谷 緑さんと伊達佳代子さん。お二人とも同じ宮本クラスでしたので、シエナ創立時の初代フルートパートはオール宮本クラスということになります。木次谷さんは大学時代からオーケストラや国立音大ブラスオルケスターで、ずっとお隣で吹かせて頂きました。残念ながらご病気で若くして他界されましたが、いつも笑顔で性格も明るくフルートもピッコロも本当に素敵な先輩でした。伊達さんとは、長年に渡ってご一緒にお仕事をさせて頂いております。ドイツの名器ヘルムート・ハンミッヒを自在に操り、その音色と音楽性には日本人離れした魅力がいっぱいのフルーティストです。

“シエナ”命名の由来

ようやくメンバーも決定し、これから新楽団が活動していこうとするとき、「楽団の名前はどうしよう?」ということになりました。「とにかく若々しい名称がいいよね。」と話していると、藤井先生が「シエナっていいと思わないかい?」とおっしゃいました。先生のお話しによると、北海道の函館に『シエナホテル』というとても素敵なホテルがあるとのこと。今でこそイタリアの地名として有名ですが、当時シエナを知っている日本人は少なかったと思います。そこで先生はホテルに電話して、「シエナってどういう意味ですか?」と質問されたそうです。そうするとイタリアの地名ということがわかり、そこからイタリア…明るい太陽…地中海…青い空…爽やかな風…とイメージが膨らみ、フレッシュな新楽団にはピッタリと思ったそうです。私たちも先生のお話しを聞いているうちに、イタリアの青い海と空が頭の中に浮かんできて、この若い楽団には相応しい名称だと思いました。余談ですが、当時イタリアに詳しい方からは、「イタリアの楽団で演奏されていらっしゃるのですね。」なんて言われることもありましたよ。

かくして1990年5月、平均年令23歳の若々しいプロ楽団『シエナ・ウインドオーケストラ』が誕生することになります。当時のバンドピープル誌には、メンバー全員の顔写真とプロフィールが掲載される等、吹奏楽界において非常に注目を集めました。またヤマハの強力なバックアップにより、設立1年目の年間稼働日数は何と144日にも達しました。音大を卒業したばかりで経験の浅い私たちにとってコンサート、CD録音、クリニック等、多くのことを学び経験できる貴重な場があったことは、本当にありがたいことでした。

バンドピープル1990年6月号
バンドピープル1990年7月号
バンドピープル1990年8月号

いよいよシエナがデビューするとき、残念ながら“言い出しっぺ”の橋本さんの姿はそこにありませんでした。彼は大学院への進学も決まっていましたが、同時に広島交響楽団への入団が決まったのです。この時のことを私はよく覚えています。明け方まで藤井先生のお宅でシエナ発足の準備や話し合いをし、「よし、これから一緒に頑張っていこう!」と別れました。まだ電車の始発前でしたので、私のバイクに橋本さんを乗せて江古田のアパートまで送りました。私が帰宅するとすぐに彼から電話がかかってきて、「広島交響楽団から採用通知が届いた!」と言われました。つい数時間前までシエナの未来像について熱く語り合っていただけに、後ろ髪を引かれる思いは相当強かったと想像しますが、彼はオーケストラ奏者の道を選びました。しかしながら、橋本さんの“吹奏楽への情熱”はあの頃と全く変わっていないと、今の活躍ぶりからも察することができます。その彼の情熱があったからこそ、シエナが生まれたのですね。橋本眞介さんと藤井一男先生のお二人こそが“シエナの生みの親”だと思います。そして、若者の夢を応援してくれるヤマハという“大きな支え”があったからこそ、“ブラス好きの夢”が現実になったことは、本当に素晴らしいことですね。

その後、バブル崩壊等の時代の変化は音楽業界にも打撃を与え、シエナ・ウインドオーケストラは苦難にさらされるときもありました。しかしながら、そんなときも団員同士が知恵を出して協力し合い、今や本当に素晴らしい楽団に成長されました。きっと簡単には語れないほどの努力と、多くの方の協力があったことでしょう。26年前の創立時には、今の輝かしいシエナの姿を想像することは正直できませんでした。“吹奏楽への情熱”、“若い音楽家の夢”から生まれたシエナは、今後50年・100年とさらに輝き続けることでしょう。シエナよ永遠なれ!

■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第2回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。


真島先生、ありがとうございます!

みなさま、こんにちは。落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー第2回の開催です。

このセミナーの執筆中、ショッキングなニュースが飛び込んできました。作曲家・編曲家の真島俊夫先生が67歳の若さで他界されました。真島先生と聞くと、私が高校3年のときの課題曲『波の見える風景』(1985年)が真っ先に頭に浮かびます。冒頭からフルートの低音を活かしたオーケストレーションで、最初に参考演奏を聴いた瞬間からこの曲の虜になりました。中間部には水面にキラキラと反射する日光を模倣したかのような素敵なフルートソロもあり、「今年のコンクールでは絶対この曲をやりたい!」と思いました。後に、真島先生が沖縄の海をこよなく愛していらっしゃるというお話しを聞いたとき、「なるほど、だからこんな曲が生まれたんだ!」と思ったものです。ですので、私が通っていた高松第一高等学校(以下、高松一高)がこの曲をコンクールで演奏すると決めたとき、とてもワクワクしました。

その後、真島先生の作品を色々演奏させて頂きましたが、『波の見える風景』を吹く機会はまだありません。いつかまた、演奏できれば嬉しいなと思います。真島先生、本当に素敵な作品の数々を私たちに残して頂き、ありがとうございます!

全国大会への想い

さて高松一高吹奏楽部は、私が高校2年のときに全国大会の切符を逃していました。しかしながらこの時(1984年)のメンバーは木管セクションを中心に実力者揃いで、自由曲で演奏したヴェルディの歌劇『運命の力』序曲では、クラリネットセクションが弦楽器に劣ることない見事なアンサンブルを披露していました。実際、四国大会の審査員にいらしていたクラリネット界の巨匠ジャック・ランスロ氏は最高点を下さったと記憶しております。残念ながら金管の審査員の方からの評価が低く、この年は惜しくも代表を逃してしまいました。

▲1984年の四国大会。現在第一線でプロとして活躍中のプレイヤーも!

もし、このときの『運命の力』を全国大会で演奏できていたら、きっと吹奏楽コンクールの歴史に残る演奏になったのではと思います。このような経緯もあり、私が3年のときには「絶対に全国に行くぞ!」という並々ならぬ思いがありました。

吹奏楽コンクールで少しでも良い成績を得るため、どの団体も選曲には試行錯誤されていると思います。自分たちのバンドは何が弱点で何が得意なのか、課題曲とのバランス等、様々な要素を検証し尽くしていることでしょう。

この年(1985年)、高松一高が自由曲に選んだのはジェイガーの新作『タブロウ』でした。当時、高松一高の自由曲はクラシックの編曲物が当たり前でしたので革新的ともいえる選曲でしたが、フルート、サクソフォーン、ホルンに良い人材が揃っていたので、顧問の石川孝司先生もあえてオリジナル作品にチャレンジするという決断を下されました。そして課題曲はフルートが活躍する『波の見える風景』。その選択は吉と出て、見事2年ぶりに全国大会への切符を手に入することができました。

いざ、普門館へ!

当時、香川県にはジェット旅客機が着陸できる空港はありませんでしたので、大人数が東京まで移動するのはJR(当時は国鉄)が主流でした。さらに瀬戸大橋も建設途中でしたので、まずは連絡船で1時間かけて瀬戸内海を渡り、そこから新幹線が停まる岡山駅までは45分くらい在来線に乗ります。ようやく新幹線に乗り換え、さらに4時間でやっと東京に到着です。今思うと約6時間もの長旅だったのですね。宿泊場所は代々木にある青年の家のような施設でした。練習場所も、あまり広くない食堂のような場所だったと記憶しております。まさに合宿のような状況でしたね。普門館への移動も地下鉄で、大型バスで来ている他校が羨ましかったです。普門館に到着してからステージ裏までの記憶はあまりありません。何年か後、指導していた土気中学校の応援で普門館を訪れた際に、「裏はこうなっていたんだ。こんなところでチューニングしてたんだ。」と思ったものです。

私たち高松一高の出演順は一番最後。せっかくの全国大会でしたが、客席で他校の演奏を聴くことはできませんでした。唯一、ステージ裏で出番を待つときに聴けたのが、名門習志野高校! いろんな方から「前の団体の演奏は上手く聴こえるものだから・・・」と言われてはいましたが、それを差し引いても上手すぎ!です。それもそのはず、あの『ローマの祭』の名演が繰り広げられた年でしたから・・・。とにかく、動揺せずに自分たちの演奏をしたいという思いと、当時は“四国の高校はいつも銅賞”というレッテルを貼られていたので、何とかそれを覆したいという願いで、習志野高校の名演に会場内の興奮が冷めない中、ステージに上がりました。

失敗から学ぶこと

普門館のステージ上から見た景色は、真っ黒な床、だだっ広い客席、話しには聞いていた客席内のエスカレーター・・・。石川先生のタクトが振り下ろされた瞬間、「あれっ、周りの音が遠い!」とちょっと動揺。「自分の音も響いていないかも?」とちょっぴり不安な気持ち。今ではホール練習を当たり前のようにしている団体も多いですが、当時の高松一高はホール練習なんかは一度もありませんでした。コンクール、8月の定期演奏会、秋の文化祭くらいしかホールで演奏する機会はありません。事前に心積もりはしていても、やはり普門館の広大な空間と全国大会の雰囲気に力みが出たのでしょう。『波の見える風景』でソロの最初の音が少しひっくり返ってしまいました。確かにフルートにとっては攻めると外しやすい中音域のEの音でしたが、一瞬のこととはいえ相当ショックでした。

▲1985年の全国大会。おそらく『波の見える風景』のソロ部分

あのときの悔しさは今でも忘れられません。応援に来てくれた先輩からも「おまえ、ソロ外しただろう。」と言われてしまいました。けれども、分不相応に背伸びすると失敗するという、大変よい勉強になりました。

数年前、ある全国大会常連校のフルートの生徒が、力みすぎたためか地区予選でソロが少しひっくり返ったことがありました。もちろん彼女は強豪校の中でソロを任せられる、とても上手な生徒でした。この時、私の全国大会での失敗談を話してあげました。本番で攻める気持ちは大切だけれども、普段以上に自分を良く見せようと思うのではなく、場所や環境が変わっても“普段通りの丁寧な演奏をする”ことが大切だと言ってあげられたのは、自分の経験があったからです。失敗を経験したからこそ、ささやかながら人の気持ちに寄り添うことができたことに、自分の失敗も無駄ではなかったのかな?と思った瞬間でした。

とはいえ、その当時は銀賞(銅賞じゃなかった!)という結果にホッとする余裕もなく、宿舎に帰っても相当落ち込んでいたと思います。二段ベッドに潜り込んで本番の録音を何度も聴き返し、「大丈夫、カスったのは一瞬。自由曲のソロは上手くいっている。」と自分を納得させるのが精一杯でした。

音楽はチームプレー

そんな落ち込んだ気持ちが救われたのは、コンクールの数ヶ月後に発売されたバンドジャーナルの記事でした。全国大会の出場団体への批評で、審査員もされていた国立音楽大学の大阪泰久先生が「このバンドは課題曲冒頭でのフルートの響きが素晴らしい。他にも、要所でフルートの音色が光っていた・・・」という趣旨のコメントを下さったのです。この言葉には本当に救われました。コンクールメンバーのフルートパート全員は、音楽科のフルート専攻生でした。その中の一人、藤村恵子さんは練習熱心な努力家で、正確なテクニックと低音域の充実した音色を持っていました。学内の実技試験では一度も彼女を超えられたことはありませんでした。『波の見える風景』の冒頭での響きを作れたのは、藤村さんをはじめ、共に競い合ってきた仲間がいたからだと思います。そして、元をただせば“大ホールで通用する音色”を私たちに叩き込んで下さった野口博司先生のおかげに他なりません(第1回を参照)。吹奏楽コンクールの審査をしていると、課題曲冒頭の印象が大切だということがよくわかります。審査員の方は最初のフルートセクションの音色を聴いて、「このバンドはちょっと違うぞ!」と思って下さったのでしょうね。こういった魅力あるサウンドは個人だけで作れるものではなく、パートやセクションのチームプレーがあってこそ、初めて実現するものです。私は、これまで個人の些細なミスに落ち込んでいた自分を恥ずかしく思いました。吹奏楽やオーケストラの指導をしていると、自分中心に物事を考えている人と、常に周りへの気配り大切にしている人は、演奏を聴けばすぐにわかります。私はどちらかといえば前者だったと思いますが、そんな私でも(私だから?)知らず知らずのうちに周りの仲間たちに助けられていたのですね。

▲一緒にコンクールを戦ったフルートパートの仲間たち。真ん中が藤村恵子さん。私はミスを後悔してちょっと不機嫌そう…

余談ですが、藤村恵子さんは音大卒業後に高松一高で後進の指導にあたり、優秀なフルーティストを数多く育てられました。私が所属しているタッド・ウインドシンフォニーのフルートパート5人のうち、何と3人が彼女の教え子なんですよ。もちろん、3人共に野口先生のDNAも受け継いでおりますので、響きのある笛の音色には自信ありです!

2016年6月10日(金)のタッドWSの第23回定期演奏会では、熱い演奏をご期待下さい。日本初演のチェザリーニの新作シンフォニーも重厚なサウンドの意欲作だけに必聴です!

▲タッド・ウインドシンフォニーのフルートメンバー。左から横山由布子さん、井清順子さん、筆者、赤木香菜子さん、前田美保さん。横山さん、赤木さん、前田さんは藤村さんのお弟子さん!

ところで全国大会に出場した団体は、そのご褒美としてディズニーランドに行くという話しを聞いたりもしますが、私たちの高松一高にはそんな習慣は全くありませんでした。自由行動はコンクール翌日の午前中のみ。多くの生徒は銀座のヤマハへ行って、レコードや楽譜を買うのを楽しみにしていました。私と友人たち数人は、秋葉原の電気街に向かったものの開店時間が11時からだったので、それまで喫茶店で時間をつぶし、残り1時間でお店を巡りました。ということで最後の最後まで“落ちこぼれ”ぶりを発揮しておりましたが、今となっては全てがよい思い出です。

コンクール課題曲への実践

コンクールの話題が出たところで、フルート吹きの視点から今年度(2016年)の課題曲を見てみましょう。今年は、5曲共にフルートの役割が重要になっております。

Ⅰ『マーチ・スカイブルー・ドリーム』
この曲はオーケストレーションがシンプルに上手く書かれていて、パッと合わせてみても吹きやすく、サウンドもまとまりやすい作品です。でもその反面、どの団体が演奏しても似たようになってしまうという要素もありますので、それぞれの団体の創意工夫が腕の見せ所ですね。

フルートセクションは高音域のユニゾンが多いので、まずはここの音程が合わないと、非常に醜いことになってしまいます。特に高音のD・E♭・E・Fは個人差が目立つところなので、しっかりと合わせましょう。

また、8分音符、4分音符の長さやニュアンスも、テンポや曲調によって工夫する必要があります。譜面上には特にスタッカート等は書かれていませんが、場面によって吹き方はそれぞれ異なります。同時に同じリズムを演奏している楽器が何かによって、発音や音の長さを考えてみるのもよいかもしれません。これらのニュアンスを吹き分けることによって、より活き活きとしたマーチになると思います。

Ⅱスペインの市場で
この曲は冒頭からフルート&ピッコロのサウンドが主導権を握ります。細かな16分音符や6連符、スタッカートの8分音符のひとつひとつに響きがないと、キラキラと輝くような演奏になりません。また、気をつけたいのがトリルの音程幅です。高音域のC-Dのように、トリルの運指を使うことで音程の幅が狭くなり、響きが暗く聴こえる場合があります。次の譜例をトリルキーを使って吹いてみましょう。

Dの音程が驚くほど悪いことに気がつくはずです。トリルキーを使っても、本来の明るいDの音に近づくように息でコントロールしてみましょう。それに慣れてくると段々速くしてみましょう。明るい響きのトリルで演奏できるようになります。他の曲でも、トリルの際には気をつけてみるといいですね。

またこの作品は、フルートセクションによる3度・5度のハーモニーがとても重要です。音程&音色共に不安定になると全体のサウンドも濁ってしまうので、ロングトーンからしっかりと基礎を固めましょう。

Ⅲある英雄の記憶~「虹の国と氷の国」より
この曲もフルート&ピッコロ、さらにオーボエとのユニゾンが多いです。音程が濁らないよう、丁寧にアンサンブルを合わせましょう。[ K ] からの部分では、フルートの低音域の響きが重要です。しかも、そこにオーボエが低音で絡んできますが、必然的にオーボエが大きくなります。オーボエにこの音域の p を要求するのは厳しいので、逆にフルートを響かせることによってバランスをとりましょう。ですので、フルートの低音が鳴らないバンドはこの曲を選んではいけません。

[ P ] からの16分音符の掛け合いは、「フルート、全然聴こえないぞ!」という指導者の怒鳴り声が聞こえてきそうですね。16分音符の発音が遅れないことはもちろんのこと、細かな音符のひとつひとつに息を吹き込むような奏法が必要です。

Ⅳマーチ「クローバー グラウンド」
このマーチは面白い仕掛けがいっぱいある作品です。それだけに、しっかりとアンサンブルを揃えていかないとまとまりのない演奏になりがちです。多くの団体が、あえて木管と金管でアーティキュレーションを変えてある部分で悩むかもしれません。オーケストラでは管楽器にスラーが書いてあっても、同じ動きの弦楽器に書いていないということがよくあります。これはそれぞれの楽器の特性を生かせたニュアンスを重視しているためで、双方がブレンドすることで最大の演奏効果を得られるように計算されています。とはいえ、実際に8分音符が3つ並んでいるときに、木管はスラー、金管はスラー無しという場合、どうやってまとめればよいのでしょうか?
私なら最初の8分音符のタイミングと、3つめの音の切りを揃えることを考えるでしょう。まずはスラーがない金管のニュアンスを統一した後、木管の入りのタイミングと3つめの音の切りを金管に合わせます。そうすることで金管はリズミカルで活き活きとした表情で演奏し、木管はそれを響きで包み込むという役割が可能です。

[ G ] からのフレーズは、先に進むにつれてフレージングが長くなるようにスラーが付けられています。言葉で表現するなら、「朝がきた、さわやかな朝がきた、何だか素敵なことが起こりそうな朝がきた。」というような展開でしょうか。大事なことはスラーの切れ目は読点「、」であり、句点「。」ではないということです。そこで文章(フレーズ)が終わってしまってはいけません。楽譜の句読点を意識したフレージングは、こうしたメロディックな曲を演奏する際にとても大切です。

この曲は一瞬ですがフルート・ソロがあります。最高の音色で演奏して下さい。そして、くれぐれもディミヌエンドは早すぎないように!

Ⅴ焔
この曲を選ぶ団体は、当然ながらフルートとピッコロに自信があるところだと思います。冒頭から高音域でのフルート&ピッコロのユニゾンがありますが、高いB(♭)やHの音程がジャスト442Hzになることを意識したチューニングにはこだわらないで下さい。ff でこの音域を吹けば、多少ハイピッチにはるのは当たり前です。もし、ff で吹き込んでも442Hzに収まるようなチューニングをすると、かなり頭部管を抜くことになると思います。そうなると、この部分はよくても他で弊害が出てきます。中音域での弱奏部で音程がぶらさがったり、音色も暗くなってしまいます。中高生の指導に行くと、「音程が高くて・・・」と頭部管を抜きすぎている生徒をよくみかけます、

第3オクターブの音程をジャスト442Hzに収めるためにここまで抜かなければならない状況は理解できますが、これでは楽器本来の音色や正確な音程での演奏が不可能です。ここまで抜かないと他と音程が合わないというときは、奏法に問題があります。せめて下記の写真の範囲内を目安にして下さい。

この状態なら、普通に中低音を吹くだけなら、問題なく442Hzに合わせられるはずです。むしろ低音域では低くなる場合もあります。フルートの特性上、高音域をスピードのある息で吹けばどうしても音程は上がりますが、しっかり深く息を吹き込めばある程度安定させることが可能です。

まずは、中音域を普通に気持ちよく吹ける範囲でのチューニングをお願いします。私が吹奏楽のフルートパートを指導するときは、中音域のG・D・A・F♯・Gの音列を使ってチューニングすることを推奨しています。
最初のGはフルートでは音色&音程共に安定しているので、まずはこのGの音でしっかりチューニングします。続くDは管体を長く使うので、息のスピードが遅いと低くなりがちです。また、楽器が冷えているときも音程が下がりがちです。しっかり息を入れて響せ、明るい音色をキープすることが大切です。

次のAの音は、プロの世界ではチューニングの基本となる音です。DからAに移行すると、ともすると音程の幅が狭くAが低くなります。Dを基音とした長三和音(D・F♯・A)をイメージして、明るい5度の響きでAを吹きましょう。

最後のF♯は長三和音(D・F♯・A)で考えると低くとる必要がありますが、まずはジャスト真ん中の442Hzを狙いましょう。そして、最初のGに戻ります。このG・D・A・F♯・Gの音がパート内でしっかり合うということは、音程の合ったサウンド作りに欠かせません。さらにはこの音列を他の調に移調して練習することも有益です。実はこのチューニング、私も仕事の現場で実践しております!

課題曲Ⅴでは、フレージングの中で7度や8度(オクターブ)で跳躍するパターンが頻繁に登場します。冒頭のフルート&ピッコロのSoli もそうですが、どうしても跳躍する際に力が入ってしまいます。練習方法としては、上に跳躍する部分をオクターブ下げて演奏してみましょう。すると、実はシンプルな半音階進行であったりすることがわかります。こうすると、息は自然と最後までスムーズに入っていきます。この息づかいをイメージしたまま、譜面通りに演奏してみましょう。音の跳躍部分で多少緊張感は生じるものの、以前より自然でスムーズに音の跳躍が可能になります。この練習方法を適用できる箇所は幾つかあるので、「あっ、ここも使える。やってみよう!」と試してみるとよいでしょう。

以上、簡単ではありますが“落ちこぼれ”フルーティストから見た「2016年課題曲の演奏ポイント」でした。それでは、この夏も日本全国で熱い演奏が繰り広げられることを楽しみにしております!

■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第1回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

はじめまして

みなさま、はじめまして。いきなりの“落ちこぼれ笛吹き”の登場で「こんな人にセミナーを任せて大丈夫?」と思われた方もいらっしゃると思います。私たち音楽家は“音を出してなんぼ(幾ら)”の世界に生きております。もちろん、○○楽団首席奏者とか○○大学教授という肩書きを持つすごい方も沢山いらっしゃいますが、そんな方々も楽器を演奏する瞬間を自らの人生の中心に置いています。

私たち業界では「楽器を持たないとただの人」なんて言葉をよく口にします。確かに、中学生や高校生たちの前にいきなり出て行って、この人が先生ですよと言われても、「この坊主頭のおじさんって誰?」と思われてしまうのがおちです。

そこで、私は初めて出会う生徒さんの前では必ず何か1曲、短い曲を演奏するようにしております。まずは音を聴いてもらい、今日これからこの先生に習ってみたいかどうかを、生徒さんに考えてもらうのです。とはいえ、「この先生に習いたくない!」と思ったとしても生徒さんが教室を出ていくことは現実的には難しいですが・・・。

ただここはONLINEセミナーですので、この人の話しには興味がないと思ったら、即座に退室することも読み飛ばすことも自由です。自分の必要に応じて情報を取捨選択できるのはネットの魅力ですね。当セミナーが皆さまのアンテナにビビっと反応するかどうか少々不安ではありますが、そこのところはシビアに判断して頂き、気に入ったチャンネルがあればチューナーを合わせて頂ければ幸いです。

音楽との出会い
~プロを目指すまでの道のり

さて、私と音楽の出会いですが、父が音楽好きだったので家にはクラシックのレコードが多数ありました。ですので、小学生になる頃には自分で好きなレコードを繰り返し聴くことが当たり前になっていました。小学1年のとき、妹のピアノの先生がリコーダーを教えてくれるとのことで、一緒にレッスンに通い始めます。実はこの先生の専門がフルートでしたので、発表会でフルートを目の当たりにするようになり、自分も大きくなったらフルートを吹いてみたいと思うようになりました。

その願いが叶うのは小学4年のときでした。身体も成長し、ようやくフルートに指が届くようになります。待ちに待った憧れのフルートですが、当然ながら最初から良い音なんて出るはずもなく、吹けども吹けどもスカスカの音しか出ず、全然気持ちよくありません。そんな毎日でしたが、ある日良い音の“コツ”を掴んだ瞬間を今でもよく覚えています。この時の体験については機会があればご紹介したいと思いますが、その後、中学では当然のごとく吹奏楽部に入部しました。香川県にある高松市立屋島中学校という中学ですが、当時は県大会で銀賞というごく一般的なバンドでした。ところが一昨年(2014)は全国大会に進むという快挙も達成してくれ、卒業生としては嬉しい限りです。

少しお話しが逸れましたが、この屋島中学校で吹奏楽部の顧問をされていた薄田信人先生との出会いは、私の音楽人生にとって決定的なものでした。薄田先生はホルン奏者でもいらしたので、コンクールの選曲も歌劇「盗むかささぎ」序曲(ロッシーニ)や歌劇「魔笛」序曲(モーツァルト)等、クラシックの名曲を選ばれていました。部活中でも数々の名曲のレコードを聴かせて下さり、いつしか私は音楽の虜になっていました。思い返せば、この時に私のその後の音楽人生が決まったようなものです。先生は、当時私が使っていたエントリーグレードのフルートを見て、「君はいつまでそのブリキのフルート吹いているんだ? 早く銀の楽器を買ってもらいないさい!」と口癖のようにおっしゃっていました。私の家庭はごく一般的な世帯でしたから、何十万もする銀の楽器は高嶺の花でしたが、毎日のように先生に言われているうちに、遂には両親が総銀製のフルートを買ってくれました。ムラマツのスタンダードという楽器で、当時は20万円弱でした。驚いたことに、その1ヶ月後に銀相場の高騰で、一気に50万円以上に価格改訂されました。本当にタイミングがよかったです。

当然ながら、この総銀製のフルートが私を大きく成長させてくれたことは紛れもない事実です。誤解のないように申し上げますが、どうせ買うなら良いものを・・・ということで、初心者に最初から高価な楽器を与えることはお勧めできません。何故なら、それは野球で小さい子供に重いバットを持たせるようなもので、とても扱えるようなものではありません。昔指導した高校生3人組のうち一人だけ、管体銀製の少し高価な楽器を持っていて、「みんなのように上手く音が出せないんです。」と悩んでいたことがあります。初心者だった彼女は、良い材質を使っているが故に抵抗の重い楽器に苦労していたのです。私は彼女に、高価な楽器ほど響かせるのに努力が必要なことを伝え、彼女は決して自分だけが下手だったわけではないことを理解し、その後とっても上手になりました。大学を出て就職し、結婚した今でもフルートを吹き続けています。このように、技量に見合った楽器を選ぶことはとても大切です。薄田先生は中学1年だった私の技量をみて、早く良い楽器を吹かせたほうがよいということを知っていたのだと思います。そして先生が出演する市民オーケストラの演奏を聴いているうちに、いつしか自分もプロのオーケストラで演奏してみたいと思うようになりました。残念ながら先生は私が中学3年になるときに他校へ転任されましたが、今の私があるのは薄田先生のおかげと感謝しております。

音色こそ命

私が進学した高松市立高松第一高等学校(以下高松一高)は、公立高ながら音楽科がある高校でした。顧問の石川孝司先生率いる吹奏楽部は全国大会常連で、音楽と吹奏楽が好きな生徒にはとても魅力的な高校です。諸々の訳あって(こちらも機会をみて書きたいと思います)、私は1年間の休学の後に復学するのですが、このときの部長さんはNHK交響楽団でトロンボーンを吹いていらっしゃる吉川武典さん、そして副部長さんは東京佼成ウインドオーケストラでクラリネットを吹いていらっしゃる大浦綾子さんという、今思うとスーパーな顔ぶれでした。他にも、音楽業界で活躍されている演奏家には高松一高の卒業生が多いことをご存じの方もいらっしゃると思います。

高松一高音楽科では月に1回、東京や大阪で活躍されている先生を中央講師として招いてレッスンを受けることができました。フルートは当時東京都交響楽団で首席奏者をされていた野口博司先生がいらしてくれました。野口先生の最初のレッスンで、フルート吹きとして最も大切なことを学ぶことになります。

東京で活躍するオーケストラの先生が教えてくれるということで、「どんな良い音なんだろう?」と期待に胸を膨らませてレッスンに向かいます。まず吹かされたのは、フルートで音大を目指す人なら毎日必ず行う基礎練習、マイセル・モイーズの『ソノリテについて』の最初の部分です。この教則本は中音域のHの音から始まりますが、その後の1時間に渡るレッスン時間の大半を、Hの音だけを吹くことに費やされてしまいました。これまで周りからは「綺麗な音だね」と言われることも多く、音色にはちょっと自信があったのですが、野口先生は「君の音は綺麗だけど、そんな音ではオーケストラでは通用しないよ!」とバッサリ切り捨てました。要するに、どんな綺麗な音でも遠くまで届かなければ意味がないということです。オーケストラをやるにも吹奏楽をやるにも、コンサートホールは1,500人とか2,000人という大きな会場が当たり前です。そこで、客席の一番後ろに座っている人に音が届かなければ駄目だと、先生はおっしゃったのです。

私が吹奏楽の指導に行くと、「フルートが聴こえないのです。もっと大きな音が出るようにして下さい。」と毎度のように指導者の先生に言われます。全国大会常連校でさえも、「音を大きくして下さい。」と言われるのが常です。しかしながら、どう頑張ったって吹奏楽の中でトランペットやトロンボーン、さらには打楽器よりも大きな音がフルートに出せるはずなんてありません。そんなことは物理的に無理ですし、無意味なことです。けれども、オーケストラや吹奏楽のサウンドの中から、フルートが突き抜けて響いてくるのを経験された方は多いと思います。それは何故でしょうか?

答えは“音量”ではなく“音色”にあります。それでは、どんな音色が遠くまで通るのでしょう。具体的には“倍音を多く含んだ音”が豊かな響きで遠くまで飛んで行きます。倍音とは、基準になる音の周波数の整数倍の波長の音列のことです。具体的には、Cの音を基準とすると2倍音がオクターブ上のC、3倍音がその5度上のG、4倍音が基準の2オクターブ上のC・・・という具合です。金管楽器が同じ運指で複数の音が出せるということは、同じ倍音列だからです。フルートでもオクターブが同じ運指なのは、同様の理屈です。どんな楽器の音色も、必ずその音の中に倍音を含んでいます。そしてその倍音の構成によって音色が異なります。オーボエが低音域でもよく音が通るのは倍音が多い音色だからで、フルートが聴こえにくいというのは倍音が少ない音色だからです。以上から、フルートを聴かせたければ倍音を増やせばよいのです。

倍音という舞台メイクでステージに立て!

具体的に野口先生から習った練習方法は下記の通りです。

(1)まず、低音域のHの音をスピードのある息で吹く。徐々に倍音の成分が増えてくる。

(2)そのままスピードを上げるとオクターブ上にひっくり返るので、その手前の厚みのある音色を維持する。

(3)低音のHで、倍音の豊かな音色が作れるようになったら、その音色のままオクターブ上のHの音にレガートで移行する。

(4)中音域のHの音でも同様に倍音の豊かな音が作れたら、『ソノリテについて』の方法に従って半音ずつ移行しながらロングトーンを続ける。

実際のところ、私の場合は(1)~(3)の課程で30分以上は要しました。何故なら、その“倍音を多く含んだ音”になかなか馴染めなかったのです。“純粋で透き通った音”を目指していた私にとって、“倍音を多く吹くんだ音”は口の周りでブーンという雑音が常に鳴っていて気持ち悪く感じました。実はここに“綺麗な音”と“遠くまで響く音”とのギャップが存在します。こういうことを書くと失礼かもしれませんが、狭いレッスン室で聴いた野口先生の音色は想像していたものとは違い、少しガサガサしたような雑味を感じてしまいました。今思えば、このガサガサしたような成分が豊かな倍音で、数年後に東京文化会館でホールを包み込むような先生の音色を聴いたとき、「先生はこのことをおっしゃっていたんだ!」と実感しました。

私が中高生に音色についてレッスンするとき、倍音はメイクのようなものだよと教えます。私は経験がありませんが、おそらく初めて化粧をするときは肌に違和感を感じるものだと思います。けれど、それによって女性がさらに美しくなれるのは事実ですし、倍音も同じような役割を果たしてくれます。さらにここで必要なのは自然なメイクではなくて、舞台で演じる役者さんが使うようなメイクです。

私は今月、東京宝塚劇場のオーケストラピットでも演奏しておりますが、宝塚ジェンヌさんのメイクって少女マンガの主人公が現実になったように凝っています。近くで見ると素顔がわからないくらいですが、ステージから離れた客席からは夢の世界の登場人物に見えます。フルートにも、この宝塚メイクのような倍音が必要です。とてもそのまま街中を歩けるような化粧ではありませんが、ステージ上で魅せるためには必要なものです。中高生に厚化粧をしなさいと言うのは少し罪悪感も感じますが、こういう例えをすると、みんなよく理解してくれます。

実際のレッスンでは、純音に近い素朴で綺麗な音と大ホールでも通用する倍音豊かな音を、生徒から近い場所と少し離れた場所で吹き比べます。客観的に倍音による舞台メイクを聴いてもらうことで、どんな化粧が自分に必要かを知ってもらうことができます。「私はすっぴんが自然で好き。」と思っていた生徒も、「お化粧って楽しいかも?」と思ってくれるようになります。この倍音メイク、すっぴんから自然な薄化粧、そして舞台メイクと自在に使いこなせるようになると、音色に幅が出てきます。音色の価値観の変革こそ、ホールで通用する音色作りには欠かせません。

フルートの音色で個性ある吹奏楽の響きへ

実はこの倍音メイク、良いことばかりではありません。倍音が豊かになってくるとその分個々の音色の個性が目立ってくるので、音色がブレンドしにくくなります。ましてや、フルートは決して音程が安定しているとはいえません。指揮をされている先生からは、目の前のフルート・パートの音が雑に聴こえてしまうかもしれません。そんなときは少し広い場所や、離れた距離から聴いてあげて下さい。きっと、今までとは違った響きが聴こえてくると思います。あとは、音程やニュアンスの統一を心がければよいでしょう。

フルートに限らず、楽器の音色というものは演奏者自身にどう聴こえているかということと同じくらい、客席でどう聴こえているのか?ということが大切です。耳に延長コードが付けられたらどんなによいかと思いますが現実的には無理なので、せめて気持ちだけでもホールの客席を想定した練習が必要です。私が野口先生から受けた最初の1時間のレッスンに、これらのことが凝縮されていると思います。そしてこの1時間のおかげで、今なおプロとしてフルートを吹き続けていられる自分がいるのだと思います。

吹奏楽においてフルートはソロ楽器と思われがちですが、フルートの音色が豊かなバンドは他と比べて、より多くの色彩のパレットを持っています。予算的に制約があるプロバンドでは、ほとんどの場合3人(フルート2人&ピッコロ1人)のフルート奏者しかおくことができませんが、アマチュアバンドではその倍近い人材をおくことも可能です。ある意味、プロバンドには出せないサウンドを作ることも可能なのです。実際、フルートの豊かな音色のおかげで個性的なサウンドを持つバンドも多いですね。私が所属しているタッド・ウインドシンフォニーでは、音楽監督の鈴木孝佳先生のセオリーで最低5人のフルート奏者を揃えるようにしています。そうすることで、とかく高音域で固い音色になりやすいクラリネット群をフルートの柔らかい音色で包み込むことも可能ですし、中低音のサウンドにも幅が出ます。コンクールの審査をしていても、フルートの音色が光っているバンドは、他とは異なる新鮮なサウンドを聴かせてくれることが多いです。指導者のみなさんにはフルートの音量ではなく、とことん音色にこだわったご指導を頂けると嬉しく思います。

以上、いろいろと脱線しながらとなってしまいましたが、こんな調子で今後もセミナーを続けていきたいと思います。機会があれば、シエナ・ウインドオーケストラ誕生秘話や、高校時代の全国大会の思い出等、いろいろとご紹介したいと思います。今後ともよろしくお願いいたします。


★おすすめの楽譜&CD

【楽譜】

■マイセル・モイーズ著 ソノリテについて(出版:LEDUC)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/bk-4199
フルーティストにとってバイブルともいえる教則本。音大を目指すなら絶対必須。

■トレバー・ワイ  フルート教本1~音づくり~(出版:音楽之友社)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/bk-4200
「ソノリテについて」は少し高価ですが、こちらはもう少しリーズナブルに手に入ります。音色について勉強するには、こちらでも必要十分な内容です。

【CD】

■バッハ:フルート・ソナタ全集((全5曲)フルート:オーレル・ニコレ
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-4006
私の最も尊敬するフルーティスト、オーレル・ニコレの音色と、その深い音楽は格別です。特にバッハやモーツァルトの演奏は圧巻。最近、廃盤になってしまったアルバムが多く残念ですが、フルートの神髄を聴かせてくれる巨匠の音色は必聴です!

■ザ・ステップ フルートコンサート III
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-2297/
手前味噌で恐縮ですが、私の所属する10人のフルーティストによるアンサンブルの3枚目のアルバムです。師匠の野口博司先生による「ダフニスとクロエ」のパントマイムのソロ、またピッコロ四重奏(モーツァルト)でのピッコロの妙技は是非お聴き頂きたいです。

Q:最近、私はピッコロになりました。うれしくて、うれしくてホント・・・。でも、最近先輩が引退してしまって、ピッコロは私1人なんです。前の先輩はすごく上手だったので、先輩に少しでも近づきたいのですが、イマひとつうまくなれません。基礎練習の仕方など、教えて下さい!

A:先輩に近づきたいという気持ち、とても大切です。目標の音が決まっているということですので、
その音を常にイメージして練習して下さい。

・フルートより柔軟な唇と小さなアパーチャーを作ることが大切です。
・トーンホールの中心とキイラインが一致するよう、楽器の組み立て方を再度チェックしてみて下さい。
・上唇がトーンホールに覆いかぶさらないようにしてみて下さい。
・息をきちんと支え、「少しずつ」連続して息をコントロールして、小さくまとめた唇(アンブシュア)から楽器に送り込んで下さい(一息にたくさん「ドバー」と入れないこと)。

ピッコロの練習だけでなく、フルートの基礎練習も常におこなって下さい。
フルートをpでしっかり吹く練習はメニューに入れて下さい。
あと「ソノリテ」の練習は絶対です。

回答:五十嵐 清

Q:ピッコロ担当になったんですが、音も不安定で高い音がほとんど出ません。

Q:ピッコロ担当になったんですが、音も不安定で高い音がほとんど出ません。でも、どのように練習すればいいかわかりません。ピッコロの練習法が何かあれば教えてください。あと、よい音を出すために注意することがあれば教えてほしいです。お願いします。(A・S/高校生)


A:ピッコロの練習ポイントは以下のとおりです。

・フルートより柔軟な唇と小さなアパーチャーを作ることが大切です。
・トーンホールの中心とキイラインが一致するよう、楽器の組み立て方を再度チェック
してみて下さい。
・上唇がトーンホールに覆いかぶさらないようにしてみて下さい。
・息をきちんと支え、「少しずつ」連続して息をコントロールして、小さくまとめた唇(アンブシュア)から楽器に送り込んで下さい。

Q: ピッコロは、本校ではフルートが持ち替えていますが、本当は1年生からピッコロ担当を決めて、練習させた方がいいのでしょうか?

A: きちんとアンブシュアができてから担当させましょう

ピッコロはフルートがかなり上手でないとできません。
口や音程などなど高度なテクニックが必要です。
ピッコロ専門(ピッコロとフルートとの持ち替え)は理想ですが、そうするとフルートの1stがいなくなってしまうのが、実情ではないでしょうか。
きちんと口(アンブシュア)ができてからピッコロを担当させて下さい。