「樋口幸弘」タグアーカイブ

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第73話 フィリップとロジャーの再会

▲「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」のチラシ

▲「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」のプログラム

▲オオサカ・シオンにて(2019年1月17日)

▲オオサカ・シオンにて(2019年1月17日)

2019年1月14日(月・祝)、大阪の空の玄関口、関西国際空港(KIX)にイギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)が降り立った。

週末の1月19日(土)、ザ・シンフォニーホールで開催される「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」の客演指揮をつとめるためだ。

フィリップが大阪音楽大学吹奏楽団のステージに立つのは、2年前の2017年3月4日(土)、フェスティバルホールで開催された「第48回吹奏楽演奏会」(第7話:スパーク“ウェイ・トゥー・ヘヴン”とロイヤル・エア・フォース」、参照)以来、これが2回目。来阪は、6ヶ月前の2018年6月3日(日)、ザ・シンフォニーホールで開かれた「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第120回定期演奏会」(第45話:祝・交友30周年 ~スパークとイーグル・アイ、参照)を客演指揮して以来のことだった。

これで、大阪では過去4年間に5度登場!すごい頻度だ!

今回、フィリップと大阪音大が取り組んだプログラムは、2011年6月17日(金)、めぐろパーシモンホール(東京)で行われたTADウインド・シンフォニーによる日本初演(指揮:鈴木孝佳)以降、東京吹奏楽団、オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラが定期演奏会で取り上げ、ジワリジワリと存在感を高めている交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」をフィナーレに据えたものだった。

・マドリガルム
Madrigalum

・エンジェルズ・ゲートの日の出
Sunrise at Angel’s Gate

・スピリット・オブ・アンダルシア
Spirit of Andalusia

・3つのワシントンの彫像
Three Washington Statues

・天と地をめぐりて~ガブリエル・フォーレに基づく創作主題による協奏変奏曲
Moving Heaven and Earth ~Concertante Variations on an Original Theme (after Gabriel Faure

・インヴィクタス~征服されざるもの
Invictus ~The Unconquered

・交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」
Symphony No.2 – A Savannah Symphony

この発表時、ひょっとすると、「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」や「宇宙の音楽(Music of the Spheres)」、「祝典のための音楽(Music for a Festival)」、「オリエント急行(Orient Express)」、「ウィークエンド・イン・ニューヨーク(A Weekend in New York)」といった、日本でもすっかりおなじみとなっているスーパー・ヒットを一切含まないこのプログラミングに、一瞬“あれ?”と思ったファンもいたかも知れない。

しかし、フィリップにとって、今回は、初顔合わせで好感触を得た大阪音大のバンドとの2度目の共演。そのプロには、“今度はぜひ、今のフィリップ・スパークを表現したい”という強いメッセージが込められていた。

言い換えれば、多作家として知られるフィリップが近年の自作品からとくに厳選したレパートリーで構成した“お気に入り”のプログラムだった。同時に、作曲者とプログラムの摺り合わせを行ない、来日前の下棒をつけた同大特任准教授、伊勢敏之さんのポジティブなジャッジメントの成果でもあった。

大阪は、1993年11月8日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開催されたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の「ライムライト・コンサート6」(第4話:スパーク・コンダクツ・スパーク、参照)以来、日本でもっとも数多く“フィリップの客演指揮による自作自演”が行われてきた町だ。

「オリエント急行」や「宇宙の音楽」ウィンドオーケストラ版など、大阪で日本初演や世界初演が行われた新作の多くがこの町から日本国内へと発信されていった。

今回のフィリップ招聘を企画した同大教授の木村寛仁さん(ユーフォニアム)や前記の伊勢さん(トロンボーン)も、かつて、この町でものすごい人気を誇った“ブリーズ”のスター・プレイヤーであり、日本でもっとも数多くフィリップの作品を手がけてきた音楽家だった。また、現在のオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラにも、フィリップと共演を重ねたプレイヤーは多い。

それだけに、友人の多い大阪に滞在し、指揮をするときのフィリップは、いつも、まるでホームであるような感覚で音楽を愉しんでいる。大阪人の気さくで開放的な性格や、市民生活に“お笑い文化”が溶け込んだ明るい町の雰囲気もお気に入りで、当然イングリッシュ・ジョークも連発する。

一方で、大阪の音楽ファンも、彼の新作をこぞって受け入れてきた。

当然、今回のプログラミングも、“あたらしもんずき”(東京弁に翻訳:新しいもの好き)の大阪という土地柄を強く意識してのものとなっていた。

終演後のパーティーで同大副理事長の本田耕一さんに伺うと、席が足らなくなって200名近い聴衆の入場をお断りしなければならない事態となった第48回演奏会と同様、第50回演奏会のチケットの売れ行きもたいへん好調で、実売1500席を超えた時点で慌てて発券をストップしなければならないほどの勢いだったそうだ。

フィリップの作品や指揮にはじめて接した学長の本山秀毅さんも、『自然体というか、(音楽もしぐさも)とてもナチュラルな印象を受けました。』と言われた。それに応えて『彼とは30年を超えるつきあいですが、近年は間違いなくマーラーをリスペクトしています。』とお話しすると、さかんに頷かれていた。

<アンコール>には、「陽はまた昇る(The Sun Will Rise Again)」と「マーチッシモ(Marchissimo)」の2曲が演奏され、コンサートは大成功に終わった。この内、「陽はまた昇る」は、2018年6月18日(月)に大阪を見舞った大阪北部を震源とするM6.1の大きな地震からの復興を祈念して、大学側からとくに要望された曲だった。震源に近いところは、今もってブルーシートが多い。

その日、東海道新幹線に乗っていた筆者もひどい目に遭った。

フィリップのメンタルの上でも、今回の来阪は、いつもとは状況が違っていた。

前記地震の3ヵ月後の9月4日(火)、大阪は、未曾有の暴風のため、関空連絡橋に衝突したタンカーが橋を破壊する騒ぎとなった猛烈な台風21号の直撃を受けた。

そのニュースは、海外でも大きく報じられたようで、筆者のもとにも多くの友人、知人から安否確認のメールがつぎつぎと届き、フィリップからも、“キミ自身やオオサカ・シオンなどの友人たちに何事もなければいいんだけど…”と、メールが届いた。こちらも速攻で無事を知らせたが、街路樹がつぎつぎなぎ倒されて道が完全に塞がれている様子や、建物が吹き飛ぶ被害動画をいくつか添付したころ、“とにかく、無事でよかった!しかし、なんてことだ!!あの美しい大阪の町がこんなことになっているなんて…”と絶句。

今回の来阪は、その被災直後だった。それだけにコンサートにかける彼のモチベーションは、いつも以上に高まっていた。

一方、大阪音大の方も、例年3月に行われる吹奏楽演奏会を、フィリップのスケジュールに合わせて1月に変更した。第50回という“区切り”の演奏会を、どうしても彼とやりたいとする熱意の表明でもあった。

しかし、この変更は、筆者のスケジュール調整やその後の体調に少なからず影響を及ぼした。

普通に授業や試験がある時期だけに、コンサートに向けての合奏練習が、毎日同じ時刻に始まらず、夕刻スタートで午後9時まで組まれていたからだ。学内の調整もたいへんだったことは、容易に想像できる。

木村さんからは、事前に、初日(1/15)の練習や演奏会当日(1/19)のゲネの立会い、夕食のケアなどを委ねられていた。しかし、良質の牛肉を好むイギリス人のフィリップに合わせた適当な食事場所を午後9時半をまわった時間帯に見つけるのは意外と大変だった。チープな呑み屋なら、宿泊するホテル周辺にいろいろあるのだが、食事だけはできるだけ彼の好みに合わせてあげたかった。

そして、この時、同時にもう1つ、練習初日の1月15日にフィリップと筆者の共通の友であるコルネット奏者ロジャー・ウェブスター(Roger Webster)のソロ・リサイタルが大阪で行われることにも頭を悩ませていた。

ロジャーは、1990年にブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)が2度目の来日を果たした当時のプリンシパル・コルネット奏者で、長年にわたり、ロイヤル・ノーザン・カレッジ・オブ・ミュージックなどでも教鞭もとる名手。どんな難曲でもサラリと音楽的に演奏し、“ミスター・クール”との異名をもつ世界最高峰のコルネット奏者の1人だ。彼とは、国内外でコンサートを行い、レコーディング・セッションも行った。

そんな間柄から、本来、ロジャーが希望するなら、友人として来日をできるだけサポートしなければならないと思っていた。ロジャーもまた、来日をオーガナイズする東京のビュッフェクランポンに強くそれを申し入れていた。しかし、企業には企業側の論理があったのだろう。経営陣が日本人からフランス人に代わった同社からは、結局、何の連絡もなかった。そんな状況下では、当方は表立ってまったく動けない。日程上、ゲスト招聘が可能なアーティストに、彼の来日を知らせただけだった。頻繁にメールを寄こしたロジャーも、“キミに一度もコンタクトしないなんて、彼らはプロじゃない!”と怒りをぶつけていたが…。

ピンポイントで1月15日について言うなら、最大の問題は、ロジャーの大阪でのコンサートと木村さんに約束した大阪音大の練習時間が、完全に被っていることだった。

しかし、“今回は恐らく会えないかも知れないな”とちょっと弱気になっていたそのときだった。突然、「練習を終えたフィリップとともに、ロジャーの打ち上げを奇襲する」という閃きが頭をかすめた。

(これは、いけるかも知れない!)

そこで、大阪音大でフィリップと顔を合わせたとき、“今晩、サプライジングなアイデアがあるんだが…。”と切り出すと、フィリップも、まるでMr.ビーンのように目をキラキラさせながら、“サプライジングは大好きだ!そうか、ロジャーが大阪にいるのか!やろう、やろう!”とやる気十分!!

(一方で、筆者は、三木楽器開成館で行われているロジャーのコンサートに“忍び”を放ち、打ち上げがどこで行われるのか、粗方情報をつかんでいた。あとは、実行あるのみだ!!)

そして、この会話を隣で聞いていた木村さんも、話に割って入ってきて、“樋口さん、もうすぐホテルに戻るためにタクシーが来ます。その車で直接そこへ向かってもらっていいか、ちょっと訊いてきます。たぶんOKだと思いますが…。”と言いながら、コンサートセンターの責任者に了解を取りにいってくださる。このあたり、長年の付き合いがものをいう。“あうんの呼吸”とでも言えばいいのか!

結果、我々2人は、本田さん、木村さん、伊勢さん、そして吹奏楽団の多くの学生さんたちの盛大な見送りを受けながら、ハイヤーで大阪音大を意気揚々と出発!

見事、ロジャーの“奇襲”に成功した!!

日本語には“鳩が豆鉄砲を喰らったような”という表現があるが、ロジャーのいる場所を遠めから視認し、周囲に気づかれないようにその斜め後方から近づいて“ジャジャーン”と声をあげながら現れたときの彼の驚いた顔といったらまさしくそんな感じだった!近くにいる日本人関係者も、その場にフィリップまで現れたことに、口々に“エッ!なんで?(東京弁に翻訳:どうして?)”と驚いた様子だった。

(やったぞ、奇襲は大成功だ!)

ロジャーとフィリップも、本当に久しぶりの再会であり、座は一気に盛り上がる!

ホテルに戻ったとき、真顔のフィリップから、“今日は、ロジャーとの時間を設けてくれて本当にありがとう。”とあらためて感謝された。

(どういたしまして!)

そこで、カバンから、前年6月の来阪時に約束した第2次大戦中の英空軍(RAF)の「デ・ハビランド – モスキート(de Havilland – Mosquito)」のモデルを取り出してプレゼント!!

“オーッ!シックス・スリー・スリー(映画「633爆撃隊」)の名機か!ありがとう!”と、まるで子供のように大はしゃぎ!!

(これで、彼のベッドサイドの私設“英空軍博物館”の所有機も、計4機に発展した!)

その後、大阪音大の練習開始時刻がかなり遅く設定されていた1月17日に、いろいろな事情から民営化後3度目の引っ越しを余儀なくされたオオサカ・シオンの練習場をいきなり訪れることでも話がまとまった!!

そのシオンでは、楽団長の石井徹哉さんや広報担当の案内で合奏場、指揮者室、ライブラリーなどを見学。第120回定期で客演指揮をした「ドラゴンの年(2017)(The Year of the Dragon – 2017)」のスコアにサインを入れたり、ライブラリーのロッカーに張られた“千客万来”の招き猫を見つけて一緒に写真に収まるなど、やはりというか、大盛り上がりの展開に!!

まるで漫才のようにナマで飛び出した「もうかりまっか」(筆者)→「ぼちぼちでんなー」(フィリップ)の掛け合いも、シオンのメンバーに大ウケだった!

フィリップにとって、大阪は、間違いなく日本のホーム!!

2019年1月、その絆は、さらに深くなった!!

▲「ロジャー・ウェブスター、コルネット・リサイタル」のチラシ

▲ 初来日時のロジャー(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲初来日時のロジャー(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲ ロジャーとフィリップ(2019年1月15日、大阪某所)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第72話 史上最低のコンサート鑑賞記

▲ブラック・ダイク・バンド 松山(愛媛)公演チラシ(2016年11月4日)

▲同、チラシ裏の説明

▲コラボ企画チラシ

2016年11月4日(金)、筆者は、JR「新大阪」駅から、山陽新幹線「のぞみ23号」~予讃本線「しおかぜ13号」と特急列車を乗り継いで、JR「松山」駅に降り立った。

久しぶりに仕事とは無関係で、26年ぶりに来日がなったブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)のコンサートを個人的に愉しむためである。

旧友の音楽監督ニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs、第14話「チャイルズ・ブラザーズの衝撃」参照)や、大阪でのソロ・リサイタルの後、大盛り上がりしたプリンシパル・コルネット奏者リチャード・マーシャル(Richard Marshall)らと旧交を温めるのも目的だった。

特急「しおかぜ」の終点“松山”駅は、四国最大の都市、松山の表玄関だ。しかし、21世紀のこの時代に自動改札ではなく、列車の到着と同時に何人かの駅員が改札口に出て乗客の切符を検札するスタイルのままであることに、まず大感動する!

まるでタイムスリップしたような、昭和の国鉄そのものだ!!

“イヤー、なつかしい!”と結構ウキウキした気分で、何日か前に主催者のテレビ愛媛の事業部に電話予約したチケットを引き換えるため、市内電車の電車道を歩いて会場の松山市民会館に向かう。

スマホ世代には、“なになに? 今どき電話予約だって?”と呆れられてしまいそうだ。

しかし、日本の多目的ホールでブラスバンドをいいサウンドで聴くには、席のポジショニングがとても重要な要素になるので、実は、この前近代的予約方法がとてもありがたかった。

事前に席割りを確認すると、チケットは2種類(S席:6,500円、A席:4,500円)。その内、大部分がS席の設定で、数少ないA席はいいサウンドがまるで期待できない場所に設定されていた。“電話予約”では、S席の中から好みの席を選んで指定できたわけだ。

ホールに向かう途中、とても面白かったのは、すれ違う人の多くが“大阪弁”をしゃべっていたことだ。筆者も暮らす大阪は、公演地から外されていたから当然か。少なからず“東京弁”を話す人もいる。こちらは、東京公演を愉しんだ後のリピーターだろう。結構、遠くからファンが来ているのを知って、ちょっと愉快な気分になった。

しかし、この日は、ここからどんどん残念な方向に話が展開する。

窓口でのチケット交換は、名前の確認だけで、比較的スムーズだった。そして、“ハイ、承っております”という愛想のいい言葉に促されて代金を支払い、テレビ局の封筒入りのチケットを受け取った。

時計を見ると、開場まではまだかなり時間があるので、市内を散策することにした。

再び電車道に戻り、「松山」駅の方向に歩いていくと、進行方向正面のホテル1階ロビーに、見慣れた外国人が難しい顔をしながら2人の日本人と何やら話し込んでいる姿が目に飛び込んできた。

音楽監督のニック(ニコラス・チャイルズの親称)だ!

打ち合わせ中なら拙いが、どうもそんな雰囲気ではない。とても暗い。

それならとホテルに入り、難しい顔をしているイギリス人に声をかけた。

“ニック、久しぶり!!”

彼もすぐ気がついたようで、急に顔が明るくなった。

互いに“何年ぶりだろうか、元気にしていたか?”と会話が弾む。

しかし、“なぜ大阪がなかったのか? 大阪ではブリ―ズ・ブラス・バンドのスタート以来、ブラスバンドをよく理解しているファンがとても多いのに…。”と少し抗議を込めながら問うと、彼は少し真剣な顔になって、“そうなんだ。残念ながら、大阪は外されたんだ。そのことも含めて、今、招聘元(ジャパン・アーツ)に詳細なリポートを書いているところだ。来年(2017年)も来ることが決まったので、そのときは必ず行くから…。”と一気に話してくれる。

どうやら、大阪が完全に無視されたのは、彼の責任ではないことは分かった。

(大阪は、その後、2017年ツアーでも公演地から外されている。)

ニックの傍らにいる洗足学園音楽大学の滝澤尚哉さんは、彼が難しい顔をしていたのは、ホテルで用意された食事の内容にまったく融通が利かないことに対して激怒していたからだと説明してくれる。

昔から、ニックは、食べ物についてはひじょうに煩かった。そんな彼に、定食のようなものを喰えといったら、大変なことになることは否を見ることより明らかだった。

いやしくも、ブラック・ダイクの音楽監督である。もう少し、別の対応ができなかったのだろうか。主催サイドの基本的な落ち度と思えた。

そこへ、背後から声がかかった。振り返ると、プリンシパルのリチャードが立っている。

彼は、陽気に“車をとばして来たのか?何時間かかった?”と訊いてくる。そこで“列車で4時間くらいだ!”と答えると少しビックリした様子だったが、“約束したとおり、今夜は愉しませてもらうよ!”と続けると、“そうか、ではエンジョイしてくれ!”と言葉が返ってきた。

やがて、難しそうな顔をしていたニックも、少し気分が落ち着いたのか、“それじゃ、コンサートで”と言いながら、食事はまったくとらず、コーヒーだけを手にホテルの自室に戻っていった。

こうして、ロビーのソファーには、日本人だけが残された。そこで付き添っている彼らに、いろいろ事情を訊ねると、このツアーでは、他にもいくつか事件が勃発している様子だった。

実は、大阪を発つ前、“今日は、都合でフィナーレの「インモータル(Immortal)」(ポール・ロヴァット=クーパー)は、やらないらしい”との情報にも接していた。

滝澤さんは、コルネットのバックロー(後列)のヴィクトリア・ケネディのお父さんの訃報が入り、急遽帰国することになったためだという。

“本人は、最後まで演奏する”と言っていたらしいが、“すぐに戻れ”ということになったそうだ。その結果、演出上の都合もあり、この曲はカットされることになった。ブラック・ダイクのコンサートのために特別に書かれた曲だけに、ファンはガッカリするかも知れないが、事情を知ればみんな納得してくれるだろう。

世界中のブラスバンドは、ファミリーのようなものだから。

しかし、その一方で、この夜のブラック・ダイク公演は、完全に演奏者の“定足数割れ”、曲によっては“音の数まで不足する”かたちで行われることが明らかとなった。

いったい主催者は、これをどう説明するのだろうか。

筆者がミュージカル・スーパーバイザーを任されていた当時のブリーズ・ブラス・バンドの有償コンサートなら、入場料は間違いなく払い戻しにしていただろう。

もう過去の話なんで知らない人も多いだろうが、ブリーズは、ヨークシャーでブラック・ダイクとジョイント・コンサートを開いたこともある大阪のプロのブラスバンドだ。

そんなことを考えている時、ふと気になって、先ほど受取ったチケットを確認する。すると、その席番は“電話予約”したものとまるで違うものだった。“ここは、音が悪い!”

慌てて開場前のホールにとって返すと、“電話予約”したチケットは取り分けられてまだ残っていた。相手は、“米つきバッタ”のようにペコペコ謝罪するが、何とも意味不明の言い訳が実に空しい!!

しかし、当夜の事件は、ここからが本番だった。

まず、入場の際、手渡されたのが“この日の公演のチラシ”と“テレビ愛媛の番組表”など。不審に思って係員に訊ねると“そのチラシがプログラムです”と呆れた回答が返ってきた。怒りを抑えて、さらに“招聘元が作った有料のプログラム”なんかを別に売っていないのか訊ねると、“ありません。それがプログラムの代わりになります”という。

松山では、こんなコンサートが通用するのか!?

チラシ最上部には、明治乳業グループのロゴと「四国明治株式会社 Presents」との文字が入るれっきとした“冠興業(かんむりこうぎょう)”だ。“特別協賛”の文字まで入っている。

主催者や招聘元は、いったいどんな感覚でこのコンサートをやっているのだろうか?

恥ずかしくはないのか!!(たぶん、ないのだろう)

会場では、東京、大阪、広島などから聴きに来た知人からつぎつぎ声がかかった。話をすると、みんな“なんか変だ”と首をかしげている。

とにかく、素人以下の対応。聴衆を会場に迎え入れる準備がまるでできていないのだ。

コンサートは、テレビ愛媛のアナウンサーが案内役となり、手にした原稿を一字一句間違わないように“棒読み”しながら進行した。滑舌こそさすがだが、当然ながら、演奏以外、まるで盛り上がらない。

そして、案の定、“メンバーが個人的な事情で急遽帰国し、出演が叶わなくなったこと”や“プログラムが変更になったこと”“アンコール曲”についての説明や場内アナウンスも一切なかった。会場をくまなく見て回ったが、“張り紙”すらなかった。

なんだろう、これは!あまりにも稚拙、レベルが低すぎる!

同時に、ブラスバンドを舐めている!

これは、フィクションではない。

わが人生における“史上最低”のコンサート鑑賞記である!

▲CD – Black Dyke Band Japan Tour 2016(自主制作、WOS 102)

▲同、曲目

▲メンバー表

▲サイン

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第71話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」完成前夜


▲ヨハン・デメイ

▲愛用のピアノに向かうヨハン

▲交響曲第2番「ビッグ・アップル」のスコア表紙の見本を見せるヨハン

交響曲第1番『指輪物語』(Symphony No.1 “The Lord of the Rings”)の世界的ヒットで知られるオランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)のアムステルダムの自宅に招かれたのは、1993年6月27日(日)のことだった。

前夜、ブーニゲンで聴いたオランダ王国陸軍バンドのコンサート(第70話:オランダKMK(カーエムカー)の誇り”、参照)の興奮がまだ冷めやらない、オランダ滞在2日目のことである。

この日の朝、筆者の泊るホテルまで車で迎えに来てくれたヨハンは、“今日は、自分のことをいろいろ知って欲しいんだ”と言いながら、まず、彼が所属するコンテンポラリー・ミュージック(現代音楽)合奏団“オルケスト・デ・フォルハルディンフ(Orkest de Volharding)”の練習へと筆者を誘う。

オランダは、コンテンポラリー・ミュージックの演奏がひじょうに盛んな国だ。

ヨハンは、金管楽器、サクソフォン、ピアノ、ギターからなるこのグループのセカンド・トロンボーン奏者でもあった。

この日聴いた曲は、はじめて耳にするものばかりだった。しかし、練習は、近く予定されているレコーディングのためのリハーサルだということで、演奏はすでにほとんど仕上がっていた。それを、他に聴衆がいない中、自分の好みの“特等席”で自由に聴けるとは、正しく贅沢の極みだ!

オランダの管楽器プレイヤーの個々の実力を間近で聴くことができるすばらしい時間となった。

練習終了後、ヨハンは、“せっかくオランダに来たんだから、オランダ流のランチにしよう!”と言って、車でアムステルダム北方のどこかの田舎町(これが思い出せない)のパンケーキのレストランに連れていってくれた。

昨夜につづき、ヨハンは、『この店には、日本からの観光客はまだ誰も来たことが無いはずだ!』とやけに自信満々だ!

そこは、日本のような派手なネオン類が一切ない店だった。ヨハンの“ここのがうまいんだ!”という言葉に促されながら一歩店内に入ると、そこは常連とおぼしき人たちで一杯で、ワイワイガヤガヤと、まるで村の集会場といった感じだった。

しかし、オランダ語で書かれたメニューらしきものは、もちろん、まるでチンプンカンプン。なので、彼に注文を任せると、いろいろ違った種類のものが出てきた。

日本で知る“パンケーキ”とはまるで違う。しかもどれも結構ボリュームがあった。

“そうか、オランダ人は、こういうものを毎日のように喰っているので、あんなに背が高くなるんだ!”などと、勝手に自分を納得させながら、二人でランチを愉しんだ。

ランチの後、今度は、“マルケン”というアムステルダム近郊の港町で“ハーバー・フェスティヴァルをやっているので行こう!”ということになった。

マルケンのハーバーに着くと、大きな仮設テントがしつらえてあり、その中で4つの町のコミュニティ・バンドが得意の曲を披露していた。座席もテントの中にあり、各町の応援団が押しかけていた。

しかし、演奏するバンドは我々が知るいわゆる“吹奏楽団”ではなかった。 。ヨハンの説明によると、この日演奏した4つの団体すべてが、フリューゲルホーンを主たるリード楽器とし、ソプラノからバスまでのサクソフォン、若干のトランペットやクラリネットを加えた“ファンファーレ・オルケスト”スタイルのバンドだった。オランダでは、“ウィンドオーケストラ”スタイルより、“ファンファーレ・オルケスト”スタイルが一般的で、コミュニティ(町)を代表するバンドは、ほとんど“ファンファーレ・オルケスト”なんだという。

“ファンファーレ・オルケスト”のために作曲されたオリジナル曲もかなりあるというから、驚きだ。

そして、ヨハンは、ちょうど着いた時に演奏を始めたバンドでは、“少し前まで指揮を務めていたんだ”と説明してくれた。

道理で、サポーターからも演奏メンバーからもヨハンに向けて親しみを込めた目くばせが飛ぶ訳だ。

演奏が終わると、ヨハンから自分の後任だという指揮者テーオ・ヤンセン(Theo Jansen)を紹介された。

彼はなんとアムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)のテューバ奏者だった。

自己紹介に続いて、氏から『日本からとは珍しい。実は来週に日本の東芝EMIのための録音があるんですが、のぞきに来ませんか?』と“お誘い”を受ける。

東芝EMIのための録音とは、第54話「ハインツ・フリーセンとの出会い」でお話ししたCD「吹奏楽マスターピース・シリーズ 第6集」の1枚、「バッハの世界」(TOCZ-0017)のセッションのことだった。

そこで、“そのために来た”と話すと、氏はビックリ仰天し、きびすを返すや、いきなりハイネケン(オランダのビール)を注文し“さあ、何杯でも呑んでくれ!”と熱烈歓迎状態となった。

大盛り上がりのマルケンの後、ヨハンは、アムステルダムの自宅に案内してくれた。

部屋に通されたとき、いきなり目に飛び込んできたのは、壁に飾られた交響曲第1番『指輪物語』の初演(1988年、演奏:ロワイヤル・デ・ギィデ)のポスターだった。

“すべてはそこから始まった!”

ヨハンにとっては、それは正しく“宝物”だ!

そして、“これを見て欲しい”と言いながら、最終頁あたりを残すだけとなっていた書いている最中の新作のスコアを見せてくれる。

曲は、アメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(The United States Air Force Band, Washington D.C.)から委嘱された交響曲第2番『ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォニー)』(Symphony No.2 “The Big Apple” – A New York Symphony)だった。

それは、“指輪”とは、かなり図柄の違うスコアで、音数がかなり多い。

もとは3楽章構成のシンフォニーとして書き始めたと説明されたが、目の前にあるのは、第1楽章「Skyrine(スカイライン)」と第2楽章「Gotham(ゴーサム)」の2つの楽章だけだった。“もう1つはどうなったの?”と訊ねると、“途中で考えが変って、対照的な2つの楽章の間に、ブリッジのようなつなぎのインタールードを入れることにしたんだ”という。

さらに“それは、どうなるの?”と尋ねると、“今度アメリカに行ったときにニューヨークの雑踏を録音して使おうと思うんだ。どうだい、面白いだろう!”との返答が返ってきた。

いかにも、コンテンポラリー・ミュージックを演奏するヨハンらしい着想だ。これは、後に「Times Square Cadenza(タイムズ・スクエア・カデンツァ)」と名付けられ、“ニューヨークの街の雑踏と地下鉄の音”の録音(楽譜では、付属CDに収録)として実現する。

食い入るようにスコアに目を走らしていると、ヨハンは愛用のピアノでいくつかのテーマを弾いてくれたり、シンセで作ったハーモニーの断片を聴かせてくれる。

中でも、第1楽章で現われる“スカイライン・モチーフ”のカッコよさは、とくに耳に残った。

しかし、話を聞いている内、なんとなくぼんやりとだが、目の前にいるこの作曲家が、既存の“吹奏楽”の固定的概念や限界を超える音楽を書き始めていることを感じ始める自分がいた。

交響曲第2番『ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォニー)』は、その後、当初1993年10月に計画されていた“委嘱者による公式初演”が1994年3月に変更されたため、1994年2月20日、ユトレヘトで行われたハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラによる“オランダ初演”が日としては先になるというハプニングもあった。

1つのウィンドオーケストラの作品が、国境という枠組みを簡単に超えて世界中で演奏されるようになったればこそのハプニングだった。

しかし、その“オランダ初演”直後に同じアムステルダム・ウィンド・オーケストラによってセッション・レコーディングされたCDは、発売されるや世界的ヒットとなり、ヨハン・デメイの名に再び脚光をあてることになった。

作品のルーツに思わぬハプニングあり!

これだから、バックステージは面白い!

▲「ビッグ・アップル」の紹介パンフ(1994年)

▲同、説明

▲“オランダ初演”の成功を伝える現地新聞(作曲者提供)

▲CD – The Big Apple(蘭World Wind Music, WWM 500.003、リリース:1994年)

▲同、収録曲

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第70話 オランダKMK(カーエムカー)の誇り

▲KMKのプログラム・カバー

▲演奏曲目(1993年6月26日、ブーニゲン)

▲ピエール・キュエイペルス

▲オランダ王国陸軍バンド(KMK)(於:アムステルダム・コンセルトヘボウ)

1993年6月26日(土)、筆者は、オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)、アムステルダム・ウィンド・オーケトラのソロ・クラリネット奏者ニーク・ヴェインス(Niek Wijns)の二人と、二ークの運転するボルボで、アムステルダムを出発し、ドイツ国境に近いブーニゲン(Beuningen)をめざしていた。

同地のティネフィーター・スポートハル(Sporthal De Tinnegieter Beuningen)で開かれるオランダ王国陸軍バンド(Koninklijke Militaire Kapel / KMK)のコンサートを聴きに行くためだ。

二人とは、同じ年の4月に大阪で会って以来だった。その時、7月に東芝EMIのアムステルダム・ウィンド・オーケトラのレコーディング(第54話:ハインツ・フリーセンとの出会い、参照)でオランダを訪れることを知った彼らは、“オランダ国内のことに関しては俺たちに任せろ”と言うので、“それなら任す”と言ったところ、ベルギーのヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)やオランダの各出版社などと緊密に連絡をとり、筆者のリクエストに従って各方面と調整。普通の外国渡航なら決して味わえない密度の濃いスケジュールを作ってくれた。

オランダ国内のスケジュールをヨハンらが担当、ベルギー国内のスケジュールをヤンが担当といった具合に。

それが、どれくらいの“濃さ”だったかというと、オランダ入国~ベルギー移動~再びオランダに移動~帰国便に搭乗までの間、セッションでご一緒した東芝EMIの佐藤方紀さんを除き、誰一人として同胞と出会わなかったという超ディープさ!!当然ながら、喰い物や飲み物も完全に現地のものばかりとなった。

今から振り返ると、対オランダ人、ベルギー人相手の免疫は、このとき完全に出来上がったようだ!

そして、この日、夜の20時に開演するこのコンサートは、『マリニールス(オランダ海軍)もしくは、カーエムカー(オランダ陸軍)のバンド・コンサートがあるなら、ぜひ聴きたい。』というリクエストに応えて、彼らが見つけ出してくれたものだった。

もちろん、世界的に有名な両バンドのレコードは、それまで結構聴いていた。

オランダのメジャー・レーベル“フィリップス(Philips)”の専属で、吹奏楽団として世界一のレコード販売枚数を誇った“マリニールス(De marinierskapel der Koninklijke marine)”は、ビクターから日本盤のレコードが結構リリースされていたし、“パサート(Basart)”“ポリドール(Polydor)”“RCA”“モレナール(Molenaar)”などの各レーベルから発売された“カーエムカー”のレコードも輸入盤でかなり揃えていた。

面白かったのは、日本でほとんど発売されていない“カーエムカー”のアルバムには、アメリカやオランダのオリジナル作品が結構入っていたことだ。自然と愛聴盤になったのは言うまでもない。

しかし、レコードに入っているレパートリーはどうしても偏りがあり、どんなにすばらしいレコードだって、ナマ演奏の魅力には到底敵わない。

彼らが普段やっているコンサートがどんなものなのか。それをはじめて聴けることになった訳だから、車中、ヨハンらと音楽談義で盛り上がりながらも、刻一刻とせまるその瞬間を前に、高まる興奮を押さえることができなかった。

コンサートのあったブー二ゲンには、高速道路(この国では“無料”)をぶっとばして1時間40分くらいで着いた。ヨハンの説明によると、人口2万ほどの典型的な田舎町で、名所旧跡の類いはないので、観光コースに含まれることはけっしてないという。

『キミは、間違いなくこの町を訪れた初の日本人で、おそらく最後の日本人になるだろう。』という彼の言葉が、やけに耳に残る。

そんな町で開かれた“カーエムカー”のコンサートは、以下のようなプログラムだった。

・序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」
(ヨハン・ヴァーヘナール / J・フェルフルスト編)

・アラジン組曲
(カール・ニールセン / ヨハン・デメイ編)

・交響曲第2番
(ユリアーン・アンドリーセン)

<休憩>

・ダンス・フュナンビュレスク
(ジュール・ストレンス)

・エル・カミーノ・レアル
(アルフレッド・リード)

・映画「インディ・ジョーンズ」セレクション
(ジョン・ウィリアムズ / ハンス・ヴァンデルヘルデ編)

指揮者は、ピエール・キュエイペルス(Pierre Kuijpers)。

ヨハンの交響曲第1番『指輪物語』(Symphony No.1 “The Lord of the Rings”)や『ネス湖』(Loch Ness)、ヤンの交響詩『スパルタクス』(Spartacus)や『フラッシング・ウィンズ』(Flashing Winds)など、オリジナル作品を積極的にレコーディングする指揮者だけに、プログラムの最後に映画音楽のセレクションが入る以外は、オランダやベルギーのクラシックやオリジナルがずらりと並んだ本格的なプロとなっている!

これが、アムステルダムのコンセルトへボウやロッテルダムのデ・ドゥーレンのような大きなコンサートホールで開催されるクリティカルな演奏会ではなく、ローカル・エリアのものだけに、正直ちょっとした驚きだった!!

裏を返せば、この種のコンサートを愉しむ聴衆がちゃんといるということだ。

しかも、ヨハンは、『このバンドのプログラムは、いつもこんな感じだ。』という。実際、郵送してもらったこのバンドの英語プロフィールにも“カーエムカーのレパートリーは、主としてシリアスである(The repertoire of the KMK is predominantly serious.)”と書かれてあった。

人口5000名の町に100名編成のバンドが2つ存在するトルン(Thorn)のような町もあるオランダならではの話だ。

文化としての“吹奏楽”の有り方の蘭日の違いをいきなり実感させられる!!

そう言えば、指揮者キュエイペルスが生まれた町も、トルンだった。

ホールに入ると、会場はギッシリ満員で、バンドの人気のほどがよくわかる。ヨハンたちがバンドに頼んでチケットを確保してもらっていなかったら、到底入場はかなわなかっただろう。あらためて二人に感謝だ。

子供や学生の姿は皆無だ。

面白かったのは、入場券の“もぎり”方で、チケットを提示すると、その一部をいきなり“引きちぎる”方式だった。おそらく、昔からそんなやり方をしているのだろう。

“カーエムカー”の演奏は聴きごたえがあった。

これを一体何と表現すればいいのだろうか。来日した外国のオーケストラを聴いたときにしばしば感じる“風圧”とでもいえばいいのだろうか。底鳴りを感じさせるクラリネットを中心とする木管楽器の厚みあるハーモニーに乗ってドライブする金管セクションのピュアな響き!!

レパートリーでは、初めて聴いたアンドリーセンの『交響曲第2番』とストレンスの『ダンス・フュナンビュレスク』がとにかく新鮮。いずれも、日本では演奏されたことがない作品だ。

ワクワクしながら、そのサウンドに浸る自分がいた!!

終演は22時30分近く。ヨハンを介して指揮者のキュエイペルスとグラスを傾けた。

そのとき、『昨年(1992年)には、もうちょっとのところで長崎のオランダ村に行けるところだったのに、経済的な事情で行けなくなって、みんなでガッカリしていたところでした。』と聞かされて、ちょっとガックリ。

なぜなら、その頃、日本に紹介した世界初の『指輪物語』のCD「The Lord of the Rings」(蘭KMK自主制作、KMK001 / 蘭Ottavo、OTR C18924)や『スパルタクス』や『フラッシング・ウィンズ』が入ったCD「Flashing Winds」(蘭DHM、2006.3)などが、輸入盤吹奏楽CDとして結構ヒットをとばしていたからだ。

正しく日本でヨーロッパのオリジナルやバンドが注目され始めたタイミングだったので、仮に来日が実現していたとしたら、たいへんな騒ぎになっていたかも知れなかった。

その後、政治の力学により、オランダのミリタリー・バンドの組織改革が行われることになった。王宮のあるデン=ハーフを本拠とする“オランダ王国陸軍バンド(KMK)”は、フリースラントのアッセンをベースとする同じオランダ陸軍の“ヨハン・ヴィレム・フジョー・カペル(De Johan Willem Friso Kapel)”と1つに統合され、2005年1月1日、アッセンを本拠とする「オランダ王国陸軍バンド“ヨハン・ヴィレム・フジョー”(Koninklijke Militaire Kapel“Johan Willem Friso”)」という両方のバンド名を組み合わせたバンドが誕生した。

われわれ日本人にとっては、1つの国にその国を代表する陸軍バンドが2つあり、片方に“Koninklijke(王国の)”という冠詞がつくのに対し、もう片方にはつかないという、それまでの状況はなかなか理解できなかった。しかし、元々これら両バンドが、“ホラント(Holland)”と“フリースラント(Friesland)”という、現在のアイセル湖を間に挟んで激しく戦った別々の国だった名残りで、両エリアを代表するミリタリー・バンドになっていたことを知ると、いろいろキナ臭いことも臭ってくる。

よく訊かれるが、Johan Willem Friso を“ヨハン・ヴィレム・フジョー”と読むのも、それがオランダ語ではなく、フリースラント語であるためだ。筆者もヨハンとヤンの二人から説教されて、そう改めた。ローマ字教育の影響が強い日本では、理解されることが難しいことを知りながら…。

しかし、文化も伝統も異なる2つの地域のバンドを1つに統合する試みは、音楽の上では、なかなか厳しいものがあった。とくに、都落ちしてフリースラントのアッセンに移された元カーエムカーのプレイヤーのプライドはズタズタとなった。

自然、新しい名前のバンドの演奏は低迷した。もともと得意とするレパートリーも違い、2つの個性が譲り合わなかったから当然だ。

関西には“日にち薬”(月日の経過が薬代わりとなる)という表現がある。

その後、かなりの年月が流れ、ベテランが去り新人が加わるなど、新陳代謝がある程度進んでこのバンドのムードは確かに改善された。女性プレイヤーも一気に増えた。しかし、まったく個性が違った両バンドの昔日の演奏を知る者にとっては、まだまだ物足りない。

時間を掛けて熟成されてきたものを一度壊してしまうと、絶対もとには戻らない。

単に物理的に数を揃えても、演奏の魅力やテイストは二度と戻ってこないのだ。

1993年6月の素敵なライヴを愉しんでいる時、このバンドの未来に、よもやそんな出来事が待ち受けているとは、誰が想像しただろうか。

いつも思う。政治が動くとロクなことはない。

▲デメイとキュエイペルス(1993年6月26日、ブー二ゲン・ティネフィーター・スポートハル)

▲CD – The Lord of the Rings(KMK自主制作、KMK 001)

▲KMK001 – 収録曲

▲CD – The Lord of the Rings(蘭Ottavo、OTR C18924)

▲OTR C18924 – 収録曲

▲CD – Loch Ness(KMK自主制作、KMK 002)

▲KMK 002 – 収録曲

▲CD – Flashing Winds(蘭DHM、2006.3)

▲2006.3 – 収録曲

▲KMKのエンブレム

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第69話 首席指揮者ハインツ・フリーセン

▲ハインツ・フリーセン(1995年5月12日、ザ・シンフォニーホール)

▲「第70回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲同、演奏曲目

東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピースシリーズ」のためのオランダ録音を終え、ヨーロッパから帰国して一息ついていた1993年の秋、筆者は、突然掛かってきた一本の電話に急かされるように、大阪城公園内にあった大阪市音楽団(市音)事務所へと向っていた。

電話の主は、ヨーロッパでセッションをご一緒した東芝EMIのプロデューサー、佐藤方紀さんで、その日の朝の電話は、『帰朝報告を兼ね、今から市音さんの木村団長(指揮者の木村吉宏さん)をお訪ねしますので、ご都合がよければ来られませんか?』という内容だった。

当時、市音は、東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどと、同シリーズの国内新規録音の一翼を担っており、ヨーロッパ録音の3作を録り終えた佐藤さんにとっては、今後の展開に向けてのスケジュール調整を兼ねての来訪であった。

市音の団長室に入ると、佐藤さんはすでに到着済で、事務的な打ち合わせも終えていた。

そして、筆者の顔を見るなり、上気した顔の木村さんから声がかかった。

『今、見せてもろたで。これなぁー、なんとか呼ばれへんか?(東京弁に翻訳:今、見せてもらったよ。(彼を)なんとか呼べないものだろうか?)』

このいきなりの展開が、一体、何の話なのかさっぱりわからない筆者は、その隣でニコニコしている佐藤さんの方に視線を投げかけた。すると、

『イヤー、すいません(笑)。ヨーロッパではたいへんお世話になりました。今、オランダでやったアムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)の収録模様のビデオをお見せしていたところなんです。樋口さんのおかげでいい音楽家と出会えました(笑)。』(第54話:ハインツ・フリーセンとの出会い、参照)と氏からフォローが入る。

木村さんは、さらに続ける。

『こいつら、うまい。(東京弁に翻訳:この楽団は、優れている。)』

『今のウチには、こういう“外国人の血”を入れなあかんのや!(東京弁に翻訳:今のウチには、こういう“外国人の血”を入れる必要があるんだ!)』

木村さんが、関西流のリスペクトを込めながらも狙いを定めた相手は、指揮者のハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)だった。

“ははぁー、さては惚れ込んだな”

何でもハッキリものを言う木村さんの言葉だけに、瞬間的な思いつきには違いなかったが、これは“限りなく決定”に近い発言であることがすぐわかった。一方、フリーセンとの別れ際、“日本への関心”はすでに確認済みだったので、その点も問題なかった。

しかし、当時の市音は、大阪市という行政組織の一部門だった。

ちょうどその頃、取り組んでいたNHKが放送した市音演奏のヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語』(Symphony No.1 “The Lord of the Rings”)日本初演のライヴCD作り(第64話:デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話、参照)でも、行政の高いハードルにはさんざん苦労させられていた。

木村さんの発言は、へたを打つと、同時並行的に“呼び屋業”まで開業させられ、行政と丁々発止のやりとりをさせられるハメになりそうな勢いだったので、この場はひとまず、以下のような“課題”を提示して凌ぐことにした。

・招聘主体は、誰になるのか

・興業ビザの取得は、誰がするのか

・単なる客演指揮者なのか、それとも別のかたちをとるのか

・いつ、どのタイミングで招聘するのか

・旅費や滞在費、指揮者報酬など、予算面は担保されているのか

などなど、部外だからこそ気づく課題が盛りだくさんだった。

氏の師にあたる朝比奈 隆さんも、かつてベルリン・フィルで日本人作品のリハーサルをやったときに彼我の音楽の差、とくに圧倒的なサウンドの違いに気づかされ、以降、自分のオケの音作りが大きなテーマとなったと語られたことがあった。この日の木村さんも“自分の編曲が予想できない姿で演奏されているビデオ”を見せられ、おそらく同じような衝撃を受けられたのだろう。

『よし、わかった。なんとかする。』と、氏は提案を引っ込めなかった。

“これは本気だ!”

それでも、この提案が具現化するまでには、かなり時間を要した。

事情がわかっているこちらは、フリーセンには、最初“市音が関心をもっている”旨をFAXで打診した後、CDや紙資料を送ったりしながら、正式招聘決定までの間、継続的なアップデートをするよう心掛けた。

その後、大阪市の最終的な決定が下ったのは、1994年の夏で、それは、以下のような内容だった。

・1995年度、ハインツ・フリーセンを市音首席指揮者として迎える

・“首席指揮者就任披露演奏会”を、1995年5月12日(金)、ザ・シンフォニーホールにおける「第70回定期演奏会」とする(最初、連絡を行なった当時は、5月か6月かは未決定だったが、その後、5月12日に確定した)

・就労ビザ申請など、招聘事務は、大阪市中央区の(株)音楽文化・事業センターが行う

行政の中で相当なやりとりがあったことは容易に想像できるが、何よりも“市音の熱意”が全面に出たすばらしい提案だった。よーし、これでOKだ。

この提案に対して、フリーセンから同意のFAXが送られてきたのは、1994年8月1日だった。

続いて、就任披露の第70回定期のプログラムが、以下のように決定する!

・歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
(ミハイル・グリンカ、木村吉宏編曲)

・交響曲第19番 変ホ長調 作品46
(ニコライ・ミャスコフスキー)

・交響曲第3番 ハ短調 作品78 「オルガン付」
(カミーユ・サン=サーンス、マーク・H・ハインズリー編曲)

プロらしい、いかにもパンチの効いたプログラムだ。

結果、ハインツ・フリーセンは、1995年4月から1998年3月まで市音の首席指揮者をつとめ、在任中、前記の第70回、1996年11月1日(金)、フェスティバルホールにおける第73回、1997年6月10日(火)、ザ・シンフォニーホールにおける第74回の各定期演奏会だけでなく、大阪夏の風物詩である“大阪城音楽堂”における“たそがれコンサート”、3月の“青少年コンサート”のほか、市音の重要な役割であった“音楽鑑賞教室”を含めた数多くのコンサートで指揮をとり、大阪市民に愛された。

大阪で覚えた“まぐろの刺身”が大好物となり、来日するたび、居酒屋でそれを肴にビールを呑み交わすのも筆者の密かな愉しみとなった。

市音は、その後、民営化され、楽団名を“Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”と変えた。しかし、その音楽だけでなく、人間性もすばらしい人物だったフリーセンの名は、今も楽団内のベテランにはレジェンドとなっている。

首席指揮者退任後も、アンコール招聘として、2003年11月21日(金)、フェスティバルホールにおける第87回定期演奏会定期演奏会の客演指揮者として指揮台にあがったが、それも当然の成り行きだった。

オランダの主要オーケトラのオーボエ奏者たちがこぞってリスペクトするフリーセン。

木村さんからその市音首席指揮者就任を聞いたフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)も、『市音は、いい指揮者を招聘したね!』と称賛したと聞いた。

コンサートは、いつも沸きに沸いた!

筆者にとっても忘れ得ぬ音楽家の一人である!

▲来日同意の1994年8月1日付けFAX

▲市音指揮者プロフィール(1995年当時)

▲第24回 大阪市音楽団 青少年コンサート(1998年3月15日、森ノ宮ピロティホール)

▲首席指揮者送別会(1998年3月15日、アピオ大阪)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第68話 スパーク「山の歌」ものがたり

▲「Brass Band World」1992年2月号

▲キングとブラック・ダイク・ミルズ(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

あまり人には喋らないが、どんな作曲家にも、自分だけのお気に入りの作品がある。

フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『山の歌(Mountain Song)』と出会ったのは、ブージー&ホークス社(東京)の代表取締役、保良 徹さんから、間近にせまった「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本公演1990」の演奏プログラムの擦り合わせを依頼されたときだった。

ブージー&ホークス社は、このツアーの主催者である。

メールなど無かったこの時代。バンドとのやりとりは、すべて同社を経由したFAXで行なった。その結果、今も当時のやりとりの多くが紙のかたちでファイルに残っている。

FAXの向こうにいる相手は、指揮者デヴィッド・キング(David King)だった。

ブラック・ダイク史上初、いきなりプレイヤー(アシスタント・プリンシパル・コルネット奏者)から指揮者(プロフェッショナル・コンダクター)に抜擢された偉才である。

しかし、マネージャー専行で決まったこのプロモートは、残念ながら、一部ベテラン奏者の反発を招いて、退団者まで出る始末。だが、キングは、逆にそれをエネルギーとして昇華させ、1990年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”での優勝という、これ以上ないかたちで、世の雑音を見事に跳ね返してみせたのである。

その経緯は、第42話「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990」でお話ししたとおりだ。

話を元に戻そう。

保良さんの考えは、こういうものだった。

クラシック評論の大御所たちを軒並み驚嘆させるなど、ブラスバンドのすばらしさは、すでに1984年の同バンドの初来日で十分認識されていた。二度目の来日となる今回は、単にバンドの来日公演をつつがなく遂行させるというだけではなく、ツアーが一種の起爆剤となり、まだ手探り期にあった日本の“ブラスバンド・ムーブメント”の将来の発展につながれば、というものだった。

ツアー・レパートリーの決定は、このため、とても重要な役割を担うことになった。

擦り合わせは、キングが考えた全レパートリーのスコアの1ページ目をまず送ってもらい、それを見ながら意見を交わすかたちで行った。

その結果、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドのオープニング・テーマ曲としておなじみのジェームズ・ケイ(James Kaye)のマーチ『クイーンズバリー(Queensbury)』をはじめ、合計4パターンのプログラムを満たすための多種多彩なスコアやパートが手許に届き、『山の歌』も、その中の1曲として、出版前の手書きスコアのかたちで送られてきた。

スパークの『山の歌』は、アメリカ・ペンシルベニア州ピッツバーグ(Pittsburgh)を本拠とするプロのブラスバンド「リバー・シティ・ブラス・バンド(River City Brass Band)」(第3話:ビッツバーグ交響曲、参照)の委嘱作だ。1987年に完成し、翌1988年2月、ロバート・バーナット(Robert Bernat)指揮、同バンドの演奏で初演された。

作曲者が、例年、家族とともに夏の休日を過ごしていたオーストリア・チロル地方ツィラー渓谷のマイヤーホーフェンの風物に触発されて書かれたひじょうに描写的な音楽だ。

ブラック・ダイクから送られてきたのは、冒頭の1頁だけだったが、もうそれだけで十分だった。

管楽器の澄み切ったハーモニーの中にチャイムが遠く響きながら始まるそのイントロは、有名な『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』や『長く白い雲のたなびく国“アオテアロア”(The Land of the Long White Cloud “AOTEAROA”)』のような、それまで知っているこの作曲家のブリリアントな作品とはまったく違うスタイルの書法で書かれ、完全に意表を突かれてしまった。

もう、その音楽的な魅力の虜である。

そして、ブラック・ダイクは1990年6月に来日。『山の歌』は、レジデント・コンダクターのケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)とゲスト・コンダクターのロイ・ニューサム(Roy Newsome)の指揮で聴いたが、聴けば聴くほど、この音楽の魅力の深みにはまっていた。

彼らの公演のはざまをぬって、今度はフルスコア(もちろん、出版社承認済みの手書きスコアのオーソライズド・コピー)の隅々まで見る機会を与えられたが、その時、あらためて、この作曲家の多才な魅力を認識!!

『ブラスバンドは、心に響くこんなにも凄いサウンドがするんだ!』と感じた。

リバー・シティの指揮者バーラットが感激のあまり、委嘱をさらに追加して、その結果、4楽章構成の『ピッツバーグ交響曲(A Pittsburgh Symphony)』にまで発展した理由もよくわかる。

と同時に、『ウィンドオーケストラにトランスクライブしてもゼッタイ魅力的なサウンドになる!』と、
まるで電気ショックを浴びたときのように直感したことを記憶している。

佼成出版社の柴田輝吉さんから、東京佼成ウインドオーケストラ演奏の“フィリップ・スパーク自作自演アルバム制作”のオファーを受けたのは、そんな頃だった。

後に「ヨーロピアン・ウィンド・サークル」シリーズ第2弾として実現するCD「オリエント急行」(佼成出版社、KOCD-3902、リリース:1992年12月21日 / 第48話 フィリップ・スパークがやってきた、参照)の企画の本格スタートである。

そして、企画のプランを練り上げるため、フィリップとやりとりを始めたとき、佼成出版社の了解を得て『山の歌』と『オリエント急行(Orient Express)』の2曲のウィンドオーケストラ版を委嘱することに、もはや何の躊躇もなかった。

フィリップは、筆者のこの提案を快諾してくれた。

やがて2曲の楽譜が完成!

来日した作曲者自身のタクトによる2日間の練習をへて、普門館の大きな空間に『山の歌』が流れ出したのは、1992年9月22日のことだった。

作曲者の意図が透けて見えるすばらしいサウンドがした。

演奏する東京佼成のプレイヤーも面白そうだ。

フィリップは、筆者にあてた私信で、作品について、こう説明してくれている。

『日曜日の朝、村はいつも静かで穏やかだ。信徒の集まりを知らせる教会の鐘の音だけが聴こえる。村の背後には、3時間で登れる姿の優しい山がある。登山者がどんどん登って行くと、ツィラー谷の大パノラマが木々の間から見えてくる。一陣のフレッシュなそよ風が、近くの木々の枝にカサカサと音をたてさせ、登山者をハッとさせる。我々が木々の生え並ぶあたりより上に出るのに、あと数歩だ。そして、あたり一帯を見渡す美しい情景がいっぱいに現われる。しばしの休憩をとって、景色にひたる。やがて、山を下りるときがきて、我々は村にまた戻る。そこには教会の鐘が響いている。』

21世紀に入るころ、フィリップから新作『エンジェルズ・ゲートの日の出(Sunrise at Angel’s Gate)』の完成を伝えるメールが入った。

1999年10月に訪れたグランド・キャニオンの壮大な情景に感動して書かれた作品で、日本から依頼される客演指揮の選曲で、必ず提案してくる作品だ。

『これは本当にうまく書けたと思う。とにかく、とても気に入っているんだ。』というフィリップに対して、『一体どんな曲?』と投げかけてみた。すると、速攻でこう返してきた。

『“山の歌”のような曲だ。』

どんな作曲家にも、自分だけのお気に入りの作品がある。

▲CD「オリエント急行」録音セッション(1992年9月22日、普門館)


▲オーストリア・ツィラー谷の情景(撮影:フィリップ・スパーク)]3枚

▲楽譜 – 山の歌(Studio Music)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第67話 チェザリーニ:交響曲第1番「アークエンジェルズ」日本初演

▲フランコ・チェザリーニ

▲世界初演の告知

▲世界初演会場 アウディトリウム・パラシオ・エウスカルドゥーナ

▲スコア – Symphony No.1 “The Archangels”

スイスの作曲家フランコ・チェザリーニ(Franco Cesarini)が初めて日本の地を踏んだのは、2016年6月7日(火)午前10時15分、成田着のアリタリア航空、AZ 786便でだった。

フランコとは旧知の間柄だが、こちらも、彼を自国へ迎えるのは、これがはじめてだった。

来日目的は、約4ヵ月前に初演されたばかりの彼の最新作、交響曲第1番『アークエンジェルズ』(作品50)(Symphony No.1 “The Archangels”Op.50)の日本初演を行なうことになった鈴木孝佳指揮、タッド・ウインドシンフォニーとのコラボレーションのためだった。

この作品は、作曲者が書いていることを誰にも明かさず、長年温めてきた構想を1つの音楽としてまとめあげたシンフォニーで、4楽章構成、演奏時間およそ31分の作品だ!

フランコによると、特定の演奏団体や個人からの委嘱作品ではなく、構想は、1993年の『ビザンティンのモザイク画』(Mosaici Bizantini)を書き上げた当時からすでにあったものだという。

だが、実際には、着手しては断念、着手しては断念を何度も何度も繰り返し、“今度ダメだったら、シンフォニーの構想自体、永久に廃棄しよう”とさえ思ったこともあったという。

完成直前までこの曲を手掛けていることを誰にも明かさなかったのは、このためだった。

それが、今回は“何かが天から降りてきた”かのごとくスイスイと筆が進んだそうで、作品は2015年秋についに完成!

各楽章には、“ガブリエル”(Gabriel, The Messenger of Light)、“ラファエル”(Raphael, the Guide of Souls)、“ミカエル”(Michael, the Pince of te Heavenly Host)、“ウリエル”(Uriel, the Time Keeper)という聖書に現われる4人の大天使(アークエンジェル)の名前が楽章名としてつけられ、各楽章の音楽を支配するモチーフとして扱われている。

前作にあたる『ビザンティンのモザイク画』同様、曲中、グレゴリオ聖歌のメロディーが使われているのも大きな特徴だ。

世界初演は、2016年2月7日(日)、スペイン北部、バスク州ビルバオのアウディトリウム・パラシオ・エウスカルドゥーナ(Auditorium Palacio Euskalduna)で、作曲者の指揮、バンダ・ムニシパル・デ・ビルバオ(Banda Municipal de Bilbao)の演奏で行なわれた。

これは、ちょうど客演指揮を依頼されていたこのバンドに、完成後フランコの方からもちかけたところ、二つ返事で決まったものだったという。

ビルバオは、積極的なインフラ投資による創造都市プロジェクトで世界的な成功を収めた町で、1997年10月に開館したビルバオ・グッゲンハイム美術館など、新しい町のランドマークになるような建物や構造物がつぎつぎと作られている。

演奏会場となったアウディトリウム・パラシオ・エウスカルドゥーナは、1999年2月に開館した2164席を有する近代的な大ホールで、会場のパイプ・オルガンも効果的に用いられた世界初演は、センセーションな大成功を収めた!

その後、4月28日(木)、イブ・セヘルス指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団)によるベルギー初演(ブリュッセル)、5月18日(水)、作曲者指揮、ルガーノ市民フィルハーモニック吹奏楽団によるスイス初演(ルガーノ)、5月21日(土)、同じく作曲者指揮、ルガーノ市民フィルハーモニック吹奏楽団の演奏によるオランダ初演(ユトレヘト)など、ヨーロッパ各国の初演、再演がつぎつぎと企画されたことは、周知のとおりだ。

ハル・レナード・MGB(当時)の音楽部門責任者ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)から、このシンフォニーについて第一報がもたらされたのは、2015年11月4日のことだった。

それは、タッド・ウインドシンフォニーが、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の交響曲第3番『カラー・シンフォニー』(Symphony No.3 “A Colour Symphony”)の日本初演を、2016年1月23日(日)、東京で行うことを報せたメールへの返信の中でもたらされた。

『ディアー・ユキヒロ、私も大変エキサイティングなニュースがある。フランコ・チェザリーニが初の交響曲をほぼ書き上げているんだ!まだ誰もそれを知らない。彼は、2年間秘密裡にその作品を作曲していた。委嘱ではなく、彼が作曲することを望んだものだ。初演はまだ計画されていない….。』

ほほう、こいつは面白い!で、思い切り“反応”してメールを返す!!

ベンからスコアがメールで送られてきたのは、それから2週間たった11月18日のことだった。

『あなたは、私自身と作曲者を除いて、これを見た最初の人になります。この作品をどう思うか、そして、日本であなたが“何か”をやる可能性が見出せるかどうかを知らせて欲しい…。』

回りくどい言い方だが、文面から、この作品の“日本初演”の芽があるかどうかを知りたいという意図が透けて見える。

そこで、すぐプリントアウトして、第1楽章の最初の頁に目を落とした。

冒頭、ティンパニ・ソロが唸り、すぐ後にほぼすべての楽器が参加し、まるでオルガンのように響くサウンドがくる。

これはいけない。もうこの部分だけで興奮してしまった!!

そして、一とおり目を通した後、ベンに返信した。

『真にグレートな作品であり、とても感動した。本当に! まず最初に、フランコに祝意を伝えてほしい。これは、経験豊かな指揮者にとっては、ドリーミーなシンフォニーになるだろう。ヨーロッパで言うなら、例えば、ハインツ・フリーセンやイヴァン・メイレマンスのような….。』

メールを書くこちらも、かなり前のめりになっていた。

しかし、まだ世界初演前の話だ。この時点では、作曲者が作ったスコアしかなく、パート譜の準備など、ここからかなりの日時を要することは明らかだった。それがある程度まとまらないことには、どんなプランも前には進めない。

その後、確認事項のやりとりが進む内、出版社としてのスケジュールもほぼ固まってきた2016年1月、ベンは、『まだ初演前で、機密事項なんだが、ぜひタッド鈴木(鈴木孝佳さん)にスコアを見てもらって欲しいんだ。OKか!』と言い出した。

ベンは、タッド・ウインドシンフォニーが、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の『オスティナーティ』(Ostinati)のウィンドオーケストラ版世界初演を行なった2012年6月8日(金)、大田区民ホールアプリコ(東京)でのリハーサルに顔を出し、自分の目と耳で確認したマエストロ鈴木のオリジナル作品へのアプローチとこの楽団のモチベーションの高さに全幅の信頼を置いていた。

元オーケストラのトロンボーン奏者同士というキャリアも、二人がウマが合う要因なのかも知りない。

ベンの意向を受け、早速アメリカの鈴木さんにスコアを送る。

すると、『ざーっとですが、2度見ました。可能ならば是非ともTADで演りたいですね。日本の人達にも好まれるのではないかと思います。優秀なイングリッシュホーン奏者が必要ですが、アレックス・ハヤシ君が来てくれれば問題ないでしょう。』と返答が速攻で返ってきた。(アレックスは、氏の教え子で、お気に入りのイングリッシュホーン奏者だ。)

これをベンに伝えると、“ぜひにも”という返答で、あっという間に日本初演が決定してしまった!

作品に惚れ込んだ鈴木さんが、すでに決まっていた次回定期のメイン・プロを急遽差し替えての決定でもあった。

TADのメンバーには、世界初演から9日後、小石川にある遠州屋の座敷を借りた2月16日のミーティング(と称する事実上の“呑み会”)で発表された。

食い入るようにスコアを覗くプライヤーたちの眼は、もはや臨戦態勢だ!

一方、出版社は、“ずっと行きたいと思っていたけど、まだ日本へは行ったことがない”というフランコのために旅費を用立てるなど、全面サポートの体制をとった。

かくて、2016年6月10日(金)、ティアラこうとう 大ホールでの日本初演は、ヨーロッパから作曲者を客席に招いたTADにとって誇らしくも晴れがましいステージとなった。

コンサートは、楽章間にも咳ばらいがまったくないほど、ステージと客席が一体となったすばらしいライヴとなった。完全なる大成功だ!!

終演後、『今日は、セレブレーションだ!』と言いながら、鈴木さんと祝杯をあげるフランコ!

高揚したそのときの顔が忘れられない。

フランコ・チェザリーニの交響曲第1番『アークエンジェルズ』(作品50)の日本初演!

それは、人と人との結びつきが生み出した一期一会の宴となった!!

▲「タッド・ウインドシンフォニー第23回定期演奏会」チラシ

▲日本初演時の自筆メッセージとサイン

▲鈴木孝佳とチェザリーニ(撮影:鈴木 誠)

 

▲カーテンコール(撮影:鈴木 誠)▲カーテンコール(撮影:鈴木 誠)

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.30 交響曲第1番「アークエンジェルズ」

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話

▲大栗 裕 生誕100年記念特別演奏会」チラシ

▲楽譜 – 吹奏楽のための神話(音楽之友社)

▲「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」プログラム

▲同、演奏曲目

2018年(平成30年)は、関西を中心に作曲活動を行い、幅広いジャンルに作品を遺した大栗 裕(1918~1982)生誕100年のアニヴァーサリー・イヤーだ!!

歌劇、マンドリン、吹奏楽など、多彩なコンサートが各地で企画されたが、その中でも、12月6日(木)、兵庫県尼崎市のあましんアルカイックホールで開催された「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ創立95周年 大栗 裕 生誕100年記念特別演奏会」は、記念年のフィナーレを飾るにふさわしい特別な演奏会となった。

作曲者とゆかりが深く、ライブラリーに数多くの大栗作品を所蔵する“シオン”だけに、選曲については、企画段階から、“ああでもない”“こうでもない“と、さまざまなアイデアが飛び出し議論百出の状況となったが、最終的に、プログラムは以下のようにまとめられた。

・吹奏楽のための小狂詩曲(1966)

・仮面幻想(1981)

・吹奏楽のための神話 ~ 天の岩屋戸の物語による(1973)

・アイヌ民話による吹奏楽と語り手・ソプラノのための音楽物語
「ピカタカムイとオキクルミ」(1976)

・吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」(1974)

この楽団が、繰り返し演奏してきたレパートリーばかりだが、これらが“自前”の楽譜だけで、すぐに演奏できることひとつを取り上げても、“シオン”と大栗作品がいかに特別な関係にあるかが容易に想像できる。

また、この内、“神話”と“大阪俗謡”の2曲は、21世紀に楽団の民営化が実施される以前、楽団名が“大阪市音楽団(市音)”だった時代の委嘱作だ!

“市音”から“シオン”へと引き継がれたこの2作は、吹奏楽ファンの人気が、特に高い。

当夜は、演奏者の急な体調不良から、プログラムを一部変更するハプニングもあったが、プログラムそれ自体は、多くのファンを納得させるものだった。

アンコールには、『吹奏楽のためのバーレスク』(1976)が取り上げられた。

作曲者と“シオン”の関係は、筆者を含め、さまざまな音楽解説で、「ゆかりの深い」、あるいは「関係が深い」などと説明されることが多い。

しかし、実のところ、両者の結びつきがどのようにして始まったかについては、あまり語られてこなかった。

実は、作曲者と“シオン”の関係は、第二次大戦前の1931年(昭和6年)に始まっている。

この年、“天商(てんしょう)”という愛称で大阪市民に親しまれた旧制の大阪市立天王寺商業学校に入学した大栗少年は、入学早々、大阪初のスクール・バンドとして前年に創部されたばかりの同校音楽部(天商バンド)の部員となった。

同校は、その後の学制改革により、大阪市立天王寺商業高等学校と改称され、近年の統合で2014年に閉校となった。しかし、この音楽部からは、大栗さんだけでなく、森 正さん(NHK交響楽団常任指揮者)、田村 宏さん(NHK交響楽団ホルン奏者)、宮本淳一郎さん(大阪フィルハーモニー交響楽団クラリネット奏者)、小梶善一さん(大阪市音楽団クラリネット奏者)、的場由季さん(大阪市音楽団ユーフォニアム奏者)、荒木好二さん(大阪市音楽団オーボエ奏者)、泉 庄右衛門さん(指揮者)ら、多くのプロフェッショナルが輩出され、一部で“天王寺音楽学校”とまで呼ばれるほど、大阪では存在感があった。

また、“何周年”という記念イベントには、指揮者の朝比奈 隆さん(第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲、参照)が欠かさず祝辞を寄せており、そのことからも、同校が外部からどのように見られていたかがとてもよくわかるだろう。

話を元に戻そう。

大栗さんが入学した当時の音楽部顧問は、高丘黒光さんだった。

この頃、音楽部員たちは、高丘さんの方針で、放課後、“市音”(当時の楽団名は“大阪市音楽隊”)の事務所と練習場がある天王寺音楽堂まで楽器を抱えて運び、音楽堂の舞台や楽屋、あるいは客席の木陰で市音奏者たちの指導を受けていた。

大栗さんは、後に「大阪音楽界の思い出」(大阪音楽大学、1975年)という書物に、この頃のことを回想して“個人的な、あまりにも個人的な”という一文を寄せている。

それによると、この時代の市音の奏者たちに無報酬で中学生のレッスンをしてもらうかわりに顧問の高丘さんが持ちかけた交換条件は、ドイツ語とフランス語を奏者たちに教授するというものだったらしい。

“隊員にとっては随分御迷惑であったと思う”(原文ママ)とは、大栗さんの偽らざる感想だが、その“甲斐”もあって、音楽部の実力は、スクールバンドとしては、やはり他を抜きんでる存在になっていたようだ。放送出演の他、レコード会社の依頼録音まで行っている。

大栗さんのホルンの師は、富岡 進さん。合奏指導は、市音初代指揮者の林 亘さんから受けた。また、年齢も近く、戦後、市音団長となる辻井市太郎さんとも知己を得ている。

1980年に編纂された「天商音楽部・楽窓会 創立50周年記念誌」には、いつの頃の撮影か不明だが、天王寺音楽堂の市音練習場で合奏する“天商バンド”の写真が掲載されている。

大栗少年にとって、コルネットの渡辺一夫さん、クラリネットの勝部藤五郎さんらの清澄な音が響く当時の市音の演奏は“我々には天上の音楽にも等しかった”という。

そして、寄稿は、こう続く。

『このような吹奏楽教育を受けてきたことが、現在の私の基盤になっているのだろう。音楽と言う芸術がもつ大衆性の一面を尊重しなければならないという確信をもつようになったのは、この若い日々の私の音楽に対する接触がそうさせたのだと思っている。だから、大阪市音楽隊への感謝はかってつきることがなかったし、将来もそうである。』(原文ママ。「大阪音楽界の思い出」(大阪音楽大学、1975年)から引用)

1973年の『吹奏楽のための神話 ~ 天の岩屋戸の物語による』と1974年の『吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」』の2曲の委嘱作は、こうして出来上がった。

この内、手書きスコアに「大阪市音楽団創立50周年を記念して」との献辞がある“神話”の初演に際し、作曲者は以下のような一文を寄せている。

『“吹奏楽のための民話”及び“寓話”といった作品はすでにある。ひょっとしたら“神話”もすでにあるかもしれないが、構想はすでに10年近く前からあたためていたものである。

天の岩屋戸(あまのいわやど)にアマテラスが身をかくしたため世界は暗闇となる。ハ百万(やおよろず)の神が天安河原(あまのやすかわ)に集り、オモイカネの発案で常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)を大きく鳴かせ、アメノウズメが裸で踊り出す。その踊るさまに神々はどっとばかりはやしたて、果てはその狂態に爆笑の渦が巻きおこる。不審に思ったアマテラスが岩屋戸の隙間から覗き見するのを待ちかねたタジカラオがアマテラスの手を引いてつれだす。そして世界はふたたびもとの光明をとりもどすという話である。音楽はこの話をかなり即物的に表現するが如何なものであろうか。私は小学生のころ、教科書にのっていたこのお話の絵を今でも生々しく思い出すことができる。そして、この音楽はそのイメージを瞼に浮かべつつ書き上げたものである。』(原文ママ。カッコ内は筆者による)

このくだりは、この作品の楽曲解説には必ずといっていいほど登場する。その後、1989年に音楽之友社が版権を得て、1990年に出版された楽譜の解説文にも引用された。

ただ、永野慶作さんの指揮でこの作品が初演された1973年(昭和48年)9月26日(水)の「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」(大阪市中央体育館)のプログラムに掲載された原文には、この後にもう少しつづきがあった。

『市音楽団と私の関係は深い。私に音楽の手ほどきを与えてくれたのは名隊長、林 亘先生であり、更に先輩として尊敬してやまない前団長、辻井市太郎先生であり、現演奏係長の永野慶作氏も、吹奏楽の指導者としてばかりでなく、人間的にも豊かなものを常に示しておられ私の信頼し得る友人の一人である。中学生のころ、天王寺音楽堂の客席の木影で、隊員から指導をうけた日も、暑い日盛りの午後で、蝉がやかましく鳴いていたのを思い出す。こうしてわれわれがお世話になった方達の多くは、既に幽冥境を異にしている。思い出とともに諸先輩方の冥福をもあわせて祈りたいというのが私の感懐である。したがってこの音楽は、現在の市音楽団のみならず、諸先生、諸先輩にも心から捧げるものである。』(原文ママ)

コンサート終演後の祝宴では、偶然、朝比奈、大栗の両氏が愉しそうに語らっている席に近い場所があてがわれた。

そのとき、朝比奈さんは、この新作がたいへん気に入られた様子で、『つぎは、ホールでやらないとな。』と言われているのがハッキリ聞こえた。

結果、朝比奈さんは、この翌年の1974年11月1日(金)、フェスティバルホールで開催された「第29回大阪市音楽団定期演奏会」でこの曲を客演指揮。さらに、1975年2月27日(木)、箕面市民会館(大阪府)で行われた東芝EMIのLPアルバム「吹奏楽オリジナル名曲集Vol.3」(東芝EMI、TA-60013)の収録でセッション・レコーディングを行なった。

大栗作品とシオンの関係、それは、やはり“特別”なものだった!!

▲“神話”初演中の市音(1973年9月26日、大阪市中央体育館)

▲初演後、花束を受け取る作曲者(同)

▲吹奏楽のための神話(手稿表紙)

▲手稿の最後に書かれた完成日

▲LP – 吹奏楽オリジナル名曲集Vol.3(東芝EMI、TA-60013、リリース:1975年9月5日)

▲同、A面レーベル(テスト盤)

▲同、B面レーベル(テスト盤)

▲同、A面レーベル(市販盤)

▲同、B面レーベル(市販盤)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲

 ▲LP – 吹奏楽のための交響曲(日本ワールド、WL-8319)(リリース:1983年11月)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

▲第25回大阪市音楽団定期演奏会チラシ

▲第25回大阪市音楽団定期演奏会プログラム

『樋口くん、まだ正式発表前やけど、こんどのフェスの定期、朝比奈さんに振ってもらうことにほぼ決まったよ。』

大阪市音楽団(市音)のトランペット奏者、そして解説者だった奥村 望さんから、そう伺ったのは、1972年(昭和47年)春のことだった。

“フェス”とは、大阪・北区中之島のクラシックの殿堂フェスティバルホールのことだ。

当時、市音は、春は毎日ホールを、秋はフェスティバルホールを会場に定期演奏会を行なっており、“フェスの定期”と言えば、秋の定期を意味した。

話の核心は、大阪フィルハーモニー交響楽団常任指揮者(後の音楽総監督)の朝比奈 隆さん(1908~2001)を秋の定期の客演指揮者に招くことになったということだった。

第35話:保科洋「パストラーレ(牧歌)」の事件簿、でお話ししたとおり、奥村さんは、恩師の一人だ。後年、関西フィルに移られた後も、筆者の書いた音楽解説を読んでは、適確なアドバイスをいただいた。

市音の団長(兼指揮者)が辻井市太郎さん(1910~1986)だった頃は、音楽ホールにおける日本初の吹奏楽コンサートとして始められた“定期演奏会”(当初は“特別演奏会”と呼ばれた)を含む市音全体のプログラミングを担う中心的人物だった。

パウル・ヒンデミットの『吹奏楽のための交響曲 変ロ調』やポール・フォーシェの『吹奏楽のための交響曲 変ロ調』、エクトール・ベルリオーズの『葬送と勝利の交響曲』、ヴィットリオ・ジャンニーニの『交響曲第3番』、モートン・グールドの『ジェリコ』、パーシー・グレインジャーの『リンカーンシャーの花束』など、多くのオリジナル作品の日本初演を市音が手がけたのも、辻井-奥村コンビの入念なリサーチとプランニングの成果だった。

個人的には、マーチ以外のイーストマン・ウィンド・アンサンブルの輸入盤のレコードをはじめて聴かせていただいたのも、実は、京橋にあった奥村さんのご自宅でだった。

1972年といえば、長年、市音の指揮をつとめられた辻井さんが4月に定年を迎え、楽団内部の体制がガラリと変わった年だ。

その後、正式に秋の定期の客演指揮者に朝比奈さんを迎えることが発表されると、それは衝撃波となって関西の楽界に広がっていった。

そして、プログラムも以下のように発表された。

■第25回大阪市音楽団定期演奏会
(1972年11月29日、フェスティバルホール)

・吹奏楽のための序曲「飛鳥」
(櫛田てつ之扶)

・序曲「リシルド」
(ガブリエル・パレス)

・二つの交響的断章
(ヴァーツラフ・ネリベル)

・ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲
(ルドルフ・シュミット)

・歌劇「ローエングリン」から“エルザの大聖堂への行列”
(リヒャルト・ワーグナー / ルシアン・カイリエ編)

・交響詩「ローマの松」
(オットリーノ・レスピーギ / 木村吉宏編)

オーケストラの大指揮者がはじめて“吹奏楽の定期演奏会”の指揮をするにふさわしい重量感のあるプログラムだった。

少し話がそれるが、この内、「ローマの松」は、当初、阪口 新の編曲と発表されていた。その後、コンサートマスターの木村吉宏さんが新たにトランスクライブをすることになり、この演奏会ではそちらが使われた。

後年、『“これはなかなかいい”と、このときの編曲を先生から褒められてな。ちょっと驚かれたみたいやった。』と、木村さんから何度も聞かされたことがある。その後、オランダのデハスケから出版されたこのトランスクリプションの妙を、朝比奈さんが認めた瞬間だった。

この演奏会を会場でナマで聴いた筆者も、もちろん大興奮!!

好評を得て、その後、市音定期には、森 正、石丸 寛、福田一雄、山田一雄、山本直純、フレデリック・フェネルなど、錚々たる顔ぶれが客演指揮者として登場するようになった。

『中には“予算を掛け過ぎや”というヤツもいるけど、プロは魅力的なコンサートを提供しないとな。』と、奥村さんの意志は、まったくブレなかった。

その後、朝比奈=市音の顔合わせの定期は、以下のように都合3度行われた。

■第29回大阪市音楽団定期演奏会
(1974年11月1日、フェスティバルホール)

ロシアの領主たちの行列
(ヨハン・ハルヴォルセン / クリフォード・バーネス編)

アポロ行進曲
(アントン・ブルックナー)

交響曲第19番 変ホ長調 作品46
(ニコライ・ミャスコフスキー)

吹奏楽のための神話 ─天の岩屋戸の物語による─
(大栗 裕)

歌劇「ローエングリン」から“第三幕への序奏と婚礼の合唱”
(リヒャルト・ワーグナー / フランク・ウィンターボトム編)

歌劇「ラインの黄金」から“ワルハラ城への神々の入場”
(リヒャルト・ワーグナー / チャス・オニール編)

歌劇「タンホイザ―」序曲
(リヒャルト・ワーグナー / ヴィンセント・サフラネク編)

■第33回大阪市音楽団定期演奏会
(1976年10月26日、フェスティバルホール)

吹奏楽のための組曲第一番
(グスターヴ・ホルスト)

吹奏楽のための交響曲
(ロバート・E・ジェイガー)

歌劇「運命の力」序曲
(ジュゼッペ・ヴェルディ / 木村吉宏編)

交響詩「レ・プレリュード」
(フランツ・リスト / コンウェイ・ブラウン編)

交響吹奏楽のための頌歌と祝典行進曲
(菅原明朗)

■創立60周年記念 第47回大阪市音楽団定期演奏会
(1983年11月15日、フェスティバルホール)

吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」
(大栗 裕)

幻想序曲「ロメオとジュリエット」
(チャイコフスキー / 木村吉宏編)

葬送と勝利の交響曲 作品15
(エクトール・ベルリオーズ)

朝比奈さんが市音定期を指揮したのは、以上の4回だけだった。

だが、驚くべきことに、両者の結びつきは昭和のはじめに始まっている。

朝比奈さんがリストの交響詩「レ・プレリュード」を客演指揮した「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」(1973年9月26日、大阪市中央体育館)のプログラムに寄せた祝辞では、氏はこう述べている、

『それは驚くべき年月であり、偉大な足跡である。まだ学生であった私がよく天王寺音楽堂に林亘隊長(はやし わたる。市音初代指揮者)をお訪ねした昭和の初め、…(中略)… 市音楽団(当時の正式名は“大阪市音楽隊”)は既に多くの新人団員を加えて充実発展の途上にあり林隊長を中心にそうそうたる陣容を示していた。吹奏楽だけでなくその頃メッテル先生が指揮をとる大阪や京都の交響楽運動も市音楽団員の参加、協力なしでは考えられなかった。』(原文ママ。カッコ内注釈は、筆者)

ここには、氏の師である亡命ウクライナ人指揮者、エマヌエル・メッテルが推進した交響楽運動に市音の存在が欠かせなかったこと。さらに、京都からメッテルのメッセージを携えて、よく市音を訪れ、吹奏楽だけでなく管弦楽もやった林 亘さんの返答を携えて京都まで戻ったことが書かれているのだ。

年齢が近く、戦後、市音団長となる辻井市太郎さんとも知己を得ていた。

明治生まれの朝比奈さんは義を重んじた。きっと、市音定期への客演には、恩義を返す意味合いも込められていたのだと思う。

また、関西交響楽協会が主催した「朝比奈 隆 音楽生活40周年記念演奏会」(1973年5月25日、フェスティバルホール)のような記念イベントにも、しばしば大阪市音楽団と大阪府音楽団が顔を揃えて出演し、ときには、大フィル + 市音 + 府音の合同演奏も行なわれた。

まさしく、関西の楽界のそろい踏みだ!

これも、その中心に朝比奈さんがいたからこそ、可能になった成果だと言えた。

その他、阪急百貨店吹奏楽団や西宮市立今津中学校吹奏楽部などの練習にも、しばしば顔を出されるなど、関西の吹奏楽界が受けた恩恵は計り知れない。

さらに言うなら、1965年(昭和40年)から1969年(昭和44年)の間、朝比奈さんは、全日本吹奏楽連盟理事長でもあった。

これほど深く吹奏楽と向き合ったオーケストラ指揮者はいない。

筆者の手許には、1983年の市音60周年を祝う意味で限定制作した1枚のレコードが残っている。

当時の市音団長、永野慶作さんと日本ワールド・レコード社の社長、靱 博正さんの2人を口説き落として、朝比奈さんが客演指揮をした第25回、第29回、第33回の市音定期のライヴ・テープから作っていただいたLPレコードだ。選曲は、なんと筆者に一任された!

2018年(平成30年)は、朝比奈生誕110周年のアニヴァーサリー・イヤー!

そして今、このLPレコードを取り出すたび、当時フェスで聴いたライヴが脳裏に鮮やかに甦ってくる!

朝比奈=市音。正しくそれは、わが青春の一頁だった!!

▲「朝比奈 隆 音楽生活40周年記念演奏会」プログラム

▲同、演奏曲目

▲「第29回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲「第33回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲「創立60周年記念 第47回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話

▲CD – 大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、リリース:1994)

▲同、ブックレット裏

▲作曲者デメイから郵送されてきたCDブックレットへのメッセージ(原本)

▲NHKに提出した第三者の権利許諾確認書の写し

1992年8月16日(日)午後3時からオンエアされたNHK-FM特別番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」(3時間半ナマ放送)は、とんでもないオバケ番組となった!

秋山紀夫さんが名調子で語りかける人気番組「ブラスのひびき」終了後、NHKが送りだす久々の吹奏楽番組だったという理由だけではない。

すべてがリクエストで構成され、何が放送されるのかその時までわからないという番組の臨場感も手伝って、吹奏楽ファンのハートに火をつけたのだろう。

番組終了後、局内は、それはそれは、たいへんな騒ぎとなった。

NHK各放送局や各地のNHKサービスセンターが、リスナーから放送曲目や演奏、楽譜に関してじゃんじゃん掛かってくる電話、FAXによる“問い合わせ”への対応に追われることになったからだ。

ここまでNHKは、しばらく“吹奏楽”の番組をさぼっていたのだから、それも、まあ、仕方ないだろう。

また、NHK初放送となった曲や作曲者も多く、普段“日本の音楽分野を牽引しているんだ”という無駄な自負を背負いながら日々番組を送り出している“エライ人”たちの鼻をへし折るのに充分なインパクトがあった。

曲名も、作曲者名も、演奏者名も、NHKにはまるで“蓄積”がなかった。

そんな曲(第58話:NHK – 生放送!ブラスFMオール・リクエスト、参照)がバンバンかかったのだ。

気の毒だったのは、番組ディレクターの梶吉洋一郎さんで、音楽番組部内では、“梶吉の吹奏楽には、気をつけろ”という言葉がまるでスローガンのように囁かれ出した。

問い合わせは、放送曲のほぼすべてに及んだ。しかし、番組のほぼ中間部でノーカットで放送したヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』(指揮:木村吉宏、演奏:大阪市音楽団)の日本初演ライヴと、リクエスト数のトータルでトップに輝き、番組のラストで放送したフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』(指揮:ヘルト・バイテンハイス、演奏:オランダ王国海軍バンド)への問い合わせは圧倒的で、他を大きく引き離していた。

リスナーが興奮しているのだ!!

もちろん、ディレクターの梶吉さんには、NHKがライヴ収録した『指輪物語』以外、筆者が持ち込んだすべての音素材の詳細データは渡してあった。

普通は、それだけで十分対応できたはずだった。しかし、氏からかかってきた電話を聞くかぎり、どうやらそういうことではなさそうだった。

『すごい反響だよ。“指輪”はウチが録った音なんで応対できているんだが、最後にかかった“ドラゴンの年”にブッとんだ人が多かったみたいで、とにかく、“ドラゴン”、“ドラゴン”って言って、どこへ行ったら買えるんだ、店の名前を教えろという類いの電話が多いんだよ。全国のセンターがパニくっててさぁ。ウチの連中が知るはずないし、どう答えたらいい?』

普通のクラシック番組では、こんなことはゼッタイに起こらないとも言う。

ちょっと返答に詰まった。番組で使用した『ドラゴンの年』が収録されているCDが、オランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)が自主制作したインディーズだったからだ。

CDは、リリース当時、“海軍バンド”のショップやコンサートで誰でも買えた。筆者もバンドに直接送金して購入した。そして、インディーズとは言え、中身はオランダ・フィリップスのスタッフが録音、制作したもので、商業CDの中に並べても世界最高峰のクオリティをもっていた。

ただ、我々の放送時点では、残念ながら、すでに完売となっていた。

商業用ではないから、再プレスなどしない。

梶吉さんに、まず、そう伝えると、『もう買えないということ?』と少し気落ちした声が返ってきた。しかし、事実は事実なので。『そうだ。』と答えるしかなかった。

我々はビジネスのために放送をやっている訳ではないし…。

そこで、まず、『一般的な回答として、レーベルやレコード番号、CD番号をそのまま伝えること。海外盤や自主制作盤は、日本では入手がほとんど不可能なので、何らかの方法でバンドに直接コンタクトをするか、海外の趣味性の高いショップにコンタクトをするしかないと薦めて欲しいんだ。』と話す。

当時、クラシックやポップスと違い、海外の吹奏楽LPやCD、カセットは、ほとんど日本に輸入されていなかった。銀行で作ってもらった“送金小切手”を送るか、郵便局で“国際送金為替”を組んでもらって海外に直接注文するのが“原則”だった。

しかし、“オランダ海軍”のCDの入手が難しそうだと分かったためか、その後、第41話:「フランス組曲」と「ドラゴンの年」、でお話ししたエリック・バンクス指揮、東京佼成ウインドオーケストラ演奏のCD「ドラゴンの年」(佼成出版社、KOCD-3102)のセールスに再び火がつくという、思わぬ余波もあった。

“こんなこともあるのか”と感じた覚えがある。

しかし、『ドラゴンの年』は、これで完全に認知された、とも思った。

一方、デメイの『指輪物語』を演奏した市音もパニくっていた。

番組を終えて帰阪した後、事務所に挨拶に行くと、

『おお、ええ時に帰ってきよった(いい時に帰ってきた)。あちこち(いろいろなところ)から電話が掛かってきて、放送された“指輪”のCDはどうやったら買えるんや(買えるのか)とか、テープを聴かせろって、うるさいんや(やかましいんだ)。あれは、NHKが録ったもんやから(ものだから)、あかん(ダメだ)って、言うてんのやけど(話しているんだけど)…。どうしたらええ(いい)?』

とは、筆者の顔を見た団長兼常任指揮者の木村吉宏さんの第一声!

ここでも騒ぎが起こっていた!

『それでしたら、NHKからテープを借りてCDにされたら?』

思わず口をついてしまった。

何か閃いたのか、木村さんは、ニヤリと笑う。

“しまった、ハメられたか”と思ってもアトの祭り!

当時の市音は、大阪市という行政組織の一部。外部からの依頼録音は仕事としてOKだが、いろいろな制約から、自主事業としてのレコードやCDは作れなかった。ノウハウがないというだけではなく、自ら作った製品が何らかの“利益”を生み出してもいけなかった。

かねてより、なんとか自前のCDを作りたいと考えていた木村さんには、外部の人間に動いてもらうと、ひょっとして、将来の自主CD制作への道が開くかも知れないというもくろみがあったようだった。

結局、不用意なひと言から、“大阪市音楽団初の自主制作CD”のプロデューサーとして活動することとなってしまった。

しかし、話を聞けば聞くほど乗り越えないといけないハードル(行政の壁)のあまりの高さに、目がくらむ!!

そして、ここから約1年間の悪戦苦闘が始まった!

実際には、市音のマネージメント・セクションを拡充させるための外部組織として作られた“大阪市教育振興公社”の小梶善一さん(元市音クラリネット奏者)と、ああでもない、こうでもないと言いながら、1つずつ壁を乗り越えていった。

途中から、これに、大阪市音楽団友の会事務局長の藤川昌三さんが加わった。話を伺うと、友の会20周年を記念して、1994年2月27日(日)、大阪・森の宮ピロティホールで「ゆかいなウィンドコンサート」と題した市音のコンサートをやるんだそうだ。

それなら、ということで、発売目標をその日に定め、友の会には、販売の実務を担っていただくことになった。(市職員の市音メンバーは、販売にはタッチできないので)

よーし、だんだん形になってきたゾ。

しかし、市音サイドにCD制作のノウハウは皆無だ。途中から、小梶さんには、行政との関わり合いと公社内のコンセンサスを得ることに専念していただき、こちらは、CD作りに邁進するという役割分担制を敷いた。

NHKとの録音使用料の折衝、放送に使用されたテープ(オープンリール方式のデジタル・テープ)の借り出し、東京CDセンター(渋谷)でUマチック・テープへのマスタリングなど、プロセスの管理だけでなく、ジャケット・デザイン、ブックレット編集、プログラム・ノート執筆まで、何から何まで筆者の役割となった。

東京のスタジオのセッティングには、ムジーク・ハーフェンの本間 篤さんにも、尽力をいただいた。

振り返ると、この日本初『指輪物語』のCD作りは、やることなすことすべてが面白く、ガムシャラに突っ走ることができたのも事実だ。

かくて、“大阪市音楽団創立70周年”と“大阪市音楽団友の会20周年”を記念する完全限定盤CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801)は、予定どおり、1994年2月27日に陽の目を見ることになった。

販売は、演奏会の直売を除けば、通販だけだったが、CDはアッと言う間に“予定数”をクリアし、見事“Sold Out”となった。

梶吉さんも、『俺が録った初CDが出来上がったよ!』と満面の笑み!

結果よければ、すべてよし!

しかし、自戒をこめ、ここで教訓を一席!

口は、禍いのもと!!

▲デザイン画 – ブックレット表1&表4

▲デザイン画 – オビ

▲デザイン画 – インレー

▲デザイン画 – CD盤面