■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第131話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版日本初演

▲管弦楽版日本初演プログラム(座席番号入り) – 中部電力ふれあいチャリティーコンサート(2004年2月5日、愛知県芸術劇場コンサートホール)

▲同、出演者プロフィール

▲CD – デメイ:交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版(Band Power、BPHCD-8001、2004年)

BPHCD-8001、インレーカード

2020年(令和2年)9月4日(金)、朝の東海道新幹線に飛び乗り上京。同日夕刻までに大阪に戻った。3日前に急逝した親友、元NHKプロデューサーの梶吉洋一郎さんを見送るためである。

梶吉さんは、武蔵野の出身。実家は東小金井だったと聞く。お爺さんが中島飛行機の技術畑で、“疾風(はやて)”という旧陸軍の戦闘機に携わっていたと聞かされた覚えがある。そんな物づくりの家系のDNAは、1979年(昭和54年)にNHK入局後、“報道部”を経て、念願の“音楽制作”に配属されるや、まるで水を得た魚のように遺憾なく発揮されることとなった。

そのキャリアの中でライフワークとなったのは、チェコのマエストロ、ラドミル・エリシュカ(Radomil Eliska, 1931~2019)と出会い、この名伯楽を日本各地の音楽シーンに紹介しながら、そのもっとも得意とするドヴォルザークの後期交響曲(第5番~第9番)やスメタナの「わが祖国」などのCDを世に送り出したことだったろう。これらCDの多くは、梶吉夫妻が立ち上げたオフィスブロウチェクのpastier(パスティエル)レーベルからリリースされたが、個人的なことながら、編集を終えたマスターや原稿を工場や印刷所に入稿するプロセスを担い、それがCDという形で広く世の音楽ファンに喜んでもらえたことは、馬が合った彼との長年の友情の証となったように思う。

奇しくも、マエストロと梶吉さんは、1年違いの同じ日に旅立った。今頃、天国で次の録音を何にしようか話し合っているかも知れない。

また、中高一貫校“成蹊”の音楽部で活動した若い日の記憶と血が騒ぐのか、こと吹奏楽に関しては一家言を持ち、当然、それは番組作りに色濃く反映されることとなった。

とは言うものの、彼が音楽制作に移った頃、NHKでは、会長の方針に従って、吹奏楽の唯一の定時番組「ブラスのひびき」(秋山紀夫さんの名調子で人気だった)が打ち切られ、何かの偶然で放送される曲を除けば、何年間も、NHKの電波に吹奏楽が乗らないという信じがたい状況が続いていた。

そんな中、カチンコチンに凍りついた部内の吹奏楽に対する冷淡な空気をものともせず、彼が立ち上げた3つのFM特別番組、1992年(平成4年)8月16日(日)放送の「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」、1993年(平成5年)3月20日(土)放送の「二大ウィンドオーケストラの競演」、1994年(平成6年)3月21日(月・祝)放送の「世界の吹奏楽・日本の吹奏楽」は、吹奏楽への想いを放送番組の形にした彼なりのこだわりであり挑戦だった。そして、それら特番は間違いなく、その後の「ブラスのひびき」復活へのプロローグとなった。また、NHK在職中、最後に手がけた番組の中に、中橋愛生さんがナビゲーターをつとめる「吹奏楽のひびき」があったことも、いかにも彼らしい有終の美の飾り方だったように思う。(参照:《第58話 NHK 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》《第102話 NHK 二大ウィンドオーケストラの競演》《第121話 NHK 世界の吹奏楽・日本の吹奏楽》

さて、そんな梶吉さんと一緒に手がけた作品の中に、オランダ人の親友、ヨハン・デメイ(Johan de Meij)の代表作、交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』がある。

周知のとおり、この作品は、ヨハンが1984~88年の歳月をかけてウィンドオーケストラのために作曲した彼自身初の交響曲だ。イギリスの作家ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, 1892~1973)の同題の冒険ファンタジー小説に題材を求めた5楽章構成、演奏時間およそ42分という作品だ。初演は、1988年3月15日、ベルギー王国の首都ブリュッセルのベルギー国営放送(BRT)グローテ・コンサートスタジオにおける、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(Orchestre de la Musique Royale des Guides)のコンサートで行なわれ、その模様はFMでオンエアされた。ロワイヤル・デ・ギィデは、ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団(The Royal Symphonic Band of the Belgian Guides)の別名でCD等が発売されるベルギー国王のプライベートな吹奏楽団だ。(参照:《第55話 ノルベール・ノジとの出会い》

その後、この交響曲は、1989年12月、指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti、1912~1997)を審査委員長とする“サドラー国際ウィンド・バンド作曲賞1989”(主催: ジョン・フィリップ・スーザ財団)で、世界27ヵ国からノミネートされた143楽曲中、最優秀作品に選ばれた。

日本初演(全曲)は、1992年(平成4年)5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールにおける「第64回大阪市音楽団定期演奏会」で、木村吉宏の指揮で行なわれた。“大阪市音楽団(市音)”は、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活躍を続ける大阪のウィンドオーケストラの市直営当時の名称だ。(参照:《第59話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」日本初演》

そして、市音のこの演奏会に、大阪局(BK)にはない中継車を東京から走らせたのが、梶吉さんだった。言い換えれば、『指輪物語』と彼との付き合いは、このときに始まった。

この日のライヴ録音は、筆者がナピゲートした前記FM特番「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」でオンエアされ、大きな反響を巻き起こし、その後、市音初の自主CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年)へと繋がった。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》

それから数年余。すでに世界的ヒットとなっていた『指輪物語』に新たに管弦楽版(2000年)が完成したという知らせがヨハンから入った。管弦楽版を作る気になったのは、なんでも、アメリカのオーケストラ指揮者、デーヴィッド・ウォーブル(David Warble)から強いリクエストがあったからだそうで、管弦楽用のオーケストレーションは、優れたオーケストレーターとして名を上げていた友人のオランダ放送管弦楽団首席打楽器奏者のヘンク・デフリーヘル(Henk de Vlieger)がヨハンのアイデアを管弦楽スコアに起こしていくコラボレーションのかたちをとった。これは、ヨハン自身がそれまで管弦楽のスコアを書いた経験がなかったことと、世界的ヒット作となったこの曲を第三者的視点から見直すためだった。

管弦楽版の公式世界初演は、オランダのロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(Rotterdams Philharmonisch Orkest)が本拠とするロッテルダムの有名なコンサート・ホール、デ・ドゥーレン(De Doelen)における3日連続演奏会として企画された。初日は、2001年9月28日(金)で、演奏は、3日とも、ディルク・ブロッセ(Dirk Brosse)指揮、同管弦楽団によって行なわれている。

しかし、この話を企画段階で聞いたウォーブルは、『これはまず、提案者である自分にやる権利がある。』と言って頑として譲らず、ヨハンと話し合った結果、≪公式世界初演≫より7ヶ月前の2001年2月17日(土)、米ニューヨーク州ロング・アイランド(Long Island)のティレス・センター・ノース・フォーク・ホール(Tilles Center North Fork Hall)で、“スター・トレック(Star Trek)”でおなじみの俳優ジョージ・タケイ(George Takei)をナレーターに立てた≪ナレーション入りバージョンのオーケストラによる初演≫として、ウォーブル指揮、ロング・アイランド・フィルハーモニー(Long Island Philharmonic)によって演奏された。(実は、ウォーブルは、それまでにタケイをナレーターとするウィンドオーケストラ版の演奏を60回やっていた。)

その後、ウォーブルは、≪公式世界初演≫直前の2001年9月22日(土)、英BBC放送のスタジオとしてもおなじみのロンドンのゴールダーズ・グリーン・ヒポドローム(Golders Green Hippodrome)でレコーディングされたロンドン交響楽団(London Symphony Orchestra)演奏の『指輪物語』管弦楽版の世界初CD(カナダMadacy、M2S2 3193、2001年)の指揮者にも起用されている。

梶吉さんに、『指輪物語』に新たに管弦楽版ができたことを話したのは、2002年後半の某日。一時、彼がNHKの外郭であるNHK中部ブレーンズ(名古屋)に籍を置いていた頃だった。当時、筆者は、《第125話 スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」の衝撃》でお話ししたような事情で、何かやりたいと思ったとことがあったとしても、大阪に張り付いたまま身動きがまったくとれない状態にあった。なので、このときの“指輪物語管弦楽版情報”は、彼がかけてきた電話の中で話した雑談として終わるはずだった。

しかし、彼にとってはこの話は、相当刺激的な内容だったようだ。彼は電話の最後の方で『今、たいへんだろうけど、楽譜がどうなっているかだけ、訊いてくれない。』と言った。

何か閃いたのだろうか?

すぐ了解して、ヨハンに訊ねると、版権は彼の出版社アムステル・ミュージック(Amstel Music)が所有するが、楽譜本体は、アルベルセン(Albersen Verhuur V.O.F.)のレンタル譜だという。直感の鋭いヨハンらしく料金表まで添付されてきたので、早速、それらをまとめて梶吉さんに送った。これにて一件落着だと思っていたら、これが大きな間違いだった。

このとき、梶吉さんが筆者の知らないところで立案していたコンサートの組み立ては、2003年(平成15年)4月22日(火)に流れてきた1枚のFAXで初めて知った。

【演奏会名】中部電力ふれあいチャリティーコンサート  
【日時】2004年2月5日(木)、14:30開演と18:30開演の2回
【会場】愛知県芸術劇場コンサートホール
【指揮】大勝秀也
【管弦楽】名古屋フィルハーモニー交響楽団

また、この演奏会は、NHKが音声収録し、2004年2月29日(日)、14:00からの「FMシンフォニーコンサート」(解説:外山雄三)の中でオンエアとも書かれてある。2回本番で、いい方を放送しようという腹積もりなんだろうか。

しかし、続いて『楽譜は、指揮者は6月末までにスコアが欲しいと言っています。オーケストラは9月末までにスコアとパート譜が欲しいと言っています。』と書かれてあったのには、目が点になってしまった。つまり、やり取りのない相手から“レンタル譜を借り出して欲しい”というリクエストだった。

『あれ?それって俺の仕事?』と思いながらも、一方で日があまり無いのも事実。すぐヨハンと連絡をとって、アルベルセンの連絡方法と担当者を教えてもらい、手探りの折衝を開始。今度のケースでは、公開演奏回数、録音の有無、放送回数など、料金に関係する詳細なデータを知らせてレンタル料金を見積もってもらい、合意の上で契約を取り交わした後でないと、楽譜は送られてこない。そんな訳だから、シリアスなやりとりを繰り返した後、アルベルセンが楽譜を送り出してくれたのは、6月24日のことだった。到着後、楽譜を点検して名古屋フィルに急送。指揮者のリクエストにも辛うじて間に合った!(当然、後日の返送も筆者の役割りとなる。)

やれやれと思っていたら、今度は、ヨハンが『来日したい。』と言い出した。理由を訊ねると、ロンドンの録音が練習と本番を1日で済ましてしまう、いわゆる“ゲネ本”だったので、『今度は演奏者とのコラボレーションを重ねてさらにいいものに仕上げて欲しいんだ。』と言う。気持ちはわかる。

ダメもとでこの件を梶吉さんに電話すると、『(新しい楽譜だけに)来てもらうのは大変ありがたいんだけど、クライアントからの追加予算はないよ。』との返答。即ち渡航費は出ないとの由。そりゃそうだ。また、こちらが大阪を離れることが厳しい状況だけに、ヨハンが来るとなれば、誰かアテンドをつけなくてはならなかった。もちろん、ヨハンは、そんな事情など知る由も無かったが…。

その内、東京のバンドパワーが、NHKの放送が終わった後、その録音を使ったライヴCDを作ることに関心を寄せ、もしそれがOKなら渡航費ほかの負担に応じてもいいという話になった。名古屋フィルからも、もし作曲者が名古屋まで来られるのなら、楽団のゲストとして宿の用意をする旨、申し出があった。また、アテンドについても、あてにする黒沢ひろみさんから日程を空けてくれるという確約が入った。

オーシ、もう大丈夫! 誠意をこめて折衝に当たってくれた梶吉さんをはじめとする各位に大感謝だ!

その後、名フィルの中から面白い話がこぼれてきた。ヨハンの『指輪物語』は、楽団事務局が全く知らない曲だったが、管楽器や打楽器奏者の中から、『学生時代に演奏したかった曲だ。』とか『指導に行った学校の吹奏楽部がやっていた曲だ。』、『子供達(中高生)がよく知っている曲だ。』という話が出て、事務局は原曲が吹奏楽の世界では相当な有名曲であることをついに認識。口コミで伝わった東京のプレイヤーからも“のせて欲しい”という要望があったというが、全国放送もあることだし、ことこの本番に関しては、“首席”“副首席”の全員出席で望むことになったという。

そんなこともあり、当日は、ひじょうにモチベーションの高い演奏が繰り広げられることになった。それがライヴCDのかたちで残されたことは、望外の喜びだ!

ホールで聴いていたバンドパワーの鎌田小太郎さんも、この日聴いた第3楽章のソプラノ・サクソフォーンのソロが、『もっとも“ゴラム”らしい。』とお気に入りの様子!

傍らで聴く演奏会の立案者の梶吉さんもとても愉快そうだった。

それから16年の歳月が流れた。

筆者を乗せ東京へと向かう“のぞみ”がちょうど名古屋を出た頃、彼とともに『指輪物語』に関わった日々が、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡った!!

▲管弦楽版公式世界初演プログラム – Symphonisch gedicht voor viool en orkest(2001年9月28~30日、De Doelen、Rotterdam)

▲同、演奏曲目

▲「中日新聞」2004年2月16日(月)夕刊、9面

▲「朝日新聞」2004年2月29日(日)朝刊、3版27面

▲スタディ・スコア – 交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版(Amstel Music、非売品、2000年)

▲ラドミル・エリシュカ、梶吉洋一郎の両氏

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第130話 ミャスコフスキー「交響曲第19番」日本初演

▲チラシ – 第5回大阪市音楽団特別演奏会(1962年5月8日、毎日ホール)

▲プログラム – 同

▲同、演奏曲目

▲「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)

『今までの多くの作曲家を交響曲の作品数でランキングをつけると、第1位がハイドン、第2位がモーツァルト、そして第3位がミアスコフスキーということになります。ミアスコフスキーはこのように交響曲の数の多さでよく知られていますが、作品そのものは殆どといつていいくらい知られておりません。大変美しく感動的な曲もあるということですが、日本での紹介がおくれているのは何としても残念なことです。』(一部異体字の変更以外、原文ママ / 作曲者カナ表記“ミアスコフスキー”は演奏会プログラムどおり)

1962年(昭和37年)5月8日(火)、旧ソヴィエト連邦(現ロシア)の作曲家、ニコライ・ミャスコフスキー(Nikolai Myaskovsky、1881~1950)の『交響曲第19番 変ホ長調』(作品46)の日本初演が行なわれた「第5回大阪市音楽団特別演奏会」(於:毎日ホール、開演:18時30分)のプログラムに、辻井英世さん(1934~2009)が書いた同曲の解説文冒頭の引用である。氏は、吹奏楽作品もある在阪の現代作曲家として知られ、当夜の指揮者、大阪市音楽団団長の辻井市太郎さん(1910~1986)の長男でもある。後年、会食をともに愉しんだこともあった。

ロシア語の人名を我々が普段使っているラテン文字のアルファベットに変換する手法には、いくつかルールがある。それぞれ一長一短があり、今のところ決定打はない。今回の話の主人公ニコライ・ミャスコフスキーのケースだと、筆者が実際にこの目で確認したスペルだけでも、ファースト・ネームに“Nikolai”や“Nikolay”、ファミリー・ネームにも“Miaskovsky”や“Myaskovsky”、“Myaskovskii”がある。さらにロシア人の名前の“v”を“w”と表記するケースも結構あるので、現実にはまだまだあるかも知れない。また、それらのスペルを見ながら考案されてきた日本語カナ表記に至っては、問題はさらに複雑だ。辻井さんは“Miaskovsky”に従い、筆者は“Myaskovsky”あるいは“Myaskovskii”に従っている。そして、ロシア人が喋るのを聞いていると、たとえ日本で使われているカナ表記を意識しながらヒヤリングしても“ア”や“ャ”は案外聞こえない(筆者の耳が悪いだけかも知れないが)ので、あるいは“ミスコフスキー”が近いのかも知れない。逆に英米人は我々に近い。ただ、文字としてのカナ表記“ミャスコフスキー”は、アルファベットのスペルを想像しやすいという利点もあるので、一応OKだと思う。

我々が何の疑いもなく使っているチャイコフスキーやムソルグスキーの横文字表記にも、実は同じような課題が存在する。

出版社などから、ときどき『ネット検索できないから、なんとかまとめてくれ。』というリクエストがくるが、そんな場合は『それならロシア文字で表記したら?』と笑いながら答えるようにしている。すると、相手はたいてい音を上げる。恐らくは、“こいつ使えない!”と思われているだろうが…。

話を元に戻そう。

1962年5月8日、ミャスコフスキーの『交響曲第19番』の日本初演を行なった“大阪市音楽団(市音)”は、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活躍を続けている。“大阪市音楽団”は、大阪市直営当時の名称だ。

当夜の演奏会は全国的な注目を集めた。吹奏楽専門誌「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)は、表紙に当日のステージ写真をあしらい、「最高レベルのシムフォニックバンド 大阪市音楽団 第5回特別演奏会」という題する2頁記事(12~13頁)を入れた。現場取材の同記事が伝える出席者の顔ぶれも次のようにひじょうに多彩だ。

『この日、この音楽団の多くの固定ファンや関西方面の好楽家、吹奏楽関係者で会場が埋り、一曲ごとに感激の拍手がをくられた。大フィルの指揮者朝比奈隆氏、NHK西川潤一氏、毎日新聞渡辺佐氏、大阪新聞中田都史男氏、音楽新聞佐藤義則氏、評論家上野晃氏、松本勝男氏、滝久雄氏や大阪府警音楽隊の山口貞隊長、大阪府音楽団小野崎設団長、阪急少年音楽隊の鈴木竹男隊長や、関西吹奏楽連盟の矢野清氏、得津武史氏など地元の人たちの外、東京から、芸大の山本正人、小宅勇輔、大石清の諸氏、東京都吹奏楽連盟の広岡淑生理事長、前警視庁音楽隊長山口常光氏、広島から広島大学の佐藤正二郎氏、岡山の前野港造氏なども来朝、この音楽団の発展を祝福した。』(原文ママ)

関西一円の吹奏楽関係者だけでなく、記事の中にやがて全日本吹奏楽連盟理事長に就任する朝比奈 隆さんや、「東京吹奏楽協会」のアーティスト名でレコードやソノシートにマーチをさかんに録音していた東京藝術大学の山本正人さん(指揮者)、小宅勇輔さん(打楽器)、大石 清さん(テューバ)の諸氏の名があることも目をひく。これは、当時の東西の人的交流の様子や、市音が1960年にはじめたコンサート・ホールでの定期演奏活動がいかに注目を集めていたかを如実に物語っている。山本さんが創立指揮者となる「東京吹奏楽団」が1963年に立ち上がる以前の話である。(参照:《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》《第129話 東京吹奏楽団の船出》

メイン・プロとなった『交響曲第19番』について、「吹奏楽研究」はこう記している。

『ソヴィエトの作曲家として、新しいソ連の音楽…大衆と密着した音楽という理念にもとづいて数多くの交響曲を作っているミアスコフスキーの、輝やかしいすぐれた交響曲の四つの楽章全曲が本邦初演された。』(原文ママ / “ミアスコフスキー”はプログラム表記どおり)

ニコライ・ミャスコフスキーは、生涯を通じて27曲の交響曲を作曲した。『交響曲第19番』は、その中で唯一吹奏楽編成で書かれた作品で、作曲者がモスクワ音楽院の院長をしていた当時、友人のモスクワ騎兵軍楽隊の隊長イワン・ペトロフの依頼を受け、1939年に作曲された。初演は、1939年2月15日、ペトロフ指揮の同軍楽隊のラジオ放送の中で行なわれ、公開演奏は、一週後の赤軍記念日にモスクワ音楽院で催されたコンサートで同軍楽隊によって行なわれた。評者も称賛!大成功を収めた。

ドイツ式楽器編成をルーツとする旧ソ連のミリタリー・バンドの楽器編成は、サクソフォンを使わない代わりに、アルト、テノール、バリトン、バスのサクソルン系の金管楽器を含んでおり、この交響曲もその特徴的な編成で書かれていた。初演はひじょうに好評で、たちどころにソ連のミリタリー・バンドのレパートリーとなった。その後、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーやエフゲニー・スヴェトラーノフといったクラシック畑で活躍する指揮者もレコーディングを行なっている。スヴェトラーノフは、ミャスコフスキーの交響曲全集を録音した指揮者だ。

この作品を日本人が知ったのは、1959年にアメリカでリリースされ、日本にも少数が輸入されてきたLP「MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND」(米Monitor、MC 2038、モノラル録音)だった。このレコードは、間違いなく、旧ソヴィエト国営レーベル“メロディア”がオリジナル原盤で、演奏者は、イワン・ペトロフ(Ivan Petrov)指揮、モスコー・ステート・バンド(Moscow State Band)とあった。また、ジャケットには、“A First Recording(初録音)”の小さな文字も印刷されていた。

後年、筆者がこのレコードを手にしたとき、指揮者が初演を振ったペトロフであることはすぐに気がついた。だが、バンド名の“モスコー・ステート・バンド”がどうしても謎だった。当時、共産党政権下のモスクワにミリタリー・バンド以外に民間吹奏楽団ができたというニュースはついぞ聞いたことがなかったからだ。“モスコー”が“モスクワ”、“ステート”が“ソヴィエト連邦”を意味していそうだとはおぼろげに想像できたが、実際にこれを日本語にするとなると、一体どう訳せばいいのだろうか。また、録音のための臨時編成なのか、常設のバンドなのか。それによっても日本語訳はかなり変わってくる。

この謎が解決したのは、その後、何十年も過ぎてから、AB両面のカップリング曲こそ違うが、同じ『第19番』の演奏が入っているメロディア盤を中古市場で手に入れたときだった。もちろん、レーベルに印刷されているロシア文字はチンプン・カンプンだったが、一文字ずつ照らし合わせていくと、レーベル最下部に指揮者のイワン・ペトロフ(ファースト・ネームはイニシャルのみ表記)の名が印刷され、その上に演奏者名があるらしいことが分かってきた。また、演奏者名は2行で構成され、最後の文字は“CCCP(ソヴィエト社会主義共和国連邦)”だった。ということは、それは間違いなく“公”の楽団であることを示していた。そして、その時点で“民間楽団説”は泡のように消えた。

同時に、外貨獲得目的で海外輸出用に製造されたメロディア盤のジャケットには、ロシア語名のほかに“ちょっと怪しい英訳”が印刷されていることが多いことを思い出した。そこで、30枚程度ある手持ちのメロディア盤を片っ端からあたっていくと…。

ハイ、ハイ、ほぼ同じ演奏団体名が、英訳付きでゾロゾロ出てきた!

文字化けの可能性もあるので、ここにロシア名は記さないが、英訳の方は、“ORCHESTRA OF THE USSR MINISTRY OF DEFENCE(ソヴィエト国防省吹奏楽団)”とあった。彼らはモスクワを本拠とするソヴィエト連邦最優秀、最大編成のミリタリー・バンドだ。さらに調べると、指揮者イワン・ペトロフは、初演の後、着実に昇進し、1950年から1958年までソ連邦最高峰のこのバンドの楽長をつとめていた。階級が少将とあったので、最高位の楽長だったことは間違いない。

以上のペトロフの履歴から、オーディオ好きの人は、ひょっとするとピンときただろう。

そう。アメリカでステレオ用カッティング・マシーンが実用化され、ステレオ録音のレコードがプレスされるようになったのが、実は1958年だった。それまでリリースされたレコードがすべてモノラル盤だったので、ペトロフが指揮したミャスコフスキーの『交響曲第19番』の世界初録音盤がモノラル録音であることも見事に辻褄が合った。

当時は、折りしも米ソ冷戦下。厚いベールに包まれたソヴィエトの国内情報のディティールに欠ける恨みはあるが、ここで追加情報をまじえて時系列的に整理すると、『交響曲第19番』の楽譜がソヴィエト国営の出版社から出版されたのは1941年。エドウィン・フランコ・ゴールドマン指揮、ゴールドマン・バンド(参照:《第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの》)が全曲のアメリカ初演を行なったのが、1948年7月7日(部分初演は、同年1月3日)。その後、ペトロフ指揮の世界初録音が1950~1958年の間に行なわれ、そのアメリカ盤がリリースされたのが1959年だったという流れとなる。

この間、作曲者のミャスコフスキーは、1950年8月8日、モスクワで亡くなっている。

それにしても、西側初のレコードで作品情報に接してから、僅かな年月で日本初演にまでこぎつけた市音の情報収集力とモチベーションはすごい!!

ウィンド・ミュージックにかけるこの楽団の情熱がひしひしとして伝わってくる1つのエピソードだ!

▲Nikolai Myaskovsky

▲LP – MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND(米Monitor、MC 2038、1959)

▲MC 2038 – A面レーベル

▲MC 2038 – B面レーベル

▲〈露語記号略〉5289-56 – A面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)

▲〈同〉5289-56 – B面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第129話 東京吹奏楽団の船出

▲「月刊 吹奏楽研究」1963年12月号(通巻86号、吹奏楽研究社)

▲東京吹奏楽団パンフレット(1970年代前半)

▲東京吹奏楽団、吹奏楽テープ・リスト(1972年頃)

『これまで、わが国のプロ吹奏楽団は、自衛隊、警察、消防などの外、大阪府・市の両音楽団くらいのもので、何れも官庁が設けているものであるが、民間のプロ吹奏楽団として、わが国ではじめて「東京吹奏楽団」が誕生した。このメンバーは専門家だけの、日本の吹奏楽界のトップを行く人たちばかりである。十月二十四日の夜、第一ホテルで結成披露パーティが催され、吹奏楽関係の人たち百余人が集り、この楽団の前途を祝福した。…(後略)…』(原文ママ)

1963年(昭和38年)10月24日(木)、東京・新橋の第一ホテル(旧)で行なわれた東京吹奏楽団結成披露パーティを伝える吹奏楽専門誌「月刊 吹奏楽研究」1963年12月号(通巻86号、吹奏楽研究社)の28ページに掲載された「新しく生れたプロバンド 東京吹奏楽団」というニュースの冒頭部分の引用だ。

「月刊 吹奏楽研究」は、1953年(昭和28年)に、タブロイド版の“月刊新聞”でスタート。1956年(昭和31年)5月号(通巻31号)から雑誌に姿を変え、1964年(昭和39年)3月号(通巻87号)まで刊行された吹奏楽の現場で活動する専門家による吹奏楽専門誌だ。記事の執筆者は不詳だが、この書き手が“プロ吹奏楽団”というカテゴリーをどのように捉えていたのか、当時の認識がよくわかってたいへん興味深い。(参照:《第74話 「月刊吹奏楽研究」と三戸知章》ほか)

関東エリアの吹奏楽に限ると、以上のほかに、1951年から東京藝術大学で、1953年から武蔵野音楽大学で、1960年から国立音楽大学で始まったアカデミックな活動もよく知られていたが、東京吹奏楽団の1963年の結成は、これら専門大学の動きからもさらに一歩踏み出して一線を画す、新たな職業吹奏楽団の旗揚げとしてたいへん注目を集めることになった。

記事によると、東京吹奏楽団(東吹)は、当時、東京都中央区銀座東1-10の三晃社ビルに事務局を構え、楽団員は60名。当初は常任指揮者は置かず、事務局は、以下の諸氏が束ねていた。

会長:河合 滋
理事長:加藤成之
専任理事:川崎 優、前沢 功
常任理事:梅原美男、江間恒雄、大塚茂之、春日 学
事務局長:沢野立二郎

この内、会長の河合 滋さん(1922~2006)は、河合楽器製作所二代目社長(後に会長)であり、理事長の加藤成之さん(1893~1969)は、元貴族院男爵議員で、東京音楽学校(東京藝大の前身)の校長をつとめ、学制改革で東京藝術大学が発足するとその初代音楽学部長となった人物だ。よく見ると、専任理事に東京音楽学校でフルート、作曲、指揮法を専攻した作曲家の川崎 優さん、常任理事に東京音楽学校でオーボエを専攻し、東京藝術大学教授となった梅原美男さん、海軍省委託学生として東京音楽学校を修了し、後に全日本吹奏楽連盟理事長、日本吹奏楽指導者協会(JBA)会長を歴任した春日 学さんの各氏の名前が見られる。これらから、東吹が、河合楽器がスポンサードし、東京藝大とつながりが深い楽団として出発したことは誰の目にも明らかだった。(経営母体は、2006年に(株)グローバルに移管。)

「吹奏楽研究」の記事中の“このメンバーは専門家だけの、日本の吹奏楽界のトップを行く人たちばかりである”や、東吹の初期のプログラムに記載されていた“演奏者は、音楽の基礎を身につけた専門家ばかりで、誰一人みても日本吹奏楽界のトップレベルの人達ばかりである”という文脈から、当時、東吹にどのような演奏家が参加していたかがよくわかるだろう。

東京吹奏楽団の「第1回定期演奏会」は、結成披露パーティ翌月の1963年(昭和38年)11月5日(火)午後6時30分から、東京・千代田区の九段会館で開催され、プログラムは以下のとおりだった。

・喜歌劇「こうもり」序曲
(ヨハン・シュトラウス〈子〉)

・ヒル・ソング第2番
(パーシー・グレインジャー)

・吹奏楽のための交響曲
(ポール・フォーシェ)

・交響組曲「シェヘラザード」
(ニコライ・リムスキー=コルサコフ)

(管弦楽曲の編曲者名はなし。楽団公式ホームページには、このときのプログラム、ステージ写真、新聞レビューなど、歴史的資料がアップロードされている。)

この演奏会の指揮者は、山本正人さん(1916~1986)だった。山本さんは、東京音楽学校でトロンボーンを専攻し、同研究科を修了。同学教員になった後、1951年(昭和26年)、東京藝術大学吹奏楽研究部を組織し、指揮者として活躍。年2回の定期演奏会のほか、レコーディングにも進出するなど、同学吹奏楽の立役者だった。東吹結成以前に山本さんの指揮で発売された吹奏楽レコードやソノシートの演奏者クレジットは、“東京藝術大学吹奏楽研究部”あるいは“東京吹奏楽協会”の2種類があるが、いずれも東京藝大の教官と学生による演奏だった。時系列的検証をすると、東吹がこの流れの中から生まれた楽団であることがよくわかるだろう。当初、常任指揮者をおかないとプレスリリースした東京吹奏楽団だが、公式サイト(2020年現在)では、山本さんは“創立指揮者”および“桂冠名誉指揮者”としてリスペクトされている。東吹定期には、指揮者として計24回登場。藝大関係者には、“トロさん”とか“トロ先生”の愛称で親しまれた。

その後、東吹定期に登場した指揮者には、外山雄三、山田一雄、金子 登、加藤正二、大橋幸夫、朝比奈 隆、中山冨士雄、石丸 寛、荒谷俊治、三石精一、汐澤安彦、上垣 聡、時任康文、エリック ウィッテカー、岩村 力、フィリップ・スパーク…という錚々たる顔ぶれが並ぶ。この内、拙稿《第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新》にも登場する汐澤安彦さんは、1983年に東吹の“常任指揮者”となり、2009年の東吹結成45周年を機に“名誉指揮者”に就任。創立指揮者の山本さんは、藝大時代のトロンボーンの師であり、東吹とは切っても切れない関係にある。

他方、大阪ネイティヴの筆者としては、1967年(昭和45年)4月27日(木)、日比谷公会堂で行なわれた「第12回定期演奏会」に朝比奈 隆さんが指揮者として登場し、日本では《運命》と呼ばれるべ一トーヴェンの『交響曲第5番』を演奏したと少したってから聞かされて腰を抜かした記憶がある。《運命》を吹奏楽で演奏しただけでなく、この演奏会では、同じベートーヴェンの『エグモント』序曲やドン・ギリスの交響的肖像『タルサ』、モートン・グールドの『サンタ・フェ・サガ』、フローラン・シュミットの『ディオニソスの祭り』が演奏されていた。

なんとも、派手なプログラミングだ!

しかしながら、若い頃は、遠い東京で開かれる東吹定期は、そう簡単に聴きに行けなかった。国鉄東海道本線の東京~大阪間を毎日走っていた夜行の寝台急行「銀河」の往復利用で宿泊なしの弾丸ツアーを決行しても、かなりの出費だったからだ。やはり、東京は遠かった。

それでも、コロムビアやビクター等から発売されたマーチのレコードは、結構な数が手許に残っている。中でも、日本コロムビアからマーチ4曲入りのEPレコードとしてリリースされた《世界マーチ集》シリーズ(全55タイトル、1964~1965)には、かなりレアな曲が含まれ、マーチ・コレクションとして評価が高い。

また、その後いつしかサービス終了となったが、演奏会ライヴの一部をリクエストごとにオープン・リールのテープにコピーして頒布するサービスも、ひじょうに先進性があった。

1972年(昭和47年)に郵送してもらった頒布可能曲のリストを見ると、奥村 一、草川 敬、秋山紀夫、斎藤高順、保科 洋、陶野重雄、森村寛治、小川原久雄、清水 脩、黛 敏郎、兼田 敏、菅原明朗、岩河三郎、名取吾朗、小山清茂、浦田健次郎による邦人のオリジナル吹奏楽曲がズラリと並んでいた。ほとんどがレコードがない曲だったが、その中から多くが、河合楽器系列のカワイ楽譜から出版されることになった。

まるで“吹奏楽の総合商社”のようだが、楽譜とタイアップしながらの定期演奏活動はひじょうに画期的だった。

東吹がスタートした1960年代の初めは、1960年1月にアメリカ空軍バンドが3度目の来日、同4月に大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)がコンサート・ホールにおける定期演奏活動を開始、1961年11月にフランスからギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団(公演名)が初来日したなど、わが国の吹奏楽をとりまく環境がダイナミックに変貌を遂げつつあった時期と重なる。

それでも、プロ楽団の立ち上げは、大きな挑戦だ!

『その運営が軌道にのるためには、いろいろいばらの道を歩むことであろうが、順調な発展成長を期待したいものである。』

「月刊 吹奏楽研究」も、記事後半にこう記し、新しい楽団の船出にエールを贈っていた!!

▲EP – 世界のマーチ集(アメリカ・マーチ その18)(日本コロムビア、ASS-10040、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(アメリカ・マーチ その19)(日本コロムビア、ASS-10041、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(アメリカ・マーチ その20)(日本コロムビア、ASS-10042、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(ドイツ・オーストリア・マーチ その8)(日本コロムビア、ASS-10044、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(ドイツ・オーストリア・マーチ その9)(日本コロムビア、ASS-10045、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(日本・マーチ その7)(日本コロムビア、ASS-10052、1964年)

▲プログラム – 東京吹奏楽団第20回定期演奏会“吹奏楽オリジナル作品の夕べ”(1971年10月21日、郵便貯金会館)

▲同、演奏曲目等

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第128話 ヴァルター・ブイケンスとクラリネット合奏団

▲ヴァルター・ブイケンス – プロフィール&ディスコグラフィ(Buffet Crampon)

▲CD – ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団 ライヴ・イン・ジャパン(佼成出版社、KOCD-2502、1993年)

▲KOCD-2502、インレーカード

1993年(平成5年)7月1日(木)、東芝EMIプロデューサーの佐藤方紀さん、音楽出版社デハスケ(de haske)マネージャーのハルムト・ヴァンデルヴェーン(Garmt van der Veen)の2人と、オランダから列車でベルギーのアントワープ入りした筆者は、同夜、友人のヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)が手配してくれた中華レストランでプライベートな会食をもった。

このとき、一足先にレストランに着いて、我々を待っていたのは、クラリネット奏者、ヴァルター・ブイケンス(Walter Boeykens、1938~2013)夫妻だった。

ブイケンスは、筆者の姿を見つけるなり、駆け寄ってきて、『本当にすばらしいレコーディングをありがとう。とにかく、いいライヴに録ってくれて、みんなとても気に入っているよ!』と言いながら握手を求めてきた。そして『私の妻だ。』と傍らの奥さんを紹介される。こちらは、初対面だ。

ヴァルター・ブイケンスは、1964年から1984年までの20年にわたり、当時はBRTと言ったベルギー国営放送のオーケストラ“ベルギー放送フィルハーモニー管弦楽団(BRT Filharmonisch Orkest / その後、ブリュッセル・フィルハーモニック Brussels Philharmonic に改称)”の首席クラリネット奏者をつとめ、ベルギーを代表するクラリネット奏者として、日本はもとより世界的な知名度を誇っていた。

その彼が言うレコーディングとは、一年前の1992年(平成4年)11月8日(日)、東京・御茶ノ水のカザルス・ホールでライヴ収録したCD「ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団 ライヴ・イン・ジャパン」(佼成出版社、KOCD-2502、1993年5月25日リリース)のことだった。

ヤンも、『あのディスクは、ナイス・レコーディングだ! こっちでもかなり話題になっているよ。』と言葉をかぶせてくる。実は、奥さんがブイケンスの秘書をしている関係で両者は家族ぐるみの付き合いがあり、当然このCDも聴いていた。

演奏者の“ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団”は、1981年、ブイケンスが教鞭をとっていたアントワープ音楽院で組織された大編成のクラリネット合奏団で、全員がブイケンスの教えを受けた現役学生と卒業生のプロで構成。音色の暖かさと滑らかさから“ブイケンス・クラリネット・スクール”とも呼ばれる統一したスタイルでトレーニングされていた。

そのクラリネット合奏団が、東京のビュッフェ・クランポン社の招聘で来日したのが1992年。

当時のプログラムを開くと、彼らは以下のような人数で日本にやって来ていた。

2 Sopranino Clarinet in Eb

29 Soprano Clarinet in Bb

1 Soprano Clarinet in A

4 Alto Clarinet in Eb

5 Bass Clarinet in Bb

2 Contra-Alto Clarinet in Eb

2 Contra-Bass Clarinet in Bb

(各楽器名は、公演プログラムどおり)

総勢45名。引き合いとしてはあまりいい例ではないかも知れないが、フランスのギャルド・レピュブリケーヌやベルギーのロワイヤル・デ・ギィデといったフランス系の吹奏楽団のクラリネット・セクションをそっくり引き抜いてさらに補強したような楽器編成をもつクラリネットだけの同族合奏団だ。

ブイケンスは、クラリネットだけで構成されるこのグループの音楽的な可能性を切り開くため、現代作曲家への委嘱を含めた新しいレパートリーの開発に取り組み、積極的な演奏活動を展開。ベルギー国内の重要なコンサート・シリーズにすべて登場するとともに、オランダやフランスにも進出。ブイケンスの指揮者としての人気や名声も手伝って、いずこも満席の成功を収めていた。

また、テレビやラジオにも積極的に出演し、来日までに「The Walter Boeykens Clarinet Choir, The Antwerp Clarinet Quartet」(LP:ベルギーTerpsichore、1982 007、1982年)、「From J.S. Bach to J.L. Coeck」(CD:ベルギーRene Gailly、CD87 003、1986年)の2枚のアルバムのレコーディングも行なっていた。

佼成出版社の「ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団 ライヴ・イン・ジャパン」は、彼らの3枚目のアルバムということになる。

ただ、このアルバムに筆者が関わることになったのは、いくつかの小さな偶然の重なりからだった。

筆者は、1980年代の終わり頃から、東京のビュッフェ・クランポン社代表取締役、保良 徹さんの意向を受けて、同社が企画する公演のプログラム・ノート(楽曲解説)の執筆依頼を引き受けることが多くあった。その後、さまざまな音楽シーンで活動をともにすることになる担当の千脇健治さん(後、代表取締役社長兼CEO)と知己を得たのもその頃のことだ。

そして、ちょうど「ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団」の公演プログラム用のノートの執筆に取り組んでいた時、相次いで東京からの電話を受けた。『何か面白い話ない?』といった感じの。

最初の電話の主は、1992年8月16日(日)にNHK-FMの特別番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」(参照:第58話 NHK 生放送!ブラスFMオール・リクエスト)をやって以後、定期的な情報交換を行なっていたNHKの梶吉洋一郎さん。ついで、電話があったのは、筆者が提案・選曲したフィリップ・スパーク自作自演CD「オリエント急行」(佼成出版社、KOCD-3902、リリース:1992年12月21日 / 参照:第48話 フィリップ・スパークがやってきた)を制作した同社の水野博文さん(後、社長)だった。

ふたりは、筆者のもとに、東京の音楽界ではまったく話題に上らない地方発の“怪しい”ネタが眠っているかも知れないと思っていたふしがある。ときどき雑談がてら電話が架かってきた。当然、その時やっている仕事の話はする。もちろん、両者には同じ話を誰にしたかなんて無粋なことは言っていない。それは、東京には東京の複雑に入り組んだ事情があり、関西ローカルの“とある情報筋”との雑談をどう扱うかは彼ら次第、というスタンスだったからだ。

だが、意外にも結果は早く出た。NHKでは、自分たちが認知していない新しいものにはことごとくアレルギー反応を示す放送局らしく、アッという間にボツ。逆に、それまでの枠を超えてポジティブに新しいものに取り組みたいとする水野さんは、前記の千脇さんと話を詰めて、即攻でライヴ収録を決めてしまった!

録音エンジニアも、すぐに藤井寿典さん(後、auftactを設立)に決定。当時、ブレーン(広島)にいた藤井さんは、プロ、アマのライヴ収録を数多く手がけていた適任者で、これで、あとはライヴの日を待つばかり、となる手筈だった。

しかし、その後、ブイケンス側からゲネの時間に難しい曲を完全に録音しておきたいというリクエストが出て、プロデューサー(日本流に言うと“ディレクター”)をつけてくれという話になったから、企画サイドは少し慌てた。何しろ人探しの日が無い。結局、大阪ネイティブの筆者が、11月4日(水)、大阪厚生年金会館中ホールの大阪公演を聴いた上で、急遽、プロデューサーとして上京することになった。ビュッフェ・クランポンから、収録用スコア(ほぼ手書譜のコピー)を受け取ったのも、収録前夜に宿泊した東京のホテルという慌しさで、もちろん断酒で深夜まで猛勉強した!

当日のコンサートは、午後2時開演のマチネで、食事休憩のことも考えると、午前中、ゲネに使える時間はそんなにはなかった。リクエストされた曲は、完全にセッション収録したが、正直に言わせてもらうなら、これは演奏者の“精神安定剤”のような気休め程度のもので、本当は不要だったかも知れない。ツアー最終日に寝起きでやったゲネと満員で盛り上がった本番のコンサートとでは、まるで音楽のテンションが違ったからだ。

唯一、どうするか悩んだのは、高揚した世界的名手がカデンツの駆け上がりで唯一リードをキッと鳴らしたロッシーニの『序奏、主題と変奏』だった。これはゲネでも録った曲だった。なので、そこだけ見事に音色もテンションもテンポまで変わってしまうが、編集は可能かも知れなかった。また、CDの収録時間上の制約もあるので、あるいは“お蔵入り”という手もあるかも知れない。終演後、そんなことをひとり考えていたとき、突然、合奏団のマネージャー氏が赤く興奮した面持ちでモニター席に飛びこんで来た。

『ロッシーニは、ライヴを使ってくれ!! 圧倒的にライヴがいい!!』

結局、思い悩んだ挙句、そのままCDに収録した。もちろん、その責はひとり筆者に帰する。

そして、アントワープでの会食で愉快にビールを飲み交わしながら、ブイケンスは悪戯っぽい表情でこう言った。

『こちらで録ったものより、圧倒的にいい。ただ、1つだけ“ユニークな音”が入っていたけど。』

あ~あ、言われてしまった!!

▲プログラム- ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団(ビュッフェ・クランポン、1992年)

▲同上、スケジュールとAプロ

▲同上、Bプロ、Cプロ

▲CD – From J.S. Bach to J.L. Coeck(ベルギーRene Gailly、CD87 003、1986年)

▲CD87 003、インレーカード

CD – Rikudim(蘭de haske、14.001、1997年)

▲14.001、インレーカード

▲ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第127話 ウェリントン・シタデル・バンドの来日

▲チラシ – ウェリントン・シタデル・バンド大阪・京都公演(1979年4月10日、フェスティバルホール / 4月12日、京都会館第二ホール)

▲ツアー・プログラム – ウェリントン・シタデル・バンド 1979 JAPAN TOUR

▲同、演奏曲目

▲LP – WELLINGTON CITADEL BAND IN JAPAN(CBSソニー、25AG 630、1979年)〈ステレオ〉

▲ 25AG 630 – A面レーベル

▲ 25AG 630 – B面レーベル

2019年(令和元年)11~12月、ニュージーランドのウェリントン・シタデル・バンド(Wellington Citadel Band of Salvation Army)が、5度目の日本演奏旅行を実現した。

バンドは、1883年の創立。ニュージーランド北島南端部にある首都ウェリントンを本拠とし、世界的にその名を知られる救世軍ブラスバンドの“至宝”だ。

初来日は、1979年(昭和54年)の4月のこと。それは、その9年前の1970年(昭和45年)7月8日(水)、大阪・千里丘丘陵で開催された日本万国博覧会の“ニュージーランド・ナショナルデー”に際し、同国政府の派遣で来日した“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド(National Band of New Zealand)”についで日本の地を踏んだ2番目の海外ブラスバンドとなった。(参照:《第95話 ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド来日》

来日ブラスバンドの第1陣、第2陣が、意外にもブラスバンドの母国イギリスからではなく、いずれも古き良きイギリスが息づくニュージーランドからだったことは、とても興味深い事実だ。

加えて、特筆しておきたいことは、先にやってきた“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド”が万博会場のみの演奏だったのに対し、“ウェリントン・シタデル・バンド”は、東京、浜松、大阪、名古屋、京都、前橋の各会場で演奏会を行い、NHKホール(東京)のライヴは、テレビとFMラジオでオンエア。また、滞在中、日本のレコード会社によるレコーディング・セッションも行なわれるなど、実質、両者の露出度にはかなりの差異があった。

言い換えるなら、運良く万博でナショナル・バンドを聴いたり、イギリス等でブラスバンドに接した経験があるなど、一部の例外を除けば、大部分の日本人にとって、ウェリントン・シタデル・バンドは、はじめてナマのサウンドを聴く海外のブラスバンドとなった。

1979年ツアーの主なスケジュールは、以下のように組まれた。

・4月6日(金) 成田空港に到着
歓迎レセプション(ニュージーランド大使館主催)

・4月7日(土) NHKホール(東京)

・4月9日(月) 浜松市体育館

・4月10日(火)フェスティバルホール(大阪)

・4月11日(水) 愛知県文化会館講堂(名古屋)

・4月12日(木) 京都会館第二ホール

・4月14日(土) 共愛学園頌栄館(前橋)

・4月15日(日) セブンシティホール(東京)

・4月17日(火) 石橋メモリアルホール(東京)、CBSソニー録音
朝日講堂(東京)「公開講座」

・4月18日(水) 成田空港から出国

(以上の他にも、屋外の演奏や礼拝演奏もあった。)

この内、ネイティブ大阪の筆者が聴いたのは、座席数2700を誇るフェスティバルホールを満席(フルハウス)にした大阪(4月10日)のコンサートだった。

その後、知己を得た救世軍ジャパン・スタッフ・バンド(東京・神田神保町)の元楽長(Bandmaster)、鈴木 肇さん(2012年に退任)とは、会えばいつもこの当時の話題で盛り上がる。

鈴木さんは、後に東京藝術大学名誉教授となった師の中山冨士雄さん(1918~1997)が1982年に設立した日本トランペット協会の理事をつとめる一方、2011年6月、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた救世軍インターナショナル・スタッフ・バンド(International Staff Band)の120周年を祝う記念コンサートへの参加などを目的として、ジャパン・スタッフ・バンドを率いて渡英。日本の救世軍音楽のドライビングフォースとして国際的な知名度も高い。楽長退任後も、ブラスバンドにかける情熱は衰えない。

その鈴木さんが救世軍の音楽に関心をもったそもそものきっかけが、師のレッスンを待つ間、ときおり聴かされた古い救世軍バンドのレコードだったというから面白い。さらに驚いたことに、オーケストラのトランペット奏者としても名を馳せた中山さんも、実は、少年期に東京・芝の救世軍でコルネットのレッスンを受け、救世軍のバンドで演奏した時期があった。

それだけに救世軍ブラスバンドへの思い入れも強く、中山さんがウェリントン・シタデル・バンドのツアー・プログラムに寄せた「訪日を心から歓迎して」と題する祝辞も、以下のような書き出しで始まる。

『この度のウェリントン・シタデル・バンドの来日は私にとって全く嬉しいことの一つです。待ちに待った友人が訪ねてくれたという感じです。私が中学生のときにコーネットを始めたのは日本の救世軍支部のバンドで、この落着いた美しい音に魅せられたのが音楽入門の動機でした。この少年時代の感動はいまでも私の心の糧となっています。(後略)。』(原文ママ)

ウェリントン・シタデル・バンドの来日は、師弟ともどもの悲願でもあった!

そして、ついにその初来日が実現!!

コンサートはいずこも大盛況となった。

しかし、現場をサポートした鈴木さんの話によると、当時の日本の映像・音響スタッフは、はじめて目の前に現れたブラスバンドの姿に大いに戸惑ったようだ。

例えば、NHKは、初日のコンサート(4月7日、NHKホール)を録画・音声収録したが、まずブラスバンド独特のステージ配置に面喰った。客席側からだとコルネットやトロンボーンが横向きに向かい合って配置され、各奏者の表情を映像でうまく伝えにくい上に、バンドの内側に入る指揮者の顔もステージ上から撮らねばならない。しかも、バンドのステージ衣装のジャケットの色が赤だったため、画像がハレーションを起こしやすい。色調整も兼ねてカメラを変えたり、カメラワークには相当苦労したようだ。また、音響面でもいろいろ試した挙句、最終的にマトリクス方式のワンポイント・ステレオとソロ用などの必要最少限の補助マイクで対応した。

『ビートルズからカラヤンまで広い幅のある映像を撮ってきたNHKにとっては、初めての音楽形態だったようだね。』と鈴木さんは苦笑い。

テレビの初放送は、5月5日(土・祝)、19時30分から45分番組として教育テレビで、再放送は、翌日の5月6日(日)、15時45分から同じく教育テレビでオンエアされた。FM放送は、秋山紀夫さんがコメンテーターをつとめた「ブラスのひびき」で、6月10日(日)、8時30分からの30分番組として放送された。(その後、テレビもFMも、放送時間や内容を変更した放送が何度か行なわれている。)

一方、CBSソニーのためのレコーディングは、4月17日(火)、石橋メモリアルホールで行なわれた。

ここでは、ホール各部を利用してセパレーションのいいマルチ方式で録音したいレコード会社のスタッフと、ニュージーランドでいつもやっているステージ配置でナチュラルにブレンドさせたサウンドを“通し演奏”で録ってほしいバンド側の考え方が真っ向から激突。演奏中、何度もストップがかかり、指揮者やバンドにとってはかなりストレスを伴うセッションになったようだ。

『楽長のエリック・ゲデス(Eric Geddes)や前楽長のバート・ニーヴ(Bert Neeve)と、ソニー技術陣との間で相当シリアスなやりとりがあった感じで…..。ステージ上にかなりの数の近接マイクが並び、アクリル板のパーテーションもあったりして、不慣れな環境になかなか思ったように音が決まらず、時間もかなり押して、口には出さなかったものの、バンドも疲れきってしまった。』とは、鈴木さんの率直な感想だった。

正しく“日本の常識は、海外の非常識。海外の常識は、日本の非常識”という類いの話で、無責任な外野的立場から言わせてもらうなら、日本側にブラスバンド録音の経験値が全くなかったことが一因のように思えた。この考え方の相違については、解説者の秋山紀夫さんがレコードのスリーヴに詳細に書かれている。

『ところが、セッション終了後、朝日講堂に移動してからの公開講座(全日本吹奏楽連盟・WCB招聘委員会主催)では、バンドは“ビッシビシ”で、すばらしかった。』と、鈴木さんの弁はつづいた。どうやら、セッションから開放されたバンドはいつもの調子を取り戻したようだった。

最終的に、レコードは、6月21日(木)、「ウェリントン・シタデル・バンド WELLINGTON CITADEL BAND IN JAPAN」(LP:CBSソニー、25AG 630)としてリリースされ、かなりの注目を集めている。

その他、報道サイドでは、「バンドジャーナル」1979年6月号(音楽之友社)が、カラー記事3頁、記事11頁ほかという破格の大特集を組み、中山冨士雄、中河原理、菅野浩和、山本武雄、林 和雄、張田 望の各氏が執筆。“ベルヴェット・サウンド”と称賛されたウェリントン・シタデル・バンドの名は、広く日本のバンド・ファンの知るところとなった。

そして、大成功を収めた1979年ツアーから40周年。1985年、2007年、2013年、2019年と来日を重ねたこのバンドのハートフルなパフォーマンスは、日本のステージでもおなじみのものとなった。

長年培われたスタイルを守り、温かいサウンドも健在!

今後とも何度も来日して、心に響く演奏を届けて欲しいものだ!!

▲ LP(25cm)、The Salvation Army(ニュージーランドHis Master’s Voice、MDLP 6036)〈モノラル〉

▲ MDLP 6036 – A面レーベル

▲ MDLP 6036 – B面レーベル

▲ LP – Wellington Citadel Band(ニュージーランドViking、VP 20)〈モノラル〉

▲ VP 20 – A面レーベル

▲ VP 20 – B面レーベル

▲ LP – Marches(ニュージーランドSalem、XPS 5072)〈ステレオ〉

▲ XPS 5072 – A面レーベル

▲ XPS 5072 – B面レーベル

▲「朝日新聞」1979年5月5日(土)朝刊、〈東京版〉13面

▲「讀賣新聞」1979年6月9日(土)夕刊、〈東京版、2版〉7面

▲「バンドジャーナル」1979年6月号(音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第126話 ベルリオーズ「葬送と勝利の交響曲」日本初演

▲チラシ – 第4回大阪市音楽団特別演奏会(1961年11月22日、フェスティバルホール)

▲プログラム – 第4回大阪市音楽団特別演奏会(同)

▲同、演奏曲目

『大阪市音楽団による定期演奏会も今度で第四回を数える。軍楽隊以外、世界にも例の少い職業吹奏楽団として独自の成長を隊げて来た仝団の足跡は正に注目に値するものがある。

視野の広いレパートリーによる新鮮な演奏で毎回確実なファンを集めて来た定期演奏会の試みはまことに有意義である。

兎角楽壇の一隅に孤立し勝ちな吹奏楽の分野に文字通りの新風と精彩をもたらしたことは全く辻井団長の秀れた指導力と団員諸君の努力によるものであって同慶に堪えない。今後とも愈々精進を重ね常に吾国吹奏楽界の先頭に立ち、日本のギヤルド・レピュブリケーヌたるの誇を持って発展せられることを期待している。 朝比奈 隆』(一部異体字の変更以外、原文ママ)

1961年(昭和36年)11月22日(水)、大阪市北区中之島のフェスティバルホールで開催された「第4回大阪市音楽団特別演奏会」のプログラムに、大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)常任指揮者(当時)の朝比奈 隆さん(1908~2001)が寄せた祝辞の全文だ。

“大阪市音楽団(市音)”とは、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活動する大阪の楽団の大阪市直営時代の名称だ。

特別演奏会当夜の指揮者は、市音団長の辻井市太郎さん(1910~1986)。

実は、祝辞を寄せた朝比奈さんと辻井さんは、昭和のはじめ、市音がまだ“大阪市音楽隊”と称した頃からの知己で、当時、朝比奈さんは、師の亡命ウクライナ人指揮者エマヌエル・メッテル(Emmanuel Metter、1878~1941)が推進する関西の交響楽運動の用向きで、メッテルのメッセージやリクエストを携えてしばしば市音(当時は管弦楽もやった)を訪れていた。そこで知り合った、ともに明治生まれの若い二人は、ほぼ同年齢ということもあり、何かと馬が合った。(参照:《第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲》)

戦後、二人は、管弦楽、吹奏楽の違いこそあれど、大阪を代表するオーケストラ(関西交響楽団)とバンド(大阪市音楽団)の指揮者となった。

そして、1960年(昭和35年)。《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》でもお話ししたように、市音は、4月18日(月)、大阪市北区にあった毎日ホールで辻井市太郎指揮の「第1回大阪市音楽団特別演奏会」(第17回以降は“特別演奏会”を“定期演奏会”と呼称変更。Osaka Shionの“定期演奏会”へと脈々と受け継がれる)を開催。すると、関西交響楽団から改組、改称したばかりの大フィルも、5月14日(土)、同じ毎日ホールで、朝比奈 隆指揮の「大阪フィルハーモニー交響楽団第1回定期演奏会」を開催した。

偶然だろうが、まるで示し合わせたような動きがとても興味深い。

また、“特別演奏会”に寄せたはずの祝辞の中で、朝比奈さんは2度も“定期演奏会”と書いている。これは、間違いなく確信犯で、辻井さんと市音の活動への援護射撃だった。

ともかく、1960年は、大阪の楽壇が新たな一歩を踏み出し、躍動を始めた年だった。

そして、その翌年の1961年には、フランスの“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(公演名)が初来日し、大阪でもフェスティバルホールでコンサートを行なった。(参照:《第22話 ギャルド1961の伝説》)

奇しくもそれは、市音第4回特別演奏会のほぼ2週間前の11月6日(月)のことだった。

話を元に戻そう。

そんな空気の中で開催された市音の第4回特別演奏会は、同時に、2700席のキャパを誇るフェスティバルホールにおける市音初の演奏会で、クラシックの殿堂にふさわしい、とても意欲的なプログラムが組まれた。

第4回大阪市音楽団特別演奏会
(フェスティバルホール、大阪)18:30

・メキシコの祭り~メキシコ民謡による交響曲
(H・オーウェン・リード)

・ラプソディ・イン・ブルー
(ジョージ・ガーシュウィン / 辻井市太郎編)

・葬送と勝利の交響曲(作品15)
(エクトル・ベルリオーズ)<本邦初演>

アメリカとフランスのオリジナル・シンフォニー2曲の間に、真木利一のピアノをまじえたジョージ・ガーシュウィン(1989~1937)の名曲『ラプソディ・イン・ブルー』を挟んだ堂々たるプログラムだ。

メイン・プロに、エクトル・べルリオーズ(1803~1869)の『葬送と勝利の交響曲』(作品15)の<本邦初演>をもってきたのは、多分にギャルド来演を強く意識してのものだったろう。市音がフランスのシンフォニーを取り上げるのは、1960年(昭和35年)11月9日(水)、毎日ホールで行なわれた「第2回特別演奏会」で本邦初演されたポール・フォーシェ(1881~1937)の『交響曲 変ロ調』以来、これが2曲目だった。

べルリオーズの『葬送と勝利の交響曲』(1840)は、1830年の“7月革命”から10周年を記念し、ルーヴルの柱廊に仮埋葬されていた革命戦士たちの遺体をバスティーユ広場に建てられた記念碑地下の墳墓に移すとともに、バスティーユ広場で行なわれる式典の間、演奏される音楽として、フランス政府の委嘱で作曲された。

その記念式典は、1840年7月28日に行なわれた。

ベルリオーズが、屋外で行なわれるこの演奏目的のために雇った楽師は、200名という大編成の吹奏楽で、指揮は、作曲者自身が行なった。

3楽章からなるこのシンフォニーは、死者のためのミサが行なわれたサン・ジェルマン・ローゼロワ教会のあるルーヴル通りを出てバスティーユ広場に至る革命戦士たちの遺体がたどるルートで演奏された第1楽章「葬送行進曲」。バスティーユ広場での遺体埋葬と記念碑の序幕式で演奏された第2楽章「追悼曲」と第3楽章「アポテオーズ」で構成される。

その後、室内演奏の機会に、ベルリオーズが弦楽や六声の混声合唱を加えたことから、実演に際しては、「吹奏楽のみ」、「吹奏楽 + 合唱」、「吹奏楽 + 弦楽 + 合唱」、「吹奏楽 + 弦楽」といったヴァリエーションが愉しめる。

辻井市太郎指揮、大阪市音楽団は、この内、「吹奏楽 + 合唱」を採った。1958年にデジレ・ドンデイヌ指揮、パリ警視庁吹奏楽団が行なった世界初録音盤(仏Erato、LDE 3078〈モノラル盤〉/ STE 50005〈ステレオ盤〉)と同じ立場だ。(参照:《第26話 デジレ・ドンデイヌの遺産》)

吹奏楽専門誌「月刊 吹奏楽研究」1962年2月号(通巻76号、吹奏楽研究社)は、表紙に演奏会当日のステージ写真をあしらい、「大阪市音楽団 シムフォニックバンド 第四回特別演奏会」(原文ママ)という2頁記事でこの演奏会をレビューしている。

『日本に数多い吹奏楽団のなかで最もすぐれたシムフォニックな内容をもつ「大阪市音楽団」の特別演奏会は、…(中略)…、常に意欲的に新しい吹奏楽芸術探求の不断の精進ぶりを公開しているが、その第四回公演は、十一月二十二日午后六時半から、大阪フェスティバルホールで開催された。はるばる東京から菅原明朗、高山 実、松本秀喜、三戸知章の諸氏も来聴し、「日本のギャルド」と称されるこの楽団の成長ぶりが遺憾なく発揮された。』(原文ママ)

また、評者不詳ながら、ベルリオーズのシンフォニーに関する演奏評もある。

『第一楽章の葬送行進曲が特に印象的であった。また第二楽章における古川博氏のトロムボン・ソロ「叙唱と詠唱」は、よく哀悼の情を歌っていたようだ。終楽章では大阪音楽大学合唱団が加って「栄光と凱旋」の場面は、合唱団の迫力が、バンドに圧せられて物足りなく感ぜられたのは残念であったが、相当盛りあげられて万雷の拍手を受けた。』(原文ママ)

自伝「ベルリオーズ回想録(原題:MEMOIRES DE HECTOR BERLIOZ, comprenant ses voyages en Italie, en Allemagne, en Russie at an Angleterre 1803─1865)」(仏Carmann-Levy、1870)の第50章には、このシンフォニーの作曲の経緯や自ら指揮をした初演の模様などが自身の言葉で詳細に語られている。

それによると、屋外で行なわれた初演は、強力な200名の吹奏楽を起用したのにもかかわらず、大群衆の喚声や近衛兵の行進などの騒音によって演奏がたびたびかき消され、必ずしも作曲者の所期の想定どおりには進まなかったとある。しかし、それをある程度予期していたベルリオーズは、本番2日前の総練習に友人、知人の多くを招待しており、その際、たいへんな好評を得たことから、記念式典のより後の日に、あらためて室内演奏会が開かれることが決まったという。弦楽や合唱が加筆されたのは、その際だ。

“これまで印刷された私の伝記は不正確で間違いだらけだ”と言って書いた自伝だけに、その面白さは無類で、日本語訳も、清水 脩訳(戦前訳版:河出書房 、1939年)、清水 脩訳(加筆修正された戦後訳版:音楽之友社、1950年)、丹治恒次郎訳(白水社、1981年)とあるので、ベルリオーズの人生や作品に関心のある人は古書店や図書館で探して読まれるといい。

音楽に歴史アリ!!

これだからバック・ステージはおもしろい!

▲「月刊 吹奏楽研究」1962年2月号(通巻76号、吹奏楽研究社)

▲音楽文庫 9 「ベルリオーズ回想録」(ベルリオーズ著、清水 脩訳、音楽之友社、1950年初版)

▲LP – BERLIOZ:GRANDE SYMPHONIE FUNEBRE ET TRIOMPHALE OP.15(仏Erato、LDE 3078〈モノラル盤〉)

▲〈モノラル盤〉LDE 3078 – A面レーベル

▲〈モノラル盤〉LDE 3078 – B面レーベル

▲〈ステレオ盤〉STE 50005 – A面レーベル

▲〈ステレオ盤〉STE 50005 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第125話 スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」の衝撃



▲世界初演プログラム – NAU Centennial Commissioned Works Concert(1999年10月3日、米Northern Arizona University)



▲日本初演プログラム – 第81回大阪市音楽団定期演奏会(2000年11月9日、フェスティバルホール)

▲鈴木孝佳(2018年6月15日、杉並公会堂、撮影:関戸基敬)

『つぎの6月定期のメインですが、フィリップの“シンフォニー1番”をやることに決めました。彼のシンフォニーは、これまで“2番”、“3番”と取り上げてきましたが、となると、当然“1番”というものがある。ぜひ、それを取り上げたいと思います!』

2018年(平成30年)1月12日(金)、東京・杉並のJR「荻窪」駅近くの某所で行なわれたタッド・ウインドシンフォニーの「ニュー・イヤー・コンサート2018」(杉並公会堂大ホール)後の打ち上げで、挨拶に立った音楽監督の鈴木孝佳(タッド鈴木)さんが、演奏会後の講評につづいて次回のメイン・プログラムをメンバーに伝達したときの発言だ。

フィリップとは、もちろん、鈴木さんと親交あるイギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)のことだ。

あまり知られていないが、タッドWSは、演奏家たちのセルフ・オーガナイズ(自主運営)で活動する楽団で、年2回コンサートを行なう。その打ち上げは、いつも70名から100名近い演奏者や関係者で大いに盛り上がる。後片付けなどのため、筆者がこれに駆けつけるのは“宴もたけなわ”か“終宴寸前”になることが多い(大抵、宴席に入り込むスペースがなく、どこかに潜り込むことになる)が、当夜は、鈴木さんの話が、今まさに始まるそんなタイミングだった。

瞬間、メンバーは、リスペクトするマエストロの口からどんな“お言葉”(たまに“お小言”も)が下されるのか、みんな神妙に聞き入っている。そして、最後に次に目指すメインの曲名を知らされるわけだ。(もっとも、例えそれがどんな有名曲だったにしても、彼らにとってはすべてが“新曲”だが…。)

筆者は、当夜の指定席に定めた少し高くなった座敷の敷居に腰を掛け、やや後ろ向きに振り返りながら、この話を聞いていた。実はこれが結構居心地がいいのだ!!

さて、鈴木さんの発言にもあるように、タッドWSは、過去、2011年と2016年にフィリップの2作のシンフォニーの日本初演を行なっている。

・交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」日本初演
Symphony No.2 – A Savannah Symphony
【日時】2011年(平成23年)6月17日(金)、19:00
【会場】めぐろパーシモンホール 大ホール
【指揮】鈴木孝佳 
【演奏】タッド・ウインドシンフォニー
【演奏会名】第18回定期演奏会
【CD】タッド・ウィンド・コンサート Vol.16、フィリップ・スパーク:交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」(Windstream、WST-25021、2012年)

・交響曲第3番「カラー・シンフォニー」日本初演
Symphony No.3 – A Colour Symphony
【日時】2016年(平成28年)1月23日(土)、14:00
【会場】ティアラこうとう大ホール
【指揮】鈴木孝佳
【演奏】タッド・ウインドシンフォニー
【演奏会名】ニュー・イヤー・コンサート2016
【CD】タッド・ウィンド・コンサート Vol.32、フィリップ・スパーク:交響曲第3番「カラー・シンフォニー」(Windstream、WST-25038、2017年)

これら2曲の日本初演は、出版前に作曲者から贈呈された楽譜を使って行なわれた。今度は、それ以前に書かれた交響曲第1番『大地、水、太陽、風(Symphony No.1 – Earth, Water, Sun, Wind)』をやろうというのである。スコア・リーディングを終えた鈴木さんが、『いいですねー。後のシンフォニー(第2番、第3番)の片鱗がすでに現れていますね!』と大きな関心を示されたことがことの発端だった。

ここで時系列を少し遡るが、フィリップの交響曲第1番「大地、水、太陽、風」は、筆者にとっても、人生の転機に出会った印象深い作品だ。

それは、闘病中の父が亡くなり、その四十九日があけないうちにこんどは母が意識不明状態で病院に担ぎ込まれて長期入院。介護だけでなく、音楽以外何も分からない人間が二人の事業をいきなり一人で切り盛りしなくてはならなくなった異常な状況下での遭遇だった。

振り返ると、当時の平均労働時間は、月~土のウィークデーが約15時間、日祝日も半日営業だったので、早い話がほぼ年中無休。その後に選曲まで手がけたダグラス・ボストック(Douglas Bostock)指揮、東京佼成ウインドオーケストラ演奏のCD「ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.6“ダンス・ムーブメント”」(佼成出版社、KOCD-3906)のプログラム・ノート執筆も知力、体力的にも断わらざるを得ない状況で、その際、驚いた同社担当の水野博文さん(のちの同社社長)が“どうしても引き受けてもらいたい”と慌てて来阪されたものの、2~3分に一人のペースで客あしらいをしながら跳び回っている状況を実際にその眼で見て、依頼を諦めて帰京されるという、たいへん申し訳ない思いをした事件も勃発している。休業が許されず、近くに交代要員もいなかったので、まるで吉本新喜劇のキャッチフレーズである“体力の限界に挑戦する”を地で行くような話。満足に昼食をとる余裕もなかったので、もし仮にお隣りが仕出し弁当屋さんでなかったなら、間違いなく“餓死”か“突然死”していただろう。

そのあたりのドタバタぶりは、2000~2001年、「バンドパワー」に“樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」File No.06 フィリップ・スパ-ク:交響曲第1番「大地・水・太陽・風」”として寄稿(全11篇)しているので、そちらを眺めていただければと思う。本当に雑然とした環境の中で書いたので、まとまりに欠け、“ラクガキ”としたが、このシンフォニーのアリゾナでの世界初演や大阪市音楽団による日本初演の周辺で起こった事柄は、残らず書き留めてある。

ただ、誤った理解が進まないように、いくつか整理しておきたいこともある。

それは、まず、これがフィリップの作曲家として一大転機に書かれた作品だったことだ。

フィリップは、前年の1998年10月17日(土)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)で行なわれた“全英ブラスバンド選手権(National Brass Band Championships of Great Britain)”のチャンピオンシップ部門決勝のテストピース(課題)として委嘱された『月とメキシコのはざまに(Between The Moon and Mexico)』のあたりから、一曲に充分な時間をかけて作品を書くようになり、結果、作風に明らかな変化が現れた。その後、1999年の年初に健康を害して長期入院。ドクターから最短15ヶ月は無理をするなと厳命され、そんな困難な時期をへて完成した作品がこれだった。

それまでほとんど見られなかった“月”“メキシコ”“大地”“水”“太陽”“風”というような固有名詞を積極的にタイトルに選んでいることからも、心境の変化は明らかだ。また、マーラーに傾注していることをもはや隠さなくなった。

もうひとつ忘れてはならないのは、アメリカの委嘱者による世界初演当時は、まだ『大地、水、太陽、風』というシンプルな曲名で、その後、市音による日本初演までの間に自ら“シンフォニー”と呼ぶようになったこと。ただし、そのときには“交響曲番号”がなく、出版に際し“番号”を付けている。

その後、2000年4月に自身の出版社アングロ・ミュージック(Anglo Music)を起業。結果、交響曲第1番『大地、水、太陽、風』は、長年つとめたステューディオ・ミュージック(Studio Music)時代に書かれながら、新生アングロからの出版となった。

世界初演や日本初演は以下のように行なわれている。

・「大地、水、太陽、風」世界初演
(Earth, Water, Sun, Wind)
【日時】1999年10月3日(日)、15:00
【会場】Audrey Auditorium, Northern Arizona University
【指揮】Patricia Hoy
【演奏】Northern Arizona University Wind Symphony
【演奏会名】NAU CENTENNIAL COMMISSIONED WORKS CONCERT

・吹奏楽のための交響曲「大地、水、太陽、風」日本初演
(Symphony for Band – Earth, Water, Sun, Wind)
【日時】2000年(平成12年)11月9日(木)、19:00
【会場】フェスティバルホール
【指揮】渡邊一正
【演奏】大阪市音楽団
【演奏会名】第81回大阪市音楽団定期演奏会
【CD】大阪市音楽団/大地・水・太陽・風(フォンテック、FOCD-9156、2001年)

ところが、この日本初演のステージでは、第2楽章と第3楽章を結びつけるブリッジのように重要な役割を果たすシンセサイザーが何故か鳴らないという、誰もが予測できなかったハプニングが起こった(そうだ)。

わざわざ“そうだ”と断ったのは、その頃の我が終業時刻と演奏会の終演がほぼ同じで、作曲者から送られてきた市音用の楽譜が目の前を通過していった事実があるにも拘わらず、リハーサルも本番も聴くチャンスがなかったからだ。当然、ナマの音も知らない。

その後、発売されたCD(フォンテック、FOCD-9156 / リリース:2001年7月21日)は、録音を担った毎日放送(大阪)の録音スタッフの懸命な作業により、リハーサルと本番の録音をミックス。見事に修復されてリリースされ、かなりの評判を呼んだ。

しかし、なんか釈然としないものも残った。

シンフォニーでは、全楽章を通した時にはじめて感じられる、途切れないストーリーが音楽的に大きな意味を持つと常々思っているからだ。

それから18年近くの年月が流れた2018年6月13日(水)、府中の森芸術劇場ウィーンホール(東京・府中市)で行なわれていたタッド・ウインドシンフォニーの《第25回定期演奏会》(2018年6月15日(金)、杉並公会堂大ホール)に向けてのリハーサルを訪れたとき、筆者は、ついにプロが演奏するフィリップの交響曲第1番の“ナマ”のサウンドに接した。

精緻なオーケストレーション。そして、ナチュラルな色彩感とハーモニーが織り成す妙は、正しくウィンドの魔術(マジック)だと思えた!

凄い!ナマでないと感じられない美しさとでも言えばいいのか!

この時、はじめてスコアをリーディングした当時の感激が鮮やかに甦ってきた!

フィリップは、読書家だけに、ひょっとして、テーマの“大地”“水”“太陽”“風”に、何かインスピレーションを得た小説か何かがあったのではないかと訊ねたことがある。

すると、『いや、このシンフォニーに関しては、インスパイアーされたものは一切なかった。テーマが4つ欲しいと思ったときに浮かんだのがこれらだったんだ。』とシンプルな回答!

そこで、タッドが“第2番”“第3番”につづき“第1番”にも関心をもっていることをを伝えたら、すでに前2作のCDを聴いていた彼は、『ぜひ、彼にやって欲しいと伝えてほしい!』と速攻で返信を寄こした。

『ボクは、タッドのファンだよ!』

いつもの彼の言葉が不意に頭をよぎった!



▲プログラム – タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会(2018年6月15日、杉並公会堂大ホール)

▲同、リハーサル風景から(撮影:関戸基敬)



▲タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会(撮影:関戸基敬)

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.39、フィリップ・スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」(Windstream、WST-25045、2019年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第131回定期演奏会(2020年6月7日、ザ・シンフォニーホール、コロナ禍のため中止)

▲「シンフォニア」Vol.37(ザ・シンフォニーホール、発行:2020.1.10)

『今回初めてShionと共演することになりました指揮の汐澤安彦です。この演奏会では、吹奏楽版アレンジをきっかけにしてよく演奏されるようになったクラシックの作品をたっぷりとお聴きいただきます。Shionのパフォーマンスを最大限に引き出すコンサートになると思いますので、どうぞご期待ください。』(原文ママ)

コロナ禍がなかったら、2020年(令和2年)6月7日(日)午後2時から、大阪のザ・シンフォニーホールで行なわれていたはずの「Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ) 第131回定期演奏会」のために、同ホールの広報誌「シンフォニア」Vol.37(2020年1月10日発行)に寄せた指揮者、汐澤安彦さんのメッセージだ。

この初顔合わせは、全国的にファンの関心を呼び覚まし、筆者個人としても、とても楽しみにしていたドリーミーな企画だった。

筆者が、汐澤さんとはじめてご一緒する機会を得た現場は、1988年(昭和63年)4月14日(木)、東京・杉並の今はなき普門館だった。その日は、2日後の4月16日(土)に同ホールで開催する東京佼成ウインドオーケストラとロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)による《日英交歓チャリティーコンサート》の合同リハーサルの日で、汐澤さんは、東京佼成ウインドオーケストラ単独ステージの指揮者だった。(参照:《第10話“ドラゴン”がやってくる!》

結果的に、この《日英交歓チャリティーコンサート》は予想以上の成果を上げ、その翌日の4月17日(日)には、同じ普門館でロイヤル・エア・フォース(RAF)単独のコンサートを主催。もちろん、この日は汐澤さんの出番はなかったが、『バンクスさんの演奏を聴きたいと思って。』と、前日共演したRAFの指揮者エリック・バンクス(Eric Banks)の本番を聴くために一聴衆として来場され、『面白いですねー。“威風堂々”(第1番)のテンポがまるで違い、思ってたより速い。我々がいつもやってるのはもっと遅いので….。』などと語られたのをまるで昨日のことのように鮮明に覚えている。

その後も、東芝EMIのセッションなど、何度か接点があり、同社ディレクターの佐藤方紀さんが運転する車でお送りしたこともあったが、どこで調べたのか、『汐澤です。』といきなり自宅に電話がかかってきて楽譜の入手法の相談を受けたり、当方のラジオ番組を応援する葉書を頂いたりと、少々面喰った想い出もある。ただ、いつも感じたのは、話が分かりやすく面白いことと飽くなき探究心!!

なので、Shionで大阪に滞在されるなら、演奏会はもちろん、久しぶりに愉しい話を伺えるのではないかと、本当に心待ちにしていた。それなのに、コロナのやつめ!!

汐澤さんは、1938年(昭和13年)、新潟県上越市の出身。1962年に東京藝術大学器楽科を卒業し、1964年に同専攻科修了。トロンボーンを山本正人、指揮を金子 登の両氏に師事。1962年から8年間、読売日本交響楽団のバス・トロンボーン奏者をつとめ、その傍ら、桐朋学園大学で指揮法を齋藤秀雄氏に師事。1960年代半ばから指揮活動を始め、1973年に民音指揮コンクール第2位入賞。1975年に渡欧し、ベルリン音楽大学、カラヤン・アカデミーに学んだ。

オーケストラやオペラ、合唱のほか、東京吹奏楽団、東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラ、大阪府音楽団、フィルハーモニア・ウインド・アンサンブル、東京アンサンブル・アカデミー、東京藝術大学、東京音楽大学など、ウィンド・ミュージックのフィールドでもひろく指揮者として活躍。とくに、ソニー、コロムビア、ビクター、東芝、ファンハウスなどから毎年のようにリリースされたLPレコードやCDを通じ、ウィンドの最新レパートリーを日本中に紹介したマエストロとして知られる。これまで、Shion(シオン)を指揮したことがなかったというのが不思議なくらいだが、間違いなく、昭和~平成を通じた“ウィンド・ミュージックのドライビングフォース”であり、“レジェンド”だ!!

吹奏楽を指揮した初の商業レコードが登場したのは、1972年で、当時、レコード・ジャケットに印刷されていた指揮者名のクレジットは、結婚前の飯吉靖彦(いいよし やすひこ)。だが、その名は、同年リリースされた4枚のLP(ビクター、CBSソニーから各2タイトル)と1枚のEP(コロムビア)を通じ、アッという間に全国の吹奏楽ファンの知るところとなった。

この内、ビクターの2枚は、当時、脚光を浴びていた4チャンネル・ステレオ方式(参照:《第94話 エキスポ ’70と大失敗》)の実証も兼ね、イイノ・ホール(1970年11月10日)と普門館(1970年12月17日、1971年12月10日)で録音されたソースを活用した2チャンネル・ステレオ盤で、演奏は、東京佼成吹奏楽団(レコード上のクレジットは、“佼成吹奏楽団”)。先行盤の「双頭の鷲/バンド・フェスティバル」(ビクター、VY-1006、1972年1月新譜)は、山本正人指揮、東京シンフォニック・バンドの演奏とのカップリング盤、後発盤の「Pleasure for Band(バンドの楽しみ)- 1/バンド・フェスティバル」(ビクター、VY-1009、1972年8月新譜)は、汐澤/佼成の単独盤だった。

もともと4チャネルの実証を兼ねた録音だったので、アルフレッド・リード編の『アラビアのロレンス』(VY-1006)やグレン・オッサー編の『イタリアン・フェスティバル』(VY-1009)、シベリウスの交響詩『フィンランディア』(VY-1006、VY-1009)など、マーチやポップスからクラシックまで、ホーム・ミュージックとしても愉しめるレパートリーが入っていた。

コロムビアのEPは、A面、B面に各1曲ずつのオリジナル作品を収録するスタイルで1970年から年に1枚のペースでリリースされた“楽しいバンド・コンサート”シリーズの第3弾(日本コロムビア、EES-473、1972年4月新譜)で、東京シンフォニック・バンドの演奏で以下の2曲が入っていた。(参照:《第93話 “楽しいバンド・コンサート”の復活》

《楽しいバンド・コンサート<3>》
(録音:1971年(昭和46年)12月6日、武蔵野音楽大学ベートーヴェンホール)

序奏とファンタジア Introduction and Fantasia
(Rex Mitchell, 1929~2011)

・サマー・フェスティヴァル Summer Festival
(David Reck, 1935~)

また、秋山紀夫さんの監修で、CBSソニーから「ダイナミック・バンド・コンサート 第1集」(CBSソニー、SOEL 3)、「同第2集」(CBSソニー、SOEL 4)としてリリースされた2枚のアルバムもたいへんな注目を集めた。

「バンドジャーナル」1972年3月号(音楽之友社)の記事“国内レコーディング・ニュース”(22~23頁)によると、当初、同年4月21日に2枚組でリリースされる計画だったようだが、最終的に以下の16曲が新録され、2枚のアルバムがリリースされた。

《ダイナミック・バンド・コンサート 第1集》
(録音:1972年(昭和47年)1月19~20日、世田谷区民会館)

・皇帝への頌歌 Royal Processional
(John J. Morrissey, 1906~1993)

・ベニスの休日 Vennetian Holiday
(Joseph Olivadoti, 1893~1977)

・ヒッコリーの丘 Hickory Hill
(Carl Frangkiser, 1894~1967)

・壮麗な序曲 Pageantry Overture
(John Edmondson, 1933~)

・キムバリー序曲 Kimberly Overture
(Jared Spears, 1936~)

・コンチェルト・グロッソ 二短調 Concerto Grosso
(Antonio Vivaldi, 1678~1741 / arr. John Cacavas, 1930~2014)

・歌劇「良い娘」序曲 The Good Daughter
(Niccolo Piccinni, 1728~1800 / arr. Eric Osterling, 1926~2005)

・狂詩的挿話 Rhapsodic Episode
(Charles Cater, 1926~)

・エルシノア序曲 Elsinore Overture
(Paul W. Whear, 1925~)

《ダイナミック・バンド・コンサート 第2集》
(録音:1972年(昭和47年)2月9~10日、世田谷区民会館)

・ファンファーレ、コラールとフーガ Fanfare, Chorale and Fugue
(Caesar Giovannini, 1925~2017)

・古典序曲  Classic Overture
(Francois-Joseph Gossec 1734~1829 / arr. Richard F. Goldman, 1910~1980)

・ウィーンのソナチナ、アンダンテとアレグロ Viennese Sonatina
(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756~1791 / arr. Walter Beeler, 1908~1973)

・べレロフォン序曲 Bellerophon Overture
(Paul W. Whear, 1925~)

・百年祭序曲 Centennial Suite
(John J. Morrissey, 1906~1993)

・聖歌と祭り Chant and Jubilo
(W. Francis McBeth, 1933~2012)

・チェルシー組曲 Chelsea Suite
(Ronald Thielman, 1936~)

演奏は、いずれも、このセッションのために結成されたフィルハーモニア・ウインド・アンサンブルで、その若々しくシャープな演奏を記憶する人も多いだろう。

そして、日本のバンド・レパートリーに確かな変化が現れた。

結果が出たことで、後続盤の企画も進んだ。再びフィルハーモニア・ウインド・アンサンブルを起用したCBSソニーは、1973年(昭和48年)1月24~25日、世田谷区民会館において、東京アンサンブル・アカデミーを起用したコロムビアは、同2月15日、武蔵野音楽大学ベートーヴェンホールでそれぞれ同様のセッションを行ない、いずれも4月にリリース。CBSソニーからは、その後、1972年、1973年の録音からコンピレーションされたカセット「吹奏楽オリジナル名曲集」(CBSソニー、SKEC-1)もリリースされた。

そして、演奏者は違えど、これらは、すべて汐澤安彦指揮!

正しく第一任者。“ドライビングフォース”と呼ぶにふさわしい活躍だ!!

2012年(平成24年)3月1日(木)~2日(金)、和光市民文化センター サンアゼリア大ホールで汐澤さんが名誉指揮者をつとめる東京吹奏楽団の録音セッション(CD:ブレーン、OSBR-28040)が行なわれた。

アルバム・タイトルは、孔子の“故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし”に由来する「温故知新」!

汐澤イズム、ますます意気盛んである!!

▲LP – ダイナミック・バンド・コンサート 第1集(CBSソニー、SOEL 3、1972)

▲SOEL 3 – A面レーベル

▲SOEL 3 – B面レーベル

▲LP – ダイナミック・バンド・コンサート 第2集(CBSソニー、SOEL 4、1972)

▲SOEL 4 – A面レーベル

▲SOEL 4 – B面レーベル

▲カセット – 吹奏楽オリジナル名曲集(CBSソニー、SKEC-1、1973)

▲CD – 温故知新(ブレーン、OSBR-28040、2012)

▲OSBR-28040 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第123話 レイランド・ヴィークルズ初来日

▲ツアー・プログラム – The Leyland Vehicles Band of Great Britain Tour of Japan 1980

▲リチャード・エヴァンズ

▲ハリー・モーティマー

▲レイランド・ヴィークルズ・バンド(1980年7月22日、日比谷公会堂 / 「バンドピープル」1980年10月号から(八重洲出版、許諾により転載  / 文・山本武雄 )

1980年(昭和55年)7月27日(日)、快晴。筆者は、国鉄「新大阪」駅から朝一番の東海道新幹線の“ひかり”に乗車。「名古屋」駅ホームで朝食代わりに名物“きしめん”をかきこんで、中央本線の特急“しなの”に乗り継ぎ、一路「長野」へ。帰路は、その逆コースを辿るという日帰り弾丸ツアーを敢行した!!

新幹線に“のぞみ”が登場するかなり以前の話で、当時はこれが大阪から長野へと至る最短、最速ルートだった。途中、新幹線車中のことは何も覚えていないが、中央本線では、初めて乗った国鉄自慢の“振り子電車”の信じ難い乗り心地の悪さだけが、すばらしい沿線の景色以上に記憶に残っている。たぶん、カーブのたびに脳味噌が大きく揺さぶられたからだろう。大阪に帰り着いてからも、何故か体が揺れている感覚だけが残った。

弾丸ツアーの目的は、長野市民会館で午後2時30分から行なわれるイギリスの“レイランド・ヴィークルズ・バンド(Leyland Vehicles Band)”の来日公演!

演奏会情報を得て、事前に長野市の最新地図と時刻表を買い求めてチェックしたら、運よくホールが国鉄「長野」駅から徒歩圏内にあることを発見!それがこの日の“弾丸”を決意させる引き金となった。オーシ!!

“レイランド・ヴィークルズ・バンド”は、《第95話 ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド来日》でお話しした1970年の日本万国博に来演した“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド(The National Band of New Zealand)”、1979年に来日公演を行った“ウェリントン・シタデル・バンド(Wellington Citadel Band)”(ニュージーランド)についで、海外から日本にやってきた3番目のブラスバンドだ。先に挙げた2つのバンドが、英連邦ながらニュージーランドからだったので、レイランドは、その後も、ブラスバンドの母国イギリスから来日した初のバンドという栄誉を担うことになった。

レイランドのバンド創立は、1946年。イングランド北西のランカシャーで、二階建てバスやトラックを製造する自動車メーカーのバンドとして“レイランド・モーターズ・バンド(Leyland Motors Band)”の名で誕生した。トロンボーンの名手として知られた初代指揮者ハロルド・モス(Harold Moss、1891~1960)の没後、しばらく低迷期が続いたが、1977年になって、バンドが社や製品のプロモーションでいい広告塔になることに気づいた会社が力を入れるようになり、1978年1月にリチャード・エヴァンズ(Richard Evans、1934~)を音楽監督に招聘。全権を委ねられたエヴァンズは、情熱を込めたアツい練習だけでなく、メンバーの大幅入れ替え(オリジナル・メンバーで残ったのは8名だった)まで断行。1979年にレイランド・ヴィークルズ・バンドと改称されたバンドは、その年の10月6日(土)、ロンドンの科学技術専門学校で行なわれた「全英ブラスバンド選手権」セカンド部門決勝で優勝。見事、チャンピオンシップ部門への昇格を果たした。

1980年の初来日は、この若々しいバンドがグイグイ実力を伸ばしていっているその最中、高いテンションの中で実現されたわけだ。

バンドの滞日期間は、7月20日(日)から8月1日(木)。公演日程は、以下のように発表され、プログラムは、3つが用意された。

・7月21日(月) 栃木県教育会館(18:30、Cプロ)

・7月22日(火) 日比谷公会堂(18:30、Cプロ)

・7月23日(水) 神奈川県民ホール(18:30、Bプロ)

・7月24日(木) 山梨県民会館(18:30、Bプロ)

・7月25日(金) 島田市民会館(静岡)(15:00、Aプロ)

・7月26日(土) 習志野文化ホール(千葉)(14:30、Aプロ)

・7月27日(日) 長野市民会館(14:30、Bプロ)

・7月28日(月) 浅草公会堂(東京)(17:30、Bプロ)

・7月29日(火) 川口市民会館(埼玉)(17:30、Aプロ)

・7月30日(水) 新潟県民会館(18:30、Cプロ)

来日した指揮者は、音楽監督のリチャード・エヴァンズと客演指揮者のハリー・モーティマー(Harry Mortimer、1902~1992)のふたり。

この内、エヴァンズは、ロイヤル・ノーザン音楽カレッジ(Royal Northern College of Music)の出身。ランカシャーの実家近くのブリティッシュ・レジョン・バンド(British Legion Band)でコルネットの手ほどきを受け、1952年、英国内の前途有望な青少年からオーディションで選ばれる“ナショナル・ユース・ブラスバンド(National Youth Brass Band of Great Britain / NYBB)”の創立時メンバーとなった。NYBBでは、後にロンドン交響楽団首席トランペット奏者となったモーリス・マーフィー(Maurice Murphy)とともに、プリンシパル・コルネット奏者をつとめ、このとき、指揮者ハリー・モーティマーとの運命的な出会いがあった。

前記のモスが率いるレイランド・モーターズ・バンドやブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)のコルネット奏者をへて、エヴァンズは、BBCノーザン交響楽団(BBC Northern Symphony Orchestra)、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニック管弦楽団(Royal Liverpool Philharmonic Orchestra)のトランペット奏者としてキャリア・アップ。フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルにも参加し、フリーランスの指揮者としても活動。1978年にレイランド・ヴィークルズ・バンドの音楽監督に就任して、またたく間にチャンピオンシップ・セクションのステータスにふさわしいバンドへと育て上げた。

一方のモーティマーは、世界中のファンから“ブラスバンドの父”あるいは“ミスター・ブラス”としてリスペクトされるレジェンドだ。

7歳のときにコルネットを始め、14歳で既にルートン・レッド・クロス・ジュニア・バンド(Luton Red Cross Junior Band)の指揮者に。その一方で、ルートン・レッド・クロス・バンド(Luton Red Cross Band)とフォーデンズ・モーター・ワークス・バンド(Fodens Motor Works Band)でプリンシパル・コルネット奏者をつとめ、その後、ハレ管弦楽団(Halle Orchestra)、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニック管弦楽団、BBCノーザン交響楽団の首席トランペット奏者として活躍。1942年から1964年の間、BBC放送でブラスバンドとミリタリー・バンドのスーパーバイザーをつとめ、1943年2月放送開始のラジオ番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」の初代プレゼンター(司会進行役)としても知られている。

指揮者としては、ブラック・ダイク・ミルズ、フェアリー・アヴィエーション(Fairey Aviation Band)、フォーデンズ・モーター・ワークスなど、イギリスの主要なブラスバンドを指揮。1947~1949年の全英ブラスバンド選手権では、ブラック・ダイク・ミルズを指揮し、ハット・トリック(三連覇)を達成した。また、“フェアリー”“フォーデンズ”“モーリス”の3つの名門バンドのメンバーで組織した75名編成のブラス・オーケストラ“メン・オー・ブラス(Men o’ Brass)”のレコードは、アメリカや日本でも発売され、世界的ヒットとなった。後進の育成についても精力的に活動し、ナショナル・ユース・ブラスバンドの指揮者やプレジデントもつとめている。

両者の経歴を摺り合せると一目瞭然だが、エヴァンズがナショナル・ユースのプリンシパルをつとめた頃から、ふたりには多くの接点があり、師と弟子、あるいは、親と子ぐらいの間柄にあった。エヴァンズが、自分のバンドが初の日本演奏旅行に際し、偉大なる先人モーティマーをゲストに招いたのもなるほどと合点がいく。

そして、その結果、我々は、日本盤のレコードが何枚もある“レジェンド”が指揮する“チャンピオンシップ”クラスのブラスバンドをナマで聴く機会を得たわけだ。

メディアも動いた。

月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)は、1980年10月号でカラー口絵2ページと本文8ページの特集を組み、山本武雄、山本常雄、斎藤好司、松長 徹の各氏がそれぞれの視点からコンサートやバック・グラウンドをリポート。 創刊間もない「バンドピープル」(八重洲出版)も、7月号に聴きどころと曲目をまとめた2ページの事前コンサート・ガイドを入れ、10月号でコンサートとクリニックの模様をリポートする5ページ特集を組んだ。

長野往復“日帰り弾丸ツアー”の前、筆者は、エヴァンズがレイランドを指揮したファースト・アルバム「トラヴェリング・ウィズ・レイランド(Travelling with Leyland)」(LP:英RCA Victor、PL 25175、1978年7月19日、ハダーズフィールド・タウン・ホールで録音)やモーティマーが指揮した英DeccaとEMIの“メン・オー・ブラス”のレコードをしっかりと聴き込んでからコンサートに望んだ!

いずれもかなりのお気に入り盤だった!

しかし、コンサートの冒頭、ハロルド・モス作曲のレイランドのテーマ『ロイヤル・タイガー(Royal Tiger)』がホールに流れ出すと、琴線にふれるようなサウンドのすばらしさに魅了されてしまい、その後はただ笑って聴いているしかなかった。

紛れもない、不純物のカケラもないピュアなサクソルン属の倍音のシャワーが目の前にあった!やはり、ナマには適わない!!!

ふと見渡すと、超満員の会場には、熱心なブラスバンド・ファンに混じり、生まれてはじめてブラスバンドを耳にするはずの中高生の吹奏楽部員も多くつめかけていた!

みんな喰い入るようにステージを見つめ、曲が終わるたびに、屈託の無いはじけるような笑顔で嬉々として感想を述べ合い、大きな拍手を贈っている!その姿は、お行儀礼よく聴いているというより、もう大騒ぎに近かった!!

終演後、ロビーで行なわれた来日記念盤「コントラスツ・イン・ブラス(Contrasts in Brass)」(LP:英Chandos、BBR-1008(S)、1980年2月10日、マンチェスター大学ウィットワース・ホールでの新録盤に前記“トラヴェリング・ウィズ・レイランド”をそっくりそのまま加えた2枚組)の即売コーナーには、エヴァンズとモーティマーが出てきて、購入者の求めに応じてサインを始めた。で、即購入!!

サインを書いてもらう間、ふたりと短い会話ができたが、それは筆者にとっては至福の時間となった。80歳を目前にしたモーティマーとは、残念ながら、それが最後の機会となってしまったが、その後、エヴァンズとは、ブリーズ・ブラス・バンドのミュージカル・スーパーバイザーとしての立場から、いろいろな場面で絡むことになった。

レイランド・バンドのモットーは、“ワールド・クラス・エンターテイメント・イン・ブラス(World Class Entertainment In Brass)”!!

その初来日は、またひとつ、新たな出会いを運んできてくれた!

▲▼ Leyland Vehicles Band 来日メンバー

▲Aプロ(Programme One)

▲Bプロ(Programme Two)

▲Cプロ(Programme Three)

▲LP – Travelling with Leyland(英RCA Victor、PL 25175、1978年)

▲PL 25175 – A面レーベル

▲PL 25175 – B面レーベル

▲LP(ジャケット表) – Contrasts in Brass(英Chandos、BBR-1008(S)、1980年)

▲同 – (ジャケット裏)

▲BBR-1008(S) – A面レーベル

▲BBR-1008(S) – B面レーベル

▲BBR-1008(S) – C面レーベル

▲BBR-1008(S) – D面レーベル

▲モーティマーとエヴァンズの手書きサイン

▲「バンドジャーナル」1980年10月号(音楽之友社)

▲「バンドピープル」1980年10月号(八重洲出版)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース

▲辻井市太郎(1910~1986)

▲プログラム – 第2回大阪市音楽団特別演奏会(1960年11月9日(水)、毎日ホール)

▲同 – 演奏曲目

▲同 – 曲目変更の謹告

▲第2回大阪市音楽団特別演奏会(1960年11月9日、毎日ホール)

『菊の香につつまれて、ここに大阪市音楽団の第2回特別演奏会が催されますこと、心から喜びにたえません。

この特別演奏会は、吹奏楽の芸術性の向上を目指す辻井団長はじめ55名の団員諸君のたぎる芸塾的意欲のあらわれで、常にはポピュラーな演奏を通じて音楽の芸術性と大衆性のかけ橋の役を果している大阪市音楽団の画期的、野心的企画です。

春の初演は、おかげ様でかなりの好評をもって迎えられ、由緒ある大阪市音楽団の名声をひときわ高めることができました。

第2回公演は、12音音楽の創始者シェーンベルクの主題と変奏 ─ 作品43aをはじめ芸術の秋に贈るにふさわしい本邦初演曲をそろえ必ずや皆さんの激励と期待にこたえるものと信じます。

どうか、温かいご喝采を、切にお願いいたします。 大阪市長 中井光次』(原文ママ)

1960年(昭和35年)11月9日(水)、大阪・北区の毎日ホールで行なわれた「第2回大阪市音楽団特別演奏会」のプログラムを飾った中井光次大阪市長(1892~1968、市長在職:1951~1963)の挨拶文だ。

現職市長がこれほどアツい口上を書くぐらいだ。

7ヶ月前の4月18日(月)、同じホールで行なわれた「第1回特別演奏会」(市長が“春の初演”と記している)は、センセーショナルな成功を収めた!(参照:《第120話 交響吹奏楽団を夢みる》

なにしろ、野外演奏やパレードのものと固く信じられてきた“吹奏楽団”が、“交響吹奏楽”という日本ではなじみのないカテゴリーを旗頭に掲げ、なんと“室内”のコンサート・ホールを使って吹奏楽の芸術性を追求する演奏会を開催! クラシック中心の音楽界をアッと言わせたのである。

地元放送局や新聞各紙を含め、吹奏楽のイメージが変った瞬間だった!

11月の「第2回特別演奏会」は、その成功裏に企画された。後に全日本吹奏楽連盟理事長をつとめることになる指揮者の朝比奈 隆(1908~2001)さんも、プログラムにこんな書き出しの一文を寄せている。

『第1回特別演奏会で我が国吹奏楽界に異常な反響をよびおこした、意欲的な大阪市音楽団と、その団長辻井君は、やつぎばやに第2弾をはなった。』(原文ママ)

マスコミ発表されたプログラムは、以下のようなものだった。

・交響曲 変ロ調
(ポール・フォーシェ)<本邦初演>

・金管楽器とオルガンのための協奏曲 作品57
(セス・ビンガム)<本邦初演>

・主題と変奏 作品43a
(アルノルト・シェーンベルク)<本邦初演>

・ジェリコ 交響吹奏楽のためのラプソディー
(モートン・グールド)<本邦初演>

この内、ビンガムの『金管楽器とオルガンのための協奏曲』は、演奏会寸前(5日前)に独奏者にドクター・ストップがかかり、急遽「第1回特別演奏会」で本邦初演されたルドルフ・シュミットの『ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲』の再演に差し替えられたが、それにしても、全曲を<本邦初演>で望むという意欲的なプログラミングに、楽壇は再びアッと言わされたのである。

2日後、1960年(昭和35年)11月11日(金)讀賣新聞に掲載された「音楽評」は、“意欲ある試み”と見出しをつけ、その模様をこう伝えている。

『大阪市音楽団が九日毎日ホールで演奏会をひらいた。辻井市太郎の指揮による約六十人の吹奏楽演奏は、日本ではあまり類例のない演奏会だけに、一部をのぞいて全部本邦初演の曲ばかりならべたプロも珍しい。…..楽団員たちの芸術意欲が市を動かして、こんどフォーシェ、シェーンベルク、グールドなど本格的な吹奏楽曲を初演したわけだ。そうとうな難曲をこなす腕前は立派なもので、真木利一のピアノを加えたシュミットの曲も熱演だったが、吹奏楽の持つ機能をフルに発揮したグールドの作品は圧巻だった。(藤獄彰英)』(「讀賣新聞」昭和35年11月11日(金)、抄録、原文ママ)

専門誌「月刊吹奏楽研究」1961年1月号(月刊吹奏楽研究社)も、38頁に「シンフォニック・バンド 大阪市音楽団 第二回特別演奏会 意欲に燃えて初演曲を世に問う」という記事を掲載した。

『昨昭和三十五年四月十八日に第一回特別演奏会を催して、ヒンデミットの吹奏楽のための変ロ調交響楽、シュミットのピアノと吹奏楽のための祝典変奏曲など、本邦初演の野心的曲目をならべて、吹奏楽の芸術的昂揚への研究成果を世に問う演奏で、天下の音楽界の視聴を集めた大阪市音楽団では、その第二回特別演奏会を、十一月九日午后六時三十分から、毎日ホールで開催した。

四十年にわたる古い伝統にはぐくまれ、辻井市太郎団長の吹奏楽一図の研究的態度と気鋭の隊員、理想的編成など、あらゆる点において、Symphonic Bandとしてわが国最高レベルのものであることは、今日では万人の認めるところである。』(原文ママ、「月刊吹奏楽研究」1961年1月号、吹奏楽研究社)

また、演奏曲の中では、同年秋のフランスのギャルド・レピュブリケーヌ初来日(参照:《第22話 ギャルド1961の伝説》)を意識してか、フォーシェの交響曲に高い関心を示し、短い概説まで加えている。

『この曲はフランス生まれの作曲家フォーシェ(一八五八年生れ)の作品で、一九二六年に、ギャルド・レピュブリケーヌによって初演された吹奏楽のために作曲された交響曲』(同)

NHKのラジオ第2放送(AM)も、1960年(昭和35年)12月30日(金)午後8時15分から、演奏会のライヴを45分番組にまとめてオンエアした。

市音の「特別演奏会」は、1968年(昭和43年)5月28日(火)、毎日ホールで開催された第17回以降、「定期演奏会」と改称され、2014年(平成26年)の民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)と楽団名を改めた後も、その系譜は、令和の今日まで引き継がれている。

辻井さんが指揮したのは、この内、「第1回」から「第24回」までだったが、ここで特記したいのは、この間、37曲もの“初演”や“本邦初演”が行なわれていることだ。

「第1回」で取り上げられたパウル・ヒンデミットの『交響曲 変ロ調』に始まり、ポール・フォーシェの『交響曲 変ロ調』、エクトール・ベルリオーズの『葬送と勝利の交響曲』、フランク・エリクソンの『交響曲第2番』、ヴィットリオ・ジャンニー二の『交響曲第3番』、アラン・ホヴァネスの『交響曲第4番』『第20番』、ロバート・ウォシュバーンの『交響曲』、トーマス・ベーバースドルフの『管楽器と打楽器のための交響曲』、ポール・ホエアーの『ストーンヘンジ交響曲』まで、シンフォニーだけで10曲の本邦初演が行なわれ、リヒャルト・ワーグナーの『誓忠行進曲』、パーシー・グレインジャーの『リンカーンシャーの花束』、フローラン・シュミットの『セラムリク』、ロジャー・ニクソンの『太平洋の祭り』、ジョン・バーンズ・チャンスの『呪文と踊り』、ポール・クレストンの『ザノ二』を日本に紹介したのも、辻井/市音の定期シリーズだった。

加えて、1969年(昭和44年)11月13日(木)、フェスティバルホールにおける「第20回」と1971年(昭和46年)11月16日(火)、同ホールの「第23回」は、日本ワールド・レコード社からライヴ盤LPレコードがリリースされた。

英語の辞書には、“牽引役”や“推進役”を指す“ドライビングフォース(driving force)”という語がある。

辻井市太郎指揮、大阪市音楽団は、正しく吹奏楽のドライビングフォースだった!!

▲「月刊吹奏楽研究」1961年1月号(吹奏楽研究社)

▲LP – 第20回大阪市音楽団定期演奏会(日本ワールド、JWR-1138、1970年)

▲JWR-1138 – A面レーベル

▲JWR-1138 – B面レーベル

▲LP – 第23回大阪市音楽団定期演奏会(日本ワールド、JWR-2006、1972年)

▲JWR-2006 – A面レーベル

▲JWR-2006 – B面レーベル