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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第7話 スパーク“ウェイ・トゥー・ヘヴン”とロイヤル・エア・フォース

 麗かな初春の陽の光が眩い2017年3月4日(土)の午後、大阪のフェスティバルホールでは、イギリスの作曲家フィリップ・スパークを客演指揮者に招いて“大阪音楽大学第48回吹奏楽演奏会”の準備が進められていた。、

プログラムは、「ジュビリー序曲(Jubilee Overture)」「オリエント急行(Orient Express)」「ウィークエンド・イン・ニューヨーク(A Weekend in New York)」「宇宙の音楽(Music of the Spheres)」「リフレクションズ~ある古い日本俗謡による~(Reflections on an Old Japanese Folk Song)」「輝く雲にうち乗りて~賛美歌“ヘルムズリー”による幻想曲(With Clouds Descending – A Fantasy on the Hymn Tune “Helmsley”)」「交響曲第3番“カラー・シンフォニー”(A Colour Symphony – Symphony No.3)」と、初期作から近年作に至る作曲者の変遷を時系列でたどるアカデミックなものだ。

フェスティバルホールは収容2700名を誇る大ホールだが、コンサートの前評判から半端な数ではない座席不足が事前に予想され、その対応準備もあってスタッフの動きが慌ただしい!

ドレス・リハーサル(ゲネプロ)を前にフィリップを楽屋に訪ねると、応接セットのテーブルに1冊の書物がポツンと置かれているのを見つけた。

書名は「Dam Busters: The True Story of the Inventors and Airmen Who Led the Devastating Raid to Smash the German Dams in 1943」(2013年刊)。

直訳では、“ダムバスターズ: 1943年にドイツのダムを粉砕する衝撃的な空襲に挑んだ発明家たちと航空隊員の真実のストーリー”となるタイトルの本だ!

カバーに印刷されている“LANCASTER(ランカスター爆撃機)”と強調された“DAM BUSTERS(ダムバスターズ)”の文字から、それが、第2次世界大戦中、水面をバウンドする特殊な反跳爆弾を開発してドイツの工場地帯へ電力を供給する3つのダムを破壊するという特別任務についた英空軍の“617スコードロン”の実話を描いたジェームズ・ホランドのベストセラーであることがすぐにわかった。

フィリッブは読書家だ。新幹線移動の際にも、よく本を読んでいる。にしても、戦史のドキュメンタリーとは珍しい。筆者の頭の中でも、エリック・コーツ(Eric Coates)の名曲「ダムバスターズ・マーチ(The Dam Busters March)」のメロディーがリフレインする。

彼の方が年上だが、ほとんど同じ時代を生きてきただけあって話の共通項は多い。ビートルズの熱狂的ファンだったと白状したこともあった。テレビ番組「サンダーバード」の話で盛り上がったときも、『イギリスで“サンダーバード”の吹奏楽アレンジが絶版なんて、あり得ない!』とボヤいていたのをよく覚えていた。半年もたつかたたない内に、何の前振れもなくスパーク編『サンダーバード(The Thunderbirds)』がいきなり出版された。シエナ・ウインド・オーケストラやオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラなど、フィリップの自作自演コンサートでアンコールに演奏される編曲がそれだ!!

お返しの気持ちもこめ、その後来日するたび、“Made in Japan”のサンダーバード・グッツをお土産としてプレゼントしてきた。しかし、こう頻繁に来日が続くと、さすがにネタ切れの危機!

大阪音大の本番2日前に2人で食事に出かけたが、その時は思い悩んだ挙句、『いつもとは違うけど、今回はスペシャルなモデルを用意した!』と言って、第2次大戦当時の英空軍の名戦闘機“スピットファイア”のダイキャスト・モデルをプレゼントした。ウィリアム・ウォルトン(William Walton)の名曲「スピットファイア、プレリュードとフーガ(Spitfire, Plelude and Fugue)」のテーマとなったあの“スピットファイア”だ。

彼はさっそく包装を解くと、目をキラキラ輝かせて『こいつはすごい!!型式は?』といきなり専門的(?)質問が飛んでくる。『マークV(ファイブ)だ!』と応じると、『マークVか。このタイプのフォルムはとくに美しいんだ…。』などと、やたら詳しい!

同機は、その後、2017年6月のシエナ定期の客演指揮で来日したときにプレゼントした同時代の英空軍の戦闘爆撃機“タイフーン”のモデルと並んで彼のベッドサイドを飾っている。しかし、こんなに受けるとは…。

そんな訳で、2日後に楽屋で見た件の本にもたいへん興味をひかれた。そこで『ロイヤル・エア・フォースの伝説本かい?』と話を振ると、『新しい本だ。617スコードロンの!』と返ってくる。

“新しい本”というのは、1955年公開の映画「The Dam Busters(邦題:暁の出撃) 」の原作本となったポール・ブリックヒル著の「The Dam Busters」(1951)やガイ・ギブソン著の「Enemy Coast Ahead」(1946)などがあるからだ。コーツの「ダムバスターズ・マーチ」も、実はこの映画のテーマとして作曲された音楽だ。

ヒコーキの話でひとしきり盛り上がる内、帰国後の4月に、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)のレコーディング・セッションをやるという話になった。第1話でお話しした「ゾディアック・ダンス(Zodiac Dances)」やシエナ定期で日本初演予定の「ウィンド・イン・ザ・リーズ(Wind in the Reeds)」などを録るという。また、それは首席音楽監督ダンカン・スタッブズ(Wing Commander Duncan Stubbs)の退役前最後の録音なのだともいう。

ダンカンか。懐かしい名前だ。1988年にロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーをオーガナイズしたとき、彼はバス―ン奏者だった。オーケストラを辞め、ロイヤル・エア・フォースのオーディションを受けた1人だった。ツアーの2年後に音楽監督の試験にパスし、ロイヤル・エア・フォースの各バンドの指揮者を歴任したとは聞いていた。定年ということは、彼ももう56歳を迎えるのか….。

7月6日、突然フィリップから“The Way to Heaven”という件名のメールが届いた。

『「ウェイ・トゥー・ヘブン」の録音を送るので聴いてみてくれ。曲の真ん中あたりで、ポーランドの303スコードロンの“ハリケーン”がテイクオフするのが聞こえるよ!』

“ポーランドの303スコードロン”とは、第2次世界大戦中、イギリスに逃れてきたポーランド人パイロットで編成された飛行隊で、“ハリケーン”は、スピットファイアとともに、押し寄せるドイツ空軍機を迎撃した英空軍の主力戦闘機だった。

フィリップの「ウェイ・トゥー・ヘブン」は、2015年4月11日、マンチェスターのロイヤル・ノーザン音楽カレッジで催されたプリティッシュ・アソシエーション・オブ・シンフォニック・バンズ&ウィンド・アンサンブルズ(BASBWE)のコンベンションで、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドが初演する新曲としてダンカン・スタッブズから委嘱された作品だった。

2015年は、イギリス上空でドイツ空軍機との間で繰り広げられた大空の戦い“バトル・オブ・ブリテン”から75周年。また、義勇ポーランド空軍303スコードロンの指揮所は、現在のセントラル・バンドの練習スタジオの建物からほんの数歩の位置にあった。

そんな経緯から委嘱された曲だが、添付されたmp3ファイルを聴くと、それは正しくロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの演奏。同時に、それは4月のセッションの編集完了を意味していた。

作曲者の言うとおり、曲の真ん中あたりに“ハリケーン”のロールス・ロイス・マーリン・エンジンが始動し、スクランブルのためにつぎつぎと飛び立っていくシーンの描写がある。「オリエント急行」冒頭の蒸気機関車の発車シーンよろしく、エンジン音のディティールの細かい描写は実に見事だ!

しかし、それよりも何よりも音楽全体から溢れ出る、まるで鳥のごとく、青く澄み切った大空を自在に飛んでいるような爽快さがとても魅力的だった!

きっと、フィリップは、この曲をダンカンの指揮で残しておきたかったんだな!

そうだ!つぎは“ハリケーン”を準備しよう!!

■樋口幸弘のマイ・フェイヴァリッツ!! vol.1「オラフ王を称えて」【外伝】

Text:樋口幸弘

 グスターヴ・ホルストが、その生涯で、ウィンド・バンドのために書いた作編曲をすべて収めた世界初のCD「オラフ王を称えて」は、その演奏と録音のすばらしさから、世界各国で絶賛を博し、日本でも輸入盤としては信じられないほどのセールスを記録するヒット・アルバムとなった。

 同時に、ホルスト再評価の動きも起こり、日本各地のコンサートでも積極的にその作品が取り上げられるなど、この1つのアルバムが音楽界に与えた影響もはかり知れないほど大きいものだった。

 収録全作品にスポットをあてた拙稿も、連載10回を数えたが、扱うテーマがホルストというクラシックの大家の作品だったので、執筆調査中に新たに知りえた興味をひく事実も、焦点をぼかさないように、本題以外は敢えて触れてこなかった。

 しかし、そういった事実のいくつかは、ウィンド・ミュージック史において極めて重要な歴史的意味を持ちながら、情報があふれる現代の喧騒の中に完全に忘れ去られようとしている。そこで、毎月1回、いくつかの関連テーマにしぼった「ホルスト外伝」として、続編を書かせていただくことにした。

フェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブルが
ホルストの2つの組曲の“世界初録音者”たり得た不思議?? <前篇>

 デジタル全盛で、パソコンやインターネットという、ホルストが生きた時代には想像すら不可能な文明の利器を手に入れた21世紀に生きるCD世代の音楽ファンからすると、イギリス人作曲家ホルストの『ミリタリー・バンドのための組曲第1番』と『同第2番』が、本国イギリスのバンドではなく、海をこえたアメリカで、フレデリック・フェネルという、ウィンド・アンサンブル・ムーブメントの創始者によって初めて商業レコーディングされたことに、どうしても違和感が残るのではないだろうか。

 ホルストの2つの組曲は、イギリスでは人気が無かったのか。ここまでの本編に書いてきたように、そのような事実はない。いや、もっと積極的に言葉を選ぶなら、両組曲はイギリスのミリタリー・バンドの“お気に入り”だった。

 それではどうして?

 結論を先に書こう。フェネルは、ひじょうにラッキーだった。

 これについては、まず、フェネルのイーストマン音楽学校時代が、まさにオーディオの大革新期にあったという“時代背景”と、レパートリー面においても将来を見据えたアイディアをつぎつぎと提案することのできた新進気鋭のプロデューサーを揃えたレコード会社との運命的な出会いという“人的な側面”のふたつが、彼がイーストマン音楽学校のカリキュラムの中で取り組もうとしていた新しいプロジェクトと見事にフィットしたということを挙げておかねばならないだろう。

 前者のオーディオ革命は、第2次世界大戦後のアメリカで起こった。それを時系列で整理するとおよそ以下のような流れとなる。

【1948年】米Columbia社が、それまでのSPレコードに代わるLP方式レコードを発表。

【1949年】米RCA Victor社が、EP方式レコードを発表。LP と EPをめぐる、激しい主導権争いが勃発。

【1951年】LPとEPを相互に販売することで両者が和解し、以後、世界のレコード会社が発売するすべてのレコードが、この2つの方式に規格統一される。(SPレコードの生産は継続されるが、やがて生産終了。)

 以上の説明には、「SP (Standard Playing)」「LP (Long Playing)」「EP (Extended Playing)」という、CD世代にはさっぱり何のことかわからない3つの“レコード規格”が登場する。それらについての説明は、他のレコード史の著作などにゆずりたいが、とにかく、この時代のLPやEPの登場は、レコードの1つの面に2~5分(盤の直径によって異なる)しか音楽が収録できなかった従来のSP盤に対し、格段に演奏時間の長い音楽が収録可能になるという、当時としては夢のような話だった。

 吹奏楽曲を例に出すともっと分かりやすい。即ち、それまでのSPでは、A面とB面にマーチを各1曲ずつ収録すればそれでおしまい。11分近くかかるホルストの『組曲第1番』全曲を1つの面に収録するなど、どんなにあがいても物理的に不可能だった。

 実際、イギリスにはつぎのようなSP盤(英His Master’s Voice、B.10676)があった。演奏者は、F・ヴィヴィアン・ダン中佐(Lt.-Col. F. Vivian Dunn)指揮、ロイヤル・マリーンズ・ポーツマス・バンド(The Band of H.M. Royal Marines (Portsmouth))で、曲目は、

MARCH (No.3 from “Suite No.1 in E flat major”) (Holst)

 そう、これは、まさしくホルストの『組曲第1番』第3楽章「マーチ」のSPレコードだ。同じレコードのB面には、有名な『ワルチング・マチルダ』(Cowan, arr. C. H. Jaeger)が収められていて、他の楽章はない。手元の資料から、これは1953年10月19-20日の両日に、ロンドンのE.M.I.アビー・ロード・スタジオで収録された同バンド初のLP用音源からシングル・カットされたSP盤と判明したが、収録時間は、A面が<3分15秒>、裏返して聴くB面が<2分56秒>という、ほんとうにアッという間に音楽の終わるレコードだった。

 まさに、これが当時のSPの限界だったわけで、より長時間収録可能のLPやEPの登場が、世界中のレコード会社が色めきたたせたのも無理はなかった。ことに、片面に20数分以上の音楽を収録できるLPは、演奏時間の長いクラシック音楽向きで、音質面の改良も望めたので、レコード各社は、それまでのカタログには多くを載せることのできなかったクラシック・レパートリーの拡充に積極的に乗り出すことになった。

 米Mercuryレーベルのクラシック部門の責任者デーヴィッド・ホールがフレデリック・フェネルと初めて接触したのは、そんな折りも折り、1952年4月のことだった。

フェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブルが
ホルストの2つの組曲の“世界初録音者”たり得た不思議?? <後篇>

1952年4月、米マーキュリー(Mercury)レーベルのクラシック部門ディレクター、デーヴィッド・ホールとイーストマン音楽学校のフレデリック・フェネルとの初のミーティングは、全米音楽教育者カンファレンス(Music Educators National Conference)が開かれていたフィラデルフィアのベルビュー・ストラッドフォード・ホテルで行われた。

当時、マーキュリーは、作曲家としても著名なイーストマン音楽学校の校長、ハワード・ハンソン博士にアプローチをかけて契約を結び、同校のイーストマン・ロチェスター・オーケストラが毎年行っている“イーストマン・フェスティヴァル・シリーズ”の録音をすることが決まっていた。しかし、同時に、ハンソンはイーストマン音楽学校のすべての音楽活動をレコード化したいとする、強い意向も持っていた。フェネルとホールのミーティングも、その目的で設けられたものだった。

ふたりは、まず、まだ“誕生前”で影も形もなかった《イーストマン・ウィンド・アンサンブル》の全体構想について意見交換をした。会話が進むうち、ホールは、タイミングを見図ったように、『バンド・ミュージックとホルストの組曲を録音したい』という意思をすでにハンソンに伝えていることをフェネルに明かした。ホルスト録音の提案は、レコード会社からのものだったのだ。そして、このレコード会社の一言が、やがて、永遠のアーカイヴとして広く認められることになる“フェネル指揮イーストマン・ウィンド・アンサンブル”の名盤誕生のすべての出発点となった。

フェネルは、つぎつぎと録音レパートリーを提案する。そして、これ以後、どこへ行くときも、このときホールに提案した録音レパートリーを正確に記した一片の紙を自身のウォレット(紙入れ)の中に入れて持ち歩くようになった。やがて、ハンソンもそのプランを承認。イーストマン・ウィンド・アンサンブルは、晴れてハンソン監修のマーキュリー“アメリカン・ミュージック・フェスティヴァル・シリーズ”のプロジェクトの正式演奏メンバーに加えられた。

その後、フェネルは、いろいろな機会で『このときに決めた録音レパートリーには、その後一切の変更も加えていない』と誇らしげに語っている。しかし、最初のミーティングの席で彼自身が思い描く録音レパートリーを切り出したとき、それらはレコード会社にとってまったく予想外のものだったようで、社を代表してその場にいるホールも、さすがにしばらく考え込んでしまい、長い沈黙の後、こう言ったことが知られている。

『ねえ、フレッド、君はそれらの10枚も売り上げることはないでしょう。しかし、我々は、それらをいつでも卒業生たちに差し上げることができます。』(註:フレッドは、フェネルの愛称。)

しかし、採算見込みがまったくたたないこのプロジェクトは、将来を見据えたレコード会社の英断によりスタートすることになった。

その最初の録音は、1953年5月14日、ニューヨーク州ロチェスターのイーストマン劇場で収録された「アメリカン・コンサート・バンド・マスターピーシーズ(American Concert Band Masterpieces)」(米Mercury、MG40006、モノラル録音、30cm LP)というアルバムのためのセッションで、収録曲は、

・ジョージ・ワシントン・ブリッジ(ウィリアム・シューマン)
George Washington Bridge (William Schumann)
・ディヴェルティメント・フォー・バンド(ヴィンセント・パーシケッティ)
Divertiment for Band (Vincent Persichetti)
・バラード・フォー・バンド(モートン・グールド)
Ballad for Band (Morton Gould)
・古いアメリカン・ダンスによる組曲(ロバート・ラッセル・ベネット)
Suite of Old American Dances (Robert Russell Bennett)
・タンブリッジ・フェア(ウォルター・ピストン)
Tunbridge Fair (Walter Piston)
・コマンド・マーチ(サミュエル・バーバー)
Commando March (Samuel Barber)

というものだった。いずれも当時のLPレコードのカタログには見当たらない曲ばかりで、イーストマン・ウィンド・アンサンブルを始めて世に問うデビュー・アルバムとして、内外にひじょうに鮮烈な印象を与えることになった。

しかし、予想されたとおり、採算面では初期の大成功を収めるまでには至らず、1953年11月21日に同じロケーションで録音が行われた第2弾では、採算性も意識しながら、ジョン・フィリップ・スーザやエドウィン・フランコ・ゴールドマン、カール・L・キング、エドウィン・ユージン・バグリーら、アメリカ人作曲家のマーチばかり16曲を収めた「マーチーズ(Marches)」(米Mercury、MG40007、モノラル録音、30cm LP)となった。これは、完全なマーチ・アルバムだが、世界初録音が5曲含まれているのがいかにもフェネルらしい。そして、このセカンド・アルバムが、大方の予想どおり大ヒット!!

この成功をバネに、1954年5月12日に第3弾「メキシコの祭り(La Fiesta Mexicana)」(米Mercury、MG40011、モノラル録音、30cm LP)が録音され、“アメリカン・ミュージック・フェスティヴァル・シリーズ”の、フェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブルの録音は、これにてひとまず終了。その1年後の1955年5月10日に、満を持して録音された第4弾が、レコード会社からの最初の提案にあったホルストと、ヴォーン=ウィリアムズからなるイギリス作品集「ブリティッシュ・バンド・クラシクス(British Band Classics)」(米Mercury、MG40015、モノラル録音、30cm LP)となった。

この有名なアルバムの収録曲は、以下の4曲。

・ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 作品28-1
(グスターヴ・ホルスト)
First Suite in E flat for Military Band, Op.28 No.1 (Gustav Holst)

・ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2
(グスターヴ・ホルスト)
Second Suite in F for Military Band, Op.28 No.2 (Gustav Holst)

・トッカータ・マルチアーレ(レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ)
Toccata Marziale (Ralph Vaughan Williams)

・イギリス民謡組曲(レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ)
Folk Song Suite (Ralph Vaughan Williams)

今日では、バンドをやるものなら知らないものがいないというほど有名になったこれらの作品が完全なかたちで商業録音されたのは、このアルバムが始めてだった。しかし、この世界初録音集。少なくともホルストの『組曲第1番』に関しては、実はきわめてきわどいタイミングでの録音だった。

前篇で取り上げたとおり、『組曲第1番』第3楽章「マーチ」が入っている、F・ヴィヴィアン・ダン指揮、イギリスのロイヤル・マリーンズ・ポーツマス・バンド演奏のSP盤(英His Master’s Voice、B.10676)が、実は1953年10月19-20日の両日、ロンドンのE.M.I.アビー・ロード・スタジオで収録されたLP「ミュージック・バイ・ザ・バンド・オブ・エイチ・エム・ロイヤル・マリーンズ(Music by the Band of H.M. Royal Marines)」(同、CLP1016、モノラル録音、30cm LP)用録音からのシングルカットで、もし録音プロデューサーさえその気なら、フェネルの前に『組曲第1番』の完全収録が本国イギリスで行われていた可能性があったからだ。

ところがそれがそうならなかったのは、第2次世界大戦後、直接の戦場となって疲弊したイギリスと戦場から遠く離れていたアメリカとの圧倒的な経済力の差のためだった。

前篇に書いたSP、LP、EPの話を思い出してほしい。好況に沸くアメリカでは、LPやEPの発表後、SPからそれらへの移行がスムーズであったのに対し、イギリスでは、経済的な事情も手伝ってユーザーの新システムへの移行に相当な年数がかかり、同じ時期、ひとつの録音から、SP、EP、LPの3種類のレコードを作る必要に迫られていたからだ。

イギリス盤のプロデューサーは、英EMIでクラシックのプロデューサーとして腕をふるった有名なブライアン・B・カルヴァーハウス。彼は、以上のような事情から、各トラックから収録時間の短いSP盤を作るケースを念頭に置いてレパートリーを選ばねばならず、当然ながら、短い曲中心の選曲となり、ホルストも第3楽章のみの収録となってしまった。

歴史に“もしも”というテーマはつきものだが、もし、このとき、カルヴァーハウスにホールと同じような自由な裁量でレコードを作ることが許されていたとしたら、どうなっていただろう。

というのも、カルヴァーハウスが、本篇で取り上げた1966年録音のイモージェン・ホルスト指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド演奏のLP「イモージェン・ホルスト・コンダクツ・グスターヴ・ホルスト(Imogen Holst conducts Gustav Holst)」(英His Master’s Voice、CSD3507、ステレオ録音、30cm、LP / モノラル盤も発売 : CLP3507)や、1984年にデジタル録音されたエリック・バンクス指揮、同バンド演奏の「ブリティッシュ・ミュージック・フォー・コンサート・バンド(British Music for Concert Band)」(英His Master’s Voice、EL27 0093 1、ステレオ録音、30cm LP / 後にCD化)という、いずれもホルストの『組曲第1番』全楽章が入っているレコードをプロデュースした人物だったからだ。また、指揮者F・ヴィヴィアン・ダンも、1965年にカルヴァーハウスがプロデュースしたロイヤル・マリーンズ音楽学校バンド演奏の「ジ・アート・オブ・ザ・ミリタリー・バンド(The Art of the Military Band)」(英His Master’s Voice、CSD3517、ステレオ録音、30cm LP / モノラル盤も発売 : CLP3517)の指揮者で、このレコードには、ヴォーン=ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』やゴードン・ジェイコブの『祝典のための音楽』などが入っていた。

歴史とはおもしろいものだ。時代をへるほど評価の高まるフェネルの1枚のLPの歴史の裏側に、想像をかきたてるこのようなストーリーが隠されていた。

▼「ミュージック・バイ・ザ・バンド・オブ・エイチ・エム・ロイヤル・マリーンズ
(Music by the Band of H.M. Royal Marines)」
(同、CLP1016、モノラル録音、30cm LP)
なぜ、それらは“ミリタリー・バンドのための”なのか!?

21世紀の今、ホルストの有名な2つの組曲を演奏しようとする人が、楽譜やCDを手にした瞬間、最も違和感を覚え、当惑させられるのが、印刷されている“正式の英語曲名”なんではないだろうか。

それらは、大抵このように印刷されている。

First Suite in E♭ for Military Band, Opus 28-1
(もしくは、Opus 28 No.1 / Opus 28a)

Second Suite in F for Military Band, Opus 28-2
(もしくは、Opus 28 No.2 / Opus 28b)

正確に日本語にすると、

ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 作品28-1

ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2

という様に訳すことができる。「バンドのための」とか「吹奏楽のための」でなく、正式には、ホルストは「ミリタリー・バンドのための(for Military Band)」と曲名を付けているのだ。

しかし、そうだとしたら、これらは「ミリタリー・バンド(軍楽隊)」のためだけの楽曲であり、それ以外のバンドが演奏してはいけないのか。楽譜に書かれてある楽器でちゃんと演奏できるなら、そんな不合理な理由など、どこにも存在しない!

それでは、ホルストは、なぜこうネーミングしたのだろうか。

ご承知のとおり、日本では、1990年代に作曲家のフィリップ・スパークやブリーズ・ブラス・バンド等の活躍が始まって、コルネットやテナーホーン、ユーフォニアムといったサクソルン属金管楽器を中心に打楽器を加えて編成される本物の「ブラス・バンド(Brass Band)」のことが少しずつ知られるようになり、《金管 + 打楽器》編成の「ブラス・バンド」と、《木管楽器 + 金管楽器 + 打楽器》編成の「ウィンド・バンド(Wind Band)」の明確な違いが、インストゥルメンテーションの違いとして意識されるようになった。少なくとも“音楽学”の上では。

しかし、それ以前には、恐ろしいことに『イギリスでは“吹奏楽”のことを“ミリタリー・バンド”と呼ぶ』というようなかなり乱暴な説明もまかり通っていた。また、『イギリスでは“吹奏楽”は“ミリタリー・バンド(軍隊のバンド)”によって行なわれ、民間はすべて金管だけの“ブラス・バンド”である』とも。

日本で“吹奏楽”が始まったとき、それはイギリスからの輸入文化だった。そのイギリスではかつて出版楽譜の多くが「Brass Band」と「Military Band」の2つのカテゴリーで発売されていたことから、情報が少なかった時代の先人たちの誤訳や誤解を招く表現はある程度仕方ないと言える。しかし、それにしても“ミリタリー・バンド”を“吹奏楽”と呼び変えるような説明は、今にして思うに、かなり不適切なものだった。

一方、前記の“ウィンド・バンド(Wind Band)”という楽語が、『近年作られた新しい呼び方』とか『近年そう呼ばれるようになった』と言う人もいるが、実はそれらも的を得ていない。イギリスなど、英語圏の国々では、“Wind Band”という楽語は、バンドのインストゥルメンテーション(編成)を示すときに、少なくとも19世紀初頭から使われてきた経緯があるからだ。

かのギネスブックに“世界で最も成功したバンド”という項目で載った世界的に有名なブラス・バンド“ブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)”(19世紀結成)は、自らの歴史を記した古い記述の中ではっきりと“村のウィンド・バンドとして結成された”と書いている。また、『リンカーンシャーの花束』でおなじみのパーシー・グレインジャー(1882~1961)の楽譜には、曲名につづいて「for Wind Band」と印刷されているものがいくつも存在する。アメリカのプロ吹奏楽団“ゴールドマン・バンド”の指揮者リチャード・フランコ・ゴールドマン(1910~1980)も、1961年に『ザ・ウィンド・バンド(The Wind Band)』(米Allyn and Bacon 刊)という理論書を著している。いずれにせよ、《木管楽器 + 金管楽器 + 打楽器》編成のバンドの意味で使われる“ウィンド・バンド”という楽語は、19世紀から使われ、近年誰かがでっちあげた造語などではないのだ。

しかし、ホルストは、1909年と1911年の2つの組曲のタイトルの中に「ミリタリー・バンドのための(for Military Band)」という文言をわざわざ入れた。

結論を先に書くと、これは、曲を書いた相手、すなわち楽曲を提供する対象が本物の「ミリタリー・バンド(軍楽隊)」だったからだ。(より正確を期すなら、「ウィンド・バンド編成のミリタリー・バンド」だったからだ、と言い直すべきなのかも知れないが・・・。)

それともう1つ、現在の日本の常識からは想像することすらできないが、ホルストがそうネーミングしていい物理的状況が当時のイギリスにはあった。

それは、イギリスという1つの国に実在した「ミリタリー・バンド」の総数だ。

両組曲が作曲された両年の正確なデータはまだ発見できていないが、手元にあるイギリスの王立ネラーホール陸軍音楽学校発行の雑誌『ファンファーレ(Fanfare)』1997年号の、V・R・ウォーラー(V. R. Waller)という人物が書いた「The Rise and Fall of British Army Bands」というイギリス陸軍のミリタリー・バンドの趨勢(すうせい)を追った記事の中には、1894年当時、イギリス陸軍は179のバンドを持ち、20年後の1914年にはなんと191ものバンドが存在したという驚くべき数字が出てくる。

▲『ファンファーレ(Fanfare)』1997年号表紙

2つの組曲は、まさにこの間に作曲されている。

この中には、100人編成(!?)でバンド演奏の他に楽器を持ち替えて管弦楽演奏も行い、実際にドヴォルザークの交響曲第9番『新世界より』のイギリス初演も行った「ロイヤル・アーティレリー・バンド(砲兵隊軍楽隊)」のような大編成のスーパー・バンドも含まれているから、ホルストの時代、どう少なく見積もっても“万”か、あるいはそれをはるかに超える数の演奏家がミリタリー・バンドで演奏活動を行なっていたことがわかる。(記事が書かれた1997年当時のイギリス陸軍のバンド総数(空軍、海兵隊などを除く)は29で、プレイヤー総数が1133名と書かれてあるから、前記のバンド数がものすごい数字であることは容易に理解できる。今でも“世界最大のプロ・ミュージシャン集団”というキャッチ・フレーズが、プレイヤー募集の広告に出るくらいだ。)

しかも、彼らの多くが、階級こそ持つが、兵舎に寝泊りすることもなく、私服での通勤が認められているプロのミュージシャンだった。(もっとも軍という組織の中では、最も低く遇されていたが・・・。)

職業作曲家にとって生業が成り立つための重要な条件のひとつに、まず自作が売れてよく演奏される、ということが挙げられる。これだけの数のミリタリー・バンドが活動していたホルストの時代のイギリスで、「ミリタリー・バンドのための」作品を書くことは、多くの演奏機会を得ると同時に、社会的に高いステータスを得ることを意味していた。

楽譜出版社が、「ウィンド・バンド」ではなく、「ミリタリー・バンド」というカテゴリーで楽譜を出版した理由もまさにここにある。つまり楽譜が売れる。そして、今も世界中で重宝されている『チャペル・アーミー・ジャーナル(Chappell Army Journal)』のように、月1冊のペースで楽譜を出版するところも現われた。これなども、まさに「ミリタリー・バンド」様御用達だったわけだ。

ホルストが「ミリタリー・バンドのための」とした事情は、前記したとおりだ。しかし、これらの曲を演奏するとき、作曲当時のイギリスで“ミリタリー・バンド”という存在が相当メジャーな音楽勢力だったことは、ごくごく基礎的な知識として記憶しておくべきなのかも知れない。

ミリタリー・バンドの人気レパートリー

ホルストの時代、イギリスの“ミリタリー・バンド”は、陸軍だけでおよそ190ものバンドが活動する、世界的に類例を見ない、プロの一大音楽勢力だった。

イギリス初の独立採算、自主運営オーケストラである“ロンドン交響楽団”が初コンサートを開き、ヨチヨチ歩きを始めたのが1904年。グスターヴ・ホルストの“ミリタリー・バンド”のための有名な2つの組曲は、1909年(第1番)と1911年(第2番)に作曲され、この内、1911年は、エドワード・エルガーがロンドン交響楽団の首席指揮者に就任した年でもあった。

そんな時代背景もあり、古い記録を紐解くと、当時のミリタリー・バンドの活動が、イギリスの音楽界においてどれだけ大きな位置を占めていたかについて、意外なほど簡単に数多くの史実を“掘り出す”ことができる。

今ここで、わざわざ“掘り出す”という言葉を使ったのは、我々21世紀に生きるものがほとんどその事実をすっかり忘れてしまっているからだ。いや、オーケストラ至上主義の日本にあっては、ただ無関心なだけなのかもしれない。いずれにせよ、19世紀からつづく、イギリスのミリタリー・バンドの社会的、音楽的なステータスは、フォークランド紛争や湾岸戦争などが突如として勃発するまでは、間違いなくひじょうに高い水準に保たれていた。

手元にこんな資料がある。

それは、バッキンガム宮殿の衛兵交代でもおなじみの近衛兵軍楽隊のひとつである“アイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards)”の、「1957年ワールドツアー」のオーストラリア国内用公式プログラムだ。

アメリカ、カナダ、オーストリア、南アフリカを含む、このときのツアーは、総旅程が35,000マイルを超え、行なったコンサートはおよそ140回。当然、日程は何ヶ月にもわたり、オーストラリアだけで10週間(2ヶ月半!?)滞在したという、スケールの大きさだった。

(アイリッシュ・ガーズ・バンドのロンドン不在中、グレナディア・ガーズ・バンド、コールドストリーム・ガーズ・バンド、スコッツ・ガーズ・バンド、ウェルシュ・ガ-ズ・バンドという、他の4つの近衛兵軍楽隊が交代で演奏についたので、衛兵交代やパブリック・コンサートなどへの支障はまったくなかった。)

さて、このツアー当時のアイリッシュ・ガ-ズ・バンドの音楽監督は、甘いマスクでイギリスの貴婦人たちの間で浮き名を流したとされるセシル・H・イェーガー(Captain Cecil H. Jaeger)で、彼は、当時、ウィーン交響楽団の演奏会に定期的に5度登場したほどの実力と人気を兼ね備えた指揮者でもあった。有名なヒンデミットの『交響曲変ロ調』を、イギリスのアーティストとして始めてBBC放送の電波に乗せたのも、イェーガー指揮、アイリッシュ・ガーズ・バンドだった。

そのイェーガーが、バンドのワールドツアーにあたり、ある大胆な試みをしている。それは、各コンサートのフォーマルな演奏プロをプログラムには一切印刷せず、プロは公演地などのリクエストなども含めて日替わりで決定するというものだった。

そのため、ツアー用に実際にバンドが用意したレパートリーは、なんと894曲。ものすごい曲の数だ!!

公式ツアー・プログラムは、レパートリー一覧のために2ページを割いており、《マーチ》 《序曲》 《組曲》 《舞曲》 《交響曲》 などの各ジャンルごとにまとめてズラリと印刷されていた。

(スペースの関係で全曲印刷ではなかったが、それでも圧巻!!)

それにしても、オーケストラ、バンドを問わず、もし日本でこんなことをしようものなら、間違いなく指揮者は総スカンで、袋叩きにあってしまうことだろう。

しかし、誇り高きこのバンドは、それをさも当然のことであるかのようにこなした。しかも、プログラムのバンド紹介のページには、次のような記述がさらりと書かれていた。

『今すぐ世界中の有名オーケストラに簡単にポジションを見つけられるプレイヤーたちが、なぜミリタリー・バンドに入っただって? その答えは簡単。それはこのバンドに参加する方が興奮とスリルに満ちているからさ。』

要するに、意識の違いだ。実際、バンド・メンバーは、公務に支障ない限り、アルバイトが認められていて、多くがロンドン市中のほとんどのオーケストラでも演奏し、平均月収がオーケストラ奏者のそれを上まわる者もザラにいた。

また、タイアップ企画というか、かの名優ローレンス・オリヴィエとマリリン・モンローが主演した『王子と踊子(The Prince and Showgirl)』など、このバンドが起用された映画2本がツアーと同じ1957年に公開されており、その扱いもまるでスター級だった。

(DVDで確認すると、映画『王子と踊子』では、いくつかのBGMを演奏しているほか、オリヴィエとモンローの乗った馬車が新英国王ジョージ5世の戴冠式へと向かうシーンではバンド・メンバー30名が“楽器を銃に持ち替えて”沿道警護の近衛兵役として、また、その後の華やかな舞踏会のシーンではサロン・オーケストラとして出演している)

そして、もうひとつ。次の資料は、さらに刺激的だ。

それは、国王ジョージ5世の治下、1934年から1935年にかけて行なわれた、同じく近衛兵軍楽隊のグレナディア・ガーズ・バンド(The Band of the Grenadier Guards)の「オーストラリア~ニュージーランド・ツアー」の公式プログラムだ。1934年という年は、実はホルストが亡くなった年でもある。

グレナディア・ガーズ・バンドの当時の音楽監督は、ジョージ・ミラー(Major George Miller)。本稿vol.6に書いたホルストが『組曲第2番』を献じたジェームズ・コーズリー・ウィンドラム(後のコールドストリーム・ガーズ・バンド音楽監督)と並び称される、イギリスのミリタリー・バンド史上、その名が今に語り継がれるほどの名指揮者のひとりだ。

そして、そのミラーが組んだツアー・プログラムもまた、驚きの世界だった。

プログラムを開くと、口上の後、《No. 1 Programme》から《No. 12 Programme》までの番号がつけられた12種類(!?)のコンサート・プロが1ページごとに印刷され、それに続いて、イギリスの作曲家の曲だけで作られた《A National Programme》と《Modern British Programme》 の異なる2種類のプロ、オペラの曲だけで作られた《An Operatic Programme》、フランスの曲だけで作られた《A French Programme》、ワーグナーの曲だけで作られた《Wagner Programme》、クラシックの曲だけで作られた《Classical Programme》、ロシアの曲だけで作られた《A Russian Programme》がつづく!

数えると、このツアーには、なんと合計19種類ものプログラムが用意されていたことになる!!

ベートーヴェンからチャイコフスキーまで。曲の多くは本格的なクラシック曲なので、まるでシンフォニー・オーケストラのコンサート・プロと勘違いしそうだが、それらに混じって、当時の最新オリジナルだったホルストやヴォーン=ウィリアムズ、さらにはグレインジャーの曲目もしっかりと含まれていた。

本当に、このバンドは、こんなレパートリーで日々の演奏活動を行なっていたのか?

これも日本ではありえない!

こんなものすごいプログラムは、本来なら、そのすべてを紹介すべきなのかも知れない。しかし、それでは本題を逸脱してしまう。本稿では、その一例として、最も注目したい《Modern British Programme》をピックアップしてみた。

そのプログラムには、以下のような曲が並んでいた。


・スピリット・オブ・パジャントリー (フレッチャー)
The Spirit of Pageantry (Fletcher)

・ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 (ホルスト)
Suite in E Flat (written especially for Military Band) (Holst)

・ナポリの夜 (バイング)
Divertiment – A Day in Naples (Byng)

・イーヴンソング (イースソープ/マーティン)
Evensong (Easthope-Martin))

・羊飼いの葬送の踊り (バルフォア/ガーディナー)
Shepherd Fenneral’s Dance (Balfour-Gardiner)

・ロンドン組曲 (コーツ)
London Suite (Coates)

<休憩>

・序曲「帆船」(アンセル)
Overture – The Windjamer (Ansell)

・付随音楽「悪魔」(ジャーマン)
Incidental Music to “The Tempter” (German)

・「青年の杖」組曲第2番 (エルガー)
Second Suite, “The Wand of Youth” (Elgar)

・イギリス民謡組曲 (ヴォーン=ウィリアムズ)
Old English Folk-Songs(Folksong Suite) (Vaughan-Williams)

・ケルト組曲 (フォールズ)
A Keltic Suite (Foulds)

・英国国歌
God Save the King


他のプロもだいたい同じ傾向のプログラミングだが、いずれも現在のクラシック・コンサートとしても立派に通用しそうなものばかりだった。当時のこのバンドのコンサートが、エンターテイメントのひとつとして成熟し、完全に市民権を得ていたことがとてもよく理解できる。

また、ホルストの『組曲第1番』は 《No. 5 Programme》でも演奏され、『組曲第2番』は《No. 10 Programme》に、グレインジャーの『子供たちのマーチ~“丘を越えかなたへ”』は《No. 2 Programme》に、『コロニアル・ソング』と『岸辺のモリー』は《No. 4 Programme》 に含まれていた。

記録を調べると、当時のジョージ・ミラー指揮、グレナディア・ガーズ・バンドが、ものすごい人気バンドだったことがよくわかる。当然、レコードも数多く残るが、時代が時代だけに、それらはすべて78回転のSPレコードであり、たとえ一部がLPやCDになっていても、それらは録音時間の制約からマーチなどの曲がほとんど。我々日本人が求める、ホルスト全曲のようなコンサート・ピ-スの演奏を耳にできるチャンスなど、残念ながら、今後ともほとんど無いように思われる。

ただ、近年、ブリティッシュ・パテ・フィルムなどが撮影した当時の白黒映画映像が、インターネット上に公開され、それを視聴すると、かなり長めのタクトを自在に操るミラーがとても音楽的な指揮者であり、この頃のこのバンドがいかにモチベーションの高い演奏を繰り広げていたかが実際の演奏を通してとてもよくわかった。また、野外録音にもかかわらずサウンドも華麗で、魅力あるすばらしいバンドだった。前記のようなツアー・プロを平気でこなすバンドだけに、当然かも知れないが。

本稿vol. 5に書いたとおり、ホルストの『組曲第1番』の初商業録音は、1955年、フレデリック・フェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブルの演奏でモノラル録音で行なわれた。それは後に擬似ステレオ化され、今日CDでも聴くことができる。

しかし、これも書いたとおり、この作品の世界初ステレオ録音の栄誉は、1942年のジョージ・ミラーの退任後、音楽監督を継いだフレデリック・J・ハリス(Major Frederick J. Harris)指揮、グレナディア・ガーズ・バンドが担うことになった。

1957年にモノラル盤が先行発売されたLPアルバム「An Album of Military Band Music」(英Decca、SKL4041 – ステレオ / LK4184 – モノラル)がそれだ。ホルスト以外には、フレデリック・ロッセの『ヴェニスの謝肉祭』から“ポーティアとドッジのマーチ”、ジョン・アンセルの『3つのアイルランドの風景』、アーサー・ウッドの『3つのデール・ダンス』という、イギリスならではの曲目が収録されている。

第2次世界大戦後の復興期にあった当時のイギリスでは、確実な売り上げの期待できないギャンブル性の高いレコードの企画など予算上許されるはずもなく、新しいメディアであるLP用の新録音も、まずは聴衆がよく知っている人気曲から始められた。

フェネルにこそやや後塵を拝したが、ホルストなど、このグレナディア・ガーズ・バンドのアルバムに収録された曲もまた、作曲家の存命中からずっとイギリスのミリタリー・バンドによって大切に演奏されてきたファンお気に入りのレパートリーだった。

そして、新たなる発見へ!!
組曲『惑星』が語りかける夢ー

2007年にリリースされたペデルセン指揮、ノルウェー王国海軍バンド演奏のCD「オラフ王を称えて – グスターヴ・ホルスト: ミリタリー・バンドのための全作品集」は、世界中の音楽ファンのハートをとらえる衝撃的なアルバムとなった。

多くの人を感嘆させた、ウィンド・アンサンブルの極致とも言えるすばらしい演奏もさることながら、そこに初めて録音された楽譜の発掘や、オリジナル手書き譜の徹底したリサーチ、使用楽譜選定時のこだわりと歴史的検証などを通じ、ホルストの知られざる作品像を我々の前に現実のものとしたからである。

それは、正しく、それまで誰も知りえなかったホルスト・ワールドだった。

そして、この「オラフ王を称えて」のアカデミックな姿勢に触発されたのか、英米の多くの音楽学者や音楽家が動き出した。

彼らの関心は、当然、ホルストをはじめ、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズやパーシー・オルドリッジ・グレインジャーという、ほぼ同時代にウィンド・バンドのためのオリジナル曲を手がけた作曲家たちに向けられた。その結果、この稿をスタートした当時に不明だった事実もつぎつぎと突きとめられるようになった。

一例を挙げると、vol.10 で取り上げた組曲『惑星』の“火星”と“木星”の編曲者G・スミスのファースト・ネームもついに明らかとなった。

残された自筆資料など、膨大な資料をもとにホルスト研究の第一線にたった娘イモージェンですらたどりつけなかったこの1つの事実は、ジョン・ミッチェルら、英米の音楽学者による、ヴォーン=ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』がロンドン郊外トウィッケンナムの王立ネラーホール陸軍音楽学校で初演された1923年7月4日のコンサートの、実際のプログラムなどの照合作業を通じて、偶然確認された。

それによると、G・スミスの本名は、ジョージ・スミス(George Smith)といい、スミスは、当時、ネラーホールの“ステューデンツ・コース”(バンドマスターをめざすコース)に学び、後にシャーウッド・フォレスターズ・バンドの指揮者となった人物だった。(ネラーホールのコースについては、vol.6 を参照。)

また、スミスの『惑星』の編曲は、実際には“火星”“木星”以外に“金星”があり、この日のコンサートでは、この内の“火星”と“金星”に、ルイ・ペイ(Louis Pay)編曲の“水星”を加えた3曲が演奏されていた。(指揮は“水星”の編曲者のペイ。彼もステューデンツ・コースの学生だった)

そして、この中から、ジョージ・スミス編の“火星”と“木星”が、1924年にブージー&ホークスから出版され、結果として、CD「オラフ王を称えて」にすばらしい演奏が収録されたというわけだ。(註 : 出版楽譜には、編曲者名は印刷されていない)

吹奏楽編曲の組曲『惑星』と言えば、1989年4月11~12日、ロンドンのEMIアビーロード第1スタジオで収録されたエリック・バンクス指揮、ロンドン・シンフォニック・ウィンド・オーケストラ演奏のCD (EMI/プロデューサー : ブライアン・カルヴァーハウス)に収録されたサイ・ペイン(Cy Payne)の編曲を真っ先に思い浮かべる人も多いことだろう。筆者も企画段階から参画し、実際にセッションにも立ち会った思い出深いCD、そして編曲だ。(原盤 : 東芝EMI、TOCE-6020 / 第二回発売盤 : EMIミュージック・ジャパン、TOCF-56081/2)

▲BPショップで詳細を見る
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-1481/

しかし、英米の学者たちによるリサーチは、それに先立つこと65年以上も前に、『惑星』の中の4曲がすでに吹奏楽に編曲され、この夏のパブリックなコンサートで、曲の組み合わせを変えながら何度も演奏されていたことを明らかとした。これは、1920年11月15日にオーケストラ原曲の初の全曲演奏が行なわれてから、わずか2年半後のことで、ホルストとネラーホールの間に良好な関係がないと実現不可能なことだった。

(余談ながら、このリサーチでは、ヴォーン=ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』が初演時には“4曲構成”の組曲だったことも明らかにされている。)

今も世界中で演奏され、これほど有名なのに、実際の初演や初演者がまったく不明のままとなっている『ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 作品28-1』と『ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2』など、ホルストのウィンド作品には、まだまだ謎が多い。

しかし、現在のような徹底したリサーチが続けられる限り、いずれ、それらも明らかにされる日がくるのではないだろうか。あるいは、もっと愉快なことを考えることを許されるなら、ホルストの未知のウィンド・オリジナルが発見されるかも知れない。

すばらしい1組のCDから、限りなく広がる夢。

そんなCD「オラフ王を称えて」を世に送り出したすべての人々に、大きなブラボーを贈りたい!

■樋口幸弘のマイ・フェイヴァリッツ!! vol.1「オラフ王を称えて」


オラフ王を称えて –
グスターヴ・ホルスト: ミリタリー・バンドのための全作品集
The Praise of King Olaf – Holst’s Complete Music for Military Band

指揮:レイフ・アルネ・タンゲン・ペデルセン
Leif Arne Tangen Pedersen
演奏:ノルウェー王国海軍バンド
Royal Norwegian Navy Band

このディスクは、イギリスの作曲家グスターヴ・ホルスト(1874-1934)がミリタリー・バンドのために作・編曲した現存するすべての楽曲を録音した世界初のアルバムとなった。企画段階から少なからず関与させていただいたことから、個人的な思い入れもあるが、実際に手にしたアルバムは、演奏、録音、構成のすべてにおいて、お世辞抜きのファースト・クラス。アカデミックさのみならず、ウィンド・クラシックとしても最高水準のパフォーマンスを満喫できる。その完成度の高さに、迷うことなく「マイ・フェイヴァリッツ」に選定!!

ホルストの2つのオリジナル組曲

スペシャリスト・レコーディングのプロデューサー、マイク・プアートンから“ホルスト作品集”の構想を打ち明けられたのは、かれこれ3年以上も前の2004年のことだった。当時、彼は、Naxosレーベルで発売した一連のスーザ作品集の世界的ヒットにつづき、エルガー、ブリス、アーノルド、ジャーマン、サリヴァン、ウォルトンという、すべて名前の前に“サー”がつくイギリスの作曲家たちのクラシック・アレンジを、各地のライブラリーやバンド、楽譜出版社の倉庫などから出版・未出版の別なく掘り起こし、現代の感覚で再吟味して、そのベストをイギリスのミリタリー・バンドで作曲家別に録音するという、誰も手がけたことのない野心的なシリーズの最初の6タイトルを自身のSpecialistレーベルで発表したばかりで、この後、彼がこのシリーズをどのように展開するかは、広く世界の関心事となっていた。

マイクは、企画中の“ホルスト作品集”に関してひじょうに慎重だった。先に発売した作曲家たちとは違い、近代ウィンド・バンド・オリジナルのルーツとして位置づけられる、ミリタリー・バンドのために書かれた一連のオリジナル作品が存在したからだ。

この内、最も有名な『組曲第1番、変ホ長調』(1909)については、旧知の間柄から、既存の3つのバージョン(1.作曲者手稿、2.最もポピュラーなBoosey & Hawkes版、3.指揮者フレデリック・フェネルがオリジナルに基づいて校訂した同改訂版)のどれを選択すべきかについて幾度となく意見を求められた。ホルストのオリジナルは、前記フェネルの名著『ベーシック・バンド・レパートリー』(日本版:佼成出版社)でも明らかにされているとおり、作曲当時のイギリス陸軍のミリタリー・バンドの基本編成の一種である“エンゲージメント 25(Engagement 25)”と呼ばれる編成に音楽表現上必要な最少限の楽器を加えた編成で書かれていた。そして、それは、出版社の商業的判断でアメリカの大きなバンド・サイズに拡大されて出版されたBoosey & Hawkes版の楽器編成よりかなりコンパクトで、熟達したプレイヤーさえ揃えば、およそ30名強で演奏できるオーケストレーションが施された楽曲だった。この事実は重大だった。結果、我々の関心は自然と作曲者のオリジナルに向かうことになり、録音はホルストが書いた最初の手書きスコアに最大の敬意を払いながら行われることとなった。この最終判断は、もちろんプロデューサーであるマイクが下した。

その後、ふたりの意見交換はこれまた有名な『組曲第2番、へ長調』(1911)に移った。この作品のオリジナルも、『第1番』とは使用楽器に差異が認められるものの、よく似た規模の楽器編成でオーケストレーションされており、まったく同じ理由から同様の判断が下された。

演奏バンドには、まさにこの企画にぴったりの楽器編成をもち、小編成ながらも粒ぞろいのプレイヤーで構成されるノルウェー海軍のバンドが選ばれた。指揮者のペデルセンは、1988年以降、オスロ・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・クラリネット奏者をつとめ、2003年秋にこのバンドの首席指揮者に就任したノルウェーの誇る音楽家のひとりで、マイクとも、同バンドのCD「ノルウェー・バンドスタンド(A Norwegian Bandstand)」(Specialist, SRC122)のセッションを通じ、すばらしい信頼関係を築き上げていた。

ペデルセンは、この“ホルスト作品集”でも、録音会場となった教会のナチュラルで美しい響きをも味方につけながら、一片の不純物さえ認められない澄み切ったサウンドと精緻なアンサンブルで、スコアのディティールの隅々までもクッキリと浮かび上がらせることに成功した。ウィンド・アンサンブル演奏の理想の姿がここにある。

大発掘!! ホルストのもうひとつのオリジナル -『オラフ王を称えて』

このアルバムの演奏者に、イギリスではなく、ノルウェーのバンドが選ばれることになった背景には、もうひとつ大きな理由があった。それは『オラフ王を称えて(The Praise of King Olaf)』という、ミリタリー・バンドのために書かれたオリジナル作品の手書き譜を、プロデューサーのマイク・プアートンが探し出したことだった。

『オラフ王を称えて』は、英国王ジョージ5世の戴冠式のあった1911年、5月から10月にかけて開催された「Festival of Imperial Exhibition(帝国博覧フェスティヴァル)」の一環としてロンドンのクリスタル・パレスを会場として行われた「ページェント・オブ・ロンドン(もしくは、ページェント・オブ・エンパイア)」という、大仕掛けの屋外音楽イベントの一部を担うために作曲された。(作曲年は、1910-11年)

「ページェント・オブ・ロンドン」は、イギリスの史実をテーマとした4部32場からなる音楽イベントで、上演には4昼夜を必要とし、のべ15000人の出演者がこれに関わった。4ヵ月の上演期間中、400万人の観衆がこれを観たとの記録がある。ホルストのロイヤル・カレッジ・オブ・ミュージック(RCM)時代の友人W.H.ベルがこれを委嘱され、当時の若手作曲家がほとんど総出で各部の音楽を分担して書いた。その中には、エドワード・ジャーマン、ポール・コーダー、パーシー・フレッチャー、ヘンリー・ウッド、フランク・ブリッジ、ヒューバート・バス、フレデリック・オースティンらの名がある。

ホルストの音楽は、その第1部第4場のために書かれた。このシーンは、1014年、イングランドの大部分を支配下に置いていたデーン人が占拠するロンドン橋を、のちのエドマンド豪胆王率いるイングランド軍と呼応して、ノルウェーの守護聖人となったオラフ(2世)王率いるノルウェー軍が船上から攻撃して橋を落して勝利する、という大スペクタクル・シーン。今日のようなPAシステムがない時代の野外上演用付随音楽のために、ホルストは、ミリタリー・バンドと大合唱(500人)を使い、4つのファンファーレと2つの戦闘シーンの音楽などを配した計6曲のたいへんドラマチックな音楽を書いた。そして、このシーンのために、クリスタル・パレスの大きな池には橋が築かれただけでなく、舳先に竜の頭を戴くオラフ王の船が浮かび、その周囲に敵味方の兵士たちが配置されていた。この音楽は、そんな途方もないスケールで演じられた音楽イベントのための作品だった。(ブックレットには写真が印刷されている!!)

この作品。実は、ホルスト自身の作品リストには載っていない。ただ、娘イモージェンの著作に大英博物館所蔵の手書きコンデンスの引用があることから、存在自体は知られていた。しかし、当時のこと故、録音もなく、出版もされず、何人もの作曲家が手分けして書いたイベント用音楽の一部だったことから1911年以降に演奏されることもなく、いつしか忘れ去られた存在になろうとしていた。それを現代に甦らせたのがこのレコーディングというわけだ。

21世紀の室内録音に際しては、当時のような大編成は必要としない。幸い、ホルストのオーケストレーションは、『組曲第1番』などと同じく、至ってシンプル。プロデューサーのマイクは、誇り高きオラフ王の水軍の末裔である“ノルウェー王国海軍”のバンドに、この発掘されたもうひとつのオリジナルと、他のホルスト作品すべての録音をゆだねることにした。

『ハマースミス』をめぐる大きな謎

ホルストは、自作品についてあまり多くを書き残していない。このため、実娘イモージェンをはじめ、後世の多くの音楽学者が公式記録の再チェックだけでなく、手稿への書き込みから友人や家族にあてた手紙まで、およそ考え得るソースをくまなく調べて、今も歴史的検証を試みている。だが、依然として解明されない謎は多い。今日ではウィンド・バンドのマスターピースのひとつに数えられる『ハマースミス – プレリュードとスケルツォ 作品52』に絡む謎もたいへん興味深いものがある。

『ハマースミス』は、第2次大戦前の1927年から戦時中の1943年まで活発な演奏活動を展開したBBC放送吹奏楽団の委嘱によって作曲された。当初、その指揮者は、創設者でもあり、作曲家でもあったB・ウォルトン・オードンヌル。プレイヤーは、ロンドン市中のトップ・プロからなっていた。ホルストへの委嘱は、楽団が活動を開始した1927年の年末のことで、委嘱は、単一楽章で演奏時間12分から15分のミリタリー・バンド(ウィンド・バンド)編成の作品というのが条件となっていた。

ホルストは、この新しい時代の息吹の感じられる“放送吹奏楽団”のための新作を、じっくりと時間をかけて作曲することを望んだ。そこで、1928年、期限を延ばしてもらう意味も込めて、来るべき新作へのプレリュードとして、まずJ.S.バッハの”フーガ ト長調”(BWV 577)を編曲してBBC放送吹に提供した。アルバム1枚目の『ジーグ風フーガ』がそれだ。その後、ホルストが全身全霊を傾けて作曲することになった『ハマースミス』は、満を持したように1930年に完成する。依頼どおりの単一楽章、演奏時間14分の作品として。

娘イモージェンの著作には、『ハマースミス』は、早速、BBCへ送られ、おそらくは1931年4月23日、BBC放送第10スタジオでオードンヌルの指揮によるインフォーマルの試奏が行われた、とある。当時、知人に宛てた手紙の文面から、ホルストは近く開催が予定されていたある“国際フェスティヴァル”での演奏を望んでいたことが知られている。しかし、この作品は、その後、なんらかの事情によって、放送を含む公開の場でこの楽団によって演奏されることはなかった。そして、BBC放送吹の試奏と同じ1931年、『ハマースミス』は、オリジナルの姿で初演される前に突如として作曲者によって管弦楽曲にトランスされ、同年11月25日、ロンドンのクィーンズ・ホールにおいて、エードリアン・ボールト指揮、BBC交響楽団によって初演されてしまう。興味深いことに、このオケ版初演時のプログラム・ノートは、作曲者自身が書いているが、残念ながら、そこには、これがBBC放送吹の委嘱曲だったこと以外、この間の事情については何も語られていない。こうして、ミステリーは、いよいよ深まっていく。

その後、『ハマースミス』のオリジナル・バージョンであるウィンド・バンド版の初演は、イギリスではなく、なんと海を渡ったアメリカで企画された。多くの音楽学者たちをあざ笑うように、その間の事情もまた不明だが、初演は、1932年4月17日、ワシントンD.C.のコンスティテューション・ホールで開催された第3回アメリカ・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A.)・コンベンションのコンサートで、アメリカ海兵隊バンドの演奏で行われた。この演奏の指揮は、当初、作曲者ホルスト自身があたることになっていたが、あいにくの病気のために客演はキャンセルされ、代わって海兵隊バンドの隊長テイラー・ブランソン大尉が指揮を行った。イモージェンの著作には、この件に関して“キャンセル”の事実だけが書かれている。また、このとき使われたパート譜が、BBCのものではなく、ホルスト自身のスコアから楽員たちが手書きで写し取ったものであり、それらは今も海兵隊バンドのライブラリーに大切に保管されている、という事実も興味を引く。

しかし、もっと興味深いのは、その後、この本当の初演の事実をほとんどすべてのアメリカ人が忘れてしまい、それから20年以上たった1954年、ペンシルヴェ二ア州ピッツバーグのカーネギー・ミュージック・ホールにおいて、ロバート・カントリック指揮、カーネギー工科院キルティー・シンフォニック・バンドの演奏で大々的に“初演”されてしまったことだ。そして、カントリックの初演実現までの努力に協力を惜しまなかったイモージェンの著作にも“おそらくは初演”として記録されたことから、その後、この作品に関するさまざまな楽曲解説者のプログラム・ノートは歴史的迷走を始める。

幾重にも偶然が重なり、この“1954年初演”説がひとり歩きを始めてしまった後、それが誤りであったことを発見したのは、その20数年後にこの作品のアナリーゼを雑誌に連載した指揮者フレデリック・フェネルだった。フェネルは、アメリカ海兵隊バンドのライブラリーに保管されてあった古いファイルから、当時の日付スタンプの押された公式の日誌を見つけ出し、1932年に同バンドが初演を行った事実をつきとめた。1998年制作のアメリカ海兵隊バンドの200年記念CD「The Bicentennial Collection」(10枚組、非売品)のブックレットには、フェネルによって明らかにされたこの事実が誇らしげに記述されている。


『ムーアサイド組曲』と3つのウィンド・バンド・バージョン

ホルストの全バンド作品の中で、『ハマースミス』以上に好奇心と想像力をかきたてさせる作品に『ムーアサイド組曲』がある。

『ムーアサイド組曲』のオリジナルは、1928年、委嘱により、全英ブラス・バンド選手権ファイナル(最終決勝)のためのテストピース(課題)として作曲された。ホルストが唯一ブラス・バンド編成のために作曲したオリジナル作品であり、楽器編成は、以下のとおり。

Ebソプラノ・コルネット
Bbコルネット(Solo, Repiano, II, III)
Bbフリューゲルホーン
Ebテナーホーン(Solo, II, III)
Bbバリトン(I, II)
トロンボーン(I, II, III)
Bbユーフォニアム(I, II)
Ebバス
Bbバス
パーカッション
(楽譜出版: R・スミス)

初演は、1928年9月29日、ロンドンのクリスタル・パレスを会場として開催された同選手権決勝の出場バンドによって行われた。初演バンド名をここで特記しないのは、出場バンドの演奏順が選手権のレギュレーションにしたがって当日のくじで決められた(つまり、ノミネート全バンドに“一番くじ”さえ引けば、“初めて演奏する”栄誉に浴するチャンスがあった)からだ。

それはさておき、このホルストの『ムーアサイド組曲』が課題となった1928年の“全英”では、ウィリアム・ハリウェル指揮、ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(当時の名称)が全英チャンピオンに輝いた。ブラック・ダイクにとって、1902年以来、実に26年ぶり2度目の全英優勝で、運良くSPレコードに残されていたこのときの優勝ライヴは、その後、1993年に「クリスタル・パレス・チャンピンズ(The Crystal Palace Champions)」(Beulah, 1PD2)というアルバムでCD化されたから、聴かれた人も多いだろう。以下、選手権第2位にはハートン・コリアーズ・バンド、第3位にはカーリスル・セント・スティーヴンズ・バンドが入賞した。

選手権の行われた翌週、ホルストは“ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)”紙に感想を寄せている。そこには、“音楽家の指揮による音楽家の演奏”だったことを称える一方で、音楽が穏やかでスムーズなカンタービレを要求しているときに、一部のコルネットとユーフォニアムのソロ奏者があまりにも前時代的なビブラートに浸りきっていた姿に失望したことも書かれ、とても興味深い。しかし、作品それ自体は、この日の選手権を通じて大成功を収め、優勝者ブラック・ダイクも、アーサー・O・ピアースの指揮であらためてセッション・レコーディング(SPレコード)を行った。バンドの150周年を記念して発売されたCD「ジュエルズ・イン・ザ・クラウン – ヒストリー・サウンド・オブ・ザ・ブラック・ダイク・バンド(Jewels In The Crown ~ A History in Sound of the Black Dyke Band )」(Doyen, DOYCD 150)に収められている演奏がそれだ。

さて、本題の『ムーアサイド組曲』のミリタリー・バンド(ウィンド・バンド)用トランスクリプションは、すべて前記ブラス・バンド用オリジナルの成功の後に作られ、作曲者本人のものも含め、つぎの3つのバージョンが存在する。

【1】作曲者ホルスト自身のもの(未完)
【2】ゴードン・ジェイコブ(1895 – 1984)によるもの(出版)
【3】デニス・ライト(1895 – 1967)によるもの(1980年近くに発見/出版)

この内、もっとも興味深いものは、いうまでもなく作曲者ホルスト本人のトランスクリプションだ。これは、第1楽章「スケルツォ」全体と第2楽章「ノクターン」の38小節目までが書きあがり、そこで突然筆が折られている。ホルストが亡くなったのは1934年。となると、このトランスに手をつけていた時期は、1928 – 1934年の間に限定される。CD「オラフ王を称えて」の解説者ルイス・フォアマンは、ホルストがこれに着手した理由は、この作品に気づいたBBC放送吹奏楽団からトランスのリクエストがあったときに即応するためだったのではないか、と推定している。なるほど、前項に書いたとおり、1927年にこの楽団から新作の委嘱を受けていたホルストは、この新しい息吹きを感じさせる楽団に大いなる関心を寄せており、『ムーアサイド組曲』と同じ1928年にJ・S・バッハの“フーガ ト長調”(BWV 577)をトランスした『ジーグ風フーガ』を楽団に提供し、2年後の1930年には委嘱作『ハマースミス』を完成させている。この流れから考えると、ホルストが成功を収めた『ムーアサイド組曲』のトランスを自発的に始めていたとしても何ら不思議ではない。

しかし、結局のところ、ホルストはトランスを完成させなかった。そして、BBC放送吹が『ハマースミス』を公開で演奏しなかったという事実以外、この間、何があったのかを物語ってくれる物証はどこにも存在しない。

一方、作曲者以外のジェイコブとライトが書いた2つのトランスクリプションの存在は、何を物語っているのだろうか。もちろん、これらは、作曲者が筆を折ったこと(この事実は早くから知られていた)から、バンドからのリクエスト、あるいは出版目的など、何らかの必要にせまられて作られたことは間違いない。

ゴードン・ジェイコブは、『ムーアサイド組曲』だけでなく、ホルストの多くの作品をオリジナルとは違った編成(ウィンド・バンドやオーケストラ)のために精力的にトランスした。教え子の中にホルストの娘イモージェンも含まれ、もっともホルストをよく知るひとりとして知られる。その『ムーアサイド組曲』のウィンド・バンド用トランスは、まず、1960年に第3楽章の「マーチ」がブージー&ホークスから先行出版、1970年に第1楽章「スケルツォ」と第2楽章「ノクターン」をセットにしたかたちで、同じくブージー&ホークスから出版された。長年待ち望まれていたウィンド・バンド用の楽譜だけに、これらは世界中のホルスト・ファンから大歓迎された。

他方、名編曲家として知られるデニス・ライトのトランスは、イモージェンの著作の中にも記載がなく、長い間、存在それ自体が知られていなかった。これは、1980年近くにBBC放送のライブラリーの中から偶然発見され、1983年にアメリカのジェンソン(イギリス版は、オリジナル版権をもつ R・スミス)から出版された。近年、ライトの人生と作品リストをまとめたロイ・ニューサムの著作「ドクター・デニス(Doctor Denis)」(1995)によると、このトランスが書かれたのは作曲者の没後3年目の1937年。編曲年とBBC放送のライブラリーから出てきたことから、このトランスはほぼ間違いなくBBC放送吹奏楽団用のものだったといわれている。

歴史に「たら」「れば」というテーマはつきもの。ジェイコブ、ライトの両バージョンとも、作曲者が自身のトランスを完成させていたら、世に出ることも無かっただろう。ホルストとBBC放送吹奏楽団の間に当時いったい何があったのか。このCDで、初めて演奏・録音された作曲者本人のトランスが第2楽章の途中で無念にも中断されているのを聴くたび、この音楽史上の謎に思いを馳せることになるのは、ひとり筆者だけではないだろう。


名作『組曲第1番』と誰も知らない初演者

ホルストがミリタリー・バンド(ウィンド・バンド)のために作曲したオリジナル作品の中で、今日も地球上のどこかで演奏されているかも知れないというほどポピュラーなのに、作曲や初演の経緯がまったく忘れ去られてしまっている作品のひとつに、1909年作曲の『ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 作品28-1』がある。

この作品についても、演奏についてのサジェスチョン以外、作曲者は何も書きのこしていない。だが、少しずつ部分的に発表された主な情報を整理すると、およそ次のような事実や背景が浮かび上がってくる。

『組曲第1番』の世界初の商業レコードは、1955年5月10日、米ニューヨーク州ロチェスターのイーストマン劇場において録音され、同年末にリリースされたフレデリック・フェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル演奏のLP「ブリティッシュ・バンド・クラシクス(British Band Classics)」(初版: 米Mercury, MG40015, モノラル / 二版: 同, MG50088, モノラル)だった。同時に『組曲第2番』も初収録されたこのアルバムは、のちにパーシー・グレインジャーの『ヒル・ソング第2番』を加えて電気的に擬似ステレオ化され、タイトルを「フォークソング・スウィーツ・アンド・アザー・ブリティッシュ・バンド・クラシクス(Folksong Suites & other British Band Classics)」に改めて再発売(米Mercury, SR90388)され、21世紀となった今もアメリカと日本で擬似ステ・バージョンがCDとして発売されているので、聴かれた人も多いだろう。オリジナル盤のプログラム・ノートは、デーヴィッド・ホール(無著名)がフェネルの言質を引用しながら書いているが、作曲の経緯や初演など、事実関係には一切触れられていない。

この組曲の初演についてはじめて触れたのは、1957年にイギリスで発売されたフレデリック・J・ハリス少佐(当時)指揮、グレナディア・ガーズ・バンド演奏のLP「アン・アルバム・オブ・ミリタリー・バンド・ミュージック(An Album of Military Band Music)」(Decca, LK4184, モノラル)のプログラム・ノートだった。著者は、イギリスのバージル・サンダーズで、それには、つぎのように書かれている。

『ミリタリー・バンドのための組曲第1番は、1923年に王立陸軍音楽学校(Royal Military School of Music)で初演された。』

『組曲第1番』の2枚目のレコードとなったこのアルバムは、ロンドンのキングズウェイ・ホールでステレオで録音されたが、当時はステレオ・レコードのカッティング技術が実用化前だったので、前記モノラル盤が先行発売。ステレオ盤は、1958年にアメリカ盤(米London, PS103, 英Deccaプレス)、1959年にイギリス盤(英Decca, SKL4041)が発売され、本場モノのステレオ録音ということもあり、レコードは大ヒット。サンダーズの明快なノートもあり、大いに話題を呼んだ。

この次に初演に関する記述が著されたのは、音楽学者であり指揮者でもあるホルストの実娘イモージェンが、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドを指揮して父親の作品を録音した1966年制作・発売のLP「イモージェン・ホルスト・コンダクツ・グスターヴ・ホルスト(Imogen Holst conducts Gustav Holst)」(英His Master’s Voice, CSD3507, ステレオ / 同, CLP3507, モノラル)」のために彼女が書きおろしたプログラム・ノートだった。それには、つぎのように書かれている。

『私はかつてネラーホール(Kneller Hall)における初演に参加したロイヤル・マリーンズのバスーン奏者に会ったことがありますが、彼はこの作品が奏者たちに与えた革新的な印象について語ってくれました。』(初演年月日については言及なし)

娘イモージェンが書いたこの一文は、当時決定的なものと思われた。文中の“ネラーホール”は、正式名を“王立ネラーホール陸軍音楽学校(Royal Military School of Music, Kneller Hall)”といい、サンダーズのノートにも“王立陸軍音楽学校”と書かれている音楽学校のことだ。文字どおり、イギリスのミリタリー・バンドの中枢であり、プレイヤーやバンドマスターは、ここで音楽の多くを学ぶ。かくて、ホルストの『組曲第1番』は、ふたりのノートを組み合わせて“(1923年に)王立ネラーホール陸軍音楽学校において初演”とするのが一方の定説となった。

しかし、『ハマースミス』の“1954年初演説”と同じく、1909年に作曲された作品の初演が14年も後というのはどうしても合点がいかない。そして、それを覆すことになったのは、なんと他ならぬイモージェン自身だった。

1966年のアルバムの後もリサーチをつづけた彼女は、まずネラーホールでの演奏がサンダーズが書いた1923年ではなく、実際には1920年6月20日だったことをつきとめていた。さらに、それよりかなり前の年の日付があるホルストの手紙の中に、すでにこの作品がミリタリー・バンドのレパートリーとして広く演奏されており、他にもフルスコアを欲しがっている人がいることが書かれているのを発見した。また、家族として、“多忙な”ホルストが、一般に流布されているように“単なる音楽的関心から、それまでに書いたこともないミリタリー・バンド(ウィンド・バンド)編成で自発的に新作を書く”など、実際あり得なかったことだと知っていたイモージェンは、当時の他の作品同様、この作品は何らかのリクエストがあって書かれたと考えるのが自然だとし、さまざまな記録や物証をつき合わせた結果、1974年の自著「グスターヴ・ホルストの音楽の主題目録(A Thematic Catalogue of Gustav Holst’s Music)」(英Faber)で、委嘱者、初演者、日付不明ながら、こう結論づけた。

『私はその初演の日付を見い出せないでいる。・・・(中略)・・・。この作品は、おそらく何か特別な催しのために書かれ、そして、それは、たぶん、1909年5月、ロンドンのマイル・エンドにあるピープルズ・パレスにおけるフェスティヴァルで行われている。』

『組曲第1番』のオリジナル・インストゥルメンテーションは、以下のとおり。(イモージェンの著作には一部略記があり、些細ながら下記とは差異がある)(各数字はパート数)

ピッコロ
フルート
オーボエ (2)
Ebクラリネット (2)
Bbクラリネット (4)
バスーン (2)
アルト・サクソフォーン
テナー・サクソフォーン
バリトン・サクソフォーン
コルネット (2)
トランペット(2)
ホルン (4)
トロンボーン (3)
ユーフォニアム
バス (2)
ティンパ二
バス・ドラム
サイド・ドラム
シンバル
トライアングル
タンバリン

ピッコロがDbであったり、Ebクラリネットが2パートあったり、ホルンの記譜がEbだったりする点などを除けば、編成は至ってシンプルで、現代のものとあまり変わらない。スコアは自筆のフルスコアとピアノ・コンデンスの2種類が揃っており、そこから写譜された手書きのパート譜も実在する。スコアには、上記以外に弦バスや高音部記号のBbバリトン(サクソルン属金管)などのアドリブ・パートもあった。

この編成は、1921年にアメリカのBoosey & Co. が著作権を手得して出版されたBoosey & Hawkes版とは、かなり印象が違う。しかし、おそらく、これが上記フェスティヴァルに出演を依頼されたミリタリー・バンドからのリクエストに従ったもの、あるいは出演時の実際の編成に近いものであろうことは容易に想像がつく。他方、1921年というアメリカでの出版年から、サンダーズが書いた“1923年初演”が、歴史的な誤記もしくは大誤植だったことも、もはや明らかとなった。

残されている手書きのパート譜の上に書かれている作曲者名は、ホルストが1910年代半ばまで使い、その後、使用を完全にやめた“Gustav von Holst”だった。このパート譜を使って、一体どこの誰がこの名作を初めて演奏したのだろうか。もし、初演者の演奏が不首尾に終わっていたとしたら、この作品は世に残らなかった可能性もあった。『組曲第2番』や『ハマースミス』も生まれなかったかも知れない。しかし、現実には我々は今もこれら作品を愉しんでいる。知られざる初演者に乾杯だ!! ホルストのオーケストレーションの妙が愉しめるノルウェー海軍バンドのすばらしいCDを聴きながら、ふと遠い20世紀初頭のイギリスと誰も知らない初演者に想いをめぐらす自分がいた。


ジェームズ・コーズリー・ウィンドラムと『組曲第2番』

1911年に作曲され、1922年に出版された『ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2』のスコアには、「ジェームズ・コーズリー・ウィンドラムへ献呈された(dedicated to James Causley Windram)」とある。

このジェームズ・コーズリー・ウィンドラムという人物は、イギリスのミリタリー・バンド史にのこる優れた音楽家のひとりであり、指揮者だった。さらに、その悲劇的な死が後世にまで名を語り継がれるきっかけとなった。

ウィンドラムは、1886年8月9日、ランカシャー州チョールトン生まれ。ハイランド・ライト・インファントリーやロイヤル・マリーンズのバンドマスターをつとめた父と同じ道を歩み、1900年、スコットランドの有名なミリタリー・バンド、ゴードン・ハイランダーズへ入隊。1914年にロイヤル・ノーサンバーランド・フュージリアーズのバンドマスターになった後、大抜擢されて、1930年、ロンドンのコールドストリーム・ガーズ・バンドの音楽監督となった。この間、アメリカやフランスに演奏旅行を行い、放送やレコーディング(SPレコード)も活発に行ったが、第2次大戦中の1944年6月18日(日)午前11時、ロンドンのウェリントン・バラックにあるガーズ・チャペルで行われたウォータールー(ワーテルロー)・デーのモーニング・サービスの演奏中にドイツ軍のV-1号ロケット爆弾の直撃を受けて多くの参列者や同僚プレイヤーとともに爆死。1960年代に再建なったチャペルには、今もバンドの同僚たちが寄贈した美しい指揮者スタンドが飾られ、バンドマスターになるべく学んだ母校の王立ネラーホール陸軍音楽学校のチャペルの壁には名前が刻まれた飾り板(plaque)が据え付けられている。(最終階級は少佐)

それでは、ホルストが『組曲第2番』を“献呈した”ウィンドラムとの付き合いは、一体いつ頃に始まったのだろうか。ウィンドラムがバンドマスターに任命されて実際にバンドの指揮をとるようになったのは前記の1914年で、『組曲第2番』は1911年の作品。しかも、赴任地はホルストが住むロンドンからは、はるか北のノーサンバーランドで、当時は今のように交通・通信手段が発達していたわけではなかったから、交友はバンドマスター就任後ではなく、それ以前に始まったと考えるのが自然だ。また、ホルストは、友人への手紙の中でウィンドラムをさすとき、頭文字一文字だけの“W”と書くことが多かった。いわく『Wは、それを望んでいるのか?』といった具合に。これからも両者は相当親しい間柄だったことが窺い知れる。『組曲第1番』の項で書いた手紙の中で“フルスコアを欲しがっている人物”も、実はW(ウィンドラム)だった。

しかし、ウィンドラムがバンドマスターに就任したのが1914年だったということは、我々に重大なヒントを提供してくれる。

イギリスのミリタリー・バンドでバンドマスターの資格を得るには、所属バンドのバンドマスターに推薦状を書いてもらい、ロンドン郊外のトゥイッケンナムにある王立ネラーホール陸軍音楽学校のピューピルズ・コースへ進む。ここで1年間みっちりと楽器演奏の研修を受けて原隊に復帰後、ふたたび推薦状を得て、今度はバンドマスターになるためのステューデンツ・コースで3年間のカリキュラムを修了しなければならない。
現在までにウィンドラムのこのあたりの正確な履歴を入手できていないが、事実関係を整理すると、少なくとも、彼はミリタリー・バンドに入隊した1900年からバンドマスターに任命された1914年までの15年のうちの4年をネラーホールで学び、1914年以前に3ヵ年のステューデント・コースを修了していなければならないことになる。しかも、コース終了後、バンドマスター着任まではしばらく待機状態になるから、『組曲第2番』が作曲された1911年は、ウィンドラムがまさにネラーホールのステューデンツ・コースの学生だった年である確率がひじょうに高いことになる。

当時のネラーホールは、ピューピル・コースの生徒130名のほか、バンドマスター候補生のステューデント・コースの学生50名が在籍する一大組織だった。教官には、ミリタリー・バンド関係以外からも、ロイヤル・アカデミーやロイヤル・カレッジなどの教授やロンドンの主要オーケストラの有名な演奏家が招かれ、ステューデンツ・コースでは、作曲や編曲も教科となっていた。専任ではなかったろうが、ロンドン市中で教鞭をとり、1909年にすでにミリタリー・バンドのための『組曲第1番』を完成させていたホルストが、この時代に何らかの形でネラーホールと関わっていたことも容易に想像できる。他方、市中のミリタリー・バンドがそれぞれの演奏任務のために多忙なため、ネラーホールの学生や生徒たちで編成されるファンファーレ隊やバンドは、演奏機会や指揮者経験を積ませる目的もあって、一般のイベントやレコーディングに狩り出されて演奏することも多い。これは今も変わらない。

ここで、『組曲第2番』と同じ1911年完成の『オラフ王を称えて』の楽曲構成を思い出していただきたい。それが、4つのファンファーレと2つの戦闘シーンの音楽などを配した計6曲のミリタリー・バンドのための音楽だったことを。音の散る屋外での演奏。しかも長期間におよぶ上演を、通常演奏任務のあるひとつのバンドだけでまかなうのは到底不可能だ。恐らく、その上演期間中バンドやプレイヤーは絶えず入れ替わっていたのであろう。しかも、このときホルストが500名のコーラスを使ったことだけは明らかなので、ファンファーレ隊を配したバンドもそれなりの規模だったことは容易に想像できる。資料が見つかっておらず、断定はできないが、人員に余裕のあるネラーホールが何らかのかたちでその上演にかかわっていた可能性も大いに考えられるのだ。

そして、演奏を通じてだったのか、教室でだったのか。いずれにせよ、ホルストとウィンドラムの交友は、ウィンドラムのネラーホール在籍期に最初の接点があり、なんらかの経緯の末に作品を献呈されたと考えるのが自然ななりゆきだと思える。

『組曲第2番』のオリジナル・インストゥルメンテーションは、以下のとおり。(イモージェンの著作の略記は修正済み)(各数字はパート数)

ピッコロ
フルート
オーボエ
Ebクラリネット
Bbクラリネット (4)
バスーン(2)
アルト・サクソフォーン
テナー・サクソフォーン
バリトン・サクソフォーン
コルネット(3)
トランペット(2)
ホルン (4)
トロンボーン (3)
ユーフォニアム
バス (2)
ティンパ二
バス・ドラム
サイド・ドラム
シンバル
トライアングル
タンバリン
アンヴィル

“パブリックな初演”は、1922年6月30日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールにおいて、へクター・アーネスト・アドキンズ中尉(当時)指揮、王立ネラーホール陸軍音楽学校バンドの演奏で行われたとされ、当時のプログラム・ノートには、こう書かれている。

『この組曲は、最初1911年に作曲されたが、最近になって作曲者がミリタリー・バンドのための作品を懇願されるまで、放置され忘れられていた。』

しかし、『組曲第1番』の場合と同じく、娘イモージェンはこれにも真っ向から異を唱えており、事実関係をつき合わせた上で、1974年の自著「グスターヴ・ホルストの音楽の主題目録(A Thematic Catalogue of Gustav Holst’s Music)」(英Faber)の中で、こう示唆している。

『ホルストが依頼もなく1911年にこの曲を書いていて、心の中の演奏だけで済ますのは、らしくないと思う。それは、国王ジョージ5世戴冠の祝賀行事のひとつとして、1911年5月から10月にかけて、ロンドンのクリスタル・バレスを会場として開催された帝国博覧フェスティヴァルの期間中、初めて演奏された可能性がある。』

『オラフ王を称えて』の項に書いたとおり、この帝国博覧フェスティヴァルの期間中、広い同会場では『オラフ王を称えて』を含む「ページェント・オブ・ロンドン」が長期にわたり上演されており、上演以外でもミリタリー・バンドが常に演奏を行っていた。また、ロイヤル・アルバート・ホールで『組曲第2番』が“パブリックに初演”される1年前の1921年にアメリカで出版された『組曲第1番』の英語タイトルが、「Suite for Military Band」などではなく、すでに「First Suite for Military Band」だったことは、逆に多くのことを我々に物語ってくれる。さらに決定的なのは、バンドマスター候補生としても、もしくは実際にバンドマスターになってからもバンドを指揮する立場にあったウィンドラムが、献じられた作品をそのまま放置して忘れてしまったとは到底考えられない。現在までに、初演を彼自身が行ったか否かについての確証は得られていないが、スコアの献辞から考えてもその確率はひじょうに高い。どう考えても、これは、イモージェンの主張の方に説得力がある。

ホルストの『ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2』は、1911年に作曲され、指揮者ジェームズ・コーズリー・ウィンドラムに献呈。1922年、アメリカのBoosey & Co.が版権を取得し、Boosey & Hawkes Q.M.B. Edition No. 502として出版された。


ホルストの最初のウィンド・オリジナル!?!?

ノルウェー海軍バンドの2枚組CD「オラフ王を称えて」の1枚目のディスク冒頭に収録され、『組曲第2番』(1911)と同じく“グローリッシャーズ(Glorishears)”と呼ばれるモーリス・ダンスの旋律で始まる『3つの民謡』は、作曲年不詳の謎の作品だ。ホルストは、結局、書きあがっていたにもかかわらず、これを自身の作品リストに載せなかった。

現在、ロンドンの王立音楽アカデミー(RAM)に保管されているこの作品の自筆スコアのインストゥルメンテーションは、以下のとおり。(各数字はパート数)

ピッコロ
フルート
Ebクラリネット
Bbクラリネット (3)
バスーン (2)
アルト・サクソフォーン
コルネット(2)
ホルン (2)
バリトン
トロンボーン (3)
ユーフォニアム
バス
サイド・ドラム
バス・ドラム
シンバル

この自筆スコアには、作品の成立に関する年月日や人名などの書き込みは一切ない。ただ、ピッコロとフルートがDb、ホルンがEbで書かれ、トロンボーンの最低音パートがバス・トロンボーンの指定であることが『組曲第1番』や『組曲第2番』と共通なので、ほぼ同年代の作品であることは間違いない。他方、サクソフォーンがアルトだけだったり、ユーフォニアムとは別の高音部記号のバリトン(サクソルン属金管楽器)・パートがオプションではなく独立して存在するなど、かなり特徴的な楽器の選択も見られる。作品全体としては、使用楽器の種類やパート数もウィンド・バンドとしてはコンパクトであり、少なくとも前記2つの組曲より規模の小さな作品だといえる。

以上のようなスコアの分析から、今では、この『3つの民謡』が2つの組曲の後に書かれた作品である可能性はほとんどないと考えられている。仮に、もし組曲後の作品だとしたら、それらの組曲や『オラフ王を称えて』に使われているバランスのとれたウィンド・バンドとしてのインストゥルメンテーションを発展させることなく、逆に後退させてしまったことになるからだ。常識的に考えて、それはまずあり得ない。

それでは、この作品は一体いつ頃に書かれたのだろうか。その最初のヒントは、イギリスの民謡に広く素材を求めた『組曲第2番』の中にある。

周知のとおり、ホルストはこの組曲の第1楽章「マーチ」を、作曲の当初、現在とは違う“若者レイリー(Young Reilly)”という旋律でスタートして、ユーフォニアム・ソロでおなじみの“スワンシー・タウン(Swansea Town)”から“クローディ・バンクス(Claudy Banks)”へと流れる音楽として書き、その後、考えを改めて、現在の“グローリッシャーズ”~“スワンシー・タウン”~“クローディ・バンクス”という構成に変更して曲を完成させた。ただ、面白いことに大英博物館所蔵の自筆スコアには、“若者レイリー”で始まるオリジナル・アイディアも破棄されずにそのまま残されている。ひょっとすると、誰かのサジェスチョンがあったのかもしれない。作曲者の試行錯誤の様子がうかがえ、とても興味深い。

『3つの民謡』は、その『組曲第2番』とほぼ同じ姿の“グローリッシャーズ”で始まる。もちろん、両者のフレージングやオーケストレーションに違いはあるが、そのあまりにもよく似た印象から、ノルウェー海軍バンドのCDで初めて『3つの民謡』を聴いた人は、ちょっとした驚きと戸惑いを感じるだろう。

今日、この部分は、ほぼ間違いなく、『組曲第2番』の作曲過程ですでに存在した『3つの民謡』のスコアから転用されたと考えられている。とはいえ、『3つの民謡』が『組曲第2番』のスケッチとして、あるいは『組曲第2番』の第1楽章として書かれたものだったということではない。『3つの民謡』が作品として書きあがっていただけでなく、そのインストゥルメンテーションが『組曲第2番』に比べてあまりにも小さく、どこから見ても別の発想やリクエストから生まれた作品であることが明らかだからだ。

他方、両者には根本的に異なっている点もある。それは調の違いだ。『組曲第2番』が“へ長調(in F)”であるのに対し、『3つの民謡』は“変ホ長調(in Eb)”。ここで“変ホ長調”と聞いてすぐにピーンときた人は相当なホルスト通を任じていい。そう、“変ホ長調”はもうひとつの組曲、『組曲第1番』の調だからだ。

この項では、ここまで、誰が聴いてもそれとわかる“グローリッシャーズ”の旋律がともに使われていることから、『3つの民謡』と『組曲第2番』の関連ばかりチェックしてきた。しかし、その『組曲第2番』の2年前に書かれた『組曲第1番』の中に、すでに『3つの民謡』と同じアイディアが使われている箇所があったとしたらどうだろう。

『組曲第1番』の第3楽章「マーチ」は、イントロの後、しばらくの間、金管楽器と打楽器だけで音楽が進行する。まるで、ブリティッシュ・スタイルのブラス・バンドの伝統的クィック・マーチであるかのように。オプションだが、ユーフォニアムとは違うバリトン(サクソルン属金管楽器)のパートが用意されていることもその印象をさらに強くする。その後、トリオにあたる37小節で変ホ長調(Eb)から変イ長調(Ab)へと転調し、40小節の3拍目から木管が登場する。実は、この転調と金管群から木管群への受け渡しが行われるブリッジの部分(37-40小節)と、『3つの民謡』のトリオに入る箇所にある同じ転調とブリッジの部分(52-55小節)が、ほとんど同じアイディアで書かれているのだ。

(CD「オラフ王を称えて」では、ディスク1 – トラック1 /『3つの民謡』の1’03″から1’06″あたりと、ディスク1 – トラック4 /『組曲第1番』第3楽章の0’38″から0’42″あたりを聴くと確認できる。)

この両者の違いを強いていうなら、ロングトーン以外の前打ちを受け持つセクションが、上昇音階なのか、下降音階なのか、という程度のわずかな違いだ。それだけではない。ブリッジの後、両者のトリオで展開される音楽の内容がアッと驚くほど似ているのだ。違いといえば、『3つの民謡』には“レヴィの息子たち(Sons of Levi)”という民謡が使われたのに対し、『組曲第1番』はホルストのオリジナルであるという点、つまり素材となった主旋律が違うだけだ。そのくらい、2つの音楽は酷似している。

このように見ていくと、『3つの民謡』は、『組曲第2番』だけでなく、『組曲第1番』のベースになった作品でもあったことが次第に明らかとなってくる。同時に、ホルストが最初に手がけたウィンド・オリジナルだったらしいことも。

娘イモージェン・ホルストの著作によると、ホルストがイギリス民謡の編曲に手をそめたのは1906年。だとすると、『3つの民謡』の作曲年は、その1906年から『組曲第1番』が書かれた1909年の間に限定できる。しかし、そのイモージェンも、作曲の経緯や作曲年、演奏の有無について、何のヒントも見い出せなかった。何から何まで謎のままの『3つの民謡』。だが、この作品のアイディアは、確実に2つの組曲の中に生かされることとなった。こうしてみていくと、ホルストがこの作品を自身の作品リストに入れなかった理由、あるいは、片や完全な創作オリジナルの『組曲第1番』、片やイギリスの民謡の旋律を活かして作った『組曲第2番』という、作曲年も離れ、創作過程も異なる2つの組曲を1つにまとめて<作品28>とした理由も、おぼろげながら見えてくる。

『組曲第1番』『組曲第2番』は、共通の兄をもつ姉妹作だったのだ。


『3つの民謡』と『3つの民謡によるマーチ』

現在、確認されているホルストのウィンド作品の中で、曲名それ自体はホルスト自身のネーミングではない作品がいくつかある。ノルウェー海軍バンドのCDにも収録されている『3つの民謡』も、実はホルストのネーミングではない。

前項のとおり、『3つの民謡』の手書きオリジナル・スコアは、現在、ロンドンの王立音楽アカデミー(RAM)に保管されている。このスコアには、日付や人名など、作曲の手がかりになるような書き込みがないことはすでに書いたが、それらに加えて実は“曲名”も存在しない。

この無題の作品に『3つの民謡』という曲名を与えたのは、ホルストの実の娘イモージェンだった。彼女は、1974年に出版となった「グスターヴ・ホルストの音楽の主題目録」(英Faber)を編纂する際、ホルストの確認されているすべての作品をほぼ年代順に並べ直し、整理番号をつけ、譜例を起こし、曲名のないものにはガイドとなるべき曲名をつけるという、気の遠くなるような大きな仕事をした。とくに、その整理番号は、ホルストが作品番号を付けなかった作品や未完の作品にも付けられたことから重宝され、それ以降、ホルストの作品が紹介されるとき、しばしば引用されることとなった。主な曲を例に挙げると、

105 (ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 作品28-1)

106 (ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2)

125 (組曲『惑星』作品32)

173 (ムーアサイド組曲)

178 (『ハマースミス』 – プレリュードとスケルツォ 作品52)

というようにほぼ年代順に整理番号がふられている。実際の引用例では、ホルストの頭文字の“H”をつけて“H 125”(『惑星』の場合)というように使われることが多い。

話を『3つの民謡』に戻そう。イモージェンは、RAMに保管されているこの作品に“グローリッシャーズ(Glorishears)”“ヒー・バック、シー・バック(He-back, she-back)”“レヴィの息子たち(Sons of Levi)”という3つの民謡のメロディーが使われていることから、[THREE FOLK TUNES]という、とてもわかりやすい曲名をつけた。曲名を [ ] カッコで括っているのは、それが作曲者自身がつけた曲名ではないことを明示し、注意を喚起するためだった。整理番号は“106A”。目録の中の実際の表記は下記のようになっている。

106A [THREE FOLK TUNES]

カッコの中のこの曲名は、それが単に目録上の曲名だったときや、作品が未出版の間はことさら問題にはならなかった。しかし、1985年に英G. & M.ブランド – 米ジェンソンが“オリジナル・バージョン”の楽譜を出版する際、カッコをはずして正式曲名として扱い、さらにジェームズ・カーナウ編曲版(米ジェンソン)も演奏されはじめると、ウィンド・バンド関係者やホルスト・ファンの間にちょっとした予想外の波紋が巻き起こった。実演機会が増えて曲名を見たり聞いたりした人々の中に、この作品をホルストの有名な他の組曲と同じような“3曲構成の音楽”であるかのように勘違いするケースが多く見られたのだ。

この曲名問題は、2005年、英メセナがこの作品の新しい楽譜を出版する際にも当然論議の対象となった。ロイヤル・マリーンズ音楽学校の指揮科教授マルコム・ビニーが編纂したこの新しい版は、G. & M. ブランド – ジェンソン版と同様にRAMの手書きスコアを忠実を写し取り、いくつかの楽器の調を現在のスタンダードに合わせただけでそのままパートとして生かし、その上でオリジナルにないパートを新たに加えて拡大版としたもので、これひとつでオリジナルと拡大版の両方が演奏できるようにセットされた画期的な版だ。また、別売で出版されたスタディー・スコアは、ひじょうにていねいにリサーチされたノートも印刷されており、ホルストのウィンド・オリジナルを勉強するものにとって必須アイテムとなっている。

メセナは、その出版にあたり、この作品が『組曲第1番』の第3楽章「マーチ」や『組曲第2番』の第1楽章「マーチ」とよく似た“マーチ”として書かれていることから、『3つの民謡によるマーチ(March on Three Folk Tunes)』というタイトルをつけた。曲の実像をよく表し、曰くもっともなネーミングではあったが、この出版タイトルの出現によって、この作品には、イモージェンがつけた『3つの民謡』とメセナ版の『3つの民謡によるマーチ』という、2つの曲名が存在することになった。

一方、ノルウェー海軍バンドのホルスト作品集CD「オラフ王を称えて」のプロデューサー、マイク・プアートンは、それとは明らかに違う立場をとった。彼は、ホルスト研究の先達であり作曲家の娘でもあるイモージェンに敬意を表し、彼女がつけた『3つの民謡』をあえて曲名として使った。一見、時代の流れに逆行するようだが、作曲者と同じ国に生をうけた音楽家として、これもまた、思慮深い選択と言える。

作曲や初演の経緯が不明であるだけでなく、作曲者がスコア上にタイトルを書かなかったことから、ついには2つの曲名を持つことになってしまった『3つの民謡』。メセナ版のノートには、疑問符をつけながらも、作曲されたのは“1905年?”あたりかも知れないと書かれている。小品ではあるがノルウェー海軍のCDにもイの一番に収録され、ホルストのウィンド・オリジナルのルーツと思われるこの作品の真実が次第に解き明かされるにつれ、ひとりの作曲家のバイオがいま明らかに書き換えられようとしている。


ホルストと親友ヴォーン=ウィリアムズ

ノルウェー海軍バンドのCD「オラフ王を称えて」には、ここまで取り上げてきた作品以外に、作曲家本人のものも含め、もともと他のジャンルのために書かれた作品からのトランスクリプションが何曲か収録されている。

このうち、『マーチング・ソング』は、1906年に小編成オーケストラのために作曲された『2つの無言歌、作品22 (Two Songs without Words, Op.22)』の第2曲「マーチング・ソング」を、ホルスト自らミリタリー・バンド(ウィンド・バンド)用にトランスクライブしたものだ。何か謎めいているが、原曲『2つの無言歌』のスコアには、「To R. V. W.」との献辞がある。そして、この“R. V. W.” というイ二シャルの人物こそ、ホルストの生涯の友であり、『イギリス民謡組曲』の作曲者としてもおなじみのレイフ・ヴォーン=ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams, 1872 – 1958)だった。

ホルストとヴォーン=ウィリアムズは、1895年、ロンドンの王立音楽カレッジ(RCM)で学生として知り合い、やがて、お互いのすべてのスコアを見せ合って意見を交わすほど、親密な交友関係をもった。ヴォーン=ウィリアムズが作曲を教えた中には、『ムーアサイド組曲』をはじめとするホルストの作品を積極的に他のジャンルにトランスしたゴードン・ジェイコプがおり、ジェイコブの生徒の中にはホルストの娘イモージェンがいた。

さて、そのR. V. W. が献じられた『2つの無言歌』だが、初演は、1906年7月19日、ロンドンの王立音楽カレッジ(RCM)において、作曲者自身が指揮する同カレッジ・オケの演奏で行われた。出版は英ノヴェロからで、1907年にスコアが、1922年にパート譜が出版された。前記のとおり、その後、ホルストは1930年にその第2曲をウィンド・バンド曲としてオーケストレーションし直し、独立した作品とした。それが、今日知られる『マーチング・ソング』だ。

しかし、この作曲者自身のバージョンはノヴェロのハイア・ライブラリー(レンタル譜)だったので、その後、1940年にアメリカのH. W. グレイから有名な編曲家エリック・ライゼンのウィンド・バンド用トランスが新たに出版。1965年にはイギリスのミルズからこれまた有名なデニス・ライトのブラス・バンド用トランスが出版されるなど、小品ながら結構もてもての作品となった。アメリカでは、なんとマーチング・バンド用のアレンジまで出版されている。

ホルストの他のバンド作品が有名になり、原曲の「マーチング・ソング」という小題が注目を集めた結果とはいえ、とても興味深い。もちろん、ノルウェー海軍のCDでは、作曲者自身のバージョンが収録されているが・・・。

他方、このCDには、とても珍しいヴォーン=ウィリアムズ編の『祖国よ、我は汝に誓う(I vow to thee, my country)』も収録されている。

イギリスの愛国歌であり、現在、イギリス国教会の聖歌にもなっている『祖国よ、我は汝に誓う』は、イギリスの外交官だったサー・セシル・スピリング=ライス(Sir Cecil Spring-Rice, 1859-1918)が、第1次世界大戦直後の1918年に発表し、当時のイギリス国民に熱狂的に受け入れられた愛国的な内容の詩に、組曲『惑星』の第4楽章「木星」中間部のメロディーをつけるかたちで作られた。

原曲の『惑星』(1914 – 1916)は、詩の発表と同じ年の1918年9月29日、ロンドンのクィーンズ・ホールにおいて、エードリアン・ボールト指揮、ニュー・クィーンズ・ホール管弦楽団の演奏により私的な初演が行われた。しかし、よく言われるように、ホルストが詩の内容に感動してそれに合わせて「木星」中間部のメロディーを書いたり、スピリング=ライスが「木星」のメロディーに合わせて詩を書いたということはなかった。それは、つぎの事実でも明らかだ。

まず、ホルストが「木星」を書き上げた1914年には、詩は未完成・未発表だったこと。つぎに、スピリング=ライスが「木星」の初演前の1918年2月14日にこの世を去っていること。つまり、ホルストが作曲時に詩を知り得ることも、詩の作者が執筆前に「木星」という曲を聴くことも、ともに時系列的に不可能だった、ということだ。

それが、まったくの奇跡とも思える偶然から、両者は見事に組み合わされ、聖歌『祖国よ、我は汝に誓う』となった。

実は、組曲『惑星』の作曲当時、ホルストは「木星」中間部のテーマがこんなに広く一般に大成功を収めることになるなど、まったく予期していなかった。しかし、実際にオーケストラを使って演奏が行われると、それは、親友ヴォーン=ウィリアムズからも、ぜひ歌詞をつけるべきだ、と勧められるほどの大反響をよんだ。

その後、しばらくして、ホルストは、ヴォーン=ウィリアムズからいくつかの詩に曲をつけて新しい聖歌を作る依頼を受けた。すでに広く一般に知られていたサー・スピリング=ライスの「祖国よ、我は汝に誓う」もその中の1つだった。しかし、『惑星』の成功後、ホルストはオーバーワーク気味で、クタクタに疲れており、依頼があった当時、とても落ち着いて新しいメロディーを作り出せるような状況ではなかった。
娘イモージェンの著作によると、それは1921年頃のことであり、「木星」のメロディーがこの詩にフィットすることを発見したとき、ホルストは安堵の気持ちでいっぱいになったという。

この結果、「木星」中間部のゆったりとしたメロディーにユニゾンで詩が割りつけられ、オーケストラ伴奏がつけられたこの曲は、1921年、ヴォーン=ウィリアムズとマーティン・ショウが編纂した聖歌集『ソングズ・オブ・プライズ(Songs of Prise)』の中の1曲として、カーウェン=ロバートンから出版(フル・スコアは貸し譜、ボーカル・スコアは印刷)された。“Thaxted”という筆名を使って。

余談ながら、ホルストは『ソングズ・オブ・プライズ』に提供したいくつかの聖歌にそれぞれ異なる筆名を使った。ただ、『祖国よ、我は汝に誓う』に使った“Thaxted” は、当時、ホルストが住まいしたエセックス州サクステッドという町の地名でもあり、同地の教会ではホルストの作品が初演されたこともあったから、これは、ひょっとすると、わざと本人を類推し易い筆名にしたのかも知れなかった。メロディーがメロディーだけに。

そして、CDにあるように、聖歌『祖国よ、我は汝に誓う』のミリタリー・バンド用トランスクリプションは、「木星」のメロディーに“最初に歌詞をつける提案をした者”へ与えられた当然の権利として、親友のレイフ・ヴォーン=ウィリアムズが行なうことになった。


プロデューサーがほれ込んだ「火星」と「木星」

世界初、グスターヴ・ホルストがミリタリー・バンド(ウィンド・バンド)のために作編曲した、現在確認できるすべての音楽を収録したCD「オラフ王を称えて」。その2枚目のディスクに入っている組曲『惑星』の2曲、「火星」と「木星」だけは、純粋に管弦楽作品からのトランスクリプションで、他の収録曲とは趣きを異にする。

実は、この2曲、プロデューサー、マイク・プアートンが、その編曲のすばらしさにほれ込んだことから収録が決まった。

イギリスの名門オーケストラ、ハレ管弦楽団の首席ホルン奏者として、世界のマエストロたちと何度も『惑星』を演奏した経験のあるプアートンに“どうしても録音したかった”と言わせた「火星」と「木星」。これらは、一体どんなトランスなんだろうか。

セッションで使用された楽譜は、意外にも、両曲のトランスとしては最も古く、1924年に出版され、世界中で最もポピュラーに演奏されているブージー&ホークス版だった。CDのブックレットを見れば、編曲者名は、2曲ともG・スミス。だが、今も入手できるこの出版楽譜のどこを見ても、その名前は印刷されていない。

G・スミスとは、どこの誰なのか?

筆者の知るかぎり、パブリックな印刷物上でG・スミスの名が大きく取り上げられたのは、1969年11月に英EMIから発売された、サー・F・ヴィヴィアン・ダン中佐指揮、ロイヤル・マリーンズ音楽学校バンドのLPレコード、「Music of Pomp and Circumstance」(Columbia, TWO285)に収録された「木星」の編曲者名としてが最初だった。

しかし、その直後、その日本盤(東芝EMI – Angel, AA9981B)が登場すると、日本のバンド界ではちょっとした騒ぎが起こった。専門誌や専門家につぎつぎと同じような質問が寄せられたのだ。

質問内容は、およそこういうものだった。曰く、「木星」のトランスには、ブージー&ホークス版の他に、G・スミス版もあるのか? G・スミスとはどこの人か? 入手可能なのか? 演奏可能なのか? などなど。しかし、当時、これに関する情報は皆無で、訊ねられた誰も、明快な回答などできなかった。

当時の事情を少し書いておこう。このレコードが発売された時、ホルストの著作権はまだ生きていた。当然、自由に新しい編曲など書くことはできなかった。このため、他とは違う楽譜を演奏したい指導者たちが、編曲者の名前がはっきりと印刷されたこのロイヤル・マリーンズ盤を聴いて、スワッ、新しい編曲の登場か、と色めき立ったのも無理はなかった。逆説的にいうと、それだけ、このLPの「木星」の演奏にインパクトがあり、それが同じ楽譜を使って演奏していると思えなかったというだけのことだったんだが・・・。

日本では、一度発生した噂や関心事は、たとえ下火になることがあったとしてもけっして消滅せず、忘れた頃にリピートされる。この「木星」の編曲に関しても例外ではなく、何度も何度も、本当にしつこいくらい、同じ質問が繰り返された。20世紀の終わり頃に至っても・・・。しかし、イギリスでは、ずっと前の1974年、ホルストの娘イモージェンが、自著の『惑星』の項にこう記していた。

『第1曲と第4曲のミリタリー・バンドのための編曲は、ネラーホール編纂のG・スミスによるもので、1924年、ブージー&ホークスから出版された。』

“第1曲”とは「火星」、“第4曲”とは「木星」。“ネラーホール”とは、『組曲第1番』や『組曲第2番』の項で書いた“王立ネラーホール陸軍音楽学校 (Royal Military School of Music, Kneller Hall)”のことだ。

ただ、編曲者G・スミスについては、さすがのイモージェンも、それ以上のリサーチはできなかった。しかし、それはけっして彼女の怠慢などではない。というのも、“スミス”姓の人物がネラーホールに多数在籍した上、イギリスのミリタリー・バンドの悪しき伝統で、(今日に至るまで)ファミリーネーム以外を略したり、イニシャル表記する慣習が存在。さらに、ケネス・J・オルフォード(マーチ『ボーギー大佐』の作曲者、本名:フレデリック・ジョーゼフ・リケッツ)を例に出すまでもなく、当時、ミリタリー・バンド関係者が書いた楽曲の商業出版に際して、筆名が使われるのがほとんどだったからだ。匿名扱いも多かった。言い換えると、『火星』『木星』をトランスした人物が実際にスミスという姓の人物だったのかどうかすら、判定できなかったというのが真相だった。

こうした状況から、今日に至るまで、誰も編曲者の特定には至っていない。しかしながら、確実にいえることは、今も入手できるバンド用の「火星」と「木星」は、原曲初演から遠くない1920年代前半にネラーホールに在籍した“G・スミス”がトランスして、1924年に出版。イギリスのミリタリー・バンドの重要なリパートリーとなった、ということだ。

1920年代といえば、ネラーホールは、オリジナル作品の紹介に積極的だったへクター・アーネスト・アドキンズ中尉(当時)がバンドマスターとして活躍していた時期で、コンサートでは、ホルストやヴォーン=ウィリアムズらのオリジナルがつぎつぎと取り上げられていた。

関連項目を時系列で整理してみよう。

【1918年】9月29日、組曲『惑星』、プライベートに初演(エードリアン・ボールト指揮、ニュー・クィーンズ・ホール管弦楽団)。

【1919年】2月27日、ロイヤル・フィルハーモニック協会のコンサートにおいて、エードリアン・ボールト指揮により、組曲『惑星』中5曲が、「火星」-「水星」-「土星」-「天王星」-「木星」の曲順でパブリックな初演。11月22日、ホルスト指揮、ニュー・クィーンズ・ホール管弦楽団の演奏で、同3曲が、「金星」-「水星」-「木星」の曲順で演奏。これは、「金星」のパブリックな初演だった。

【1920年】6月23日、ネラーホール・バンドが『組曲第1番』を演奏(長らく、初演と誤認)。11月15日、組曲『惑星』全曲の初演(アルバート・コーツ指揮、ロンドン交響楽団)。

【1921年】『組曲第1番』、ブージー&ホークスから出版。レイフ・ヴォーン=ウィリアムズらが編纂した聖歌集の1曲として、組曲『惑星』の「木星」中間部旋律をあてた聖歌『祖国よ、我は汝に誓う』が、カーウェン=ロバートンから出版。

【1922年】6月30日、『組曲第2番』、ネラーホール・バンドによるパブリックな初演(後年、イモージェン・ホルストが、もっと早期の作曲年の初演の可能性を示唆)。ブージー&ホークスから出版。

【1923年】7月4日、ネラーホールの委嘱曲として、ヴォーン=ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』初演。10月13日、組曲『惑星』、作曲者指揮による初の全曲演奏(ニュー・クィーンズ・ホール管弦楽団)。

【1924年】ブージー&ホークスから、ホルストの組曲『惑星』から「火星」(G・スミス編)、同「木星」(G・スミス編)、ヴォーン=ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』出版。

こうして時間の経過を追うと、ネラーホールの先進性だけでなく、未出版の『組曲第1番』や『組曲第2番』が演奏されているなど、『惑星』以降の超多忙なホルストとネラーホールが緊密な関係をもっていたことがとてもよく理解できる。また、イモージェンのリサーチで編曲者がネラーホールに在籍したG・スミスだと判明した「火星」「木星」も、多くの専門家が、バンド曲としてのオーケストレーションの完成度の高さから、作曲者が助言を与えたなど、何らかのかたちで関与した可能性が高い、と指摘する。そして、だからこそ、印刷された楽譜に編曲者名が印刷されなかったのだ、と。

何でもかんでも‘原調主義’のわが国では、ほとんど顧みられることがなくなった1924年出版の「火星」と「木星」。しかし、このCDに聴くノルウェー海軍バンドの演奏では、それが‘原調’であるかないかなど、不毛の議論を寄せ付けないほどの自然体で、そして、ダイナミックかつ繊細に、ホルストの書いた音楽が表現されている。

ブラボー、ノルウェー海軍バンド!!

1955年、フレデリック・フェネルが『組曲第1番』と『組曲第2番』の世界初商業録音を行って以来、ホルストのウィンド・バンド作品の録音は、これまで数多くのLPやCDで発表されてきた。しかし、2007年に発売されたCD「オラフ王を称えて」ほど、慎重に準備され、ホルストのウィンド・ミュージックの本質に迫るレコーディングはなかった。シリアスでなる新聞・ガーディアン(The Guardian)やBBC放送も、それぞれのレヴューの中で賞賛を惜しまなかったという。

CD巻頭の挨拶文で、プロデューサーのマイク・プアートンは、これだけの作品をのこした作曲者に謝意を表した。

2007年。それは、間違いなく、ホルスト再発見のスタートの年となった!!


オラフ王を称えて –
グスターヴ・ホルスト: ミリタリー・バンドのための全作品集
The Praise of King Olaf – Holst’s Complete Music for Military Band

指揮:レイフ・アルネ・タンゲン・ペデルセン Leif Arne Tangen Pedersen
演奏:ノルウェー王国海軍バンド Royal Norwegian Navy Band

【曲目】

3つの民謡
Three Folk Tunes

ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 作品28-1
First Suite in E flat for Military Band, Op.28 No.1

「ハマースミス」 – プレリュードとスケルツォ 作品52
Hammersmith – Prelude & Scherzo Op.52

ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2
Second Suite in F for Military Band, Op.28 No.2

ジーグ風フーガ(ヨハン・セバスティアン・バッハ/ホルスト編)
Fugue A La Gigue (Johan Sebastian Bach, arr. Holst)

ムーアサイド組曲(作曲者自身によるミリタリー・バンド用バージョン – 未完)
A Moorside Suite – Unfinished transcription for Military Band

オラフ王を称えて
The Praise of King Olaf – For Choir and Military Band

マーチング・ソング(「2つの無言歌」から)
Marching Song

ムーアサイド組曲(ゴードン・ジェイコブ編)
A Moorside Suite (arr. Gordon Jacob)

祖国よ、我は汝に誓う(レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ編)
I Vow To Thee My Country (arr. Ralph Vaughan Williams)

組曲『惑星』より”火星” (G・スミス編)
Mars from ‘The Planets’(arr. G. Smith)

組曲『惑星』より”木星” (G・スミス編)
Jupiter from ‘The Planets’(arr. G. Smith)

録音:2006年2月13日-17日
会場:テンスベルィ審判教会(ノルウェー)
プロデューサー:マイク・プアートン
エンジニア:マーティン・アトキンスン
CD番号:英Specialist, SRC110

【このCDをBPショップでチェックする】
https://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-1201/

■樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」File No.04『ベルト・アッペルモント:ノアの箱舟』

ベルト・アッペルモント:ノアの箱舟
NOAH’S ARK (Bert Appermont)

01:作品ファイル

<Version I >ウィンド・バンド版

[作曲年]1998年

[作曲の背景]
ベルギ-のル-ヴェン(Leuven)のレマンス音楽院(Lemmensinstituut) に在学中、作曲家ヤン・ヴァンデルロ-スト (Jan Van der Roost)のクラスに学んでいた作曲者が同クラスの “卒業試験のための課題” として作曲。

[編成]
Piccolo
Flutes (Ⅰ、Ⅱ)
Oboes (Ⅰ、Ⅱ<double.:English Horn>)
E♭ Clarinet
B♭ Clarinets (Ⅰ<div.>、Ⅱ<div.>、Ⅲ<div.>)
E♭ Alto Clarinet
B♭ Bass Clarinet
Bassoons (Ⅰ、Ⅱ)
E♭ Alto Saxophones (Ⅰ、Ⅱ)
B♭ Tenor Saxophone
E♭ Baritone Saxophone
B♭ Trumpets/Cornets (Ⅰ<div.>、Ⅱ<div.>、Ⅲ<div.>)
F Horns (Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ)
Trombones (Ⅰ、Ⅱ、Bass)
Euphoniums <div.>
Tubas
String Bass
Harp
Timpani
Mallet Percussion
(Xylophone、Glockenspiel、Vibraphone、Tubular Bells)
Percussion
(Snare Drum、Tenor Drum、Toms、Bass Drums、Tam-Tam、Clash Cymbals、
Hi-Hat Cymbals、Suspended Cymbal、Bongos、Triangle,Woodblock、
Temple Blocks、Ago-go Bell(or Cowbell)、Tambourine、Claves、Sleighbells、
Cabasa、Whip、Vibraslap、Wind Chimes、Flexatone、Thunderplate(or B.D.) 、
Synthesizer or Wind Machine)

[楽譜]
1999年、ベルギ-のBeriato Music bvbaから出版。図版番号:BMP 9805.1.23。
https://item.rakuten.co.jp/bandpower/set-8001/

[初演]
1998年9月24日、ベルギ-のル-ヴェン(Leuven)にあるレマンス音楽院のコンサ-ト・ホ-ル(Concert Hall of the Lemmensinstituut)において、作曲者自身の指揮によるレマンス音楽院シンフォニック・ウィンド・バンド(Symphonic Wind Band of the Lemmens Conservatory)の演奏で。わが国では、2000年5月4日(祝)、東京都の練馬文化センタ-大ホ-ルにおける巣鴨学園吹奏楽班(東京都)の “第12回バンドスタンド” と題するコンサ-トで、三嶋 淳(みしま じゅん)指揮、巣鴨学園吹奏楽班により日本初演奏が行なわれた。

<Version II >ファンファ-レ・オルケスト版

[改作年]1999年

[改作の背景]
ウィンド・バンド版(Version Ⅰ)の発表後、ファンファ-レ・オルケスト関係者から “ファンファ-レ・オルケスト” 用のバ-ジョンも作って欲しいという要望が多数寄せられたことから楽譜出版を目的として新たにオ-ケストレ-ションされた。

[編成]
B♭ Soprano Saxophone
E♭ Alto Saxophones(I 、II )
B♭ Tenor Saxophone
E♭ Baritone Saxophone
E♭ Flugelhorn
B♭ Flugelhorns(I <div.>、II <div.>、III )
B♭ Cornets/Trumpets (I <div.>、II <div.>、III <div.>)
F Horns(I 、II 、III 、IV )
Trombones (I 、II 、III)
Baritones (I 、II )
Euphonium (I 、II )
E♭ Basses <div.>
B♭ Basses
Timpani
Mallet Percussion
(Xylophone、Glockenspiel、Vibraphone、Tubuler Bells)
Percussion
(Snare Drum、Tenor Drum、Toms、Bass Drums、Tam-Tam、Clash Cymbals、
Hi-Hat Cymbals、Suspended Cymbal、Bongos、Triangle,Woodblock、
Temple Blocks、Ago-go Bell(or Cowbell)、Tambourine、Claves、Sleighbells、
Cabasa、Whip、Vibraslap、Wind Chimes、Flexatone、Thunderplate(or B.D.) )

[楽譜]
1999年にベルギ-の Beriato Music bvba が版権を取得し、出版。図版番号は、BMP9805.2.23 (発売開始は、2000年2月。)

[初演]
出版が優先されたため、楽譜発売後に聴衆を前に行なわれた演奏者を特定できる初演奏の記録は残されていない。確認されている最も早期の演奏は、2000年2月19日、ベルギ-のル-ベン(Leuven)にあるレマンス音楽院(Lemmensinstituut)のホ-ルで行なわれたマ-ヌ・メラ-ルトス(Manu Mellaerts)指揮、アドルフ・サックス・アンサンブル(Adolphe Sax Ensemble)演奏によるCD(Beriato、WSR 007) のためのレコ-ディング・セッション。

【ベルト・アッペルモント/Bert Appermont】

1973年12月27日、ベルギ-のビルゼ(Bilzen)に生まれた。同国ル-ヴェン(Leuven)にあるレマンス音楽院(Lemmensinstituut)で、エドモンド・サ-ヴェニ-ルスとヤン・ヴァンデルロ-ストのクラスに学び、2つの音楽修士号を得て1998年に修了。専攻は音楽教育とウィンド・バンド指揮法。音楽教育の分野では、同国ハセルト(Hasselt) のキンドシ-ルド・イエス音楽学校(中等学校)で和声と音楽理論を教える傍ら、自ら編纂、編曲、録音制作したCD付きの児童用歌集をベルギ-の Bakermat 社から3冊出版し、これらはベルギ-国内のほとんどの小学校で教材として使われている。指揮の分野でも、ベルギ-内外のウィンド・バンド、合唱団、管弦楽団から招かれている。
ウィンド・バンド(吹奏楽)のための作品は、フランク・ヴァンバ-レン(Frank Van Baelen)と共作した「クエスト(The Quest) 」と「アリババの伝説(The Legend of Ali-Baba)」のほか、完全な自作となった「めざめ(The Awakening) 」やコンサ-ト・マ-チ「リオネッス(Leonesse)」、「ノアの箱舟(Noah’s Ark)」、トロンボ-ン協奏曲「カラ-ズ (Colours)」などがあり、全てがベルギ-の Beriato社から出版されている。現在、さらに “映画とテレビのための音楽デザイン” の修士号を取得すべく、イギリスのボ-ンマス・メディア・スク-ル(Bournemouth Media School)に留学している。


02:推薦状

1999年10月、ベルギ-の友人から1つの郵便物が届いた。それには、つぎのような内容の手紙(10/10付)とともに1枚のCDが同封されていた。

 「……同封のCDをご覧ください。それは “王立アントワ-プ音楽院” のウィンド・バンド(Harmonieorkest Conservatorium Antwerpen) によって作られたものです。……私はこれはNHKで放送されるに値するCDだと思います。もしあなたに大切に扱っていただけるならば感謝に耐えません。これは彼らの初めてのCDですが、これを作ったことは彼らを大いに勇気づけることになりました。
 とくに “ノアの箱舟” と “カラ-ズ” を書いたベルト・アッペルモントの作品は、日本でももっと知られる価値があると思います。彼は、若いがとても才能ある作曲家であり、”レマンス音楽院(Lemmensinstituut)” で “ウィンド・バンド指揮法” を学び、さらにイギリスで音楽の勉強をつづけています。……」

長い間、海外の音楽家とつきあっていると、自薦他薦を問わず、この種の “音源つき推薦状” はちょくちょく受け取ることがある。ちょっと “訳あり” なので送り主の名前は明かすわけにはいかないが、この推薦状は、ベルギ-では立派な音楽家、そして教育者としてとてもよく知られている人物からのものだった。先方は、筆者が個人的な事情からほとんどすべての音楽活動から身を引き、NHK-FMの番組「ブラスのひびき」も降板したことも知らずにこのCDを送ってきたわけだ。(海外の友人すべてに事情を話したわけではなかったので……)

相手がとても大切な友人だったこともあるが、推薦状の “書きっぷり” も気になったので、このCDは、余裕をもって聴くことができる時間がとれる日まで聴かないでとっておくことにした。昼間の仕事(ほとんど肉体労働)中の “BGM的流し聴き” やそれを終えた後の “ボケボケの耳” で聴くなんて失礼なことはとてもできないと思ったからだ。

CDを聴いたのは、それから20日以上たった11月のことだった。CDの1曲目は、わが国でもおなじみのヤン・ヴァンデルロ-スト(Jan Van der Roost) の「クレデンティアム(Credentium)」だった。その演奏を聴いてまず思ったのが、指揮者ディルク・デカルヴェ(Dirk De Caluwe)のバンド・コントロ-ルのすばらしさと、ブレンドされたサウンドがとても耳ざわりのいいことだった。演奏者の個々のレベルもひじょうに高い。

一般的に、そのア-ティストにとって最初のCDは、すべてがいい方向に流れる傾向にある。それは、世界的に有名なクラリネット界の大御所ヴァルタ-・ブイケンス(Walter Boeyken /大のビ-ル党で、彼が日本などへ演奏旅行を行なうときなどは、地元ビ-ル・メ-カ-がスポンサーになるほどだ!? つまり、それほどよく飲む!? 彼の国で夕食に招かれた際も、強いことで有名な地元ベルギ-のビールをあたかも “水” のように飲んでいた!?)がわざわざこの “若者たち” の企画に参加していることでもわかる。


▲ヴァルタ-・ブイケンス

CDのクレジットを見ると、その他にヴァンデルロ-ストを含む3人の作曲家と1人のオ-ケストラ奏者が監修者として加わっていて、このCDの支援者たちの “熱意” も半端じゃないことがよくわかる。演奏者も “ガンバル” わけだ。バンドと適度な距離感がある録音もひじょうに音楽的な印象だ。

そして、”推薦状” に特記されていたアッペルモントの2曲から、まずは4曲目に入っている「ノアの箱舟」を聴く。聖書に出てくる有名なスト-リ-に従って、”お告げ(The Message)”~ “動物たちのパレ-ド(Parade of the Animals)”~ “嵐(The Storm)”~ “希望の歌(Song of Hope)” とタイトルがつけられた連続して演奏される4つの部分からなる10分ちょっとの作品だ。

その第一印象は、とにかく “わかり易い” ことだった。そして、誰もが知っている「ノアの箱舟」のスト-リ-がそのものズバリの音楽として描かれている!! この種のタイトルがつけられる音楽にありがちな “もってまわったような説教調” や “古めかしい宗教色” もなく、モティーフを見事に処理し、構成上も見事な起承転結を見せている。ウィンド・マシ-ンを含め打楽器が多用され、現代的でかつドラマチック。ビジュアルさえつければ、即 “映画音楽” として使えそうな音楽だ。とは言っても、黛 敏郎の「天地創造」のような世界ではなく、もっとメルヘンの世界だ。加えて、アッペルモントという作曲家がすばらしいメロディ-・メ-カ-であることがとても印象的だった。作曲家としては、少なくともヤン・ヴァンデルロ-スト、ヨハン・デメイ、それにジョン・ウィリアムズの影響があるように感じられた。とにかく、これだけ音楽を “簡単” に聴かせてしまう作曲家との出会いは久しぶりで、正直興奮を覚えたというのが偽らざる感想だった。

ついで、最終トラックに入っているトロンボーン協奏曲「カラ-ズ」。ドイツのバンベルク交響楽団の首席トロンボ-ン奏者ベン・ハ-ムホウトス(Ben Haemhouts) とのコラボレ-ションを経て完成されたこの作品は、さらにグレードの高い作品であり、アッペルモントの作曲家としてのさらなる “飛躍” を示している。また、「ノアの箱舟」で感じた稀代のメロディ-・メーカーの印象はさらに深まった。 “イエロ-(Yellow)””レッド(Red)””ブル-(Blue)””グリ-ン(Green)”という4つのカラ-(色)がタイトルとしてつけられている4つの楽章からなるこのすばらしい協奏曲については、またファイルをあらためる機会があるだろう。ハームホウトスのソロ・ワークも “ブラボーもの” のライヴ感があり、さらなる興奮を覚えたことを書き留めておきたい。

さて、推薦状の言わんとすることは分かった。しかし、音楽活動の第一線からリタイアした筆者にできることは何があるんだろうか? けど、なんとかしたいナァー。アレコレ考えていたちょうどそんな折りも折り、大阪市音楽団(市音)プログラム編成委員、田中弘(たなか ひろむ)さんと延原弘明(のぶはら ひろあき)さんのふたりから市音自主企画CD “ニュー・ウィンド・レパートリー2000″(大阪市教育振興公社、OMSB-2806)の選曲について相談をもちかけられた。そこで、筆者は、取り急ぎCDを持参してミ-ティングにのぞみ、他の何曲かと一緒に音源を渡してまずは委員全員で聴いていただくことにした(File No.02-02 参照)。

その結果は、種々の収録上の条件から、CDレパ-トリ-としては惜しくも選に洩れたものの、後日、田中さんから「 “ヘェー、こんな曲あるんや!? さすが、エエ(いい)曲知ってはる(らっしゃる)” って言って、みんな結構気に入ってましたよ。」と聞いて、まずは一安心した。

しかし、今後どこかに「こんな曲あるんだよ。」と話をするにせよ、あまりにも情報不足だ。最終的に本人に直接コンタクトを試みるために、まずは出版社サイドの対応を知らねばならない。そこで、年末12月に件の “推薦状” を送ってきたベルギ-の友人にCDの印象とアッペルモントの作品についての感想を書き送った際、「出版社の責任者にいろいろ聞きたいことがあるので、コンタクトしてほしい。」と頼むと、喜んだ友人からもすぐに「了解した。」という打ち返しがあり、先方からの連絡を待つことになった。
そして、その返事は、ベルギ-からでなく、意外な国から来た!?!?!?

03:ラクガキ

アッペルモントの「ノアの箱舟」を出版しているベルギ-の出版社からの連絡は、ベルギ-からではなく、ドイツからFAXで入った。出版社の名前は Beriato、差出人の名前は Ben Haemhoutsとある。 ン?どこかで見た名前だ。

早速、内容に目を通すと、Beriato 社のマネ-ジング・ディレクター(つまり社長)であるベン・ハームホウトスは、ドイツのバンベルク交響楽団の首席トロンボーン奏者であると同時に、ベルギーの王立アントワ-プ音楽院の教授でもあった。そうか、そうだったのか。いろんな “謎” が一度に氷解し、いろんな人の顔が頭の中に浮んでつぎつぎとつながっていく。


▲Ben Haemhouts(Photo:Luk Perdieus)

そう言えばと、CDの入ったラックをガサゴソ探ると、やっぱりあった。何年か前に、ベルギ-の作曲家ヤン・ヴァンデルロ-スト(Jan Van der Roost) からもらったCDの中に、”Masterpieces for Trombone and Piano” というタイトルのピアノ伴奏のトロンボ-ンのソロCD(Beriato、SSR001、1996年制作) があったのだ。そのとき、ヤンは「とても大切な友人が作ったソロ・アルバムなんでぜひ聴いてほしい」と言っていたことを思い出す。

▲Beriato、SSR001

そして、このCDを発売した会社とアッペルモントの「ノアの箱舟」の出版社が同じだった。灯台下暗し。さらに、FAXには、トロンボ-ン協奏曲「カラ-ズ(Colors)」は、ハームホウトスの委嘱作品だと書かれてあった。

そういうことかと思いながら、プレイヤーでありながら出版社を興したハームホウトスの “奏者としてのキャリア” に急に関心が出てきたので、そのCDを聴きながらブックレットの記述に目を走らせる。すると、ハームホウトスは、1972年生まれで、最初に受けた音楽レッスンはロベール・レヴーグル(Robert Leveugle) から受けたユ-フォニアムのレッスンだったと書かれてある。 “ン? ユ-フォニアム?”  つづけて、ブラス・バンドに参加してしばしばソロイストとして腕を研いた、とある。 “ン? ブラス・バンド? アレッ!?  ひょっとして!?”  と思って再びガサゴソ。そして、またまた発見。ベルギ-初のブラス・バンドとして日本でもその名を知られている “ブラス・バンド・ミデン・ブラバント(Brass Band Midden Brabant)”の2枚のCD、”Excalibur”(DHM、3005.3、1990年制作)と “Firework” (DHM、3012.3、1992年制作)のジャケット上からこのファイルに出てくるベルギ-の音楽家の名前がゾロゾロと出てきたのだ。

▲DHM、3005.3

▲DHM、3012.3

両盤とも、指揮者は、ミシェル・ルヴーグル(Michel Leveugle) とヤン・ヴァンデルロースト。そして、ハームホウトスの名は “Firework” の4曲目、ヨハン・エヴェネプール(Johan Evenepeol) の「ユーフォニアムのためのラプソディ(Rhapsody for Euphonium)」のユーフォニアム・ソロイストとしてあり、ノートを読むとこの作品はハームホウトスの委嘱作だったと書かれている。さらに、 “Excalibur”のブックレットを見ると、ハームホウトスはバンドのメンバー・リストでは正メンバ-の “ユーフォニアム奏者” としてリスト・アップされ、師匠のロベール・レヴーグルもこのバンドのプレジデント(代表者)だった。また、見開きページに印刷されている写りの悪いモノクロのバンドの集合写真に目を移すと、ユ-フォニアムを持っている2人の内の左側がどうやら10代後半のハームホウトスのように見える。筆者の頭の中の “ひとりインターネット” で、いろんな人の名前と顔がどんどんリンクしていく。

さて、ハームホウトスがトロンボーンを始めたのは17才のときだった。その後、ルーヴェンのレマンス音楽院に進んで、トロンボーンをミシェル・ティルキン(Michel Tilkin/彼もCD “Excalibur”に、ドン・ラッシャ-(Don Lusher)の「コンサ-ト・ヴァリエーション(Concert Variations)」のソロイストとして参加している)に師事。卒業後、1993~96年の間、オランダのロッテルダム・フィルハ-モニック管弦楽団のセカンド・トロンボ-ン奏者をつとめ、その後、ドイツのバンベルク交響楽団の首席トロンボーン奏者となった。ドイツのA級のオ-ケストラにおける初めてのベルギー生まれのトロンボ-ン首席奏者であり、1996年に制作された前記のCD “Masterpieces for Trombone and Piano”は、ベルギ-初のトロンボーン・ソロ・アルバムという栄誉を担うことになった。とんとん拍子のキャリア・アップだ。FAXによると、2000年10月にシュツットガルト放送交響楽団のエキストラ・プレイヤーとして日本に行くとある。時間があれば会えるのだが、公演場所を見る限り、会うことは物理的に不可能かも知れない。そんなことを考えながら、早速、相手に返答を打ち返す。

“….(自己紹介)….。今度、<BAND POWER>というまったく新しいウェブ・サイトで <WIND RAKUGAKI NOTE FILE>というコーナー” を立ち上げることになり、このペ-ジを通じて新しいウィンド・ミュージックや才能ある若き作曲家、すばらしい音楽家、そして、それらのバック・グラウンドを紹介したいと考えています。 “RAKUGAKI” というのは日本語で、私は “自由気ままに書く” というような意味で使っています。

さて、最近、ベルト・アッペルモントという若き才能ある作曲家の名を知りました。そして、私の新しいファイルのために、詳細な情報(プロフィールや作品リスト)や最新の写真などを求めています。….(後略)….」

筆者のこの問いかけに対し、ハームホウトスはすぐさま返答を寄こして、それには彼の出版社の最新カタログと何曲かのスタディ-・スコアを送ることと、勉強のためにロンドンに行っているアッペルモントに連絡をとって新しい写真を直送させる手筈を整えたことが書かれていた。そして、筆者の書いた “RAKUGAKI(ラクガキ)” という日本語がとても気に入ったようで、 “今書いているブラス・バンドのための新作のタイトルにピッタリだと思うので使っていいか?” と尋ねてきた。

エッ? 彼が作曲(しかもブラス・バンド曲)もすることが分かったのはいいが、誤解があってはいけないので、筆者は慌てて「あなたの新作がどんな曲か知らないが、日本語の “ラクガキ” には、いろいろな意味があるので….。」と、いろんな語彙を説明して、それでも良かったら、と返信を打った。

その結果、後日送られてきたカタログ類やスコアが入ったパーセルの中を見ると、そこには、まさしく「RAKUGAKI」と印刷された “新作” のスケッチ(といってもほぼ完成寸前のフル・スコアの状態のもの)が入っていた。まだまだ、スケッチの段階なので発表はできないが、このスコアは興味を覚えたブリーズ・ブラス・バンドの常任指揮者、上村和義さんが持って帰った。

このちょっとした “事件” はさておき、ハームホウトスという人物は、ときに “真鍮製抜き差し曲がりがね” と呼ばれることもあるらしい “トロンボ-ン” という楽器を演奏するプレイヤー特有の “愉快な” キャラクターをもっているようだ。なんとなく、長い付き合いになりそうな予感がする。

それと同時に、送られてきたスコアやカタログをチェックしていくと、ベルト・アッペルモントという作曲家が、20代半ばにして、すでに相当数の作品を手懸けていることと、いかに将来を嘱望されているかがはっきりしてきた。ロンドンにいるという、アッペルモントから連絡がくる日がとても愉しみになってきた。

04:開花

「ノアの箱舟」の作曲者ベルト・アッペルモントから、写真と詳しいプロフィールが入った手紙(1999年12月8日付)が届いた。写真に写っている人物は、とっても若々しい。

手紙の書き出しは、<Dear Higuchi-san(ディア-・ヒグチさん)>。 “~さん” という書き出しから、彼の周辺にちょっとした “日本通” がいることが想像できる。ひょっとすると、師のヴァンちゃん(Jan Van der Roost) あたりから教わったのかな?などと思いながら、さっそく内容に目を通す。

手紙の1枚目の便箋には、作曲家として自分の作品に興味を示しくれた筆者への感謝の言葉に始まり、自分のやってきたことと将来への方向性をよく理解してもらうために遠慮なく何でも質問してほしい、というお決まりの挨拶文が書かれていた。2枚目には詳しいプロフィールがプリントされてあったが、筆者の目は、それよりもまず、便箋の上部にレター・ヘッドのように印刷されている筆者不詳のつぎの引用文をとらえていた。

“a combination of different aspects of van der Roost’s and De Meij’s superb wind band music,with strong emotion depth and colourful orchestration”
(ヴァンデルローストとデメイの一流ウィンド・バンド・ミュ-ジックがもつ違った一面を結合させたものであり、説得力をもった情緒的な奥行きの深さと色彩豊かなオ-ケストレ-ションを有している。)

ここに引用された一文がアッペルモントのどの作品に対して書かれた寸評なのかはわからなかったが、「ノアの箱舟」やトロンボ-ン協奏曲「カラ-ズ」を何度も聴いたあとだったので、この批評者が言わんとしていることは手にとるようにわかった。そして、この文章はアッペルモントのお気に入りなんだろう。そうでなきゃ、自身のプロフィールの前にわざわざこんな引用を載せるはずがない。いや、それどころか、この引用は、アッペルモントがまだ20才台半ばというのにすでにヴァンちゃんやデメイというヨ-ロッパのビッグネームと比較されるほどの評価を与えられているという作曲家としての “ステータス” の証しであり、 “自信” の表明ともとれるのだ。コリャ、本当に凄い!?

そんなことを考えながら、先にBeriato 社のベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts) が送ってくれたスタディー・スコアやCDをプロフィールとつき合わせることにした。

プロフィールにあるアッペルモントのウィンド・バンド作品は、まず、友人のフランク・ヴァンバーレン(Frank Van Baelen)と共作のかたちをとった「クエスト(The Quest) 」と「アリババの伝説(The Legend of Ali-Baba)」の2作。「クエスト(冒険)」は、6分近い序曲で、日本のバンド・ファンの耳になじみやすいアメリカン・スタイルの構成とヴァンちゃんゆずりのフレーズがマッチした傑曲だ。「アリババの伝説」は、 “開けゴマ”の呪文でおなじみの “アリババと40人の盗賊” のスト-リ-に題材を求めた演奏時間13分半ほどの組曲で、第1曲 “秘密の財宝(The Secret Treasure)”に始まり、第2曲 “砂漠のものがたり(Tales from the Desert)”、第3曲 “40人の盗賊(The Forty Thieves)” とつづく3曲からなっている。いずれも、ディルク・デカルヴェ指揮、ベルギー王国ゼーレ聖セシーリア吹奏楽団演奏の“Ceciliade”(Beriato、WSR 002、1998年制作)というCDに入っているが、共作ながら「ノアの箱舟」や「カラーズ」で聴かれるアッペルモントのカラーはすでに随所に表れていて、とくに「アリババの伝説」におけるドラマチックな展開は、その後エポック・メーキングな作品となる「ノアの箱舟」に至る過程を検証できるようでとてもおもしろかった。


▲「セシリアード」ベルギー王国ゼーレ聖セシーリア吹奏楽団

つづく、「めざめ(The Awakening) 」とコンサ-ト・マ-チ「リオネッス(Leonesse)」の2曲は共作ではなくアッペルモントが独自の作品を書くようになってからの作品。

前者の「めざめ」は、スネアが刻むキビキビとしたミリタリー調のリズムの中に提示されるひとつのテ-マを幾度となく繰り返していく中で発展させていく5分程度の作品。ウィンド・バンドによる完全な音源がない(後日、ファンファ-レ・オルケスト “アドルフ・サックス・アンサンブル” 演奏の “A Tribute to Adolph Sax”というタイトルのすばらしいCDが発売された。Beriato、WSR 007、2000年制作)が、ラヴェルの有名な「ボレロ」と同じ着想(といっても物真似ではない)からインスピレーションを得て書かれたすばらしいコンサート・アイテムで、音楽はワーグナ-のあの「エルザの大聖堂への行列」のように放物線のように盛り上がっていき、演奏効果バツグン。独立して曲を書くようになって、アッペルモントの才能も一気に開花した印象だ。


▲「めざめ」収録CD「A Tribute To Adolphe Sax」

“ア-サ-王伝説” をテーマにしたコンサ-ト・マーチ「リオネッス」も完成品。何といっても「スター・ウォーズ」や「スーパーマン」の音楽を書いたジョン・ウィリアムズばりのカッコ良さがとってもいい。こちらは、スティーヴン・ヴェルハールト指揮、ベルギー王国ヴォメルヘン “デ・エンドラハト” 吹奏楽団演奏の “Forza”というタイトルのCD(Beriato、WSR 004、1999年制作)があるが、これがちょっとC調。多分に指揮者の責任で、演奏を聴いていて「エーイ!! もうちょっと、なんとかセー!!」と言いたくなる箇所があるのだが、すぐにでも映画のサウンド・トラックに使えそうな曲の “カッコ良さ” ゆえについつい何度も繰り返して聴くハメとなってしまった。(その後、このCDは、一日16時間労働というハ-ドな毎日を過ごしている筆者にとって、貯まりに貯まったストレスを思いッきり発散させるために欠かせない “座右の1枚” となってしまった。そして、今日もまた、CDに向かってわめいている。「なんとかセー!!」)


▲「リオネッス」収録CD「Forza」

アッペルモントのプロフィールの最後を飾っていたのは、「ノアの方舟」とトロンボーン協奏曲「カラーズ」の2曲。多くの評者が認めた話題の2曲だ。楽譜はすべてBeriato 社から出版されている。もっともっと彼のことを知りたくなった。

05:卒業試験

2000年の1~4月は、大阪市音楽団(市音)の自主企画CD「ニュ-・ウィンド・レパ-トリ-2000」(大阪市教育振興公社、OMSB-2806)のブックレットの解説ノ-トの執筆をやむなく引き受けたために、関係者に約束した<バンドパワ->の “楽書ノ-ト・ファイル” でのアッペルモントや「ノアの箱舟」の紹介はまったくの手付かず状態となっていた。

ラクガキと違い、ノート執筆はものすごいエネルギーを消耗する。しかも一日の時間の使い方がムチャクチャだったので、顕著な時差ボケが残り、体力の回復にもその後何週間も要した。そして、この間、荒木玉緒(あらき たまお)さんが主宰するブラス・バンド “ヴィヴィッド・ブラス・トーキョウ” のコンサ-トと新録CDのノ-トをやっとのことでお断りしたり、File No.02-06 で触れた市音の「2008年のオリンピック招致活動のためのCD」の話が4月半ばに突如復活して再びドタバタが始まったり、5月4日に「ノアの箱舟」の日本における初演奏を実現された東京の巣鴨学園吹奏楽班のコンサ-ト(File No.04-01 参照)のノート執筆を体力的な理由からお断わりしたりという、精神的にとても疲れる事件がつぎつぎと勃発。トドメに、ことあるごとにノートの執筆をお断わり(ドタキャン1を含む)していた佼成出版社の水野博文さんからも「市音さんのノートは書いて、どうしてウチのノートは書いてもらえないんですか。」とネジ込まれるし……。トホホホホ。

実は、何年間も続編の企画を出さずにいた佼成出版社の「ヨ-ロピアン・ウィンド・サ-クル」も、この年は、ダグラス・ボストック(Douglas Bostock) が新しく常任指揮者に就任するということから絶対に企画を立ち上げないといけない状況に置かれていた。その担当が水野さんというわけだ。エレビ-など、ヨ-ロッパものをいくつも含む市音の新しいCDのノ-トを書いたと聞いて少々お怒りになっていた水野さんの剣幕に負けて、筆者は「ヨ-ロピアン」の企画を5月の終わり頃までに立ち上げることを約束していた。

「しかし、時間がたったおかげでとてもいいレパ-トリ-が集まってますよ。ベルト・アッペルモントの “ノアの箱舟” とか、マ-ティン・エレビ-の “パリのスケッチ” とか、ロルフ・ルディンの “ドルイド” とか….。」といいながら……。

具体的な曲名を聞いて、水野さんは「アッ!! 曲名がいいですね。」と、少し安心された様子だった。そして、「それって “音” あります?」とリクエストがくる。ア~ア。また “地獄の日々” がやってくる……..。

さて、ようやく世間が鳴り静まった7月、やっと「ノアの箱舟」のラクガキをすべく気力が戻ってきた。最初にとりかかったのが Beriato社のベン・ハ-ムホウトス氏への詫び状の発信と、作曲者への質問だった。質問事項は、作曲の経緯や初演デ-タなど。両者とも筆者の置かれていた状況を即座に飲み込んでくれて、すぐに打ち返しがあった。

とくにおもしろかったのが、「ノアの箱舟」が誰かに委嘱されて書いた作品でなく、アッペルモントが曲を書いた1998年当時に学んでいたベルギ-のルーベンにあるレマンス音楽院(Lemmensinstituut)の卒業試験のための課題として書いたという点だった。

レマンス音楽院といえば、そう、この人に尋ねるのがいちばん。早速、アッペルモントの師でもある親友ヤン・ヴァンデルロ-スト(Jan Van der Roost) に連絡をとることにした。彼に連絡をとるのはいつ以来だったかな? 以前は毎週のように連絡を取り合っていたのにと思いながら….。

ヤン、久しぶり。今度、キミのクラスに学んだベルト・アッペルモントの「ノアの箱舟」についてのアーティクルを書こうと思うんだけれど、聞けば、この作品はレマンス音楽院の卒業試験の作品というじゃない。それで、キミにそのあたりのことを教えてもらおうと思って……。(以下、質問事項)

すると、8月に入って打ち返しがきた。

ディア-・ユキヒロ。キミから連絡を受けてどれだけウレシイんだろう。先週、ボクはヨハン・デメイ、フィリップ・スパークのふたりと一緒にフィンランドで開かれた国際バンド・コンテストの審査員をつとめてきたんだ。その間、キミのことが何度も話題に上がった。もちろん、とんでもない忙しさの中でお母さんの介護をしているキミの状況はよくわかっているよ。

さて、質問事項への回答だ。

レマンス音楽院では、バンド指揮者をめざす者は、3年間の在学期間の間にバンドのインストゥルメンテーションとオーケストレーションを学ばねばならない。卒業試験のために、多くの学生は、もとは管弦楽やピアノやオルガンのために作曲されたクラシックの作品1曲を(バンド用に)オーケストレーションするために選ぶ。しかしながら、学生が作曲家である場合は、もちろん、その試験期間に自作品の1つを発表することが許される。ベルト・アッペルモントに起こったように。彼は、ボクの指導下にあったスタディーの中で「ノアの箱舟」を書いた。つまり、作品はすべて彼自身が書いたものだが、ボクはいくつかのヒントやアドバイスを与えたということを意味している。発表に先立つリハーサルの期間中、レマンス音楽院シンフォニック・バンドの学生たちは、彼の作品に熱狂していたし、演奏することをエンジョイしていた。また、ベルギーのベテラン作曲家ヤン・セヘルス(Jan Segers)を含む審査員たちもポジティブな評を下して、彼にバンドのために曲を書き続けることを薦めることになった。(8月6日付)

「ノアの箱舟」は、こういう状況で発表されたのか。それにしても、ベルギーにはこんな音楽院があるんだな。うらやましい限りだ。

Thank you so much 。いつもながらのヤンの丁寧な返答に感謝しながら、再び、「ノアの箱舟」のスコアを開いていた。

06:箱舟伝説

ベルト・アッペルモントの「ノアの箱舟」は、そのタイトルのとおり、聖書に出てくる有名な “ノアの箱舟” のストーリーを題材にした作品で、連続して演奏される4つの音楽からなっている。曲全体の導入部を構成する第1曲 “お告げ” は、ノアが “箱舟” を作るようにとの神託を授かる場面の音楽で、マエストーソ、テューバのロングトーンに乗ってトランペット(もしくはコルネット)がまるで “神が何かを告げている” かのようにテーマを歌いだし、それにユーフォニアムが呼応して始まる。作曲者の師ヴァンデルローストゆずりの節まわしが顕著に聴かれるこの部分は、わずか18小節で終わり、それに続いてまったく気分が違う第2曲 “動物たちのパレード” が始まる。ピウ・モッソ~メノ・モッソ~アンダンテと展開するこの音楽は、ノアの呼び掛けに応えて、動物たちが三々五々集まってくる場面の音楽で、動物たちの歩みが楽しげであり、ユ-モラスでもある。(それにしても、今も昔も “人間たち” はどうして……..。)

つづく、プレスト・フリオーソの第3曲 “嵐” はこの曲のハイライトだ。 “お告げ” にあった嵐と大洪水の場面を表現した一種の描写音楽で、シンセサイザーもしくはウィンド・マシーンなどを使っての “暴風” が吹き荒れ、音楽も荒れ狂う。しかし、その表現手法はコンテンポラリー・ミュージックのそれではなく、まるでハリウッドの冒険映画のスクリーン・ミュージックであるかのようなオーケストレーションとなっている。かのジョン・ウィリアムズの「E.T.」や「インディ・ジョーンズ」の音楽のように。

音楽をしめくくる第4曲 “希望の歌” は、嵐を乗り越えたノアや動物たちが水の引いた大地に戻って新しい生活をはじめる場面の音楽。アダージョでクラリネットが “希望” のテーマを歌いだし、再建への槌音はバンド全体へと広がっていく。やがて、第1曲のテ-マが戻ってきて、まるで “昔むかし、こんなことがありましたとさ” と語りべが語っているように、音楽は忘却のかなたへと消えていく。このあたり、師のヴァンデルローストの大の親友であるオランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij) の交響曲第1番「指輪物語(The Lord of the Rings) 」の第5楽章 “ホビットたち(The Hobbits)” に共通するアイディアが使われている。

聖書によると、ノアや動物たちを乗せた “箱舟” は、何日も続いた嵐が過ぎ去った後、アララト(Ararat)という場所に漂着したという。


▲アララト山

そして、現実の世界でも、トルコのアララト山(現在はトルコとイランの紛争地帯となっているために立入り禁止)の山中で、トルコ軍の調査隊が “舟” のかたちをした巨大な木造構造物を発見したというニュ-スが世界を駆けめぐり、写真も公表され、さらにアメリカでも “大きな舟の形状をしたもの” の存在を航空写真で確認したと報じられて大騒ぎとなったことがある。いつも外国の地名をチェックするときに使っている世界的に著名な地名辞典 “ニュー・ウェブスタ-地名辞典(Webster’s New Geographical Dictionary)” を見ても 、”Ararat” の項目に “ノアの箱舟の伝説上の漂着場所(legendary landing place of Noah’s Ark)”という記述があって本当にビックリさせられる。この作品のテ-マは、キリスト教世界に生きる人々にとってそれほど身近な存在なのだ。そして、その伝説的スト-リ-をさらに身近にし、理屈なく楽しませてくれる作品、それがアッペルモントの「ノアの箱舟」というわけだ。


▲ライフマガジン 1960/9/5号より

はじめてこの曲を耳にしたときから思っていたが、この音楽は、映画やテレビ・ドラマなどのビジュアル用のバック・グラウンド・ミュージックとしても使えるかも知れない。聴けば自然と “映像” が浮かんでくるからだ。そして、聴く回数を重ねるごとにイメージはどんどん脹らんでいく。また、各シーンのメロディーが耳に残るのもポイントだ。

作曲者のアッペルモントは、現在 “映画とテレビのための音楽デザイン” の修士号をとるべくロンドンに留学中だ。さもあらん。ウィンド・ミュージックのジャンルで初めて名前を知ったこの作曲家は、ひょっとすると、近い将来、映画音楽のシ-ンでも名前を知られるようになるかも知れない。そんな予感がする。

2000年は、佼成出版社の「ヨ-ロピアン・ウィンド・サークル」第5集(KOCD-3905)のレパ-トリ-としてこの作品のレコ-ディングを提案し、ダグラス・ボストックの指揮による東京佼成ウィンドオ-ケストラの演奏で、国内初レコ-ディングも実現できた。聞くところによると、今、多くのバンドがこの作品の演奏準備に入っているという。そして、今度手にした新作「ガリバー旅行記(Gulliver’s Travels)」も、2001年2月に大阪市音楽団によるレコ-ディング(CD:大阪市教育振興公社、OMSB-2807 /2001年4月発売予定)が決定した。ベルト・アッペルモント。若く煌めく才能に乾杯!


▲パリのスケッチ/Paris Sketches/東京佼成WO

07:出版楽譜の注意点

アッペルモントの「ノアの箱舟」は、1998年に作曲されたオリジナルのウィンド・バンド版(Version I )につづいて、演奏者のリクエストに応えて1999年にファンファーレ・オルケスト版(Version II )も作られた。両者は基本編成が違う(File No.04-01 参照)ので、両版のオーケストレーションも自ずから違う。使われている楽器名がたとえ同じであっても基本的にパ-ト譜は別物と考えた方がいい。また、それ以上に、各国で使われている楽器編成が違っているという世界的なバンド事情に対応するために出版された楽譜には様々な種類のパート譜がセットされている。両版の違いも含めて、興味深いいくつかのポイントを列挙してみた。

・トランペット-コルネット

<Version I >ウィンド・バンド版
いずれの楽器を使うかについて、作曲者の明確な指示はない。国によって多少事情は異なるが、ヨーロッパでは、トランペット奏者と同じ数のコルネット奏者を揃えているバンドが主流なので、できれば、キャラクターの異なる両方の楽器を揃えてダブル・キャストで演奏したい。使用楽器について指揮者は明確な指示を出す必要がある。
<Version II >ファンファーレ・オルケスト版
ウィンド・バンド版と事情はほぼ同じ。

・ホルン

<Version I >ウィンド・バンド版
“F French Horn” と “E♭ Horn”の2種類のパ-ト譜がセットされているが、これは国によって使われている楽器が違うことに対応するためで、たいていのバンドにフレンチ・ホルンが揃っている日本の場合、それ以外にE♭ホルンを準備する必要はない。
<Version II >ファンファーレ・オルケスト版
“F Horn”と “E♭ Horn”の2種類のパ-ト譜が用意されている。事情はウィンド・バンド版と同じ。

・トロンボ-ン

<Version I >ウィンド・バンド版
低音部記号(ヘ音記号)の “C Trombone I 、II ” 、および “C Bass Trombone” の他に、高音部記号(ト音記号)の “B♭ Trombone I 、II 、III ” のパート譜がセットされているが、これもホルンと同じ事情なので、調の異なる楽器を2種類用意する必要はない。
<Version II >ファンファーレ・オルケスト版
低音部記号の “C Trombone I 、II 、III ” の3パ-トだけがセットされている。

・ユ-フォニアム

<Version I >ウィンド・バンド版
低音部記号の “C Baritones” 、低音部記号の “B♭ Baritone/Euphonium”、高音部記号の “B♭ Baritone/Euphonium”の3種類のパート譜がセットされているが、これもホルンやトロンボーンと同じ事情による。たいていの日本のバンドの場合、低音部記号の “C Baritones” のパート譜だけでこと足りる。楽器名の表記がいかにも紛らわしいが、この楽曲の低音部記号の “C Baritones”のパート譜の場合は “伝統的” にアメリカの出版社の多くが “Euphonium”パートを “Baritone” と表記してきた慣例に従っている。
<Version II >ファンファーレ・オルケスト版
ウィンド・バンド版と異なり、楽譜に表記されている “Baritone” は “Euphonium”のことではなく、ヨ-ロッパ・スタンダ-ドでは別々の楽器であるバリトンとユーフォニアムはそれぞれ独立した別のパートとなっている。この版のために新たに作られた高音部記号の “Baritone I -II ” 、低音部記号の “Euphonium I -II ” 、高音部記号の “Euphonium I -II ” の3種類のパ-ト譜がセットされており、バリトンはそのまま、ユーフォニアムは国によって高音部・低音部のいずれかのパ-ト譜を使うことになる。 “Tenor Tuba” の使用も考慮されている。

・テュ-バ(バス)

 

<Version I >ウィンド・バンド版
低音部記号の “C Basses”、低音部記号の “E♭ Basses”、高音部記号の “E♭Basses” 、低音部記号の “B♭ Basses”、高音部記号の “B♭ Basses”の5種類のパ-ト譜がセットされているが、これも事情は同じ。たいていの日本のバンドでは、低音部記号の “C Basses”だけでこと足りるが、2種類のバスが使われている “ブラス・バンド” の楽器編成の利点が理解されるようになってきた昨今、奏者が3人以上いる場合、主にオ-ケストラで使われるロ-タリ-・システムのテュ-バだけでなく、B♭やE♭のピストン・システムのバスを加えて(たとえ同じ音を吹いている場合でも)低音部のサウンドをさらに豊かにする試みが各地で行なわれるようになっているので、その場合これらはすぐにパ-ト譜として活用できる。
<Version II >ファンファ-レ・オルケスト版
ウィンド・バンド版と異なり、E♭とB♭が独立したパ-トとなっている。ファンファ-レ・オルケスト版のために新しく書かれた低音部記号の “E♭ Basses”、高音部記号の “E♭ Basses”、低音部記号の “B♭ Basses”、高音部記号の “B♭ Basses”の4種類のパ-ト譜(このうち2種類を使用)のほかに、ウィンド・バンド版の “CBasses” のパ-ト譜も編成の違う国での演奏に備えてセットされている。

・ハ-プ

<Version I >ウィンド・バンド版
出版されているセットには、パ-ト譜がセットされているが、スコアには、パート名 すら印刷されていない。
<Version II >ファンファーレ・オルケスト版
この版からは完全に省かれている。これは、ベルギーやオランダで村のバンドとして発展し、ウィンド・バンド以上にポピュラーになっているファンファーレ・オルケス トの多くがハープを備えていないことによる。

・シンセサイザー or ウィンド・マシーン

<Version I >ウィンド・バンド版
第3曲「嵐」の最初の部分(72小節)から 172小節まで効果音として使われるが、オプション扱い。このいずれも使用できない場合は、クラリネットと金管楽器に、 “全員で手でカップを作って(ベルにかざして)息や口笛を楽器に吹き込むようにして、風の音を真似るように” との指示がある。しかしながら、手空きの箇所をのぞき、実際に音符が出てくると指示どおりにすることは不可能なので、指揮者はどの部分までこの “暴風の効果音” を使うかはっきりと指示を出す必要がある。
<Version II >ファンファーレ・オルケスト版
この版からは完全に省かれている。その代わり、 “すべての金管楽器奏者は、手でカップを作って(ベルにかざし)息や口笛を楽器に吹き込むようにして、風の音を真似るように” との指示がある。指揮者の留意点はウィンド・バンド版と同じ。

■樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」File No.03 『ロバート・W・スミス:イーグルの翼にのって』

ロバ-ト・W・スミス:イ-グルの翼にのって
~アワー・シチズン・エアメン~
ON EAGLE’S WINGS(Our Citizen Airmen) (Robert W.Smith)

01:作品ファイル

[作曲年]1998年

[作曲の背景]
アメリカ・ジョ-ジア州のワーナー・ロビンズ空軍基地を本拠とするアメリカ空軍エア・フォ-ス・リザ-ヴ・バンド(The Band of the U.S.Air Force Reserve) と同隊長のN・アラン・クラ-ク大尉(Captain N.Alan Clark) の委嘱により、アメリカ合衆国予備空軍(エア・フォ-ス・リザ-ヴ)の50周年を祝うと同時に同記念CDのオ-プニング・セレクションを飾る作品として作曲。1998年1月に完成。

[編成]
Piccolo
Flutes (I、II)
Oboes (I、II)
B♭ Clarinets (I<div.>、II、III)
B♭ Bass Clarinet
E♭ Contrabass Clarinet
Bassoon <div.>
E♭ Alto Saxopones (I、II)
B♭ Tenor Saxophone
E♭ Baritone Saxophone
B♭ Trumpets (I<div.>、I、III)
F Horns (I、II、III、IV)
Trombones (I<div.>、II、Bass)
Euphonium
Tuba <div.>
String Bass
Timpani
Mallet Percussion (Tubular Bells、Xylophone )
Percussion (Snare Drum、Bass Drum、Suspended Cymbal、Clash Cymbals)

[楽譜]
1999年、アメリカのBelwin-Millsが版権を取得し、Warner Bros.から発売。図版番号は、BD9920C。
https://item.rakuten.co.jp/bandpower/set-9763/

[初演]
1998年2月11日、アメリカ・ジョ-ジア州メ-コンのメ-コン・シティ・オ-ディトリアムで行なわれたアメリカ空軍エア・フォ-ス・リザ-ヴ・バンド(前記 “作曲の背景” を参照)の演奏による “アメリカ合衆国予備空軍50周年” を記念するCD「Our Citizen Airmen」(BAFR50CD/非売品)のレコ-ディング・セッションにおいて。指揮は、隊長のN・アラン・クラ-ク大尉。日本では、2000年2月4日、兵庫県尼崎市の尼崎市総合文化センタ-(アルカイックホ-ル)で行なわれた堤 俊作指揮、大阪市音楽団演奏による大阪市音楽団自主企画CD「ニュ-・ウィンド・レパ-トリ-2000」(大阪市教育振興公社、OMSB-2806 /2000年4月25日発売)のレコ-ディング・セッションが初演奏となる。

【ロバ-ト・W・スミス/Robert W.Smith】


1958年10月24日、米アラバマ州南東部のフォ-ト・ルッカ-に生まれた。1979年、アラバマ州トロイのトロイ・ステ-ト大学で音楽学士号を取得し、1990年、フロリダ州マイアミのマイアミ大学で音楽修士号を取得した。トロイ・ステ-ト大学時代には故ポ-ル・ヨ-ダ-に、マイアミ大学ではアルフレッド・リ-ド、ジム・プログリスに師事した。すでに 300曲以上の作品があるが、ウィンド・バンドのジャンルだけでなく、ヘンリ-・マンシ-ニやデ-ヴ・ブル-ベックらの音楽のオ-ケストレ-ションを手がけるなど、コマ-シャル・ミュ-ジックの分野でも幅広く活躍。スミスがオ-ケストレ-ションを施した映画音楽の中には「ロッキ-」「スタ-・トレック」「ボディ-・ガ-ド」などの話題作が含まれている。現在は、ヴァ-ジニア州ハリスンバ-グにキャンパスがあるジェ-ムズ・マディソン大学で教鞭をとり、1996年のアトランタ・オリンピックのためのオリジナル音楽を手がけるなど、多岐にわたる方面で活躍がつづいている。

02:ヒント

2000年1月、大阪市音楽団から自主企画CD “ニュ-・ウィンド・レパ-トリ-2000” (大阪市教育振興公社、OMSB-2806)の収録曲のスコアが届いた。昼間の仕事を終えてから、早速、スコアのチェックに入る。このときまでにすでに買って持っていた酒井 格の「大仏と鹿」とマ-ティン・エレビ-の「新世界の踊り」の2曲を除いた残りの作品のスコアは、この日はじめて見るものばかりだ。

スコアを手にして最初にチェックすることは、まず “作曲者や作品についてどんなことが書かれているか” ということ。作品のバック・グラウンドを知ることは、ノ-トを書く立場の人間にとって最も重要なことだからだ。しかし、こちらが必要とする情報がスコアの上にすべて印刷されているとは限らない。ノ-トがまったくない場合もけっこう多い。従って、たいていの場合、この作業は “これから何を調べないといけないか” のチェックということになる。(その後、スコア・リ-ディング~アナリ-ゼ~執筆となる。)

ロバ-ト・W・スミスの「ON EAGLE’S WINGS」のスコアの表紙には、つぎのような献辞があった。

Commissioned by
Captain N.Alan Clark and the Band of the U.S.Air Force
Reserve in Celebration of the
50th Anniversary of the U.S.Air Force Reserve

なるほど、 “The U.S.Air Force Reserve の50周年を祝っての委嘱作品というわけか”
と、まずは、作曲に至った理由を押さえる。つづいて、作曲者スミスの署名がある短かいプログラム・ノ-トを読むと、こうあった。

「ON EAGLE’S WINGS (Our Citizen Airmen) は、その50周年を祝ってThe U.S.Air Force Reserve への感謝の印として作曲された。N・アラン・クラ-ク大尉とThe Band of the U.S.Air Force Reserve(ワ-ナ-・ロビンズ空軍基地、ジョ-ジア州)により委嘱され、作品はコンサ-トのオ-プナ-として、また、Our Citizen Airmenとタイトルが付けられた彼らの記念コンパクト・ディスクのためのオ-プニング・セレクションとして書かれた」

以上、プログラム・ノ-トには一見かなりの情報が入っているように思える。しかし、よく読んでみると、日本語ノ-トに必要な部分が不足していることがわかる。疑問部分を挙げてみると、

(1)The U.S.Air Force Reserve とは何?
(2)その50周年とは “いつ” ?
(3) “いつ” 作曲されたのか?
(4 初演されたのは “いつ?””どこで?””どんな機会に?”
(5)初演時の演奏バンドは?、指揮者は?
(ふつうは委嘱した者が初演の栄誉を担うが、ときたま違うケ-スもある)
(6)”Our Citizen Airmen”というCDは、どんなCDなのか?その “オ-プニング・セレクションとは?”

少なくとも以上を確認できないと、ノ-トなど書けやしない。作曲者のスミスは、ウィンド・ミュ-ジックのフィ-ルドだけの作曲家ではない(というより、それ以外のジャンルでの活動が中心)ので、多忙のときはまったく音信不通になってしまう。時間内に返答がこない可能性はあったが、早速スミスにコンタクトを試みる。と同時に、プログラム・ノ-トに書かれてある情報を手がかりに独自の調査もはじめることにした。

まずは作曲のきっかけを作った(1)についてだが、日本人にとってまったく馴染みがない組織だけに、それが一体どういうものなのかを大掴みできないうちは、どんどんと前に進んでいくわけにはいかない。しかし、この曲は “アメリカ” で出版された “アメリカの作品” だけに、作曲者の書いたプログラム・ノ-トでも、 “アメリカ人にとって一般常識的な事柄” についての説明は見事なぐらい省略されている。(1)に関しても、所在地以外はまったくノ-・インフォメ-ションだった。

アメリカ空軍には、”The U.S.Air Force Band,Washington,D.C..”(日本でもおなじみの”アメリカ空軍ワシントンDCバンド” )のほかにもいくつかバンドがあり、自主制作のCDやカセット(いずれも非売品)は、いずれも各バンドで独自に作られている。早速、”何かヒントがあるのではないか” と思って、手持ちのCDやカセットをガサゴソやってみた。すると、 “A Time of War… A Time of Peace” というタイトルの、かなり前にシカゴのミッド・ウェスト・バンド・クリニックでゲットした1枚のCDが目にとまった。演奏しているバンドは “The Command Band of the Air Force Reserve”。スミスのプログラム・ノ-トに書かれているバンド名とよく似ているが、全く同じというわけではない。しかし、”Air Force Reserve” という文字は同じだ。そこで、CDジャケットの写真を目を凝らして見ると、モスクワのクレムリン宮殿をバックにロシア陸軍中央軍楽隊と “The Command Band of the Air Force Reserve”(このCDの演奏者)が並行して整列し、アメリカ側の少なくとも前3列はスコットランド伝統のキルトの制服を身にまとったアメリカ空軍のバグパイプ鼓隊、という構図の写真だ。

▲”A Time of War…A Time of Peace”

写真は、冷戦終結後の1992年5月にモスクワの “赤の広場” で行なわれた “平和の勝利のパレ-ド” の際の撮影。ブックレットの説明によると、このバグパイプ鼓隊 “The Air Force Reserve Pipe Band”は、アメリカのミリタリ-・バンド組織の中で、唯一、常時演奏任務を与えられている正規のバグパイプ鼓隊だそうで、このCDでも2曲、物真似でない見事な “スコットランド風” の演奏を聞かせてくれる。

“アメリカにもこういうグル-プがあるんだ” と思いながらも、そのとき、筆者にとって重要なことは “このCDの演奏者とスミスに作品委嘱をしたバンドに関連が有るのか無いのか” ということだった。そこで、何げなく写真に写っているバグパイプ鼓隊のバス・ドラムに描かれているマ-クを見ると、一部が楽器に隠れて見えないが、それでも “….ATES AIR FORCE RESERVE” “…IPE BAND” という文字とともに “…OBINS AIR FORCE BASE” “GEROGIA”という文字がハッキリと確認できた。ここまで読めたらもう問題ない。このバグパイプ鼓隊は “ユナイテッド・ステ-ツ・エア・フォ-ス・リザ-ヴ・パイプ・バンド、ロビンズ・エア・フォ-ス・ベ-ス(空軍基地)、ジョ-ジア(州)” と書かれたバス・ドラムを使っているバンドだった

バンド名に使われている文字に多少の違いはあるが、もう間違いない。アメリカ空軍のバンド組織は90年代に大きな組織改編が行なわれたので、恐らくはそのときに同時に改名が行なわれたのだろう。このCDの演奏者とスミスに作品委嘱をしたバンドは、同一のバンドか、少なくとも同じ系譜にあるバンドだった。プロフィ-ルによると、43名編成で、プレイヤ-は全員 “正規の空軍のミュ-ジシャン” とのこと。 “エア・フォ-ス・リザ-ヴ” を名乗りながら、実質、アメリカ空軍のバンドということになる。このCDができあがった1992年当時で “50年” の歴史をもつという記述から、バンド誕生は第2次大戦中の1942年頃ということになる。

ここまできて、つぎに軍事関連やアメリカの資料を漁っていくと”Air Force Reserve/エア・フォ-ス・リザ-ヴ” は、その文字通り “予備空軍” であることがわかってきた。つまり “戦争などの緊急事態に際して、国内基地所属の航空隊に海外出動命令が下ったときなどに、普段は市民生活をおくっている空軍OBのパイロットなど、予備役を召集し、アメリカ本土防衛上の軍事的空白を生じさせないために本来の所属部隊が留守中の基地や人員を必要とする部署へ短時間のうちに展開させる” ことを目的のひとつに掲げる空軍組織で、本拠とする訓練基地(コマンド部隊を併設)をもち、航空機などの機材や装備を常備して有事に備えている(後発部隊として現場へ投入されることもある)。第1次大戦の国防意識の高まりの中に誕生し、古くは単に “パイロットを養成したり、趣味のために飛ぶ” ことが目的の民間の “飛行クラブ” のような形態をとっていたこともあるが、プロペラ機の時代ならいざ知らず、ジェット機が主流となる時代にそんな “のどかなこと” はやってはいられない。第2次大戦が終了したつぎの年の1946年7月1日には、テネシ-州メンフィスで戦後初の訓練飛行が実施され、1948年4月14日、正式に “アメリカ合衆国予備空軍/The United States Air Force Reserve”となった。この組織は、直後に起こった “朝鮮戦争(Korean War)”でさっそく機能し、最近では “湾岸戦争”(英語だと “The Persian Gulf War/ペルシャ湾戦争” という)のときにも、国防上大きな貢献をしたとされている。

組織全体の “正式発足” よりバンドの方が6年ほど前(1942年頃)にスタ-トしているが、当時は戦時下。すべてのことが各現場のおかれている状況や要望で臨機応変に動く。その結果、1992年当時のバンド名に “United States/アメリカ合衆国の” が入っていないのも、 “Air Force Reserve”当時にバンドが配置された “名残り” で、近年の組織改編のときに “正規のもの” に落ち着いたと考えると納得がいく。やっと全体像が見えてきた。

そこで、音楽に立ち戻ってスコアのコピ-ライト・ラインをチェックすると、1999年にベルウィン=ミルズ(Belwin-Mills Publishing Corp.) 社が著作権を設定している。スミスが書いている “アメリ合衆国予備空軍50周年” は、おそらく、この組織が正式に発足した1948年から50年を数えて “1998年” だろう。すると、スミスの多忙ぶりから推し量って”作曲は1998年か、それより少し前” だろう。

ここまでの下調べを終えて、あとはスミスからの返信を待つだけとなった。

03:イ-グル

2000年2月4日(金)の大阪市音楽団(市音)によるレコ-ディングも無事終了し、やがて月半ばを過ぎようとしていたが、作曲者スミスへ出した質問状の回答はまだだった。

市音プログラム編成委員の方々の “ねばり”(File No.02参照)に遇って、その解説ノ-トを書かねばならなくなった筆者としては、正直いうと心中穏やかではなかったが、この曲以外の調査~執筆も平行して行なわねばならなかったので、 “回答が来る頃には他の曲の部分は出来上がっているだろうし、それからこの曲に集中すればいい” ぐらいに考えていた。

実際、当時は、夜9時ごろに仕事の後始末を終え、ス-パ-に買い出しに行って食事をとってソファ-で仮眠。そうすると午前2時から2時半ぐらいに目が開くので、午前6時ぐらいまで(どういうわけかこの時間は頭がクリア-に冴えているので)ノ-トの調査・執筆や海外との連絡をこなし、6時半には始業準備に入って、その後、実家の客商売と母親の看病、という毎日を過ごしていたので、ノ-ト執筆に使える “時間” には物理的リミットがあった。そんなわけなので、一度に情報が集まったところですぐに処理できるわけでもなく、 “返答がこない” ことについては気にはなってはいたが、その時点における最優先事項というわけでもなかった。

また、このとき、収録曲の曲名を日本語にする作業において、実は簡単に解決できそうにない大きな難問にぶつかっていた。CDやブックレットを実際に制作する現場からは、「 “ノ-ト” はあとで結構ですので、まずは “曲名” だけ先にください。」という要望が市音を通じて来ていたが、筆者は「そんな約束はしていない。曲の中身がたいへんデリケ-トな民族的問題を含んでいる可能性があり、あらゆる手はつくしているがアルファベットの曲名も “何語” なのか確認できず、したがって発音も不明なのでカタカナにすらできないものがある。中身や言語がはっきりと確認できるまで待ってほしい。適当に訳した日本語曲名など、渡すわけにはいかない。」と応酬していた。

問題になっていたのは、後に「シリム~クレズマ-・ラプソディ」と訳すことができたピ-ト・スウェルツの “SHIRIM~A Krezmer Rhapsody” 。おもしろいことに、このタイトルに関しては、作曲者や出版社も語学上の問題を完全に把握・処理しているわけではなかった。この曲名を日本語にするために必要な資料は大きな図書館にも系統だって揃ってなく、結局、語学書、宗教書、旅行書など、結構高い本を新たに6冊も買うハメになった。エラい出費だ。外国盤だと、曲名は楽譜どおりのアルファベットだけで処理できるのに….。(File No.02)

一方、スミスのこの作品の日本語曲名を決める作業は、他の曲に比べてそんなにやっかいなことではなかった。市音のプログラム編成委員が訳した仮題(File No.02-参照)は「鷲の翼に」。初めてこの仮題を見たとき、 “鷲の(EAGLE’S)”も “翼(WINGS)” も和訳としては問題ないが、”ON”を “に” と訳していることには “何か曖昧な感じがして、オリジナル・タイトルとニュアンスが違うのでは” と感じた。また、全体としては、ジェット機時代の音楽のタイトルとしては “スピ-ド感” がなく、結構カッコいい曲なのに日本の戦時歌謡の曲名のようなイメ-ジがつきまとってしまうと思った。


▲“星条旗”と“白頭鷲”がデザインされたCD「I AM AN AMERICAN」

それでは、どうしよう。最初にこの曲のタイトルに使われている “EAGLE”だが、アメリカ合衆国で “EAGLE”と言えば、まずは国の紋章に使われている “はくとうわし” をさす。つまりこの曲名にある “EAGLE’S”は、意訳につとめると “アメリカ合衆国の” という意味を含む。そのあとに出てくる “WINGS”は文字通り航空機の “翼(つばさ)” もしくは “空軍の飛行大隊””パイロット記章” などなど、ときには派生して “空軍” それ自体を示す意味合いで使われることもある。従って、 “EAGLE’S WINGS”は “アメリカ合衆国空軍” を実際の言葉のウラに含んだネ-ミングであることがわかる。しかし、”EAGLE’S” を “アメリカの” もしくは “アメリカ合衆国の” と意訳してしまうと、音訳の “オン・イ-グルズ・ウィングズ” から遠く離れてしまう。できるだけ原題のイメ-ジを残すために “EAGLE’S”は “アメリカ合衆国” をシンボライズする象徴そのものを扱っているのだからそのまま直訳して “イ-グルの” とし、”WINGS” はより一般的な “翼” を使うことにした。すなわち”イ-グルの翼” 。漢字をひとつ減らすだけで随分とイメ-ジが変わった。残る “ON” は英和辞典やら英英辞典などから “~にのる” という用法を引っ張りだしてきた。

最終的にCDに使われた「イ-グルの翼にのって」という日本語曲名は、こうして完成した。 “翼” は “よく” ではなく “つばさ” と読んでほしい。大空にはばたく航空機のイメ-ジやスピ-ド感を多少なりとも残すことができていれば幸いだ。後日、市音プログラム編成委員の延原さん(File No.02参照)から「あのタイトル、結構気に入ってますよ。」と聞いて、まずは責任を果たせのではないかと安堵している。

余談ながら、アメリカには “イ-グル”(ボ-イング・マクドネル・ダグラス F-15/航空自衛隊も導入)という名前の戦闘機が実際に存在するが、スミスがそれを特定してネ-ミングをしたわけではないことは、作曲の “経緯” を綴ったプログラム・ノ-ト(FileNo.03 参照) の中で何も触れていないことから考えても明らかだ。かすかに引っ掛けてある可能性は否定できないが….。

また、アメリカをシンボライズして “EAGLE”を曲名に使った例は他にもいろいろある。筆者の大好きなマ-チ、ジョン・フィリップ・ス-ザ(John Philip Sousa) の「無敵の鷲(The Invincible Eagle)」もそのひとつ。この曲もLP時代に「無敵の荒鷲」という、今では信じられないような日本語曲名でレコ-ドが発売されていたことがあった。現在のそれと違う点は、わずかに “荒” という字が有るか無いかだが、これが一文字入るだけで曲名の日本語から受けるイメ-ジがガラッと変ってしまうからたいへんだ!! “荒鷲(あらわし)” は、今日ではほとんど死語に近いが、太平洋戦争当時には、日本軍の航空部隊もしくはその搭乗員を示す “代名詞” としてマスコミ紙上でさかんに使われていた。 “ブンブン荒鷲、ブンと飛ぶぞ~” という歌詞でさかんに歌われた戦時歌謡もあったぐらいだ。たぶん「無敵の荒鷲」という曲名が印刷されたLPを発売した関係者の中に戦中派スタッフがいらっしゃったのだろう。筆者も、学生時代、まったく疑うことなく「無敵の荒鷲」という曲名を鵜呑みにしていたが、あるとき、この曲の作曲の経緯と曲名に使われている “EAGLE”の本当の意味を知ったときに、「いったい何だ!! コリャ!?」とビックリ仰天してしまったことがある。それ以来、「無敵の鷲」を使うように努めたが、周囲には「無敵の荒鷲」を使う人がウジャウジャ。かくいう筆者も若い時代に頭の中にこびり付いてしまっていた「無敵の荒鷲」を消去するのにものすごいエネルギ-を必要とした。市音プログラム編成委員の仮題「鷲の翼に」を最初に見たときに、まるで “戦時歌謡の曲名” のようだと感じた理由も、以上の説明でご想像いただけよう。

この国では、単なるカタカナ化の作業も含めて、 “外国産” のものはすべて日本語に置き換えないと一般化できない。その結果、 “何年も学校で習ったはずなのに英語が話せない” “アルファベットをそのまま取り込めない” などなど、インタ-ネット時代にひとり日本だけが “取り残されがち” な理由の一端も実はここにある。音楽の曲名とて例外でない。それだけに、日本語曲名を作らねばならない場合には、よほど慎重な作業と、アルファベットで示されているオリジナルに含まれているさまざまなファクタ-を尊重する “真摯な態度” が必要だろう。 “思い込み” や “知ったかぶり” は絶対にいけない。近年、われわれの世界でも、あたかも映画の邦題のような “ウケ” を狙ったとしか思えない(それからオリジナル・タイトルが想像できなかったり、実際にもとに戻すことが不可能な)日本語曲名を見かけるようになった。一度ひとり歩きを始めた “曲名” は、それが明らかに誤ったイメ-ジを伝えていると判明してからもなかなか修正できない。要注意!!

▲「イーグルの翼にのって」が紹介されているWarner Bros./Belwinカタログ表紙

さて、そんな作業を繰り返しているうちに、2月も終わりに差し掛ってきた。しかし、スミスは何も打ち返してこない。もういけない。最初から “最後はそうしよう” と考えてはいたが、ここはアメリカ空軍の機動力を頼りにすることにしよう。そう思った筆者は、スミスに宛てた質問とほぼ同じ内容のメッセ-ジをワシントンDCのボ-リング空軍基地内、アメリカ空軍ワシントンDCバンドの広報官(Director of Public Affairs)のダナ・L・スタインハウザ-(Chief Master Sergeant Dana L.Steinhauser)宛てに発信した。”作曲者が多忙のようで返信がデッドラインに間に合いそうもない” と添え書きして。

相手先の事務所には、それこそ世界中から毎日膨大な数のメッセ-ジや照会、出演依頼などが届く。できれば、そんな先に煩わしい質問など送って相手の仕事を増やしたくなかったが、「何でも連絡してくれ。」と言われていた言葉だけを頼りに今回は無理をお願いすることにした。ジョ-ジア州にあるという “The Band of the U.S.Air Force Reserve”のアドレスなどを調べている時間的余裕ももう無かったし……。

04:新たな疑問

アメリカ空軍の “機動力” は想像以上にスゴかった。2月29日早朝(日本時間)に、ワシントンDCのボ-リング空軍基地内 “アメリカ空軍ワシントンDCバンド” の広報官に送られた筆者の “質問状” は直ちにジョ-ジア州ロビンズ空軍基地の “The Band of the U.S. Air Force Reserve” に転送され、3月1日付けで、 “アメリカ予備空軍” の名をもちながら “アメリカ空軍” に所属する人員で構成される同バンドの広報担当者ビル・グランジャ-(SSgt Bill Granger) からつぎのような回答がFAXで届いた。

「質問にある作品 “On Eagle’s Wings – Our Citizen Airmen”は、1998年のアメリカ合衆国予備空軍50周年を祝賀する栄誉を担う the Band of the United States Air Force Reserve によって委嘱された。それは、1998年1月にロバ-ト・W・スミスによって作曲され、1998年2月11日、ジョ-ジア州メ-コンのメ-コン市オ-ディトリアムでバンドのコマンダ-でありコンダクタ-の Captain N.Alan Clark の指揮のもと、The Band of the United States Air Force Reserve により初めての演奏が行なわれた。..(後略)」

“ほぼOKだ” 。この回答で上記した疑問点(2)~(5)のすべてのポイントがクリア-になった。残るは “Our Citizen Airmen” というタイトルの非売品のCDに関する(6)だけだったが、これは他のポイントに比べて少々掘り下げすぎかも知れないので場合によっては省略も可能だ。とはいうものの、できればクリア-にしておきたい。前記の回答につづいて “CD送付のための住所の確認” と “市音のCDが出来上がったらバンドへ送ってほしいという要望” が書かれていたので、早速 “お礼状” を打ち返し、それには “お互いのCDを交換できる喜び” を記しておいた。うまくいけば(6)もCDノ-トの “校了” 時点までには判明するかも知れない……。

そして、筆者は直ちに “さくら銀行吹奏楽団” の超有名吹奏楽人、井上 学(いのうえ まなぶ)さんに電話を入れた。実は、アメリカ空軍に “S.O.S.” を送る以前に、同吹奏楽団が第6回定期演奏会(3月25日<土>、東京・お茶ノ水スクエア “カザルスホ-ル” )に “アメリカ空軍バンド・オブ・ザ・パシフィック=アジア(The United States Air Force Band of the Pacific-Asia / “さくら銀行吹奏楽団” のプログラムでは<太平洋音楽隊>と表記されていた)”のコマンダ-&コンダクタ-、ディ-ン・L・ザムビンスキ-大尉(Captain Dean L.Zarmbinski)を客演指揮者に招いているという情報をキャッチしていたので、ひょっとするとこの人物ならば、空軍同士なので”Air Force Reserve の50周年” を知っていたり、”Our Citizen Airmen” というCDを持っているのではないか(持っていたら、”インレ-・カ-ド” や “ブックレット” に何が印刷されているか教えてもらおう)と思って、井上さんに “一度、尋ねてもらえませんか?” と頼んでいたからだ。ノ-トを引き受けた以上、考え得る手はすべて打たねばならない。スミスの返答を待つ間も、ただただ手をこまねいていたのではなかったわけだ。

さて、電話に出た井上さんにこちらからも “S.O.S.” を送って “打ち返し” があったことを伝えると、「あっそう。よかったですね-。こっちの方も頼まれたことやっとき(やっておき)ましたよー。ただ、本人がしばらく不在ということなんで、副官に質問事項を伝えておきました-。必ず伝えてくれるというんで、なんか返答があるでしょう。今は待っている状態です。スンマセンネー、何も進んでなくてー」と、いつもの軽妙な関西風味の受け答え(巷では、ほんまに “銀行員” かいな-?という “噂” もチラホラ出るらしい)。後は、いつもの “長時間雑談” になだれ込んだ。(後日、このザムビンスキ-・ル-トは、ご本人が “Air Force Reserve”の件のCDを持っていらっしゃらなかったので、結局 “よくわからない” ということで決着がついた)※

こうして、大阪市音楽団(市音)の自主企画CD “ニュ-・ウィンド・レパ-トリ-2000” の「イ-グルの翼にのって」のノ-ト執筆の準備は完了した。しかし、この時点までに費やしてしまった月日は、ほぼ1ヵ月半。市音やCDブックレットの制作担当者もきっとジリジリとしてノ-ト完成を待っていることだろう。

このCDには合計8曲入る予定だが内7曲がまったくの新曲だったので、この時点に至ってもまだ解決しないといけないポイントが若干残ってはいたが、それらもほぼ解決のめどがついたので、前記のアメリカからの返信を受け取った時点で残っていたノ-トの仕上げに一気に突入した。そして、ほぼ10日後の3月13日深夜、ついにノ-トは完成。昼間の16時間労働をこなした後に仮眠をとり、深夜に2~3時間しか執筆に使えない筆者にとってはこれが “最短” の着地点だった。(なにしろ、普通の睡眠をまるでとっていなかったものだから、昼間ウツロな目をしてボーッとしながらもアクセク動きまわっている筆者を見て周囲のものが “ほんとうに大丈夫?” と気遣ってくれるぐらいの “生きるか死ぬか” のフラフラ執筆だった。実際、このための資料として購入した本を母の病院に向かう途中の地下鉄の車内に置き忘れてしまい、何冊も同じものをもう一度買うハメになった。しかし、毎日の介護があるから倒れるワケにはいかない。気合いだけは充実していた)

完成したノ-トは、翌14日に市音とブックレットのデザイン担当者に届けられた。しかし、後で聞いた話だが、この間、市音と制作サイドの間では<発売日延期>が真剣に議論されており、もう1日ノ-ト完成が遅れていたら、本当に<延期>の決断をせまられるところまでいっていたという。

一方、このノ-トを書いている間、実はまたひとつ “新たな疑問点” が浮上していた。それは、バンドからの回答にあった “1998年2月11日” に行なわれたという初めての演奏に関してだった。つまり “これは実際に聴衆を前にした演奏だったのか?” という疑問。よくよく考えてみると、この種の “50周年記念用” のようなCDは、当然行なわれる筈の祝賀式典やパ-ティ-の事前に録音され、当日に関係者に配布されるのが普通だろう。すると、これは “録音日” だったのではなかったのか。ハタと困ってしまったが、2月11日が “初めて” 演奏が行なわれた日ということだけは “事実” だった。また、一方で、バンド側がすぐ動いてくれさえすれば、例のCDが時間内に届くかも知れないという期待もあった。アメリカ空軍の “機動力” はすでに実証済みだ。そして、CDさえ届けば(6)も解決するに違いない。そこで、筆者は「イ-グルの翼にのって」のノ-トを、この日を返答どおりに “初演奏” と書いて、場合によっては後で “部分的な差し替え” をすることで変更可能なスタイルで仕上げることにした。

そして、前記どおり、このノ-トは3月14日に担当者に渡ったが、それから8日後の3月22日、アメリカから待っていたCD “Our Citizen Airmen” が届いた。

早速、デ-タをチェックすると、このCDの録音日は “1998年2月9~13日” で、睨んだとおり “2月11日” は録音日だった。また、スミスのプログラム・ノ-トにある “オ-プニング・セレクション” の意味も判明した。CDを聴くと、お決まりの「アメリカ国歌」に続いて、ナレ-タ-がグリ-ティングとアメリカ合衆国予備空軍について説明をし、そのナレ-ションの最後で “50周年” 記念委嘱作であるスミスの「イ-グルの翼にのって」のタイトルが告げられるとオ-トマチックに音楽が始まるという一連の流れに添ったワン・セットの “オ-プニング・セレクション” が入っていたのだ。

さて、この時点で “ニュ-・ウィンド・レパ-トリ-2000” のブックレットの工程は、ほとんど “校了寸前” の状況にあった筈だ。それでも、すべての疑問点がクリア-になった筆者は、正しいデ-タをどうしても入れてもらうために急いで “部分的な改訂ノ-ト” を書いて制作担当者にFAXで送った後、電話で直接事情を説明して “差し替え” を依頼した。一瞬なんとも言えない “いやな空気” が漂うが、なんとかそれをOKしてもらう。しかし、発売予定日がどんどんと迫ってくる中で、その後にその部分の “著者校正(執筆者が校正)” を新たに行なうことなど、どう考えても時間的にすでに無理となっていたので、あとは先方にすべてを任せてしまう “責任校正(執筆者にゲラを廻さず担当者の責任で校正)” となることに同意した。もう、そんなに “切羽つまった” 状況になっていたのだ。そこへ降って沸いたような “差し替え” の依頼。なんという制作者泣かせの執筆者なんだろう。(少なくとも、先方はきっとそう思っていたに違いない)

しかし、どうにか、正しいデ-タをブックレットに盛り込むことができた。デッドラインぎりぎりセ-フ。そう思った瞬間、どっと “睡魔” が襲ってきた。

05:2つのプロジェクト

ロバ-ト・W・スミスの「イ-グルの翼にのって」は、威厳に満ちたファンファ-レに始まる祝賀ム-ド溢れる導入部につづいて、リズミカルなテンポにのった主部が展開し、ゆったりとした導入部の音楽が再現される短い中間部のあと、主部を再現し、コ-ダに至るという簡潔なスタイルで書かれた演奏時間が3分50秒から4分30秒くらいのサイズの作品。委嘱されたときの意図どおり、セレモニ-やコンサ-トのオ-プニングにピッタリの華やかな作品だ。スコアには指揮者への留意点をまとめた作曲者のノ-トがあるが、テンポに関しては厳密な指定はなく、ある程度指揮者任せなので、短い曲にもかかわらず演奏時間の幅を大きくとれる。したがって、演奏される機会の用途に応じ変化のある対応が可能で、 “どんなテンポや音楽的演出を使うか” が指揮者のちょっとした腕の見せどころとなってくる。また、他の多くのスミスの作品と同じく、フィ-ルドいっぱいに展開するマ-チング・バンドにとってもさまざまな演奏効果が期待できる作品といえるだろう。

スコアを見ながらそんなことを考えていたとき、バンドパワ-編集部のコタロー氏から電話が入った。「スミスの “イ-グル” って、今度出た “土気シビック” のCD(CAFUA、CACG-0010 )にも入ってるね。これって聴いた?」

“ア-、加養さんところの土気シビックウインドオ-ケストラもCD出したのか” と思いながら、「ヘェ-、そうなの。コタロ-さんも知ってのとおり、最近何ヵ月もCDショップへ行ってないし、というより実家を中心に半径 500メ-トルより遠いところへは物理的に移動不可能なんで、正直、今どんなCDが出ているかも知らないし、そのCDのことも全然知らなかった。」と答える。音楽から完全に足を洗って休憩なしの16時間労働と母親の介護だけの毎日を送り、ごくたまに思いだしたようにバンドパワーに “ラクガキ” を書き込む程度の筆者にとって、新しく聴くCDは内外の友人が送ってくれるものだけとなっていて、コタロー氏から知らされたこの情報はとても新鮮に耳に響いた。

しかし、同時にちょっと気になったこともあったので、こちらからも “質問” をくりだした。「ところで、そのCDの日本語タイトルはどうなっている?」

すると、コタロ-氏が「エ-ッと、ちょっと待ってね。今、見るから・・・・エ-と、”鷲の翼に” になってます。」との回答。

このタイトルは、市音のプログラム編成委員がCDの企画時に考えていたのとまったく同じだ。「結局、2種類の日本語タイトルのCDが市場に出まわることになってしまったね。まったく違ったところでほとんど同時に2つのレコ-ディング企画が進んでいたわけで、これはしょうがないか。」と、筆者はコタロ-氏に答えていた。


▲土気シビックウインドオーケストラVol.4

市音のCDに、今では市音の “お気に入り” となっている「イ-グルの翼にのって」という日本語タイトルを提供した張本人としては、ちょっと困惑する立場に立たされることになったが、 “土気シビック” の皆さんが自主的にお作りになったCDの内容に別段異義を唱えるつもりなどない。そして、この作品の日本語タイトルに関する筆者の考え方は、この原稿を読んでいただればそれで十分と思う。

しかし、一度印刷されて世に出たものは後々まで大きな影響力を行使する。出てしまった以上、多少の混乱は避けられないが、これもまた将来にまで語りつがれる “話題” のひとつになるんだろうな。

(余談ながら、市音の「ニュ-・ウィンド・レパ-トリ-1996」(大阪市教育振興公社、OMSB-2802)に提供した同じスミスの「ブラック・ホ-クが舞うところ(Where The Black Hawk Soars)」という日本語タイトルを訳出したときも、<BLACK><HAWK>という2つの英語の単語がともに日常的に使われる簡単な日本語に “訳せてしまう” ことから、<黒鷹>あるいは<黒い鷹>と訳してしまうか、原題にある<ブラック・ホ-ク>という “音(オン)” をそのまま残すかを秤りにかけた思い出がある。このときは、委嘱者である米ヴァ-ジニア州のハイ・スク-ルの新しい校舎に描かれた<ブラック・ホ-ク>の図柄のもとになった “同じ鳥” が日本の自然界に生息していないという生物学的な事実から、それをシンボライズして固有名詞として扱うことですべてが解決した。)

しかしながら、スミスのこの作品は、それぞれが直線距離 500キロをこえる地域で活動し、接点などまったくない関西のプロフェッショナルと関東の市民バンドが、結果的に、ほぼ同時にCD用レコ-ディング・アイテムとして選曲していたということであり、その事実ひとつをとっても、この作品がいかに “魅力ある作品” であるかの証明となっているように思えた。

06:スコアの留意点

・指揮者へのノ-ト

スコアには、作曲者から指揮者へあてた英語のノ-トがある。この楽曲の意図をつかむため、指揮者には、演奏前にこのノ-トを読まれることをお奨めしたい。(スミスが使う英語の勉強にもなる。)

・大阪市音楽団のレコ-ディング・セッションでの変更点

「3rd Trumpet 」・・・・・・・ 37、38、49、111、112、113の各小節の2拍目の<H>の音を<B♭>に変更して演奏。

その他、木管の各パ-ト(ピッコロ、フル-ト、オ-ボエ、クラリネット)にあるトリルを、全音トリルを使わず半音トリルを使って演奏した箇所があるが、これは作曲者の指定ではない。

Thanks to Mr.Hiroaki Nobuhara,the OMSB.