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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第58話 NHK – 生放送!ブラスFMオール・リクエスト

 ▲アルフレッド・リード(1990年代、本人提供)

▲ヨハン・デメイ(1990年代、本人提供)

▲フィリップ・スパーク(1980年代末、本人提供)

『ヒグッちゃ―ん!!』

クラシック・ファンから“遅れてきた巨匠”と親しまれたチェコの指揮者ラドミル・エリシュカ(Radomil Eliska)のマネージメントをするオフィスブロウチェクの梶吉洋一郎さんから声がかけられたのは、2017年10月19日(木)、「大阪フィルハーモニー交響楽団 第512回定期演奏会」が行われていた大阪のフェスティバルホールのロビーでだった。

ヘッドホンを首から掛け、いかにも録音ブースから出てきたスタッフというイデタチの氏の声は弾んでいた。根っからの現場好きの男だ。

そして、『今日は、来てくれて、本当にありがとう。マエストロもこれが最後になるんで、ぜひ聴いて欲しかったんだー!!』と続ける。

当夜、聴衆は2300~2400ぐらいは入っていただろうか。後に“平成29年度(第72回)文化庁芸術祭”の優秀賞に選ばれることになるこのコンサートは、いつもの大フィル定期とは少し違う空気が漂っていた。この少し前、飛行機での渡航にドクター・ストップがかかった86歳(当時)のマエストロの、これが最後の来日公演になると発表されていたからだ。

“どうしても、日本のファンに挨拶がしたい”という、マエストロのたっての希望から、ドクターの声を振り切って行われたコンサートだった。

筆者は、2009年秋にリリースされた『ドヴォルザーク 交響曲第6番』(パスティエル、DQC-100)以降、梶吉さんがプロデュースしたエリシュカ指揮、札幌交響楽団のライヴCD作りの最終工程をサポートしていた。マスタリングをお手伝いしたこともあった。

だが、氏との出会いは、それよりずっと以前、1988年の「ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本公演」(第8話:ドラゴン伝説の始まり、参照)の時だった。

当時、NHKの報道にいた氏は、銀座で見かけたポスターを頼りに、カメラを担いで虎の門の公演事務所に飛び込んできた。そして“夕方のニュースに使いたいので”と、“チケットを数えているシーン”なとの映像を押さえていく。まるで電光石火の早業だった。

後日、話を伺うと、学生時代は吹奏楽に傾注していたという氏は、ヌーケリ・ブュピレ・ドルヤギ吹奏楽団という、ちょっと不思議な名称(カタカナ名を逆から読めば、その“由来”が判る!)のバンドの指揮者だったこともある。

また、本物志向の氏は、かの指揮者セルジュ・チェリビダッケ(Sergiu Celibidache)の指揮法講習を受けていたこだわり派だった。

そんな彼とは、その初対面時から何かと馬が合った。そして、その希望が叶い、報道から音楽番組に配属が変ると、実際に吹奏楽の番組をやろうということになった。

そのきっかけを作ったのが、1992年5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールで開催された「大阪市音楽団 第64回定期演奏会」で日本初演が行われたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』だった。

指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti)を審査委員長とする“サドラ―国際ウィンド・バンド作曲賞”の受賞作となったこの交響曲の内容や作曲者について、筆者から楽曲の基礎情報を取材した氏は、企画書を局に提出。ついには、中継車を東京から大阪に走らせ、ライヴ収録を実現させてしまったのだ!

当時のNHKの局内では、これはかなりの大冒険だった。

報道番組以外は外注でもよしとする徹底的した“商業化路線”を推し進めた島 桂次会長の時代、秋山紀夫さんの名調子で人気を博した吹奏楽のレギュラー番組「ブラスのひびき」も、その流れの中であえなく廃止。

“吹奏楽”は、他のいくつかのジャンルとともに“NHKが扱う音楽カテゴリー”から外され、唯一残ったのは、全日本吹奏楽コンクールの特番だけだった。

梶吉さんに残った理由を訊ねた時の話が面白い。彼は、『ウチは、“全日本”とつくものは必ずやらないといけない、ということになっているのよ。』と言い、ガハハと笑った。

島会長時代は、そう長くは続かなかった。しかし、局内で一度“あえてNHKがやる必要がない”と判断が下ったジャンルの番組をふたたび立ち上げるのは、大変なエネルギーを必要とする仕事だった。

NHKには、“商業化”をよしとし、放送内容は、民放並みにメジャーなものだけでいいとする空気も確実に残っていた。

そこで、梶吉さんは、ハガキによるリクエストによる吹奏楽特番を発案。NHKに寄せられる視聴者のナマの声に運命をすべてかけたのである。

題して「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」!!

『なんだよ、それ!』と言いながらも、昭和の香り漂う番組名に郷愁のようなものを感じたのは、筆者もそれなりの年になっていたからだろう。

だが、人口こそ多いが、“与えられることに慣れ、自らほとんどアクションを起こさない”傾向が強い“吹奏楽人”が果たしてどう反応するのかは、まったく未知の世界。

しかし、全国から寄せられたリクエストのハガキは、トータルで705枚もあった。

“吹奏楽”をマイナーな世界とみなしていた局内に“オヤ?”という空気が流れ始めたのは、実はこの頃からだった。

リクエストは、ポップからクラシックまで幅広い曲に寄せられていた。しかし、〆切後に内容を精査すると、NHKがほとんど知らない(つまり、局内にレコードやCDなど一切ない)“オリジナル曲”へのリクエストが7割近くに達していることに、NHKがまず驚いた。

作曲家別でみると、曲数がもっとも多かったのがアメリカのアルフレッド・リード(Alfred Reed)で、合計12曲。次点が11曲のジェームズ・スウェアリンジェン(James Swearingen)で、それぞれリクエスト最上位の『アルメニアン・ダンス・パートI(Armenian Dances Part I)』と『センチュリア(Centuria)』が、放送曲に決定!

曲別にみると、イギリスのフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』が他を大きく引き離してダントツ。前記リードの『アルメニアン・ダンス・パートI』がそれに続いた。

邦人作曲家では、大栗 裕の作品に人気が集中。そのリクエスト最上位の『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』が放送曲に決まった。

また、関西を中心に、吹奏楽の中でも“とくにマイナー”とみられていたブラスバンド作品にもかなりのリクエストが寄せられ、リクエスト最上位のスパークの『オリエント急行(Orient Express)』も放送曲に選ばれた。

嬉しい誤算は、番組のほぼ真ん中の時間帯に組み込む予定で、唯一NHKらしい情報発信だと考えられていた『指輪物語』にも、複数のリクエストのハガキが寄せられたことだ!!

電話で『“指輪”にもハガキが来ているよ。』と伝えてくれた梶吉さんの嬉しそうな声が今も耳に残っている。

放送は、終戦記念日翌日の1992年8月16日(日)午後に行われた。

もちろん“指輪”を除くすべての音素材(レコード、CD)は、すべて筆者の持ち込み。

出演は、坪郷佳英子アナウンサー、サックス奏者MALTA氏、そして筆者の3人だった。

予期できなかったこととして、ナマ放送中、アルフレッド・リードから突然電話がかかってくるハプニングもあったが、なんとか番組終了まで乗りきって大団円!

フト見ると、日曜にもかかわらず、スタジオの中から見えるスタッフ・ブースは大勢の人でかなりの鈴なり状態になっていた!

梶吉さんによると、休日にもかかわらず、以前「ブラスのひびき」をやっていたディレクターやスタッフが懐かしさのあまり大勢つめかけてくれていたんだそうだ。

なんだ、NHKにも“隠れ吹奏楽ファン”がいるんじゃないの!

ひょっとすると「ブラスのひびき」が戻ってくる日もあるかも知れない。

そんな淡い期待を胸に描いたアツい夏の一日だった。

▲「アルメニアン・ダンス・パートI」に使ったLP – American Salute(蘭Philips、6423 522)

 ▲「ドラゴンの年」に使ったCD – Marines on Stage(蘭Markap、2040)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第57話 スパーク「セレブレーション」ものがたり

▲CD – セレブレーション!(佼成出版社、KOCD-3571、リリース:1993年6月26日)

▲ディレクター若林駿介とフェネル(1992年11月、川口総合文化センター・リリア、メインホール]

 ▲「セレブレーション」のスコアをカメラに向けてごきげんのフェネルとコンサート・マスター須川展也(同)

▲セッション中のフェネルと東京佼成ウインドオーケストラ(同)

『また、ちょっと相談にのって欲しいことがあるんだけど….。』

東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんから、こういって電話が掛かってきたのは、同オケ初のヨーロッパ公演(日程:1989年6月29日~7月23日)から、しばらくたったある日の午後のことだった。

古沢さんの話はいつも面白い。早速、話を伺うと…

『ヨーロッパ公演の流れで、国際文化交流事業として、ヨーロッパの作曲家に作品を委嘱することになってね。すでに2人の作曲家に委嘱したんだけど、予算枠としては少し余裕があって、もう1曲頼めそうなんだ。そこで相談なんだけど、“ぜひ、これは”という作曲家を挙げて欲しいんだ。誰がいいと思う?』

それは、とても興味をそそられる話だった。

そこで、まず、すでに作曲を頼んだという2人の作曲家の名を訊ねる、すると、1人がオランダのユリアーン・アンドリーセン(Jurriaan Andriessen)、もう1人がイギリスのジョーゼフ・ホロヴィッツ(Joseph Horovitz)だと答えが返ってきた。

いずれも、オランダの出版社モレナール(Molenaar)から作品が出版されている作曲家だ。

この当時、デハスケ(de haske)は、創業間もない“超弱小”の出版社。ヤン・モレナール(Jan Molenaar)というパワフルな社長のもと、アメリカのミッドウェスト・クリニックにも進出し、大きなブースを出していたモレナールは、オランダ最有力の音楽出版社だった。

東京佼成ウインドオーケストラのヨーロッパ・ツアーのクライマックスで、そのガラ・コンサート(7月20日、指揮:フレデリック・フェネル)に招かれていたオランダ・ケルクラーデの「世界音楽コンクール1989(Wereld Muziek Concours 1989)」(於:ロダハル)でも、モレナールの存在感や影響力は、絶大だった。

古沢さんの口から出た2人の作曲家も、モレナール氏からの推薦に違いない。両者は、すでに名を成したベテラン作曲家だったからだ。

なので、もう1人の作品委嘱の相手には、まったくカラーの違うフレッシュな顔がいい。

筆者は、迷うことなく、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の名を挙げ、こう続けた。

『古沢さん、今回のロンドンのレコーディングで“ドラゴンの年(The Year of the Dragon)”って曲を録られたでしょう? スパークは、それを書いた新進気鋭の作曲家です。実は、事前に連絡を入れておいたら、彼は、エンジェル・スタジオのセッションに足を運んでくれていたんです。何が言いたいのか、と云うと、彼は、実際のセッションの現場をつぶさに見て、東京佼成ウインドオーケストラの実力もパーソナリティーもよく理解しているんです。今、作品委嘱をするなら、最有力候補じゃないでしょうか。』

電話の向こうの古沢さんも、ロンドンのセッション現場に作曲者がいたという話に少し驚いた様子だったが、『今日は、いい情報を聞かせてもらいました。正式に決まったら、また連絡するんで…。』と、早速、会議に諮ってもらうことになった。

その後、正式に委嘱が決定。『近い内に、東京佼成から連絡があるから…。』とフィリップに伝えると、彼はもう、狂喜乱舞の大興奮!!

その結果、1991年に完成したのが、『セレブレーション(Celebration)』だった。

フィリップは、当時の私信の中で、この作品では、“東京佼成ウインドオーケストラの驚くべき演奏能力”と“人間のスピリット(魂や精神)に於ける楽天主義的な側面”の2つをセレプレート(称賛)していると書いている。

『セレブレーション』は、非常に高度なスキルが求められるだけでなく、推進力と高揚感があり、一瞬たりとも気を緩めることのできないスリリングな作品となった。

東京佼成のスキルと音楽性に信頼をおいた手加減なしの曲なので、当然、グレードは6超え!

初演は、1992年6月11日(木)、島根県松江市のプラバホールで開催された東京佼成ウインドオーケストラの“法燈継承記念特別演奏会”(主催:立正佼成会松江教会)で、クレーグ・キルコッフ(Craig Kirchhoff)の指揮で行われた。

ついで、その翌月の7月9日(木)、鹿児島県文化センターで行われた同じタイトルの演奏会(主催:立正佼成会鹿児島教会)でも、フレデリック・フェネル指揮の再演が行われている。

そして、フェネルは、この曲のスコアに大興奮!

結果、彼は、同年11月4日(水)~5日(木)、埼玉県の川口総合文化センター・リリア、メインホールでセッションが組まれていた佼成出版社の録音にこの曲を即座に組み入れた。

録音レパートリーは、以下のようなものだった。

・セレブレーション
(フィリップ・スパーク)
Celebration(Philip Sparke)

・シンフォニエッタ
(インゴルフ・ダール)
Sinfonietta(Ingolf Dahl)

・「グレの歌」のモティーフによるファンファーレ
(アルノルト・シェーンベルグ)
Fanfare on Motifs of Die Gurrelieder(Arnold Schoenberg)

・シェイカー教徒の旋律による変奏曲 ~「アパラチアの春」より
(アーロン・コープランド)
Variations on a Shaker Melody(Aaron Copland)

・神聖なる行列
(ジョージ・パール)
Solemn Procession(George Perle)

・ハイドンの主題によるファンタジー
(ノーマン・デロ=ジョイオ)
Fantasies on a Theme by Haydn
(Norman Dello Joio)

アルバム・タイトルは、フェネルの歓喜と称賛の気持ちを表すように“!”をつけられ、「セレブレーション!」

フェネル自ら“コンテンポラリー・ミックス”とサブ・タイトルをネーミングをして話題を呼んだCD「ピース オブ マインド」(佼成出版社、KOCD-3569、リリース:1992年3月10日、第53話 フェネル:ピース オブ マインド、参照)につづくシリーズ第2弾だ!

セッション中、フェネルは、こう語ってくれた。

『“委嘱”というのは、どんなものが出来上がってくるか分からないし、お金もかかる。しかし、称賛すべきこんなすばらしい作品が生み出されることもあるんだから、もっとやるべきだと、今みんなに言っているところなんだ!!』

そういうフェネルの眼は、まるで青年のようにキラキラと輝いていた!

このセッションには、いくつか後日談がある。

録音が行われる少し前、フィリップがCD「オリエント急行」(佼成出版社、KOCD-3902、リリース:1992年12月21日、第48話 フィリップ・スパークがやってきた、参照)の録音のために来日し、普門館でセッションを行なったことを後から知らされ、フェネルが珍しく『なぜ、知らせてくれなかったんだ。』と楽団事務所にクレームを入れ、とても残念がったというニア・ミス事件。

セッションにおいて、フェネルは、プレストの部分に1箇所あるリピートをカットしたが、後日、コンサート・マスターの須川展也さんが、海外でフィリップと偶然出会った時、演奏の出来を称賛された後、『なぜ、カットした?』と訊かれたカット詰問事件。

『スパークにおこられちゃいましたよ。』と言われた須川さんの言葉は、今もしっかりと耳に残っている。

まあ、そんなこともあるにはあったが、フィリップ・スパークの『セレブレーション』は、フェネルと東京佼成ウインドオーケストラの“お気に入り”となった。

1993年のスイス公演プロでも取り上げられ、伝統的なプログラムを好むヨーロッパの聴衆の度肝をぬき、メディアも手放しで称賛した!

また、2009年2月20日(金)、東京芸術劇場で開催された東京佼成ウインドオーケストラ第100回定期演奏会(指揮:秋山和慶)でも演奏された。

かのアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドなど、海外バンドもつぎつぎとレコーディング!!

『セレブレーション』。それは、作曲家スパークのマスターワークとなった!

▲▼東京佼成ウインドオーケストラ“法燈継承記念特別演奏会”チラシ

▲同、プログラム表紙

▲スパーク「セレブレーション」スコア

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第56話 スパーク「ドラゴンの年」の事件簿

▲泊ったホテルの定礎がドラゴン初演年と同じ1984年とわかり、ご機嫌のスパーク(2018年6月2日、撮影:黒沢ひろみ)

▲▼Osaka Shion Wind Orchestraリハーサル初日(2018年5月31日、花博記念ホール、撮影:同)

2018年6月3日(日)、大阪のザ・シンフォニーホールで開催された「Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)第120回定期演奏会」の客演指揮者に招かれたイギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)。

『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』は、その代表作の1つだ!!

曲名にある“ドラゴン”が、ウェールズ国旗にも使われているウェールズのシンボル“レッド・ドラゴン(赤い竜)”であることは超有名!

今やウィンドオーケストラでもしばしば演奏されるようになっているこの曲は、もともとはブラスバンドのために書かれた作品だった。

オリジナルのインストゥルメンテーションは、以下のようなものだ。

Eb コルネット
Bb コルネット(Solo<div. 3>、Repiano、II、III)
Bb フリューゲルホーン
Eb テナーホーン(Solo、I、II)
Bb バリトン(I、II)
Bb トロンボーン(I、II)
バス・トロンボーン
Bb ユーフォニアム(div.)
Eb バス(div.)
Bb バス(div.)
パーカッション(3 players)

記譜は、低音部記号(ヘ音記号)で書かれているバス・トロンボーンを除き、他はすべて高音部記号(ト音記号)で書かれている。

3人の奏者に割り当てられている打楽器は、

・パーカッション I(Timpani、Glockenspiel I)

・パーカッション II(Snare Drum、Triangle、Tam-tam、Clashed Cymbals、Suspended Cymbal、Glockenspiel II)

・パーカッション III(Bass Drum with Cymbals、Xylophone、Tambourine、Clashed Cymbals、Tubler Bells、Wood Block)

と、プレイヤーはなかなか忙しい!!

1990年代に活躍した大阪のブリーズ・ブラス・バンドのミュージカル・スーパーバイザーをつとめていた当時に肌で感じたことだが、まるでパーカッション・アンサンブルであるかのように、楽器をとっかえひっかえ、ステージを動きまわりながら演奏する打楽器奏者たちの躍動感あふれるプレイは、たいへんな人気を博した。

まあ、ごくたまにレギュラーが出演できないときにエキストラで入ったオーケストラの打楽器奏者からは、『こんなのできません….。』とたびたび“泣き”が入ったが…。

そう言えば、冒頭で紹介したシオンのステージ(プログラムは、第45話「祝・交友30周年 – スパークとイーグル・アイ」参照)にも、かつてブリーズでプレイした打楽器奏者が3人乗っていた。シオン団員の多畑秀城さん、客演の河野佳代子さん、茶屋克彦さん。彼らは、間違いなくスパーク作品のエキスパートだ。

トロンボーンの松下浩之さん(客演)、テューバの松本大介さん(シオン団員)も、ブリーズでプレイしたことがある音楽仲間だった。

今や懐かしの昔話である。

話を元に戻そう。

『ドラゴンの年』は、ウェールズの代表的ブラスバンド、コーリー・バンド(The Cory Band)の創立100周年記念作として委嘱され、1983年の秋に作曲に着手。翌年、首都カーディフ(Cardiff)のセント・デーヴィッズ・ホール(St. David’s Hall)で開催された“コーリー・バンド100周年記念コンサート(The Cory Band Centenary Concert)”で、H・アーサー・ケニー(Major H. Arthur Kenney)の指揮で初演された。

だが、残念なことに、この作品のオリジナルの初演データには、ちょっとした混乱がある。

なんと、初演データが複数(2つ)存在するのだ。

“1984年3月”

“1984年6月2日”

どうしてそんなことが起こったのだろうか。

もちろん、初演1年後に楽譜を出版した際のイギリスのStudio Musicのプレス・リリースにも問題はあった。

しかし、混乱を決定的なものにしたのは、1985年にリリースされた初演者、H・アーサー・ケニー指揮、コーリー・バンドの演奏による『ドラゴンの年』の世界初録音のLPレコード(英Polyphonic、PRL025D、第9話:“ドラゴンの年”と“ロンドン序曲”、参照)のプログラム・ノートに初演データが“1984年3月”と誤記されたことだった。

繰り返すようだが、初演者が録音した世界初のレコードに印刷されたデータだ。世界中の誰もがそれを鵜呑みにするのも無理はなかった。

筆者も、1989年10月25日にリリースされたエリック・バンクス指揮、東京佼成ウインドオーケストラ演奏のCD「ドラゴンの年」(佼成出版社、KOCD-3102、第41話:「フランス組曲」と「ドラゴンの年」、参照)のプログラム・ノートを執筆した際、作曲者にダイレクトに確認したが、その初演データも前記レコードと完全に同じだった。

この時点で、すでに作曲者も記憶違いをしていたことになる。

ただ、筆者の悪い癖で、提供されたデータが“年と月”だけで、“日”の情報がないことが、その後もずっと気になっていた。

何世紀も前の音楽でもなく、近年作で有名な曲なのに、なぜだろう?、という訳だ。

当時、筆者の部屋には、まるで筑豊の炭鉱の“ボタ山”のように鎮座する大きな紙の山が幾つもあった。たまに崩れるので、本当にボタ山のようだったが、その1つに毎週イギリスから届くバンド新聞“ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)”の山があった。

同紙は、1970年代の終わりから年間購読していたので、そこに何らかのヒントがあるかも知れなかった。また、コーリー100周年がらみの記事を読んだ遠い記憶もあった。しかし、毎日の仕事に忙殺され、その巨大な山に立ち向かう勇気がなかなか湧かなかった。

しかし、そのチャンスは突然やってきた。引っ越しである。

そして、段ボールにどんどん詰めていくとき、発行日だけ気をつけて見るようにしていたら、それは出てきた。

有名なロン・マッセイ(Ron Massey)が書いた“コーリー100周年”のコラム記事が掲載されたブリティッシュ・バンズマンの1984年6月2日号だった。

コラム後半にこんなくだりがある。

『ロンザ(バンドのホームタウン)での祝典は、しばらくの間続くが、今週末にはメインイベントが見られる。バンドがカーディフのセント・デーヴィズ・ホールに登場するのだ。…. (中略)…. そして、The Year of the Dragon という、フィリップ・スパークによるバンドのための新しい委嘱作のはじめての演奏がある….。』(カッコ内は筆者)

当時のブリティッシュ・バンズマンの発行日は、毎週土曜日。その中に“今週末”と書かれてあれば、それは、ズバリ1984年6月2日(土)を意味する。

念のため、1984年3月前後の号もつぶさに見たが、コーリーの記事は一切なかった。そこで、フィリップに記事と共にこの事実をFAXで送った。

『我々は、間違っていた。』と。

すると、すぐに『オー! なんてことだ。』と返信があり、事実を見つけ出したことに対する感謝の文面がそれに続いた。2001年のことだ。

その後、佼成出版社が過去のベストセラー盤を廉価盤として再リリースすることになり、アルバム「ドラゴンの年」もその中に含まれると連絡を受けた。

筆者は、返答として、まず以上の経緯を説明。発売以来10年以上が過ぎたこのアルバムのブックレットを完全にアップデートすることを提案した。この間、“ドラゴン”以外の収録曲についても海外で新事実の発表が続いたことや、インターナショナルなマーケットを意識してオリジナル盤にはない英文ノートも指揮者のバンクスに書いて欲しいという希望もあった。

大体、CD制作で最も費用がかかるのは、演奏ギャラについで印刷物だ。普通の商業レーベルだったら、古いノートの再利用でお茶を濁しただろうが、1枚のアルバムを“作品”と位置付ける佼成出版社は違った。筆者の提案を全面的に受け入れてくれたのだ。

この結果、廉価盤となったCD「ドラゴンの年」(佼成出版社、KOCD-0304)は、2002年1月26日、内容が完全にアップデートされた新ブックレットとともに再リリースされた。

担当された岡野大治さんの尽力のたまものである。

しかし、誤ったことでもどんどんペーストされて拡散され保存されるネットの世界、とくに外国語サイトでは、“ドラゴンの年”の初演データは、その後もほとんど誤ったままである。

そんな2010年、世界的ユーフォニアム奏者であり、当時コーリー・バンドの音楽監督をつとめていた旧友のロバート・チャイルズ(Dr. Robert Childs、第14話 チャイルズ・ブラザーズの衝撃、参照)が、コーリーの125周年を記念して「Cory, Cory, Hallelujah! – The History of Cory Band 125 Years 」(Prima Vista Musikk)という著作をものにした。

その66ページには、1984年6月2日の日付けの入ったコーリー・バンドの記念コンサートのプログラムの表紙がカラーで印刷され、それとともにこう記されている。

『コーリーは、The Year of the Dragon という、彼らのためのメジャーワークを書くことをフィリップ・スパークに委嘱しており、バンドは、同コンサートでその作品の世界初演をしたのである。』

事実は、1つしかない!

 ▲The British Bandsman紙(1984年6月2日)

 ▲CD – ドラゴンの年(佼成出版社、KOCD-0304)(再リリース盤)

▲Cory, Cory, Hallelujah! – The History of Cory Band 125 Years 」(Prima Vista Musikk)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第55話 ノルベール・ノジとの出会い

 ▲CD – ベルリオーズの幻想(東芝EMI、TOCZ-0016、リリース:1993)

▲ギィデのシェフ当時のノルベール・ノジ

▲直筆サイン

▲独ケルン・フィルハーモニーにおけるロワイヤル・デ・ギィデ(1990年代前半)

1993年7月、オランダ、ヴォルメルフェールにおけるハインツ・フリーセン指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラのレコーディング・セッションを終えた筆者は、もう1つの重要な目的地ベルギーに向け、アムステルダム中央駅から国際列車にとび乗った。

道連れは、東芝EMIの佐藤方紀、音楽出版社デハスケの営業部門のトップ、ハルムト・ヴァンデルヴェーン(Garmt van der Veen)の両氏である。

ベルギーに向かう最大の目的は、ベルギー国王のプライベートな吹奏楽団“ロワイヤル・デ・ギィデ(Musique Royale des Guides)”の楽長(シェフ・ド・ミュジーク)、指揮者のノルベール・ノジ(Norbert Nozy)を表敬訪問することだった。

“ロワイヤル・デ・ギィデ”は、1832年、ベルギー初代国王レオポールI世(在位:1831年 – 1865年)に随行する“国王の私設吹奏楽団”として創設された。“ギィデ(Guides)”の名は、王室親衛隊に属する騎兵の部隊名からとられている。辞書の訳語の中では、“先導する”とか“嚮導する”“探索(偵察)する”と云う意味から派生した名称と考えるのが最もイメージが近いかも知れない。“近衛”と和訳されることもあるが、“ギィデ”がもともと歩兵をルーツとする名称ではないので、兵制上の役割を異にすると認識されるのがいいだろう。現在のフィリップ国王の2013年7月21日の即位の映像では、即位を国民に知らしめるためにパレードに出た国王ご夫妻が乗ったオープンカーのすぐ後ろに続く騎兵、それが“Guides”である。

この吹奏楽団は、隣国フランスの有名なギャルド・レピュブリケーヌを範として整備され、完全なフランス式の編成を持っている。また、プレイヤーは、ベルギー国内の音楽院でプルミエプリ(一等賞)を得たものだけが採用される。筆者が訪れた際、85名編成の吹奏楽団と25名編成の騎兵ラッパ隊(バテリー)から構成されていた。

ベルギーの公用語はフランス語だったので、レコード時代には、楽団名は“Orchestre de la Musique Royale des Guides”とか“Musique Royale des Guides”と云うようにフランス語で表記されるのが普通だった。だが、1985年にノルベール・ノジがシェフに就任した後、ベルギーのRene Gaillyなど、商業レーベルからCDがリリースされるようになり、その際、インターナショナルなマーケットを意識したためか、英語の楽団名がブックレットを飾るようになった。

それは、最初期には“The Great Harmony Orchestra of the Belgian Guides”。ついで“Symphonic Band of the Belgian Guides”となり、やがて“ベルギー王国”の楽団であることを示すため、頭に“Royal”を付けて“The Royal Symphonic Band of the Belgian Guides”と変遷。最終的にこれが通り名となったようだ。

おなじみの“ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団”という日本語の通称は、以上のような過程で、どうしても日本語の楽団名が必要になったとき、外国語に関し多くの教示をいただいていた橘 清三さんと、楽団の由緒や格式を踏まえながら議論を繰り返した結果、生み出されたものだ。

だが、正規の楽団名は、あくまでフランス語である。

その“ギィデ”を訪れたのは、1993年7月3日(土)のことだった。

訪問したのは、筆者に前記2人とヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の4人だった。

ヤンは、交響詩『スパルタクス(Spartacus)』や『プスタ(Puszta)』の世界初演をこの楽団に行なってもらっていたので、ノジとはすでにとても親しい間柄だ。

訪問は、東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピース・シリーズ」第6巻(3枚組)の1枚「ベルリオーズの幻想」(TOCZ-0016)のレコーディングを行なってもらったことに対してのクライアント・サイドからのオフィシャルな表敬だった。

セッションは、3ヵ月前の4月26~30日にヘント(Gent)のステルバウト録音センター(Steurbaut Sound Recording Center)ですでに終えていた。

収録曲は、エクトール・ベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803~1869)のつぎの2曲。

幻想交響曲 作品14
(編曲:A・ジロンス)
Symphonie Fantastique, Op.14
(trans. A. Gironce)

歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ」序曲 作品23
(編曲:ピエール・デュポン)
Benvenuto Cellini, Ouverture, Op.23
(trans. Pierre Dupont)

前話(第54話:ハインツ・フリーセンとの出会い)でお話しした同シリーズの1枚「バッハの世界」(TOCZ-0017)同様、このタイトルもまた、シリーズを統括する佐藤さんと監修者の石上禮男さんから、録音アーティストの選択、演奏者にふさわしい選曲など、企画のすべてを委ねられた1枚だった。

その演奏者に、“ロワイヤル・デ・ギィデ”を選んだのには、いくつか理由があった。

まず、その編成がかつてのギャルド・レピュブリケーヌに由来する完全なフランス式編成であること。

確かに、それは、アメリカ式を採用する現在の日本の吹奏楽編成とは根本的に異なっている。しかし、ヨーロッパの吹奏楽を語るとき、“フランス式の編成”の魅力は、避けては通れないものがあった。

次に、この編成のために書かれた楽譜がフランスを中心に多く出版され、「吹奏楽マスターピース・シリーズ」の企画スタート時、石上さんや佐藤さんが立てた“管弦楽”名作の吹奏楽トランスクリプションを出版楽譜を使って録音するというコンセプトに合致していたこと。

もちろん、アメリカ式の楽器編成に普通使われない多くのサクソルン属金管楽器等をエキストラで入れ、フランスで出版されている楽譜を演奏すること、それ自体は日本でも確かに行なわれてはいた。

しかし、それはいかにも俄作りであり、常時その編成で演奏活動を行なうギィデが培ってきたサウンドとは比べるべくもなかった。

この国では、ワールドワイドな風潮に流されて、何でもかんでもアメリカンナイズされるようなことは起こらない。

いかにも、サクソルン属金管楽器を考案したアドルフ・サックス(Adolphe Sax, 1814~1894)を生み、後につづく者がそれをリスペクトするベルギーならではの話である。

しかし、最初この録音の構想をノジに提案したとき、彼は『これまで、こういった曲を演奏したことがないので…』とあまり乗り気ではなかった。彼の言う“こういった曲”とは、ほぼ『幻想交響曲』のことを意味していた。

また、録音には、ギィデの楽友協会の同意を必要とした。

“ベルギー王国”の王室楽団として、ベルギーの作品の演奏や紹介に力を注いでいる“ギィデ”としては、たとえ世界的大作曲家のベルリオーズの作品と言えども、1枚のCDを“フランスの曲”だけで録音してしまうということは、楽友協会の同意を得る上でも、いささかハードルが高い様子だった。

しかし、そこは音楽家。

その後も粘り強く、手を変え品を変えて“録音の意義”を繰り返し説いている内、音楽的興味がフツフツと湧いてきたらしく、頑固な彼もついに折れてくれ、楽友協会の同意も取り付けてくれた。

そして、やると決めた以上、彼は徹底していた。

フランスから2種類のトランスクリプションを取り寄せて徹底比較した結果、A・ジロンスを採用。さらに、不足を感じた部分にはオプションを加えた。日本では珍しいサリュソフォンが使われているのも、その成果である。

楽団を訪れたとき、ちょうど、オランダ、ケルクラーデ(Kerkrade)のロダハル(Rodahal)で開催されていた“世界音楽コンクール1993(Wereld Muziek Concours 1993)”の7月12日(月)のガラ・コンサートで演奏する曲のリハーサルが行われていた。

曲目は、ショスタコーヴィチの『交響曲第13番』作品113の全曲!!

もちろん、指揮もトランスもノルベール・ノジ!

その合奏後、ノジは、ほとんどが手書きだという、ものすごい量の楽譜が整然と並べられたライブラリーも見せてくれた。

そして、いつでもすぐに演奏できるという。

このときはじめて、とんでもない相手にレコーディングをオファーしたことに気がついた!

▲「ベルリオーズの幻想」録音風景(Steurbaut Sound Recording Center)(Photo:Frank De Mudler)

▲レコーディング編成表

▲世界音楽コンクール1993プログラム表紙

▲▼1993年7月12日、ケルクラーデ、ロダハルにおけるプログラム

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い

▲CD – Masterpieces For Band 5 – Music by French Composers(蘭Molenaar、MBCD 31.1019.72、リリース:1991)

▲CD – バッハの世界(東芝EMI、TOCZ-0017、リリース:1993)

▲同、ブックレット掲載のプロフィール頁とサイン

▲アムステルダム・ウィンド・オーケストラ録音編成リスト

オランダの指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)との出会いは、1993年6月28日(月)、アムステルダムの北、車で30分位のヴォルメルフェール(Wormerveer)という閑静な町の教会“モルヘンステルケルク”においてだった。

フリーセン指揮のレコードは、日本でも、1968年にコロムビアからリリースされていたので、彼の名前は早くからマークしていた。しかし、実際に会うのは、この日が初めてだ。

教会名の“モルヘンステルケルク(Morgensterkerk)”は、オランダ語の3つの単語、“モルヘン(朝)”、“ステル(星)”、“ケルク(教会)”を組み合わせたもので、英語では“モーニング・スター・チャーチ”と訳せる。車で連れていってくれたクラリネット奏者二ーク・ヴェインス(Niek Wijns)が由緒由来を記す銘板を英訳してくれたが、その説明に従うと、それは“朝に輝く星の光の教会”という意味だとわかった。

説明に頷きながらも、教会に入るため、献金箱にコインを入れる。

この日、そこでは、東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピース・シリーズ 第6集」に含まれる「バッハの世界」(TOCZ-0017)のセッションに向けてのリハーサルがあった。

演奏者は、フリーセン指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)である。

「吹奏楽マスターピース・シリーズ」は、石上禮男さんの監修・構成で、1990年に企画がスタートした。企画当初のシリーズ名は、“マスターピース”ではなく“マスターワーク”だったが、シリーズを統括する東芝EMIの佐藤方紀さんの調査で、コロムビアが“Masterworks”を商標登録していることが判明したため、“マスターピース”に変更された経緯がある。

シリーズは、主に管弦楽作品のトランスクリプションを、既出版の楽譜を使って新たに録音するというコンセプトで、3枚組ボックスで全10集、すなわち合計30枚のCDを制作するものだった。

筆者は、石上さんから指名を受け、1991年1月27日発売の第1集(東芝EMI、TOCZ-0001~3)からシリーズ完結までの楽曲解説を担った。

当初、シリーズは、東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラ、大阪市音楽団の3楽団が録音した各1枚を3枚セットのボックスに組むスタイルでスタート。第1集、第2集(TOCZ-0004~6)、第3集(TOCZ-0007~9)までの9枚は、この3楽団のコンビネーションで制作された。

しかし、その後、石上さんの発案で、第4集(TOCZ-0010~12)と第5集(TOCZ-0013~15)の6枚は、アメリカの大学バンドに録音が依頼されることになった。

また、その時点で、ちょうどシリーズの折り返し点ということから、東京の東芝EMI本社の会議に呼び出された筆者は、席上、佐藤さんと石上さんから、『アメリカの後はヨーロッパでいきたいと考えています。そのプランニングをお任せしたいので、企画を立てて下さい。』と言われ、第6集の3枚のCDの演奏者と曲目の選定を委ねられた。

「バッハの世界」は、その中の1枚だった。

演奏者の選択で、オランダのアムステルダム・ウィンド・オーケストラに白羽の矢を立てたのには、いくつか理由がある。

まず、ロッテルダム・フィルの元ソロ・オーボエ奏者で、オーケストラ指揮者として活躍し、ウィンドオーケストラの世界でも燦然たる実績を誇るハインツ・フリーセンが音楽監督兼常任指揮者をつとめていること。

つぎに、1988年創立の歴史の浅い楽団だが、ヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語』を収録したデビュー・アルバム「The Amsterdam Wind Orchestra」(CD:JE Classics、900101 CD、リリース:1990)や、エドゥアール・ラロ(Edouard Lalo)の歌劇『イスの王様』序曲やモーリス・ラヴェル(Maurice Ravel)の『亡き王女のためのパヴァーヌ』など、フランスの作曲家のクラシックの名曲を入れた「Masterpieces For Band 5 – Music by French Composers」(CD:Molenaar、MBCD 31.1019.72、リリース:1991)など、それまでにリリースされたCDのクオリティが並はずれて高かったこと。

楽器編成が、我々日本と同じ、アメリカ式編成であること。

オランダの町々の教会には、すばらしいパイプオルガンがあり、プレイヤーは、幼い頃から、バッハなどの教会音楽に親しんでいること。

決定的だったのは、アムステルダム・ウィンド・オーケストラがいつも録音に使っているのが、“教会”だったことだ。

バッハを吹奏楽で録音するなら、これほど好条件が整うタイミングはなかった!

この筆者の私案は、石上さんがここまで監修されてきたシリーズ構成とは、若干嗜好が違ったかも知れない。しかし、下記の曲名を書き込んだプランに目を通した佐藤さんと石上さんの二人には、まったく異論がなかった。

・トッカータとフーガ ニ短調 BWV.565
(編曲:ピエール・デュポン)
Toccata und Fuge BWV.565 (Trans. Pierre Dupont)

・フーガ ト短調(小フーガ) BWV.578
(編曲:木村吉宏)
Fuge BWV.578(Trans. Yoshihiro Kimura)

・幻想曲とフーガ ト短調 BWV.542
(編曲:ジョーゼフ・ホロヴィッツ)
Fantasie und Fuge BWV.542(Trans. Joseph Horovitz)

・カンタータ第147番より“主よ、人の望みの喜びよ” 
(編曲:アルフレッド・リード)
“Wohl mir dab ich Jesum hade” from CANTATA BWV.147
(Trans. Alfred Reed)

・幻想曲 ト長調 BWV.572
(編曲:リチャード・F・ゴールドマン、ロバート・L・リースト)
Fantasie BWV.572
(Trans. Richard F. Goldman, Robert L. Leist)

・カンタータ第161番より“来たれ、甘き死のときよ”
(編曲:アルフレッド・リード)
“Komm, du susse Todesstunde” from CANTATA BWV.161
(Trans. Alfred Reed)

・パッサカリアとフーガ ハ短調 BWV.582
(編曲:木村吉宏)
Passacaglia BWV.582(Trans. Yoshihiro Kimura)

アムステルダム・ウィンド・オーケストラのセッションは、つぎのように組まれていた。

6月21日(月):リハーサル(合奏:約3時間)
6月22日(火):リハーサル(合奏:約3時間)
6月28日(月):リハーサル(合奏:約3時間)
6月29日(火):リハーサル(合奏:約3時間)
6月30日(水):レコーディング(午前9時30分~)
7月 1日(木):レコーディング(午前9時30分~)

エグゼクティブ・プロデューサー:佐藤方紀(東芝EMI)
プロデューサー:ヤン・デハーン(Jan de Haan)
録音エンジニア:エルネスト・スケールデル(Ernest Scheerder)

この楽団では、4時間(実演奏:3時間)を1コマと考えているようで、セッションも1日あたり2コマが予定されていた。

筆者が訪れたのは、3度目のリハーサルの朝だった。

その日、“モルヘンステルケルク”では、すでに奏者のウォーミング・アップが始まっていた。早速マネージャー氏と挨拶を交わし、立ち会いの許可をとる。

やがて現われたマエストロが、挨拶もそこそこにタクトを振り下ろすと、まるで備え付けのパイプオルガンが鳴りだしたのではないかと錯覚を覚えそうな豊潤なサウンドが教会の空間一杯に広がった。

さすがは、オランダのウィンド・ミュージックの第一任者フリーセンだ。

四角四面の音楽ではなく、伸びたり縮んだりの“自然な緊張と緩和”とでも表現したらいいのか。それは、とても優雅なタクトで、音楽の揺れがとても心地いい。

プレイヤーからのリスペクトも絶大で、彼が合奏の合間にときおり繰り出すユーモア(オランダ語なんで、こっちにはさっぱりわからなかったが…)にも、笑顔が爆発する。

本当にいい音楽グループだ!

リハ終了後に軽食に誘われ、完全に意気投合!

そこからのセッション終了までの4日間は、まるで夢心地の毎日だった。

セッションは、初日、『パッサカリアとフーガ』『来たれ、甘き死のときよ』『フーガ ト短調(小フーガ)』『幻想曲 ト長調』『主よ、人の望みの喜びよ』と進み、2日目は、
『幻想曲とフーガ』『トッカータとフーガ』で録音完了。

別れ際、マエストロからコーヒーをごちそうになったとき、この間ずっと頭の中をよぎっていたことが思わず口をついた。

『日本に来られる気持ちはありますか?』

満面の笑みのマエストロは、間髪を入れず、手招きをして、こう切り返してきた!

『コントラクト(契約書)を!』

そのやりとりのあまりのテンポの良さに、2人は大爆笑!!

周囲を巻き込んだ笑いの渦の中、『じゃあ、待ってて下さい。』と会話をしめたが、帰国後、それが本当に現実になるとは、このときは夢にも思っていなかった!!

 ▲録音会場のMorgensterkerk

▲セッション風景1

▲セッション風景2

8▲録音をチェックするヤン・デハーンとハインツ・フリーセン

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第53話 フェネル:ピース オブ マインド

▲CD – ピース オブ マインド(佼成出版社、KOCD-3569)

▲フレデリック・フェネル(1991年10月、パルテノン多摩)

▲フェネルから送られてきたリハーサル進行の指図メモ

▲レコーディング進行表

『今、同じ時代に生きる作曲家の作品をレコーディングすることが、とても重要なことなんだ。』

1991年10月24日(木)~25日(金)、東京・多摩丘陵にあるパルテノン多摩大ホールで行なわれた東京佼成ウインドオーケストラのCD「ピース オブ マインド(Piece of Mind – Contemporary Mix)」(佼成出版社、KOCD-3569)のレコーディング・セッション直前、フレデリック・フェネル(Dr. Frederick Fennell)が、笑みを浮かべながら筆者に語りかけたひと言だ!

この時、マエストロは、すでに77歳。しかし、その目は、まるで若者のようにキラキラと輝き、全身にエネルギーが漲っているようだった。

フレデリック・フェネルが、東京佼成ウインドオーケストラの招きに応じ、初の客演指揮を行なったのは、1982年3月。このセッションから遡ること9年前のことだった。

この年、初顔合わせのフェネルは、まず、3月23日(火)~24日(水)、普門館で、アルバム「フレデリック・フェネル & 東京佼成ウィンド・オーケストラ」(佼成出版社、KOR-8103、LP)をレコーディング。ついで、3月28日(日)、新宿文化センター大ホールにおける第30回定期演奏会のタクトをとった。

そして、フェネルの十八番ともいうべき、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『交響組曲(Symphonic Suite)』やヴァーツラフ・ネリベル(Vaclav Nelhybel)の『交響的断章(Symphonic Movement)』、ジョン・バーンズ・チャンス(John Barnes Chance)の『朝鮮民謡による変奏曲(Variations on a Korean Folk Song)』など、アメリカのオリジナル作品を中心に収録されたアルバムは、たいへんな話題作となった。

その後、1984年に東京佼成ウインドオーケストラの常任指揮者に就任。

佼成出版社との間で精力的な録音活動をスタートさせ、<F・フェネルのウィンド・アンサンブル・シリーズ(Fennell’s Wind Ensemble Series)>と題する、以下のようなLPレコード計8タイトルを短期間に録音した。

・ファンファーレとアレグロ 
(LP:KOR-8411 / 録音:1984年3月24~25日、普門館)

・ベル・オブ・ザ・ボール
(LP:KOR-8412 / 録音:1984年12月19~20日、普門館)

・セレナータ
(LP:KOR-8413 / 録音:1984年12月19~20日、普門館)

・メキシコの祭り
(LP:KOR-8414 / 録音:1985年3月19~20日、普門館)

・トッカータとフーガ
(LP:KOR-8415 / 録音:1985年9月25~26日、普門館)

・パリのアメリカ人
(LP:KOR-8416 / 録音:1986年4月23~24日、普門館)

・海を越える握手
(LP:KOR-8417 / 録音:1986年4月23~24日、普門館)

・リンカーンシャーの花束
(LP:KOR-8418 / 録音:1986年10月22~23日、普門館)

1987年からは、<F・フェネル・シリーズ(F・Fシリーズ)>とシリーズ名をあらためて下記のCDを録音。既発売の前記9タイトルのLPレコードも順次CD化された。

・シンフォニック・ソング
AMERICAN BAND CLASSICS
(CD:KOCD-3562 / 録音:1987年3月24~25日、普門館)

・イギリス民謡組曲
BRITISH BAND CLASSICS
(CD:KOCD-3563 / 録音:1987年11月24~25日、普門館)

・蒼き波の上のバッカス
EUROPEAN BAND REPERTOIRE
(CD:KOCD-3564 / 録音:1988年12月6~7日、パルテノン多摩)

・火の鳥/展覧会の絵
CLASSICS ARRANGED FOR BAND
(CD:KOCD-3565 / 録音:1989年10月23~24日、パルテノン多摩)

・ペール・ギュント
CONCERT REPERTOIRE 1
(CD:KOCD-3566 / 録音:1990年4月12~13日、新座市民会館)

・モーツァルト
GREAT WIND SERENADES
(CD:KOCD-3567 / 録音:1990年10月30~31日、IMAホール)

・ハンガリー狂詩曲
CONCERT REPERTOIRE 2
(CD:KOCD-3568 / 録音:1991年4月11~12日、パルテノン多摩)

また、同じ時期、コンサートのライヴ録音から作られていた<T.K.W.O.コンサート・シリーズ>にも、以下のようなフェネル指揮盤2タイトルを見い出すことができる。

・ロメオとジュリエット
(CD:KOCD-3311 / ライヴ収録:1986年11月28日、第39回定期演奏会、新宿文化センター / 1987年3月21日、第40回定期演奏会、新宿文化センター)

・第一狂詩曲
(CD:KOCD-3133 / ライヴ収録:1989年12月10日、Nonaka Special Concert、前田ホール)

佼成出版社は、「ピース オブ マインド」以前に、すでに18タイトルのフェネル指揮のアルバムをリリースしていたことになる。

そして、筆者も、同社の企画責任者、柴田輝吉さんから招かれ、「ペール・ギュント」以降、しばしばフェネル企画にかかわることになった。

話をアルバム「ピース オブ マインド」に戻そう。

最初、フェネルから、このアルバムのアイデアが柴田さんに持ち込まれたとき、彼は提案に“CONTEMPORARY MIX(コンテンポラリー・ミックス)”という英語タイトルを添えて提示している。

当時、佼成出版社からリリースされるアルバムのメイン・タイトルには、ごく初期の数タイトルを除いて、すべて曲名があてがわれていた。このため、我々には、この“コンテンポラリー・ミックス”が、まるでサブ・タイトルのように映る。

しかし、フェネルにとって、この英語タイトルこそ、彼のアルバム・コンセプトを表す最も重要なメッセージだった。

振り返ると、<F・フェネルのウィンド・アンサンブル・シリーズ>のLPアルバム当時も、共通英題として“The Heart of the Wind Ensemble(ウィンド・アンサンブルの心)”という文字がジャケットに印刷されていた。

しかし、アルバム制作がCDになって以降、フェネルは、曲名によるアルバム・タイトルとは別に、アルバムごとの英題をつけることも希望するようになった。

米マーキュリー(Mercury)時代の各アルバム・タイトルと同様に。

フェネルのそんな思いの込められたアルバム「ピース オブ マインド」には、つぎの6曲が収録された。

・ウィンド・アンサンブルのための「ピース・オブ・マインド」
(ダナ・ウィルソン)
Piece of mnd for Wind Ensemble(Dana Wilson)

・管楽器と打楽器のための「情景」
(ヴァ―ン・レイノルズ)
Sceans for Wind Instruments and Percussion(Verne Reynolds)

・舞踏組曲 
(ジョーゼフ・ホロヴィッツ)
Dance Suite(Joseph Horovitz)

・シンフォニック・ウィンド・アンサンブルのための
「シンフォニア 第4番」 
(ウォルター・S・ハートリー)
Sinfonietta No.4 for Symphonic Wind Ensemble
(Walter S. Hartley)

・吹奏楽のための「射影の遺跡」 
(河出智希)
Stones in Time(Tomoki Kawade)

・冬の始まりのための「モーニング・アレルヤ」 
(ロン・ネルソン)
Morning Alleluias for the Winter Solstice(Ron Nelson)

これら6曲で構成されるこのアルバムからは、第52話「ウィンド・アンサンブルの原点」でお話ししたフェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル初のアルバム「アメリカン・コンサート・バンド・マスターピーシーズ(American Concert Band Masterpieces)」(LP:米Mercury、MG40006、モノラル、1953年録音)と同じテイストのアグレッシブな選曲コンセプトが感じられる。

英語の“コンテンポラリー”には、“同時代の”とか“当今の”“現代の”という意味がある。音楽の世界では、しばしば“現代音楽”の代名詞としても使われる。

アルバムには、様々な現代性を見せる多彩な作品が収録された。

まずは、スーザ財団の“サドラ―賞1988”とアメリカン・バンドマスターズ・アソシエ―ション(ABA)の“オストウォルド賞1988”をダブル受賞した、当時の超注目曲、ダナ・ウィルソンの『ピース・オブ・マインド』。

それまで作品委嘱などしたことがなかったフェネルが、1988年11月の演奏旅行で宿泊した広島のホテルの部屋に差し込んできた眩いばかりの朝日で目覚めたときのすばらしい感動を、イーストマン音楽学校出身の作曲家ロン・ネルソンに直接会って話して委嘱。1989年5月14日(日)、中国家庭教育研究所が主催した「東京佼成ウインドオーケストラ広島特別演奏会」(広島厚生年金会館)で“広島市民に捧げる曲(For the people of Hiroshima – The piece dedicated for the people of Hiroshima)”という曲名でプログラムを飾り、フェネルの指揮で初演された『冬の始まりのための“モーニング・アレルヤ”』。

そして、1989年の東京佼成WO初のヨーロッパ公演(参照:第41話「フランス組曲」と「ドラゴンの年」)後、楽団がヨーロッパの作曲家3人に作品委嘱をした中で、もっとも早く完成し、1991年4月20日(土)、オーチャードホール(東京)における第46回定期演奏会でフェネルの指揮で初演されたジョーゼフ・ホロヴィッツの『舞踏組曲』。

これらに、ヴァ―ン・レイノルズ、ウォルター・S・ハートリー、河出智希の3作を加えたアルバム「ピース オブ マインド」は、正しく現代ウィンド・ミュージックの粋を集めたアルバムとなった。

こういうアルバムこそ、ウィンド・アンサンブルの提唱者フェネルにはふさわしい!

収録後のフェネルの充足感あふれる顔!

筆者にとっても、想い出深き1枚となった。

 ▲ネルソン「モーニング・アレルヤ」録音シーン(1991年10月24日、パルテノン多摩)

▲1991年11月12日の日付とフェネルのサインが入った曲順決定のメモ

 ▲「モーニング・アレルヤ」が初演された広島特別演奏会プログラム

▲同、曲目(当日、実際には曲順変更があった)

 ▲同、プログラムに掲載されたフェネルとネルソンのメッセージ

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第52話 ウィンド・アンサンブルの原点

 ▲Roger E. Rickson著、ffortissimo – A Bio-Discography of Frederick Fennell – the first forty years 1953 to 1993(Ludwig Music/ 出版:1993)

 ▲同、自筆サイン

▲LP – American Concert Band Masterpieces(米Mercury、MG 40006)(初回盤)]

佼成出版社の音楽出版室が、録音や制作から完全に撤退してから、かなりの時が流れた。

新しいものを広く発信しようとする意欲に燃えた彼らがリリースした東京佼成ウインドオーケストラ等のレコードやCDが、日本の、いや全世界のウィンド・ミュージックに及ぼしたプレゼンス、そして音楽界全体への貢献は、ちょっと簡単に比較対象が見つからないほど、大きなものだった。

彼らは、また、1枚1枚のレコードやCDを“作品”と位置付け、とても大切に扱ってきた。完全撤退後、配信だけが残されたとき、それは“127作品”という途方もない数字に達していた。

誰かがもう一度やろうと試みたとしても、およそ再現不可能な、わが国吹奏楽レコード史上空前絶後の金字塔だったわけだ!

第47話「ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動」でお話ししたように、佼成出版社が制作した東京佼成ウインドオーケストラのレコーディングは、基本的に2つの制作方針にもとづいて作られていた。

1つが、常任指揮者など、楽団サイドからの希望や提案で制作されたもの。

もう1つが、客演指揮者を起用する“ゲスト・コンダクター”シリーズだった。

1989年、東京佼成ウインドオーケストラ初の海外録音としてリリースされた2枚のCDなら、常任指揮者のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)が指揮した「フランス組曲」(佼成出版社、KOCD-3101)が前者、エリック・バンクス(Eric Banks)の客演指揮による「ドラゴンの年」(同、KOCD-3102)が後者に当たる。

この2タイトルの制作過程は、第41話「フランス組曲」と「ドラゴンの年」、でお話ししたとおりだ。

その後、佼成出版社では、常任指揮者フェネルが指揮したCDだけは、他とは一線を画して“ffシリーズ”と呼ばれるようになった。フェネルに対するリスペクトから、彼の名前のイニシャルからとったネーミングだった。

フレデリック・フェネル(1914~2004)は、エドウィン・フランコ・ゴールドマン(Edwin Franko Goldman)やリチャード・フランコ・ゴールドマン(Richard Franko Goldman)、モートン・グールド(Morton Gould)、ウィリアム・D・レヴェリ(William D. Revelli)、A・オースティン・ハーディング(A. Austin Harding)、マーク・ハインズリー(Mark Hindsley)、ハリー・ビジオン(Harry Begian)、レナード・ファルコーニ(Leonard Falcone)らと並び称される、20世紀アメリカのウィンド・ミュージックに大いなる足跡を残した指導者、指揮者の1人である。

この内、フェネルの音楽的功績を最も特徴づけているのは、1952年、米ニューヨーク州ロチェスターにあるイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)に、世界初のウィンド・アンサンブルとなった“イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)”を誕生させ、多くの作曲家たちにこの新しい合奏体のために新作を書いて欲しいと手紙を差し出したこと。その後、アメリカのマーキュリー・レーベル(Mercury)に合計22タイトルのLPレコードをレコーディングしたことだった。

イーストマン音楽学校は、ロチェスターの地に1850年に創立された私立大学、ロチェスター大学(University of Rochester)の音楽専門学校だ。1921年、ロール・フィルムの発明者、そして、フィルム・メーカーであるイーストマン・コダックの創業者として知られるジョージ・イーストマン(1854~1932)の私財で創設された。日本流に考えると“大学の音楽学部”あるいは“音楽大学”にあたる存在ながら、大学から独立した名前が冠せられているのには、創設時のこうした経緯による。

音楽とはまったく関係のない話ながら、ロチェスター大学の医歯学部を創設したのもジョージ・イーストマンだった。

さて、フェネルのウィンド・アンサンブルの着想は、かいつまんで説明するなら、この種の管楽の音楽を演奏する場合、最大編成でやるより、最少の編成でやる方がより効果が上がるという観点から、クラリネット以外は、作曲家がスコアに書いたパートを各1人のプレイヤーで演奏させるというスタンスのものだった。これは、およそ、シンフォニー・オーケストラの管楽器セクションをそっくり取り出し、クラリネットだけを重複させた姿の合奏体だった。

無論、このアンサンブルを実現するためには、各奏者にソロイスト級の実力があることが前提としてあった。

イーストマン・ウィンド・アンサンブルのメンバーは、選抜されたイーストマン音楽学校の学生で構成された。

フェネルが、この新しいグループに、伝統的な“バンド”という呼び方ではなく、“ウィンド・アンサンブル”という呼称を使ったのは、内外にひじょうに鮮烈な印象を与えた。

イーストマン・ウィンド・アンサンブルの最初のレコードは、1953年5月14日、イーストマン音楽学校のイーストマン劇場で収録された「アメリカン・コンサート・バンド・マスターピーシーズ(American Concert Band Masterpieces)」(米Mercury、MG40006、モノラル録音、30cm LP)というアルバムだった。

収録されたレパートリーは、以下の各曲だった。

・ジョージ・ワシントン・ブリッジ  
(ウィリアム・シューマン)
George Washington Bridge(William Schumann)

・ディヴェルティメント・フォー・バンド
(ヴィンセント・パーシケッティ)
Divertiment for Band(Vincent Persichetti)

・バラード・フォー・バンド
(モートン・グールド)
Ballad for Band (Morton Gould)

・古いアメリカン・ダンスによる組曲
(ロバート・ラッセル・ベネット)
Suite of Old American Dances(Robert Russell Bennett)

・タンブリッジ・フェア
(ウォルター・ピストン)
Tunbridge Fair (Walter Piston)

・コマンド・マーチ
(サミュエル・バーバー)
Commando March(Samuel Barber)

佼成出版社のレコーディングで泊ったホテルで、フェネル夫妻と朝食をご一緒し、このアルバムのことやウィンド・アンサンブルについて話す機会があった。

1991年10月25日(金)、京王プラザホテル多摩でのことだ。

短い時間ながら、いろいろな話ができたが、“アメリカでリリースされたオリジナル・マーキュリー盤をすべて持っている”と話す筆者に、『あら、この人あなたのお得意さんじゃないの。』というエリザベス夫人(“ブラザー・ベティ”のニックネームで知られた音楽出版社Ludwigの社長)の反応に、フェネルもご機嫌で、録音やウィンド・アンサンブルの話をしてくれた。

その多くは、イーストマンに学んだ秋山紀夫さんや三浦 徹さんが雑誌記事や解説の中で紹介されてきたことで、すでに知識にあったことばかりだったが、それをあらためてフェネルの口から直接聞けたことは、本当に大きな収穫だった。

その際、ちょっと不躾かなとも思いながらも、若気の至りで突っ込んだ質問もしてみた。

“イーストマン後、日本では、あなたが提唱したコンセプトとはまるで異なる名ばかりの“ウィンド・アンサンブル”だらけで、少々ガッカリしているんですが…”と言う筆者に、『そんなにガッカリすることはない。世界には、オランダ・ウィンド・アンサンブル(Netherlands Wind Ensemble)のようなグループも出てきたし..。』と、かつて彼が提唱した“ウィンド・アンサンブル”が、管楽合奏の世界に確かな変革をもたらしたことを優しい口調で語ってくれた。

米マーキュリーが、フェネルが指揮した世界初のウィンド・アンサンブルのアルバム「American Concert Band Masterpieces」をリリースした時代は、LPレコードが登場して間もない頃だった。

当然、カッティングやプレス技術、さらには写真のカラー印刷技術も日進月歩で改良が進んだ。マーキュリーもそれらをいち早く取り入れて規格を変更。「American Concert Band Masterpieces」も、ジャケットをハドソン川にかかる有名な吊り橋“ジョージ・ワシントン・ブリッジ”のカラー写真に変更して再リリース(米Mercury、MG 50079)された。

1961年にマーキュリー・レーベルがオランダのフィリップス(Philips)に買収されると、マスターもすべてオランダへと渡ったため、しばらくマーケットから姿を消したが、その後、オランダ・フィリップスの技術で電気的に疑似ステレオ化されたオランダ・プレスが登場。マーキュリー・ゴールデン・インポーツ盤(Mercury Golden Imports、SRI 75086)として、アメリカへ逆輸入された。

日本では、イーストマン・ウィンド・アンサンブルのレコードは、最初、キングから登場。1961年以降は、日本ビクターからリリースされたが、当初はレコード会社好みの“景気のいい派手な演奏をするマーチ・アーティスト”の扱いだったので、1968年までマーチ以外のレコードは一切発売されなかった。

結局、「バンド・コンサート珠玉集」というタイトルでこのアルバムがリリース(Mercry、PC-1621(M))、モノラル)されたのは、マーキュリーのレーベル契約が1970年に日本フォノグラムに移行した後の、1975年のことだった。

1953年のレコーディング後、22年後の出来事である。

▲Mercury、MG-40006 A面レーベル

▲Mercury、MG-40006 B面レーベル

 ▲LP – American Concert Band Masterpieces(米Mercury、MG 50079)(再発盤)

 ▲LP – American Concert Band Masterpieces(Mercury – Golden Imports、SRI 75086)(オランダ・プレス/疑似ステレオ)

 ▲LP – バンド・コンサート珠玉集(Mercury(日本フォノグラム)、PC-1621、モノラル)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第51話 ト―マス・ドス「アインシュタイン」の事件簿

▲トーマス・ドスと鈴木孝佳(撮影:関戸基敬)

▲世界初演予告記事(2017年10月19日、Osttiroler Bote紙)

オーストリアの作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)の『アインシュタイン(Einstein)』が日本初演されたのは、2018年6月15日(金)、東京・杉並公会堂大ホールで開催された「タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会」においてだった。

アメリカで活躍する同WSの音楽監督、鈴木孝佳さんが世界中から送られてくる新作のスコアに目を通していた時、『これは面白い!ぜひ、定期で取り上げましょう!』と言われたのがきっかけだった。

相対性理論などを発表し、世の中の常識をひっくり返したドイツ生まれの理論物理学者アルベルト・アインシュタイン(1879~1955)をテーマに書かれた作品だ。

トーマスの近年の作品は、ハル・レナードMGB(2018年7月、ハル・レナード・ヨーロッパに改称)グループのインプリントの1つ、ミトローパ(Mitropa)ミュージックから出版される。

しかし、『アインシュタイン』は、2017年10月28日(土)、オーストリアの東チロル(オストチロル)地方の中心都市リエンツ(Lienz)のシュタッツザール・リエンツ(Stadtsaal Lienz)で、ルカス・ホフマン(Lukas Hoffman)指揮、ウィンドフィルハーモニー・オストチロル(Blaserphilharmonie Osttirol)の演奏で世界初演が行われたばかりの作品だった。

当然ながら、未出版!!

ここからが、鈴木さんのワールドワイドな人脈がものを言う!

鈴木さんと同出版社の音楽部門の責任者ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)は、旧知の間柄だ。

プロフェッショルとして互いにリスペクトし合い、実際に東京でタッド・ウインドシンフォニーの演奏を聴いているベンに鈴木さんの意向が伝わると、たいへんな喜びようで、とんとん拍子で話がまとまった。

鈴木さんもベンも、もともとオーケストラのトロンボーン奏者だ。何かと馬が合う!

ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の『いにしえの時から(From Ancient Times)』や『オスティナーティ(Ostinati)』の両ウィンドオーケストラ版の世界初演。フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の交響曲第2番『サヴァンナ・シンフォニー(Symphony No.2 – A Savannah Symphony)』や交響曲第3番『カラー・シンフォニー(Symphony No.3 – A Colour Symphony)』の日本初演。フランコ・チェザリーニ(Franco Cesarini)の交響曲第1番『アークエンジェルズ(Symphony No.1 – The Archangels)』の日本初演など、まだ手垢がついていない出版前の作品の日本における初演奏をことごとく成功させてきた鈴木さんとタッド・ウインドシンフォニーに対するベンの信頼は絶大だった。

逆に、ベンの方から『この曲が気に入っているんだけど…』と送られてきたスコアを鈴木さんがとり上げたケースもあった。2017年6月9日(金)、ティアラこうとう大ホール(東京)で開催されたタッド第24回定期演奏会で日本初演されたトーマスの『フェスティヴァル・ベルズ(Festival Bells)』がそれだ。

以降、トーマス・ドスは、間違いなく鈴木さんのお気に入り作曲家の1人となった。

そうこうする内、ベンの方から『トーマスが“まだ日本に行ったことが無い”と言っている。渡航費はこちらで持つので、受け入れてもらえるだろうか?』と問い合わせが入った。

鈴木さんに打診すると、『どうぞお越し下さい。』と速攻の返信があり、あっと言う間に初来日決定!!

こうして、作曲者とコラボレーションによる『アインシュタイン』の日本初演の舞台が整った!

しかし、その後、何だか雲行きがあやしくなった。

なかなかパート譜が来ないのである。

鈴木さんはすでにスコアを持っているので問題ない。しかし、パート譜が届かないことには、プレイヤー・サイドはなんともならない。

前話(第50話:トーマス・ドスがやってきた)でお話ししたとおり、タッド・ウインドシンフォニーは、プロフェッショナル・プレイヤーのセルフ・オーガナイズで成り立っているウィンドオーケストラだ。普段は、オーケストラやミュージカル、スタジオなど、各プレイヤーがまったく別々の現場で演奏活動を行なっているだけに、全員が揃っての合奏は、演奏会前2~3日になってからになる。

パート譜はできるだけ早く送達されねばならなかった。

この時、思わず、2010年6月にこの楽団がヤンの『いにしえの時から』のウィンドオケ版世界初演に取り組んだときの悪夢が脳裏に甦った。ヤンが書き直しやチェックを何度も繰り返したため、全員にパート譜が行き渡ったのは、なんと5月半ばになってしまったのだ!

筆者は、ヤンのマネージャーなどではないが、このときばかりは、グレード6超えの未知の難曲に真正面から取り組んだプレイヤー各位に頭が下がる思いがした。

今回は、そうはなってはいけなかった。

そこで、ベンに状況を訊ねると、予期しない返答が返ってきた!

英国にあるアインシュタイン・ソサエティが“Einstein”と印刷された商業出版物、つまり楽譜に対して、想定をはるかに上回る“商標権”使用料をふっかけてきたのだという!

人名に“商標権”が設定されてるなんてはじめて聞いた!!

しかし、第2話「トーマス・ドス“白雪姫”騒動記」でお話ししたように、ディズニーとの間で商標権問題に発展し、一度は『白雪姫(Snow White)』として出版し、ヒットしていた楽曲を絶版にし、『プリンセスの物語(A Pricess’s Tale)』とタイトルを変更して再出版するはめになった出版社は、慎重だった。

日本滞在中のトーマスにこの“白雪姫”の話題をふると、『それは、ボクのミスではない。曲は、グリム童話のドイツ語のタイトル“Schneewittchen”(もちろん、日本語訳は“白雪姫”)で書いたのだから…。』と、何でも英語タイトルで楽譜を出版したがる出版社の責任だと言いたげだった。

そう言えば、ヤン・ヴァンデルローストの『むかしむかし…(ES WAR EINMAL…)』(第34話参照)のスコアに“ONCE UPON A TIME…”という英語訳タイトルを副題のように印刷したことでもディズニーと揉めていると聞いた。

その後、ベンは“こんなタイトルではどうだろうか?”と、何度か筆者に意見を求めてきた。

しかし、そのいずれもが“事なかれ”調で、曲名として“インパクトがない”と感じた。

そこで、『とても弱いタイトルだと思う!!そんなことより、キミはまずソサエティと戦うべきだ!!』と返した。

同時に『ところで、この曲は演奏してもいいのか否か?  ボクが思うに、この曲は、“アインシュタイン”というタイトルで一度オーストリアで演奏されている。そのときは、商品となる前のマニュスクリプト(手書き状態の意味)だった。ということは、同じマニュスクリプトを使うなら、ソサエティは何も言えないはずだが、どうだろうか。』とも続けた。

ベンはすぐにトーマスと話し合ってくれ、商品ではないマニュスクリプトを使うなら、演奏に何ら問題なし、との結論を導き出してくれた。作品は、あくまで作曲家のもの、という考え方だ。

よーし!

『アインシュタイン』という曲名での演奏は、これが最後になる可能性はまだ残るが、今度の演奏は、ひとまずこれでOKだ!

その後、ベンはソサエティと激しいバトルを繰り返し、先方はかなり折れてきたそうだ。

なんでもトライすべきだ!!

タッドWSの『アインシュタイン』日本初演は、杉並公会堂を大きく沸かせた!!

これは、日本初演と出版に至るバックステージのストーリーである!

▼タッドWS第25回定期演奏会から(2018年6月15日、杉並公会堂)(撮影:関戸基敬)

▼タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会 – プログラム

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第50話 トーマス・ドスがやってきた

▲ トーマス・ドス(2018年6月14日、府中の森芸術劇場ウィーンホール)

『ディアー・ユキヒロ。

今、リンツからフランクフルトへのフライトが遅延するという案内が掲示された…。

現時点では、遅延がどのくらいになるのかわからない。

最悪の場合、東京へは、予定より後のフライトに乗らざるを得ないかも知れない。』

オーストリア時間、2018年6月12日(火)14時11分(日本時間、同日21時11分)に、作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)が、同国リンツの空港から筆者にあてた緊急メールだった!

リンツは、ウィーンとザルツブルクのほぼ中間に位置し、トーマスが敬愛する作曲家アントン・ブルックナー(Joseph Anto Bruckner, 1824~1896)が埋葬されているザンクト・フロリアン修道院(Augustiner Chorherrenstift Sankt Florian)まで車で約10分、空港までもほぼ同じぐらいのところに彼の家はある。

ドイツ語の“ザンクト・フロリアン(Sankt Florian)”は、英語では“セント・フローリアン(St. Florian)”と表記される。日本でも、ブルックナーに敬意を表した彼の『セント・フローリアン・コラール(St. Florian Choral)』を演奏した人は、多いのではないだろうか。

来日の主目的は、2018年6月15日(金)、杉並公会堂大ホール(東京)で開催された「タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会」で、鈴木孝佳(タッド鈴木)の指揮で日本初演された自作『アインシュタイン(Einstein)』のコラボレーションのためだった。

相対性理論で知られるアルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein、1879~1955)をテーマに書かれた2017年に初演された新作だ。

そして、トーマスにとっては、これが初来日!

6月13日に羽田空港で彼を出迎えるため、上京の準備を進めていた筆者は、直ちにさまざまなケースを想定しながら、対策を練っていく。

彼と共有するタイムテーブルは、こうなっていた

[12th June, 2018]

15:10 PM Depart from Linz – Hoersching Air Port (LNZ)

(Lufthanza LH 1253)

16:15 PM Arrive at Frankfult/Main Int. Air Port (FRA)(Terminal 1)

18:05 PM Depart from Frankfult/Main Int. Air Port (FRA)(Terminal 1)

(Lufthanza LH 716)

[13th June, 2018]

12:15 PM Arrrive at Haneda (Tokyo) Air Port (HND)(International)

予定では、15時10分、ルフトハンザ LH 1253便でオーストリアのリンツを出発し、65分のフライトでドイツのフランクフルトに到着。フランクフルトで、18時05分発、羽田(東京)行の同LH 716便に乗り換えるということになっていた。

フランクフルトでのトランジットのための時間は、1時間50分。リンツの出発が遅れると自動的にこれが短くなるか、タイムオーバーになる。唯一の救いは、両フライトがともにドイツのナショナル・フラッグ・キャリアとされるルフトハンザ機であったことだ。同時に、フランクフルト国際空港はルフトハンザがメインハブ空港としているので、連絡便の遅延によるフランクフルトでの多少の出発調整も期待できる。

ネットで同社サイトを検索すると、リンツからのLH 1253便は、“1時間20分の出発遅延の予定”と表示が出ていた。ギリギリだが、なんとかなるかも知れない。しかし、これ以上遅れるとヤバい。

早速、トーマスへその旨と“フランクフルトからの続報を待つ”とメールを送り、一方でタッド・ウインドシンフォニーの関係者にも事情を伝える。

あまり知られていないが、タッド・ウインドシンフォニーは、参加するプロフェッショナルたちのセルフ・オーガナイズによる自主運営楽団だ。アメリカで活躍する音楽監督の鈴木孝佳(タッド鈴木)さんの日本における私設楽団ではない。このマエストロの指揮で音楽をやりたいという人たちによって成り立っている、とても珍しい形態をとるプロのウィンドオーケストラなのだ。

従って、マネージャーなどいない。

楽団代表は、テューバ奏者の国木伸光さんだ。

幸い、タッドWSは、この時、初日(6月12日)のリハーサルを終え、各プレイヤーは演奏楽曲の感触をすでに掴んでいた。また、その結果を受けて、練習スケジュールをコントロールする演奏委員のオーボエの藪 恵美子さんからも、2日目(6月13日)の練習のタイムテーブルがすでに届いていた。

そこで、日本時間の深夜にしか判明しないトーマスのフライト事情は、演奏委員の藪さんへの返信の中に書き込み、楽団代表や各演奏委員、音楽監督へも藪さんを起点として情報伝達をお願いした。

話を元に戻そう。

ルフトハンザのサイトはおもしろい。飛び立つと、残りどれぐらいで到着するかも含め、表示は刻々変わっていく。注視を続けていると、遅延予告より1分早い16時19分にリンツを飛び立ったLH 1253便は、65分のフライト予定をかなり縮めて17時18分にフランクフルトに滑り込んだ。

これなら、なんとかなるかも知れない。

そう思った瞬間、トーマスからメールが来た。

『ディアー・ユキヒロ。

本当に最後ギリギリのところでうまくいった。

今、(羽田行の)飛行機の座席に座っている。

うまくいけば、私の荷物も載っていると思う。

すぐに会おう。ト―マス』(カッコ内、筆者)

なんと飛行機の中からのメールだ。よーし、これでOK!

荷物が同着しなかった場合を除けば、もう問題ない。

ふたたび藪さん経由で“さすがは、ルフトハンザ(ドイツ航空)!”とタッドの面々に結果を知らせた後、東京行きの準備を再開した。もう、すでに午前3時を軽く回っていたが、目がギンギンに冴えわたっていた。不健康なこと、この上なし。

羽田空港の到着ゲートを出てきたトーマスとは、その後、調布まで乗ったリムジンバスの車中も含め、当然この間の事情で大盛り上がり!

オーストリア人ながら、アメリカでの生活期間もあり、とても気さくで、この日はじめて会ったばかりのタッドWSのメンバーと打ち解けるのもアッと言う間だった。

結果、当然ながら『アインシュタイン』の日本初演も大成功!

トーマスとは、その後、6月21日(木)の帰国まで行動を共にした。

その間、聴いた演奏会は、航空中央音楽隊、洗足学園音楽大学ブリティッシュブラス、おおみや市民吹奏楽団の各演奏会。また、尚美ミュージックカレッジ専門学校や武蔵野音楽大学ではバンドのリハーサルを見学。東京佼成ウインドオーケストラとシエナ・ウインド・オーケストラのマネージャー諸氏とも有意義なミーティングをもつことができた。

かつてヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan)がベルリン・フィルを指揮し、アルフレッド・リード(Alfred Reed)やヤン・デハーン(Jan de Haan)、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)らが東京佼成ウインドオーケストラを指揮してレコーディングを行なった普門館のステージも興味深そうで、写真を撮りまくっていた。

一方で、日本食にもつぎつぎトライし、あっという間にかなりの日本事情通!

音楽的成果のみならず、筆者にとってもとても印象深い初来日となった!

▲タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会チラシ

▲同、演奏メンバー

▲会場販売された自筆サイン入りCD – The Best of Thomas Doss(M-Disc、216-054-3)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第49話 ムーアサイドからオリエント急行へ

▲LP – Sounds of Brass Series Vol.18 – The Fairey Band More Concert Classics」(英Decca、SB 718)

▲LP – The Spice of Life(英Polyphonic、PRL 034D)

イギリスのブラスバンド“ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)”の1990年5月の再来日は、日本のブラスバンド・ムーブメントに決定的な変化をもたらした。

メンバーを一新し、ヨーロピアン・チャンピオンに返り咲いた直後に来日した彼らが、ナマ演奏でダイレクトに日本に届けたフィリップ・スパーク(Philip Sparke)やピーター・グレイアム(Peter Graham)の最新オリジナルの音楽的衝撃は、それまでの日本のバンド界の常識を覆しかねないほど強烈なインパクトがあった。

再来日前後のバック・グラウンドは、第42話「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990」でお話ししたとおりだ。

日本各地でも、当然、新しい動きが起こった!!

その中に、大阪の“ブリーズ・ブラス・バンド(Breeze Brass Band)”の本格デビューがある。

“ブリーズ・ブラス・バンド”立ち上げの中心人物は、大阪シンフォニカー(後の“大阪交響楽団”)のトロンボーン奏者、上村和義さんだった。

大阪芸術大学出身の上村さんは、所属オーケストラの演奏以外にも、在学時の仲間や先輩、後輩たちと“大阪ロイヤル・ブラス”という名称のグループを作り、外部からの要請に応じて、さまざまな演奏活動を行っていた。

その活動を通じ、上村さんは、次第にこのグループを“ブリティッシュ”スタイルのブラスバンドとしてデビューさせたいと思うようになっていく。

もっとも、氏が“ブリティッシュ”に関心をもったのは、これよりかなり前、大阪芸大在学時の下宿先で同じだったトランペットの西井昌宏さんが手に入れたLPレコードを聴かされたときだった。

グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)の『ムーアサイド組曲(A Moorside Suite)』が収録されていたそのレコードは、イギリスのメジャー・レーベルであるDeccaが、1972年から1980年の9年間に合計42枚ものアルバムをリリースした“サウンズ・オブ・ブラス・シリーズ(Sounds of Brass Series)”というブラスバンド・シリーズの1枚で、シリーズの第18集にあたる。

タイトルを「Sounds of Brass Series Vol.18 – The Fairey Band  – More Concert Classics」(Decca、SB 718、リリース:1975年)という、ケネス・デニスン(Kenneth Dennison)指揮、フェアリー・バンド(The Fairey Band)演奏のLPだった。

イギリスのレコード界には、“ブラス&ミリタリー”という、ブラスバンドとミリタリー・バンドを扱うカテゴリーが存在する。メジャーがこれほど多くのアルバムをリリースしていたことは、同国の“ブラスバンド”がどれだけポピュラーであるかの証明のようだが、それはさておき、上村さんが聴いたそのサウンドは、それまでまるで聴いたことがないものだった。

しかし、それと同時に、『金管だけでこんなことができるなんて、これは、おもろい(面白い)!!』と思ったそうだ。

若いということは、すばらしい!

その後、上村さんたちは、“大阪ロイヤル・ブラス”のメンバーで合宿をやって、『ムーアサイド組曲』やイギリスのケネス・J・オルフォード(Kenneth J. Alford)のマーチ『後甲板にて(On the Quater Deck)』などの録音にトライしたり、新しい楽譜を捜したりしながら、どうしたらそのサウンドが出るのかをテーマに定期的に練習を繰り返し、試行錯誤ながら、継続的なスキルアップをはかっていく。

しかし、プロの楽団としてデビューを考え始めた頃、新しいバンドの指針となるコンセプトやレパートリーに関する情報収集など、“独力”に近いそれまでの積み上げだけでは解決しえないテーマをいくつも抱えるようになっていった。

とくに、日本で本場イギリスの最新情報を得ることはほとんど不可能だった。

そんなとき、上村さんと筆者を引き合わしたのは、大阪・心斎橋にある三木楽器2階管楽器フロアの責任者、植松栄司さんだった。1989年、ちょうどロンドンの録音から戻ってきた頃のことである。

三木楽器で最初のミーティングを行った後、上村さんは、毎晩のように時間を見つけては拙宅を訪れられ、深夜に至るまでブラスバンドのレコードを聴き漁るようになった。

その貪欲な姿は、まるで“ブラスバンドのレコードがこんなにいっぱい出ているとは思わなかった”と言わんばかりで、絶えず質問の山!!

とくに、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)やゴフ・リチャーズ(Goff Richards)、ハワード・スネル(Howard Snell)ら、日本では“まるで知られていない”の新進気鋭の作曲家たちがブラスバンドのためにつぎつぎと新しい曲を書いているという現実は、かなり衝撃的だったようだ。

氏のノートには、お気に入りの曲がつぎつぎメモされていった。

そして、その中でもとくにお気に入りだったのが、キース・ウィルキンスン(Keith Willkinson)指揮、ウィリアム・デーヴィス・コンストラクション・グループ・バンド(William Davis Construction Group Band)演奏のアルバム「The Spice of Life」(英Polyphonic、PRL 034D、リリース:1987年)に入っていたフィリップの『オリエント急行(Orient Express)』(世界初録音)だった。

“こんなわかりやすい、愉しい曲があったのか!”

実際、そのレコードを聴いたとき、上村さんは、そう思ったのだそうだ。

その時点で、大学時代の氏らが“おもろい”と感じた前記フェアリー・バンドのレコードが録音されてから、すでに15年近い歳月が流れていた。

それは、まるで浦島太郎状態だった!!

“ブラスバンド”の世界は、絶えず動いているのである!

そこで、氏の意向を受けて、イギリスのフィリップにFAXで連絡をとると、“全面的に協力する”との嬉しい返信が速攻で戻ってきた!

この結果、『オリエント急行』のほか、『スリップストリーム(Slipstream)』、『ジュビリー序曲(Jubilee Overture)』、『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』など、その後、このバンドの主要レパートリーとなっていくフィリップのブラスバンド作品の楽譜が、出版・未出版を問わず、毎週のように筆者の手許に届くようになった。

“今、ヨーロッパで起こっている新しい潮流を、タイムラグなく日本で再現!”というブリーズ・ブラス・バンドのコンセプトの1つは、このようなプロセスを経て決まった。

他方、1989年7月に来日した兄弟ユーフォニアム・デュオ“チャイルズ・ブラザーズ”(参照:第14話 チャイルズ・ブラザーズの衝撃)のニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs)が、名古屋でユーフォニアムのことを“ブリーズのようだ”と例えたという話がメンバーの耳に伝わると、拙宅を提供して行われたメンバーのミーティングで、“ブリーズ”がバンド名に決まった。

後日、上村さんに訊くと、“ブリーズ”は、以前から考えていた候補名の1つだったとか。

道理で、満場一致で決まったはずだ。

その他、京都のバロックザールの協力も得て、当時練習中だったデリック・ブルジョワ(Derek Bourgeois)の『ブリッツ(Blitz)』ほかをイギリスのステージ・セッティングとマイク・アレンジでレコーディング。メンバーのほか、その収録カセットを海外に送ったところ、さらに何人かの作曲家の協力を得ることに成功した。

後日“ブリーズ”の有力スポンサーとなる東京のブージー&ホークスの安弘弘明さんも、カセットを聴いてすぐ電話を寄こし、“正直驚いた!”と賞賛してくれた。

その後、冒頭でお話ししたとおり、数々の最新オリジナル曲をひっさげてブラック・ダイク・ミルズ・バンドが来日!!

上村さんと筆者は、ロイ・ニューサム(Roy Newsome)、デヴィッド・キング(David King)、ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)という3人の同行指揮者とも知己を深め、ブラスバンドの最新オリジナルへの取り組み方など、多くを演奏現場で身近に吸収する機会を得た。

21世紀の現時点から遡ると、これら一連の流れは、まるであらかじめ予定されていたことであったかのように連続して起こった。

とくに印象的だったのは、イギリスの関係者がこぞって力を貸してくれたことだった。

ブリーズ・ブラス・バンドは、1990年7月2日(月)、こけら落しを終えたばかりの大阪・いずみホールに満場の聴衆を集めてデビュー・コンサートを行った。

公演プログラム冒頭には、フィリップがデビューに寄せたメッセージが存在感を示す!

同時に、この日は、『オリエント急行』の日本初演が行われた日として、多くにファンの記憶にのこる一日となった!!

▼「ブリーズ・ブラス・バンド・デビュー・コンサート」プログラム