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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第39話 ギャルド:月刊吹奏楽研究が伝えるもの

▲月刊 吹奏楽研究 1962年1月号(三浦 徹氏所蔵)

▲バンドジャーナル 1962年2月号(三浦 徹氏所蔵)

2018年5月7日(月)、筆者は、川崎市中野島にある三浦 徹さんのご自宅を訪ねていた。

三浦さんは、周知のとおり、東京佼成ウインドオーケストラのユーフォニアム奏者を長くつとめた後、国立音楽大学教授に転じられ、退任後の今も、吹奏楽の発展とユーフォニアムの啓蒙のために精力的な活動を続けられている。

東京佼成WOのレコーディングやさまざまな演奏シーンでご一緒しただけでなく、プリーズ・ブラス・バンドの客演独奏者として招いたこともあり、NHK名古屋放送局(CK)から全国生放送されたFMラジオ番組で共演したこともあった。

毎年末、関西のユーフォニアム奏者たちが氏を囲んで開く忘年会で、互いの近況を確認したり音楽談義をするのも恒例行事となっている。

この日おじゃました最大の目的は、所蔵されている古い「バンドジャーナル」誌(音楽之友社)を直接見せていただくことにあった。

古い雑誌は、公立の図書館でも一定期間を過ぎると破棄され、国立国会図書館でも全号が揃っていないことが多い。最後の砦は、“個人所有”となる。

「バンドジャーナル」の創刊号は 1959年(昭和34年)の10月号で、発売は9月15日だったと記録にある。フランスのギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団(公演名)が初来日する2年前のことだ。

氏は、大阪の明星高等学校音楽部の出身で、所蔵されている中で特に古い号は、音楽部の部室の改築時に貰い受けられたものや、その後に進まれた東京藝術大学時代の師である大石 清さんから譲り受けたものだとのこと。

『もっと一杯あったんですが、痛みが激しく家内に処分されたのもあって…。』と恐縮されていたが、筆者が訪れる前までに、丁寧に陰干しまでしていただいていた。

そして、テーブルに積み上げられたそれらを古い順にページをめくり始めたとき、『これは、バンドジャーナルじゃないんですが・・・。』と言われ、ふいに手渡された同じサイズの一冊の雑誌に目が釘付けになった!

それは、今や“まぼろし”の「月刊 吹奏楽研究」(発行:月刊 吹奏楽研究社)の1962年1月号(通巻75号)だった。

「月刊 吹奏楽研究」(もしくは「吹奏楽研究」)は、「バンドジャーナル」より3年早い1956年(昭和31年)創刊の吹奏楽専門誌で、編曲者としても知られた三戸知章さんが編集主幹をつとめられ、1964年(昭和39年)に廃刊になるまで、吹奏楽ファンにホットな情報を提供した。

国立国会図書館には1冊も所蔵なく、ネット上の検索システムで25冊の所蔵が確認できたのは、全国のライブラリーで唯一、東京文化会館の音楽資料館だけだった。実は、同館には三浦氏宅訪問翌日に閲覧に行く予定になっていた。

三浦氏宅で手にしたその号は、1961年11月2日(木)、東京・上野の国立博物館庭で行われた「ルーブルを中心とするフランス美術展」の開幕式で、昭和天皇、皇后両陛下を前に演奏するギャルド・レピュブリケーヌの写真(朝日新聞社撮影)が表紙を飾っていた。写真に写っている人物が全員起立しているから、国歌を演奏中のシーンと思われた。

そして、その号は、東京文化会館音楽資料館では歯抜けとなっている1冊だった!

早速ページを開くと、それは正しく“タイムカプセル”のような世界!

ギャルド関連の記事は、約3ページに渡り、とくに目を引いたのは、1961年11月3日(金・祝)の文化の日に新宿の厚生年金会館で行われた“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団歓迎演奏会”についての1ページをこえる詳細レポートだった。

記事によると、午後6時に始まり、午後10時に及んだこの演奏会のプログラムは、つぎのようなものだった。(カッコ内氏名は、指揮者名)

■海上自衛隊東京音楽隊(高山 実)

クレッチマー:行進曲「戴冠式」
マスネ:序曲「フェードル」

■日本大学(山岡永知)

ピラジーニ:序曲「ローマの鐘」

■国立音楽大学(大橋幸夫)

グローフェ:組曲「大峡谷」より“日没”“豪雨”

■日本大学第一高校(小山光男)

スッペ:序曲「詩人と農夫」

■航空自衛隊音楽隊(松本秀喜)

シュトラウス:皇帝円舞曲
松本秀喜:日本古謡集

■武蔵野音楽大学(加藤正二)

ホルスト:バンドのための組曲第二番
陶野重雄:若人の踊り

■豊島区立第十中学(酒井正幸)

トマ:歌劇「レーモン」序曲

■東京藝術大学(山本正人)

フォーシェ:バンドのための交響曲 第1楽章

■陸上自衛隊中央音楽隊(須磨洋朔)

ファリャ:舞踏組曲「恋は魔術師」

■ギャルド・レピュブリケーヌ(フランソワ=ジュリアン・ブラン)

ベルリオーズ:ローマの謝肉祭
ファリャ:三角帽子
リスト:ハンガリー狂詩曲第2番

歓迎する日本側は、合計9つのバンドが登場。くしくも3つの音楽大学、3つの自衛隊音楽隊が共演するかたちとなり、東京都吹奏楽連盟加盟団体から“東京都吹奏楽コンクール”で第2位に入った豊島十中、日本大学第一高校、日本大学の3校も演奏。これが都大会優勝の代表バンドでなかったのは、11月12日(日)、東京・台東体育館で開催予定の第9回全日本吹奏楽コンクールが目前にせまっていたことも配慮されたのだろう。

記事には、各団体の演奏評も書かれているが、ギャルド以外のバンドの中では、豊島十中の演奏に対して書かれた以下の記述がとくにおもしろい。

『音楽大学のバンドの間にはさまって、少しもヒケを取らぬ少年少女の好演に、アンコールの嵐がわき、….、このために、陸上自衛隊の連隊行進曲の演奏が省略されるハメになったほどである。….。この夜の演奏会で、いちばん聴衆に感銘を与えたバンドであった。』(原文ママ)

第30話「ソノシートの頃」でお話ししたとおり、この演奏会は、朝日ソノラマがライヴ収録し、同誌1961年12月号のソノシートにギャルド・レピュブリケーヌの演奏が、1962年1月号には豊島区立第十中学校吹奏楽部の演奏が収められた。演奏会当日の空気を伝えるこの「月刊 吹奏楽研究」の評者(恐らく、三戸知章氏)の弁を読む限り、それは当然の結果だと思えた。

「月刊 吹奏楽研究」が“ギャルド来日決定”をはじめて報じたのは、1961年7月号(通巻70号)。同号では、来日するのは65名で、“45名編成のバンドに、ラッパ鼓隊20名が加わる”と紹介されている。

余談ながら、東芝音楽工業や東芝EMIが発売したギャルドのレコードやCDのジャケット写真が、吹奏楽団ではなく、馬にのった騎兵ばかりであるのは、このときに朝日新聞社を通じて東芝がゲットできた写真が“バテリー・ファンファール”の騎兵のものと40名の弦楽奏者を加えた“グラン・オーケストラ”のものだけだったからだ。

しかし、この直後、朝日新聞社がさらに折衝を重ねた結果、来日するのは“ラ・ミュジーク”と呼ばれる吹奏楽団に変更され、「月刊 吹奏楽研究」は、これを1961年8月号(通巻71号)でつぎのように報じている。

『世界最高の吹奏楽として認められるフランス巴里のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の来日については、前号で報道してあるが最初予定された二十名のラッパ鼓隊を含む六十五名の編成のものでは、ギャルド・レピュブリケーヌの真の姿の演奏を聴くことができないうらみがあるので、主催者の朝日新聞社では、さらに折衝をかさねた結果、フルメンバー八十名が正指揮者プルーン楽長とともに来日することに決定した。』(原文ママ)

その後、「月刊 吹奏楽研究」は、同年10月号(通巻73号)で、詳細スケジュールを掲載。来日評が載った前記の1962年1月号では、招聘にあたり“朝日新聞社が三千万円を越える巨額の費用で招いた”という驚くべき事実まで報じられていた。

当時の三千万円が、いま一体どのくらいの価値になるのだろうか!?

「月刊 吹奏楽研究」が伝えるもの。

紙の上に残された一文字、一文字の重みをこれほど感じたことは無かった!!

▲EP – ギャルド・レピュブリケーヌ日本行進曲集(東芝音楽工業(Angel)、AA-4046)(再発盤)

▲EP – スーザ・マーチ集(東芝音楽工業(Angel)、AA-4506)

▲EP – 牧神の午後への前奏曲(東芝音楽工業(Angel)、AA-4625)

▲EP – ギャルド・レピュブリケーヌ日本行進曲集(東芝音楽工業(Angel)、AA-4535)(再々発売盤)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第38話 スパーク:ギブ・ミー・チケット・パーティー

▲Osaka Shion Wind Orchestra 第111回定期演奏会チラシ

『まだホールはとれていないんですが、スパークさんにスケジュールを訊ねていただけませんでしょうか?』

大阪市音楽団(愛称:市音。現オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)の三宅孝典さんからフィリップ・スパークを2015年春の定期演奏会で客演指揮者として招きたいという旨の電話があったのは、その前年の始め頃だった。

もちろん、筆者は、フィリップ・スパークのマネージャーなどではない。だが、長いつき合いから、都合を訊ねるくらいのことはいつだってできる。受話器の向こうの相手は、それを承知の上で電話してきているのだ。

一方のフィリップも、作曲家として超多忙な毎日を過ごしている。世界中から寄せられる作品委嘱も2年半先まで抱えていた。来日ともなると、それを中断し、最短でも1~2週間、ホームをあけることになる。“ホールがとれていない”ような状態で、来日の可能性を打診するなんて真似は到底できなかった。何よりも時間の無駄遣いだ。

プロらしからぬ打診だと思えた。

長く続いた大阪市の直営から民営化される、ちょうどそんな時期にあたっていたこともあるのだろう。しかし、それにしても意味不明の不思議な電話だった。

実は、ここまで2度、市音はフィリップに断られていた。日程が擦りあわないこともあったが、要は、話の進め方がおかしいのだ。

『ホールが確定してから、改めてお話し下さい。』と言って電話を切った。

フィリップが日本の聴衆の前に、はじめて指揮者として姿を現したのは、1993年11月8日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで催されたプリーズ・ブラス・バンドの「ライムライト・コンサート6」だった。当時、筆者は、このプロのブラスバンドのミュージカル・スーパーバイザーをつとめていたが、その後、何度も大阪の地に招いたので、彼はひとりで地下鉄を自在に乗りこなせるほど、大阪の街に親しんでいた。

2005年6月3日(金)、ザ・シンフォニーホールで行なわれた「大阪市音楽団第90回定期演奏会」で、山下一史の指揮で行われた『宇宙の音楽(Music of the Spheres)』ウィンドオーケストラ版の世界初演の際にも、“これは作曲者として聴いておくべきだ。聴きにおいでよ。”と言って彼を招いている。

そのとき、ホールに流れるサウンドに身を任せていると、後半部で不覚にも涙がこぼれそうになった自分がいた。普段冷静なフィリップも、指揮者の山下さんからステージに招かれ、聴衆に向って何かをコメントしようとしたとき、何を喋っているのかわからないほど早口になり、かなり興奮していた。

圧倒的な演奏だった!!

それから10年近い時が流れ、2014年の1月11日(日)、彼が客演指揮したすみだトリフォニーホール 大ホール(東京)でのシエナ・ウインド・オーケストラ「第37回定期演奏会」も、満員札止めの大成功を収めていた。

話を元に戻そう。

三宅さんから再び電話があったのは、6月17日のことだった。

2015年6月2日(火)のザ・シンフォニーホールを押さえることができたので、前3日の練習という日程で来日が可能かどうか打診してほしいとの話だった。

早速、フィリップにメールすると、

『ディア―・ユキヒロ, それはとてもエキサイティングだ!それらの日付は空いている。彼らの条件やプログラムの提案などを聞くのを楽しみにしている。』

と打ち返されてきた。

すぐ、結果を三宅さんに連絡を入れ、一度ミーティングを行うことになった。民営化され、一般社団法人となった彼らの運営方針にも興味があったからだ。

7月3日、三宅さんと会った。“仕事として受けて欲しい”と言われるので、指揮料、渡航費、ホテルなどの条件をつめていく。しかし、市音が外国人アーテイストを独力で招いたことが過去になかったので、“興業ビザ”の取得や“日本滞在中の待遇”など、多くの課題があることが分かった。

また、前年のシカゴのミッドウェスト・クリニックで、三宅さんがすでに“簡単に演奏できない無茶苦茶難しい曲”をリクエストしていたことも発覚!

(オイオイ、それなら最後まで自力でやれよ。何度も言うが、筆者はフィリップのマネージャーなどではない!)

それは、しばらくしてフィリップから出来上がったばかりの曲のスコアが送られてきて市音を二分する問題となる。

兵庫県西宮市の関西学院創立125周年・関西学院大学応援団総部吹奏楽部創部60周年記念委嘱作『知られざる旅(The Unknown Journey)』だった。その初演は、2014年11月8日に予定されていたので、フィリップとしては、2015年の演奏なら何の問題もないと判断しての送付だった。

演奏賛成派は、音楽的な興味から“やるべし”と言い、演奏反対派は、市音と関学との関係がやっかいなことになるのを懸念して“やめるべき”と言った。

結局、少なくとも委嘱者による初演が終わるまではまったく広報できないという興業上の事情もあり、演奏は見送られたが、一方で初演より早く市音がスコアを見ていたのも紛れもない事実だった。

費用面についての折衝もかなり難航した。

まず、できたばかりの新しい一般社団法人の規定では、客演指揮者のホテルの食事は“朝食のみ”と定められていた。

しかし、これまで筆者が手掛けてきた外国人アーティストとの条件では、ホテル・アコモデーションと言って、招聘者が滞在中の宿泊と食事のすべてをみるのは常識だった。

フィリップに市音の条件を知らせたときの反応が傑作だった。

『ブレックファーストだけで一日を過ごすなんて!たいへんだ!!』

筆者も、“日本人なら、居酒屋に行ったり、うどんをすすったりできるが、食習慣も違い、いつも食べているものを好きな時に食べることのできない異国に招いたお客に、自分で勝手に喰えというのはどう考えてもおかしい。”とかなりねじ込んだが、“規定”を前にあえなく爆沈!

無駄遣いなど、さらさらする気はなかったが、常識的な必要経費にも大きくクギを刺されて、ついに爆発!『この件からは降りる!』と言って大ゲンカに発展したこともあった。

ついこの前まで公務員だった人たちとの折衝は、感覚的に勝手が違う。

最終的に、フィリップの滞在中の夜の食事は、友人としてすべて筆者が面倒をみることになった。

しかし、ものは考えよう。

毎日の練習後は、完全にこちらの世界だ。

早速、フィリップとゆかりの深い人たちに連絡をとり、6月1日(月)午後6時45分、JR大阪駅(5F)にある大阪ステーションシティ「時空(とき)の広場」“金時計”前に集合し、ラヴァーニャというイタリアンのお店で、食事会を開催することができた。

集まったのは、名古屋芸術大学の竹内雅一さん、大阪音楽大学の木村寛仁さん、相愛大学の石田忠昭さん、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さん、早稲田摂陵高校(当時)の井上 学さん、プリーズ・ブラス・バンドの上村和義さん、フィリップご指名の音楽通訳の黒沢ひろみさんという、愉快な面々!

共通するのは、全員が翌日のフィリップ vs シオンのコンサートのチケットを持っていなかったことだ。チケットはかなり前に完売。招待状の発送すら見送られたという状況だったからだが、当然のことながら、逆に食事会は大盛り上がり!

いい気分になったところで、解散時に全員で声を揃えて大合唱!

ギブ・ミー・チケット!!!

▲スコア – 知られざる旅

▲Osaka Shion Wind Orchestra 第111回定期演奏会プログラム表紙

▲第111回定期演奏会演奏曲

▲CD – シオン×スパーク!

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第37話 大阪府音楽団の記憶

▲LP – 吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1(東芝EMI、TA-60006)

▲吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1 – A面レーベル

▲吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1 – B面レーベル

かつて「大阪府音楽団」という名のプロの吹奏楽団が大阪に存在し、精力的な演奏活動を行なっていた時代があった。

全国的視野にたつと、正しく大阪ローカルな話題ではあるが、地元では今もって惜しむ声が出るほど、精緻なアンサンブルと透明なサウンドをもつひじょうにスキルの高い“ウィンド・アンサンフル”だった。

また、年間演奏回数が200回近かった年もあり、“精力的”と書いて何ら誇張のない、そんなエネルギッシュな楽団でもあった。

ん!? 「大阪府音楽団」!? いったい何だそれ!?

残念ながら、大阪以外で生活されている人にとっては、目の前で見たことも聴いたこともない存在だったろうから、“大阪”という字と“音楽団”という字が並んだ楽団名をみた瞬間、橋下市政の下で存廃問題に揺れ、市議会での廃止議決後、2014年に民営化した“オオサカ・シオン・ウインドオーケストラ”の前身「大阪市音楽団(通称:市音)」と同一視あるいは混同されてしまいがちな、正直言ってそれぐらいの認知度の楽団だったのではないだろうか。

しかし、だからだこそ、大阪ネイティブがしっかり語っておかねばならないヒストリーだってある。

「大阪府音楽団」(通称:府音)は、昭和27(1952)年10月、都道府県立としては全国唯一の職業吹奏楽団として創設。昭和天皇崩御によって元号が改まった平成元(1989)年の3月まで演奏活動を行った。37年間、実在したプロ吹奏楽団だった。

この楽団には、今やすっかり忘れられてしまった誕生前史がある。

もともと大阪府庁には、作曲家としても知られた江頭林次郎が指導、指揮をする“大阪府庁吹奏楽団”という府職員による職場のバンドがあった。彼らは、各方面のリクエストに応えて都合がつけば演奏に出向いていたが、次第に認知を得て演奏頻度が高くなるにつれ、通常の役所勤務の傍ら演奏活動を継続的に行うことが難しくなった。その結果が、府立の職業吹奏楽団創設へとつながったというわけだ。

編成は“40名前後”の中編成。

1956年から1964年まで刊行されていた月刊誌「吹奏楽研究(もしくは、月刊吹奏楽研究)」(発行:吹奏楽研究社。国会図書館には所蔵なく、全号ではないが、東京文化会館音楽資料室に所蔵を確認)の1961年3月号(No.67)の記事「プロバンドめぐり3 洋々たる前途の明るい大阪府音楽団 全国都道府県でただ一つの存在」には、沿革と38名の楽員のパート、氏名が紹介されている。

当時、大阪府知事室広報課(のち、大阪府企画部教育文化部)に所属し、同課長が団長をつとめた“府音”の演奏は、この頃、当初のマーチングやセレモニーのためのものから、ホール等におけるコンサート・バンドの活動中心へとシフトしていった。

大阪市内にあった毎日ホールや厚生会館文化ホール(後の大阪府立青少年会館)、大阪厚生年金会館中ホールなどで開かれる定期演奏会(府庁配布の招待券を持っていきさえすれば無料)では、アメリカで出版されたばかりの最新オリジナルが取り上げられることもあり、吹奏楽ファンには欠かせないコンサートとしてたいへんな人気を博した。

筆者も、1966年に府音に迎え入れられた井町 昭さんが指揮を振る定期は、欠かさず聴きに行ったものだ。

ウィリアム・シューマン(William Schuman)の「イエス涙を流したもう時(When Jesus Wept)」やロバート・ジェイガー(Robert Jager)の「アラモ(Alamo)」、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の「パッサカリア(Passacaglia)」などをはじめてナマ演奏で聴いたのも、すべて“府音”の演奏会だった。

また、当時としてはたいへん珍しく、パウル・ヒンデミット、モートン・グールド、ヴィットリオ・ジャンニーニ、ヴィンセント・パーシケッティ、ロバート・ジェイガー、アルフレッド・リード(金管と打楽器のための)、ポール・フォーシェ、フランク・エリクソン(第1番、第2番)のオリジナル交響曲も積極的に取り上げられた。

「創設20周年記念特別演奏会」(1972年11月9日、大阪厚生年金会館大ホール)や「朝比奈 隆 音楽生活40年 記念演奏会」(1973年5月25日、フェスティバルホール)など、機を捉えては“市音”と合同の大編成のステージも企画され、大阪フィルハーモニー交響楽団や関西歌劇団との協演も行なわれた。

1972年には、FM大阪の番組「大阪府の時間」のために収録(4月17日、大阪府立青少年会館)が行われ、毎月1回、同番組で府音の演奏が放送された。このほか、FM大阪は、「創設20周年記念特別演奏会」のライヴも放送した。

また、1974年8月12~14日、箕面市民会館で録音セッションが行われた東芝EMIのLP「吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1」(TA-60006 / 指揮:井町 昭、朝比奈 隆、大栗 裕 / リリース:1975年2月5日)は、府音絶頂期の演奏を伝えるレコードとして、今なお評価が高い。

しかし、府音の終焉は、突如として訪れた。

当時、府音友の会が発行していた会報「Fuon Echo(フオン・エコー)」の第9号(1989年春)に掲載された大阪府音楽団長、井上 正さんの「友の会会員の皆様へ」という一文が物語る内容は衝撃的だ。

『大阪府では、昭和27年の発足以来、「府音」の名で親しまれて参りました大阪府音楽団を、平成元年度を期して管弦楽団に再編し、その運営を大阪府が新たに設立する文化振興財団に移管すべく準備を進めております。この改革は、鑑賞機会の増大や音響機器の発達・普及により、府民の皆様の求める演奏がより質の高いものへと変化してきていることを受け、音楽専門家からなる懇話会のご意見も踏まえて行うものであります。

新たな楽団におきましては、これまでの音楽団の伝統を受け継ぎ、地域での演奏活動を通じて音楽の普及に努めるとともに、バレエやオペラの演奏等を通じて。音楽文化の振興を担う活動をすすめてまいります….。』(原文ママ)

こうして誕生したのが、大阪センチュリー交響楽団(現、日本センチュリー交響楽団)で、運営母体となる大阪府文化振興財団には、府が億単位の原資を出資した。

しかし、その設立事情の説明でよく見かける“府が運営したプロ吹奏楽団、大阪府音楽団を発展的に解消する形で設立”という“オブラートに包んだきれいごと”の文言に、筆者は強い違和感を覚える。とくに“発展的”と言う言葉に対して!?

『ええか、今はオフレコやけど。“吹奏楽なんかいらん”と言いよったオーケストラ推進派の評論家がおってな。府音をめちゃくちゃにしよったんや。』

すでに鬼籍に入られてしまったが、筆者の音楽の師の一人である市音の元団長、そして大栗 裕の「吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”」の委嘱者であり、初演指揮者だった永野慶作さん(1928~2010)の言葉だ。

いつも笑顔でひじょうに温厚な氏が、これほどの怒気をはらんだ言葉を吐露されたことをこの前にも後にも聞いたことがない。それを“ひとり言”に記す責は間違いなく筆者にあるが、すでに21世紀。もはやオフレコにしておく必要はどこにもないだろう。

そう言えば、指揮者の井町さんが府音を去った後の1976年以降、府音のレパートリーはガラリと変わり、「ナマオケで第九を歌おう」とか「フラメンコ カルメン」、「ピアノ協奏曲の夕べ」、「オペラ“ヘンゼルとグレーテル”全3幕」といったようなおよそ吹奏楽らしくない演目のコンサートもしばしば開かれるようになった。ために、府音に対する音楽的興味を完全に失ない、コンサートに足を運ばなかった自分がいた。

それでも、無くなるとなると、一抹の寂しさが脳裏をよぎった。

新たなオーディションの結果、オーケストラに残留が決まった府音のメンバーは3名だったと聞く。どこが“発展的に解消”だ。

壊すのは簡単。しかし、人が壊したものは、ゼッタイ元へは戻らない。

ゆえに、前記の“Fuon Echo”で井上団長が友の会の会員に寄せたメッセージの文末に近い部分も、ぜひにも引用して記憶にとどめたいと思う。

『来る18日に開催いたします第79回定期演奏会は、大阪府音楽団として最後の演奏となります。この演奏会では、これまでの音楽団活動の集大成とするため、全プログラムを吹奏楽のオリジナル作品でまとめ、団員一同が総力を結集して取り組みます…。』

1989年3月18日(土)、八尾市文化会館プリズムホールで行われた府音最後の定期演奏会にふれた部分だ。(指揮:小田野宏之)

いろいろな想いがつまったメッセージの一言一句が心にグサリと突き刺さった!

嗚呼、大阪府音楽団!!

▲LP – 創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会(日本ワールド、W-549)

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会 – A面レーベル

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会 – B面レーベル

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会プログラム

▲元団員がワープロ打ちで手作りした“大阪府音楽団主要演奏記録”

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第36話 ネルソン「ロッキー・ポイント・ホリディ」の事件簿

▲ロン・ネルソン(作曲者提供)

アメリカの作曲家ロン・ネルソン(Ron Nelson)と交友が始まったのは、1997年のことだった。

楽曲解説の必然性から、「冬の日のはじまりのための“モーニング・アレルヤ”(Morning Alleluias for the Winter Solstice)」(1989)と「パッサカリア(B-A-C-Hを讃えて)(Passacaglia (Homage on B-A-C-H)」(1992)についていくつか質問を書いたときのことだ。

当時は、電子メールのようなインターネット・ツールの利便性はまだまだこれからというときで、原稿をすべて鉛筆で書き、デジタル化にも積極的ではない筆者が持つ通信ツールと言えば、当然“電話”と“ファクシミリ”だけ。自然、海外との通常のやりとりは、緊急時の“国際電話”を除くと、もっぱら航空便(エアメール)だけだったが、ロンからの返信は、いつも迅速、そして要点が明瞭だ。

2人のやりとりのハイライトは、なんといっても、2007年秋に突然表面化することになった名作「ロッキー・ポイント・ホリディ(Rocky Point Holiday)」の“実は作曲年が違っていた”事件だろう!!

きっかけは、鈴木孝佳(タッド鈴木)指揮、TADウインドシンフォニーが、2007年6月1日(金)、大田区民ホール アプリコ(東京) で開いた“第14回定期演奏会”で演奏したこの曲のライヴ録音をCD化する話が固まったときのことだった。(CD:タッド・ウィンド・コンサート Vol.3 ヴィジルス・キープ、Windstream、WST-25006、リリース:2008年1月

もう21世紀に入っていたので、この時のやりとりは電子メールに進化していたが…。

結論を先にお話しすると、それまでアメリカと日本のすべての解説や資料に載っている“作曲:1969年”というデータが完全な事実誤認で、実際には3年前の1966年に曲が書かれていたということが判ってしまったという事件だった。

その顛末は、「スクープ!! ロン・ネルソンの人気曲『ロッキー・ポイント・ホリディ』の作曲年が書き換えられることになった!!」(バンドパワー、2007年)という、まるで“週刊なんとか”のような派手なタイトルの投稿となった。タイトルは“若気(?)の至り”ということでお許しいただきたい。我ながら、それくらい興奮していたということだ。

そもそも、この作品の作曲年に疑問を感じたのは、楽譜の下部左側に印刷されているコピーライト・ラインのつぎの記載だった。

Copyright 1969 by Boosey & Hawkes, Inc.
Copyright for all countries. All rights reserved.

著作権に明るい人が見れば、すぐわかるだろうが、この“Copyright 1969”は、作曲年を示さない。出版社のブージー&ホークスが、この自社の出版楽譜の権利を全世界に向けて表明した年に過ぎない。即ち、音楽著作権を管理する組織に対して“この楽譜は自社の作品”である旨を届け出た年だ。

当然、作曲はこの年を含めたそれ以前に行われたことになる。

そこで、いろいろな資料をチェックすると、この曲は、1969年にミネソタ大学コンサート・バンド・アンサンブル ’69(University of Minnesota Concert Band Ensemble ’69)が行ったソヴィエト演奏旅行のコンサートのオープナー(コンサートの冒頭を飾る曲)として、指揮者のフランク・ベンクリシュート(Dr. Frank Bencriscutto、1928~1997)が作曲者に委嘱したというエピソードが出てきた。

だが、この演奏旅行のことを調べると、ツアーは、いつ核戦争が起こっても不思議ではない一触即発の冷戦状態で非難の応酬に終始していたアメリカとソヴィエトがその危機的状況を緩和するため、両国政府の主導で1968年から1969年にかけて行った互いに文化人や団体を行き来させる文化交換アグリーメント(1968-69 United States-USSR Cultural Exchange Agreement)の一環として計画されたものの1つで、ミネソタ大学バンドのツアーは、1969年3月31日~5月21日の期間にソヴィエトにバンドを派遣して実施され、帰国直後の5月23日、ホワイト・ハウスのローズ・ガーデンで、ファイナル・コンサートが行なわれたことが分かった。

ツアーが“1968年以前の両国同意”から準備がスタートしたことと、作曲が出版目的ではないことだけは確かなようだ。すると、曲はいつ書かれたのだろうか。

もちろん1969年のツアー直前に書かれたとも考えられるが、プランを立てて進められる国家プロジェクトをそんな直前に“やっつけ”でやるはずはないし、仮にそうだとしても、“ホリディ”というタイトルがどうにも腑に落ちなかった。冬の“ホリディ”に書かれた曲にしては、曲想やハーモニーがやたら明るいのだ。

アタマの中は“作曲年”ひとつを巡ってもう大混乱!

急いでロンに連絡をとると、40年近い昔のことで彼はもう何も覚えていなかった。曲を委嘱したベンクリシュートもすでに故人だったし…。しかし、筆者の疑問は当然だとし、ダメもとでミネソタ大学に当時のことを誰か覚えていないか、FAXで照会してくれたのだ。

大学も、直ちに同窓会ネットワークを通じてこの質問を広めてくれ、それにメールで応えてくれたのが、ディズニーランドのタレント・ブッキング・マネージャー、スタンフォード・フリース(Stanford Freese)氏だった。大学では“スタン”と親称で呼ばれ、ソヴィエト・ツアーでは、ソロリストとして大活躍した。

彼からのメールは明解だった。

『ハイ、ロン。我々は、“ロッキー・ポイント・ホリディ”を、1967年の冬、CBDNAのコンヴェンションで初演しました。ロシアではすべてのコンサートで真っ先に演奏。この曲は、確かにアメリカ合衆国を有名にしましたよ。聴衆も熱狂。私は、今でもテューバ・パートを覚えています。』

これには、ロンも筆者もビックリ仰天!!

CBDNAとは、全米カレッジ・バンド・ディレクター協会(College Band Directors National Association)の略だ。チェックすると、1967年2月8~11日の日程でミシガン州アナーバーで開催されたCBDNA第14回全国コンヴェンションにベンクリシュート指揮のミネソタ大学バンドが出演。2月9~11日の3日間にコンサートを行ったことが確認できた。

こいつはすごい!

急いでこの事実をロンに知らせると、すぐ“その前年(つまり1966年)の夏のヴァケーションにロッキー・ポイントでこの曲を書いたことを思い出した”という内容の打ち返しがきた。

やはり夏の“ホリディ”の作品だった。

2人は、ついにめざすゴールにたどり着いたのだ!

手許に、アメリカ政府制作の1枚のLPレコードがある。

「A FORCE FOR PEACE(ア・フォース・フォー・ピース)」(White House Record (Century)、35416)と題するこのレコードは、1969年5月23日(金)、ホワイト・ハウスのローズ・ガーデンで行なわれたミネソタ大学バンドのツアーをしめくくるファイナル・コンサートのライヴ盤だ。

調べると、これには、ソヴィエトでのライヴを構成に取り入れた2枚組とホワイト・ハウスでのダイジェストをまとめた1枚ものの2種類があったようだ。

筆者の手許にあるのは、ダイジェストの方で、「ロッキー・ポイント・ホリディ」は省かれ、一部曲目が表記と違っていたりするが、ジャケットの写真には、椅子についた若い学生たちのバンドを前にスピーチするソヴィエト大使とその傍らで笑うニクソン大統領が写り、ツアー当時の空気がよく伝わってくる。もちろん、レコードには両氏のスピーチも入っている。また、見開きジャケットを開くと、多くの新聞の切り抜きとともに、ノヴォシビルスクのコンサートで撮影された写真が僅かに1枚だけ掲載されていた。

そこに写っていたのは、指揮者フランク・ベンクリシュートと「ロッキー・ポイント・ホリディ」の初演のことをメールで知らせてくれたソロイストのスタンフォード・フリースの2人だった。こんなところで、当時の2人の姿を見つけることができるなんて、なんと感動的なんだろう!

レコードには、ホワイト・ハウスのコンサートでも大受けで、“Tuba Player Hits High Note With Soviet Ambassador”と新聞の見出しにもなったフリース独奏の「ベニスの謝肉祭」も入っていた。

名作「ロッキー・ポイント・ホリディ」は、作曲者と筆者の間にいろいろなことを自由に語り合える信頼感と連帯感を生みだしていた。

後日、完成したタッドのCDをロンに送ると、『この年になって、若い頃の自分の作品にこんなに興奮させられるとは思わなかった。とにかく、“ロッキー・ポイント・ホリディ”に再び新しい命を注ぎこんでいただいたことに対して大いに感謝したい。』というポジティブな感想が返ってきた。

いくつもの幸運が重なった結果だった。

しかし、だからこそ言える。

音楽に歴史あり。真実は、1つしか無い!!

▲LP – A FORCE FOR PEACE(White House Record)

▲A FORCE FOR PEACE – A面]

▲A FORCE FOR PEACE – B面

▲ジャケットの新聞切り抜きと写真

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.3 ヴィジルス・キープ(Windstream、WST-25006)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第35話 保科洋「パストラーレ(牧歌)」の事件簿

▲“パストラーレ”掲載の「ヤマハが選んだバンド100曲」(1989年版)

ウィンド・ミュージックの楽曲解説に手を染めたのは、1980年代のことだった。

その頃、アメリカでは、アルフレッド・リードやジェームズ・スウェアリンジェン、ロジャー・ニクソン、ジェームズ・カーナウ、ジェームズ・バーンズ、クロード・T・スミスら、わが国でもおなじみの作曲家たちの活躍がつづき、ヨーロッパでも、後に生涯の友となるフィリップ・スパークやヤン・ヴァンデルロースト、ヨハン・デメイらが創作活動を本格化させようとする、ちょうどそんな時期にあたる。

世界中から好奇心をかきたてられるニュースが毎日のように飛び込んでくる、そんな時代だった。

周囲にも、大阪市音楽団の楽曲解説や「最新 吹奏楽講座」(音楽之友社)の執筆をされた奥村 望さん、月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)に多く寄稿され、外国文献の読み解きや原稿用紙の使い方のイロハから教えていただいた橘 清三さん、戦前からの音楽解説者でヨーロッパを中心とした古い音楽資料やレコードに関する不躾な質問にいつも丁寧に答えていただいた赤松文治さん、アメリカを中心とする質問に即答いただき、廃盤になった何枚ものレコードをカセット・テープにしていただいたこともあった秋山紀夫さんなど、リスペクトする多くの先人がいた。すべて筆者の師である。

もちろん、厳しいお叱りや教育的指導を受けたこともあったが、今は、それらがすべて懐かしい。

執筆は、レコード各社や演奏団体からの依頼原稿のほか、自ら企画・制作したレコードやCD、コンサートのためのもの、1980年創刊の月刊誌「バンドピープル」の連載など、多岐にわたるが、“感想”や“印象”“批評”ではなく“解説”を書くことになったときから、常に心がけてきたことがある。

その内、最も大切だと考えていたことを列挙すると・・・。

・情報は、可能な限り原点に遡る

これは、アメリカのことはアメリカ人の書いたもの、フランスのことはフランス人の書いたものを、イギリスのことはイギリス人の書いたものを、オランダのことはオランダ人の書いたものを第一次資料とせよ、ということ。橘 清三さんや赤松文治さんの教えだ。また、楽曲のことを書く場合、疑問点が出てきたら、作曲者が存命ならば、必ず本人とコンタクトする。そうでなかったとしても、出版社や放送局、演奏団体などの関係者に照会する手間を惜しんではいけないということだ。

・徹底した現場主義

レコード会社の中には、録音されたものをヒョイと送って寄こして“解説を書いてくれ”というふざけたリクエストをするところがある。いや結構多い。しかし、解説者も万能ではない。新録音や初録音の楽曲の場合、スコアを手に録音セッションが行われる現場に出向いて勉強し、そこで流れる時間を演奏者と共有する必要がある。時には、煩がられることもあるが、現場で起こったことは、すべて血となり肉となり、文章にも自然と臨場感が出る。

・継続的な検証とアップデート

他の執筆者が書いたものも自身が書いたものも、徹底的な検証が必要。もちろん時間はかかるが、妥協はしない。また、それに伴うアップデートは、いずれ書く機会があるかも知れないので、原稿が印刷された後も関心を失ってはいけない。思わぬところから、思わぬ新事実が出てくることがあるからだ。作曲者が忘れていたことや間違っていることを逆にこちらが見つけてしまうこともある。ために、一度書いたからといって、後日使用した資料や情報の誤りに気付いたときは、それを正さず押し通すような不誠実な対応は、解説者たるもの、ゼッタイにしてはならない。解説者の“名誉”や“メンツ”など、“事実”の前にはまったく意味をもたないからだ。

しかし、ウィンド・ミュージックの音楽解説を始めると、意外なことに気がついた。

現代作曲家の近年の楽曲なのに、基礎データが分からなくなっていることがとても多いのだ。

意外なことに、全日本吹奏楽連盟や日本バンドクリニック委員会といった組織の委嘱作ですら、基礎データが整理されていない曲がいくつも出てきた。

ベートーヴェンやブラームスのことは、もっとよく知られているのに!

こんなことがあった。2018年4月9日のことだ。

筆者のこの日のテーマは、保科 洋作曲の「パストラーレ(牧歌)」(1985)だった。

日本バンドクリニック委員会が“技術的に易しく、日本人のセンスにあったオリジナル作品を”というコンセプトでスタートした委嘱シリーズで、浦田健次郎の「バラード・フォー・バンド」(1983)、兼田 敏の吹奏楽のための「交響的音頭」(1984)についで誕生した委嘱作品の第3作だ。

これは日本バンドクリニック委員会の委嘱作だから、まず、例年発行の「ヤマハが選んだバンド100曲」という日本バンドクリニック委員会が選曲や編纂にタッチしていた本を見る必要がある。しかし、チェックすると…。

スコアの一部とプログラム・ノートが掲載された楽曲紹介の頁は、1989年版にすぐ見つかったが、必要な基礎データ(初演日、初演会場名、初演指揮者名、初演演奏団体名)は、どこにもない。

ついで、手許にあったLPレコード、日本バンドクリニック監修「吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」(東芝EMI、TA-72129)をチェックするが、ここにも基礎データはない。

ただ、このレコードの演奏者が、汐澤安彦指揮、東京アカデミック・ウインド・オーケストラで、録音日は、1985年2月24-26日、会場は、尚美のバリオホールであることが判明した。

だが、この作品は、日本バンドクリニック委員会の委嘱作だ。正式な初演は、例年5月に三重県志摩市の合歓の郷で開催されていたバンドクリニックで行われているはずであり、録音日を“初演”とするにはいささか抵抗がある。“初録音”ならいいが。

そこで、作曲者のホームページをチェックすると、初演日、初演会場名、初演指揮者名は、空欄だが、初演の演奏団体名は“東京佼成ウインドオーケストラ”だと書かれてあった。

頭の中はすでに大混乱! これは、もう作曲者にお訊ねするしかない!

質問をメールで送ると、即答があった。

『当時、合歓の郷で行っていたバンドクリニックで新しい吹奏楽曲の発掘を目的として始めたシリーズの一曲です(私はその時の委員の一人でした)。当然初演は合歓の郷のホール、演奏はフェネル指揮の“東京佼成ウインドオーケトラ”です。もちろん私はその初演に立ち会いました。楽譜の出版は昭和60年5月ですので、初演はその年だと思います。(合歓の郷のクリニックは5月ですのでクリニック開催に合わせて出版したはずです)。汐澤氏の録音には立ち会っていません(彼の演奏は私の意図したテンポより速いので立ち会っていれば直したでしょう)。』(原文ママ)

初演日を除けば、すべてがクリアになった。

こうなると、最後の手立ては、演奏者だった東京佼成ウインドオーケトラだ。

早速、事務局次長でマネージャーの遠藤 敏さんに電話を入れ、当時の演奏記録の詳細が残っていないかどうか調べてもらうことになった。

そして待つこと約2時間。遠藤さんから電話がかかってきた。

『残念ながら、事務所には、当時の詳細は残っていませんでした。しかし、もう帰ってここにはいないんですが、ウチの牧野がプレイヤー時代の詳細な演奏記録を家に残しているということですので、わかるかも知れません。メールを入れておきましたので、返答があると思います。』という高い確率の可能性を示す電話だった。

話に出てくる“牧野”さんとは、長らくフルートをつとめられ、プレイヤー引退後、総務として事務所に入られた牧野正純さんのことだ。1985年当時は、もちろん現役。これは期待できる。

その後、遠藤さんから再度電話が入った。

『連絡が入りました。結論から言いますと、それは、1985年5月18日。合歓の郷では都合6回演奏したのですが、その日の2回目のコンサートに“パストラーレ”とあるそうです。手書きですが、明日FAXでそちらへ送ります。』

まるで考古学のような調査に協力していただいた遠藤、牧野の両氏には大感謝だ!!

先の保科さんからのメールには、こういう一節もあった。

『余談ですが、佼成ウインドオーケトラは合歓の郷に出演の後、演奏旅行だったので数十曲のレパートリーをもっていたのですが、フェネル氏はその中で最も好きな曲が「パストラーレ」だと言って褒めていただきました。たしかその年のクリニックには特別ゲストとしてアルフレッド・リード氏も参加しており、彼にも気に入ってもらい、後に彼が大阪府音楽団の指揮をした際に、オールリードのプログラムの中にパストラーレを加えていただきました(吹田のメイシアターホール、残念ですが日にちは覚えていません)』(原文ママ)

リード指揮の日付は、手許にある当時の“府音”の演奏記録でたちどころに判明。直ちに、2つの演奏データを結果を待ちかねていらっしゃる保科さんにメールでお知らせした。

その後、作曲者のホームページの「パストラーレ」の頁は、つぎのようにアップデートされた。

■初演データ

初演 1985.5.18
場所 合歓の郷ホール
指揮 フレデリック・フェネル
演奏 東京佼成ウィンドオーケストラ

最後に力を発揮するのは、人と人とのつながりである。ネットなどではない!

▲牧野正純さん提供の東京佼成ウインドオーケストラの演奏データ

▲牧野正純さん提供の東京佼成ウインドオーケストラの演奏データ(拡大)

▲LP – 吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」(東芝EMI、TA-72129)

▲吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」演奏メンバー

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第34話 ヴァンデルロースト「むかしむかし…」日本語版世界初演!

▲高山市制施行80周年記念 第2回飛騨高山文化芸術祭こだま~れ2016 チラシ

▲スコア – ES WAR EINMAL…

▲むかしむかし…フィナーレ

2016年9月4日(日)、筆者は、名古屋からJR高山本線の特急「ひだ3号」に乗車。遠く山上に見える国宝犬山城や眼下の名勝飛水峡など、車窓を流れる景色を愉しみながら、次第しだいに高揚感が拡がっていくのを感じていた。

めざす目的地は、飛騨高山。

この日は、古くからの友人ヤン・ヴァンデルローストのジングシュピール「むかしむかし…(Es war einmal…)」のキャストを集めて行なわれる全体での初の通し稽古の日だった。

練習会場は、高山市立日枝中学校。

ジングシュピール(Singspiel)は、ドイツ語で演じられる歌芝居や大衆演劇の一種。現代のミュージカルと少し似てはいるが、ヨーロッパでは、しばしばオペラやオペレッタの一種とみなされる。

ヤンの「むかしむかし…」は、ヤーコプ・グリム(1785~1863)、ヴィルヘルム・グリム(1786~1859)の“グリム兄弟”が編纂した有名な“グリム童話”のストーリーをベースとするジングシュピールで、原題もドイツ語読みで“エス・ヴァー・アインマル…”。グリム兄弟の兄ヤーコプの没後150周年にあたる2013年に生地ドイツのハーナウで上演するため、この地方の吹奏楽団ライン=マイン・ウィンド・フィルハーモニー(Blaserphilharmonie Rhein-Main)から委嘱された作品だった。

ウィンドオーケストラのほか、語り手、俳優(オプション)、児童合唱を必要とし、オリジナルの台詞や歌詞は、すべてドイツ語で書かれている。“序曲”に始まり、“金のかぎ”、“赤ずきん”、“ルンペルシュティルツヒェン”、“いばら姫”という、グリム童話の有名な4つの物語から構成される。

『誰もボクがこの種類の作品を手掛けるとは思ってもみなかったようだ。だが、プロジェクトをはじめて知った時、これはチャンスだと思った。それで他者に先を越されないように、真っ先に手を挙げてコンタクトしたんだ!』とは、作曲者の弁。

委嘱者による世界初演は、2013年9月29日(日)、ハーナウ市内のコングレス・パーク・ハーナウ(Congress Park Hanau)で、イェンス・ヴァイスマンテル(Jens Weismantel)の指揮で行われた。このとき、ヤンは、奥さんを伴ってドイツまで観劇に出かけている。

あくまで作曲者本人の“自己申告”だが、この“初演大成功”の知らせはこちらにもすぐに入ってきた。出版社ハル・レナード・MGBの音楽部門責任者、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)から、『ちょっとこれを聴いて欲しい!』とそのライヴがWAVファイルで送られてきたのは、それからしばらくたった2014年6月12日のことだった。メールには“CD化したいが、どう思う?”とも書かれてある。

録音は、ライヴだけに無キズではないが、音楽の中身そのものがすばらしい。速攻で、『ヤンに“おめでとう”と伝えて欲しい!』と打ち返した。

高山での上演計画が持ちあがったのも、ちょうどその頃。ヤンが、名古屋芸術大学教授の竹内雅一さんに“日本でも上演できないだろうか?”と持ちかけたことが発端だった。

ヤンがらみの作品の場合、しばしばこういう展開になってしまうが、自動的というか、例によって、筆者は、関係者間の事情を交通整理し、調整する役まわりをつとめることになった。

飛騨高山文化芸術祭実行委員会会長の大萱真紀人さんにお目にかかったのは、名古屋芸大3号館のホールにおけるハル・レナード・MGB(de haskeレーベル)のためのレコーディング初日の2014年9月16日のことだった。

その日のセッション終了後、張本人のヤンも含め、関係者一同が勢ぞろい。順に話を伺っていくと、この上演には、いくつか高いハードルがあることがすぐに分かった。

まず、ヤンに楽譜のことを尋ねる。すると、「むかしむかし…」は、スコアだけが市販され、他はレンタル扱いになるという。

過去、筆者には、上原 宏さんが音楽監督、指揮者をつとめる東芝府中吹奏楽団によるベルト・アッペルモント(Bert Appermont)のミュージカル「サタンの種(Zaad Van Satan)」上演のお手伝いをさせていただいた経験があり、その楽譜も同様にレンタル譜だったので、ヤンの話から、演奏者と出版社との手続きや約束事が容易ではないことが想像できた。

一方、高山市は、予算執行が年度ごと、つまり、文化芸術祭が催される会計年度に入った2016年4月以降の支払いになるとの説明が大萱さんからあった。しかし、指揮をする竹内さんからは、演奏をするウインドオーケストラが、市中の中高生の合同バンドであり、練習のために楽譜はもっと早く、できれば2015年の秋あたりまでには欲しいという要望が出る。

まず、このタイムラグをベン・ハームホウトスに認めさせる必要があった。

次に、これが肝だったが、主催側としては、ドイツ語の歌詞や台詞をすべて“日本語”に訳して上演したい、つまり高山としては“日本語版世界初演”というステータスがひじょうに大切な条件になるという話が出た。

もちろん、ドイツ語の歌詞と台詞にも、作者がおり、出版社がそのコピーライトを管理しているので、翻訳のチェックや許諾を出版社の日本法人である東京のハル・レナード・MGBが処理する必要がある。当然、作品の規模に応じた許諾料が発生することになるが、必要なものは予算に組み入れるから問題ないといわれる。

大萱さんの熱意に、こちらも押され気味だ!

また、日本語での上演となると、関西弁まじりの“あやしい日本語”を操るヤンと言えども、指揮はできない。アドリブも含め、舞台上に飛び交うすべての日本語に即応できないからだ。もちろん、これはヤンも納得済み。

他にも、細かい課題がいくつかあったが、それらを確実に1つずつクリアしながら、やっとたどり着いたのが、9月4日の初の通し稽古だった。

ここまで、およそ2年の時間が流れていた。

この日、それまで別々に練習していたウィンドオーケストラ、語り手、俳優、児童合唱が一堂に会した訳だから、それはそれは壮観。そして、それぞれのグループが自分たち以外のパートがどんなことをやっているのかをお互いに初めて意識したわけで、多少戸惑いを見せながらもモチベーションの高い稽古となった。駆けつけた市の担当者も感動の様子だ!

各セクションは、この日判明した課題を持ち帰って各個にリハーサル。前日の総練習をへて、2016年9月18日(日)、高山市民文化会館での本番の日を迎えた。

コンサートのタイトルは、「高山市制施行80周年記念 第2回飛騨高山文化芸術祭こだま~れ2016 ES WAR EINMAL…(むかしむかし・・・)日本初演・日本語版世界初演」。

“こだま~れ”とは、美しい山々に囲まれる高山らしいネーミングだ。

この日、1280名収容の大ホールは、溢れんばかりの聴衆が集まり、急遽予備席も準備し、出演者のために用意した座席まで開放するような大盛況!!

高山市内の小学生・中学生・高校生を主体とする“こだま~れジュニアコーラス”、“こだま~れウィンドオーケストラ”、“こだま~れアクターズ”が演じた「むかしむかし…」は、集まった市民たちに大きな感動をもたらした。

ヤンや筆者らとともにこの上演を観た高山市副市長の西倉良介さんも、思わずスタンディング・オーべ―ションで、『ウチの子供たちがこんなすばらしいことができるなんて、信じられません。感動しました。』と率直な感想を述べられた。

指揮者の竹内さんから促され、ステージに駆け上がる作曲者のヤンと合唱指導に当たられた平田 誠さんにも万雷の拍手が贈られる。

澄み切った水やおいしい空気、そして有名な高山祭だけじゃない。

こんなことができるこの町が大好きになっていた!

▲あかずきん

▲おおかみ

▲王子といばら姫

▲カーテンコール

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの

▲25cm LP – On the Mall(米Decca、DL 5386)モノラル

▲LP – I Love to hear a Band!(米Decca、DL 8445)モノラル

▲The Wind Band – Richard Franko Goldman著(Allyn and Bacon、1962)

20世紀アメリカの吹奏楽史において、エドウィン・フランコ・ゴールドマン(1878~1956)とリチャード・フランコ・ゴールドマン(1910~1980)の父子がのこした功績は、アメリカのバンド指導者が例外なく広く認めるところだ。

父エドウィンは、1911年に誕生したニューヨークの有名なプロ吹奏楽団“ゴールドマン・バンド”の創設者であり指揮者で、作曲家としてもおよそ150曲の作品をのこした。アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A.)の初代会長としても知られる。

わが国では「木陰の散歩道」という邦題で親しまれる「オン・ザ・モール(On the Mall)」も、エドウィンの代表作の1つで、曲名は、ゴールドマン・バンドがしばしばコンサートを催した野外音楽堂ナウムブルク・バンドシェル(Naumburg Bandshell)が建つニューヨーク・セントラル・パーク最大の並木道“ザ・モール(The Mall)”をさしている。

鋳鉄作りの小さなバンドスタンドに代わって、ナウムブルク・バンドシェルが建設されたのは1923年のことだ。ニューヨーク市民がパーク内にオーケストラも演奏可能なステージを求めたことがきっかけだったと言われている。

第20話でとりあげたノーマン・スミス(Norman Smith)とアルバート・スタウトミアー(Albert Stoutamire)の共著「Band Music Notes」(Revised Edition、Kjos、出版:1979年)の表紙写真のバンドシェルがそれで、名称は、建設資金を提供した銀行家エルカン・ナウムブルク(Elkan Naumburg)の名からとられた。

マーチ「オン・ザ・モール」は、このバンドシェルの完成年と同じ1923年の9月29日、エルカン・ナウムブルク氏を称えるためにバンドシェルに迎え、オーケストラ指揮者フランツ・カルターボーン(Franz Kaltenborn)の指揮、ゴールドマン・バンドの演奏で初演された。

トリオで、“ラララ”と歌ったり、“口笛”を吹いたりする箇所があるこの曲は、ゴールドマン・バンドのお気に入りとして繰り返し演奏され、レコードがLP時代になった後も、ズバリ曲名をタイトルとするアルバム「On the Mall」(米Decca、DL 5386、モノラル、リリース:1952年)のほか、有名なノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell)のイラストがジャケットに使われたアルバム「I Love to hear a Band!」(米Decca、DL 8445、モノラル、リリース:1957年)など、何度もレコード化され、ヒット曲となった。

「木陰の散歩道」という邦題は、吹奏楽にも造詣が深かった音楽評論家、堀内敬三さんの作だと言われている。

一方、息子リチャードは、コロムビア大学卒業後、パリに渡り、ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887~1979)に作曲を師事。帰国後、1937年から1956年の間、ゴールドマン・バンドの副指揮者をつとめ、1956年の父の死後、そのあとを受けて正指揮者となった。

音楽博士としてリスペクトされる存在であり、1961年に執筆し、翌年出版された代表的著作「ウィンド・バンド(The Wind Band)」は、吹奏楽の歴史から、編成、レパートリー、オリジナル作品、編曲とスコアリング、課題まで、幅広いテーマを豊富な資料(スコアや写真など)を使いながら解説した、当時としては類例を見ない書物で、世界中の多くのバンド関係者に大きな影響を及ぼした。もちろん、筆者も多くのことを学んだ。

書名を“ウィンド・バンド”としたことも画期的だった。

この“ウィンド・バンド”というワード、それ自体は、日本にもちょくちょく顔を出すようになったイギリスのブラスバンド“ブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)”の歴史にも、19世紀に“ウィンド・バンドとして創設”(ラフに和訳すると、木管楽器も入った吹奏楽編成で創設)というくだりがあるので、別段新しいものでも何でもない。

しかし、1980年代に筆者が音楽解説の中で使い始めると、各方面から(まるで“潰してやろう”とでもいうような意図さえ感じられる)陰口に晒された。まるで鼻つまみもの扱いだ。おそらく、それまでの日本の音楽界の常識にはなかった“おかしな新語”を作りだした田舎出の解説者がそれを振りかざして生意気だということだったのだろう。

旧態依然とした体質から抜け出せないレコード会社の編成担当者の、音楽上の事象を深く理解したり時代の移り変わりをタイムリーに捉える能力の無さも呆れるばかりだった。

もちろん、筆者が使う以前から、CDのオビに“WIND BAND”という文字を入れてリリースする佼成出版社のような新進気鋭の会社もあったが….。

一方で、鈴木竹男さんのように、自身が指導・指揮をするバンドの愛称を“阪急少年音楽隊”から“阪急商業学園ウィンドバンド”(後の“向陽台高等学校ウィンドバンド”。現在の“早稲田摂陵高等学校ウィンドバンド”)と改名する理解者も現れ、当時このバンドがよく登場した朝日放送(大阪)の番組でも、看板アナウンサーの道上洋三さんが“ウィンド・バンド”というワードを使った。

話を元に戻そう。

エドウィン、リチャードのゴールドマン父子の業績の中で今も輝きをまったく失わないことの1つが、バンドのために書かれたオリジナル・レパートリーの開発だった。

今から1世紀以上も前の1910年代の話である。

オーストラリア出身のすばらしいピアニストで作曲家のパーシ―・グレインジャー(Percy Grainger、1882~1961)とエドウィンの親交が始まったのもこの時代で、直接的には、エドウィンが応募作の審査をグレインジャーに依頼したことがきっかけだった。

1937年3月7日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催されたA.B.A.年次総会の最終日に作曲者の指揮で初演された「リンカーンシャーの花束(Lincolnshire Posy)」もまた、A.B.A.会長のエドウィンの委嘱で生まれた作品だった。(興味深いことに、この作品のスコアの曲名のすぐ下にある短い説明文には、“set for Wind Band”というくだりが出てくる。)

ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev、1891~1953)とも親交があり、作曲者から送られてきた新作「スパルタキアード行進曲(Athletic Festival March)」(作品69-1、1935年)をアメリカ初演したのもエドウィン指揮のゴールドマン・バンドだった。

そして、父のエドウィンもしくは子のリチャード、あるいは特別なゲストが指揮をつとめたゴールドマン・バンドは、ナウムブルク・バンドシェルを含む各会場のコンサートで、委嘱作の初演や海外オリジナルのアメリカ初演あるいはニューヨーク初演をつぎつぎと行った。

ジャケットにナウムブルク・バンドシェルでのゴールドマン・バンドのコンサートの写真が使われている「Band Masterpieces」(米Decca、DL 78633、ステレオ、リリース:1958年)と管楽器の写真をあしらった「The Sound of the Goldman Band」(米Decca、DL 78931、ステレオ、リリース:1962年」のフランコが指揮した2枚のLPは、父子の成果の集大成といっていい。

曲目を見ると、フランソワ=ジョセフ・ゴセック(Francois-Joseph Gossec、1734~1829)の「古典序曲(Classic Overture)」やフェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy、1809~1847)の「吹奏楽のための序曲(Overture for Band)」、シャルル・シモン・カテル(Charles Simon Catel、1773~1830)の「序曲ハ調(Overture in C)」のアメリカ初演も、ウィリアム・シューマン(William Schuman、1910~1992)の序曲「チェスター(Chester)」のニューヨーク初演も、すべてゴールドマン・バンドが行っていたことがわかり、とても興味深い。

また、ジャケットには、曲名、作曲者名、ゴールドマン・バンドの初演日、指揮者名などの詳細が整理されて載っており、さすがは音楽博士の仕事だとうならせる。

例えば、グレインジャーの「子供たちのマーチ“丘を越えてかなたへ”(Children’s March“Over The Hills And far Away”)」の項には、こう書かれてある。

For Band and Piano. The Composer at the Piano. Composed in 1918. First Performance: The Goldman Band, June 6, 1919, Percy Graingerconducting, Ralph Leopold, piano.

(バンドとピアノのための。(このレコードでは)作曲者がピアノを担当。1918年に作曲。初演: ゴールドマン・バンド。1919年6月6日。パーシ―・グレインジャーの指揮。ラルフ・レオポルドのピアノ。)(カッコ内の注釈は、筆者)

時を超える第一級の資料とはこういうものを指す!

当時、米Deccaレーベルと契約関係にあった日本のレコード会社は、テイチクだった。演歌でおなじみの老舗レコード会社だ。

もちろん、米Decca音源のゴールドマン・バンドのレコードもつぎつぎ国内リリースされた。しかし、いわゆる“マーチ黄金時代”の話だ。テイチクが関心が寄せ、発売されたのはすべてマーチだった!

吹奏楽のレコード史上けっして見逃すことのできない「Band Masterpieces」と「The Sound of the Goldman Band」の両盤は、テイチクには見向きもされなかった。

幸いにも、これら収録曲の多くは、その後、およそ15年ほどの時間をかけて、日本国内で新たに録音されるなどして紹介され、今も演奏されるわが国のバンドのレパートリーとなった。

しかし、ゴールドマン・バンドの両盤を見るたび、それらのレパートリーが“ずっと以前からまとまって収録されていた”という衝撃的事実にいつも突き当たる。

これをいったい何と表現したらいいのだろうか。

1960年代初頭といえば、アメリカから“アメリカ空軍交響吹奏楽団”(公演名)、フランスから“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(同)が来日し、日本の音楽界の“吹奏楽”に対する認識に大きな衝撃を与えた時代だ。間違いなく何かが変わり始めていた。しかし…。

我々は、間違いなく遠回りをしている!

▲LP – Band Masterpieces(米Decca、DL 78633)ステレオ

▲Band Masterpieces – A面

▲Band Masterpieces – B面

▲LP – The Sound of the Goldman Band(米Decca、DL 78931)ステレオ

▲The Sound of the Goldman Band – A面

▲The Sound of the Goldman Band – B面

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第32話 祝・指輪物語30周年

▲“指輪物語”30周年演奏会ポスター

▲Johan de Meij

もし、ウィンドオーケストラの世界で1980年代から90年代にかけて起こった最もエポック・メーキングなできごとを“1つだけ挙げよ”と問われたなら、筆者なら間違いなく、この時代、それまでのアメリカの作曲家に加え、ヨーロッパの作曲家の活躍が始まったことを挙げる。

「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」(ウィンドオーケストラ版初演:1986年)を書いたイギリスのフィリップ・スパーク(Philip Sparke / 1951年生)、交響曲第1番「指輪物語(The Lord of the Rings)」(初演:1988年)を書いたオランダのヨハン・デメイ(Johan de Meij / 1953年生)、交響詩「スパルタクス(Spartacus)」(初演:1988年)を書いたベルギーのヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost / 1956年生)などなど、今日ヨーロッパのビッグネームとなった彼らは、この時代に衝撃作とともに登場した。

名前を挙げた3人に共通するのは、まず全員が1950年代の生まれであること。そして、国籍こそ違えども、サンダーバードやビートルズの時代に、同じものを見たり聞いたりしながら、多感な青年期を過ごしたことだ。

彼らの少し後に日本でも知られるようになった「ハリスンの夢(Harrison’s Dream)」を書いたイギリスのピーター・グレイアム(Peter Graham / 1958年生)とともに、筆者の友人たちの中でもとくに“黄金の50年世代”として、別格のつきあいをさせていただいている。(周囲には、とっくにバレているだろうが….。)

時は流れて、2018年の3月15日(木)。オランダ、リンブルフ州シッタルトのデドメイネン劇場(Schouwburg De Domijnen, Sittard)で、ある特別な演奏会が開催された。

コンサートのタイトルは、「“指輪物語”30周年演奏会(JUBILEUM 30 JAAR CONCERT – THE LORD OF THE RINGS)」。

この日は、ヨハンの出世作、交響曲第1番「指輪物語」の世界初演からちょうど30周年。ベルギーからかつて世界初演を行なった“ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団(Grand Orchestre d’Harmonie de la Musique Royale des Guides Belges)”とその時の指揮者ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)を招き、30年前(1988年3月15日)とまったく同じプログラムをそのまま演奏するという、“指輪物語ファン”にはなんとも堪えられないマニアックな催し。

別の言い方をするなら、初演から30年たった今も楽譜がベストセラーで、いったい何千回演奏されたのか、作曲者も皆目見当がつかないというくらい大ヒットとなったこのシンフォニーの“30歳の誕生日”をみんなで祝おうという好企画だ!

(“指輪”以外のプログラムは、エクトール・ベルリオーズ(Hector Berlioz)の歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ(Benvenuto Cellini)」序曲、ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)の「序奏、主題と変奏(Introduction, Theme and Variations)」、ジュール・ストレンス(Jules Strens)の「ダンス・フュナンビュレスク(Dance Funambulesque)」の3曲。「ベンヴェヌート・チェルリーニ」序曲は、かつて、東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピース・シリーズ 16」(TOCZ-0016)のために、ノルベール・ノジが楽長だった頃の“ギィデ”にレコーディングを依頼したなつかしい曲だ!)

このオランダでの“指輪30周年コンサート”と同じ月の3月4日(日)、大阪のザ・シンフォニーホールで行われた「大阪音楽大学第49回吹奏楽演奏会」(参照:第28話第29話)を客演指揮するためにやってきたヤン・ヴァンデルローストとは、当然この話題で盛り上がった。

かなり早い時期から、この演奏会のことをヨハンが知らせてきていたからだ。

そのとき、ヤンは『夫婦でこの演奏会に行くんだ』と嬉しそうに話していた。

ヨハンとヤンは、若い頃、ともにトロンボーンを吹いており、筆者が2人と別々に知り合う前からの古い友人だった。ヨハンの結婚式のために、ヤンが「結婚行進曲(Wedding March)」を書き、親しい音楽仲間とともに演奏したほどの間柄だ。

なんとも羨ましい。『君は行かないのか?』と訊くヤンに、『残念ながら、行けないんだ。ヨハンとノルベールによろしく。』と言うのがやっとだった。(日本には、カクテーなんとか、という偏頭痛が起こりそうな国民的行事がある時期だった。)

その後、帰国したヤンからは、このコンサートについて、アップデートでいろいろ続報が送られてきた。現地では相当盛り上がっているようだ。で、返信のついでに“当日のプログラム”を送って欲しいと頼むと、速攻で“了解”の返信がくる。

しかし、演奏会翌日、ヤンから“印刷されたプログラムはなかった”と残念なメールがきた。なんでも、コンサートを録音したオランダの放送局PRO 4のクラシックの解説者が司会進行をつとめていたんだそうだ。

ヤンのメールはつづき、『昨夜の演奏会は、グレートだった。ヨハンも大勢の友人や仲間たちに囲まれ、ハッピーだったし、“ギィデ”の演奏もエクセレントだった…..。』とのアツい感想が、前日の興奮を生々しく伝えてくれる。

そう言えば…..。このヤンの感想を読んでいる内、ヨハンと知り合ってしばらくたった頃、彼が送ってくれた1988年3月15日の世界初演ライヴのラジオ放送(ベルギー国営放送)を録音したカセット・テープを聴いたときの興奮を思い出した。

この時、筆者の手許には、すでにピエール・キュエイペルス(Pierre Kuijpers)指揮、オランダ王国陸軍バンド(Koninklijke Militaire Kapel)の演奏盤(Koninklijke Militaire Kapel、KMK 001 / 1989)、アリ―・ヴァンベーク(Arie van Beek)指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)の演奏盤(JE Classics、900101 CD / 1990)の2枚の「指輪物語」のCDがあった。

もちろん、ともに充実した内容のCDだったが、ヨハンが送ってくれた初演が入ったカセットからは、それらとはまったく違う種類の、この交響曲がナマ演奏で聴衆に与えるであろう、音楽の内面からほとばしる熱いエネルギーが感じられたのだった。

筆者と「指輪物語」との長い旅路は、実にこの時に始まったと言っていい。

それから何年もたった大阪でヨハンと呑んだ時、『将来のプロジェクトについて、何かいいアイデアはあるかい?』と尋ねる彼に、筆者は『あのカセットで聴かせてくれた初演ライヴをCD化したらどうだい。みんな本当の初演を聴きたいのでは、と思うんだけど。』と答えた。

ヨハンは、そのとき、『あれには、少しミスがあったし…..。放送録音にはいろいろ制約があるし…。』と、あまり乗り気ではなかった。

確かに、演奏には初演につきものの小さなキズはあったし、楽譜の方も、その後マイナー・チェンジが何度か行われていた。彼がいいたいこともわからないではなかったので、この話は一旦そこで霧のように消えた。

ところがである。“指輪物語25周年”を迎えた2013年、ヨハンは突如として、「指輪物語」の手書きスコアに“ギィデ”の初演ライヴを付録CDとして付けた“超豪華本”を刊行したのだ!!

(オイオイ、そのアイデアって?  けど、まあいいか!)

最終的に、この豪華本は、発想自体が話題となり、大きな注目を集めたが、本体のあまりの重量のために輸送中(とくに空輸中)の破損事故も多く、ビジネスとしては大きな成功には至らなかったようだ。

人にはそれぞれ、記憶にとどめておきたい日がある。

ヨハンにとって、それは、1988年3月15日。

交響曲第1番「指輪物語」がこの世に生まれ出た、その日だった。

▲CD – The Lord of the Rings(Koninklijke Militaire Kapel、KMK 001)

▲CD – The Amsterdam Wind Orchestra(JE Classics、900101 CD)

▲25周年豪華本 – The Lord of the Rings 25 Years

▲付属CD – World Premiere 1988 (Amstel Classics、CD-2013-02)

▲付属CD – World Premiere 1988 (ジャケット裏)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第31話 日本初の吹奏楽LP

▲LP – 日本コロムビア(Columbia)、KL-5005(モノラル)

▲4曲入りEP – 日本コロムビア(Columbia)、EM-144(モノラル)

▲日本コロムビア(Columbia)、KL-5005、A面レーベル

▲日本コロムビア(Columbia)、KL-5005、B面レーベル

1961年に初来日したギャルド・レピュブリケーヌ(La Musique de la Garde Repubicaine)の独占録音権を手にした東芝音楽工業の気合の入り方は、半端ではなかった。

それは、来日プログラムの掲載広告の文言(第23話)や、プログラム付属のソノシートに録音されたアナウンスの内容(第30話)にも反映されていた。

しかし、フランソワ=ジュリアン・ブラン(Francois-Julien Brun)が指揮した日本初のギャルド・レピュブリケーヌのLPレコードは、それ以前に、日本コロムビアから発売されていた。

1953年、演奏旅行で訪れたアメリカでレコーディングされ、日本では、1956年3月25日に発売された「フランス行進曲集/アメリカ行進曲集(Marches Militaires Francaises – Marches Militaires Americaines) 」(日本コロムビア、KL-5005 / モノラル)がそれだ。

このレコードには、A面のトップにフランス国歌、B面のトップにアメリカ国歌が入り、それぞれの国歌につづいてフランスのマーチが7曲、アメリカのマーチが6曲が収録されていた。

また、それは、日本初のギャルド・レピュブリケーヌのLPというだけでなく、同時に日本国内で製造・リリースされた“日本初の吹奏楽LP”でもあった。

発売元の日本コロムビアと海外のレーベル各社とのつながりは、かなり複雑だが面白い。

第2次世界大戦前、日本蓄音機商会という社名で活動していた同社は、1926年にまず英Columbiaと提携関係を結ぶ。その後、翌1927年には米Columbiaとも提携を結び、その成果として、イギリスとアメリカのColumbiaの原盤を日本国内で“コロムビア・レコード”として発売開始。商号も、戦後、1946年に“日本コロムビア”と改称したという歴史をもっている。

実は、そこに出てくる英Columbiaと米Columbiaの関係も面白い。

英Columbiaは、もともと米Columbiaのイギリス法人として作られた会社だった。しかし、やがて両社の資本関係が切れると、各々の国で別々のColumbiaレコードとして活動を開始した。当然、それぞれの録音アーティストも違ったが、日本蓄音機商会は、そんな両社と提携して“コロムビア・レコード”の日本発売を始めたことになる。

その後、英Columbiaは、1931年に“蓄音機から流れる亡くなった主人の声を聴く犬”のトレードマークでおなじみの“His Master’s Voice”(HMV)レーベルのレコードを発売していた英Gramophoneと合併。“Electric and Musical Industries Ltd”(EMI)という大レコード会社に発展した。

結果、“Columbia”と“His Master’s Voice(HMV)”は、英EMIの2大レーベルとして躍進する。

(余談ながら、日本でビクターが商標として使用している“犬のマーク”も、コロムビアが商標として使っている“音符のマーク”も、イギリスではともにE.M.I.の商標として親しまれた。)

話を日本初のギャルドのLPに戻すと、このアルバムは、日本コロムビアのほか、“仏Columbia”、“英Columbia”、“米Angel”の各レーベルからリリースされている。

■MARCHES MILITAIRES FRANCAISES ET AMERICAINES
(仏Columbia、FCX 374 / モノラル)

■MARCHING WITH THE GARDE REPUBLICAINE
(英Columbia、33SX 1051 / モノラル)

■FRENCH AND AMERICAN MILITARY MARCHES
(米Angel、35260 / モノラル)

発売各社の内、仏Columbiaは、もともと英Columbiaの子会社として設立された。もう一方の米Angelは、米Columbiaとの関係が切れて完全な別会社になった英Columbiaが、自社の音源をアメリカ国内で販売するために作られた。つまり、両者は英Columbiaの企業戦略から作られた姉妹関係にあるレーベルだ。

面白いのは、当時のAngel盤が、すべてイギリスでプレスされ、フランスで印刷した高級感のあるジャケットに入れてアメリカで販売されたことだ。その背景には、当時のアメリカの顧客が、自国プレスよりヨーロッパ・プレスに、より高いステータスと信頼を感じており、またAngelにも、ヨーロッパの高級感をそのままにアメリカの音楽ファンに届けるという確かな戦略が存在した。

しかし、ギャルドのこのアルバムに関しては、ジャケットの基本デザインと曲目は同じながら、英・米盤とフランス盤との間に顕著な違いがあった。

それは、英・米盤では、B面最後のトラック-7に入っている「アメリカ国歌」が、フランス盤では、B面トップのトラック-1に入っている点だ。これは、おもしろい。

そこで、レーベルに印刷されている原盤(マスター)の管理番号をチェックすると、フランス盤のA面が“XLX 311”、B面が“XLX 312”であるのに対し、英・米盤は、A面が同じ“XLX 311”なのに、B面は“XLX 39”と印字されている。この管理番号だけ、やけに若い。

ここで使われている記号は、最初の“X”がモノラル、次の“L”が仏Columbia、最後の“X”が12インチ(30センチ)LPに与えられるものなので、これらはすべて仏Columbiaのマスターの管理番号であることがわかる。また、数字の方は、マスターが登録された順を表す。

この事実からわかることは、1953年の録音後、まずアメリカ国歌とアメリカのマーチが入った“XLX 39”のマスタリング(もしくは原盤登録)が行われたが、何らかの事情でフランス国歌とフランスのマーチは後回しにされたこと。後日、発売が決まった際、“フランス国歌とフランスのマーチ”が入ったマスター“XLX 311”がまず登録され、同時にフランス盤用に「アメリカ国歌」の収録順を変更したB面の新マスター“XLX 312”が新たに登録されたことだ。

分かりやすく言うと、英・米発売盤が録音当時のオリジナル・プランのリリースなのに対し、フランス盤は、その後、「アメリカ国歌」の曲順が変更されたプランでプレスされたということ。恐らくは、演奏に訪れた相手国の国歌の扱いについての制作者の考え方に違いがあったのだろう。

結果、フランス盤は、両国国歌がともに各面の最初に演奏されるスタイルとなった。

日本コロムビア盤は、このフランス盤と同じスタイルでプレスされ、レーベル上の原盤の管理番号も同じ“XLX 311”と“XLX 312”だった。つまり、この日本盤は、フランス盤と同じマスターから制作されたことが判る。

この事実は、これからギャルドに録音を依頼しようとしている東芝にとっては脅威と映った。

仏Columbiaは、ピエール・デュポン(Pierre Dupont、1888~1969 / 在職:1927~1946)がギャルドの楽長に就任した後の全レコードを録音しており、ひょっとするとColumbiaとの間に専属契約のようなものが存在する可能性が懸念されたからだ。

しかし、招聘元の朝日新聞社を通じてフランス政府に照会した結果、“そのような契約はもはや存在しない”という回答を得た。東芝は、これでやっと前に進むことができた。

一方、1956年にこのアルバムをリリースした日本コロムビアも、当時は収録曲にスーザの「星条旗よ永遠なれ」やバグリーの「国民の象徴」といったおなじみの“マーチ”が入っていることに魅力を感じてマスターを取り寄せたのであり、その5年後にギャルド初来日が実現するなど、その時点では知るよしもなかった。

しかし、老舗レコード会社として誉れ高い日本コロムビアは、1960年に発足したばかりの新参者の東芝音楽工業に出し抜かれたままでは終わらなかった。

来日直前の1961年6月、ジャケットを新しく作り直し、このアルバムを再リリース(日本コロムビア、SL-3072 / モノラル)したのだ。まるで来日記念盤のようなタイミングで!!

歴史に“もし”というテーマは、つきものだ。

もし、ギャルドに専属契約が存在していたら、東芝の奇跡のテイクワン録音、フローラン・シュミットの「ディオニソスの祭り」は、間違いなく存在しなかった!!

▲LP – 仏Columbia、FCX 374(モノラル)

▲仏Columbia、FCX 374、B面レーベル

▲英Columbia、33SX 1051、B面レーベル

▲米Angel、35260、B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第30話 ソノシートの頃

▲ソノシート – 朝日ソノラマ、1961年12月号

▲ソノシート – 朝日ソノラマ、1962年1月号

▲ソノシート – アメリカン・マーチ(朝日ソノラマ別冊、B41、1961年10月)

かつて、“ソノシート”の時代があった。

それは、1958年にフランスのレコード・メーカー“SAIP”が開発した厚みが約0.2ミリ程度の極めて薄い塩化ビニール製のレコード状音声記録メディア“フォノシート(Phonosheet)”に端を発し、日本でも1959年から製造・販売が行なわれたメディアだ。

盤の色は、白、赤、青、緑、黒などがあり、当初は音質もあまり良くなかったが、なにしろ植木 等(うえき ひとし)のヒット曲「これが男の生きる道」(1962 / 作曲:萩原哲晶 / 作詞:青山幸男)で“貰う月給は 1万なんぼ~”と歌われた時代のことだ。

大量生産方式がまだ確立していなかった一般的なレコード盤(シングル、EP、LP)がかなり高価だったため、レコードと同様に再生可能であるだけでなく、大量生産が効き安価な“ソノシート”は、さまざまなフィールドで重宝された。

また、紙のように極めて薄く、厚みがほとんどないメディアとしての特徴は、雑誌やカタログなどの冊子に付録として挟み込む音声媒体としても適しており、LPジャケットより詳細な楽曲解説や写真、歌詞まで印刷された音楽ブックやアルバム、楽譜等の紹介サンプル音源などにも活用された。

「鉄腕アトム」や「鉄人28号」、「8マン(エイトマン)」、「狼少年ケン」など、放送が始まったばかりのテレビ・アニメとタイアップし、主題歌とドラマのダイジェストを組み合わせたコミック付きの音楽ブックは、ソノシートの独壇場だった。

吹奏楽のジャンルでも、“ソノシート”は、結構使われた。

東京消防庁音楽隊(指揮:内藤清吾)や陸上自衛隊中央音楽隊(指揮:須磨洋朔)が演奏した“軍歌集”や、東京藝術大学の吹奏楽研究部出身者や教員、学生らで編成された東京吹奏楽協会(指揮:山本正人)や海外のミリタリー・バンドが演奏した“マーチ・アルバム”などが各社からリリース。中には、録音のための臨時編成のバンドだけでなく、何らかの事情で実在する吹奏楽団の名を伏せて架空のバンド名をつけて発売されたものすらあり、“ギャルド・日本吹奏楽団”(指揮:服部 正)という、かなり紛らわしい演奏団体名のバンドによるマーチ・アルバムもあった。

他方、国内外の出版社が吹奏楽の新しい楽譜を紹介するためのサンプル盤にも使われ、毎日新聞社が出場者の記念品などの目的で大阪市音楽団(指揮:辻井市太郎)の演奏で制作した“センバツ高校野球”の入場行進曲(非売品)もまた“ソノシート”だった。

しかし、吹奏楽の世界で、“ソノシート”が最も劇的な形で使われたのは、1961年のギャルド・レピュブリケーヌ初来日のときだった。

各演奏会場で聴衆が手にした公演プログラム(折り返しを除き、全38ページもあった)の巻末に、なんと“ギャルドの演奏入りのソノシート”が挟み込まれていたのだ。(第22話~第24話参照

この“ソノシート”は、男性アナウンサーによるつぎのアナウンスで始まる。

『世界最高のギャルド・レピュブリケーヌ(*)交響吹奏楽団の来日を記念して、その名演を後々まで愉しんでいただくよう、はじめての試みとして、このプログラムに同楽団の吹き込んだソノシートを付けました。シートの制作は、東芝レコード、エンジェル・レコード、キャピトル・レコード、キャップ・レコード、および東芝フォノブックを発売している東芝音楽工業で、録音テープはフランスから直送で。では、フランス国歌“ラ・マルセイエーズ”、日本国歌“君が代”、それにサンサーンス作曲“英雄行進曲”の順に、その名演を愉しんでいただきましょう。』

その後、演奏が始まり、3曲目の“英雄行進曲”の途中でフェイドアウトされて、

『東芝音楽工業では、ギャルド・レピュブリケーヌ(*)交響吹奏楽団の来日を機会に、そのレコード吹き込みを行ないます。曲目は、“軍艦マーチ”のほか、同楽団得意の曲、皆様に親しまれている曲ばかりを選び、すばらしいステレオLPとして、明春発売の予定です。どうぞ、この最高の楽団を、最高の録音、最高の品質を誇る東芝レコードでお愉しみ下さい。』

とアナウンスが入って終る。

後半のアナウンスは、レコード発売の完全な広告だが、ソノシートの収録時間のためなのか、広告アナウンスを入れるための必然からなのか、“英雄行進曲”の演奏途中でフェイドアウトされてしまうのは、どう考えても残念だった。しかし、たった今コンサートで聴いたばかりの楽団の演奏を帰宅後にも聴けるという企画、それ自体はとても斬新な発想だった。

ただ、そこまで凝ったにも関わらず、アナウンス原稿がそうなっていたからだろうが、(*)の箇所の“ギャルド・レピュブリケーヌ”が、何度聴いても“ギャルド・レプブリケーヌ”のように聴こえるのは、どうにも解せない。“ピュ”じゃなく“プ”と。

少し脱線するが、NHK-FMの番組「ブラスのひびき」の3代目のナビゲーターをつとめていた1996年のある日の収録中、番組の担当ディレクター、干場 優さんから、おかしなところで感心されたことがあった。

『“ギャルド・レピュブリケーヌ”を一度も噛まれないのは、さすがです。ウチのアナウンサーによると、これは、なんか、とても喋り辛いんだそうで、番組収録をアナウンサーでやったときは、大変なことになりました。何度録り直しをやったかわかりません。』と。

アナウンスのトレーニングなどをまったく受けずに、いきなりナビゲーターになってしまった筆者からすると、番組中お聴き苦しい場面がずいぶんあったはずで、今考えても恐縮するばかりだが、逆に滑舌のトレーニングを積んだプロのアナウンサーにとっては、“ギャルド・レピュブリケーヌ”というワードが噛みやすい一種の“難敵ワード”だったのかもしれない。

話を元に戻すと、ギャルドの初来日プログラムに、当時の最新メディアである“ソノシート”がついていたのは、かなりセンセーショナルな出来事だった。

この当時、東芝音楽工業だけでなく、ギャルド招聘元の朝日新聞社の系列にも、フランスと提携してソノシートの発行を始めていた朝日ソノプレスという会社があり、1959年12月から“音の出る雑誌”というキャッチ・フレーズで、月刊の「朝日ソノラマ」を刊行していた。

ギャルドが来日すると、同社は、1961年11月3日(金)、新宿の東京厚生年金会館で行われた“ギャルド歓迎演奏会”を収録。そのライヴ音源の一部を、「朝日ソノラマ」の1961年12年号と1962年1月号で、記事とともに取り上げた。正しく“音の出る雑誌”というスタイルで。

取り上げられた演奏は、1961年12月号に、フランソワ=ジュリアン・ブラン指揮、ギャルド・レピュブリケーヌの演奏で、フランツ・リストの「ハンガリー狂詩曲 第2番」、そして1962年1月号に、酒井正幸指揮、東京都豊島区立第十中学校吹奏楽部の演奏したアンブロワーズ・トマの歌劇「レーモン」序曲とカール・タイケのマーチ「旧友」だった。

同1月号に「ミュージック・プロフィル」というコラム記事を書いている大山記者の筆によると、この豊島十中の演奏には“ギャルド・レピュブリケーヌのブラン隊長みずから、絶賛の拍手を惜しまなかった”といい、日本側演奏団体の中で“最も感銘を与えた”演奏だったと紹介されている。

“豊島十中”の名は、この「朝日ソノラマ」で全国的に知られることになった。

一方のギャルドの「ハンガリー狂詩曲 第2番」も、臨場感のある録音で、クラリネットの派手なリード・ミスまで生々しく捉えている。こちらは、イントロの中で女性アナウンサーの声が被る。

『フランス美術展の開幕を飾って、ギャルド・レピュブリケーヌが来日致しました。指揮者ブラン隊長以下75名の絢爛豪華な交響吹奏楽は、毎夜の聴衆に深い感銘を与え、吹奏楽への認識を新たにしました。このリスト作曲、ハンガリア狂詩曲(**)第2番』は、さる11月3日、文化の日に行われた歓迎演奏会で録音したものでございます。』

ゆったりと落ち着いた速度で一語一語を確実に発音されているので、こちらのアナウンスでは、“ギャルド・レピュブリケーヌ”の名称はクリアだ。だが、それでもやや言い辛らそうな空気が漂っている。

しかし、一体、何なんだろうか。

“ギャルド・レピュブリケーヌ”。その栄光に満ちた名前は、ひょっとすると、プロのアナウンサー泣かせの難語だったのかも知れない。

▲ギャルド初来日プログラム – 広告頁とソノシート

▲ソノシート – スーザ・ステレオ大行進(ビクター出版、SMB-3008)の1枚

▲ソノシート – 第42回選抜高校野球大会(毎日新聞社、非売品)

▲ソノシート – バンドコンサート第1集(湖笛社、WA-1317)

▲ソノシート – ヤマハ吹奏楽シリーズ、乾杯の時ほか(ヤマハ音楽振興会、YBF-12)

▲ソノシート – 世界マーチ名曲集2(有信堂マスプレス、Maspress、62-8)