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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第37話 大阪府音楽団の記憶

▲LP – 吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1(東芝EMI、TA-60006)

▲吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1 – A面レーベル

▲吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1 – B面レーベル

かつて「大阪府音楽団」という名のプロの吹奏楽団が大阪に存在し、精力的な演奏活動を行なっていた時代があった。

全国的視野にたつと、正しく大阪ローカルな話題ではあるが、地元では今もって惜しむ声が出るほど、精緻なアンサンブルと透明なサウンドをもつひじょうにスキルの高い“ウィンド・アンサンフル”だった。

また、年間演奏回数が200回近かった年もあり、“精力的”と書いて何ら誇張のない、そんなエネルギッシュな楽団でもあった。

ん!? 「大阪府音楽団」!? いったい何だそれ!?

残念ながら、大阪以外で生活されている人にとっては、目の前で見たことも聴いたこともない存在だったろうから、“大阪”という字と“音楽団”という字が並んだ楽団名をみた瞬間、橋下市政の下で存廃問題に揺れ、市議会での廃止議決後、2014年に民営化した“オオサカ・シオン・ウインドオーケストラ”の前身「大阪市音楽団(通称:市音)」と同一視あるいは混同されてしまいがちな、正直言ってそれぐらいの認知度の楽団だったのではないだろうか。

しかし、だからだこそ、大阪ネイティブがしっかり語っておかねばならないヒストリーだってある。

「大阪府音楽団」(通称:府音)は、昭和27(1952)年10月、都道府県立としては全国唯一の職業吹奏楽団として創設。昭和天皇崩御によって元号が改まった平成元(1989)年の3月まで演奏活動を行った。37年間、実在したプロ吹奏楽団だった。

この楽団には、今やすっかり忘れられてしまった誕生前史がある。

もともと大阪府庁には、作曲家としても知られた江頭林次郎が指導、指揮をする“大阪府庁吹奏楽団”という府職員による職場のバンドがあった。彼らは、各方面のリクエストに応えて都合がつけば演奏に出向いていたが、次第に認知を得て演奏頻度が高くなるにつれ、通常の役所勤務の傍ら演奏活動を継続的に行うことが難しくなった。その結果が、府立の職業吹奏楽団創設へとつながったというわけだ。

編成は“40名前後”の中編成。

1956年から1964年まで刊行されていた月刊誌「吹奏楽研究(もしくは、月刊吹奏楽研究)」(発行:吹奏楽研究社。国会図書館には所蔵なく、全号ではないが、東京文化会館音楽資料室に所蔵を確認)の1961年3月号(No.67)の記事「プロバンドめぐり3 洋々たる前途の明るい大阪府音楽団 全国都道府県でただ一つの存在」には、沿革と38名の楽員のパート、氏名が紹介されている。

当時、大阪府知事室広報課(のち、大阪府企画部教育文化部)に所属し、同課長が団長をつとめた“府音”の演奏は、この頃、当初のマーチングやセレモニーのためのものから、ホール等におけるコンサート・バンドの活動中心へとシフトしていった。

大阪市内にあった毎日ホールや厚生会館文化ホール(後の大阪府立青少年会館)、大阪厚生年金会館中ホールなどで開かれる定期演奏会(府庁配布の招待券を持っていきさえすれば無料)では、アメリカで出版されたばかりの最新オリジナルが取り上げられることもあり、吹奏楽ファンには欠かせないコンサートとしてたいへんな人気を博した。

筆者も、1966年に府音に迎え入れられた井町 昭さんが指揮を振る定期は、欠かさず聴きに行ったものだ。

ウィリアム・シューマン(William Schuman)の「イエス涙を流したもう時(When Jesus Wept)」やロバート・ジェイガー(Robert Jager)の「アラモ(Alamo)」、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の「パッサカリア(Passacaglia)」などをはじめてナマ演奏で聴いたのも、すべて“府音”の演奏会だった。

また、当時としてはたいへん珍しく、パウル・ヒンデミット、モートン・グールド、ヴィットリオ・ジャンニーニ、ヴィンセント・パーシケッティ、ロバート・ジェイガー、アルフレッド・リード(金管と打楽器のための)、ポール・フォーシェ、フランク・エリクソン(第1番、第2番)のオリジナル交響曲も積極的に取り上げられた。

「創設20周年記念特別演奏会」(1972年11月9日、大阪厚生年金会館大ホール)や「朝比奈 隆 音楽生活40年 記念演奏会」(1973年5月25日、フェスティバルホール)など、機を捉えては“市音”と合同の大編成のステージも企画され、大阪フィルハーモニー交響楽団や関西歌劇団との協演も行なわれた。

1972年には、FM大阪の番組「大阪府の時間」のために収録(4月17日、大阪府立青少年会館)が行われ、毎月1回、同番組で府音の演奏が放送された。このほか、FM大阪は、「創設20周年記念特別演奏会」のライヴも放送した。

また、1974年8月12~14日、箕面市民会館で録音セッションが行われた東芝EMIのLP「吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1」(TA-60006 / 指揮:井町 昭、朝比奈 隆、大栗 裕 / リリース:1975年2月5日)は、府音絶頂期の演奏を伝えるレコードとして、今なお評価が高い。

しかし、府音の終焉は、突如として訪れた。

当時、府音友の会が発行していた会報「Fuon Echo(フオン・エコー)」の第9号(1989年春)に掲載された大阪府音楽団長、井上 正さんの「友の会会員の皆様へ」という一文が物語る内容は衝撃的だ。

『大阪府では、昭和27年の発足以来、「府音」の名で親しまれて参りました大阪府音楽団を、平成元年度を期して管弦楽団に再編し、その運営を大阪府が新たに設立する文化振興財団に移管すべく準備を進めております。この改革は、鑑賞機会の増大や音響機器の発達・普及により、府民の皆様の求める演奏がより質の高いものへと変化してきていることを受け、音楽専門家からなる懇話会のご意見も踏まえて行うものであります。

新たな楽団におきましては、これまでの音楽団の伝統を受け継ぎ、地域での演奏活動を通じて音楽の普及に努めるとともに、バレエやオペラの演奏等を通じて。音楽文化の振興を担う活動をすすめてまいります….。』(原文ママ)

こうして誕生したのが、大阪センチュリー交響楽団(現、日本センチュリー交響楽団)で、運営母体となる大阪府文化振興財団には、府が億単位の原資を出資した。

しかし、その設立事情の説明でよく見かける“府が運営したプロ吹奏楽団、大阪府音楽団を発展的に解消する形で設立”という“オブラートに包んだきれいごと”の文言に、筆者は強い違和感を覚える。とくに“発展的”と言う言葉に対して!?

『ええか、今はオフレコやけど。“吹奏楽なんかいらん”と言いよったオーケストラ推進派の評論家がおってな。府音をめちゃくちゃにしよったんや。』

すでに鬼籍に入られてしまったが、筆者の音楽の師の一人である市音の元団長、そして大栗 裕の「吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”」の委嘱者であり、初演指揮者だった永野慶作さん(1928~2010)の言葉だ。

いつも笑顔でひじょうに温厚な氏が、これほどの怒気をはらんだ言葉を吐露されたことをこの前にも後にも聞いたことがない。それを“ひとり言”に記す責は間違いなく筆者にあるが、すでに21世紀。もはやオフレコにしておく必要はどこにもないだろう。

そう言えば、指揮者の井町さんが府音を去った後の1976年以降、府音のレパートリーはガラリと変わり、「ナマオケで第九を歌おう」とか「フラメンコ カルメン」、「ピアノ協奏曲の夕べ」、「オペラ“ヘンゼルとグレーテル”全3幕」といったようなおよそ吹奏楽らしくない演目のコンサートもしばしば開かれるようになった。ために、府音に対する音楽的興味を完全に失ない、コンサートに足を運ばなかった自分がいた。

それでも、無くなるとなると、一抹の寂しさが脳裏をよぎった。

新たなオーディションの結果、オーケストラに残留が決まった府音のメンバーは3名だったと聞く。どこが“発展的に解消”だ。

壊すのは簡単。しかし、人が壊したものは、ゼッタイ元へは戻らない。

ゆえに、前記の“Fuon Echo”で井上団長が友の会の会員に寄せたメッセージの文末に近い部分も、ぜひにも引用して記憶にとどめたいと思う。

『来る18日に開催いたします第79回定期演奏会は、大阪府音楽団として最後の演奏となります。この演奏会では、これまでの音楽団活動の集大成とするため、全プログラムを吹奏楽のオリジナル作品でまとめ、団員一同が総力を結集して取り組みます…。』

1989年3月18日(土)、八尾市文化会館プリズムホールで行われた府音最後の定期演奏会にふれた部分だ。(指揮:小田野宏之)

いろいろな想いがつまったメッセージの一言一句が心にグサリと突き刺さった!

嗚呼、大阪府音楽団!!

▲LP – 創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会(日本ワールド、W-549)

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会 – A面レーベル

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会 – B面レーベル

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会プログラム

▲元団員がワープロ打ちで手作りした“大阪府音楽団主要演奏記録”

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第36話 ネルソン「ロッキー・ポイント・ホリディ」の事件簿

▲ロン・ネルソン(作曲者提供)

アメリカの作曲家ロン・ネルソン(Ron Nelson)と交友が始まったのは、1997年のことだった。

楽曲解説の必然性から、「冬の日のはじまりのための“モーニング・アレルヤ”(Morning Alleluias for the Winter Solstice)」(1989)と「パッサカリア(B-A-C-Hを讃えて)(Passacaglia (Homage on B-A-C-H)」(1992)についていくつか質問を書いたときのことだ。

当時は、電子メールのようなインターネット・ツールの利便性はまだまだこれからというときで、原稿をすべて鉛筆で書き、デジタル化にも積極的ではない筆者が持つ通信ツールと言えば、当然“電話”と“ファクシミリ”だけ。自然、海外との通常のやりとりは、緊急時の“国際電話”を除くと、もっぱら航空便(エアメール)だけだったが、ロンからの返信は、いつも迅速、そして要点が明瞭だ。

2人のやりとりのハイライトは、なんといっても、2007年秋に突然表面化することになった名作「ロッキー・ポイント・ホリディ(Rocky Point Holiday)」の“実は作曲年が違っていた”事件だろう!!

きっかけは、鈴木孝佳(タッド鈴木)指揮、TADウインドシンフォニーが、2007年6月1日(金)、大田区民ホール アプリコ(東京) で開いた“第14回定期演奏会”で演奏したこの曲のライヴ録音をCD化する話が固まったときのことだった。(CD:タッド・ウィンド・コンサート Vol.3 ヴィジルス・キープ、Windstream、WST-25006、リリース:2008年1月

もう21世紀に入っていたので、この時のやりとりは電子メールに進化していたが…。

結論を先にお話しすると、それまでアメリカと日本のすべての解説や資料に載っている“作曲:1969年”というデータが完全な事実誤認で、実際には3年前の1966年に曲が書かれていたということが判ってしまったという事件だった。

その顛末は、「スクープ!! ロン・ネルソンの人気曲『ロッキー・ポイント・ホリディ』の作曲年が書き換えられることになった!!」(バンドパワー、2007年)という、まるで“週刊なんとか”のような派手なタイトルの投稿となった。タイトルは“若気(?)の至り”ということでお許しいただきたい。我ながら、それくらい興奮していたということだ。

そもそも、この作品の作曲年に疑問を感じたのは、楽譜の下部左側に印刷されているコピーライト・ラインのつぎの記載だった。

Copyright 1969 by Boosey & Hawkes, Inc.
Copyright for all countries. All rights reserved.

著作権に明るい人が見れば、すぐわかるだろうが、この“Copyright 1969”は、作曲年を示さない。出版社のブージー&ホークスが、この自社の出版楽譜の権利を全世界に向けて表明した年に過ぎない。即ち、音楽著作権を管理する組織に対して“この楽譜は自社の作品”である旨を届け出た年だ。

当然、作曲はこの年を含めたそれ以前に行われたことになる。

そこで、いろいろな資料をチェックすると、この曲は、1969年にミネソタ大学コンサート・バンド・アンサンブル ’69(University of Minnesota Concert Band Ensemble ’69)が行ったソヴィエト演奏旅行のコンサートのオープナー(コンサートの冒頭を飾る曲)として、指揮者のフランク・ベンクリシュート(Dr. Frank Bencriscutto、1928~1997)が作曲者に委嘱したというエピソードが出てきた。

だが、この演奏旅行のことを調べると、ツアーは、いつ核戦争が起こっても不思議ではない一触即発の冷戦状態で非難の応酬に終始していたアメリカとソヴィエトがその危機的状況を緩和するため、両国政府の主導で1968年から1969年にかけて行った互いに文化人や団体を行き来させる文化交換アグリーメント(1968-69 United States-USSR Cultural Exchange Agreement)の一環として計画されたものの1つで、ミネソタ大学バンドのツアーは、1969年3月31日~5月21日の期間にソヴィエトにバンドを派遣して実施され、帰国直後の5月23日、ホワイト・ハウスのローズ・ガーデンで、ファイナル・コンサートが行なわれたことが分かった。

ツアーが“1968年以前の両国同意”から準備がスタートしたことと、作曲が出版目的ではないことだけは確かなようだ。すると、曲はいつ書かれたのだろうか。

もちろん1969年のツアー直前に書かれたとも考えられるが、プランを立てて進められる国家プロジェクトをそんな直前に“やっつけ”でやるはずはないし、仮にそうだとしても、“ホリディ”というタイトルがどうにも腑に落ちなかった。冬の“ホリディ”に書かれた曲にしては、曲想やハーモニーがやたら明るいのだ。

アタマの中は“作曲年”ひとつを巡ってもう大混乱!

急いでロンに連絡をとると、40年近い昔のことで彼はもう何も覚えていなかった。曲を委嘱したベンクリシュートもすでに故人だったし…。しかし、筆者の疑問は当然だとし、ダメもとでミネソタ大学に当時のことを誰か覚えていないか、FAXで照会してくれたのだ。

大学も、直ちに同窓会ネットワークを通じてこの質問を広めてくれ、それにメールで応えてくれたのが、ディズニーランドのタレント・ブッキング・マネージャー、スタンフォード・フリース(Stanford Freese)氏だった。大学では“スタン”と親称で呼ばれ、ソヴィエト・ツアーでは、ソロリストとして大活躍した。

彼からのメールは明解だった。

『ハイ、ロン。我々は、“ロッキー・ポイント・ホリディ”を、1967年の冬、CBDNAのコンヴェンションで初演しました。ロシアではすべてのコンサートで真っ先に演奏。この曲は、確かにアメリカ合衆国を有名にしましたよ。聴衆も熱狂。私は、今でもテューバ・パートを覚えています。』

これには、ロンも筆者もビックリ仰天!!

CBDNAとは、全米カレッジ・バンド・ディレクター協会(College Band Directors National Association)の略だ。チェックすると、1967年2月8~11日の日程でミシガン州アナーバーで開催されたCBDNA第14回全国コンヴェンションにベンクリシュート指揮のミネソタ大学バンドが出演。2月9~11日の3日間にコンサートを行ったことが確認できた。

こいつはすごい!

急いでこの事実をロンに知らせると、すぐ“その前年(つまり1966年)の夏のヴァケーションにロッキー・ポイントでこの曲を書いたことを思い出した”という内容の打ち返しがきた。

やはり夏の“ホリディ”の作品だった。

2人は、ついにめざすゴールにたどり着いたのだ!

手許に、アメリカ政府制作の1枚のLPレコードがある。

「A FORCE FOR PEACE(ア・フォース・フォー・ピース)」(White House Record (Century)、35416)と題するこのレコードは、1969年5月23日(金)、ホワイト・ハウスのローズ・ガーデンで行なわれたミネソタ大学バンドのツアーをしめくくるファイナル・コンサートのライヴ盤だ。

調べると、これには、ソヴィエトでのライヴを構成に取り入れた2枚組とホワイト・ハウスでのダイジェストをまとめた1枚ものの2種類があったようだ。

筆者の手許にあるのは、ダイジェストの方で、「ロッキー・ポイント・ホリディ」は省かれ、一部曲目が表記と違っていたりするが、ジャケットの写真には、椅子についた若い学生たちのバンドを前にスピーチするソヴィエト大使とその傍らで笑うニクソン大統領が写り、ツアー当時の空気がよく伝わってくる。もちろん、レコードには両氏のスピーチも入っている。また、見開きジャケットを開くと、多くの新聞の切り抜きとともに、ノヴォシビルスクのコンサートで撮影された写真が僅かに1枚だけ掲載されていた。

そこに写っていたのは、指揮者フランク・ベンクリシュートと「ロッキー・ポイント・ホリディ」の初演のことをメールで知らせてくれたソロイストのスタンフォード・フリースの2人だった。こんなところで、当時の2人の姿を見つけることができるなんて、なんと感動的なんだろう!

レコードには、ホワイト・ハウスのコンサートでも大受けで、“Tuba Player Hits High Note With Soviet Ambassador”と新聞の見出しにもなったフリース独奏の「ベニスの謝肉祭」も入っていた。

名作「ロッキー・ポイント・ホリディ」は、作曲者と筆者の間にいろいろなことを自由に語り合える信頼感と連帯感を生みだしていた。

後日、完成したタッドのCDをロンに送ると、『この年になって、若い頃の自分の作品にこんなに興奮させられるとは思わなかった。とにかく、“ロッキー・ポイント・ホリディ”に再び新しい命を注ぎこんでいただいたことに対して大いに感謝したい。』というポジティブな感想が返ってきた。

いくつもの幸運が重なった結果だった。

しかし、だからこそ言える。

音楽に歴史あり。真実は、1つしか無い!!

▲LP – A FORCE FOR PEACE(White House Record)

▲A FORCE FOR PEACE – A面]

▲A FORCE FOR PEACE – B面

▲ジャケットの新聞切り抜きと写真

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.3 ヴィジルス・キープ(Windstream、WST-25006)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第35話 保科洋「パストラーレ(牧歌)」の事件簿

▲“パストラーレ”掲載の「ヤマハが選んだバンド100曲」(1989年版)

ウィンド・ミュージックの楽曲解説に手を染めたのは、1980年代のことだった。

その頃、アメリカでは、アルフレッド・リードやジェームズ・スウェアリンジェン、ロジャー・ニクソン、ジェームズ・カーナウ、ジェームズ・バーンズ、クロード・T・スミスら、わが国でもおなじみの作曲家たちの活躍がつづき、ヨーロッパでも、後に生涯の友となるフィリップ・スパークやヤン・ヴァンデルロースト、ヨハン・デメイらが創作活動を本格化させようとする、ちょうどそんな時期にあたる。

世界中から好奇心をかきたてられるニュースが毎日のように飛び込んでくる、そんな時代だった。

周囲にも、大阪市音楽団の楽曲解説や「最新 吹奏楽講座」(音楽之友社)の執筆をされた奥村 望さん、月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)に多く寄稿され、外国文献の読み解きや原稿用紙の使い方のイロハから教えていただいた橘 清三さん、戦前からの音楽解説者でヨーロッパを中心とした古い音楽資料やレコードに関する不躾な質問にいつも丁寧に答えていただいた赤松文治さん、アメリカを中心とする質問に即答いただき、廃盤になった何枚ものレコードをカセット・テープにしていただいたこともあった秋山紀夫さんなど、リスペクトする多くの先人がいた。すべて筆者の師である。

もちろん、厳しいお叱りや教育的指導を受けたこともあったが、今は、それらがすべて懐かしい。

執筆は、レコード各社や演奏団体からの依頼原稿のほか、自ら企画・制作したレコードやCD、コンサートのためのもの、1980年創刊の月刊誌「バンドピープル」の連載など、多岐にわたるが、“感想”や“印象”“批評”ではなく“解説”を書くことになったときから、常に心がけてきたことがある。

その内、最も大切だと考えていたことを列挙すると・・・。

・情報は、可能な限り原点に遡る

これは、アメリカのことはアメリカ人の書いたもの、フランスのことはフランス人の書いたものを、イギリスのことはイギリス人の書いたものを、オランダのことはオランダ人の書いたものを第一次資料とせよ、ということ。橘 清三さんや赤松文治さんの教えだ。また、楽曲のことを書く場合、疑問点が出てきたら、作曲者が存命ならば、必ず本人とコンタクトする。そうでなかったとしても、出版社や放送局、演奏団体などの関係者に照会する手間を惜しんではいけないということだ。

・徹底した現場主義

レコード会社の中には、録音されたものをヒョイと送って寄こして“解説を書いてくれ”というふざけたリクエストをするところがある。いや結構多い。しかし、解説者も万能ではない。新録音や初録音の楽曲の場合、スコアを手に録音セッションが行われる現場に出向いて勉強し、そこで流れる時間を演奏者と共有する必要がある。時には、煩がられることもあるが、現場で起こったことは、すべて血となり肉となり、文章にも自然と臨場感が出る。

・継続的な検証とアップデート

他の執筆者が書いたものも自身が書いたものも、徹底的な検証が必要。もちろん時間はかかるが、妥協はしない。また、それに伴うアップデートは、いずれ書く機会があるかも知れないので、原稿が印刷された後も関心を失ってはいけない。思わぬところから、思わぬ新事実が出てくることがあるからだ。作曲者が忘れていたことや間違っていることを逆にこちらが見つけてしまうこともある。ために、一度書いたからといって、後日使用した資料や情報の誤りに気付いたときは、それを正さず押し通すような不誠実な対応は、解説者たるもの、ゼッタイにしてはならない。解説者の“名誉”や“メンツ”など、“事実”の前にはまったく意味をもたないからだ。

しかし、ウィンド・ミュージックの音楽解説を始めると、意外なことに気がついた。

現代作曲家の近年の楽曲なのに、基礎データが分からなくなっていることがとても多いのだ。

意外なことに、全日本吹奏楽連盟や日本バンドクリニック委員会といった組織の委嘱作ですら、基礎データが整理されていない曲がいくつも出てきた。

ベートーヴェンやブラームスのことは、もっとよく知られているのに!

こんなことがあった。2018年4月9日のことだ。

筆者のこの日のテーマは、保科 洋作曲の「パストラーレ(牧歌)」(1985)だった。

日本バンドクリニック委員会が“技術的に易しく、日本人のセンスにあったオリジナル作品を”というコンセプトでスタートした委嘱シリーズで、浦田健次郎の「バラード・フォー・バンド」(1983)、兼田 敏の吹奏楽のための「交響的音頭」(1984)についで誕生した委嘱作品の第3作だ。

これは日本バンドクリニック委員会の委嘱作だから、まず、例年発行の「ヤマハが選んだバンド100曲」という日本バンドクリニック委員会が選曲や編纂にタッチしていた本を見る必要がある。しかし、チェックすると…。

スコアの一部とプログラム・ノートが掲載された楽曲紹介の頁は、1989年版にすぐ見つかったが、必要な基礎データ(初演日、初演会場名、初演指揮者名、初演演奏団体名)は、どこにもない。

ついで、手許にあったLPレコード、日本バンドクリニック監修「吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」(東芝EMI、TA-72129)をチェックするが、ここにも基礎データはない。

ただ、このレコードの演奏者が、汐澤安彦指揮、東京アカデミック・ウインド・オーケストラで、録音日は、1985年2月24-26日、会場は、尚美のバリオホールであることが判明した。

だが、この作品は、日本バンドクリニック委員会の委嘱作だ。正式な初演は、例年5月に三重県志摩市の合歓の郷で開催されていたバンドクリニックで行われているはずであり、録音日を“初演”とするにはいささか抵抗がある。“初録音”ならいいが。

そこで、作曲者のホームページをチェックすると、初演日、初演会場名、初演指揮者名は、空欄だが、初演の演奏団体名は“東京佼成ウインドオーケストラ”だと書かれてあった。

頭の中はすでに大混乱! これは、もう作曲者にお訊ねするしかない!

質問をメールで送ると、即答があった。

『当時、合歓の郷で行っていたバンドクリニックで新しい吹奏楽曲の発掘を目的として始めたシリーズの一曲です(私はその時の委員の一人でした)。当然初演は合歓の郷のホール、演奏はフェネル指揮の“東京佼成ウインドオーケトラ”です。もちろん私はその初演に立ち会いました。楽譜の出版は昭和60年5月ですので、初演はその年だと思います。(合歓の郷のクリニックは5月ですのでクリニック開催に合わせて出版したはずです)。汐澤氏の録音には立ち会っていません(彼の演奏は私の意図したテンポより速いので立ち会っていれば直したでしょう)。』(原文ママ)

初演日を除けば、すべてがクリアになった。

こうなると、最後の手立ては、演奏者だった東京佼成ウインドオーケトラだ。

早速、事務局次長でマネージャーの遠藤 敏さんに電話を入れ、当時の演奏記録の詳細が残っていないかどうか調べてもらうことになった。

そして待つこと約2時間。遠藤さんから電話がかかってきた。

『残念ながら、事務所には、当時の詳細は残っていませんでした。しかし、もう帰ってここにはいないんですが、ウチの牧野がプレイヤー時代の詳細な演奏記録を家に残しているということですので、わかるかも知れません。メールを入れておきましたので、返答があると思います。』という高い確率の可能性を示す電話だった。

話に出てくる“牧野”さんとは、長らくフルートをつとめられ、プレイヤー引退後、総務として事務所に入られた牧野正純さんのことだ。1985年当時は、もちろん現役。これは期待できる。

その後、遠藤さんから再度電話が入った。

『連絡が入りました。結論から言いますと、それは、1985年5月18日。合歓の郷では都合6回演奏したのですが、その日の2回目のコンサートに“パストラーレ”とあるそうです。手書きですが、明日FAXでそちらへ送ります。』

まるで考古学のような調査に協力していただいた遠藤、牧野の両氏には大感謝だ!!

先の保科さんからのメールには、こういう一節もあった。

『余談ですが、佼成ウインドオーケトラは合歓の郷に出演の後、演奏旅行だったので数十曲のレパートリーをもっていたのですが、フェネル氏はその中で最も好きな曲が「パストラーレ」だと言って褒めていただきました。たしかその年のクリニックには特別ゲストとしてアルフレッド・リード氏も参加しており、彼にも気に入ってもらい、後に彼が大阪府音楽団の指揮をした際に、オールリードのプログラムの中にパストラーレを加えていただきました(吹田のメイシアターホール、残念ですが日にちは覚えていません)』(原文ママ)

リード指揮の日付は、手許にある当時の“府音”の演奏記録でたちどころに判明。直ちに、2つの演奏データを結果を待ちかねていらっしゃる保科さんにメールでお知らせした。

その後、作曲者のホームページの「パストラーレ」の頁は、つぎのようにアップデートされた。

■初演データ

初演 1985.5.18
場所 合歓の郷ホール
指揮 フレデリック・フェネル
演奏 東京佼成ウィンドオーケストラ

最後に力を発揮するのは、人と人とのつながりである。ネットなどではない!

▲牧野正純さん提供の東京佼成ウインドオーケストラの演奏データ

▲牧野正純さん提供の東京佼成ウインドオーケストラの演奏データ(拡大)

▲LP – 吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」(東芝EMI、TA-72129)

▲吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」演奏メンバー

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第34話 ヴァンデルロースト「むかしむかし…」日本語版世界初演!

▲高山市制施行80周年記念 第2回飛騨高山文化芸術祭こだま~れ2016 チラシ

▲スコア – ES WAR EINMAL…

▲むかしむかし…フィナーレ

2016年9月4日(日)、筆者は、名古屋からJR高山本線の特急「ひだ3号」に乗車。遠く山上に見える国宝犬山城や眼下の名勝飛水峡など、車窓を流れる景色を愉しみながら、次第しだいに高揚感が拡がっていくのを感じていた。

めざす目的地は、飛騨高山。

この日は、古くからの友人ヤン・ヴァンデルローストのジングシュピール「むかしむかし…(Es war einmal…)」のキャストを集めて行なわれる全体での初の通し稽古の日だった。

練習会場は、高山市立日枝中学校。

ジングシュピール(Singspiel)は、ドイツ語で演じられる歌芝居や大衆演劇の一種。現代のミュージカルと少し似てはいるが、ヨーロッパでは、しばしばオペラやオペレッタの一種とみなされる。

ヤンの「むかしむかし…」は、ヤーコプ・グリム(1785~1863)、ヴィルヘルム・グリム(1786~1859)の“グリム兄弟”が編纂した有名な“グリム童話”のストーリーをベースとするジングシュピールで、原題もドイツ語読みで“エス・ヴァー・アインマル…”。グリム兄弟の兄ヤーコプの没後150周年にあたる2013年に生地ドイツのハーナウで上演するため、この地方の吹奏楽団ライン=マイン・ウィンド・フィルハーモニー(Blaserphilharmonie Rhein-Main)から委嘱された作品だった。

ウィンドオーケストラのほか、語り手、俳優(オプション)、児童合唱を必要とし、オリジナルの台詞や歌詞は、すべてドイツ語で書かれている。“序曲”に始まり、“金のかぎ”、“赤ずきん”、“ルンペルシュティルツヒェン”、“いばら姫”という、グリム童話の有名な4つの物語から構成される。

『誰もボクがこの種類の作品を手掛けるとは思ってもみなかったようだ。だが、プロジェクトをはじめて知った時、これはチャンスだと思った。それで他者に先を越されないように、真っ先に手を挙げてコンタクトしたんだ!』とは、作曲者の弁。

委嘱者による世界初演は、2013年9月29日(日)、ハーナウ市内のコングレス・パーク・ハーナウ(Congress Park Hanau)で、イェンス・ヴァイスマンテル(Jens Weismantel)の指揮で行われた。このとき、ヤンは、奥さんを伴ってドイツまで観劇に出かけている。

あくまで作曲者本人の“自己申告”だが、この“初演大成功”の知らせはこちらにもすぐに入ってきた。出版社ハル・レナード・MGBの音楽部門責任者、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)から、『ちょっとこれを聴いて欲しい!』とそのライヴがWAVファイルで送られてきたのは、それからしばらくたった2014年6月12日のことだった。メールには“CD化したいが、どう思う?”とも書かれてある。

録音は、ライヴだけに無キズではないが、音楽の中身そのものがすばらしい。速攻で、『ヤンに“おめでとう”と伝えて欲しい!』と打ち返した。

高山での上演計画が持ちあがったのも、ちょうどその頃。ヤンが、名古屋芸術大学教授の竹内雅一さんに“日本でも上演できないだろうか?”と持ちかけたことが発端だった。

ヤンがらみの作品の場合、しばしばこういう展開になってしまうが、自動的というか、例によって、筆者は、関係者間の事情を交通整理し、調整する役まわりをつとめることになった。

飛騨高山文化芸術祭実行委員会会長の大萱真紀人さんにお目にかかったのは、名古屋芸大3号館のホールにおけるハル・レナード・MGB(de haskeレーベル)のためのレコーディング初日の2014年9月16日のことだった。

その日のセッション終了後、張本人のヤンも含め、関係者一同が勢ぞろい。順に話を伺っていくと、この上演には、いくつか高いハードルがあることがすぐに分かった。

まず、ヤンに楽譜のことを尋ねる。すると、「むかしむかし…」は、スコアだけが市販され、他はレンタル扱いになるという。

過去、筆者には、上原 宏さんが音楽監督、指揮者をつとめる東芝府中吹奏楽団によるベルト・アッペルモント(Bert Appermont)のミュージカル「サタンの種(Zaad Van Satan)」上演のお手伝いをさせていただいた経験があり、その楽譜も同様にレンタル譜だったので、ヤンの話から、演奏者と出版社との手続きや約束事が容易ではないことが想像できた。

一方、高山市は、予算執行が年度ごと、つまり、文化芸術祭が催される会計年度に入った2016年4月以降の支払いになるとの説明が大萱さんからあった。しかし、指揮をする竹内さんからは、演奏をするウインドオーケストラが、市中の中高生の合同バンドであり、練習のために楽譜はもっと早く、できれば2015年の秋あたりまでには欲しいという要望が出る。

まず、このタイムラグをベン・ハームホウトスに認めさせる必要があった。

次に、これが肝だったが、主催側としては、ドイツ語の歌詞や台詞をすべて“日本語”に訳して上演したい、つまり高山としては“日本語版世界初演”というステータスがひじょうに大切な条件になるという話が出た。

もちろん、ドイツ語の歌詞と台詞にも、作者がおり、出版社がそのコピーライトを管理しているので、翻訳のチェックや許諾を出版社の日本法人である東京のハル・レナード・MGBが処理する必要がある。当然、作品の規模に応じた許諾料が発生することになるが、必要なものは予算に組み入れるから問題ないといわれる。

大萱さんの熱意に、こちらも押され気味だ!

また、日本語での上演となると、関西弁まじりの“あやしい日本語”を操るヤンと言えども、指揮はできない。アドリブも含め、舞台上に飛び交うすべての日本語に即応できないからだ。もちろん、これはヤンも納得済み。

他にも、細かい課題がいくつかあったが、それらを確実に1つずつクリアしながら、やっとたどり着いたのが、9月4日の初の通し稽古だった。

ここまで、およそ2年の時間が流れていた。

この日、それまで別々に練習していたウィンドオーケストラ、語り手、俳優、児童合唱が一堂に会した訳だから、それはそれは壮観。そして、それぞれのグループが自分たち以外のパートがどんなことをやっているのかをお互いに初めて意識したわけで、多少戸惑いを見せながらもモチベーションの高い稽古となった。駆けつけた市の担当者も感動の様子だ!

各セクションは、この日判明した課題を持ち帰って各個にリハーサル。前日の総練習をへて、2016年9月18日(日)、高山市民文化会館での本番の日を迎えた。

コンサートのタイトルは、「高山市制施行80周年記念 第2回飛騨高山文化芸術祭こだま~れ2016 ES WAR EINMAL…(むかしむかし・・・)日本初演・日本語版世界初演」。

“こだま~れ”とは、美しい山々に囲まれる高山らしいネーミングだ。

この日、1280名収容の大ホールは、溢れんばかりの聴衆が集まり、急遽予備席も準備し、出演者のために用意した座席まで開放するような大盛況!!

高山市内の小学生・中学生・高校生を主体とする“こだま~れジュニアコーラス”、“こだま~れウィンドオーケストラ”、“こだま~れアクターズ”が演じた「むかしむかし…」は、集まった市民たちに大きな感動をもたらした。

ヤンや筆者らとともにこの上演を観た高山市副市長の西倉良介さんも、思わずスタンディング・オーべ―ションで、『ウチの子供たちがこんなすばらしいことができるなんて、信じられません。感動しました。』と率直な感想を述べられた。

指揮者の竹内さんから促され、ステージに駆け上がる作曲者のヤンと合唱指導に当たられた平田 誠さんにも万雷の拍手が贈られる。

澄み切った水やおいしい空気、そして有名な高山祭だけじゃない。

こんなことができるこの町が大好きになっていた!

▲あかずきん

▲おおかみ

▲王子といばら姫

▲カーテンコール

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの

▲25cm LP – On the Mall(米Decca、DL 5386)モノラル

▲LP – I Love to hear a Band!(米Decca、DL 8445)モノラル

▲The Wind Band – Richard Franko Goldman著(Allyn and Bacon、1962)

20世紀アメリカの吹奏楽史において、エドウィン・フランコ・ゴールドマン(1878~1956)とリチャード・フランコ・ゴールドマン(1910~1980)の父子がのこした功績は、アメリカのバンド指導者が例外なく広く認めるところだ。

父エドウィンは、1911年に誕生したニューヨークの有名なプロ吹奏楽団“ゴールドマン・バンド”の創設者であり指揮者で、作曲家としてもおよそ150曲の作品をのこした。アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A.)の初代会長としても知られる。

わが国では「木陰の散歩道」という邦題で親しまれる「オン・ザ・モール(On the Mall)」も、エドウィンの代表作の1つで、曲名は、ゴールドマン・バンドがしばしばコンサートを催した野外音楽堂ナウムブルク・バンドシェル(Naumburg Bandshell)が建つニューヨーク・セントラル・パーク最大の並木道“ザ・モール(The Mall)”をさしている。

鋳鉄作りの小さなバンドスタンドに代わって、ナウムブルク・バンドシェルが建設されたのは1923年のことだ。ニューヨーク市民がパーク内にオーケストラも演奏可能なステージを求めたことがきっかけだったと言われている。

第20話でとりあげたノーマン・スミス(Norman Smith)とアルバート・スタウトミアー(Albert Stoutamire)の共著「Band Music Notes」(Revised Edition、Kjos、出版:1979年)の表紙写真のバンドシェルがそれで、名称は、建設資金を提供した銀行家エルカン・ナウムブルク(Elkan Naumburg)の名からとられた。

マーチ「オン・ザ・モール」は、このバンドシェルの完成年と同じ1923年の9月29日、エルカン・ナウムブルク氏を称えるためにバンドシェルに迎え、オーケストラ指揮者フランツ・カルターボーン(Franz Kaltenborn)の指揮、ゴールドマン・バンドの演奏で初演された。

トリオで、“ラララ”と歌ったり、“口笛”を吹いたりする箇所があるこの曲は、ゴールドマン・バンドのお気に入りとして繰り返し演奏され、レコードがLP時代になった後も、ズバリ曲名をタイトルとするアルバム「On the Mall」(米Decca、DL 5386、モノラル、リリース:1952年)のほか、有名なノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell)のイラストがジャケットに使われたアルバム「I Love to hear a Band!」(米Decca、DL 8445、モノラル、リリース:1957年)など、何度もレコード化され、ヒット曲となった。

「木陰の散歩道」という邦題は、吹奏楽にも造詣が深かった音楽評論家、堀内敬三さんの作だと言われている。

一方、息子リチャードは、コロムビア大学卒業後、パリに渡り、ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887~1979)に作曲を師事。帰国後、1937年から1956年の間、ゴールドマン・バンドの副指揮者をつとめ、1956年の父の死後、そのあとを受けて正指揮者となった。

音楽博士としてリスペクトされる存在であり、1961年に執筆し、翌年出版された代表的著作「ウィンド・バンド(The Wind Band)」は、吹奏楽の歴史から、編成、レパートリー、オリジナル作品、編曲とスコアリング、課題まで、幅広いテーマを豊富な資料(スコアや写真など)を使いながら解説した、当時としては類例を見ない書物で、世界中の多くのバンド関係者に大きな影響を及ぼした。もちろん、筆者も多くのことを学んだ。

書名を“ウィンド・バンド”としたことも画期的だった。

この“ウィンド・バンド”というワード、それ自体は、日本にもちょくちょく顔を出すようになったイギリスのブラスバンド“ブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)”の歴史にも、19世紀に“ウィンド・バンドとして創設”(ラフに和訳すると、木管楽器も入った吹奏楽編成で創設)というくだりがあるので、別段新しいものでも何でもない。

しかし、1980年代に筆者が音楽解説の中で使い始めると、各方面から(まるで“潰してやろう”とでもいうような意図さえ感じられる)陰口に晒された。まるで鼻つまみもの扱いだ。おそらく、それまでの日本の音楽界の常識にはなかった“おかしな新語”を作りだした田舎出の解説者がそれを振りかざして生意気だということだったのだろう。

旧態依然とした体質から抜け出せないレコード会社の編成担当者の、音楽上の事象を深く理解したり時代の移り変わりをタイムリーに捉える能力の無さも呆れるばかりだった。

もちろん、筆者が使う以前から、CDのオビに“WIND BAND”という文字を入れてリリースする佼成出版社のような新進気鋭の会社もあったが….。

一方で、鈴木竹男さんのように、自身が指導・指揮をするバンドの愛称を“阪急少年音楽隊”から“阪急商業学園ウィンドバンド”(後の“向陽台高等学校ウィンドバンド”。現在の“早稲田摂陵高等学校ウィンドバンド”)と改名する理解者も現れ、当時このバンドがよく登場した朝日放送(大阪)の番組でも、看板アナウンサーの道上洋三さんが“ウィンド・バンド”というワードを使った。

話を元に戻そう。

エドウィン、リチャードのゴールドマン父子の業績の中で今も輝きをまったく失わないことの1つが、バンドのために書かれたオリジナル・レパートリーの開発だった。

今から1世紀以上も前の1910年代の話である。

オーストラリア出身のすばらしいピアニストで作曲家のパーシ―・グレインジャー(Percy Grainger、1882~1961)とエドウィンの親交が始まったのもこの時代で、直接的には、エドウィンが応募作の審査をグレインジャーに依頼したことがきっかけだった。

1937年3月7日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催されたA.B.A.年次総会の最終日に作曲者の指揮で初演された「リンカーンシャーの花束(Lincolnshire Posy)」もまた、A.B.A.会長のエドウィンの委嘱で生まれた作品だった。(興味深いことに、この作品のスコアの曲名のすぐ下にある短い説明文には、“set for Wind Band”というくだりが出てくる。)

ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev、1891~1953)とも親交があり、作曲者から送られてきた新作「スパルタキアード行進曲(Athletic Festival March)」(作品69-1、1935年)をアメリカ初演したのもエドウィン指揮のゴールドマン・バンドだった。

そして、父のエドウィンもしくは子のリチャード、あるいは特別なゲストが指揮をつとめたゴールドマン・バンドは、ナウムブルク・バンドシェルを含む各会場のコンサートで、委嘱作の初演や海外オリジナルのアメリカ初演あるいはニューヨーク初演をつぎつぎと行った。

ジャケットにナウムブルク・バンドシェルでのゴールドマン・バンドのコンサートの写真が使われている「Band Masterpieces」(米Decca、DL 78633、ステレオ、リリース:1958年)と管楽器の写真をあしらった「The Sound of the Goldman Band」(米Decca、DL 78931、ステレオ、リリース:1962年」のフランコが指揮した2枚のLPは、父子の成果の集大成といっていい。

曲目を見ると、フランソワ=ジョセフ・ゴセック(Francois-Joseph Gossec、1734~1829)の「古典序曲(Classic Overture)」やフェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy、1809~1847)の「吹奏楽のための序曲(Overture for Band)」、シャルル・シモン・カテル(Charles Simon Catel、1773~1830)の「序曲ハ調(Overture in C)」のアメリカ初演も、ウィリアム・シューマン(William Schuman、1910~1992)の序曲「チェスター(Chester)」のニューヨーク初演も、すべてゴールドマン・バンドが行っていたことがわかり、とても興味深い。

また、ジャケットには、曲名、作曲者名、ゴールドマン・バンドの初演日、指揮者名などの詳細が整理されて載っており、さすがは音楽博士の仕事だとうならせる。

例えば、グレインジャーの「子供たちのマーチ“丘を越えてかなたへ”(Children’s March“Over The Hills And far Away”)」の項には、こう書かれてある。

For Band and Piano. The Composer at the Piano. Composed in 1918. First Performance: The Goldman Band, June 6, 1919, Percy Graingerconducting, Ralph Leopold, piano.

(バンドとピアノのための。(このレコードでは)作曲者がピアノを担当。1918年に作曲。初演: ゴールドマン・バンド。1919年6月6日。パーシ―・グレインジャーの指揮。ラルフ・レオポルドのピアノ。)(カッコ内の注釈は、筆者)

時を超える第一級の資料とはこういうものを指す!

当時、米Deccaレーベルと契約関係にあった日本のレコード会社は、テイチクだった。演歌でおなじみの老舗レコード会社だ。

もちろん、米Decca音源のゴールドマン・バンドのレコードもつぎつぎ国内リリースされた。しかし、いわゆる“マーチ黄金時代”の話だ。テイチクが関心が寄せ、発売されたのはすべてマーチだった!

吹奏楽のレコード史上けっして見逃すことのできない「Band Masterpieces」と「The Sound of the Goldman Band」の両盤は、テイチクには見向きもされなかった。

幸いにも、これら収録曲の多くは、その後、およそ15年ほどの時間をかけて、日本国内で新たに録音されるなどして紹介され、今も演奏されるわが国のバンドのレパートリーとなった。

しかし、ゴールドマン・バンドの両盤を見るたび、それらのレパートリーが“ずっと以前からまとまって収録されていた”という衝撃的事実にいつも突き当たる。

これをいったい何と表現したらいいのだろうか。

1960年代初頭といえば、アメリカから“アメリカ空軍交響吹奏楽団”(公演名)、フランスから“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(同)が来日し、日本の音楽界の“吹奏楽”に対する認識に大きな衝撃を与えた時代だ。間違いなく何かが変わり始めていた。しかし…。

我々は、間違いなく遠回りをしている!

▲LP – Band Masterpieces(米Decca、DL 78633)ステレオ

▲Band Masterpieces – A面

▲Band Masterpieces – B面

▲LP – The Sound of the Goldman Band(米Decca、DL 78931)ステレオ

▲The Sound of the Goldman Band – A面

▲The Sound of the Goldman Band – B面

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第32話 祝・指輪物語30周年

▲“指輪物語”30周年演奏会ポスター

▲Johan de Meij

もし、ウィンドオーケストラの世界で1980年代から90年代にかけて起こった最もエポック・メーキングなできごとを“1つだけ挙げよ”と問われたなら、筆者なら間違いなく、この時代、それまでのアメリカの作曲家に加え、ヨーロッパの作曲家の活躍が始まったことを挙げる。

「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」(ウィンドオーケストラ版初演:1986年)を書いたイギリスのフィリップ・スパーク(Philip Sparke / 1951年生)、交響曲第1番「指輪物語(The Lord of the Rings)」(初演:1988年)を書いたオランダのヨハン・デメイ(Johan de Meij / 1953年生)、交響詩「スパルタクス(Spartacus)」(初演:1988年)を書いたベルギーのヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost / 1956年生)などなど、今日ヨーロッパのビッグネームとなった彼らは、この時代に衝撃作とともに登場した。

名前を挙げた3人に共通するのは、まず全員が1950年代の生まれであること。そして、国籍こそ違えども、サンダーバードやビートルズの時代に、同じものを見たり聞いたりしながら、多感な青年期を過ごしたことだ。

彼らの少し後に日本でも知られるようになった「ハリスンの夢(Harrison’s Dream)」を書いたイギリスのピーター・グレイアム(Peter Graham / 1958年生)とともに、筆者の友人たちの中でもとくに“黄金の50年世代”として、別格のつきあいをさせていただいている。(周囲には、とっくにバレているだろうが….。)

時は流れて、2018年の3月15日(木)。オランダ、リンブルフ州シッタルトのデドメイネン劇場(Schouwburg De Domijnen, Sittard)で、ある特別な演奏会が開催された。

コンサートのタイトルは、「“指輪物語”30周年演奏会(JUBILEUM 30 JAAR CONCERT – THE LORD OF THE RINGS)」。

この日は、ヨハンの出世作、交響曲第1番「指輪物語」の世界初演からちょうど30周年。ベルギーからかつて世界初演を行なった“ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団(Grand Orchestre d’Harmonie de la Musique Royale des Guides Belges)”とその時の指揮者ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)を招き、30年前(1988年3月15日)とまったく同じプログラムをそのまま演奏するという、“指輪物語ファン”にはなんとも堪えられないマニアックな催し。

別の言い方をするなら、初演から30年たった今も楽譜がベストセラーで、いったい何千回演奏されたのか、作曲者も皆目見当がつかないというくらい大ヒットとなったこのシンフォニーの“30歳の誕生日”をみんなで祝おうという好企画だ!

(“指輪”以外のプログラムは、エクトール・ベルリオーズ(Hector Berlioz)の歌劇「ベンヴェヌート・チェルリーニ(Benvenuto Cellini)」序曲、ジョアキーノ・ロッシーニ(Gioachino Rossini)の「序奏、主題と変奏(Introduction, Theme and Variations)」、ジュール・ストレンス(Jules Strens)の「ダンス・フュナンビュレスク(Dance Funambulesque)」の3曲。「ベンヴェヌート・チェルリーニ」序曲は、かつて、東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピース・シリーズ 16」(TOCZ-0016)のために、ノルベール・ノジが楽長だった頃の“ギィデ”にレコーディングを依頼したなつかしい曲だ!)

このオランダでの“指輪30周年コンサート”と同じ月の3月4日(日)、大阪のザ・シンフォニーホールで行われた「大阪音楽大学第49回吹奏楽演奏会」(参照:第28話第29話)を客演指揮するためにやってきたヤン・ヴァンデルローストとは、当然この話題で盛り上がった。

かなり早い時期から、この演奏会のことをヨハンが知らせてきていたからだ。

そのとき、ヤンは『夫婦でこの演奏会に行くんだ』と嬉しそうに話していた。

ヨハンとヤンは、若い頃、ともにトロンボーンを吹いており、筆者が2人と別々に知り合う前からの古い友人だった。ヨハンの結婚式のために、ヤンが「結婚行進曲(Wedding March)」を書き、親しい音楽仲間とともに演奏したほどの間柄だ。

なんとも羨ましい。『君は行かないのか?』と訊くヤンに、『残念ながら、行けないんだ。ヨハンとノルベールによろしく。』と言うのがやっとだった。(日本には、カクテーなんとか、という偏頭痛が起こりそうな国民的行事がある時期だった。)

その後、帰国したヤンからは、このコンサートについて、アップデートでいろいろ続報が送られてきた。現地では相当盛り上がっているようだ。で、返信のついでに“当日のプログラム”を送って欲しいと頼むと、速攻で“了解”の返信がくる。

しかし、演奏会翌日、ヤンから“印刷されたプログラムはなかった”と残念なメールがきた。なんでも、コンサートを録音したオランダの放送局PRO 4のクラシックの解説者が司会進行をつとめていたんだそうだ。

ヤンのメールはつづき、『昨夜の演奏会は、グレートだった。ヨハンも大勢の友人や仲間たちに囲まれ、ハッピーだったし、“ギィデ”の演奏もエクセレントだった…..。』とのアツい感想が、前日の興奮を生々しく伝えてくれる。

そう言えば…..。このヤンの感想を読んでいる内、ヨハンと知り合ってしばらくたった頃、彼が送ってくれた1988年3月15日の世界初演ライヴのラジオ放送(ベルギー国営放送)を録音したカセット・テープを聴いたときの興奮を思い出した。

この時、筆者の手許には、すでにピエール・キュエイペルス(Pierre Kuijpers)指揮、オランダ王国陸軍バンド(Koninklijke Militaire Kapel)の演奏盤(Koninklijke Militaire Kapel、KMK 001 / 1989)、アリ―・ヴァンベーク(Arie van Beek)指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)の演奏盤(JE Classics、900101 CD / 1990)の2枚の「指輪物語」のCDがあった。

もちろん、ともに充実した内容のCDだったが、ヨハンが送ってくれた初演が入ったカセットからは、それらとはまったく違う種類の、この交響曲がナマ演奏で聴衆に与えるであろう、音楽の内面からほとばしる熱いエネルギーが感じられたのだった。

筆者と「指輪物語」との長い旅路は、実にこの時に始まったと言っていい。

それから何年もたった大阪でヨハンと呑んだ時、『将来のプロジェクトについて、何かいいアイデアはあるかい?』と尋ねる彼に、筆者は『あのカセットで聴かせてくれた初演ライヴをCD化したらどうだい。みんな本当の初演を聴きたいのでは、と思うんだけど。』と答えた。

ヨハンは、そのとき、『あれには、少しミスがあったし…..。放送録音にはいろいろ制約があるし…。』と、あまり乗り気ではなかった。

確かに、演奏には初演につきものの小さなキズはあったし、楽譜の方も、その後マイナー・チェンジが何度か行われていた。彼がいいたいこともわからないではなかったので、この話は一旦そこで霧のように消えた。

ところがである。“指輪物語25周年”を迎えた2013年、ヨハンは突如として、「指輪物語」の手書きスコアに“ギィデ”の初演ライヴを付録CDとして付けた“超豪華本”を刊行したのだ!!

(オイオイ、そのアイデアって?  けど、まあいいか!)

最終的に、この豪華本は、発想自体が話題となり、大きな注目を集めたが、本体のあまりの重量のために輸送中(とくに空輸中)の破損事故も多く、ビジネスとしては大きな成功には至らなかったようだ。

人にはそれぞれ、記憶にとどめておきたい日がある。

ヨハンにとって、それは、1988年3月15日。

交響曲第1番「指輪物語」がこの世に生まれ出た、その日だった。

▲CD – The Lord of the Rings(Koninklijke Militaire Kapel、KMK 001)

▲CD – The Amsterdam Wind Orchestra(JE Classics、900101 CD)

▲25周年豪華本 – The Lord of the Rings 25 Years

▲付属CD – World Premiere 1988 (Amstel Classics、CD-2013-02)

▲付属CD – World Premiere 1988 (ジャケット裏)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第30話 ソノシートの頃

▲ソノシート – 朝日ソノラマ、1961年12月号

▲ソノシート – 朝日ソノラマ、1962年1月号

▲ソノシート – アメリカン・マーチ(朝日ソノラマ別冊、B41、1961年10月)

かつて、“ソノシート”の時代があった。

それは、1958年にフランスのレコード・メーカー“SAIP”が開発した厚みが約0.2ミリ程度の極めて薄い塩化ビニール製のレコード状音声記録メディア“フォノシート(Phonosheet)”に端を発し、日本でも1959年から製造・販売が行なわれたメディアだ。

盤の色は、白、赤、青、緑、黒などがあり、当初は音質もあまり良くなかったが、なにしろ植木 等(うえき ひとし)のヒット曲「これが男の生きる道」(1962 / 作曲:萩原哲晶 / 作詞:青山幸男)で“貰う月給は 1万なんぼ~”と歌われた時代のことだ。

大量生産方式がまだ確立していなかった一般的なレコード盤(シングル、EP、LP)がかなり高価だったため、レコードと同様に再生可能であるだけでなく、大量生産が効き安価な“ソノシート”は、さまざまなフィールドで重宝された。

また、紙のように極めて薄く、厚みがほとんどないメディアとしての特徴は、雑誌やカタログなどの冊子に付録として挟み込む音声媒体としても適しており、LPジャケットより詳細な楽曲解説や写真、歌詞まで印刷された音楽ブックやアルバム、楽譜等の紹介サンプル音源などにも活用された。

「鉄腕アトム」や「鉄人28号」、「8マン(エイトマン)」、「狼少年ケン」など、放送が始まったばかりのテレビ・アニメとタイアップし、主題歌とドラマのダイジェストを組み合わせたコミック付きの音楽ブックは、ソノシートの独壇場だった。

吹奏楽のジャンルでも、“ソノシート”は、結構使われた。

東京消防庁音楽隊(指揮:内藤清吾)や陸上自衛隊中央音楽隊(指揮:須磨洋朔)が演奏した“軍歌集”や、東京藝術大学の吹奏楽研究部出身者や教員、学生らで編成された東京吹奏楽協会(指揮:山本正人)や海外のミリタリー・バンドが演奏した“マーチ・アルバム”などが各社からリリース。中には、録音のための臨時編成のバンドだけでなく、何らかの事情で実在する吹奏楽団の名を伏せて架空のバンド名をつけて発売されたものすらあり、“ギャルド・日本吹奏楽団”(指揮:服部 正)という、かなり紛らわしい演奏団体名のバンドによるマーチ・アルバムもあった。

他方、国内外の出版社が吹奏楽の新しい楽譜を紹介するためのサンプル盤にも使われ、毎日新聞社が出場者の記念品などの目的で大阪市音楽団(指揮:辻井市太郎)の演奏で制作した“センバツ高校野球”の入場行進曲(非売品)もまた“ソノシート”だった。

しかし、吹奏楽の世界で、“ソノシート”が最も劇的な形で使われたのは、1961年のギャルド・レピュブリケーヌ初来日のときだった。

各演奏会場で聴衆が手にした公演プログラム(折り返しを除き、全38ページもあった)の巻末に、なんと“ギャルドの演奏入りのソノシート”が挟み込まれていたのだ。(第22話~第24話参照

この“ソノシート”は、男性アナウンサーによるつぎのアナウンスで始まる。

『世界最高のギャルド・レピュブリケーヌ(*)交響吹奏楽団の来日を記念して、その名演を後々まで愉しんでいただくよう、はじめての試みとして、このプログラムに同楽団の吹き込んだソノシートを付けました。シートの制作は、東芝レコード、エンジェル・レコード、キャピトル・レコード、キャップ・レコード、および東芝フォノブックを発売している東芝音楽工業で、録音テープはフランスから直送で。では、フランス国歌“ラ・マルセイエーズ”、日本国歌“君が代”、それにサンサーンス作曲“英雄行進曲”の順に、その名演を愉しんでいただきましょう。』

その後、演奏が始まり、3曲目の“英雄行進曲”の途中でフェイドアウトされて、

『東芝音楽工業では、ギャルド・レピュブリケーヌ(*)交響吹奏楽団の来日を機会に、そのレコード吹き込みを行ないます。曲目は、“軍艦マーチ”のほか、同楽団得意の曲、皆様に親しまれている曲ばかりを選び、すばらしいステレオLPとして、明春発売の予定です。どうぞ、この最高の楽団を、最高の録音、最高の品質を誇る東芝レコードでお愉しみ下さい。』

とアナウンスが入って終る。

後半のアナウンスは、レコード発売の完全な広告だが、ソノシートの収録時間のためなのか、広告アナウンスを入れるための必然からなのか、“英雄行進曲”の演奏途中でフェイドアウトされてしまうのは、どう考えても残念だった。しかし、たった今コンサートで聴いたばかりの楽団の演奏を帰宅後にも聴けるという企画、それ自体はとても斬新な発想だった。

ただ、そこまで凝ったにも関わらず、アナウンス原稿がそうなっていたからだろうが、(*)の箇所の“ギャルド・レピュブリケーヌ”が、何度聴いても“ギャルド・レプブリケーヌ”のように聴こえるのは、どうにも解せない。“ピュ”じゃなく“プ”と。

少し脱線するが、NHK-FMの番組「ブラスのひびき」の3代目のナビゲーターをつとめていた1996年のある日の収録中、番組の担当ディレクター、干場 優さんから、おかしなところで感心されたことがあった。

『“ギャルド・レピュブリケーヌ”を一度も噛まれないのは、さすがです。ウチのアナウンサーによると、これは、なんか、とても喋り辛いんだそうで、番組収録をアナウンサーでやったときは、大変なことになりました。何度録り直しをやったかわかりません。』と。

アナウンスのトレーニングなどをまったく受けずに、いきなりナビゲーターになってしまった筆者からすると、番組中お聴き苦しい場面がずいぶんあったはずで、今考えても恐縮するばかりだが、逆に滑舌のトレーニングを積んだプロのアナウンサーにとっては、“ギャルド・レピュブリケーヌ”というワードが噛みやすい一種の“難敵ワード”だったのかもしれない。

話を元に戻すと、ギャルドの初来日プログラムに、当時の最新メディアである“ソノシート”がついていたのは、かなりセンセーショナルな出来事だった。

この当時、東芝音楽工業だけでなく、ギャルド招聘元の朝日新聞社の系列にも、フランスと提携してソノシートの発行を始めていた朝日ソノプレスという会社があり、1959年12月から“音の出る雑誌”というキャッチ・フレーズで、月刊の「朝日ソノラマ」を刊行していた。

ギャルドが来日すると、同社は、1961年11月3日(金)、新宿の東京厚生年金会館で行われた“ギャルド歓迎演奏会”を収録。そのライヴ音源の一部を、「朝日ソノラマ」の1961年12年号と1962年1月号で、記事とともに取り上げた。正しく“音の出る雑誌”というスタイルで。

取り上げられた演奏は、1961年12月号に、フランソワ=ジュリアン・ブラン指揮、ギャルド・レピュブリケーヌの演奏で、フランツ・リストの「ハンガリー狂詩曲 第2番」、そして1962年1月号に、酒井正幸指揮、東京都豊島区立第十中学校吹奏楽部の演奏したアンブロワーズ・トマの歌劇「レーモン」序曲とカール・タイケのマーチ「旧友」だった。

同1月号に「ミュージック・プロフィル」というコラム記事を書いている大山記者の筆によると、この豊島十中の演奏には“ギャルド・レピュブリケーヌのブラン隊長みずから、絶賛の拍手を惜しまなかった”といい、日本側演奏団体の中で“最も感銘を与えた”演奏だったと紹介されている。

“豊島十中”の名は、この「朝日ソノラマ」で全国的に知られることになった。

一方のギャルドの「ハンガリー狂詩曲 第2番」も、臨場感のある録音で、クラリネットの派手なリード・ミスまで生々しく捉えている。こちらは、イントロの中で女性アナウンサーの声が被る。

『フランス美術展の開幕を飾って、ギャルド・レピュブリケーヌが来日致しました。指揮者ブラン隊長以下75名の絢爛豪華な交響吹奏楽は、毎夜の聴衆に深い感銘を与え、吹奏楽への認識を新たにしました。このリスト作曲、ハンガリア狂詩曲(**)第2番』は、さる11月3日、文化の日に行われた歓迎演奏会で録音したものでございます。』

ゆったりと落ち着いた速度で一語一語を確実に発音されているので、こちらのアナウンスでは、“ギャルド・レピュブリケーヌ”の名称はクリアだ。だが、それでもやや言い辛らそうな空気が漂っている。

しかし、一体、何なんだろうか。

“ギャルド・レピュブリケーヌ”。その栄光に満ちた名前は、ひょっとすると、プロのアナウンサー泣かせの難語だったのかも知れない。

▲ギャルド初来日プログラム – 広告頁とソノシート

▲ソノシート – スーザ・ステレオ大行進(ビクター出版、SMB-3008)の1枚

▲ソノシート – 第42回選抜高校野球大会(毎日新聞社、非売品)

▲ソノシート – バンドコンサート第1集(湖笛社、WA-1317)

▲ソノシート – ヤマハ吹奏楽シリーズ、乾杯の時ほか(ヤマハ音楽振興会、YBF-12)

▲ソノシート – 世界マーチ名曲集2(有信堂マスプレス、Maspress、62-8)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第29話 ヴァンデルローストの特別講義

▲ナティヴィタス(Nativitas)の初演ポスター

『親愛なる友、そして仲間たちへ。私は、自作のクリスマス組曲“ナティヴィタス(Nativitas)”が、12月22日(2017年)に初演された際のライヴ録音へのウェブリンクをお伝えしたいと思います。皆さんからは、組曲の元になったクリスマス・ソングやキャロルを見つけるために、多くのご親切とご助力を頂戴しました。最終的に、かなりユニークな組曲となっています…….。』

ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)が、同国の市民合唱団“トゥールディオン合唱団(Tourdion Koor)”の35周年記念作として委嘱され、ルーベンで初演された「ナティヴィタス」の成果を知らせるため、関係者全員に送ったメールだ。

「ナティヴィタス」は、ソプラノ独唱、混声合唱、室内楽の編成で書かれたクリスマス組曲で、ヨーロッパ、アフリカ、オセアニア、南米、アジア、北米のクリスマス・シーズンに歌われるメロディーを綴った作品だ。クリスマス・メドレーのような気楽に作られた曲ではなく、演奏時間が約23分半の演奏会用の音楽だ。

作曲者がなぜかアジアの国々の中から日本を選び、最初に“日本のクリスマス・ソングを教えて欲しい”とリクエストを受信。その後の紆余曲折をへて最終的に“日本の冬の歌”にリクエストが変更され、使用するメロディーが文部省唱歌「冬の夜」に決まるまで、あれこれ日本の旋律探しに協力したことは、第5話でお話ししたとおりだ。

冒頭のメールを受けとったのは、2018年の1月31日のことだった。

ヤンとの対話は、いつもこのような感じで突如としてスタートする。

彼が自作について知らせてきた“この種”のメールに対しては、できるだけ速やかに対応することが肝要だ。なぜなら、ヤンは、こんな時、間違いなく、言外に自作についての感想や意見を求めているからだ!!

しかし、運悪く、この日は近日中にスタジオで行なうマスタリングに備え、録音が終わったばかりの演奏を繰り返し聴いてチェックしていたため、彼の録音をダウンロードして聴く時間がまったくとれなかった。心の片隅で“これはヤバいゾ”と思いながら….。

2日後、やはり“それ(催促)”は来た。同じメールを転送するかたちで!!

これまでの長いつき合いから、この2回目のメールに速攻で返信を送ることができなかったら、心配した彼から、毎日のように同じメールがエンドレスで転送されてくることは間違いなかった。意を決した筆者はそこで作業を中断。彼の録音をダウンロードして聴くことにした。

とても美しい曲だ!! ソプラノもオケもグレードが高く、コーラスも相当練習を積んでいる。

しかし、肝心の「冬の夜」の楽章では、日本語の歌詞の発音で“アレレレッ???” とひっかかるところが2箇所あった。発音の参考用に数人の日本人歌手のクリアな録音も送ったはずなのに、これはどうにも合点がいかなかった。

そこで、同時に送られてきたスコアを見ながら再度聴くと…。『アッ!!!!』

コンピュータ浄書されたそのスコアに、ローマ字のスペルの誤植を3箇所発見!! その内1箇所は、本来は“Shakuhachi-style(尺八スタイル)”とあるべき発想の指示が“Shakuhashi-style(シャクハシ・スタイル)”となっている箇所で、それは歌唱に影響が及ばない単純な誤植で済ませることができるが、残る2箇所のローマ字歌詞のミスは致命的だった。

ヤンは、作曲にコンピュータを使わず、今もすべて手書きで作業を行なう。

このコンサートは、ヤンの手書きを浄書屋がコンピュータを使って起こした楽譜を使って行われたようだ。しかし、ヨーロッパの人がよく知らない日本語の歌だ。もし事前にスコアを見せてもらっていたら、浄書ミスに起因するこんな演奏事故は未然に防げていた可能性が高い。ヤンには、音楽全体のすばらしい印象とともに、残念ながら楽譜上に“誤植”があったことを伝えるしかなかった。

だが、この前年、2017年11月14日に受け取ったメールは、ちょっとした事件に発展した。

内容を要約すると、2018年3月5日(月)に大阪音楽大学で行う“作曲の特別講義”で教材として使う楽曲のスコアを出版社と交渉してそちらにまとめて送らせるので、購入希望の学生への販売を手伝ってほしい、というものだった。

この前日の3月4日、ザ・シンフォニーホール(大阪)で行われる「大阪音楽大学第49回吹奏楽演奏会」については、打ち合わせの会議にヤンの希望でオブザーバーとして出席したので中身は承知していたが、その後に決まったらしい演奏会翌日の特別講義については、まるで初耳の内容だった。

ヤンのメールの直後、今度は、ハル・レナード・MGBの極東マネージャー、ユルーン・ヴェルベークから、『残部は送り返してもらったらいいので、すぐ“注文数”をまとめて欲しい。』という仰天メールが入る。直ちに『この話はおかしい。とにかくペンディングだ。』と返信を入れる。

とにかく、知らないところで話がドンドン進んでいるような印象だ。と同時に、かつてブリーズ・ブラス・バンド(大阪)のミュージカル・スーパーバイザーをつとめていた頃、まだ売出し中のヤンを招聘した国内ツアーのために、突然300枚ものCDが送りつけられ、方々の楽器屋さんに頼み込んで預けたものの、それを売り切るのに結局8年以上かかった悪夢がよみがえる。

ハル・レナード・MGBが、まだデハスケと言った時代の事件で、CDは「Music for Brass~Jan Van der Roost」(de haske、10-003-3)というヤンのブラス作品を集めたコンピレーション盤だった。

そこで、ヤンの演奏会への招聘を企画された同大教授の木村寛仁さんや特別講義を企画された同じく教授の高 昌師さんなど、関係者に事情を伺う。話を聞くと、とにかく、まるで情報が噛み合っていない。それだけでなく、ヤンからの提案にかなり当惑気味だ。

ただ、ちょうどこの時、ヤンは、11月27日(月)、洗足学園音楽大学前田ホールで開催される「洗足こども短期大学幼児教育保育科ウインドバンドコンサート」の指揮のために来日する直前だった。そこで、この演奏会をオーガナイズする同大助教の滝澤尚哉さんに滞在中のフリータイムを確認し、11月26日夜のミーティングのアポをとった。

当日上京し、川崎市の溝の口で会って話を聞くと、ヤンがイメージする特別講義と大阪音大が求めているものがかなり乖離していることが判った。

ヤンは、階段教室のような大教室で、作曲を勉強中の学生と前日ステージにのった学生が大挙して聴講し、そこには全演奏曲のスコアが山積みになっている、そんな光景を思い描いていた。

そこで、ヤンには、大阪音大の作曲のクラスでは、先生とマンツーマンで勉強が行われ、作曲の学生の数は10名であること。その学生がウィンドオーケストラやブラスバンドの作曲を目指しているわけではないので、前日の吹奏楽演奏会を聴きにくるとは限らないこと。作曲を勉強する学生と演奏を勉強する学生は共通しないので、前日ステージにのった学生が翌日の作曲の特別授業を聴講する可能性は極めて低いこと。大学が教材としてスコアを買い与えることはないことなど、つぎつぎとたたみかける。

その都度、ヤンの顔は赤くなったり、青くなったりする。

そこで、今度は逆にいくつか提案を出す。

大阪音楽大学は、少数精鋭のための密度の濃い特別講義を望んでいるので、午前、午後の2コマある授業のそれぞれに、これはと思う作品を1曲ずつ選び、それをテーマにレクチャーすればいい。また、学生の手許にスコアがなくても、クラスには性能のいいオーバーヘッド・プロジェクターがあるので、それを活用したらいい。その操作は高先生が引き受けると言って下さっているなど、現実的な提案を聞いている内、ヤンの顔にも生気が戻ってくる。

この日の議論はここで終ったが、その後のメールのやりとりで、特別講義で使う曲は、「グロリオーゾ」と「いにしえの時から」の2曲に決まった。

「グロリオーゾ(Glorioso)」は、2017年2月11日(土・祝)、東京・文京シビックホール大ホールで開催された「シエナ・ウインド・オーケストラ第43回定期演奏会」のために委嘱され、ヤン自身の指揮で世界初演された近年作で、ロシアの大作曲家ドミトリ・ショスタコーヴィチ(1906~1975)へのオマージュとして書かれたもの。

もう一方の「いにしえの時から(From Ancient Times)」は、2010年6月18日(金)、東京・大田区民ホール アプリコで、これを聴くために来日した作曲者臨席のもと、鈴木孝佳指揮、タッド・ウインドシンフォニーによって世界初演された作品。かつてヨーロッパ音楽に大きな影響をもたらしたフランドル楽派の作曲家たちや、ベルギーが生んだ楽器発明家アドルフ・サックス(1814~1894)へのオマージュとして書かれた力作だ。

いずれも、ヤンが敬愛する先人たちへのリスペクトから作曲をスタートさせた作品だ。

いいテーマが選ばれたな!

大阪音大のための特別講義は、2コマの時間では語り尽くせないほど濃い内容を伴った両曲に決まった。

▲CD – Music for Brass Jan Van der Roost(蘭de haske、10-003-3)

▲スコア – グロリオーゾ(Glorioso)

▲スコア – いにしえの時から(From Ancient Times)

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第28話 ヴァンデルローストのマーキュリー事件

▲大阪音楽大学第49回吹奏楽演奏会チラシ

▲ハッピー・バースデー!

2018年2月28日、ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)が大阪・伊丹空港に降り立った。

3月4日(日)、ザ・シンフォニーホールで行なわれる「大阪音楽大学第49回吹奏楽演奏会」を客演指揮をするための来日だ。

演奏は、大阪音楽大学吹奏楽団。プログラムは、以下のようなものだった。

・横浜音祭り序曲“シティ・オブ・ローズ”
(Yokohama Festival Overture“City of Roses”)

・グロリオーゾ
(Glorioso)

・管楽器のためのアダージョ
(Adagio for Winds)

・交響詩「スパルタクス」
(Spartacus)

・フレーム・アンド・グローリー
(Flame and Glory)

・チロルの強き大地
(Tirol Terra Fortis )

・いにしえの時から
(From Ancient Times)

演奏会の責任者である同大教授の木村寛仁さんや特任准教授の伊勢敏之さん、小野川昭博さんらを中心とする招聘チームが本人のアイデアとすり合わせながら企画・選曲した内容の濃い自作自演プログラムで、アンコールにも自作から2曲が用意された。

・カンタベリー・コラール
(Canterbury Chorale)

・マーキュリー
(Mercury)

周知のとおり、ヤンのいくつかの楽曲には、出版社が楽譜を出す際に省かれたり、楽譜出版後、特別な演奏機会のために本人が書き足したなど、さまざまな事情により、出版譜に含まれないオプション・パートが存在する。

演奏会前年の9月20日、大阪音大で行なわれた事前打ち合わせで、“それらをすべて使いたい”とする大学サイドの提案をヤンは快諾。オブザーバーとして同席した筆者は、演奏予定曲の全オプション・パートの有無をヤンと確認し、“大阪音大のためのオプション譜”の用意に取り掛かった。

マネージャーなどではないが、ヤン本人の日本国内での演奏活動に備え、友人としてオプション譜を預かっているからだ。

もちろん有償貸出は一切行わない。

他方、ヤンの方からも“ザ・シンフォニーホールのオルガンを活用したい”という提案が出て、大音側もそれに同意。その結果、近年書き足された「いにしえの時から」のオルガン・パートがヤンから筆者に渡り、新たに「マーキュリー」のオルガン・パートが書き足されることになった。

過去、ヤンが指揮をした東京佼成ウインドオーケストラのレコーディング・セッション(CD:ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.3“オリンピカ”/ 佼成出版社、KOCD-3903 / 1994年11月24~25日、昭島市民会館(東京都)で収録 / 1995年4月22日リリース)や、大阪市音楽団第84回定期演奏会(2002年6月13日、ザ・シンフォニーホール)、シエナ・ウインド・オーケストラ第43回定期演奏会(2017年2月11日 文京シビックホール)のような自作自演コンサートで使用されたオプション・パート譜も、筆者が取り揃えたものだ。

日本到着後、旅装を解いてたっぷり休息をとったヤンからメールが入ったのは、翌朝だった。

「Maido Yukihiro-san, genki desuka?(まいど、ユキヒロさん、元気ですか?)」

いつものように、大阪弁混じりのややこしい日本語から入ってきた。

すぐ返信し、まずは事務的な打ち合わせを済ませ、18時に終わる大学での練習の後、19時にホテルのロビーで待ち合わせて食事に出ることを確認する。

すると、「OK, thanks Yukihiro. Mata kondo!」(OK、ありがとうユキヒロ、また、こんど!)と返信がきた。

しめしめ、また日本語を間違えてるゾ!

ヤンの日本語教師(第5話参照)としては、こいつは見逃せない。

速攻で、「“また、こんど(Mata Kondo)”は、いずれ別の日に会おうという時の言い方だ。英語の“See you later.”と同じ言い回しで、その日の内にすぐ会うことになっているような場合には、“また、あとで(Mata Atode)“と言う方ががふさわしい。」と打ち返す。

これには返信がこない。きっと、ひとりで地団駄踏んでいるに違いなかった。

実は、この日は、ヤンの62回目の誕生日だった。

それにまったく気がついていないフリをして、この日は名古屋芸術大学教授の竹内雅一さんと3人で食事をする約束をしていた。実は、ヤンは名芸の名誉教授でもあった。

予約したテーブルにつくと、用意したフランス産の白ワインのボトルが運ばれ、テイスティングのあと、3つのグラスにつぎつぎと注がれていく。

各人グラスを手にしたところで、“ハッピー・ハースデー!”と叫ぶと、ヤンは目をシロクロ!!

彼は『ヤバい、みんな僕の誕生日を知っている。』と大きな声を上げたが、サプライズはとにかく大成功!!

聞けば、この日の大音での練習冒頭、「横浜音祭り序曲」のとき、ヤンがタクトを振り下ろした瞬間、学生たちは、「横浜~」ではなく“ハッピー・ハースデー”のメロディーを吹いたんだそうだ。

事前に“ハッピー・ハースデー”の楽譜を学生に渡しておき、ヤンに気づかれないよう、その背後に位置どりして指揮をした伊勢さんの仕掛けだった!!

ネタ元は、イタズラ好きのヤンが若い頃に好んでやった“音楽サプライズ”だったが、“まさか自分がやられるとは思ってなかった”というヤンの話に大笑い。その後は、互いや知人の近況報告や音楽談義で大いに盛り上がった。

翌3月2日の夕刻、この日も練習後のフリーの時間に食事の約束をしていたが、その直前、予想外のハプニングに見舞われた!

それは、演奏会の事務方トップをつとめる上田英治さんからの電話で、アンコールの「カンタベリー・コラール」と「マーキュリー」にバス・サクソフォーンを入れたいという要望が出たので、それらをpdfかFAXで至急送って欲しいというリクエストだった!

アレレ、と思った筆者は、早速、大学に渡したはずのパート譜のリストを点検するが、「カンタベリー・コラール」のバス・サクソフォーンはそのリストにあった。ということは、すでに渡っているはずだが、念のためFAXで再送付し、以前渡したパート譜の再点検を電話でお願いする。だが、「マーキュリー」のバス・サクソフォーンの話は本人から聞いたことがなく、手許にはないので、必要なら本人に書いてもらうしかないとお話しする。

関西学院大学応援団総部吹奏楽部の委嘱曲「クレセント・ムーン(Crescent Moon)」(2011)のときも、練習場でバス・サクソフォーンを吹ける学生さんがいるのを見つけて、一晩でパートを書いてきたことがあったので、スコアと時間さえあれば可能なことは知っていた。

やがて、上田さんから“カンタベリーはすでに頂いていました”と謝罪の電話が入る。残るは「マーキュリー」だ。待ち合わせの時刻がせまっていたので、とにかくその場に向う。

この日の相方は、オオサカ・シオン・ウインドオーケストラの理事長で、バス・トロンボーン奏者の石井徹哉さんだった。ヤンとは、オオサカ・シオンの名が“大阪市音楽団”だった当時に何度か客演指揮をした間柄だ。

会食の合間にも、ヤンからは現状についての質問、石井さんからは将来のビジョンなど、有意義な会話が交わされる。

しかし、話が「マーキュリー」の件に移ったとたん、ヤンは顔を曇らせ、『ここまで“マーキュリー”にバス・サクソフォーンを入れる話はなかった。』と言う。言い換えると、「マーキュリー」のバス・サクソフォーン・パートはこの世に存在しないことを意味する。筆者の手許にないのも当然だった。

これは、どうやら練習現場で出た話と思えた。プログラムを思い描くと、ラストの「いにしえの時から」(バス・サクソフォーンを必要する)の舞台上の編成のまま、直ちにアンコールに移りたいという演奏プランが見えてきた。

しかし、ヤンは自分のスコアを大学の練習場に置いてきていた。原因がどこにあるのかわからなかったが、この時点で、少なくとも「マーキュリー」に関して、指揮者、演奏現場、事務方の意志が噛み合ってないことは明らかだった。

そこで、ヤンは『スコアを持っているか?』と筆者に尋ねる。

以前レコーディングに使ったブラスバンド版とウィンド・バンド(吹奏楽)版の2種類のスコアがあることは分かっていたので、『もちろん。』と答える。

すると、『家に戻ったら、それをデータ化してメールしてほしい。』と言う。しかし、帰宅後、膨大なスコアの中からそれを探し出す時間が必要だった。

隣りでこのやりとりを聞いていたオオサカ・シオンの石井さんも、楽団事務所に「マーキュリー」がライブラリーにあるかないか、確認電話を入れる。ヤンも『スコアでなくても、高音部記号のBbバスのパートだけでもいい。』と期待するが、残念ながら、オオサカ・シオンに楽譜はなかった。

石井さんも『うちに“マーキュリー”がないとは…。』と、ガックリ。

帰宅後、約2時間、楽譜ロッカーを掻き回した結果、“それ”は出てきた!

もう深夜12時を軽く回っていたので、ヤンはきっと休んでいるはず。ヤンに“発見メール”だけを送り、タクシーで一路ホテルへ!!

フロントにスコアを預けて帰宅すると、もう1時40分近くになっていた。

翌朝、ヤンからの“受領メール”を受信!!(やれやれ!)

演奏会当日、伊勢さんに確認すると、“いにしえ”の舞台のままアンコールをやろうと言い出した張本人はヤンだったのだそうだ。(オイオイ!)

バックステージに、ハプニングはつきもの!!

かくて、「マーキュリー」バス・サクソフォーン・パートは完成した!!

▲大阪音楽大学第49回吹奏楽演奏会プログラム表紙

▲演奏会曲目

▲パート譜を作るのに用いたスコア

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第27話 世界吹奏楽全集

▲LP – 世界吹奏楽全集(東芝音楽工業、TP-7299~301)

▲世界吹奏楽全集の曲目一覧

日本コロムビアが、新録音の「楽しいバンド・コンサート」(加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブル / EP全3枚:EES-176、EES-177、EES-178 / 第18話参照)を1967年にリリース。翌年、それを追いかけるように、日本ビクターが海外原盤を活用した「世界のブラスバンド」(イーストマン・ウィンド・アンサンブル、スコッツ・ガーズ・バンド、パリ警視庁吹奏楽団ほか / 2枚組LP全4巻+別巻の計5巻 / Philips:SFL-9060~61、同:SFL-9062~63、同:SFL-9064~65、同:SFL-9066~67、同:SFL-9068~69 / 第19話参照)を企画したことは、それまでマーチ以外の吹奏楽レコードにまるで関心を示すことがなかった日本のレコード業界に、ちょっとした“吹奏楽レコード・ブーム”を巻き起こした。

ビクターの動きに最も敏感に反応したのは、もちろんコロムビアだった。

1968年9月から翌年6月の10ヵ月間に、毎月1タイトルのペースでリリースされた「コロムビア世界吹奏楽シリーズ」(日本コロムビア、XMS-51-R ~ XMS-60-S)がそれだ。

このシリーズは、ビクターと同じく海外原盤網を活用したもので、第1集のフランスに始まり、ドイツ、オランダ、ポーランド、アメリカ、スペイン、再びフランス、イギリス、オーストリア、チェコスロヴァキアのバンドによる合計10タイトルがリリースされた。

内容は、イーストマン音楽学校のドナルド・ハンスバーガー(Donald Hunsberger)が編曲したショスタコーヴィチの『祝典序曲(Festive Overture)』が注目を集めたトレヴァー・L・シャープ(Captain Trevor L. Sharpe)指揮、コールドストリーム・ガーズ・バンド(The Regimental Band of the Coldstream Guards)演奏の第8集「イギリス近衛兵の栄光(Second to None)」(日本コロムビア、XMS-58-Y / 原盤:英Pye)が唯一コンサート・アルバムであるのを除けば、他はほとんどすべてマーチだった。

ただ、1990年代に大阪市音楽団の首席指揮者をつとめたハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)が指揮したオランダのコミュニティー・バンド“オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー”やほとんど耳にできなかった共産圏の軍楽隊など、過去に日本国内でレコードが発売されたことがないバンドのマーチ演奏が聴ける点で、マーチ・ファンには大いに歓迎された。

一方で、コロムビアの“第1集”の発売がビクターの“第1巻”と同じ1968年9月に重なるなど、ライバル意識の強い老舗両社の鍔迫り合いは強烈で、この時期、両シリーズ以外にも結構バラエティに富んだ外国原盤の吹奏楽レコードが両社から単発リリースされた!

そんな中、1961年に初来日したギャルド・レピュブリケーヌの録音を成し遂げた東芝音楽工業は、1968年に「世界吹奏楽全集」(TP-7299~301)という、LP3枚構成のボックス・セットを企画し、翌年4月1日にリリースする。

監修・解説は、コロムビアの「楽しいバンド・コンサート」に制作委員として参画し、ビクターの「世界のブラスバンド」にも解説者として名を連ねた大石 清さんだった。

当然、東芝の新しい企画にも先行両社と類似するコンセプトが感じられた。

まず、日本吹奏楽指導者協会の推薦を得たこと。

ついで、セットされた3枚のLPが“マーチ篇”“ポピュラー篇”“オリジナル篇”のジャンル別構成になっていたことだ。これは、ビクターの“行進曲編”“ポップ・コンサート編”“クラシカル・ブラス編”“オリジナル・ブラス編”という流れと似ている。

時代の趨勢(すうせい)なのか、レコード会社の呪縛なのか、1枚目を“マーチ”でスタートさせている点も共通するが、安易に“ブラス”という文字を使ったビクターより、東芝のジャンル分けが吹奏楽の指導現場の親近感を集めたのは、間違いないだろう。

演奏者に目を転じると、“マーチ篇”を海上自衛隊東京音楽隊、“ポピュラー篇”と“オリジナル篇”を東京佼成吹奏楽団というように、すべて日本のバンドの演奏でまとめたことも大きな特徴だった。これは、コロムビア盤のコンセプトと同じで、演奏内容はさておき楽器編成が異なる外国バンドの演奏をまとめたビクター盤より、日本の演奏現場に寄り添うかたちとなった。

“マーチ篇”は、片山正見隊長在任時(1962~1967)に17センチEPのシリーズで発売されていた「マーチと共に」の既録音からコンピレーションされたもので、“世界”のタイトルにふさわしく、
アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア、オランダ、イタリア、ロシア、ベネズエラ、日本の代表的なマーチで構成されていた。

これに対し、“ポピュラー篇”と“オリジナル篇”の2枚は、当時、東京・港区の溜池にあった東芝第1スタジオで、兼田 敏の指揮で新規録音されたものだった。

東京佼成吹奏楽団(後の東京佼成ウインドオーケストラ)にとっては、メジャーレーベルへの最初期の録音であり、「バンドジャーナル」1969年3月号(音楽之友社)の口絵ページに3枚の写真とともに録音リポートが掲載された。写真は、1968年12月26日の“ポピュラー篇”の録音シーンのもので、セクションをボードで仕切り、ミキサーでバランスをとるマルチ・レコーディング方式で録られていたのがとてもよくわかる。

その“ポピュラー篇”には、ハロルド・L・ウォルターズ(Harold L. Walters)の『フーテナニー(Hootenanny)』やアルフレッド・リード(Alfred Reed)の『グリーンスリーヴス(Greensleeves)』、岩井直溥編の『八木節』などが収録されたが、ホーム・クラシックのようなレパートリーとの混載であり、やや印象度の薄いものになってしまったのは否めない。

吹奏楽の演奏現場で最も歓迎されたのは、3枚目の“オリジナル篇”だった。

これは、アメリカのオリジナル曲だけで構成された“日本初のLP”だ。

ジョセフ・オリヴァドーティ(Joseph Olivadoti)の『ポンセ・デ・レオン(Ponce de Leon)』、ハロルド・L・ウォルターズの『ジャマイカ民謡組曲(Jamaican Folk Suite)』、ジム・アンディ・コーディル(Jim Andy Caudill)の『バンドのための民話(Folklore for Band)』、ジョン・J・モリッシ―(John J. Morrissey)の『中世のフレスコ画(Medieval Fresco)』、ヴァーツラフ・ネリベル(Vaclav Nelhybel)の『プレリュードとフーガ(Prelude and Fugue)』、チャールズ・カーター(Charles Carter)の『交響的序曲(Symphonic Overture)』、シーザー・ジョヴァンニ―ニ(Caesal Giovannini)の『コラールとカプリチオ(Chorale and Capriccio)』、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『シンフォ二アンズ(The Sinfonians)』という収録作品は、ものすごい勢いで日本のスクール・バンドの人気レパートリーとして浸透していった。

そこで、東芝は、1972年2月5日、3枚目だけを切り離して「吹奏楽オリジナル名曲集」(TP-7570)として再リリース。社名が東芝EMIに変った後、1974年にスタートした<吹奏楽ニュー・コンサート・シリーズ>にも「吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.4」(TA-60031)として組み込まれて再々リリースされるなど、規格番号やカップリングを変えながらCD時代にも残るロングセラーとなった。

これらのオリジナル曲は、今もどこかで演奏されている。それを見ても、レコードの影響力が当時いかに大きかったかがよくわかる一例となった。

コロムビア、ビクター、東芝の3社とも、主に外国楽曲を扱いながら、曲名、作曲者名、編曲者名の横文字表記がジャケットや解説書にまったく見当たらないなど、残念な点もあったが、マーチ一辺倒だった日本の吹奏楽レコードが、これらの冒険的企画などを通じて、新たな制作方針が固まっていったことは明らかだ。

これ以降、マーチはマーチだけのアルバムに、ポップスはニュー・サウンズなどに収束された。

「世界吹奏楽全集」は、レコード各社に吹奏楽オリジナル作品のアルバム作りを強く意識させるきっかけを作った、そんなLPボックスだった。

▲[EP – マーチと共に(1)(東芝音楽工業、TP-4094)

▲EP – マーチと共に(3)(東芝音楽工業、TP-4096)

▲EP – マーチと共に(4)(東芝音楽工業、TP-4097)

▲EP – マーチと共に(7)(東芝音楽工業、TP-4104)

▲EP – マーチと共に(13)(東芝音楽工業、TP-4151)