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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第16話 エリック・バンクス「世界のマーチ名作集」

▲ロイヤル・アルバート・ホールのRAF音楽の祭典

全身全霊を傾けて取り組んだ“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本ツアー1988”が成功裏に終わり、ホッと一息ついた1988年5月始め、ビクターの西村時光さんからミーティングのオファーがあった。

ロイヤル・エア・フォースの新録音を、ぜひビクターでやりたいという提案だった。

その頃、“来日記念盤”としてスタートしたビクターの「女王陛下のウィンド・オーケストラ ロイヤル・エア・フォース・バンド」シリーズ(英Polyphonic原盤)は、同年3月21日リリースの【Vol.1-1984ライヴ】(LP:VIC-28262 / CD:VDC-1276 / カセット:VCC-10061)と【Vol.2-1987ライヴ】(LP:VIC-28263 / CD:VDC-1277 / カセット:VCC-10062)の2タイトルが順調な滑り出しを見せていた。

その後、1992年4月21日リリースの【Vol.8-1991ライヴ】(CD:VICC-88)までの合計8タイトルに加え、ベスト盤まで発売されたので、“ビクターの吹奏楽”としては、かなり存在感を示すものとなった。。

このシリーズは、エリック・バンクス(Eric Banks)がロイヤル・エア・フォース(RAF)の首席音楽監督に就任後、RAF所属の5つのバンドの内、4つのバンド(セントラル・バンド、レジメント・バンド、カレッジ・バンド、ウェスタン・バンド)の合計200名のプレイヤーを一堂に集め、1984年以降、毎年秋にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されていた“RAF音楽の祭典(RAF Festival of Music)”をライヴ収録したライセンスものだったが、今度の新しい提案では、ビクター原盤でセントラル・バンドの新録音をセッションで行いたいという話だった。

『どういう内容がいいと思われますか?』という西村さんに対して、全国7公演のツアーに帯同し、どういうレパートリーが日本の聴衆に喜ばれたかを肌で感じとっていた筆者は、せっかくイギリス最高峰のセントラル・バンドに新録音をオファーするならば、それは“これまで日本の吹奏楽レコードになかったもの”であることが重要かと話して、2つの録音案を示した。

A案は、グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)の組曲『惑星(The Planets)』全曲のようなセンセーショナルなクラシックもの。

B案は、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』を中核にしたイギリスのウィンド・ミュージックの新旧オリジナル集だった。

さすがに本場イギリスもの。セントラル・バンドが演奏した『惑星』の“木星”や『ドラゴンの年』は、各地で大絶賛されていたからだ。まるで聴いたことのないサウンドだった。

実際、この両曲が演奏された大阪のザ・シンフォニーホールでのライヴは、信じがたいほどの熱狂をもたらした。また、日本の聴衆にとって未知の新曲“ドラゴン”に、その後、関西から火がついたのも、ごくごく自然な成り行きだった。

ただ、A案には、過去、英EMIがセントラル・バンドの大部分のレコードを手掛けながら、情報不足で来日に完全に乗り遅れてしまった東芝EMIも高い関心を示していること。また、“火星”“木星”以外は、新しいトランスクリプションが必要なこともお話しした。

一方、B案には、ゴードン・ジェイコブの『吹奏楽のための協奏曲(Concerto for Band)』やジョン・アイアランドの『コメディ序曲(Overture:Comedy)』、エリック・ポールの交響詩『復活(Resurgam)』、パーシ―・フレッチャーの『エピック・シンフォニー(An Epic Symphony)』の終楽章“英雄行進曲(Heroic March)”といったレパートリーがすでに出そろっていることもつけ加えた。

筆者としては、あれほどまでの熱狂をもたらし、まだ日本盤の無かった“ドラゴン”をメインに据えたB案が一押しであり、第15話でお話ししたように、ナマ演奏で“ドラゴン”を聴いた西村さんの感触も上々だった。

氏は、まず新録音の構想があることをバンクスに伝えてほしいと筆者に依頼し、両案は持ち帰って検討されることとなった。

だが、その後、西村さんからもたらされたビクターの回答は、まったく予想外のものだった!

『ビクターとしては、“世界のマーチ集”の録音をロイヤル・エア・フォースにお願いしたいと思います。』

大いに驚いた筆者に西村さんは、『こういう企画は、ハンコを押してもらわないと進まないということです。ご理解下さい。』と言った。

録音希望リストには、スーザの『星条旗よ永遠なれ』や『ワシントン・ポスト』、タイケの『旧友』、バグリーの『国民の象徴』、ジンマーマンの『錨を上げて』、瀬戸口藤吉の『軍艦行進曲』などが並んでいた。

リストを見たバンクスは、『今、日本は平和国家になったはずなのに、どうして?』と書いて寄越した。

筆者も提案した相手が間違っていたことを痛感!大いに反省した。

老舗レコード会社には、老舗ながらの社風と歴史がある。

マーチ全盛時代の1960年代、オランダのフィリップス・レーベルのライセンスを得て発売していたビクターは、フィリップス専属のオランダ王国海軍バンド(De marinierskael der Koninklijke marine)に、瀬戸口藤吉の『軍艦行進曲』、吉本光蔵の『君が代行進曲』、古関裕而の『オリンピック・マーチ』、今井光也の『オリンピック東京大会ファンファーレ』、シャルル・ルルーの『扶桑歌』、国歌『君が代』などを録音依頼し、大成功を収めていた。ビクターでの演奏バンド名は、“ロイヤル・ネヴィー・バンド”。ところが、1970年に“日本フォノグラム”が立ちあがると、ビクターは、上記録音曲の原盤権も同時に失っていた。

“そうか、昔の栄光よ、今一度”という訳か。ビクターとしては、優秀なバンドが演奏するマーチの原盤権が欲しかったのだ。組み合わせを変えて何度でも使える自社の“カタログ”として….。

後日、ビクターの別のセクションのプロデューサー、山田 誠さんと別の仕事で話す機会があったが、その際、話の冒頭で『今度、西村が“ひじょうにいい仕事”をしましてねー!』と言われていたのが忘れられない。

提案は、完全にスルーされたが、手許にあった『オリンピック・マーチ』の楽譜も役に立ったので、まあ、良しとするか。

CD「エリック・バンクス/世界のマーチ名作集」(ビクター、VDC-1394)は、その後、曲目のすり合わせの後、1989年1月19日、ロンドンのエンジェル・スタジオで、エリック・バンクス指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの演奏で収録され、同年8月21日にリリースされた。

▲CD – エリック・バンクス 世界のマーチ名作集

▲エンジェル・スタジオでのレコーディング風景

▲EP – 日本ビクター(Philips)、SFL-3025

▲EP – 日本ビクター(Philips)、SFL-3052

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第15話 「ジ・イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」

『いやー、プログラム見たら、映画音楽もやるんですね。いいですねー!』

フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』のウィンドオーケストラ(吹奏楽)版の日本初演が行われた1988年4月17日(日)、東京・普門館で行なわれたロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドのコンサート開演前、ビクター音楽産業、クラシック・グループのプロデューサー、西村時光(ときみつ)さんの言葉だ!

老舗の大手レコード会社には、随分とユニークなキャラで知られる方々がいらっしゃる。もちろん、氏もその中の1人で、ヴァイオリニストの千住真理子やピアニストのスタニスラフ・ブーニンなどを担当されたプロデューサーだ。

果たして、その西村さんの挙げた“映画音楽”とは、『ドラゴンの年』のことだった。

内心“おいおい”とは思ったが、氏の発言が、ニューヨーク市のチャイナタウンを舞台にチャイニーズ・マフィアとニューヨーク市警の刑事との死闘を描いたアメリカ映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン(Year of the Dragon)」(1985 / 監督:マイケル・チミノ / 日本公開:1986)のテーマ曲か何かだと“早トチリ”してのものだったし、曲を聴けばすぐ分かることなので、こちらも軽くスルーする。

実は、ロイヤル・エア・フォースとスパークの“ドラゴン”に関わり始めた時から、この種の混同は間違いなく起こると想定していた。時系列で見ると、曲の初演(1984)の方が、映画の封切(1985)より先行していたが、日本でも封切られた(1986)映画は、ロイヤル・エア・フォース来日(1988)より前に、すでにヒットしていた。映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の活字は、メディアに溢れていた。

音楽と映画の英語タイトルの違いは、唯一“The(ジ)”が頭に付くか付かないかだけだった。これでは混同するなという方に無理がある。

常々、筆者は、音楽の邦題は、原語タイトルとほぼ同じに聞こえるようにできれば最高だと考えている。その流れで言うなら、スパークの“ドラゴン”も『ジ・イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』にすれば良かったのかも知れない。しかし、日本の吹奏楽の世界では、「ジ」を「ザ」としたり、「ジ」を省略することも平気に起こり得ると想定された。また、仮に何年かたって曲が有名になったとしても、映画との混同も永遠に続く可能性があった。そこで、ロイヤル・エア・フォースの公演プログラムでは、日本語としてインパクトのある“ドラゴン”を頭にして『ドラゴンの年』と訳すことにした。

何が起こるか判らない日本で、音楽の邦題を決めて世に送り出すことは、いつもとても怖いものだ。しかし、こと『ドラゴンの年』に限っては、いろいろな意味でベターだったと考えている。

結果、1988年4月17日、東京・普門館における、エリック・バンクス指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド演奏の『ドラゴンの年』ウィンドオーケストラ版の日本初演は、5月4日、NHK-FMの特別番組「ジョイフル・コンサート」で、秋山紀夫さんの解説でオン・エア。また、来日2度目の演奏となった4月19日、大阪のザ・シンフォニーホールでは、来日中最高のパフォーマンスを叩きだし、関西の“ドラゴン”ブームに一気に火をつけた。

▲ザ・シンフォニーホールのステージから

▲ザ・シンフォニーホールのステージから指揮のエリック・バンクス

余談だが、ザ・シンフォニーホールの下手側舞台そでには、公演オーケストラのステッカーがところせましと貼られている壁がある。そして、この日、『こんな演奏聴いたことがありません。彼らはすばらしいオーケストラです!』と感動したホールのステージ・マネージャーの手で、ロイヤル・エア・フォースのエンブレムもそこに加えられた。筆者の目の前で!

ロイヤル・エア・フォースに関わった人間として、これほど誇らしく思えた瞬間はなかった。

ビクターの西村さんが、ロイヤル・エア・フォースに関心を持ったのは、1987年12月、年末恒例の挨拶まわりで訪れた月刊「バンドピープル」の編集部だった。当時、東京都中央区新富にあった編集部では、ボスの冨田尚義さんをはじめ、大沢秀安さん、鎌田小太郎さんら、個性豊かなサムライが揃い、日々エネルギッシュな誌面作りに邁進していた。

『健康より原稿!締切守って生活安定!』という、そのスローガンは忘れられない!

そんな編集部で、『ねえ、ねえ、なにか面白い話はない?』と切り出した西村さんに対し、大沢さんが『こんなの知ってる?』と見せたのが、1984年以降、ロイヤル・エア・フォースが毎年秋にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催していた“Festival of Music”の1986年のライヴ盤(LP:英Polyphonic、PRM111D)だった。次の瞬間、小太郎さんがレコードを取り出し、B面1曲目のジョン・ウィリアムズの『レイダース・マーチ(Raiders of the Lost Ark)』を爆音でかける。これに、冨田さんが『これ、200人でやっているんだ!』と畳みかける!見事なチームワークだ。『へぇー、200人でやってもズレないんだ!』とは、西村氏の弁。

レコードは、この時点での最新盤。第8話でお話ししたように、ロイヤル・エア・フォースの件でさんざん迷惑をかけていた編集部に“迷惑料”代わりに進呈したものだった。翌日、大阪へ帰郷していた筆者にも、編集部から電話が入り、顛末の一部始終が知らされる。『ビクターから連絡が行くと思うので、よろしく。』と。

西村さんのアクションは素早かった!!

電話で筆者に“日本の他のレコード会社からのリリース予定”の有無をまず確認。それが無いと分かるや、『ぜひとも、ウチでリリースしたいと思います。』と言って、“プロデューサーとの連絡方法”、“演奏者”や“ツアー”のことなど、ものすごい勢いで質問攻めが始まった。

その後、ロンドンのプロデューサー、スタン・キッチン(Stan Kitchen)にコンタクトして、社内稟議もクリア。年内の超多忙な時期に、アッという間に、ロイヤル・エア・フォース「来日記念盤」として、2タイトルをLP、CD、カセットの3種類のソフトで、1988年3月21日同時リリースすることを決めてしまったのだ。

この結果、発売されたのは、ロイヤル・エア・フォースの“Fesival of Music”が初めて行われた1984年盤(LP:VIC-28262 / CD:VDC-1276 / カセット:VCC-10061)と、ライヴが行なわれたばかりの1987年盤(LP:VIC-28263 / CD:VDC-1277 / カセット:VCC-10062)の2タイトル。1985年盤と1986年盤は、先行2タイトルの動きを見ながら、リリース日を決めるというのが、ビクターの戦略だった。

普門館でコンサートを聴いた後の西村さんの“ドラゴン”への感想も忘れられない。

『いやー、コープランドみたいな魅力的な音楽でした。』

▲ビクター盤LP:女王陛下のウィンド・オーケストラ ロイヤル・エア・フォース・バンドVol.1

▲ビクター盤LP:女王陛下のウィンド・オーケストラ ロイヤル・エア・フォース・バンドVol.2

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第14話 チャイルズ・ブラザーズの衝撃

▲チャイルズ・ブラザーズのプロモ・カード

アメリカのニューヨーク・スタッフ・バンド、イギリスのコールドストリーム・ガーズ・バンドとの感動的な出会いがあった1989年には、もう2人、忘れてはならないすばらしい出会いがあった。

それは、今や完全に“伝説”となった兄弟ユーフォニアム・デュオ“チャイルズ・ブラザーズ(The Childs Brothers)”である。

ウェールズの小さな村クリックホーウェル(Crickhowell)出身の2人のユーフォニアム奏者、兄ロバート・チャイルズ(Robert Childs、1957年4月5日生まれ)と弟ニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs、1961年10月7日生まれ)が、ユーフォニアム・デュオとしてデビューしたのは、1984年10日6日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された全英ブラスバンド選手権ファイナル前夜のガラ・コンサートだった。

この兄弟は、すばらしいユーフォニアム奏者であると同時にブラスバンド指揮者としても知られた父ジョン・チャイルズ(John Childs)から音楽の手ほどきを受け、1984年当時、ロバートがブリッグハウス&ラストリック・バンド(Brighouse & Rastrick Band)、ニコラスがグライムソープ・コリアリー・バンド(Grimethorpe Colliery Band)という、イングランドのトップ・バンドで、ともにプリンシパル・ユーフォニアム奏者として活躍。仲間内では、ロバートが“ボブ”、ニコラスが“ニック”と親称で呼ばれていた。

彼らは、使っているユーフォニアムがともに“ベッソン”だったので、デュオ・デビュー以前から、製造メーカーであるブージー&ホークス社(Boosey & Hawkes)との関係は良好で、クリニックやコンサートのために海外に出向くことも多かった。だが、その時点では各人のソロ活動がメインで、デュオとしては認識されていなかった。

全英選手権ガラ・コンサートのゲスト・ソロイストとして、この2人にデュオを組ませるというアイディアも、実はこのコンサートをオーガナイズしたブージー&ホークス社の発案だった。

同社は、このデュオを実現するために、『ベニスの謝肉祭(Carnival of Venice)』のスペシャル・アレンジを気鋭の編曲家レイ・ファー(Ray Farr)に委嘱し、コンサートでは、後に2人のテーマ曲のように演奏されることになるアラン・キャザロール(Alan Catherall)編の『ソフトリー・アズ・リーヴ・ユー(Softly, As Leave You)』とともに演奏されることになった。

指揮のキャスティングにも力が入っていた。『ベニスの謝肉祭』ではアーサー・ケニー(Major Arthur Kenney)が、『ソフトリー・アズ・リーヴ・ユー(Softly, As Leave You)』ではジョン・チャイルズが指揮者として起用された!

ケニーは、第9話でお話ししたように、フィリップ・スパークの『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』の初演指揮者としても知られるが、ボブとニックがロイヤル・アルバート・ホールのステージにデュオとして登場したこの日は、翌日(10/7)開かれる全英選手権のファイナルで、ウェールズのコーリー・バンドを指揮してのハットトリック(全英3連覇)がかかっていた!  当時、イギリス中のブラスバンド・ファンの間で、もっとも注目を集めていた指揮者だった!

また、ジョン・チャイルズは、言うまでもなく2人の父であり、親子共演は、演出効果も満点!

伴奏をつとめたバンドも、ニックが16歳のときにソロイストとして招かれたヨークシャー・インペリアル・バンド(Yorkshire Imperial Band)だった。

こうして準備万端。“ボブ”と“ニック”がステージに登場すると、単に若く優れたユーフォニアム奏者のデュオというだけでなく、父を共通の師とする兄弟だけに息もピッタリ。風圧すら感じさせるスピード感とダイナミック・レンジの広さ、さらには6オクターヴを超える音域をラクラクと吹きこなすスキルをもつ2人のデュオ・デビューは、センセーショナルな大成功を収めた!

このライヴは、同年内にリリースされたLPアルバム「1984 Brass Band Festival」(英Chandos、BBRD1028)に収録され、これも大ヒットとなった。

▲LP-1984 Brass Band Festival

このため、1回限りのイベントで終るはずだったデュオは、“チャイルズ・ブラザーズ”と呼ばれるようになり、スポンサーもついて2人のための新作もつぎつぎと書かれ、2人はアーティストとして世界に大きく羽ばたくことになった。

“チャイルズ・ブラザーズ”は、1985年にスイス、ドイツ、1986年にアメリカ、フランス、オランダ、ユーゴスラヴィア、1987年にスイス、オランダ、ベルギー、ノルウェー、オーストリア、1988年にオランダ、ベルギー、スイス、スウェーデン、オーストラリアのツアーを成功させ、1989年にはアメリカ、カナダ、スイス、スペイン、ベルギーへのツアーがブッキングされている、と当時のパンフレットには説明がある。

レパートリーも、『ベニスの謝肉祭』と『ソフトリー・アズ・リーヴ・ユー』だけでなく、ジョン・ゴーランド(John Golland)の『チャイルズ・プレイ(Childs Play)』、ピーター・グレイアム(Peter Graham)の『ブリランテ(Brillante)』、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ツー・パート・インベンション(Two-Part Invention)』など、新しく魅力的な楽曲がつぎつぎと生まれた。デュオ以外にも、各人のソロ活動の中で生み出されたゴーランドの『ユーフォニアム協奏曲第1番 作品64(Euphonium Concerto No.1, Op.64)』(ボブの委嘱作、1981)やスパークの『パントマイム(Pantomime)』(ニックの委嘱作、1986)も、“チャイルズ・ブラザーズ”の活動とともに広く世界中に知られるようになった。

正しくユーフォニアムのための新しいレパートリーがつぎつぎ書かれるようになった転機の1つだった。

そんな2人と縁ができたのは、ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mlls Band)が初来日した1984年以来、何かと縁が深くなっていた東京のブージー&ホークス社(現ビュッフェ・クランポン)から“1989年7月来日”の報せと原稿依頼が舞い込んだことがきっかけだった。

この時、2人は、ボブがピーター・パークス(Major Peter Parkes)が指揮するブラック・ダイク・ミルズ・バンドのプリンシパル・ユーフォニアム奏者に、ニックがハワード・スネル(Howard Snell)が指揮するブリタニア・ビルディング・ソサエティ・バンド(Britannia Building Society Band)のプリンシパル・ユーフォニアム奏者に、それぞれポジション・アップしていた。

原稿依頼の電話を受けたのは、1989年の初夏。あまりにも急に決まった来日だったので、同社の事前告知も宣材もなく、最初の依頼は、プログラム用のアーティストのプロフィール・ノートを書くことだった。しかし、電話を受けたときに、筆者が“チャイルズ・ブラザーズ”についてすでにかなり噛み砕いて認識していることが相手に露見してしまい、その後、それならばと、コンサートの司会進行やクリニック後の質疑応答の通訳まで追加で依頼された。

来日後初の大きなアクションは、7/20(木)、福岡市博多区のガスホールにおけるピアノ伴奏のコンサート(主催:クレモナ楽器)だった。ピアニストは、出羽真理さん。

▲福岡コンサートのプログラム(表紙&曲目)

前記レコードやカセット(英Rosehill、RMPC 0068 & 0078)で2人のスキルやレパートリーは知っていたはずだったが、ナマで聴くパフォーマンスは、正しく“衝撃”そのもので、レパートリーも新鮮。また、無理に力を込めて吹いているわけでも、フォルテシモでもないのに、ホールの壁まで共鳴して“ビーン”と鳴る。一瞬ホールの素材のせいかと疑ったが、そうではなかった。その後の大阪でも東京でも、ホールの壁や天井が共震していた。音色もソフトからハードまで、ペダルからハイノートまで、すべての音符がクリアに聞こえる確実なフィンガリングが光る。“看板に偽りなし”とは、こういうときに使う言葉だろう。こんなユーフォニアムの音は、かつて聴いたことがなかった。

博多の聴衆は学生服姿が多かったが、“チャイルズ・ブラザーズ”のパフォーマンスには一様にビックリ仰天した様子で、彼らがイギリスからもってきたデビューCD「Childs Play」(Doyen, DOYCD001)の即売会は、長蛇の列となった。ニックが立ち上げ、その後ブラスバンドの大レーベルとなる“ドイエン”の第1号CDだ。(同時に、LPレコードとカセットでもリリースされた。)

▲CD-Childs Play

7/22(土)、大阪・御堂筋の周防町交差点にあった日産ギャラリーでのコンサート&クリニック(主催:三木楽器)も彼らは絶好調だった。博多でしっかりネタを仕込んでいたから、こちらの司会進行も快調に進む。いいものには嵐のような拍手が飛ぶ大阪らしい大盛り上がりのコンサートの後、ギャラリー地下での2人を囲む懇親会では、木村寛仁さん、中西 勲さん、石田忠昭さん、坂岡裕志さん、高橋修司さんら、その後、関西のユーフォニアム界を牽引する主役となった多くの若く熱意あるプレイヤーたちとの出会いがあった。これも、チャイルズのオーラが引き寄せたものだったように思う。

7/24(月)、東京・こまばエミナースでのコンサートは、前半がピアノ伴奏、後半が山本武雄指揮、玉川マスターズ・バンドとの共演という2部構成だった。もちろん、ピアノ伴奏のステージもすばらしかったが、ブラスバンド伴奏となると、何か別のスイッチが入るようで、2人はますます絶好調! アンコールでは、サプライズでニックがタクトをもってバンドを指揮するシーンも!これが、今やブラック・ダイク・バンドの音楽監督となったニックの“日本における指揮デビュー”となった。

すっかり仲が良くなった2人とは楽屋でも大盛り上がりで、指揮の山本さんも加わってスナップを撮りまくる!

終演後、握手をかわして再会を約し、東海道線の名物寝台急行「銀河」で大阪への帰路についた。

▲ピアノ伴奏で演奏する2人

▲山本武雄とチャイルズ・ブラザーズ

▲こまばエミナースでのフォト

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第13話 英国女王陛下の音楽大使

日本交響楽協会(日響)の小林 公さんから、1989年秋の“英国女王陛下の近衛軍楽隊 – コールドストリーム・ガーズ・バンド日本公演”をバック・ステージから自由に学ぶ機会を与えられた筆者は、10月4日から11日までの約1週間、バンドに帯同した。

イギリスは、正式国名を“United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland”(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)といい、グレート・ブリテン島のイングランド、ウェールズ、スコットランドに、北アイルランドを加えた4つの国で構成される。“ユニオンジャック”もしくは“ユニオンフラッグ”と呼ばれる現在の国旗も、イングランド(聖ジョージ旗:白地に赤の十字)、スコットランド(聖アンドリュー旗:青地に白の斜めクロス)、アイルランド(聖パトリック旗:白地に赤の斜めクロス)の国旗の意匠を組み合わせたものだ。有名なレッド・ドラゴン(赤い竜)が描かれているウェールズ国旗だけは、長くイングランドに服属していた歴史的背景から、組み込まれていないが、エリザベス女王もウェールズ国旗を承認している。昨今話題のスコットランド独立が実現するような事態になると、国旗も変更される可能性が高い。

こんな背景をもつ連合王国だけに、女王が居住し、執務を行なうロンドンのバッキンガム宮殿を警護する近衛師団も、イングランドのグレナディア・ガーズ(Grenadier Guards)とコールドストリーム・ガーズ(Coldstream Guards)、スコットランドのスコッツ・ガーズ(Scots Guards)、北アイルランドのアイリッシュ・ガーズ(Irish Guards)、ウェールズのウェルシュ・ガーズ(Welsh Guards)の5箇歩兵連隊で構成されている。

イギリスが他と違うのは、それら5つの近衛連隊すべてが、音楽監督1人と楽員49名で構成される定員50名の固有の吹奏楽団を有していることだろう。それらは、グレナディア・ガーズ・バンド、コールドストリーム・ガーズ・バンド、スコッツ・ガーズ・バンド、アイリッシュ・ガーズ・バンド、ウェルシュ・ガーズ・バンドと呼ばれる。例年5月にホース・ガーズ・パレードで挙行される“トゥルーピング・ザ・カラー(Trooping the Colour)”と呼ばれる女王公式誕生日の軍旗授与式のセレモニーなどでは、スコッツ・ガーズとアイリッシュ・ガーズのバグパイプ鼓隊や他のガーズの鼓隊を加えた250名を超す大編成の合同演奏で行う。BBCは、その模様を毎年放送するので、彼らの演奏は英国民にすっかりおなじみとなっている。(軍縮前の定員は、各66名だった。)

この内、最初に日本にやってきたバンドは、1970年に大阪で開催された「日本万国博」のイギリス・ナショナルデーのために派遣され、東京でも公演を行ったスコッツ・ガーズ・バンドだった。ついで、1972年、パレードを含め、全国24回のパフォーマンスを行なったアイリッシュ・ガーズ・バンド。その後、日響の小林さんが訪日を要請した1986年のコールドストリーム・ガーズ・バンド、東京ドームのオープニングを記念して開催されたイベントに招かれ、大阪でも公演を行った1988年のウェルシュ・ガーズ・バンドとつづく。1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」には、香港に来演中のグレナディア・ガーズ・バンドから分派された小編成の名物アンサンブル“18世紀バンド”が来日している。

1972年のアイリッシュ・ガーズから、1986年のコールドストリーム・ガーズまで、かなりの期間が空いているが、それは、アイリッシュ・ガーズの招聘元からバンドへの出演料支払いをめぐる重大トラブルが発生したからだ。結果、招聘元は解散。プレイヤー全員がユニオンに入っているプロ・ミュージシャンだけに、これはたいへんな事態となった。その後、イギリス国防省が“女王陛下の音楽大使”であるガーズ・バンドの日本へのツアーをけっして認めようとしなかったのも無理はない。

小林さんは、招聘まで1年余計にかかってしまったと言われていたが、1986年のコールドストリーム・ガーズ日本初公演が実現したのは、偏に折衝に当った小林さんらの熱意と誠意が相手に通じたからに他ならない。

筆者がツアーに同行を許されたのは、その3年後、1989年に行われた2度目の来日ツアーだった。

公演は、バラエティーに富んでいた!!

10/4(水)、音楽監督ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)らとロンドン以来の再会。この日の非公開の公演先である成徳学園では、コールドストリーム・ガーズ単独ステージのほか、同学園吹奏楽部との合同演奏のステージが組まれていた。当日リハーサルだけに多少の混乱はあったものの、手慣れたスタッフの誘導も功を奏し、すばらしいステージとなった。

▲成徳学園でのステージ

1日休みをとった10/6(金)の東京文化会館大ホールは、招聘元・日響の本公演。小林さんがもっとも日本の聴衆に愉しんで欲しいと思っていたステージで、ロビーでのグッズ販売もメンバーが対応。あちらこちらで入場者のリクエストに応えて即席のフォト・セッションが行われるほど、大盛り上がりのコンサートとなった。

▲東京文化会館(友人提供)

10/7(土)の米沢市営体育館(山形)では、広いフロアを使ったマーチング・ドリルとコンサートをミックスしたプログラムだった。マーチングはお手のもののはずだが、会場に入るや、フロアの広さをチェックし、入念なリハーサルが行われた。このあたり、正しくプロフェッショナル。ユニフォーム姿ではない思い思いの服装でのマーチングでも、姿勢や陣形がまったく崩れないのは、さすが第一級のバンドを感じさせた。このとき、少しチューニングに微妙なズレが感じられたので、日響スタッフを通じてスウィフト少佐に伝えてもらうと、コンサート・リハ前に、ハーモニーでサウンドを整えていく珍しいシーンに遭遇した。いつも同じメンバーでやっているからだろうが、アッと言う間に豊かで輝かしい響きを取り戻していく彼らに、あらためて惚れ直すことになった。

▲米沢市営体育館

ここで2日間オフがあり、次の出番は、10/10日(火)、愛知県豊明市の藤田学園での非公開の学内公演となった。ここは、まるでヨーロッパの宮殿のような美しい内装の“フジタホール2000”(2000人収容)でのフル・コンサートと、聖火台のあるスタンドとナイター設備も整った“総合フジタグラウンド”でのマーチング・ディプレイの2本建てだった。コンサートでの最大の収穫は、ジョン・ゴーランド(John Golland)の『ユーフォニアム協奏曲第1番(Euphonium Concerto No.1)』(独奏:ジョナサン・スミス)のウィンドオーケストラ版日本初演をナマで聴けたこと。また、ナイターで行われたディスプレイでは、緑の天然芝の上で、伝統のマーチングを繰り広げるコールドストリーム・ガーズのフォーメーションが、カクテル照明に映え、とても美しかった。

▲藤田学園でのショー

翌日の10/11(水)、滋賀県の大津に移動。コンサート前の一仕事として、バンドは、JR大津駅前から会場の滋賀会館までパレードを行なった。途中、バンドの進行ルートの路上中央部に陣取ったどこかのメディアのカメラマンと衝突寸前のハプニングも。思わず、トロンボーン奏者が“あぶない!”と大声を張り上げたが、英語がわからないためか、いい絵を撮りたいためか、カメラマンはそのまま撮影を続行。結局、行進するバンドの中央部あたりを辛うじてすり抜けるような形となった。パレード終了後、メンバーも口々に“あれはクレージーだ!”と言い、同じ日本人として何とも言えない気持ちとなった。しかし、ハイノートが炸裂するアメリカのデニス・エドルブロック(Dennis Edelbrock)のファンファーレ『サリュート・トゥー・ア・ビギニング(A Salute to a New Beginning)』 でこの日のコンサートが始まると、気分一新、メンバーたちはいつものミュージシャンの姿に戻っていた。すっかり名物となったケヴィン・コーツ曹長独奏の『ポスト・ホーン・ギャロップ(Post Horn Gallop)』も場内からヤンヤの喝采を浴びていた。

▲JR大津駅前から会場の滋賀会館までパレード

▲滋賀会館でのステージ

コールドストリーム・ガーズとの珍道中もこの日でお別れ。

この間、主催者の要望に応えようとするバンドのミュージシャンシップ、臨機応変の対応をする音楽マネージャー、想定外のハプニングのカバーリングなど、聴衆が興奮するステージの裏側で、さまざまな人々がそれをサポートをしている姿を目の当たりにすることができた。特筆すべきは、この間1つとして同じスタイルの公演はなかったことだ。これは地元主催者との緻密な事前折衝と演奏者との信頼関係があって、始めて成立する世界だ。

現場では、小林さんの著『85%成功するコンサートの開き方』(芸術現代社)に書かれたノウハウが見事に具現化されていた。

2017年までに、コールドストリーム・ガーズは、都合13度の来日を果たしている。これは、このバンドがどれだけ日本人のハートを捉えているか、その証明のようなものである。

大津からバスで京都のホテルに到着後、この間すっかり仲が良くなったトロンボーン軍団が、筆者のために気持ちのこもった小さな誕生パーティーを開いてくれた。

若き日の想い出の1ページである。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第12話 85%成功するコンサートの開き方

1988年4月、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーは、音楽的にも幾つもの成果を上げながら、成功裏に終えることができた。

東京、大阪、名古屋を含む、全7公演のプロデュースの責務を担う以前は、まさかこのような規模の大きなツアーを4ヵ月という短期間の内にまとめあげねばならなくなるとは想像すらしていなかったが、幸いにも各方面のいろいろな方々の知恵と協力、尽力を得て、ぶっつけ本番ながら、勢いだけでなんとか乗り切ることができた。その悪戦苦闘ぶりは、第8話第10話でお話ししたとおりだ。

しかし、70余名のイギリス人ミュージシャンを率いて各地の会場をめぐる内、自分に決定的に不足しているものが何であるかが次第に見えてきた。

それは、多くのファンがただ音楽を愉しみたい、ただそれだけの目的のためにやってくるコンサートを澱みなく進行させ、事故なく舞台を動かしていくステージの実体験だ。

ポップスやオーケストラの世界では、専門教育を受ける場や機会は確かにある。しかし、筆者は、管楽器が中心になって活躍する音楽に特化した勉強がしたかった。

幸いなことに、ロイヤル・エア・フォースのツアー翌年の1989年には、アメリカのブラスバンド、救世軍ニューヨーク・スタッフ・バンド(Salvation Army New York Staff Band)(5月)と、ロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵交代でおなじみの5つの近衛軍楽隊から、コールドストリーム・ガーズ・バンド(The Regimantal Band of the Coldstream Guards)(9~10月)の来日が予定されていた。

▲ニューヨーク・スタッフ・バンド

そこで、筆者は、まず、東京・神田神保町の救世軍本営を訪ね、旧知のジャパン・スタッフ・バンド楽長、鈴木 肇(はじめ)さんに、ボランティアで舞台をお手伝いしたい旨、申し入れた。鈴木楽長は、最初、とても驚かれた様子だったが、真摯にその目的を話す内、快く舞台スタッフに迎え入れていただけることになった。また、大阪でも、救世軍の関西ディビジョナル・バンド楽長、前田徳晴さんの理解を得た。

救世軍は世界的組織だ。内部に音楽スタッフも大勢いらっしゃるのに、よくもまあ、キリスト教徒でもない、完全に部外者の筆者のリクエストに好意的な回答を出していただいたものだ。

この時に得たブラスバンドのバック・ステージの実体験は、その後、1990年に大阪の地に誕生したプロのブラスバンド、プリーズ・ブラス・バンドで、ミュージカル・スーパーバイザーという重責を担うことになったとき、大いに意味をもつことになった。

ニューヨーク・スタッフ・バンドの大阪での終演後、サプライズがあった。バンド・メンバーや救世軍スタップの皆さんの前で、ブライアン・ボーエン楽長(Bandmaster Brian Bowen)から“公演チラシに自筆サインをあしらった額”を贈られたのだ。貴重なステージ体験を得ることができただけでも感謝感激なのに、これはもう、一生の宝物だ!

コールドストリーム・ガーズ・バンドの音楽監督、ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)には、レコーディングでロンドンを訪れた1989年4月、バッキンガム宮殿に近いウェリントン兵舎にあるコールドストリーム・ガーズ音楽監督室でお目にかかった。面会のアポをとってくれたのは、ロイヤル・エア・フォース首席音楽監督のエリック・バンクス(Wing Commander Eric Banks)だった。

▲ロジャー・G・スウィフト少佐

そこでは、スウィフト少佐と副官のマイクル・A・ミッチェナル准尉(Warrant Officer Micheal A. Michenall)が笑顔で出迎えてくれた。両人とも、ユニフォームではなく、誂えのいいきちんとした三つ揃えの背広姿だ。(こちらも、きちんとネクタイをしめていって良かった!)

早速、1989年ツアーの抱負やプログラムについて質問しようと話し始めたら、それを遮るように、現地でも大成功が伝えられていたロイヤル・エア・フォースのツアーやプログラムについての話を聞かせて欲しいというリクエストがきた。逆に質問攻めだ!

ご承知のように、同じイギリスの演奏団体ながら、ロイヤル・エア・フォースとガーズとでは、使われている楽器、編成、レパートリー、プログラミング、演奏スタイルがまるで違う。そこで、まず敬意を表し、実際に聴いた1986年のコールドストリーム・ガーズ初来日時のプロがとても愉しかったので、そのスタイルを変える必要はないこと。ついで、ポップスについては、イギリスと日本では流行のサイクルが違うこと。普段は演奏しない日本の曲を無理に取り入れる必要はないこと。聴衆は、イギリスの、そしてロンドンの空気が伝わる曲を聴きたがっているということなどを話した。

スウィフトは、バンクスからフィリップ・スパークの「ドラゴンの年」が大成功を収めたことも聞かされていた。そこで、『イギリスのオリジナル曲がイギリスのバンドのサウンドでナマで聴けることはとても意義があるので、プログラムの中に1曲ぐらい、そういう曲が入っていてもいいのではないかと思う。ただし、コールドストリーム・ガーズの普段のスタイルを崩さない範囲で。』とサジェストした。

以上の会話がどれほどの意味があったのか、この時はよく分からなかった。しかし、別れ際には、記念にと言って、65名という当時のフル編成でウェリントン兵舎の前庭を行進するすばらしいカラー写真と、ひじょうに重い鋳造製の連隊バッジがついた士官用の革製馬具を贈られた。“空港検査でブザーが鳴るかも知れない”とジョークをかまされながら…。(写真は、その後、公演プログラムを飾った!)

帰国後、ロンドンの土産話を携えて、コールドストリーム・ガーズ日本公演を手掛ける東京・恵比寿の日本交響楽協会を訪ねた。出迎えてくれたのは、代表取締役の小林 公(ひろし)さんだった。かつて名古屋交響楽団を立ち上げ、日本フィルハーモニー交響楽団初代事務局長、読売日本交響楽団初代事務局長をつとめられた筋金入りの大ベテランだ。

今夜もどこかでコンサートがあるという多忙の中、筆者の話に耳を傾けていた小林さんは、前年ロイヤル・エア・フォース公演をなんとかやり遂げたという話に、音楽マネージャーの仲間内でも“一体誰がやったのか”と話題になっていたと言われ、ロンドンでスウィフトと話してきた中身については、目前の公演だけに、身を乗り出すように関心を示された。

その後、筆者にとって最も重要な案件である“今度の公演を舞台裏から勉強したい”という希望を切り出した。すると、すっと立ち上がった小林さんが、一冊の自著を取り出してきて、筆者に手渡した。

それが、『85%成功するコンサートの開き方』(芸術現代社, 1981)だった。

この本では、「コンサートを成功させる心がまえ」「企画のたて方とポイント」「聴衆はこうして多くする」「コンサート実務のすべて」「外タレを安く仕込む方法」「音楽鑑賞団体の課題」など、小林さんのノウハウが惜しげもなく語られていた。

実際、この本からは実に多くのことを学んだ。コンサートを作る側にとっては、正しくバイブルであり、今も座右の銘のように扱っている大切な書物だ。また、筆者の意を汲みとって、この公演を舞台裏から自由に勉強できるよう便宜を図って下さった小林さんは、大の恩人となった。

小林さんがコールドストリーム・ガーズ・バンドに魅了されたのは、1984年3月、オーストラリアの全音楽企画者会議に日本代表として招かれたとき、偶然メルボルンの新しいホールで聴いたコンサートだった。手許に残してある1986年の公演チラシには、こう書かれてある。

『2000名を越える大ホールは満席で、ステージに登場した金色の肩章やモールに飾られた真紅の上着とサイド・ラインの入った黒ズボンの隊員50名に、歓声と盛大な拍手がおくられました。冒頭でタンホイザ―の行進曲が演奏されたが、その音色のやわらかさ、ピアニッシモの美しさ、日本のオーケストラでも聴けなかった絶妙の演奏にまず驚かされました。続いて勇壮華麗な得意のマーチが聴衆の胸を躍らせ、颯爽とした指揮官のユーモラスな司会に、和かな笑いが起り、ミュージカル、オペラ、ポピュラーのヒットナンバーとプログラムが展開していって、時のたつのを忘れさせてくれました。曲によって、隊員の中の名手がすばらしい独奏を披露し、打楽器群のユーモラスな掛け合い演奏が聴衆を湧かせましたが、隊員達の姿勢や行動にすがすがしい規律正しさがみえて爽快でした。私は、軍楽隊がこれ程技術的に高いものであり、これ程娯楽に徹しているとは予想していませんでしたから、非常に驚き且感銘して、終演後指揮官に会い、訪日を要請しました。』(小林 公)

オーケストラを幾つも立ち上げてきたベテランが吹奏楽に寄せたこの一文には、教えられることが多い。

その後、スウィフトから送られてきたプログラム案には、エルガーやホルストなどのクラシックに混じって、当時ロンドンで大ヒットしていたアンドルー・ロイド=ウェバーのミュージカル『オペラ座の怪人』や『スターライト・エクスプレス』のセレクション、イギリスのオリジナル曲からは、フィリップ・スパークの『ドラゴンの年』、ジョン・ゴーランドの『ユーフォニアム協奏曲』、ローリー・ジョンスンの『ロートレックの3枚の絵』などが盛り込まれていた。

小林さんは、スウィフトが書いてきたプログラム・ノートの和訳を筆者に任せてくれた。

イギリス色満開のそのプログラムに、全力投球で取り組んだことを今もよく覚えている!

▲コールドストリーム・ガーズ・バンド