「ウインド交友録」タグアーカイブ

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第139話 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》

▲LP – 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》(トリオ、RSP-7016)

▲RSP-7016、A面レーベル(テスト盤)

▲RSP-7016、B面レーベル(テスト盤)

▲RSP-7016、A面レーベル

▲RSP-7016、B面レーベル

1970年(昭和45年)1月30日(金)午後3時から、トリオは、東京・丸の内の大手町サンケイ国際ホールにおいて、“ケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル”の演奏で、後に「我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》」(LP:トリオ、RSP-7016 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:トリオ、TSP-7013)というタイトルでリリースされる新録音のセッションを行なった。

演奏者の“ケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル”は、NHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団のほか、在京のオケマンたちによって編成されたレコーディングのための管楽アンサンブルで、この日の録音は、前年このグループによって録音、リリースされて大きな反響を巻き起こした「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」LP:トリオ、RSP-7004 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:TSP-7008)の続篇企画のためのものだった。(参照:第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》

セッションのディレクターは草刈津三さん、ミキサー(バランス・エンジニア)は若林駿介さんと、録音スタッフは前録音盤とまったく同じで、録音会場、フロア・セッティング、使用マイクやレコーダー、ミキシング・アンプ等の使用機材など、基本的な録音方式もすべて前回を踏襲していた。

前録音の成果が、それほどまでに、制作側、演奏側の双方を納得させる出来映えだったからだ。

ただし、今回はレパートリーの曲種だけは違っていた。前がすべてマーチだけの録音だったのに対し、今回は、アメリカのコンサート・バンドのレパートリーを録ろうとする企画だったからだ。そこで、演奏人数は、フルート x 2(ピッコロ兼)、オーボエ x 2、クラリネット x 8、ファゴット x 2、サクソフォン x 3、ホルン x 4、トランペット x 4、トロンボーン x 4、ユーフォニアム x 2、テューバ x 1、打楽器4と、より一般的な吹奏楽編成に近い規模に拡充されている。

そして、各セクションのリーダーは、フルートが峰岸荘一さん、小出信也さん、クラリネットが千葉国夫さん、浅井俊雄さん、ファゴットが戸沢宗雄さん、サクソフォンが阪口 新さん、ホルンが千葉 馨さん、田中正大さん、トランペットが北村源三さん、戸部 豊さん、トロンボーンが福田日出彦さん、打楽器が岩城宏之さんが担い、全体をアンサンブルのセンター近くに位置するファゴットの戸沢さんが仕切るスタイルをとったのも前回と同じだった。

唯一違ったのは、今度の録音には、NHK交響楽団の指揮者、岩城宏之さんが、指揮者ではなく、打楽器奏者として参加したことだった。

この岩城さんの参加に関しては、ディレクターの草刈さんがジャケットに寄せた一文「ケンウッド・ブラス第2弾」に、つぎのようなエピソードが記されている。

『第1回の録音以来しばらくは、大げさに云えば、東京のオーケストラの管楽器界は、その録音の話しでもち切りであった。……(中略)……。私は、メンバーたちに会うたび毎に、あの録音の話しが出、「又、やろうよ」。といって別れる日々が続いたが、忙しい人達ばかりだから、まあ出来て一年に一回位だと思っていた。しかし、そのチャンスは以外に早くやって来た。昨年の暮れに近い頃だったが、オーケストラ仲間がよく集る千葉馨氏宅でのパーティ、その日は何で集まったのかは良く覚えてないが、N響終身指揮者の岩城宏之氏など10数名の中に、千葉、戸沢両氏をはじめ管楽器のメンバーが何人か居た。そのための酒の肴の音楽は、自然あのブラス・バンドのマーチ集となったが、録音の思い出話しがはずむうち、岩城氏が「俺も一緒にやりたいな」と云い出したことが第2回目の録音のきっかけとなったのである。……(後略)……。』(原文ママ)

文中の“昨年の暮れ”とは、1969年の年末のことだ。

そして、このパーティーの場で、草刈さんは、機は熟したと感じとり早速トリオに連絡。アレよアレよという間に日程調整が進んで、岩城さんの渡欧直前のこの日、1月30日に録音が行なわれる運びとなった訳である。

こうして、レジェンドたちは再び同じホールに参集した!

この日、録音されたレパートリーは、以下のようにものだった。

古いアメリカン・ダンスによる組曲
Suite of Old American Dances(Robert Russell Bennette)

ビギン・フォー・バンド
Beguine for Band(Glenn Osser)

コラールとアレルヤ
Chorale and Alleluia(Howard Hanson)

トランペット・オーレ!
Trumpet Ole!(Frank D. Cofield)

トロンボナンザ
Trombonanza(Frank D. Cofield)

クラリネット・ポルカ
Clarinet Polka(Arr. David Bennett)

クラリネット・キャンデ
Clarinet Candy(Leroy Anderson)

オリジナル・デキシーランド・ワンステップ
Original Dixieland Onestep(John Warrington)

この選曲を誰が担ったかについては、何も情報を持たないが、選曲のコンセプトそのものは、1967年(昭和42年)に日本コロムビアがリリースした「楽しいバンド・コンサート」シリーズ(EP:日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)とほぼ同じ傾向のもので、アメリカのオリジナル曲および、このグループに参加するレジェンドたちのプレイを際立たせるトランペットやトロンボーン、クラリネットのセクション・フィーチャーやソロ・フィーチャーからなっていた。ただし、そんな中に、ロバート・ラッセル・ベネットの『古いアメリカン・ダンスによる組曲』やハワード・ハンソンの『コラールとアレルヤ』という、アメリカのコンサート・バンドの定番レパートリーが含まれていたことは大きな話題となった。(参照:《第18話 楽しいバンドコンサート》

また、全体を俯瞰するなら、シリアスからエンターテイメントまでの少し欲張ったコンセプトにも映るが、それらの多彩な演目をわずか1日のセッションで録り終えてしまったレジェンドたちに対しては、正直“リスペクト”という以外、適当な言葉が見つからない。

月刊誌「バンドジャーナル」1970年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)も、当日のセッションを取材。アンサンブル全体、パーカッション・セクション、モニタールームの模様を撮影したモノクロ写真3枚を配したグラビア頁のリポート“国内レコーディング・ニュース”(24頁)を入れた。記事には『とくに岩城宏之が打楽器を担当したのが注目される』(原文ママ)との記述もあり、掲載写真にも、バス・ドラムを叩いたり、プレイバックを聴く岩城さんの姿が大きく映りこんでいた。それは、岩城さん本人にとっては恐らくは15年ぶりの打楽器プレイだと思われるレアなシーンだったが、それもあってか、この第2弾のレコードやテープは、吹奏楽ファンだけでなく、再びオケマンたちの関心を呼びさますことになった。

ひとつの伝説の誕生である!

結果として、「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」と「我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》」の2タイトルが揃うことになった両アルバムは、普段は別々のオーケストラで活躍するオケマンたちが、楽団の垣根を超えて参集し、指揮者不在という自分たちだけのアンサンブル・プレイを愉しみながら、真摯に吹奏楽曲と向き合った貴重なアーカイヴ、オーディオ・ファイルとなった。

これらは、間違いなく、今後とも長く記憶に留められることになるだろう。

筆者が初めてこれらを聴いたときの個人的印象も強烈なものだった!

そして、両盤は、吹奏楽のレパートリーがそれまでのマーチ一色に変わって、吹奏楽固有のレパートリーを温め始めるようになったそんな時代に、我々に新しい風を吹き込んでくれた鮮烈なメッセージとなった!

いろいろなものが変わり始めていた!

だから音楽はおもしろい!!

▲ LP(再発売見本盤) – 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》(トリオ、PA-5026)

▲PA-5026、A面レーベル(見本盤)

▲ PA-5026、B面レーベル(見本盤)

▲「バンドジャーナル」1970年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第138話 普門館、落成の頃

▲東芝レコード広告、1969年

▲LP – 子どものためのバンド入門 笛吹きパンの物語(東芝音楽工業、TA-6054)

▲TA-6054、A面レーベル

▲TA-6054、B面レーベル

1969年(昭和44年)4月1日(火)、東芝音楽工業がリリースしたLP3枚組ボックス・セット「世界吹奏楽全集」(TP-7299~7301)は、3枚中2枚の新録音を担った東京佼成吹奏楽団(後の東京佼成ウインドオーケストラ)の記念すべきメジャー・デビュー盤となっただけでなく、その後、レコード各社が国内制作する吹奏楽レコードに大きな影響を及ぼした。(参照:《第27話 世界吹奏楽全集》、《第119話 東京佼成のメジャー・デビュー》)

その最大の成果は、収録曲を“マーチ”“ポピュラー”“オリジナル”という3つのカテゴリーに分類・構成された中に、“オリジナル篇”という、吹奏楽のために作曲されたオリジナル作品だけに特化した極めて特徴的な1枚が含まれていたことだ。

吹奏楽レコードの世界に登場した新たなカテゴリーの成立である。

これ以前に国内録音された吹奏楽オリジナルと言えば、加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブルが、1967年(昭和42年)7月にリリースされた「楽しいバンド・コンサート」シリーズ(EP:日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)に、アメリカのオリジナル曲から、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『献呈序曲(Dedicatory Overture)』(EES-176)やハロルド・ウォルターズ(Harold Walters)の『フーテナニー(Hootenanny)』(EES-177)、ジョセフ・オリヴァドーティ(Joseph Olivadoti)の『イシターの凱旋(Triumph of Ishtar)』(EES-178)を録音し、他の曲種と組み合わせて発売された一例があるだけだった。なので、この東芝盤の扱いはとても新鮮に映った。(参照:《第18話 楽しいバンドコンサート》、《第93話 “楽しいバンド・コンサート”の復活》)

月刊誌「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)に掲載された作曲家、松平 朗さんの寄稿“「世界吹奏楽全集」レコーディングに寄せて”(75頁)でも、『三枚目のオリジナル作品集、これがこの三枚組レコードの価値を最も高めている部分だが、……、このオリジナル作品集があることによって、このレコードが単に資料的、参考書的なものからぬき出て、芸術作品として鑑賞に耐えるものになっている。』(引用:原文ママ)と賞賛された。

結果として、東芝の“オリジナル篇”に収録された作品は、日本中で広く演奏されるようになった。と同時に、創立10周年に満たないニュー・フェイスだった東京佼成吹奏楽団の名も、レコード・セールスとともに次第に知られるようになった。当然、その対外アピールも活発化する。

そして、1970年(昭和45年)4月、東京・杉並区和田の地に、1967年から2年8ヶ月の歳月をかけて建設された5000名収容の大ホール“普門館”が落成した。

東芝は、この機を逃さず、1970年(昭和45年)7月31日~8月1日(金~土)、東京佼成吹奏楽団を起用した第2作、「子どものためのバンド入門 – 笛吹きパンの物語」(東芝音楽工業、TA-6054)のレコーディングをこの真新しい普門館のステージで行なった。

恐らくは、これが式典や練習等を除き、このホールで行なわれた初の吹奏楽のレコーディング・セッションだったように思う。

当時の写真(後述)を見ると、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身首席指揮者兼芸術総監督のヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan、1908~1989)のリクエストで後年作られた反響版がまだ無かった当時の広いステージをまるで大きなスタジオのフロアのように贅沢に使い、音響効果優先でプレイヤーを配したセッションの様子がたいへん興味深い。(当時の吹奏楽の録音は、今のようにコンサート・セッティングで行なわれることはほとんど無かった。)

監修は、東京藝術大学で作曲の教鞭をとり、自作品の吹奏楽曲がすでにアメリカで出版されていた作曲家の川崎 優さん(1924~2018)だった。

指揮者には、福田一雄さんが起用され、以下の曲が録音された。

笛吹きパンの物語
(物語:姫ゆり子 / 構成:小川さかえ)
Pan the Piper(George Kleinsinger)

ディヴェルティメント
Divertimento(John J. Morrissey)

やさしいバンドの歌
The Band Song(William Schuman)

「ピアノ協奏曲第21番」(K.467)より アンダンテ
Andante from Concerto for Piano (Wolfgang A. Mozart、arr. Hale Smith)

アメリカン・ドラム
American Drum(John Warrington & George Frock)

組曲「水上の音楽」より
(アレグロ、アリア、フィナーレ)
From “Water Music”(Georg F. Handel、arr. Hershey Kay)

“子どものためのバンド入門”というサブ・タイトルのとおり、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten、1913~1976)の「青少年のための管弦楽入門」(1945)の“吹奏楽版”といったタッチのアルバム構成で、セッションの模様を取材した月刊誌「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)は、モノクロ写真4枚を配した「吹奏楽の楽器紹介レコード録音さる」というグラビア2頁記事(24~25頁)を入れている。

『「むかし数千年もむかし、ギリシャにパンという名の羊飼いの少年がいました。ある日……」童話風に語られるナレーションとともに一本のアシの笛からだんだんいろんな楽器がふえてアンサンブルができ、打楽器が加わり、そしてついに金管楽器が加わって吹奏楽ができあがる、という過程をゆかいに説明していくこの曲「笛吹きパンの物語り」の録音が、7月31日、8月1日の両日、杉並の立正佼成会・普門館にて行なわれた。…(中略)… 吹奏楽がだれでも理解され、親しみやすいものになる意味で重要なレコードとなる有意義な録音であった。…(後略)…』(引用:「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)、原文ママ)

ナレーターには、当時、テレビ、ラジオ、舞台等で活躍中の女優、姫 ゆり子さん(1937~)が起用され、たいへん話題を呼んだ。

先の「世界吹奏楽全集」が、日本の吹奏楽の現場が求めていた実用選集であるのに対し、「子どものためのバンド入門 – 笛吹きパンの物語」は、広く一般の音楽ファンに、マーチだけではない吹奏楽の面白さを知ってもらうための啓蒙的な役割を果たした。

東京佼成吹奏楽団の名は、こうして、さらに認知度を高めていく。

そして、同年11月20日(金)、東京佼成吹奏楽団は、同じ普門館において、創立10周年を期して「第12回定期演奏会」(開演:18時30分)を開催した。

この演奏会は、客演指揮に山田一雄さんと初代常任指揮者の水島数雄さん(*)のふたりを招いて開かれた記念演奏会で、以下の意欲的なプログラムが演奏された。

天使の夢
Reve Angelique(from “Kamenoi-Ostorow” Op.10-22)(Anton Rubinstein)

ディヴェルティメント
Divertimento(John J. Morrissey)

吹奏楽のための木挽歌
<吹奏楽版初演>
Kobiki-Uta for Band(小山清茂 Kiyoshige Koyama)

大序曲「1812年」
Overture 1812(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)

行進曲「希望に燃えて」(*)
<自作自演>
With Full of Hope、March(水島数雄 Kazuo Mizushima)

序曲「詩人と農夫」(*)
Dichter und Bauer、Ouverture(Franz von Suppe)

シンフォニック・プレリュード
Symphonic Prelude(John B. Chance)

交響詩「ローマの松」
Pini di Roma、poema sinfonico(Ottorino Respighi)

これが、ここを本拠として活動する東京佼成吹奏楽団(東京佼成ウインドオーケストラ)が初めて普門館で行なった定期演奏会の演奏曲目だ。そして、ぜひとも記憶に留めておきたい吹奏楽演奏史上の重大事件は、この日、小山清茂さんが自作の管弦楽曲から自ら改編した『吹奏楽のための木挽歌』が山田一雄指揮で初演されたことだった。

この1970年以来、普門館では、数多くのコンサートやレコーディング・セッションが行なわれ、全日本吹奏楽コンクールの会場としても親しまれた。個人的にも、このホールにはたいへんお世話になった。

しかし、東日本大震災の後に明らかになった耐震性という思わぬ弱点の発覚で、図らずもこの大ホールは解体されることになった。心底から残念至極だ!

吹奏楽をやった者には、“普門館”という名は特別な意味をもって響く!!

2018年(平成30年)11月のさよならイベントにも、多くのファンがつめかけた。その姿はまさしく青春、そして情熱の発露だった!

このホールを基点に繰り広げられた多くの音楽シーンやメッセージは、きっと彼らの胸の奥にずっとずっと生き続けるだろう!!

さらばだ、普門館!!

▲チラシ – 東京佼成吹奏楽団第12回定期演奏会(1970年11月20日、普門館)

▲プログラム – 東京佼成吹奏楽団第12回定期演奏会(同上)

▲ 1~2頁(普門館とあいさつ)

▲ 3~4頁(指揮者プロフィールと曲目)

▲ 9~10頁(楽団プロフィール)

▲「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

▲「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第137話 トーマス・ドス「スポットライト」との出会い

トーマス・ドス作品リスト

2014年(平成26年)9月16~18日(火~木)、筆者は、愛知県北名古屋市の名古屋芸術大学3号館ホールで、同大学ウィンドオーケストラによるオランダのデハスケ(de haske)レーベルのためのレコーディング・セッションに臨んでいた。

周知のとおり、名古屋芸術大学ウィンドオーケストラは、デハスケ社の社長がヤン・デハーン(Jan de Haan / 参照:《第47話 ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動》)だった当時から同社の新作録音を手がけ、2005~2018年の14年間に、以下に挙げる計12タイトルのアルバムを蘭デハスケあるいは英アングロのレーベルからリリースしている。

ヤン・ヴァンデルローストと4人の作曲家たち
Jan Van der Roost presents(de haske、DHR 23-001-3、2005年)

アースクェイク
Earthquake(de haske、DHR 24-002-3、2006年)

バベルの塔
Tower of Babel(de haske、DHR 4-020-3、2007年)

ロマンティック・クラシックス
Romantic Classics(de haske、DHR 11-013-3、2008年)

ハーコン(ホーコン)善王のサガ
The Saga of Haakon the Good(Anglo、AR 025-3、2009年)

ヨーロピアン・パノラマ
European Panorama(de haske、DHR 4-029-3、2010年)

バイ・ザ・リヴァー
By The River(de haske、DHR 4-032-3、2011年)

イースト・ミーツ・ウェスト
East meets West(de haske、DHR 04-038-3、2012年)

アウレウス
Aureus(de haske、DHR 04-041-3、2013年)

セカンド・トゥー・ナン
Second to None(de haske、DHR 04-044-3、2014年)

ザ・ハーツ・アンド・ザ・クラウン
The Hearts and the Crown(de haske、DHR 4-046-3、2015年)

アインシュタイン
Einstein(de haske、DHR 4-047-3、2018年)

結果的に、日本のひとつの音楽大学のウィンドオーケストラが長年にわたって海外の音楽出版社の新作の録音を継続して手がけることになるこのシリーズは、実は、最初、同大学大学院教授で指揮者の竹内雅一さんがヤン・デハーン宛てに自分たちの録音を送り、その内容が評価されたことが契機となってスタートしている。海外への積極的なアプローチが見事に実を結んだ好例で、日本に音楽大学は数あれど、こんなケースは類例を見たことがない。

セッションでは、その竹内さんと、客員教授として同学に招かれていたベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のふたりが交代でタクトをとり、レコーディング・プロデューサー(デハスケでは、“レコーディング・スーパーヴァイザー”と呼ぶ)は、当初はヤン・デハーンが、2011年以降は、1枚を除いて、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)がつとめた。

一方、レコーディング・エンジニアは、同学准教授の長江和哉さんとそのクラスに学ぶ学生のチームが全録音を担っている。

というような訳で、自前のホールが使え、演奏、指揮、録音、舞台のスタッフがすべて学内に揃っている、即ちオール・イン・ワンであることが、このプロジェクトを長年に渡って進めることができた大きな要因となった。

また、竹内さんは、常々、ドイツの録音現場に学んだ長江さんの存在がとても大きかったと言われる。実際、筆者も、ベルリナー・フィルハーモニカー(ベルリン・フィルの本拠地)の録音ブースで撮影された画像や興味深い体験談をたびたび聞かされ、とても勉強になった。

名古屋芸大のCDリストをよく見ると、「ザ・ハーツ・アンド・ザ・クラウン」(DHR 4-046-3)と「アインシュタイン」(DHR 4-047-3)の2枚の間に少しブランクがあることに気づくだろう。実は、その間は、ちょうど長江さんがドイツに留学をしていた時期にあたる。関係者にあたると、そのタイミングには録音企画それ自体が見送られており、その事実ひとつをとっても、名古屋芸大の録音プロジェクトにとって、長江さんが欠かせない存在であることがとてもよくわかる。

話をもとに戻そう。

2014年9月、筆者が名古屋芸大で取り組んだのは、リストにあるCD「セカンド・トゥー・ナン」のレコーディング・セッションだった。スケジュール上の都合で来日が適わなかったベンに代わって急遽筆者が指名され、スーパーヴァイズすることになった録音である。

ベンから託された録音レパートリーは、かなりの分量で、折りしも2014年がベルギーの楽器発明家アドルフ・サックス(Adolphe Sax、1814~1894)生誕200周年というアニヴァーサリー・イヤーだったことと重なっていたことから、一般的な合奏曲に混じり、サクソフォンのために書かれたコンチェルトやカルテットまで含まれ、かなり意欲的で重量感のある内容となっていた。概して演奏グレードの高い作品が多かったが、すべてが過去に録音されたことがない新しい楽譜ばかりで、試しに計算すると、演奏時間のトータルがCD1枚分をはるかに超えていた。

例年は4日間で行なうセッションがこの年に限って3日間しか時間がとれないことにまるで気づいていないような出版社の対応がとても気になった。

しかし、どんなセッションでも終わるまで何が起こるかわからない。仮にもしもレコーディングの最中に、何か音楽的な疑問点や問題点が発覚するような事態に見舞われたら最後、時間内に録り終えることが難しくなることが必定であり、この時点でかなりタフなセッションになるかも知れないという予感が走った。

ところが、浄書が上がったものから順に届くスコアを眺めていく内、いくつかお気に入りの曲が出てきた。

オーストリアの作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)が、サクソフォン四重奏とウィンドオーケストラのためのために書いた『スポットライト(Spotlights)』も、個人的に魅力を感じた曲のひとつだった。(参照:《第50話 トーマス・ドスがやってきた》、《第51話 ト―マス・ドス「アインシュタイン」の事件簿》)

トーマスのこの作品は、2014年4月12日(土)、オーストリアのニーダーエスターライヒ(Niederosterreich)州ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス(Waidhofen an der Ybbs)の“ヴァイトホフナー音楽村(Waidhofner Music Village)”と呼ばれている会場で、作品を委嘱したオーストリアのモビリス・サクソフォン四重奏団(The Mobilis Saxophone Quartet)と、トーマス・マダーターナー(Thomas Maderthaner)が指揮する地元吹奏楽団のトラハテンムジカカぺレ・ヴィンターク(Trachtenmusikkapelle Windhag)の共演で世界初演された。

編成上の特徴は、サクソフォン四重奏と一般的編成のウィンドオーケストラ(サクソフォンを含む)の掛け合いが愉しめる音楽となっていることで、ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの各サクソフォンのキャラクターをフィーチャーし、そのヴィルトゥオーゾ性はもとより、さまざまなリズム遊びや、ときにはファンクのノリまで求められる、ひじょうにエンターテイメント性の高い曲になっていることだろう。

初演者のモビリス・サクソフォン四重奏団は、ウィーンに学んでいたサクソフォン奏者、オーストリア出身のミヒャエル・クレン(Michael Krenn、ソプラノ)、スロヴェニア出身のイエネ・ウルセイ(Janes Ursej、アルト)、日本出身のユキコ・クレン(Yukiko Krenn <岩田享子>、テナー)、クロアチア出身のゴラン・ユルコヴィチ(Goran Jurkovic、バリトン)によって2009年に結成されたグループで、CDデビューも飾っていた。

名古屋芸大のセッションでは、ソプラノ・パートを三日月 孝さん(教員)、アルトを滝上典彦さん(教員)、テナーを中山順次さん(学生)、バリトンを櫻井牧男さん(教員)の4人が担当。セッション中にたびたびお願いした細かいリクエストにも拘わらず、現場ではモチベーションの高いノリノリのパフォーマンスが繰り広げられた。これは、正しくグッジョブだった!

また、このときの『スポットライト』は、伴奏をつとめたウィンドオケも快調そのもので、セッションの千秋楽となった9月18日(木)の有終の美を飾る演奏となった。そして、録り終えた後の爽快感と開放感は、間違いなくセッション参加者のすべてのハートを揺らしたことだろう。

ステージからは大きな歓声が上がった!

長江さんの録音・編集チームにも大感謝だ!

それから数日。ベルギーに帰国したヤンから、録音を聴いたトーマスの“感想”が届いた。

『とても綺麗なサウンドで録ってくれて、本当にありがとう!』

▲CD – Second to None(蘭de haske、DHR 04-044-3、2014年)

▲DHR 04-044-3 – インレーカード

▲名古屋芸術大学ウィンドオーケストラ(名古屋芸術大学3号館ホール、2014年9月17日)

▲ソロイストたち(左から、三日月、中山、櫻井、滝上の各氏。同上。2014年9月18日)

▲大団円!(同上。2014年9月18日)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第136話 ジェイガー:交響曲第3番《神のかがやき》日本初演

▲チラシ- 広島ウインドオーケストラ第54回定期演奏会(2020年10月24日、JMSアステールプラザ大ホール)

▲プログラムと演奏曲目 – 広島ウインドオーケストラ第54回定期演奏会(同)

2020年(令和2年)10月24日(土)、筆者は、山陽新幹線“のぞみ25号”に乗車。一路広島を目指した。市内、中区加古町のJMSアステールプラザ大ホールにおいて16時から開かれる「広島ウインドオーケストラ第54回定期演奏会」を聴くためだ。

演奏会は“オール ジェイガー プログラム”と副題がつけられ、最大の注目作は、何といっても当日に日本初演が行なわれるアメリカの作曲家ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager)の交響曲第3番『神のかがやき』(Symphony No.3“The Grandeur of God”)だった。

指揮者は、同ウインドオーケストラ音楽監督の下野竜也さん。(参照:《第25話 保科 洋「交響曲第2番」世界初演》、《第134話 Shion 定期の再起動》)

作曲者のジェイガーは、1939年8月25日、ニューヨーク州ビンガムトンの生まれ。わが国でも、1963年の『シンフォニア・ノビリッシマ』(Sinfonia Nobilissima)がヒットし、他の多くの作品も広く取り上げられている。交響曲第3番『神のかがやき』は、1963年の交響曲第1番(Symphony No.1 for Band)、1976年の交響曲第2番『三法印』(Symphony No.2 “The Seal of the Three Laws”)についで書かれた3曲目の交響曲だ。(参照:《第20話 ジェイガー:交響曲第1番》)

しかし、我ながら情けないことに、この演奏会情報に気づいたのは、演奏会当日まで1ヶ月を切った2020年9月下旬のこと。また、ジェイガーは、同年夏に81歳の誕生日を迎えていたが、過去、手紙やメールのやりとりや、リクエストに応えてCDを送付するなど、長く交友のある作曲家だけに、その最新作の今度のナマ本番を聴き逃す訳にはいかなかった。

で、急にスイッチが入って、いつものように“弾丸”を決意!!

調べると、この交響曲が書かれたのは、2017年。世界初演は、2018年5月1日、アラバマにおいて、マーク・ウォーカー(Dr. Mark Walker)指揮、トロイ大学シンフォニー・バンド(Troy University Symphony Band)の演奏で行なわれた。同バンドは、トロイ大学最優秀の音楽専攻生が学ぶジョン・M・ロング音楽学校(John M. Long School of Music)の学生からオーディションで選ばれた55名から63名編成の優れたバンドで、当然、世界初演のパフォーマンスにも賞賛が贈られていた。交響曲第3番は、その後、初演があったその年の内に作曲者が大きな改訂を行なったことから、作曲年は“2017/2018”と両年併記されることになった。当然ながら、広島ウインドオーケストラの日本初演に際しては、作曲者から届けられた改訂後の楽譜が使われている。(作曲者は、これを改訂版初演としている。)

作品は、4楽章構成。イングランドのロンドン近郊エセックスのストラトフォードに生まれ、アイルランドのダブリンに没したイエズス会(カトリックの男子修道会)の聖職者ジェラード・マンリー・ホプキンズ(Gerard Manley Hopkins、1844~1859)が書きのこした「詩集(Poems)」(没後30年たった1918年に友人が草稿から刊行)に含まれる《God’s Grandeur(神のかがやき)》(1877年作)という一篇の詩にインスパイアーされている。この詩の作者ホプキンズは、1930年の「詩集」第二版の刊行後、広く知られるようになり、聖職者のひとりというだけでなく、英ヴィクトリア朝時代の詩人と位置づけられるようになった。

リサーチすると、19世紀に書かれたホプキンズの英文の原詩《God’s Grandeur》は、いろいろな書物や論文に掲出されていた。そこで、本話でもそのまま引用する。

The world is charged with the grandeur of God. 
 It will flame out, like shining from shook foil;
 It gathers to a greatness, like the ooze of oil
Crushed. Why do men then now not reck his rod?
Generations have trod, have trod, have trod;
 And all is seared with trade; bleared, smeared with toil;
 And wears man’s smudge and shares man’s smell: the soil
Is bare now, nor can foot feel, being shod.

And for all this, nature is never spent;
 There lives the dearest freshness deep down things;
And though the last lights off the black West went
 Oh, morning, at the brown brink eastward, springs
Because the Holy Ghost over the bent
 World broods with warm breast and with ah! bright wings.

その後、国内に日本ホプキンズ協会もあり、研究者による和訳や関連書籍もかなりの数が出版されていることがわかった。作品の元となった素材へのアプローチに関してはハードルが低いので、日本語でホプキンズの詩に触れて意味を噛み締めたい人は、ぜひとも直にそれらを参照されることをお薦めしたい。

オーシ!曲を聴く前の下調べとしては、これぐらいで充分だ!

チケットは、250席限定で発券とホームページにあったので、10月21日(水)、楽団事務局と書かれた携帯番号に直接予約電話を入れた。その時は、あいにく留守電だったので電話を切ると、しばらくして楽団の平林さんと名乗る人物から折り返しの電話がかかってきた。“練習の休憩に入った”という話だったので、恐らくプレイヤーさんなんだろう。そこで、ホームページの記載についての質問と空席状況を尋ね、座席を定めて当日窓口引き換えとした。このとき、2階27列の“13番”という座席番号が妙に気に入った。また、公演プログラムは、印刷物ではなく、まもなくダウンロード可能になるという話。正に楽団員によるセルフ・オーガナイズ感が漂うコンサートだ。

きっとバック・ステージには、いろいろな試行錯誤があるのだろう。

そして、演奏会当日の出発前、ダウンロードしたプログラムをプリントアウトする。のぞみ車中で読むと、そこには、交響曲第3番『神のかがやき』は、2014年に他界した作曲者が愛した妻への想い出に捧げられているという記述があった。

なんとドラマチックなんだろうか!

広島が近づくにつれ、気分がどんどん高揚していく!

演奏会場となったJMSアステールプラザ大ホールは、座席数が通常時1,200席(+身障者席4席)で、オケピット使用時には前5列の座席が収納されて1,091席(+身障者席4席)となる大ホールだ。地元広島のアウフタクトの録音エンジニア、藤井寿典さんに電話で尋ねると、ルートは、JR「広島」駅の南口から出る広島バス24号系統・吉島線が便数も多く最も便利だという。新幹線下車後、藤井さんの教示に素直に従って、南口ロータリーの乗り場にすでに停まっていた発車間際のバスに飛び乗り、ホール最寄りの「加古町」停留所へと向かう。所要時間はおよそ15分といったところで、ホールには、15時すぎに入った。

5月30日(土)に同ホールで予定されていた第53回定期演奏会(広上淳一指揮)がコロナ禍で延期された後、初めて開催される定期だけに、エントランスの応対は何かと手探り感が漂うが、まずはチケット代金を支払い、半券に住所を鉛筆で記入して自らもぎり、感染症予防対策のためのさまざまな関門もパスして無事に入場する。

コンサートは途中休憩なしの約1時間のプロと予告されていたが、指揮者の下野さんが曲間にマイクをとって、“紙に印刷したプログラムを用意できなかった”ことを聴衆に詫びながら、即席の解説者に変身。指揮者として感じた楽曲分析や解釈を聞かせてもらえたのは有意義でとても面白かった。しかし、そのため進行は間違いなく“押した”ようだったが、最後にアンコールとしてジェイガーが1978年の全日本吹奏楽コンクール課題曲として書いた『ジュビラーテ(Jubilate)』を快速テンポで決めて、17時20分頃に終演!!

核心の交響曲第3番『神のかがやき』も、作品、演奏ともどもオールド・ジェイガー・ファンを唸らせる仕上がりで、これをナマで聴けたことはたいへん大きな収穫となった!

この間、広島滞在は、僅かに3時間あまり!

オール・ジェイガー・プロによる演者の気持ちの入った音楽の宴は、心地よい余韻を残しながら大団円を迎えた!!

▲11月16日に届いた《特典CD》(BR-37010、制作:ブレーン、2020年)

▲同、インレーカード

▲同、レーベル盤面

▲CD送付挨拶文

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》

▲ステレオ・テープ – マーチの極致(トリオ、TSP-7008、1969年)(溝邊典紀氏所蔵)

▲同、バックインレー

▲トリオ社広告(1969年8月)

『去る四月十三日夜六時から、東京丸ノ内にあるサンケイ国際ホールにて、トリオ株式会社のマーチの録音があるという話をきいたので出かけてみた。広い国際ホールに楽器毎、広々と広がって席をとり、各セクション毎にマイクを立て、中央にも一本と、計七本のマイクで録音をしていた。メンバーはわが国の管楽器奏者としては一流のトップ・プレーヤーのみであり、録音メンバーも、草刈津三ディレクター、若林駿介ミキサーと、演奏する方も、録音する方も当代一流の人ばかりで、仕事もグングンはかどっていった。…(後略)…。』(原文ママ)

これは、1969年(昭和44年)4月12~13日(土~日)に行なわれたケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルの2日目のセッションを取材した月刊誌「バンドジャーナル」1969年6月号(管楽研究会編、音楽之友社発行)68頁の大石 清さん(1923~2005)の署名記事“国内レコーディング・ニュース”冒頭の引用だ。

少し脱線するが、表紙に“管楽研究会編”もしくは“管楽研究会編集”とクレジットされていた頃の同誌(1959年創刊号~1970年12月号)は、大石さんをはじめ、秋山紀夫さん、広岡淑生さんら、吹奏楽の発展に大きく寄与された先達たちが、“管楽研究会”と称して取材、執筆、編集までを担う、“吹奏楽に特化した”吹奏楽専門誌だった。個人的にも、村方千之さん、飯塚経世さん、赤松文治さんらが国内外の吹奏楽レコードの新譜にスポットをあてる頁が、情報がほとんどない地方都市に暮らし、その種の最新情報に飢えていた筆者の愛読コーナーとなっていた。

執筆陣の内、東京藝術大学の教官でテューバ奏者の大石さんは、取材に際して必ずカメラを現場に持ち込み、演奏家目線からのいい写真を押さえていた。当時の「バンドジャーナル」に使われている写真の多くが、実は大石さんの撮影だったことも、知る人ぞ知る隠れた事実だ。

この録音の取材でも、アンサンブル全体、各セクション、マイクを扱うエンジニアを捉えた計5枚のモノクロ写真が、22頁のグラビア頁と68頁の記事頁を飾ることとなった。いずれも、セッション当日の様子を正確に伝える貴重なショットだ。

演奏者のケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルは、NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団ほかのプレイヤーで構成されたこのレコーディングのために組まれたアンサンブルで、“アンサンブル”というだけあって指揮者は置かない。グループ名に“ブラス(金管)”という言葉も使われているが、実態は、木管、金管、打楽器で構成される、限りなく“吹奏楽”に近い楽器構成の管楽アンサンブルである。

大石さんが撮影した写真から、このアンサンブルには、センター近くにポジショニングしたファゴット奏者の戸沢宗雄さんをリーダーに、ピッコロ x 1、クラリネット x 4、サクソフォン x 3、トランペット x 4、ホルン x 3、トロンボーン x 3、テナーテューバ x 1、テューバ x 1、コントラバス x 1。パーカッション x 4の計26名のプレイヤーが参加していたことが確認できる。また、ジャケットのクレジットから、各セクション・リーダーが、ピッコロが峰岸荘一さん、クラリネットが千葉国夫さん、浅井俊雄さん、ホルンが千葉 馨さん、田中正大さん、トランペットが北村源三さん、戸部 豊さん、トロンボーンが福田日出彦さん、打楽器が有賀誠門さんという布陣だったことがわかる。

ディレクター(プロデューサー)は、戦後、東宝交響楽団(東京交響楽団)にビオラ奏者として入団し、その後、日本フィルハーモニー交響楽団の立ち上げに参画するなど、プロデューサーとしても活躍した草刈津三さん(1926~2004)で、このケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルの企画も、草刈さんが戸沢さんにアイデアを持ちかけたところから始まっている。

ミキサー(バランス・エンジニア)は、後に日本音響家協会名誉会長となる若林駿介さん(1930~2008)。アメリカに学び、帰国後、クラシックの録音や評論で大活躍された。筆者も、佼成出版社のレコーディング・セッションでたびたびご一緒し、いろいろと教示を受けている。このケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルの録音に際しても、録音会場を大手町サンケイ国際ホールと定めたのが若林さんのアイデアだったと聞いた。(参照:《第57話 スパーク「セレブレーション」ものがたり》)

セッションは、初日の4月12日に譜読みと練習を兼ねた音出しと編成に合わせたアレンジの検討およびマイキングのバランス調整を行い、二日目の4月13日に録音本番という流れで行なわれた。大石さんが訪れたのは、すべて準備が整った二日目の本番の日だった。

録音は、テスト録音~プレイパック~プレイヤー間の意見の摺り合わせ~本番~プレイバックという合議制のスタイルで進行。瀬戸口藤吉の『軍艦行進曲』に始まり、ジョン・フィリップ・スーザの『星条旗よ永遠なれ』や『ワシントン・ポスト』、カール・タイケの『旧友』など、合計14曲のマーチが手際よく収録された。当時、草刈さんや若林さん、大石さんらの関係者が雑誌やライナーノートに書かれた文を読んでも、これらのマーチが実に効率よくスピーディーに録音されていったことがうかがえる。

リリースは、同年6月末。オーディオ・メーカーのトリオから、TDKが独自に開発した150SD(Super Dynamic)テープを使い、世界最高峰のデュプリケーターと謳われたアメリカのガウス(Gauss)社のG-12でテープ・プリントを行なった、当時のレコードをはるかに凌駕する高音質の“レコーディッド・テープ(録音済みテープ)”(速度19cm/秒の4トラック・ステレオ・オープンリール・テープ)として発売された。

そして、オーディオ・メーカーらしく、最先端技術のデモンストレーションも兼ねていたこのテープのタイトルは、《我が国最高の管楽器奏者による──「マーチの極致」》(トリオ、TSP-7008、1969年)と、なかなか押しが強かった!

当然、このテープは、コアなオーディオ・マニアたちが飛びつく一方、価格が\3,200と、当時のLPレコードに比べて少々お高かったこともあって、一般の吹奏楽ファンにはまるで高嶺の花。テープが正しく再生できるプレイヤーも必要となるので、タイムリーに超ビンボーだった筆者は、触手を伸ばさなかった。

という訳で、一般的な吹奏楽ファンが、この録音の演奏を確認できたのは、1969年秋に同社から発売された同内容のLPレコード(トリオ、RSP-7004、1969年)が登場して以降のことだったろう。少なくとも筆者はそうだ。

定価も、\2,000とかなりリーズナブルなお値段だった!!

しかし、安かろう悪かろうでは、話にならない。オーディオ・メーカーとしての自負もあったのだろう。トリオは、若林さんのアメリカでの恩師であるスチュアート・C・プラマー(Stuart C. Plummer)を通じ、ロサンジェルスのマスタリング・ラブ社(The Mastering Lab)にマスターテープを持ち込み、同社ベテラン・カッティング・エンジニア、ダグラス・サックス(Douglas Sax)が、当時最先端を行くノイマン(Neumann)社のSX-68カッター・ヘッドを駆使してカッティング。以降のプレスに至るまでの工程もすべて同地で行ない、プラマーが1枚ごとに検盤するという、徹底したこだわりの末にレコード化された。

「バンドジャーナル」では、1969年8月号で、秋山紀夫さんが、プレイヤー、アンプ、スピーカーの組み合わせをいろいろ変えながら試聴した詳細なテープ(TSP-7008)評を、1970年1月号の“吹奏楽新譜レコード紹介”の頁で、飯塚経世さんがレコード(RSP-7004)評を書き、相当な盛り上がりを見せた。

この内、飯塚評の結びは、今も記憶の中に鮮明に焼きついている。

『…(前略)…、今後できたらこのメンバーで、マーチ以外のコンサート・ピースも録音して欲しいと思う。』(原文ママ)

オケ・マンたちの吹奏楽レパートリーへの関わりは、こうして始まった!

▲楽器配置及び音場構成図(RSP-7004ジャケットから)

▲ LP – マーチの極致(トリオ、RSP-7004、1969年、米プレス)

▲ RSP-7004 – A面レーベル

▲ RSP-7004 – B面レーベル

▲ LP – マーチの祭典(トリオ、PA-5001、1972年再発売盤、日本プレス)

▲ PA-5001 – A面レーベル

▲ PA-5001 – B面レーベル

▲「バンドジャーナル」1969年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社発行)

▲「バンドジャーナル」1970年1月号(管楽研究会編、音楽之友社発行)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第134話 Shion 定期の再起動

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第132回定期演奏会(2020年9月19日、ザ・シンフォニーホール

▲プログラム – Osaka Shion Wind Orchestra 第132回定期演奏会(同)

▲同 – 演奏曲目

『みなさん、ようこそお越し下さいました。』

2020年(令和2年)9月19日(土)、ザ・シンフォニーホール(大阪市北区)で開催されたOsaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインドオーケストラ)第132回定期演奏会で、奏者入場の前、客電が落ちた中でひとりステージに立ったのは、同楽団のバス・トロンボーン奏者であると同時に楽団長、さらには運営母体の公益社団法人の理事長もつとめる石井徹哉さんだった。

石井さんは、千葉県佐倉市の出身。武蔵野音楽大学に学び、トロンポーンを前田 保、井上順平の両氏に師事。2004年(平成16年)、大阪市音楽団(市音)に入団し、その後、突如として吹き荒れた市音民営化の嵐、楽団史上最大の激動の時代を体験。2014年(平成26年)4月に民営化し、2015年3月16日に“Osaka Shion Wind Orchestra”(シオン)と名を改めたこの楽団を、2017年5月以降、理事長として束ねている。

だが、コロナ禍で日本全体のありとあらゆるものが自粛を求められた2020年、シオンも例外なく活動自粛を余儀なくされた。通常の演奏やリハーサルも軒並み中止となり、大阪市住之江区にある事務所も一時閉鎖された。

近年は、ザ・シンフォニーホールを中心に行なわれているシオンの定期演奏会も、3月14日(土)の第129回(指揮:渡邊一正)、4月23日(木)の第130回(指揮:フランコ・チェザリーニ)、6月7日(日)の第131回(指揮:汐澤安彦)が公演中止となった。(参照:《第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新》)

シオンに限らず、自粛期間中、プロ奏者の多くは、原点に立ち戻ってエチュードを徹底してさらうなど、来る日も来る日もまるで音大生時代を思い出させるような毎日を過ごしながら、演奏再開の日に備えたと聞く。しかし、自宅に練習用スペースや設備がある人ばかりとは限らない。音楽家としてのモチベーションの維持も含め、この間の過ごし方は本当にたいへんだったと思う。

やがて、自粛要請の解除に伴い、シオンの事務所も6月22日(月)に完全再開。7月12日(日)の再始動後初のコンサート、題して「新型コロナウイルスに負けるな!Shion再始動 初陣!宮川彬良×Osaka Shion Wind Orchestra」をめざすことになった。

会場のザ・シンフォニーホールも、在阪の各演奏団体と意見を交換しながら、感染拡大予防のための施策に取り組み、手探りの試行錯誤がつづく中の本番となった。だが、6月26日(金)に“限定席数”だけ売り出したチケットはすぐに完売。楽団も奏者も、あらためて、ナマの音楽を愉しみたいファンの存在の大きさに気づかされることになった。

その翌月の8月、大阪城音楽堂で行なわれた夏の風物詩「たそがれコンサート」においても、事前電話申込制の入場整理券(限定数)は、アッという間に予約で一杯に。何時間も電話がつながらないこともあったというから、ファンの後押しは本当に凄かった!

そして、演じる側も聴く側も、誰もが経験したことのないそんな状況下で迎えた9月19日の「第132回定期演奏会」。それは、いろいろな意味でシオン定期シリーズの再起動の日として人々に記憶されることになるだろう!

指揮は、これが初共演となる下野竜也さん。鹿児島市出身で、鹿児島大学教育学部音楽科、桐朋学園大学音楽学部附属指揮教室などに学び、2000年、第12回東京国際音楽コンクール<指揮>で優勝、2001年、フランスの第47回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。2006年、読売日本交響楽団に初代正指揮者として迎えられ、2013年に同楽団首席客演指揮者に。シオン初共演時には、広島交響楽団音楽総監督、広島ウインドオーケストラ音楽監督、京都市交響楽団常任首席客演指揮者だった。かつて朝比奈 隆さんが音楽総監督をつとめていた頃の大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)で初代指揮研究員(1997~1999年)だった時期もあるので、実は大阪とも縁のある指揮者である。大フィルを指揮し、『大阪俗謡による幻想曲』『大阪のわらべうたによる狂詩曲』ほかをレコーディングしたCD「日本作曲家選輯:大栗 裕」(Naxos、8.555321、2000年)が反響を呼んだことも記憶に新しい。(参照:《第25話 保科 洋「交響曲第2番」世界初演》)

プログラムに取り上げられた作品は、すべてウィンドオーケストラのために書かれたオリジナルで、この内、2曲がアメリカのシンフォニーだった!!

吹奏楽のための協奏的序曲 
(藤掛廣幸)

交響曲第5番「エレメンツ」
(ジュリー・ジロー)

交響曲第4番
(デイヴィッド・マスランカ)

この意欲的なプログラミングは、もちろん楽団と指揮者がアイデアを摺り合わせた成果だろうが、今回は、楽団をリードする石井さんの前向きなハートにかつての吹奏楽青年の下野さんが共鳴した。なんとなく、そんな気がする組み立てとなっている。

こんなことがあった。演奏会前年の2019年(令和元年)12月13日(金)、筆者は石井さんと、大阪市内なんばの某所で、恒例の“夜のミーティング”を持った。

意見交換がつづく中で、石井さんが『ほんといい曲なんです。』と言った曲があった。それがジュリーの“第5番”だった。

作曲者とは旧知の間柄だ。

石井さんの情報収集力に“なかなかやるなぁ”と思った筆者は、一年前の2018年(平成30年)6月19日(火)、オーストリアの作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)とともに訪れた武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブルのリハーサルで聴いた曲、それが正にその“第5番”だったと言葉を返した。

“武蔵野”は、石井さんの母校だけに、表情に少し驚きが見え隠れする。

この訪問は、同ウィンドアンサンブル指揮者で名誉教授のレイ・クレーマー(Ray Cramer)氏の了解と、専任講師でクラリネット奏者の三倉麻実さん、演奏部演奏課主任の古谷輝子さんの力添えがあって実現した。トーマスの方は、前週の6月15日(金)、杉並公会堂(東京)で行なわれた「タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会」(指揮:鈴木孝佳)で日本初演された自作『アインシュタイン(Einstein)』のコラボレーションが主目的の来日だった。(参照:《第50話 トーマス・ドスがやってきた》、《第51話 ト―マス・ドス「アインシュタイン」の事件簿》)

武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブルは、ちょうどその頃、2018年7月12日(木)、東京オペラシティ コンサートホールで行なわれる予定の「武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブル演奏会(東京公演)」に向けてのリハーサルに入っていて、“太陽”“雨”“風”という3楽章構成の交響曲第5番『エレメンツ』もレパートリーの1つだった。

リハには、フルスコアも用意され、運がいいことに、ウィンドアンサンブルは“第5番”の全曲を練習。未知の作品をスコアを見ながらナマ演奏で聴くという、なんとも贅沢な展開となった。また、指揮者から奏者へのリマークもとても勉強になった。

そして、リハ後、トーマスは『このスコアはどこで買える?すぱらしい作品だ。』と言った。

筆者にとっても印象深い作品との出会いだったので、石井さんとの“夜のミーティング”においても、このとき現場で感じた感想をありのままに述べることができた。

話を元に戻そう。

こうして迎えたシオンの“第132回定期”は、ソーシャル・ディスタンスもあって、入場券は750席だけを発券。ホールスタッフによる入場時の検温、入場者がもぎったチケット半券をスタッフがもつ箱に投入、テーブルに積まれたプログラムを入場者自らが取り上げる、開演前や休憩中にコーヒーやワインを気軽に愉しめる“ザ・シンフォニーカフェ”もクローズ、楽団のグッズ販売もないなど、感染拡大予防のためのさまざまな規制があって少し面喰ったが、こればっかりは仕方ない。

演奏会それ自体に関して言うなら、それでも相当な数の熱心なファンが詰めかけ、とても聴きごたえのあるすばらしい音楽会となった。

個人的には、武蔵野リハで聴いたクレーマー、シオン定期で聴いた下野の両マエストロのジュリーのシンフォニーへのアプローチの違いがとても印象に残っている。これぞ、音楽を愉しむ醍醐味というべきか!

終演後、エントランス付近で市音元コンサートマスターで、くらしき作陽大学音楽学部教授の長瀬敏和さんと喋っているところに、石井さんが駆け込んできた。

石井:プログラム、短くなかったですか?

樋口:そんなことは感じなかった。充足感があったし。シンフォニー2曲だから。そう言えば、(長瀬さんに向かって)、昔、“指輪”(ヨハン・デメイの『指輪物語』)やることになったとき、みんな(長いって)怒ってましたよね。

石井:今では、当たり前になりました。

長瀬:木村(吉宏)さんと秋山(和慶)さん(の棒)で、2回やりました。(註:1992年5月13日(水)の第64回定期〈日本初演〉と2010年6月12日(土)の第100回定期。ともにザ・シンフォニーホールで。)

樋口:(長瀬さんの)ソプラノ(サクソフォン)のソロもよく覚えていますよ。

一同:(大きな笑顔)

シオン定期は、こうして語り継がれていく!

だから、音楽はおもしろい!!

▲Shion Times シオンタイムズ、2020 June、No.50

▲チラシ – たそがれコンサート2020(2020年7~8月、大阪市立大阪城音楽堂)

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第129回定期演奏会(公演中止)

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第130回定期演奏会(公演中止)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第133話 全英ブラスバンド選手権1990

▲プログラム – Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain(1990年10月6日、Royal Albeet Hall)

▲英女王(パトロン)の肖像(Held under the gracious patronage of Her Majesty The Queen)

▲チャンピオンシップ・セクション・テストピースと審査員

▲チャンピオンシップ・セクション出場バンド

『やっぱり、実際(に)やっていること(を)見てこんと(見てこないと)、よう(よく)わかりませんわ。』(カッコ内注釈、筆者)

ブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の常任指揮者、上村和義さんから電話がかかってきたのは、1990年(平成2年)の9月も下旬に掛かろうかという頃だった。

上村さんは、大阪芸術大学演奏学科の出身。トロンボーンを呉 信一、伊藤 清の両氏に師事し、在学中から、森下治郎ブラスアンサンブルや日本テレマン協会管弦楽団に参加。同大を卒業後、大阪シンフォニカ(現、大阪交響楽団)のトロンボーン奏者となった。だが、トロンボーンには、何かとユニークな面々が多い。在学当時からブラスバンドの面白さにすっかりはまってしまった氏は、1990年にBBBを創設。電話の2ヶ月前の同年7月2日(月)に、こけら落とし直後のいずみホールでデビュー・コンサートを終えたばかりだった。(参照:《第49話 ムーアサイドからオリエント急行へ》)

また、デビュー・コンサート後のBBBは、成果報告も兼ね、作曲家のフィリップ・スパーク(Philip Sparke)や指揮者・編曲家のハワード・スネル(Howard Snell)、同年6月のブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)の来日公演で知己を得た(イギリスでは狂牛病騒ぎで肉が喰えなかったこの頃、大阪で安全な日本の肉をご馳走した)3人の指揮者ロイ・ニューサム(Roy Newsome)、ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)、デヴィッド・キング(David King)などにデビュー時のライヴ録音を送って、将来に向けてのサジェスチョンをもらう一方、週一回の定例練習で海外から届く新しい楽譜をつぎつぎリハーサル。それらを箕面市民会館(大阪府箕面市)を借りて録音(通称“モーレツしごき教室”)するなど、1991年以降に行なう予定になっていた定期演奏活動に向けてレパートリーとサウンド作りの地固めを行なっていた。

BBBは全員プロ奏者。だが、現実にはブラスバンドで使うサクソルンの扱いになじみのない人も多かった。しかしながら、毎週、実際に合奏すると効果はてきめんで、ミュージカル・スーパーバイザーとしての立場からみた贔屓目ながらも、1970年代を通じてヒットを連発したゴードン・ラングフォード(Gordon Langford)やそれ以前の作品の演奏では、すでにレコードで聴くチャンピオンシップ・セクション・クラスに近いサウンドが出せるようになっていたように思う。

冒頭の上村さんの電話は、そんな折にかかってきた。

電話の趣は、翌月の10月6日(土)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれる全英ブラスバンド選手権(Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain)の決勝を聴きに行きたいが、どうしたらいいか、という相談だった。

当時のBBBの課題は、現代作曲家がつぎつぎと発表する最新オリジナルの演奏法だった。それを全英選手権という、手抜き無しの本気の演奏で聴ける格好の場で確かめたいという話だ。

しかし、チラリと横目でカレンダーを見ると、航空券や宿はこれからでもなんとかなるかも知れないが、もう日があまり無い。肝心のチケットを入手するにはどうすればいいのか。そこがポイントだった。

1900年(日本では明治33年!)に始まった全英選手権は、ブラスバンドをやっている英国の面々が、年に一度、寝食を忘れ、事によっては家庭をも省みず熱中してしまう超人気のイベントだ。そのロンドン決勝のチケットは、FAXや国際電話が最速の通信手段だったこの当時、英国内の知人を介して購入を試みたとしても時間切れになる可能性が高かった。

それではダメだ。

そこで、上村さんには、BBBのサポーターでもある東京のブージー&ホークス社(現、ビュッフェ・クランポン)にすぐ連絡をとって相談に乗ってもらうのがベストだと助言した。運よく、この年の選手権の主催者が楽器メーカーの同社だったからだ。

そして、この読みは見事的中。同社の千脇健治さんの手配でチケットをゲットできた上村氏は、10月2日(火)早朝に大阪・伊丹空港を発ち、成田空港からモスクワ経由、ロンドン・ガトウィック空港行きの英ヴァージン・アトランティック機に乗り継いで渡英した。

10月6日の選手権当日は、まだステージの設営をやっている早朝からロイヤル・アルバート・ホールに入り、現場をつぶさに見たという上村さん。

土産話でとくに傑作だったのは、チケットの自席付近をウロウロしているところを、前記ケヴィン・ボールトン、ロイ・ニューサムの両氏に見つけられ、ブラック・ダイクが借り切っていたボックス席に手招きされ、ステージをほぼ正面から俯瞰できるその特等席から選手権を愉しんだという話だ。

(やはり肉の力は絶大だった!)

1990年大会の選手権部門(Championship Section)決勝のテストピース(課題)は、ジョージ・ロイド(George Lloyd)の『イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)』だった。

この作品は、2年前の1988年7月2日(土)、ロンドンのハムステッド・ヒース公園北端の湖の畔で夏開かれる恒例の野外コンサートで、ジェフリー・ブランド(Geoffrey Brand)指揮、ブラック・ダイクとグライムソープ・コリアリー・バンド(Grimethorpe Colliery Band)の合同演奏で初演された。即ち、ブラック・ダイクにとっては、手の内に入っている曲のはずだった。

ところが、デヴィッド・キングが指揮をとったこの日のブラック・ダイクは、1つのミスから立て続けにアクシデントが各パートを伝播。優勝を飾ったジョン・ハドスン(John Hudson)指揮、CWSグラスゴー・バンド(CWS Glasgow Band)に10ポイント差をつけられる186ポイントで第7位に沈んだ。

この惨憺たる結果は、同年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で行なわれた“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”で完勝した“ブラック・ダイク”(ヨーロッパ・チャンピオン)のパフォーマンスが“全英”のステージでは崩壊してしまったことを意味した。(参照:《第42話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990》

上村さんによると、このとき、レジデント・コンダクターのケヴィンが頭を抱え、名伯楽ロイに肩を叩かれ慰められるという、外国映画でよく見かけるようなシーンが展開され、ブラック・ダイクのボックスは一様に沈うつな空気に包まれたのだという。正しく大事件だった!!

(後日郵送されてきたイギリスの週間ブラスバンド新聞「ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)」上にも、ブラック・ダイクのこの日のパフォーマンスについて、酷評と失望の文字が溢れていた。)

しかし、あちらの人は頭の切り替えが早い。

選手権本番の後、審査発表までの間に行なわれたガラ・コンサートの開演前、ロイは上村さんをバックステージに誘い、当日のガラでエリック・ポール(Eric Ball)の名曲『自由への旅(Journey into Freedom)』をサプライズで指揮することになっていたブラスバンド界のレジェンド、“ミスター・ブラス”ことハリー・モーティマー(Herry Mortimer)夫妻を紹介され、ゲスト・ソロイストとしてデリック・ブルジョワ(Derek Bourgeois)の『トロンボーン協奏曲(Trombone Concerto)』やヤン・サンドストレーム(Jan Sandstrom)の『ショートライド・オン・ア・モーターバイク(A Short Ride on a Mortorbike)』をプレイする前のクリスティアン・リンドベルィ(Christian Lindberg)とも、“これから面白い曲をやるんだ”といった感じの気軽な会話で盛り上がったという。

日本ではあまり知られていないが、2000年9月9日(日)、バーミンガム・シンフォニー・ホールで行なわれた「全英オープン・ブラスバンド選手権(British Open Brass Band Championships 2000)」で、CWSグラスゴー・バンド(CWS Glasgow Band)の招きで、ハワード・スネルが抜けた後の同バンドを指揮した上村さんのキャリアは、こういった人脈の中で磨かれていったものだ。そして、この“全英オープン”での指揮は、イギリスの二大選手権史上初の日本人指揮者の登場となった。

(余談ながら、上村さんは、CWSグラスゴーからこの翌月の全英選手権決勝の指揮もオファーされたが、入管当局から就労ビザが下りず、実現しなかった。英国王がパトロンの“全英”だけに、外国人指揮に難色が示されたようだった。)

一方、1990年の“全英”で辛酸をなめたキングもそのままでは終わらなかった。

1991年7月5~6日、キング指揮のブラック・ダイクは、ウェストヨークシャーのデューズバリー・タウン・ホールで1枚のCDをレコーディングした。

タイトルは、「イングリッシュ・ヘリテージ~ジョージ・ロイド作品集(English Heritage and Other Music for Brass)」(英Albany、TROY 051-2、1991年)。

プライドの高いキングならではのリベンジだった!!

▲ガラ・コンサート・プログラム(1990年10月6日、Royal Albeet Hall)

▲CD – Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain – Gala Concert 1990(英Heavy Weight、HR006/D、1990年)

▲HR006/D – インレーカード(上村和義氏所蔵)

▲ジョージ・ロイド(George Lloyd)

▲CD – George Lloyd English Heritage and othermusic for brass(英Albany、TROY 051-2、1991年)

▲TROY 051-2 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第132話 「ブラス・タイムズ」の創刊と「バンド・タイムズ」

▲「ブラス・タイムズ(japan brass times)」創刊号 1面(ブラス・ウィークリー社、1965年12月1日発行)

▲同、2面(同上)

『吾国(わがくに)の吹奏楽界が目覚しい躍進を続け、世界の注目の的となっている時、この「ブラス・タイムズ」の誕生は、まことに時宜(じぎ)を得たものというべきであろう。旬刊(じゅんかん)の吹奏楽専門紙といえば、出版界からみても、前例のない思い切った企画でもあり、しかも全日本バンド音楽のメッカである関西から生れたことも大いに意義のある処であろう。私が先般来、各方面に強調していることは、日本吹奏楽の発展の健全性、即ち他の文化部門が大都市偏重の中央集中的であるのに対し、全く「地域差」がなく、文字通り、全国津々浦々の青少年達や各指導者諸君が、足並みを揃え、たくましい成長とをなしている事である。この明るく誇らしい勢いに「ブラス・タイムズ」が、共同の研究の交流の場として、更に有力な推進力となることを期待し、確信するものである。』(改行省略とカッコ内のフリ仮名を除き、原文ママ)

引用は、1965年(昭和40年)の年末に創刊されたタブロイド版の吹奏楽専門紙「ブラス・タイムズ(japan brass times)」12月(第1)号(創刊号)(ブラス・ウィークリー社、1965年12月1日発行)の1面に掲載された、当時の全日本吹奏楽連盟理事長、朝比奈 隆さんの祝辞「発刊を祝して」の全文である。

同文が掲載されている「ブラス・タイムズ」の実物は、実は、2020年(令和2年)8月25日(火)、Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)の未整理の資料の中から偶然見つかった。

出てきたときのコンディションは、経年変化で紙の縁の部分が赤茶け、触ると簡単にポロポロと分解するような、ほとんど朽ち果てる寸前という状態だった。幸い、白ボール紙に挟まれていた記事部分は、縁の部分より状態が良く、文字は問題なく読めた。しかし、紙の劣化はかなり進んでおり、写真はすでに解像度が落ち、文字の方もいずれ近い内に触れることもままならない状態になることが容易に想像できた。

そこで、シオン事務局長でホルン奏者の長谷行康さんらと相談し、念のため原本をきちんと保管するとともに、デジタル化などの保存措置がとられることになった。

筆者を含め、かつて「ブラス・タイムズ」という吹奏楽専門紙が存在したことを知るものがその場に誰もいなかったからだ。

帰宅後も、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんなど、当時を知っていそうな指導者に電話やメールでリサーチを続けたが、誰からも存在を確認できなかった。

これは、とんでもないものを発掘してしまったのかも知れない!!

その「ブラス・タイムズ」の紙面情報を整理すると、発行元は、大阪市東淀川区十三東之町1丁目16の13の(株)ブラス・ウィークリー社で、編集・発行人は大井克之。毎月1日・15日の月2回発行で、一部25円。直接購読料は、6ヵ月:370円、1ヵ年:700円(いずれも送料込み)とあった。

時系列的に時間を遡ると、終戦から8年後の1953年(昭和28年)に同じくタブロイド版の“月刊”新聞として創刊され、1956年(昭和31年)の5月号(通巻31号)から雑誌に発展した「月刊 吹奏楽研究」(月刊 吹奏楽研究社)が、1964年(昭和39年)の3月号(通巻87号)をもって廃刊。「ブラス・タイムズ」が創刊された1965年はその1年後にあたり、1959年(昭和34年)に創刊された月刊誌「バンドジャーナル」(管楽研究会編、音楽之友社刊)が、国内で唯一の吹奏楽を扱う媒体となっていた。(参照:《第39話 ギャルド:月刊吹奏楽研究が伝えるもの》《第61話 U.S.エア・フォースの初来日》《第74話 「月刊吹奏楽研究」と三戸知章》

この「ブラス・タイムズ」で面白いのは、同紙が、先行紙(誌)のような“月刊”ではなく、朝比奈さんも書いているように、創刊時に“旬刊”(本来は、十日ごとに刊行する雑誌や新聞に対する用いられる)を目指していたことだろう。また、発行元の社名に“ウィークリー”という文字が使われていることから、あるいは、最終的に“週刊”にすることを目標に定めていたのかも知れない。

情報の速達性という視点でみると、以上の事実は、「ブラス・タイムズ」が将来的に先行紙(誌)より魅了的な媒体に発展する可能性を内に秘めた媒体だったように感じさせる。しかし、そんな理想は理想として、同紙が創刊時に掲げた“月2回刊行”の方針は、取材面はもとより経営面でもかなりの冒険、あるいは野心的な発想だったように思う。

そして実際、12月1日発行の創刊号の後、紙面に告知されていた同15日の次号の発行はミスリードとなってしまった!!

なぜそんなことになったかについては、発行元が解散してしまった今となってはまるで事情が分からない。しかし、購読料を先に徴収して刊行する新聞にとって、これはあってはならない由々しき事態だった。

一方、刊行された「ブラス・タイムズ」の創刊号、それ自体は、かなりインパクトのあるコンテンツで構成されていた。

紙面は全6ページ構成。創刊号ということもあり、朝比奈さんの祝辞(1面)の他に、大阪市音楽団(現シオン)団長で指揮者の辻井市太郎さんの「発刊によせて」(3面)、阪急少年音楽隊隊長の鈴木竹男さんの「『ブラス・タイムズ』の活躍を期待」(3面)という祝辞も掲載されたなかなか華やかな紙面づくりだった。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》

最も力が入った記事は、1965年(昭和40年)11月14日(日)、長崎市公会堂で行なわれた「第13回全日本吹奏楽コンクール」の特集(1~2面)だった。同記事には写真6枚のほか、各部門の講評、得点表、折から来日中だった前A.B.A.(America Bandmasters Association)会長で作曲家、指揮者のポール・ヨーダー(Paul Yoder、1908~1990)の感想などもあり、それらが簡潔にまとめられていた。

また、つづく3面から5面には、神奈川、京都、福井、大阪など、全国各地の演奏会や講習会の記事が散りばめられ、音楽評論家のポップス講座もあるなど、限られた紙数に盛りだくさんの内容となっていた。

とくにユニークだったのは、日本楽器・心斎橋店、京都・十字屋楽器店、日本楽器・神戸元町店とタイアップして、店頭在庫をリスト化した「輸入楽譜在庫リスト」(40・12・1現在)を掲載したことだった。

普通、毎日どんどん変化する(つまり、掲載情報が刻一刻と古くなる)楽器店の“店頭在庫”を、入稿から刊行までタイムラグがある“印刷物”である新聞に載せようという発想は誰も思いつかない。

そんなリストを、まるで新聞の夕刊のテレビ欄かなんかのようにかなり目立つ最終ページの6面に持ってきたのは、間違いなく新聞の編集に手馴れた人のアイデアだったのだろう。ただ、この種の企画は、印刷情報のアップデートが欠かせないので、次号が出るまで間隔ができるだけ短かいことが必然的に要求される。残念だったのは、「ブラス・タイムズ」は、それが出来なかった。現場は、さぞかし大混乱だった筈だ。

しかし、編集・発行人には、メディアとしての使命感はあったようだ。

翌年の1966年(昭和41年)1月20日(木)、ブラス・ウィークリー社は、紙名を「ブラス・タイムズ」から「バンド・タイムズ」に改め、毎月20日発行の“月刊紙”として第2号を刊行。再出発を図っている。紙面は8ページに拡大。一部25円の定価は据え置き、直接購読料は、1ヵ年:400円のみの扱いとするなど、大きな改善を図っている。しかし、一旦失った信頼は戻ってはこなかったようだ。断続的にリサーチは続けているが、その後の同紙の消息についてはまるで情報が出てこない。とても残念なことに!

ただ、ラッキーなことに、この「バンド・タイムズ」第2号の原紙も、全8ページ中、半数の4ページを同じ日シオンの未整理資料の中から発見した。その状態は、前記「ブラス・タイムズ」とほぼ同様だったので、それも時代を伝える貴重な歴史資料として同様の保存措置がとられることになった。

余談ながら、TPP11協定の発効日の2018年(平成30年)12月30日以降、日本国内の著作権の保護期間は、発表後50年から発表後70年に延長された。

これを知らない人が意外と多いが、念のためチェックすると、シオンで見つかった両紙の著作権は、それ以前にすでに消滅。一旦消滅しパブリックドメイン化した著作物の権利が復活することはないというベルヌ条約の規定に従い、両紙のいくつかの紙面をそのままのかたちで紹介できることが明らかとなった。

ただ、そうは言っても、経年変化によってすっかり赤茶けてしまった紙の素地の色のまま画像にしたのでは、印刷された文字がたいへん見づらい。なので、ここでは色補正を施した上で画像化することにした。

しかし、これらはほとんど現物が残されていない時代の生き証人だ!

原著作者をリスペクトし、遠い先人たちの時代に想いを馳せながら愉しんでいただければと願う!

▲「ブラス・タイムズ(japan brass times)」創刊号 3面(ブラス・ウィークリー社、1965年12月1日発行)

▲同、6面(同上)

▲「バンド・タイムズ(japan band times)」第2号 1面(ブラス・ウィークリー社、1966年1月20日発行)

▲同、8面(同上)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第131話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版日本初演

▲管弦楽版日本初演プログラム(座席番号入り) – 中部電力ふれあいチャリティーコンサート(2004年2月5日、愛知県芸術劇場コンサートホール)

▲同、出演者プロフィール

▲CD – デメイ:交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版(Band Power、BPHCD-8001、2004年)

BPHCD-8001、インレーカード

2020年(令和2年)9月4日(金)、朝の東海道新幹線に飛び乗り上京。同日夕刻までに大阪に戻った。3日前に急逝した親友、元NHKプロデューサーの梶吉洋一郎さんを見送るためである。

梶吉さんは、武蔵野の出身。実家は東小金井だったと聞く。お爺さんが中島飛行機の技術畑で、“疾風(はやて)”という旧陸軍の戦闘機に携わっていたと聞かされた覚えがある。そんな物づくりの家系のDNAは、1979年(昭和54年)にNHK入局後、“報道部”を経て、念願の“音楽制作”に配属されるや、まるで水を得た魚のように遺憾なく発揮されることとなった。

そのキャリアの中でライフワークとなったのは、チェコのマエストロ、ラドミル・エリシュカ(Radomil Eliska, 1931~2019)と出会い、この名伯楽を日本各地の音楽シーンに紹介しながら、そのもっとも得意とするドヴォルザークの後期交響曲(第5番~第9番)やスメタナの「わが祖国」などのCDを世に送り出したことだったろう。これらCDの多くは、梶吉夫妻が立ち上げたオフィスブロウチェクのpastier(パスティエル)レーベルからリリースされたが、個人的なことながら、編集を終えたマスターや原稿を工場や印刷所に入稿するプロセスを担い、それがCDという形で広く世の音楽ファンに喜んでもらえたことは、馬が合った彼との長年の友情の証となったように思う。

奇しくも、マエストロと梶吉さんは、1年違いの同じ日に旅立った。今頃、天国で次の録音を何にしようか話し合っているかも知れない。

また、中高一貫校“成蹊”の音楽部で活動した若い日の記憶と血が騒ぐのか、こと吹奏楽に関しては一家言を持ち、当然、それは番組作りに色濃く反映されることとなった。

とは言うものの、彼が音楽制作に移った頃、NHKでは、会長の方針に従って、吹奏楽の唯一の定時番組「ブラスのひびき」(秋山紀夫さんの名調子で人気だった)が打ち切られ、何かの偶然で放送される曲を除けば、何年間も、NHKの電波に吹奏楽が乗らないという信じがたい状況が続いていた。

そんな中、カチンコチンに凍りついた部内の吹奏楽に対する冷淡な空気をものともせず、彼が立ち上げた3つのFM特別番組、1992年(平成4年)8月16日(日)放送の「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」、1993年(平成5年)3月20日(土)放送の「二大ウィンドオーケストラの競演」、1994年(平成6年)3月21日(月・祝)放送の「世界の吹奏楽・日本の吹奏楽」は、吹奏楽への想いを放送番組の形にした彼なりのこだわりであり挑戦だった。そして、それら特番は間違いなく、その後の「ブラスのひびき」復活へのプロローグとなった。また、NHK在職中、最後に手がけた番組の中に、中橋愛生さんがナビゲーターをつとめる「吹奏楽のひびき」があったことも、いかにも彼らしい有終の美の飾り方だったように思う。(参照:《第58話 NHK 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》《第102話 NHK 二大ウィンドオーケストラの競演》《第121話 NHK 世界の吹奏楽・日本の吹奏楽》

さて、そんな梶吉さんと一緒に手がけた作品の中に、オランダ人の親友、ヨハン・デメイ(Johan de Meij)の代表作、交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』がある。

周知のとおり、この作品は、ヨハンが1984~88年の歳月をかけてウィンドオーケストラのために作曲した彼自身初の交響曲だ。イギリスの作家ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, 1892~1973)の同題の冒険ファンタジー小説に題材を求めた5楽章構成、演奏時間およそ42分という作品だ。初演は、1988年3月15日、ベルギー王国の首都ブリュッセルのベルギー国営放送(BRT)グローテ・コンサートスタジオにおける、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(Orchestre de la Musique Royale des Guides)のコンサートで行なわれ、その模様はFMでオンエアされた。ロワイヤル・デ・ギィデは、ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団(The Royal Symphonic Band of the Belgian Guides)の別名でCD等が発売されるベルギー国王のプライベートな吹奏楽団だ。(参照:《第55話 ノルベール・ノジとの出会い》

その後、この交響曲は、1989年12月、指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti、1912~1997)を審査委員長とする“サドラー国際ウィンド・バンド作曲賞1989”(主催: ジョン・フィリップ・スーザ財団)で、世界27ヵ国からノミネートされた143楽曲中、最優秀作品に選ばれた。

日本初演(全曲)は、1992年(平成4年)5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールにおける「第64回大阪市音楽団定期演奏会」で、木村吉宏の指揮で行なわれた。“大阪市音楽団(市音)”は、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活躍を続ける大阪のウィンドオーケストラの市直営当時の名称だ。(参照:《第59話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」日本初演》

そして、市音のこの演奏会に、大阪局(BK)にはない中継車を東京から走らせたのが、梶吉さんだった。言い換えれば、『指輪物語』と彼との付き合いは、このときに始まった。

この日のライヴ録音は、筆者がナピゲートした前記FM特番「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」でオンエアされ、大きな反響を巻き起こし、その後、市音初の自主CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年)へと繋がった。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》

それから数年余。すでに世界的ヒットとなっていた『指輪物語』に新たに管弦楽版(2000年)が完成したという知らせがヨハンから入った。管弦楽版を作る気になったのは、なんでも、アメリカのオーケストラ指揮者、デーヴィッド・ウォーブル(David Warble)から強いリクエストがあったからだそうで、管弦楽用のオーケストレーションは、優れたオーケストレーターとして名を上げていた友人のオランダ放送管弦楽団首席打楽器奏者のヘンク・デフリーヘル(Henk de Vlieger)がヨハンのアイデアを管弦楽スコアに起こしていくコラボレーションのかたちをとった。これは、ヨハン自身がそれまで管弦楽のスコアを書いた経験がなかったことと、世界的ヒット作となったこの曲を第三者的視点から見直すためだった。

管弦楽版の公式世界初演は、オランダのロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(Rotterdams Philharmonisch Orkest)が本拠とするロッテルダムの有名なコンサート・ホール、デ・ドゥーレン(De Doelen)における3日連続演奏会として企画された。初日は、2001年9月28日(金)で、演奏は、3日とも、ディルク・ブロッセ(Dirk Brosse)指揮、同管弦楽団によって行なわれている。

しかし、この話を企画段階で聞いたウォーブルは、『これはまず、提案者である自分にやる権利がある。』と言って頑として譲らず、ヨハンと話し合った結果、≪公式世界初演≫より7ヶ月前の2001年2月17日(土)、米ニューヨーク州ロング・アイランド(Long Island)のティレス・センター・ノース・フォーク・ホール(Tilles Center North Fork Hall)で、“スター・トレック(Star Trek)”でおなじみの俳優ジョージ・タケイ(George Takei)をナレーターに立てた≪ナレーション入りバージョンのオーケストラによる初演≫として、ウォーブル指揮、ロング・アイランド・フィルハーモニー(Long Island Philharmonic)によって演奏された。(実は、ウォーブルは、それまでにタケイをナレーターとするウィンドオーケストラ版の演奏を60回やっていた。)

その後、ウォーブルは、≪公式世界初演≫直前の2001年9月22日(土)、英BBC放送のスタジオとしてもおなじみのロンドンのゴールダーズ・グリーン・ヒポドローム(Golders Green Hippodrome)でレコーディングされたロンドン交響楽団(London Symphony Orchestra)演奏の『指輪物語』管弦楽版の世界初CD(カナダMadacy、M2S2 3193、2001年)の指揮者にも起用されている。

梶吉さんに、『指輪物語』に新たに管弦楽版ができたことを話したのは、2002年後半の某日。一時、彼がNHKの外郭であるNHK中部ブレーンズ(名古屋)に籍を置いていた頃だった。当時、筆者は、《第125話 スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」の衝撃》でお話ししたような事情で、何かやりたいと思ったとことがあったとしても、大阪に張り付いたまま身動きがまったくとれない状態にあった。なので、このときの“指輪物語管弦楽版情報”は、彼がかけてきた電話の中で話した雑談として終わるはずだった。

しかし、彼にとってはこの話は、相当刺激的な内容だったようだ。彼は電話の最後の方で『今、たいへんだろうけど、楽譜がどうなっているかだけ、訊いてくれない。』と言った。

何か閃いたのだろうか?

すぐ了解して、ヨハンに訊ねると、版権は彼の出版社アムステル・ミュージック(Amstel Music)が所有するが、楽譜本体は、アルベルセン(Albersen Verhuur V.O.F.)のレンタル譜だという。直感の鋭いヨハンらしく料金表まで添付されてきたので、早速、それらをまとめて梶吉さんに送った。これにて一件落着だと思っていたら、これが大きな間違いだった。

このとき、梶吉さんが筆者の知らないところで立案していたコンサートの組み立ては、2003年(平成15年)4月22日(火)に流れてきた1枚のFAXで初めて知った。

【演奏会名】中部電力ふれあいチャリティーコンサート  
【日時】2004年2月5日(木)、14:30開演と18:30開演の2回
【会場】愛知県芸術劇場コンサートホール
【指揮】大勝秀也
【管弦楽】名古屋フィルハーモニー交響楽団

また、この演奏会は、NHKが音声収録し、2004年2月29日(日)、14:00からの「FMシンフォニーコンサート」(解説:外山雄三)の中でオンエアとも書かれてある。2回本番で、いい方を放送しようという腹積もりなんだろうか。

しかし、続いて『楽譜は、指揮者は6月末までにスコアが欲しいと言っています。オーケストラは9月末までにスコアとパート譜が欲しいと言っています。』と書かれてあったのには、目が点になってしまった。つまり、やり取りのない相手から“レンタル譜を借り出して欲しい”というリクエストだった。

『あれ?それって俺の仕事?』と思いながらも、一方で日があまり無いのも事実。すぐヨハンと連絡をとって、アルベルセンの連絡方法と担当者を教えてもらい、手探りの折衝を開始。今度のケースでは、公開演奏回数、録音の有無、放送回数など、料金に関係する詳細なデータを知らせてレンタル料金を見積もってもらい、合意の上で契約を取り交わした後でないと、楽譜は送られてこない。そんな訳だから、シリアスなやりとりを繰り返した後、アルベルセンが楽譜を送り出してくれたのは、6月24日のことだった。到着後、楽譜を点検して名古屋フィルに急送。指揮者のリクエストにも辛うじて間に合った!(当然、後日の返送も筆者の役割りとなる。)

やれやれと思っていたら、今度は、ヨハンが『来日したい。』と言い出した。理由を訊ねると、ロンドンの録音が練習と本番を1日で済ましてしまう、いわゆる“ゲネ本”だったので、『今度は演奏者とのコラボレーションを重ねてさらにいいものに仕上げて欲しいんだ。』と言う。気持ちはわかる。

ダメもとでこの件を梶吉さんに電話すると、『(新しい楽譜だけに)来てもらうのは大変ありがたいんだけど、クライアントからの追加予算はないよ。』との返答。即ち渡航費は出ないとの由。そりゃそうだ。また、こちらが大阪を離れることが厳しい状況だけに、ヨハンが来るとなれば、誰かアテンドをつけなくてはならなかった。もちろん、ヨハンは、そんな事情など知る由も無かったが…。

その内、東京のバンドパワーが、NHKの放送が終わった後、その録音を使ったライヴCDを作ることに関心を寄せ、もしそれがOKなら渡航費ほかの負担に応じてもいいという話になった。名古屋フィルからも、もし作曲者が名古屋まで来られるのなら、楽団のゲストとして宿の用意をする旨、申し出があった。また、アテンドについても、あてにする黒沢ひろみさんから日程を空けてくれるという確約が入った。

オーシ、もう大丈夫! 誠意をこめて折衝に当たってくれた梶吉さんをはじめとする各位に大感謝だ!

その後、名フィルの中から面白い話がこぼれてきた。ヨハンの『指輪物語』は、楽団事務局が全く知らない曲だったが、管楽器や打楽器奏者の中から、『学生時代に演奏したかった曲だ。』とか『指導に行った学校の吹奏楽部がやっていた曲だ。』、『子供達(中高生)がよく知っている曲だ。』という話が出て、事務局は原曲が吹奏楽の世界では相当な有名曲であることをついに認識。口コミで伝わった東京のプレイヤーからも“のせて欲しい”という要望があったというが、全国放送もあることだし、ことこの本番に関しては、“首席”“副首席”の全員出席で望むことになったという。

そんなこともあり、当日は、ひじょうにモチベーションの高い演奏が繰り広げられることになった。それがライヴCDのかたちで残されたことは、望外の喜びだ!

ホールで聴いていたバンドパワーの鎌田小太郎さんも、この日聴いた第3楽章のソプラノ・サクソフォーンのソロが、『もっとも“ゴラム”らしい。』とお気に入りの様子!

傍らで聴く演奏会の立案者の梶吉さんもとても愉快そうだった。

それから16年の歳月が流れた。

筆者を乗せ東京へと向かう“のぞみ”がちょうど名古屋を出た頃、彼とともに『指輪物語』に関わった日々が、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡った!!

▲管弦楽版公式世界初演プログラム – Symphonisch gedicht voor viool en orkest(2001年9月28~30日、De Doelen、Rotterdam)

▲同、演奏曲目

▲「中日新聞」2004年2月16日(月)夕刊、9面

▲「朝日新聞」2004年2月29日(日)朝刊、3版27面

▲スタディ・スコア – 交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版(Amstel Music、非売品、2000年)

▲ラドミル・エリシュカ、梶吉洋一郎の両氏

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第130話 ミャスコフスキー「交響曲第19番」日本初演

▲チラシ – 第5回大阪市音楽団特別演奏会(1962年5月8日、毎日ホール)

▲プログラム – 同

▲同、演奏曲目

▲「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)

『今までの多くの作曲家を交響曲の作品数でランキングをつけると、第1位がハイドン、第2位がモーツァルト、そして第3位がミアスコフスキーということになります。ミアスコフスキーはこのように交響曲の数の多さでよく知られていますが、作品そのものは殆どといつていいくらい知られておりません。大変美しく感動的な曲もあるということですが、日本での紹介がおくれているのは何としても残念なことです。』(一部異体字の変更以外、原文ママ / 作曲者カナ表記“ミアスコフスキー”は演奏会プログラムどおり)

1962年(昭和37年)5月8日(火)、旧ソヴィエト連邦(現ロシア)の作曲家、ニコライ・ミャスコフスキー(Nikolai Myaskovsky、1881~1950)の『交響曲第19番 変ホ長調』(作品46)の日本初演が行なわれた「第5回大阪市音楽団特別演奏会」(於:毎日ホール、開演:18時30分)のプログラムに、辻井英世さん(1934~2009)が書いた同曲の解説文冒頭の引用である。氏は、吹奏楽作品もある在阪の現代作曲家として知られ、当夜の指揮者、大阪市音楽団団長の辻井市太郎さん(1910~1986)の長男でもある。後年、会食をともに愉しんだこともあった。

ロシア語の人名を我々が普段使っているラテン文字のアルファベットに変換する手法には、いくつかルールがある。それぞれ一長一短があり、今のところ決定打はない。今回の話の主人公ニコライ・ミャスコフスキーのケースだと、筆者が実際にこの目で確認したスペルだけでも、ファースト・ネームに“Nikolai”や“Nikolay”、ファミリー・ネームにも“Miaskovsky”や“Myaskovsky”、“Myaskovskii”がある。さらにロシア人の名前の“v”を“w”と表記するケースも結構あるので、現実にはまだまだあるかも知れない。また、それらのスペルを見ながら考案されてきた日本語カナ表記に至っては、問題はさらに複雑だ。辻井さんは“Miaskovsky”に従い、筆者は“Myaskovsky”あるいは“Myaskovskii”に従っている。そして、ロシア人が喋るのを聞いていると、たとえ日本で使われているカナ表記を意識しながらヒヤリングしても“ア”や“ャ”は案外聞こえない(筆者の耳が悪いだけかも知れないが)ので、あるいは“ミスコフスキー”が近いのかも知れない。逆に英米人は我々に近い。ただ、文字としてのカナ表記“ミャスコフスキー”は、アルファベットのスペルを想像しやすいという利点もあるので、一応OKだと思う。

我々が何の疑いもなく使っているチャイコフスキーやムソルグスキーの横文字表記にも、実は同じような課題が存在する。

出版社などから、ときどき『ネット検索できないから、なんとかまとめてくれ。』というリクエストがくるが、そんな場合は『それならロシア文字で表記したら?』と笑いながら答えるようにしている。すると、相手はたいてい音を上げる。恐らくは、“こいつ使えない!”と思われているだろうが…。

話を元に戻そう。

1962年5月8日、ミャスコフスキーの『交響曲第19番』の日本初演を行なった“大阪市音楽団(市音)”は、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活躍を続けている。“大阪市音楽団”は、大阪市直営当時の名称だ。

当夜の演奏会は全国的な注目を集めた。吹奏楽専門誌「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)は、表紙に当日のステージ写真をあしらい、「最高レベルのシムフォニックバンド 大阪市音楽団 第5回特別演奏会」という題する2頁記事(12~13頁)を入れた。現場取材の同記事が伝える出席者の顔ぶれも次のようにひじょうに多彩だ。

『この日、この音楽団の多くの固定ファンや関西方面の好楽家、吹奏楽関係者で会場が埋り、一曲ごとに感激の拍手がをくられた。大フィルの指揮者朝比奈隆氏、NHK西川潤一氏、毎日新聞渡辺佐氏、大阪新聞中田都史男氏、音楽新聞佐藤義則氏、評論家上野晃氏、松本勝男氏、滝久雄氏や大阪府警音楽隊の山口貞隊長、大阪府音楽団小野崎設団長、阪急少年音楽隊の鈴木竹男隊長や、関西吹奏楽連盟の矢野清氏、得津武史氏など地元の人たちの外、東京から、芸大の山本正人、小宅勇輔、大石清の諸氏、東京都吹奏楽連盟の広岡淑生理事長、前警視庁音楽隊長山口常光氏、広島から広島大学の佐藤正二郎氏、岡山の前野港造氏なども来朝、この音楽団の発展を祝福した。』(原文ママ)

関西一円の吹奏楽関係者だけでなく、記事の中にやがて全日本吹奏楽連盟理事長に就任する朝比奈 隆さんや、「東京吹奏楽協会」のアーティスト名でレコードやソノシートにマーチをさかんに録音していた東京藝術大学の山本正人さん(指揮者)、小宅勇輔さん(打楽器)、大石 清さん(テューバ)の諸氏の名があることも目をひく。これは、当時の東西の人的交流の様子や、市音が1960年にはじめたコンサート・ホールでの定期演奏活動がいかに注目を集めていたかを如実に物語っている。山本さんが創立指揮者となる「東京吹奏楽団」が1963年に立ち上がる以前の話である。(参照:《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》《第129話 東京吹奏楽団の船出》

メイン・プロとなった『交響曲第19番』について、「吹奏楽研究」はこう記している。

『ソヴィエトの作曲家として、新しいソ連の音楽…大衆と密着した音楽という理念にもとづいて数多くの交響曲を作っているミアスコフスキーの、輝やかしいすぐれた交響曲の四つの楽章全曲が本邦初演された。』(原文ママ / “ミアスコフスキー”はプログラム表記どおり)

ニコライ・ミャスコフスキーは、生涯を通じて27曲の交響曲を作曲した。『交響曲第19番』は、その中で唯一吹奏楽編成で書かれた作品で、作曲者がモスクワ音楽院の院長をしていた当時、友人のモスクワ騎兵軍楽隊の隊長イワン・ペトロフの依頼を受け、1939年に作曲された。初演は、1939年2月15日、ペトロフ指揮の同軍楽隊のラジオ放送の中で行なわれ、公開演奏は、一週後の赤軍記念日にモスクワ音楽院で催されたコンサートで同軍楽隊によって行なわれた。評者も称賛!大成功を収めた。

ドイツ式楽器編成をルーツとする旧ソ連のミリタリー・バンドの楽器編成は、サクソフォンを使わない代わりに、アルト、テノール、バリトン、バスのサクソルン系の金管楽器を含んでおり、この交響曲もその特徴的な編成で書かれていた。初演はひじょうに好評で、たちどころにソ連のミリタリー・バンドのレパートリーとなった。その後、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーやエフゲニー・スヴェトラーノフといったクラシック畑で活躍する指揮者もレコーディングを行なっている。スヴェトラーノフは、ミャスコフスキーの交響曲全集を録音した指揮者だ。

この作品を日本人が知ったのは、1959年にアメリカでリリースされ、日本にも少数が輸入されてきたLP「MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND」(米Monitor、MC 2038、モノラル録音)だった。このレコードは、間違いなく、旧ソヴィエト国営レーベル“メロディア”がオリジナル原盤で、演奏者は、イワン・ペトロフ(Ivan Petrov)指揮、モスコー・ステート・バンド(Moscow State Band)とあった。また、ジャケットには、“A First Recording(初録音)”の小さな文字も印刷されていた。

後年、筆者がこのレコードを手にしたとき、指揮者が初演を振ったペトロフであることはすぐに気がついた。だが、バンド名の“モスコー・ステート・バンド”がどうしても謎だった。当時、共産党政権下のモスクワにミリタリー・バンド以外に民間吹奏楽団ができたというニュースはついぞ聞いたことがなかったからだ。“モスコー”が“モスクワ”、“ステート”が“ソヴィエト連邦”を意味していそうだとはおぼろげに想像できたが、実際にこれを日本語にするとなると、一体どう訳せばいいのだろうか。また、録音のための臨時編成なのか、常設のバンドなのか。それによっても日本語訳はかなり変わってくる。

この謎が解決したのは、その後、何十年も過ぎてから、AB両面のカップリング曲こそ違うが、同じ『第19番』の演奏が入っているメロディア盤を中古市場で手に入れたときだった。もちろん、レーベルに印刷されているロシア文字はチンプン・カンプンだったが、一文字ずつ照らし合わせていくと、レーベル最下部に指揮者のイワン・ペトロフ(ファースト・ネームはイニシャルのみ表記)の名が印刷され、その上に演奏者名があるらしいことが分かってきた。また、演奏者名は2行で構成され、最後の文字は“CCCP(ソヴィエト社会主義共和国連邦)”だった。ということは、それは間違いなく“公”の楽団であることを示していた。そして、その時点で“民間楽団説”は泡のように消えた。

同時に、外貨獲得目的で海外輸出用に製造されたメロディア盤のジャケットには、ロシア語名のほかに“ちょっと怪しい英訳”が印刷されていることが多いことを思い出した。そこで、30枚程度ある手持ちのメロディア盤を片っ端からあたっていくと…。

ハイ、ハイ、ほぼ同じ演奏団体名が、英訳付きでゾロゾロ出てきた!

文字化けの可能性もあるので、ここにロシア名は記さないが、英訳の方は、“ORCHESTRA OF THE USSR MINISTRY OF DEFENCE(ソヴィエト国防省吹奏楽団)”とあった。彼らはモスクワを本拠とするソヴィエト連邦最優秀、最大編成のミリタリー・バンドだ。さらに調べると、指揮者イワン・ペトロフは、初演の後、着実に昇進し、1950年から1958年までソ連邦最高峰のこのバンドの楽長をつとめていた。階級が少将とあったので、最高位の楽長だったことは間違いない。

以上のペトロフの履歴から、オーディオ好きの人は、ひょっとするとピンときただろう。

そう。アメリカでステレオ用カッティング・マシーンが実用化され、ステレオ録音のレコードがプレスされるようになったのが、実は1958年だった。それまでリリースされたレコードがすべてモノラル盤だったので、ペトロフが指揮したミャスコフスキーの『交響曲第19番』の世界初録音盤がモノラル録音であることも見事に辻褄が合った。

当時は、折りしも米ソ冷戦下。厚いベールに包まれたソヴィエトの国内情報のディティールに欠ける恨みはあるが、ここで追加情報をまじえて時系列的に整理すると、『交響曲第19番』の楽譜がソヴィエト国営の出版社から出版されたのは1941年。エドウィン・フランコ・ゴールドマン指揮、ゴールドマン・バンド(参照:《第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの》)が全曲のアメリカ初演を行なったのが、1948年7月7日(部分初演は、同年1月3日)。その後、ペトロフ指揮の世界初録音が1950~1958年の間に行なわれ、そのアメリカ盤がリリースされたのが1959年だったという流れとなる。

この間、作曲者のミャスコフスキーは、1950年8月8日、モスクワで亡くなっている。

それにしても、西側初のレコードで作品情報に接してから、僅かな年月で日本初演にまでこぎつけた市音の情報収集力とモチベーションはすごい!!

ウィンド・ミュージックにかけるこの楽団の情熱がひしひしとして伝わってくる1つのエピソードだ!

▲Nikolai Myaskovsky

▲LP – MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND(米Monitor、MC 2038、1959)

▲MC 2038 – A面レーベル

▲MC 2038 – B面レーベル

▲〈露語記号略〉5289-56 – A面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)

▲〈同〉5289-56 – B面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)