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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第21話 ジェイガーがやってきた

▲LP – 第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会(非売品、YB-1001)

『交響曲第1番(Symphony No.1 for Band)』の作曲者ロバート・E・ジェイガーが日本にやってきたのは、1975年のことだった。

この年、「昭和50年度 日本バンドクリニック(吹奏楽指導者講習会)」(主催:日本バンドクリニック委員会、日本楽器製造)のゲスト講師として招かれたジェイガーは、大阪(3/25~3/26)、名古屋(3/28~3/29)、東京(4/2~4/3)の3都市で開催された各2日間の日程のクリニックで、モデルバンドの東京佼成ウインドオーケストラを音のパレットに、自作を用いた“リハーサル・テクニック”や“フェスティバル・コンサート”で指揮を行なった。

▲昭和50年度 日本バンドクリニックの案内

ジェイガーは、このとき、すでに『シンフォニア・ノビリッシマ(Sinfonia Nobilissima)』が広く演奏され、日本でも人気作曲家となっていたが、クリニックで扱われた『交響曲第1番』や他の作品を通じ、彼の音楽の魅力を再認識した指導者も多かった。

(名古屋~東京の間には、福岡にも足を延ばしてクリニックを行っている。)

その後、4/6(日)、東京・日比谷公会堂で開催された「第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会」にも登場。第3部で自作の『組曲第3番(Third Suite)』を客演指揮した。

このコンサートは、浜松のヤマハ吹奏楽団が初めて東京で行ったコンサートというだけでなく、ジェイガー以外にも、岩城宏之(指揮)、宮本明恭(フルート / NHK交響楽団)、戸部 豊(トランペット / 新日本フィル)、塚本紘一郎(サクソフォン / ニュークールノーツ)という豪華な顔ぶれが客演した、たいへん話題を呼んだコンサートだった。

▲第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会の広告

注目すべきは、ジェイガーが臨席したこのコンサートで、原田元吉の指揮で『交響曲第1番』全曲が演奏されたことだ。

指揮の原田さんは、東京藝術大学在学中の1957年以降、NHK交響楽団テューバ奏者として活躍。1965年から1985年までヤマハ吹奏楽団の常任指揮者もされていた。

そして、幸いにも、作曲者が立ち会ったこの日の演奏は、ヤマハ音楽振興会によってライヴ・レコーディングされ、ヤマハ吹奏楽団の自主制作でレコード化(非売品、YB-1001)された。

「第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会」と題するこのレコードには、第1部冒頭に演奏された『交響曲第1番』のほか、ジェイガー自身が指揮した『組曲第3番』第1楽章、この演奏会のために兼田 敏に委嘱された『交響的瞬間』の初演(指揮:原田元吉)、岩城宏之が指揮したリストの交響詩『レ・プレリュード』の4曲が収録されていた。

21世紀の現時点から見ると、これらは正しく“歴史的証人”的アーカイブだ。

幸いなことに、その後、CBSソニーが同じライヴ録音ほかを使ったアルバム「ヤマハ吹奏楽団イン・コンサート」(CBSソニー、20AG 195 / 1977.7新譜)を企画してリリース。

この日のライヴからは、ジェイガーの『交響曲第1番』、戸部 豊のトランペット独奏によるフンメルの『トランペット協奏曲』、塚本紘一郎のサクソフォン独奏によるフランシス・レイ / 岩井直溥編の『ある愛の詩』がピックアップされた。

▲LP – ヤマハ吹奏楽団イン・コンサート(CBSソニー、20AG 195)

マスタリング等の違いから、ヤマハ吹奏楽団の自主制作盤とCBSソニー盤のサウンドは、かなり違う。自主制作盤からは、マイクが拾ったナマナマしい当日の空気がダイレクトに伝わってくる一方、CBSソニー盤からは、ソニーらしく整音された立体感のある音が飛びだしてくる。

いずれにせよ、カップリングが違い、サウンドの好みの問題は確かに残るが、この2枚のレコードが、ジェイガーが臨席した時のこのシンフォニーの日本における最初期の姿を今に伝えることになった意義は、ひじょうに大きい。

ご承知のとおり、ジェイガーは、その後、クリニックで共演した東京佼成ウインドオーケストラの委嘱により、交響曲第2番『三法印』(1976年)を作曲。これ以降、自身も、1963年のシンフォニーを“Symphony No.1 for Band”と呼ぶようになった。第20話に登場する「Band Music Notes」(Revised Edition / Kjos、1979)に本人が書いたプログラム・ノートの曲名表記も実はそう変わっていた。

米Volkweinから出版されたときの英題は、確かに“Symphony for Band”。日本では、今でもオリジナル原題の邦訳にこだわる人も多いが、同じ作曲者の交響曲が2曲になってから相当な年月が流れ、そろそろ作曲者の意を汲んでいい時代になったのではないだろうか。

2017年12月16日(土)、JMSアステールプラザ大ホール(広島市)で開催された下野竜也指揮、広島ウインドオーケストラの「シカゴ ミッドウェストクリニック壮行公演 第48回定期演奏会」での曲名表記も『交響曲第1番』となっていた。もう大正解だ。

『交響曲第1番』は、さまざまな事情から、今では3種類の楽譜が存在する。

“温故知新”とは使い古された言葉だが、少なくともジェイガーのこのシンフォニーを手掛けられる際には、ぜひにもこの言葉を思い出していただければと思う。

▲広島ウインドオーケストラ「シカゴ ミッドウェストクリニック壮行公演 第48回定期演奏会」プログラム]表紙と曲目

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第20話 ジェイガー:交響曲第1番

▲ロバート・E・ジェイガー(1990年代、作曲者提供)

日本が初の東京オリンピック開催に向かって邁進していた1963年、アメリカでは、ウィンド・ミュージックの新時代到来を確かに告げる1曲のシンフォニーが産ぶ声をあげようとしていた!

ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager / 1939~)の『交響曲第1番(Symphony No.1 for Band)』(発表当時の原題:Symphony for Band)がそれだ。

後に、この曲が入った3種のレコーディングと関わり合い、事あるごとに作曲者とやりとりを交わすことになった筆者としてもたいへん縁の深い作品だ。

交響曲は、4つの楽章で構成される。

第1楽章:Andante espressivo – Allegro – Andante

第2楽章:Alla Marcia

第3楽章:Largo espressivo

第4楽章:Allegro con fuoco – Andante – Allegro molto vivace

“徴兵制度”があった時代のアメリカの音楽家には似たような例が山のようにあるが、ジェイガーも、徴兵によりミシガン大学での音楽教育学の勉強を一時中断し、アメリカ海軍にいた時代がある。(1966年1月に復学し、1968年8月に修了。)

『交響曲第1番』は、アメリカ海軍音楽学校(The U.S. Naval School of Music)で音楽理論のインストラクターをつとめていた頃に書かれた作品で、結婚したばかりの1963年2月から11月にかけて作曲された。

作曲者は、この頃、プロコフィエフやショスタコーヴィチの音楽に傾倒しており、この交響曲からもそんな匂いがプンプン漂ってくる。

余談ながら、アメリカ海軍音楽学校は、もとはワシントンD.C.にあったが、1961年からアメリカ海軍ノーフォーク海軍基地にほど近いヴァージニア州ヴァージニア・ビーチ、リトル・クリークへの移動が始まり、1964年8月に移動を完了。アメリカ陸軍のミュージシャンも受け入れていていた事情もあり、アメリカ軍音楽学校(The U.S. Armed Forces School of Music)と改称した。どちらかと言えば今も後者の名で広く知られているが、改称は移動と並行して行われたので、2つの校名が同じ時期に存在した。

ジェイガーの近年のプロフィールでは、“アメリカ海軍の一員としてアメリカ軍音楽学校のスタッフ・アレンジャーとして従事した”という記述が使われている。

この交響曲が完成した時点では、ジェイガーが配属されていた部署は、すでにリトル・クリークに移っていた。

完成後、この作品は、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(American Bandmasters Association)のオストウォルド作曲賞(Ostwald Award)に応募され、エントリー70曲の応募作の中から第1位に選ばれた。

この応募に際しては、A.B.A.会長で作曲賞委員会の委員長でもあったポール・ヨーダー(Paul Yoder)に電話を掛けて“応募の締切がいつか”を訊ねたところ、“その日の夜”ということを知り、ワシントンD.C.まで車をとばして試奏をするアメリカ陸軍バンド(The United States Army Band “Pershing’s Own”)にまで楽譜を届けたというエピソードがよく知られている。また、応募に必要な推薦人にも、同じく“締切がさし迫っている”という理由からヨーダー自身が引き受けてくれるという幸運にも恵まれた。

受賞の報せは、年を明けた1964年2月、アメリカ陸軍バンドの隊長サミュエル・R・ロボダ(Colonel Samuel R. Loboda)から電話でもたらされ、発表は、同年3月6~9日、テキサス州サン・アントニオで開催されたA.B.A.のコンベンションの席上、行われた。

その場に臨んだジェイガーは、作曲賞のスポンサーであるアドルフ・オストウォルド(Adolph Ostwald)から賞金750ドルを贈られるととともに、初演を聴きに行くための費用一切を保証された。蛇足ながら、本人に少し突っ込んで質問したところ、『その時、賞状や認定書の類いは一切なく、手元には何もない。』という返答が返ってきた。わかりやすく言うと、受賞はアナウンスによる発表だけだったということだ。

公式初演は、1964年6月9日(火)、ワシントンD.C.の“ザ・ウォーターゲート(The Watergate)”で催されたアメリカ陸軍バンドの火曜恒例のイブニング・コンサートで、ギルバート・ミッチェル(Captain Gilbert Mitchell)の指揮で行われた。翌日のワシントンポスト(The Washington Post)紙で批評家ポール・ヒューム(Paul Hume)が、イブニング・スター(The Evening Star)紙でウェンデル・マーグレープ(Wendell Margrave)が賞賛。大成功を収めた作品は、初演指揮者のミッチェルに献じられた。

▲初演プログラム(作曲者提供)

▲The Washington Post、1964年6月10日(作曲者提供)

この受賞は、当然ジェイガーの音楽学校内の立場にもいい影響をもたらした。音楽理論のインストラクターからスタッフ・アレンジャーになれたのも、この成功のおかげだったとのちに語っている。

『交響曲第1番』の日本初演は、アメリカでの初演の3年後の1967年6月8日(木)、東京文化会館大ホールで開催された「東京藝術大学音楽学部第31回吹奏楽定期演奏会」で、山本正人の指揮で行われた。

当時のプログラムには、「バンドのための交響曲」(R. E. ジャガー)と印刷されていたが、この頃は、自国アメリカでも自分の名前をちゃんと呼んでもらえたことはほとんどなかったという。それこそ“ジャガー”とか“イェーガー”とか。

▲「東京藝術大学音楽学部第31回吹奏楽定期演奏会」プログラム

その後、1968年5月28日(火)、大阪・毎日ホールにおける「大阪市音楽団第17回定期演奏会」でも、辻井市太郎の指揮で演奏されており、このあたりが、日本における第一次演奏ブームだった。

しかし、4楽章構成で演奏時間が20分を超える当時としては規模の大きな作品だ。

全曲が収録されたアメリカ初の商業レコードについては、残念ながら正確な情報を持ち合わせない。有名なシュワン(Schwann)など、1960年代のカタログ類などを精査してもアメリカのメジャー・レーベルがレコード化した形跡はどこにもなかった。

インディーズとしては、ノーマン・スミス(Norman Smith)とアルバート・スタウトミアー(Albert Stoutamire)の共著「Band Music Notes」(Revised Edition / Kjos、1979)に掲載されているジェイガー自身のブログラム・ノートに付属データとして載っているウェイン・ぺグラム(Wayne Pegram)指揮、テネシー工科大学バンド(Tennessee Tech University Band)のものが、最初期の録音の1つだと思われる。

▲Band Music Notes – Revised Edition(Kjos)

“テネシー・テック”の通称で知られるテネシー工科大学(Tenessee Technological University)は、ジェイガーが1971年から2001年まで30年にわたり教鞭をとった大学だ。指揮のウェイン・ぺグラム(1938~2010)も、1968年から35年間、同大学のバンド・ディレクター(Director of Bands)をつとめ、1970年代には、アメリカの出版社ハル・レナードの録音を手掛けている。

前記「Band Music Notes」には、レコードの問い合わせ先として、大学バンドの住所が明示されている。筆者自身は入手に失敗したが、作曲者が関係した録音だけに、21世紀の今頃になって、もっと粘り強く頑張っていればよかったと大いに反省している。

人生の痛恨事の1つである。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第19話 世界のブラスバンド

 

▲LP – 世界のブラスバンド<第1巻>行進曲編(日本ビクター(Philips)、SFL-9060~61)

▲LP – 世界のブラスバンド<第2巻>ポップ・コンサート編(日本ビクター(Philips)、SFL-9062~63)

▲LP – 世界のブラスバンド<第3巻>クラシカル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9064~65)

▲LP – 世界のブラスバンド<第4巻>オリジナル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9066~67)

▲LP – 世界のブラスバンド<別巻>コンサートのためのアンコール集(日本ビクター(Philips)、SFL-9068~69)

1967年、日本コロムビアがリリースしたEP3枚の「楽しいバンドコンサート」が、レコード各社に与えたインパクトは大きかった。

なにしろ、“吹奏楽=マーチ”というイメージで凝り固まった各社が“マーチさえ出しておけば、それでよし!”とさえ考えていた中での登場である。しかも、第18話でお話ししたように、収録された9曲が国内初登場の“マーチ以外の楽曲”ばかり!! その上、すべてが新録音ときた!!

何もかも、想定外の出来事だった。

日本ビクターでも、負けてはならじと新たな吹奏楽アルバムの企画が立ちあがった。

契約レーベルのフィリップスの豊富な録音ソースを活用して、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツの有名吹奏楽団の演奏によるテーマ別の2枚組4タイトル(LP8枚)を作ろうという全集プロジェクトである。

全集のタイトルは、「世界のブラスバンド」!?!?

<第1巻>行進曲編 (日本ビクター(Philips)、SFL-9060~61 / 1968年9月新譜)
<第2巻>ポップ・コンサート編(日本ビクター(Philips)、SFL-9062~63 / 1968年10月新譜)
<第3巻>クラシカル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9064~65 / 1968年11月新譜)
<第4巻>オリジナル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9066~67 / 1968年12月新譜)

という、月に1タイトルの発売ペースで4ヵ月で完結する、当時としてはスケール感のある企画だ。

レコード編成の中心人物は、後にカメラータ・トウキョウを立ち上げられ、レコード関係の著作も多い若き日の井阪 紘さんだった。

ビクターがここまでリリースしてきた吹奏楽レコードは、基本的にほとんどマーチだった。しかし、今度は、コロムビア盤の登場後の企画である。

実際に吹奏楽を行なっている現場の人々とレコードの企画があまりにもかけ離れているのではないかと考えた氏は、まず「バンドジャーナル」誌の山田編集長を訪ね、ついで全日本吹奏楽連盟事務局の斎藤好司、理事の広岡淑生、音楽解説者の赤松文治、大石 清、指揮者の朝比奈 隆、山本正人、春日 学の各氏に意見を求めてまわった。

井阪さんは、当時「バンドジャーナル」誌(音楽之友社)への寄稿“世界のブラスバンドを企画して”(1968年)の中で、日本のアマチュア・バンドが、リヒャルト・シュトラウスやショスタコーヴィチまで演奏しているとは夢にも思ってなかったという率直な感想を吐露され、“やはり良くわかっていなかったのである”とも書かれている。

吹連理事の広岡さんは、フィリップスのバンド・レコードのほとんどに耳を通された後、当時の現場の空気がよく伝わる一文が寄せられている。

<第3巻>のジャケットに掲載されたその一部を引用すると…

『吹奏楽人口は相当な数にのぼり吹奏楽演奏会の聴衆はそれらしい若い人達が一杯で、そうした聴衆が仲々聴く耳を持って批評の一つも云うから頼もしいものです。所でレコードではと言うと行進曲がバンドのレコードとしか理解されていない様で、これはレコード会社の宣伝不足というところでしょう。戦後の吹奏楽人口は景気のよい行進曲が大衆向きであるというのではなく吹奏楽の芸術性を論じたり、新しい曲目を迫ったり演奏上の細かい点まで聴き入って楽しみ、いつまでも行進曲を喜んでいる人々ではないのです。このシリーズでも先づ行進曲のようですが次に続くレコードには新しい吹奏楽レコードや今迄発売されていなかった名盤によって愛好家の要望に対し期待にそうように企画されています。』(原文ママ)

レコード会社への苦言と期待の両面が込められた情熱あふれる推薦文だ。

赤松文治さんに話をうかがわれた際には、同社がリリースしたばかりの「ESSSプレゼンツ・スーザ・マーチ」(日本ビクター(Philips)、45X-103 / 演奏:ジェームズ・H・ハウ指揮、スコッツ・ガーズ・バンド)について、オリジナル盤(英Fontana、STL 5428 / 原盤タイトル:King Sousa!)から2曲、『飛行士(Aviator)』と『ライト・フォワード(Right Forward)』をカットして発売したが、そのカットした2曲が実は当時スーザ・ファンが最も興味を持っていたLPレコード世界初登場の曲だったと指摘された。これについても“知らぬこととは言え……”と、前記寄稿の中で失敗談として書かれている。とても実直な方だ。

“ESSS高音質シリーズ”が、通常のLPよりもターンテーブルの回転速度が速い45回転(シングル盤と同じ回転速度)を採用していたため、レコード面に収録できる時間が短かく、物理的に何曲かカットせざるを得なかったために起こった悲劇だった。

赤松さんは、戦前から音楽解説をなさっていた大先輩だ。筆者もいろいろと教えを乞うたことがあり、この“キング・スーザ・カット事件”も、東京・永田町のご自宅におじゃましたときに直接うかがった。そのときのとても残念そうに話される姿を今もよく覚えている。

(個人的には、日本盤ジャケットに使われた写真が、スコッツ・ガーズではなく、ライバルのコールドストリーム・ガーズだったのも気になった。要はよく知らなかったということだが…。)

▲LP – ESSSプレゼンツ・スーザ・マーチ」(日本ビクター(Philips)、45X-103)

▲LP – King Sousa!(英Fontana、STL 5428)

赤松さんの指摘に対して、ビクターは、カットした『飛行士』を新企画の「世界のブラスバンド<第1巻>行進曲編」のディスク-2(SFL-9061)のA面トラック-2に収録。もう1曲の『ライト・フォワード』は、1969年4月新譜の「スーザ・スペシャル」(日本ビクター(Philips)、SFX-7155 / 原盤タイトル:Sousa Specials!)という、同じスコッツ・ガーズ・バンドが演奏する新録音のスーザ・マーチ集のA面のラストに、トラック-7として追加し、スーザ・ファンの期待に応えた。

これは、レコード編成者の良識的判断として称えられるかもしれない。

3枚のアルバムを買うことにはなるが、とにかく「King Sousa!」収録の全曲が日本国内で購入できるようになったのだから。

そんな予想外のハプニングこそあったが、広岡淑生監修、全日本吹奏楽連盟推薦、日本吹奏楽指導者協会推薦、全日本学校吹奏楽研究協議会推薦という文字が躍る日本ビクターの「世界のブラスバンド」は、発売されるやひじょうに大きな成功を収めた。

それは世界の有名バンドの演奏をより身近なものにし、4巻完結後の1969年7月に<別巻>として「コンサートのためのアンコール集」(日本ビクター(Philips)、SFL-9068~69)が追加リリースされることにも繋がった。

▲当時のレコード・カタログから(年-月表示は、カタログ掲載月)

一方、筆者個人は、このシリーズにたいへん残念な思いをしている。

筆者が購入した<第1巻>のディスク-1のA面トラック-4には、ジャケットに印刷されたジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa)の『自由の鐘(The Liberty Bell)』の代わりに、フジテレビ系列テレビのスポーツ番組のテーマとしておなじみだったアール・E・マッコイ(Earl E. McCoy)の『ライツ・アウト(Lights Out)』が入っていた。

大阪では、20~30円もあればおいしい“きつねうどん”を食べることができた時代だ。そんな時代に買った定価3000円のアルバムだけに、さすがにムッときて、すぐ“曲名表示と違う曲が入っているんですが…”とビクターにクレームの手紙を出した。すると、制作セクションの課長さんから、ていねいなお詫びの返信が届いた。それによると、プレスの際に原盤番号を取り違えたとの説明で、“表示曲目どおりのものと交換します”と書かれていた。

当然と言えば当然の対応だが、いろいろ考えた挙句、“交換しない”と決めた。なんとなく、この種の“エラーもの”が、またとないコレクターアイテムになると感じたので!!

しかし、つぎに買った<第2巻>では、ディスク-2(SFL-9063)のB面トラック-2の『アレルヤ』(モーツァルト)とトラック-3の『カレリヤ』間奏曲(シベリウス)の曲順が逆になっていた!

これにはさすがに気が滅入った。どうしてこんなことがたて続けて起こるんだ!

いろいろ調べる内、このシリーズのアルバムが、すべて複数タイトルのアルバムからのコンピレーションで作られていることに気がついた。

例えば、フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)の演奏が収められている<第1巻>行進曲編のディスク-1(SFL-9060)は、一部モノラル音源を含む以下のようなアルバムからコンピレーションされていた。

《A面》

1 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

2 – 米Mercury、SR 90207 Hands Across the Sea

3 – 米Mercury、SR 90314 Screamers!

4 – 米Mercury、SR 90264 Sound Off!

5 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

6 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

《B面》

1 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

2 – 米Mercury、MG 40007 / 50080 Marches

3 – 米Mercury、MG 40007 / 50080 Marches

4 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

5 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

6 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

▲LP – Marches(米Mercury、MG 40007)

▲LP – Marching Along(米Mercury、SR 90105)

▲LP – Hands Across the Sea(米Mercury、SR 90207)

▲LP – Sound Off!(米Mercury、SR 90264)

▲LP – Screamers!(米Mercury、SR 90314)

信じられない事故は、編集時もしくはプレスの際に起こっているに違いなかった。

それなら、そんな心配のない海外オリジナル原盤を買えばいい!!

そう考えた筆者は、その後、<第3巻>以降をすぐには購入せず、外国盤や海外通販店の情報を片っ端から集める内、外国盤を海外オーダーするようになっていた。結果、少し時間はかかったものの、「世界のブラスバンド」LP10枚の収録曲のほとんどを原盤で聴くようになった。

プレスの違いからくるサウンドの違いも新鮮だった。日本盤ではカットされた曲にも“聴きもの”がいっぱいあった。これは大きな収穫だった。

(余談ながら、筆者が、資料として<第3巻>と<第4巻>を入手したのは、21世紀になってからだった。)

井阪さんは、同じ寄稿の中でこうも書かれている。

『だいたい、レコード編成者の使う「ブラス・バンド」という言葉は、実に不正確な使い方をしていることが多く、大半はミリタリー・バンドの演奏するマーチをさしており、今度のタイトルも「世界のブラス・バンド」としてみたもののこれでは金管のいわゆるブラスばかりのレコードとまちがわれるのではないかと今になって冷や汗をかいている次第である。』(原文ママ)

“音楽文化の発展は、レコード会社が担っている”と自負する1960年代の日本のレコード会社の一般認識を伝える貴重な証言だ。

とくにビクターは、吹奏楽のアルバムに“ブラスバンド”という表現を好んで使っていたから。

イギリスのブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)や他国のブラスバンドが、つぎつぎ来日するようになった今、この同じタイトルを吹奏楽(ウィンドオーケストラ)のCDに使うのは、かなりの勇気がいるだろう。

21世紀の今あらためて見ると、曲目一覧ページに作曲者や編曲者の情報が一切なく、解説にたどり着くまで一体誰の曲かさっぱりわからないという“使い勝手の不自由さ”があったり、演奏者名や曲名に細かいチェック・ミスがあったり、叩けば埃が出るような残念な点も散見されるが、ともあれ、日本ビクターの「世界のブラスバンド」は、それまでマーチ以外の曲が国内発売されることがなかったイーストマン・ウィンド・アンサンブルやオランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)、スコッツ・ガーズ・バンド(The Regimental Band of the Scots Guards)など、世界の有名バンドが演奏するクラシックやオリジナルをはじめて国内に紹介することになった。

イーストマンで言うなら、1959年10月23日録音のアルバム「Wagner for Band」(米Mercury、SR 90276)から、ヴァーグナーの歌劇『リエンツィ』序曲、歌劇『ローエングリン』から“第三幕への前奏曲”と“エルザの大聖堂への行列”、楽劇『ラインの黄金』から“ワルハラ城への神々の入城”、同年10月24日収録のアルバム「Ballet for Band」(同、SR 90256)から、グノ―の歌劇『ファウスト』の“舞踏音楽”、1955年10月5日モノラル録音を疑似ステレオ化した「Folksong Suites & Other British Band Classics」(同、SR 90388)からホルストの『組曲第1番』『組曲第2番』、ヴォーン=ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』、1958年3月2日録音のアルバム「Winds in Hi-Fi」(同、SR 90173)から、グレインジャーの『リンカーンシャーの花束』、1959年3月3日録音のアルバム「West Point Symphony – American Masterpieces for Concert Band}(同、SR 90220)から、クリフトン・ウィリアムズの『ファンファーレとアレグロ』など、マーチ以外の曲が国内初出となった。

その他、フィリップスと専属契約のあったオランダ海軍に、川崎 優の行進曲『希望』、大栗 裕の『吹奏楽のための小狂詩曲』、塚原哲夫の『吹奏楽のための幻想曲』、團 伊久磨の『祝典行進曲』の4曲を依頼録音し、<第4巻>に収録したことは、大きく評価されるべきことだろう。

個人的には、このシリーズは、海外に大きく目と耳を向けさせるきっかけとなった。

そして、そこには、まだ知らぬ豊かな音楽の世界が広がっていた!

 

 

▲LP – Ballet for Band(米Mercury、SR 90256)

▲LP – Wagner for Band(米Mercury、SR 90276)

▲LP – Folksong Suites & Other British Band Classics(米Mercury、SR 90388)(疑似ステレオ)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第18話 楽しいバンドコンサート

▲吹奏楽楽譜 – オリンピック・マーチ(出版:イースタン・ミュージック)

1964年の東京オリンピック開催決定は、日本社会のあらゆる分野、人心に大きな興奮と活気をもたらした。

音楽業界も時流に乗り遅れるなとばかり、オリンピック関連の曲がつぎつぎと作られ、レコードが売り出された。

吹奏楽のジャンルでも、オリンピック東京大会組織委員会(OOC)と日本放送協会(NHK)の共同制作で、開会式等で演奏される古関裕而の『オリンピック・マーチ』と今井光也の『オリンピック東京大会ファンファーレ』が作曲された。

レコード各社も、先を争うようにこれらを録音したが、開会式の演奏を担当することが決まった陸上、海上、航空の3自衛隊音楽隊は、引っ張りだこで、日本ビクターを除く各社の録音を担った。ビクターは、第16話でお話ししたとおり、レーベル契約のあったオランダのフィリップス・レーベルを通じて、オランダ王国海軍バンド(日本ビクターのアーティスト名:ロイヤル・ネヴィー・バンド)への新録音の依頼となった。

ともあれ、東京の国立競技場で世界から集った選手たちによる大入場行進があるという話は、レコード会社にとってひじょうに刺激的で魅力的な話だった。NHKのスポーツ・テーマである古関裕而の『スポーツショー行進曲』を“運動会用行進曲”として発売(SP盤:AK-29、モノラル盤シングル:BK-143 / SP盤の曲名は“スポーツショウ行進曲”)し、隠れたベストセラーになっていた日本コロムビアの学芸部も当然色めきたった!

▲モノラル・シングル – 運動会用行進曲 (日本コロムビア、BK-143)

コロムビアは、既発売盤のカップリングを組み替えたり、新録音を加えるというスタイルでマーチのシリーズ・プロジェクトをスタート。オリンピック3ヵ月前の1964年7月新譜で「世界国歌全集」7タイトル(ASS-10001 ~ ASS-10007)と「世界マーチ集」30タイトル(ASS-10008 ~ ASS-10037)を、9月新譜で「世界マーチ集」続篇15タイトル(ASS-10038 ~ ASS-10052)をリリース。オリンピック後の1965年7月新譜でも「世界マーチ集」にさらに10タイトル(ASS-10053 ~ ASS-10062)を加え、最終的にEPレコード(17センチ盤)全62タイトルをマーケットに送り出した。

▲EP – 世界マーチ集 イギリス・マーチ(1)(日本コロムビア、ASS-10029)

▲EP – 世界マーチ集 日本マーチ(6)(日本コロムビア、ASS-10051)

演奏アーティストは、東京吹奏楽団(指揮:山本正人)、大阪市音楽団(指揮:辻井市太郎)、陸上自衛隊中央音楽隊(指揮:齋藤徳三郎)、海上自衛隊東京音楽隊(指揮:片山正見)、東京消防庁音楽隊(指揮:内藤清五)に、来日時のアメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(指揮:ジョージ・ハワード)を加えた各バンド。

3年後の1968年6月には、ベスト盤LP(30センチ盤)として「決定盤 これが世界のマーチ! その1 ~ その3」(EDS-6、EDS-7、EDS-8)というネーミングの3タイトルもリリース。同年8月の2枚組LP「決定盤!スーザ・マーチのすべて」(EDS-14~15)のベースにもなり、多くの録音曲が、今も他の多くのアルバムに使われている。同社にとっては、使いまわしが効く付加価値の高い音楽財産だ。

他方、同じこの時期に他社もマーチをつぎつぎリリース。レコード各社に“吹奏楽=マーチ”というイメージが完全に定着することになった。

しかし、レコード制作現場の興奮とは裏腹に、レコード会社と吹奏楽の演奏現場との間には、いつの間にか微妙な意識のズレが生じていた。

各社の吹奏楽新譜がマーチばかりという状況に、いささか食傷気味となっていたのだ。

現場は、マーチ以外のレコードを渇望していたのだ。

そこで現場の声を汲み入れて制作されたのが、1967年7月リリースの3枚のEPアルバム「楽しいバンドコンサート」(日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)だった。

制作委員は、中山冨士雄、加藤正二、大石 清、村方千之、秋山紀夫、酒井正幸という、当時の日本の吹奏楽の世界を第一線で牽引した各氏。加えて文部省教科調査官、花村 大氏と全国音楽教育連合会が監修したレコードだ。

▲EP – 楽しいバンドコンサート (日本コロムビア、EES-176)

▲EP – 楽しいバンドコンサート (日本コロムビア、EES-177)

▲EP – 楽しいバンドコンサート (日本コロムビア、EES-178)

商業レコードのジャケットに、これだけ多くの方々の名前が並ぶのは、ひじょうに珍しい。

ジャケットにも楽器メーカー提供の写真が使われるなど、販促のためのタイアップにも余念がなかった。

当時、マーチの売れ方は、ある程度数字が読めた。しかし、日本のマーケットで初リリースとなる曲ばかりが収録される予定の「楽しいバンドコンサート」各盤は、いきなり一般のマーチ・ファンや音楽愛好家に売れるはずがなかった。あくまで、吹奏楽の現場向きの企画だった。

また、外国盤のライセンス発売はあっても、マーチやファンファーレ以外の吹奏楽曲を自前で新録音することは、他社もやったことがなく、かなりの冒険だったはずだ。“吹奏楽=マーチ”で固まっている社内で稟議を通す気苦労のようなものも、垣間透けて見える。

逆に言うと、それだけ将来を見据えたアグレッシブなプロジェクトだった。

演奏は、加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブル。

録音セッションは、1967年の春に行われた。

結果、1枚目のEES-176には、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『献呈序曲(Dedicatory Overture)』、エドリッチ・シーバート(Edrich Siebert)の『森のそよ風(Wind in the Wood)』、ハリー・シメオネ(Harry Simeone)編の『バンドのためのカンカン(Can Can for Band)』の3曲。

2枚目のESS-177には、ハロルド・ウォルターズ(Harold Walters)の『フーテナニー(Hootenanny)』、アーネスト・キャネーヴァ(Ernest Caneva)の『フローレンスの祭り(Florentine Festival)』、フランク・D・コフィールド(Frank D. Cofield)の『トランペット・オーレ!(Trumpets Ole!)』の3曲。

3枚目のESS-178には、ジョセフ・オリヴァドーティ(Joseph Olivadoti)の『イシターの凱旋(Triumph of Ishtar)』、フランク・D・コフィールドの『トロンボナンザ(Trombonanza)』、トルチャ―ド・エヴァンズ(Tolchard Evans)/ドナルド・ハンスバーガー編(arr. Donald Hunsberger)の『スペインの姫君(Lady of Spain)』の3曲が収録された。

「楽しいバンドコンサート」には、今で言うところの“吹奏楽オリジナル”に、トランペット4重奏やトロンボーン3重奏など、マーチ以外のコンサート向きの作品が選曲されていた。

老舗レコード各社には、21世紀の今も“吹奏楽は、まずマーチありき”という、先代から受け継がれたイメージが残っている。

吹奏楽に情熱を傾けた先達たちが、日本のレコード業界の大きな壁にはじめて風穴を開けた第一歩だった。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第17話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド初来日

▲ブラック・ダイク・ミルズ・バンド 日本ツアー1984プログラム

イギリスの“ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)”が初来日したのは、1984年のことだった。

1970年のナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド、1979年の救世軍ウェリントン・シタデル・バンド(ニュージーランド)、1980年のレイランド・ヴィークルズ・バンド(イギリス)につぐ、4番目の来日ブラスバンドだ。

東京のブージー・アンド・ホークス社(現ビュッフェ・クランポン)が招聘したこの年の日本ツアーは、5/29(火):富士文化センター(静岡県富士市)を皮切りに、5/30(水):愛知厚生年金会館(愛知県名古屋市)、6/2(土):尼崎市総合文化センターアルカイックホール(兵庫県尼崎市)、6/3(日):福岡郵便貯金会館大ホール、6/5(火):簡易保険ホール(東京)、6/6(水):栃木県教育会館大ホール(栃木県宇都宮市)、6/7(木):郡山市民会館(福島県郡山市)に至る全7公演。

いずれも、コンサート開催地やその近隣で“ブラスバンド”の芽が少しずつ芽吹くか芽吹き始めている場所での開催であり、さすがは“ベッソン”ブランドの管楽器を扱う会社のマーケティングとリサーチの成果だと感じさせた。

▲ブラック・ダイク・ミルズ・バンド1984公演広告

しかし、当時の日本の音楽界では、まだ“ブラスバンド”自体についてあまりよく知られていない実態が一方にあった。相当高名な吹奏楽指導者の中でも、『日本では木管楽器の入る吹奏楽が盛んなので、金管だけなんて、そんなのダメだよ。』とか『うるさいだけだ!』、あるいは『まったく関心がありません。』などなど、信じられないくらい一方的かつネガティブな反応が圧倒的だった。

偶然、この年の秋には、フランスのギャルド・レピュブリケーヌの日本ツアー(招聘:ジャパン・アーツ)もあったので、『うちの子らは、そちらに行かせます。』と言ってまったく相手にしてもらえなかった吹奏楽部顧問の先生も結構いたという。

別の次元では、ナマを聴いたこともない筈なのに、“ブラスバンド”を最下層の音楽と決めつける高名な音楽大学の先生もいた。いわゆる“管弦楽至上主義”である。『オーケストラで使われていない楽器は、音楽としては認められません。』という発言も実際に聞いた。

そんな逆境の中、初来日が決まったブラック・ダイク・ミルズだったが、21世紀の現時点から振り返ると、この1984年の来日は、いろいろな意味で本当にいいタイミングで行なわれた日本初上陸だったように思える。

1975年に就任したプロフェッショナル・コンダクター、ピーター・パークス(Major Peter W. Parkes)の指揮の下、来日までの9年間に、ブラック・ダイク・ミルズは、全英選手権(Nationals)で5度(1975、1976、1977、1979、1981)、全英オープン選手権(British Open)で3度(1976、1977、1983)、ヨーロピアン選手権で5度(1978、1979、1982、1983、1984)、王座に輝いていた。また、日本ツアー翌年の1985年には、5月5日のヨーロピアン、9月7日の全英オープン、10月6日の全英という3大タイトルすべてに優勝する“グランド・スラム(The ‘Grand Slum’)”まで達成している。

1984年の来日は、バンドとしてのピークに行われたものだったのだ。

レコ―ディングも快調で、パークスが就任した1975年から1984年までの9年間だけを例にとっても、英Decca、英RCA、英Chandosの各レーベルから計20タイトル(選手権のライヴ盤やアメリカから録音依頼された2枚のプライベート盤を除く)のLPアルバムがリリース。ライセンス関係のあったRVCや日本コロムビアから一部が日本プレスとしてリリースされたこともあった。

この内、とくに1977年リリースの「British Music for Brass Band」(英RCA – Red Seal、RL 25078)と1982年リリースの「Blitz」(英Chandos、BBRD 1014)は、ブラスバンド史に残るアルバムとして高く評されている。

▲LP – British Music for Brass Band (英RCA Red Seal、RL 25078)

後者は、日本でも「ブリッツ – ロンドン大空襲」(日本コロムビア(Chandos)、OB-7388-CD)として、音質が格段にいいという触れ込みの超重量盤でリリースされ、オーディオ・マニアにも大いに注目された。このアルバムで、デリック・ブルジョワ(Derek Bourgeois)の衝撃作『ブリッツ(Blitz)』に出会い、“これはいったい何なんだ!?”と狂喜乱舞したファンも多かったように思う。イギリスでは後にCD化(英Chandos、CHAN 8370)されたが、筆者は、オリジナルの英盤LPから受けたぶん殴られたような圧倒的な衝撃感が忘れられない。

▲LP – Blitz (英Chandos、BBRD 1014)

ブラック・ダイク・ミルズ・バンドが初来日した1984年。それは、それまでのクラシック音楽の尺度では測ることのできない“ブラスバンド・オリジナル”がつぎつぎと産ぶ声を上げ始めた、そんなタイミングの年でもあった。

例をあげると、フィリップ・スパークの「ドラゴンの年」が初演されたのも、ブラック・ダイク・ミルズ日本滞在中のこと。その日(6/2)、筆者は、尼崎のアルカイックホールで彼らの演奏を堪能していた!

舞台上では、ブラック・ダイク・バンドの現音楽監督、首席指揮者であるニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs)をして、“ブラスバンド界のゴッド・ファーザーだった”と言わしめたピーター・パークスが、髪の毛の乱れなどものともせず、燃え上がるようなタクトを振り、プリンシパル・コルネットの席にはフィリップ・マッキャン(Philip McCann)、アシスタント・プリンシパル・コルネットにはデヴィッド・キング(David King)、ソプラノ・コルネットにはケヴィン・クロックフォード(Kevin Crockford)、フリューゲルホーンにはデヴィッド・ポグスン(David Pogson)、テナーホーンにはサンディー・スミス(Sandy Smith)、バリトンにはピーター・クリスチャン(Peter Christian)、ユーフォニアムにはジョン・クラフ(John Clough)、トロンボーンにはジョン・メインズ(John Maines)という、今日でもリスペクトされる名手たちがいた。

▲上3枚はいずれも「バンドピープル」1984年8月号より

来日した彼らは、大方の予想を大きく裏切り、各地で熱烈な歓迎を受けた。また、東京・五反田の簡易保険ホール(ゆうぽうと)におけるライヴは、NHKがテレビ収録し、1時間番組にまとめられて、7月7日(日)、午後2時40分から総合テレビでステレオ放送された。番組名は「輝くブラスアンサンブル」。いろいろな柵(しがらみ)があるのか、番組名に“ブラスバンド”を使うことができなかったところが、いかにもNHKらしい。

この番組のラストあたりで、実際にナマを聴いた人々がコンサート直後の率直な感想を口々に語るシーンがあった。

『参りましたねー。ヤラレター!! 全然違う、響きが……。』

『なんか安心するというか、聴いてて……。』

『なにしろ、ちょっと人間離れした演奏でした。もう、ちょっと日本じゃ考えられないような…。あんなに吹ける人があれだけ揃っているって、見たことないです。』

『やっぱり、音楽を楽しんでいるという感じがイイナーと思いました。』

(以上、NHKテレビ番組より)

月刊「バンドピープル」からも、編集長の冨田尚義さんとカメラマンの関戸基敬さんの2人が会場で徹底取材。演奏に感動しただけでなく、1984年8月号に来日メンバー全員の名前とセクション・フォトが残された。今からみると、それらは歴史の貴重な証人だ。

“来日記念盤”は、キングからリリースされた。

「新世界交響曲 全英チャンピオン/ブラック・ダイク・ミルズ・バンド」(キング(London)、K25C-336)というアルバム(LP)がそれだ。

原盤は、1975年に全英選手権優勝を飾った記念盤的アルバム(英Decca、SB 324 / リリース:1976)で、ジャケットには、選手権の会場であるロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの外で優勝カップを手にした指揮者2人を取り巻くメンバーが歓喜するモノクロ写真が使われていた。指揮者は、パークスと当時レジデント・コンダクターだったロイ・ニューサム(Roy Newsome)の2人。セッション盤だが、ライブ感溢れるいいアルバムだ。

▲LP – Sounds of Brass Series / Black Dyke Mills Band (英Decca、SB 324

当然、筆者は原盤を持っていたが、来日を記憶にとどめるため、公演に先行して発売された日本盤を買いに走り、いきつけのレコード店で現物を手にした。しかし、つぎの瞬間、信じがたいショックと激しい羞恥心に襲われた!

ジャケット裏の解説面の写真が、このアルバムの録音セッション当時のものから、レジデント・コンダクターがトレヴァー・ウォームズリー(Trevor Walmsley)に代わっていた1982年撮影のものになっていたが、それはまだいい。

信じられなかったのは、ジャケットに印刷された指揮者パークスのファミリーネームのスペル“Parkes”から“e”の一文字がスルリと抜け落ち、“Parks”になっていたことだ。

みるみる怪訝な顔になっていく筆者に、顔なじみの店員が心配そうに声をかける。

『いや、あなたのせいではありません。』と言って勘定を済ませ、持ち帰ってさらによく見ると、ジャケット裏もレーベル面もすべて“Parks”と印刷されていた。これは単純なチェック・ミスで済まされるような誤植ではない。指揮者名をすべて間違えるなんて!!

“一体、なんてことをしでかしてくれたんだ!”

とても残念な気持ちになった筆者は、これから来日する彼らに気持ち良く演奏して欲しいとの願いから、すぐ東京のブージー・アンド・ホークスに電話を入れた。

『今度の来日記念盤だけは、指揮者のパークスに見せない方がいい。』と。

▲LP – 新世界交響曲 全英チャンピオン / ブラック・ダイク・ミルズ・バンド」(キング(London)、K25C-336)