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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話

▲大栗 裕 生誕100年記念特別演奏会」チラシ

▲楽譜 – 吹奏楽のための神話(音楽之友社)

▲「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」プログラム

▲同、演奏曲目

2018年(平成30年)は、関西を中心に作曲活動を行い、幅広いジャンルに作品を遺した大栗 裕(1918~1982)生誕100年のアニヴァーサリー・イヤーだ!!

歌劇、マンドリン、吹奏楽など、多彩なコンサートが各地で企画されたが、その中でも、12月6日(木)、兵庫県尼崎市のあましんアルカイックホールで開催された「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ創立95周年 大栗 裕 生誕100年記念特別演奏会」は、記念年のフィナーレを飾るにふさわしい特別な演奏会となった。

作曲者とゆかりが深く、ライブラリーに数多くの大栗作品を所蔵する“シオン”だけに、選曲については、企画段階から、“ああでもない”“こうでもない“と、さまざまなアイデアが飛び出し議論百出の状況となったが、最終的に、プログラムは以下のようにまとめられた。

・吹奏楽のための小狂詩曲(1966)

・仮面幻想(1981)

・吹奏楽のための神話 ~ 天の岩屋戸の物語による(1973)

・アイヌ民話による吹奏楽と語り手・ソプラノのための音楽物語
「ピカタカムイとオキクルミ」(1976)

・吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」(1974)

この楽団が、繰り返し演奏してきたレパートリーばかりだが、これらが“自前”の楽譜だけで、すぐに演奏できることひとつを取り上げても、“シオン”と大栗作品がいかに特別な関係にあるかが容易に想像できる。

また、この内、“神話”と“大阪俗謡”の2曲は、21世紀に楽団の民営化が実施される以前、楽団名が“大阪市音楽団(市音)”だった時代の委嘱作だ!

“市音”から“シオン”へと引き継がれたこの2作は、吹奏楽ファンの人気が、特に高い。

当夜は、演奏者の急な体調不良から、プログラムを一部変更するハプニングもあったが、プログラムそれ自体は、多くのファンを納得させるものだった。

アンコールには、『吹奏楽のためのバーレスク』(1976)が取り上げられた。

作曲者と“シオン”の関係は、筆者を含め、さまざまな音楽解説で、「ゆかりの深い」、あるいは「関係が深い」などと説明されることが多い。

しかし、実のところ、両者の結びつきがどのようにして始まったかについては、あまり語られてこなかった。

実は、作曲者と“シオン”の関係は、第二次大戦前の1931年(昭和6年)に始まっている。

この年、“天商(てんしょう)”という愛称で大阪市民に親しまれた旧制の大阪市立天王寺商業学校に入学した大栗少年は、入学早々、大阪初のスクール・バンドとして前年に創部されたばかりの同校音楽部(天商バンド)の部員となった。

同校は、その後の学制改革により、大阪市立天王寺商業高等学校と改称され、近年の統合で2014年に閉校となった。しかし、この音楽部からは、大栗さんだけでなく、森 正さん(NHK交響楽団常任指揮者)、田村 宏さん(NHK交響楽団ホルン奏者)、宮本淳一郎さん(大阪フィルハーモニー交響楽団クラリネット奏者)、小梶善一さん(大阪市音楽団クラリネット奏者)、的場由季さん(大阪市音楽団ユーフォニアム奏者)、荒木好二さん(大阪市音楽団オーボエ奏者)、泉 庄右衛門さん(指揮者)ら、多くのプロフェッショナルが輩出され、一部で“天王寺音楽学校”とまで呼ばれるほど、大阪では存在感があった。

また、“何周年”という記念イベントには、指揮者の朝比奈 隆さん(第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲、参照)が欠かさず祝辞を寄せており、そのことからも、同校が外部からどのように見られていたかがとてもよくわかるだろう。

話を元に戻そう。

大栗さんが入学した当時の音楽部顧問は、高丘黒光さんだった。

この頃、音楽部員たちは、高丘さんの方針で、放課後、“市音”(当時の楽団名は“大阪市音楽隊”)の事務所と練習場がある天王寺音楽堂まで楽器を抱えて運び、音楽堂の舞台や楽屋、あるいは客席の木陰で市音奏者たちの指導を受けていた。

大栗さんは、後に「大阪音楽界の思い出」(大阪音楽大学、1975年)という書物に、この頃のことを回想して“個人的な、あまりにも個人的な”という一文を寄せている。

それによると、この時代の市音の奏者たちに無報酬で中学生のレッスンをしてもらうかわりに顧問の高丘さんが持ちかけた交換条件は、ドイツ語とフランス語を奏者たちに教授するというものだったらしい。

“隊員にとっては随分御迷惑であったと思う”(原文ママ)とは、大栗さんの偽らざる感想だが、その“甲斐”もあって、音楽部の実力は、スクールバンドとしては、やはり他を抜きんでる存在になっていたようだ。放送出演の他、レコード会社の依頼録音まで行っている。

大栗さんのホルンの師は、富岡 進さん。合奏指導は、市音初代指揮者の林 亘さんから受けた。また、年齢も近く、戦後、市音団長となる辻井市太郎さんとも知己を得ている。

1980年に編纂された「天商音楽部・楽窓会 創立50周年記念誌」には、いつの頃の撮影か不明だが、天王寺音楽堂の市音練習場で合奏する“天商バンド”の写真が掲載されている。

大栗少年にとって、コルネットの渡辺一夫さん、クラリネットの勝部藤五郎さんらの清澄な音が響く当時の市音の演奏は“我々には天上の音楽にも等しかった”という。

そして、寄稿は、こう続く。

『このような吹奏楽教育を受けてきたことが、現在の私の基盤になっているのだろう。音楽と言う芸術がもつ大衆性の一面を尊重しなければならないという確信をもつようになったのは、この若い日々の私の音楽に対する接触がそうさせたのだと思っている。だから、大阪市音楽隊への感謝はかってつきることがなかったし、将来もそうである。』(原文ママ。「大阪音楽界の思い出」(大阪音楽大学、1975年)から引用)

1973年の『吹奏楽のための神話 ~ 天の岩屋戸の物語による』と1974年の『吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」』の2曲の委嘱作は、こうして出来上がった。

この内、手書きスコアに「大阪市音楽団創立50周年を記念して」との献辞がある“神話”の初演に際し、作曲者は以下のような一文を寄せている。

『“吹奏楽のための民話”及び“寓話”といった作品はすでにある。ひょっとしたら“神話”もすでにあるかもしれないが、構想はすでに10年近く前からあたためていたものである。

天の岩屋戸(あまのいわやど)にアマテラスが身をかくしたため世界は暗闇となる。ハ百万(やおよろず)の神が天安河原(あまのやすかわ)に集り、オモイカネの発案で常世の長鳴鳥(とこよのながなきどり)を大きく鳴かせ、アメノウズメが裸で踊り出す。その踊るさまに神々はどっとばかりはやしたて、果てはその狂態に爆笑の渦が巻きおこる。不審に思ったアマテラスが岩屋戸の隙間から覗き見するのを待ちかねたタジカラオがアマテラスの手を引いてつれだす。そして世界はふたたびもとの光明をとりもどすという話である。音楽はこの話をかなり即物的に表現するが如何なものであろうか。私は小学生のころ、教科書にのっていたこのお話の絵を今でも生々しく思い出すことができる。そして、この音楽はそのイメージを瞼に浮かべつつ書き上げたものである。』(原文ママ。カッコ内は筆者による)

このくだりは、この作品の楽曲解説には必ずといっていいほど登場する。その後、1989年に音楽之友社が版権を得て、1990年に出版された楽譜の解説文にも引用された。

ただ、永野慶作さんの指揮でこの作品が初演された1973年(昭和48年)9月26日(水)の「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」(大阪市中央体育館)のプログラムに掲載された原文には、この後にもう少しつづきがあった。

『市音楽団と私の関係は深い。私に音楽の手ほどきを与えてくれたのは名隊長、林 亘先生であり、更に先輩として尊敬してやまない前団長、辻井市太郎先生であり、現演奏係長の永野慶作氏も、吹奏楽の指導者としてばかりでなく、人間的にも豊かなものを常に示しておられ私の信頼し得る友人の一人である。中学生のころ、天王寺音楽堂の客席の木影で、隊員から指導をうけた日も、暑い日盛りの午後で、蝉がやかましく鳴いていたのを思い出す。こうしてわれわれがお世話になった方達の多くは、既に幽冥境を異にしている。思い出とともに諸先輩方の冥福をもあわせて祈りたいというのが私の感懐である。したがってこの音楽は、現在の市音楽団のみならず、諸先生、諸先輩にも心から捧げるものである。』(原文ママ)

コンサート終演後の祝宴では、偶然、朝比奈、大栗の両氏が愉しそうに語らっている席に近い場所があてがわれた。

そのとき、朝比奈さんは、この新作がたいへん気に入られた様子で、『つぎは、ホールでやらないとな。』と言われているのがハッキリ聞こえた。

結果、朝比奈さんは、この翌年の1974年11月1日(金)、フェスティバルホールで開催された「第29回大阪市音楽団定期演奏会」でこの曲を客演指揮。さらに、1975年2月27日(木)、箕面市民会館(大阪府)で行われた東芝EMIのLPアルバム「吹奏楽オリジナル名曲集Vol.3」(東芝EMI、TA-60013)の収録でセッション・レコーディングを行なった。

大栗作品とシオンの関係、それは、やはり“特別”なものだった!!

▲“神話”初演中の市音(1973年9月26日、大阪市中央体育館)

▲初演後、花束を受け取る作曲者(同)

▲LP – 吹奏楽オリジナル名曲集Vol.3(東芝EMI、TA-60013、リリース:1975年9月5日)

▲同、A面レーベル(テスト盤)

▲同、B面レーベル(テスト盤)

▲同、A面レーベル(市販盤)

▲同、B面レーベル(市販盤)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲

 ▲LP – 吹奏楽のための交響曲(日本ワールド、WL-8319)(リリース:1983年11月)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

▲第25回大阪市音楽団定期演奏会チラシ

▲第25回大阪市音楽団定期演奏会プログラム

『樋口くん、まだ正式発表前やけど、こんどのフェスの定期、朝比奈さんに振ってもらうことにほぼ決まったよ。』

大阪市音楽団(市音)のトランペット奏者、そして解説者だった奥村 望さんから、そう伺ったのは、1972年(昭和47年)春のことだった。

“フェス”とは、大阪・北区中之島のクラシックの殿堂フェスティバルホールのことだ。

当時、市音は、春は毎日ホールを、秋はフェスティバルホールを会場に定期演奏会を行なっており、“フェスの定期”と言えば、秋の定期を意味した。

話の核心は、大阪フィルハーモニー交響楽団常任指揮者(後の音楽総監督)の朝比奈 隆さん(1908~2001)を秋の定期の客演指揮者に招くことになったということだった。

第35話:保科洋「パストラーレ(牧歌)」の事件簿、でお話ししたとおり、奥村さんは、恩師の一人だ。後年、関西フィルに移られた後も、筆者の書いた音楽解説を読んでは、適確なアドバイスをいただいた。

市音の団長(兼指揮者)が辻井市太郎さん(1910~1986)だった頃は、音楽ホールにおける日本初の吹奏楽コンサートとして始められた“定期演奏会”(当初は“特別演奏会”と呼ばれた)を含む市音全体のプログラミングを担う中心的人物だった。

パウル・ヒンデミットの『吹奏楽のための交響曲 変ロ調』やポール・フォーシェの『吹奏楽のための交響曲 変ロ調』、エクトール・ベルリオーズの『葬送と勝利の交響曲』、ヴィットリオ・ジャンニーニの『交響曲第3番』、モートン・グールドの『ジェリコ』、パーシー・グレインジャーの『リンカーンシャーの花束』など、多くのオリジナル作品の日本初演を市音が手がけたのも、辻井-奥村コンビの入念なリサーチとプランニングの成果だった。

個人的には、マーチ以外のイーストマン・ウィンド・アンサンブルの輸入盤のレコードをはじめて聴かせていただいたのも、実は、京橋にあった奥村さんのご自宅でだった。

1972年といえば、長年、市音の指揮をつとめられた辻井さんが4月に定年を迎え、楽団内部の体制がガラリと変わった年だ。

その後、正式に秋の定期の客演指揮者に朝比奈さんを迎えることが発表されると、それは衝撃波となって関西の楽界に広がっていった。

そして、プログラムも以下のように発表された。

■第25回大阪市音楽団定期演奏会
(1972年11月29日、フェスティバルホール)

・吹奏楽のための序曲「飛鳥」
(櫛田てつ之扶)

・序曲「リシルド」
(ガブリエル・パレス)

・二つの交響的断章
(ヴァーツラフ・ネリベル)

・ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲
(ルドルフ・シュミット)

・歌劇「ローエングリン」から“エルザの大聖堂への行列”
(リヒャルト・ワーグナー / ルシアン・カイリエ編)

・交響詩「ローマの松」
(オットリーノ・レスピーギ / 木村吉宏編)

オーケストラの大指揮者がはじめて“吹奏楽の定期演奏会”の指揮をするにふさわしい重量感のあるプログラムだった。

少し話がそれるが、この内、「ローマの松」は、当初、阪口 新の編曲と発表されていた。その後、コンサートマスターの木村吉宏さんが新たにトランスクライブをすることになり、この演奏会ではそちらが使われた。

後年、『“これはなかなかいい”と、このときの編曲を先生から褒められてな。ちょっと驚かれたみたいやった。』と、木村さんから何度も聞かされたことがある。その後、オランダのデハスケから出版されたこのトランスクリプションの妙を、朝比奈さんが認めた瞬間だった。

この演奏会を会場でナマで聴いた筆者も、もちろん大興奮!!

好評を得て、その後、市音定期には、森 正、石丸 寛、福田一雄、山田一雄、山本直純、フレデリック・フェネルなど、錚々たる顔ぶれが客演指揮者として登場するようになった。

『中には“予算を掛け過ぎや”というヤツもいるけど、プロは魅力的なコンサートを提供しないとな。』と、奥村さんの意志は、まったくブレなかった。

その後、朝比奈=市音の顔合わせの定期は、以下のように都合3度行われた。

■第29回大阪市音楽団定期演奏会
(1974年11月1日、フェスティバルホール)

ロシアの領主たちの行列
(ヨハン・ハルヴォルセン / クリフォード・バーネス編)

アポロ行進曲
(アントン・ブルックナー)

交響曲第19番 変ホ長調 作品46
(ニコライ・ミャスコフスキー)

吹奏楽のための神話 ─天の岩屋戸の物語による─
(大栗 裕)

歌劇「ローエングリン」から“第三幕への序奏と婚礼の合唱”
(リヒャルト・ワーグナー / フランク・ウィンターボトム編)

歌劇「ラインの黄金」から“ワルハラ城への神々の入場”
(リヒャルト・ワーグナー / チャス・オニール編)

歌劇「タンホイザ―」序曲
(リヒャルト・ワーグナー / ヴィンセント・サフラネク編)

■第33回大阪市音楽団定期演奏会
(1976年10月26日、フェスティバルホール)

吹奏楽のための組曲第一番
(グスターヴ・ホルスト)

吹奏楽のための交響曲
(ロバート・E・ジェイガー)

歌劇「運命の力」序曲
(ジュゼッペ・ヴェルディ / 木村吉宏編)

交響詩「レ・プレリュード」
(フランツ・リスト / コンウェイ・ブラウン編)

交響吹奏楽のための頌歌と祝典行進曲
(菅原明朗)

■創立60周年記念 第47回大阪市音楽団定期演奏会
(1983年11月15日、フェスティバルホール)

吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」
(大栗 裕)

幻想序曲「ロメオとジュリエット」
(チャイコフスキー / 木村吉宏編)

葬送と勝利の交響曲 作品15
(エクトール・ベルリオーズ)

朝比奈さんが市音定期を指揮したのは、以上の4回だけだった。

だが、驚くべきことに、両者の結びつきは昭和のはじめに始まっている。

朝比奈さんがリストの交響詩「レ・プレリュード」を客演指揮した「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」(1973年9月26日、大阪市中央体育館)のプログラムに寄せた祝辞では、氏はこう述べている、

『それは驚くべき年月であり、偉大な足跡である。まだ学生であった私がよく天王寺音楽堂に林亘隊長(はやし わたる。市音初代指揮者)をお訪ねした昭和の初め、…(中略)… 市音楽団(当時の正式名は“大阪市音楽隊”)は既に多くの新人団員を加えて充実発展の途上にあり林隊長を中心にそうそうたる陣容を示していた。吹奏楽だけでなくその頃メッテル先生が指揮をとる大阪や京都の交響楽運動も市音楽団員の参加、協力なしでは考えられなかった。』(原文ママ。カッコ内注釈は、筆者)

ここには、氏の師である亡命ウクライナ人指揮者、エマヌエル・メッテルが推進した交響楽運動に市音の存在が欠かせなかったこと。さらに、京都からメッテルのメッセージを携えて、よく市音を訪れ、吹奏楽だけでなく管弦楽もやった林 亘さんの返答を携えて京都まで戻ったことが書かれているのだ。

年齢が近く、戦後、市音団長となる辻井市太郎さんとも知己を得ていた。

明治生まれの朝比奈さんは義を重んじた。きっと、市音定期への客演には、恩義を返す意味合いも込められていたのだと思う。

また、関西交響楽協会が主催した「朝比奈 隆 音楽生活40周年記念演奏会」(1973年5月25日、フェスティバルホール)のような記念イベントにも、しばしば大阪市音楽団と大阪府音楽団が顔を揃えて出演し、ときには、大フィル + 市音 + 府音の合同演奏も行なわれた。

まさしく、関西の楽界のそろい踏みだ!

これも、その中心に朝比奈さんがいたからこそ、可能になった成果だと言えた。

その他、阪急百貨店吹奏楽団や西宮市立今津中学校吹奏楽部などの練習にも、しばしば顔を出されるなど、関西の吹奏楽界が受けた恩恵は計り知れない。

さらに言うなら、1965年(昭和40年)から1969年(昭和44年)の間、朝比奈さんは、全日本吹奏楽連盟理事長でもあった。

これほど深く吹奏楽と向き合ったオーケストラ指揮者はいない。

筆者の手許には、1983年の市音60周年を祝う意味で限定制作した1枚のレコードが残っている。

当時の市音団長、永野慶作さんと日本ワールド・レコード社の社長、靱 博正さんの2人を口説き落として、朝比奈さんが客演指揮をした第25回、第29回、第33回の市音定期のライヴ・テープから作っていただいたLPレコードだ。選曲は、なんと筆者に一任された!

2018年(平成30年)は、朝比奈生誕110周年のアニヴァーサリー・イヤー!

そして今、このLPレコードを取り出すたび、当時フェスで聴いたライヴが脳裏に鮮やかに甦ってくる!

朝比奈=市音。正しくそれは、わが青春の一頁だった!!

▲「朝比奈 隆 音楽生活40周年記念演奏会」プログラム

▲同、演奏曲目

▲「第29回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲「第33回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲「創立60周年記念 第47回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話

▲CD – 大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、リリース:1994)

▲同、ブックレット裏

▲作曲者デメイから郵送されてきたCDブックレットへのメッセージ(原本)

▲NHKに提出した第三者の権利許諾確認書の写し

1992年8月16日(日)午後3時からオンエアされたNHK-FM特別番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」(3時間半ナマ放送)は、とんでもないオバケ番組となった!

秋山紀夫さんが名調子で語りかける人気番組「ブラスのひびき」終了後、NHKが送りだす久々の吹奏楽番組だったという理由だけではない。

すべてがリクエストで構成され、何が放送されるのかその時までわからないという番組の臨場感も手伝って、吹奏楽ファンのハートに火をつけたのだろう。

番組終了後、局内は、それはそれは、たいへんな騒ぎとなった。

NHK各放送局や各地のNHKサービスセンターが、リスナーから放送曲目や演奏、楽譜に関してじゃんじゃん掛かってくる電話、FAXによる“問い合わせ”への対応に追われることになったからだ。

ここまでNHKは、しばらく“吹奏楽”の番組をさぼっていたのだから、それも、まあ、仕方ないだろう。

また、NHK初放送となった曲や作曲者も多く、普段“日本の音楽分野を牽引しているんだ”という無駄な自負を背負いながら日々番組を送り出している“エライ人”たちの鼻をへし折るのに充分なインパクトがあった。

曲名も、作曲者名も、演奏者名も、NHKにはまるで“蓄積”がなかった。

そんな曲(第58話:NHK – 生放送!ブラスFMオール・リクエスト、参照)がバンバンかかったのだ。

気の毒だったのは、番組ディレクターの梶吉洋一郎さんで、音楽番組部内では、“梶吉の吹奏楽には、気をつけろ”という言葉がまるでスローガンのように囁かれ出した。

問い合わせは、放送曲のほぼすべてに及んだ。しかし、番組のほぼ中間部でノーカットで放送したヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』(指揮:木村吉宏、演奏:大阪市音楽団)の日本初演ライヴと、リクエスト数のトータルでトップに輝き、番組のラストで放送したフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』(指揮:ヘルト・バイテンハイス、演奏:オランダ王国海軍バンド)への問い合わせは圧倒的で、他を大きく引き離していた。

リスナーが興奮しているのだ!!

もちろん、ディレクターの梶吉さんには、NHKがライヴ収録した『指輪物語』以外、筆者が持ち込んだすべての音素材の詳細データは渡してあった。

普通は、それだけで十分対応できたはずだった。しかし、氏からかかってきた電話を聞くかぎり、どうやらそういうことではなさそうだった。

『すごい反響だよ。“指輪”はウチが録った音なんで応対できているんだが、最後にかかった“ドラゴンの年”にブッとんだ人が多かったみたいで、とにかく、“ドラゴン”、“ドラゴン”って言って、どこへ行ったら買えるんだ、店の名前を教えろという類いの電話が多いんだよ。全国のセンターがパニくっててさぁ。ウチの連中が知るはずないし、どう答えたらいい?』

普通のクラシック番組では、こんなことはゼッタイに起こらないとも言う。

ちょっと返答に詰まった。番組で使用した『ドラゴンの年』が収録されているCDが、オランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)が自主制作したインディーズだったからだ。

CDは、リリース当時、“海軍バンド”のショップやコンサートで誰でも買えた。筆者もバンドに直接送金して購入した。そして、インディーズとは言え、中身はオランダ・フィリップスのスタッフが録音、制作したもので、商業CDの中に並べても世界最高峰のクオリティをもっていた。

ただ、我々の放送時点では、残念ながら、すでに完売となっていた。

商業用ではないから、再プレスなどしない。

梶吉さんに、まず、そう伝えると、『もう買えないということ?』と少し気落ちした声が返ってきた。しかし、事実は事実なので。『そうだ。』と答えるしかなかった。

我々はビジネスのために放送をやっている訳ではないし…。

そこで、まず、『一般的な回答として、レーベルやレコード番号、CD番号をそのまま伝えること。海外盤や自主制作盤は、日本では入手がほとんど不可能なので、何らかの方法でバンドに直接コンタクトをするか、海外の趣味性の高いショップにコンタクトをするしかないと薦めて欲しいんだ。』と話す。

当時、クラシックやポップスと違い、海外の吹奏楽LPやCD、カセットは、ほとんど日本に輸入されていなかった。銀行で作ってもらった“送金小切手”を送るか、郵便局で“国際送金為替”を組んでもらって海外に直接注文するのが“原則”だった。

しかし、“オランダ海軍”のCDの入手が難しそうだと分かったためか、その後、第41話:「フランス組曲」と「ドラゴンの年」、でお話ししたエリック・バンクス指揮、東京佼成ウインドオーケストラ演奏のCD「ドラゴンの年」(佼成出版社、KOCD-3102)のセールスに再び火がつくという、思わぬ余波もあった。

“こんなこともあるのか”と感じた覚えがある。

しかし、『ドラゴンの年』は、これで完全に認知された、とも思った。

一方、デメイの『指輪物語』を演奏した市音もパニくっていた。

番組を終えて帰阪した後、事務所に挨拶に行くと、

『おお、ええ時に帰ってきよった(いい時に帰ってきた)。あちこち(いろいろなところ)から電話が掛かってきて、放送された“指輪”のCDはどうやったら買えるんや(買えるのか)とか、テープを聴かせろって、うるさいんや(やかましいんだ)。あれは、NHKが録ったもんやから(ものだから)、あかん(ダメだ)って、言うてんのやけど(話しているんだけど)…。どうしたらええ(いい)?』

とは、筆者の顔を見た団長兼常任指揮者の木村吉宏さんの第一声!

ここでも騒ぎが起こっていた!

『それでしたら、NHKからテープを借りてCDにされたら?』

思わず口をついてしまった。

何か閃いたのか、木村さんは、ニヤリと笑う。

“しまった、ハメられたか”と思ってもアトの祭り!

当時の市音は、大阪市という行政組織の一部。外部からの依頼録音は仕事としてOKだが、いろいろな制約から、自主事業としてのレコードやCDは作れなかった。ノウハウがないというだけではなく、自ら作った製品が何らかの“利益”を生み出してもいけなかった。

かねてより、なんとか自前のCDを作りたいと考えていた木村さんには、外部の人間に動いてもらうと、ひょっとして、将来の自主CD制作への道が開くかも知れないというもくろみがあったようだった。

結局、不用意なひと言から、“大阪市音楽団初の自主制作CD”のプロデューサーとして活動することとなってしまった。

しかし、話を聞けば聞くほど乗り越えないといけないハードル(行政の壁)のあまりの高さに、目がくらむ!!

そして、ここから約1年間の悪戦苦闘が始まった!

実際には、市音のマネージメント・セクションを拡充させるための外部組織として作られた“大阪市教育振興公社”の小梶善一さん(元市音クラリネット奏者)と、ああでもない、こうでもないと言いながら、1つずつ壁を乗り越えていった。

途中から、これに、大阪市音楽団友の会事務局長の藤川昌三さんが加わった。話を伺うと、友の会20周年を記念して、1994年2月27日(日)、大阪・森の宮ピロティホールで「ゆかいなウィンドコンサート」と題した市音のコンサートをやるんだそうだ。

それなら、ということで、発売目標をその日に定め、友の会には、販売の実務を担っていただくことになった。(市職員の市音メンバーは、販売にはタッチできないので)

よーし、だんだん形になってきたゾ。

しかし、市音サイドにCD制作のノウハウは皆無だ。途中から、小梶さんには、行政との関わり合いと公社内のコンセンサスを得ることに専念していただき、こちらは、CD作りに邁進するという役割分担制を敷いた。

NHKとの録音使用料の折衝、放送に使用されたテープ(オープンリール方式のデジタル・テープ)の借り出し、東京CDセンター(渋谷)でUマチック・テープへのマスタリングなど、プロセスの管理だけでなく、ジャケット・デザイン、ブックレット編集、プログラム・ノート執筆まで、何から何まで筆者の役割となった。

東京のスタジオのセッティングには、ムジーク・ハーフェンの本間 篤さんにも、尽力をいただいた。

振り返ると、この日本初『指輪物語』のCD作りは、やることなすことすべてが面白く、ガムシャラに突っ走ることができたのも事実だ。

かくて、“大阪市音楽団創立70周年”と“大阪市音楽団友の会20周年”を記念する完全限定盤CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801)は、予定どおり、1994年2月27日に陽の目を見ることになった。

販売は、演奏会の直売を除けば、通販だけだったが、CDはアッと言う間に“予定数”をクリアし、見事“Sold Out”となった。

梶吉さんも、『俺が録った初CDが出来上がったよ!』と満面の笑み!

結果よければ、すべてよし!

しかし、自戒をこめ、ここで教訓を一席!

口は、禍いのもと!!

▲デザイン画 – ブックレット表1&表4

▲デザイン画 – オビ

▲デザイン画 – インレー

▲デザイン画 – CD盤面

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第63話 U.S.エア・フォースの再来日

▲ソノシート – 空飛ぶマーチ(朝日ソノラマ、E-41、ステレオ、リリース:1963)

 ▲同、A面

▲同、B面

▲「月刊 吹奏楽研究」1957年5月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)

▲「月刊 吹奏楽研究」1957年6月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)

1956年(昭和31年)4月、アメリカ合衆国ワシントンD.C.から初来日した“アメリカ空軍交響楽団(The United States Air Force Symphonic Band)”(公演名)(指揮:ジョージ・S・ハワード大佐)は、全国7都市での演奏会やNHKのテレビ、ラジオのナマ放送を通じて、日本の聴衆、そして吹奏楽界に大きな衝撃を与えた。

当時、全国で5万人以上の聴衆がナマで耳にしたという、その演奏に対する興奮ぶりは、新聞各紙の報道を見ても明らかだ。

前々話(第61話:U.S.エア・フォースの初来日)や前話(第62話:U.S.エア・フォースの残像)でお話ししたように、当時、唯一の吹奏楽専門誌だった「月刊 吹奏楽研究」(月刊 吹奏楽研究社)の誌面でもその初来日は大きく取り扱われ、バンドの離日後も、「再びアメリカ一流軍楽隊の招聘を望む」という記事を同誌1956年10月号(通巻35号)に書かれた音楽評論家の赤松文治さんらを中心に、再来日に向けてのキャンペーンが展開されている。

今、それを“キャンペーン”と呼ぶのは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したとは言え、当時、東京には、それまでの占領政策を遂行してきた“国連軍司令部”や“アメリカ極東軍司令部”がまだ置かれており、一方で、それらの撤収が間近にせまっていたという裏事情もあったからだ。

実は、1956年の突然の初来日も、アメリカ政府や司令部の意向で決定された。当然、再来日を実現させるためには、日本側からの更なる働き掛けや司令部の同意が必要だと考えられた。交渉の窓口が身近にある間に、という訳だ。

“AMERICA’S AMBASSADORS OF MUSIC(アメリカの音楽大使)”というニックネームをもつこのバンドの大きな活動目的に“国際親善”が挙げられる。

同じ敗戦国のドイツや日本で“アメリカ空軍バンド”が商業レコード各社のリクエストに応じてレコーディングを行なったという事実も、極めて例外的な扱いと言えた。アメリカにとって、戦争当事国のドイツや日本との関係改善は、当時もっとも重要な政治課題の1つだったからである。

そんな事情も知ってか知らずか、「月刊 吹奏楽研究」のこのバンドの再来日に関する報道は、かなり“前のめり”のものとなった。

消息筋から情報をキャッチした同誌は、まず、1957年2・3月合併号(通巻39号)で、「本年も来日決定 ワシントン空軍バンド」と速報を入れた。しかし、それが実は“フライングの誤報”だったとわかると、次号の4月号(通巻40号)で、「米空軍バンド 来日未決定 実現すれば六月か」と一旦修正。その後、来日がいよいよ確定すると、5月号(通巻41号)で、「ワシントン空軍交響吹奏楽団 本年も来日公演 各地スケジュール」と日程を発表、といった具合だった。

ツアーの詳細は、以下のようなものだった。

6/4(火) 府中飛行場到着

6/5(水)または、6/6(木) NHKホールで放送

6/7(金)~6/18(火) マニラ、香港、台湾、沖縄各地巡演

6/19(水) 東京へ再び到着

6/21(金) 名古屋公会堂(昼・夜2回公演)

6/23(日) 東京体育館(昼・夜)

6/25(火) 福岡スポーツセンター(昼・夜)

6/28(金) 広島公会堂(昼・夜)

6/29(土)- 6/30(日) 松山、高松の予定(詳細未決定)

7/1(月) 大阪産経ホール(夜)

7/2(火) 大阪体育館(昼・夜)

7/3(水) 京都アリーナ(昼・夜)

7/4(木) 神戸国際会館(夜)

7/5(金) 新潟高校講堂(夜)

7/6(土) 札幌野外競技場(昼)

7/7(日) 仙台公会堂(または、デジャーセンター)(夜)

7/9(火) 横浜フライヤージム(昼・夜)

7/10(水) 東京産経ホール(夜)

入場料は、すべて“無料”で、各地のNHKが主催。場合によっては、東京は追加公演もあるかも知れないと書かれていた。

演奏プログラムは、つづく1957年6月号(通巻41号)で、「ワシントン空軍交響吹奏楽団 予定曲目」として、以下のように紹介されている。(カナ使いは、ほぼ原文ママ)

■第一プログラム

フィンガルの洞くつ序曲(メンデルスゾーン)

ハワード大佐行進曲(ペキン)

神社の夜明け(渡邊浦人)

オアシス(ケプナー)

交響組曲(ウィリアムズ)

皇帝円舞曲(シュトラウス)

カリビア幻想曲(モリセイ)

星条旗よ永遠なれ(スーザ)

■第二プログラム

ファンファーレとアレグロ(ウィリアムズ)

アリオーゾ(バッハ)

アルザスの風景組曲(マスネ)

祝典(アンフォンテ)

交響曲二短調 第一楽章(フランク)

組曲仮面舞踏会 円舞曲(ハチャトリアン)

マラカイボ(モリセイ)

■第三プログラム

リエンチ序曲(ワグナー)

日本の若人の舞曲(陶野重雄)

英雄の生涯(シュトラウス)

シエヘラザードよりバグダットの祭り(リムスキー・コルサコフ)

ヴァルス・ブルーエッテ(ドリゴ)

サーカス(グリーンウッド)

■第四プログラム

凱旋行進曲(ローザ)

マサニエロ序曲(オーベル)

ロシアの水夫の踊り(グリエール)

子供のバレエ(ハーマン)

交響曲「フィスタ・メキシカーナ」(リード)

少女の踊り(リチャートソン)

バティック・ファンタジア(オクティアヴィノ)

各演奏会場で“どのプログラムが実際に演奏されたかは不明”という恨みは残るが、1957年の2回目の訪日時に用意されたレパートリーがどういうものだったかは、とてもよくわかる。

また、21世紀の現時点から振り返ると、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『ファンファーレとアレグロ(Fanfare and Allegro)』と『交響組曲(Symphonic Suites)』、H・オーウェン・リード(H. Owen Reed)の『メキシコの祭り(La Fiesta Mexicana)』などが、すでにこのツアーで演奏されていたということは、日本の吹奏楽演奏史上、たいへん重要な事実の再発見である。

前記スケジュールにあるNHKホールからの生中継は、1957年のこのツアーでも、6月6日(木)午後8時から、ラジオとテレビの同時中継、1時間の放送枠の番組として行われた。

図書館で繰っていたその日の新聞の番組欄に、“ファンファーレとアレグロ”という文字を見つけたとき、自分が知らない過去にタイムマシンに乗って舞い戻ったような“感動”を覚えたのも事実だ。

何しろ、1957年(昭和32年)の話だ!

周知のとおり、当時のこのバンドの標準編成には、サクソフォンは無かった。

それなら、これらのオリジナル曲をどのようにして演奏したのだろうか。

それに対するヒントは、1963年にリリースされたソノシート「空飛ぶマーチ」(朝日ソノラマ、E-41)に、赤松さんが書かれた「空飛ぶシンフォニー“アメリカ空軍軍楽隊”」のノートの中にある。

そこには、『とくにサクソフォンがソロ楽器として必要な場合のみ、クラリネット奏者がもちかえて使われている』と確かに書かれている。筆者がその現場を実際には見たわけではないが、コンサートではサクソフォンを使わないと決めた指揮者のハワードも、実際には、音楽家として臨機応変の対応をとっていたのである。

その後、ワシントンD.C.の“アメリカ空軍バンド”は、日米修好100周年を記念して1960年1月に3度目の来日を果たした。

NHKの生中継だけでなく、日本のレコード各社からのオファーにも気安く応じ、アメリカでは発売されていない曲目が入ったレコードやソノシートが、ビクターやコロムビア、クラウン、朝日ソノラマからリリースされた。それは、かなりの数になる。

しかし、それらについて、ここまでかなりのデータを蒐集、整理できたが、残念ながら、筆者も、そのすべてを自分の眼で確認できたわけではない。

そして、あらためて実感!

日本ほど、過去の記録を大切にしない国はない!

かくて“未知との遭遇”は、今もって続行中だ!

たいへんなテーマに足を踏み入れてしまった!!

▲朝日新聞、昭和32年6月6日、朝刊、12版6頁、東京版

▲EP – 世界マーチ集 アメリカ・マーチ(11)(日本コロムビア、ASS-10018、リリース:1964)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第62話 U.S.エア・フォースの残像

▲LP – The United States Air Force Band(独Telefunken、LT-6596、モノラル)

▲同、ジャケット裏

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

“AMERICA’S AMBASSADORS OF MUSIC(アメリカの音楽大使)”というニックネームをもち、年間4ヵ月は、飛行機で世界各国にツアーを行なっていたワシントンD.C.の“アメリカ空軍バンド”がはじめて日本にやってきたのは、1956年(昭和31年)4月のことだった。

日本での公演名は、“アメリカ空軍交響楽団(The U.S. Air Force Symphonic Band)”で、4月16日の来日から28日の離日まで、全国7都市で演奏し、コロムビアとビクターに2枚のレコードを残していった。

しかし、1956年といえば、「バンドジャーナル」誌(音楽之友社)が創刊される以前の話であり、情報源としては、1956年から1964年まで刊行された「月刊 吹奏楽研究」(月刊 吹奏楽研究社)が唯一頼れるソースだ。当時の日本の吹奏楽事情を知る上で、ひじょうに貴重なアーカイヴである。

前話(第61話:U.S.エア・フォースの初来日)でお話ししたように、同誌は、その初号(1956年5月号)が出る直前に初来日したこのバンドを徹底取材している。執筆陣の関心はたいへん高く、その後、1957年の2度目、1960年の3度目の来日の際も、紙数の多くを割いている。

しかし、雑誌刊行から間が無かったという事情もあったのだろうか。1956年初来日時の記事には、意外なことに、演奏レパートリーに関する記載がほとんどなかった。バンドの成り立ちや編成、楽器、メンバーなどについては詳細に書かれているだけに、ツアー事後の記事とはいえ、何か腑に落ちなかった。何万という聴衆が熱狂していただけに…。

何か理由があるに違いない!!

そこで、赤松文治さん(音楽評論家)の同誌記事「ハワード大佐との会見記」(1956年5月号、通巻31号)の中に、4月17日(火)午後2時から青山会館で“記者会見”があったことや、“東京の場合主催者NHK”いう記載があるのをヒントに、記者会見以降の新聞各紙を片っ端から調べることにした。

すると、やはり出てきた、出てきた!

毎日新聞は、4月18日(水)朝刊6頁の文化欄の「米空軍交響楽団が初の放送」という記事で、同夜放送予定のNHKのラジオ番組を曲名入りで紹介し、同日夕刊の2頁でも「圧倒的な迫力 米空軍交響楽団の初練習」という記事で記者会見後の練習の模様と公演日程を写真つきでリポート。その後、4月20日(金)夕刊5頁にも「スポーツ的な快感 迫力ある米空軍交響楽団の初演奏」という音楽評を写真つきで入れていた。

来日が4月16日、離日が同月28日であることをちゃんと押さえていたのは、毎日だけだった。

朝日新聞は、4月18日(水)朝刊5頁のラジオ・テレビの番組欄のコラム「聴きもの 見もの」に「米空軍交響楽団 特別演奏」という記事を入れ、4月20日(金)朝刊9頁にも、「響く音、くつろいだ演奏 アメリカ空軍バンド演奏会」という18日の演奏会の音楽評を写真入りで入れた。さらに4月21日(土)朝刊5頁の「聴きもの 見もの」にも「米空軍交響楽団 特別演奏」という記事を入れている。

朝日は、演奏会と放送番組を意識した紙面作りだった。

讀賣新聞は、4月19日(木)朝刊17頁の「百人編成で古典、ジャズ アメリカ空軍交響楽団初演奏」という記事で、18日の初のコンサートの模様を写真つきで報道した。

以上は、すべて東京版の記事である。

各紙の扱いはそれぞれ違うが、ここでまず気がつくのは、バンドの注目度の高さだ。

この内、讀賣は、記事の数こそ少ないが、4月18日の演奏会については、独壇場だった。

その場の情景が目に浮かぶような、記事冒頭部分を引用する。

『“翼の音楽使節”として訪日したアメリカ空軍交響楽団の第一回演奏は十八日夜八時から東京大手町の産経会館ホールで行われた。この夜、キューター極東空軍司令官主催の特別演奏会で、ジョージ・S・ハワード大佐以下の楽団員はもちろん、招待客も軍人は夜会用礼装、日本の各界名士もタキシードという日本ではではちょっとした見られないはなやかな光景のうちに開幕した。…..。』(讀賣新聞、1956年4月19日、朝刊、原文ママ)

4月18日の演奏会には、ドレス・コードがあったのだ。

そして、歌劇『運命の力』序曲(ヴェルディ)や歌劇『道化師』から(レオンカヴァッロ)、交響組曲『野人』(渡邊浦人)という演奏曲名の紹介があり、『野人』が、作曲者からハワード大佐に贈呈されたものだったことにも触れられている。

また、毎日と朝日の記事から、4月18日と21日の両日、NHKのテレビとラジオの放送があったことが明らかとなった。番組欄によると、それは、以下のようなものだ。

・4月18日:NHKラジオ第一放送(21:15~)
(30分枠番組)東京:産経会館ホール(大手町)から生中継
【曲目】歌劇「ローエングリン」第三幕への前奏曲、

・4月18日:NHKテレビ(20:00~)
(1時間枠番組)東京:産経会館ホール(大手町)から生中継
【曲目】歌劇「運命の力」序曲、歌劇「道化師」から、野人

・4月21日:NHKラジオ第二放送(20:20~)
(40分枠番組)東京:NHKホール(内幸町)から生中継
【曲目】行進曲サーカスの蜂、結婚の踊り、交響曲(チャイコフスキー)

・4月21日:NHKテレビ(20:00~)
(1時間枠番組)東京:NHKホール(内幸町)から生中継
【曲目】火花の円舞曲、交響曲第四番(チャイコフスキー)

1956年の放送は、コンサート会場からの生ライヴだった。曲は、実際には予告と違ったかも知れないが、音声や映像を会場から送り出す現場は、さぞかしスリリングだったろう。

余談ながら、NHKがテレビの本放送を開始したのは、このわずか3年前の1953年2月1日だった。ラジオよりテレビの番組時間枠が長かったことについても、NHKが“これからはテレビの時代だ”と強く意識していたことがよくわかる。

当時、テレビを一日でも早く普及させたかったNHKは、1953年に東京-名古屋-大阪を結ぶ中継回線を独自で開通させ、1954年3月1日から、NHK大阪<JOBK>とNHK名古屋<JOCK>でも本放送を開始。U.S.エア・フォース初来日直前の1956年3月には、仙台<JOHK>、広島<JOFK>、福岡<JOLK>のNHK各局でもテレビ放送を始めていた。(東京は、JOAK)

偶然だろうが、「月刊 吹奏楽研究」記載の公演地とNHKが新たにテレビ放送を開始した地域とがほぼ重なっている。とても興味深い。

また、「月刊 吹奏楽研究」の公演スケジュールでは、4月21日のNHKホールでのコンサートだけ記載がない。しかし、これは同誌のミスではない。新聞各紙でもまったく触れられていないからだ。記者発表どおりの記載としたのだろう。

これはNHKのテレビ戦略があったのかも知れないな!?!?

と思いながらも、念のために眺めていた讀賣新聞“大阪版”の4月26日(木)夕刊4頁に、東京版にはない「明るく楽しませる アメリカ空軍楽団の演奏会」という写真つきの音楽評が載っているのを見つけた。もう、ビックリ仰天だ!

よく見ると、それは、前日の4月25日に宝塚大劇場で行われた演奏会の記事だった。宝塚歌劇団でおなじみの宝塚大劇場の所在地は、兵庫県宝塚市。この日は、すべての媒体に載っていた大阪市内の公演ではなかったのだ。しかも、記事の中に、『この日、一部はテレビ中継が行われたが…』とあるではないか!!

同紙面には、残念ながらテレビ番組欄が無かったので、慌てて他紙を探すと、朝日新聞“大阪版”の4月25日(水)朝刊6頁のテレビ欄に、つぎの番組を発見した。

・4月25日:NHKテレビ(19:10~)
(1時間枠番組):宝塚大劇場(兵庫県宝塚市)から生中継
【曲目】ハドリー「ボヘミアにて」

番組欄に<BK>の文字があるので、NHK大阪が独自制作した番組であることがわかった。これは、東京版の各紙の番組欄には見当たらないので、近畿圏だけの放送だったと思われる。

以上のように、新聞各紙の探索は、筆者にとって、衝撃的発見の連続だった。

「月刊 吹奏楽研究」がわざわざ書かなくても、演奏曲は、新聞、テレビ、ラジオを通じて周知されていたのだ。

しかし、21世紀の現時点から振り返るとき、やはり書いておいて欲しかったな、とは思う。

少し話がそれるが、NHKやサントリーホールのチーフ・エンジニアだった石崎恒雄さんから、このあたりの時代の技術的な話をいろいろと伺ったことがある。

その記憶に従うと、1956年は、アメリカのアンペックスが世界初の商業ビデオ・レコーダーの開発に成功した年で、ビデオが日本に導入されるよりかなり前だった。そう、当時、日本にはビデオがなかったのだ。そんな時代に、コンサートの映像を残すにはどうするかというと、なんとテレビカメラから受信したブラウン管映像(もちろん白黒映像)を35ミリ・フィルムで撮影していたのだそうだ。映画のように!!

近年ごくたまに、この時代の演奏が放送されることがある。それらは、保管されていたフィルムが、経年変化に耐え、運よく再生できたものをデジタル化したものなのだそうだ。

2012年9月9日(日)のNHK Eテレの「らららクラシック これぞ吹奏楽!」(21:00~)で、ジョージ・S・ハワード指揮、アメリカ空軍バンドが演奏するスーザの『星条旗よ永遠なれ』の映像が流れたことがある。それは、1957年6月6日(木)、当時、内幸町にあったNHKホールにおけるライヴを生中継したときに撮られたものだった。

同番組は、その後、2013年3月10日(日)(21:00~)にも再放送された。

映像は、2度目の来日時のもの。

正に奇跡的!よく残っていたものだ!

▲朝日新聞 昭和31年4月18日 朝刊12版 5頁 東京版

▲毎日新聞 昭和31年4月18日 夕刊 2頁 東京版

▲毎日新聞 昭和31年4月20日 夕刊 5頁 東京版

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第61話 U.S.エア・フォースの初来日

▲「月刊 吹奏楽研究」1956年5月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)

▲同、目次ページ

▲「月刊 吹奏楽研究」1956年6・7月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)]

▲「月刊 吹奏楽研究」1956年9月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)

『この前、言うてはった(言われていた)“吹奏楽研究”、天理にありました。』

“吉報”が、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんから電話で飛び込んできたのは、2018年7月17日(火)のことだった。

“吹奏楽研究”とは、第39話「ギャルド:月刊吹奏楽研究が伝えるもの」でお話しした第二次大戦後に日本で初めて発行された吹奏楽雑誌「月刊 吹奏楽研究」(発行:月刊 吹奏楽研究社)のことだ。

今では、その存在自体、ほとんど忘れられているが、国立情報学研究所の書誌番号(NCID)があるれっきとした月刊誌で、1956年から1964年まで発行されていた。

ただ、日本一の蔵書数を誇る国立国会図書館にも1冊の所蔵もなく、筆者も、2018年5月7日、ユーフォ二アム奏者の三浦 徹さんのご自宅にあった1冊を偶然拝見して、現物をはじめて視認。その翌日の5月8日、東京文化会館音楽資料館に出向いて、所蔵されている25冊を直接チェックすることができただけだった。

しかし、実際に見たら、その面白さは、時間をワープする“タイムカプセル”級の生き証人だと思えたので、その後、知人、友人に“ウオンテッド(WANTED)”を連発!!

在京の旧友、山岸 誠さんを通じても、“吹奏楽研究”編集主幹の三戸友章さんと縁が深かった共同音楽出版社の社長、豊田治男さんに確認をお願いしてもらったりしたが、前記以外の“生息情報”は、まったく掴めなかった。

そんな中、『ひょっとしたら、天理にあるかも知れません。訊いてみましょうか?』と言って下さったのが、溝邊さんだった。

すぐにお願いすると、氏は、早速、奈良県田原本の“たわらもと吹奏楽団”の団長、藤本義則さん(近畿大出身)を通じて、天理大学の学務部長、佐々木孝幸さん(天理高出身)に照会。その結果、天理高校吹奏楽部に、2冊(64号、75号)をのぞいた大部分が所蔵されていることが判明し、溝邊さんが車を駆って天理まで行き、同部の吉田秀高さんから借用してきていただく段取りとなった。

筆者が、溝邊さんのご自宅で、55冊の「月刊 吹奏楽研究」と対面したのは、8月9日と14日の両日の午後だった。

まず手に取ったのが、初号の1956年5月号(通巻31号)。

通巻が“1号”でないのは、“吹奏楽研究”がそれ以前から、もっと簡素な同人紙のような体裁で発行されていた前史があるからだ。

しかし、この初号が実に面白かった。

表紙に“東京藝術大学吹奏楽研究部”、目次ページに4月に初来日したばかりの“アメリカ空軍バンド”のステージ写真があしらわれており、やる気満々!

記事ページは、有名な音楽評論家で、全日本吹奏楽連盟理事長でもあった堀内敬三さんの雑誌刊行への祝辞「吹奏楽研究誌の発展に寄す」、東京藝術大学吹奏楽研究部長の山本正人さんの「わが国最近の吹奏楽」、関東吹奏楽連盟常任理事の広岡淑生さんの「学校バンドに教えるもの」、著者不明(おそらくは三戸友章さん)の「くりひろげられた米国軍楽の精華 – ワシントン空軍音楽隊」という、いずれもモチベーションの高い4つの記事でスタート。

つづく2頁にも、音楽評論家、赤松文治さんが“アメリカ空軍バンド”の記者会見(1956年4月17日、午後2時、青山会館)と、その後のインタビューをまとめた「ハワード大佐との会見記」というひじょうに内容の濃い記事が掲載されていた。

“アメリカ空軍バンド”関連記事は、次号の1956年6・7月号(通巻32号)にも続き、指揮者ハワード大佐のほか、須磨洋朔(陸上自衛隊中央音楽隊隊長)、山本正人(東京藝術大学助教授)、ロバート・アレン(東京アメリカ文化会館館長)の各氏が出席した「ハワード大佐を囲んで – 有意義な座談会」という2頁記事が掲載され、はじめてやってきた“アメリカ空軍バンド”の実際のパフォーマンスが、当時どれほどのインパクトをもって迎え入れられたかが、とてもよくわかる構成となっていた。

以上の“アメリカ空軍バンド”の関連記事から、興味深い事項をピックアップしてみると….。

まず、来日したバンドは、ワシントンD.C.の“アメリカ空軍バンド”で、指揮者は、ジョージ・S・ハワード大佐(Colonel George S. Howard)だった。

そのシンフォニック・バンドとしての編成は、赤松さんの記事(通巻31号)によると、以下のようなものだった。

5 Piccolo & Flute
2 Oboe
1 English Horn
2 Bassoon
16 Bb Clarinet
1 Alto Clarinet
1 Bass Clarinet
0 Alto Saxophone
0 Tenor Saxophone
0 Baritone Saxophone
5 Cello
7 Trumpet & Cornet
7 Horn
5 Tenor & Bass Trombone
3 Euphonium
4 Bass
3 String Bass
1 Harp
1 Timpani
3 Percussion

[計:66名]

サクソフォンが全くなく、チェロを使う編成だった。また、ユーフォニアムは、フロントベル・タイプのもの、バスは、レコーディング・バスが使われていた。

「くりひろげられた米国軍楽の精華 – ワシントン空軍音楽隊」(通巻31号)によると、コンサートは、以下の各都市で行われた。

4月18日(水)、東京産経会館(招待者演奏会)
4月19日(木)、横浜市
4月20日(金)、東京都体育館
4月22日(日)、東京都体育館
4月23日(月)、名古屋市
4月24日(火)、京都市
4月25日(水)、大阪市
4月26日(木)、広島市
4月27日(金)、福岡市

また、東京で行なわれた4回の演奏会の合計で約3万人、その他の都市のコンサートでも約2万5千人の聴衆が押しかけたと記載にある。実際それがどれほどのものだったかについて、演奏側のハワード大佐も対談記事(通巻32号)の中でつぎのように述べている。

『どこでも皆同じように力強い熱意で聴いてくれた。京都では六千人の収容能力の会場へ一万五千人が詰めかけ、京都市長が開演十分前に来られたが、席がないのでステージに上がってもらった。そのうち混雑のため事故が起こりそうになったので、警官百名の来援を頼んで、やっと演奏ができるようになった。婦人や子供がおしつぶされそうになったので、市長はマイクでその人達をステージに上げて裏口から出てもらって家へ帰した。聴衆が非常に熱心で、どこでも午後六時半からの開演に早い人は一時頃から来て待っている。私たちは諸外国でも、いつも熱狂的な聴衆を相手にしていますが、とくに日本の聴衆は熱心であり程度も高いと思った。』(句読点以外、原文ママ)

ハワードは、編成上、サクソフォンを使わない理由について、赤松さんや須磨さんなどから、たびたび質問を受けている。これについては、赤松さんへのインタビュー(通巻31号)でこう答えている。

『できるだけオーケストラに近い表現が出来るようにしたいと思い、異種族のサクソフォンの音色が入る事は好ましくなくチェロを使っている事でもあるし、サクソフォンはほとんど使わないことにしている。またオーケストラ同様ホルンに重きを置いているので、サクソフォンを使用するとホルン固有の美しい響きを引き立たせる上に於いて妨げになる恐れがあるので使いたくないのである。』(一部、現代かな使いに変更。ほぼ原文ママ)

また、須磨さんとの対談(通巻32号)では、こう語っている。

『私のバンド以外では皆使っているが、サクソフォンは他の楽器全体のトーンカラー(音色)と融合しない ── その音色がシムフォニック・バンドとして何か異質なものがあるように私は思うのでコンサートの場合は使いません。しかしパレードのときは勿論使います。 』(原文ママ)

周知のとおり、現在の“アメリカ空軍ワシントンD.C.バンド”の編成には、サクソフォンは含まれている。1950年代半ばのハワードの考え方がわかってとても興味深い。

当時のレコード・ジャケット等の記述をみると、ワシントンD.C.の陸軍、海軍、海兵隊の各バンドは、パレード等の仕事に重きを置いているが、純然たるコンサートを目的に編成されたシンフォニック・バンドだと自負するハワード指揮のこのバンドは、1400名の既成のプロ奏者の中からオーディションで選ばれた100名のメンバーで構成されていたと書かれてある。フィラデルフィア交響楽団やシンシナティ交響楽団の元メンバーもいた。

また、来日当時、イギリスBBC放送から毎週“イギリスに敬礼”という30分番組が2年以上にわたってオンエアされていたこのバンドは、ビクターやコロムビアといった日本のレコード会社からの録音のオファーも気安く受け入れた。

「月刊 吹奏楽研究」1956年9月号(通巻34号)の赤松さんの「吹奏楽レコード展望」には、1956年4月初来日時に、東京・青山にあった青山会館で録音された2枚のEPレコードが紹介されている。

■コロムビア、AA-75(モノラル)

野人(渡邊浦人)
ラテン・ラメント(ケプナー)
ハワード大佐行進曲(ペキン)

■ビクター、EP-1163(モノラル)

アメリカ国歌
星条旗よ永遠なれ(スーザ)
米国軍歌集(クレー編)
サーカス・ビー(フィルモア)
アンダルシア(レクオーナ)
クマーナ(アレン)

調べると、録音会場となった青山会館には、2000名収容の大講堂があり、アメリカの極東空軍バンド(Far East Air Forces  Band)の練習場としても使われていた。そこでのレコーディングでは、さぞかしゴージャスなサウンドが響き渡ったことだろう。

コロムビア盤に収録された渡邊浦人の『野人』は、ハワードのお気に入りで、このバンドのアレンジャーが編曲したものだった。

また、ビクター盤を確認すると、来日時のバンド名の英語表記は、“The United States Air Force Symphonic Band”で、日本語表記は、“アメリカ空軍交響楽団”だった。これは“誤植”ではない。しかし、この日本語表記のために、前記した記者会見には、管弦楽団と思ってやってきた記者も結構いたという“笑い話”もあった。アメリカと戦争が終わり、まだ10年ちょっとの頃の話だ。これ以外にもいろいろ“抱腹絶倒”の英語の和訳がまかり通っていた。そんな時代だった。

「月刊 吹奏楽研究」最終号は、1964年3月号(通巻87号)で、その時、出版社も役割を終えた。

雑誌としての著作権もすでに消滅!!

しかし、紙の上に印された歴史の重みは不滅だ。

これは、U.S.エア・フォース・バンド初来日を今に伝えるアーカイブだ!!

▲EP – Symphony of the Sky(ビクター、EP-1163)(1956年、モノラル)

▲同、ジャケット裏

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第60話 大栗 裕「ピカタカムイとオキクルミ」の謎

▲風の神とオキクルミ(萱野 茂・文、齋藤博之・絵)(新装版第7刷、2002年、小峰書店)

▲「大阪シンフォニックバンド第5回定期演奏会」プログラム表紙

▲同、メッセージ頁

▲同、演奏曲目頁

▲同、プロフィールと曲目解説

2018年10月9日(火)、過去に積み残したテーマにもう一度スポットを当てるべく、筆者は、近鉄奈良線の快速急行に乗り、一路「生駒」駅をめざした。

午後2時、駅の改札口で待ち合わせをしたのは、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんと大阪府吹奏楽連盟副理事長の北原祥弘さんの2人だった。

この日の筆者のテーマは、大栗 裕の『ピカタカムイとオキクルミ』。

より正確には、“アイヌ民話による吹奏楽と語り手・ソプラノのための音楽物語『ピカタカムイとオキクルミ』”という、1976年作の初演事情に関するリサーチだった。

2018年(平成30年)は、大栗 裕(1918~1982)“生誕100年”のアニヴァーサリー・イヤー!

関西では、ちょっとしたブームがあったが、その年の夏、オオサカ・シオン・ウィンド・オーケストラ楽団長、石井徹哉さんとの8月15日の“夜の集会”でも、当然、大栗作品のことが話題にのぼった。筆者に永年積み残したこのテーマを思いださせてくれたのは、その夜のことだった。

周知のとおり、『ピカタカムイとオキクルミ』は、1975年、小峰書店(東京)から刊行された「民話のえほん・2 / 風の神とオキクルミ<アイヌの民話>」(文:萱野 茂、絵:斎藤博之)に題材を求めた音楽物語だ。絵本は、21世紀の今も版を重ねるロングセラーである。

物語は、もともとアイヌに伝わる民話だった。

それに登場する“ピカタカムイ”は、アイヌ民話に出てくる風の女神であり、その山から吹き降ろす風は、ときにアイヌに災いをもたらすこともあった。一方の“オキクルミ”は、神の国から人間の国へ移り住んだ知恵と力を兼ね備えた若者で、アイヌの人々に生活を教えるだけなく、いわば守護神のような存在だった。

民話の大筋は、“楽しそうにくらすアイヌの村を見て、悪戯心から何度も何度も嵐をまき起こして村を吹き飛ばしてしまうピカタカムイを、オキクルミがこらしめに行き、改心させる”というものだ。

作曲者は、絵本が出版された1975年、このストーリーを、まず京都女子大学マンドリン・オーケストラのためのミュージカル・ファンタジー『ピカタカムイとオキクルミ』の題材に用い、その翌年の1976年、大阪シンフォニックバンド第5回定期のための委嘱に対して、マンドリン・オーケストラ用原曲を部分改訂するとともに、吹奏楽へのオーケストレーションを行ない、吹奏楽作品としての音楽物語『ピカタカムイとオキクルミ』を完成させた。

大阪シンフォニックバンドは、1969年に発足した大阪市内初の市民バンドで、当時、天王寺公園内にあった大阪市立天王寺音楽堂を借用して、毎週火曜日と木曜日に練習を行っていた。音楽堂には、大阪市音楽団の事務所、練習場が併設され、その影響を強く受ける関係にあった。

音楽物語『ピカタカムイとオキクルミ』の初演は、1976年4月24日(土)、大阪市中央区の森ノ宮にあった大阪府立青少年会館文化ホールで行われた「大阪シンフォニックバンド第5回定期演奏会」で、ソプラノ独唱:砂場美紀子、語り手:三井洋子、作曲者の指揮で行なわれた。

ここまでは、その気になって少し調べれば、誰でもわかることだ!

しかし、大栗 裕は、『赤い陣羽織』や『夫婦善哉』、『おに』というオペラを書いた作曲家だ。それらの原作者と作曲者のつながりもそれなりに伝わっていた。当然、『ピカタカムイとオキクルミ』の原作絵本の文を書いた作者との接点もあったはずだ。しかし、それがまるで分からないのである。

絵本のために、アイヌに伝わる民話を分かりやすい日本語にしたのは、北海道生まれの萱野 茂(1926~2006)という人物だった。

北海道の人からは、“まるで不勉強”だと叱られてしまいそうだが、作者は、生涯の大半をアイヌ文化研究者として、アイヌ語の保存、継承、アイヌ民具や民話の収集、記録、保存に力を尽くした人で、北海道沙流郡平取町二風谷に「萱野茂 二風谷アイヌ資料館」を開設。アイヌ初の国会議員としても知られる有名な人だった。

そんな人物とオペラも書こうかという作曲家にまるで接点がないとは、ちょっと考えられない。

そこで、筆者は、生駒でのミーティングの前に、原作者と作曲家の接点を求めて、東京の小峰書店に直接電話を入れた。猛烈な台風21号が大阪を襲い、関西空港連絡橋にタンカーがぶつかって破壊した9月4日のことだ。

しかし、編集の部署でも著作権管理の責任者も、この間の事情はまるで分からず、絵本の出版を担当した先代社長も、電話の3ヵ月前に物故者となっていた。著作権それ自体は、作者の没後、息子さんに引き継がれていたが、もともとの絵本の出版のいきさつも分からなくなっていたのだ。

嗚呼、万事休し!!

そこで、筆者は方針を変更した。作品委嘱をし、初演を行なった大阪シンフォニックバンドには、何らかの事情が伝わっているかも知れないと考えたからだ。

近鉄「生駒」駅でお会いした北原さんは、初演当時の大阪シンフォニックバンドの会長であり、溝邊さんは、初演演奏会を聴いていた。ともに、作曲者を身近に知る人物だった。

早速、駅近くの喫茶でお話しを伺うと、ここでもやはり、原作者と作曲家の接点は不明だった。初演プログラムにも何も触れられていなかったので、当時この絵本が原作であることは、作曲者以外、誰も知らなかったようだ。また、溝邊さんが持参された初演ライヴが収録されたLPレコード(日本ワールド・レコード、W-839)にも、プログラム・ノートは一切なかった。

実は、筆者が原作の存在に気づいたのも、21世紀に入ってから、ある書店に並んでいた「風の神とオキクルミ」という絵本を偶然見つけたときだった。即購入して何気なく絵本を開いたとき、その本文が、自分が知る大栗作品のナレーションそのものであることにまず驚いた。それは、正しく青天の霹靂。衝撃的な事実だった。

原作者と作曲者はともに著名人。間違いなく接点はどこかにあったはずだと思ったが、すぐ必要にせまられている情報ではなかったので、そのときは、これを積み残してしまった。

しかし、それは間違いだった。

その後、原作の存在だけは、2005年11月16日(木)、ザ・シンフォニーホールで開かれた「創立90周年 大阪音楽大学第37回吹奏楽演奏会 大栗 裕の世界」で、この作品が木村吉宏の指揮で演奏されたときのプログラム・ノートではじめて盛り込むことができた。

しかし、『(わずかな日数で)急いで書いてくれ。頼むわ!』という、まるで“業務命令”のような木村さんからの執筆依頼だったので、謎にアプローチする時間は与えられなかった。

結局、謎は謎のままとなってしまった。

音楽解説を志すものにとって、これは大きな失点だ。

ただ、10月9日の生駒のミーティングでは、初演にまつわる面白い話をいくつも聞かせてもらった。

・作曲者が指揮した練習は、演奏会当日のゲネだけだった

・作曲者が連れてきたソプラノと語り手の出演料も委嘱料に含まれていた

・大阪シンフォニックバンドは、手書きスコアを受け取らなかった

・演奏会終了後、作曲者が楽譜を整理し、楽譜一式が大阪市音楽団に寄贈された

・北海道警察音楽隊から、問い合わせがあった

などなど、当事者しか知り得ないことだった。

筆者も、現在の“シオン”にあるスコアにナレーションを書き込んだのが、“市音”当時のライブラリアン、伊東満洲雄さんだったと言うと、北原さんも『市音のいろんな人が、手直しをやった、と言うてはりましたね(言ってらっしゃいましたね)。』と頷かれた。

音楽に歴史あり!!

これだから、バックステージはおもしろい!!

▲LP – Osaka Symphonic Band The 5th Regular Concert(日本ワールド、W-839)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

▲「創立90周年 大阪音楽大学第37回吹奏楽演奏会 大栗 裕の世界」プログラム

▲同、演奏曲目

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第59話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」日本初演

▲「指輪物語」原作者の朗読入りのLP(米Caedmon、TC 1478、リリース:1976年)

▲「指輪物語」のサドラ―賞受賞を伝えるチラシ

▲ブルジョワ時代のアメリカ海兵隊バンドのパンフレット(1990年)

1992年8月16日(日)、午後3時から午後6時30分まで、3時間半をぶっちぎりでオンエアされたNHK-FMの特別番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」は、局の予想をはるかに超える大きな反響を呼んだ!

中でも、メイン・プロとして準備され、番組スタートから1時間10数分を過ぎたあたりからオンエアされたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』日本初演ライヴは、センセーショナルな大成功を収めた。

ヨハン・デメイは、オランダの作曲家。1953年生まれで、当時、まだ38歳。

筆者が彼の名を知ったのは、1989年12月、アメリカのシカゴで催された恒例のミッドウェスト・クリニックで、サドラ―国際ウィンド・バンド作曲コンペティション1989(The 1989 Louis and Virginia Sudler International Wind Band Competition)の受賞曲として、曲名と作曲者名が発表され、翌年の1990年4月11日(水)、ワシントンD.C.のジョン・F・ケネディ・センター(John F. Kennedy Center)で、“授賞セレモニー”とジョン・R・ブルジョワ(Colonel John R. Bourgeois)指揮、アメリカ海兵隊バンド(“The President’s Own” United States Marine Band)による記念演奏が行われることを聞いたときだった。

“サドラ―賞”の審査委員長が、指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti)であり、エントリー143作品、賞金1万ドルというのもインパクトがあった。

とにかく、ウィンド・ミュージックの世界で稀に見るこのニュースは、それを耳にした時、とても印象に強く残ったことをよく覚えている。

もちろん、この時は、それがどんな曲なのか、まったく知らなかった。

しかし、その後、ブリティッシュ・アソシエーション・オブ・シンフォニック・バンズ・アンド・ウィンド・アンサンブルズ(British Association of Symphonic Bands and Wind Ensembles)の季刊誌「ウィンズ(Winds)」の1991年春(SPRING 1991)号に掲載された4ページにわたる譜例附きアナリーゼを読み、すでに2枚のCDがリリースされていることまでわかってしまうと、もういけない。いつもの好奇心というか、これは何か特別なことが起こっているのではないかと、筆者の中に棲みついている“音楽の虫ども”がザワザワと騒ぎだしたのである。

こういうときは、即行動あるのみ!!

ヨハンとの交友は、1991年3月14日に筆者が投函した1通のエアメールから始まった。彼によると、それは、日本人からのはじめてのコンタクトだったという。

後に使われなくなったが、当時は“Opus 1”という作品番号が与えられていたこの交響曲は、小品を除き、ヨハンが本格的に作曲に取り組んだ初の作品だった。

題材は、イギリスのジョン・トールキン(John Ronald Reuel Tolkin、1892~1973)原作の同題の冒険ファンタジーで、全5楽章のシンフォニー。

世界初演は、1988年3月15日(火)、ベルギーの首都ブリュッセルのベルギー国営放送(BRT)のグローテ・コンサートスタジオで催されたコンサートで、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy、第55話:ノルベール・ノジとの出会い、参照)指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(Royale des Guides)吹奏楽団のコンサートで行なわれ、そのライヴは同放送からFMステレオでオンエアされた。

ヨハンにとって、この“ロワイヤル・デ・ギィデ”による初演は、たいへん名誉なことだったという。

1993年夏、アムステルダムの彼の自宅を訪れた際、そのコンサートのポスターがまるで宝物のように壁に飾られているのを目のあたりにして、実際そう感じた。

一方、日本では、大阪市音楽団(市音)が、1990年のミッド・ウエスト・クリニックにプログラム委員を派遣し、この交響曲の情報をゲットしていた。

この当時、アメリカでこの作品の楽譜を取扱っていたのは、指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)夫人のエリザベスさんが社長をつとめるLudwig Musicだった。

フェネル自身は、この作品に好意的ではなかったが、市音のプログラム委員は、クリニックで第1楽章を聴いた後、日本のディーラーを通じて直ちに全楽章の楽譜セットを発注。この結果、1991年4月27日(土)、森ノ宮ピロティホール(大阪市中央区)における「大阪市音楽団 吹奏楽フェスタ’91」で、その年の注目曲として紹介され、市音団長、木村吉宏の指揮で、第1楽章のみの本邦初演が行なわれた。

当時、筆者は、東芝EMIの「吹奏楽マスターピース・シリーズ」(第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い、参照)の企画が始まった1990年以降、打ち合わせのために大阪城公園内にあった市音の事務所をたびたび訪れていた。

そんな1991年のある日、木村さんから、突然『来年5月の定期でやるプログラムに、なんぞ(何か)エエ(いい)アイデアないか?』と尋ねられた。

反射的に『今このタイミングでやるんだったら、“指輪”全曲の日本初演しかないでしょう。楽譜もあるんだし。』と答える。

当時なぜか“20万円”もした超話題曲の“指輪”の楽譜がせっかく揃っているのに、第1楽章を演奏しただけで楽譜庫に眠らせてしまうのは、正しく宝の持ち腐れ。大阪市民の1人としても、それはあってはならないことと思えた。

木村さんのメガネの奥の目がキラリと光った。

しかし、ここからが大変だった。木村さんが会議で持ちだしたこの提案に対し、“定期で40分を超える曲をやるなんて…”と団員から猛反対の声が巻き起こったのだ。

しかし、独特の嗅覚から、このプランに過去の市音のプログラムにはない何かを嗅ぎ取っていた木村さんは、諦めなかった。団員を説き伏せ、ついにはこの大曲へのアタックを決めてしまったのだ。

決定後すぐに電話があった。もちろん大阪流の言い回しだが、『決まったでー。無理やり決めたった。』と話す木村さんの声は、とても愉快そうだった。

しかし、イザやると決まると、ぜひとも実り多きものにしなければならない。

NHK音楽番組部ディレクターの梶吉洋一郎さんから、『何か面白い話はない?』と電話がかかってきたのは、それから少したった頃だった。

前話(第58話 NHK – 生放送!ブラスFMオール・リクエスト)でお話ししたように、作品の概要を説明すると、彼は『それは、面白い!』とすぐ喰いついてきた。

だが、話をしながらも、一方で、以下のようなハードルの高さも感じていた。

・NHKの音楽制作では、大阪市音楽団がまるで認知されていないこと

・大阪市音楽団が、東京ではなく、一地方都市の楽団であること

・ヨハン・デメイの作品が過去に放送されたことがないこと

・受賞曲とはいえ、『指輪物語』が未知の作品であること

・吹奏楽にシンフォニーがあることが認識されていないこと

などなど、ネガティブな要素だらけだった。

権威主義で鳴るNHKが受け入れることができるのは、唯一、『指輪物語』が受賞した“サドラ―賞”の審査委員長が、世界的指揮者サー・ゲオルグ・ショルティだったことぐらいしか見あたらなかった。

しかし、持ち前のバイタリティーで、梶吉さんは、中継車を東京から大阪まで運んできてしまった。

こうして、1992年5月13日(水)、ザ・シンフォニーホールで開催された「第64回大阪市音楽団定期演奏会」で日本初演された交響曲第1番『指輪物語』の収録は、NHKのスタッフによって行われた。

いいライヴだった!!

だが、実際には、8月16日の放送当日、番組が始まって“指輪”の演奏が流れる寸前まで、NHKの局内では、いきなり市音の演奏を全国放送に出すことについて、まだアレコレ雑音が渦巻いていた。

しかし、坪郷佳英子アナウンサーが曲名などの“ワク”をつけ、盛大な拍手につづいて、冒頭のファンファーレが鳴り響き、ワグナー調の雄大なテーマが流れると、それまで煩かった百戦錬磨の音楽のプロたちも一様に聴き耳をたて始めたのである。

梶吉さんもホッと胸をなでおろしたことだろう。

この日、大阪市音楽団とヨハンの交響曲は、NHKを沈黙させた!

 ▲大阪市音楽団のパンフレット(1995年頃)

▲第64回大阪市音楽団定期演奏会、プログラム

 ▲同、演奏曲目

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第58話 NHK – 生放送!ブラスFMオール・リクエスト

 ▲アルフレッド・リード(1990年代、本人提供)

▲ヨハン・デメイ(1990年代、本人提供)

▲フィリップ・スパーク(1980年代末、本人提供)

『ヒグッちゃ―ん!!』

クラシック・ファンから“遅れてきた巨匠”と親しまれたチェコの指揮者ラドミル・エリシュカ(Radomil Eliska)のマネージメントをするオフィスブロウチェクの梶吉洋一郎さんから声を掛けられたのは、2017年10月19日(木)、「大阪フィルハーモニー交響楽団 第512回定期演奏会」が行われていた大阪のフェスティバルホールのロビーでだった。

エリシュカは、楽団からの強いリクエストで「東京佼成ウインドオーケストラ第115回定期演奏会」(2013年4月27日、東京芸術劇場)を客演指揮し、そのライヴ盤「新世界の新世界」(コロムビア、COCQ-85060、リリース:2014年3月26日)が発売されたマエストロだ。

ヘッドホンを首から掛け、いかにも録音ブースから出てきたスタッフというイデタチの氏の声は弾んでいた。根っからの現場好きの男だ。

そして、『今日は、来てくれて、本当にありがとう。マエストロもこれが最後になるんで、ぜひ聴いて欲しかったんだー!!』と続ける。

当夜、聴衆は2300~2400ぐらいは入っていただろうか。後に“平成29年度(第72回)文化庁芸術祭”の優秀賞に選ばれることになるこのコンサートは、いつもの大フィル定期とは少し違う空気が漂っていた。この少し前、飛行機での渡航にドクター・ストップがかかった86歳(当時)のマエストロの、これが最後の来日公演になると発表されていたからだ。

“どうしても、日本のファンに挨拶がしたい”という、マエストロのたっての希望から、ドクターの声を振り切って行われたコンサートだった。

筆者は、2009年秋にリリースされた『ドヴォルザーク 交響曲第6番』(パスティエル、DQC-100)以降、梶吉さんがプロデュースしたエリシュカ指揮、札幌交響楽団のライヴCD作りの最終工程をサポートしていた。マスタリングをお手伝いしたこともあった。

だが、氏との出会いは、それよりずっと以前、1988年の「ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本公演」(第8話:ドラゴン伝説の始まり、参照)の時だった。

当時、NHKの報道にいた氏は、銀座で見かけたポスターを頼りに、カメラを担いで虎の門の公演事務所に飛び込んできた。そして“夕方のニュースに使いたいので”と、“チケットを数えているシーン”などの映像を押さえていく。まるで電光石火の早業だった。

後日、話を伺うと、学生時代は吹奏楽に傾注していたという氏は、ヌーケリ・ブュピレ・ドルヤギ吹奏楽団という、ちょっと不思議な名称(カタカナ名を逆から読めば、その“由来”が判る!)のバンドの指揮者だったこともある。

また、本物志向の氏は、かの指揮者セルジュ・チェリビダッケ(Sergiu Celibidache)の指揮法講習を受けていたこだわり派だった。

そんな彼とは、その初対面時から何かと馬が合った。そして、その希望が叶い、報道から音楽番組に配属が変ると、実際に吹奏楽の番組をやろうということになった。

そのきっかけを作ったのが、1992年5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールで開催された「大阪市音楽団 第64回定期演奏会」で日本初演が行われたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』だった。

指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti)を審査委員長とする“サドラ―国際ウィンド・バンド作曲賞”の受賞作となったこの交響曲の内容や作曲者について、筆者から楽曲の基礎情報を取材した氏は、企画書を局に提出。ついには、中継車を東京から大阪に走らせ、ライヴ収録を実現させてしまったのだ!

当時のNHKの局内では、これはかなりの大冒険だった。

報道番組以外は外注でもよしとする徹底的した“商業化路線”を推し進めた島 桂次会長の時代、秋山紀夫さんの名調子で人気を博した吹奏楽のレギュラー番組「ブラスのひびき」も、その流れの中であえなく廃止。

“吹奏楽”は、他のいくつかのジャンルとともに“NHKが扱う音楽カテゴリー”から外され、唯一残ったのは、全日本吹奏楽コンクールの特番だけだった。

梶吉さんに残った理由を訊ねた時の話が面白い。彼は、『ウチは、“全日本”とつくものは必ずやらないといけない、ということになっているのよ。』と言い、ガハハと笑った。

島会長時代は、そう長くは続かなかった。しかし、局内で一度“あえてNHKがやる必要がない”と判断が下ったジャンルの番組をふたたび立ち上げるのは、大変なエネルギーを必要とする仕事だった。

NHKには、“商業化”をよしとし、放送内容は、民放並みにメジャーなものだけでいいとする空気も確実に残っていた。

そこで、梶吉さんは、リクエストのハガキによる吹奏楽特番を発案。NHKに寄せられる視聴者のナマの声に運命をすべてかけたのである。

題して「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」!!

『なんだよ、それ!』と言いながらも、昭和の香り漂う番組名に郷愁のようなものを感じたのは、筆者もそれなりの年になっていたからだろう。

だが、人口こそ多いが、“与えられることに慣れ、自らほとんどアクションを起こさない”傾向が強い“吹奏楽人”が果たしてどう反応するのかは、まったく未知の世界。

しかし、全国から寄せられたリクエストのハガキは、トータルで705枚もあった。

“吹奏楽”をマイナーな世界とみなしていた局内に“オヤ?”という空気が流れ始めたのは、実はこの頃からだった。

リクエストは、ポップからクラシックまで幅広い曲に寄せられていた。しかし、〆切後に内容を精査すると、NHKがほとんど知らない(つまり、局内にレコードやCDなど一切ない)“オリジナル曲”へのリクエストが7割近くに達していることに、NHKがまず驚いた。

作曲家別でみると、曲数がもっとも多かったのがアメリカのアルフレッド・リード(Alfred Reed)で、合計12曲。次点が11曲のジェームズ・スウェアリンジェン(James Swearingen)で、それぞれリクエスト最上位の『アルメニアン・ダンス・パートI(Armenian Dances Part I)』と『センチュリア(Centuria)』が、放送曲に決定!

曲別にみると、イギリスのフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』が他を大きく引き離してダントツ。前記リードの『アルメニアン・ダンス・パートI』がそれに続いた。

邦人作曲家では、大栗 裕の作品に人気が集中。そのリクエスト最上位の『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』が放送曲に決まった。

また、関西を中心に、吹奏楽の中でも“とくにマイナー”とみられていたブラスバンド作品にもかなりのリクエストが寄せられ、リクエスト最上位のスパークの『オリエント急行(Orient Express)』も放送曲に選ばれた。

嬉しい誤算は、番組のほぼ真ん中の時間帯に組み込む予定で、唯一NHKらしい情報発信だと考えられていた『指輪物語』にも、複数のリクエストのハガキが寄せられたことだ!!

電話で『“指輪”にもハガキが来ているよ。』と伝えてくれた梶吉さんの嬉しそうな声が今も耳に残っている。

放送は、終戦記念日翌日の1992年8月16日(日)午後に行われた。

もちろん“指輪”を除くすべての音素材(レコード、CD)は、すべて筆者の持ち込み。

出演は、坪郷佳英子アナウンサー、サックス奏者MALTA氏、そして筆者の3人だった。

予期できなかったこととして、ナマ放送中、アルフレッド・リードから突然電話がかかってくるハプニングもあったが、なんとか番組終了まで乗りきって大団円!

フト見ると、日曜にもかかわらず、スタジオの中から見えるスタッフ・ブースは大勢の人でかなりの鈴なり状態になっていた!

梶吉さんによると、休日にもかかわらず、以前「ブラスのひびき」をやっていたディレクターやスタッフが懐かしさのあまり大勢つめかけてくれていたんだそうだ。

なんだ、NHKにも“隠れ吹奏楽ファン”がいるんじゃないの!

ひょっとすると「ブラスのひびき」が戻ってくる日もあるかも知れない。

そんな淡い期待を胸に描いたアツい夏の一日だった。

▲「アルメニアン・ダンス・パートI」に使ったLP – American Salute(蘭Philips、6423 522)

 ▲「ドラゴンの年」に使ったCD – Marines on Stage(蘭Markap、2040)

▲「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」構成表 – 1

▲「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」構成表 – 2

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第57話 スパーク「セレブレーション」ものがたり

▲CD – セレブレーション!(佼成出版社、KOCD-3571、リリース:1993年6月26日)

▲ディレクター若林駿介とフェネル(1992年11月、川口総合文化センター・リリア、メインホール]

 ▲「セレブレーション」のスコアをカメラに向けてごきげんのフェネルとコンサート・マスター須川展也(同)

▲セッション中のフェネルと東京佼成ウインドオーケストラ(同)

『また、ちょっと相談にのって欲しいことがあるんだけど….。』

東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんから、こういって電話が掛かってきたのは、同オケ初のヨーロッパ公演(日程:1989年6月29日~7月23日)から、しばらくたったある日の午後のことだった。

古沢さんの話はいつも面白い。早速、話を伺うと…

『ヨーロッパ公演の流れで、国際文化交流事業として、ヨーロッパの作曲家に作品を委嘱することになってね。すでに2人の作曲家に委嘱したんだけど、予算枠としては少し余裕があって、もう1曲頼めそうなんだ。そこで相談なんだけど、“ぜひ、これは”という作曲家を挙げて欲しいんだ。誰がいいと思う?』

それは、とても興味をそそられる話だった。

そこで、まず、すでに作曲を頼んだという2人の作曲家の名を訊ねる、すると、1人がオランダのユリアーン・アンドリーセン(Jurriaan Andriessen)、もう1人がイギリスのジョーゼフ・ホロヴィッツ(Joseph Horovitz)だと答えが返ってきた。

いずれも、オランダの出版社モレナール(Molenaar)から作品が出版されている作曲家だ。

この当時、デハスケ(de haske)は、創業間もない“超弱小”の出版社。ヤン・モレナール(Jan Molenaar)というパワフルな社長のもと、アメリカのミッドウェスト・クリニックにも進出し、大きなブースを出していたモレナールは、オランダ最有力の音楽出版社だった。

東京佼成ウインドオーケストラのヨーロッパ・ツアーのクライマックスで、そのガラ・コンサート(7月20日、指揮:フレデリック・フェネル)に招かれていたオランダ・ケルクラーデの「世界音楽コンクール1989(Wereld Muziek Concours 1989)」(於:ロダハル)でも、モレナールの存在感や影響力は、絶大だった。

古沢さんの口から出た2人の作曲家も、モレナール氏からの推薦に違いない。両者は、すでに名を成したベテラン作曲家だったからだ。

なので、もう1人の作品委嘱の相手には、まったくカラーの違うフレッシュな顔がいい。

筆者は、迷うことなく、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の名を挙げ、こう続けた。

『古沢さん、今回のロンドンのレコーディングで“ドラゴンの年(The Year of the Dragon)”って曲を録られたでしょう? スパークは、それを書いた新進気鋭の作曲家です。実は、事前に連絡を入れておいたら、彼は、エンジェル・スタジオのセッションに足を運んでくれていたんです。何が言いたいのか、と云うと、彼は、実際のセッションの現場をつぶさに見て、東京佼成ウインドオーケストラの実力もパーソナリティーもよく理解しているんです。今、作品委嘱をするなら、最有力候補じゃないでしょうか。』

電話の向こうの古沢さんも、ロンドンのセッション現場に作曲者がいたという話に少し驚いた様子だったが、『今日は、いい情報を聞かせてもらいました。正式に決まったら、また連絡するんで…。』と、早速、会議に諮ってもらうことになった。

その後、正式に委嘱が決定。『近い内に、東京佼成から連絡があるから…。』とフィリップに伝えると、彼はもう、狂喜乱舞の大興奮!!

その結果、1991年に完成したのが、『セレブレーション(Celebration)』だった。

フィリップは、当時の私信の中で、この作品では、“東京佼成ウインドオーケストラの驚くべき演奏能力”と“人間のスピリット(魂や精神)に於ける楽天主義的な側面”の2つをセレプレート(称賛)していると書いている。

『セレブレーション』は、非常に高度なスキルが求められるだけでなく、推進力と高揚感があり、一瞬たりとも気を緩めることのできないスリリングな作品となった。

東京佼成のスキルと音楽性に信頼をおいた手加減なしの曲なので、当然、グレードは6超え!

初演は、1992年6月11日(木)、島根県松江市のプラバホールで開催された東京佼成ウインドオーケストラの“法燈継承記念特別演奏会”(主催:立正佼成会松江教会)で、クレーグ・キルコッフ(Craig Kirchhoff)の指揮で行われた。

ついで、その翌月の7月9日(木)、鹿児島県文化センターで行われた同じタイトルの演奏会(主催:立正佼成会鹿児島教会)でも、フレデリック・フェネル指揮の再演が行われている。

そして、フェネルは、この曲のスコアに大興奮!

結果、彼は、同年11月4日(水)~5日(木)、埼玉県の川口総合文化センター・リリア、メインホールでセッションが組まれていた佼成出版社の録音にこの曲を即座に組み入れた。

録音レパートリーは、以下のようなものだった。

・セレブレーション
(フィリップ・スパーク)
Celebration(Philip Sparke)

・シンフォニエッタ
(インゴルフ・ダール)
Sinfonietta(Ingolf Dahl)

・「グレの歌」のモティーフによるファンファーレ
(アルノルト・シェーンベルグ)
Fanfare on Motifs of Die Gurrelieder(Arnold Schoenberg)

・シェイカー教徒の旋律による変奏曲 ~「アパラチアの春」より
(アーロン・コープランド)
Variations on a Shaker Melody(Aaron Copland)

・神聖なる行列
(ジョージ・パール)
Solemn Procession(George Perle)

・ハイドンの主題によるファンタジー
(ノーマン・デロ=ジョイオ)
Fantasies on a Theme by Haydn
(Norman Dello Joio)

アルバム・タイトルは、フェネルの歓喜と称賛の気持ちを表すように“!”をつけられ、「セレブレーション!」

フェネル自ら“コンテンポラリー・ミックス”とサブ・タイトルをネーミングをして話題を呼んだCD「ピース オブ マインド」(佼成出版社、KOCD-3569、リリース:1992年3月10日、第53話 フェネル:ピース オブ マインド、参照)につづくシリーズ第2弾だ!

セッション中、フェネルは、こう語ってくれた。

『“委嘱”というのは、どんなものが出来上がってくるか分からないし、お金もかかる。しかし、称賛すべきこんなすばらしい作品が生み出されることもあるんだから、もっとやるべきだと、今みんなに言っているところなんだ!!』

そういうフェネルの眼は、まるで青年のようにキラキラと輝いていた!

このセッションには、いくつか後日談がある。

録音が行われる少し前、フィリップがCD「オリエント急行」(佼成出版社、KOCD-3902、リリース:1992年12月21日、第48話 フィリップ・スパークがやってきた、参照)の録音のために来日し、普門館でセッションを行なったことを後から知らされ、フェネルが珍しく『なぜ、知らせてくれなかったんだ。』と楽団事務所にクレームを入れ、とても残念がったというニア・ミス事件。

セッションにおいて、フェネルは、プレストの部分に1箇所あるリピートをカットしたが、後日、コンサート・マスターの須川展也さんが、海外でフィリップと偶然出会った時、演奏の出来を称賛された後、『なぜ、カットした?』と訊かれたカット詰問事件。

『スパークにおこられちゃいましたよ。』と言われた須川さんの言葉は、今もしっかりと耳に残っている。

まあ、そんなこともあるにはあったが、フィリップ・スパークの『セレブレーション』は、フェネルと東京佼成ウインドオーケストラの“お気に入り”となった。

1993年のスイス公演プロでも取り上げられ、伝統的なプログラムを好むヨーロッパの聴衆の度肝をぬき、メディアも手放しで称賛した!

また、2009年2月20日(金)、東京芸術劇場で開催された東京佼成ウインドオーケストラ第100回定期演奏会(指揮:秋山和慶)でも演奏された。

かのアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドなど、海外バンドもつぎつぎとレコーディング!!

『セレブレーション』。それは、作曲家スパークのマスターワークとなった!

▲▼東京佼成ウインドオーケストラ“法燈継承記念特別演奏会”チラシ

▲同、プログラム表紙

▲スパーク「セレブレーション」スコア