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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第86話 U.S.マリン・バンド200周年

▲アメリカ海兵隊バンド、日本語つきフォトブック

▲同、裏表紙

▲アメリカ海兵隊バンド(U.S.マリン・バンド)

“Playing America’s Music Since 1798”

“1798年以来アメリカの音楽を演奏している”

2019年5月に初来日し、横浜、金沢、浜松、岩国の各地で、記憶に残るすばらしい演奏を繰り広げた“大統領直属”アメリカ海兵隊バンド(“President’s Own” The United States Marine Band)が、プログラムや広報用印刷物で常に使っている誇り高きコピーである。

日本史の年表を開くと、1798年は、寛政(かんせい)10年。日本では、江戸幕府の第11代征夷大将軍、徳川家斉(いえなり)(将軍職:1787~1837)の治世であり、ヨーロッパでは、ナポレオンのエジプト遠征が始まった年だ。名曲と謳われるルードウィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)の『ピアノ・ソナタ第8番 ハ短調、Op.13(悲愴)』が作曲された年でもある。

U.S.マリン・バンドは、同年の7月11日、第2代アメリカ大統領ジョン・アダムズ(在職:1797年~1801年)がバンド設立の議会法に署名して創設。その後、歴代の大統領に仕えながら、ホワイトハウスの音楽を担ってきた。それは、第85話の“ U.S.マリン・バンドがやってきた!”でお話したとおりだ。

“プレジデンツ・オウン(大統領直属)”というステータスだけでなく、マリン・バンドが全米の関係者からリスペクトを集める理由の1つに、早くから“ライブラリアン”制を採用し、専従スタッフがライブラリーの管理にあたっていることが挙げられる。

彼らライブラリアンが担うのは、手持ち楽譜を管理するだけの単純な職責ではない。

マリン・バンドが行なう演奏活動のすべてを正確に記録することはもちろん、演奏した楽曲や作曲家に関する音楽資料の収集や保存・整理、部外からも寄せられる質問への調査・回答など、それは多岐にわたる。

結果、マリン・バンドのライブラリーには膨大な資料や情報が保管・蓄積されることになった。当然ながら、その内容はアメリカ音楽に関連するものが最も充実するが、“マーチ王”と謳われ、自分達の大先輩であるマリン・バンド第17代リーダー、ジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa, 1854~1932)に関する情報密度は、もう半端ではない。

東京佼成ウインドオーケストラ桂冠指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell, 1914~2004)も、リサーチのためにしばしばマリン・バンドのライブラリーに出入りしていた。

また、第46話「H・オーウェン・リードを追って」でお話した、『メキシコ民謡による交響曲「メキシコの祭り」(La Fiesta Mexicana, A Mexican Folk Song Symphony for Concert Band)』(U.S. マリン・バンドが初演)の作曲者H・オーウェン・リード(H. Owen Reed, 1910~2014)へのコンタクトも、チーフ・ライブラリアン、マイク・レスラー特務曹長(Master Gunnery Sergeant Mike Ressler)の尽力ではじめて可能になったことだった。

マリン・バンドのライブラリアンは、正しく音楽の“アーキビスト”もしくは“キュレーター”と呼ぶにふさわしい役割を担っているのだ。

さて、そんなマリン・バンドだが、第2次世界大戦以前は、発明王トーマス・エジソン(Thomas Edison, 1847~1931)の時代から、いろいろなレーベルがレコード(SPレコードなど)を発売していた。しかし、今は、特別な目的以外、アメリカの全ミリタリー・バンドの“商業録音”が禁止されているため、レコードやCDは、ほぼエデュケイショナル・プログラム(教育目的)のための自主制作盤となっている。

これらは、一般の音楽ファンには市販されないが、学校などの教育機関や公立の図書館、放送局などの公的機関には無償提供される。以前は、公的機関のオフィシャルなレターヘッドが印刷された用箋を使って申請したものだが、ネット時代に入ると、公式ホームページのメールリング・リストに公的機関の管理者がサインアップして申請するルールとなった。

彼らがレコーディングするレパートリーは、スーザ以来このバンドに受け継がれてきた伝統的なアメリカのコンサート・バンド・スタイルの音楽が中心だ。

スーザのマーチや作品にスポットをあてたシリーズも、第22代ディレクター、アルバート・F・ショーパー大佐(Colonel Albert F. Schoepper, 在職:1955~1972)、第24代ディレクター、ジャック・T・クライン中佐(Lieutenant Colonel Jack T. Kline, 在職:1974~1979)、そして現在の第28代ディレクター、ジェイソン・K・フェティッグ大佐(Colonel Jason K. Fettig, 現職:2014~)の3人のディレクターによって企画された。

そんな自主制作盤の中にあって、このバンドの特色が最もよく表れているのが、バンド創設200周年にあたる1998年に制作された「The Bicentennial Collection – Celebrating The 200th Anniversary of “The President’s Own” United States Marine Band」という、CD10枚組のボックス・セットだろう。

このCD10枚組の内容は、以下のようなものだった。

Disc 1 – Early Acoustic Recordings 1889-1914

Disc 2 – Acoustic Recordings 1914-1923

Disc 3 – Historic Soloists

Disc 4 – Historic Soloists(continued). Taylor Branson(1924-1940)
William F. Santelmann(1940-1955)

Disc 5 – Albert Schoepper(1955-72), Dale L. Harpham(1972-4)

Disc 6 – Jack T. Kline(1974-9), John R. Bourgeois(1979-96)

Disc 7 – Timothy W. Foley(1996-)

Disc 8 – Composers Conduct
Karel Husa, Michael Colgrass, Warren Benson

Disc 9 – Composers Conduct and Guest Conductors
Warren Benson, John Harbison, Ron Nelson, Donard Hunsberger,
Leonard Slatkin, LtCol Sir Vivian Dunn

Disc 10 – Guest Conductors
Frederick Fennell, Gunther Schuller, Timothy Reynish,
Leonard B. Smith, George W. Wilson, LtCol John Ware

収録音源は、それこそエジソンの時代の初期の録音から近年のものまで、歴史的に重要な録音が網羅され、客演をした指揮者や作曲家にも、カレル・フサ、マイケル・コルグラス、ウォーレン・ベンソン、ジョン・ハービスン、ロン・ネルソン、ドナルド・ハンスバーガー、レナード・スラットキン、サー・ヴィヴィアン・ダン中佐(ロイヤル・マリーンズ)、フレデリック・フェネル、ガンサー・シューラー、ティモシー・レイニッシュ、レナード・B・スミス、ジョージ・W・ウィルソン、ジョン・ウェアー中佐(ロイヤル・マリーンズ)と錚々たる顔ぶれが並んでいた。

また、ボックスには、78ページの解説ブックレットが内包されていた。各トラックの詳細なデータやプログラム・ノートはもちろん、数多くの写真が、このバンドの先人たちが歩んできた200年の道程を物語っていた。

言い換えれば、それは、アメリカのコンサート・バンドの歴史でもあった。

ライブラリアン・システムを確立したこのバンドの面目躍如たるところだろう。

翻って、たとえ音楽大学にあっても、建物の建て替えや経済的事情など、およそ音楽とは関係ない理由で、図書館所蔵資料すら平気に破棄、散逸してしまうわが国の状況を省みると、本当に何と言ったらいいのか、適当な言葉が見つからないほど残念な気持ちになる。とにかく、この国では、いきなり基礎資料が行方不明になり、何もかも分からなくなってしまうのだ。

そして、何も残らない!

U.S.マリン・バンドが制作したこのCDボックスは、その歴史的価値と特別な計らいにより、ミュージカル・ヘリテージ・ソサエティ(Musical Heritage Society)という、歴史的録音を扱う通販専門レーベルから、アメリカ国内に限って簡易版が頒布されることになった。また、第45代大統領ビル・クリントン時代の情報公開の規制緩和等により、他のミリタリー・バンドCDがアメリカ国内法の及ばない外国でリリースされることも起こった。

しかしながら、マリン・バンドの基本姿勢は、今も昔も変わらない。

ブックレット巻末近くのつぎの文言がすべてを物語っている。

This recording is produced for educational purposes and to enhence the public affairs and community relations programs of the Marine Corps.

(このレコーディングは、教育目的のため、そして海兵隊の広報および地域社会関係プログラムを高めるために制作されたものです。)

Because appropriated funds were used in the production of this recording, it may not be distributed for private use and is not for sale.

(このレコーディングの制作には、その目的に充当するための資金が使用されたため、それを個人使用のために頒布することはできず、販売することもできません。)

“変わらない”ことの凄さをあらためて感じた!!

▲CD – The Bicentennial Collection – Celebrating The 200th Anniversary of “The President’s Own” United States Marine Band(非売品)

▲同、バックインレー

▲同、ディスク – 1、ディスク – 2のバックインレー

▲同、ディスク – 3、ディスク – 4のバックインレー

▲同、ディスク – 5、ディスク – 6のバックインレー

▲同、ディスク – 7、ディスク – 8のバックインレー

▲同、ディスク – 9、ディスク – 10のバックインレー

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第84話 ヴァンデルロースト:「高山の印象」委嘱・世界初演

▲高山市民吹奏楽団創立50周年記念演奏会チラシ

▲高山市民吹奏楽団創立50周年記念演奏会プログラム

▲同、演奏曲目

『先生、“さるぼぼ”見ました。明日の市吹、ウチのおばあちゃんが行きたいと言ってまして…。』

岐阜県高山市で、高山市民吹奏楽団の音楽監督をつとめる竹内雅一さん(名古屋芸術大学教授)と、演奏会前日リハの後、予約も入れずに飛び込んだ飲食店で氏に掛けられた言葉だ。

“さるぼぼ”とは、飛騨エリア56,000部発行という地域密着の月刊コミュニティー情報誌で、高山市内のホテルや飲食店では必ず目にとまる。お店の人から掛かった声は、2018年11月号(第76話 ヤン・ヴァンデルローストのメモ、参照)のカラー4頁の巻頭特集記事「高山市民吹奏楽団創立50周年記念 響HIBIKI Harmony of half a Century」を読んでのものだった。

竹内さんも市吹も、高山の名士なのだ!

2018年(平成30年)11月18日(日)、高山市民文化会館大ホールで開かれた「高山市民吹奏楽団 創立50周年記念演奏会」は、そういう地域の盛り上がりの中で開催された。

演目は、ベルギーのヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)への50周年記念委嘱作の世界初演、日本舞踊家の花柳琴臣さんの演出・振付による創作舞踊「カルミナ・ブラーナ」、ほぼ20年の長きにわたってこの楽団の定期演奏会を指揮した岩井直溥さん直伝のポップ・ステージと盛りだくさん!さすがは、楽団名に“市民”の文字が入る地域に密着する吹奏楽団だ。

高山の人からは“我々の心の国歌だ”とも言われる祝い唄「めでた」の新しい編曲(荒川“B”琢也編)の披露も組まれ、それは、ホール内から湧き上がる男性の力強い歌声と調和する圧巻のパフォーマンスとなった。

時間をかけて練り上げられたプログラムは、見事の一語!

地元ケーブルテレビ「Hit net TV!」のナマ中継も入り、超満員の会場が大きく揺れるすばらしい記念演奏会となった。(年末には、ダイジェストの再放送も!)

そんな祝祭色の強いこのコンサートの冒頭を飾ったヤンへの記念委嘱作も大きな反響を呼んだ。

プログラムに寄せて、ヤンは、つぎのようなメッセージを書いている。

『日本には何度も何度も訪れたことがありますが(確か70回を超えているはずです)、私が最も気に入っている訪問先は歴史的なまち高山市です!私の仲間であり友人でもある竹内雅一先生のご尽力があって、名古屋芸術大学の客員教授在任中に高山と関わりを持つようになったのですが、すぐにその豊かな歴史と伝統に心地よさを、そして強烈な繋がりを感じるようになりました。

高山市民吹奏楽団と初めて出会ってすぐに、私たちの音楽の繋がりは強まり、そして進歩して来ました。そうしたこともあり、何度も高山に戻って来ています。それには音楽だけはでなく、人間的な側面が役割を果たして来ました。そして、今では高山に仲間だけではなく友人もいると言えるまでになりました!

2016年9月、私のジングシュピール(ドイツ語による歌芝居や演劇の一形式)である ES WAR EINMAL,,,「むかしむかし…(指揮:竹内雅一)」が高山で日本初公演(第34話 ヴァンデルロースト「むかしむかし…」日本語版世界初演!、参照)となりましたが、それは本当にすばらしい催しでした。本日は、私のもう一つの作品の本邦初公演となります。本邦初公演どころか世界初公演になるわけですが、それは、「TAKAYAMA IMPRESSIONS」が高山市民吹奏楽団のために創った曲だからで、本日がこれまでどこでも演奏したことのない正に一番初めの演奏になるのです。

数週間前になりますが、来日中に私は高山市民吹奏楽団とリハーサルを行ないました。音楽に込めた私の思いを響かせるために全てのプレイヤーの皆さんが一生懸命に演奏しているのを満喫させていただきました。この曲は欧米スタイルの旋律と響きを組み合わせているのですが、本来の日本音楽の影響を受けていることを皆さんには聴き取っていただけるのではないかと思います。

皆さんの国で素晴らしい経験を積むにつれ、皆さんの文化にさらに繋がりを感じるようになりました。この曲は日本の伝統、特に高山への音楽による賛辞であると私はとらえています。(後略)』

第76話でお話したように、ヤンが出版社に曲名を納得させるまでかなりの紆余曲折があった。しかし、最終的に「高山の印象(タカヤマ・インプレッションズ)」となったこの作品は、「~の風景」という組曲をいくつも書いたジュール・マスネなどのような、クラシックの名作にも通じる格調の高い曲名となった。

高山の歴史的風土に深い感銘を覚えたヤンらしいネーミングだ。

また、この作品は、ヤンがはじめて“和のペンタトニック・スケール”を用いた作品だ。

竹内さんに話を伺うと、ヤンが構想を練り始めた当初は、リクエストに応じて実際の高山祭で演じられる祭笛などの節を専門家に採譜してもらい、彼のもとへ送ったのだという。

ヤンは、それをそっくりそのままコピーするのではなく、音楽的に咀嚼した上で、オリジナルの“和”の節まわしを創りだしたという訳だ。

見事なほどに!

そして、それは曲冒頭のピッコロ・ソロ(もしくはソリ)で演奏されるフレーズにとくに凝縮されている。本人によると、この部分は、ピッコロの代わりに日本の“篠笛”の独奏でやってもいいし、高山祭の祭笛のように重奏でやってもいいように書いたという。従って、リピートも含め、この部分の演奏のヴァリエーションは何通りも考えられる。つまり、演奏者次第というわけだ。

その後の展開にも、和のテイストや祭りの高揚感はさりげなく盛り込まれた。聴き込めば聴き込むほど“和”を意識させられる魅力的な作品となっている。(演奏時間は、約8分半)

2018年11月18日、実際の世界初演の模様はこうだった。

最初、ホールの明かりが落とされた中、ヤンが送ってきた当日の聴衆へのビデオ・メッセージが、左右両面のホール側壁に大きく映し出される。ついで、高山の美しい情景が映される中、舞台下手から、春の高山祭の氏神様である飛騨山王宮日枝神社の御神紋が入った衣装を身にまとう森下町獅子組の2人の吹き手がゆっくりとした歩調で祭笛を吹きながら入場する。2人(丸山美優さん、櫻井 瞳さん)は、日枝神社の祭礼である春の高山祭、“山王祭”で祭笛を吹いている現役だ。

ただ、ここはまだヤンの曲ではない。初演に際し、ヤンと竹内さんが合意した上で、曲のさらに前に加えたアドリブである。従って、この部分は出版譜には含まれていない。

そして、その笛の音をバックにナレーションが入る。

“美しく雄大な自然にいだかれる飛騨高山。遠い昔から、人々はこの豊かな自然とともに生きてきました。その中で、先人たちは、あふれんばかりの伝統文化を生み出し、歴史と共に今日まで受け継がれてきました。そんな飛騨高山を訪れたベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト氏。彼の心には、人々の暖かさ、さまざまな情景が、深く深く刻みこまれました。そして、その想いが音楽を通して表現されることになったのです。

(笛の音がつづく中、少し間を空けて)

高山市民吹奏楽団創立50記念委嘱作品 TAKAYAMA IMPRESSIONS”

ここで、吹き手は上手へとはけていき、その囃子の中から、それとは違うピッコロのソロが浮き上がり、上手袖から奏者(勝島 啓さん)がピッコロを吹きながら現れる。その歩みは、中々の役者ぶりだ。そして、このピッコロからがヤンの書いた音楽。しかし、それまでのほんものの囃子とヤンが書いたピッコロのフレーズが何の違和感もなくつながるのがすごい。

ピッコロ奏者は、演奏を続けながらステージ上の自席へと向かい、すでにステージ上の座席についている別のピッコロ奏者1名が、途中からそれに加わって重奏となる。

その後、音楽はバンド全体の演奏へと移っていく。

ヤンが書いた楽譜は、もちろん一般的な洋楽器で書かれてある。しかし、高山市吹ではさらに、8月の絵馬市で名高い市内の山櫻神社(馬頭様)などの協力を得て幾つか和楽器を使うこだわりを見せた!

長く受け継がれてきた伝統的な和楽器が市中に多く残る高山ならではの演出だった!

ヤンの名代のようなかたちで正式な招待状をいただいて訪れた今回の高山入りだったが、演奏会前日(11月17日)に、こんなことがあった。これだけは、ぜひ、お話しておきたい。

大阪から高山へは、新幹線か近鉄で一旦名古屋に入り、それから高山本線に乗り換えるルートが一般的だ。結構な距離がある。もちろん、高山にはできるだけ早い列車で入ろうとしたが、それでも、ホールにやっとたどり着いたとき、ヤンの曲のリハは少し前に終わっていた。

前夜に名古屋入りさえしておけばと思っても、もう後の祭りだ!

すぐ気持ちを切り替えて、“明日の楽しみにしよう”と思っていたら、つづくリハの中、突然、竹内さんから“ぜひ聴いてもらおう”という信じられない指示が出され、恐らくは“筆者ただひとり”のためだけの通し演奏が行なわれたのだ。

それは、魂がこもり、モチベーションの高い見事な演奏だった!

高山市民吹奏楽団創立50周年のテーマは、“縁”!

ここにも、すばらしい人々との出会いがあった!!

▲初演中の高山市民吹奏楽団(2018年11月18日、高山市民文化会館大ホール)

▲使われた神楽鈴、神楽太鼓、締め太鼓
(神楽太鼓 – 協力:山櫻神社(馬頭様))

▲会場に 映された ビデオ・メッセージ

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第82話 チェザリーニ:交響曲第2番「江戸の情景」の誕生

▲フランコ・チェザリーニ(2016年6月、東京)

▲フランコ・チェザリーニの作品カタログ

▲交響曲第2番“江戸の情景”世界初演プログラム(2018年12月9日、Lugano、スイス)

『ディアー・ユキヒロ。フランコが、セカンド・シンフォニーを書き上げた。今、私がもっとも気にとめている作品だ。添付したスコアは、作曲者のプルーフなんだが、ぜひ、感想を聞かせてほしい。このようなスタンダードの作品を書ける作曲家はいないと思うんだ。ベン』

スイスの作曲家フランコ・チェザリーニ(Franco Cesarini)の新作シンフォニーについて、ハル・レナード・ヨーロッパ音楽出版部門トップのベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)からメールを受け取ったのは、2018年10月初旬のことだった。

メールに添付されてきたスコアの表題は、

SYMPHONY No.2 《Views of Edo》
Franco Cesarini
Op. 54

日本語に訳すと、

交響曲第2番《江戸の情景》
フランコ・チェザリーニ
作品54

となった。

全5楽章構成で、各楽章には小題がある。各国で一躍人気曲となった前作、交響曲第1番『アークエンジェルズ』(作品50)(SYMPHONY No.1 “The Archangels”、Op.50)より明らかに尺(曲の長さ)が長い。スコアの頁総数が167ページあるシンフォニーだ。

ただ、その時点で送られてきていたのはスコアだけで、それ以外の、例えばプログラム・ノートなどの作品の背景を知るヒントらしきものは一切なかった。

しかし、スコア最終ページの欄外の「Lido di Jesolo 26.08.2018」という記述から、フランコがスコアを書きあげたのが、2018年8月26日、イタリア、ヴェネチアの海岸リゾート、リド・ディ・イェーゾロだったことがわかった。

(そうか、夏のバケーションの間に書き上げた作品なんだな。)

また、メイン・タイトル《Views of Edo》の“Edo”は、すぐに“江戸”だと気づいた。

(これは、日本を題材にした新しいシンフォニーだ!)

ということは……。少しだけ、思いあたるふしがあった。

フランコは、過去に日本に来たことが一度だけある。

それは、2016年6月10日(金)、鈴木孝佳指揮、タッド・ウインドシンフォニーによって行なわれた交響曲第1番『アークエンジェルズ』日本初演(於:ティアラこうとう大ホール、東京)に際し、コラボレーションのために来日したときのことだった。(参照:第67話 チェザリーニ:交響曲第1番「アークエンジェルズ」日本初演

絵画が好きなフランコは、練習の空き時間を活用して美術館へ行って日本画家の作品を鑑賞したり、都内の寺を訪れたりしていた。浮世絵に関心があることもたびたび口にしていた。

一緒にヤマハ銀座店を訪れたときも、2階のCD売り場で、フロアのスタッフに頼んでサンプルを聴きながら、日本の伝統的な和楽器の演奏が入ったCDを時間をかけて選んで何枚も購入していた。

『面白いものに関心があるんだね。』と訊ねると、『次作は、日本をテーマにしたものを書きたいんだ。』という。

その後、しばらくの間、互いにその話題に触れることはなかった。そのため、その会話のことはすっかり忘れていたが、それから2年以上の時間が過ぎ、ベンから突然送られてきたスコアを見たとき、そのときの記憶が鮮やかによみがえってきた。

(2年という時間は長い!)

また、各楽章の小題にもいくつも日本名が含まれていた。

I. The Pagoda of Zojoji Temple

II. The City Flourishing

III. Temple Gardens at Nippori

IV. Cherry Blossoms along the Tama River

V. Senju Great Bridge

ネイティブ大阪の筆者にもはっきりそれとわかる“増上寺”“日暮里”“玉川”“千住”という日本名が小題に使われていたのだ。

しかし、フランコが東京にいた間に、それらすべての場所を実際に訪れる時間などなかった。しかも、作品のメイン・タイトルには“江戸”の文字。とすると、今の東京をテーマとする曲ではない。

筆者の容量の少ない脳みそをパンク寸前までフル稼動させても、全体のテーマは見えてこなかった。

“いったい何なんだ”と迷いながらも、スコアに目を走らせる。

すると、まず、ものすごいゴージャスな音が響きそうなオーケストレーションに驚かされる。ついで、今の日本の作曲家の多くがまるで忘れてしまったかのような(失礼!)明らかに日本を意識させる旋律線。それは“西洋から見た日本”を感じさせるものでありながら、海外の作曲家が日本をテーマにした曲でよくやらかす“中華風”になっていない点が光る。プッチーニのオペラを聴くような感覚は多少は感じられるかも知れないが…。

しかし、とにかく、何だか妙に懐かしいのだ。こいつは面白い!

そこで、ハタと気がついた!

これは、ひょっとして“浮世絵”の静止画の世界をウィンドオーケストラという音楽のパレットを使って動画にしたような曲かもしれない!広重なのか北斎なのか、あるいはそれ以外なのか。美術に縁遠い筆者には、このときはまだ分からなかったが…。同時に、日本音楽のイミテーションなどではなく、あくまで西洋音楽としての書法を中心として書かれた音楽だった!

間違いなく言えることは、筆者が知るウィンドオーケストラのオリジナルに、同じ種類の音楽はなかった。

ベンには、個人的感想だが、率直に思ったままを書き送った。

『これは、東京の古い呼称である“江戸”の町の情景とそこに暮らす人々、そしてそれを描いた浮世絵の世界にインスパイアーされた作品だ。あなたも知っているクラシックの偉大なる先人たちが試みてきたような。もちろんフランコ自身のスタイルだが。まず、フランコに“おめでとう”と伝えてほしい。すでに初演は決まっているんだろうが、“江戸”をテーマとする曲だから、日本での初演は、必ず“東京”で行なわれるべきだ!』と。

そして、メールを送信後、筆者は図書館へ直行!

浮世絵関連の書物を片っ端にあたっていく内、フランコがモチーフにしたものが、歌川広重の「名所江戸百景」に含まれる5枚の浮世絵であることが分かった。また、送られてきたスコアの表記が英語だったのでピンとこなかったが、各楽章の小題も、すべて浮世絵のタイトルだと判明した。

第1楽章: 増上寺塔赤羽根(ぞうじょうじとうあかばね)

第2楽章: 市中繁栄七夕祭(しちゅうはんえいたなばたまつり)

第3楽章: 日暮里寺院の林泉(にっぽりじいんのりんせん)

第4楽章: 玉川堤の花(たまがわづつみのはな)

第5楽章: 千住の大はし(せんじゅのおおはし)

その後、その足で書店に向かい、できるだけ新刊の参考になりそうな書籍を物色する。

ここからのベンとのやりとりには、フランコも加わってきた。

そして、スコアはまず、前回『アークエンジェルズ』日本初演を成功させたアメリカ在住の指揮者、鈴木孝佳(タッド鈴木)さんに見てもらうことに決まった。

スコア・リーディングを終えた鈴木さんからは、すぐ返信があった。

『すごいヤツですねー!あの短かい滞在期間に、これだけのものを吸収していったとは!!可能ならば、ぜひ、来年(2019年)6月定期でとりあげたいと思います。』

こうして、作曲者と出版社公認の“公式日本初演”は、前回同様コラボレーションのために来日する作曲者を客席に迎え、2019年6月14日(金)、杉並公会堂(東京)で開催される「タッド・ウインドシンフォニー第26回定期演奏会」で行なわれることが決まった。

2018年11月の話だ。

世界初演は、その1ヶ月後、2018年12月9日(日)、スイスのルガーノのパラッゾ・デイ・コングレッシ・ルガーノ(Palazzo dei Congressi Lugano)において、フランコ・チェザリーニ指揮、シヴィカ・フィルハーモニカ・ディ・ルガーノ(Civica Filarmonica di Lugano)の演奏で行なわれた。

クリスマス・シーズンの“ガラ・コンサート”として行なわれたこの演奏会のプログラムは、オール・チェザリーニ・プロ。交響曲第2番『江戸の情景』と2曲のシンフォニエッタだけで構成されるひじょうにシンプルなもので、地元ラジオ局の収録も入っていた。

2日後、ベンから短かいメールが入った。

『スイスに行って、フランコのセカンド・シンフォニーの初演を聴いてきた。それはもう、ファンタスティックだった!』

メールは、新しいシンフォニーの初演成功を伝えるものだった!

地球は狭い!!

▲スコア – SYMPHONY No.2 《Views of Edo》、Op.54 (Mitropa Musik)

▲Hiroshige(Melanie Trede & Lorenz Bieler著)(Taschen、2018)

▲広重 TOKYO 名所江戸百景(小池満紀子、池田芙美著)(講談社、2017)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第81話 栄光のギャルド

▲LP – 栄光のギャルド/吹奏楽名演集(Angel(東芝)、AA-8302)

▲ Angel(東芝)、AA-8302 – A面レーベル

▲Angel(東芝)、AA-8302 – B面レーベル

第2次世界大戦後、日本の吹奏楽にもっとも大きな影響を与えた来日吹奏楽団は、1961年(昭和36年)11月に初来日したフランスの“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(公演名)だった。

第22話「ギャルド1961の伝説」でお話したように、そのとき、彼らが演奏したプログラムは、ヨハン・セバスチャン・バッハの『トッカータとフーガ 二短調』」をはじめ、フランツ・リストの『ハンガリー狂詩曲第2番』、フランツ・フォン・スッペの喜歌劇『詩人と農夫』序曲、モーリス・ラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲、オットリーノ・レスピーギの交響詩『ローマの松』といったクラシックの名曲のほか、フローラン・シュミットの『ディオニソスの祭り』という高度なオリジナル曲などで組まれ、当時の日本の吹奏楽の水準からみると、まるで別世界のように感じられるものだった!

その後、半世紀以上のときが流れ、それらの曲がまるで日本の吹奏楽の定番レパートリーであるかのように演奏される姿をみると、このとき“ギャルド”からもたらされた音楽的インパクトがどれほど大きいものだったかがとてもよく理解できる。

“ギャルド”は、それまでの“マーチ”一辺倒だった日本の音楽ファンの吹奏楽に対する概念を根本から変えてしまうほどの大きな衝撃をもたらしたわけだ。

レコードは、日本コロムビアと東芝音楽工業から登場した!!

ところが、1960年代に国内発売されたレコードは、1枚を除き、すべて“マーチ・アルバム”だった。

第79話「ギャルドとコロムビア・レーベル」などでお話したように、当時のレコード会社の吹奏楽に対する捉え方(常識)が“吹奏楽=マーチ”にしっかり固定されていたので、それも仕方なかったかもしれない。

唯一例外の1枚は、来日時の楽長フランソワ=ジュリアン・ブラン(Francois-Julien Brun, Chef de la Musique et du Orchestre)から『どうしても残しておきたい曲が3つあるが、録音してくれるかな?』という録音当日の突然のリクエストで東芝がレコーディングした「ギャルド名演集」(Angel(東芝)、5SA-5003)だった。

25センチLPとして発売されたこのアルバムには、日本公演でも好評を博したクロード・ドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』、ジョルジュ・ビゼーの『アルルの女』組曲第2番から“ファランドール”、フローラン・シュミットの『ディオニソスの祭り』が収録されていた。

公演をナマや放送で聴いたリスナーが最も期待したアルバム内容だけに、1962年7月にリリースされるや、爆発的人気を集めてアッという間に完売。ところが、その後は、すぐに再プレスされることもなく、次にこれらの曲目が入ったアルバムがリリースされるのは、7年後の1969年9月まで待たねばならなかった。

レコード会社として、マーチ以外の吹奏楽レコードのリリースに慎重になっていた様子が見え隠れする。

同時に録音された6曲の日本のマーチ入りの17センチEP「ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集」(Angel(東芝)、YDA-5001)がレコード番号を変えて何度も発売されたのに比べ、あまりにも扱いが対照的だった。

もっとも、1950年代のフランス盤の収録曲にもマーチは多かった。

戦前から音楽執筆を行われ、“ギャルド”とも親交が深かった赤松文治さんの東京・永田町のご自宅に何度か押しかけた際、不躾にもこのことについて質問したことがある。

すると、苦笑しながらも、氏は『ブランの頃には、月に1度のペースでラジオ放送のための録音が行われていたんで、放送やコンサートで演奏するようなレパートリーまで、敢えてレコード化する必要はなかったんだよ。』と話された。

“なるほど。それなら、レコードなんか必要ないな”と思ったのを記憶している。

その後、他に放送録音があったことについては、氏の労作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」(自費出版 / 1988 / 制作:音楽之友社 / 第24話「ギャルド1961外伝」参照)の中でも触れられている。

とは言うものの、やっぱりコンサート・レパートリーもレコードで聴いてみたい!

1967年10月、そんな音楽ファンの期待に応えるアルバムがついにフランスで録音され、その後、フランスEMIのパテ・マルコーニ・レーベルからリリースされた。

■KIOSQUE A MUSIQUE
(仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572 / ステレオ / 30cm LP)
(Matrix:YPTX 1246 / YPTX 1247)

“RECITAL CLASSIQUE(リサイタル・クラシック)”というサブ・タイトルがあるこのアルバムには、何度でも聴きたい、つぎの4曲が収録されていた。

トッカータとフーガ 二短調(ヨハン・セバスチャン・バッハ)
Orchestration:フランソワ=ジュリアン・ブラン

ハンガリー狂詩曲 第2番(フランツ・リスト)
Orchestration:フランソワ=ジュリアン・ブラン

歌劇「泥棒かささぎ」序曲(ジョアッキーノ・ロッシーニ)
Transcription:レイモン・リシャール

喜歌劇「詩人と農夫」序曲(フランツ・フォン・スッペ)
Transcription:レイモン・リシャール

すべて日本公演で人気を博した曲で、指揮者も、来日当時の楽長ブラン!!

日本の音楽ファンが待ち浴びたこのアルバムは、録音翌年の1968年5月新譜として、東芝音楽工業のエンジェル・レーベルからもリリースされた。

■栄光のギャルド/吹奏楽名演集
GLORIOUS GARDE REPUBLICAINE
(Angel(東芝)、AA-8302) / ステレオ / 30cm LP)
(Matrix:YPTX 1246 / YPTX 1247)

マーチ以外のフランス録音の登場に、日本中のファンが興奮に包まれ、アルバムは大ヒット!

その大成功は、日本のレコード各社に、“ひょっとすると、マーチ以外の吹奏楽レコードも売れる”かも知れないと認識させるきっかけになり、気を良くした東芝も、完売後、文字通りのお蔵入り状態になっていたシュミットの『ディオ二ソスの祭り』ほかの来日時の録音を再登場させることになった。

一方、ブランの定年(1969年6月18日)を間近かに控えたフランスでも、アルバムは、人気を博してロングセラーとなってプレスを重ねた。その後、1972年にも、カップリングを変更して再リリースされている。

調べると、フランス、日本以外でも、アメリカやカナダでもリリースされていたことがわかった。

1枚のレコードがマーケットの空気をガラリと変え、その国のレパートリーにまで大きな影響を及ぼすことになる、ものすごいパワーを秘めたアルバムが、かつて吹奏楽の世界にも存在した!

“栄光のギャルド”は、正しくそんなアルバムだった!!

▲ LP – KIOSQUE A MUSIQUE(仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572)

▲ 仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572 – 初期プレス盤 – A面レーベル

▲仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572 – 初期プレス盤 – B面レーベル

▲仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572 – 中期プレス盤 – A面レーベル

▲仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572 – 中期プレス盤 – B面レーベル

▲仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572 – 後期プレス盤 – A面レーベル

▲仏Pathe Marconi(EMI)、CPTPM 130572 – 後期プレス盤 – B面レーベル

▲LP – KIOSQUE A MUSIQUE(仏LA VOIX DE SON MAITRE(EMI)、C 053-12034)(1972)

▲仏LA VOIX DE SON MAITRE(EMI)、C 053-12034 – A面レーべル

▲仏LA VOIX DE SON MAITRE(EMI)、C 053-12034 – B面レーべル

▲LP – THE BANDSTAND(米Connoiseur Society、40-5664)

▲米Connoiseur Society、40-5664 – A面レーベル

▲米Connoiseur Society、40-5664 – B面レーベル

▲LP – CONCERT PROMENADE(カナダSelect、S-398.136)

▲カナダSelect、S-398.136 – A面レーベル

▲カナダSelect、S-398.136 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第80話 ギャルドとジャケット写真の謎

▲Peter Martland著、SINCE RECORDS BEGAN – EMI – The First 100 years(英Batsford / 1997年)

▲LP – ギャルド・フランス・アメリカ行進曲集 (Angel(東芝)、CA 1027 )

▲ LP – ギャルド・シンフォニック・マーチ名曲集 (Angel(東芝)、AB 7008)

かつてイギリスに“EMI”(イーエムアイ)という世界的なレコード会社が存在した。

ファンにとって、それは芸術の香りを我が家へと運び、身近なものにしてくれる夢や憧憬の担い手であり、演奏家にとってはステータスの証しだった。間違いなく、レコード史に燦然と輝くブランドである。

歴史を紐解くと、EMIは、1931年、英Grammophone(グラモフォン)と英Columbia(コロムビア)の合併によって誕生した。それは、当時のイギリスを代表する2大レコード会社が1つになることを意味する大事件だった。

EMIとは、正式な社名“Electric and Musical Industries Limited”の頭文字だ。

旧社名の“グラモフォン”、それ自体が、円盤の上に音の溝を刻んだレコードを再生する“円盤式蓄音機の登録商標名”であるぐらいだから、それをルーツとする社名をもっていた事実1つをとっても、レコード業界でどれほどの“老舗”だったかをよく物語っている。

EMIのドル箱は、合併前から Grammophone が発売していた“蓄音機から聞こえる主人の声に耳を傾ける犬の絵”をトレード・マークとする《His Master’s Voice(ヒズ・マスターズ・ヴォイス)》と、Columbia が発売していた“音符”のマークの《Columbia(コロムビア)》の2大レーベルだった。契約アーティストとの個別の兼合いもあり、両レーベルは合併後も存続され、録音・制作体制も維持された。

1997年のEMI100周年を記念して出版されたピーター・マートランド著の「SINCE RECORDS BEGAN – EMI – The First 100 years」(英Batsford)を読むと、その100年間に信じられないほどすごい顔ぶれのアーティストがEMIのカタログに加わっていたことがわかり、とても興味深い。

EMIの歴史は、レコードの歴史と言って過言ではなかった。

日本国内で、日本ビクターが“犬の絵”を、日本コロムビアが“音符”を登録商標に使っているのも、第二次世界大戦前から個別に両レーべルと契約関係を結び、日本国内への販売権をもっていた名残りである。

さて、前話(第79話「ギャルドとコロムビア・レーベル」)でお話したように、“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(公演名)が来日した1961年当時、この吹奏楽団の主なレコードは、英Columbiaが子会社として1923年に設立した仏Columbiaレーベルからリリースされていた。

当然、日本での販売権は、英Columbiaとレーベル契約を結んでいた日本コロムビアが持っていた。

コロムビアは、1956年(昭和31年)、手始めに『フランス行進曲集/アメリカ行進曲集(MARCHE MILITAIRES FRANCAISES ~MARCHES MILITAIRES AMERICAINES)』(日本コロムビア、KL-5005)(モノラル)をリリース。1961年の来日が決まると、同盤のタイトルを『ギャルド行進曲集(MARCHE MILITAIRES FRANCAISES ~MARCHES MILITAIRES AMERICAINES)』(日本コロムビア、SL-3072)(モノラル)と改めて再リリースし、来日後の1962年には『ギャルド・グランド・マーチ集(MARCHES CELEBRES)』(日本コロムビア、OL-3234)(モノラル)という、クラシックの名行進曲を集めたアルバムをリリースした。

しかし、1962年、EMIグループの全世界規模の再編の結果、英Columbiaと日本コロムビアとの契約関係が解消すると、英仏Columbia盤の日本国内における販売権は、すべて東芝音楽工業に移行。このとき、コロムビアが販売していたギャルドのレコードも、一定期間の販売継続は許されたものの、追加プレスは認められず、すべて廃盤。マスターも東芝へ移されることとなった。

実は、この前後、東芝は、コロムビアの動きを睨みながら、ギャルド来日中の1961年11月16日(木)、杉並公会堂(東京)でレコーディング・セッションを行ない、来日直後の1962年3月、團 伊玖磨の『祝典行進曲』など、日本のマーチ6曲が入った17センチEP『ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集』(Angel(東芝)、YDA-5001 / ステレオ)およびそのシングル・カットをリリース。7月には、日本公演で注目を集めたフローラン・シュミット(Florent Schmitt)の「ディオニソスの祭り(Dionysiaques)」などが入った25センチLP『ギャルド名演集』(Angel(東芝)、5SA-5003)(ステレオ)をリリースし、大きな成果を挙げていた。

その経緯は、第23話「ギャルド、テイクワンの伝説」でお話したとおりだが、そんな折、日本コロンビアがリリースしていたアルバムのマスターも移管されることになった訳だ。

後年、仕事上いろいろご一緒することになる東芝EMI洋楽クラシックのプロデューサー、中田基彦さんから伺った話だと、この当時、東芝の洋楽部門は『吹奏楽は、イギリスのロイヤル・マリーンズで行く。』と決めていたんだそうで、ちょうどスタートしたばかりの「エンジェル吹奏楽シリーズ」の第1集(Angel(東芝)、ASC-5286)と第2集(同、ASC-5292)も、ヴィヴィアン・ダン指揮、ロイヤル・マリーンズ・バンドが演奏するマーチ・アルバムだった。

同社も、やはり、“吹奏楽=マーチ”をポリシーとしていたのだ。

結果、コロムビアが出していたギャルドの2タイトルも、このシリーズの中でカバーする流れとなった。

■エンジェル吹奏楽シリーズ(第3集)
ギャルド・フランス・アメリカ行進曲集

ANGEL:MARCHES ON PARADE(Vol.3)MARCHES MILITAIRES FRANSES ET AMERICANS
(Angel(東芝)、CA 1027 / モノラル / 30cm LP)
(Matrix: XLX 311 / XLX 312)

■エンジェル吹奏楽シリーズ(第4集)
ギャルド, シンフォニック・マーチ名曲集

ANGEL:MARCHES ON PARADE(Vol.4)MARCHES CELEBRES
(Angel(東芝)、AB 7008 / モノラル / 30cm LP)
(Matrix:XLX 763 / XLX 762)(1964年2月新譜)

データ末尾のマトリクス(Matrix)を見れば明らかだが、先行した“フランス・アメリカ行進曲集”は、仏Columbia原盤や日本コロムビア盤と同じ曲順のリリースだが、もう一方の“シンフォニック・マーチ名曲集”は、日本コロムビア盤では組み換えられていた曲順を仏Columbia原盤当時に戻し、A面をB面に、B面をA面に入れ替えてのリリースとなった。

東芝は、両盤につづいて、フランスでステレオ録音されたフランスのマーチ集をリリースした。ルイ・ガンヌの「ロレーヌ行進曲(Marche Lorraine)」とジャン・ロベール・ブランケット/ジョセフ・フランソワ・ラウスキーの「サンブル・エ・ムーズ(Sambre et Meuse)」などを除くと、収録曲は日本ではほとんど知られていない曲ばかりだったが、ステレオ効果も満点で、“これぞギャルド”という、湧き立つようなサウンドが喜ばれた。

■エンジェル吹奏楽シリーズ(第5集)
ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)

ANGEL:MARCHES ON PARADE(Vol.5)MARCHES MILITAIRES
(Angel(東芝)、AA 7048 / ステレオ / 30cm LP)
(Matrix:YLX 1040 / YLX 1041)(1964年4月新譜)

東芝時代の国内盤では、ジャケットにギャルドのカラー写真が使われるようになった。しかし、その後、CD時代も経て半世紀以上たった今、もう一度振り返ってみると、東芝から発売されたギャルドのレコードやCDのジャケットに使われてきた多くが“馬に跨ったラッパ手”の写真であることに気がつく。

唯一、例外的だったのが、『ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)』(AA 7048)で、ジャケットには“馬”の写真ではなく“ギャルド”の全体写真が使われた。しかし、その写真を注意深く見ると、かなりの数の弦楽器奏者が写りこんでいる。これは、来日した“吹奏楽団”だけを写したものではなく、その後、ジャケットには二度と使われなかった。

種明かしをすると、前者は、当初、来日予定だった馬上演奏が人気を呼ぶ別編成の“バテリー・ファンファール”のラッパ手を写したもので、後者は、83名定員の吹奏楽団に40名の弦楽を加えた“グラン・オルケストル”編成のものだった。いずれも招聘元の朝日新聞社を通じて入手した写真だった。

“グラン・オルケストル(Grand Orchestre)”編成は、楽長のフランソワ=ジュリアン・ブランがベルリオーズの「葬送と勝利の交響曲」のスコアからアイデアを得てスタートさせたギャルド独特の編成で、その編成で録音されたレコードも仏Deccaから発売されていた。

 公演プログラムの表紙(第22話「ギャルド1961の伝説」、参照)にも、『ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)』とは別の、後方から俯瞰で撮影された“グラン・オルケストル”の写真が使われていた。

 ひょっとすると、ブランは、弦楽奏者までを含めたギャルド全員を連れてきたかったのかも知りない。

▲LP – ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)(Angel(東芝)、AA 7048)

▲Angel(東芝)、AA 7048 – A面レーベル

▲Angel(東芝)、AA 7048 – B面レーベル

▲EP – BATTERIE-FANFARE DE LA GARDE REPUBLICAINE DE PARIS(仏Decca、450573)

▲仏Decca、450573 – A面レーベル

▲ 仏Decca、450573 – B面レーベル

▲EP – LE GRAND ORCHESTRE DE LA GARD REPUBLICAINE(仏Decca、458501)

▲仏Decca、458501 – A面レーべル

▲仏Decca、458501 – B面レーべル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第78話 ヴァンデルロースト:交響詩「スパルタクス」の物語

▲東京佼成ウインドオーケストラ第141回定期演奏会&第3回大阪定期演奏会のチラシ

▲同、プログラム

▲同、演奏曲目ページ

2018年(平成30年)11月24日(土)、筆者は、「東京佼成ウインドオーケストラ第3回大阪定期演奏会」が催される大阪のザ・シンフォニーホールに向かっていた。

とっても懐かしい“ある曲”に再び出会うために!

指揮者は、シンガポール出身のカーチュン・ウォン(Kah Chun Wong)。ドイツのバンベルク交響楽団が催した2016年の第5回グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝した話題の俊英だ。

この大阪定期では、前日の11月23日(金・祝)に東京芸術劇場大ホールで催された同ウインドオケの「第141回定期演奏会」と同一の、以下のようなプログラムが組まれていた。

・呪文とトッカータ(ジェームズ・バーンズ)
Invocation and Toccata(James Barnes)

・交響詩「スパルタクス」(ヤン・ヴァンデルロースト)
Spartacus, Symphonic Tone Poem(Jan Van der Roost)

・ピータールー序曲(マルコム・アーノルド / 近藤久敦編)
Peterloo Overture(Malcolm Arnold / Hisaatsu Kondo)

・組曲「展覧会の絵」(モデスト・ムソルグスキー / 高橋 徹編)
Pictures at an Exhibition(Modest Mussorgsky / Tohru Takahashi)

筆者が再会したかったのは、ベルギーのヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost、1956~)が作曲した交響詩「スパルタクス」だった。

完成および初演は1988年。ベルギー王室の至宝とも謳われる、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(Orchestre de la Musique Royale des Guides / 第55話 ノルベール・ノジとの出会い、参照)の演奏で初演された作品だ。

初演翌年の1989年にオランダの出版社デハスケ(de haske muziekuitgave bv)が出版。この作品は、その後、世界的に演奏されるようになった。

作曲者によると、フランスのギャルド・レピュブリケーヌが演奏した唯一の自作品でもあるそうだ。

また、個人的には、作曲者との交友が始まるきっかけを与えたくれた作品であり、日本における初演奏や初レコーディングをオーガナイズした作品でもあった。

作品は、日本でも大ヒット!

その上で“再び出会うために”とワザワザ書いたのには、理由がある。

第47話「ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動」でお話した、ヨーロッパのオリジナル作品の“今”にスポットをあてる佼成出版社のシリーズCDの第1弾、交響詩「スパルタクス」(佼成出版社、KOCD-3901、リリース:1991年12月10日)のために、東京佼成ウインドオーケストラが録音して以降、本当に久しぶりにこの作品を演奏することを知ったからである。

(ついに、定期で取り上げられる!)

東京佼成ウインドオーケストラが、オランダ人指揮者ヤン・デハーン(Jan de Haan)のタクトで、レコーディング・セッション(於:普門館、東京)を行ったのは、1991年(平成3年)9月27日(金)のこと。筆者が知る限り、今度の東京・大阪の両定期演奏会における演奏は、それから27年ぶりのことだった。

メールやスカイプなんかでやりとりできる21世紀の今からみると、まるで信じられないかも知れないが、その当時、国際間の主な通信手段は、もっぱらエア・メール(手紙)かFAXだった。もちろん国際電話という手もあったが、他と比べて通信費がべらぼうに高く、電話は本当にいざという場合の最後の伝達手段として使用された。

しかし、紙の力はすごい!

四半世紀を超える年月が経過した今も、ヤンが送ってきた最初の手紙が筆者のファイルの中にそのまま残っているのだ。ファイルを開いて見ると、その手紙の日付は、1990年10月31日!

タイプライターで印字されたそれは、購入した交響詩「スパルタクス」のスコアの感想とともに日本でも録音プランがあることを知らせた筆者への返信だった。

『ミスター・ヒグチ。私は、大編成のウィンド・バンド(吹奏楽)のために書いた自作「スパルタクス」に関して、あなたが熱狂していると聞き、とても喜んでいます。また、有名な“東京佼成ウインドオーケストラ”とのCDレコーディングを企図されているとも聞かされました。もし、それが現実となるなら、私がとても名誉に思うのは、言うまでもなく明らかなことです!』

こちらが出した手紙が英語だったので、母国語ではなく、得意としない英語で返信してきた彼の気持ちがよく伝わってくる文面だった。

そして、その後の文面がとくに興味を引いた。

『ここでちょっとお知らせしたいことがあります。私は、(スコアの)編成リストにいくつか補足パートを加えます。それらは、もしレコーディングが本当になされるなら、お知らせいただければ送ります。それらは、ダブル・バスーン、コントラバス・クラリネット、ハープ、ピアノ及びチェレスタです。これらのオプショナル・パート譜は、ひじょうに読みやすい手書きで書かれています。….。』

はじめてこれを読んだ瞬間、きわめてシンプルな疑問が頭をよぎった。

(去年出版されたばかりの作品に、もう変更を加えるのだろうか??)

しかし、その後、ヤンや出版社とやりとりを繰り返す内、彼が手紙で知らせてきたこれらのパートは、実際には作曲時からすでに存在したもので、初演にも使われたことが判明した。

それらが出版譜にないのは、以下のような作品の出自と出版社の規模が微妙に絡む事情があった。

まず、交響詩「スパルタクス」は、誰か、もしくは、どこかの楽団からの委嘱作ではなく、作曲者の自由な発想によって書かれた作品だった。

加えて、ロワイヤル・デ・ギィデが初演するぐらいの作品だから、使用楽器の選択も自在であり、当然、編成も大きかった。

また、出版は、作曲者からデハスケに持ちかけたものだった。

この当時、デハスケは、創業間もない社員数5名ほどの“吹けば飛ぶような”弱小出版社で、話を聞いた音楽部門責任者のヤン・デハーン(指揮者、作曲家としても知られる)は、当初、スコアを見る以前に、“そんな規模の大きな作品は、残念ながら当社としは出版できない”といったん断っている。演奏時間が長い上、販売楽譜に“特殊”なパートまで入れると、楽譜がまったく売れない恐れがあると判断したからだった。

しかし、作曲者は粘った。彼は、『スコアを送るので、出版できなくてもいいから、とにかく見てほしい。』と言って、ついにヤン・デハーンからスコアを見る約束を取りつけたのだ。

結果、交響詩「スパルタクス」は、前記パートを除いた姿で出版されることが決まった。

スコアを一読したヤン・デハーンから、『たとえ1冊も売れなかったとしてもいい。当社はこの曲を出版することにした。』と電話がかかってきたその日のことを、作曲者のヤン・ヴァンデルローストはけっして忘れられないという。

この経緯については、彼の60歳を記念して2016年に制作された自伝的CDブック「ヤン・ヴァンデルロースト~マイルストーンズ」(de haske、DHR 16-016-3)でも、彼自身の語り口で書かれている。

そして、1991年、出版を決めたヤン・デハーンを指揮者に起用することが決まった東京佼成ウインドオーケストラのセッションでは、オットリーノ・レスピーギの色彩感豊かなオーケストレーションに触発されて書かれたというこの作品とその作曲者をリスペクトする意味で、出版譜からは省かれたパートもすべて入れた“オリジナル”の形で行なうことにした。

この決定は、作曲者を何よりも喜ばせた。

そして、セッションのために来日したヤン・デハーンもまた、普門館のステージ横でこう言った。

『出版社のレコーディングではないんだから、これでいい!』と。

▲ヤン・ヴァンデルロースト(1980年代後半)

▲交響詩「スパルタクス」初版スコア

▲CDブック – ヤン・ヴァンデルロースト~マイルストーンズ(de haske、DHR 16-016-3)

▲同、曲目

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第75話 大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」こぼれ話

▲大栗 裕

▲大フィルから届いた社告(1956年5月16日(水)神戸新聞朝刊7面)

▲神戸新聞会館完成広告(1956年5月12日(日)、神戸新聞朝刊10面)

『神戸新聞会館完成記念の新聞記事をお送りします。年月日が記載されていないのが残念ですが、真実とは感動的なものですね….。』

大阪フィルハーモニー協会楽団事務局の今田徹也(こんた てつや)さんから、上記のような書き出しのFAXが届いたのは、2005年(平成17年)10月13日(木)の夜のことだった。

それは、過日、こちらから調査を依頼したことへの回答として送られてきたもので、FAXの発信時刻は、19:55だった。届いたFAXの2ページ目には、大阪フィルハーモニー交響楽団のスクラップ・ブックから直接コピーされた神戸新聞社、神戸新聞会館連名の社告がそのまま送られてきていた。

社告とは、新聞社が自社の事業や新刊等を紙面で告知するためのものだ。この日FAXで受け取ったそれには、「神戸新聞会館完成記念 関響グランド・コンサート」という見出しの文言が踊っていた!

今田さんが“年月日が記載されていないのが残念”と書いてきたのは、社告掲載日が不明という意味で、それは新聞紙面から社告だけを切り抜いて、スクラップされていたことに起因する。あらためて調査の要がある。

しかし、それにしても、よく現物が残されていたものだ!

社告にある“関響”は、1947年に大阪で誕生した関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)の名を短縮した愛称だ。大阪フィルに改称されたのは、1960年。なので、この社告は、少なくとも改称前に紙面に掲載されたものであることが明らかとなった。

社告は、こう告げる。

『神戸新聞会館落成記念事業のトップを飾る“関響グランド・コンサート”は音響効果を誇る大劇場で朝比奈隆氏が指揮をする関響フルメンバー百名の演奏と世界の音色で知られる名器「グロトリアンスタインウェイ」ピアノで帰国後最初の神戸公演を原智恵子女史の特別出演で開かれる。なお朝比奈氏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の招待による再渡欧のため三十日出発するので、この演奏会が日本で行う最後のものとなります。』(原文ママ)

演奏会の日時は、5月28日(月)午後6時半からで、会場は、神戸新聞会館大劇場。

告知された曲目は、以下のとおりだった。(曲名、作曲者名は、原文ママ)

◇楽堂祝典(ベートーヴェン)
◇新世界交響曲(ドボルシャック)
◇ピアノ協奏曲第一番(ショパン)
◇大阪俗謡による「幻想曲」ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に捧ぐ(大栗裕)[本邦初演]

社告は、1956年(昭和31年)5月28日、渡欧直前の朝比奈 隆が、旧神戸新聞会館の“こけら落とし”の演奏会の指揮をすること、そして、同じ演奏会で、ベルリン・フィルに捧げるために作曲された大栗 裕の『大阪俗謡による幻想曲』が初演されることを伝えるものであった。

ここでいきなり時間が飛ぶが、筆者は、1992年(平成4年)12月2日(水)、大阪府枚方市樟葉にあるご自宅に作曲者の奥さん、芳子夫人をお訪ねしていろいろと話を伺う機会を得ている。そのとき、この演奏会についても質問を試みたが、夫人はこの日のことをとてもよく覚えておられ、以下のような明快な回答を得た。

『そういえば、パパの曲で朝比奈先生に呼ばれて1度だけ神戸へ行ったことがありました。とても新しいきれいなホールでした。おそらく、それがこの時だったのでしょうね。』

演奏会の11日前、5月17日に落成式が行われた旧神戸新聞会館大劇場は、当時、座席数二千と謳われた神戸市内屈指の大ホールだった。しかし、1995年(平成7年)1月17日(火)の午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災で全壊の被害を受けたため、残念ながら取り壊されて今は無い。跡地には、新しい神戸新聞会館(ミント神戸)が建つ。

しかし、朝比奈さんが大栗さんに作曲を依頼した『大阪俗謡による幻想曲』の初演が、旧神戸新聞会館で行われたことだけは、紛れも無い事実となった。

筆者がそのことに留意するようになったのは、1973年(昭和48年)5月25日(金)、フェスティバルホールで行われた「朝比奈 隆 音楽生活40周年演奏会」(出演:大阪フィル、大阪市音楽団、大阪府音楽団ほか / 演奏曲:第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲、参照)を聴きにいって、プログラムに大野敬郎さん(音楽クリティッククラブ)が書かれた“曲目をめぐって”というノートを読んだときだった。

その一部を引用すると、そこにはこう書かれてあった。

『朝比奈・大阪フィルと縁の深い作曲家が大栗裕。かって、大阪フィルのホルン奏者として活躍しており、作品の初演もこのコンビによっている。つい先日も、フラワー・バレエ「花のいのち」が初演されている。「大阪俗謡による幻想曲」が初演されたのは、昭和31年5月、大阪フィルの前身関西交響楽団によってである。彼の作品には、関西の民謡を素材にしたものが多く、この曲も天神祭のダンジリ、生国魂神社のししまいの笛・はやしによっている。31年、朝比奈がヨーロッパに演奏旅行をした際、ベルリン・フィルを指揮してこの曲を演奏し、好評を得ている。』(原文ママ)

初演は、世間でよく言われていたベルリン・フィルではなかったのだ!

その後、作曲者の没後10年にあたる1992年に、大阪市音楽団演奏のCD「大栗 裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195)のプログラム・ノートを書くことになった筆者は、まず大野さんのこの記述を思い出した。あらためてチェックすると、作品集CDのノートとするためには、記述されている情報の他に、少なくとも、完全な初演日、演奏会場名称、演奏会名称の各データを補強する必要があるように思えた。そこで、大阪フィルに調査を依頼。朝比奈さんが“調べ魔”と呼ぶこともあった小野寺昭爾さん(現大阪フィルハーモニー交響楽団 顧問、元事務局長)の尽力により、それらは「初演日:昭和31年5月28日、会場:神戸新聞会館、演奏会名:関響グランド・コンサート」であると判明した。

しかし、つねに精度を高めるため、どんな事実にもいつも検証が必要だ。

冒頭の今田さんへの依頼は、2005年11月16日(木)、ザ・シンフォニーホールで開かれた「創立90周年 大阪音楽大学第37回吹奏楽演奏会 大栗 裕の世界」のプログラム・ノートの執筆の依頼を受けたとき、以前に書いたノートに使った全データを再検証する作業の流れの中で行なった。

小野寺さんが13年前にチェックされた原資料が、いったい何であったのかを確認するためだった。

その結果、発掘されたのが前記の“社告”だった。(後日、これは、1956年5月16日(水)朝刊7面に掲載された社告であることも判明した。)

そして、もう1つ、1992年に書いた東芝CDのノート執筆後に、新たに判明したことがあった。

それは、1955年の作曲当時、この作品のオリジナル・スコアやパート譜には、「Fantasia“Osaka”」もしくは「Fantasia“大阪の祭囃子による”」のような曲名が手書きされていたことだった。

手書きタイトルは、楽譜ごとに微妙に違っていたが、それらを日本語曲名として整理すると、作曲者は、当初、曲名を「大阪の祭囃子による幻想曲」にしようと考えていたことが明らかだった。

大阪市内の中心部に暮らす筆者のような人間には、天神祭の“鉦(かね)”や生国魂神社の獅子舞の“お囃子”を取り込んだこの作品は、「大阪の祭囃子による幻想曲」と呼ばれるほうが実はピンとくる。

もちろん、社告のとおり、初演時には、曲名はすでに『大阪俗謡による「幻想曲」』となっていたので、音楽史上、「大阪の祭囃子による幻想曲」が邦題としてプログラムを飾ることはなかった。

しかし、朝比奈さんがヨーロッパに持参し、演奏後、ベルリン・フィルに寄贈され、同楽団のアルキーフの所蔵となった手書き譜には、「Fantasia“Osaka”」あるいは「Fantasia“大阪の祭囃子による”」などが書かれたままだった。

幸いにも、現物を確認できた者として、ぜひにも多くの記憶に留めたいと思う。

また、曲は、作曲過程で、朝比奈さんのリクエストで何度か書き換えられている。現代風に言うなら、作品はコラボレーションを経て完成されたわけだ。そのため、作曲者の手元や写譜の現場には、スケッチや断片、破棄された楽譜の類いが残されることとなった。これは後に大きな意味をもつことになる。

21世紀の現時点からすると、想像すらできないだろうが、コピー機もスキャナーもなかったこの時代、演奏で使われる楽譜は、実際に版を起こして作る“印刷譜”以外、すべてが手書きだった。スコアからパート譜を起こしたり、オーケストラのプルトにしたがってパート譜を手で書き増す“写譜屋”という職業が成立した時代だった。

従って、朝比奈さんが「関響グランド・コンサート」での初演に使ったスコアもパートもすべて手書きで、それが演奏に使える唯一の楽譜だった。前記のとおり、この《原典》が、ベルリン・フィルの所有となった。

作曲者は、その後、少なくとも1958年までの間に、必要に迫られ、残された楽譜や作曲時の記憶から作品を再構築した。それが、大フィルが1970年頃まで演奏に使った《第二版》である。

しかし、この《第二版》は、その後、“やっぱり違う”と感じた作曲者が大フィルのライブラリーから持ち帰り、記憶違いと思われる箇所の修正や音楽的補正を加えた現行の《第三版》が1970年に作られた。

大阪市音楽団の委嘱で書かれ、1974年(昭和49年)5月30日(木)、毎日ホールで開かれた「第28回大阪市音楽団定期演奏会」で、永野慶作の指揮で初演された「吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”」は、管弦楽版の《第三版》をベースに作られている。

以上のように、大栗 裕の『大阪俗謡による幻想曲』には、小改訂を除くと、3つの管弦楽版と1つの吹奏楽版が存在する。

その後、ベルリンの《原典》は、朝比奈さんのリクエストによって一時帰郷が叶い、1999年(平成11年)11月11日(木)、フェスティバルホールで開催された「大阪フィルハーモニー交響楽団 第333回定期演奏会」で、外山雄三の指揮で演奏され、大きな話題となった。

同演奏会のプログラムには、つぎのような注釈が書かれている。

『本日演奏します「大阪俗謡による幻想曲」は、ベルリン・フィル所有の楽譜を使用致します。大栗氏はベルリン・フィルにこの曲を献呈された後、メモを基にスコアを再製されたのですが、改めて照合してみますと、かなりの部分で相違がありました。本日はオリジナル楽譜での演奏としてお楽しみ下さい。』(原文ママ)

やはり、オリジナルは違っていた!

そして、これもまた、音楽の歴史の一頁である!!

▲第28回大阪市音楽団定期演奏会プログラム

▲同、演奏曲目

▲第28回大阪市音楽団定期演奏会(1974年5月30日(木)、毎日ホール)

【関連楽譜】

■吹奏楽のための大阪俗謡による幻想曲(自筆譜に基づく 原典版) 全曲版
https://item.rakuten.co.jp/bandpower-bp/set-0106/

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第73話 フィリップとロジャーの再会

▲「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」のチラシ

▲「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」のプログラム

▲オオサカ・シオンにて(2019年1月17日)

▲オオサカ・シオンにて(2019年1月17日)

2019年1月14日(月・祝)、大阪の空の玄関口、関西国際空港(KIX)にイギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)が降り立った。

週末の1月19日(土)、ザ・シンフォニーホールで開催される「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」の客演指揮をつとめるためだ。

フィリップが大阪音楽大学吹奏楽団のステージに立つのは、2年前の2017年3月4日(土)、フェスティバルホールで開催された「第48回吹奏楽演奏会」(第7話:スパーク“ウェイ・トゥー・ヘヴン”とロイヤル・エア・フォース」、参照)以来、これが2回目。来阪は、6ヶ月前の2018年6月3日(日)、ザ・シンフォニーホールで開かれた「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第120回定期演奏会」(第45話:祝・交友30周年 ~スパークとイーグル・アイ、参照)を客演指揮して以来のことだった。

これで、大阪では過去4年間に5度登場!すごい頻度だ!

今回、フィリップと大阪音大が取り組んだプログラムは、2011年6月17日(金)、めぐろパーシモンホール(東京)で行われたTADウインド・シンフォニーによる日本初演(指揮:鈴木孝佳)以降、東京吹奏楽団、オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラが定期演奏会で取り上げ、ジワリジワリと存在感を高めている交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」をフィナーレに据えたものだった。

・マドリガルム
Madrigalum

・エンジェルズ・ゲートの日の出
Sunrise at Angel’s Gate

・スピリット・オブ・アンダルシア
Spirit of Andalusia

・3つのワシントンの彫像
Three Washington Statues

・天と地をめぐりて~ガブリエル・フォーレに基づく創作主題による協奏変奏曲
Moving Heaven and Earth ~Concertante Variations on an Original Theme (after Gabriel Faure

・インヴィクタス~征服されざるもの
Invictus ~The Unconquered

・交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」
Symphony No.2 – A Savannah Symphony

この発表時、ひょっとすると、「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」や「宇宙の音楽(Music of the Spheres)」、「祝典のための音楽(Music for a Festival)」、「オリエント急行(Orient Express)」、「ウィークエンド・イン・ニューヨーク(A Weekend in New York)」といった、日本でもすっかりおなじみとなっているスーパー・ヒットを一切含まないこのプログラミングに、一瞬“あれ?”と思ったファンもいたかも知れない。

しかし、フィリップにとって、今回は、初顔合わせで好感触を得た大阪音大のバンドとの2度目の共演。そのプロには、“今度はぜひ、今のフィリップ・スパークを表現したい”という強いメッセージが込められていた。

言い換えれば、多作家として知られるフィリップが近年の自作品からとくに厳選したレパートリーで構成した“お気に入り”のプログラムだった。同時に、作曲者とプログラムの摺り合わせを行ない、来日前の下棒をつけた同大特任准教授、伊勢敏之さんのポジティブなジャッジメントの成果でもあった。

大阪は、1993年11月8日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開催されたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の「ライムライト・コンサート6」(第4話:スパーク・コンダクツ・スパーク、参照)以来、日本でもっとも数多く“フィリップの客演指揮による自作自演”が行われてきた町だ。

「オリエント急行」や「宇宙の音楽」ウィンドオーケストラ版など、大阪で日本初演や世界初演が行われた新作の多くがこの町から日本国内へと発信されていった。

今回のフィリップ招聘を企画した同大教授の木村寛仁さん(ユーフォニアム)や前記の伊勢さん(トロンボーン)も、かつて、この町でものすごい人気を誇った“ブリーズ”のスター・プレイヤーであり、日本でもっとも数多くフィリップの作品を手がけてきた音楽家だった。また、現在のオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラにも、フィリップと共演を重ねたプレイヤーは多い。

それだけに、友人の多い大阪に滞在し、指揮をするときのフィリップは、いつも、まるでホームであるような感覚で音楽を愉しんでいる。大阪人の気さくで開放的な性格や、市民生活に“お笑い文化”が溶け込んだ明るい町の雰囲気もお気に入りで、当然イングリッシュ・ジョークも連発する。

一方で、大阪の音楽ファンも、彼の新作をこぞって受け入れてきた。

当然、今回のプログラミングも、“あたらしもんずき”(東京弁に翻訳:新しいもの好き)の大阪という土地柄を強く意識してのものとなっていた。

終演後のパーティーで同大副理事長の本田耕一さんに伺うと、席が足らなくなって200名近い聴衆の入場をお断りしなければならない事態となった第48回演奏会と同様、第50回演奏会のチケットの売れ行きもたいへん好調で、実売1500席を超えた時点で慌てて発券をストップしなければならないほどの勢いだったそうだ。

フィリップの作品や指揮にはじめて接した学長の本山秀毅さんも、『自然体というか、(音楽もしぐさも)とてもナチュラルな印象を受けました。』と言われた。それに応えて『彼とは30年を超えるつきあいですが、近年は間違いなくマーラーをリスペクトしています。』とお話しすると、さかんに頷かれていた。

<アンコール>には、「陽はまた昇る(The Sun Will Rise Again)」と「マーチッシモ(Marchissimo)」の2曲が演奏され、コンサートは大成功に終わった。この内、「陽はまた昇る」は、2018年6月18日(月)に大阪を見舞った大阪北部を震源とするM6.1の大きな地震からの復興を祈念して、大学側からとくに要望された曲だった。震源に近いところは、今もってブルーシートが多い。

その日、東海道新幹線に乗っていた筆者もひどい目に遭った。

フィリップのメンタルの上でも、今回の来阪は、いつもとは状況が違っていた。

前記地震の3ヵ月後の9月4日(火)、大阪は、未曾有の暴風のため、関空連絡橋に衝突したタンカーが橋を破壊する騒ぎとなった猛烈な台風21号の直撃を受けた。

そのニュースは、海外でも大きく報じられたようで、筆者のもとにも多くの友人、知人から安否確認のメールがつぎつぎと届き、フィリップからも、“キミ自身やオオサカ・シオンなどの友人たちに何事もなければいいんだけど…”と、メールが届いた。こちらも速攻で無事を知らせたが、街路樹がつぎつぎなぎ倒されて道が完全に塞がれている様子や、建物が吹き飛ぶ被害動画をいくつか添付したころ、“とにかく、無事でよかった!しかし、なんてことだ!!あの美しい大阪の町がこんなことになっているなんて…”と絶句。

今回の来阪は、その被災直後だった。それだけにコンサートにかける彼のモチベーションは、いつも以上に高まっていた。

一方、大阪音大の方も、例年3月に行われる吹奏楽演奏会を、フィリップのスケジュールに合わせて1月に変更した。第50回という“区切り”の演奏会を、どうしても彼とやりたいとする熱意の表明でもあった。

しかし、この変更は、筆者のスケジュール調整やその後の体調に少なからず影響を及ぼした。

普通に授業や試験がある時期だけに、コンサートに向けての合奏練習が、毎日同じ時刻に始まらず、夕刻スタートで午後9時まで組まれていたからだ。学内の調整もたいへんだったことは、容易に想像できる。

木村さんからは、事前に、初日(1/15)の練習や演奏会当日(1/19)のゲネの立会い、夕食のケアなどを委ねられていた。しかし、良質の牛肉を好むイギリス人のフィリップに合わせた適当な食事場所を午後9時半をまわった時間帯に見つけるのは意外と大変だった。チープな呑み屋なら、宿泊するホテル周辺にいろいろあるのだが、食事だけはできるだけ彼の好みに合わせてあげたかった。

そして、この時、同時にもう1つ、練習初日の1月15日にフィリップと筆者の共通の友であるコルネット奏者ロジャー・ウェブスター(Roger Webster)のソロ・リサイタルが大阪で行われることにも頭を悩ませていた。

ロジャーは、1990年にブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)が2度目の来日を果たした当時のプリンシパル・コルネット奏者で、長年にわたり、ロイヤル・ノーザン・カレッジ・オブ・ミュージックなどでも教鞭もとる名手。どんな難曲でもサラリと音楽的に演奏し、“ミスター・クール”との異名をもつ世界最高峰のコルネット奏者の1人だ。彼とは、国内外でコンサートを行い、レコーディング・セッションも行った。

そんな間柄から、本来、ロジャーが希望するなら、友人として来日をできるだけサポートしなければならないと思っていた。ロジャーもまた、来日をオーガナイズする東京のビュッフェクランポンに強くそれを申し入れていた。しかし、企業には企業側の論理があったのだろう。経営陣が日本人からフランス人に代わった同社からは、結局、何の連絡もなかった。そんな状況下では、当方は表立ってまったく動けない。日程上、ゲスト招聘が可能なアーティストに、彼の来日を知らせただけだった。頻繁にメールを寄こしたロジャーも、“キミに一度もコンタクトしないなんて、彼らはプロじゃない!”と怒りをぶつけていたが…。

ピンポイントで1月15日について言うなら、最大の問題は、ロジャーの大阪でのコンサートと木村さんに約束した大阪音大の練習時間が、完全に被っていることだった。

しかし、“今回は恐らく会えないかも知れないな”とちょっと弱気になっていたそのときだった。突然、「練習を終えたフィリップとともに、ロジャーの打ち上げを奇襲する」という閃きが頭をかすめた。

(これは、いけるかも知れない!)

そこで、大阪音大でフィリップと顔を合わせたとき、“今晩、サプライジングなアイデアがあるんだが…。”と切り出すと、フィリップも、まるでMr.ビーンのように目をキラキラさせながら、“サプライジングは大好きだ!そうか、ロジャーが大阪にいるのか!やろう、やろう!”とやる気十分!!

(一方で、筆者は、三木楽器開成館で行われているロジャーのコンサートに“忍び”を放ち、打ち上げがどこで行われるのか、粗方情報をつかんでいた。あとは、実行あるのみだ!!)

そして、この会話を隣で聞いていた木村さんも、話に割って入ってきて、“樋口さん、もうすぐホテルに戻るためにタクシーが来ます。その車で直接そこへ向かってもらっていいか、ちょっと訊いてきます。たぶんOKだと思いますが…。”と言いながら、コンサートセンターの責任者に了解を取りにいってくださる。このあたり、長年の付き合いがものをいう。“あうんの呼吸”とでも言えばいいのか!

結果、我々2人は、本田さん、木村さん、伊勢さん、そして吹奏楽団の多くの学生さんたちの盛大な見送りを受けながら、ハイヤーで大阪音大を意気揚々と出発!

見事、ロジャーの“奇襲”に成功した!!

日本語には“鳩が豆鉄砲を喰らったような”という表現があるが、ロジャーのいる場所を遠めから視認し、周囲に気づかれないようにその斜め後方から近づいて“ジャジャーン”と声をあげながら現れたときの彼の驚いた顔といったらまさしくそんな感じだった!近くにいる日本人関係者も、その場にフィリップまで現れたことに、口々に“エッ!なんで?(東京弁に翻訳:どうして?)”と驚いた様子だった。

(やったぞ、奇襲は大成功だ!)

ロジャーとフィリップも、本当に久しぶりの再会であり、座は一気に盛り上がる!

ホテルに戻ったとき、真顔のフィリップから、“今日は、ロジャーとの時間を設けてくれて本当にありがとう。”とあらためて感謝された。

(どういたしまして!)

そこで、カバンから、前年6月の来阪時に約束した第2次大戦中の英空軍(RAF)の「デ・ハビランド – モスキート(de Havilland – Mosquito)」のモデルを取り出してプレゼント!!

“オーッ!シックス・スリー・スリー(映画「633爆撃隊」)の名機か!ありがとう!”と、まるで子供のように大はしゃぎ!!

(これで、彼のベッドサイドの私設“英空軍博物館”の所有機も、計4機に発展した!)

その後、大阪音大の練習開始時刻がかなり遅く設定されていた1月17日に、いろいろな事情から民営化後3度目の引っ越しを余儀なくされたオオサカ・シオンの練習場をいきなり訪れることでも話がまとまった!!

そのシオンでは、楽団長の石井徹哉さんや広報担当の案内で合奏場、指揮者室、ライブラリーなどを見学。第120回定期で客演指揮をした「ドラゴンの年(2017)(The Year of the Dragon – 2017)」のスコアにサインを入れたり、ライブラリーのロッカーに張られた“千客万来”の招き猫を見つけて一緒に写真に収まるなど、やはりというか、大盛り上がりの展開に!!

まるで漫才のようにナマで飛び出した「もうかりまっか」(筆者)→「ぼちぼちでんなー」(フィリップ)の掛け合いも、シオンのメンバーに大ウケだった!

フィリップにとって、大阪は、間違いなく日本のホーム!!

2019年1月、その絆は、さらに深くなった!!

▲「ロジャー・ウェブスター、コルネット・リサイタル」のチラシ

▲ 初来日時のロジャー(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲初来日時のロジャー(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲ ロジャーとフィリップ(2019年1月15日、大阪某所)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第72話 史上最低のコンサート鑑賞記

▲ブラック・ダイク・バンド 松山(愛媛)公演チラシ(2016年11月4日)

▲同、チラシ裏の説明

▲コラボ企画チラシ

2016年11月4日(金)、筆者は、JR「新大阪」駅から、山陽新幹線「のぞみ23号」~予讃本線「しおかぜ13号」と特急列車を乗り継いで、JR「松山」駅に降り立った。

久しぶりに仕事とは無関係で、26年ぶりに来日がなったブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)のコンサートを個人的に愉しむためである。

旧友の音楽監督ニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs、第14話「チャイルズ・ブラザーズの衝撃」参照)や、大阪でのソロ・リサイタルの後、大盛り上がりしたプリンシパル・コルネット奏者リチャード・マーシャル(Richard Marshall)らと旧交を温めるのも目的だった。

特急「しおかぜ」の終点“松山”駅は、四国最大の都市、松山の表玄関だ。しかし、21世紀のこの時代に自動改札ではなく、列車の到着と同時に何人かの駅員が改札口に出て乗客の切符を検札するスタイルのままであることに、まず大感動する!

まるでタイムスリップしたような、昭和の国鉄そのものだ!!

“イヤー、なつかしい!”と結構ウキウキした気分で、何日か前に主催者のテレビ愛媛の事業部に電話予約したチケットを引き換えるため、市内電車の電車道を歩いて会場の松山市民会館に向かう。

スマホ世代には、“なになに? 今どき電話予約だって?”と呆れられてしまいそうだ。

しかし、日本の多目的ホールでブラスバンドをいいサウンドで聴くには、席のポジショニングがとても重要な要素になるので、実は、この前近代的予約方法がとてもありがたかった。

事前に席割りを確認すると、チケットは2種類(S席:6,500円、A席:4,500円)。その内、大部分がS席の設定で、数少ないA席はいいサウンドがまるで期待できない場所に設定されていた。“電話予約”では、S席の中から好みの席を選んで指定できたわけだ。

ホールに向かう途中、とても面白かったのは、すれ違う人の多くが“大阪弁”をしゃべっていたことだ。筆者も暮らす大阪は、公演地から外されていたから当然か。少なからず“東京弁”を話す人もいる。こちらは、東京公演を愉しんだ後のリピーターだろう。結構、遠くからファンが来ているのを知って、ちょっと愉快な気分になった。

しかし、この日は、ここからどんどん残念な方向に話が展開する。

窓口でのチケット交換は、名前の確認だけで、比較的スムーズだった。そして、“ハイ、承っております”という愛想のいい言葉に促されて代金を支払い、テレビ局の封筒入りのチケットを受け取った。

時計を見ると、開場まではまだかなり時間があるので、市内を散策することにした。

再び電車道に戻り、「松山」駅の方向に歩いていくと、進行方向正面のホテル1階ロビーに、見慣れた外国人が難しい顔をしながら2人の日本人と何やら話し込んでいる姿が目に飛び込んできた。

音楽監督のニック(ニコラス・チャイルズの親称)だ!

打ち合わせ中なら拙いが、どうもそんな雰囲気ではない。とても暗い。

それならとホテルに入り、難しい顔をしているイギリス人に声をかけた。

“ニック、久しぶり!!”

彼もすぐ気がついたようで、急に顔が明るくなった。

互いに“何年ぶりだろうか、元気にしていたか?”と会話が弾む。

しかし、“なぜ大阪がなかったのか? 大阪ではブリ―ズ・ブラス・バンドのスタート以来、ブラスバンドをよく理解しているファンがとても多いのに…。”と少し抗議を込めながら問うと、彼は少し真剣な顔になって、“そうなんだ。残念ながら、大阪は外されたんだ。そのことも含めて、今、招聘元(ジャパン・アーツ)に詳細なリポートを書いているところだ。来年(2017年)も来ることが決まったので、そのときは必ず行くから…。”と一気に話してくれる。

どうやら、大阪が完全に無視されたのは、彼の責任ではないことは分かった。

(大阪は、その後、2017年ツアーでも公演地から外されている。)

ニックの傍らにいる洗足学園音楽大学の滝澤尚哉さんは、彼が難しい顔をしていたのは、ホテルで用意された食事の内容にまったく融通が利かないことに対して激怒していたからだと説明してくれる。

昔から、ニックは、食べ物についてはひじょうに煩かった。そんな彼に、定食のようなものを喰えといったら、大変なことになることは否を見ることより明らかだった。

いやしくも、ブラック・ダイクの音楽監督である。もう少し、別の対応ができなかったのだろうか。主催サイドの基本的な落ち度と思えた。

そこへ、背後から声がかかった。振り返ると、プリンシパルのリチャードが立っている。

彼は、陽気に“車をとばして来たのか?何時間かかった?”と訊いてくる。そこで“列車で4時間くらいだ!”と答えると少しビックリした様子だったが、“約束したとおり、今夜は愉しませてもらうよ!”と続けると、“そうか、ではエンジョイしてくれ!”と言葉が返ってきた。

やがて、難しそうな顔をしていたニックも、少し気分が落ち着いたのか、“それじゃ、コンサートで”と言いながら、食事はまったくとらず、コーヒーだけを手にホテルの自室に戻っていった。

こうして、ロビーのソファーには、日本人だけが残された。そこで付き添っている彼らに、いろいろ事情を訊ねると、このツアーでは、他にもいくつか事件が勃発している様子だった。

実は、大阪を発つ前、“今日は、都合でフィナーレの「インモータル(Immortal)」(ポール・ロヴァット=クーパー)は、やらないらしい”との情報にも接していた。

滝澤さんは、コルネットのバックロー(後列)のヴィクトリア・ケネディのお父さんの訃報が入り、急遽帰国することになったためだという。

“本人は、最後まで演奏する”と言っていたらしいが、“すぐに戻れ”ということになったそうだ。その結果、演出上の都合もあり、この曲はカットされることになった。ブラック・ダイクのコンサートのために特別に書かれた曲だけに、ファンはガッカリするかも知れないが、事情を知ればみんな納得してくれるだろう。

世界中のブラスバンドは、ファミリーのようなものだから。

しかし、その一方で、この夜のブラック・ダイク公演は、完全に演奏者の“定足数割れ”、曲によっては“音の数まで不足する”かたちで行われることが明らかとなった。

いったい主催者は、これをどう説明するのだろうか。

筆者がミュージカル・スーパーバイザーを任されていた当時のブリーズ・ブラス・バンドの有償コンサートなら、入場料は間違いなく払い戻しにしていただろう。

もう過去の話なんで知らない人も多いだろうが、ブリーズは、ヨークシャーでブラック・ダイクとジョイント・コンサートを開いたこともある大阪のプロのブラスバンドだ。

そんなことを考えている時、ふと気になって、先ほど受取ったチケットを確認する。すると、その席番は“電話予約”したものとまるで違うものだった。“ここは、音が悪い!”

慌てて開場前のホールにとって返すと、“電話予約”したチケットは取り分けられてまだ残っていた。相手は、“米つきバッタ”のようにペコペコ謝罪するが、何とも意味不明の言い訳が実に空しい!!

しかし、当夜の事件は、ここからが本番だった。

まず、入場の際、手渡されたのが“この日の公演のチラシ”と“テレビ愛媛の番組表”など。不審に思って係員に訊ねると“そのチラシがプログラムです”と呆れた回答が返ってきた。怒りを抑えて、さらに“招聘元が作った有料のプログラム”なんかを別に売っていないのか訊ねると、“ありません。それがプログラムの代わりになります”という。

松山では、こんなコンサートが通用するのか!?

チラシ最上部には、明治乳業グループのロゴと「四国明治株式会社 Presents」との文字が入るれっきとした“冠興業(かんむりこうぎょう)”だ。“特別協賛”の文字まで入っている。

主催者や招聘元は、いったいどんな感覚でこのコンサートをやっているのだろうか?

恥ずかしくはないのか!!(たぶん、ないのだろう)

会場では、東京、大阪、広島などから聴きに来た知人からつぎつぎ声がかかった。話をすると、みんな“なんか変だ”と首をかしげている。

とにかく、素人以下の対応。聴衆を会場に迎え入れる準備がまるでできていないのだ。

コンサートは、テレビ愛媛のアナウンサーが案内役となり、手にした原稿を一字一句間違わないように“棒読み”しながら進行した。滑舌こそさすがだが、当然ながら、演奏以外、まるで盛り上がらない。

そして、案の定、“メンバーが個人的な事情で急遽帰国し、出演が叶わなくなったこと”や“プログラムが変更になったこと”“アンコール曲”についての説明や場内アナウンスも一切なかった。会場をくまなく見て回ったが、“張り紙”すらなかった。

なんだろう、これは!あまりにも稚拙、レベルが低すぎる!

同時に、ブラスバンドを舐めている!

これは、フィクションではない。

わが人生における“史上最低”のコンサート鑑賞記である!

▲CD – Black Dyke Band Japan Tour 2016(自主制作、WOS 102)

▲同、曲目

▲メンバー表

▲サイン

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第70話 オランダKMK(カーエムカー)の誇り

▲KMKのプログラム・カバー

▲演奏曲目(1993年6月26日、ブーニゲン)

▲ピエール・キュエイペルス

▲オランダ王国陸軍バンド(KMK)(於:アムステルダム・コンセルトヘボウ)

1993年6月26日(土)、筆者は、オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)、アムステルダム・ウィンド・オーケトラのソロ・クラリネット奏者ニーク・ヴェインス(Niek Wijns)の二人と、二ークの運転するボルボで、アムステルダムを出発し、ドイツ国境に近いブーニゲン(Beuningen)をめざしていた。

同地のティネフィーター・スポートハル(Sporthal De Tinnegieter Beuningen)で開かれるオランダ王国陸軍バンド(Koninklijke Militaire Kapel / KMK)のコンサートを聴きに行くためだ。

二人とは、同じ年の4月に大阪で会って以来だった。その時、7月に東芝EMIのアムステルダム・ウィンド・オーケトラのレコーディング(第54話:ハインツ・フリーセンとの出会い、参照)でオランダを訪れることを知った彼らは、“オランダ国内のことに関しては俺たちに任せろ”と言うので、“それなら任す”と言ったところ、ベルギーのヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)やオランダの各出版社などと緊密に連絡をとり、筆者のリクエストに従って各方面と調整。普通の外国渡航なら決して味わえない密度の濃いスケジュールを作ってくれた。

オランダ国内のスケジュールをヨハンらが担当、ベルギー国内のスケジュールをヤンが担当といった具合に。

それが、どれくらいの“濃さ”だったかというと、オランダ入国~ベルギー移動~再びオランダに移動~帰国便に搭乗までの間、セッションでご一緒した東芝EMIの佐藤方紀さんを除き、誰一人として同胞と出会わなかったという超ディープさ!!当然ながら、喰い物や飲み物も完全に現地のものばかりとなった。

今から振り返ると、対オランダ人、ベルギー人相手の免疫は、このとき完全に出来上がったようだ!

そして、この日、夜の20時に開演するこのコンサートは、『マリニールス(オランダ海軍)もしくは、カーエムカー(オランダ陸軍)のバンド・コンサートがあるなら、ぜひ聴きたい。』というリクエストに応えて、彼らが見つけ出してくれたものだった。

もちろん、世界的に有名な両バンドのレコードは、それまで結構聴いていた。

オランダのメジャー・レーベル“フィリップス(Philips)”の専属で、吹奏楽団として世界一のレコード販売枚数を誇った“マリニールス(De marinierskapel der Koninklijke marine)”は、ビクターから日本盤のレコードが結構リリースされていたし、“パサート(Basart)”“ポリドール(Polydor)”“RCA”“モレナール(Molenaar)”などの各レーベルから発売された“カーエムカー”のレコードも輸入盤でかなり揃えていた。

面白かったのは、日本でほとんど発売されていない“カーエムカー”のアルバムには、アメリカやオランダのオリジナル作品が結構入っていたことだ。自然と愛聴盤になったのは言うまでもない。

しかし、レコードに入っているレパートリーはどうしても偏りがあり、どんなにすばらしいレコードだって、ナマ演奏の魅力には到底敵わない。

彼らが普段やっているコンサートがどんなものなのか。それをはじめて聴けることになった訳だから、車中、ヨハンらと音楽談義で盛り上がりながらも、刻一刻とせまるその瞬間を前に、高まる興奮を押さえることができなかった。

コンサートのあったブー二ゲンには、高速道路(この国では“無料”)をぶっとばして1時間40分くらいで着いた。ヨハンの説明によると、人口2万ほどの典型的な田舎町で、名所旧跡の類いはないので、観光コースに含まれることはけっしてないという。

『キミは、間違いなくこの町を訪れた初の日本人で、おそらく最後の日本人になるだろう。』という彼の言葉が、やけに耳に残る。

そんな町で開かれた“カーエムカー”のコンサートは、以下のようなプログラムだった。

・序曲「シラノ・ド・ベルジュラック」
(ヨハン・ヴァーヘナール / J・フェルフルスト編)

・アラジン組曲
(カール・ニールセン / ヨハン・デメイ編)

・交響曲第2番
(ユリアーン・アンドリーセン)

<休憩>

・ダンス・フュナンビュレスク
(ジュール・ストレンス)

・エル・カミーノ・レアル
(アルフレッド・リード)

・映画「インディ・ジョーンズ」セレクション
(ジョン・ウィリアムズ / ハンス・ヴァンデルヘルデ編)

指揮者は、ピエール・キュエイペルス(Pierre Kuijpers)。

ヨハンの交響曲第1番『指輪物語』(Symphony No.1 “The Lord of the Rings”)や『ネス湖』(Loch Ness)、ヤンの交響詩『スパルタクス』(Spartacus)や『フラッシング・ウィンズ』(Flashing Winds)など、オリジナル作品を積極的にレコーディングする指揮者だけに、プログラムの最後に映画音楽のセレクションが入る以外は、オランダやベルギーのクラシックやオリジナルがずらりと並んだ本格的なプロとなっている!

これが、アムステルダムのコンセルトへボウやロッテルダムのデ・ドゥーレンのような大きなコンサートホールで開催されるクリティカルな演奏会ではなく、ローカル・エリアのものだけに、正直ちょっとした驚きだった!!

裏を返せば、この種のコンサートを愉しむ聴衆がちゃんといるということだ。

しかも、ヨハンは、『このバンドのプログラムは、いつもこんな感じだ。』という。実際、郵送してもらったこのバンドの英語プロフィールにも“カーエムカーのレパートリーは、主としてシリアスである(The repertoire of the KMK is predominantly serious.)”と書かれてあった。

人口5000名の町に100名編成のバンドが2つ存在するトルン(Thorn)のような町もあるオランダならではの話だ。

文化としての“吹奏楽”の有り方の蘭日の違いをいきなり実感させられる!!

そう言えば、指揮者キュエイペルスが生まれた町も、トルンだった。

ホールに入ると、会場はギッシリ満員で、バンドの人気のほどがよくわかる。ヨハンたちがバンドに頼んでチケットを確保してもらっていなかったら、到底入場はかなわなかっただろう。あらためて二人に感謝だ。

子供や学生の姿は皆無だ。

面白かったのは、入場券の“もぎり”方で、チケットを提示すると、その一部をいきなり“引きちぎる”方式だった。おそらく、昔からそんなやり方をしているのだろう。

“カーエムカー”の演奏は聴きごたえがあった。

これを一体何と表現すればいいのだろうか。来日した外国のオーケストラを聴いたときにしばしば感じる“風圧”とでもいえばいいのだろうか。底鳴りを感じさせるクラリネットを中心とする木管楽器の厚みあるハーモニーに乗ってドライブする金管セクションのピュアな響き!!

レパートリーでは、初めて聴いたアンドリーセンの『交響曲第2番』とストレンスの『ダンス・フュナンビュレスク』がとにかく新鮮。いずれも、日本では演奏されたことがない作品だ。

ワクワクしながら、そのサウンドに浸る自分がいた!!

終演は22時30分近く。ヨハンを介して指揮者のキュエイペルスとグラスを傾けた。

そのとき、『昨年(1992年)には、もうちょっとのところで長崎のオランダ村に行けるところだったのに、経済的な事情で行けなくなって、みんなでガッカリしていたところでした。』と聞かされて、ちょっとガックリ。

なぜなら、その頃、日本に紹介した世界初の『指輪物語』のCD「The Lord of the Rings」(蘭KMK自主制作、KMK001 / 蘭Ottavo、OTR C18924)や『スパルタクス』や『フラッシング・ウィンズ』が入ったCD「Flashing Winds」(蘭DHM、2006.3)などが、輸入盤吹奏楽CDとして結構ヒットをとばしていたからだ。

正しく日本でヨーロッパのオリジナルやバンドが注目され始めたタイミングだったので、仮に来日が実現していたとしたら、たいへんな騒ぎになっていたかも知れなかった。

その後、政治の力学により、オランダのミリタリー・バンドの組織改革が行われることになった。王宮のあるデン=ハーフを本拠とする“オランダ王国陸軍バンド(KMK)”は、フリースラントのアッセンをベースとする同じオランダ陸軍の“ヨハン・ヴィレム・フジョー・カペル(De Johan Willem Friso Kapel)”と1つに統合され、2005年1月1日、アッセンを本拠とする「オランダ王国陸軍バンド“ヨハン・ヴィレム・フジョー”(Koninklijke Militaire Kapel“Johan Willem Friso”)」という両方のバンド名を組み合わせたバンドが誕生した。

われわれ日本人にとっては、1つの国にその国を代表する陸軍バンドが2つあり、片方に“Koninklijke(王国の)”という冠詞がつくのに対し、もう片方にはつかないという、それまでの状況はなかなか理解できなかった。しかし、元々これら両バンドが、“ホラント(Holland)”と“フリースラント(Friesland)”という、現在のアイセル湖を間に挟んで激しく戦った別々の国だった名残りで、両エリアを代表するミリタリー・バンドになっていたことを知ると、いろいろキナ臭いことも臭ってくる。

よく訊かれるが、Johan Willem Friso を“ヨハン・ヴィレム・フジョー”と読むのも、それがオランダ語ではなく、フリースラント語であるためだ。筆者もヨハンとヤンの二人から説教されて、そう改めた。ローマ字教育の影響が強い日本では、理解されることが難しいことを知りながら…。

しかし、文化も伝統も異なる2つの地域のバンドを1つに統合する試みは、音楽の上では、なかなか厳しいものがあった。とくに、都落ちしてフリースラントのアッセンに移された元カーエムカーのプレイヤーのプライドはズタズタとなった。

自然、新しい名前のバンドの演奏は低迷した。もともと得意とするレパートリーも違い、2つの個性が譲り合わなかったから当然だ。

関西には“日にち薬”(月日の経過が薬代わりとなる)という表現がある。

その後、かなりの年月が流れ、ベテランが去り新人が加わるなど、新陳代謝がある程度進んでこのバンドのムードは確かに改善された。女性プレイヤーも一気に増えた。しかし、まったく個性が違った両バンドの昔日の演奏を知る者にとっては、まだまだ物足りない。

時間を掛けて熟成されてきたものを一度壊してしまうと、絶対もとには戻らない。

単に物理的に数を揃えても、演奏の魅力やテイストは二度と戻ってこないのだ。

1993年6月の素敵なライヴを愉しんでいる時、このバンドの未来に、よもやそんな出来事が待ち受けているとは、誰が想像しただろうか。

いつも思う。政治が動くとロクなことはない。

▲デメイとキュエイペルス(1993年6月26日、ブー二ゲン・ティネフィーター・スポートハル)

▲CD – The Lord of the Rings(KMK自主制作、KMK 001)

▲KMK001 – 収録曲

▲CD – The Lord of the Rings(蘭Ottavo、OTR C18924)

▲OTR C18924 – 収録曲

▲CD – Loch Ness(KMK自主制作、KMK 002)

▲KMK 002 – 収録曲

▲CD – Flashing Winds(蘭DHM、2006.3)

▲2006.3 – 収録曲

▲KMKのエンブレム