■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第125話 スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」の衝撃



▲世界初演プログラム – NAU Centennial Commissioned Works Concert(1999年10月3日、米Northern Arizona University)



▲日本初演プログラム – 第81回大阪市音楽団定期演奏会(2000年11月9日、フェスティバルホール)

▲鈴木孝佳(2018年6月15日、杉並公会堂、撮影:関戸基敬)

『つぎの6月定期のメインですが、フィリップの“シンフォニー1番”をやることに決めました。彼のシンフォニーは、これまで“2番”、“3番”と取り上げてきましたが、となると、当然“1番”というものがある。ぜひ、それを取り上げたいと思います!』

2018年(平成30年)1月12日(金)、東京・杉並のJR「荻窪」駅近くの某所で行なわれたタッド・ウインドシンフォニーの「ニュー・イヤー・コンサート2018」(杉並公会堂大ホール)後の打ち上げで、挨拶に立った音楽監督の鈴木孝佳(タッド鈴木)さんが、演奏会後の講評につづいて次回のメイン・プログラムをメンバーに伝達したときの発言だ。

フィリップとは、もちろん、鈴木さんと親交あるイギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)のことだ。

あまり知られていないが、タッドWSは、演奏家たちのセルフ・オーガナイズ(自主運営)で活動する楽団で、年2回コンサートを行なう。その打ち上げは、いつも70名から100名近い演奏者や関係者で大いに盛り上がる。後片付けなどのため、筆者がこれに駆けつけるのは“宴もたけなわ”か“終宴寸前”になることが多い(大抵、宴席に入り込むスペースがなく、どこかに潜り込むことになる)が、当夜は、鈴木さんの話が、今まさに始まるそんなタイミングだった。

瞬間、メンバーは、リスペクトするマエストロの口からどんな“お言葉”(たまに“お小言”も)が下されるのか、みんな神妙に聞き入っている。そして、最後に次に目指すメインの曲名を知らされるわけだ。(もっとも、例えそれがどんな有名曲だったにしても、彼らにとってはすべてが“新曲”だが…。)

筆者は、当夜の指定席に定めた少し高くなった座敷の敷居に腰を掛け、やや後ろ向きに振り返りながら、この話を聞いていた。実はこれが結構居心地がいいのだ!!

さて、鈴木さんの発言にもあるように、タッドWSは、過去、2011年と2016年にフィリップの2作のシンフォニーの日本初演を行なっている。

・交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」日本初演
Symphony No.2 – A Savannah Symphony
【日時】2011年(平成23年)6月17日(金)、19:00
【会場】めぐろパーシモンホール 大ホール
【指揮】鈴木孝佳 
【演奏】タッド・ウインドシンフォニー
【演奏会名】第18回定期演奏会
【CD】タッド・ウィンド・コンサート Vol.16、フィリップ・スパーク:交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」(Windstream、WST-25021、2012年)

・交響曲第3番「カラー・シンフォニー」日本初演
Symphony No.3 – A Colour Symphony
【日時】2016年(平成28年)1月23日(土)、14:00
【会場】ティアラこうとう大ホール
【指揮】鈴木孝佳
【演奏】タッド・ウインドシンフォニー
【演奏会名】ニュー・イヤー・コンサート2016
【CD】タッド・ウィンド・コンサート Vol.32、フィリップ・スパーク:交響曲第3番「カラー・シンフォニー」(Windstream、WST-25038、2017年)

これら2曲の日本初演は、出版前に作曲者から贈呈された楽譜を使って行なわれた。今度は、それ以前に書かれた交響曲第1番『大地、水、太陽、風(Symphony No.1 – Earth, Water, Sun, Wind)』をやろうというのである。スコア・リーディングを終えた鈴木さんが、『いいですねー。後のシンフォニー(第2番、第3番)の片鱗がすでに現れていますね!』と大きな関心を示されたことがことの発端だった。

ここで時系列を少し遡るが、フィリップの交響曲第1番「大地、水、太陽、風」は、筆者にとっても、人生の転機に出会った印象深い作品だ。

それは、闘病中の父が亡くなり、その四十九日があけないうちにこんどは母が意識不明状態で病院に担ぎ込まれて長期入院。介護だけでなく、音楽以外何も分からない人間が二人の事業をいきなり一人で切り盛りしなくてはならなくなった異常な状況下での遭遇だった。

振り返ると、当時の平均労働時間は、月~土のウィークデーが約15時間、日祝日も半日営業だったので、早い話がほぼ年中無休。その後に選曲まで手がけたダグラス・ボストック(Douglas Bostock)指揮、東京佼成ウインドオーケストラ演奏のCD「ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.6“ダンス・ムーブメント”」(佼成出版社、KOCD-3906)のプログラム・ノート執筆も知力、体力的にも断わらざるを得ない状況で、その際、驚いた同社担当の水野博文さん(のちの同社社長)が“どうしても引き受けてもらいたい”と慌てて来阪されたものの、2~3分に一人のペースで客あしらいをしながら跳び回っている状況を実際にその眼で見て、依頼を諦めて帰京されるという、たいへん申し訳ない思いをした事件も勃発している。休業が許されず、近くに交代要員もいなかったので、まるで吉本新喜劇のキャッチフレーズである“体力の限界に挑戦する”を地で行くような話。満足に昼食をとる余裕もなかったので、もし仮にお隣りが仕出し弁当屋さんでなかったなら、間違いなく“餓死”か“突然死”していただろう。

そのあたりのドタバタぶりは、2000~2001年、「バンドパワー」に“樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」File No.06 フィリップ・スパ-ク:交響曲第1番「大地・水・太陽・風」”として寄稿(全11篇)しているので、そちらを眺めていただければと思う。本当に雑然とした環境の中で書いたので、まとまりに欠け、“ラクガキ”としたが、このシンフォニーのアリゾナでの世界初演や大阪市音楽団による日本初演の周辺で起こった事柄は、残らず書き留めてある。

ただ、誤った理解が進まないように、いくつか整理しておきたいこともある。

それは、まず、これがフィリップの作曲家として一大転機に書かれた作品だったことだ。

フィリップは、前年の1998年10月17日(土)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホール(Royal Albert Hall)で行なわれた“全英ブラスバンド選手権(National Brass Band Championships of Great Britain)”のチャンピオンシップ部門決勝のテストピース(課題)として委嘱された『月とメキシコのはざまに(Between The Moon and Mexico)』のあたりから、一曲に充分な時間をかけて作品を書くようになり、結果、作風に明らかな変化が現れた。その後、1999年の年初に健康を害して長期入院。ドクターから最短15ヶ月は無理をするなと厳命され、そんな困難な時期をへて完成した作品がこれだった。

それまでほとんど見られなかった“月”“メキシコ”“大地”“水”“太陽”“風”というような固有名詞を積極的にタイトルに選んでいることからも、心境の変化は明らかだ。また、マーラーに傾注していることをもはや隠さなくなった。

もうひとつ忘れてはならないのは、アメリカの委嘱者による世界初演当時は、まだ『大地、水、太陽、風』というシンプルな曲名で、その後、市音による日本初演までの間に自ら“シンフォニー”と呼ぶようになったこと。ただし、そのときには“交響曲番号”がなく、出版に際し“番号”を付けている。

その後、2000年4月に自身の出版社アングロ・ミュージック(Anglo Music)を起業。結果、交響曲第1番『大地、水、太陽、風』は、長年つとめたステューディオ・ミュージック(Studio Music)時代に書かれながら、新生アングロからの出版となった。

世界初演や日本初演は以下のように行なわれている。

・「大地、水、太陽、風」世界初演
(Earth, Water, Sun, Wind)
【日時】1999年10月3日(日)、15:00
【会場】Audrey Auditorium, Northern Arizona University
【指揮】Patricia Hoy
【演奏】Northern Arizona University Wind Symphony
【演奏会名】NAU CENTENNIAL COMMISSIONED WORKS CONCERT

・吹奏楽のための交響曲「大地、水、太陽、風」日本初演
(Symphony for Band – Earth, Water, Sun, Wind)
【日時】2000年(平成12年)11月9日(木)、19:00
【会場】フェスティバルホール
【指揮】渡邊一正
【演奏】大阪市音楽団
【演奏会名】第81回大阪市音楽団定期演奏会
【CD】大阪市音楽団/大地・水・太陽・風(フォンテック、FOCD-9156、2001年)

ところが、この日本初演のステージでは、第2楽章と第3楽章を結びつけるブリッジのように重要な役割を果たすシンセサイザーが何故か鳴らないという、誰もが予測できなかったハプニングが起こった(そうだ)。

わざわざ“そうだ”と断ったのは、その頃の我が終業時刻と演奏会の終演がほぼ同じで、作曲者から送られてきた市音用の楽譜が目の前を通過していった事実があるにも拘わらず、リハーサルも本番も聴くチャンスがなかったからだ。当然、ナマの音も知らない。

その後、発売されたCD(フォンテック、FOCD-9156 / リリース:2001年7月21日)は、録音を担った毎日放送(大阪)の録音スタッフの懸命な作業により、リハーサルと本番の録音をミックス。見事に修復されてリリースされ、かなりの評判を呼んだ。

しかし、なんか釈然としないものも残った。

シンフォニーでは、全楽章を通した時にはじめて感じられる、途切れないストーリーが音楽的に大きな意味を持つと常々思っているからだ。

それから18年近くの年月が流れた2018年6月13日(水)、府中の森芸術劇場ウィーンホール(東京・府中市)で行なわれていたタッド・ウインドシンフォニーの《第25回定期演奏会》(2018年6月15日(金)、杉並公会堂大ホール)に向けてのリハーサルを訪れたとき、筆者は、ついにプロが演奏するフィリップの交響曲第1番の“ナマ”のサウンドに接した。

精緻なオーケストレーション。そして、ナチュラルな色彩感とハーモニーが織り成す妙は、正しくウィンドの魔術(マジック)だと思えた!

凄い!ナマでないと感じられない美しさとでも言えばいいのか!

この時、はじめてスコアをリーディングした当時の感激が鮮やかに甦ってきた!

フィリップは、読書家だけに、ひょっとして、テーマの“大地”“水”“太陽”“風”に、何かインスピレーションを得た小説か何かがあったのではないかと訊ねたことがある。

すると、『いや、このシンフォニーに関しては、インスパイアーされたものは一切なかった。テーマが4つ欲しいと思ったときに浮かんだのがこれらだったんだ。』とシンプルな回答!

そこで、タッドが“第2番”“第3番”につづき“第1番”にも関心をもっていることをを伝えたら、すでに前2作のCDを聴いていた彼は、『ぜひ、彼にやって欲しいと伝えてほしい!』と速攻で返信を寄こした。

『ボクは、タッドのファンだよ!』

いつもの彼の言葉が不意に頭をよぎった!



▲プログラム – タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会(2018年6月15日、杉並公会堂大ホール)

▲同、リハーサル風景から(撮影:関戸基敬)



▲タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会(撮影:関戸基敬)

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.39、フィリップ・スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」(Windstream、WST-25045、2019年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第131回定期演奏会(2020年6月7日、ザ・シンフォニーホール、コロナ禍のため中止)

▲「シンフォニア」Vol.37(ザ・シンフォニーホール、発行:2020.1.10)

『今回初めてShionと共演することになりました指揮の汐澤安彦です。この演奏会では、吹奏楽版アレンジをきっかけにしてよく演奏されるようになったクラシックの作品をたっぷりとお聴きいただきます。Shionのパフォーマンスを最大限に引き出すコンサートになると思いますので、どうぞご期待ください。』(原文ママ)

コロナ禍がなかったら、2020年(令和2年)6月7日(日)午後2時から、大阪のザ・シンフォニーホールで行なわれていたはずの「Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ) 第131回定期演奏会」のために、同ホールの広報誌「シンフォニア」Vol.37(2020年1月10日発行)に寄せた指揮者、汐澤安彦さんのメッセージだ。

この初顔合わせは、全国的にファンの関心を呼び覚まし、筆者個人としても、とても楽しみにしていたドリーミーな企画だった。

筆者が、汐澤さんとはじめてご一緒する機会を得た現場は、1988年(昭和63年)4月14日(木)、東京・杉並の今はなき普門館だった。その日は、2日後の4月16日(土)に同ホールで開催する東京佼成ウインドオーケストラとロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)による《日英交歓チャリティーコンサート》の合同リハーサルの日で、汐澤さんは、東京佼成ウインドオーケストラ単独ステージの指揮者だった。(参照:《第10話“ドラゴン”がやってくる!》

結果的に、この《日英交歓チャリティーコンサート》は予想以上の成果を上げ、その翌日の4月17日(日)には、同じ普門館でロイヤル・エア・フォース(RAF)単独のコンサートを主催。もちろん、この日は汐澤さんの出番はなかったが、『バンクスさんの演奏を聴きたいと思って。』と、前日共演したRAFの指揮者エリック・バンクス(Eric Banks)の本番を聴くために一聴衆として来場され、『面白いですねー。“威風堂々”(第1番)のテンポがまるで違い、思ってたより速い。我々がいつもやってるのはもっと遅いので….。』などと語られたのをまるで昨日のことのように鮮明に覚えている。

その後も、東芝EMIのセッションなど、何度か接点があり、同社ディレクターの佐藤方紀さんが運転する車でお送りしたこともあったが、どこで調べたのか、『汐澤です。』といきなり自宅に電話がかかってきて楽譜の入手法の相談を受けたり、当方のラジオ番組を応援する葉書を頂いたりと、少々面喰った想い出もある。ただ、いつも感じたのは、話が分かりやすく面白いことと飽くなき探究心!!

なので、Shionで大阪に滞在されるなら、演奏会はもちろん、久しぶりに愉しい話を伺えるのではないかと、本当に心待ちにしていた。それなのに、コロナのやつめ!!

汐澤さんは、1938年(昭和13年)、新潟県上越市の出身。1962年に東京藝術大学器楽科を卒業し、1964年に同専攻科修了。トロンボーンを山本正人、指揮を金子 登の両氏に師事。1962年から8年間、読売日本交響楽団のバス・トロンボーン奏者をつとめ、その傍ら、桐朋学園大学で指揮法を齋藤秀雄氏に師事。1960年代半ばから指揮活動を始め、1973年に民音指揮コンクール第2位入賞。1975年に渡欧し、ベルリン音楽大学、カラヤン・アカデミーに学んだ。

オーケストラやオペラ、合唱のほか、東京吹奏楽団、東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラ、大阪府音楽団、フィルハーモニア・ウインド・アンサンブル、東京アンサンブル・アカデミー、東京藝術大学、東京音楽大学など、ウィンド・ミュージックのフィールドでもひろく指揮者として活躍。とくに、ソニー、コロムビア、ビクター、東芝、ファンハウスなどから毎年のようにリリースされたLPレコードやCDを通じ、ウィンドの最新レパートリーを日本中に紹介したマエストロとして知られる。これまで、Shion(シオン)を指揮したことがなかったというのが不思議なくらいだが、間違いなく、昭和~平成を通じた“ウィンド・ミュージックのドライビングフォース”であり、“レジェンド”だ!!

吹奏楽を指揮した初の商業レコードが登場したのは、1972年で、当時、レコード・ジャケットに印刷されていた指揮者名のクレジットは、結婚前の飯吉靖彦(いいよし やすひこ)。だが、その名は、同年リリースされた4枚のLP(ビクター、CBSソニーから各2タイトル)と1枚のEP(コロムビア)を通じ、アッという間に全国の吹奏楽ファンの知るところとなった。

この内、ビクターの2枚は、当時、脚光を浴びていた4チャンネル・ステレオ方式(参照:《第94話 エキスポ ’70と大失敗》)の実証も兼ね、イイノ・ホール(1970年11月10日)と普門館(1970年12月17日、1971年12月10日)で録音されたソースを活用した2チャンネル・ステレオ盤で、演奏は、東京佼成吹奏楽団(レコード上のクレジットは、“佼成吹奏楽団”)。先行盤の「双頭の鷲/バンド・フェスティバル」(ビクター、VY-1006、1972年1月新譜)は、山本正人指揮、東京シンフォニック・バンドの演奏とのカップリング盤、後発盤の「Pleasure for Band(バンドの楽しみ)- 1/バンド・フェスティバル」(ビクター、VY-1009、1972年8月新譜)は、汐澤/佼成の単独盤だった。

もともと4チャネルの実証を兼ねた録音だったので、アルフレッド・リード編の『アラビアのロレンス』(VY-1006)やグレン・オッサー編の『イタリアン・フェスティバル』(VY-1009)、シベリウスの交響詩『フィンランディア』(VY-1006、VY-1009)など、マーチやポップスからクラシックまで、ホーム・ミュージックとしても愉しめるレパートリーが入っていた。

コロムビアのEPは、A面、B面に各1曲ずつのオリジナル作品を収録するスタイルで1970年から年に1枚のペースでリリースされた“楽しいバンド・コンサート”シリーズの第3弾(日本コロムビア、EES-473、1972年4月新譜)で、東京シンフォニック・バンドの演奏で以下の2曲が入っていた。(参照:《第93話 “楽しいバンド・コンサート”の復活》

《楽しいバンド・コンサート<3>》
(録音:1971年(昭和46年)12月6日、武蔵野音楽大学ベートーヴェンホール)

序奏とファンタジア Introduction and Fantasia
(Rex Mitchell, 1929~2011)

・サマー・フェスティヴァル Summer Festival
(David Reck, 1935~)

また、秋山紀夫さんの監修で、CBSソニーから「ダイナミック・バンド・コンサート 第1集」(CBSソニー、SOEL 3)、「同第2集」(CBSソニー、SOEL 4)としてリリースされた2枚のアルバムもたいへんな注目を集めた。

「バンドジャーナル」1972年3月号(音楽之友社)の記事“国内レコーディング・ニュース”(22~23頁)によると、当初、同年4月21日に2枚組でリリースされる計画だったようだが、最終的に以下の16曲が新録され、2枚のアルバムがリリースされた。

《ダイナミック・バンド・コンサート 第1集》
(録音:1972年(昭和47年)1月19~20日、世田谷区民会館)

・皇帝への頌歌 Royal Processional
(John J. Morrissey, 1906~1993)

・ベニスの休日 Vennetian Holiday
(Joseph Olivadoti, 1893~1977)

・ヒッコリーの丘 Hickory Hill
(Carl Frangkiser, 1894~1967)

・壮麗な序曲 Pageantry Overture
(John Edmondson, 1933~)

・キムバリー序曲 Kimberly Overture
(Jared Spears, 1936~)

・コンチェルト・グロッソ 二短調 Concerto Grosso
(Antonio Vivaldi, 1678~1741 / arr. John Cacavas, 1930~2014)

・歌劇「良い娘」序曲 The Good Daughter
(Niccolo Piccinni, 1728~1800 / arr. Eric Osterling, 1926~2005)

・狂詩的挿話 Rhapsodic Episode
(Charles Cater, 1926~)

・エルシノア序曲 Elsinore Overture
(Paul W. Whear, 1925~)

《ダイナミック・バンド・コンサート 第2集》
(録音:1972年(昭和47年)2月9~10日、世田谷区民会館)

・ファンファーレ、コラールとフーガ Fanfare, Chorale and Fugue
(Caesar Giovannini, 1925~2017)

・古典序曲  Classic Overture
(Francois-Joseph Gossec 1734~1829 / arr. Richard F. Goldman, 1910~1980)

・ウィーンのソナチナ、アンダンテとアレグロ Viennese Sonatina
(Wolfgang Amadeus Mozart, 1756~1791 / arr. Walter Beeler, 1908~1973)

・べレロフォン序曲 Bellerophon Overture
(Paul W. Whear, 1925~)

・百年祭序曲 Centennial Suite
(John J. Morrissey, 1906~1993)

・聖歌と祭り Chant and Jubilo
(W. Francis McBeth, 1933~2012)

・チェルシー組曲 Chelsea Suite
(Ronald Thielman, 1936~)

演奏は、いずれも、このセッションのために結成されたフィルハーモニア・ウインド・アンサンブルで、その若々しくシャープな演奏を記憶する人も多いだろう。

そして、日本のバンド・レパートリーに確かな変化が現れた。

結果が出たことで、後続盤の企画も進んだ。再びフィルハーモニア・ウインド・アンサンブルを起用したCBSソニーは、1973年(昭和48年)1月24~25日、世田谷区民会館において、東京アンサンブル・アカデミーを起用したコロムビアは、同2月15日、武蔵野音楽大学ベートーヴェンホールでそれぞれ同様のセッションを行ない、いずれも4月にリリース。CBSソニーからは、その後、1972年、1973年の録音からコンピレーションされたカセット「吹奏楽オリジナル名曲集」(CBSソニー、SKEC-1)もリリースされた。

そして、演奏者は違えど、これらは、すべて汐澤安彦指揮!

正しく第一任者。“ドライビングフォース”と呼ぶにふさわしい活躍だ!!

2012年(平成24年)3月1日(木)~2日(金)、和光市民文化センター サンアゼリア大ホールで汐澤さんが名誉指揮者をつとめる東京吹奏楽団の録音セッション(CD:ブレーン、OSBR-28040)が行なわれた。

アルバム・タイトルは、孔子の“故きを温ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし”に由来する「温故知新」!

汐澤イズム、ますます意気盛んである!!

▲LP – ダイナミック・バンド・コンサート 第1集(CBSソニー、SOEL 3、1972)

▲SOEL 3 – A面レーベル

▲SOEL 3 – B面レーベル

▲LP – ダイナミック・バンド・コンサート 第2集(CBSソニー、SOEL 4、1972)

▲SOEL 4 – A面レーベル

▲SOEL 4 – B面レーベル

▲カセット – 吹奏楽オリジナル名曲集(CBSソニー、SKEC-1、1973)

▲CD – 温故知新(ブレーン、OSBR-28040、2012)

▲OSBR-28040 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第123話 レイランド・ヴィークルズ初来日

▲ツアー・プログラム – The Leyland Vehicles Band of Great Britain Tour of Japan 1980

▲リチャード・エヴァンズ

▲ハリー・モーティマー

▲レイランド・ヴィークルズ・バンド(1980年7月22日、日比谷公会堂 / 「バンドピープル」1980年10月号から(八重洲出版、許諾により転載  / 文・山本武雄 )

1980年(昭和55年)7月27日(日)、快晴。筆者は、国鉄「新大阪」駅から朝一番の東海道新幹線の“ひかり”に乗車。「名古屋」駅ホームで朝食代わりに名物“きしめん”をかきこんで、中央本線の特急“しなの”に乗り継ぎ、一路「長野」へ。帰路は、その逆コースを辿るという日帰り弾丸ツアーを敢行した!!

新幹線に“のぞみ”が登場するかなり以前の話で、当時はこれが大阪から長野へと至る最短、最速ルートだった。途中、新幹線車中のことは何も覚えていないが、中央本線では、初めて乗った国鉄自慢の“振り子電車”の信じ難い乗り心地の悪さだけが、すばらしい沿線の景色以上に記憶に残っている。たぶん、カーブのたびに脳味噌が大きく揺さぶられたからだろう。大阪に帰り着いてからも、何故か体が揺れている感覚だけが残った。

弾丸ツアーの目的は、長野市民会館で午後2時30分から行なわれるイギリスの“レイランド・ヴィークルズ・バンド(Leyland Vehicles Band)”の来日公演!

演奏会情報を得て、事前に長野市の最新地図と時刻表を買い求めてチェックしたら、運よくホールが国鉄「長野」駅から徒歩圏内にあることを発見!それがこの日の“弾丸”を決意させる引き金となった。オーシ!!

“レイランド・ヴィークルズ・バンド”は、《第95話 ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド来日》でお話しした1970年の日本万国博に来演した“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド(The National Band of New Zealand)”、1979年に来日公演を行った“ウェリントン・シタデル・バンド(Wellington Citadel Band)”(ニュージーランド)についで、海外から日本にやってきた3番目のブラスバンドだ。先に挙げた2つのバンドが、英連邦ながらニュージーランドからだったので、レイランドは、その後も、ブラスバンドの母国イギリスから来日した初のバンドという栄誉を担うことになった。

レイランドのバンド創立は、1946年。イングランド北西のランカシャーで、二階建てバスやトラックを製造する自動車メーカーのバンドとして“レイランド・モーターズ・バンド(Leyland Motors Band)”の名で誕生した。トロンボーンの名手として知られた初代指揮者ハロルド・モス(Harold Moss、1891~1960)の没後、しばらく低迷期が続いたが、1977年になって、バンドが社や製品のプロモーションでいい広告塔になることに気づいた会社が力を入れるようになり、1978年1月にリチャード・エヴァンズ(Richard Evans、1934~)を音楽監督に招聘。全権を委ねられたエヴァンズは、情熱を込めたアツい練習だけでなく、メンバーの大幅入れ替え(オリジナル・メンバーで残ったのは8名だった)まで断行。1979年にレイランド・ヴィークルズ・バンドと改称されたバンドは、その年の10月6日(土)、ロンドンの科学技術専門学校で行なわれた「全英ブラスバンド選手権」セカンド部門決勝で優勝。見事、チャンピオンシップ部門への昇格を果たした。

1980年の初来日は、この若々しいバンドがグイグイ実力を伸ばしていっているその最中、高いテンションの中で実現されたわけだ。

バンドの滞日期間は、7月20日(日)から8月1日(木)。公演日程は、以下のように発表され、プログラムは、3つが用意された。

・7月21日(月) 栃木県教育会館(18:30、Cプロ)

・7月22日(火) 日比谷公会堂(18:30、Cプロ)

・7月23日(水) 神奈川県民ホール(18:30、Bプロ)

・7月24日(木) 山梨県民会館(18:30、Bプロ)

・7月25日(金) 島田市民会館(静岡)(15:00、Aプロ)

・7月26日(土) 習志野文化ホール(千葉)(14:30、Aプロ)

・7月27日(日) 長野市民会館(14:30、Bプロ)

・7月28日(月) 浅草公会堂(東京)(17:30、Bプロ)

・7月29日(火) 川口市民会館(埼玉)(17:30、Aプロ)

・7月30日(水) 新潟県民会館(18:30、Cプロ)

来日した指揮者は、音楽監督のリチャード・エヴァンズと客演指揮者のハリー・モーティマー(Harry Mortimer、1902~1992)のふたり。

この内、エヴァンズは、ロイヤル・ノーザン音楽カレッジ(Royal Northern College of Music)の出身。ランカシャーの実家近くのブリティッシュ・レジョン・バンド(British Legion Band)でコルネットの手ほどきを受け、1952年、英国内の前途有望な青少年からオーディションで選ばれる“ナショナル・ユース・ブラスバンド(National Youth Brass Band of Great Britain / NYBB)”の創立時メンバーとなった。NYBBでは、後にロンドン交響楽団首席トランペット奏者となったモーリス・マーフィー(Maurice Murphy)とともに、プリンシパル・コルネット奏者をつとめ、このとき、指揮者ハリー・モーティマーとの運命的な出会いがあった。

前記のモスが率いるレイランド・モーターズ・バンドやブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)のコルネット奏者をへて、エヴァンズは、BBCノーザン交響楽団(BBC Northern Symphony Orchestra)、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニック管弦楽団(Royal Liverpool Philharmonic Orchestra)のトランペット奏者としてキャリア・アップ。フィリップ・ジョーンズ・ブラス・アンサンブルにも参加し、フリーランスの指揮者としても活動。1978年にレイランド・ヴィークルズ・バンドの音楽監督に就任して、またたく間にチャンピオンシップ・セクションのステータスにふさわしいバンドへと育て上げた。

一方のモーティマーは、世界中のファンから“ブラスバンドの父”あるいは“ミスター・ブラス”としてリスペクトされるレジェンドだ。

7歳のときにコルネットを始め、14歳で既にルートン・レッド・クロス・ジュニア・バンド(Luton Red Cross Junior Band)の指揮者に。その一方で、ルートン・レッド・クロス・バンド(Luton Red Cross Band)とフォーデンズ・モーター・ワークス・バンド(Fodens Motor Works Band)でプリンシパル・コルネット奏者をつとめ、その後、ハレ管弦楽団(Halle Orchestra)、ロイヤル・リヴァプール・フィルハーモニック管弦楽団、BBCノーザン交響楽団の首席トランペット奏者として活躍。1942年から1964年の間、BBC放送でブラスバンドとミリタリー・バンドのスーパーバイザーをつとめ、1943年2月放送開始のラジオ番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」の初代プレゼンター(司会進行役)としても知られている。

指揮者としては、ブラック・ダイク・ミルズ、フェアリー・アヴィエーション(Fairey Aviation Band)、フォーデンズ・モーター・ワークスなど、イギリスの主要なブラスバンドを指揮。1947~1949年の全英ブラスバンド選手権では、ブラック・ダイク・ミルズを指揮し、ハット・トリック(三連覇)を達成した。また、“フェアリー”“フォーデンズ”“モーリス”の3つの名門バンドのメンバーで組織した75名編成のブラス・オーケストラ“メン・オー・ブラス(Men o’ Brass)”のレコードは、アメリカや日本でも発売され、世界的ヒットとなった。後進の育成についても精力的に活動し、ナショナル・ユース・ブラスバンドの指揮者やプレジデントもつとめている。

両者の経歴を摺り合せると一目瞭然だが、エヴァンズがナショナル・ユースのプリンシパルをつとめた頃から、ふたりには多くの接点があり、師と弟子、あるいは、親と子ぐらいの間柄にあった。エヴァンズが、自分のバンドが初の日本演奏旅行に際し、偉大なる先人モーティマーをゲストに招いたのもなるほどと合点がいく。

そして、その結果、我々は、日本盤のレコードが何枚もある“レジェンド”が指揮する“チャンピオンシップ”クラスのブラスバンドをナマで聴く機会を得たわけだ。

メディアも動いた。

月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)は、1980年10月号でカラー口絵2ページと本文8ページの特集を組み、山本武雄、山本常雄、斎藤好司、松長 徹の各氏がそれぞれの視点からコンサートやバック・グラウンドをリポート。 創刊間もない「バンドピープル」(八重洲出版)も、7月号に聴きどころと曲目をまとめた2ページの事前コンサート・ガイドを入れ、10月号でコンサートとクリニックの模様をリポートする5ページ特集を組んだ。

長野往復“日帰り弾丸ツアー”の前、筆者は、エヴァンズがレイランドを指揮したファースト・アルバム「トラヴェリング・ウィズ・レイランド(Travelling with Leyland)」(LP:英RCA Victor、PL 25175、1978年7月19日、ハダーズフィールド・タウン・ホールで録音)やモーティマーが指揮した英DeccaとEMIの“メン・オー・ブラス”のレコードをしっかりと聴き込んでからコンサートに望んだ!

いずれもかなりのお気に入り盤だった!

しかし、コンサートの冒頭、ハロルド・モス作曲のレイランドのテーマ『ロイヤル・タイガー(Royal Tiger)』がホールに流れ出すと、琴線にふれるようなサウンドのすばらしさに魅了されてしまい、その後はただ笑って聴いているしかなかった。

紛れもない、不純物のカケラもないピュアなサクソルン属の倍音のシャワーが目の前にあった!やはり、ナマには適わない!!!

ふと見渡すと、超満員の会場には、熱心なブラスバンド・ファンに混じり、生まれてはじめてブラスバンドを耳にするはずの中高生の吹奏楽部員も多くつめかけていた!

みんな喰い入るようにステージを見つめ、曲が終わるたびに、屈託の無いはじけるような笑顔で嬉々として感想を述べ合い、大きな拍手を贈っている!その姿は、お行儀礼よく聴いているというより、もう大騒ぎに近かった!!

終演後、ロビーで行なわれた来日記念盤「コントラスツ・イン・ブラス(Contrasts in Brass)」(LP:英Chandos、BBR-1008(S)、1980年2月10日、マンチェスター大学ウィットワース・ホールでの新録盤に前記“トラヴェリング・ウィズ・レイランド”をそっくりそのまま加えた2枚組)の即売コーナーには、エヴァンズとモーティマーが出てきて、購入者の求めに応じてサインを始めた。で、即購入!!

サインを書いてもらう間、ふたりと短い会話ができたが、それは筆者にとっては至福の時間となった。80歳を目前にしたモーティマーとは、残念ながら、それが最後の機会となってしまったが、その後、エヴァンズとは、ブリーズ・ブラス・バンドのミュージカル・スーパーバイザーとしての立場から、いろいろな場面で絡むことになった。

レイランド・バンドのモットーは、“ワールド・クラス・エンターテイメント・イン・ブラス(World Class Entertainment In Brass)”!!

その初来日は、またひとつ、新たな出会いを運んできてくれた!

▲▼ Leyland Vehicles Band 来日メンバー

▲Aプロ(Programme One)

▲Bプロ(Programme Two)

▲Cプロ(Programme Three)

▲LP – Travelling with Leyland(英RCA Victor、PL 25175、1978年)

▲PL 25175 – A面レーベル

▲PL 25175 – B面レーベル

▲LP(ジャケット表) – Contrasts in Brass(英Chandos、BBR-1008(S)、1980年)

▲同 – (ジャケット裏)

▲BBR-1008(S) – A面レーベル

▲BBR-1008(S) – B面レーベル

▲BBR-1008(S) – C面レーベル

▲BBR-1008(S) – D面レーベル

▲モーティマーとエヴァンズの手書きサイン

▲「バンドジャーナル」1980年10月号(音楽之友社)

▲「バンドピープル」1980年10月号(八重洲出版)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース

▲辻井市太郎(1910~1986)

▲プログラム – 第2回大阪市音楽団特別演奏会(1960年11月9日(水)、毎日ホール)

▲同 – 演奏曲目

▲同 – 曲目変更の謹告

▲第2回大阪市音楽団特別演奏会(1960年11月9日、毎日ホール)

『菊の香につつまれて、ここに大阪市音楽団の第2回特別演奏会が催されますこと、心から喜びにたえません。

この特別演奏会は、吹奏楽の芸術性の向上を目指す辻井団長はじめ55名の団員諸君のたぎる芸塾的意欲のあらわれで、常にはポピュラーな演奏を通じて音楽の芸術性と大衆性のかけ橋の役を果している大阪市音楽団の画期的、野心的企画です。

春の初演は、おかげ様でかなりの好評をもって迎えられ、由緒ある大阪市音楽団の名声をひときわ高めることができました。

第2回公演は、12音音楽の創始者シェーンベルクの主題と変奏 ─ 作品43aをはじめ芸術の秋に贈るにふさわしい本邦初演曲をそろえ必ずや皆さんの激励と期待にこたえるものと信じます。

どうか、温かいご喝采を、切にお願いいたします。 大阪市長 中井光次』(原文ママ)

1960年(昭和35年)11月9日(水)、大阪・北区の毎日ホールで行なわれた「第2回大阪市音楽団特別演奏会」のプログラムを飾った中井光次大阪市長(1892~1968、市長在職:1951~1963)の挨拶文だ。

現職市長がこれほどアツい口上を書くぐらいだ。

7ヶ月前の4月18日(月)、同じホールで行なわれた「第1回特別演奏会」(市長が“春の初演”と記している)は、センセーショナルな成功を収めた!(参照:《第120話 交響吹奏楽団を夢みる》

なにしろ、野外演奏やパレードのものと固く信じられてきた“吹奏楽団”が、“交響吹奏楽”という日本ではなじみのないカテゴリーを旗頭に掲げ、なんと“室内”のコンサート・ホールを使って吹奏楽の芸術性を追求する演奏会を開催! クラシック中心の音楽界をアッと言わせたのである。

地元放送局や新聞各紙を含め、吹奏楽のイメージが変った瞬間だった!

11月の「第2回特別演奏会」は、その成功裏に企画された。後に全日本吹奏楽連盟理事長をつとめることになる指揮者の朝比奈 隆(1908~2001)さんも、プログラムにこんな書き出しの一文を寄せている。

『第1回特別演奏会で我が国吹奏楽界に異常な反響をよびおこした、意欲的な大阪市音楽団と、その団長辻井君は、やつぎばやに第2弾をはなった。』(原文ママ)

マスコミ発表されたプログラムは、以下のようなものだった。

・交響曲 変ロ調
(ポール・フォーシェ)<本邦初演>

・金管楽器とオルガンのための協奏曲 作品57
(セス・ビンガム)<本邦初演>

・主題と変奏 作品43a
(アルノルト・シェーンベルク)<本邦初演>

・ジェリコ 交響吹奏楽のためのラプソディー
(モートン・グールド)<本邦初演>

この内、ビンガムの『金管楽器とオルガンのための協奏曲』は、演奏会寸前(5日前)に独奏者にドクター・ストップがかかり、急遽「第1回特別演奏会」で本邦初演されたルドルフ・シュミットの『ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲』の再演に差し替えられたが、それにしても、全曲を<本邦初演>で望むという意欲的なプログラミングに、楽壇は再びアッと言わされたのである。

2日後、1960年(昭和35年)11月11日(金)讀賣新聞に掲載された「音楽評」は、“意欲ある試み”と見出しをつけ、その模様をこう伝えている。

『大阪市音楽団が九日毎日ホールで演奏会をひらいた。辻井市太郎の指揮による約六十人の吹奏楽演奏は、日本ではあまり類例のない演奏会だけに、一部をのぞいて全部本邦初演の曲ばかりならべたプロも珍しい。…..楽団員たちの芸術意欲が市を動かして、こんどフォーシェ、シェーンベルク、グールドなど本格的な吹奏楽曲を初演したわけだ。そうとうな難曲をこなす腕前は立派なもので、真木利一のピアノを加えたシュミットの曲も熱演だったが、吹奏楽の持つ機能をフルに発揮したグールドの作品は圧巻だった。(藤獄彰英)』(「讀賣新聞」昭和35年11月11日(金)、抄録、原文ママ)

専門誌「月刊吹奏楽研究」1961年1月号(月刊吹奏楽研究社)も、38頁に「シンフォニック・バンド 大阪市音楽団 第二回特別演奏会 意欲に燃えて初演曲を世に問う」という記事を掲載した。

『昨昭和三十五年四月十八日に第一回特別演奏会を催して、ヒンデミットの吹奏楽のための変ロ調交響楽、シュミットのピアノと吹奏楽のための祝典変奏曲など、本邦初演の野心的曲目をならべて、吹奏楽の芸術的昂揚への研究成果を世に問う演奏で、天下の音楽界の視聴を集めた大阪市音楽団では、その第二回特別演奏会を、十一月九日午后六時三十分から、毎日ホールで開催した。

四十年にわたる古い伝統にはぐくまれ、辻井市太郎団長の吹奏楽一図の研究的態度と気鋭の隊員、理想的編成など、あらゆる点において、Symphonic Bandとしてわが国最高レベルのものであることは、今日では万人の認めるところである。』(原文ママ、「月刊吹奏楽研究」1961年1月号、吹奏楽研究社)

また、演奏曲の中では、同年秋のフランスのギャルド・レピュブリケーヌ初来日(参照:《第22話 ギャルド1961の伝説》)を意識してか、フォーシェの交響曲に高い関心を示し、短い概説まで加えている。

『この曲はフランス生まれの作曲家フォーシェ(一八五八年生れ)の作品で、一九二六年に、ギャルド・レピュブリケーヌによって初演された吹奏楽のために作曲された交響曲』(同)

NHKのラジオ第2放送(AM)も、1960年(昭和35年)12月30日(金)午後8時15分から、演奏会のライヴを45分番組にまとめてオンエアした。

市音の「特別演奏会」は、1968年(昭和43年)5月28日(火)、毎日ホールで開催された第17回以降、「定期演奏会」と改称され、2014年(平成26年)の民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)と楽団名を改めた後も、その系譜は、令和の今日まで引き継がれている。

辻井さんが指揮したのは、この内、「第1回」から「第24回」までだったが、ここで特記したいのは、この間、37曲もの“初演”や“本邦初演”が行なわれていることだ。

「第1回」で取り上げられたパウル・ヒンデミットの『交響曲 変ロ調』に始まり、ポール・フォーシェの『交響曲 変ロ調』、エクトール・ベルリオーズの『葬送と勝利の交響曲』、フランク・エリクソンの『交響曲第2番』、ヴィットリオ・ジャンニー二の『交響曲第3番』、アラン・ホヴァネスの『交響曲第4番』『第20番』、ロバート・ウォシュバーンの『交響曲』、トーマス・ベーバースドルフの『管楽器と打楽器のための交響曲』、ポール・ホエアーの『ストーンヘンジ交響曲』まで、シンフォニーだけで10曲の本邦初演が行なわれ、リヒャルト・ワーグナーの『誓忠行進曲』、パーシー・グレインジャーの『リンカーンシャーの花束』、フローラン・シュミットの『セラムリク』、ロジャー・ニクソンの『太平洋の祭り』、ジョン・バーンズ・チャンスの『呪文と踊り』、ポール・クレストンの『ザノ二』を日本に紹介したのも、辻井/市音の定期シリーズだった。

加えて、1969年(昭和44年)11月13日(木)、フェスティバルホールにおける「第20回」と1971年(昭和46年)11月16日(火)、同ホールの「第23回」は、日本ワールド・レコード社からライヴ盤LPレコードがリリースされた。

英語の辞書には、“牽引役”や“推進役”を指す“ドライビングフォース(driving force)”という語がある。

辻井市太郎指揮、大阪市音楽団は、正しく吹奏楽のドライビングフォースだった!!

▲「月刊吹奏楽研究」1961年1月号(吹奏楽研究社)

▲LP – 第20回大阪市音楽団定期演奏会(日本ワールド、JWR-1138、1970年)

▲JWR-1138 – A面レーベル

▲JWR-1138 – B面レーベル

▲LP – 第23回大阪市音楽団定期演奏会(日本ワールド、JWR-2006、1972年)

▲JWR-2006 – A面レーベル

▲JWR-2006 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第121話 NHK – 世界の吹奏楽・日本の吹奏楽

▲ビッグ・ホーンズ・ビーが表紙を飾った「バンドピープル」1994年6月号(八重洲出版)

▲三浦 徹氏

▲スタジオワーク中の梶吉洋一郎氏(左)(本人提供)

1994年(平成6年)3月21日(月・祝)、NHKは、午後4時から3時間生放送のFM特別番組「世界の吹奏楽・日本の吹奏楽」をオンエアした。

出演は、筆者のほか、東京佼成ウインドオーケストラのユーフォニアム奏者、三浦 徹さん、米米CLUBのホーン・セクション“ビッグ・ホーンズ・ビー”のサックス奏者、オリタ・ノボッタさんという、なんとも不思議な顔合わせ!

何しろ、共通項は吹奏楽だけ、というこの3人!!

キャラクターがまったく違う3人のフリートークが“あらぬ方向“へと暴走しないように仕切る役割は、アナウンサーの坪郷佳英子さんが担った!

本当にご苦労様!!

番組を立ち上げたのは、前年、東京からNHK名古屋放送局(CK)に移動してきたプロデューサーの梶吉洋一郎さん。

梶吉さんとは、1988年(昭和63年)の“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド JAPAN TOUR 1988”で知り合って以来のお付き合いだ。(《参照:第10話“ドラゴン”がやってくる!》

プライベートで喋ると、かなり“べらんめえ調”が入る彼とは、不思議と馬が合い、ここまで彼が立ち上げた2本のFM特番で関わってきた。

・生放送!ブラスFMオール・リクエスト
【放送】1992年(平成4年)8月16日(日)午後3時から(3時間30分)
【出演】樋口幸弘、MALTA、坪郷佳英子
《参照:第58話 NHK – 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》

・二大ウィンドオーケストラの競演
【放送】1993年(平成5年)3月20日(土)午前9時から(2時間50分)
【出演】樋口幸弘、坪郷佳英子
参照:第102話 NHK – 二大ウィンドオーケストラの競演》

これら2本は、秋山紀夫さんの名調子で人気があったFMの吹奏楽番組「ブラスのひびき」が突然終了。以来、当時のNHK会長の強い方針もあって、NHKの音楽番組ではほとんど放送されなくなった“吹奏楽”を扱う定時番組の復活を掲げた梶吉さんの大きなアドバルーンだった!

番組終了後のリスナーからの反響も大きかったが、残念ながら、定時番組の復活はすぐに実現しなかった。

NHKならではの特殊な風土がそうさせたのだろう。

そんな空気の中、NHK名古屋放送局のR-3スタジオからの同局初のFM全国ナマ放送として企画された「世界の吹奏楽・日本の吹奏楽」の準備のため、梶吉さんから与えられた命題は“吹奏楽による世界一周”!!

彼にとっては、3本目の吹奏楽特番だった!

最初、電話でこのテーマを打診されたとき、直感的に“おもしろい!”と感じた。

だが同時に“一体どっち周りにするんだ?”とも。

直ちに確認を求めると、さすがの彼もその時点ではまだ煮詰めていなかったようで、『西回りと東回りでは、まったく違う番組構成になるよ。』と言いながら、それぞれラフなアイデア、考え方を説明する。

吹奏楽の編成やサウンド、在り方、好まれるレパートリーが、国によってまったく違うからだ。わかりやすく言うと、吹奏楽の国際標準編成など、地球上に存在しないということを念頭に置いた上で番組構成を議論すること。それが重要だった。

また、単に吹奏楽が演奏する世界各国の音楽を並べても意味がない。演奏者も、お国柄が発揮されているものを選ぶことが必要条件になると思えた。

議論に議論を重ねた結果、こんどの番組では“西回りルート”を採ることになり、日本を飛び立って、まずロシアに到着。その後、チェコ→オーストリア→イタリア→スイス→ドイツ→オランダ→ベルギー→フランス→イギリス→アメリカをへて、日本に帰国するという構成をとることにした。

演奏者には、ロシア国立吹奏楽団、ローマ・カラビニエリ吹奏楽団、トルン聖ミカエル吹奏楽団(オランダ)、ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団、パリ警視庁吹奏楽団、アイリッシュ・ガーズ・バンド(英)ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(英)、イリノイ大学シンフォニック・バンド(米)、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(米)、大阪市音楽団など、吹奏楽のビッグネームをラインナップ!!

ルートの途中、スイスでは、東京佼成ウインドオーケストラの協力を得て、前年の1993年(平成5年)秋に同オケが行なったスイス演奏旅行から、9月5日(日)のベルン、9月6日(月)のバーゼルでのコンサート・ライヴを盛り込むことにした。

日本初公開の音源である。

ただ、放送がある祝日の午後は、吹奏楽ファンだけでなく、多くのクラシック音楽ファンもくつろいで番組を愉しんでいる時間帯だ。なので、レパートリーの選択は、けっして吹奏楽ファンだけの独りよがりにならないように心がけた。

偶然番組を聴いたクラシック・ファンにも、“ひょっとして、吹奏楽も面白いかも知れない”と感じて欲しかったからである。

仮に筆者の色が入ったとすると、ニコライ・ミャスコフスキーの『交響曲第19番』、アルフレッド・リードの『交響曲第3番』や『第4番』、H・オーエン・リードのメキシコ民謡による交響曲『メキシコの祭り』という、ウィンドオーケストラのために書かれたオリジナル・シンフォニーのエッセンスや、フローラン・シュミットの『ディオニソスの祭り』、フィリップ・スパークの『セレブレーション』と『コンチェルト・グロッソ』、大栗 裕の『大阪俗謡による幻想曲』を番組の流れの中で、さりげなく盛り込むことができたことかも知れない。

選曲のために事前に聴いた曲は、300曲以上。このとき役に立ったのが、少ないながら我が家に7000枚ほどある海外盤の吹奏楽LPだった。

そして、ズシリと手に響くレコードをぶら下げ、近鉄特急で名古屋入りしたのは、放送前日の3月20日。その日は、スタジオで使用音源を再生しながら、進行順に2本のDATテープにまとめる作業を行なった。生放送だけに、レコードの掛け間違いなどの偶発事故を防ぐための事前作業だ。

スタジオには、NHK卒業(退職)後の身ながら、友軍として駆けつけて下さったベテラン・ディレクター、星 章夫さんの顔もあった。星さんとは、1988年(昭和63年)4月17日(日)、東京・杉並区の普門館でスパークの『ドラゴンの年』ウインドオーケストラ版の日本初演が行なわれたロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドのコンサートの収録以来のおつき合いだ。

レコードを聴きながら、みんな口々に『これ、いいねぇ!』などと感想を述べ合う。

こうして準備は万端!!

3月21日の放送は、定刻どおりにスタートした!

オンエア直後からリスナーの反応も良く、「プロコフィエフがこんないいマーチを書いてたなんて、初めて知りました。」とか「イタリアの演奏は信じられないほどすばらしい!」といった感じで、主にクラシック・ファンからと思われるFAXがスタジオにつぎつぎと入る。坪郷さんがそれをピックアップして読み上げていく。

また、途中、ピアノを前にした三浦さんがユーフォニアムのマウスピースを手にバズィングを披露したり、ラジオ慣れしているオリタさんの軽妙な掛け合いトークもあり、3時間はアッという間に経過!

梶吉さんが“吹奏楽への夢”を託して選んだエンドテーマ『星に願いを』(演奏:ジャパン・スーパー・バンド)が流れる中、番組はハッピー・エンド!!

スタジオ内に笑顔が集まり、大きな拍手がこだました!!

▲NHK-FM 「世界の吹奏楽・日本の吹奏楽」構成表

▲梶吉洋一郎氏(左)と(2018年11月2日、東小金井)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第120話 交響吹奏楽団を夢みる

▲Osaka Shion Wind Orchestra 2020年度シーズン定期演奏会ポスター

▲Osaka Shion Wind Orchestra 2020年度シーズン定期演奏会プログラム

▲プログラム – 大阪市音楽団第1回定期演奏会(1952年5月6日、三越劇場)

▲プログラム – 大阪市音楽団第93回定期演奏会(1960年3月23日、三越劇場)

2020年(令和2年)、Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)は、定期演奏会活動における新たなる一歩を踏み出した!!

同年4月から始まる2020年度(2020 – 2021シーズン)において、本拠地・大阪での“定期演奏会”を年6回開催することをプレス・リリースしたのである!

歴史を紐解くと、シオンの“定期演奏会”は、楽団がまだ大阪市の直営で、大阪市音楽団(市音)という楽団名だった1960年(昭和35年)4月18日(月)、大阪市北区にあった毎日ホールで開催された「第1回大阪市音楽団特別演奏会」を端緒とする。

この演奏会の名称が“特別演奏会”だった理由は、これに遡ること8年前の1952年(昭和27年)5月6日(火)、三越劇場(大阪市東区高麗橋にあった「三越大阪店」旧館8階。現中央区)で開かれた「大阪市音楽団第1回定期演奏会」以降、市音には、ほぼ毎月(ときには月2回)開催の“定期演奏会”が存在したからだ。

(補記すると、三越劇場での“市音定期演奏会”は、1960年3月23日(水)の第93回まで行なわれ、翌月の4月28日(木)の第94回以降は“三越コンサート”と名を改め、1977年(昭和52年)12月6日(火)の第240回まで引き続き開催された。一方、“特別演奏会”は、1968年(昭和43年)5月28日(火)の第17回から“定期演奏会”と改称されている。)

そんな裏事情はさておき、市音「第1回特別演奏会」は、日本初、プロの吹奏楽団が、室内のコンサート・ホールで有償で開催する定期演奏活動のはしりとなった。

ここで、わざわざ“室内のコンサート・ホール”と断る理由は、当時、吹奏楽の演奏といえば、例外的に特別なケースを除いて、野外音楽堂や競技場などの屋外、または体育館などで行なわれるものが大部分だったからだ。雨天中止もあった。コンサート・ホールを定期的に使い、吹奏楽の芸術性を問うなどという発想自体まるでなかった。

世間で“吹奏楽=マーチ”というイメージが固定されていた時代だった。

市音「第1回特別演奏会」の指揮者は、1947年(昭和22年)4月1日(火)、市音第3代団長に就任し、定年の1972年(昭和47年)4月15日(土)までその任にあった辻井市太郎(1910~1986)さんだった。

辻井さんは、アメリカのバンドにならって、前年の1959年(昭和34年)4月に50名編成を実現した市音を、さらに市と話し合って、60名、70名……、いつかは100名近い規模の大編成シンフォニック・バンドにまで拡充したいという夢を持ち続けた人物だ。

戦後、市の“大阪市音楽団条例”によって定められた(つまり、市議会の議決を経た)市音の正式英語名称が「Osaka Municipal Symphonic Band」であり、それに“Symphonic Band”という文字が盛り込まれていることも、それと無関係ではない。

当時、音楽とは無縁と思われる市議諸氏がそのことを深く意識していたとは到底思えないが、とにかく市が運営主体のこの楽団を、市が“Symphonic Band”と英語で名乗らせていたことは事実だった。

議決を経ただけに、逆に名称変更は容易ではなかったが。

楽団がそのしばりから解き放たれるのは、2013年(平成25年)11月29日(金)の大阪市会本会議において“大阪市音楽団条例を廃止する条例案”が可決成立し、翌年の2014年3月末日をもって廃止が正式決定した後のことである。

話をもとに戻そう。

市音「第1回特別演奏会」のプログロムは、つぎのようなものだった。

カンツォーナ(ピーター・メニン)
《本邦初演》

交響詩「献身」(カール・フランカイザー)

吹奏楽のための交響曲 変ロ調(パウル・ヒンデミット)
《本邦初演》

ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲(ルドルフ・シュミット)
《本邦初演》

組曲「キージェ中尉」(セルゲイ・プロコフィエフ)
辻井市太郎編

ヒンデミットのオリジナル・シンフォニーをはじめ、3曲の《本邦初演》を盛り込んだプログラムは高揚感にあふれ、新しい時代を切り開く意欲に満ちていた!

そして、吹奏楽団がコンサート・ホールで演奏会を開くという新鮮さも手伝ったのかも知れないが、会場も満場の熱気あふれる盛り上がりを見せた。

吹奏楽専門誌「月刊吹奏楽研究」1960年5月号(通巻60号、吹奏楽研究社)は、そのステージ写真を表紙にあしらい、「伝統の大阪市音楽団第一回特別演奏会」(26~27頁)という記事を掲載した。

その興味深い内容の一部を引用する。

『わが国のプロ吹奏楽団の中で、最も古い歴史を持ち交響吹奏楽団Symphonic Bandとしての充実編成とすぐれた演奏技術、さらに意欲的な研究態度を持ち続けて、異彩を放ち、プロバンドのトップレベルと認められている「大阪市音楽団」が大正十二年に創設されてから三十八年になる。毎月大阪三越劇場で定期演奏会を開き既に九十三回を重ね、大阪市民にその高度な演奏による吹奏楽の醍醐味を満喫させ多数のファンを固定させているが、本年の大阪芸術祭に協賛して、四月十八日の月曜午后六時から、大阪市教育委員会と毎日新聞社の主催のもとに、毎日ホールで「第一回特別演奏会」を開催した。

(中略)

本邦初演の吹奏楽名曲をならべた演奏会は、関西の音楽ファンを総動員させ、会場は立錐の余地も無い盛況で、同音楽団として始めての有料演奏会は大成功であった。』(「月刊吹奏楽研究」1960年5月号(通巻60号、吹奏楽研究社)、原文ママ)

「音楽文化」1960年6月号(音楽文化協会)も、7頁にインタビュー記事「あの人この人 =交響吹奏楽団を夢みる= 辻井市太郎」を掲載した。

演奏会終了後、クラシックの評論家が辻井さんにインタビューした内容で、文中“吹奏楽”はすべて“ブラス・バンド”と表記統一されている。21世紀の時点からみると誤解が生まれそうだが、以下の引用のように、辻井さんの回答には、当時の心情の多くが語られている。

【質問者】このプロの巾の広さは珍しいですネ。

【辻井】そうなんです。ヒンデミットの「吹奏楽のための交響曲」やシュミットの「ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲」など初演ものもだして、大いに意欲のあるところをみせたつもりなんですが…。(中略)ブラス・バンド(※)といえばなにか軍国調とか再軍備調とか、そんな風に色目で見られがちで私はそれがたまらなくいやでして…。

【質問者】こんどのコンサートで、まあそれはかなり修正されるのではないでしょうか。すばらしい演奏でしたよ。… 大阪市も(中略)もっともっとPRしてほしいと思います。批評家の仲間にも余りしられていないんじゃないですか。

最後に指揮者としての苦心をたずねられた辻井さんは、こう夢を語っている。

【辻井】私は今の50人から60人編成にして、シンフォニック・ブラス・バンド(※※)を考えたりフランスの例のギャルド・レ・プブリケーヌ(※※※)を理想にめざしています。夢かなこれは。

(「音楽文化」1960年6月号(音楽文化協会)から引用。原文ママ。当時、市音では、“交響吹奏楽”や“Symphonic Band”という言葉をかなり意識して使っていた。(※)(※※)(※※※)は、インタビュアーの表現だと思われる。)

その後、NHKをはじめとする各放送局や新聞各社の市音に関する扱いはガラリと変った。

以上から、市音のこの演奏会が相当センセーショナルなものだったことがよくわかる。

それから60年という歳月が流れた2020年1月23日(木)、シオンは、ザ・シンフォニーホールで第128回定期演奏会( 指揮:現田 茂夫 )を開催した。

プログラムは、

吹奏楽のための風景詩「陽が昇るとき」(高 昌師)

交響曲第1番「アークエンジェルズ」作品50(フランコ・チェザリーニ)

というオリジナルの大曲が2曲!

辻井さんの夢は、脈々と21世紀シオンに受け継がれている!!

▲「月刊吹奏楽研究」1960年5月号(通巻60号、吹奏楽研究社)

▲チラシ – 第1回大阪市音楽団特別演奏会(1960年4月18日、毎日ホール)

▲プログラム – 第1回大阪市音楽団特別演奏会(同)

▲同、あいさつ

▲同、演奏曲目

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第128回定期演奏会(2020年1月23日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第119話 東京佼成のメジャー・デビュー

▲LP – 吹奏楽オリジナル名曲集(東芝音楽工業、TP-7570、1972年)

▲TP-7570、A面レーベル

▲TP-7570、B面レーベル

▲「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

1969年(昭和44年)4月1日(火)、東芝音楽工業が満を持してリリースした「世界吹奏楽全集」(TP-7299~7301 / LP3枚組ボックス)は、このようなレコードの出現を待ちかねていた多くの吹奏楽ファンのハートをしっかりと捉えた!

もちろん、日本の吹奏楽の現場を熟知する監修・解説者の大石 清さんの選曲の妙もあったに違いない。

しかし、この企画が成功した鍵は、3枚のLPが“マーチ篇”“ポピュラー篇”“オリジナル篇”のわかりやすいジャンル別構成になっていたこと、さらに、海上自衛隊東京音楽隊(マーチ篇)、東京佼成吹奏楽団(ポピュラー篇とオリジナル篇 / 後の東京佼成ウインドオーケストラ)という、日本の標準的な吹奏楽編成をもった日本のバンドが起用されたことに尽きる。

しかも、3枚の内、“ポピュラー篇”と“オリジナル篇”の2枚は、既存音源ではなく、この企画のために新しく録音されたものだった!

ちょうどこの頃は、東芝が前年の1968年5月新譜としてリリースした「栄光のギャルド/吹奏楽名演集」(Angel(東芝)、AA-8302 / 演奏:ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団 / 参照:《第81話 栄光のギャルド》)が、“マーチが1曲も入らない(たいへん珍しい)吹奏楽レコード”としてヒット街道をひた走る一方で、他社が国内制作する吹奏楽レコードが圧倒的にマーチか軍歌だった当時の話だ。この新録音は、かなり勇気がいるギャンブルだったはずだ。

制作者の並々ならぬ意気込みが伝わってくるが、へたを打つと、逆にこけるケースだってあった!

しかしながら、最終的に、このギャンブルは吉と出た!

ジョセフ・オリヴァドーティ(Joseph Olivadoti)の『ポンセ・デ・レオン(Ponce de Leon)』やジム・アンディ・コーディル(Jim Andy Caudill)の『バンドのための民話(Folklore for Band)』、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『シンフォ二アンズ(The Sinfonians)』など、21世紀の今、指導者となった人も、かつての少年少女時代に胸を高鳴らせながら演奏した曲の多くが、このアルバムから広まったことを知っているだろう。

そして、このときの大きな成功体験は、その後、東芝が吹奏楽の国内録音に積極的に乗り出す大きな契機となったのである。《参照:第27話 世界吹奏楽全集

一方、このボックス・セットは、新録音の演奏を担った東京佼成吹奏楽団にとっても、とても大きな意味をもつアルバムとなった。

話は少し飛ぶが、長年、東京佼成ウインドオーケストラのユーフォニアム奏者として活躍された三浦 徹さんとは、同郷のよしみ。会えば必ず日本の吹奏楽が歩んできた道やユーフォニアムについて延々と語り合う間柄だ。

氏は心の底から吹奏楽を愛されている音楽家であり、一旦話し出したら話題が尽きることがない。

そして、そんなある日の会話の最中、東京佼成の“最初の録音”が何だったのか、不意に質問を受けたことがあった。打ち返すように、筆者は、『私の知る限り、東芝の「世界吹奏楽全集」だったはずです。ボックスに入った。』と答えた。

氏が佼成に入られる前の、氏の知らなかった話だった。

そこで、氏は、後日、東京佼成吹奏楽団の初代コンサート・マスター、斎藤紀一さんに会われた際、それを確認されたのだそうだ。

すぐに電話があった。『やはり、樋口さんの言うとおり、東芝の録音が最初だったということです。』と三浦さんは話された。

そのとおり。2020年(令和2年)に“創立60周年”のときを刻んだ東京佼成ウインドオーケストラにとって、東芝の「世界吹奏楽全集」は、記念すべき初レコーディングだった!言い換えるなら、これがメジャー・デビューだった!!

後日、東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、遠藤 敏さんからも、このレコードの録音日や発売日を訊ねられたことがある。

早速、手許の「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)を見ると、グラビア頁に、“ポピュラー篇”のセッションを撮った3枚の写真(1968年12月26日撮影)が載り、レコード・カタログを切り取ったスクラップにも発売日が入っていた。

そこで、遠藤さんには、“録音:1968.12 東芝スタジオ、発売:1969.4.1”と回答した。

ただ、残念なことに、当方の資料には、セッションが何日から何日までだったかの記載がなかった。しかし、遠藤さんは、それらのデータを手がかりに、東京佼成の元フルート奏者で、引退後は事務局で総務をされている牧野正純さんにあたられ、毎年一回発刊される立正佼成会教団本部の「佼成年鑑」、もしくは、昔の事務員の個人的なメモのいずれかに、つぎの記載があることをつきとめられた。

1968年12月23日~
東芝レコードに吹き込みをなす(4日間)

また、発売日も1969年4月1日となっていた。

こちらのデータと見事に符合する。セッションは、12月23日(月)から26日(木)の4日間行なわれ、バンドジャーナルの写真は、録音最終日のものだった。

他方、三浦さんからは、『トロンボーンの秋山鴻市さんやテューバの稲川榮一さんが学生契約でいた頃なんで、間違いなくそのセッションに参加していたと思いますよ。中野富士見町に畳敷きの(その気になれば泊ることもできたという)練習場があって、ものすごい安いギャラでしたけど、(彼らは、)よく練習できて喜んでいたと思います。東京藝大卒業後、読響(読売日本交響楽団)に入りました。』とか、『指揮のカネビンさん(兼田 敏さん)は、吹奏楽団を“スイソーバクダン”(そうじゃいけないという意味を込めて)と呼び変えて厳しく指導したというエピソードも聞きました。』と、なかなか興味深い話も聞いた。

どういう時代、音楽環境だったのかがよくわかる。

東芝音楽工業が1969年に発売した「世界吹奏楽全集」は、その後、“オリジナル篇”(TP-7301)が独立し、1972年(昭和47年)2月5日(土)、LP1枚ものの「吹奏楽オリジナル名曲集」(東芝音楽工業、TP-7570)として再リリース。

東芝音工に英EMIが資本参加して社名が東芝EMIに変った後も、1975年(昭和50年)11月5日(水)、TP-7570の曲順を一部入れ替えて「〈吹奏楽ニュー・コンサート・シリーズ〉吹奏楽オリジナル名曲集Vol.4」(東芝EMI、TA-60031)として、リニューアル再々リリースされている。

間違いなくかなりの人気盤で、日本の吹奏楽に大きな影響を与えた1枚となった。

レコードに歴史あり!!

まるで畑違いの考古学のような話になってしまった!

▲LP – 〈吹奏楽ニュー・コンサート・シリーズ〉吹奏楽オリジナル名曲集Vol.4」(東芝EMI、TA-60031)(東芝EMI、TA-60031、1975年)

▲TA-60031、A面レーベル

▲TA-60031、B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第118話 ピーター・グレイアムがやってきた

▲ピーター・グレイアム(大阪城天守閣、2006.2.6)

▲スタディ・スコア(ブラスバンド版)- Journey to the Centre of the Earth(英Gramercy Music、2005年)

▲DVD – European Brass Band Contest 2005(英World of Brass、WOB 112 DVD、2005年)

▲同ブックレット、曲目

▲CD – Highlights from The European Brass Band Contest 2005(英Doyen、DOYCD 196、2005年)

▲同、インレーカード

2006年(平成18年)2月5日(日)、イギリスの作曲家ピーター・グレイアム(Peter Graham)がやってきた!!本当に!!

ここでわざわざ“本当に”と断る理由は、この4年前の2002年(平成14年)11月8日(金)、大阪市音楽団(市音 / 民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra)が、フェスティバルホール(大阪)で行なった「大阪市音楽団第85回定期演奏会」(指揮:秋山和慶)で、ピーターの『ハリスンの夢(Harrison’s Dream)』の日本初演を行なう、その少し前、東京から突如撒き散らされた“作曲者が聴きに来る!”という事実無根、本人未確認のデマによって、大きな騒ぎに発展したことがあったからだ。(参照:《第117話 ピーター・グレイアムとの交友の始まり》)

幸いなことに、そのデマの発信元は、すぐに特定され、その後、関係者からその軽口を厳しく諌められることになった。どこの世界にも口から先に生まれ出たような性格の人物はいる。しかし、SNSもなかった時代に、“よくもまぁ…”と思えるほど、それはそれは強力な感染力だった!

話を元に戻そう。

2006年、今度は本当に日本をめざしたピーターは、2月4日(土)、10時30分発のオランダ航空 KLM 1076便で、英マンチェスターを出発。経由地オランダのアムステルダムで、同日14時5分発のオランダ航空 KLM 867便に乗り換え、2月5日(日)、9時20分に関西国際空港に降り立った。

ピーターにとっては、これが正しく初来日だ!!

来日目的は、市音の自主制作CD「ニュー・ウィンド・レパートリー2006」(大阪市教育振興公社、OMSB-2812、2006年)に収録予定の新作『地底旅行(Journey to the Centre of the Earth)』のリハーサルとセッションの立会い、コラボーレーションだった。

未知の新曲の日本初演や初録音において、作曲者がその場にいるコラボレーションが持つ意味はとても大きい。とくに、世界の最先端を走るピーターのような現代作曲家の作品にとっては!

ましてや、2日ほどの練習で結果を出さなければならないプロの現場ではなおさらだ!

『地底旅行』は、フランスの作家ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne、1828~1905)の有名な同名小説にインスパイアーされた作品だ。原作は、ヘンリー・レヴィン(Henry Levin、1909~1980)監督によって映画化(20世紀フォックス、1959)もされているので、イメージが捉えやすい。

さて、ピーターの『地底旅行』だが、これは、ヴェルヌ没後100年にあたる2005年4月30日(土)、オランダ、フローニンゲン(Groningen)のマルティニプラザ(MartiniPlaza)で開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権2005(European Brass Band Contest 2005)”にエントリーされたイングランド代表、ブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)が、選手権本番で課せられるセット・テストピース(指定課題)とオウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)の2曲の内、“オウン・チョイス”のステージで“世界初演”する目的で委嘱された“ブラスバンド編成”で書かれたオリジナル作品だった。

ブラック・ダイクの指揮者ニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs)にとっては、優勝をもぎ取るために準備してきた“秘中の秘”の曲であり、“世界初演”となった選手権本番の演奏では、100ポイント満点中、98ポイントという、ほぼ満点に近いセンセーショナルな成功を収めた!

(余談ながら、2005年大会のセット・テストピースは、オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)がこの選手権のために委嘱された『エクストリーム・メイク=オーヴァー(Extreme Make-Over)』で、ブラック・ダイクは、そちらでも100ポイント満点中、96ポイントという、エントリー9バンド中、最高点をゲット。セットとオウン・チョイスの両課題の合計が、194ポイントとなり、2位に7ポイント差をつける圧勝となった!)

今回の話は、ブラスバンドのために書かれたオリジナルをもとに、ウィンドオーケストラ編成用に新たなオーケストレーションを施して作り直し、それを市音が初演奏、初録音するというプロジェクトだった。

その経緯については、2006~2007年、《樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」ファイル・ナンバー14》として、以下の7編をバンドパワーに寄稿したことがある。

File No.14-01:作品ファイル

File No.14-02:ピーターからの一通のメール

File No.14-03:市音への最初のアプローチ

File No.14-04:原曲スコアと初演の第一印象

File No.14-05:ウィンド・オケ版、産みの苦しみ

File No.14-06:動き始めた録音プロジェクト

File No.14-cd:CD & DVDファイル

プロジェクトのきっかけとなったのは、2005年5月、“ヨーロピアン”の直後にピーターから届いたこの新作に関するメールだった。その要旨は、ブラック・ダイクの初演の大成功と当初からウィンドオーケストラ・バージョンの構想があり、それに関心を示すような楽団がはたして日本にあるだろうか、という質問だった。

当時、英国BBC放送の番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」をネットを通じて愉しんでいた筆者は、ブラック・ダイクの優勝ライヴを聴いて“凄い音楽だな!”と感じていたので即行動開始。すでにピーターの『ハリスンの夢』と『ザ・レッド・マシーン(The Red Machine)』を手がけていた市音に、まず打診した。

その結果、ブラスバンド版スコアを見た市音はたいへん大きな関心を寄せたものの、当時の市音は“大阪市”という行政組織の一部であり、年度内にウィンドオーケストラ版を委嘱するための新たな予算を計上することが不可能であることが判明。紆余曲折の末、筆者が委嘱し、作曲者立会いのもとでレコーディングが実現する運びとなった。

そして、その経緯から、たいへん名誉なことに、出版スコアの扉に以下のようなピーターの献辞が印刷された。

This wind transcription was commissioned
by Yukihiro Higuchi.

The premiere recording was given by the
Osaka Municipal Symphonic Band (Japan)
with Kazuyoshi Akiyama, Conductor, February 2006

(このウィンド版トランスクリプションは、樋口幸弘によって委嘱された。初の録音は、2006年2月、指揮者の秋山和慶と大阪市音楽団(日本)によって行なわれた。)

しかし、それからしばらくたって、市音プログラム編成の田中 弘さんから電話があり、この献辞が思わぬ事態を巻き起こしていることが判明した!

なんでも、市音のメンバーが吹奏楽コンクールの審査員として行った先々で『地底旅行』を聴いて審査したが、その際、プログラムに印刷されている編曲者の名前が筆者だったことにみんな驚いたのだそうだ。しかも、正しく実名だったので!!

またもや青天の霹靂だ!!

天地神明に誓ってまったく身に覚えがない筆者は、『そんなことで“小遣い稼ぎ”をしているようなヒマはないよ。』と笑い飛ばした。田中さんも、『そうでしょうね。どうもおかしいと思って電話したんです。』と笑う。

そのとき、ピーンときた。ひょっとしてスコアの扉の英文の“commission(委嘱する)”という動詞を訳せなかった(訳さなかった)のじゃないのか!?

オー!!無実だ!!ガセだ!!冤罪だ!!

お願いだから、辞書を引いてくれ!!

▲スコア(ウィンドオーケストラ版)- Journey to the Centre of the Earth(英Gramercy Music、2006年)

▲同上 – 扉

▲▼レコーディング風景(八幡市文化センター大ホール(京都府)、2006.2.8)

▲セッション・ルーム風景動画(八幡市文化センター大ホール(京都府)、2006.2.8)

▲ピーター・グレイアム・インタビュー(撮影:バンドパワー 鎌田小太郎)、2006.2.7)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第117話 ピーター・グレイアムとの交友の始まり

ピーター・グレイアム(本人提供)

▲スコア – The Essence of Time(英Rosehill Music、1989年)

CD – The Essence of Time(英Polyphonic、QPRL 047D、1991年)

▲QPRL 047D – インレーカード

スコットランド生まれのイギリスの作曲家ピーター・グレイアム(Peter Graham)も、筆者の音楽観に大きな影響を及ぼした作曲家のひとりである。

彼との交友は、実は、1990年(平成2年)6月に2度目の来日を果たしたジョン・フォスター・ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)(当時の正式名称)の公演準備の最中に始まった。

第42話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990》でもお話ししたが、このツアーの主催者は、1984年(昭和59年)の初来日の際と同じ、東京のブージー&ホークス社。当時、筆者は、同社代表取締役の保良 徹さんの意向を受け、企画当初からそれに参画していた。

同社からは、公演プログラム用の原稿の執筆も依頼されており、東京藝術大学の山本武雄さんが「ブラス・バンドの魅力」という読み物を、筆者が演奏楽曲の「プログラム・ノート」を書くことになった。

その執筆過程でピーターとのやりとりが始まった訳だ。

というのも、ツアーが計画に上がったちょうどこの頃、イギリスでは、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)やエドワード・グレッグスン(Edward Gregson)といった新進気鋭の若手作曲家たちがつぎつぎとブラスバンドのための意欲的な新作オリジナルを発表するようになった、いわゆる“ブラスバンド・レパートリーの変革期”と重なっており、ツアー前年の1989年に弱冠32歳という若さでブラック・ダイクのプロフェッショナル・コンダクターに就任したデヴィッド・キング(David King)も、公演レパートリーに、そんな新しいオリジナル作品や委嘱新作を盛り込んできた。

言い換えれば、日本でまだ演奏されたことがない、あるいは誰も聴いたことがない、そんな“楽曲解説者冥利”につきるような作品がズラリと並び、その中に、ピーターの『エッセンス・オブ・タイム(The Essence of Time)』という作品があった。

当然、日本国内には作品についての資料はなく、録音資料もなかった。

ただ、この作品は、来日直前の1990年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で開催され、キング指揮のブラック・ダイクが優勝を飾った“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”のセット・テストピース(指定課題)として書かれた新作としてすでに注目を集めており、指揮者のキングとしても、ブラック・ダイクがオウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)として演奏したフィリップ・スパークの『ハーモニー・ミュージック(Harmony Music)』とともに、日本の聴衆にぜひとも聴いて欲しいと考えていた作品だった。

スコアを読むのにも、自然と力が入る。

さて、この『エッセンス・オブ・タイム』のスコアのト書きには、「すべてのものには季節(時)があり、すべてのわざには時がある」に始まる旧約聖書「伝道の書(コヘレトの言葉)」第3章の引用があり、作品のモチーフとして、“生るるに時があり”、“死ぬるに時があり”、“踊るに時があり”、“愛するに時があり”、“憎むに時があり”、“悲しむに時があり”、“戦うに時があり”、“和らぐに時がある”と、8つの時(とき)が選ばれていた。

聖書を題材にするあたり、さすがは、ロンドンの救世軍リージェント・ホール・バンド(The Salvation Army Regent Hall Band)のバンドマスター(1987~1991)をつとめた人物の作品だ。クリスチャンではない筆者は、ト書きを読んだ後、すぐ聖書を買いに走ったが、もちろん短期間でそれを読み解く能力など、ある訳なかった。

しかし、一種の変奏曲として書かれているこの作品のスコアリングは、ひじょうにクレバーに書き進められていて、繊細かつ緻密。ハーモニーも斬新で、その後、来日したブラック・ダイクによるナマ演奏を実際に聴いたとき、クライマックスのハーモニーが鳴り響いている中、不覚にも涙が頬を伝わるほどの、深い感動を覚えた。

プレイヤーも自然な流れの中に高揚していくのが手にとるようにわかる。

正しく“ブラスバンドって、こんなにハートに響くんだ!”と思わせてくれた作品のひとつであり、その後、ミュージカル・スーパーバイザーをつとめさせていただくことになる大阪のブリーズ・ブラス・バンドでも定番レパートリーとなった。

筆者の中では、ブラスバンド・オリジナルのベストのひとつであり、忘れ得ぬ名曲のひとつである。

しかしながら、日本の大方のウィンド・ミュージックのファンが最も大きな衝撃を受けたピーターの作品というと、それはやはりアメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(The United States Air Force Band, Washington D.C.)の委嘱で書かれた『ハリスンの夢(Harrison’s Dream)』(2000)だったのではないだろうか。

デーヴァ・ソベル(Dava Sobel)著の「Longitude(経度)」に描かれている18世紀の英国の時計技師ジョン・ハリスン(John Harrison)が作り上げた渡洋航海時に必要な経度が測定可能な“クロノメーター”と呼ばれる精巧な機械式時計とその製作者の人生をテーマとするこの作品については、2002~2008年にかけて、《樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」No.12》というタイトルで、以下のような全15編を「バンドパワー」に寄稿したことがあった。

File No.12-01:作品ファイル

File No.12-02:深夜のCD鑑賞会

File No.12-03:はじめてのカタログ

File No.12-04:幻に終わった日本語ホームページ計画

File No.12-05:アッという間に読破してしまったソべルの原書

File No.12-06:始動!! 大阪市音楽団

File No.12-07:これは、一生の宝物だ!!

File No.12-08:BPラジオ計画スタート

File No.12-09:コーポロンが!! ハンスバーガーが!!

File No.12-10:青天のへきれき!! アメリカで出版決定!!

File No.12-11:ついに届いたアメリカ空軍のオフィシャルCD

File No.12-12:日本初演直前、作曲者来日ガセ情報飛び交う!!

File No.12-13:BPラジオ初放送と市音による日本初演

File No.12-14:演奏グレード表示、“Grade 7”の謎

File No.12-15:誕生秘話とコンポーザーズ・ノート

今、読み返すと、ほんと“若気の至り”と恥じ入るばかりだが、逆にその当時に起こった数々の出来事と現場の緊迫感がそのままストレートに文字になっている。

登場人物も、指揮者陣から、ロウル・E・グレイアム(Colonel Lowel E. Graham)、ユージン・コーポロン(Eugene Corporon)、ドナルド・ハンスバーガー(Donald Hunsberger)、フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)、ダグラス・ボストック(Douglas Bostock)など、盛りだくさん。バンドの方も、作品を委嘱したアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドのほか、日本初演を行なった大阪市音楽団、シカゴにこの作品を持っていった東京佼成ウインドオーケストラと、キャストについては文句なしだ。

多少脱線気味のところもあるが、作曲者自身の出版社であるイギリスのグラマーシー(Gramercy Music)から出版されるはずだった『ハリスンの夢』が、なぜアメリカのワーナー・ブロス(Warner Bros.)に変更になったかについても触れてある。

作品のバック・グラウンドに関心のある方は、お読みいただければと思う。

しかし、その中で、最も記憶に残るとんでもなく迷惑な話は、2002年(平成14年)11月8日(金)、大阪のフェスティバルホールで開催された「大阪市音楽団第85回定期演奏会」(指揮:秋山和慶)で『ハリスンの夢』が日本初演される直前、東京の練馬界隈から流れ出した「日本初演を聴きにピーターが来る」という怪情報を描いた、「日本初演直前、作曲者来日ガセ情報飛び交う!!」(File No.12-12)だろう。

これは、情報をきちんと確認しなかったさる音楽関係者が、東京佼成ウインドオーケストラの事務局に、『こんど大阪に、ピーター・グレイアムが“ハリスンの夢”の日本初演を聴きに来るって知ってる?』と軽いノリで連絡を入れたことがきっかけとなっている。“らしい”ではなく、“確かな”ネタとして。

実は、その年の暮れ、東京佼成ウインドオーケストラは、アメリカのミッドウェスト・クリニックに出かけてこの曲を演奏することになっていた。なので、突如聞いたこのおいしいネタに、当然、事務局は大騒ぎ!

話はアメリカ行きに帯同する佼成出版社にもすぐに伝わり、急遽、楽団と出版社の計4人で“大阪詣で”を挙行することが決定してしまった!

当然、大阪市音にも東京佼成から電話連絡が入る流れとなり、寝耳に水の市音でも大騒ぎとなった。

2002年10月15日(火)のことである。

そして、きっと“ヤツに訊けば、詳細が分かるかも知れない”ということだったのだろう。まず、佼成出版社の水野博文さん(後に社長)から、ついで市音の延原弘明(後に団長)から、ピーター来日を確認するための電話がたて続けに入った。

青天のへきれきとは正にこのことだ。驚いた筆者は、『初耳です!』とだけ答え、連絡をとって本人に確認し返答することを両者に約束した。

返信はすぐにあった。

『ディアー・ユキヒロ。これは奇妙なことだ。というのも、数分前、同じ内容のメッセージをダグラス・ボストックから受け取ったところだったからだ。しかも、ソルフォード(ピーターが教鞭をとっていた音楽大学)の私の教え子がそう言ったという内容だった。残念ながら、それは事実ではない。どうしてそんな噂がたったかは知らないが、たぶん数日前のことだろう。実際、大学の日程が一杯で、とても無理な話なんだが・・・。』 

渡米直前の東京佼成ウインドオーケストラが、12月10日(火)に東京文化会館大ホールで行なう「第75回定期演奏会」でこの曲を指揮する予定のダグラス・ボストックの耳にも、この話は入っていた。

まったくのガセだった!!

調べると、この話は、東京ではものすごい勢いで拡散されており、多くの人を興奮させていた!

日本では、なぜこのようなことが起こるんだろう!?

▲チラシ – 大阪市音楽団第85回定期演奏会(2002年11月8日、フェスティバルホール)

▲プルーフ・スコア – Harrison’s Dream(大阪市音楽団用)(英Gramercy Music、2002年)

▲プルーフ・スコア – Harrison’s Dream(筆者用)(英Gramercy Music、2002年)

▲CD – Signatures(The United States Air Force Band、BOL-0202、2002年、非売品)

▲BOL-0202 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第116話 ニュー・ウィンド・レパートリーの旅立ち

▲CD – ニュー・ウィンド・レパートリー1996(大阪市教育振興公社、OMSB-2802、1996年)

▲OMSB-2802 – インレーカード

▲同、デザイン原稿

▲同、レーベル面校正紙

『あのなぁ、ちょっと力貸してくれへんか(貸してくれないか)?』

大阪市音楽団(市音 / 民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra)団長(当時)の木村吉宏さんから電話がかかってきたのは、1995年(平成7年)の秋口だった。

『なんですか?』と伺うと、それは“自主制作で新企画のCDを作るために手を貸してほしい”という話だった。

第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》でお話しした市音初の自主制作盤「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年2月27日)に次ぐ2枚目の自前のCDを作りたいという話だ。

前作は、今や世界的マスターワークに数えられるようになったオランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』の日本国内初のCDという栄誉を担っただけでなく、大反響を巻き起こしたNHK-FMの放送音源のCD化というニュース性も手伝い、アッという間に予定数を売り切った。(《第58話 NHK ? 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》参照)

筆者は、そのCDのプロデュースを担った。

これは、流通を頼らず、演奏会場直売と通販だけの“完全限定盤”だったが、そのときの成功体験は市音に有形無形の財産をのこした。

だが、当時の市音は、あくまで大阪市という行政組織の一部だ。

制作者にとっては、何度も“行政のハードル”にぶち当たりながら、それを1つずつクリアし、のり超えていくという、かなり難易度の高い仕事だった。

なので、木村さんがいくら『業務命令や!』とか『“わが社”独自の自主CDを独力で作りたいんや!』とハッパをぶち上げても、おいそれと“ハイ、では考えてみましょう”などと安請け合いするわけにはいかなかった。前回時の悪夢のような記憶がつぎつぎと津波のように押し寄せてきたからだ。(“わが社”というのは、木村さんが自楽団(市音)を指して言うときの口癖だった。)

実務面でも、市音には、録音からマスタリング、プレスに至る機材やスタッフの確保、流通販路の開拓、総予算がどのくらいに見積もられるのかについての予備知識はなかった。畑違いなので当然だ。ただ、楽団の自主制作になるので、エキストラ以外、演奏料がかからない(つまり手弁当でやる)ことだけはみんな分かっていた。

そんな前途多難さを感じながらも、とにかく市音に出向き、素案を聞かせてもらう。

すると、市音が作りたいというCDは、“市音独自のリサーチによる最新楽曲を含む、市音おすすめの楽曲集”だった。

だが、待てよ!

それに近いコンセプトのCDは、例年5月、三重県・合歓の郷で開催されていた「日本バンドクリニック」に向け、以下のようなものがレコード各社から発売され、市音も、東芝EMIの「吹奏楽ベスト・セレクション」シリーズの1993年盤から1995年盤までの演奏を担っていた。

・吹奏楽名曲集’93(ソニー、SRCD-9134、1993年5月1日)
(汐澤安彦指揮、東京佼成ウィンドオーケストラ)

・’93 NEMU吹奏楽ベスト・ピース(ファンハウス、FHCE-2010、1993年5月2日)
(汐澤安彦指揮、シエナ・ウィンド・オーケストラ)

・吹奏楽ベスト・セレクション’93(東芝EMI、TOCZ-9205、1993年5月12日)
(木村吉宏指揮、大阪市音楽団)

・吹奏楽名曲集’94(ソニー、SRCD-9523、1994年5月1日)
(汐澤安彦指揮、東京佼成ウィンドオーケストラ)

・’94 NEMU吹奏楽ベスト・ピース(ファンハウス、FHCE-2017、1994年5月8日)
(汐澤安彦指揮、シエナ・ウィンド・オーケストラ)

・吹奏楽ベスト・セレクション’94(東芝EMI、TOCZ-9222、1994年5月11日)
(木村吉宏指揮、大阪市音楽団)

・吹奏楽名曲集’95(ソニー、SRCD-9797、1995年4月21日)
(汐澤安彦指揮、東京佼成ウィンドオーケストラ)

・吹奏楽ベスト・セレクション’95(東芝EMI、TOCZ-9252、1995年5月17日)
(木村吉宏指揮、大阪市音楽団)

ソニー盤は、1960年代から海外の楽曲の紹介につとめられてきた秋山紀夫さんの海外人脈と眼力に負うところ大の日本の吹奏楽シーンに欠かせない定番シリーズ!

一方の市音は、例年、シカゴのミッドウェスト・クリニックに現役プレイヤーからなる“プログラム編成委員”を直接派遣。ホテルの一室に、炊飯器と米、味噌汁の材料まで持ち込んで行なう楽曲情報の収集と分析は、日本のいかなる楽団の追従も許さず、その成果は、市音の演奏プログラムに色濃く反映され、大阪市民の人気を集めていた。

言い換えるなら、東京を含む日本の他のどの地域でも耳にすることがほとんどない曲が、大阪ローカルではふつうに演奏されていた。また、定期演奏会においても、未出版曲の日本初演の取り組みが多かった。

そんな訳で、市音が演奏した東芝の「吹奏楽ベスト・セレクション」にも、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『テームサイド序曲(A Tameside Overture)』など、明らかに市音サイドから提案されたのではないかと思われる曲が含まれていた。市音の“プログラム編成”への東芝サイドのリスペクトがあったからだろう。

話をもとに戻そう。

冒頭の電話を受けて、市音団長室を訪ねると、木村さんが『これからの“わが社”は、レコード会社から“録らせて欲しい”と持ち込まれた曲を演奏しているだけでは、あかんのや!(ダメなんだ!)』とやけに鼻息が荒い!

何だか、いつもと調子が違うなと思っていると、トランペット首席でコンサートプランナーの竹原 明さん(後に団長、2005~2008)が、『実は、今年(1995年盤)の「吹奏楽ベスト・セレクション」を打ち合わせた際、“これだけは録音させてほしい”と自信をもって提案させていただいた曲が、東芝から“ぜったいダメだ”と断られたんです。誠心誠意、何度頼んでもダメでした。』 とソッと打ち明けられた。

曲は、前年の1994年(平成6年)6月2日(木)、ザ・シンフォニーホールにおける「第68回大阪市音楽団定期演奏会」で、木村さんの指揮で日本初演され、大きな反響を呼んだスパークの『シンフォニエッタ第2番(Sinfonietta No.2)』だった。(《第111話 スパーク「宇宙の音楽」の迷走》参照)

竹原さんは、『これは、スタイルの違う3つの楽章からできていて、いろんな場面でそれぞれ単独でも演奏できる。ほんまにエエ(本当にいい)曲やと思うんです。樋口さんにお世話になった曲やから言うてるんと(言っているのと)ちゃい(違い)ます。ほんまにエエ曲やと思ってるんです(思っているのです)。』と続ける。

この一件、その後も市音はあきらめず、最終的な打ち合わせで、第2楽章の「セレナーデ」だけは収録されることになった。

だが、市音サイドが味わったダメージと挫折感は大きかった。

そんなところへ、次年度の「吹奏楽ベスト・セレクション’96」が、別のバンドで録音されるらしいという情報が飛び込んできた。東京には東京の事情があったのだろうが、大阪ネイティブは、こういう話が一番嫌いだ!

で、冒頭の木村さんの突然の電話に至ったわけだ。

結論は早かった!

木村さんは、『“プログラム(編成)”の連中に、ヘタ打つと、みんなで持ち回って“手売り(直接販売)”せな(しないと)あかん(いけなくなる)かも知れんぞと訊いたら、それでも、どうしても自主のCDをやらせてくれ、と言いよるんや。曲案は、これから“プログラム”に作らせて、あんたには弘(田中 弘さん、後の団長、2015~2016)から連絡させるから。アイツら、ホンマに真剣にやっとーんのや(やっているんだ)。面倒みたってくれんか!頼むわ!』と言い、こちらにアレコレ言わせない。

加えて、未定のシリーズ・タイトルも、今度のミーティングにアイデアを持ち寄ることになった。そして、11月6日のミーティングで、つぎのように提案した。

『いろいろ考えてみましたが、“ニュー・ウィンド・レパートリー”というのは、いかがでしょう!ちょっとベタ(少々ありふれたもの)かも知れませんが…。』

市音からもいくつかアイデアが提示されたが、結局、わかりやすさもあってか、筆者の案に落ちついた。

そして、『やる以上、ぜったい成功させなあかん!』と、完全に火がついてしまった木村さんの陣頭指揮のもと、プロジェクトは本格始動!

調査楽曲は、総計454曲に及んだ!!

こうして、市音自主制作CD第2弾「ニュー・ウィンド・レパートリー1996」(大阪市教育振興公社、OMSB-2802)は、1996年(平成8年)2月1日(木)~2日(金)、兵庫県尼崎市のアルカイックホールで録音され、リリースは、同4月20日(土)に決まった。

打ち上げで、木村さんは、人目もはばからず大粒の涙をこぼした。

『みんな、ホンマにありがとう!ありがとうな!』

▲録音候補曲リスト – 1(1995年11月5日)

▲録音候補曲リスト – 2(1995年11月27日)

▲録音仮決定曲リスト(1995年12月7日)

▲CD – 吹奏楽ベスト・セレクション’93(東芝EMI、TOCZ-9205、1993年)

▲TOCZ-9205 – インレーカード

▲CD – 吹奏楽ベスト・セレクション’94(東芝EMI、TOCZ-9222、1994年)

▲TOCZ-9222 – インレーカード

▲CD – 吹奏楽ベスト・セレクション’95(東芝EMI、TOCZ-9252、1995年)

▲TOCZ-9252 – インレーカード