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■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第9回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

音大を目指すということ

今回のセミナーは、私が“心を打たれた”とある吹奏楽部での出来事からお話ししたいと思います。その日は、私が長年ご一緒に演奏しているプレーヤーの方にパートレッスンをお願いしていました。レッスンが終わって私たちが帰ろうとしていると、中学1年生の女の子が「先生、わたし音大に行きたいです!」と瞳をキラキラさせながら言ってきたのです。それはまるでドラマのワンシーンのような光景でした。大学受験を真剣に考える高校生ならときどきあることかもしれませんが、まだ楽器を吹き始めて年月の浅い中学1年生の口から飛び出した「音大に行きたい!」という純粋で熱意のある言葉に、正直圧倒されてしまいました。

みなさんは、身近な人が「音大に行きたい!」と言い出したら、どのように思われるでしょうか? 「それは素晴らしい、頑張って!」と思う反面、「音大を出ても仕事がないから、将来大変だよ」と心配される方もいらっしゃるでしょう。最近では時代の流れか現実的な考えの若者も多く、「音楽は好きだけれど、将来のことを考えると趣味の範囲にしておこう」という人が増えてきているように思います。私が長年指導している一般大学の管弦楽サークルにも、「一度は音大も考えたけれど…」という学生がときどき入団してきます。彼らの演奏は十分に音大受験でも通用するレベルですが、それでも“将来のことを考えて”音大という選択肢を諦めたようです。“音大を目指す”ということは本当に夢のあることの反面、“将来生活していく”という現実を考えたとき、“真っ暗な森の中を歩む”ような不安がつきまといます。それくらい未知数で何の保証もない道なのです。

それでは、私が音大生だった頃はどうだったのでしょうか。正直、将来の夢への目標と期待に胸を膨らませ、あまり不安は感じていなかったと思います。まずは受験をクリアするのに必死でしたし、音大には活躍している先輩方が毎日のように練習しに(遊びに?)いらしていたので、そういう先輩たちを間近で見ながら「自分もあの先輩のようになりたい!」と思ったものです。やがて卒業が迫るにつれて将来のことを真剣に考えるようにはなりますが、それでも“夢に向かって突き進む”学生生活を過ごせました。今から考えると、あまり深くも考えず無鉄砲なことでしたが、“夢を持ち続ける”ことができたのは幸せでした。

本音を言うと、音楽で生活していくだけの努力ができるのなら、それを勉強に向けたほうがよっぽど経済的余裕のある生活ができると思います。けれども、その“余裕のある生活”は本当に幸せなのでしょうか? その答えは私にはわかりません。少なくとも私は夢のある学生生活を過ごせたし、これまで好きな音楽を続けてこれました。正直、将来に不安を感じることは日常茶飯事ですし、生活が苦しいときだってあります。不安とイライラで眠れないことだってあります。しかしこれは普通に勉強して一般大学に進み、サラリーマンになっていたとしても同じことだったかもしれません。仕事のプレッシャー、上司や部下との人間関係、取引先との様々なトラブル等々。そう思うと、“一度しかない人生だから好きなことをとことんやる!”という自分自身の生き方は、間違っていなかったのかな?…多分…。

実は最近までの私は、余程才能がない限りは“音大に行く”ということに否定的な意見の持ち主でした。何故なら中途半端に音大に行っても将来苦労するだけだし、その努力と時間を他のことに向けて、音楽は趣味のほうが一生楽しめるという考えでした。実際に私の周りには音大を出たけれど結局音楽を諦めて別の道に進んだ人もいる一方、音楽を趣味として続けながら充実した人生を過ごされている方と接する機会も多いです。音楽を仕事にするといういうことは“自分のお店を持つ”ことと同じで、お客さんが来なければ閉店するしかありません。けれども趣味としてならば、好きな音楽を“一生続けることができる!”のです。

私は長年フリーランスのプレーヤーとして苦労を重ねるうちに、「こんな苦しくて不安だらけの生き方を、自分の子供にさせたくない」と思うようになりました。私のひとり娘は、幼い頃から自然と音楽に親しんできました。リトミック、ピアノ、そして小学3年からはフルートも始め、中学・高校と吹奏楽部に所属しました。しかしながら、ことあるごとに「音楽は大変だから…」と繰り返す私の言葉に、いつしか娘は「自分は音楽をやってはいけないんだ」と思い込むようになったようです。高校2年のとき、興味本位で私と家内の母校である国立音楽大学のオープンキャンパスに行ったときのことです。そこでは、東京フィルハーモニー交響楽団フルート奏者で国立音大でも後進の指導をされている名雪裕伸さんにレッスンを受けることができ、とても充実した時間を体験できたようです。私が大学1年のとき、先輩に「とっても上手な宮本クラス(※第3回セミナーを参照)の先輩が“牧神の午後への前奏曲”を吹くから聴きに行くぞ!」と誘われ、当時名雪さんが所属されていた神奈川フィルハーモニー管弦楽団の定期演奏会を聴きに行きました。初めて聴いた名雪さんの透明感のある美しい音色は、浪々かつ自然に会場の隅々にまで響いてきました。それ以来、私にとって名雪さんは尊敬すべき大好きなフルーティストのお一人です。その名雪さんのレッスンを受けた帰り道、娘が「もう、ここには来れないのかな…」と涙ぐみながら言っていたと家内から聞いたとき、私はとてもショックを受けました。自分のような苦労をさせたくないから…という自己中心的な思いから、私は娘に“好きな音楽”を我慢させていたことに気がつきました。本当に父親失格です。幸いなことに、娘は他に自分の“やりたりこと”を見つけ目標に向かって受験勉強真っ最中ですが、このことは一生悔やんでも悔やみきれません。

音楽家として若者へ伝えること

中学1年の女の子が「音大に行きたい!」と言ったとき、私の口から思わず出た言葉は、「素晴らしいね、できる限り応援するよ!」でした。以前の自分なら、絶対に出てこなかったフレーズです。彼女はまだまだ若いので、これからいろんな経験をしていくうちに将来の夢も変わってくるかもしれません。また周りから「音楽の道は大変だよ」と言われることもあるでしょう。それでも彼女の心の中に強く芽生えた夢を、ゆっくり大切に育ててあげることが、指導者である私たちの使命だと思います。確かに音楽の道は大変ですから、苦手なことも多いし余裕がなく追い詰められることもしばしばです。けれども、音楽をやっていなかったら絶対に経験できない幸せな瞬間は人生の宝物です。また、夢のある若者と一緒に音楽を勉強して作っていくことができる機会が多いもの、音楽家の特権かもしれませんね。そんなひとつひとつの幸せな時間を若者たちと一緒に楽しむことで、自分の生き方を正直に見せていければと思います。“現実に疲れた”音楽家ではなく、“いつまでも夢を追い続ける”音楽家の姿を若者たちに見せていくことが、私たちの責任かもしれません。

音楽は自分ひとりではできません。もちろん、ピアノのようにソロとして単体で成立する音楽もありますが、アンサンブルにはソロにはない魅力が沢山詰まっています。アンサンブルにおいては、「自分ひとりが上手ければいい」とか「自分が気持ちよく演奏できればいい」ということがありません。常に一緒に演奏する仲間たちとのコミュニケーションが大切になります。そしてお互いに影響を受け合いながら、音楽を高めていく喜びがあります。音楽の道を目指す方には、アンサンブルの機会をできるだけ多く持つことをお勧めします。ここでいうアンサンブルとは、二人のデュエットから吹奏楽やオーケストラまでの大編成までを意味します。きっと、そこで多くの素敵な仲間たちとの出会いがあるでしょう。私のような“落ちこぼれ笛吹き”が今まで音楽家としてやってこられたのは、“自分だけの力”ではなく“仲間に恵まれた”からだと思います。そういった意味で、吹奏楽部という環境はとても素晴らしい場所です。そこにはレベルの格差、様々な人間関係等、自分一人では解決できない問題がいろいろありますが、それらをクリアしてみんなで“ひとつの目標”に向かうことができたとき、かけがえのない素敵な経験ができることでしょう。

気持ちよく演奏すること

私が中高生の指導をするとき一番最初に教えてあげたいことで、その反面最も苦労することが“気持ちよく演奏させる”ということです。楽器の練習は、マラソンのような長距離走と似ているように思います。私のような運動音痴には、アスリートたちが何故あそこまで苦しい思いをしながら走るのか理解できませんが、きっとそれに代え難い気持ちよさや達成感があるのだと思います。そして、「また走ろう!」と思うように想像します。管楽器においては、“気持ちよく”音が出せるようになるまでに相当な練習が必要です。何度やってもスカスカの音しか出ないし、その一方で息はなくなり苦しいだけです。これでは、練習する意欲もなくなってしまいますね。フルートにおいては、音が気持ちよく当たるスイートスポットが非常に狭いので、ここに上手く息を命中させる必要があります。希に、最初から先天的な才能を持っていて良い音を出す子はいますが、多くは苦労します。しかし理想的な息がスイートスポットに命中したとき、楽器は非常に気持ちよく反応してくれます。一度これを経験すると、今までの苦労が嘘のように楽器を扱うことが楽になります。多分アスリートが苦しい練習を乗り越えたときも、私たちが知らない美しい風景が見えているのだと思います。

私たちは走り方のフォーム、呼吸法、練習法を教えることはできますが、走ることが気持ちいいと思えるまでトレーニングするのは、自分自身でやらなければなりません。ですので、最初に「この先には素晴らしい風景がある」ということを明確に伝えて、そこに向かって背中を押してあげます。時間はかかってもよいので、「あっ、楽器を吹くのって気持ちいい!」と思うことができれば、「また走ろう(練習しよう)!」という気持ちが芽生えるでしょう。これは教えるほうも根気と時間が必要な作業ですが、辛抱強く付き合っていかなければなりません。逆にいうと、短時間で成果が出ないからといって“自分には指導力がない”とは思わないで下さい。

管楽器を気持ちよく響かせるために必要なことは、安定した息の支えとスピードです。息のスピードは単純に“いっぱい吸って、いっぱい吐けばいい”というものではなく、口元で上手く空気を絞り込んで効果的にスピードを作り出すことが大切です。この口元でどのようにスピードを作り出すかは、楽器ごとに専門分野の勉強が必要です。また楽器によっては、気持ちよく吹くためのハードルが高いものもあります。例えば、同じ金管楽器でもホルンとユーフォニアムではマウスピースの大きさの影響で、一般的にホルンのほうがコントロールが難しいです。ユーフォニアムの子が音階を吹けるようになっても、同時にホルンを始めた子が苦労している場合もあります。もしかしたらホルンの子は、自分の努力が足りないのでは?と落ち込むかもしれません。最近、私が指導した学校のホルンの生徒に、「もしかしたら自分はこの楽器が向いていないのでは?」と思ったことがあるかと尋ねたら、大多数(上手な上級生も!)が手を上げました。私は、余程のことがなければ“その楽器に向いてない”なんてことはないよと教えました。確かにホルンは難しいし、他の楽器より苦労することは多いかもしません。けれどホルンの音色と響きは他にはない魅力があって、音階を吹くだけでも聴き手を感動させられる楽器だよと言いました。彼らが勇気と希望を持って“気持ちよく吹ける”ポイントまで、一日でも早く到達できることを見守りたいと思います。

感動したワンシーン

先日、昨年行われた第64回全日本吹奏楽コンクール全国大会での金賞団体の演奏を収録した『Japan’s Best for 2016』を購入しました。私が中高生の頃はLPレコードしか買えませんでしたが、今は映像で観られるのですから本当に嬉しい限りです。特に中学・高校の全国大会が名古屋に移ってからは、なかなか聴きに行くのが難しくなりましたし…。本当は私の母校(屋島中学校・高松第一高等学校)も含めて、全ての団体の演奏を聴いてみたいのは山々ですが、それらを全て入手するのは大変です。ということでこちらは折りをみてとして、まずは中学・高校の金賞団体の演奏から聴いてみました。

高等学校はとにかくハイレベルな上に、それぞれの学校の個性をアピールする熱演だらけでした。ここまでくると、金賞と銀賞の境界は、非常に微妙だったと想像します。緻密なアンサンブルと音楽性でアピールした団体、厚みのある重厚なサウンドでアピールした団体、個人技と色彩感のあるサウンドでアピールした団体と、単純に点数で評価できないというのが本音かもしれません。ここまでの演奏をするには、日頃から相当の練習を積み重ねてきたに違いありませんし、レギュラーメンバーになるために過酷な競争だってあったでしょう。こういう演奏を聴かされてしまうと、将来的に全国を目指してチャレンジしようという学校は気後れしてしまいそうですが、今や全国金が当たり前の学校でも昔は地区大会止まりからスタートしています。決してコンクールが全てではありませんが、全国レベルの演奏を聴いて、自分たちも頑張ってみよう!という気持ちが沸き上がれば素敵ですね。

中学校は、高校以上に各学校の個性が光っていたように思います。“どこかの演奏を真似した”のではなく、“自分たちの音楽”を作り上げてきた様子が伺え、会場で聴いていた人はとても楽しめたことでしょう。個人的に嬉しく思ったのは、単に技術的に高度な演奏をした学校だけが金賞だったのではく、多少中学生らしいアマチュアさがあっても音楽的に素晴らしい演奏した学校も金賞に選ばれたことです。それでも、とても中学生とは思えないくらい完璧で音楽的なソロの連続でしたし、プロでも大変な作品を見事に仕上げてきた演奏は圧巻でした。ある意味、高校の部以上に楽しめた演奏が多かったです。こうなりますと、特に中学については金賞以外の熱演も是非とも聴いてみたいという欲求が沸いてきますね。

最後に、映像ならではということで、私が感動したワンシーンをご紹介したいと思います。それは、長崎市立山里中学校の自由曲でした。曲は『イースト・コーストの風景』(ナイジェル・ヘス)で、タッド・ウインドシンフォニーで私も演奏したことがありますが、曲調の異なる3つの楽曲から成る色彩感豊かな素敵な作品です。山里中学校の演奏は、3曲のキャラクターを見事に表現していました。そして2楽章の“キャッツキルズ”では、浪々とした音色で素晴らしいコルネット・ソロを披露してくれました。このソロを吹くのにどれほど緊張感が必要かは、本番を経験した私もよくわかります。そのソロが終わったとき、コルネットを吹いていた女の子が満面の笑みを見せたのです! これを見た瞬間、私は思わず涙が出てしまいました。彼女が抱えていたプレッシャー、これまでの並々ならぬ努力、そしてそれを乗り越えた瞬間が、あの最高の笑顔だったのだと思います。「きっと相当練習したんだろうな」、「もの凄く緊張しただろうな」と、いろんな想いが私の頭の中を一瞬のうちに駆け巡り、不覚にも涙が出てしまったのでしょう。彼女にとって、指揮をされた先生や山里中学校吹奏楽部の全員にとって、そしてご父兄のみなさんにとって、この全国大会のステージは、かけがえのない宝物になったと思います。仮に、銀賞や銅賞であったとしても! 中学・高校を通して、12分の熱演が終わった瞬間の生徒たちの晴れやかな表情には、観ている私のほうが勇気をもらいました。きっと、日本各地で開催されたコンクール会場で、同じような素敵なシーンがあったと思います。そんな瞬間に出会えるチャンスを与えてくれるのが、コンクールの本当の素晴らしさかもしれません。

■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第8回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

フルートを吹かなかった1年!

みなさま、明けましておめでとうございます。当セミナーを毎回楽しみにして頂いている方には、大変お待たせして申し訳ありませんでした。今回は実践的な内容に触れる前に、私が全くフルートを吹かなかった1年間についてお話ししたいと思います。

当セミナーの冒頭でも少し触れている通り、私は中学3年から高校1年にかけて“不登校”を経験しました。今でこそ“不登校”という言葉が使われますが、当時は“登校拒否”という表現をされていました。

不登校になった原因は幾つかあります。第1回セミナーでご紹介した通り、中学生だった私は徐々に音楽の魅力に取り憑かれ、毎日の部活(吹奏楽)を楽しみに登校していました。しかしながら、私のいた香川県は非常に教育熱心な土地柄でしたので、中学3年になると朝夕に補習授業が入り部活に行ける時間は大幅に少なくなり、学校に行く楽しみが半減しました。

さらに当時は校内暴力が激しくなったピークの時期でしたので、授業中に廊下を自転車で走る人がいたり、消火器をまき散らしたり爆竹を鳴らしたり、さらにはある日学校に行くと多くの窓ガラスが割られているという酷い状況でした。

そんな荒れた状況の中、自分の好きな音楽をできる時間が制限され、次第に勉強に身が入らなくなり成績も下がるにつれて、私の心のバランスが崩れていきました。朝起きても身体が怠い、学校に行こうとするとお腹が痛くなってくるという症状が続き、やがて学校に行けない日が増えてきました。いわゆる“うつ”という症状です。

ともすると“不登校”は「さぼっているだけ」とか「現実から逃げている」とか思われがちですが、当の本人は周りの友だちと同じよう普通に登校したいと、心の底から思っているのです。しかしながら、いざ学校に行こうとすると自律神経のバランスが崩れ、お腹が痛い等という症状となって表れます。こうなってしまうと、学校に行くということが“恐怖”以外の何ものでもありません。そして“朝起きられない→夜寝られない→食生活と生活リズムの乱れ”という負の連鎖が日常化してしまいます。当時は深夜に起きていても、テレビを観るとかラジオを聴くといった程度の娯楽しかありませんでしたが、今ではゲームやインターネットという存在が、生活リズムの乱れや引きこもりに輪をかけてしまうことも多いかもしれません。たった一人で家にいてもそこそこ楽しめますし、逆に煩わしい人間関係を気にする必要もないので、それはそれで楽な場合もあるでしょう。昔と違ってゲームやインターネットの普及は、“不登校”の長期化に影響を与えているのかもしれません。

このような状況でしたので、正直なところ私の中学3年次の出席日数は全体の半分にも満たなかったと思います。当然ながら、卒業式にも出席しませんでした。

そんな燦々たる中学3年でしたが、何とかフルートだけは続けていました。小学4年からお世話になっていた師匠の佐柄晴代先生は、お忙しい中しばしば自宅まで来てレッスンして下さいました。そのおかげで、学力だけでは絶対入学が無理だった高松第一高等学校の音楽科に、無事入学することができました。

とはいえ受験当日はかなり大変でした。何しろずっと家に引きこもっていた人間が、まるまる2日間も初めての場所に行って入試を受けるのです。試験1日目は学科5教科のテスト。母が作ってくれたお弁当はほとんど食べることはできませんでしたが、何とか無事に全科目受験することができました。2日目は実技(フルート)のテスト。控え室で待っているとき、案の定お腹が痛くなってきて、誘導係の方に無理を言ってお手洗いに行かせてもらった記憶があります。こうしてようやく始まった新たな高校生活ですが、1年目に登校できたのはたった2日だけでした。環境が変わったからといって、急に“不登校”が治るわけではないのです。

高校になっても学校に行けない日々が1箇月続いた頃、私の家庭に変化が訪れます。ある事情で、父の仕事が大阪になることが決まりました。家族会議の結果、このままずるずると引きこもっていてもらちがあかないので、家族全員で大阪に行くことになりした。中学生の妹は普通に転校できましたが、高校生の私は簡単ではありません。しかも不登校とあっては、例え行ける高校があっても難しい状況です。そこで高校は一旦休学し、淀川沿いの十三(じゅうそう)という町にある小さな電機工場で働くことになりました。

この工場は父の親友が専務を務めていて、私の事情を知った上で受け入れてくれることになりました。ここでは主に、生コンクリートのプラントの制御盤を製作していました。仕事内容は回路図に従ってリレーやタイマー等の部品を組み付け、何十本何百本という配線を繋いでいくというものでした。元々電気好きだった私は、先輩方に教えて頂きながら仕事を覚えていきました。毎日が圧着ペンチ、ニッパ、ドライバーを握りしめる日々でした。学校には行けなかった私ですが、朝夕の満員電車に乗って通勤することは、そこまで苦にはなりませんでした。時給は100円でしたが、何かをして毎月お給料を頂けることは楽しかったです(このとき貯めたお給料は、大学に入ってからバイクを買う資金になりました)。

大阪に行ってしばらくは、フルートのレッスンに通っていました。しかし一日中働いて帰ってくると疲れてしまって、練習する気力がわかない日々が続き、しばらくすると全く吹かなくなってしまいました。今から思うと、仲間たちと一緒に音楽をすることが楽しかっただけに、いざ一人で目的もなく練習することに退屈さを覚えていたのかもしれません。ただ、音楽を聴くことは好きで続けていました。

若さは無限の可能性!

毎日阪急電車に乗って工場へ通うとき一番辛かったのが、同年代の高校生たちの姿を目にするときでした。彼らがお揃いの制服を着て仲間たちと楽しそうにしている様子を見る度、本当に羨ましく思ったものです。高校生という存在がとてつもなく華やかで輝いて見えた反面、自分とは縁のない遠い世界のものに思えました。「いったい自分はここで何をしているのだろう?」、「このまま一生終わるのかな?」と寂しい気持ちになりました。

工場の先輩たちはとても親切にして下さいましたが、彼らの生き方からもいろいろと感じることがありました。もちろんプライドと信念を持って働いている方たちでしたが、楽しみといえばプロ野球と子供の成長のことだけ。正直、私は「このままで一生を終わりたくない!」と痛烈に感じました。そして「高校に戻れば、いろんな可能性が開けるのではないだろうか?」と考えるようになります。大好きな音楽だってできるし、必死で勉強すれば全く別の道だって開けるかもしれないと心底思いました。やがて、真剣に高校への復学を考えるようになっていきます。まさに、若ければ何だってできるという“無限の可能性”を肌身で感じたときでした。


▲工場での最後の仕事(生コン制御盤)、一人で全て組み上げました。

さて、高校に復学するためには幾つかのハードルがありました。まず高校のある香川にはもう家がないので、下宿先を探さなければなりません。幸い島が多い地方でしたので、そうした離島から通う高校生のための寮があり、私もそこに入ることになりました。“松平寮”という由緒ある名前の寮でしたが、決して環境のよいところではありませんでした。風呂は週に3日だけ、冷暖房もなく停電や断水も当たり前、悲惨で笑えるエピソードは山ほどあります(ここではご紹介しきれません!)。ただ、そこで苦楽を共にした友人たちは東大や早稲田に進学したりと頑張っていたので、友だちには恵まれました。

1年ぶりにフルートを吹いてみると…

復学すると決心した私ですが、相変わらずフルートをケースから出すことはありませんでした。実際にフルートを吹いてみたのは、高校に戻る数日前でした。寮では音出しができないので、誰もいない公園に行って恐る恐る吹いてみます。よかった、とりあえず音は鳴った! けれど唇が他人のようで、以前のように締まった音色にはほど遠いです。しかも唇の周りの筋肉がすぐにバテてしまいます。

私がいた高松第一高等学校の音楽科では、新1年生は最初の音楽の授業で一人ずつ演奏する慣習がありました。何でもいいから人前で吹かなければならないのですが、1年前の高校入試で演奏した『ヴェニスの謝肉祭』(ジュナン)はとても吹けません。その場で2時間くらいは練習したでしょうか。ようやく続けて吹けるくらいにコンディションが戻ってきました。とはいえ大した曲は吹けないので、何か簡単な小品を選んだように記憶しています。

私にとって最大の心配事は、本当に毎日学校に通うことができるのか?ということでした。またお腹が痛くなったりしないのか…等、不安が次々と頭をよぎります。フルートが吹けるかどうかは、とるに足らないことでした。始業日の前日は、ものすごく緊張していたと思います。しかも学校では1年年下と同級生になり、かつての同学年は先輩になります。大学まで行ってしまえば当たり前の話しですが、高校生の私にとっては複雑な思いでした。しかしながら、今から十三の町工場に戻って一生を終わるなんてことは、考えたくもありません。それを思うと、目の前の壁(ただ学校に行くだけ)をクリアする勇気が沸いてきました。1日目、行けた。2日目、また行けた。3日目…と学校に行って帰るだけの“あたり前”の日常が、緊張感はありつつもとっても嬉しい毎日でした。

再び学校に通い始めた最初の週末だったかと思いますが、1年ぶりにお会いした佐柄先生がホテルのレストランでステーキをご馳走して下さいました。あの時の美味しさは、今まで食べたステーキの中で一番だったかもしれません。こうして私は、再び音楽の道を志す高校生に戻ることができたのでした。

苦手なスケール(音階)を克服せよ!

音楽科の高校に戻った私は、まず音色についての猛特訓を野口博司先生から受けることになります(第1回セミナーを参照)。しかし音色については比較的スムーズに価値観を変えることができたので、そこまで苦労はありませんでした。私が最も苦労したのはテクニックです。元々そこまで指が速く動くほうではなかった上に、1年間基礎的なトレーニングを怠っていたので、細かい音符でとにかく指がすべり(転び)まくりました。楽器を演奏する上で、ロングトーンとスケール(音階)は最も大切です。その肝心のスケールで一音一音が均一に並ばず、それはそれは残念な状態でした。

いくら音色がよくてもスケールひとつまともに吹けないのでは、とても音楽になりません。この惨状を見かねた野口先生が課題として与えて下さったエチュード(練習曲)が、ドゥルーエの『フルートのための25の練習曲』でした。このエチュードは曲の大部分がスケールとアルペジオ(分散和音)から構成されていて、当時(今でも?)の私には、苦手中の苦手分野でした。レッスンで面白いくらい指がすべりまくった様子は野口先生の記憶にも強く焼き付いたようで、あれから30年以上経った今でも「あのときはホント酷かったね!」と、お酒を飲みながらよくおっしゃいます。

それでは、この悲惨な“指のすべり”をどのようにして克服していったのかをご紹介しましょう。

上記の譜例はヘ長調(F-Dur)ですので、フルートにとってはそこまで運指は難しくありません。しかしながらシンプルな故に指が“すべり”やすいです。このように16分音符が4つ並んだ場合、何故か2つずつの音符がくっつきがちです。


この場合、下記のようにリズムのパターンを変えて練習するのが効果的です。

これらのリズム練習は、1拍の中に16分音符を均等に整列させる効果があります。また、多くの場合裏拍が転びやすいので、裏拍にアクセントをつけてアフタービートを感じながらの練習も非常に有効です。

格好つけて速いパッセージを勢いよくパラパラ吹くより、これらの練習を根気強く続けることで、確実で正確なテクニックが身につきますよ。

『ドゥルーエのフルートのための25の練習曲』には3連符のエチュードも多数入っています。

この場合、3つの音符が団子になってくっつき気味になります。ですので同様にリズムを変えたり、拍子を変えた練習が効果的です。

このようにひとつひとつリズムに変化をつけながら繰り返し練習することは、とても根気が必要な作業です。ですので最初は上手くいかなくても、焦らずにゆっくりと楽しみながらやって下さい。今まで「このフレーズ、絶対に無理!」と思っていた部分が、きっと吹けるようになるはずです。そして「次はここをやってみよう!」とチャレンジする勇気が沸いてくることでしょう!

最後に、正確なテクニックを身につけるには正しい姿勢と持ち方が重要です。特に持ち方については、中高生に変な癖が多く見受けられます。主に右手のポジションに無理があるため、速いパッセージで楽器が不安定になります。そんな生徒には、ソレクサというメーカーの“サムポート”を私は薦めています。


▲サムポート(ソレクサ)

これは元々初心者用の補助器具ですが、使うことで楽器の安定感が増します。以前にタッド・ウインドシンフォニーで共演したクリスティーナ・ハッドリーさんが使われていて、「それ何ですか?」とお尋ねしたところ、「娘のために買ったのだけど、とっても良かったから私も使っているの!」と教えて下さいました。


▲クリスティーナさんとタッド・ウインドシンフォニーのフルートメンバー

クリスティーナさんはアメリカのオーケストラで活躍されている素晴らしいフルーティストですが、そんな高いテクニックを持つ方でも効果があるとのことで、私も早速使ってみました。実際に使ってみると最初は少し違和感があるもの、特に高音域での速いパッセージで楽器がブレにくく息の流れも安定するので、今まで音が潰れてしまいがちだった音符にもスムーズに息が入っていきます。高音域の速いパッセージで上手く音符が並ばない場合、指の動きに連動して微妙に楽器が内側(手前)に回り込むために、頭部管が塞がって音が鳴らないケースがよくあります。この“サムポート”はそれを補正してくれる役割があるので、初心者のみならずプロのフルーティストにもお奨めできると思います。高価なものではないので、興味のある方は是非試してみて下さい。

以上、最初は脱線気味で始まった今回のセミナーですが、いかがでしたでしょうか? “落ちこぼれ笛吹き”がお届けするこのON LINEセミナーも、残すところあと2回となりました。もし「こんなこと、きいてみたい」等というリクエストがございましたが、是非Band Powerさんまでご意見をお寄せ下さい。それでは、みなさまにとって新年も良い年になりますように!

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■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第7回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

オケピから見たミュージカルの世界

最近では吹奏楽でも演奏される機会が多い“ミュージカル”。みなさんはミュージカルについて、どのようなイメージをお持ちでしょうか? エンターテイメント、ダンス、華やか、豪華な舞台装置…。そもそもミュージカルは音楽・芝居・ダンスが融合された総合芸術で、その歴史はオペラ(歌劇)→オペレッタ(喜歌劇)→ミュージカルと受け継がれており、当然ながら音楽はその中心的な役割を果たす大切な要素となっています。

吹奏楽の世界では、昔からオペラやオペレッタの作品は多数レパートリーとして演奏されていますし、その流れから『サウンド・オブ・ミュージック』や『ウエスト・サイド・ストーリー』というミュージカル作品が吹奏楽でも演奏されるのは自然なことだと思います。そして最近では『ミス・サイゴン』等の比較的新しい作品も吹奏楽編曲版として演奏されています。

ミュージカルの音楽は登場人物の心情や舞台上の情景と綿密に関わり合っているので、吹奏楽で演奏する際でもそのストーリーを理解して演奏することが大切ですね。きっとみなさんもDVDで視聴したり、本物の舞台を観に行く方もいらっしゃるかもしれません。そうしているうちにミュージカルそのものに興味を持たれる方も多いと思います。中には観ているだけでは気がすまず「私もオケピットで演奏してみたい!」という人もいらっしゃるでしょう。

実際にミュージカルを観劇に来られた中高生や音大生の方から、「私もフルートを吹いていますが、どうしたらミュージカルのオーケストラに入れるのですか?」と質問されることもあります。今回のセミナーではそんなみなさまのために、オーケストラピットから見たミュージカルの世界を、ちょっとだけ詳しくご紹介いたしましょう。

ミュージカルとの出会い

私とミュージカルとの出会いは大学3年の夏に訪れました。国立音楽大学で2年先輩のフルーティストの広川伸さんから、「岡本、ちょっと仕事を手伝ってほしいのだけど…」と頼まれたのです。それがミュージカル『ピーターパン』のお仕事でした。

当時、毎年夏にファミリー向けミュージカルとして上演されていた『ピーターパン』の木管セクションのリーダーは、国立音大の先輩フルーティストの中谷望さんでした。中谷さんは私と同じ宮本明恭クラスの卒業生で、スタジオプレーヤーとして活躍されていました。『ピーターパン』はフルートが2管編成で書かれていたので、中谷さんは国立音大出身で活躍している笛吹きを2nd奏者として呼んで下さっていました。その年は、今まで2ndを吹かれていた先輩のお一人が諸事情でフルートを辞めることになり、急に人が足りなくなったとのことです。

通常、学生にこのような仕事がまわってくることはめったにありませんが、中谷さんから「誰かピッコロを吹ける人を呼んできて!」と頼まれた広川さんが、幸運にも私に声をかけて下さいました。ここでも、ピッコロが私の将来の可能性を開いてくれたのですね(第5回セミナーを参照)。

時期は7月後半。ちょうど前期の授業も終わり、仕事といってもたまにある中高の吹奏楽の指導くらいでしたので、スケジュール的には暇にしていたときでした。既にリハーサルが始まっているとのことで、広川さんに連れられて早速稽古場へと向かいました。ミュージカルという未知の世界にワクワクすると同時に緊張しながら稽古場へ入ると、そこにはいかにも業界というオーラを醸し出す金管セクションのお兄様方、そして弦楽器のお姉様方の独特な雰囲気に、まだ学生だった私は「これがミュージカルオケの世界か!」と圧倒されました。木管セクションはプロオケの方も多く、とてもフレンドリーに接して下さり、少しずつその場の雰囲気に馴染んでいくことができました。

いよいよリハーサルが始まり、何よりも衝撃的だったのは中谷さんの圧倒的な響きの音色でした。スタジオプレーヤーということで、きっとマイク乗りのよい繊細で綺麗な音を出すのかな?と想像していましたが、中谷さんの音色は全く予想外でした。ドイツの名器ヘルムート・ハンミッヒに息を吹き入れた瞬間、倍音豊かな響きが天から降ってきて包み込まれるような錯覚を覚えたほどです。まさに、「こんなフルート、聴いたことがない!」と思いました。

中谷さんの音がどれほど凄かったか、ひとつエピソードをご紹介しましょう。それは私が大学を卒業しシエナ・ウインドオーケストラへの入団が決まったときのことです。

ある日、事前に選定したヤマハのフルートを受け取りにヤマハ銀座店へと向かいました。そこで担当の方から、「ジュリアス・ベーカーさんがいらしているので、会っていかれませんか?」と言われました。私が選んだフルートがまさにジュリアス・ベーカーモデルでしたので、是非にとお願いしました。ベーカーさんは、私の楽器をパラパラっと吹き、「うん、良い楽器だ!」とおっしゃって下さいました。それから一緒にランチに出かけようと店内を移動中、試奏室の前で突然ベーカーさんが「んんっ?、凄い笛吹きがいる!」と立ち止まりました。試奏室で吹いていたのは、何と中谷さんだったのです。しかもベーカーさんが「君はどのモデルを吹いているのか?」と興味津々尋ねると、それは中谷さんが知人から選定をお願いされた一番安いエントリーモデルだったのです! これにはベーカーさんもあっけにとられていました。それくらい、ベーカーさんにとっても中谷さんは印象的な笛吹きだったようです。

ミュージカルのリハーサルは、オーケストラだけの“オケ練習”、キャストと一緒の“歌合わせ”、本番通りの内容を稽古場で通す“通し稽古”を1週間以上かけて行います(キャストは、この1ヶ月位前から稽古を行っています)。そうしてようやく劇場に入ります。ここでは本番の衣装、照明、舞台装置、音響設備を使って“舞台稽古”を行います。

『ピーターパン』が上演された新宿コマ劇場のオーケストラピットは比較的浅い構造でしたので、舞台上の様子がよくわかりました。ですので、稽古が進むにつれてストーリーへの理解を深めることができました。ここでも中谷さんの音色と表現力の幅広さは圧巻で、隣で吹いていても客席で聴いていても学べることが山ほどありました。

『ピーターパン』はクラシカルな作品ですので、そのフレーズは美しくもシンプルなものも多くあります。中谷さんはクラシックだけでなくジャズ、ポピュラー、さらにはハワイアンや演歌等幅広い引き出しを持つ笛吹きでしたので、「たったこれだけのフレーズで、こんな表現ができるんだ!」、「中谷さんのように吹けるようになりたい!」と思ったものです。

本番が始まってから自分の乗り番でないときも、劇場に出かけて客席の通路脇で何度も何度も中谷さんの笛を聴いていました。そしてそれと同時に、いつしかミュージカルの魅力に引き込まれていったような気がします。

ミュージカルデビューはエキストラから

私が初めて『ピーターパン』で仕事をさせて頂いたのが1988年の夏でした。このときのフルートパートは中谷望さん、菅原潤さん、広川伸さん、そして私の4人でローテーションを組んでいました。まだ学生の私にとっては右も左もわかならい状況でしたが、必死に先輩方について行った記憶があります。とはいえ、今から思えばまだまだ“使えないやつ”だったと思います。けれども、周りの木管セクションの方々の温かな目があったからこそ、何とか仕事をさせて頂いたのでしょう。この時から、毎年夏のミュージカルは本当に楽しみな時間となりました。

次の年には私の1年後輩の中村めぐみさん(現在広島交響楽団フルート奏者)も仲間に加わり、共に仕事をしながら中谷さんから学べる“中谷塾”といった感じでした。残念ながら中谷さんはご病気で他界されたので、今あの音色を生で聴くことはできませんが、映画のサントラやCM、様々なアルバムを通して、知らず知らずのうちに中谷さんのフルートを耳にした方は多いかもしれません。

▲左から筆者、中谷さん、広川さん(新宿コマ劇場にて)

大学を卒業した後、中谷さんは『ピーターパン』以外の演目でもエキストラとして私を呼んで下さいました。『ピーターパン』では2ndフルートとしてでしたが、その他の演目ではフルートは1本ですので、中谷さんの代役を務めなければなりません。これは非常なプレッシャーでしたが、この経験がとても勉強になりました。

通常ミュージカルの現場では、最初からレギュラーとして頼まれることは少ないです。まずはエキストラとして、レギュラーの代役からスタートします。エキストラはオケ練からずっとレギュラーの隣に貼り付いて勉強し、時々はリハーサルで交代させてもらえるもの、ほぼいきなり本番で吹かなければなりません。これは大変な緊張感を要しますが、その反面予習をする時間はたっぷりあります。

まずはリハーサルでしっかり勉強し、初日が開けるとピット内で見学しながらその場の雰囲気を感じ、自分が本番で吹くイメージを固めていきます。もちろん最初から全てが上手くいくはずはありませんが、公演全体に支障がない範囲で演奏できれば及第点です。そこを出発点に、回を重ねる毎にクオリティを上げていけばよいのです。このルーティーンは、今でもエキストラとして仕事をするときは変わりません。例え何十回・何百回吹いたことがある演目でも、最終的にピットで見学して演奏者と同じ空気を感じることは大切にしています。

ミュージカルの公演は少なくとも1ヶ月、演目によっては何ヶ月も続きます。ですので、その時間の中で学べることが多くあります。私が大学を卒業して2年目のことだと思います。中谷さんから『赤毛のアン』というカナダから来日したミュージカルのエキストラを頼まれました。この時の周りのプレーヤーの方は一流の方ばかりでした。正直なところ、私はかなり周りに迷惑をかけていたようで、実際木管セクションでは少し問題になり、『ピーターパン』で一緒だった方が「まあ彼もまだ若いから、もう少し見守ってやってくれないか…」とフォローしてくれたこともありました。おかげで周りの方も少しずつアドバイスを下さったり、飲み会に誘って下さるようになり、私の中でも何かが変わったようでした。

実はこの仕事が始まる数ヶ月前、九州交響楽団のオーディションを受けました。伴奏者を伴って福岡まで行かなければならないので、相当な出費が必要になります。試験会場に行ってみるとフルートでの受験者はたった4人! 今では考えられないですね。一次審査ではまずまず上手く吹けたと思いましたが、たった4人の中でも二次審査に進むことはできませんでした。「何がいけなかったのだろう?」と自問自答するも、答えは見つかりませんでした。落ち込んでいたときに、中谷さんから『赤毛のアン』の仕事を頂きました。そしてこの仕事のすぐ後、再び九州交響楽団のオーディションが東京で行われました。今度は60名を超える応募があったと記憶しております。一次試験の結果、何と私ともう一人の二人が二次審査に残りました。前回のオーディションから3ヶ月しか経っていないのに、この違いは何なのでしょう。明確な答えはみつかりませんが、『赤毛のアン』の現場で経験したことが、私の笛の何かを変えたことは間違いないようです。残念ながら最終的に私は不採用となりましたが、“仕事をしながら学べることの大きさ”を実感した経験でした。

▲ミュージカル『赤毛のアン』の木管セクション

初めてのレギュラー

私が大学を卒業した頃は、まだ今のようにミュージカルの上演数は多くありませんでした。東京で年間を通じて公演を行っているのは劇団四季と東京宝塚劇場、そして1992年からロングランが始まった『ミス・サイゴン』くらいでした。私は中谷さんのエキストラとして年に2~3ヶ月の公演を手伝わせて頂く程度でしたが、それでもミュージカルの仕事に関われたことは幸運でした。

そんなある日、1本の電話がかかってきました。それは劇団四季からでした。内容は「今年の11月からのミュージカルをお願いしたいのですが…」とのこと。劇団四季で長年に渡って指揮をされている上垣聡さんが私を紹介して下さったそうです。上垣さんとは、それまでオーケストラや吹奏楽でご一緒する機会があり、私が時々ミュージカルの仕事をしていることもお話ししたことがありました。そんなご縁もあり、声をかけて下さったようです。

さて、こんな素敵な話しを断る訳がありません。「もちろん引き受けさせて頂きます!」と快諾し、電話の切り際に「あのう、一応1年はやると思いますので…」と言われ、さらにビックリ! この時引き受けた『美女と野獣』は、結局2年4ヶ月のロングランとなるのです。私にとっては初めてとなるレギュラーの仕事。公演パンフレットのオケメンバーの欄に自分の名前が載ったときは嬉しかったですね。しかも作曲のメンケンさんの音楽は素晴らしく、フルートもピッコロも本当に魅力的なフレーズが満載でした。演奏していて幸せになれる演目でしたよ。

ミュージカルをやると下手になる?

「ミュージカルって、毎日同じことをやるのでしょう。」とか「マンネリにならないの?」とか思われる方も少なくないでしょう。私にとって『美女と野獣』の2年4ヶ月というロングランは仕事という点では大成功でしたが、反省も大きい年月となりました。

この期間、ミュージカル以外の仕事も増え、午前中に音楽鑑賞教室で吹いてからミュージカルの2ステージをこなす等、気がつけば1ヶ月休みがないことも当たり前のように、仕事という点では充実していました。しかしながら肝心のミュージカルの本番では、神経を使い耳を使っての演奏が段々とおろそかになっていました。その結果、私のフルートのクオリティは下がっていったと思います。それにつれて周りのプレーヤーからの信頼も徐々に失われていくことになり、ピット内の人間関係も何となくギクシャクとしてきました。

もちろん、実際にイジメやケンカがあるわけではないのですが、「この人には信頼されてないな~ぁ」とわかる瞬間はありました。けれどもその原因は私自身にあったのだと、今ではよく理解できます。自分の音楽的なアピールばかりを意識して、もっと耳を使って周りの音を聴くというアンサンブルの基本姿勢が私には欠落していました。これに気づき、自分なりに勉強して修正するのには、その後かなりの年月を必要としました。

『美女と野獣』の公演が終わった数年後、久しぶりに一緒に仕事をしたプレーヤーの方に、「岡本の笛、良くなったね。一緒にアンサンブルしやすくなった!」と声をかけられたときは嬉しいやら恥ずかしいやら…。「あの頃はいっぱいご迷惑をおかけし、本当に申し訳ありません」と赤面するしかありませんでした。

この『美女と野獣』での苦い経験は、私を成長させてくれました。毎日同じことをやるからこそクオリティを維持することの難しさ、自分勝手な演奏がいかに周りに迷惑をかけるか、そして常に仲間とのアンサンブルを大切にすることを学ぶことができました。

その後、さすがに1年を超えるようなロングランは経験がありませんが、数ヶ月に渡るような長期公演は時々あります。もう二度と『美女と野獣』のときのような失敗は繰り返さないと、毎回気持ちを引き締めて公演に臨んでいます。

毎日当たり前のように本番を重ねていると、何となく楽器を吹いている気になってしまいます。しかしながら、本番は練習時間と別物だと私は思います。自分だけの“自分と向き合う”練習時間を毎日継続的に維持することはとても大切です。もしかしたら、吹奏楽コンクールに向けて何ヶ月も同じ曲を練習していると、これと同じようなことがあるかもしれませんね。毎日100%完璧な人間はいないので、小さなことからでも日々クオリティを上げていく姿勢は大切だと思います。

ミュージカルは音楽の多国籍軍

クラシック音楽とミュージカル音楽の違いは、幾つかあります。オーケストラ編成では作品にもよりますが、ほとんどのミュージカルはドラムとベースが入ります。ベースは古い作品ではウッドベース(コントラバス)が用いられ、新しい作品ですとエレキベース(ウッドベースへの持ち替えもあり)が多く使われます。最近の作品ではギター(アコースティック&エレキ)やシンセサイザーが使われることがほとんどです。ですのでアンサンブルにおいてはドラムとシンクロしたリズム(ビート)&テンポ感、そしてベースから積み上げていく和声感がとても重要になってきます。

そこで大切なことは“反応のよいクリアな発音”と“周りを聴く耳”です。これはクラシックでも同じことですが、残響の少ないオーケストラピットで、しかもマイクを使う現場ではこれらがとてもシビアになります。また取り入れられる音楽のジャンルが幅広いのもミュージカルの特徴です。特にジャズの要素は頻繁に登場し、クラシック畑の私たちには戸惑うことも多いです。スウィング一つとってもダサい跳ね方になり、「岡本のはチンドン屋のチャンチキだよ。」とよく言われます。これを克服するにはいろんなジャンルの音楽をいっぱい聴いて勉強するしかありません。ミュージカルの現場では、本物のジャズを専門とするプレーヤーもいっぱいいらっしゃいます。彼らのプレイに耳を傾け、ときには直接アドバイスを請うことが上達への近道です。実はそういう彼らも、私たちクラシックのプレーヤーの音色や奏法を少しでも盗もうと必死で勉強しているのです。

ミュージカルは音楽の多国籍軍です。クラシック、ジャズ等の様々な国籍を持つプレーヤーが一緒になって演奏します。専門外のジャンルに戸惑うこともありますが、こんなに刺激的で楽しく勉強になる現場はありません。

そういった意味では、吹奏楽でも同じことがいえるかもしれません。吹奏楽で演奏されるジャンルは幅広く無限大で、最近はプロ楽団でも様々なジャンルを超えたコラボにも意欲的です。みなさんが関わっている吹奏楽団で、もしクラシック以外のジャンルが登場したら、それは勉強のチャンスです。是非少しでも深く掘り下げてみて下さい。そうすることが、もしかしたら将来訪れるかもしれないミュージカルでの演奏の糧となるかもしれません。

 

■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第6回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

一緒に演奏したい仲間!

5月から開講した当セミナーも、おかげさまで半年を迎えることができました。毎回、ご覧頂いているみなさまには、心より感謝申し上げます。

さて第6回セミナーを始める前に、私の大切な仲間とのお別れについて少し書かせて頂きたいと思います。ご存じの方も多いと思いますが、サクソフォーン奏者の新井靖志さんが先月ご病気のため永眠されました。

新井さんとの出会いは、シエナ・ウインドオーケストラへの入団でした。新井さんの柔らかく温いサックスの音色と自然で豊かな音楽性は本当に素敵でしたし、その穏やかで頼れるお人柄は私たちシエナの“お兄さん”のような存在でした。新井さんとは数多くの本番を共にしてきましたが、私が一番印象に残っているのは第1回定期演奏会で演奏した『ローマの祭』(レスピーギ)です。このとき演奏したアレンジでは“十月祭”のヴァイオリン・ソロがアルトサックスとピッコロのユニゾンで書かれていました。繊細なニュアンスを要求されるシビアな部分だけにアンサンブルは難しかったはずですが、とても自然に楽しく吹けた記憶しかありません。演奏会後の打ち上げで、新井さんが「謙ちゃん、あそこのソロ楽しかったね。またこういうのやりたいね!」と言って下さったのが、25年近く経った今でも忘れられません。


▲交響詩『ローマの祭』より“十月祭”の一部

シエナ退団後はしばらく新井さんとご一緒する機会はありませんでしたが、数年前よりタッド・ウインドシンフォニーで再び一緒に演奏する機会に恵まれました。近年では、『指輪物語』(デメイ)でのソプラノサックスとピッコロのユニゾン・ソロが楽しかった思い出です。

音楽家なら誰しも、上手なプレイヤーと共演できることはとても光栄なことですが、“上手だから”というだけでは一緒に演奏しても必ずしも楽しくないことだってあります。そういった意味で新井さんは“一緒に演奏したい!”、“一緒に演奏して幸せを感じられる”プレイヤーでした。そんな音楽家としての幸せがひとつ失われてしまったことは、本当に寂しい思いでいっぱいです。

私はとても新井さんの足下にも及びませんが、それでも仲間から“一緒に演奏したい”、“一緒に演奏して楽しい”と思ってもらえるようなプレイヤーを目指して頑張りたいと思います。

新井さん、出会えて一緒に演奏できたことに心から感謝申し上げます!

フルートが出来るまで

さて、今回のセミナーではフルートという楽器がどのようにして作られるのかをご紹介いたしましょう。まず、フルートは数ある楽器の中でも決して安価なものではありません。中学や高校の吹奏楽部で初めて楽器を始める方にの中には、「えっ、こんなに高いの! もっと安い楽器はないの?」と驚かれる方もいらっしゃるでしょう。

何故フルートは高いのか? その理由は、使われている材料と手間のかかる製造工程にあります。フルートに使われている材料は銀、金、プラチナという高価なものから、グラナディラのような特殊な木材まで様々です。その中でもメインとなるのが銀であることは、みなさんご存じのことでしょう。しかし銀は高価な素材ですので、エントリーモデルに気軽に使うことはできません。そこで初心者用の楽器には洋銀と呼ばれる銅とニッケルの合金が使われます。こちらは銀よりは軽量かつ安価なので、初心者には扱いやすく安く買うことができます。しかしながら楽器の製造工程においては、材料の価格に関係なくほぼ同じ手間がかかります。このあたりが、例え安価な材料の楽器であっても価格を抑えにくい理由です。

ということで、ご一緒にフルート製作の現場を見ていきましょう。今回、某ハンドメイド・フルート・メーカーのご厚意により、特別にアトリエ内の様子を取材させて頂きました。


▲管体の元となる銀の管(下)とそれに加工をしたもの(上)

ほとんどのフルート・メーカーは管体の元となる金属管を、専門の金属メーカーから仕入れています。金属の種類は銀だけでも銀純度90~99.8%と様々な上、管厚も複数のバリエーションがあります。当然ながらこの管自体が高価なものなので、フルート職人にとっても失敗の許されない仕事が要求されます。また、メーカーによっては“巻き管”という特殊な管の楽器も作っています。


▲巻き管の原料となる銀の板(上)とそれを管状に加工したもの(下)。矢印の部分は繋ぎ目となる部分で、最終加工後は素人には判別不可能。

この“巻き管”はフランスの名器ルイロットで採用されていて、倍音豊かな独特の明るい響きを奏でてくれます。ただ製作には熟練した職人技が必要でコストもかかるので、一部のメーカーのハイドメイド・フルートのみラインアップされています。

引き上げと半田付け

フルートはトーンホールの加工方法によって“引き上げ”と“半田付け”という2種類に分類されます。


▲トーンホールの形状、引き上げ(上)と半田付け(下)

現在では“引き上げ”が一般的で、“半田付け”は主に上級モデルに採用されます。“引き上げ”のメリットは材料費も安く作業の手間も少ないので、楽器製作のコストを抑えることができます。これに対して“半田付け”は別途リング状のトーンホールを作らなければならず、加工の手間もかかるので、価格の高いモデルしか採用できません。


▲半田付けのトーンホール、管体とのマッチングをベストにするため緻密な作業が要求される

“引き上げ”の作業工程はちょっと面白いので、詳しくご紹介いたしましょう。まず、金属管のトーンホール位置に穴を開けます。


▲トーンホール位置に穴を開けた銀管

これを“引き上げ”作業を行う機械にセットします。


▲“引き上げ”作業を行う機械

慎重に位置を合わせ、トーンホールを引き上げるためのアダプターをセットします。

ここからが職人の腕の見せどころです。アダプターの内部は見えないので、腕の感覚だけで作業を行わなければなりません。

すると不思議なことに管体から煙突状の筒が現れます! 実は管の内側にコマと呼ばれる金属パーツが仕込まれていて、これを回転しながら引き上げることによってこのような形状になります。


▲現れたトーンホール

次に、機械の先端をカッターに付け替え、何度も何度も確認しながら規定の高さまで加工していきます。

最後に、機械の先端をカーリング用のアダプターに付け替え、これを回転させながら筒に押しつけていくと…

不思議なことに筒の先端がロール状に丸くなっていき、見慣れたトーンホールの姿が現れます。

これらの作業を全てのトーンホールに施工し、さらに台座とポストを取り付けて、ようやくフルートの管体が出来上がりです。

このように“引き上げ”のほうがコストが低いとはいえ、そこには職人の細かい手作業があってフルートは作られます(大手メーカーでは専用の機械を使って複数のトーンホールを一度に引き上げたりもするようです)。

一般的に“半田付け”のほうが高級というイメージはありますが、“引き上げ”は軽量で管とトーンホールが一体となった響きの魅力があります。一方“半田付け”は吹奏感は重くなるものの、細かいパッセージで個々の音の粒立ちが明瞭になる等の利点もあり、価格で選ぶというよりは吹き心地や音色の好みで選択されるとよいでしょう。

尚、金の楽器の場合は“半田付け”ではなく“ロウ付け”という作業になり、銀よりもはるかにデリケートな熟練技が要求されます。ですので、価格もそれなりに高価になってしまうのは仕方ありませんね。

熟練職人による手作業の積み重ね

フルートは数多くのパーツによって構成されています。これらひとつひとつの部品の精度が悪いと、キーがスムーズに動かなかったりと演奏に支障が出てしまいます。そこで、いかに個々の部品の精度を上げるかが、フルート職人の腕にかかっています。


▲鋳型から出てきたキーの部品

細かいキーの部品は、鋳型に金属を溶かし込んで作ります。そして鋳型から出てきたときは、このようなツリー状になっています。これをひとつずつ切り離して使うのですが、このままでは精度が悪いので、こちらのメーカーではひとつひとつのパーツを職人が手作業で仕上げていきます。


▲加工に使用する金ヤスリ

最初は粗目の金ヤスリから作業を始め、徐々に細かな目のものへと何度も繰り返しながらヤスリをかけていきます。ここで手間をかければかけるほど、楽器の仕上がりは美しくなります(大手メーカーの量産モデルの場合は、研磨機械での削りが主となります)。また、後に説明する溶接の作業を精度よくスムーズに行うためにも、このヤスリがけ作業は重要になります。

キーのカップ部分は金属板を高圧でプレスすることで形成されます(メーカーによってはカップの内側を真っ平らにするため、削り出し加工を行っているところもあります)。

これにアーム(腕の部分)を溶接していくのですが、これがまた熟練技を必要とする作業になります。銀ロウをバーナーで溶かし込みながら、個々のパーツをひとつずつ溶接していきます。


▲パーツの溶接に使う銀ロウ、それぞれ異なる融点(溶ける温度)を持つものを複数使い分ける


▲バーナーで溶接しているところ、長年の経験と感覚が必要な職人技


▲こういうバネかけのような小さな部分も、ひとつずつ溶接していく

こうして、ひとつひとつのパーツが完成していきます。

頭部管はフルートの音色を決める最も重要な部分です。1本1本丁寧に仕上げられていきますよ。

組み立てとタンポ合わせ

こうして作られた部品たちは、いよいよ最終の組立工程へと入っていきます。

ここではパーツ同士の隙間が適当か、余分な遊びや緩衝がないかを入念にチェックして調整します。この作業が甘いと、何度調整しても楽器に狂いが生じてしまい、演奏していても思うようにキーがスムーズに動かないという悲劇を生みます。個々のパーツ同士の動きをチェックしながら丁寧に組み付けていきます。

末永く楽器を使い続けるために、最も重要な作業となります。

いよいよ最後は“タンポ合わせ”になります。実はこの作業が地道で大変かつ大切な行程になります。

タンポとトーンホール面が水平に密着するように、複数の厚さの調整紙を使って合わせていきます。


▲異なる厚さを持つ調整紙


▲キーに貼り付けるコルクも手作業でひとつひとつ製作

この作業は非常に地道なもので、楽器を組み立てては確認し、さらにもう一度部品を外して調整し直したりと、確認・調整を何度も繰り返すことになります。また気温や湿度によってもタンポの形状が変化するので、それを想定した調整は長年の経験を必要とします。

フルートのオーバーホールを経験された方はご存じかと思いますがタンポ全交換と調整で、多くの場合約8万円前後の修理代と数週間の期間が必要です。それほど時間と根気が必要な作業なのです。

このタンポ合わせの作業は、楽器のレスポンスや音色に直接影響を与えるので、どのフルート・メーカーでも熟練した職人がこの作業を担当します。そしてその職人さんたちはフルーティストとのコミュニケーションをとても大切にしておられ、演奏者が何を求めているのかを熟知していらっしゃいます。しかしながらそこに至るまでは苦労も多く、若い職人さんだと演奏者から叱られることもしばしばで、道半ばで辞めてしまう場合も少なくないようです。

ですので、優れた若い職人さんを育てるということも、フルート業界にとって大切な課題だと思います。それには、私たち演奏者が職人さんの技の奥深さをしっかり理解し、自分も一緒に勉強するというスタンスでつき合っていくことが大切かもしれませんね。

こうして多くの時間と職人さんの熟練技によって、ようやくフルートが完成します。

いかがでしょう、たまたまお店で売っていた楽器を気に入って買ったという方も、その楽器が完成するまでの過程にを思いを寄せることによって、より愛情が増してきたのではないでしょうか?

自分の楽器の“生い立ち”を知ることによって改めてフルートが好きになって頂ければ、こんなに嬉しいことはありません。また、これからフルートを購入しようかと考えている方には、「これだけの手間暇をかけて作られているんだ!」と知ってもらうことで、その価値や価格に納得して頂けるかもしれません。

現代は“何でもネットで安く手軽に買う”時代になりましたが、楽器の価値観はそれに当てはまらないということを、今回のセミナーから知って頂ければ幸いです。

■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第5回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

1番じゃないと意味がない?

日本史上最多のメダルラッシュに盛り上がったリオ五輪が閉幕しました。見事メダルを獲得した選手はもちろんのこと、惜しくもメダルに手が届かなかった選手たちの頑張る姿に胸を打たれた方も多いと思います。特に金メダルが期待された選手にとっては、その期待通りの色のメダルを手にするために、長い年月をかけて苦しい練習を積み重ねてきたことでしょう。

金メダルを獲得した選手たちは本当に素晴らしいですが、それ以上に目標にあと一歩届かなかった選手たちの姿が強烈に心に残っている方も少なくないでしょう。そんな彼らの発した「1番じゃないと意味がないので…」という言葉が、私はとても印象に残りました。「決してそんなことはない!」と日本中の人が思ったはずです。しかしこれは、当人の正直な気持ちだと思います。

確かに世の中には“1番じゃないと意味がない”と思わされる現実はあります。音楽の世界でいうと、オーケストラのオーディションが同じような状況でしょうか。通常、募集人数は各パート1人です。しかも募集は数年に一度というときもあるので、そのたったひとつの席をめぐって数十人、場合によっては100人近くが競い合います。その中から楽団員、音楽監督等に認められた1番の人のみが採用されるのです。この場合、2番の人は意味がありません。もし次にオーディションがあったとしても採用される保証もなく、何回2番になろうともオーケストラには入れてくれません。これがプロオケに入る難しさで現実です。

私が音大を卒業した後、幸運なことに20回以上プロオケのオーディションを受けられるチャンスがありました。そのうちの何度かは二次審査に進むことができましたが、2度ほど2人のみが最終審査に残されたことがありました。50人以上の応募者から2人に絞られたとき、そこには1番と2番しか存在しません。1番にはプロオケ団員としての地位、安定した給料や社会的保証が待っています。2番は何の保証もなく不安定なフリーという現実のままです。この差はとてつもなく大きく、確かに“1番じゃないと意味がない”という現実ですね。

残念ながら私は1番になることはできませんでした。しかしながら、“1番じゃないと意味がない”とは決して思っていません。1番になれなかったのは運が悪かったのではなく“自分の力不足”だったからで、それは仮に1番になっていたとしても後にかなりの試練が待っていたと思います。また1番になった人もそれでゴールではなく、オケに入ってからの努力と試練は相当なものだと想像します。その努力ができ、試練を乗り越えられる人ことが“本当の1番”であり、プロオケの楽団員として活躍されているのです。

それでは、私が“1番じゃないと意味がない”と考えないのはどうしてでしょう? フリーという不安定な立場上(当時のシエナは固定給から歩合制へと移行)、仕事が続かなかったら楽器を辞めていた可能性だってあります。けれども“1番になれなかった”からこそ考えさせられたこと、出会えた人々、見えてきた道が沢山あります。

1番になれない理由はいろいろありますが、要は“何かが足りない(劣っている)”からです。全てに優れている人は文句なしに1番になってプロオケに入っています。1番になれなかった私のような音楽家たちは、その“何かが足りない”部分を少しでも向上させようと悪銭苦闘してることでしょう。もしかしたら、どんなに努力しても1番の人には追いつけないかもしれません。しかしながら、自分に足りない部分を認めてそれと向き合うことができて、初めて見えてくるものもあります。そして気がつけば50歳を目前に控えた今でも、まだフルートを吹き続けていられます。これは私にとって“とても意味のあること”なのだと思います。

ピッコロとの出会い

少し前置きが長くなってしまいましたが第5回となる今回のセミナーでは、ピッコロについてお話ししたいと思います。

▲私の愛器(ヘルムート・ハンミッヒ)

ピッコロはオーケストラや吹奏楽で最高音を担当する笛であることはみなさんご存じですが、その可愛らしい容姿とは裏腹にとてもコントロールの難しい楽器です。実際にフルート吹きの中にも、「ピッコロは苦手」とか「ピッコロは興味ない」という方もいらっしゃいます。

そういう私も、はじめは全くピッコロに興味がありませんでした。中学の吹奏楽部では、運動会でほんのちょっと吹いたことがあるくらいでした。その後進学した高松第一高校吹奏楽部でも、音楽科のフルート専攻生たちはピッコロを吹きたがらず、普通科の生徒がピッコロ担当でした。ですので普通だったらピッコロに全く触れないまま、私は高校を卒業していたかもしれません。

ところが高校2年のとき転機が訪れます。コンクールの県大会を2ヶ月後に控えたある日、私は吹奏楽部顧問の石川孝司先生に呼び出されました。そこで石川先生は、「岡本、コンクールでピッコロをやってくれ。」とおっしゃったのです。実はピッコロ担当の同級生が、諸事情で部活を辞めざるを得ない状況になったとのことでした。正直、私は迷いました。コンクールに出られるという期待と、ピッコロという慣れない楽器を吹く不安が交差したからです。

さらに当時の私は部活の欠席常習犯で、そんな自分がコンクール練習について行ける自信が持てませんでした。そこで、「僕より、真面目に部活に出ている他の同級生がやったほうが・・・」と石川先生に言ったところ、「おまえにやってもらいたいんだ。そのかわり、部活にはちゃんと出席しろよ!」と強い口調で先生はおっしゃいました。後で聞いた話しですが、当時の部の役員や先輩たちは、私がコンクールに出ることにみんな反対したそうです。それもそのはず、ろくに部活に来ない人をコンクールメンバーに入れられるはずがありません。

当時の私がどのくらい駄目な部員だったかというと、高校1年のときの全国大会への遠征で、1年の男子部員は手伝い要員として全員普門館まで同行しましたが、ただ一人私だけ連れて行ってもらえませんでした。それくらい、やる気のない生徒だったのです。しかし、そんな先輩たちの反対を押し切って、石川先生は私をコンクールメンバーに推したのです。今から思えば、「ちゃんと責任を負わせればコイツはやる!」と先生は見抜いていたのでしょう。

「おまえにやってもらいたいんだ!」という石川先生の言葉は、私の眠っていた心に火を付けました。その日から、私は真面目に部活に出席するようになりました。はじめのうちは先輩たちから、「おまえ、ちゃんと部活に来いよ!」と顔を合わす度に言われました。先輩とはいえ、休学前には一緒に高校受験した仲間ですので、その言葉は厳しくも「おまえ頑張れよ!」という温かいものでした。

ピッコロを吹くとフルートの調子が悪い?

ピッコロについては中学のときに少し吹いたことはあるものの、ほぼ初心者という状態でした。奏法や運指はフルートと同じですが、実際に吹いてみると高音で思うように音が出ません。自由曲はヴェルディの歌劇『運命の力』序曲、ピッコロが高音域まで使われている曲です。最初は譜面に書かれた音を出すのが精一杯でした。高い音を出そうとしてもヒット率は非常に低く、出るのは唾ばかり…。コンクールまで間もないだけに、焦る気持ちばかりが積もってきます。

さすがにこのままではまずいと思い、一旦フルートは後回しにしてピッコロ中心の練習へと切り替えました。まずはフルートと同じように「ソノリテについて」の最初のロングトーンから丁寧に行います。そして、徐々に高音域へと続けていきました。次にスケール(音階)練習。高音域では音が変わると息を入れるツボが微妙に変わるので、ちょっとしたことで音が出なくなります。それを修正しながら滑らかに音が繋がるまで繰り返しました。

しかしながら、高音の練習を続けていると耳鳴りがしてきました。これは、ピッコロ奏者の職業病のようなものです。当然、自分でも「うるさい!」と思うので、自然と息のスピードを緩めてしまいます。そうするとアンブシュアも閉まってしまい、高音は出しにくくなります。ですので、ピッコロ初心者の方には右耳だけ耳栓をして練習することを、私は勧めています。

まずはスピードのある息を保って、しっかりと高音域のロングトーンを行って下さい(但し周りの人からはできるだけ距離を離れて! 爆音で迷惑をかけますから…)。フルートと同様に十分に響きのある音色で高音が出せるようになると、フルートとピッコロは運指は同じでも実は“異なる楽器”であるということがわかってきます。フルートが吹ければピッコロも吹けるというものではないのです。しかしピッコロが吹ければ、それはフルートの高音域でのコントロールの幅が広がるという恩恵もあります。けれど私の場合、ピッコロの練習をすればするほどフルートの中低音の調子が悪くなってしまいました。ある日のレッスンで、「部活でピッコロを吹くようになって、フルートの調子が悪いのですが…」と野口博司先生(第1回セミナーを参照)に言ったことがあります。すると先生は、「将来オーケストラをやりたいのだったら、ピッコロは常識だよ。」とバッサリおっしゃいました。この言葉は胸に突き刺さりました。ピッコロを言い訳にしていた自分が恥ずかしかったですね。このときからピッコロは“フルートの練習の邪魔”になるものではなく、オケを目指す自分にとって“なくてはならないもの”になりました。

合奏で音が合わない!

さて、ようやく高音域でも音が当たるようになり楽譜通りに演奏できたところで、初めてコンクール合奏に参加しました。ところが、そこで驚くべき事態が発生します。あんなに苦労して吹けるようになった高音が、出る音出る音ことごとく音程が合いません。オケの編曲ものということで、オリジナルの1stヴァイオリンパートがピッコロ・フルート・クラリネットによるユニゾンで書かれているので確かに音程的にはシビアですが、それにしても吹く度にハウリングを起こし醜い状態でした。あまりにも音が合わないので、「おまえ、違う調で吹いないか?」とクラリネットの先輩から笑われる始末です。一人で練習しているときはそこまで酷い音程で吹いている自覚はありませんでしたが、周りの音を聴いて合わせるとか音色を工夫するという意識が欠落していたのですね。

それ以降、どうやったら周りと馴染む演奏ができるのかを追求する毎日でした。当時、個人で買える安価なチューナーは売っていませんでしたので、部活のチューナーを借りて楽器や自分の癖をチェックしたり、p から f までの音量の変化にできる限り対応する吹き方を研究しました。そうするうちに、あんなに合わなかった音程も気がつけば少しずつ周りとブレンドするようになっていきました。今でこそ個人個人がマイチューナーを持っていて手軽に音程をチェックできますが、私が中高生の頃はそれができなかった反面、各自がもっともっと耳を使って合わせていたと思います。

歌劇『運命の力』序曲で最も苦労した部分は、次のパッセージです。

▲歌劇『運命の力』序曲 206小節~(原調より短2度上)
オーケストラではヴァイオリンがオクターブのユニゾンで軽やかに演奏しますが、吹奏楽版ではピッコロ・フルート・クラリネットによる大ユニゾン大会になります。しかも私が演奏した版では原調より2度高い上、ピッコロはフルートよりオクターブ上で書かれていました。普通に吹けば相当騒がしいことになってしまいますが、この部分を弦楽器のようにいかに軽やかに吹けるかを研究することは、吹奏楽でピッコロを吹くにあたりとてもよい勉強になりました。吹奏楽においてピッコロは、最高音を担当するスパイス的な役割と同時に、バンド全体のサウンドの高音倍音に彩りを添える“かくし味”的な役割も担っています。そのためにはソリスティックな要素だけでなく音色のヴァリエーションや、何より耳を使った演奏が大切です。

最初はあんなに苦労した『運命の力』ですが、練習が進むにつれて周りとのアンサンブルが本当に楽しくなってきました。後にオーケストラでもこの曲を演奏しましたが、高校時代の吹奏楽のほうが“やりがい”がありましたね。残念ながらこの年は全国大会出場は成らず(第2回セミナーを参照)、私がピッコロに真剣に取り組んだのは四国大会までのたった3ヶ月弱でした。けれど、私のフルート人生にとってはとても意味のある時間でした。

ピッコロが運んできたチャンス

再び私がピッコロに出会うチャンスは、音大入学早々に訪れました。国立音楽大学では毎年5月に通称“C年ブラス”という新1年生による吹奏楽の演奏会が行われていました。指揮は管楽器専攻の4年生の先輩が務め、演奏する曲も先輩が選んで決めます。同期のフルート専攻生は12人いましたが、誰もピッコロを吹きたがらなかったので、私はすすんで立候補しました。演奏する曲はオーウェン・リード作曲の『メキシコの祭り』。3楽章からなる曲ですが、ピッコロは最高音のC(ド)が度々登場したり、第2楽章では叙情的なソロがあったりと大活躍です。

▲くにたちウインド・シンフォニカ(通称C年ブラス) 1986年、国立音楽大学講堂大ホール
この“C年ブラス”の演奏会が終わった後、出会う先輩たちが口々に「岡本、ピッコロすごく良かった!」と言って下さったのです。さらに同期生たちの間でも、いつしか“ピッコロの岡本”というイメージが定着していったように思います。またピッコロが吹けるからという理由で、先輩や同期生から中高の吹奏楽部の指導やアマチュアバンドのお手伝いの仕事を頼まれるようになりました。少し話しは逸れますが、先輩や仲間たちに認めて頂いたのにはもうひとつ理由があります。国立音楽大学ブラスオルケスター(以下ブラオケ)では新1年生の自己紹介の際、先輩たちの前で何かひとつ芸をする慣例がありました。私は、母校高松一高の応援歌『一高のファイト』を熱唱しました。熱唱といっても、「一高のファイトを知らないか」という歌詞をひたすら繰り返すだけです。幸運なことにこのインパクトが強かったようでして、「あいつは面白い」とか「あいつはピッコロが吹ける」と先輩たちに覚えてもらえたようです。

私が国立音楽大学を受験した理由のひとつに、ブラオケをやりたいという思いがありました。高校生のとき、ブラオケのレコードでラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲(藤田玄播編曲)を聴いたときは衝撃的でした。吹奏楽とは思えない色彩豊かなサウンドと、繊細かつダイナミックな演奏に感動しました。ブラオケはフルート18名、ピッコロ2名という独自の編成を基本とします。フルートパートを、まさにオケのヴァイオリンパートとして扱っているのです。

▲国立音楽大学ブラスオルケスター 1988年、国立音楽大学講堂大ホール
ブラオケのピッコロパートは、3年と2年の2人で担当する慣例でしたので、私は2年間ブラオケでピッコロを吹くことができました。ソロを除きピッコロ2本のユニゾンも多いので、2人のチームワークが大切になります。ここで最初の1年間は先輩の木次谷 緑さんと、次の1年間は後輩の中村めぐみさんとコンビを組んで演奏できたことは、非常に勉強になりました。1年先輩の木次谷さんとは後にシエナ・ウインドオーケストラでもご一緒でしたし(第3回セミナーを参照)、中村さんは広島交響楽団のフルート奏者として現在活躍されています。お二人共にピッコロもフルートも名手でいらしたので、その演奏や音楽に対する姿勢から学ばされたことは大きかったです。音大で過ごした4年間で誰かにピッコロのレッスンを受けたことは一度もありませんでしたが、このブラオケでの経験そのものが私の“ピッコロの師匠”でした。そしてこの大学生活の中で、益々ピッコロが大好きになっていきました。

高校2年のあのとき、石川孝司先生に「ピッコロをやってくれ。」と言われなかったら、シエナでピッコロを吹くことはなかったかもしれません。また初めて声をかけて頂いたプロオケの仕事もピッコロでしたし、ミュージカルのオーケストラでもピッコロ持ち替えが当たり前です。先生の言葉が、ピッコロ吹きとしての私の未来とチャンスを導いてくれました。ときに非常に厳しい先生でしたが、出会えたことに心から感謝しております。ピッコロで苦労されている方、チャレンジしたいけれど躊躇されている方、全く興味はないけれど…という笛吹きのみなさまにとって、少しでも私の経験が背中を押すことができれば幸いです。

余談ではありますが、私の母校高松一高は今年(2016年)19年ぶりの全国大会への切符を手にしました。指揮をされているのは石川先生の息子さんの石川幸司さんです。さらにもうひとつの母校である屋島中学校も全国大会出場が決まりました。ダブル母校の全国出場に、OBとしてこんなに嬉しいことはありません。両校ともに、讃岐パワー全開の演奏を全国大会でも披露してくれることでしょう。また全ての出場団体が持てる力を十分発揮して、最高の12分間を楽しまれることを願ってやみません。

★おすすめのピッコロCD

■ピッコロ・ジャンクション(ピッコロ:菅原 潤)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-1884/

■ピッコロ・ジャンクション2(ピッコロ:菅原 潤)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-2844/


ピッコロ吹きの巨匠、菅原 潤(NHK交響楽団)さんのピッコロ・アルバム。国立音楽大学の大先輩で、ピッコロ好きとしては学生時代からの憧れの先輩でした。確実で高度な技術力はもちろんのこと、包容力のある音色と表現の幅広さは必聴です! 他にも『Dedication for Piccolo』と『ピッコロ・アルバム』もおすすめ。

■ヴィヴァルディ:ピッコロ協奏曲集(ピッコロ:デュンシェーデ)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-4097/


ベルリン・フィルのピッコロ奏者を務めたデュンシェーデのCD。柔らかい音色と繊細な表現力が本当に素晴らしいです。また、弦楽&チェンバロのアンサンブルの完成度が高く、とても7人での演奏とは思えません。ピッコロ好きなら、是非持っておきたい1枚です。