「グル新」カテゴリーアーカイブ

【コラム】富樫鉄火のグル新 第37回 アンコンの出演順、再び

 前回、アンコンの出演順について綴った際、「編成別出演順」でない地区があったら知らせてほしいとお願いしたところ、さっそく、いくつかの情報をいただいた。

 まず、静岡県大会の「大学・職場・一般の部」が、2006年まで、そうだったようだ。確かに、記録を見ると、Cl6→Tb4→Tb4→Sax4→BT4→Fl4……と「混在」している。打楽器は、おおむね、何回かある休憩時間後の最初に1団体ずつ置かれていたようだ。

 だが2007年からは、多くの会場同様、「打」から始まる「編成別」になっている。変更になった理由は、何だろうか。

 そうかと思えば、兵庫県大会「一般の部」「大学の部」は、今シーズンが「混在」だったようだ。

 ここも(一般の部)、昼食休憩後、Sax4→打4→Fl4→Sax4→Sax4→木3→BT4→打8→金6……とごちゃ混ぜである。もっとも大がかりな編成と思われる「打8」が、平然と真ん中に組まれている。

 ここは、情報をくれた方によれば「こうなったのは、今年初めてだけど、特に進行に遅滞はなかった」とのことだ。

 どうやら私が知らなかっただけで、「編成別出演順」でない地区は、けっこうあるようだ。

 ただ、これも別の方の意見だったが、「混在だと、意外な審査結果になることが多いような気がした。編成別だと、おおむね誰もが納得できる結果だった」とのことだった。

 なるほど、「混在」にすると、今度は「比較」がしにくくなって、妙な結果になってしまうのだろうか。

 「編成別」も「混在」も、やはりアンコンは難しいものなのだ。

 20日(土)、いよいよ全国大会。各団体の名演を期待したい。

※情報をお寄せくださった読者の方々に、心から御礼申し上げます(富樫)

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


※本稿の著作権は富樫鉄火が、出版権はバンドパワーが独占しています。両者の許諾なく、出典元表記のない引用や、引用の範囲を超えた複写、コピー&ペーストを固く禁止します。

【コラム】富樫鉄火のグル新 第36回 アンコンの出演順

※もしも、すでに「編成別出演順」でない地区がありましたら、ぜひ編集部までお知らせ下さい。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第35回 アカデミー賞(3)『ハート・ロッカー』

 最優秀作品賞を受賞した『ハート・ロッカー』を観ていて、どうにも「既視感」が拭えなかった。

 「非日常」のはずの戦争が「日常」になってしまった男は、『パットン大戦車軍団』のジョージ・C・スコットの名演があった(アカデミー主演男優賞受賞←拒否)。

 リアルな戦闘シーンは、『プライベート・ライアン』冒頭30分のほうがはるかに緊張させられた。

 攻める側(この場合は「米兵」)ばかりが描かれ、攻められる側(この場合は「イラク人」)がまったく描かれず、虫ケラのように殺されていくシーンは、『突入せよ! あさま山荘事件』と同じで、ウンザリさせられた。

 防護服を着た爆弾処理兵が、周囲の建物をにらみながら無人の大通りをゆっくり進むシーンは『荒野の用心棒』『夕陽のガンマン』で何度も観た。

 ニュース・ドキュメントを思わせるカメラ・ワークは、特定の作品を挙げるまでもなく、いまや大流行である(大河ドラマ『龍馬伝』ですら!)。

 ラスト・シーンと、そこに登場するキメの字幕は、ソルジェニーツィンの小説『イワン・デニーソヴィチの一日』の有名なラストを思い出せた(全体の雰囲気も、どこか似ていないか)。

 どうも、「いつかどこかで観た何か」を集積した映画としか、思えなかった。新鮮なのは、物語上の大きな展開がないことだけだった。

 終映後、脳裏に浮かんだのは、ロバート・W・スミスの≪仁川(インチョン)≫だった。朝鮮戦争におけるアメリカ軍のクロマイト作戦を描写した音楽だ。なかなか聴かせる曲だが、どうしたって「攻める側」=アメリカの視点で描かれていることは否めない。

 これに対し『ハート・ロッカー』は、「どちらの側にも立っていない、冷静な映画である」との声もあるらしいが、ほんとうにそう思っているとしたら、まことにおめでたい方々だ。監督は「この受賞をイラクやアフガニスタンなど、世界中で命を危険にさらしている兵士たちに捧げたい。彼らの無事の帰国を願う」とスピーチしたんだよ。「アメリカは一刻も早くイラクから撤退せよ」とは、ひとこともいってないんだよ。

 よって、少なくとも私は、まったく面白いと思わなかったし、緊張も感動もしなかった。「なるほど、いまのイラクは、こんなことになっているのか」と勉強にはなったが、それだけだった。

 しかし、とにかくこの映画が、2009年の最高傑作に選出されたのだ。『ザ・コーヴ』の評価といい(第33回)、ほぼ無視された『アバター』といい(第34回)、アメリカは、妙な集団ヒステリーにかかっているんじゃないか。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第34回 アカデミー賞(2)『アバター』

 興行収入歴代第1位にもかかわらず、アカデミー賞を3部門しか受賞できなかったことで、『アバター』は「3D効果がすごいだけで、中身がない映画なのだ」と感じた方が大半だと思う。

 だが、ほんとうに、そうなのだろうか。主要部門をすべて逃した事実は、『アバター』の「勝利」を意味していないだろうか。

 すでにご覧になった方も多いはずなので詳述は避けるが、あの映画が、「アメリカ覇権主義」を批判していることは、どなたも感じたと思う。「キリスト教白人中心主義」を批判しているようにもとれる。

 かつてアメリカは、ネイティヴ(インディアン)を駆逐し、土地を奪ってきた。日本を占領し、思いのままになる国に育てた。ベトナムを傘下におさめようとした(これは失敗した)。そしていまでは、イスラム圏に進出している。かようにアメリカの歴史は、異文化侵略の歴史なのである。『アバター』は、その歴史を寓話で描いたのだ。

 はるか遠くの星に進出できるほどの科学力がある時代に、あの映画に登場する地球軍の兵器や軍人の姿は、まるでベトナム戦争当時と大差ないではないか。ジェームズ・キャメロン監督の確信演出である。

 おそらくアメリカの「インテリ」「指導者層」は、『アバター』を観て、過去に自分たちや先祖がやってきたことを思いおこしたはずだ。それは、「世界の警察」を自認する大国としては、とても嫌な気分だったにちがいない。まるで、映画史に残る名作『駅馬車』を否定されたようなものである(『アバター』のクライマックスは、「暴力集団」アパッチ族を白人騎兵隊が駆逐する『駅馬車』の裏返しである)。

 だから、『アバター』がアカデミー賞で無視されたことは、この作品の真の目的が達成されたようなものなのである。前回書いた、「異国の食文化を認めない」映画『ザ・コーヴ』が長編ドキュメンタリ賞を受賞したのと、構造は同じである。

 もう一点。今回の音楽は、キャメロン作品でおなじみ、ジェームズ・ホーナーだった。サントラ・ファンの間では「パクリ魔」「自作使いまわし王」として有名である。今回は、うまくフィットしない3Dメガネにイライラして、音楽にまで気がまわらなかったが(それでも、エンヤかアディエマスが聴こえたのは、気のせいか?)、ラストに流れた≪愛のテーマ≫は、案の定、『タイタニック』主題歌とそっくりフレーズのオン・パレードであった。今後、劇判のほうも、パクリ指摘が出てくるのではないか。『ミクロキッズ』のように、あとになってパクリが発覚し、ニーノ・ロータ遺族に著作権使用料を支払ったような、ああいう事態にならないことを祈る。

【余談】ほかの、有名なホーナー「パクリ」音楽……『ウィロー』←シューマンの交響曲第3番≪ライン≫、『エイリアン2』←ハチャトゥリアン≪ガイーヌ≫~<アダージョ>。確か、バーンスタインをパクって差し替えになった映画もあったと思う。

■『アバター』愛のテーマ

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第33回 アカデミー賞(1)『ザ・コーヴ』

 アカデミー賞の最優秀長編ドキュメンタリー賞を『ザ・コーヴ(入り江)』が受賞したことで、騒動になっている。

 まだ日本では公開されていないので即断は避けたいが、和歌山県太地町のイルカ漁を盗撮し、告発した作品だという。

 この映画の製作者たちと、最優秀賞に選出したアカデミー会員たちに聞きたい。

 盗撮でドキュメンタリをつくったことは、確かに肖像権や著作権侵害の可能性があるが、やむをえない場合もあると思う。北朝鮮の飢餓の惨状だって、10年ほど前に、初めて盗撮映像によって世界に知らされたのだ。だが問題は、そんなことではない。

 あなたたちは、アメリカ文学の最高傑作『白鯨』(メルヴィル)を読んだことがあるか。日本では、1999年に岩波文庫創刊70年を期して行なわれた、文化人による海外文学人気投票で「満票第1位」に選出されているほどの名作だ。

 この中の、捕鯨業を賛美する章の中に、こんな一節がある。

「鎖国中の日本が開国するとすれば、その功績は捕鯨船に与えられるべきだ。事実、日本の開国は目前に迫っている」

 ペリーの黒船が来たのは1853年。『白鯨』初出は1851年。ペリーの目的の一つは、日本にアメリカ捕鯨船の基地を確保することだった。つまり、アメリカ捕鯨業が、日本を開国させたともいえるのである。捕鯨が、一国の命運を変えたのだ。この事実を、あなたたちは認識しているか。

 そして、この『白鯨』が、≪マスク≫≪聖歌と祭り≫で知られるフランシス・マクベスによって、≪水夫と鯨≫と題する吹奏楽組曲になっているのを知っているか。1997年に、ツヅキボウ交響吹奏楽団(岐阜)によって、コンクール全国大会でも演奏されている。

 『ザ・コーヴ』の目的が、日本のイルカ漁をやめさせることにあるのなら、同じ海の哺乳類を捕獲する『白鯨』も禁書にし、≪水夫と鯨≫も演奏禁止にするべきじゃないか。

 そしてもうひとつ。あなたたちに、日本のドキュメンタリー映像『にくのひと』を観てもらいたい。兵庫・加古川食肉センターで働くひとたちを追った作品だ。2007年に、当時、大阪芸術大学の映像学科学生だった満若勇咲が製作発表し、轟然たる話題を巻き起こした。もちろん仕事内容は、牛を解体し、食肉に加工することである。生きている牛が、どうやって食肉になるのかが、すべてとらえられている。あなたたちアメリカ人が毎日食べているビーフは、こうやって加工され、食卓に届いているのである。まさか「鯨・イルカと牛とでは、命の重みがちがう」などとはいわせない。

 もう一度いう。『白鯨』を禁書にしろ。≪水夫と鯨≫を演奏禁止にしろ。そして『にくのひと』を観ろ。その上で『ザ・コーヴ』を日本人に観せてこそ、他国の食文化を批判攻撃できるというものだ。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第32回 板吹のドリル

 実にひさしぶりに、板橋区吹奏楽団のポピュラー・コンサートに行ってきた(3月7日、東京・板橋、板橋区立文化会館)。

 一般市民バンドで、ステージ・ドリルをやるところは、そう多くない。板吹は、本格的なステージ・マーチング・ショーをこなす珍しい一般バンドである。

 今回のドリルは、プロ・マジシャン(ドルフィン・マジック・カンパニー)をゲストに迎えていたが、正直、驚いた。マジック・イリュージョンとステージ・ドリルが共演したのである。

 マジックは、箱に入った人間が消えたり入れ替わったりする大がかりなもので、その後ろで、ドリル隊がナマ演奏するのである。当然、音楽の山場とマジックの見せ場は、一致していなければならない。これが実に見事で、板吹ドリルは、新たなマーチング・ショーの可能性を開いたように思う。一般バンドでここまでやるところは、そうはあるまい。

 もうひとつ、私が板吹ドリルを好きな理由は、昔ながらの基本的なドリルに徹していることである。私が学生時代にやっていたようなドリルを、いまでもキチンと踏襲しているのだ。

 近年、マー協の大会やジャパン・カップ、DCJなどを観るにつけ、マーチング・ショーは、カラーガードと小道具・大道具が派手で大がかりになるばかりで、疲れることが多いと感じている。どこを観て、何を聴けばいいのか、よくわからないうちに終わることがほとんどだ。

 だが、ドリルとは、「音楽」なのである。

 本来、座奏でいいはずが、そのうち、身体が自然と動いてくる。マーチを演奏しているうちに、歩かずにはいられなくなり、それが「パレード」になる。さらに、やむにやまれぬ思いがわいてきて、それがいつしか、フォーメーションになり、ステップになる。それがドリルの基本姿勢だと思う。

 板吹のドリルは、この基本を忠実に守っている。初めに「動き」があるのではなく、すべては「音楽」から始まっているのである。だから、観ていて疲れないし、無理がない。今回のようにマジックと共演する際は、あくまでバックに徹している(もう少し、マジック中は、動きを少なくしてもいいと思ったが)。

 やたらと視覚効果だけで観客を驚かすタイプのドリルをやっている高校や大学のバンド諸君は、板吹のドリルを観て参考にするべきだと思った。

 なお、板吹のポピュラー・コンサートは、毎回凝ったテーマ構成で楽しませてくれる。今回の「不思議な百貨店」なるテーマも、少々もたれる感じはあったが、ドリルともども、社会人中心の一般バンドで、よくあそこまでやっていると思う。

 蛇足だが、プログラムは絵本仕立てになっており、後ろに小さく曲目が書いてあるだけで、作曲者名も編曲者名も、曲の由来解説もなかった。小長谷宗一作曲≪エド・ページェント≫のような板吹ならではのオリジナルもあったのに、ちょっと残念だった。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第31回 上海バンスキング

 第19回で紹介した『上海バンスキング』に行ってきた(2月27日、東京・渋谷のBunkamuraシアター・コクーン)。1979年の初演から31年、最終公演から16年ぶりである。まるで同窓会にでも出るような気持ちで客席に入った。

 客席は、8割がたが50代以上の中高年。昨年の東京ドームにおける「サイモン&ガーファンクル」公演の雰囲気に近かった。

 あまりにいいたいことがたくさんあるので、ほんのいくつかだけ。

 出演者の大半は還暦過ぎ。しかも、楽器ができるといっても、プロ・ミュージシャンではない。あくまで「役者」である。

 なのに、なぜ、こんなに素晴らしいのだろう。

 串田和美のクラリネットは、相変わらずの「チンドン屋奏法」である。アンブシュアもなにもあったものではなく、とにかく「息の量」だけで無理やり鳴らしている。なのに、なぜ、あんなに哀しげで、味のある音楽を奏でられるのだろう。

 笹野高史のトランペットは、高音がキツキツで、音もかすれている。小日向文世のテナー・サクソフォンは、大幅にピッチが狂っている。吉田日出子は昔ながらのヨレヨレ台詞まわしで(それが味なのだが)、案の定、噛み噛みである。

 なのに、なぜ、プロの演奏よりも、はるかに感動させられるのだろう。

 バクマツ(笹野高史)が、後ろ向きで≪赤とんぼ≫を吹きながら、ポケットから「赤紙」(召集令状)を出すと、リリーが「コレ、ナニカイテアリマスカ」と聞くシーン(ここは、観るたびに泣かされる)。マドンナ(吉田日出子)が、アカペラで、ダミアの≪暗い日曜日≫を歌うシーン。ラスト、亡霊たちがあらわれて≪ウェルカム上海≫を寂しげにセッションするシーン。

 世界一のジャズ・ミュージシャンが揃っても、こんな感動的な音楽シーンは再現できまい。

 芝居の力、言葉の力が加わったとき、音楽は、テクニックなど関係ない、なにか、別のものに昇華するのかもしれない。

 ほかに……

 カーテン・コールで≪シング、シング、シング≫が演奏されたが、明らかに、ベニー・グッドマンの1938年カーネギー・ホール・リサイタルの演奏をもとにしたアレンジだった。よくやったと思う。

 四郎(串田和美)が、マドンナの父親の前で、ジャズをやめると誓い、「ノコギリで斬ったクラリネット」は、昔は「セルマー」だったはずだが、いまでは「クランポン」になっていた。

 クラリネットを花瓶の中に隠す際、バクマツが小声で「16年前もここに隠したっけな」と囁いたのがケッサクだった。

 最後に、もう一度同じことを。

 どこかの出版社さん、吹奏楽版で≪「上海バンスキング」メドレー≫、出してくれませんか。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第30回 勘十郎と黛の≪BUNRAKU≫

 2月23日(火)、東京・大手町の日経ホールで「桐竹勘十郎 人形の世界」なる文楽公演があったが、演目のひとつ『関寺小町』の伴奏音楽が、黛敏郎作曲、独奏チェロのための≪BUNRAKU≫だった(堤剛演奏のテープ使用)。

 私は文楽好きなのだが、大夫(浄瑠璃)と三味線以外の伴奏音楽による文楽は、あまり記憶にない(昨年、国立劇場が、シェイクスピアの≪テンペスト≫を文楽化したが、これだって旧来の床本・浄瑠璃アレンジで、音楽は大夫と三味線だった)。

 ≪BUNRAKU≫は、1960年、倉敷の大原美術館開館30周年記念に委嘱され、同館で松下修也が初演した。チェロ1本で、大夫と三味線を表現し、人形の動きまでをイメージさせる異色作だ。この時期の黛はまさに絶頂期で、≪涅槃交響曲≫≪曼荼羅交響曲≫といった代表作を発表し、アメリカで吹奏楽(管楽アンサンブル)曲や≪舞楽≫などを続々生み出している。そのころの名曲のいくつかは、名盤『トーンプレロマス55』(岩城宏之指揮、東京佼成ウインドオーケストラ)で聴くことができる。

 『関寺小町』は、本来が能の演目である。近江の関寺近くに庵をいとなむ100歳の老女が、若き日を回想する。実はこの老女は、かつて絶世の美女だった小野小町である。恋に燃えたころの思い出に小町の心は浮き立つが、明け方になると、老いを自覚し、やがて庵に帰っていく……。

 文楽では、人形舞踏四部作『花競四季寿』(はなくらべしきのことぶき)の一編となっており、この『関寺小町』は、秋の部にあたる(冬の部が有名な『鷺娘』)。先日まで、国立劇場でも四部通し上演されていた。

 黛が『関寺小町』を意識して≪BUNRAKU≫を作曲したのかどうか知らないが、今回の上演は、実にピッタリだった。この選択が勘十郎によるものだとすれば、さすがだと思う(私が知らなかっただけで、『関寺小町』を≪BUNRAKU≫でやった前例があるのかもしれないが)。

 冒頭は夕闇迫るススキの荒野。三味線の爪弾きがピッツィカートで、大夫の唸りが擦弦で表現されると、石の上に呆然と座っていた老女が、ジワリジワリと動き出す。

 なるほど、黛は≪BUNRAKU≫で、こういう世界を表現したかったのかもしれない。国立劇場では絶対にできないことで、ぜひ、この種の試みを増やしてほしいものだ。

 『関寺小町』の勘十郎は陰遣いだったが、舞台全体が薄暗い美術だったので、出遣いでもよかったのではないか(つづく『鷺娘』は出遣いだった)。幕間、トーク相手の中丸三千繪(オペラ歌手)が、「オペラと人形の共演もできそうですね」といっていたが、それはやめてほしい。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第29回 ポール・メイエ

 もう、いまから20年近く前のことだと思う。あるクラシック愛好家の自宅におけるサロン・コンサートに招かれたことがある。フランスから来た、若き天才クラリネット奏者が演奏するとの触れ込みだった。

 行ってみると、スラリと背の高い、たいへんなイケメン美青年があらわれた。

 曲は、プーランクやドビュッシーだった。個人宅の部屋だったので、10人ちょっとの聴衆が、すぐ目の前に迫っている。そのせいか、ちょっとやりにくそうで、照れているような感じが若々しかった。演奏はなかなかの名演で、確かに天才クラリネット奏者の出現だと思った。

 彼の名をポール・メイエといった。

 あの美青年が、東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)の首席指揮者に就任するとは、夢にも思わなかった。すでにTKWOの作曲コンクール本選会(2006年)や、昨年のコンクール課題曲参考演奏、特別コンサートなどで指揮しているが、20年前から、吹奏楽や指揮に興味があったのだろうか。

 2月19日(金)、TKWO第104回定期演奏会(東京芸術劇場)は、彼の首席指揮者就任記念コンサートであった。曲はモーツァルト≪13管楽器≫、ヒンデミット≪交響曲変ロ調≫、リヒャルト・シュトラウス≪ティル~≫(ハインズレー編曲)の3曲。自身の選曲らしい。

 その内容については、すでに福田滋氏の的確なレポートが掲載されているので、詳細はそちらをご覧いただきたい。

 メイエの演奏は、いま風のいい方だと「ライト感覚」とでもいうのか、全体にたいへん軽快でスピード感あふれるものだった。≪13管楽器≫など、ヨッフムやベームで聴いてきた私のような世代には、そうとう速い演奏に感じられた。だが、おそらくこういう演奏が、現代では(あるいはフランスでは)主流なのだろう。確かに、新しいTKWOサウンドとしては、実に新鮮であった。

 もちろん速いからといって乱れることなどあるわけはなく、TKWOのアンサンブル能力の高さが十二分に発揮された演奏だった。特にモーツァルトにおけるオーボエ・宮村和宏氏(副コンマス)の技術と、全体を牽引する力は特筆に価するものだった。いま、≪13管楽器≫を、あれほどのレベルで演奏できる吹奏楽団は、TKWOしかないはずだ。

 これから、メイエがどんな曲目で、どんなサウンドを引き出してくれるのか、実に楽しみである。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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【コラム】富樫鉄火のグル新 第28回 浅田真央とキム・ヨナ

 アメリカの吹奏楽指導者で作編曲家のポール・ヨーダー(1908~90)が、1979年に来日した際、吹奏楽コンクール全国大会・中学の部を聴いて、こんな感想を述べている(全日本吹奏楽連盟会報「すいそうがく」34号=1980年1月発行より)。

「中学時代にこんなむずかしい曲をやってしまったら、彼らの将来にはどんな作品が残されているのでしょう」

「木管楽器のセクションでは身体を動かしている中学生を見ましたが、たしかに大人のすぐれた奏者にはそういう動作の人もいますが、それは音楽的な表現に必要な内面から出てくるものでなければならないのです。中学生のそれは、単にまねであって、一人一人の内面的な要求や必要からおこったものではないように思えました」

(ちなみに、この年ヨーダーが聴いたのは、チャイコフスキーの交響曲第4番第4楽章、ラヴェル《ダフニスとクロエ》、ドビュッシー《海》などだった)

 バンクーバー五輪、フィギュア女子を見ていて、この言葉を思い出した。

 同じ19歳で、あのちがいは、何なのだ。色香満点のキム・ヨナと、少女の面影を十二分に残す浅田真央。

 結果は、色香のキム・ヨナが、前人未到の点数でぶっちぎりの金メダル。完全なトリプル・アクセルに、色香が勝ったのだ。もちろん素人目に見てもキム・ヨナのほうが優れていたし、浅田真央はフリーで小さなミスもした。だから、あの順位は、当然だと思う。

 それにしても、あのキム・ヨナの点数は、何なのだ。そして、あの色香、ほんものに見えるか。どこか、生意気な19歳が背伸びしているような、つくりものの雰囲気がなかったか。

 フィギュア・スケートって、技術で点数を競う「スポーツ競技」じゃなかったのか。トリプル・アクセルを決めても、ニセ色香ではるかに上の点数を取れるのなら、アイス・ダンスやアイス・ショーと、どうちがうのか。

 現にキム・ヨナは、早くも引退→プロ転向の噂がある。ポール・ヨーダーの言葉をキム・ヨナに聞かせたい。

 そして、それでも文句一つ言わず堂々としていた浅田真央を、朝青龍や腰パンにいちゃんは、少しは見習ってほしい。

富樫鉄火(吹奏楽大好きの音楽ライター)


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