「グル新」カテゴリーアーカイブ

【コラム】富樫鉄火のグル新 第320回 オヤジでも楽しめた、オタク「音楽」映画2本

 一見、オタク向けに見えながら、意外と大人の鑑賞にも耐えうる、しかも「音楽」を題材にした映画を2本観たので、簡単にご紹介を。

 1本目は、アニメーション映画『映画大好きポンポさん』(平尾隆之監督)。
 正直、このタイトルとヴィジュアルゆえ、還暦過ぎのオヤジが観に行くのは、ためらいがあった。だが、SNS上の評価が尋常ではない。オタク趣味を超えた高評価が相次いでいる。
 公式サイトによると、映画製作の舞台裏を描くもので、物語中の映画のタイトルは『マイスター』(巨匠)だという。どうも「指揮者」の物語らしい。
 そこで勇気をふるって、休日の午後、アニメ専門映画館「EJアニメシアター新宿」(旧・角川シネマ新宿)に足を踏み入れた(ガラ空きだった)。

 舞台は映画の都ニャリウッド。若い女性プロデューサー、ジョエル・ダヴィドヴィチ・ポンポネット(愛称ポンポさん)は、映画作りに関して天才的な慧眼の持ち主である。
 そのポンポさんに見込まれ、アシスタントのジーン・フィニ青年が新人監督としてデビューする。作品は『マイスター』。ある大指揮者(カラヤンを思わせる)がスランプに陥り、カムバックするまでの物語である。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第319回 酒にウイルスが入っているとでもいうのか。

 現在、東京都内の飲食店は、ほとんどが入口に「虹アーチ型」のステッカーを掲げている。
 これが、いままで3段階にわたって変化していることを、ご存じだろうか。

 最初が上記【A】タイプで、東京都が開設したウェブサイトにアクセスして自分の店を登録する。そして、ウェブ上でいくつかのアンケートのような質問に答え、「合格」すると、感染症対策に対する「宣誓書」と、店名入りのステッカーをダウンロードできる。
 質問は「席の間隔を十分にとっているか」「換気を十分におこなっているか」といった常識的なもので、子どもでも「合格」できる。
 小池都知事が、このステッカーを掲げながら「外での飲食は、このステッカーのお店を選んでいただきたい」と説明していた記者会見をご記憶の方も多いだろう。

 かくして都内のあらゆるお店が「宣誓書」と「ステッカー」を入手し、十分な対策に取り組んだはずなのだが、感染拡大は、おさまらなかった。
 その間、飲食店が感染拡大の温床なのか否か、その種の本格的な検証は、まったくおこなわれなかったはずだ。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第318回 聴衆が帰らないコンサート

 終演後も、感動した聴衆が帰らず、無人のステージに向かっていつまでも拍手がつづく、そんな吹奏楽のコンサートを、2つ、経験した。

 ひとつめは、東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)の第154回定期演奏会(6月 5日、東京芸術劇場)。指揮は、いま大人気の原田慶太楼(1985~)。
 原田は、アメリカ・ミシガン州のインターロッケン芸術高校へ進んだ(サクソフォン奏者を目指していたという)。ここで吹奏楽部に入ったら、顧問がフレデリック・フェネル(1914~2004)だった。
 当時、すでにフェネルはTKWOの常任指揮者を退任し、桂冠指揮者の称号を得ていた。TKWOを世界的な吹奏楽団に育て上げた、大指揮者である。原田は、そんなフェネルにすっかり魅せられてしまい、直接指導を受けているうちに、指揮者になりたいと考えるようになった。
 先日、東京交響楽団の正指揮者に就任した原田だが、その原点は、フレデリック・フェネルだったのだ。

 その原田が、TKWOの定期演奏会に登壇した。
 曲は、大半がフェネルお得意の名曲。
 たとえば、1983年に初めてフェネルがTKWOを指揮した曲、《フローレンティナー・マーチ》(フチーク)や、《ウェディング・ダンス》(プレス)。そのほか、生涯最後にTKWOを指揮した曲、《美しきドゥーン川の堤よ土手よ》(グレインジャー)、《ヒズ・オナー》(フィルモア)など。

 最近、こういったオリジナル名曲を聴く機会が少ないだけに、新鮮だった。原田の指揮ぶりは、憧れのフェネルゆかりの名曲を、同じくゆかりの吹奏楽団で指揮できることが、うれしくて仕方がないといった様子だった。その感動が、演奏にもそのままあらわれ、実に生き生きした演奏となった。団員のなかにも、フェネルを直接知るメンバーがまだ多くいる。みんな楽しそうだった。
 時折、聴きなれない極端なアゴーギクもあったが(たとえばフチーク曲などで)、嫌味な味わいはなかった。

 聴衆の感動も、曲につれて盛り上がり、最後の2曲、フィルモアの《ローリング・サンダ―》《ヒズ・オナー》が終わった時点で、興奮が沸点に達した。
 原田の目にも涙が浮かんでおり、拍手は、アンコール後もいつまでもつづいた。
 聴衆は、「TKWOに、フェネルの後継者が誕生した瞬間」を体験したのである。
 最後は、コンサート・マスター(田中靖人=サクソフォン)が黙礼し、団員も下がったが、それでも拍手は鳴りやまない。
 ついに、団員と原田が再びステージ最前列にあらわれ、手を振ったり頭を下げたりして、ようやくおさまった。

 次が、シエナ・ウインド・オーケストラ(シエナWO)の第51回定期演奏会(7月4日、東京オペラシティ・コンサートホール)。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第317回 小林亜星さん、逝く。

 作曲家の小林亜星さんが亡くなった(享年88)。
 わたしは、亜星さんとは、数回、すれちがうようにしてお会いしただけだが、たいへん印象に残っていることがある。

 たしか、2010年ころのことだったと思う。
 西荻窪の小さなスナックで、河辺浩市さんを囲む会が開かれた。
 河辺浩市さん(1927~2014)は、日本を代表するジャズ・トロンボーン奏者だ。東京藝大の卒業で、一時、N響のサブ団員(研究員)だったこともある。
 藝大時代の同級生・黛敏郎とは長年の親友関係で、黛のほとんどの映画音楽に演奏参加している。たとえば、小津安二郎監督『お早よう』(1959)の、子どもたちのオナラの音なども河辺さんの”演奏”である。
 映画『嵐を呼ぶ男』(1957)では、ドラムスの石原裕次郎と”共演”した(編曲も河辺さん)。
 越路吹雪リサイタルの、事実上の音楽監督としても、長年、活躍した。

 だが、吹奏楽にかかわっている方にとっては、コンクール課題曲《高度なポップスへの指標》(1974年度)や《シンフォニック・ポップスへの指標》(1975年度)の作曲者としておなじみだろう。
 特に前者などは、佐渡裕&シエナ・ウインド・オーケストラによってリバイバル・ヒットし、近年ではTVやラジオのバラエティ番組のBGMとしてよく流れている。
 ”吹奏楽ポップスの父”岩井直溥さんは藝大の1年先輩で、戦後、アーニー・パイル楽団で一緒だった時期もある。

 そんな河辺さんに、むかしの音楽界の思い出を語ってもらう、小さな会だった。
 十数人の参加者だったと思う。
 ひととおりの話が終わり、雑談もすんで閉会となるころ、ドアを開けて、大柄な男性が、入ってきた。
 一見して、小林亜星さんだとわかった。明らかに常連のような雰囲気で、気軽に入ってくる。
 なぜ亜星さんほどの大作曲家が、このような(失礼!)西荻窪の奥まった店にやってきたのか、不思議だった(あとで知ったのだが、ポピュラー音楽関係者の間では知られたお店だった)。

 亜星さんは、奥に座っている河辺さんを見つけるや、
「あれ? 河辺さんじゃないですか!」
 と声をかけ、直立不動とまではいかないが、突然、シャンとなって、
「おひさしぶりです。お元気そうですね」
 と頭を下げて挨拶している。
 わたしは亜星さんとは初対面ではなかったが、あんなに畏まった姿を見るとは思わなかった。

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【コラム】第316回 新刊紹介『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』

『東京佼成ウインドオーケストラ60年史』(新潮社図書編集室:発行)が4月に刊行された。
 正式には、昨年が創立60周年だったので、2020年中の刊行を目指していたのだが、新型コロナ禍により、昨年は長期にわたって活動休止となってしまった。その関係で、約1年遅れでの刊行となった。
 東京佼成ウインドオーケストラの歴史で特に欠かせないのは、同団の桂冠指揮者、フレデリック・フェネル(1914~2004)の存在だが、彼に関しては、すでに多く語られている。
 わたしは、同書のドキュメント部分を取材・執筆するなど、すこしばかり関わってきた。そこで、TKWOをあまりご存じない方のために、中身をご紹介がてら、創設当初の余談を綴ってみたい。

東京佼成ウインドオーケストラ(TKWO)は、その名のとおり、宗教法人・立正佼成会が擁するプロ吹奏楽団である。

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■東京佼成ウインドオーケストラ60年史
http://www.bandpower.shop/shopdetail/000000001207/

【コラム】富樫鉄火のグル新 第315回 1705年12月、リューベックにて(終)

◆《ゴルトベルク変奏曲》の出自
 バッハは、《クラヴィ―ア練習曲集》と題する楽譜集を、全部で4巻、刊行している。どの巻も複数曲が収録されているが、第4巻(1741年10月刊行)は長大な1曲のみ。曲名は《2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏より成る~愛好家の心の慰楽のために》という。現在、通称《ゴルトベルク変奏曲》BWV988と呼ばれている曲だ。
 「アリア」とは、《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィ―ア小曲集》(1725年版)に記された小曲の旋律を指す。

 ドレスデンに赴任していた前ロシア大使、ヘルマン・カール・カイザーリンク伯爵は、お抱えのチェンバロ奏者、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727~1756)を連れ、しばしばライプツィヒを訪れ、バッハのレッスンを受けさせていた。
 あるとき、不眠に悩む伯爵は、バッハに、「穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィ―ア曲を、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申し出た」(フォルケル『バッハ小伝』、角倉一朗訳、白水Uブックス)。
 そこで書かれたのが、この《アリアと様々な変奏》である(と、いわれている)。
 この逸話は、しばしば不眠症の伯爵が「眠れる音楽を書いてくれと要求した」かのようにつたわっているが、そうではない(グレン・グールドの名録音が、この逸話に拍車をかけたかもしれない)。上記のように、伯爵は「気分が晴れるような」曲を望んだのである。

 この逸話は、例のフォルケルの記録で有名になったものだが、いまではマユツバものと見る向きも多い。
 というのも、この当時、ゴルトベルクは13~14歳の少年である(伯爵の稚児さんだったか)。たしかに、ヴィルトゥオーゾではあったようだが、それにしても、このような難曲を、その若さで弾けただろうか、というのだ(楽譜通りにリピートすると1時間以上かかる)。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第314回 1705年12月、リューベックにて(4)

現在、「Abendmusiken」=夕べの音楽(会)といえば、教会での演奏会の代名詞だが、本来は、リューベックの聖マリエン教会での催しを指す固有名詞だった。
 前述のように、創始者は、ブクステフーデの前任者、フランツ・トゥンダー(1614~1667)である。

 リューベックでは、毎週木曜日の正午、証券取引所の開場を待つ商人たちが、聖マリエン教会で時間をつぶす習慣があった。社交場のようなものだったのだろう。
 当時のリューベックは北ドイツ最大の経済都市で、ハンザ同盟の盟主”ハンザの女王”と呼ばれていた。町は、岩塩や塩漬けニシンで大儲けした商人たちであふれていた。
 そんな彼らのために、トゥンダーはオルガンを弾いて聴かせた。これが「夕べの音楽」で、商人組合も教会に寄付する形でギャラを支払っていた。
 やがて一般市民も無料入場できる催しとなる。「コンサート」のはしりである。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第313回 1705年12月、リューベックにて(3)

 CD『1705年12月』のオルガニスト、マヌエル・トマディンがライナーノーツで綴っている、「このとき、バッハとブクステフーデが、お互いに自己紹介しあった可能性は低い」「2人が出会うことはなかったと思われる」には、それなりの根拠もあるようだ。
 トマディンによると、バッハの次男、C.P.E.(カール・フィリップ・エマヌエル・)バッハが、後年に父から直接に聞いた話として、リューベックでのバッハは「active listener」(熱心な聴き手)だったと書いているというのだ。
 トマディンはこの表現を「不思議な定義」だとし、ゆえに2人は直接には知り合わなかったと推測している。

 そしてトマディンは、「バッハは、ブクステフーデが嫉妬して外部に漏らさなかったアドリブ技術や細かいパッセージ演奏、音域や音列などを身につけるため、自己紹介することなく、こっそり聖歌隊のなかに潜り込んだり、教会の隅でその演奏を聴くことを好んだ」と、見てきたようなことを書いている。
 だが、これも荒唐無稽な話とはいえないのだ。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第312回 1705年12月、リューベックにて(2)

《トッカータとフーガ ニ短調》BWV565は、おそらくバッハのなかでもトップクラスの有名作品だろう。
 ところが、これほど有名なわりに、いつ、どこで、何のために作曲されたのか、まったくわかっていない。それどころか、自筆譜が残っていないせいもあって(かなり後年になってからの「写譜」しかない)、バッハの真筆ではないとの説も根強い。
 しかし、いまでは音楽の教科書に載り、ディズニー映画にまでなっているし、嘉門達夫も「タラリ~、鼻から牛乳~」とうたっているほどなので、いまさらバッハの作ではないとするわけにもいかないだろう。

 前回紹介した”磯山説”のように、バッハは、ブクステフーデの曲から「自由に演奏して(書いて)いいのだ」との姿勢を学んだ。たしかにブクステフーデの曲は自由奔放で幻想的だった。カタブツのバッハにとっては目からウロコが落ちる思いだった。
 そのせいか、アルンシュタットに帰ってからのバッハのオルガン演奏は、一挙に派手で前衛的なものになったという。ただでさえ、4週間の休暇を無断で4か月に伸ばし、お目玉を喰らったばかりである。なのに、今度はわけのわからないオルガン曲を弾いたり、挙句の果て、女性を教会内でうたわせたりしたものだから、またも教会上層部からお咎めを受けた(当時、女性が教会内でうたう=声を出すことは許されなかった。この女性が、最初の妻、マリア・バルバラではないかといわれている)。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第311回 1705年12月、リューベックにて(1)

最近、たいへん興味深いタイトルのCDが、オランダのBrilliant Classicsから出た。
『December 1705/Buxtehude&Bach Organ Music』(Manuel Tomadin:オルガン)である。
 バッハに詳しい方だったら、タイトルの「1705年12月」に、ピンと来ただろう。

 1705年、20歳の若きバッハは、ドイツ中部の町アルンシュタットで、教会オルガニストをつとめていた。ところが、あることから教会聖歌隊の生徒とトラブルになり、乱闘事件を起こしてしまう。教会上層部からこってり絞られたバッハは、不貞腐れ、同年11月、4週間の休暇を申請し、ドイツ北部の町リューベックへ旅に出てしまう。
 アルンシュタットからリューベックまでは、400㎞近くある。ほぼ東京~大阪間と同じ距離だ。
 いったい、バッハは、何のためにそんな遠方へ出かけたのか。
 音楽作家、ひのまどかによるジュニア向け評伝『バッハ/音楽家の伝記 はじめに読む1冊』(ヤマハ・ミュージック・メディア)では、このように生き生きと記されている。後年のバッハが、息子に若いころの思い出を語る場面だ。

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