「グル新」カテゴリーアーカイブ

【コラム】富樫鉄火のグル新 第203回 8月のBPラジオ余話

◆甲子園第100回

今年の甲子園、西東京代表は、おなじみ日大三高となった。以下の話は、数年前に書いたことなのだが、ちょうどいいタイミングなので、あらためて綴る。

ご存知の方も多いだろうが、「甲子園の応援演奏で、初めて女性指揮者が振った」吹奏楽部が、日大三高である。

1952(昭和27)年の甲子園、東京代表は日大三高だった。
この「昭和27年」とは、日本が主権を回復した年である。前年にサンフランシスコ講和条約が締結され、昭和27年4月に発効した。これによってアメリカによる占領は終わり、ようやく日本は自立し始めた、そんな年であった。

日大三高は、戦前に2回、夏の甲子園に出場していたが、戦後は、この年が初出場だった。しかも主権回復の直後とあって、おそらく、たいへんな盛り上がりだったろう。
そんな年の夏を、さらに盛り上げたのが、このとき、吹奏楽部を率いていた女性顧問の若林文先生だった。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第202回 7月のBPラジオから

遅ればせながら、7月放送分の『BPラジオ/吹奏楽の世界へようこそ』にまつわる雑談を。

◆生誕100年、大栗裕

大栗裕(1918~1982)の名は、吹奏楽やマンドリンをやっている方にとっては周知の作曲家だろうが、それ以外の、特に日本作曲家ファンでない方にとっては、なじみが薄いかもしれない。吹奏楽界では、コンクール課題曲などのほか、特に《大阪俗謡による幻想曲》で知られている。
この曲は、本来が、1956年に朝比奈隆がヨーロッパ公演で指揮するために委嘱された管弦楽曲で、まず日本で初演後、ベルリン・フィルや、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団(現在、佐渡裕が首席指揮者)で演奏された。その際、肉筆譜をベルリン・フィルに献呈してしまったので、大栗は、のちに記憶やスケッチをもとに曲を「復元」した。1970年、それを改訂して最終ヴァージョンとし、さらに1974年に吹奏楽版となり、主に、大阪府立淀川工科高校吹奏楽部がコンクールでテーマ曲のように繰り返し演奏し、人気曲となった。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第201回 橋幸夫と「つけそば」


記憶に残っているかぎり、わたしが生まれて初めて食べたラーメンは、「中野大勝軒」の、「つけそば」だった。昭和30年代後半のことである。よく、父に連れられていった。

太い麺と、堅めの短冊チャーシューが特徴で、こども心にも、うまい食べ物があるもんだなあ、と思った(いまのチャーシューはかなり柔らかくなっている)。

当時の名称は「もりそば」だったような気がするが、とにかく初めて食べたラーメンが「つけそば」だったから、わたしは、しばらく、「ラーメン」とは、ああいう食べ物なのだと思っていた。

いまでも月に1~2回は食べているが、ここのつけそばを食べるたびに、橋幸夫を思い出す。

昭和26年に開店した「中野大勝軒」は、かつては、現在地(中野駅南口)ではなく、さらに南の橋場町(いまの中央5丁目あたり。劇画のさいとう・プロダクションの近く)にあった。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第200回〈古本書評〉『おじさん・おばさん論』

第195回で、普門館のカラヤン公演に「クラシック好きの伯父に連れて行かれた」と書いたら、2人の方から「わたしも、おじ(おば)に影響を受けました」と聞かされた。1人は、やはりおじさんの影響で、音楽の道に進んだ男性。もう1人は着付けの先生をやっているおばさんに憧れて日本舞踊を学ぶようになった女性。

専門分野に進むものは、育った家の環境(父母の影響)が大きいものだが、父母のきょうだい=おじ/おばの存在が大きかったひとも、けっこういるようだ。

わたしの場合も、本と音楽は、伯父からの影響である。もしも伯父に出会わなかったら、いま、こんな仕事はやっていなかったと思う。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第199回 日本大学フェニックス

1976年7月、新宿にあった東京厚生年金会館大ホールで開催された、日本大学吹奏楽研究会の定期演奏会には度肝を抜かれた。

ステージ・マーチング・ショーに、日本大学フェニックス(アメリカンフットボール部)が賛助出演したのだ。「アメフトのハーフタイム・ショーに吹奏楽が登場」するのならわかるが、「吹奏楽のコンサートにアメフトが登場」したのである。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第198回 天狗界の楽器事情~『仙境異聞』

この3月以降、ツイッター上で、ある岩波文庫が、たいへんな話題となっている。

平田篤胤著(子安宣邦校注)『仙境異聞/勝五郎再生記聞』である。広島の書店員の推薦ツイートが最初だとか、熱心なファンのツイートが最初だとか諸説あるらしいが、とにかく「そんな面白い本が岩波文庫にあったのか」と火がつき、全国の店頭から瞬時に消えた。

岩波書店の本は、原則として買い切り制で、返品できないので、これは書店にとって僥倖だった。

ところが同書を求める声は一向におさまらず、アマゾンの中古価格は、一時、6万円台にまでエスカレートした。岩波書店は、おっかなびっくり、増刷をはじめた。

同書の校注監修者・子安宣邦氏(日本思想史家)は、文春オンラインのインタビューで、次のように述べている。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第197回 ヴィヴァルディ本、3題

ヴィヴァルディに関する解説を読むたびに、2つの点が気になっていた。

アントニオ・ヴィヴァルディ(1678~1741)は、ヴェネツィアのピエタ慈善院(捨て子女子の保護養育施設)の付属音楽院における、司祭(神父)兼音楽教師だった。ここの院生は、ハイレベルな合奏・合唱団を結成しており、附属教会などで、ヴィヴァルディの楽曲を次々と初演していた。

いまでこそ女性だけの合奏団は珍しくないが、この当時、大衆的な見世物ならいざしらず、教会の中で、協奏曲や宗教曲を「女子楽団」が演奏するとは、どういうことだったのだろうか。確か、教会では女性が歌うことは歓迎されず、だから男声ファルセットやカストラートが生まれたのではなかったのか。下世話な見方だが、宝塚歌劇団のような美少女がズラリと並んでヴィルトゥオーゾを披露するのを、男どもが好奇の目で眺める、そんな場面があったのだろうか。

もう一点は、ヴィヴァルディが再評価(再発見)されたのは、極めて最近のことだったらしい点である。バッハが再発見されたとき、その大量の楽譜の中に、「ヴィヴァルディ」なる人物の楽曲を編曲したものがあったのだ。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第196回 TVアニメ『赤毛のアン』

1980年代末から90年代前半にかけて、アニメ関係の仕事に携わっていた時期がある。その中に、TVアニメ『赤毛のアン』(1979年放映)のアニメブック編集があった。アニメの画面をコマの中にはめこんでネーム(フキダシ)を加え、マンガとして楽しむ本である。フィルムコミックなどとも呼ばれた。

いまのようなパソコンやデジタル技術のない時代だったから、たいへんな作業だった。製作会社に全回のプリントを焼いてもらい、VHSビデオと台本と原作本を照らし合わせながら、コマ割り構成を組み立て、必要なカットをハサミで切り出し、版下に指定し、ネーム(セリフ)を写植で貼りつけていった(この煩雑な現場を見事に統括してくださったのが、ホラー漫画の巨匠、日野日出志さんだった)。

わたしは、このとき、初めて、アニメ『赤毛のアン』を観たのだが、その構成や演出に、驚いてしまった(初回放映時は、わたしは大学生で、さすがに観ていなかった)。

脚本・演出は、さきごろ逝去された、高畑勲監督である。回によっては、共同脚本・演出だが、ほぼすべての回に高畑監督がかかわっていた。ちなみにシリーズ前半の場面設定は宮崎駿監督である。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第195回 普門館、1977年11月

 わたしは、東京・中野の鍋屋横町~中野新橋あたりで生まれ育ったので、近隣の立正佼成会一帯(杉並・和田)は、子どものころから身近だった。よく自転車でいって、半ば遊び場にしていたし、佼成病院(当時は、中野・弥生町にあった)にも何度もお世話になった(妹、およびわたしの娘は、佼成病院でとりあげていただいた)。

よって、同地で普門館の建設がはじまり、出来ていく様子は、如実に覚えている。落成は1970年4月。わたしは小学校6年生。日本中が、前月に開会した大阪万博で沸き返っていた。

最初は、なにやら「丸い」「巨大な」建物ができるのだと思って見ていた。だが、次第に形になってくると、「丸い」のではなく、「8」の字を太らせたような形状で、しかも外壁は、いくつかの大きな「板」で囲まれているようだった(この「外壁」が全部で28枚あり、それが法華経の経典28品[ぼん]に由来することは、おとなになってから知った)。

その普門館に初めて入ったのは、1977年11月。しかも、4日(金)と16日(水)の2回、いっている。

11月4日(金)は、第25回全日本吹奏楽コンクール(全国大会)の初日で、夜、大学の部を聴きにいった(17時ころから開会式で、表彰式終了が21時過ぎだった)。あの《ディスコ・キッド》が課題曲だった年である。わたしは大学1年生になっていた。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第194回 東京アニメアワードフェスティバル2018

東京アニメアワードフェスティバル(3月9~12日)が、昨年から池袋の複数会場で開催されるようになった。共催には東京都が加わっている(最終日の授賞式には、小池百合子都知事も出席したらしい)。わたしは、若いころ、アニメ関係の仕事に少々携わっており、短編アニメや、ヨーロッパ作品が好きなので、海外作品のコンペ部門があるこういう映画祭はありがたい。

まず、3スロットにわかれた短編コンペティションの35本を観た。

ほとんどが3~10分前後の作品で、もっとも長いものでも20分だ。ただ、短編とはいえ1本の映画であることに変わりはなく、しかも音楽がべったり付いているので、目と耳がフル回転でクタクタになった(日本の「アニメ神」、90歳のクリヨウジさんは、かねてから「アニメは音楽で決まる」と断言している。だからクリ作品には、武満徹や一柳慧、オノ・ヨーコなど、錚々たるひとが音楽を付けていた)。

そのなかでは、日本の映像作家・大谷たらふが、エレクトロニカのSerph(さーふ)の曲《Feather》に寄せたミュージック・ビデオ(5分10秒)が、美しくて楽しかった。音楽にあわせて「線」が縦横無尽に動く、アニメ本来の姿を思い出させてくれた。

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