「グル新」カテゴリーアーカイブ

【コラム】富樫鉄火のグル新 第264回 書評『劇場建築とイス』

 本書は、日本の劇場建築を、「イス」(客席)の視点を取り入れながら振り返るユニークな写真集で、コンサート・ゴーアーには、たまらない一冊である。

 ところが、カバーにも中トビラにも、一切、著者名も監修者名もない珍しい本で、いったい、誰が書いた(まとめた)本なのかと、奥付を見ると「企画・監修/コトブキシーティング・アーカイブ」とある(著者名なしで、取次を通ったのだろうか?)。
 不勉強ながら初耳の会社だったので、「コトブキシーティング」社のHPを見ると、1914(大正3)年創業の老舗で、「ホール・劇場・学校・スタジアム・映画館など、公共施設のイスやカプセルベットの製造・販売」の会社だという。要するに、日本中の劇場のイスを開発・製作納入している「イス会社」なのだ。創業100年の際に、社内の記録写真をアーカイブ化したので、それらを集めたのが、本書らしい。「その多くは、客席イスの納品時に記録として撮影されたもの」とあるので、ここに紹介された約60の劇場・ホールのイスは、すべて、同社の製品なのだろう。

 収録劇場は、竣工順に4つのグループに分けて構成されている。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第263回 ピーター・ブレイナーの仕事

 ビートルズをクラシック風に演奏する企画は、いままでにいくつかあった。
 わたしが忘れられないのは、ベルギーのピアニスト、フランソワ・グロリュー(1932~)によるもので、1976年に出た『ビートルズ・アルバム』は、いまでもカタログ上は生きているようだ。

 もうひとつ、驚いたのは1993年にNaxosから出て大ヒットした『ビートルズ・ゴー・バロック』で、ピーター・ブレイナー(1957~)なる才人が編曲・指揮したものだった。ビートルズの有名曲を、ヘンデル風、バッハ風、ヴィヴァルディ風に編曲してあるのだが、実によくできていた。なるほど、バッハやヘンデルがいま生きていて、これらの曲を編曲したら、こういうふうになるのかと、微笑ましくて楽しいアルバムだった。

 あれからかなりの年月がたったが、昨秋、突如として、同じピーター・ブレイナーによる第2弾『ビートルズ・ゴー・バロック2』が出た。なぜいまごろ……と不思議な気がしたのだが、聴いてビックリ、これは「2019年最高のクラシック・アルバム」ではないのか。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第262回 ベートーヴェンと紅白歌合戦

 大晦日に、ベートーヴェン弦楽四重奏曲【9曲】演奏会に行った。今回で14年連続の名物コンサートで、以前から行きたかったのだが、毎年、紅白歌合戦のボヤキ感想を書いている身なので、どちらを選ぶか迷った末、きりがないので、思い切って行ってみた(紅白の顔ぶれと曲目を知った段階で、もうボヤく気もなくなっていたし)。
 演奏団体と曲目は、以下の通り。

【古典四重奏団】第7、8、9番(ラズモフスキー1、2、3番)
【ストリング・クヮルテット ARCO】第12、13番、大フーガ
【クァルテット・エクセルシオ】第14、15、16番

 東京文化会館の小ホールは、定員649席だが、見た感じ、後方に少し空席がある程度だったので、おそらく600席近くが売れたのではないか。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第261回 バリトン・サクソフォンによる《冬の旅》

 2017年夏に聴いたユニークなコンサートが、いまでも忘れられない。シューベルトの歌曲集《冬の旅》全曲が「バリトン・サクソフォン」で演奏されたのである(バリトン・サクソフォン:栃尾克樹、ピアノ:高橋悠治/代々木上原ムジカーザにて)。
 通常、歌曲のコンサートであれば、聴衆には「ことば」(詩)、「旋律」(声)、「ピアノ」の3つの情報が届けられる。
 ところが、そのうちの「ことば」(詩)が、なかったのだ。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第260回 佐渡&シエナの《エル・カミーノ・レアル》

(前回よりつづく)
 今回の佐渡裕&シエナ・ウインド・オーケストラのコンサート・ツアーの曲目で驚いたのは、最終曲、アルフレッド・リード作曲の《エル・カミーノ・レアル》だった。
 実は、意外だったのだが、佐渡&シエナによる同曲演奏は、実演でも録音でも、今回が初めてなのである(他指揮者による演奏・録音はある)。
 
 《エル・カミーノ・レアル》とは、直訳すると「王の道」を意味する。かつてのスペインやポルトガルが、世界中に進出していった、そのルートのことだ。曲は、そんな怒涛の世界進出のイメージを幻想的に描いている。
 ただ、「世界進出」といえば聞こえはいいが、実態は「侵略」だったとも、よくいわれる。現に、『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)などを読むと、あまりの残虐ぶりに、吐き気を催しかねない(そもそもこの本は、南米現地に赴いた聖職者ラス・カサスが、これ以上、先住民を虐殺しないよう、母国スペインの皇太子に直訴した報告書である)。

 だが、「王の道」は、至福ももたらしてくれている。カリフォルニア・ワインなども、そのひとつだ。
 1542年、ポルトガル人のホアン・ロドリゲス・カブリヨが、現在のカリフォルニア州の最南西端、サンディエゴのあたりに漂着し、「王の道」のスタート地点を切り拓いた。
 1769年には、すでにスペインに支配されていた、お隣のメキシコから修道士たちが入り込み、道沿いに修道院を建設しながら、北へ北へと進んでいった。彼らは、土地土地でブドウを栽培し、キリストの血=ワインを生産することも忘れなかった。
 現在のカリフォルニアでワイン生産が盛んなのは、これがルーツなのである。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第259回 『ブラスの祭典』20年

 21世紀を目前にひかえた1999年の夏は、やたらと暑かった。
 なぜ覚えているかというと、この夏、佐渡裕指揮、シエナ・ウインド・オーケストラの初レコーディングがあり、収録会場のすみだトリフォニー・ホールへ、汗を拭き拭き、ヒイコラ言いながら取材に通ったからだ。

 そのCD『ブラスの祭典』は、フランスの名門レーベル「ERATO」からの発売だった。
 日本の吹奏楽団が、フランスのクラシック・レーベルから新譜を出す、しかも指揮が、定期会員の減少などで不振だったラムルー管弦楽団を人気オケによみがえらせた佐渡裕とあって、ちょっとしたニュースになっていた。ERATOも、フランス本国からディレクターを派遣する力の入れようだった。
 このとき、佐渡&シエナは、リハーサル、(CDとほぼ同じ内容の)コンサート、レコーディングに、ぶっ続けで10日間を費やしていた。驚くべき力の入れ方だった。
 そして、収録曲を見て、驚いた。佐渡裕の指揮だというので、てっきりクラシック編曲ばかりかと思いきや、オリジナル名曲を含む、正統派の吹奏楽CDだったのだ。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第258回「ハズレ」が許せないひとたち

 今年の東京国際映画祭[TIFF](10/28~11/5)は、『わたしの叔父さん』(デンマーク/フラレ・ピーダセン監督)がコンペ部門グランプリを受賞した。この作品は早々と完売しており、わたしは観られなかったが、それでも今年は7本を観た。そのうち1本が(個人的な好みで)「大アタリ」、2本が「並アタリ」、あとの4本は、ほぼ「ハズレ」だった。
 なにぶん、9日間で170本もの作品が上映され、そのなかから、時間が空いていて観られるものを無作為に7本選んだので、ほとんどギャンブルである。しかし、7本中、1本が大アタリだったのだから、まあまあの成績だと思う。

 映画祭や特集上映は、イチかバチかである。チラシやIMDbなどで、可能なかぎり事前情報は得るが、大半はハズレだと思ったほうがいい(世界初上映、つまり事前情報ゼロも多い)。1本のアタリに出会うために、10本はムダにする覚悟が必要だ。これは本や芝居、美術展、演奏会も同様である。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第257回 ラヴェルと日本

 「作曲家◎人と作品シリーズ」(音楽之友社)に、待望の『ラヴェル』が加わった。著者は、フランス近代音楽史の研究家で、愛知県立芸術大学教授の井上さつき。シリーズのほかの本同様、「評」伝色を極力排し、事実と資料の積み重ねだけで、あまりに特異なラヴェルの人生を浮き彫りにした、みごとな伝記である(巻末の作品リストや年譜も微に入り細に入る)。

 邦訳のラヴェル伝といえば、少なくとも近年では、『ラヴェル 生涯と作品』 (ロジャー・ニコルス、渋谷和邦訳/泰流社、1996年刊)や、同名の『ラヴェル 生涯と作品』(アービー・オレンシュタイン、井上さつき訳/音楽之友社、2006年刊)などがあり、特に後者は決定版の貫禄十分だった。
 そのほか、ジャン・エシュノーズ『ラヴェル』(関口涼子訳、みすず書房、2007年刊)などもあり、わたしは大好きなのだが、これは、ラヴェル最後の十年をたどる「小説」である。

 その後、(本書あとがきによれば)上記前者のロジャー・ニコルスによる新版や、後者オレンシュタインがまとめた書簡集などが出たそうで、本書は、それらの最新情報をも取り込んだ内容となっている。そのため、ラヴェル自身が、自作や、かかわりのある人間について、どのような思いを抱いていたかが生き生きと伝わってくる。

 だが本書で、わたしが面白く読んだのは、「日本」とのかかわりである。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第256回 名古屋五輪をやめさせる会

 東京五輪のマラソン・競歩の会場が「札幌」になった。これに対し、「真夏の東京の酷暑は、最初からわかっていたはずだ」とみんな言うが、そうだろうか。招致のプレゼンで海外委員に向かって「東京の夏は、熱中症でひとが死ぬ暑さです」と誰か正直に言っただろうか。「福島の放射能は完全に制御されています」とか「おもてなしの精神でお迎えします」とか、調子のいいことばかり言って、真実は伏せられたまますべては進行したのではないか。
 そもそも、最初に立候補したときの文書には「夏の東京はスポーツに最適」といった主旨の記述があったはずだ。要するに海外委員たちは、「渋谷スクランブル交差点」や、「浅草雷門」のデジタル修正映像を見せられ、夏の東京がさわやかな未来都市だとだまされて一票を投じたのだ。

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【コラム】富樫鉄火のグル新 第255回 そこにいるだけで

八千草薫さんが亡くなった。昭和6年生まれ、享年86。
 この年代は、日本映画史を彩る大女優が多い。同年生まれに、山本富士子、香川京子、千原しのぶらがいる(1年下の昭和7年生れには、有馬稲子、岸恵子、久我美子、渡辺美佐子、久保菜穂子など)。
 男優もそうそうたる顔ぶれで、特に、いまは亡き高倉健、市川雷蔵も昭和6年生まれだ。

 その市川雷蔵と(おそらく)唯一の共演作が『濡れ髪剣法』(昭和33年、大映/加戸敏監督)で、わたしは「八千草薫」の4文字を見るたびに、この映画を思い出す。
 大映の「濡れ髪」シリーズは、雷蔵がバカ殿や坊ちゃん侍を演じるコメディ時代劇だが、チャンバラやドンデン返しなど、締めるところは締める立派なエンタメ時代劇である。たしか4~5本つくられたはずで、一般には、京マチ子と共演した『濡れ髪牡丹』(昭和36年、大映、田中徳三監督)が傑作と称されている。
 だがわたしは、シリーズ第1作『濡れ髪剣法』で鶴姫を演じた八千草薫の、心臓が止まるかと思うほどの可憐さが忘れられない。こればかりは映画を観ていただくしかないが、たいした芝居をしているわけではないのに、そこにいるだけで、スゴイのである。

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