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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第12話 85%成功するコンサートの開き方

1988年4月、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーは、音楽的にも幾つもの成果を上げながら、成功裏に終えることができた。

東京、大阪、名古屋を含む、全7公演のプロデュースの責務を担う以前は、まさかこのような規模の大きなツアーを4ヵ月という短期間の内にまとめあげねばならなくなるとは想像すらしていなかったが、幸いにも各方面のいろいろな方々の知恵と協力、尽力を得て、ぶっつけ本番ながら、勢いだけでなんとか乗り切ることができた。その悪戦苦闘ぶりは、第8話第10話でお話ししたとおりだ。

しかし、70余名のイギリス人ミュージシャンを率いて各地の会場をめぐる内、自分に決定的に不足しているものが何であるかが次第に見えてきた。

それは、多くのファンがただ音楽を愉しみたい、ただそれだけの目的のためにやってくるコンサートを澱みなく進行させ、事故なく舞台を動かしていくステージの実体験だ。

ポップスやオーケストラの世界では、専門教育を受ける場や機会は確かにある。しかし、筆者は、管楽器が中心になって活躍する音楽に特化した勉強がしたかった。

幸いなことに、ロイヤル・エア・フォースのツアー翌年の1989年には、アメリカのブラスバンド、救世軍ニューヨーク・スタッフ・バンド(Salvation Army New York Staff Band)(5月)と、ロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵交代でおなじみの5つの近衛軍楽隊から、コールドストリーム・ガーズ・バンド(The Regimantal Band of the Coldstream Guards)(9~10月)の来日が予定されていた。

▲ニューヨーク・スタッフ・バンド

そこで、筆者は、まず、東京・神田神保町の救世軍本営を訪ね、旧知のジャパン・スタッフ・バンド楽長、鈴木 肇(はじめ)さんに、ボランティアで舞台をお手伝いしたい旨、申し入れた。鈴木楽長は、最初、とても驚かれた様子だったが、真摯にその目的を話す内、快く舞台スタッフに迎え入れていただけることになった。また、大阪でも、救世軍の関西ディビジョナル・バンド楽長、前田徳晴さんの理解を得た。

救世軍は世界的組織だ。内部に音楽スタッフも大勢いらっしゃるのに、よくもまあ、キリスト教徒でもない、完全に部外者の筆者のリクエストに好意的な回答を出していただいたものだ。

この時に得たブラスバンドのバック・ステージの実体験は、その後、1990年に大阪の地に誕生したプロのブラスバンド、プリーズ・ブラス・バンドで、ミュージカル・スーパーバイザーという重責を担うことになったとき、大いに意味をもつことになった。

ニューヨーク・スタッフ・バンドの大阪での終演後、サプライズがあった。バンド・メンバーや救世軍スタップの皆さんの前で、ブライアン・ボーエン楽長(Bandmaster Brian Bowen)から“公演チラシに自筆サインをあしらった額”を贈られたのだ。貴重なステージ体験を得ることができただけでも感謝感激なのに、これはもう、一生の宝物だ!

コールドストリーム・ガーズ・バンドの音楽監督、ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)には、レコーディングでロンドンを訪れた1989年4月、バッキンガム宮殿に近いウェリントン兵舎にあるコールドストリーム・ガーズ音楽監督室でお目にかかった。面会のアポをとってくれたのは、ロイヤル・エア・フォース首席音楽監督のエリック・バンクス(Wing Commander Eric Banks)だった。

▲ロジャー・G・スウィフト少佐

そこでは、スウィフト少佐と副官のマイクル・A・ミッチェナル准尉(Warrant Officer Micheal A. Michenall)が笑顔で出迎えてくれた。両人とも、ユニフォームではなく、誂えのいいきちんとした三つ揃えの背広姿だ。(こちらも、きちんとネクタイをしめていって良かった!)

早速、1989年ツアーの抱負やプログラムについて質問しようと話し始めたら、それを遮るように、現地でも大成功が伝えられていたロイヤル・エア・フォースのツアーやプログラムについての話を聞かせて欲しいというリクエストがきた。逆に質問攻めだ!

ご承知のように、同じイギリスの演奏団体ながら、ロイヤル・エア・フォースとガーズとでは、使われている楽器、編成、レパートリー、プログラミング、演奏スタイルがまるで違う。そこで、まず敬意を表し、実際に聴いた1986年のコールドストリーム・ガーズ初来日時のプロがとても愉しかったので、そのスタイルを変える必要はないこと。ついで、ポップスについては、イギリスと日本では流行のサイクルが違うこと。普段は演奏しない日本の曲を無理に取り入れる必要はないこと。聴衆は、イギリスの、そしてロンドンの空気が伝わる曲を聴きたがっているということなどを話した。

スウィフトは、バンクスからフィリップ・スパークの「ドラゴンの年」が大成功を収めたことも聞かされていた。そこで、『イギリスのオリジナル曲がイギリスのバンドのサウンドでナマで聴けることはとても意義があるので、プログラムの中に1曲ぐらい、そういう曲が入っていてもいいのではないかと思う。ただし、コールドストリーム・ガーズの普段のスタイルを崩さない範囲で。』とサジェストした。

以上の会話がどれほどの意味があったのか、この時はよく分からなかった。しかし、別れ際には、記念にと言って、65名という当時のフル編成でウェリントン兵舎の前庭を行進するすばらしいカラー写真と、ひじょうに重い鋳造製の連隊バッジがついた士官用の革製馬具を贈られた。“空港検査でブザーが鳴るかも知れない”とジョークをかまされながら…。(写真は、その後、公演プログラムを飾った!)

帰国後、ロンドンの土産話を携えて、コールドストリーム・ガーズ日本公演を手掛ける東京・恵比寿の日本交響楽協会を訪ねた。出迎えてくれたのは、代表取締役の小林 公(ひろし)さんだった。かつて名古屋交響楽団を立ち上げ、日本フィルハーモニー交響楽団初代事務局長、読売日本交響楽団初代事務局長をつとめられた筋金入りの大ベテランだ。

今夜もどこかでコンサートがあるという多忙の中、筆者の話に耳を傾けていた小林さんは、前年ロイヤル・エア・フォース公演をなんとかやり遂げたという話に、音楽マネージャーの仲間内でも“一体誰がやったのか”と話題になっていたと言われ、ロンドンでスウィフトと話してきた中身については、目前の公演だけに、身を乗り出すように関心を示された。

その後、筆者にとって最も重要な案件である“今度の公演を舞台裏から勉強したい”という希望を切り出した。すると、すっと立ち上がった小林さんが、一冊の自著を取り出してきて、筆者に手渡した。

それが、『85%成功するコンサートの開き方』(芸術現代社, 1981)だった。

この本では、「コンサートを成功させる心がまえ」「企画のたて方とポイント」「聴衆はこうして多くする」「コンサート実務のすべて」「外タレを安く仕込む方法」「音楽鑑賞団体の課題」など、小林さんのノウハウが惜しげもなく語られていた。

実際、この本からは実に多くのことを学んだ。コンサートを作る側にとっては、正しくバイブルであり、今も座右の銘のように扱っている大切な書物だ。また、筆者の意を汲みとって、この公演を舞台裏から自由に勉強できるよう便宜を図って下さった小林さんは、大の恩人となった。

小林さんがコールドストリーム・ガーズ・バンドに魅了されたのは、1984年3月、オーストラリアの全音楽企画者会議に日本代表として招かれたとき、偶然メルボルンの新しいホールで聴いたコンサートだった。手許に残してある1986年の公演チラシには、こう書かれてある。

『2000名を越える大ホールは満席で、ステージに登場した金色の肩章やモールに飾られた真紅の上着とサイド・ラインの入った黒ズボンの隊員50名に、歓声と盛大な拍手がおくられました。冒頭でタンホイザ―の行進曲が演奏されたが、その音色のやわらかさ、ピアニッシモの美しさ、日本のオーケストラでも聴けなかった絶妙の演奏にまず驚かされました。続いて勇壮華麗な得意のマーチが聴衆の胸を躍らせ、颯爽とした指揮官のユーモラスな司会に、和かな笑いが起り、ミュージカル、オペラ、ポピュラーのヒットナンバーとプログラムが展開していって、時のたつのを忘れさせてくれました。曲によって、隊員の中の名手がすばらしい独奏を披露し、打楽器群のユーモラスな掛け合い演奏が聴衆を湧かせましたが、隊員達の姿勢や行動にすがすがしい規律正しさがみえて爽快でした。私は、軍楽隊がこれ程技術的に高いものであり、これ程娯楽に徹しているとは予想していませんでしたから、非常に驚き且感銘して、終演後指揮官に会い、訪日を要請しました。』(小林 公)

オーケストラを幾つも立ち上げてきたベテランが吹奏楽に寄せたこの一文には、教えられることが多い。

その後、スウィフトから送られてきたプログラム案には、エルガーやホルストなどのクラシックに混じって、当時ロンドンで大ヒットしていたアンドルー・ロイド=ウェバーのミュージカル『オペラ座の怪人』や『スターライト・エクスプレス』のセレクション、イギリスのオリジナル曲からは、フィリップ・スパークの『ドラゴンの年』、ジョン・ゴーランドの『ユーフォニアム協奏曲』、ローリー・ジョンスンの『ロートレックの3枚の絵』などが盛り込まれていた。

小林さんは、スウィフトが書いてきたプログラム・ノートの和訳を筆者に任せてくれた。

イギリス色満開のそのプログラムに、全力投球で取り組んだことを今もよく覚えている!

▲コールドストリーム・ガーズ・バンド

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第11話 「士官候補生」と「ハイ・スクール・カデッツ」

ヨーロッパの出版社Hal Leonard MGBが、2年ぶりに名古屋芸術大学ウインドオーケストラと取り組むレコーディング・セッションの準備に没頭していた2017年8月30日、日本コロムビアのプロデューサー、遠藤亮輔さんから電話が入った。

コロムビアとは古くからのつき合いだが、遠藤さんとは初めてのやりとりだ。

話は、12月新譜で“ベスト盤”と銘打ってリリース予定の26曲入りのマーチのコンピレーション・アルバムのプログラム・ノートの依頼であった。

筆者に白羽の矢がたったのは、その内16曲が、かつて筆者がプログラム・ノートを提供したアルバムからのピックアップだったからで、まずはそのノートを転用させて欲しいという依頼と、それに加えて、残りの10曲のノートを新たに書き足して欲しいというものだった。

すでにノートを書いた16曲は、ロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵交代でおなじみのイギリスの近衛軍楽隊の1つ、コールドストリーム・ガーズ・バンド(The Regimental Band of the Coldstream Guards)が、音楽監督ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)の指揮でロンドンのEMIアビー・ロード・スタジオで録音し、1989年9~10月の日本ツアーに合わせてリリースされた「コールドストリーム・ガーズ/マーチ集I 英国篇」(日本コロムビア、CO-3806)と「コールドストリーム・ガーズ/マーチ集II 米国・欧州大陸篇」(日本コロムビア、CO-3807)の2枚のCDアルバムからのものだった。とても懐かしいアルバムだ!!

遠藤さんには、そのプログラム・ノートの二次使用については即座に同意した。しかし、他のノートの締切日(9/20)を聞いて、それは難題だと回答した。

何よりも、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)が指揮者として、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)がプロデューサーとしてやってくる名古屋芸術大学ウインドオーケストラのセッションが目前にせまっていた。ハームホウトスは、ドイツのバンベルク交響楽団の元首席トロンボーン奏者で、ベルト・アッペルモント(Bert Appermont)のトロンボーン協奏曲「カラーズ(Colors)」の初演時の独奏者だ。この時点で、名芸教授で指揮者の竹内雅一さんとも半年以上も前から準備をし、ヨーロッパから来日する2人の友人が関わるこの録音が何よりも優先されるのは間違いない。加えて、コンサートのプログラム・ノートの執筆依頼やスタジオでのCDマスタリングも直近に予定されていた。

遠藤さんには、自身のタイトなスケジュールを話し、他をあたるように繰り返しお話ししたが、とにかく曲目一覧を送るので見てほしいと粘られる。

しかし、しばらくして送られてきたリストを見て、しばし脳波が停止してしまった!!

他の9曲は、山本正人指揮、東京吹奏楽団、残る1曲は、斉藤徳三郎指揮、陸上自衛隊中央音楽隊の演奏だった。いずれも1960年代半ばまでに録音されたものだ。コールドストリーム・ガーズの録音はデジタルなので、アナログ時代とデジタル時代の録音をコンピレーションする大胆な企画だ。それはまだいい。しかし、収録曲目リストに編曲者名が記載されていないものがいくつもあることがたいへん気になった。

あまりにイライラしたので、先方から電話がくる前に、こちらから遠藤さんに電話を入れた。

『リストを拝見しました。いくつも問題点が気になってしまう曲がありますが….。』と話を切り出すと、電話口の向こうから“何を言われるのだろう”と息を呑んでいる様子が伝わってくる。

『まず、「錨を上げて(Anchors Aweigh)」ですが、1960年代初旬の録音ということから考えると、使われている編曲は3種類ぐらいが考えられます。マスターには何て書かれていますか?』と言いながら、実際にそれらを歌ってみる。相手は“何も書かれていません”と言って沈黙するので、『そうですか。時期から考えて、恐らくは、三戸知章の編曲もしくはポール・ヨーダー(Paul Yoder)の編曲だと思いますが、それがはっきりしないと誰も解説なんて書けませんよ。これは東京藝大の山本正人さんの指揮なんで、東京吹奏楽団か東京藝大に確認しないといけないのでは….。』とサジェストする。

続いて『次の「士官候補生(The High School Cadets)」ですが、これは日本語タイトルに重大な誤解があります。まず、“士官”という言葉ですが、一般的に言って、これは“軍隊”以外では使われない語ですよね。しかし、実際にこの曲を書いて欲しいと作曲者に依頼したのは、正真正銘“ハイ・スクール”の生徒たちなんです。もっと分かりやすく説明しますと、“士官候補生”などというタイトルをつけると、それは完全な“軍隊マーチ”と捉えられてしまいます。曲が書かれた当時の事情から考えても、実際にはそうではなかったのに…。曲名をどうしても和訳しなければならないとしたら、音読みして「ハイ・スクール・カデッツもしくはハイスクール・カデッツ」にしておくのがベターかも知れません。』といった調子で、気になる曲を取り上げては、バサバサ斬っていった。

アメリカのナショナル・マーチ(即ち国歌に準ずる“国のマーチ”)に制定されている「星条旗よ永遠なれ(The Stars and Stripes Forever)」で知られるジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa、1854~1932)が「ハイ・スクール・カデッツ」を作曲したのは、彼がワシントンD.C.(コロムビア自治区)のアメリカ海兵隊バンド(The President’s Own United States Marine Band)の隊長、指揮者をつとめていた1890年のこと。ワシントンD.C.初、そして当時唯一のハイ・スクールだったワシントン・ハイ・スクール(Washington High School / その後、Central High Schoolと改称)のカデッツ・ドリル・チームの生徒たちのリクエストで書いたマーチだった。

南北戦争(1861~1865)の記憶がまだ色濃く残っていたこの時代のアメリカの学校では、軍隊のような煌びやかなユニフォームを身に纏い、模擬銃を肩に乗せて歩調をとりながら統一された動きやフォーメーションの美しさを競うドリル・パフォーマンスが人気を集めていた。軍に由来するフォーメーションを採り入れていることから、それを“カデッツ”と呼ぶチームもあった。“ドリル・チーム”という言葉から、楽器を持って行進するマーチング・バンドと誤解されやすいが、そうではない。

ワシントン・ハイ・スクールのカデッツ・ドリル・チームの生徒たちは、2年前の1888年、スーザがライバル校のチームのために「ナショナル・フェンシブルズ(National Fencibles)」というマーチを書いたことを知っていた。作曲の依頼は、生徒たちがそれを上回る自分たちのためのマーチが欲しいと考えたことがきっかけだった。

曲が完成すると、スーザは生徒たちを自身が隊長をつとめるアメリカ海兵隊バンドの練習場に招いて演奏して聴かせた。それに感激した生徒たちが、作曲料として自分たちの小遣いから持ち寄った24ドルを差し出したというエピソードが知られている。

以上が、「ハイ・スクール・カデッツ」の凡その作曲の経緯だ。

しかし、1960年代の日本のレコードには、“1890年にウェスト・ポイント士官学校の依頼により作曲されたもので、若々しい士官候補生の元気のよい様子を描いて…..”とか“1890年ウエスト・ポイント士官学校の要請に応じて作曲したマーチで、候補生たちの規律正しいムードと、若さと希望に溢れた日常生活を描いたもの。”というような曲目解説が載っていた。(これら解説は、発行から50年以上が経過し、すでに日本の著作権が消滅しているので、ここに引用した。)

また、1964年7月にリリースされたEPレコード「世界のマーチ/アメリカ・マーチ(7)」(日本コロムビア、ASS-10014)のジャケットにも、アメリカのウェスト・ポイント陸軍士官学校の学生たちが行進するイラストが使われていた。この曲が「士官候補生」という曲名で“軍のマーチ”としてイメージ付けされてしまったのも無理はない。

この事情が一変するのは、アメリカのポール・E・バイアリー(Paul E. Bierley、1926~2016)が、スーザの伝記「John Philip Sousa: American Phenomenon」(ACC/Meredith Corporation, 1973)や作品情報をまとめた「John Philip Sousa: The Descriptive Catalog of His Works」(University of Illinois Press, 1973)を著し、さらにそのカタログ情報をアップテートさせた「The Works of John Philip Sousa」(Integrity Press, 1984)の存在が日本でも知られるようになって以降のことだ。

1976年のアメリカ合衆国建国200周年を機に企画されたアメリカ海兵隊バンドのスーザ作品集(LPレコード)や、1974~1981年に計10枚のアルバム(LPレコード)がリリースされたデトロイト・コンサート・バンド(Detroit Concert Band)のスーザ作品集も、すべてバイアリーの著作の記述に従っていた。

30分近く喋ったろうか。ここまでくると、相手はもう黙って聞くしかない状況に。

そこで、『コロムビアさんやビクターさんという老舗レコード会社が、つぎつぎとマーチを録音し、レコードをリリースされていた“マーチ黄金時代”には、現時点から考えると“まるで嘘”のような誤情報にもとづく解説や日本語曲名がまかり通っていました。これは、遠藤さんの責任ではありません。また、老舗には、良くも悪くも脈々と受け継がれてきた伝承のようなものもあります。私は、これまで300枚近いレコードやCDの解説を書いてきましたが、それは、もう少しきちんと調査したものを書き残したいと考えたことがきっかけでした。21世紀の今、私が他のマーチすべての解説を書くなら、もう少し時間を頂戴しないと不可能です。』と柔らかくオファー自体を断わった。

しかし、その後、遠藤さんからは、もう一度連絡があった。話を伺うと、録音当時に大石 清さんが書かれたノートを社内で見つけられたそうで、今度のCDには合わせてそれを使うことにしたという説明だった。その一方、散々話をお聞かせした「ハイ・スクール・カデッツ」だけは、どうしても新しいノートを書いて欲しいとのことだった。

クラシックの偉大なる作曲家たちと重なる時代に書かれた音楽なのに、日本には、マーチの解説を書ける人は、もうほとんどいない。

マーチ不遇時代は、今もなお続いている。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第10話“ドラゴン”がやってくる!

波乱の1988年が明けた。

それまで外部からの私設応援団と考えていた“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本公演”をいきなり実行しなくてはならない立場となった筆者は、大阪での仕事や生活をすべて整理、キャンセルし、単身上京した。東京・虎の門の公演実行委員会では、専用の机が用意され、バンドがやってくる4月までの間、そこで昼夜兼行の格闘が始まった。

状況を整理すると…。第8話でお話ししたように、実行委は何らかの不手際でサントリーホールを失ない、条件の合う東京の空きホールは、もうどこにもなかった。日程が確定していたのは、4/19(火)、ザ・シンフォニーホール(大阪)のコンサートだけだった。だが、大阪が決まったことは大きく、すべてがガラガラと動き出した。

とは言うものの、ここから3ヵ月後にせまった来日2週間のスケジュールをフィックスさせようというのは、どう考えても無理があった。委員長の萩野荘都夫さんも出張から帰国。ホール代を支払ったことで尻に火が付いた実行委全員がありとあらゆる知人、関係者に片っ端から電話を入れて他の公演地の可能性を探った。しかし、電話を掛ける方も受ける方も音楽畑ではない人ばかりだから、まるでうまく運ばない。

そんな中、突然、委員長が『名古屋のレインボーホールを見に行こう。』と言い出した。ネタ元はわからないが、空き日があるようだった。早速ホールに出向くと、その理由がわかった。例年ロイヤル・エア・フォースが200名編成のコンサート“フェスティヴァル・オブ・ミュージック”を行っていたロンドンのロイヤル・アルバート・ホールそっくりのアリーナ形式のホールだった。キャパシティーは、最大10000席(固定席5000席、可動席2000席、移動席3000席)。現在は、日本ガイシホール(名古屋市総合体育館) と呼ばれるこのホールは、1987年にオープンしたばかりだった。自画自賛の委員長だったが、東京でいえば武道館、大阪でいえば大阪城ホールでコンサートをやるようなものだ。ステージも組まないといけないし、ホールの事業誘致係長、山中 敦さんも懐疑的だった。しかし、その場は上機嫌の委員長の顔をたてて“空き日の4/22(木)を仮押さえ”し、とにもかくにも2ヵ所目の公演地を確保する。

一方で、筆者は、かつてフレデリック・フェネルが指揮した大阪市音楽団のライヴLP制作などでお世話になった東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんを訪ね、無茶は承知で“東京でのコンサート開催”について何か妙案がないか相談を持ちかけていた。話を聞いた古沢さんも、3ヵ月前からホールを捜そうなんて聞いたことが無いと言いながら、話を持ち帰って佼成文化協会内で揉んでいただけることになった。

また、ザ・シンフォニーホールの秋田宣久さん(朝日放送シンフォニーホール事業本部部長)からは、九州のRKB毎日放送事業推進局次長の河原俊二さんと中部日本放送(CBC)文化事業部長の安藤和彦さんの紹介を受け、大阪以降の福岡、名古屋でのコンサートの可能性を探っていただくことになった。

しかし、さすがは餅は餅屋だ!プロたちの動きは素早かった!

まず、古沢さんから“東京佼成ウインドオーケストラとのジョイントで《日英交歓チャリティーコンサート》を必ず開催する”という条件で、普門館を会場に使うことが許可されるかも知れない、との打診が入った。もちろん、当方に異論はない。すぐにユニセフに連絡をとり、オケのスケジュールとすり合わせた結果、4/14(木)合同リハーサル、4/15(金)東京佼成のリハーサル、4/16(土)に日英交歓コンサート、4/17(日)にロイヤル・エア・フォース単独コンサートという流れが決まった。東京佼成WOの指揮者は、汐澤安彦さんだ!

福岡へ飛ぶと、すでにリサーチを終えていたRKBの河原さんから“4/21(水)の福岡郵便貯金会館が使える”という打診があり、CBCの安藤さんとも“レインボーホールは当方でキャンセルするので、市内の愛知文化講堂でやりましょう”と話がまとまった。

他方、年明けからの実行委の電話攻勢、ついで公演地が順次決まっていったことが伝わると、それまで半信半疑だった人々も“今度は本当にやりそうだ”という空気を肌で感じるようになってきた。ビジネスに繋がるかも知れないと考えた大手広告代理店やメディアからも問い合わせが入るようになり、スポンサーになってくれそうな企業も出てきた。このあたりは、さすがはビジネスマンの委員長の人脈だと感心する。

その後、スポンサーからの申し入れで横浜(4/15)と大分(4/21)の公演が急浮上したことから、バンドのオフ日を調整して博多入りの日程を1日早め、会場をサンパレスに変更したり、スポンサーにお願いして大分から名古屋への移動のためのチャーター機を手配したりするなど、多少の揺れ動きもあったが、プロの手を借りながら調整して全7公演を確定。やっと来日ツアーらしい姿にまとまってきた。

次のテーマは、2年前に指揮者バンクスと実行委との間でフィックスされていた演奏プログラムの組み直しの交渉だった。ここで、筆者が、プログラムにはなかったフィリップ・スパークの「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」にこだわったのには理由があった。

第9話でお話ししたように、「ドラゴンの年」のオリジナルは吹奏楽曲ではなく“ブラスバンド”編成の曲だった。しかし、1984年に全英チャンピオンが初演したこの作品は、翌年の初演者によるレコードのリリース以降、イギリスだけでなく、広くヨーロッパのバンド界全体を揺るがしていた。

この作品は、まず、ヨーロピアン・ブラスバンド・アソシエーションによって“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1986”のセット・テストピース(指定課題)に採用された。そして、同年5月3日(土)、ウェールズ、カーディフのセント・デーヴィッズ・ホールで行われた同選手権では、ハワード・スネル(Howard Snell)指揮、デスフォード・コリアリー・ダウティ・バンド(Desford Colliery Dowty Band)が、100ポイント中、99ポイントという驚異的なハイスコアでトップに立ち、オウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)との合計で王座を競う総合点でもブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)の猛追を3ポイント差でかわしてチャンピオンとなった。

その時のほぼ完璧とされる“ドラゴン”は、BBCが放送し、17年後の2003年にリリースされた選手権の25周年記念3枚組CD「25 Years of the European Brass Band Championships」(Doyen、DOYCD156/廃盤)にも収録された。

一方、作曲者のもとへは、バーミンガム・スクールズ・ウィンドオーケストラ(Birmingham Schools Wind Orchestra)から“ウィンドオーケストラ(吹奏楽)”のためのバージョンを新たに作る依頼が寄せられた。オーケストレーションは1985年に行なわれ、初演は、翌年の1986年2月22日(土)、バーミンガムのサー・エードリアン・ボールト・ホール(Sir Adrian Boult Hall)で、キース・アラン(Keith Allan)指揮、同ウィンドオーケストラの演奏で行われた。これが、我々が知る“ウィンドオーケストラ(吹奏楽)版”の誕生日だ!

1987年には、“ブラスバンド版”収録の2枚目のアルバムがリリースされた。それは、ヤマハ創業100周年を記念して同年5月に日本に招かれたスウェーデンのエーテボリ・ブラス・バンド(The Gothenburg Brass Band)が、ベングト・エクルンド(Bengt Eklund、1944~2007)の指揮で日本公演プロを来日を前に録音したLPアルバム「The Gothenburg Brass Band」(Polyphonic、PRL032D)だった。同バンドは、デスフォードが優勝した前記“ヨーロピアン1986”で、イギリス以外のバンドとして最上位の第4位に入ったバンドで、選手権を経ていただけに、レコードの“ドラゴン”も現代風に洗練されたパフォーマンスだった。

“ドラゴン”のブラスバンド版は、意外にも、イギリスではなく、スウェーデンのブラスバンドによって日本に紹介されていたのだ!

同じ1987年、イギリスでは、ダンカン・ビート(Lieutenant-Colonel Duncan R. Beat)指揮、ネラ―ホール陸軍音楽学校バンド(The Band of the Royal Military School of Music, Kneller Hall)演奏の初の“ウィンドオーケストラ版”のLP「Kneller Hall in Concert」(Polyphonic、PRM111D)もリリースされ、楽譜も出版された!!

ロイヤル・エア・フォースでも、ステータスが格違いのセントラル・バンドを除く、地方配置の40名編成の各バンド(レジメント、カレッジ、ウェスターン、ジャーマニー)のスキル向上のために例年行なっている団内コンクールで、「ドラゴンの年」をテストピースに採用した。作曲者も関わったこのコンクールの審査委員長は、もちろんロイヤル・エア・フォース首席音楽監督のエリック・バンクスだった。

つまり、筆者が公演に関わらなくてはならなくなった1987年の年末時点で、“ドラゴン”は、ヨーロッパを揺るがす衝撃的最新作であったばかりか、ロイヤル・エア・フォースのマスト・アイテムだったのだ。

しかし、2月に来日したバンクスへの直談判は、難航を極めた。彼は、“クラシックからポップスまで誰でも知っている曲をロイヤル・エア・フォースのスキルで日本の聴衆に愉しんでもらいたい”という強い意向を持っていたからだ。そんな中に、日本の聴衆が知らないシリアスな曲を加えるなんて問題外という訳だ。

『そんなことだから、ウィンド・ミュージックは、一段低く見られるんだ!』と、こちらも譲らない!

ここで委員長が出てくると、『音楽のことは樋口さんに任せるよ。』と言いながらも、間違いなくバンクス寄りの方向に誘導されてしまう。そこで一計を案じた筆者は、NHK-FMの「ブラスのひびき」のコメンテーターをつとめられていた秋山紀夫さんがCBSソニーの録音でちょぅど東京に来られているというので、喫茶店までご足労いただいて、2人がかりで“バンドのオリジナルを今度の来日プロクラムに入れることの重要性”を説くことに!

議論は白熱したが、その日はタイムオーバーで、結論は出なかった。しかし、筆者がその後も意見を曲げなかったことと、“1年前の実行委”が組み立てることができなかった公演スケジュールを短期間でフィックスさせていたことへの謝意の表明もあったのだろうか。離日を前に、頑固な英国紳士バンクスが、ついに折れてくれた。

『そんなにまで言うなら、プログラムの1つに“ドラゴン”を入れてもいい。』と。

立ちあがって『サンキュー、サー!』と英国式敬礼をした筆者は、東京、大阪、名古屋のプロに“ドラゴン”を組み入れることを提案し、笑顔のバンクスもそれを了承してくれた。

「ドラゴンの年」ウィンドオーケストラ版の日本初演は、1988年4月17日(日)、東京・普門館において、エリック・バンクス指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドによって行われた。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第9話 “ドラゴンの年”と“ロンドン序曲”

フィリップ・スパークの「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」は、今や作曲者の代名詞のように語られる名曲の1つだ。それまでの伝統的なバンド・ミュージックの世界に一大センセーションを巻き起こした衝撃的な作品としても知られる。

オリジナルは、ウェールズのブラスバンド、コーリー・バンド(The Cory Band)の100周年記念委嘱作として作曲された“ブラスバンド”編成の作品だった。オフィシャルな世界初演は、1984年6月2日(土)、ウェールズの首都カーディフ(Cardiff)のセント・デーヴィッズ・ホール(St. David’s Hall)で開催された同バンドの100周年記念コンサート(The Cory Band Centenary Concert)で、H・アーサー・ケニー(Major H. Arthur Kenny)の指揮で行なわれた。作曲者も出席したこの記念コンサートは、BBC放送が録画し、後日「Music Makers」というテレビ番組でオン・エアされた。

曲が書かれたのは、1983年の秋。当初、4楽章構成の組曲として完成したが、試奏の結果、コンサートの時間的制約から演奏時間が長すぎるとの意見がバンドから寄せられ、最終的に完成時の第1楽章“プレリュード(Prelude)”をそっくりそのままカットし、それ以降の“トッカータ(Toccata)”“インタールード(Interlude)”“フィナーレ(Finale)”の3楽章で構成される作品となった。

後日、フィリップに尋ねた時、『このカットは、結果的にひじょうにうまくいったと考えている。』という答えが返ってきた。

一方、この時お蔵入りとなった“プレリュード”は、その後、オランダからの委嘱で、1984年12月8日(土)、ヘルダーラントのズトフェンで開催された“オランダ・ブラスバンド選手権1984”チャンピオンシップ部門のテストピース(課題)、「ロンドン序曲(A London Overture)」となった。優勝は、ヤン・デハーン(Jan de Haan)指揮、ソーリ・デーオ・フローリア(Soli Deo Gloria)だった。

「ロンドン序曲」は、その後、1991年4月27日(土)、オランダ、ロッテルダムのデ・ドゥーレンで開かれた“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1991”のチャンピオンシップ部門セット・テストピース(指定課題)にも採用され、ハワード・スネル(Howard Snell)指揮、ブリタニア・ビルディング・ソサエティ・バンド(Britannia Building Society Band)が、100ポイント中、97ポイントという高得点で第1位に輝いた。その演奏は、ライヴCD「European Brass Band Champioships 1991」(FT Records、FT5001)(廃盤)に収録され、その後、ヨーロピアン選手権の25周年記念3枚組CD「25 Years of the European Brass Band Championships」(Doyen、DOYCD156)(廃盤)にも再度収録された。(優勝バンドは、オウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)のポイントとの合算の結果、デヴィッド・キング(David King)指揮、ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)と決まっている。)

フィリップの話では、「ドラゴンの年」から切り離されたこの「ロンドン序曲」は、元の“プレリュード”に一切手を加えることなく、そのまま独立曲としたものだそうだ。両ブラスバンド曲の楽譜は、「ロンドン序曲」が先行して1984年に、「ドラゴンの年」が1985年に出版された。

一方、完成形が3楽章構成と決まった「ドラゴンの年」初のセッション・アルバムは、1984年12月、ウェールズ南部、スウォンジー(Swansea)のブラングウィン・ホール(English: Brangwyn Hall/Welsh: Neuadd y Brangwyn)で収録され、翌1985年にリリースされたH・アーサー・ケニー指揮、コーリー・バンド演奏のLPレコード「Dances and Arias」(Polyphonic、PRL025D)だった。

当時のコーリーは、1984年10月7日(土)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた“全英ブラスバンド選手権1984”で見事“全英ハットトリック(3連覇)”という快挙を達成。その記念盤の位置づけで企画されたこのアルバムは、当然、3連覇達成時のテストピース、エドワード・グレッグスンの「ダンスとアリア」をタイトルとする。しかしながら、ジャケットにウェールズの象徴である“レッド・ドラゴン(赤い竜)”を大きくあしらい、B面ラストの曲目を「ドラゴンの年」でしめるこのアルバムの隠れ主役は、間違いなく“ドラゴン”だった。プロデューサー、スタン・キッチン(Stan Kitchen)の意図が透けて見えるようだ。

イギリスのファンは、BBCのテレビ番組とこのアルバムで「ドラゴンの年」を知った。

この頃までに、“ブラスバンド”編成で書かれた「コンサート・プレリュード(Concert Prelude)」(1975)や「プライズウィナーズ(The Prizewinners)」(1975)、「ユーフォニアムのための幻想曲(Fantasy for Euphonium」(1978)、「ソング・アンド・ダンス(Song and Dance)」(1981)、「テームサイド序曲(A Tameside Overture)」(1981)、「バーンダンスとカウボーイ・ヒム(Barn dance and Cowboy Hymn)」(1982)などがR.スミスから出版。1980年にクライストチャーチで開催された“ニュージーランド・ブラスバンド選手権”100周年記念大会のテストピースとして委嘱された「長く白い雲のたなびく国 “アオテアロア” (The Land of the Long White Cloud – Aotearoa)」(1979)も、その後、同じ1980年の10月5日(日)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1980”のテストピースにも使われてイギリス国内でも注目を集め、一躍超人気曲となっていた。「ドラゴンの年」は、その同じ作曲者の注目の新作だけに、ブラスバンド紙「ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)」(週刊)や「ブラス・バンド・ニューズ(Brass Band News)」(月刊)も事あるごとに話題にした。

遠く日本にいる筆者も、この両紙の紙面から、イギリスで何か騒ぎが起こっていることは認識していた。しかし、インターネットやユーチューブなど無かった時代の話だ。その正体をはっきりと掴むことができたのは、1985年の10月末にエアメールで届いたこのアルバムで、初めて「ドラゴンの年」を聴いた時だった。

まるで棍棒か何かで頭をぶん殴られたときのような強い衝撃が体中を駆け巡った!

アドレナリンが大騒ぎをしている!!

この瞬間、“ドラゴン”との長く密度の濃いつき合いが始まった!!

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第8話 ドラゴン伝説の始まり

 ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)が来日したのは、1988年4月のことだった。

バンドは、民間人オルガン奏者ヘンリー・ウォルフォード・デーヴィス博士のリーダーシップのもと、1918年に正式にスタート。第2次世界大戦中は、数多くの弦楽奏者を含むロンドン市中のオーケストラ奏者をオーディションで採用してシンフォニー・オーケストラからジャズ・バンドまで幅広く活動。“ロイヤル・エア・フォース・シンフォニー・オーケストラ”の名で演奏旅行に訪れたアメリカでも絶賛を博した。首席ホルン奏者デニス・ブレインの名が世界的に知られるようになったのもこのツアーのときで、戦後の1945年、英EMIの敏腕プロデューサー、ウォルター・レッグが創設した“フィルハーモニア管弦楽団”の大部分がこのバンドの出身者だったこともイギリスでは有名な話だ。今でも、オーケストラを辞めてオーディションを受けるプレイヤーがいる英国最高峰のウィンドオーケストラだ。

ホルスト、ヴォーン=ウィリアムズ、グレインジャー、ジェイコブらがウィンドのために書いたオリジナルを収録し、来日前年までにEMIクラシックからリリースされた「British Music for Concert Band」(1984)(His Master’s Voice、EL 27 0093 1)、「British Music for Concert Band, Volume 2」(1986)(His Master’s Voice、EL 27 0467 1)という2枚のLPレコードも高い評価を得て世界的ヒットとなっていた。

 一行(70余名)は、1988年4月12日(火)、日航機で成田に到着。4月15日の横浜・関内ホールを皮切りに、東京2公演、大阪、福岡、大分、名古屋と、滞在12日間に7公演をこなし、4月23日(土)、名古屋・小牧空港から帰路についた。(内、東京の1回は、汐澤安彦指揮、東京佼成ウインドオーケストラとの日英交歓ジョイント・コンサート)

ツアーは、ロンドン、テヘラン、東京を起点に活動するビジネスマン、萩野荘都夫さんが、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでのコンサートを聴いて感動のあまり個人で立案。当初は、1年前の1987年に東京のサントリーホールで連続3公演、大阪のザ・シンフォニーホールで連続2公演を行ない、各コンサートでは異なるプログラムを演奏するという、相当な音楽プロモーターでも腰を抜かしそうな破天荒なプロジェクトだった。実際、日本公演実行委員会には、映画「トラ・トラ・トラ」や「ゴルゴ13」などを手掛けたプロデューサーなど、およそ音楽畑からほど遠い人々も名を連ね、普通の音楽コンサートとは何から何まで様相が違っていた。

筆者は、知己を得ていたロイヤル・エア・フォース首席音楽監督で指揮者のエリック・バンクス(Wing Commander Eric Banks)からこの話を聞き、東京の実行委から送られてきた資料や委員長の萩野さんに実際にうかがった話をもとに、月刊誌「バンドピープル」1987年4月号に4ページの“来日直前リポート”を出稿!

しかし、これがたいへんなミスリードになってしまった!

同号が出るか出ないかのタイミングで、実行委が、突然、公演の1年延期を決めたのだ!

聞けば、急激な為替の変動などのため、シンフォニー・オーケストラに匹敵するこのバンドの公演維持に支障が出る恐れがでてきたから、という悲しい話。(嗚呼、なんということか!)

早速、バンドピープル編集部に電話を入れると、編集長の冨田尚義さんのやけに弾んだ声になんとも嫌な予感が…。

果たして、『ロイヤル・エア・フォースの記事、ものすごい反響です。問い合わせの電話がドンドンかかってきていますよ!!』という明るい声に、一瞬どう話していいのか詰まってしまう。どうやら、編集部始まって以来の騒ぎらしい。しかし、執筆者の義務として事態を正確に説明すると…。

『中止なら大変ですが、延期なら問題ありません。誌面で事情を説明した上で、来年に向って追跡していきましょう!』というポジティブな回答。今後とも彼らの動きをマークしていくことになった。

しかし、その後の経過はさらに悲惨だった。実行委に名を連ねていた人たちがつぎつぎプロジェクトから逃げ出し、ついにはビジネスで海外出張が多い委員長とその世話役2人だけとなったのだ。わかりやすく言うと、残った人は全員が音楽畑とは無関係! いつでも連絡がとれるのはイギリスにいる指揮者バンクスだけという状況になってしまった。

公演予定まで半年を切った時期のこの緊急事態に、意を決した筆者は、大阪から上京。虎ノ門の日本消防会館(ニッショーホール)にあった事務所を訪ね、その場で聞いた話を1つずつ裏をとる確認作業を始めた。結果、最初にわかったことは、サントリーホールの公演予定日には、すでに他の公演が入っていたことだ。相談役の2人に“東京のホールはもうない”と伝えると、“そんなバカな!”と驚愕の表情!こんな調子では、大阪の方も怪しい。

急ぎとって返した筆者は、ザ・シンフォニーホールにアポをとって出向き、ホールの状況を尋ねた。すると、応対に出た朝日放送シンフォニーホール事業本部部長の秋田宣久さんから、たいへん厳しい話を言い渡される。

『その公演はどうなるかわからない。確かに実行委員長という人から1年延期の申し出が電話であったが、その後は何の連絡もないし…。』と。

どうやら、筆者は、ホールとしてもどう処理しようか思案しているタイミングで飛び込んできたようだった。そして、逆に矢継ぎ早に質問攻めに遭うことに。しかし、実行委ではない筆者は、運営面のことなどまるで知らない。バンクスから聞いていた英国側の滞在可能期間、バンドの歴史や指揮者のキャリア、レパートリーやレコードのことなど、演奏関連のことしか話すことがない。ただ、相手も音楽のプロ。資料に目を落とすことなくそれら音楽面の詳細な説明を続ける筆者に一定の安心感を覚えられたのか、つぎの瞬間、秋田さんから予想もしなかった提案が投げかけられた!!

『東京の実行委員会がどんな人たちなのかは知りません。しかし、樋口さん、もし、あなた自身がこの公演をなさると言うのであるならば、ここまでのペナルティーは一切不問にして、大阪公演ができるよう取り計らいましょう。現在2日間押さえられている内の1日は、こちらの休館日にしてもいい。ただし、実行委の方からホール使用料の前払い金だけは入れてもらって下さい。年末も近いですから、年が明けた1月8日までに。いかかでしょうか?』

筆者は、実行委にすぐ連絡をとって結論を出すと約束してホール事務所を退出した。

早速、東京に電話を入れると、予想どおり委員長は海外出張中。ホール使用料は、相談役・事務局長の渡辺憲一さんが個人的に立て替えていただけることなった。

一方で、これら一連の動きは、自分の立ち位置がコンサートを愉しむ方から実行サイドに移ることを意味した。(エラいことになったゾ!)

そのとき、ある冒険的アイデアが思考回路の中で突然閃いた!!

それならば、英国最高峰の彼らに、今イギリスで話題沸騰中のフィリップ・スパークの「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」を取り上げてもらおう!!

2年連続フェイルとなったら大変だと考えたバンクスも、準備状況をチェックするために2月に来日するという。よーし、それなら直談判だ!!

“ロイヤル・エア・フォース日本公演1988”の小さな第1歩だった。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第7話 スパーク“ウェイ・トゥー・ヘヴン”とロイヤル・エア・フォース

 麗かな初春の陽の光が眩い2017年3月4日(土)の午後、大阪のフェスティバルホールでは、イギリスの作曲家フィリップ・スパークを客演指揮者に招いて“大阪音楽大学第48回吹奏楽演奏会”の準備が進められていた。、

プログラムは、「ジュビリー序曲(Jubilee Overture)」「オリエント急行(Orient Express)」「ウィークエンド・イン・ニューヨーク(A Weekend in New York)」「宇宙の音楽(Music of the Spheres)」「リフレクションズ~ある古い日本俗謡による~(Reflections on an Old Japanese Folk Song)」「輝く雲にうち乗りて~賛美歌“ヘルムズリー”による幻想曲(With Clouds Descending – A Fantasy on the Hymn Tune “Helmsley”)」「交響曲第3番“カラー・シンフォニー”(A Colour Symphony – Symphony No.3)」と、初期作から近年作に至る作曲者の変遷を時系列でたどるアカデミックなものだ。

フェスティバルホールは収容2700名を誇る大ホールだが、コンサートの前評判から半端な数ではない座席不足が事前に予想され、その対応準備もあってスタッフの動きが慌ただしい!

ドレス・リハーサル(ゲネプロ)を前にフィリップを楽屋に訪ねると、応接セットのテーブルに1冊の書物がポツンと置かれているのを見つけた。

書名は「Dam Busters: The True Story of the Inventors and Airmen Who Led the Devastating Raid to Smash the German Dams in 1943」(2013年刊)。

直訳では、“ダムバスターズ: 1943年にドイツのダムを粉砕する衝撃的な空襲に挑んだ発明家たちと航空隊員の真実のストーリー”となるタイトルの本だ!

カバーに印刷されている“LANCASTER(ランカスター爆撃機)”と強調された“DAM BUSTERS(ダムバスターズ)”の文字から、それが、第2次世界大戦中、水面をバウンドする特殊な反跳爆弾を開発してドイツの工場地帯へ電力を供給する3つのダムを破壊するという特別任務についた英空軍の“617スコードロン”の実話を描いたジェームズ・ホランドのベストセラーであることがすぐにわかった。

フィリッブは読書家だ。新幹線移動の際にも、よく本を読んでいる。にしても、戦史のドキュメンタリーとは珍しい。筆者の頭の中でも、エリック・コーツ(Eric Coates)の名曲「ダムバスターズ・マーチ(The Dam Busters March)」のメロディーがリフレインする。

彼の方が年上だが、ほとんど同じ時代を生きてきただけあって話の共通項は多い。ビートルズの熱狂的ファンだったと白状したこともあった。テレビ番組「サンダーバード」の話で盛り上がったときも、『イギリスで“サンダーバード”の吹奏楽アレンジが絶版なんて、あり得ない!』とボヤいていたのをよく覚えていた。半年もたつかたたない内に、何の前振れもなくスパーク編『サンダーバード(The Thunderbirds)』がいきなり出版された。シエナ・ウインド・オーケストラやオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラなど、フィリップの自作自演コンサートでアンコールに演奏される編曲がそれだ!!

お返しの気持ちもこめ、その後来日するたび、“Made in Japan”のサンダーバード・グッツをお土産としてプレゼントしてきた。しかし、こう頻繁に来日が続くと、さすがにネタ切れの危機!

大阪音大の本番2日前に2人で食事に出かけたが、その時は思い悩んだ挙句、『いつもとは違うけど、今回はスペシャルなモデルを用意した!』と言って、第2次大戦当時の英空軍の名戦闘機“スピットファイア”のダイキャスト・モデルをプレゼントした。ウィリアム・ウォルトン(William Walton)の名曲「スピットファイア、プレリュードとフーガ(Spitfire, Plelude and Fugue)」のテーマとなったあの“スピットファイア”だ。

彼はさっそく包装を解くと、目をキラキラ輝かせて『こいつはすごい!!型式は?』といきなり専門的(?)質問が飛んでくる。『マークV(ファイブ)だ!』と応じると、『マークVか。このタイプのフォルムはとくに美しいんだ…。』などと、やたら詳しい!

同機は、その後、2017年6月のシエナ定期の客演指揮で来日したときにプレゼントした同時代の英空軍の戦闘爆撃機“タイフーン”のモデルと並んで彼のベッドサイドを飾っている。しかし、こんなに受けるとは…。

そんな訳で、2日後に楽屋で見た件の本にもたいへん興味をひかれた。そこで『ロイヤル・エア・フォースの伝説本かい?』と話を振ると、『新しい本だ。617スコードロンの!』と返ってくる。

“新しい本”というのは、1955年公開の映画「The Dam Busters(邦題:暁の出撃) 」の原作本となったポール・ブリックヒル著の「The Dam Busters」(1951)やガイ・ギブソン著の「Enemy Coast Ahead」(1946)などがあるからだ。コーツの「ダムバスターズ・マーチ」も、実はこの映画のテーマとして作曲された音楽だ。

ヒコーキの話でひとしきり盛り上がる内、帰国後の4月に、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)のレコーディング・セッションをやるという話になった。第1話でお話しした「ゾディアック・ダンス(Zodiac Dances)」やシエナ定期で日本初演予定の「ウィンド・イン・ザ・リーズ(Wind in the Reeds)」などを録るという。また、それは首席音楽監督ダンカン・スタッブズ(Wing Commander Duncan Stubbs)の退役前最後の録音なのだともいう。

ダンカンか。懐かしい名前だ。1988年にロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーをオーガナイズしたとき、彼はバス―ン奏者だった。オーケストラを辞め、ロイヤル・エア・フォースのオーディションを受けた1人だった。ツアーの2年後に音楽監督の試験にパスし、ロイヤル・エア・フォースの各バンドの指揮者を歴任したとは聞いていた。定年ということは、彼ももう56歳を迎えるのか….。

7月6日、突然フィリップから“The Way to Heaven”という件名のメールが届いた。

『「ウェイ・トゥー・ヘブン」の録音を送るので聴いてみてくれ。曲の真ん中あたりで、ポーランドの303スコードロンの“ハリケーン”がテイクオフするのが聞こえるよ!』

“ポーランドの303スコードロン”とは、第2次世界大戦中、イギリスに逃れてきたポーランド人パイロットで編成された飛行隊で、“ハリケーン”は、スピットファイアとともに、押し寄せるドイツ空軍機を迎撃した英空軍の主力戦闘機だった。

フィリップの「ウェイ・トゥー・ヘブン」は、2015年4月11日、マンチェスターのロイヤル・ノーザン音楽カレッジで催されたプリティッシュ・アソシエーション・オブ・シンフォニック・バンズ&ウィンド・アンサンブルズ(BASBWE)のコンベンションで、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドが初演する新曲としてダンカン・スタッブズから委嘱された作品だった。

2015年は、イギリス上空でドイツ空軍機との間で繰り広げられた大空の戦い“バトル・オブ・ブリテン”から75周年。また、義勇ポーランド空軍303スコードロンの指揮所は、現在のセントラル・バンドの練習スタジオの建物からほんの数歩の位置にあった。

そんな経緯から委嘱された曲だが、添付されたmp3ファイルを聴くと、それは正しくロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの演奏。同時に、それは4月のセッションの編集完了を意味していた。

作曲者の言うとおり、曲の真ん中あたりに“ハリケーン”のロールス・ロイス・マーリン・エンジンが始動し、スクランブルのためにつぎつぎと飛び立っていくシーンの描写がある。「オリエント急行」冒頭の蒸気機関車の発車シーンよろしく、エンジン音のディティールの細かい描写は実に見事だ!

しかし、それよりも何よりも音楽全体から溢れ出る、まるで鳥のごとく、青く澄み切った大空を自在に飛んでいるような爽快さがとても魅力的だった!

きっと、フィリップは、この曲をダンカンの指揮で残しておきたかったんだな!

そうだ!つぎは“ハリケーン”を準備しよう!!

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第6話 CD「オリンピカ」とベルジアン・タイム

 オランダ~ベルギー間の移動には、“インターシティ”という快速列車の旅がお薦めだ。

利便性もさることながら、国境の検問もなく、自由に行き来している間に、いつの間にかまったく違う世界の真っただ中にいる自分を発見できる愉しさとでも言えばいいのか。

分離される前は1つの国だった両王国の国民性や風土には、それほど大きな違いがある。

機能的でシャープなデザインのオランダ、受け継がれたスタイルに固執するベルギーとでも言えばいいのか。相互に乗り入れている列車の外観や内装もまったく違う。

我々日本人の目には俄かには信じられないのは、それが同じ線路の上を走り、列車の運行にまで国民性の違いが現われることだろう!

分かりやすく言うと、オランダの列車がほぼ定刻どおりの運行なのに、ベルギーから来る列車は遅れが日常茶飯事。ある駅のホームで乗り換えの列車を待っていた時には、事故のアナウンスもないのに予定の列車が“1時間半遅れ”の表示に愕然!

そのとき、知り合いのオランダ人が、とくに慌てる素振りもなく“ベルジアン・タイムだからね”と教えてくれたのを今もはっきりと覚えている。

“ベルジアン・タイム(ベルギー時間)”なるものを知った瞬間だった。

そう言えば…。1993年の7月の始めにベルギーのアントワープとブリュッセルを訪れたときにもこんなことがあった。

現地ツアーガイドを買って出てくれたのは、親友ヤン・ヴァンデルロースト!

滞在中、アントワープ観光の他、クラリネットのヴァルター・ブイケンス(Walter Boeykens, 1938~2013)夫妻、ヤン夫妻との会食、ベルギー国王の私設吹奏楽団“ミュジーク・ロワイヤル・デ・ギィデ(La Musique Royale des Guides)”の表敬訪問と練習見学、その楽長のノルベール・ノジ(Norbert Nozy)の事務所訪問と会食、ノジがコメンテーターをつとめるベルギー国営放送(BRT)のラジオ番組「グラン・パルティータ」出演、作曲家ディルク・ブロッセ(Dirk Brosse)との会食など、たいへん刺激的で有意義な時間を過ごした。

ヤンは、これらすべてのアポイントに対し、白いベンツを駆ってホテルまでピックアップに来てくれたが、オランダからの列車で「アントワープ東駅」に到着した際の出迎えを除き、いつも10分から15分の遅刻! いつも汗をかくように慌てた仕草で“あれこれ”言い訳をしながら登場した

オランダから合流したデハスケのマネージャーが『10時と言えば10時だ!』と言っても、悪びれる様子もとくになし。ヤンは、『ベルギーに住む人間は、みんな人生を愉しんでいるんだ。オランダ人とは違う。』とそっと耳打ちした。

しかし、第5話でお話ししたヤンの1994年の来日スケジュールは、その時すでに決まっていた。こんな調子では、来年日本でプロに対峙した時、予想外の出来事が起こるかも知れないと覚悟する。

一計を案じた筆者は、来日前のヤンに“分刻み”の詳細なタイムテーブルを作ってFAXで送り、“進行はこの流れに従って行われるので、スケジュールの変更等のアップデートはこのペーパーの上で確認し合う”ことを約束させた。

実際に来日すると、毎日、朝食を摂りながら2人でスケジュールを念入りに再確認。

ヤンは、その後、リハーサルもコンサートも、移動の列車もパーティーも、すべて完璧にオンタイムで進行していったことにビックリ仰天!

彼の専属マネージャーになった覚えなどないが、いつの頃からか、『君は、すべてを知り尽くたプロフェッショナル・マネージャーだ。』と盛んに持ち上げるようになった。

それでも、やはり事件は起こった!!

まるで蒸気機関車のスチームのように、今にも頭から湯気が吹き出しそうに真っ赤な顔をしたヤンが、『ユキヒロ、今、ボクの顔は“怒っている”ように見えるかい?』と問いかけてきたのは、東京佼成ウインドオーケストラの合奏場の応接室だった。

合奏場では、この少し前まで、佼成出版社のCD「ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.3“オリンピカ”」(KOCD-3903)のレコーディング・セッションに備えたリハーサルが行なわれていた。

企画から立ち上げた想い出深いCDで、日本でもすでに大ブレイクしていた『フラッシング・ウィンズ(Flashing Winds)』『ブスタ(Puszta)』の両人気作に加え、1992年の長野市民吹奏楽団(長野県)の委嘱作である祝典序曲『オリンピカ(Olympica)』、1993年に大阪市音楽団によって日本初演された『アマゾニア(Amazonia)』、日本には本格未紹介の『セント・マーティン組曲(St. Martin’s Suite)』、この録音のために1986年の管弦楽曲「モザイク」をウィンドオーケストラ用に改作した『マンハッタンの情景(Manhattan Pictures)』の6曲をヤンの指揮で収録するという自作自演盤だった!!

タイトルは、来る1998年に長野で冬季オリンピックが開催されることを意識して「オリンピカ」と決め、1曲目の収録を決定。ヤンも初の日本からの委嘱作であるこの輝かしい祝典序曲でCDをスタートできることを喜んでいた。(1994年11月24~25日、昭島市民会館(東京都)で収録 / 1995年4月22日リリース)

そのヤンが真っ赤な顔をしていたのは、練習初日。合奏終了をめぐり、ちょっとした事件が起こっていたからだ!!

もちろん、ヤンも終了時刻を承知していた。指揮台に時計を置いていたほどだから。しかし、ちょうど指揮をしていた曲(何の曲だったか、すっかり忘れてしまった)がもうちょっとで終わりそうだったので、時計の針が終了時刻を指しても、ヤンは振り続ける構えを見せた。

ヤバいな!と思い、イスから立ちあがった瞬間、合奏室の扉がバンと開いて、3人のマネージャーさんが猛烈な勢いで飛び込んできた。

そして、大きなジェスチャーで両手を左右に拡げて『オーバータイム』の宣告!

リハーサル初日の合奏はここで終った。

後で聞くと、ヤンは最後の6小節だけ注文を付けてリハーサルを終えようと考えていたという。

2人で部屋に戻った後、筆者は、日本のプロの楽団では、プレイヤーは契約時間の中で最高の結果を出そうと努めていること。指揮者はその時間の範囲内なら、休憩時間を除き、自在に合奏をリードできること。拘束時間の後に次ぎの現場やレッスンの約束が入っている奏者もいること、などなど…。来日時に最初にレクチャーした内容をもう一度ゆっくりと2人でおさらいした。

その後、すっかり明るさと落ち着きを取り戻したヤンは、『ベルギーでは、時間の使い方にもう少し自由な幅があって、マエストロの裁量で10分や15分伸びるのは当たり前なのに、日本ではNGなんだね。初めての体験だった。本当によくわかったよ。』と言ってくれた。

この日を境に、ヤンは沁み付いたベルジアン・タイムを心の中に完全に封印。リハーサル2日目以降は時間の使い方も完璧で、指揮者、演奏者、双方のモチベーションが日増しに高まっていくという、すばらしいセッションとなった!

収録後、団員からプレゼントされたハッピに袖をとおしたヤンの満面の笑顔が今も忘れられない!

▲セッション当時のヤン・ヴァンデルロースト

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言第5話 ヴァンデルローストの日本語教師

▲「バンドピープル1995年2月号の表紙」と「[ライムライト・コンサート8の表紙」

第5話 ヴァンデルローストの日本語教師

これまでに招いた外国人音楽家の中で、会話に意識的に日本語をまぜこみ、コミュニケーションを深めようと努めているのは、間違いなくベルギーのヤン・ヴァンデルローストだ。

東京佼成ウインドオーケストラの桂冠指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell, 1914~2004)が、手書きした日本語(カンニングペーパーのようなもの)を指揮台に置いて練習に臨んだことは有名だが、何も見ずいきなり飛び出すヤンの日本語の頻度は、フェネルのそれをはるかに上回る!

このため、ヤンが繰り出す日本語には、いかにもアヤシイ(?)ものが多い。しかし、それがうまくいかなかったときにオーバー・アクションで悔しがる姿もある種ユーモラスであり、親近感を覚える人も多い。

初来日は1994年で、春秋の2シーズンに日本のステージに登場!

三重県・合歓の郷における日本吹奏楽指導者クリニックでは、5月15日(日)のシエナ・ウインド・オーケストラのコンサートで『アマゾニア(Amazonia)』『ブスタ(Puszta』『オリンピカ(Olympica)』『ハイランド・ラプソディー(Highland Rhapsody)』を指揮。予定にはなかった5月17日(火)の大阪市音楽団のコンサートでも、客席から飛び入りで『フラッシング・ウィンズ(Flashing Winds)』を指揮した。5月19日(木)には、埼玉・川口総合文化センター・リリアで行なわれた東京ブリリアントブラス特別演奏会にも登場し、『フラッシュライト(Flashlight)』『エクスカリバー(Excalibur)』を客演指揮した。

秋は、プリーズ・ブラス・バンドのツアーに客演指揮で登場。11月18日(火)、森ノ宮ピロティホール(大阪)の「ライムライト・コンサート8」を皮切りに松本~東京と続いたツアーで、『トッカータ・フェスティヴァ(Toccata Festiva)』『カンタベリー・コラール(Canterbury Chorale)』『ファイアワーク(Firework))』『オマージュ(Homage)』『エクスカリバー(Excalibur)』の自作自演を行なった。

ヤンの日本語には、大阪弁の“なんでやねん”のように、発音やイントネーションから使うタイミングまで、大阪に住む者が“免許皆伝”を授けたくなるほど完璧なものもある。四六時中、大阪弁が飛び交うこのツアーに参加したことが大いに“役に立った”のは、言うまでもない!

すっかり忘れてしまったが、筆者は、どこかのタイミングで“今後日本に来ることがあったときにきっと役立つから”と言って、1冊の日本語会話ハンドブックを選んでプレゼントしていたようだ。

以後、ヤンは来日のたびにハンドブックから学んだ日本語をつぎつぎと試すようになった。筆者はそのたびに採点。いつの間にか、ヤンから“日本語の先生”という栄誉ある地位を与えられてしまった。

しかし、後で“しまった”と思っても、もう遅い!

第1話でお話ししたシエナ・ウインド・オーケストラの委嘱作『グロリオーゾ(Glorioso)』の曲名選択時の質問だけではない。ヤンからは、日本に関わるありとあらゆる質問がくるようになった。

近々の例では、2017年5月の…。

『Maido Yukihiro-san genki-deska ? (まいど、ユキヒロさん、元気ですか?)

現在、6つの大陸で実際に歌われている典型的なクリスマス・ソングをフィーチャーした“クリスマス組曲”(オーケストラと合唱のための)に取り組んでいます。

これまで、実際のキャロルやクリスマス・ソングを“届けて”もらった国々は、以下のとおりです。ヨーロッパはベルギー、北米はアメリカ合衆国、南米はコロンビア、アフリカは南アフリカ、オセアニアはオーストラリア。

それで、アジアは日本(???)だと考えているんですが、現在、この“アジア”の曲だけがまだ“欠落”状態です。ご協力願えれば幸いです。』(冒頭を除き、原文は英語)

これは難問だ!

ヤンは、クリスマスが基本的にキリスト教にかかわる事柄で、日本人の多くがクリスチャンでないことを十分承知しているはずなのに。なんでやねん。推薦曲がないなら、誰か知り合いの合唱指揮者か歌手の名前とメールアドレスを教えてほしいとまで書かれてある。打診すれば何かマニアックな曲は出てくるかも知れないが、日本の教会で歌われているのは、たいてい西洋の賛美歌と同じかそれをベースにしたものだ。ウーム。

そこで、日本にはトラディッショナルなクリスマス・ソングがないことをまず説明。クリスマス・シーズンに流れる人気曲のいろいろなリストを探し出し、どのリストでもダントツ1位か2位に入っている2曲を選んで連絡した。

『今、日本人の多くが“クリスマスの歌”として親しんでいる代表的な曲は、タツロー・ヤマシタという歌手の“Christmas Eve (クリスマスイブ)”、もくしはユミ・マツトウヤの“Koibito Ga Santa Claus (My Baby Santa Claus)(恋人がサンタクロース)”だ。』と。

これらは、どこから聴いても完全なポップ。たぶん、この回答で日本の音楽を使うことを諦めるだろうと踏んでいたのだが、敵もなかなかしぶとい!

ネットを通じて曲を聴いたヤンから、『組曲のクライマックスに使うには、盛り上がりのある“恋人がサンタクロース”がいいように思う。楽曲の著作権の管理者から許諾をとれますか?』との超真面目な打ちかえし!

オイオイ、面倒なことになりそうだゾ、と数日返答を保留していたら、再びヤンからのメールがきた。

『出版社から“著作権が存在する楽曲は使わないように”と言われました。そこで、リクエストを変更し、クリスマス・ソングではなく、なにか“冬”をイメージする日本の曲を教えて下さい。例えば、ルロイ・アンダーソンの“そりすべり(Sleigh Ride)”の類いの…。もちろん、著作権が存在しない曲でないといけませんが。』

トーマス・ドスの『白雪姫』で大変な目にあったばかりのHal Leonard MGBが同意するわけなかった。当然だ!

一方、冬の歌なら、いくらでも思いつく。

早速、“YUKI YA KONKO (ゆきやこんこ)”、“FUYU NO YORU (冬の夜)”、“FUYUGESHIKI(冬景色)”、“FUYU NO SEIZA (冬の星座)”(原曲は19世紀のアメリカ曲)、“TROIKA (トロイカ)”(原曲はロシア民謡)の5曲を、簡単な楽曲説明を添えて返信した。

すると、メロディーラインから“冬の夜”がいいとの返答。しかし、出版社から厳命されているためか、再び著作権の有無を訊ねてきた。

そこで、『“冬の夜”は、日本国の旧文部省が1912年に発行した小学校3年生用の唱歌だ。作曲者も作詞者も不明で、著作権はすでに消滅している。』と回答すると、ありがとうとの返信。

これにて一件落着と思っていたら、もうすっかり忘れていた8月になって、さらに追加のメールがきた。

『オーケストラと合唱のためのインターナショナルなクリスマス組曲は書き上がりました。しかし、歌詞を必要とします。“冬の夜”の歌詞を、Roma-ji(ローマ字)に直してもらえますか?』

やれやれ、日本語教師は忙しい!

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言:第4話 スパーク・コンダクツ・スパーク

▲「ライムライト・コンサート6」のパンフレット表紙

▲CD「ロマンス」

第4話 スパーク・コンダクツ・スパーク

フィリップ・スパークが、初めて日本のステージに立ったのは、1993年11月8日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開催されたプリーズ・ブラス・バンド(BBB)の「ライムライト・コンサート6」だった。

サブ・タイトルは“SPARKE CONDUCTS SPARKE”!

この日、中ホールながらも座席数1100を誇るこのホールは、満員札止め。開場前の入り口付近は人が車道まで溢れ、客席最前列から2階最後部までビッシリ埋めつくされた状況には舞台スタッフもビックリ仰天!

後日談だが、同じ日に併設の大ホール(現オリックス劇場)であったさる有名アーティストの公演を目当てに集まった“ダフ屋”のお兄さんたちも対する警備陣も面喰うほどの大盛会となった。

もともとがジョーク好き。笑いと活力にあふれる大阪の街がすっかり気に入ってしまったフィリップも、“もうかりまっか”“ぼちぼちでんなー”と受け応えをする、古きよき時代の大阪商人の慣用句をアッと言う間にマスターしてしまった!

筆者は、今でもときどき、その日のライヴの一部を収録したCD「ロマンス」(BBB自主制作、BBBCD 006)を取り出して聴くことがある。

イギリス・ブラスバンド界の重鎮でブラック・ダイク・ミルズ・バンド常任指揮者だったロイ・ニューサム(Roy Newsome、1930~2011)さんも賞賛を惜しまなかった『祝典のための音楽(Music for a Festival)』、“こんばんわ”で始まるフィリップ自身による楽曲紹介(声が若い!)、フリューゲルホーンの名手、古部幸仁さんのソロをフィーチャーした『ロマンス(Romance)』とつづく流れを聴くたび、当夜の興奮が鮮やかによみがえってくる!

自ら録音・制作したCDの中でも、とくにお気に入りの1枚だ。

さて、そのフィリップだが、この初来日時から今日までずっと守っていることがある。

それは、自作を指揮するとき、いつも新しい印刷スコアを持ってくることだ。

自作と言えども毎回新しい発見があることは無論のこと、出版されている楽曲をコピーを使って指揮するなど、もってのほかと考えているからだ。未出版や絶版の楽曲も、著作権法のルールに従い、出版社に頼んで手書きスコアのオーソライズド・コピー(出版社許諾のコピー)を製本してもらっている。

指揮で使ったスコアは、彼にとって大切な宝ものだ!

日本で、スコアのコピーにサインをねだる人がいることが、どうしても理解できないでいる。

そんなフィリップから“I have a BIGGGGG favour to ask you.”とS.O.S.のメールが入ったのは、2015年11月20日のことだった。Gをいくつも重ねているから、とくに重大な案件だ!

『知っての通り、来年1月にBBCを指揮して“山の歌(Mountain Song)”を演奏する。そのため、自分用のスコアを準備しているんだが、オリジナル原譜を複写して作ったフルスコアを見つけることができないんだ。そこで、スタンに新たに別のコピーを作ってもらうように頼んだんだけど、なんと彼は私の原譜をロストしてしまったようなんだ!』

なんてことだ!!

BBCとは“ザ・バンド・オブ・ザ・ブラック・コルト”という名の東京のブラスバンド。2016年1月10日(日)、保谷こもれびホール(西東京市)で、フィリップを招聘して創立40周年記念の第54回定期演奏会を開催することがアナウンスされていた。スタンとは、英ステューディオ・ミュージックのボスだ。

フィリップのメールは、そのメイン・プロ『ピッツバーグ交響曲(A Pittsburgh Symphony)』の第3楽章“山の歌”の手書き原譜のフルスコアの喪失を知らせるものだった。

実はブラスバンド曲の“山の歌”の出版譜には、コンデンス・スコアしかセットされていない。フルスコアは作曲時の手書きオリジナルだけなのだ。

フィリップのメールには、その喪失の事実に続き、ひょっとして記憶違いかも知れないがと断りながら、“プリーズと一緒に演奏し、一種の贈り物としてスコアを残していったかも知れないので、それをチェックしてくれないか”というリクエストが書かれていた。

遠い記憶をたどると、プリーズとフィリップはその後何度も共演し、1995年11月13日(月)~15日(水)に、東京~松本~大阪とまわった5周年記念シリーズでは、確かに“山の歌”を演奏していた。

しかし、プリーズが“山の歌”の手書きスコアとパートをフィリップから贈られたのは、それより4年前の1991年6月17日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開かれた初の「ライムライト・コンサート」の前だった。その後、“山の歌”は何度も演奏されているので、フルスコアもパートも指揮者の上村和義さんのライブラリーに必ず存在するはずだ。

また、引っ越しを繰り返したので確信は持てなかったが、筆者の楽譜ロッカーには、1997年11月19日(水)、大阪府立青少年会館大ホールの「ライムライト・コンサート14」で『ピッツバーグ交響曲』の日本初演(指揮:上村和義)が行なわれた際、スタン・キッチンに頼んで会場限定販売用として10冊ほど特別に製本してもらったシンフォニー全曲の手書きスコアのファクシミリ・エディションが1冊入っているはずだった。そして、無事発見!

早速これらのニュースを知らせると、間髪を入れず打ち返しがあった。

『すごい!!!!!!“山の歌”のスコアに対して最大級の感謝だ!スタンは、他の楽章は見つけている。もちろん、我々が次に会うとき、君にビールをおごろう!Thank you SOOOO much。』

またまた、Oが3つも多い!

スコアは、その日の内に国際エクスプレス便で発送して、一件落着!

しかし、ビールはまだごちそうしてもらっていない。まあ、いいか。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言:第3話 スパーク“ピッツバーグ交響曲”

Text:樋口幸弘

第3話 スパーク“ピッツバーグ交響曲”

イギリスの作曲家フィリップ・スパークは、これまでウィンドオーケストラのための交響曲を3曲、シンフォニエッタ(小交響曲)を4曲発表している。だが、彼が“交響曲”とネーミングした作品は、前記以外にも2曲ある。

最初の交響曲は、10代に書いた管弦楽作品だった。

フィリップと知り合った頃、それがどんな作品なのか一度質問したことがある。

その時、彼は『若気の至りで書いた習作のようなものなんで、その後行方不明になったスコアが二度と陽の目を見ないことを祈っているんだ!』と笑い飛ばしていた。

スコアが紛失されているので、それは永遠に謎となってしまった。

もう1つは、ブラスバンドのための作品『ピッツバーグ交響曲(A Pittsburgh Symphony)』だ!

そのルーツは、アメリカ合衆国ペンシルベニア州ピッツバーグ(Pittsburgh)を本拠とするプロのブラスバンド“リバー・シティ・ブラス・バンド(River City Brass Band)”の委嘱作として1987年に作曲され、1988年2月に初演された“山の歌(Mountain Song)”(後に、シンフォニーの第3楽章に組み込まれる)にまで遡る。

リバー・シティ・ブラス・バンドは、ピッツバーグ市のBGMに演奏が使われるほど同市では有名な存在。実際、『市内のBGMから「山の歌」が流れてきたのには驚きました!』という土産話を木村寛仁さん(大阪音楽大学教授)から聞かされたことがある。

フィリップとスタン・キッチン(英Studio Musicのボス)に誘われ、3人でクリスマス・コンサートを聴きに行ったことがある。テナーホーンの代わりにフレンチ・ホルンが使われていた以外は、イギリスのブラスバンドと同じ編成を採用していたが、トータル・サウンドは、ややアメリカナイズされていた。

作曲家としても知られる指揮者のロバート(ボブ)・バーナット(Robert Bernat、1931-1994)は、開演前に5番目の奥さんと仲良く連れだって現れた。フィリップとおしゃべりを楽しんでいる筆者を見つけると、遠い国から現れたかつての敵国人“ジャパニーズ”に興味津々。ニヤリと笑いながら『日本人と話すのは、小澤征爾以来だ。』と嘯く挑発的な第一声は、パンチが効いてなかなか強烈! しかし、その一方で、アメリカでのプロ楽団の運営についての質問には丁寧に答えてくれ、コンサートでは、超満員の聴衆に向って、ユーモアを交えながら筆者を特別なゲストとして紹介してくれた。

そして、ロバート・バーナット、この人こそ、『ピッツバーグ交響曲』成立の推進役を果たした人物だった。

1987年に完成した委嘱作“山の歌”に感銘を覚えたバーナットは、ついで作曲者に“2曲を加えて組曲にしてほしい”という追加リクエストをする。当時、フィリップは多くの委嘱をかかえ多忙を極めていたので、“1年に1曲を書いて完結させる”という条件をもとにそれを承諾。その際2人は、完成時の曲名を「リバー・シティ組曲」とすることでも合意した。

この流れで“山の歌”についで1988年に書き上がったのが、“リバー・シティ・セレナーデ(River City Serenade)”(後に、シンフォニーの第2楽章に組み込まれる)である。

アレゲニー川とモノンガヒラ川の2つの流れが合流し、オハイオ川の起点となるロケーションに広がる都市ピッツバーグのイメージから着想した川の流れを感じさせる美しいセレナーデだ。

“リバー・シティ・セレナーデ”のスコアを受け取ったバーナットはたいへん喜び、この後、約束どおり1989年にフィリップがもう1曲を書き加えてくれれば、2人の組曲計画は無事成就するはずだった。

しかし、ここで思いもよらぬ事件が勃発する!

なんと、組曲完成予定の1989年、フィリップが3曲目を書く前に、やはりバーナットから新作を頼まれていたアメリカの作曲家ジェームズ・カーナウ(James Curnow)が、その名も『リバー・シティ組曲(River City Suite)』というブラスバンド作品をリバー・シティ・ブラス・バンドの委嘱作として完成させてしまったのだ!

ここで、カーナウの名誉のために書いておかないといけないが、彼は2人のプランをまったく知らなかった。曲名が同じになったのもまったくの偶然だった。

一方で、大慌てのバーナットは、フィリップにさらに1曲を加えて4楽章構成の“交響曲”にして欲しいとリクエストを拡大する。

作曲の構想が完全に崩れてしまったフィリップは、最初難色を示したが、この当時(1989)、スイスのバンド・コンテスト“ムジークプライス・グレンヘン 1990(Musikpreis Grenchen 1990)”から委嘱されてテストピース(課題)として書き上げたばかりのウィンド・バンド(吹奏楽)のための作品『シアター・ミュージック(Theatre Music)』の第3楽章“フィナーレ(Finale)”を改作すれば、曲をしめくくる終楽章らしい音楽になると思いつき、バーナットにこれを提案。同意を得られたことから作曲を再開する。

こうして、1989年に吹奏楽曲『シアター・ミュージック』の第3楽章“フィナーレ”を改作し、シンフォニーの第4楽章となる“バーレスク(Burlesque)”が完成。

ついで、1990年、作品の幕開けにふさわしいファンファーレで始まり、シンフォニーの第1楽章となる“ピッツバーグ序曲(A Pittsburgh Overture)”が作曲され、1991年に初演。4楽章からなる『ピッツバーグ交響曲』が完結した!

手許にあるこのシンフォニーの手書きスコアのファクシミリ・エディション(現在、入手不能)を見ると、以上の経緯がよくわかる。

単独曲として書かれた第3楽章“山の歌”、組曲の1部として書かれた第2楽章“リバー・シティ・セレナーデ”のページには交響曲を類推させる記載が全くないのに、4楽章構成の交響曲になることが決まった後に書かれた第4楽章“バーレスク”のタイトルまわりには[From “A Pittsburgh Symphony”]、第1楽章“ピッツバーグ序曲”にはカッコに入った[A Pittsburgh Symphony I]という作曲者手書きの文字が現われる。

また、『シアター・ミュージック』第3楽章“フィナーレ”と『ピッツバーグ交響曲』第4楽章“バーレスク”はまったく同一ではない。『シアター・ミュージック』第3楽章には、その第1楽章“序曲(Overture)”に使われている音楽的フラグメントの影響がハッキリと現われる一方、『ピッツバーグ交響曲』第4楽章では、可能な限りそれを省こうとしている。別の作品として音楽を扱っていたことが分かっておもしろい。

どちらかというと交響曲というより組曲の性格を有した作品だ、と作曲者が自ら語ったのも以上のような経緯から。

音楽のバック・ステージにドラマあり!!

『ピッツバーグ交響曲』の初演は、1992年2月6~15日、作曲者を客演指揮者に迎えたリバー・シティ・ブラス・バンドのシリーズ・コンサート“スパークラーズ&フローリッシ―ズ”で行われ、公演初日の会場は、モンローヴィルのゲートウェイ・ハイスクールのホールだった。

▲River City Brass Band

▲Robert Barnat

▲SPARK(E)LERS AND FLOURISHES プログラム

▲SPARK(E)LERS AND FLOURISHES 曲目


【関連作品】

■山の歌
作曲:フィリップ・スパーク
https://item.rakuten.co.jp/bandpower/set-8279/

■ピッツバーグ序曲
作曲:フィリップ・スパーク
https://item.rakuten.co.jp/bandpower/set-9926/

シアター・ミュージック
作曲:フィリップ・スパーク

https://item.rakuten.co.jp/bandpower/set-8137/