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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第166話 アルフレッド・リード「栄光への脱出」の頃

▲CD – 栄光への脱出(佼成出版社、KOCD-3013、1990年、褪色アリ)

▲KOCD-3013 – インレーカード

▲CD – ゴールデン・イーグル/金管と打楽器のための交響曲(佼成出版社、KOCD-3012、1990年)

▲KOCD-3012 – インレーカード

▲Alfred Reed(撮影日不詳、普門館、提供:佼成出版社)

2021年(令和3年)、ウィンドオーケストラの世界は、ひとりのアメリカ人作曲家の生誕100周年というアニヴァーサリー・イヤーを迎えた。

作曲家の名は、アルフレッド・リード(Alfred Reed, 1921~2005)。

1981年(昭和56年)、東京佼成ウインドオーケストラの招きで初来日。同年3月28日(土)、東京の新宿文化センターで行なわれた第28回定期演奏会を客演指揮し、満員札止めの大成功を収めたのを手始めに、以降もたびたび来日し、同ウインドオケを指揮して自作品を中心とした多くの録音を残した。

その功績はひじょうに大きいものがあるが、それに加えてゼッタイ忘れてはならないことは、つぎつぎリリースされたこれら自作自演盤の収録曲に、必ずといっていいほどの頻度で、ファンが待ちわびる新曲が含まれていたことだろう。中には本国アメリカにもない初録音の曲もあり、日本のファンはいち早くそれらを耳にする機会を得たのである。

一方で、リードは全国各地の吹奏楽団のコンサートやイベントにも客演するなど、指揮者やクリニシャンとしても大活躍を見せた。その結果、日本国内におけるリード人気と作品の知名度は、他国のそれと比べてもかなり大きなものになった。この時代、身近にレコーディングや自身のライヴが存在するかしないかの差は、歴然としていた。

それだけに、折からのコロナ禍にさえ見舞われなかったら、2021年は、文字どおりの“リード・イヤー”となっていただろう。

しかし今、1980年代以降に国内で制作された数々のレコーディングをあらためて振り返ると、当時情熱を傾けて進められたリードの録音プロジェクトが、ある意味、際立ってユニークな企画だったことにすぐに気がつくことになるだろう。

それはまず、日本国内における体系的なリード作品の録音を先頭をきって手がけることになったのが、一般の商業レコード会社ではなく、東京・杉並区和田に本社がある(株)佼成出版社の音楽出版室だったことだ。

逆説的に言うなら、同社プロジェクトの発想は、いつも近々の採算のことばかり気にかけているような商業レコード会社では、とうてい実現不可能なものだった。

佼成出版社は、まず、1981年の初来日に際し、3月25日(水)と26日(木)の両日、普門館でリードとの初のセッションを行ない、前述した28日の第28回定期演奏会で収録したライヴやインタビュー、リハ風景を組み合わせた2枚組LP「A.リード&東京佼成ウィンドオーケストラ」(佼成出版社、KOR-8101~8102)を、同社のゲスト・コンダクター・シリーズの第1弾として、6月10日(水)にリリース。それがレコード各社が驚くような大成功を収めると、以降も、リードの来日機会をとらえてセッションを継続。世界的に見ても類例を見ない自作自演によるリードの作品コレクションを創り上げた。

そして、同社音楽出版室のホームページに示されているとおり、同社のCD全127タイトルは、21世紀の現在もiTunes Storeを通じてダウンロード購入可能となっている。

こういうものを真のアーカイヴスという。

今も手許に残る関係者向けの同社の録音企画書(平成1年10月30日付)には、こんな文言が見られる。

『….。リード作品は約100曲生まれており、オリジナル作品を、当社は初期からの作品を含めて31曲を発刊してきました。これからもリード氏の来日が可能な限りレコーディングを年1回春に行なっていく予定であり、彼の作品を集大成して、完璧なアルバムになるものにしたいものです。….』(原文ママ)

将来の完成形を見据えたある種の信念にも似たこのやる気まんまんの提案はどうだ!!

在京大手がインディーズ・レーベルの一つぐらいにしか捉えていなかった佼成出版社の先進性とモチベーションの高さをよく表している文章だ!!

筆者がリードと初めてタッグを組むことになった異色のCD「栄光への脱出」(佼成出版社、KOCD-3013、1990年)も、そんなリード・プロジェクトの中で制作された。

ことの発端は、1989年秋のことだった。ちょうどこの頃は、同年7月に行なわれた東京佼成ウインドオーケストラ初のヨーロッパ演奏旅行を終えた直後であり、ツアー中にロンドンで録音された「フランス組曲」(フレデリック・フェネル指揮、佼成出版社、KOCD-3101)と「ドラゴンの年」(エリック・バンクス指揮、佼成出版社、KOCD-3102)の2枚のCDが10月25日(水)に発売される直前だった。因みに、「ドラゴンの年」の方は、筆者が佼成出版社からプログラム・ノートの執筆を依頼された初のCDである。(参照:《第41話 「フランス組曲」と「ドラゴンの年」

そして、その日、たまたまビクターの打ち合わせで上京していた筆者は、用件を片付けた後、帰りの新幹線まで少し余裕があったので、夕刻の短時間、挨拶だけのつもりで佼成出版社をアポなし訪問した。

すると、筆者の顔を見るなり、ロンドン録音CDの担当でもあった柴田輝吉さんから、『今、来年3月のリードさんの録音でちょっと困ったことになっていてね。』と話が振られてきた。屈託のない笑顔を伴いながら…。(こういうときは、怖い!)

何かと聞けば、佼成出版社では例年どおり2枚のアルバムを作ることを考えていて、東京佼成ウインドオーケストラと録音会場の普門館の日定もその流れで押さえているが、リードから送られてきた提案をオケに提示すると、それは、後に1曲を加えてCD「ゴールデン・イーグル/金管と打楽器のための交響曲」(佼成出版社、KOCD-3012、1990年)になる、ちょうど1枚分にあたる分量のレパートリーだけだったので、『押さえている日程でもう1枚録れるよ。もったいない。』という反応が返ってきたそうだ。それを社に持ち帰ってすぐにリードに確認すると、“たまたま作品が揃ってないので、今回もう1枚録るのは不可能だ”という趣旨の返信があったのだという。

そこで、“どうしようか”と部内で話していたところへ、“飛んで火に入る~”といった感じで、突然筆者が目の前に現れたというシチュエーションだったらしい。シメシメと思われたのか、柴田さんは、『何かアイデアない?』と質問を投げてくる。

そして、この時は、まさか自身の発言がそのまま採用されることになるとは夢にも思っていない筆者は、瞬間的にこう切り返した。

『ところで、リードがアレンジした“グリーンスリーヴス”や“枯葉”を聴いたことある? “栄光への脱出”とか“アラビアのロレンス”とか“メリー・ポピンズ”とか、アレンジはいっぱいあるんですよ。シリアスなファンには叱られるかも知れないけど、ボクならそんなCDがあれば飛びついて聴きますよ。楽しいもんね。』とだけ口にしたところで、急いで同社を後にした。新幹線の時刻が刻々とせまっていたためだ。

柴田さんは、“ウルトラマン・シリーズ”でおなじみの円谷プロの出身。直感的にピンときたのか、筆者が口にする曲名をしきりにメモっていた。こちらもそれには気づいていたが、まさかそれを即行でリードに逆提案するとは….。若い頃ダンス・バンドを率いてアメリカ中を駆け巡っていたというリードもそれに呼応し、すでに絶版になっていた楽譜もアメリカでかき集めるという方向で、このセッションの実現がアッという間に決まってしまった。ただ、オリジナル出版社と権利関係の折衝はかなり大変だったらしい。だが、それもリードが率先してあたってくれ、最終的に彼はアルバムのサプ・タイトルを「シンフォニック・ポップス」と決めた!

因みに、メイン・タイトル「栄光への脱出」は、筆者のアイデアだ!

収録中、『大切なのは、ハートを込めることです。』と何度も口にしたリード。

セッション終了後に、『グリーンスリーヴス』だけは、リードの希望で同時発売のCD「ゴールデン・イーグル/金管と打楽器のための交響曲」に移されることになったが、それでも筆者はけっこう大満足!!

録音2ヵ月後の1990年5月13日(日)、日本万国博覧会記念公園に於ける「ブラス・エキスポ ’90」で撮影されたリードの写真が表紙中央にあしらわれた「バンドピープル」1990年8月号(八重洲出版)掲載の連載“名盤・珍盤・かわら版”Part 121にもそう書いたが、CD「栄光への脱出」は、こうして“棚からボタモチ”のような1枚として実現した!!

▲「バンドピープル」1990年8月号(八重洲出版)

▲▼ 録音企画書(1989年10月30日)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第165話 日本ワールド・レコード社の記憶

▲ソノシート – 「第38回選抜高校野球大会大会歌・行進曲」(毎日新聞社、非売品、1966年)

▲LP – 阪急少年音楽隊コンサートシリーズ第1集」(日本ワールド、W-312、1968年)

▲W-312 – A面レーベル

▲W-312 – B面レーベル

かつて、大阪に、在京大手とはまるで繋がりがない独立系のたいへんユニークなレコード会社が存在した。

その名は、「日本ワールド・レコード社」。

筆者は、かつて月刊誌「バンドピープル」1983年9月号(八重洲出版)に、連載“名盤・珍盤・かわら版”のPart 40として、「JWR訪問記 ─ 日本ワールド・レコード(大阪)─」という一文を寄稿したことがある。だが、時の流れは速い。今では、同社の名を知る人も本当に少なくなってしまった。

そこで今回は、その頃を思い出しながら、日本のウィンド・ミュージックの発展に少なからず寄与・貢献した同社の記憶を語っていきたいと思う。

日本ワールド・レコード社があったのは、戦前から関西を代表する高級住宅街のひとつといわれる大阪市阿倍野区帝塚山の一角。市内浪速区の「恵美須町」駅を起点とする路面電車、阪堺電気軌道の電停「東玉出」~「塚西」間の電車道から東方向に石畳の敷かれた細い坂道を登った先にあった。創業者は、靭 博正(うつぼ ひろまさ)さんで、門があり庭に高低さまざまな庭木が植わる氏の自宅の玄関左側の洋間が事務所兼編集室として使われ、右側の別室にマスターテープや在庫品が保管されていた。

社長の靭さんは、関西学院大学(関学)の出身で、同窓には、同じ年の生まれで、のちに兵庫県西宮市立今津中学校吹奏楽部の初代指導者として関西屈指のスクール・バンドに育て上げ、その後、阪急少年音楽隊の隊長、阪急百貨店吹奏楽団の常任指揮者として全国に名を轟かせた鈴木竹男さん(1923~2005)がいる。ともに音楽好きで鳴らしたが、出身校の私立甲陽中学校在学時に吹奏楽部で活動した鈴木さんは、関学に吹奏楽部が無かったため、グリークラブに入り、その傍ら、甲陽中OBバンドを結成。一方の靭さんは、関学の軽音楽部の創設メンバーとして活動。出発点のジャンルこそ違うが、それぞれの道で切磋琢磨していた。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)

卒業後、鈴木さんは、母校の甲陽中学の教員として吹奏楽部を再出発させ、1953年(昭和28年)に前述の今津中に赴任。靭さんは、大阪・梅田にあった進駐軍専用の北野劇場のジャズバンドにテナー・サクソフォン奏者として参加したが、そのピアニスト兼バンドマスターが、かの得津武史さん(1917~1982)だった。

人の縁とは面白いものだ。

得津さんは、大阪音楽学校(後の大阪音楽大学)を卒業後、1939年(昭和14年)に大阪市立南田辺尋常小学校の代用教員となり、ほどなく出征。満州では、上官の命令で速成の軍楽隊を作り、指揮者として活動。2度目の応召から復員した後は、南田辺小の教員とジャズバンドの二足の草鞋を履き、とはいいながら、実態はほとんど毎日バンドを率いて進駐軍キャンプをめぐって、演奏に明け暮れていた。進駐軍というのは、敗戦後、日本を統治したアメリカ軍を主体とする占領軍のことで、その仕事はギャラが良かったので、ひとり得津さんだけが例外ではなく、音楽で腕に覚えのあるものはみな、生きていくためにこぞって進駐軍の仕事をした。だが、その反面、得津さんが学校に行く日はどんどん減っていき、週に一日程度になってしまったので、当然校長との折り合いは悪く、やがて退職。その後、1952年(昭和27年)に、西宮市立夙川小学校の専任音楽教員となるのを機に、ジャズバンドを解散。1956年(昭和31年)に、前任者の鈴木さんに口説かれるかたちで、今津中学校吹奏楽部の二代目の指導者となった。(参照:《第160話 オール関西の先駆者たち》)

余談ながら、のちに大阪市音楽団(後のOsaka Shion Wind Orchestra)の団長となり、長年、関西学院大学応援団総部吹奏楽部の顧問をつとめた永野慶作さん(1928~2010)も、得津さんや靭さんらと同じフィールドで腕を競い合ったライバル・バンドのスター・トランペッターで、戦後すぐのこの時代を駆け抜けた人たちが、その後の関西の吹奏楽界の隆盛を支える中心になっていくのはとても興味深い。(参照:《第149話 市音60周年と朝比奈隆》)

得津さんのバンドが解散後、靭さんは、仲間に声を掛けて新たなバンドを作り、バンドマスターとして活動。参加メンバーからは、後に、東京に出て成功を収めた歌手やピアニスト、作曲家など、有名人を何人も輩出している。

事務所で古い話に興じるとき、靭さんは、懐かしそうにこう呟いた。

『みんな東京に行って成功しよってなぁー!』

その後、靭さんは、本業のジャズバンドと並行して、1963年(昭和38年)から録音やレコード制作の会社を立ち上げる準備を始め、翌64年にその業務をスタートさせる。これが日本ワールド・レコード社のルーツである。もっとも、当初は、知人や関係者を通じて依頼される社歌や校歌等の制作がメインで、たまに関西ローカルの歌手のインディーズもあったようだが、レコードよりもソノシートの制作が多く、収入もバンドだけが頼りという時代がしばらく続いたという。(参照:《第30話 ソノシートの頃》)

そのワールドの事務所で靭さんから頂いた辻井市太郎指揮、大阪市音楽団演奏のソノシート「第38回選抜高校野球大会大会歌・行進曲」(毎日新聞社、非売品、1966年)は、そんな最初期の1枚で、因みに同年の入場行進曲は、いずみ たく作曲『ともだち』を指揮者の辻井さんが編曲したものだった。(参照:《第142話 もうひとつの甲子園》)

吹奏楽レコードの制作も、ここまで話してきた人脈の中から自然発生的に始まったようで、最初に制作されたアルバムは、1968年(昭和43年)に通信販売でリリースされた30センチLP「阪急少年音楽隊コンサートシリーズ第1集」(日本ワールド、W-312)と今津中吹奏楽部の25センチLP「吹奏楽部の息子たちと一緒に」(日本ワールド、W-313)の2枚だった。(参照:《第164話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の余韻》)

他方、今もマニアの間でコレクター・アイテムとして評価が高い吹奏楽コンクールのライヴEPは、同一団体の課題曲と自由曲の演奏をレコード表裏のA面とB面に収めたもので、1967年(昭和42年)11月26日(日)、東京厚生年金会館で開催された“第15回全日本吹奏楽コンクール”のものから存在が確認されている。

あまり知られていないが、これらEPは、靭さんの方針で、会場で録音したオリジナル・テープがそのままマスターとしてプレス工場に送られており、音の鮮度の高さと臨場感が魅力だった。

1989年(平成元年)に事務所を大阪府池田市住吉に移し、靭さんの事業を引き継いだ村瀬正和さんにこのあたりの事情を訊ねると、『私が入社する前のことなのでよくわかりませんが、この当時のものは、レーベルに校章や社章がきちんと印刷されていますので、恐らくは演奏者の依頼を受けて始まったものだったと思います。』との証言を得た。

村瀬さんは、2007年(平成19年)に後進に道を譲り、その時の組織変更に伴い、同社の社名も「ワールドレコード株式会社」に変更された。筆者ともここで関係が完全に途切れたので、同社のその後の動向についてはまったくわからない。

そう言えば、筆者がロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーで悪戦苦闘した1988年より少し前、靭さんから、『この事業を引き継いでくれないか?』と打診されたことがあった。一方で村瀬さんたちの日頃の頑張りをよく知っていたので即答できなかったが、もしもこのオファーを受けていたら、その後の人生はまるで違ったものになっていただろう。

正しく人生の分岐点のひとつだった。

▲LP – 第18回全日本吹奏楽コンクール金賞シリーズ 第一集《中学・高校編》(日本ワールド、JWR-2001、1971年)

▲JWR-2001 – A面レーベル

▲JWR-2001 – B面レーベル

▲LP – 第18回全日本吹奏楽コンクール金賞シリーズ 第二集《大学・職場・一般編》(日本ワールド、JWR-2002、1971年)

▲JWR-2002 – A面レーベル

▲JWR-2002 – B面レーベル

▲「バンドピープル」1983年9月号(八重洲出版)

▲同上66頁、“名盤・珍盤・かわら版”Part 40「JWR訪問記」(出版社の許諾により掲載)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第164話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の余韻

▲25cm LP – 吹奏楽部の息子たちと一緒に(日本ワールド、W-313、1968年、齋藤庸介氏所蔵)

▲W-313 A面レーベル(褪色アリ)

▲W-313 B面レーベル

▲W-313、インレーカード

2022年(令和4年)の寅年、新年早々の1月4日(火)にアップロードした《第161話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」への旅》への反響は、ある程度予期していたとはいえ、その予想をはるかに超えるものだった。

それだけ、かつて兵庫県西宮市立今津中学校吹奏楽部の名を全国に轟かせた伝説的指導者、得津武史という人物のネーム・バリューが大きかったということだろう。

アップ直後の第一波は、ホルン奏者の下田太郎さんからもたらされたつぎのメールだった。下田さんとは、《第159話 ヴァンデルロースト「いにしえの時から」世界初演》でもお話ししたとおり、都合の合った各地で“夜のミーティング”を絶賛開催する間柄だ。

『先月18日、私は大阪に居りました(笑)。フェスティバルホールでの公演を20:30に終えて、緊急事態宣言中に長く休業を余儀なくされていた、JR甲子園口駅近くの焼き鳥屋さんでビールを頂いていました。こちらのお店の店主さんが、得津先生時代の今津中のOBで、まさに得津先生のお話で盛り上がっていたので、偶然に驚きました…..。』

下田さんの出身母校の福岡工業大学附属高校には、今津中出身者が何人も進学しており、附属高時代の先輩後輩つながりの縁りもあって、氏と今津中OBとの間には深い交流がある。筆者も、彼らの愉快な宴にお誘いを受けたことがあった。

メールにある“先月18日”とは、かつて「バンドジャーナル」誌(管楽研究会編、音楽之友社)に連載された得津さんのエッセイ「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の全貌を確かめるべく急遽上京。上野の東京文化会館4階の音楽資料室で、同誌の調査に没頭していた年末の12月18日(土)、まさにその日で、下田さんはその偶然の一致に驚いたという訳だ。

下田さんのこのメールに続き、この日は、新年の挨拶も兼ね、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんや関西国際大学の伊藤 透さん、東京佼成ウインドオーケストラのマネージャーの遠藤 敏さん、同じく元トロンボーン奏者の萩谷克己さん、名古屋芸術大学の竹内雅一さん、大阪音楽大学の木村寛仁さんなどからも、つぎつぎとメールや電話が入り、中には質問も含まれていたので、返信などでかなりバタバタした。

ただ、それらを読み返す内、質問を投げてくる人の文面に、得津さんのエッセイを今すぐ読みたいという願望が込められているのに気がついた。

実は、そんなこともあろうかと、《第161話》には、「国立国会図書館」や「東京文化会館音楽資料室」、「図書館データに蔵書検索」などのキーワードを盛り込んでおり、筆者が大阪から新幹線で東京に出向かないといけなかった事情などもお話ししてあったので、PCなどでそれらをたどって普通に検索していけば図書館情報にたどりつくのは比較的容易なはずなんだが、何故かみなさん僅かな時間を惜しむかのように質問を投げてくる。

『どこで読めますか?』と。

今や誰もがネット検索が使える時代なのに、である。

とても不思議だ。

という訳で、今回は、少しばかり実例もまじえながら、筆者の基本的な調査の進め方についてお話ししてみたいと思う。

まず、古い文献資料を当たるには、その所有者を見つけることに始まる。運よく身近に所有する個人がいればそれで解決するが、そうでない場合、全国の図書館が頼りとなる。その内、国内最大の蔵書数を誇るのが、東京の国立国会図書館だ。とはいえ、同館にも所蔵しない書籍も当然あるので、図書館同士の蔵書情報などを交換・検索するためにデータベースが存在し、その活用がとても有益である。

以上が、アプローチまでの基礎知識となる。

ここからは、件の「バンドジャーナル」誌を例に話を進めたい。

まず、グーグルに“国立国会図書館 バンドジャーナル 蔵書”と打ち込んで普通に検索してみる。すると、同館には創刊号(1959年10月号)からしばらくの間のバンドジャーナルの所蔵がなく、最も古い蔵書が第3巻12号(1961年12月号)と出てくるので、残念ながら所蔵のない号もあることが判明する。ちょっとガッカリするが、雑誌ではよくある話だ。また、12巻12号(1970年12月号)までの編者が“管楽研究会”だと表示されているのも興味深い。(参照:《第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》》

ついで、「国立国会図書館」ホームページのWebサービス「国立国会図書館サーチ」の検索窓に“バンドジャーナル”と入れ、検索結果の項目をスクロールしながら“バンドジャーナル”の項を見つける。その際、1970年までの初期の号を見たい場合は、その中から“管楽研究会”と表示されているページを選択し、さらに右側に表示される“見る・借りる”の項目から“CiNii Booksで探す”を選択。すると、全国の大学図書館などで蔵書を持つ図書館が表示される。CiNii(サイニ)とは、国立情報学研究所が提供するデータペースのことだ。

ただ、ここで留意したいのは、このシステムの蔵書表示が、創刊の1959年を起点(第1巻)とする“巻数”とカッコ内に表示される“号数”の組み合わせで表示されていることだ。

例えば、4(10-12)という表示があれば、それは創刊4年目の1962年(第4巻)の10月号~12月号を所蔵するということを意味している。

これには慣れるまで少し戸惑うことになるかも知れないが、このルールさえ理解してしまえば、あとは簡単。目的の号を持つ図書館を見つけてコンタクトすれば、目的が達成されるというわけだ。

因みに、《第161話》で示した「吹奏楽部の息子たちといっしょに」掲載号を当たっていくと、思っている以上に簡単に、探している号がすべて所蔵されている以下の6館を見つけだすことができる。

国立国会図書館
東京文化会館音楽資料館
愛知県立芸術大学 芸術情報センター図書館
大分大学 学術情報拠点(図書館)
東京藝術大学 附属図書館
明治学院大学図書館付属 日本近代音楽館

他方、在阪図書館においては、エッセイが掲載されている可能性のある号は、残念ながら、大阪芸術大学図書館にわずか1冊が所蔵されるだけだと判明。それが、筆者をして新幹線で東京に向かわせる直接の引き金となった。

しかしながら、新幹線運賃を払った成果は上々!!

アップ翌日にも、東京のフルート奏者、岡本 謙さんから『こちらで持っていても、宝の持ち腐れになってしまいます。』とメールが届き、その結果、1966~1968年のバンドジャーナル7冊の贈呈を受けたり、Osaka Shion Wind Orchestra事務局の齋藤庸介さんが個人所有する、今津中初の25センチLP「吹奏楽部の息子たちと一緒に」(日本ワールド、W-313、1968年)を見せてもらったり、なおも余韻はつづいた。

動けば必ず何かが起きる!!

レッツ・トライだ!!

▲EPレーベル – 第16回全日本吹奏楽コンクール優勝(記念)(日本ワールド、W-347)A面

▲EPレーベル – 第16回全日本吹奏楽コンクール優勝(記念)(日本ワールド、W-347)B面

▲EPレーベル – 第17回全日本吹奏楽コンクール優勝記念(日本ワールド、WA-1087)A面

▲EPレーベル – 第17回全日本吹奏楽コンクール優勝記念(日本ワールド、WA-1087)B面

▲EPレーベル – 今津中学校吹奏楽部 華麗なる招待演奏 得津先生ハリキル(日本ワールド、JWR-4000)A面

▲EPレーベル – 今津中学校吹奏楽部 華麗なる招待演奏 得津先生ハリキル(日本ワールド、JWR-4000)B面

▲EPレーベル – 第20回全日本吹奏楽コンクール(金賞受賞)(日本ワールド、W-514)A面

▲EPレーベル – 第20回全日本吹奏楽コンクール(金賞受賞)(日本ワールド、W-514)B面

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第163話 汐澤安彦、Shion定期を振る

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会(2022年1月22日、ザ・シンフォニーホール)

▲▼Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会(同、楽団提供)

『大阪へ、ようこそ!』

『なかなかご縁がありませんでしたので…。』

2022年(令和4年)1月22日(土)、大阪のザ・シンフォニーホールで開催された「Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会」の終演後、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんとふたりで、当日の指揮者、汐澤安彦さんの楽屋を表敬訪問したとき、真っ先に交わした挨拶だ。

筆者は、この34年前の1988年4月16日(土)、東京の杉並区和田にあった普門館で開催したロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)と東京佼成ウインドオーケストラによる《日英交歓チャリティーコンサート》の主催者で、そのときの東京佼成単独ステージの指揮者が汐澤さんだった。加えて、それ以降も、解説者として東芝EMIの録音セッションなどでご一緒する機会があった。《参照:第10話“ドラゴン”がやってくる!

一方の溝邉さんも、汐澤さんを学生吹奏楽連盟のコンサートや講習会に客演指揮者や講師として招いていた。

最初の挨拶を交わした後、すぐ旧知のふたりが久しぶりに訪ねてきたことに気づいた汐澤さんは、終始表情もにこやかで会話もはずみ、例えば先述の《日英交歓チャリティーコンサート》に話題を振ったら、『あのときは英語がわからなくてね。いろいろ助けてもらいました。』とすぐ返ってきたし、東芝EMIのセッション後、ご自宅まで車でお送りする車中、面白い話をいろいろと聞かせてもらい、そのことに話が及ぶと、懐かしそうに『あれは、新座(のセッション)でしたね。』と20年も30年も以前のことについても、それはそれは鮮明に覚えてらっしゃる。

傍らでふたりのやりとりを耳を澄ませて聞いていた溝邉さんも、『昔のこと、本当によう(よく)覚えてはりますねー。』と舌を巻くようなシーンもあった。

さて、そんな終演後の盛り上がりはさておき、《初共演、巨匠、汐澤安彦》というコピーがポスターやチラシ上に踊ったこの日の公演は、大阪市直営だった大阪市音楽団当時を含め、汐澤さんがShionを振った初のコンサートとなった。

日本最長の歴史をもつプロ・ウィンドオーケストラとウィンド・ミュージックのドライビング・フォースとして数多くのレコードやCDをソニーや東芝、コロムビアからリリースしたマエストロとの共演が過去に一度もなかったというのは、日本の吹奏楽史上の七不思議の一つのようなもので、当然ながら、筆者が慣れ親しんだ大阪のホールで汐澤さんの音楽を愉しんだのもこの日が初めてだった。

後から振り返ると、このコンサートのプロジェクトは、Shion理事長でバス・トロンボーン奏者の石井徹哉さんとの恒例の“夜のミーティング”で、筆者が何気なく『汐澤先生をお招きしたら?』と口にしたのが事の発端だったように思う。

その夜、“汐澤先生”という単語に反応した石井さんは、『学生のときにレッスンを受けたことがありまして,,,。』と言って、早速ウィンドのレジェンドに関心を寄せた。その後、連絡をとったら、すぐ返答があったことから、今度の初顔合わせが実現したのだという。

もっとも、当初は、2020年(令和2年)6月7日(日)の第131回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)として企画されたものの、折からのコロナ禍により一旦中止となっていた。(参照:《第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新》)

その結果、日をあらためて第140回定期として開催されたこの日のプログラムは、第131回定期に予定されていた曲目をそっくりそのまま移したもので、以下のように、すべて懐かしい管弦楽曲からの吹奏楽編曲で構成されていた。

・キャンディード序曲
(レナード・バーンスタイン)クレア・グランドマン編

・ハンガリー狂詩曲第2番
(フランツ・リスト)クラーク・マカリスター編 / アルフレッド・リード校訂

・歌劇「ローエングリン」から “エルザの大聖堂への行列”
(リヒャルト・ワーグナー)ルシアン・カイエ編

・歌劇「イーゴリ公」から “韃靼人の娘の踊り”“韃靼人の踊り
(アレクサンドル・ボロディン)汐澤安彦編

・祝典序曲 作品96
(ドミトリ・ショスタコーヴィチ)ドナルド・ハンスバーガー編

・狂詩曲「スペイン」
(エマニュエル・シャブリエ)マーク・ハインズリー編

・序曲「1812年」 作品49
(ピョートル・チャイコフスキー)メイヒュー・L・レイク編

以上は、曲順も含めてすべて汐澤さんの提案で組まれ、長年にわたってレパートリーとして練りこまれ、愛演されてきたものばかりだった。

そして、汐澤人気も手伝ったのだろう。楽団直接販売分のチケットは見事に完売。会場には久しぶりに顔を合わせたような平均年齢の高いファンも多く見られ、あちらこちらに挨拶の輪ができる華やいだムードが漂っていた。

そして迎えた本番。しっかりとした足取りでステージに登場した汐澤さんの音楽は、メリハリが効き、ひじょうに立体的で、何よりも大音量になっても決してうるさくなく、耳あたりのいい美しいサウンドが響いていた。しかも全曲を暗譜で指揮。オケ原曲の吹奏楽演奏を聴いているはずなのに、随所でソロ・ワークが浮き出し、時折り繰り出すホルンやトロンボーンの咆哮もひじょうに効果的で、聴衆はいつの間にか汐澤ワールドに引きこまれていき、会場を大いに湧かせることになった。

さすがはレジェンドだ!ステージで見せる笑顔もすばらしい!!

『汐澤さん、元気ですね!』

隣りの席で聴いていた溝邉さんも正直驚いたというその指揮ぶりは、84歳という年齢をまるで感じさせない生き生きとしたパフォーマンスだった。

すばらしい音楽会だった!

そして、万雷の拍手に応えて、

・主よ、人の望みの喜びよ
(ヨハン・セバスティアン・バッハ)アルフレッド・リード編 / 汐澤安彦監修

・ティコティコ
(ゼキーニャ・ジ・アブレウ)岩井直溥編

の2曲がアンコールとして演奏され、コンサートは大団円!

もっと聴いていたい!

楽屋を退室する際、『いいバンドです!』というマエストロに大きく頷いた筆者は、思わず『また、大阪に来てください!』と叫んでいた!!

▲▼プログラム – Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会(2022年1月22日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第162話 Shion Times(シオンタイムズ)の系譜

▲「Shion Times シオンタイムズ」第58号(2022年1月)

▲My Favorite Classic Vol.01(同、第50号、2020年7月)

▲My Favorite Classic Vol.02(同、第51号、2020年9月)

▲My Favorite Classic Vol.03(同、第52号、2020年12月)

いつも、Osaka Shion Wind Orchestraの演奏会に出かけるとき、筆者のささやかな愉しみのひとつに、プログラムなどと共に入場時に配られる楽団発の広報紙「Shion Times シオンタイムズ」がある。

同紙の創刊号は、2014年(平成26年)4月1日(火)の発行。つまり、大阪市直営から民営化された当日の発行だ。そして、当時の楽団名が市営時代から引き継がれた“大阪市音楽団”のままだったから、同紙も「市音タイムズ」という名称で船出した。

当初は月刊で、楽団名が“Osaka Shion Wind Orchestra”に変更された2015年(平成27年)4月1日(水)の第13号からは「Shionタイムズ」と名を改めた。

また、2016年(平成28年)2月1日(月)の第23号以降は、合併号や季刊号もあったが、基本的に隔月刊のペースで発行され、2021年(令和3年)4月発行の第50号を機に表題を英語・日本語併記の「Shion Times シオンタイムズ」に改めた。

内容は、近く行なわれる演奏会の告知はもとより、音楽監督の宮川彬良さん、芸術顧問の秋山和慶さん、楽団長の石井徹哉さんのファンに向けてのメッセージや楽団員のお気に入り曲、各種特典など、その時その時にShionが伝えたい情報が盛りだくさん!!

近年では、ホルン奏者で事務局長の長谷行康さんの「事務局長のお仕事」(第51号)、ステージマネージャーの西上育郎さんの「ステージマネージャーのお仕事」(第52号)、チーフライブラリアンの津村芳伯さんの「ライブラリアンのお仕事」(第53号)、コンサートマスターの古賀喜比古さんの「コンサートマスターのお仕事」(第54号)という活動を支える人達が“自らの役割”をアツく語った“お仕事”シリーズや打楽器奏者でインスペクターの高鍋 歩さんが縁りが深い作曲家や作品について自由に語った「今月の作曲家(Our Favorite Composers)」(第55号~)のような特色あるコラムがファンの関心を呼んでいる。

因みに、「今月の作曲家」では、第55号でフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の、第56号でヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の、第57号でヨハン・デメイ(Johan de Meij)の、第58号でジェームズ・バーンズ(James Barnes)の各5作品について、プレイヤー目線の紹介がなされている。

このように、ファンと楽団とを結ぶ貴重なツールとなっている「Shion Times シオンタイムズ」だが、実は同紙には前史があり、その始まりは市営時代の1977年(昭和52年)2月5日(土)に“大阪市音楽団友の会”が会報として発行したタブロイド紙「友の会だより」をルーツとする。

発行元の大阪市音楽団友の会は、市民の有志に楽団が協力するかたちで立ち上げられた民間組織で、1973年(昭和48年)7月6日(金)の“設立準備会”を含め4回の発起人会をへて、翌1974年4月21日(日)の“設立総会”をもって発足した。また、初代会長には、発起人総意で、1947年(昭和22年)から1972年(昭和47年)の定年まで市音団長をつとめた辻井市太郎(1910~1986)さんが推薦され、総会の了承をもって会長に就任した。《参照:第120話 交響吹奏楽団を夢みる

その活動ぶりについては、大阪圏外のファンには馴染みが薄いかも知れないが、あのアッという間に売り切れた“大阪市音楽団創立70周年 – 大阪市音楽団友の会20周年”記念の完全限定盤CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1974年)をはじめ、筆者が携わった大阪市の予算が見込めない何枚かの市音自主制作CDで、資金提供や販売で力添えいただいた。正しく“縁の下の力持ち”的な存在で、いくら感謝してもしきれない人達だ。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

さて、そんな友の会の会報だが、第1号の後しばらくは休刊状態がつづき、補完的に手書きコピー印刷の「大阪市音楽団友の会ニュース“おんがくだん”」が隔月刊で発行されていた。

一方、印刷による“会報第2号”が発行されたのは、第1号から2年後の1979年(昭和54年)2月5日(月)で、同時に表題も“友の会ニュース”でお馴染みとなっていた「おんがくだん」に改称された。

その後、会報「おんがくだん」は、しばらく不定期で発行されたが、1980年(昭和50年)11月1日(土)の第4号からは隔月刊の定期発行となり、友の会10周年の1983年(昭和53年)1月1日(土)の第18号から、表題を「市音タイムズ」と改称。友の会による発行は、民営化寸前の2014年(平成26年)3月1日(土)の第198号まで続いている。

というわけで、現在の「Shion Times シオンタイムズ」は、大阪の地に育まれた市音の豊かな吹奏楽文化の流れを途切れさすことなく民営化後のShionに引き継がれたものなのである。

確かに、つぎつぎアップテートできるネット上のホーム頁にも意味がある。しかし、紙の上に印刷された当時の空気を伝える情報のなんと生き生きとしていることか。

一方で、それは、Shionが確実にその一端を担ってきた日本の吹奏楽史の大きな一部分を成している。

それを簡単に朽ち果てさせてはいけない。

“Shion 100周年”に向け、同紙の再収集と整理にまい進する中、あらためて感じさせられた紙情報の重みの凄さだった!!

▲「友の会だより」 第1号(大阪市音楽団友の会、1977年5月2日)

▲「おんがくだん」第10号(大阪市音楽団友の会、1981年11月1日)

▲「市音タイムズ」創刊号(大阪市音楽団、2014年4月1日)

▲「Shion タイムズ」13号(Osaka Shion Wind Orchestra、2015年4月1日)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第161話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」への旅

▲東京文化会館ユニバーサルガイド

▲▼図解!東京文化会館・音楽資料室

2021年(令和3年)の年の瀬、もうあと少しで寅年の新しい年を迎えようとしていた12月18日(土)、筆者は、JR「新大阪」駅10時09分発、東海道新幹線“のぞみ8号”に飛び乗り、一路東京を目指した。どうしても年内に解決しておきたいテーマが出てきたからだ。

その命題とは、前話の《第160話 オール関西の先駆者たち》の中でもお話しした、かつて兵庫県西宮市立今津中学校教諭として同校吹奏楽部の指導にあたり、全国的にその名を知られた得津武史さん(1917~1982)が月刊誌「バンドジャーナル」(管楽研究会編集、音楽之友社)に連載した自伝エッセイ「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の全貌をリサーチすることだった。

掲載当時、得津さんが本音で綴ったこのエッセイは、吹奏楽をこよなく愛す人々がこれまた吹奏楽をこよなく愛す人に向けて執筆、責任編集した本作りに特化していた“管楽研究会編集”当時の「バンドジャーナル」の中でもかなり異色の連載で、全国的に大きく話題を呼ぶ読み物となった。(参照:第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》)

筆者も、若い頃に何回かバックナンバーで読んだ記憶があり、2006年(平成18年)に刊行された西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう)にもリライトされて引用されていることは知っていたが、実のところ、オリジナルの連載がいつ始まって、いつ終わったものだったかについては、まるで情報を持ち合わせなかった。“昔、読んだことあるなぁ”という程度の記憶である。

ところが、2021年の7月からOsaka Shion Wind Orchestraの事務局に加わった齋藤庸介さんから個人所有の1966年(昭和41年)1月号を見せられ、あらためて得津さんの懐かしい文章に接した瞬間、筆者の中で何かがスパークした!

書いた人の人となりが伝わるオリジナルを埋もれさせてはならない!

殊に、伝説の多い個性の塊りのような人物については!

だが、瞬間的にそうは思ったものの、実際に半世紀以前の雑誌情報を見つけ出すのはなかなか至難のワザだった!

ただ、齋藤さん手持ちの1966年1月号に掲載されていたのが“第20篇”と“第21篇”だったことから逆算すると、連載が1965年のいずれかの時点から始まったことだけは、ほぼ間違いなかった。

その一方、その後どこまで続いたのかについては、現物を当たるしか方法が見あたらなかった。ただ、幸いなことに、手許に1967年1月号、3~7月号、10~12月号の現物もしくはコピーがあり、それらには「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の頁がまったくなかったので、いかにも短絡的だが、1966年12月号あたりまでチェックできれば、ほぼ全貌がつかめるのではないかと予想できた。

そこで、いつものように、図書館データに蔵書検索を掛ける。

しかし、この当時の雑誌は蔵書がまるでなかったり、蔵書していても欠号が多いものだ。加えて、コロナ禍で一般に蔵書を開放していないところもあったりで、専門大学を含め、希望がかなう図書館は地元では見つからなかった。

こうなると東京に出張るしか手段がない。もっとも頼りになるのは、国立国会図書館だが、入館は時間帯で予約抽選制となっていたので、筆者のように田舎から出張るものには、不便なことこの上ない。検索のエリアを広げると、以前「月刊吹奏楽研究」(月刊吹奏楽研究社)の閲覧で利用したことがある東京文化会館の音楽資料室に、閲覧希望号が蔵書されていることがわかった。コロナ禍のため、利用時間に制限(換気のための途中閉館など)があったが、泊りがけで2日もあれば、希望資料の閲覧と必要箇所のメモ出しや複写が可能だと思えた。

そこで、1年3ヵ月ぶりの上京をいきなり決定。筆者の乗る“のぞみ”は、前夜からの関ヶ原付近の大雪による遅れも「名古屋」駅以東の爆走でかなり取り戻したようで、およそ11分遅れで「東京」駅に到着。「上野」駅界隈で昼食を済ませ、音楽資料室に入った。

資料室では、半年分ごとに合本として綴じられている1965年1月号から1966年12月号までの24冊を1頁ごとめくりながらチェックし、「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の頁を探し出し、同時に休載号の有無もチェックした。

その結果、掲載号とエッセイ中の各小題は以下のとおりだった。

【1965年1~6月号】《掲載なし》

【1965年7月号】吹奏楽部の息子達と一緒に
(掲載初回)

この道を行く
その瞬間
文化さい果ての地
死んでもラッパは離しません

【1965年8月号】吹奏楽部の息子たちと一緒に
(目次頁の表記:吹奏楽部の息子達といっしょに)

(5)吹奏楽部に入るならヘルメットをかぶれ!
(6)物は使いよう
(7)アサター・ヒルター・ナイター

【1965年9月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(8)三六二日
(9)お弟子制度
(10)精神注入棒
(11)あいつ、コロシタル!

【1965年10月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(12)合言葉
(13)予算のとり方
(14)新兵器登場
(15)ジャリ・ゴミ・チリ

【1965年11月号】《掲載なし》

【1965年12月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(17)阪神キチガイ
(18)アルバイト
(19)夏の演奏旅行

【1966年1月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(20)今年もまた
(21)わが恩師

【1966年2月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(22)わが交友録

【1966年3月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(23)わが参謀録
(24)オカヤン

【1966年4月号】《掲載なし》

【1966年5月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(25)ホントに不思議な話
(26)おヨメさんさがし
(27)おもろいヤツら

【1966年6月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(28)送別会の演説のこと
(29)卒業する息子の中から

【1966年7月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(30)得津比紗子先生方 たけしさま
(31)校長先生のこと

【1966年8月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

ソーセージのこと
市会議員立候補のこと
Aのこと
マニキュアのタコハチ
ワルターズ氏との会話

【1966年9月号】《掲載なし》

【1966年10月号】《掲載なし》

【1966年11月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

○吹奏楽と野球のこと
○息子たちのアタマ
○わが教育長の巻
○演奏旅行の良いところ
○大マネージャーの松ちゃん

【1966年12月号】《掲載なし》

予定どおり、この日は、以上24冊の内容を確認。タイトルに微妙な使用文字の違いやナンバリングのズレ、《休載》もあったが、ついに2年間に13回掲載された人気エッセイを読むことができた。

また、事前チェックで、この後につづく1967年1月号、3~7月号、10~12月号の9冊には掲載がないことは確認済みだったので、普通に考えるなら、連載もここで終わった可能性があると思われたので、この日はここで調査を一旦終了。池袋のホテルにチェックインした。

翌19日(日)の朝食後、メモ類を点検して、複写モレの有無や追加必要事項を確認するため、再び上野の音楽資料室に参上した。午前中の冷静なアタマでもう一度現物と付き合わせるためである。

しかし、上野に向かう山手線の車中、ふとある不安が頭をよぎった!

ひょっとして、大阪で確認できなかった1967年2月号、8月号、9月号に何かあるかも知れないという心配性特有の直感である。

というのも、《休載》中の1966年10月号に、米盗勉(べいとうべん)さんの「今津中にもの申す」、同12月号にも、鈴木竹男さん(1923~2005)の「得津武史先生の西宮市民文化賞受賞」というエッセイつながりの記事を見つけたからだ。言うまでも無く、当時、阪急少年音楽隊や阪急百貨店吹奏楽団の指揮者として活躍中の鈴木さんは、かつて今津中学校吹奏楽部を創り、関西有数の中学校バンドに育てたあとを得津さんに委ねた前任の指導者であり、実際、記事中にも得津さんの秘話がいくつか語られ、とても面白かった。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)

そして、結果からいうと、筆者の悪い予感は見事的中した。新たに資料請求した上記3冊の内、1967年2月号にも、もう一本、「吹奏楽部の息子たちといっしょに」が見つかったのだ。

そこで当然、前記リストには、以下を加えねばならない。

【1967年1月号】《掲載なし》

【1967年2月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに
(掲載最終回)

おめでとう、豊島第十中学校
涙・いろいろ
拝啓 審査員殿
ありがとう、東北のみなさん

【1967年3~12月号】《掲載なし》

以上が、「吹奏楽部の息子たちといっしょに」のすべてである。

2021年の大晦日、わが家恒例の清荒神参りの道中、かつて梶本りん子マーチングスタジオに所属した弟と得津さんの話題でひとしきり盛り上がった。

聞けば、あるとき電話番をしていると、“梶りんさん”から『得津先生から電話がかかってくるから、くれぐれも粗相のないように。』と言われたことがあったそうだ。しばらくして電話がかかってくると、電話の相手は名乗ることなく、『ワシや!』とだけ言い、いきなり用向きを話したという。弟は、聞いていたからすぐ誰かわかったけれど、吹奏楽の指導者の中に『ワシや!』で通じる人がいると知って面喰ってしまったんだそうだ。

今、この『ワシや!』を覚えている人がどれほどいるだろうか。エッセイに触れた結果、遠い日々を思い出してしまった年末の午後だった。

▲LP – 栄光のトクツ・サウンド(日本ワールド、W-80005)

W-80005 – A面レーベル

▲W-80005 – B面レーベル

▲LP – 栄光のトクツ・サウンド 2(日本ワールド、W-80010)

▲W-80010 – A面レーベル

▲W-80010 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第160話 オール関西の先駆者たち

▲「バンドジャーナル」1966年1月号(管楽研究会編集、音楽之友社、齋藤庸介氏所蔵)

▲「バンドジャーナル」1964年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社、同所蔵)

『全日本吹奏楽連盟理事長で、現在、大阪フィルハーモニー常任指揮者である朝比奈隆氏は、私にとってかけがえのない大親分である。昭和十二、三年、音楽学校以来、ずっとお世話になっている(無論公私ともに)。毎年、元旦には、この大親分のところへ、あいさつに行くのが常であるが、今だに必ず、学生時代のエンマ帳を出して来て、楽式論は四〇点だったとか、音楽美学はなってなかったとか私の頭の弱かったことを強調してクダサル。,,,,。』(原文ママ)

兵庫県西宮市立今津中学校教諭として同校吹奏楽部の指揮にあたり、日本のアマチュア吹奏楽をリードした指導者のひとりだった得津武史さん(1917~1982)が、1965~66年(昭和40~41年)にかけて、月刊誌「バンドジャーナル」(管楽研究会編集、音楽之友社)に執筆した「吹奏楽部の息子たちといっしょに」という自伝エッセイで、1966年1月号の71頁に掲載された第21篇“わが恩師”の冒頭部の引用だ。

21世紀になってから刊行された西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう、2006年)にも、小題を“わが恩師、わが親分!”と変え、一部リライトされて引用されているので、そちらで読んだ方も多いだろう。

この一篇では、まず、得津さんが、朝比奈 隆さん(1908~2001)が大阪音楽学校(現大阪音楽大学)で教鞭をとった頃の教え子であることが語られ、ついで、その偉大なる恩師をもったがために、毎年恒例の年賀の挨拶の際、昔の成績の話を持ち出されて、冷や汗をかかされたということがユーモアたっぷりに綴られている。因みに、得津さんはピアノ科卒である。

文章は、その後こう続く。

『朝比奈先生が大親分なら、大阪市音楽団々長の辻井市太郎氏は、親分と言える。なにしろ彼は私ども夫婦の仲人さんである。,,,,。』(原文ママ)

第126話 ベルリオーズ「葬送と勝利の交響曲」日本初演》でもお話ししたとおり、ともに明治生まれの朝比奈さんと辻井さん(1910~1986)は、昭和のはじめ、市音がまだ“大阪市音楽隊”と称した頃からの知己で、年齢が近く何かとウマが合っただけでなく、管弦楽、吹奏楽の違いこそあれど、戦後、大阪を代表するオーケストラ(関西交響楽団、のちの大阪フィルハーモニー交響楽団)とバンド(大阪市音楽団)の指揮者となった。

そこへ、朝比奈さんの教え子である得津さんが絡んでくるのは、ごくごく自然の成り行きだろう。

しかしながら、得津さんは、エッセイでこうも語っている。

それは、得津夫妻の挙式当日の出来事だった。会場の係りの女性には、やや強面の得津さんより辻井さんの方が若く映ったのか、本来新郎がつけるはずの花をなぜか隣にいた仲人の辻井さんの胸につけてしまうハプニングが発生。その後、式は両者その姿のままで進行し、辻井さんは気づいていたが、得津さんがそれを知らされたのは、一年近くたってからだったという。それについての恨み節がひとしきり語られているのだ。

“いやナァ、ボクの方が若く見えたらしい。なにしろ頭の毛はボクの方がフサフサしてたもんな。その時は気の毒でよう言わなんだ。アッハッハッ!”(原文ママ)と言う辻井さんに対し、得津さんは、『何がアッハッハッだ。毛のうすいのは気苦労が多いからだ。ホットケ!』(同)と、誰がいつ読むかわからない雑誌のエッセイの中で返している。

実際、21世紀の今、筆者が読んでいるし….。

とはいうものの、実のところ、辻井さんと得津さんは、西宮市内の同じアパートの上の階と下の階に住まいしていた時期があるほど親しい間柄だった。そして、そのアパートには、なんと驚いたことに両家直通のインターホンがあり、行くのが面倒くさいときは、それで用を足していたという。

最近、あるところで、近畿大学吹奏楽部の元監督で全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんとこのことが話題となった。

聞けば、溝邉さんは、実際にそのアパートに行ったことがあるそうだ。

『国道171号線から少し入ったところで、隣りを阪急電車の今津線が走ってました。』と溝邉さんは当時を振り返る。

そこで、いつもの癖で“どちらが上の階でした?”と訊ねると、『それは覚えてません。ただ、そのときは辻井さんに用事があって行ったときで、階段を上ったことだけは覚えています。』と返って来た。

得津さんは、エッセイで、『上がったり、下ったり、しんどいから、窓から窓へナワバシゴでもかけようかと考えているが、…。』(原文ママ)と冗談まじりで書いているが、残念ながら、筆者のどうでもいいこの疑問に答えてくれる人はいない。

だが、その一方、同じこの文には、辻井さんが良き相談相手であり、いろいろと助言を受けていたとも書かれ、得津さんは、『そのことを思えば、花ムコを間違えられたことはガマンしよう。』(原文ママ)とエッセイを結んでいる。

道理で、市音が初演したり録音した曲がいつの間にか今津中学のレパートリーに化けているようなことがよく起こった。

そう言えば、ふたりはまた、よく連れ立って呑みにでかけたそうだが、そんなとき、お店の女性陣には辻井さんばかりがもてたと、得津さんは、よくこぼしていた。これもいかにもという話だ。

しかし、ふたりの互いに包み隠すことのない直球バトルは、関西に暮らすものにとっては、何度読み返してもある種の“爽快感”と“親近感”を感じさせるもので、プロ、アマの垣根を超え、何かあると、まるで“村祭り”かなんかのように熱を帯びて集まってくる関西吹奏楽界特有の人間関係と風通しの良さが伝わってくる。

「バンドジャーナル」1964年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社)の58~59頁の「吹奏楽・東西南北」には、阪急百貨店吹奏楽団の鈴木竹男さん(1923~2005)が書いたあるリポートが載っている。

それは、関西のアマチュア吹奏楽をますます発展させ、指導技術の研究のほか、指導者相互の親睦をはかるため、1964年(昭和39年)4月12日(日)に創立総会が開かれた「関西吹奏楽研究会」について書かれたものだ。リポートでは、同研究会発足当日の会員数は71名。以下のような面々が役員に名を連ねていたと書かれている。

【会長】朝比奈 隆

【副会長】辻井市太郎

【運営委員(50音順)】有永正人(明石高校)、大野泰司(明星高校)、河野 肇(関西学院大学)、呉 幸五郎(明石高校OB)、山藤 功(菫中学校)、鈴木竹男(阪急百貨店)、得津武史(今津中学校)、中島嘉治(内出中学校)、西岡和彦(水口中学校)、福永和司(堅田中学校)、松平正守(呉服小学校)、村上辰雄(洛南中学校)、矢野 清(天理高校)、山崎 敏(東山高校)、鷲尾 武(関西大学)

正しく、当時の“オール関西”という顔ぶれだ。

1937年(昭和12年)に全関西吹奏楽団連盟が誕生。戦後、1946年(昭和21年)に再建がなった“オール関西”の活動は、その時代その時代の先人たちの知恵とエネルギーを結集して行なわれてきた。《第89話 朝比奈隆氏を送る全関西音楽祭》でお話しした1956年(昭和31年)5月6日(日)、大阪府立体育館で開催された同音楽祭も、1961年(昭和36年)4月29日(土・祝)、阪急西宮球場で「春の吹奏楽~1000人の合同演奏~」の名称で始まった「3000人の吹奏楽」(現在は、京セラドーム大阪で開催)も、1970年(昭和45年)3月14日(土)、日本万国博お祭り広場における開会式演奏も、1987年(昭和62年)5月10日(日)、日本万国博覧会記念公園に1万人以上の参加者を得て行なわれた「ブラス・エキスポ ’87」も、みなそうである。

『ええか、血わき肉たぎる演奏せな、あかん!』

やはり、大親分ゆずりだろう。得津さんが、若い指導者を捉まえては口癖のように話していたドスの効いたあの声が脳裏にふと甦ってきた!

▲▼得津武史(1917~1982)

▲西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう、2006年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第159話 ヴァンデルロースト「いにしえの時から」世界初演

▲プログラム – タッド・ウインドシンフォニー第17回定期演奏会(2010年6月18日、大田区民ホール アプリコ)

▲鈴木孝佳(同上、撮影:関戸基敬)

2010年(平成22年)6月18日(金)、東京・大田区民ホール アプリコ大ホールで、ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の『いにしえの時から(From Ancient Times)』ウィンドオーケストラ版のパブリックな世界初演が行なわれた。

キャストは、鈴木孝佳指揮、タッド・ウインドシンフォニー。初演は彼らの「第17回定期演奏会」で行なわれ、客席には、演奏を聴くためにはるばる日本まで飛んできた作曲者の姿もあった。

タッドWSのコンサートでは、よく見かける光景だ。

初演された『いにしえの時から』は、ヤンがそれまでに書いた最も密度の濃いウィンドオーケストラ作品であり、出版社が“グレード6”と表示したとおり、技術的に見てもひじょうに高度な作品だ。

タッドの組合員でも準構成員でもない部外者ながら、例によって、作曲者と演奏者との橋渡しの役回りを担うことになった筆者にとっても、生涯忘れ得ぬ作品のひとつとなった。

“記憶に残る”という点では、この日の記念碑的演奏を担ったプレイヤーたちにもこの作品は相当鮮烈な印象をもたらしたようだ。当時の初演関係者が集まると、今なお“あのときの「いにしえ」は…”と口にする人が多い。彼らの演奏家人生でたった一度やっただけの曲にも拘わらずにだ。実際、2021年(令和3年)10月15日(金)にアップロードした前話の《第158話:ヴァンデルロースト「いにしえの時から」ができるまで》を目にしたプレイヤーからも多くのメールが届いた。

翌10月16日(土)、大阪・難波で夜のミーティングを行なったホルン奏者、下田太郎さんも、そんな中のひとりだ。

下田さんは、タッドWSでは今や絶滅危惧種化した、かつて鈴木さんが指導者としてタクトをとった福岡工業大学附属高校吹奏楽部の出身で、タッドWSでも長年セクション・リーダーをつとめてきた。都内各オーケストラのほか、東京佼成ウインドオーケストラやシエナ・ウインド・オーケストラ、東京吹奏楽団などでもプレイし、フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)が佼成ウインドを指揮したCD「スペイン狂詩曲」(佼成出版社、KOCD-3579、1999年)の『ボレロ』のソロが実は下田さんだったりする。

この日は、下田さんが所属するオーケストラ・ジャパンが、同年9月から12月の約3ヶ月間に全51公演・33都市を巡る「ディズニー・オン・クラシック」ツアーの大阪・堺市のフェニーチェ堺における公演日で、ミーティングはその終演後になった。

南海電車「なんば駅」改札で待ち合わせた我々は、道頓堀に居場所を定め、大盛り上がり。ふたりの話題の中心は、もちろん“いにしえ”の世界初演だった!!

『あのとき、“いにしえ”以外、何をやったか覚えてなかったんです。』

そう口火を切った下田さんは、前話に載せたチラシを見て思い出したそうだ。それほど“いにしえ”の印象がインパクトがあった証しだ。

振り返ると、あのときは本番前練習から驚きの連続だった。

『練習は、確か前2日でしたよね。』の筆者の問いかけに、『ハイ、2日です。』と下田さん。

筆者は、ヤンを引き連れて2日目の練習から参加したが、案内されたリハ会場は、千葉県市川市内のとある高校の音楽室だった。そこへフル編成のウィンドオケの他に、同校吹奏楽部の生徒も加わって満員すし詰め状態。クーラーも全開だったが、やたら暑い。いつも借りるリハ室が改修のために使えないための緊急措置という説明だったが、これにはヤンも目をシロクロ!

掛け値なしにギューギュー詰めだったので、筆者とヤンに用意された席も、サクソフォン奏者の新井靖志さんの真横約1メートルの位置。あまりにも近いので、目が合った新井さんから『緊張しますね。』との声も。そりゃそうだろう。自席のすぐ隣りにスコアを手にした怪しい部外者ふたりが座っているのだから…。

練習は、『バランスは、明日ホールのゲネでとります。お疲れでした。』という鈴木さんの言葉とともに終了。我々ふたりにマエストロとその長男でトランペット奏者の鈴木徹平さんを加えた4名(前話の写真参照)は、メンバーさんが運転する車で当夜のネグラに定めた大田区蒲田へと移動。

車中と夕食の間に、2日間のリハの成果を根掘り葉掘り訊ねたが、一時スコアリングで難渋していた作曲者にマエストロが『手加減は無用!』と言って励ましたという逸話が残るこの曲はさすがに手ごわかったようだった。

マエストロは、『セクション練習をやったり、みんなよく復習って(さらって)きてくれていましたが、それでも、初日、トロンボーンが“アッ”とか“ウッ”とか言っているので、“トロンボーン、そこはアッとかウッとか書いてないんだけど!”と言ったら、全員サッと立ち上がって“すいません!”ですよ。彼らがすばらしかったのはそこからで、2日目の練習前にあった所属オケの練習のノリ番の曲順を調整してもらってしっかりと復習ってきて、2日目にはもう完璧でした。』と賞賛を惜しまない。

下田さんとの夜のミーティングでも、当然話題に上ったが、『あのとき、桒田さんらは、(管楽器専門店の)DACに電話してミュートを練習場所まで持ってきてもらったりしてるんですよ。』と、トロンボーン・セクション(桒田晃さん、古賀 光さん、伊藤敬二さん、篠崎卓美さん)がミュートを吟味してからこの本番に臨んだという裏話があることを知った。

他方、曲を書いた張本人がその場にいることも、もちろんプラスに働いた。曲冒頭に出てくるフランドルの古い教会の鐘の音のイメージはヤンからパーカッションへの直伝だったし、オフ・ステージからのユーフォニアム(円能寺博行さん、齋藤亜由美さん)の聞こえ方もヤンのイメージが尊重された。また、曲中、ハートフルなソロを見事に聴かせたフリューゲルホーン(鈴木徹平さん)やソプラノ・サクソフォン(新井靖志さん)とのコラボレーションでも、ヤンは『何も言うことが無い。』と手放しでOKサイン。本番が最も高速だった細かいフレーズの動きが重なって“のるかそるか”の展開になるトリッキーな全合奏をぐいぐいリードしたコンサート・ミストレスの三倉麻実さんのプレイにも大絶賛を表していた!

というわけで、6月18日のステージは、冷静でありながらも、その一方で全身全霊を傾けたようなモチベーションの高いパフォーマンスとなった。恐らく、会場内でもっとも自由でハッピーだったのは、この作品をものにできたヤン自身だっただろう。

余談ながら、2日目練習の休憩中、突然現れたヤンをさして、マエストロが『この人、誰か知ってる?』と高校生に質問を投げたら、『知りません。』と返答が戻ってきてガックリ。『じゃー、あなた方、“カンタベリー・コラール(Canterbury Chorale)”って曲、知ってる?』と質問を変えたら、全員から『はい。』の回答。そこで、『彼はその曲を書いた作曲家なんだよ。』と言うなり、突然“エーッ!?”と大騒ぎが始まり、顧問の先生のところへ猛ダッシュでご注進。それを聞いてさらに驚いた先生も『すぐに色紙を買ってきなさい。』と指示を出す騒ぎとなった。

そんな事件勃発も手伝ってか、タッドWSの練習終了後は、プレイヤーもつかまって賑やかな大サイン大会に発展!

下田さんによると、世界初演の演奏会には、同校の生徒さんも大勢で駆けつけてくれたんだそうで、その中からは、その後、専門家への道を歩む人も出てきたという話だった。

作曲家と演奏家がガチンコで望んだ『いにしえの時から』の世界初演!

そのドラマは、ひとりタッド・ウインドシンフォニーだけの伝説にとどまらず、次世代を担う若い世代のハートへも受け継がれることになった!!

▲▼ヴァンデルロースト「いにしえの時から」世界初演(2010年6月18日、大田区民ホール アプリコ、撮影:関戸基敬)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第158話 ヴァンデルロースト「いにしえの時から」ができるまで

▲チラシ – タッド・ウインドシンフォニー第17回定期演奏会(2010年6月18日、大田区民ホール アプリコ)

▲ CD – Highlights from the European Brass Band Championships 2009(英Doyen、DOYCD260、2009年)

▲DOYCD260 – インレーカード

▲DVDブックレット – Highlights from the European Brass Band Championships 2009(英World of Brass、WOB138 DVD、2009年)

1991年(平成3年)10月、在京のオーケストラやウィンドオーケストラ、自衛隊、スタジオ、専門学生などの演奏家が自発的に集まり、月に1度か2度、定期的にリハーサルを繰り返すセルフ・オーガナイズ(メンバー自主運営)のリハーサル・バンドとしてスタートした「タッド・ウインドシンフォニー(TAD Wind Symphony)」。

当初は、アメリカから音楽監督として迎えられた指揮者の鈴木孝佳さんと交した“演奏会はやらない”という約束もあり、公開演奏を行なう気配などまるで感じられないグループだった。(参照:《第157話 タッド・ウインドシンフォニーとの出会い》)

タッドの初代団長で、後に代表となった田島和男さんの回想によると、音楽監督との鉄の約束が脆くも崩れ、演奏会を開くことになったのは、あるリハーサル後の楽器の積み込み作業中、当時、新星日本交響楽団のホルン奏者だった田場英子さんから『田島さん、凄いイイ演奏するんだから本番やりましょうよ! リハだけじゃ勿体ないですよ!』と言われたのがきっかけだったという。さらに、『もし田場さんのこの一言がなかったら、本番は数年遅れていたかも知れませんね。』という、ウソのような証言までとび出した。

すべて音楽監督の鈴木さんがまるで知らない中での出来事だった。

タッド・ウインドシンフォニーの初コンサートは、発足3年目の1993年(平成5年)2月6日(土)、ルミエール府中(市民会館)で開かれた「タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)」。以後、年に一度のペースで、定期演奏会を開く流れが定着した。

しかし、もともとがセルフ・オーガナイズ。それだけに、広告宣伝費など皆目ゼロで、コンサート告知もチラシの手配りと口コミのみ。チケットも、広い東京で直接メンバーをつかまえて買わなければ“残っていても極めて入手困難”という、何から何まで異例づくしのグループだった。当然、音楽メディアにその名が登場することも、ほとんどなかった。

しかし、一度、彼らが楽譜と向かい合うと、プロ意識に溢れ、マエストロとの信頼関係から生み出されるパフォーマンスは、知る人ぞ知るワンダー・ワールド!

熱心なリピーターが多いことでも知られていた。

さて、そんなタッド・ウインドシンフォニーだが、その名が東京ローカル限定から広く認知されるようになったのは、2010年(平成22年)6月18日(金)、大田区民ホール アプリコ(東京)における「タッド・ウインドシンフォニー第17回定期演奏会」で、ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)を客席に迎え、その最新作『いにしえの時から(From Ancient Times)』ウィンドオーケストラ版のパブリックな世界初演が行なわれたあたりからだった。

よく知られるように、ヤンは、自国の先人たちから受け継いだものをとても大切にする作曲家だ。もう少し具体的に話すと、彼の暮らすフランドル地域は、15世紀から16世紀のルネサンス期にポリフォニー(2つ以上の旋律を同時に重ねる多声音楽)の技法を駆使して黄金時代を迎えた“フランドル楽派(フランダース・ポリフォニスト)”を生み出したエリアだ。他方、サクソルンやサクソフォンなどの楽器体系を構築した楽器製作者アドルフ・サックス(Adolphe Sax、1814~1894)もまたベルギーの生まれだった。

『いにしえの時から』は、そんな彼の音楽的バック・グラウンドを一つの曲に昇華させた作品で、オリジナルは、2009年4月30日(木)~5月3日(日)、ベルギー、オーステンド(Oostend)のクルサール(Kursaal)で開催された「ヨーロピアン・ブラスバンド選手権2009(European Brass Band Championships 2009)」のチャンピオンシップ部門の指定課題(セット・テストピース)として委嘱された“ブラスバンド編成”の楽曲だった。

ヤンにとっては、自国開催の栄誉を担って委嘱された曲だけに、ポリフォニーの技法を駆使するだけでなく、自国のヒーローであるアドルフ・サックスにも敬意を表す作品となったのは、当然の帰結だった。

選手権の優勝者は、指定課題のこの曲で、100点満点中、98点をゲットし、自由選択課題(オウン・チョイス・テストピース)として世界初演したピーター・グレイアム(Peter Graham)の『巨人の肩にのって(Standing on the Shoulders of Giants / 初演当時の原題)』でも98点を獲得して合計196点のぶっちぎり優勝を飾ったウェールズ代表のロバート・チャイルズ(Robert Childs)指揮、コーリー・バンド(Cory Band)だった。

筆に力の込められた自信作だけに、ナマ演奏を聴いたヤンの興奮も半端ではなく、選手権後、間髪をいれず『スコアを送るので….。』という連絡が入った。つまりは“すぐに感想を聞かせろ!”という訳だ。

ご承知のとおり、ヤン自身、ベルギー初のブラスバンド“ブラスバンド・ミデン・ブラバント(Brass Band Midden Brabant)”の副指揮者だった時期があり、筆者が大阪のブリーズ・ブラス・バンド(Breeze Brass Band)のミュージカル・スーパーバイザーをつとめた頃、何度か客演指揮で招いた間柄だった。そして、そんな付き合いから、ヤンはブラスバンドのための新作が出来上がるたび、必ず知らせてきた。近況報告と自作のプロモーションを兼ねて!(参照:《第5話 ヴァンデルローストの日本語教師》)

しかし、このときのヤンのメッセージには、文末に次のような気になる記述があった。

『今、ウィンドオーケストラ版の構想を練っているんだ。』

この話にいち早く関心を寄せたのが、ほかならぬ鈴木さんだった。ヤンの音楽に全幅の信頼を寄せていたからだ。

鈴木さんは、『スコアが出来上ったら、ぜひ見せて下さい。できれば次の定期に取り上げたいので!』と言った。2009年夏の話だ。

実は、この一年前の2008年(平成20年)6月12日(木)、同じアプリコで行なわれた「第15回定期演奏会」でタッド・ウインドシンフォニーが演奏したチャイムを加えた『カンタベリー・コラール(Canterbury Chorale)』の録音を聴いたヤンが激賞。両者の間には音楽家どうしの特別な信頼関係が生まれていた。2010年のタッドWSによる『いにしえの時から』ウィンドオーケストラ版の世界初演は、そんな流れの中で決まった話だった。

しかし、最高グレードのブラスバンド作品を、やはり最高グレードのウィンドオーケストラ作品に書き換える作業は難航を極めた。

ヤンは、ピアノやハープのほか、コントラバス・クラリネット、バス・サクソフォンなどの充実した低音楽器を加えるアイデアを、すぐ思いついたが、実際にオーケストレーションに取り掛かると、ポリフォニーを多用する作品だけに、『あまりにも難しい曲になってしまう。』という悩みが頭をもたげてきた。つまりは、金管だけのときには問題にならなかったハーモニーが木管が加わることで、なかなかうまく処理できないという和声上の課題にぶつかってしまったのだ。

シンセサイザーやPCソフトでスコアを作るのではなく、ナマの管楽器が発する現実の音のキャラクターを熟知し、実際に五線紙の上に一音一音鉛筆で音を書いていく作曲家らしい悩みだった。

また、曲に込められたアドルフ・サックスへのリスペクトの表明にしても、ブラスバンド作品のときは、金管楽器であるサクソルンのキャラクターをフィーチャーすることに専念すればよかったのが、ウィンドオーケストラ作品にするなら、木管楽器のサクソフォーンへのトリビュートも必要になるとの意識も持つようになっていた。

これらをすべて盛り込みたいという作曲家の想いには、外野からリミッターは掛けられない。しかし、盛り込みたい課題と管楽器の実音との板ばさみになったヤンは一時ドロ沼にはまり、作業をストップしてしまった。

そのヤンに、再びスコアに立ち向かう勇気をもたらしたのが、鈴木さんのつぎの一言だった。

『手加減は無用!』

2009年12月、アメリカのシカゴで開かれたミッドウェスト・クリニック(The Midwest Clinic International Band, Orchestra and Music Conference)でヤンに会った鈴木さんは、“思いどおりに筆を進めてくれ”と、ヤンを激励したのだ。これはまた、タッドWSに参加するプレイヤーたちを信頼しての言葉でもあった。

アメリカから帰国したヤンは、スコアリングに再びアタックを始めた。

しかし、本人曰く、その作業は新しい曲を書くのと同じぐらいの労力と時間を要したそうで、何度も何度も加筆訂正を繰り返したため、完成予定も遅れに遅れ、筆者のもとへオランダの出版社デハスケ(de haske)のエディターが浄書を終えたスコアとパートのプルーフが届いたのは、4月半ば過ぎのこと。そこから使用楽器の最終確認などを開始した訳だから、舞台裏はてんやわんやの大騒ぎに発展した。結果、実際に鈴木さんや各プレイヤーに楽譜が渡ったのは、5月の連休明けとなった。6月のコンサートには、もうギリギリのタイミングだった。

一方、やっとのことで約束を果たしたヤンの気分は、ハッピーそのもので、やりとりを繰り返している内、『どうしても聴きたい!』と言い出して、日本に飛んでくることになった。

渡航費はもちろん自腹!

ヤンも、いつの間にか、タッド流に馴染んでいた!

ブラスバンド版スコア – From Ancient Times(蘭de haske、2009年)

ウィンドオーケストラ版スコア – From Ancient Times(蘭de haske、2010年)

▲演奏会前夜。鈴木徹平、鈴木孝佳、ヤンの各氏と(2010年6月17日、東京・蒲田某所)(鈴木徹平氏提供)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第157話 タッド・ウインドシンフォニーとの出会い

▲鈴木孝佳(2012年6月8日、大田区民ホール アプリコ、撮影:関戸基敬)

▲チラシ – タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)(1993年2月6日、ルミエール府中(市民会館))

▲プログラム – タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)(1993年2月6日、ルミエール府中(市民会館)

東京を中心に多種多彩なフィールドで活動する演奏家が自発的に集まり、世界的な作曲家とも積極的に結んで音楽界の注目を集める演奏活動を展開するタッド・ウインドシンフォニー(TAD Wind Symphony)と出会い、音楽監督の鈴木孝佳さんとの長いつき合いが始まったのは、2006年(平成18年)のことだった。

直接のきっかけは、当時インスペクターだったテューバ奏者、佐野日出男さんから、6月8日(木)、大田区民ホール アプリコ(東京)における“第13回定期演奏会”をライヴ収録してほしいという突然の電話を受けたことだった。しかし、すぐに現場に出向くことができる在京の身分ではなく、何をやるにも新幹線かヒコーキで上京しないといけない上、自前の録音機材やスタッフも持たない、録音を生業としていない筆者にそんな難しいリクエストをいきなり投げてくるとは、焼く前の餅に濃い目の醤油で“無茶振り”という文字を描いていきなり網にのせて炙るような話だった。(参照:《タッド・ウィンド・コンサート(1)灰から救われた魂たち プロダクション・ノート》)

無論、遠い大阪に暮らしながらも、タッドの名前それ自体は、これ以前に、航空自衛隊航空中央音楽隊(当時)のユーフォニアム奏者、外囿祥一郎さんから、『樋口さん、今度すごいバンドができるんですよ。』と聞かされて知ってはいたが….。

さて、そんなタッド・ウインドシンフォニーだが、楽団の結成は、1991年(平成3年)10月のこと。その最大の特徴は、楽団の活動が、参加する演奏家たちによる完全な自主運営(セルフ・オーガナイズ)に委ねられていることだろう。当初は、定期的に集まって音楽を追い求めることだけを目的とするリハーサル・バンドで、鈴木さんとメンバーの間では、“決して演奏会を開かない”ことが堅く申し合わされていた。

この間の事情を、アメリカから音楽監督に招かれることになった鈴木さんに訊ねると、最初は監督就任を固辞したものの、集まった演奏家たちの熱意に絆され、演奏会を開かないという条件でその指揮を引き受けることになったという。従って、日米間の渡航費は自腹という、ひじょうにユニークな人間関係にある。(ときどき、アメリカ在住のプレイヤーも参加するが、その渡航費も見事に奏者の持ち出しである。)

楽団名の“TAD”は、主にアメリカを活動の場とする鈴木さんの名前“タカヨシ”をアメリカ人たちがなかなか発音できず、まるでセカンドネームであるかのように“タッド”と呼ぶようになったことに由来する。傑作だったのは、楽団名を決める際、メンバーの中に、“スズキ・バンド”にしようというアイデアまであったということで、さすがにその案に対しては、鈴木さんから『それだけは、やめてくれ。』と“待った”が入ってボツになったそうだ。

そんな顛末もあり、名前が入るので世間的には勘違いを招きやすいが、タッド・ウインドシンフォニーとは、“鈴木さんが若い教え子を集めてやっている….”などと言われるような、そんな私的なグループなどではなかった。

主役は、あくまで自発的に参加する演奏家たちなのだ。50代や60代のベテランもいるので、平均年齢こそやや押し上げられているが….。(暴言多謝!)

参加メンバーは、当初から、オーケストラやウィンドオーケストラ、自衛隊、室内楽、ミュージカル、スタジオ、音楽大学など、様々な音楽分野で活動する多ジャンル横断的に演奏家が集まり、今すぐにでも演奏会活動が行なえるような陣容が揃っていたが、先述の鈴木さんとの堅い約束もあり、初の演奏会が実際に開かれたのは、結成3年目の1993年(平成5年)2月6日(土)、ルミエール府中(市民会館)における「タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)」だった。

鈴木さんにその間の事情を確認すると、『あれには、見事に裏切られました。』と、演奏会が自身の知らないところで企画されていたと苦笑していた。一方で、リスペクトするマエストロと演奏会を開きたいというプレイヤーの気持ちもよくわかる。

音楽監督の鈴木さんは、上京後、日本フィルハーモニー交響楽団のオーディションを経て、トロンボーン奏者として活躍。オーケストラやスタジオワークのほか、東京吹奏楽団や東京佼成ウインドオーケストラにも参加。指揮者に転じた後、有名なアーナルド・ゲイブリエル(Arnald Gabriel)など、多くのアメリカ人指揮者たちの推挙により、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(American Bandmasters Association / ABA)の日本人初の正会員となった。ABAでは、同じく名誉会員の秋山紀夫さんとともに、日本の顔的存在となっている。

アメリカの作曲家や演奏家だけでなく、国際的な知己も幅広く、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)のもとを訪ねて、いきなり指揮法のレッスンを受けた話や東京で聴いて驚いたというイタリアの名門ローマ・カラビニエーリ吹奏楽団(Banda dell’Arma dei Carabinieri)のマエストロ、ドメニコ・ファンティーニ(Domenico Fantini)をローマに訪ねて、カラビニエーリの練習場で、実際に奏者が吹く楽器を使いながら、合奏の中でサクソルンを活用する楽器法やハーモニーを直接伝授された話、モートン・グールド(Morton Gould)と意気投合してタクシーで食事に出かけたときの話などは、何度聞いても面白い。(参照:《第97話 決定盤 1000万人の吹奏楽 カラビニエーリ吹奏楽団》)

とにかく、思い立ったら即行動が鈴木さんの真骨頂!!

そして、そんな鈴木さんがタッドの「結成記念公演」のために組んだプログラムは、以下のようなものだった。

・トリビュート(マーク・キャンプハウス)
Tribute(Mark Camphouse)

・詩的間奏曲(ジェームズ・バーンズ)
Poetic Intermezzo(James Bernes)

・パガニーニの主題による“幻想変奏曲”(ジェームズ・バーンズ)
Fantasy Variations on a Theme by Niccolo Paganini(James Bernes)

・交響曲第1番「指輪物語」(ヨハン・デメイ)
Symphony No.1“The Lord of the Rings”(Johan de Meij)

これは、当時の東京のプロの演奏会でもなかなかお目にかかれないオリジナルと最新楽曲だけで構成される鮮烈なプログラムで、それを、10年後の2013年(平成15年)5月31日(金)、杉並公会堂大ホールで開かれた「第20回記念定期演奏会」と比較すると、この間、鈴木さんのプログラミングにまるでブレがないことが実によくわかる。

・リバティ・ファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ / ジェイ・ボコック編)
Liberty Fanfare(John Williams, arr. Jay Bocook)

・ルクス・アルムクエ(エリック・ウィッテカー)
Lux Aurumque(Eric Whitacre)

・ダンス・ムーブメント(フィリップ・スパーク)
Dance Movements(Philip Sparke)

・交響曲第1番「指輪物語」(ヨハン・デメイ)
Symphony No.1“The Lord of the Rings”(Johan de Meij)

鈴木さんは、しばしばメンバーや関係者にこう話す。

『我々プロが、もっとオリジナルを大切にしないといけないと思います。』

世界的話題を呼んだヤン・ヴァンデルローストの『いにしえの時から(From Ancient Times)』をはじめ、世界初演や日本初演された作品も多いが、近年は、とくにウィンドオーケストラのために書かれたシンフォニーの演奏に力を注ぎ、コロナ禍前の2015~2020年の間にも以下のシンフォニーが連続して取り上げられている。

・交響曲第4番(アルフレッド・リード)
Fourth Smphony(Alfred Reed)
2015年6月12日(金)、大田区民ホール アプリコ

・交響曲第2番「カラー・シンフォニー」(フィリップ・スパーク)
Symphony No.2“A Colour Symphony”(Philip Sparke)
2016年1月23日(土)、ティアラこうとう大ホール《日本初演》

・交響曲第1番「アークエンジェルズ」(フランコ・チェザリーニ)
Symphony No.1“The Archangels”(Franco Cesarini)
2016年6月10日(金)、ティアラこうとう大ホール《日本初演》

・交響曲第2番(ジェームズ・バーンズ)
Second Symphony(James Barnes)
2017年1月15日(日)、ティアラこうとう大ホール

・交響曲第2番(保科 洋)
Symphony No.2 for Wind Orchestra(Hiroshi Hoshina)
2017年6月9日(金)、ティアラこうとう大ホール

・マンハッタン交響曲(セルジュ・ランセン)
Manhattan Symphony(Serge Lansen)
2018年1月12日(金)、杉並公会堂大ホール

・交響曲第1番「大地、水、太陽、風」(フィリップ・スパーク)
Symphony No.1“Earth, Water, Sun, Winds”
2018年6月15日(金)、杉並公会堂大ホール

・交響曲第2番(ジョン・バーンズ・チャンス)
Symphony No.2(John Barnes Chance)
2019年1月11日(金)、杉並公会堂大ホール

・交響曲第2番「江戸の情景」(フランコ・チェザリーニ)
Symphony No.2“Views of Edo”(Franco Cesarini)
2019年6月14日(金)、杉並公会堂大ホール《公式日本初演》

・交響曲第4番「イエローストーン・ポートレイト」(ジェームズ・バーンズ)
Fourth Symphony“Yellowstone Portraits”(James Barnes)
2020年1月9日(木)、ティアラこうとう大ホール

曲名を眺めているだけでワクワクするような見事なラインナップだ。

真のワールドワイド・レパートリーとは、正しくこういう曲を指す。

タッド・ウインドシンフォニー。彼らとの出会いは、先の佐野さんの突発的リクエストに始まったが、結果として、これらをライヴ収録し、多くをCDとして世に問うことができたことは、筆者の望外の喜びとなっている!

相変わらず、機材もスタッフも持たないので、収録のたびに血の気が引くような大出血サービスになっているが!

▲チラシ – 第20回記念定期演奏会(2013年5月31日、杉並公会堂大ホール)

▲プログラム – 第20回記念定期演奏会(2013年5月31日、杉並公会堂大ホール)

▲タッド・ウインドシンフォニー(2013年5月31日、杉並公会堂大ホール、撮影:鈴木 誠)