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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第151話 ヒンデミット・コンダクツ・ヒンデミット

▲LP – Paul Hindemith Volume One(英Columbia、33CX1512、モノラル、1958年)

▲33CX1512 – A面レーベル

▲33CX1512 – B面レーベル

▲スコア – Paul Hindemith:Symphony in Bb(Edition Schott、1951年)

1951年4月5日(木)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で行なわれたアメリカ陸軍バンド“パーシングズ・オウン”(The United States Army Band ,“Pershing’s Own”)のコンサートで、20世紀のウィンド・ミュージックの発展にひじょうに大きな影響を及ぼすことになる、ある交響曲が作曲者自身の指揮で初演された。

その曲は、陸軍バンドの隊長、ヒュー・カリー中佐(Lt. Col. Hugh Curry, 在職:1946~1964)のリクエストで客演指揮を引き受けることになったパウル・ヒンデミット(Paul Hindemith, 1895~1963)が、自分が振るその演奏会のために作曲した『(コンサート・バンドのための)交響曲変ロ調(Symphony in Bb for Concert Band)』だった。

作曲者のヒンデミットは、ドイツのハーナウ (Hanau)の生まれ。周知のとおり、20世紀を代表する大作曲家であり、指揮者、ヴァイオリン奏者、ビオラ奏者としても活動し、クラリネットやピアノも演奏した。同時代の音楽家に多大な影響を及ぼした先鋭的作曲家だったが、やがて、その活動や作品に対し、ナチスから否定的な扱いを受けるようになると、身の危険を感じて1938年にスイスに亡命。その後さらに、1940年にアメリカに亡命し、コネチカット州ニューヘイブン(New Haven)に住み、1953年まで同地のイェール大学(Yale University)で教授として教鞭をとった。1951~1958年の間は、スイスのチューリッヒ大学(University of Zurich)でも教鞭をとり、1953年にはイェール大学を辞してスイスに移住。1963年、治療のために訪れていたドイツのフランクフルト(Frankfult am Main)に没した。

『交響曲変ロ調』は、ニューヘイブンに住んでいた頃、1950年から1951年にかけて作曲された。

作曲の経緯は、前述のとおりだ。だが、それに加え、さらに詳細な証言が、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A. / American Bandmasters Association)のアーカイブとして、米メリーランド州カレッジパーク(College Park)にメイン・キャンパスをもつ州立大学、メリーランド大学(University of Maryland)のスペシャル・コレクションに残されていた。

それは、1965年3月2~7日(火~日)の日程で開かれたA.B.A.年次コンベンションで行なわれた作曲家ドン・ギリス(Don Gillis, 1912~1978)による、前年退役したばかりのカリー中佐へのインタビューの音声アーカイブだ。インタビューアーのギリスは、『交響曲5 1/2番(Symphony 5 1/2)』や『タルサ、オイルの交響的肖像(Tulsa, a symphonic portrait in oil)』などで知られる作曲家だが、筆者がこの録音をはじめて聴いたとき、彼らふたりの肉声がとてもクリアに残されていることに、まず驚かされた。さすがA.B.A.らしいすばらしい仕事だ。

インタビューでは、陸軍バンドが毎年冬のシーズンにワシントンD.C.で行なうウィークリー・コンサートのシリーズでは、歌手やピアニスト、独奏者など、毎週違ったゲストを招いており、その中のあるコンサートのゲストとしてヒンデミットに客演指揮を依頼したこと。依頼の際、そのために何か曲を書いてもらえるのなら素晴らしい、と話したこと。中佐としては、序曲か何かを書いてもらえたら、という程度の軽いアクションだったが、その後、受け取った手書き譜が本格的な交響曲だったので驚いたこと。コンサートの少し前に手直しのためにヒンデミットがバンドを訪れた際にいろいろ訊ねたら、ヒンデミットは、第1次世界大戦中、ドイツのバンドでクラリネットを吹いていたので、ずっとバンドにも関心があったこと。そのため、何年にもわたってバンドのための主要曲を書くつもりだったので、実際にいくつかのスケッチが彼の頭の中で飛び交っていたこと。だが、実際には誰も頼んでこなかったので、これまでバンド曲を書かなかったこと。ヒンデミットは曲を書くとき必ず何らかの理由を必要としたが、客演指揮の話が来たときに、“今回”がそれを書くチャンスだと彼が思ったことなどが、澱みなく語られている。

たいへん貴重なインタビューだが、ここでまず押さえておきたいのは、ヒンデミットの『交響曲変ロ調』が、作曲者の自由裁量で書かれた創作であったことだ。つまり、陸軍バンドは幸いにも初演の栄誉に浴したが、具体的に“交響曲を書いて欲しい”と委嘱したわけではなかった。この曲について書かれたものの中には、陸軍バンドの“commission(委嘱)”であるかのように書かれたものも存在する。しかし、ここまでお話ししてきたように、事情は少し違っている。“客演を依頼されたときのrequest(リクエスト)に従って”と書くならまだいい。筆者は、この曲について語るような場合には、必ず留意しないといけないポイントだと思っている。

『交響曲変ロ調』の初演は、演奏会それ自体が、作曲家としても指揮者としても名を成していたヒンデミットが有名な陸軍バンドを客演するという話題性も手伝って、相当な注目を集めている中で行なわれ、結果的に賛否両論が渦巻くたいへんなセンセーションを巻き起こした。

初演を聴いた感想は人によってはっきりと意見が分かれ、どちらかというとそれまでのバンド音楽の形式感や構成を好む層には全否定される一方、ヴィットリオ・ジャンニー二(Vittorio Giannini、1903~1966)やヴィンセント・パーシケッティ(Vincent Persichetti、1915~1987)、ポール・クレストン(Paul Creston、1906~1985)、アラン・ホヴァネス(Alan Hovhaness、1911~2000)らの作曲家には、“バンドは、シリアスな音楽にもふさわしい媒介だ”と確信させる契機となった。

コンサート翌年の1952年秋に世界初のウィンド・アンサンブルであるイーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)を創設した指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)もまた、衝撃を受けたひとりだった。

フェネルは、ロンドンのショット(Schott)が1951年に版権を取得し、ドイツで印刷された楽譜が1952年に出版されるや、早速それを取り揃えてリハーサルを始め、1953年2月8日(日)、米ニューヨーク州ロチェスター(Rochester)のイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)のキルボーン・ホール(Kilbourn Hall)で開かれたイーストマン・ウィンド・アンサンブル初のコンサートで取り上げた。

その後、フェネルは、《第148話 ヒンデミット-シェーンベルク-ストラヴィンスキー》でもお話ししたように、1957年3月24日(日)、ロチェスター市内のイーストマン劇場(Eastman Theatre)で、この曲のアメリカ初のレコーディングを米マーキュリー・レーベル(米Mercury、MG 50143、モノラル、1957年 / Mercury、SR 90143、ステレオ、1960年)に行ない、この内、モノラル盤のMG 50143は、『交響曲変ロ調』の世界初LPとなった。

楽譜の出版により、この交響曲は、海を渡ったイギリスでも注目された。

イギリスの公共放送であるBBC放送の“サード・プログラム(Third Programme)”(後のラジオ3)は、1952年、セシル・H・イェーガー(Lt.-Col. Cecil H. Jager, 1913~1970)指揮、アイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards / 参照:《第113話 アイリッシュ・ガーズがやってきた》)を起用し、『交響曲変ロ調』の英国初演をラジオ放送で行なった。

BBC放送アーカイビストのトニー・ストーラー(Tony Stoller)の著作「クラシカル・ミュージック・レイディオ・イン・ザ・ユナイテッド・キングダム, 1945-1995(Clasical Music Radio in the United Kingdom 1945-1995」(Palgrave Macmillan、2017年)には、ヒンデミットもこの放送を愉しんだと書かれ、この番組は、放送翌年の1953年、『交響曲変ロ調』の英国初演を伝えたBBCの“ランドマーク・ブロードキャスト(a landmark broadcast)番組”に選ばれた。

また、かねてより、ヒンデミット指揮の自作自演作品集の録音構想を暖めてきた英EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグ(Walter Legge, 1906~1979)は、1956年11月、ロンドンのキングズウェイ・ホール(Kingsway Hall)で、『交響曲変ロ調』を含む6曲のレコーディング・セッションを行なった。演奏はすべてフィルハーモ二ア管弦楽団(Philharmonia Orchestra)のもので、セッションはステレオ方式で行なわれたが、リリース時には、2曲入り3枚のLPに分けられ、イギリスでは、コロムビア・レーベルからモノラル盤3枚(英Columbia、33CX1512 / 33CX1533 / 33CX1676)が、アメリカでは、エンジェル・レーベルからモノラル盤3枚(米Angel、35489 / 35490 / 35491)とステレオ盤3枚(米Angel、S-35489 / S-35490 / S-35491)がリリースされた。『交響曲変ロ調』は、これら各3枚中、1958年にリリースされた第1集(英Columbia、33CX1512 / 米Angel、35489 / 米Angel、35489)のB面に収録されている。

また、イギリスで『交響曲変ロ調』のステレオ盤LPがリリースされたのは、1987年にデジタル・リマスターされたコンピレーション盤「ヒンデミット・コンダクツ・ヒンデミット(Hindemith Conducts Hindemith)」(英His Master’s Voice、EH 29 1173 1)が初出となった。

演奏者のフィルハーモ二ア管弦楽団は、第2次大戦後の1945年にレッグによって創設されたオーケストラで、主要メンバーは、大戦中、ホルンのデニス・ブレイン(Dennis Brain)などを擁し、英国屈指と謳われたロイヤル・エア・フォース・オーケストラ(Royal Air Force Orchestra)および同セントラル・バンド(The Central Band of the Rpyal Air Force)を除隊したプレイヤーを中心に構成されていたので、吹奏楽曲の『交響曲変ロ調』の演奏でも違和感なく、イギリスの管のサウンドを愉しませてくれる。

他方、レコーディング中、ヒンデミットは、指揮者としてすばらしい手腕を発揮したようだ。レッグは、セッションの進行について、ニューヨークで、ユーモアを交えてこう語っている。

『ヒンデミットの満足の微笑と疲れ知らずのエネルギーの下、レコーディングは、大学進学校でのムンプス(おたふく風邪)のように、(次の曲へと)うつっていきました。

(Under Hindemith’s happy smile and tireless energy, the recordings are going like mumps at a prep school.)』(米Angel、S-35489のジャケットから)

▲LP – Paul Hindemith Conducts His Own Works Album 1(米Angel、S-35489、ステレオ、1958年)

▲S-35489 – A面レーベル

▲S-35489 – B面レーベル

▲LP – Hindemith Conducts Hindemith(英His Master’s Voice、EH 29 1173 1、ステレオ、1987年)

▲EH 29 1173 1 – A面レーベル

▲EH 29 1173 1 – B面レーベル

▲書籍 – Clasical Music Radio in the United Kingdom 1945-1995(Palgrave Macmillan、2017年)

▲カタログ – Numerical Catalogue 1959 – 1960(英E.M.I Records Ltd.)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第150話 市音の祖、林 亘

▲ポスター – 故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会(1948年7月10日、中央公会堂、Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲林 亘(1886~1948)

1948年(昭和23年)7月10日(土)午後1時から、大阪・中之島の中央公会堂において、ある特別な演奏会が催された。

それは、大阪市音楽団(市音 / 民営化後の2015年3月、Osaka Shion Wind Orchestraと改称)と林亘氏遺族後援会が共催した「故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会」という名前の演奏会で、1923年(大正12年)6月に“大阪市音楽隊”として発足し、戦後、1946年(昭和21年)6月に“大阪市音楽団”と名を改めた市音の初代楽長とともに、大阪市楽長という要職をもつとめ、3ヵ月前の4月28日に逝去した林 亘(はやし わたる)さんを追悼する音楽会形式のお別れ会だった。

大阪市教育委員会が刊行した「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(参照:《第149話:市音60周年と朝比奈隆》)によると、林さんは、1886年(明治19年)8月6日(金)、高知県の生まれ。1900年(明治33年)12月1日、陸軍軍楽隊の総本山にあたる東京の陸軍戸山学校に入校し、翌年、大阪の陸軍第四師団軍楽隊に転属、1923年(大正12年)3月31日の同隊廃止による退職まで、同隊でクラリネット奏者および楽長補(指揮者)として活躍。陸軍屈指のクラリネット奏者として名を馳せ、1910年(明治43年)、イギリス政府の要請で、ロンドンで開催された日英同盟記念親善博覧会のために派遣された陸軍各軍楽隊から選抜された遣英軍楽隊(35名。楽長:永井建子)の独奏者としても活躍した。

派遣国では、イギリスの近衛軍楽隊のグレナディア・ガーズ・バンド(The Band of the Grenadier Guards / 参照:《第101話 グレナディア・ガーズがやってきた》)やイタリアのカラビニエーリ(La Banda dell’Arma dei Carabinieri / 参照:《第97話 決定盤 1000万人の吹奏楽 カラビニエーリ吹奏楽団》)とも交歓演奏もあったというが、林さんのソロは至るところで聴く者を驚嘆させ、市音には、その後、“クラリネッター・ハヤシ”をたずねて英国人が来団したという逸話も残る。

前出の「市音60年誌」にも、かつて林さんからその話を直接聞いた指揮者、朝比奈 隆さん(1908~2001)が、市音ゆかりの人たちと行なった“座談会-I、市音誕生前後と林さん”(司会:小林 仁)で語ったつぎの発言が載っている。

『林さんのご自慢だったワ。ワシがクラリネット吹いたら毛唐がビックリしおった、ってね。』(原文ママ)

その朝比奈さんを中心として、戦後、1947年に設立された関西交響楽団(1960年に改組、改称されて大阪フィルハーモニー交響楽団)の楽団機関誌「交響」創刊号(1949年2月)には、さらに興味を引くものが掲載されている。

それは、遣英の4年前の1906年(明治36年)12月2日、「大阪音楽協会第1回演奏会」(中之島中央公会堂)を前にして撮影された集合写真だ。“大阪音楽協会”というのは、第四師団軍楽隊と市中の音楽家が協調して誕生した大阪初のオーケストラで、この写真には、市中の音楽家と幅広い交遊をもった第四師団軍楽隊楽長の小畠賢八郎さんや後に大阪音楽学校(現大阪音楽大学)を設立した永井幸次さん(1874~1965)らに混じって、林さんの顔も見える。(3列目、左から3人目)

正しく大阪の西洋音楽の黎明期を伝える1枚だ。

その後、第四師団軍楽隊が単独で管弦楽演奏ができるまでに整備されたことも、朝比奈さんの師で、関西の交響楽運動を推進した亡命ウクライナ人指揮者エマヌエル・メッテル(Emmanuel Metter、1878~1941)が市音から管楽器奏者の応援を得ていたことも、市音が管弦楽演奏もやっていたことも、すべては開かれたこの小畠楽長時代に起こったことを基点とする。当然、林さんの幅広い人脈もこの頃から広がりを見せることになった。

朝比奈さんは、前出の座談会で、司会者の小林 仁さんから、林さんとの付き合いを訊ねられて、以下のように答えている。

『当時ね、京都の学生で、そこでメッテルさんというロシア人の指導者がいたんですが、この人は学生を指導する、というよりも、京都の大学を中心にして、関西でオーケストラをやろう、というのがどうもネライなんですね。場所は京都で…そこで当然ここに管楽器が沢山いるわけですから…今は管楽器失業時代ですけれど、その頃は管楽器といえば大阪市音楽隊へ来れば…というのでね、林先生は林先生でバンドばかりやっていたんではいかん、シンフォニーもやらなきゃあというお考えだったんでしょう。それで両者ウマが合ってね。合ったのは良かったけれど、怒られている方は両方から怒られて……(笑)。そんなんで、天王寺の前の音楽堂へメッテルさんの使いで行くと、林先生てのは外から来たお客さんにはエライ丁寧なんですわ。(笑)「用件は今度の練習の時に…」てなこといって「ちょっと新世界へ行こう」いって、あそこの角のビヤホールに連れて行かれるんですよ。』(原文ママ)

いかにも、音楽には厳しく、“怖かった”と誰もが畏れたが、たとえ酒席であっても人前で他人を論評することはなく、配下に対しては細やかな気配りをみせた人だったと伝わる林さんらしいエピソードだ。

1923年(大正12年)3月31日に第四師団軍楽隊(当時53名)が廃止され、平野主水楽長はじめ、約半数の楽員が東京の陸軍戸山学校軍楽隊に移った後も、“大阪市音楽隊”の構想をめぐって市と粘り強く話し合いを続け、ついにそれを実現したのも林さんの大きな功績だ。

この構想は、そもそも、3月末で廃止が決まっている軍楽隊に、大阪市が同年5月21~26日に市内築港の大阪市立運動場などで行なわれる“第6回極東選手権競技大会”における様々な演奏に軍楽隊の協力を求めた話の中から浮上したものだった。

市の話はかなり無理筋の依頼で、話を聞いた軍楽隊の返答は無論“出演不可能”。そのときにはもう隊が存在しないのだから当然だ。しかし、軍楽隊廃止で失職する楽員の行く末を案じ、同じ音楽の分野での再就職先探しで腐心していた第四師団の司令官鈴木荘六中将がこの話を聞きつけ、『それならば、今後のこともあり、この際、退役楽士を大阪市に引受けてもらって、市の音楽隊として再出発させるようにできないものか。』(原文ママ、大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983)と市に逆提案。市の担当者もすぐに池上四郎市長に報告し、市長も、これはアイデアだ、と具体化の検討を命じた。大阪や京都のオーケストラにエキストラを派遣するだけでなく、有償ながら民間の求めに応じかなりの数の演奏をこなした第四師団軍楽隊の大阪の洋楽全般への貢献がそれだけ高かったからだろう。

一方で、陸軍省の廃止方針が巷に伝わり、市民や新聞から“廃止反対”の声が沸きあがったことも、市と師団との間で秘密裏に進められた折衝を大いに後押しした。

しかし、議会筋に「極東選手権大会に奏楽を必要とすることは判るが、それだからといって市が音楽隊を所有するとか、その隊員を市の職員に採用するのは行きすぎではないか」(前出60年誌から引用)という意見があり、市の内部にも「財政の面で、軍が行政整理の対象とした軍楽隊要員を、すぐさま地方行政がこれを引継いで官吏採用することはどうか」(同)という議論もあって、平野楽長自ら先頭にたった折衝はなかなか進展を見せず、2月頃にはその平野楽長の戸山学校への移動も決まり、大阪に残って楽長補として折衝を引き継ぐことになった林さんも30名前後の編成案をいくつか市に提出するなどしたが、廃隊の日まで具体策は何も決まらず、ついにタイムアウト。

廃隊後も市からの連絡はなかなか来ず、極東選手権大会の正式な演奏依頼を林さんが受け取ったのは、大会が開かれる5月の早々。元第四師団軍楽隊だけでなく、各地から呼び集めた有志やエキストラ計15名による、急ごしらえながらも見事な演奏で乗り切った林さんは、翌月の6月1日、大阪市が補助金を拠出する民間の会員組織“大阪市音楽隊”結成の正式決定を得たのである。

発足当時の市音の正会員(楽員)は、17名。身分はまだ市の職員ではなく、規模も林さんが構想した30名前後ではなかったが、今日の“Osaka Shion Wind Orchestra”につながる“大阪市音楽隊”の歴史はこうして始まった。

林時代の市音の演奏活動については、戦前の地方ネタだけに、戦後発刊された東京発のメディアには多くが語られていない。しかし、Shionなどに残された資料を眺めると、大阪市の公式行事などの演奏のほか、400回を超える定期演奏活動や管弦楽演奏、専属だったNHK大阪放送局(BK)からのスタジオ生放送、諸外国などからの来阪バンドとのジョイント・コンサートなど、旺盛な演奏活動が行なわれており、とくに、1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて、作曲家菅原明朗らと結んで、やはりNHK大阪放送局から定期的に生放送された“大阪交響吹奏楽団”(大阪市音楽隊と大阪放送管弦楽団の管楽器奏者により結成)の活動も人気を集めた。

現在のShionのホームページにも見られる“交響吹奏楽”という用語がこんなに早く昭和初期から使われていたことはかなり驚きで、戦後、辻井市太郎団長時代に始まった数多くの海外オリジナル作品の本邦初演や木村吉宏団長時代以降のシンフォニーのレコーディングなど、市音独自の活動のルーツが、すでに昭和初期のこの時代に芽吹いていたことがとてもよくわかる。

また、この間、林さんは、大日本吹奏楽連盟常任理事、全関西吹奏楽連盟理事長等を歴任。関西の民間楽界への貢献も大であった。

そんなわけで、1948年の“偲ぶ大演奏会”には、大阪市音楽団のほか、大阪市警察音楽隊、大阪ハーモニカバンド、天商楽奏会、東商楽友会、大阪音楽高等学校混声合唱団という故人ゆかりの団体が顔を揃えた。

プログラムに名を連ねたレコード各社の社名だけを見ても、林さんがどれだけ大きい存在だったかを知ることになるだろう。

▲プログラム- 故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会(1948年7月10日、中央公会堂)

▲辻井市太郎指揮、大阪市音楽団(同上)

▲演奏会の記念帳(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲近藤博夫・大阪市長の揮毫(同上)

▲「交響」創刊号(1949年2月、関西交響楽団)

▲大阪音楽協会 第1回演奏会(1906年12月2日)(「交響」創刊号から)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第149話 市音60周年と朝比奈隆

01「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(大阪市教育委員会、1983年11月)

▲▼プログラム – 大阪市音楽団創立40周年記念演奏会(1964年3月10日、大阪市中央体育館)

『創立60年。人間でいえば還暦。これを祝うとともに、激動と波瀾に満ちた歳月と、先人が歩んだ道をふりかえり、記録にとどめておきたいとの念願から記念誌の発刊を思いたちました。』(原文ママ)

1983年(昭和58年)11月に刊行された「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(発行:大阪市教育委員会 / 編集:大阪市音楽団創立60周年記念事業委員会 / 協賛:大阪真田山ライオンズクラブ)に、当時の大阪市音楽団(市音)団長、永野慶作さん(1928~2010)が書いた“あとがき”冒頭部の引用だ。

永野さんは、市音の指揮をつとめた時代に、大栗 裕の『吹奏楽のための神話~天の岩屋戸の物語による』(1973)と『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』(1974年)の2曲を委嘱し、初演の指揮をした人物だ。個人的にもいろいろ教えを受け、公私共にお世話になった。実は、いま手元にある年誌も氏から頂戴したものだ。《参照:第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話

年誌は、B5版124ページで、濃緑色の硬表紙にタイトルの金文字がキラリ。市音の足跡をつづるこの60年誌は、2014年(平成26年)4月に大阪市直営から民営化、翌年の2015年(平成27年)3月には“Osaka Shion Wind Orchestra”と改称、日本を代表するウィンドオーケストラのひとつとして活躍が続くこの楽団が、かつて創立60周年を期して発行した初の楽団史誌でもある。

1923年(大正12年)に創立し、年間150回ほどの演奏機会がある楽団に、それまで同種の年誌がまるでなかったことは、なんとも不思議な印象を受けるが、その発案から発刊に至る経緯については、市音ファンの会員組織として1974年(昭和49年)に発足した“大阪市音楽団友の会”(会長:辻井市太郎)が隔月発行していたタブロイド紙「市音タイムズ」18号(1983年5月1日発行)に“今秋、市音60年史刊行”という予告記事がまず入り、21号(1983年11月1日発行)に“楽団史誌編纂なる”という完成記事が掲載されている。

それらによると、その編纂プロジェクトは、永野さんの発案で1983年2月末にスタート。元市音団長で日本吹奏楽指導者協会(JBA)会長の辻井市太郎さんを委員長に「大阪市音楽団創立60周年記念事業委員会」(委員:山本 保、六島逸郎、福西幸夫、飯田博一、小林 仁の各氏)も立ち上がり、同年11月の各種記念行事(記念パーティー、記念定期演奏会を含む)に向けて資料収集などの調査、編纂作業が始まった。

委員の内、とくに年誌に深く関わったのは、飯田博一、小林 仁の両氏である。

飯田さんは、戦前から大阪市の文化公報を担当され、1964年(昭和39年)3月10日(火)、大阪市中央体育館で開催された「大阪市音楽団創立40周年記念演奏会」と1973年(昭和48年)9月26日(水)、同体育館で開催された「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」の両プログラムに、市音や役所に残る内部資料や記録から市音の歴史を執筆された。一方の小林さんは、友の会事務局次長でありながら、元は新聞等で活動されたジャーナリストで、独自の調査をもとに、1981年(昭和56年)3月以降、大阪市音楽団友の会会報「おんがくだん」(「市音タイムズ」の前身)に、“大阪市音楽団物語・楽の音永遠に ”というコラムを連載された。

実は、プログラム等に演奏されるプロフィールを除けば、両氏が執筆したこれら3つのノートやコラムが、当時、市音の歴史について唯一の拠りどころとなっていた。

委員会での討議をへて、60周年誌の執筆は、前記コラムを書いた元ジャーナリストの小林さんに任されることに決まった。コラムのための氏の独自調査で、すでに公表された記録にも異説を生じる資料がいくつも出るなど、通説となっている楽団史を外部の目を通して洗いなおす必要にせまられたからである。

第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲》でお話しした市音60周年記念のために企画したLP「吹奏楽のための交響曲」(日本ワールド、WL-8319、1983年11月)のジャケットに筆者が書いたライナーノートも、もちろん小林さんに目を通していただいた。

当然、楽団のルーツにかかわる史実の再検証も行なわれた。

例えば、市音の前身と書かれることもままある旧陸軍第四師団軍楽隊の隊員は、1923年(大正12年)3月31日の軍楽隊の廃止後、隊長の平野主水陸軍一等楽長をはじめ、約半数が東京の陸軍戸山学校軍楽隊に移り、残りの三分の一が宝塚少女歌劇など、市中の楽団に再就職したこと。

大阪市が補助金を拠出する民間の会員組織“大阪市音楽隊”の結成が正式に決まったのが、第四師団軍楽隊の廃止3ヵ月後の同年6月1日だったこと。さらに市の直轄に移管されたのは、1934年(昭和9年)4月1日。

発足直後の同年8月の楽員17名中、第四師団出身者は、市音の初代指揮者となった林 亘を含めて9名で、残る3名が同じ日に廃止された東京の近衛師団軍楽隊、3名が前年3月31日に廃止された名古屋の第三師団軍楽隊、2名が東京の戸山学校軍楽隊の出身者で構成されていたこと。

結成決定前の同年5月に大阪市の要請で行なった有志による演奏が一度あるが、その際も林 亘が各地から呼び集めた同様の構成の13名に2名のエキストラを加えた15名編成の演奏だった。

つまりは、多くの通説で語られるように、廃止された陸軍第四師団軍楽隊が自動的に大阪市音楽隊になった訳ではなかったのである。

恐らく、小林さんは、自身の調査や取材を通じて、通説とは異なるいろいろな事実を掘り当てていたのだろう。念には念を入れて、年誌には、昔日を知る市音ゆかりの関係者やOBの証言を得るための年代別に分けた2度の座談会の様子も掲載されている。

その内、朝比奈 隆、岩国茂太郎、大岩隆平、辻井市太郎、宮本晋三郎、永野慶作の各氏が出席した“座談会-I、市音誕生前後と林さん”(司会:小林 仁)が当時の空気をよく伝えていて面白い。その一部を引用すると……。

朝比奈:この中に四師団におった人はいるの?

辻井:いや、いません。

朝比奈:現存している人はいる訳でしょう。

辻井:葛生さんだけが……あ、あの人は名古屋か。(註:第三師団)

朝比奈:四師団からの人はもう誰もいない?

辻井:いないですねェ。

朝比奈:ということは大阪市に移管された時に、四師団じゃないところからもいった訳ですね。そうか、わたしも知らなかったんだけれども、われわれ一般市民というのは、第四師団軍楽隊が大阪市音楽団だった、とまあ、非常に簡単な道筋になってるけれども、今お話し伺うと、四師団を主力に、各陸軍系の軍楽隊の方が参加された、ということですな。

司会:そういうことですね。

朝比奈:ここんところは一般の人は知らんワ。僕でも今はじめて聞いたもの。(岩国氏に)あなたはどういう経路からお入りになったの。

岩国:わたしは三越。(註:三越少年音楽隊)

朝比奈:三越か……(辻井氏に)あなたはもう頭から……。

辻井:そうなんですよ。

朝比奈:えらい所にとび込んできた。(笑)

辻井:もう最初に一発かまされてね。(笑)

朝比奈:そらあ林先生っていう方は非常に厳しい方でしたからね。何も隊員でなくても、わしらでも怒られたんだから。(笑)大岩君はいたことあるの。

大岩:ここに10年おったの。(註:のち関西交響楽団、大阪フィル)

朝比奈:ああそう。それは知らんかったなァ。

(以上、筆者註をのぞき、原文ママ)

何かとウマがあった朝比奈さんと辻井さんの掛け合いが面白いが、教育委員会の出版物なので、ぜひ図書館などでお読みいただきたい。《参照:第126話 ベルリオーズ「葬送と勝利の交響曲」日本初演

小林さんは、“大阪市音楽団物語・楽の音永遠に ”の初回(1981年3月1日発行)にこう書いている。

『古い歴史と伝統と称せられながらこの楽団の年譜というか、まとめられた資料がまるでない。(当の楽団にもないのだから……)。少なくとも現在そのルーツを探る手がかりの大部分は時の流れの中に埋もれつつある。この物語を進めるのは、消え去ろうとする歴史的事実を一つ一つ発掘することから始まる。……。とにかくやれるところまで私は書きつづけてみたいと思っている。』

▲永野慶作(1928~2010)

▲林 亘(1886~1948)

▲▼座談会風景(大阪市音楽団練習場アンサンブル室、1983年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第148話 ヒンデミット-シェーンベルク-ストラヴィンスキー

▲LP – Hindemith-Schoenberg-Stravinsky(Mercury、MG 50143、モノラル、1957年)

▲MG 50143 – A面レーベル

▲MG 50143 – B面レーベル

▲LP – Hindemith-Schoenberg-Stravinsky(Mercury、SR 90143、ステレオ、1960年)

▲SR 90143 – A面レーベル

▲SR 90143 – B面レーベル]

『これは、パウル・ヒンデミットの SYMPHONY IN B FLAT(1951)とアルノルト・シェーンベルクの VARIATIONS、OPUS 43a(1943)という、かなり最近のヴィンテージである、2つのシリアスな作品のプレミア・レコーディングです。これら“新しい”作品とイーゴリ・ストラヴィンスキーの37年“前”の傑作、SYMPHONIES FOR WIND INSTRUMENTS(1920-改訂1947)という、この前例のない組み合わせでは、一流の作曲家による、成長し続ける音楽文化への多大なる貢献として、我々に今日の管楽の3つの異なるコンセプトを提示することができます。

(This is the premiere recording for Paul Hindemith’s SYMPHONY IN B FLAT (1951) and for Arnold Schoenberg’s VARIATIONS, OPUS 43a (1943), two serious scores of fairly recent vintage. In this unprecedented conpling of these “new” works with Igor Stravinsky’s thirty-seven year “old” masterpiece, SYMPHONIES FOR WIND INSTRUMENTS (1920-revised 1947), it is possible for us to present three divergent concepts of the current wind medium in these major contributions to its ever-growing musical literature by composers of the first rank.) 』

1957年(日本では昭和32年)6月、米Mercuryレーベルからリリースされたイーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)のLP「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」(Mercury、MG 50143、モノラル)のジャケットに指揮者のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)が寄せたプログラム・ノート冒頭部の引用だ。

演奏者のイーストマン・ウィンド・アンサンブルは、《第145話 リード「メキシコの祭り」初録音》でもお話ししたように、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスターにキャンパスをもつロチェスター大学(University of Rochester)の音楽学部に該当するイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)で、フェネルの提唱によって組織された世界初のウィンド・アンサンブルだ。組織されたのは、1952年で、フェネルの指揮によって、米Mercuryレーベルからリリースされた先駆的な数々のアルバムが世界的に評価され、その後も管楽の世界で大きな存在感を示している。

アルバム「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」は、1957年3月24日(日)、ロチェスター市内のイーストマン劇場(Eastman Theatre)でレコーディングされた。米Mercuryがリリースしたイーストマン・ウィンド・アンサンブルの10タイトル目のアルバムで、録音スタッフは、レコーディング・ディレクターがウィルマ・コザート(Wilma Cozart)、ミュージカル・スーパーヴァイザーがハロルド・ローレンス(Harold Lawrence)、エンジニアがC・ロバート・ファイン(C. Robert Fine)という布陣で、いろいろな再生装置で聴いて自身が納得がいくまで原盤のカッティングやテスト・プレスを繰り返したという有名なエピソードで知られるコザートがイーストマン・ウィンド・アンサンブルを録った初アルバムとなった。

また、この時代には、すでにステレオ方式の録音は実用化されていたが、ステレオ方式のレコード・カッティング技術の実用化前だったため、セッションでは、モノラル用とステレオ用にラインを分けて、それぞれの方式のための別々のレコーダーで録音されている。

分かりやすく言うと、モノラル用とステレオ用の2種類のマスターが存在し、1957年の初リリース時のモノラル盤(MG 50143)は、モノラル用マスターから作られ、3年後の1960年にあらためてリリースされたステレオ盤(SR 90143)には、ステレオ用マスターが使われている。その後よく行なわれたモノラル録音を電気的に擬似ステレオ化したものではない。

日本では、録音18年後の1975年に「バンドのための交響作品集」(Philips(日本フォノグラム)、PC-1607)として発売されたステレオ盤が初出で、オランダでも「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」(蘭Mercury Golden Imports、SRI 75057)としてリリースされた。

さて、ここで話は少し飛ぶが、1991年(平成3年)10月、筆者は、東京佼成ウインドオーケストラのレコーディングで京王プラザホテル多摩に宿泊した際、フェネル夫妻と朝食をともにし、そこでとても面白い話を聞いた。

それは、この「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」までのアルバムでは、Mercuryは、アーティスト名を“Eastman Symphonic Wind Ensemble(イーストマン・シンフォニック・ウィンド・アンサンブル)”とクレジットしてきたが、このアルバムからは“Symphonic”が省かれ、クレジットが“Eastman Wind Ensemble(イーストマン・ウィンド・アンサンブル)”に変更されたという話だった。

思わず『“シンフォニック”というのは、誰のアイデアですか?』と訊ねると、『マーキュリーのだ。ビジネス上の都合だろう。しかし、以降は正規のものになったよ。(笑)』と返ってきた。

あまりに面白かったので、大阪に戻って早速手持ちのレコードを確かめると、確かにそのとおりで、1957年発売のモノラル盤のジャケットからは“Symphonic”のクレジットが消えていることをまず確認。しかし、それはあまりに急な変更だったようで、残念ながら、同盤のフェネルのノートが印刷されているジャケット裏やレコードのレーベル面には、“Symphonic”の文字がしっかりと残っていた。つぎに、1960年のステレオ盤はどうなのかを見ると、そちらのクレジットからは“Symphonic”の文字は完全に消えていた。きっと世界初の“ウィンド・アンサンブル”の提唱者、命名者として、フェネルはなんとかしたかったのだろう。

収録曲が、パウル・ヒンデミットの『コンサート・バンドのための交響曲変ロ調』、アルノルト・シェーンベルクの『主題と変奏、作品43a』、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『管楽器のための交響曲』という大御所の作品がズラリと並んでいるこのアルバムが作られたこのときは、確かにクレジット変更の絶好のタイミングだった。

フェネル自身が書いたプログラム・ノートも気持ちの入ったものだった。

しかし、その冒頭で、ヒンデミットとシェーンベルクを“premiere recording”と書いてしまったことは、ややフライング気味の表現だったと評価されることになるかも知れない。

他方、1953年から1993年までの過去40年間のフェネルの主要録音を本人インタビューを交えながら1冊の本にまとめたロジャー・E・リクスン(Roger E. Rickson)の労作「ffortissimo A Bio-Discography of fredrick fennell the first forty years 1953 to 1993」(米Ludwig Music、1993年)でも、両曲は“premiere recording”だと記載されている。(参照:《第52話 ウィンド・アンサンブルの原点》)

調べると、シェーンベルクに関しては、間違いなく“premiere recording”だった。つまり“世界初録音”な訳だ。

しかし、ヒンデミットに関しては、著者のリクスンも、作曲者がほぼ同じ頃にヨーロッパで自作自演の録音を行なっていたことに気づいており、『レコードの現物を確認したが、録音日の記載はなかった。』と書いている。これには留意しておく必要がある。

そこで、あらためて記録を確認すると、実際には、ヒンデミットは、フェネルの録音の4ヵ月前の1956年11月に、海を渡ったロンドンのキングズウェイ・ホールで、他の自作品とともに、フィルハーモニア管弦楽団のメンバーを指揮して『コンサート・バンドのための交響曲変ロ調』の録音を英Columbiaレーベル(EMI)に行なっていた。

この録音は、イギリスでは、1958年に「Paul Hindemith、Vol.1」(英Columbia、33CX1512)としてモノラル盤がリリースされ、アメリカでは、同年に、Angelレーベルから「Paul Hindemith Conducts His Own Works、Vol.1」(米Angel、35489、モノラル / S-35489、ステレオ)として、モノラル盤の先行発売後、ステレオ盤がリリースされた。

つまり、時系列で整理すると、アメリカでは、後に録音されたフェネル盤が先に発売されたことがわかる。ちょっとした歴史のいたずらと言えなくもないが、レコードとして市場に並んだのはフェネル盤が間違いなく世界初となった。

この結果、ヒンデミットのこの交響曲については、“premiere recording”を“世界初録音”と訳すと事実誤認となり、“recording”を“録音物(商品)”ととらえるなら、“世界初商品化レコード”と言えることになる。確かに、その意味においては“premiere”なのだ。なので、冒頭の直訳では便宜上“プレミア・レコーディング”とした。和訳は難しい。

しかし、なにしろ、インターネットなど無かった当時の話だ。このとき、フェネルがヒンデミットの自作自演録音について、どこまで正確に認識していたかについて、残念ながら、もう彼に訊くことはできない。

しかし、リクスンとのインタビューでは、フェネルが、ヒンデミットに“premiere recording”と印刷されていたはずのこのイーストマンのレコードを贈ったら、ヒンデミットからはお返しに自身の写真が送られてきたと答えている。それ以外の言及はないので、ヒンデミットはレコードの贈呈を喜んだという事実だけがのこる。とてもいい話だ。

互いに互いを認め合うアーティスト同士のリスペクトを感じさせるエピソードである。

▲LP – バンドのための交響作品集(Philips(日本フォノグラム)、PC-1607、1975年)

▲PC-1607 – A面レーベル

▲PC-1607 – B面レーベル

▲LP – Hindemith-Schoenberg-Stravinsky(蘭Mercury Golden Imports、SRI 75057、1975年)

▲SRI 75057 – A面レーベル

▲SRI 75057 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第147話 ブリーズ・オン・ステージ

▲チラシ – ライムライト・コンサート(1991年6月17日、大阪厚生年金会館中ホール)

▲プログラム – ライムライト・コンサート(同)

▲同、演奏曲目

▲同、演奏メンバー

『本日は、ブリーズ・ブラス・バンド・ライムライト・コンサートにご来場下さいましてありがとうございます。昨年の7月2日、いずみホールに於きまして皆様のあたたかい拍手に支えられてデビューをさせて頂いて以来、西日本各地で様々なコンサートを、又、レコーディング等を活動の軸に過ごしてまいりましたところ、早くも一周年を迎えようとしています。B.B.B.では今後の演奏活動を3つのスタイルで展開して行く事に決定致しました。

「ライムライト・コンサート」(本拠地大阪での本格的なスタイルのコンサート)

「ブリーズ・イン………」(各地でのコンサート)

「ア・ファンタスティック・ナイト」(ライト・ミュージックを中心としたコンサート)

これからも益々意欲的に取り組んでいきたく、皆様のご支援を心からお願い申し上げます。

間もなく開演です。“ブラス・バンド・ミュージック”ごゆっくりとお楽しみ下さい。

Breeze Brass Band 一同』

1991年(平成3年)6月17日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開催されたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)初の定期公演“ライムライト・コンサート”のプログラムに、BBB代表で常任指揮者の上村和義さんが書いたファンへの挨拶文の全文である。

幾つかの来日バンドの大阪公演を除くと、およそナマの“ブラスバンド”なんか聴いたことがないという音楽ファンが圧倒的大多数をしめる大阪の地にプロの“ブラスバンド”を本格的に立ち上げるという、いわば“未知との遭遇プロジェクト”である。参加するプレイヤー諸氏も、専門大学の学生時代に“室内楽”や“オーケストラ・スタディー”のトレーニングをつんだ経験はあっても、イギリスのように“ブラスバンド・スタディー”まで受講できるわけではないから、BBBでは、まず、プレイヤーに“ブラスバンドとはどういう音楽なのか”という音楽的構造を実際の演奏を通じてほとんどゼロから体感してもらいながら、経験値を積み上げていくという内的な課題がある一方、外的には“ブラスバンドの魅力”をいかにして広め、“ブラスバンド”というジャンルの固定ファンをどう獲得していくのかというテーマを同時進行的に追い求める必要があった。

これらの諸点において、1990年(平成2年)7月2日(月)、いずみホールで行なわれたBBBの「デビュー・コンサート」の成功は、そこに至る様々なプロセスと音楽的準備の賜物であり、バンドの大きな財産となった。評論家諸氏の演奏評も概ね好意的で、何よりもサクソルン属金管楽器を中心に編成される“ブラスバンド”のパイプ・オルガン似のサウンドを初めて耳にした音楽ファンからの熱狂的な反響とともに、ライヴ・テープを送って聴いてもらった海外の作曲家や指揮者から戻ってきた期待をこめた感想もバンドを大いに勇気づけることになった。(参照:《第140話 ブリーズのデビューとブラック・ダイク》)

“今ヨーロッパで起こっている新しい潮流を、タイムラグなくオン・タイムで日本で再現する!”という基本コンセプトを売りに、大阪でひとりぼっちで立ち上がったBBBではあったが、どういう経緯なのか分からないが、前述のライヴ・テープの1本がロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場のオーケストラ監督ブラム・ゲイ(Bram Gay、1930~2019)の手に渡り、その演奏評がイギリスの「ブリティッシュ・バンズマン(British Bandsman)」紙(1887年9月創刊)を飾ったこともあった。

BBBが、デビュー前から本場イギリスと双方向のコミュニケーションをキープしながら、世界の“ブラスバンド・ファミリー”の輪に加えてもらえた事実は大きい。

そして、その成果として、BBBは、未出版や日本に楽譜が入ってきていない楽曲をつぎつぎと日本のステージに上げること(日本初演)ができたのである。指揮者や独奏者からの売り込みも結構あり、大阪にやってきた来日オーケストラの金管プレイヤーが何人かで突然訪ねてきたこともあった。世界的なネットワークがどんどん広がっていったのである。

デビュー後、BBBは、次年度から始める定期公演に向け、海外の新譜レコードがどんどん届く拙宅に定期的に集まり、レコードを流しながら、2年後以降の活動方針についてミーティングを重ねた。まるで、作戦本部である。

最初に決めたのは、活動の中核となる定期公演の名称を“ライムライト・コンサート”に定めたことだった。これは、上村さんが、せっかく新しいことを始めるのに、“BBB第~回定期演奏会”というような、どこにでも転がっていそうな堅苦しいものではなく、何か都会的で洒落っ気のあるものにしたいと発議したことから議論が始まり、参加者全員で提案を出し合った結果、最終的に筆者のアイデアが賛成多数で採択された。とても名誉なことだった。

ついで、自主公演を年4回開催と決定。ブラスバンドの真価を問う“ライムライト・コンサート”は大阪で年2回開催とし、大阪以外の地で行なう“ブリーズ・イン・(地名)”と、ポップなテイストを感じさせるレパートリーを色照明やミラーボールなどでショーアップしながら聴かせる“ア・ファンタスティック・ナイト”をそれぞれ各1回行なうことにした。

レパートリー面では、「デビュー・コンサート」で取り上げたフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ジュビリー序曲(Jubilee Overture)』、『オリエント急行(Orient Express)』、『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』がすこぶる好評だったので、「ライムライト・コンサート」のシリーズでは、スパーク路線は継続し、加えてベルギーの新星ヤン・
ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の注目作『エクスカリバー(Excalibur)』を取り上げ、エリック・ボール(Eric Ball)やゴードン・ラングフォード(Gordon Langford)などのクラシカルな名作もくりかえし継続的に手がけていくことになった。

ともかく、当時のBBBのミーティングは、メンバーが皆若く血気盛んであり、その大阪にはない新しいカルチャーを作ろうとする意気込みには並々ならぬものがあった。

しかし、そんなところに水をさす事件が起こった。

一度は次年度の使用もOKが出ていたいずみホールから、ステージ上の奏者の数にクレームがついたのである。多すぎると。

当時、BBBのマネージメントは、大阪アーティスト協会を通じて行なわれていたが、協会からホール側の話を伝えられた上村さんは、最初は何の話なのかさっぱり意味がわからなかったそうだ。その話を上村さんから電話で伝え聞いた筆者も右に同じで、協会も当惑していた。

“クラシック音楽専門ホール”を謳ってオープンしたこのホールには、何でも音楽ディレクターという演目を審査する人がいたそうだ。(知らんけど)

上村さんから話を聞いた筆者は、直感的に『どこの偉い人か知らんけど、“ブラスバンド”に関しては皆目“素人”やな。』と感じたので、25パートある金管楽器に打楽器が加わる“ブラスバンド”の楽器編成の詳細を協会からホールに伝えてもらい、そのために書かれた楽曲を演奏表現するには、どうしてもこの音数(おとかず)が必要になると話してもらうことにした。

しかし、それが先方の心証を害したようだ。しばらくして再びかかってきた電話で、上村さんは、『とにかく人数を減らせ、の一点張りなんですわ。何でも、ホールのシャンデリアがビリッと言ったとか言わなかったとか。訳わからんことをぬかしてます。金管は大きな音がする、という先入観をもっている相手のようで…。しかし、おかしいんですよ。ボク、大阪シンフォニカー(現、大阪交響楽団)で、サンサーンスの“オルガン・シンフォニー”をフルでやりましたし、そのときは人数制限の話なんか出てなかった。』という。

筆者も『そうですね。こちらも、録音をお願いしたホールのベテラン音響さん(元NHK)から、“こんど、自衛隊の“軍楽隊”が来るんで、楽しみにしてるんです。”と聞きましたし、どこかのオケが(ストラヴィンスキーの)“火の鳥”をやるとも聞きました。』と応じ、とにかく協会にもう一度ていねいに話をしてもらうことにした。

しかし、やがて返って来た回答は、まるでふざけたものだった。

上村さんは、電話で『そこまで言うのならやってもいいが、ただし、金管は12名以下で演奏するように、と言ってきました。埒あきませんわ。』と怒り狂っている。

ここまで来ると、たちの悪いただの言いがかりのように聞こえる。

筆者も、一般貸しの日の演目にそこまで首を突っ込んでくるホールの“上から目線”にカチンと来たのと同時に、200年近くほぼ同じ楽器編成で演奏を積み上げてきた“ブラスバンド・ミュージック”に対する侮辱だと受け取った。

大阪ネイティブがこんな不条理を鵜呑みにすることはない!

上村さんには、速攻で『ホールを変えよう』と提案!!

BBBの定期公演の会場がキャパが821席のいずみホールから、1110席の大阪厚生年金会館中ホールに移ったのは、以上のような事件に直面したことが主原因だった。

幸い、年金の中ホールは、平成元(1989)年まで活動した大阪府音楽団(府音)がしばしば定期演奏会を開催してきたホールで、管楽器の音楽にひじょうにフィットした“いい音”のするホールとして知られていた。その上、演目にアレコレ口を挿むような高飛車なホールではなかった。(参照:《第37話 大阪府音楽団の記憶》)

その一方、BBBのミュージカル・スーパーヴァイザーとしては、この一件を通じ、もっと多くの音楽ファンに“ブラスバンド・ミュージック”を身近に知ってもらう必要性を強く感じた。

ファン作りの推進である!

その結果、生み出されたのが、1992年から1994年の3年間に合計6タイトルを自費制作したCD「ブリーズ・オン・ステージ」シリーズである。コンサートの来場者に“ブラスバンド・サウンド”をお土産として家まで持って帰ってもらおうという志向の企画だった。

使用音源は、すべて筆者が録ったBBBのライヴ録音で、編集は一切無し。ために曲によっては小さなキズがなくもないが、“積極的にチャレンジした結果起こった事件は不問”という筆者の制作方針から、CDの音楽的内容の一切は演奏者ではなく筆者の責任に帰す。なので、些細なキズより、BBBが作ろうとしていたサウンドやノリが体現されているものを積極的にCD化した。

これがBBBのコンサートに来場するファンに受けた!

そして、各会場で毎回100枚以上が売れる“隠れヒット作”となった。

と同時に、バンドのサウンドはぐんぐんピュアになっていき、プレイのモチベーションも向上。やがてBBBは、ヨーロッパに招かれるまでのグループとなった。

これは、正しく“怪我の功名”!!

わが音楽人生の中でもトップ5に数えることができる“強い憤り”を音楽作りのエネルギーに昇華させたひとつの大事件であった。

▲CD – Breeze On Stage Volume 1 Postcard from Mexico(BBB、BBBCD-001、1992年)

▲BBBCD-001 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 2 Oceans(BBB、BBBCD-002、1992年)

▲BBBCD-002 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 3 Stage Centre(BBB、BBBCD-003、1993年)

▲BBBCD-003 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 4 Pantomime(BBB、BBBCD-004、1993年)

▲BBBCD-004 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 5 Slipstream(BBB、BBBCD-005、1994年)

▲BBBCD-005 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 6 Romance(BBB、BBBCD-006、1994年)

▲BBBCD-006 – バックインレー

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第146話 ウィンド・オーケストラのための交響曲《第2弾》

▲CD – ウィンド・オーケストラのための交響曲[2](東芝EMI、TOCZ-9253、1995年)

▲ TOCZ-9253、インレーカード

1994年(平成6年)、東芝EMIが、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)の演奏で録音を開始。都合5枚のアルバムが世に送り出された「ウィンド・オーケストラのための交響曲」シリーズは、ウィンド・オーケストラ(吹奏楽)のために作曲されたシンフォニーだけにスポットをあてた画期的な交響曲シリーズだ。未完に終わったとはいえ、世界中のどの商業レコード会社にも類例を見ない超アグレッシブな企画となった。

プロジェクトの原案は、前々話《第144話:ウィンド・オーケストラのための交響曲》でお話ししたとおり、その前年の1993年(平成5年)5月に市音のオリジナル自主制作シリーズとして企画を立ち上げた“全集”プロジェクトで、発案者である筆者は、当時の市音団長で常任指揮者の木村吉宏さん(1939~2021)からシリーズ監修を委ねられていた。

とても名誉なことだった。

意気投合した木村さんとはすぐに中身の大筋で合意。氏の指示によって直ちに市音プログラム編成委員(当時のリーターは、竹原 明さん)による所蔵楽譜のチェックが始まり、その結果をもとに最初の企画会議が、6月24日(木)に市音練習場2階奥のアンサンブル室で行なわれた。

出席者は、木村さんのほか、プログラム編成委員とマネージャーの各位、そして言い出しっぺの筆者。当時の市音は、大阪市という行政の一組織だっただけに、やや場違いの筆者を除けば、さすがにみなさん会議というものに馴れている。テーブル上にはプログラム委まとめの楽器編成表付きの交響曲のリストが配られ、企画意図の説明、リストを通して課題の洗い出しなど、粛々と質疑が進められた。

しかし、なにしろ世界初企画である。制作費の予算請求という現実的課題だけでなく、マーケットの構築も課題のひとつになるかも知れなかった。分かりやすく言うと、狭い国内マーケットだけをたよりにするようなものであってはならず、あらゆるコンセプトに“大阪から世界に向けて発信”という基本理念が貫かれていた。国際交流事業は、役所の中でもコンセンサスを得やすい話であり、創作を掌る海外の作曲家と緊密なネットワーク作りなど、同時進行的あるいは双方向の協力関係を得ることが必要不可欠だと思えた。

当然、海外通販も視野に入れていたのである。

幸い、この直後、筆者は、東芝EMIによる「吹奏楽マスターピース・シリーズ」のオランダ録音ほかの目的の渡欧があり、現地では、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の最新作『交響曲第4番(Forth Symphony)』がセット・テストピース(指定課題)として使われる“世界音楽コンクール1993(Wereld Muziek Concours 1993)”の会場も訪れることにしていたので、現地で出会う作曲家や演奏家、出版社と情報交換するので、帰国後の7月8日(木)の次回会議では成果を報告すると約し、この日の会議は終わった。(参照:《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》)

そして、オランダ到着初日の6月26日(土)の夜、交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』の作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)らに誘われるままついていったオランダ王国陸軍バンド(Koninklijke Militaire Kapel / KMK)のコンサートではじめて聴いたユリアーン・アンドリーセン(Jurriaan Andriessen、1925~1996)の『交響曲第2番(Symphonie No.2)』から、渡欧最初の音楽的衝撃を受けた。演奏も凄かったが、作品も凄かった!(参照:《第70話 オランダKMK(カーエムカー)の誇り》)

なぜこんないい曲が普通に演奏されているのだ!

早速、ヨハンからこのシンフォニーの版権をもつ出版社モレナール(Molenaar)の社長、ヤン・モレナール(Jan Molenaar)を紹介されたが、氏に質問を投げると、『この曲は、高度なためあまり演奏されないと思うので出版予定はない。リクエストがあればレンタルするが…。』とそっけない回答に正直失望。手続きも面倒そうなので、残念ながら構想上の優先順位を下げざるを得なかった。モレナールと言えば、かつてヨハンが売り込みのために持ち込んだ『指輪物語』のスコアを見て、『こんな長い曲はゼッタイ売れないので…』といって曲のサイズだけで自社での出版を断った人物だ。ひょっとして、他にも優れた作品が眠っているのでは、と思わせる残念な出会いとなった。

一方、世界音楽コンクール(WMC)で聴いたお目当てのリードの『交響曲第4番』もまた、充実したすばらしい作品だった。たまたま聴いたバンドは、すべてオプションのチェロを入れた演奏だったが、楽譜を見ると仮にそれを省いても支障ないように書かれていたので、これは収録すべき作品だと直感し、帰国後もそのように報告させてもらった。

話はどんどん前に進む。

残るはマネージメント部門、大阪市教育振興公社の予算化の報を待つばかりだ。

しかし、ちょうどこの頃、公社では市音初の自主制作CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年2月27日頒布開始)の制作にゴーサインが出たばかりで、その結果が出ない内からいきなり次の新企画の稟議を上げるのはかなり難しそうだった。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

ここでしばし、予算上のペンディングとなった訳だ。

そこへ白馬の騎士のように現れたのが、東芝EMIだった。

当時の市音は、東芝EMIの様々な部門から依頼録音を受けていたが、その中から“ぜひ、ウチでやらせてください”と手を挙げたのは、ヒット街道驀進中だった「大栗裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195、1993年)の録音を手がけたチームだった。

早く企画を始めたかった市音が、申し出を喜んで受けたことから、シリーズは、市音の自主制作盤から、東芝EMIのカタログ商品(商業CD)へと立ち位置が変った。マーケットの反応がまったく読めない中、商業レコード会社としてはかなり勇気ある決断だった。

一方の市音側としても予算面の心配をしなくてもよくなった反面、企画の自由度は後退せざる得ない局面もあることが予想された。

例えば、第1弾には、市音が最近手がけ、手の内にあるものから選ぶのがベストという点と話題性から、ヨハン・デメイの交響曲第1番『指輪物語』と同2番『ビッグ・アップル』のカップリング盤(2枚組)を当初提案したが、東芝は『録るんだったらどちらか一方ですね。』と提案を持ち帰り、森田一浩さんをはじめ、東芝関係者の意見を集約し、『ビッグ・アップル』にもう1曲をカップリングしたものにしたい、と返してきた。白馬の騎士のクライアントの意向には逆らえない。その結果、第1弾は、テーマをニューヨークに装いを改め、フランスのセルジュ・ランセン(Serge Lansen)が作曲し、デジレ・ドンデイヌ(Desire Dondeyne)がオーケストレーションを施した『マンハッタン交響曲(Manhattan Symphony)』をカップリングした「ウィンド・オーケストラのための交響曲[1]」(東芝EMI、TOCZ-9242、1994年)となった。

『指輪物語』については、前記の自主制作CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801)が市音事務所からの通販だけでアッという間に1500枚を売り切ったというニュースも伝わっていたので、東芝の関心度は薄かったのかも知れない。

また、この結果を受け、大阪方は、東芝EMIとタッグをくむシリーズの今後は、在京の専門筋をも納得させる選曲でないと企画が通らないということを学習した。

そんな訳で、『つぎ(第2弾)はどうすんのや?(どうするんだ?)』という木村さんの問いに対し、筆者は、ややオーソドックスながら、アメリカのバンド界の顔というべきアルフレッド・リード(Alfred Reed)の『交響曲第3番(Third Symphony)』に、ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager)の『交響曲第1番(Symphony for Band No.1)』、ジェームズ・バーンズ(James Bernes)の『交響曲第2番、作品44(Second Symphony, Opus 44)』を加えた3曲を提案。

リードの“3番”については、最新の“4番”もありと話したが、木村さんからは『“4番”やと、チェロをどうするかで、アレコレ言い出しよるかも知れんしな(言いだされるかもわからんしな)、ここは“3番”にするわ(決めるわ)。』と返って来た。

もちろん異存はなかった。

その後、この曲案は市音からそのまま東芝に提示され、今度はすんなりOKとなった。

しかし、好事魔多し。運命の1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分52秒、京阪神地方を激しい揺れが襲った。阪神・淡路大震災の発生である。

筆者も、その直前に“バチッ”という電気がショートするような音がして眼が覚め、立ち上がったところにズドーンときた。近所でも教会の塔が倒れたり家屋損壊があり、淀川の堤防が崩れるような大地震だったので、正直何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。何日かたってやっとのことで市音に行くと、木村さんが大きなジェスチャーで『ええとこ(いいところ)に来た。録音、どうする?』と声がかかる。話を聞くと、第2弾の録音に予定したホール(尼崎のアルカイックホール)の舞台装置が落ちて立ち入り禁止となり、他のホールも被害点検中で代わりが見つからないのだという。

木村さんからはまた、脳味噌を含め身体全体が強烈に揺さぶられたせいか、プレイヤーの音にも潤いがなくなって、音楽感を取り戻すにはかなりの時間が必要だという見立ても聞いた。大きな余震も続き、楽団のスケジュール上も、ほぼ1ヵ月後の録音予定だけに、仮に代わりの録音会場が見つからなかった場合、早急にバラシ(キャンセル)を考えないといけないという状況だった。

ここでも大変なことが起こっていた。

ところが、そんなふたりの大騒ぎに割り込むように、元市音クラリネット奏者でマネージャーの小梶善一さんの『ここ、どうです?』というやたら落ち着いた声が響いた。『ちょうど2ヵ月前(1994年11月)にオープンしたばかりの真新しいホールで、連絡したら、被害は無く、今やったら、偶然、録音予定日と同じ日が空いているそうです。』

ふたりで小梶さんのPCを覗き込むと、ホールは、大阪狭山市のSAYAKAホール。映し出された大ホールは1200名のキャパ。大きさは申し分ないが、新装開店というのが気になった。ホールの各部材が完全に乾く前は、設計上の音響が発揮されないというケースに遭遇した過去の苦い経験があったからだ。周囲に確認しても、誰もホールの音を知らない。

“苦労するかも知れない”と思いながらも、その場は『東芝さんに現状を話し、当初予定したホールが地震で使用禁止になって、新装のSAYAKAホールだけが同じ日程で録音を組めるが、一旦バラすか、予定どおり進めるか判断を仰ぎましょう。』と言うしかなかった。

東芝と市音の協議の結果、録音はゴーサイン。1995年(平成7年)3月1日(水)~3日(金)、SAYAKAホールでの第2弾のセッションでは、初日ジェイガー、2日目リード、3日目バーンズの順の録音が決まった。

しかし、いざ始まってみると、これが想像を絶するたいへんな現場となった。いつものと同じステージ配置なのに音が自然に流れ出さないのである。なぜかプレイヤー間の連携も取りづらく、マイク乗りもよく無かった。

ステージ上では、録音ディレクターの佐藤浩士さん、エンジニアの小貝俊一さん、アシスタントの本間 篤さんだけでなく、市音スタッフやプレイヤーまで、関係者総出で楽器や椅子を何度も移動、オケピットを動かし、その高さを調整してはまたポジション移動と、なんとか良好なプレゼンスを得ようと懸命の試行錯誤が繰り広げられた。

結果的に、CD「ウィンド・オーケストラのための交響曲[2]」(東芝EMI、TOCZ-9253)は、1995年6月21日(水)にリリースされ、斯界の高い評価を得た。

しかし、それはこの現場で注がれた全員の情熱があったればこその成果だった。

今あらためて、関係者すべてに大きなブラボーを贈りたい!!

ブラボー!ブラボー!ブラビッシモ!!

大地震のニュースのたびに想い出す、遠い記憶の1ページである!

▲▼セッション風景(1995年3月3日、SAYAKAホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第145話 リード「メキシコの祭り」初録音

▲19CD Box – Frederick Fennell The Collection(Venias、VN032、2017年)

▲ 同、収録曲一覧

▲ LP – La Fiesta Mexicana(米Mercury、MG 40011、1954年)

▲MG 40011 – A面レーベル

▲MG 40011 – B面レーベル

1954年5月12日(水)、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスターのイーストマン劇場(Eastman Theater)で、マーキュリー・レコードによるフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensenble)演奏のあるLPレコードのレコーディング・セッションが行なわれた。

録音会場となったイーストマン劇場は、私学のロチェスター大学イーストマン音楽学校(The Eastman School of Music of the Rochester University)のパフォーマンスの中核施設で、オープンは1922年。コダックの創業者ジョージ・イーストマン(George Eastman、1854~1932)の寄付で建築費が賄われ、同じくイーストマンが1921年に私財で創立した同音楽学校と同様、“イーストマン”の名が冠されている。オープン当初は、3,352席を持っていたが、21世紀の大改修で、より快適な2,260席のホールに作り変えられた。その際、イーストマン・コダック社が再び10万ドルの寄付を行なったことから、新装なった劇場内のコンサート・ホールは、“イーストマン劇場コダック・ホール(Kodack Hall at Eastman Theater)”と名がつけられている。

この日のレコーディングは、マーキュリーがイーストマン音楽学校の演奏家を起用した「アメリカン・ミュージック・フェスティウァル・シリーズ(American Music Festival Series)」と呼ばれる現代のアメリカ音楽を追う野心的なシリーズの第12集で、イーストマン・ウィンド・アンサンブルが演奏した盤としては、「American Concert Band Masterpieces」(Mercury、MG 40006、1953年)、「Marches」(Mercury、MG 40007、1954年)につぐ3枚目のアルバムとなった。

現代アメリカを追うシリーズらしく、レパートリーは、以下のようにすべてアメリカの作曲家の手になる作品だった。

メキシコ民謡による交響曲「メキシコの祭り」
La Fiesta Mexicana – A Mexican Folk-Song Symphony
(H. Owen Reed)

カンツォーナ
Canzona
(Peter Mennin)

詩篇
Psalm
(Vincent Persichetti)

荘厳な音楽
A Solemn Music
(Virgil Thomson)

コラールとアレルヤ
Chorale and Alleluia
(Howard Hanson)

録音スタッフは、スーパーバイザー(日本流だとディレクター)およびエンジニアがデヴィッド・ホール(David Hall)、テープ・トランスファーがジョージ・ピロス(George Piros)だった。

当時のマーキュリーは、伝説的エンジニアのC・ロバート・ファイン(C, Robert Fine、1922~1982)が始めたシングル・マイク(1本の無指向性マイク)によるひじょうに明瞭で定位感のあるフルレンジ・モノラル録音が評者から“リビング・プレゼンス”と呼ばれて人気を集め、1954年のこの録音も、指揮者の少し後方の上方およそ15フィート(5メートル近く)にアレンジしたノイマン(アメリカでは、“テレフンケン”と呼ばれた)のU-47というマイク1本で録音された。

音楽史的な視点で捉えると、複数のマイクでバランスをとって録音する他社の方式とは異なる手法をとるマーキュリーと、“ウィンド・アンサンブル”という新しいコンセプトを押し出したいフェネルとがタッグを組むことになったことは、偶然の産物とは言え、正しく運命的な出会いだったような気がする。

また、マーキュリーは、セッション・テープをコピーしてマスタリングを行なった他社とは違い、セッション・テープをそのままマスター・テープとして使っていた。アナログ・テープで録音を行なった時代だけに、サウンドの鮮度と言う点でこれも見逃せない。

ステレオ録音の始まる以前のモノラル録音だが、今もフェネルのイーストマン・ウィンド・アンサンブルの録音が評価されるのは、こうした制作側の姿勢という側面もあったのではないだろうか。

さて、こうして録音された演奏は、3ヶ月後の1954年8月、「La Fiesta Mexicana」(Mercury、MG 40011)としてリリースされた。前述のように、これは当時のアメリカの作曲家たちのオリジナル作品だけで構成されたアルバムであり、全曲が“初録音”だったが、その中でも、“メキシコの祭り”というメキシコ民謡をベースに書かれた色彩感豊かなシンフォニーがこのアルバムを通じて世界に向けて発信された意義はひじょうに大きい。曲名がアルバム・タイトルに選ばれたのも当然だろう。

1950年2月26日(日)、ウィリアム・F・サンテルマン少佐(1902~1984)指揮、アメリカ海兵隊バンド(“The President’s Own” United States Marine Band)による初演の4年後の出来事である。(参照:《第46話 H・オーウェン・リードを追って》)

ここで少し時代は飛ぶが、《第52話 ウィンド・アンサンブルの原点》でお話したように、1991年10月、東京佼成ウインドオーケストラのレコーディングのために宿泊した京王プラザホテル多摩でフェネル夫妻との朝食の際、イーストマン時代のことを伺ったことがある。そのとき、このアルバムについても少し話題をふると、マエストロは悪戯っぽい目をしながら、こう応じてくれた。

『あの録音は、その日ハワード・ハンソン(イーストマンの校長)がやるはずだった別の録音が彼のお母さんが亡くなったためにキャンセルになって、その代わりに急遽やることになったものなんだ。本当はもっと後にやるはずだったんだが、マーキュリーのスケジュールが一杯で延期不能となって….。5曲を2時間半のセッションで録ったんだ。“メキシコ”のコントラバス・クラリネットの音が魅力的だろう?』

これは、いろいろなところで、彼が話しているので特に目新しい話題でもないが、本人の口から直接聞くと、答え合わせをしているようでなんだか嬉しい。

その後、このアルバムは、マーキュリーがシリーズの規格を変更して、ゴールデン・ライアー・シリーズ(Golden Lyre Series)として発売していた16枚のアルバムをカタログからすべて削除し、“リビング・プレゼンス”を謳うオリンピアン・シリーズ(Olympian Series)に組み込んだことから、1956年10月、「Mercury、MG 50084」という新たな規格番号で再リリースされた。その際、音量の増大によりレコード溝のピッチ(間隔)を調整するマージン・コントロールを改良した新たなカッティングが行なわれている。

また、マーキュリーの各アルバムは、イギリスでも1956~1958年にパイ(Pye)が、1958年以降はEMIがライセンス製造したことから、このアルバムもパイ盤の「Mercury、MRL 2535」とEMI盤の「Mercury、MMA 11084」という2種類のイギリス・プレスが存在する。日本でも、1975年に日本フォノグラムから「Mercury、PC-1622(M)」としてリリースされた。

プレスが違えば音も違う。

マエストロとの会話中、“当然イギリスの初回盤(パイ盤)も日本盤も持っていますよ”と話すと、さすがの彼も目を丸くしていた。

“なんてヤツだ!”という顔をしながら…。

若き日の愉快な想い出である!

▲LP – La Fiesta Mexicana(米Mercury、MG 50084、1956年)

▲MG 50084 – A面レーベル

▲MG 50084 – B面レーベル

▲LP – La Fiesta Mexicana(英Mercury(Pye)、MRL 2535、1950年代)

▲MRL 2535 – A面レーベル

▲MRL 2535 – B面レーベル

▲LP – ラ・フィエスタ・メヒカーナ(La Fiesta Mexicana(Mercury(日本フォノグラム)、PC-1622(M)、1975年)

▲PC-1622(M) – A面レーベル

▲PC-1622(M) – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第144話 ウィンド・オーケストラのための交響曲

▲木村吉宏(1939~2021)(大阪市音楽団練習場前)

▲CD – ウィンド・オーケストラのための交響曲[1](東芝EMI、TOCZ-9242、1994年)

▲TOCZ-9242 – インレーカード

『よし! その話、こうた(買った)!!』

1993年(平成5年)5月、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)の団長兼常任指揮者(当時)の木村吉宏さん(1939~2021)から電話が入り、昼食をご一緒した際、木村さんのある問いに応えた筆者の言に対し、周囲も驚く大きな声で、もの凄い勢いで返って来た言葉だ。

場所は、森之宮ピロティホール併設のアピオ大阪(大阪市立労働会館)1階のレストランだった。

当時の市音は、1991年から、東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどとともに東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピースシリーズ」(3枚組ボックス全10巻:TOCZ-0001~0030)の国内レコーディングの一翼を担っており、市音としての初録音盤の「“吹奏楽:ワーグナーの饗宴”Vol.1」(TOCZ-0003)を含む《第1集》が1991年3月27日(水)に、2枚目の「“吹奏楽:ロシアの巨匠たち” VOL.2」(TOCZ-0006)を含む《第2集》が1991年10月23日(水)に、3枚目の「“吹奏楽:フランスの巨匠たち” VOL.2」(TOCZ-0009)を含む《第3集》が1992年4月22日(水)にリリースとなっていた。(参照:《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》

また、単独発売盤として国内吹奏楽CD史上空前のセールスを叩き出した「大栗裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195)が1993年1月20日(水)に、「吹奏楽ベスト・セレクション’93」(東芝EMI、TOCZ-9205)が同年5月12日(水)に発売。活発なレコーディング活動が行なわれていた。(参照:《第43話 大栗 裕「仮面幻想」ものがたり》、《第44話 朝比奈 隆と大栗 裕》

その一方、1992年5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールで行なわれた「大阪市音楽団 第64回定期演奏会」で日本初演されたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』をNHKがライヴ収録し、同年8月16日(日)のFM番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」でオン・エアされ、全国的な話題となり、その結果、1994年2月27日(日)に市音初の自主制作盤としてリリースされる「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801)の制作プロジェクトもなんとか目鼻がつく段階まで進んでいた。(参照:《第58話 NHK ? 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》、《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

個人的にも、この短期間に、“マスターピース盤”3枚と“大栗盤”のプログラム・ノートの執筆とNHK番組のナビゲーター、市音初の自主制作盤のプロデューサーまでつとめることができたことは、とても愉快な想い出であり、誇りに思っている。

話を元に戻そう。

冒頭の木村さんのクエスチョンは、以下のようなものだった。

『東芝(EMI)の録音やNHKのラジオがあって、ウチの連中、みんな喜んどる(喜んでいる)けどなぁ、それではあかんのや(ダメなんだ)。これからのわが社(市音)は、わが社独自のもの(企画)をやっていかな(いかないと)、あかんのや(ダメなんだ)。なんぞ(何か)、ええ考え(面白いアイデア)ないか?』(カッコ内は筆者)

大阪弁バリバリのこの発言をもう少し噛み砕くと、持ち込まれた“依頼もの”だけを待っているようではダメで、誰もがやったことがない独自色のある“自主制作もの”がやれないか、という趣旨の質問だった。

これを聞いた瞬間は、正直まさかこの昼食の席で、楽団の将来を左右するかも知れない、そんな重大な質問が飛んでくるとは思ってもみなかった。しかし、目の前の現実として、《第3集》まで進んだ東芝EMIの“吹奏楽マスターピースシリーズ”が、監修者の石上禮男さんの発案で、《第4集》、《第5集》をアメリカの大学バンドで、《第6集》をヨーロッパのプロで録ることが決まっており、しばらくこのシリーズの国内録音がないのも事実だった。年間150回近い演奏機会がある市音を束ねる長としては、せっかくレコーディングで盛り上がった楽団としての上昇機運を萎めかねない状況を座視できなかったのだろう。

道理で、昼食時間とは言え、筆者を楽団事務所の外に連れ出した訳だ。

一瞬いろいろな考えが頭をめぐったが、その中から長く暖めてきたアイデアを1つだけ返すことにした。

『吹奏楽のオリジナル交響曲全集なんてどうでしょうか。』

第47話 ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動》でもお話ししたように、それは、3年ほど前に佼成出版社の柴田輝吉さんの質問に答えて一度発案したことがあった。しかし、その際は制作側と演奏側の議論が噛み合わず、敢えなくボツとなった。柴田さんから伺った話では、誰の指揮でやるのか、ということも政治的な課題となっていたらしい。

しかし、筆者にとっては、この交響曲録音構想は、1983年(昭和58年)に市音60周年を期して企画したLP「吹奏楽のための交響曲(日本ワールド、WL-8319)以来、ずっと時間をかけて暖めてきたアイデアであり、1988年の『指輪物語』など、新作の登場により、中身は絶えずアップデートを重ねてきた。(参照:《第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲》)

機はいよいよ熟していたのである。

筆者の言を聞いて、木村さんの眼鏡の奥がキラリと光った。

そして、冒頭の発言へとつながったわけだ!!

木村さんは、続けて『ウィンドのシンフォニー集とは面白い!!あんたなぁ、この話、最後まで責任もって面倒みな(面倒みないと)、アカンで(ダメだぞ)。監修者として。早速、ライブ(ライブラリー)にある楽譜をリストアップさせ、会議の日程出させて連絡入れさせるから。頼むわ。』(カッコ内は、筆者)と、こちらにアレコレ言わせず、すでに“もう決めている”様子だ。

その後、会議は、筆者のヨーロッパ渡航の前に、6月24日(木)と7月8日(木)、市音練習場2階奥のアンサンブル室で行なわれ、市音プログラム編成委のメンバーがライブラリーにあるオリジナル交響曲を調べ上げたリストと筆者のもつ最新ネタをもとに検討。それだけで、少なくとも10枚以上のCDが作れそうだった。

自主制作らしい、アカデミックなシリーズになりそうな予感がした!

とは言っても、当時の市音は、大阪市という行政機関の一部だったので、その時点での最大の課題が、予算請求とスケジューリングになることは明らかだった。

とくに予算面では、市音のマネージメント・セクションを拡充させるための外部組織として作られた“大阪市教育振興公社”の小梶善一さん(元市音クラリネット奏者)の尽力と大阪市音楽団友の会事務局長の藤川昌三さんの協力で、前述のCD「NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」の制作費の目処がついたばかりで、その結果がまだ出ていない内に、さらに次のCD制作の予算をつけることがどれだけ困難を極めるのか、それは誰の目にも明らかだった。

ところが、年を越し、1994年(平成6年)に入ると、にわかに情勢が変わってきた。

1993年1月リリースの「大栗裕作品集」が、東芝EMIの当初予想をはるかに上回り、セールスの勢いが衰えないところへもってきて、市音がはじめて自主制作したCD「NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」がアッという間に完売。制作費の回収どころか、収益まで出してしまったのである。

これらの結果は、市音のすべてのレコーディング構想に好循環をもたらした。

やがて、東芝EMIで「大栗裕作品集」を手がけたチーム(本来、企画ものや自主制作などを担う第三営業本部)が“シンフォニー・シリーズ”の話に関心を示し、『ぜひ、ウチでやらせてください。』と木村さんに申し入れたことから、後に《ウィンド・オーケストラのための交響曲》と名づけられるシンフォニー・シリーズは、市音の自主企画盤から東芝EMI制作盤へと立ち位置が変更となった。

その後、シリーズ第1弾の曲目が、1994年6月2日(木)の「大阪市音楽団第68回定期演奏会」(ザ・シンフォニーホール)で日本初演されたオランダのヨハン・デメイ(Johan de Meij)の『交響曲第2番“ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォ二ー)”(Symphony No.2“The Big Apple”- A New York Symphony)』に、フランスのセルジュ・ランセン(Serge Lansen)の『マンハッタン交響曲(Manhattan Symphony)』という、ニューヨークを題材とする2曲に決定。レコーディングは、同年9月29日(木)~30日(金)、京都府八幡市の八幡市文化センター大ホールで行なわれ、CDは12月21日(水)にリリースされた。(参照:《第143話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」日本初演》)

世界初、吹奏楽のオリジナル・シンフォニーだけのシリーズのスタートである!

そして、その大興奮から27年近い時が流れた…。

多くの人からの連絡で、2021年(令和3年)2月24日(水)夜に、このCDを仕掛けた中心人物でもあった木村さんが亡くなったとの訃報に接し、筆者も、落ち着かない気持ちで28日(日)午後に堺市立斎場で行なわれた告別式に参列した。

そして、近くでお顔を拝す機会を得たが、その時なぜか、“ちょうどええとこに(いいところに)来た。ちょっとやって欲しいことがあるんや。”という懐かしい声が聞こえたような気がした。

またひとつ、個性が旅立った。

合掌。

▲上記3枚 TOCZ-9242 – レコーディング風景(1994年9月30日、八幡市文化センター)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第143話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」日本初演

スコア – Symphony No.2 “The Big Apple”- A New York Symphony(Amstel Music、1994年)

▲プログラム – 大阪市音楽団第68回定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

▲同、メッセージ

▲同、プロフィール

▲同、演奏曲目

1994年(平成6年)5年29日(日)、バンコク発のタイ航空機(TG622便、大阪着 16:00)で、オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)が、当時はまだ大阪国際空港と呼ばれていた伊丹空港に降り立った。

来る6月2日(木)、大阪市北区大淀南のザ・シンフォニーホールで行なわれる「大阪市音楽団第68回定期演奏会」で日本初演が予定されている『交響曲第2番“ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォニー)”(Symphony No.2“The Big Apple”- A New York Symphony)』のリハーサルの立会いと本番の演奏を聴くための来日だった。“大阪市音楽団”とは、長年“市音”の愛称で市民に親しまれ、2014年の民営化後に“Osaka Shion Wind Orchestra”(Shion)と改称されたウィンドオーケストラの大阪市直営当時の名称だ。

約3ヵ月後の9月4日(日)の関西国際空港の開港前の出迎えだったので、このときの伊丹到着時の記憶はかなり鮮明に残っている。少し早く着いた筆者は、空港ビルの送迎デッキからヨハンの乗ったTG622便のランディングなどを撮影してから、到着ゲートに向かい、彼を出迎えた。一年前の1993年初夏にオランダで会って以来の再会だった。

ゲートから出てきた彼はとても元気そうで、早速、再会を祝し、互いの健康を気遣った。市内に向かうタクシーの車中、軽く『搭乗機のランディングも撮れたよ。』と言うと、『つまり、“ヨハン・デメイの最期”というヤツか?』と返してきたので、『超レアものだし、記念としてちゃんと贈呈するから!』と、初日から軽口を飛ばし合う。口も絶好調だ。

この時は、たまたま、6月6日(月)に大阪国際交流センターで行なう「ライムライト・コンサート 7」に始まるブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の国内ツアー(大阪~宇都宮~東京)のために、イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)も招いていて、フィリップも5月30日(月)、英国航空機(BA17便)で11:00に伊丹に到着。その他、市音のコンサート当日の6月2日には、やはりBBBが招いていた指揮者ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)とコルネット奏者ロジャー・ウェブスター(Roger Webster)の来日(キャセイパシフィック機、CX502便、20:20、伊丹到着)も迫り、海外の友人4人が同時に大阪に滞在するという、わが人生の中でも稀に見る稠密スケジュールとなっていた。

ともかく、別々に活動する2つの楽団のリハーサルや本番を4人のゲストを伴なって支障なく廻すのは、結構骨が折れる。本人たちは、自身の持ち曲のときだけ現場にいればいいが、こちらは身ひとつだからだ。

そこで、市音の元クラリネット奏者で当時マネージャーをされていた小梶善一さん(2020年逝去)と相談。4人全員の宿を市音練習場にほど近い大阪城公園南詰のKKRホテルに固める事で、この難局をなんとか乗り切った。空き時間には大阪城を自由に散策できるなど、いいロケーションだったと思う。

話を元に戻そう。

ヨハンの『交響曲第2番“ビッグ・アップル”』は、世界的ヒットとなった『交響曲第1番“指輪物語”(Symphony No.1 “The Lord of te Rings”)』についで書かれたシンフォニーの第2作で、アメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(The United States Air Force Band – Washington D,C.)の委嘱で1993年に作曲された。

第1楽章「Skyrine(スカイライン)」と第2楽章「Gotham(ゴーサム)」の2つの楽章と、ブリッジのように両者を結ぶ“タイムズ・スクエア・カデンツァ(Times Square Cadenza)”という、ヨハンがニューヨークの町に出て実際に録音した雑踏や地下鉄の走行音を聞かせる箇所が中間部にある作品だ。

そして、そのスコアは、先にお話ししたオランダ滞在中の1993年6月27日(日)、アムステルダムのヨハンの自宅に招かれたとき、最終ページを残すだけという段階まで仕上がっていた。(参照:《第71話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」完成前夜》)

ヨハンは、『自由に見ていいよ。』と言い率直な感想を求めてきたが、実のところ、ちょっと面喰っていた。筆者の中で、前作の『指輪物語』のイメージが強すぎたためだろうか。別の曲ではあることは頭の中では理解していたが、何かしらロマン派音楽の流れを汲む前作のかけらのようなものを探そうと思って見始めたために、一定の音型がひじょうに多くの楽器で延々と繰り返され、インパクトのある打撃音が随所に散らばるスタイルで書かれた音楽は、1ページの音数も多く、まるで別の作曲家が書いたもののように感じたものだ。

あとで、それは、アメリカの現代作曲家ジョン・アダムズ(John Adams、b.1947)の影響を強く受けた曲であると種明かしをしてくれたが、不勉強の極みか無関心だったためか、当時の筆者はアダムズの名も作品も皆目知らなかった。帰国して勉強すると、アダムズは最小限の音の動きでパターン化した音形を反復させるミニマル・ミュージック(Minimal Music)の推進者の一人だとわかった。

さすがは、コンテンポラリー・ミュージック(現代音楽)の合奏団“オルケスト・デ・フォルハルディンフ(Orkest de Volharding)”にトロンボーン奏者として所属するヨハンらしい着想だ。

ただ、委嘱者がアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドだったこともあったためか、第1楽章に登場する“スカイライン・モチーフ”と彼が呼んだ爽快なテーマのカッコよさは、万人を魅了するものだと思えた。

世界初演が同年10月に組まれ、ヨハンも渡米するのだという。

そして、ヨハンのこの新作の存在は、帰国した筆者の土産話のかたちで市音団長兼常任指揮者の木村吉宏さんに伝わった。過去に市音が演奏してきたどの曲とも構造が違うスリリングな音楽で、音域の広さや体力面も含め、“指輪物語”とは異次元の難しさがあることも含めて。

『それなぁ、来年の定期で日本初演できるようにヤツに話してくれへんか? ウチは、これから、そういう作品を取り上げていかな、あかんのや。』

木村さんのこの発言で、まだ委嘱者による初演すら行なわれていないこの交響曲を日本に持ってくるプロジェクトは始まった。

連絡すると、当然ヨハンは大喜び!!

その後、この曲は、1993年10月の“委嘱者による公式初演”が1994年3月に変更。だが、当初の予定どおり渡米したヨハンはニューヨークの雑踏を録音して2つの楽章をブリッジのようにつなぐ“タイムズ・スクエア・カデンツァ”の音源を完成し、アメリカ空軍バンドの練習場で曲全体のサンプル音源を収録。1994年2月には、ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)の演奏で、事実上の初ライヴとなった“オランダ初演”が行なわれ、そのライヴが同国FMで放送、同ウィンド・オーケストラによるCDレコーディング(蘭World Wind Music、500.003)も新たに行なわれた。

時系列的に振り返ると、この曲をめぐる動きは以上のように流れ、最終的に筆者はヨハンからラジオ放送のカセットテープを受け取った。

一方、市音は、この間、ディーラーを通じて楽譜を発注し、準備は着々と進んでいった。

しかし、その後、割と早い段階で突然ヨハンからあるリクエストが寄せられた。

それは、日本初演のために楽譜を1セット贈呈するので、聴きに行くための渡航費の面倒をみてはくれないか、という相談だった。恐らく彼は楽譜が発注済みであることを知らなかったのだろう。

しかし、すでに所定の手続きを経て、楽譜発注を終えていた市音にそんな追加予算はない。一時大騒ぎになったが、最終的にあくまで“個人的に送られてくる楽譜”を筆者が部外で受け取り、運よく必要とするバンドを見つけて現金化。ヨハンの渡航費にあてることができた。

こんな裏事情のため、ヨハンには、最安便のエコノミーでチケットを買うようにリクエスト。ヨハンも、直行便ではなく、運賃の安い便を乗り継いでやってきた。それが来日便がタイのバンコクからのフライトになった理由だった。個人的には、がたい(体格)のいいヨハンがエコノミーの狭いシートに押し込められて長時間フライトする図はちょっと滑稽に思えたが、こちらも背に腹は変えられない。

結果的に、ヨハンを迎えてのコラボレーションは、楽譜のチェックだけでなく、CDに収められた“タイムズ・スクエア・カデンツァ”のスタートとフェードアウトのタイミングを楽譜上の指示から変更するなど、たいへん有意義なものになった。

本番の演奏を聴いたヨハンは、市音の快演に大満足!

この時点で世界でまだ2回しかライヴに掛けられていない『ビッグ・アップル』の日本初演は、こうして成功裏に終わった!

▲到着したタイ航空 TG622便(1994年5年29日、大阪国際空港)

▲ヨハンとの再会(同)

▲掲示されたポスターを見て喜ぶヨハン(1994年5年30日、大阪城公園)

▲大阪市音楽団第68回定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第142話 もうひとつの甲子園

▲LP – 第50回選抜高等学校野球大会記念 センバツ行進曲集](毎日新聞社、W-945、1978年)

▲W-945 – A面レーベル

▲W^945 – B面レーベル

▲辻井市太郎(1978年)

『観衆は胸を躍らせつつ開会前スタンドの大半を埋めた、その数およそ十万、戦争が終わってはじめての壮観である、あの大鉄傘はなくとも外野の内壁に描かれた大正十四年以来の優勝十八校の名は古いファンに往時を想い出させ興趣を深める、午前八時四十五分、大阪市音楽隊の奏する行進曲「槍と刀」の勇壮なメロディの中に紫紺の大会旗を先頭に出場二十六校三百名の選手は踏む足どりも力強く堂々と入場、色とりどりの出場旗と校名板を掲げてグラウンドをまわれば拍手は波濤となつて迎える、青空に打揚げられた花火の白煙から出場校名をくつきり浮かばせた旗が春風にのつてゆるやかにスタンドに舞い下りる。選手一同、センターポール前に整列、各校主将の手により大会旗が掲揚されるや、あのなつかしい“陽は舞い踊る甲子園……”の大会歌が大阪市音楽隊演奏、毎日音楽教室合唱でスタンドにとどろきわたる、…(後略)…。』(原文ママ)

1924年(大正13年)4月1日(火)、名古屋・山本球場で第1回大会が行なわれた「全国選抜中等学校野球大会」が、戦争による中断をへて戦後初の大会となった第19回大会の開会式(前日の3月30日)の模様を伝える毎日新聞社(大阪)、1947年(昭和22年)3月31日(月)1面からの引用である。

おそらくは、ベテラン記者の筆と思われる臨場感あふれる名文で、「選抜高校野球大会三十年史」(毎日新聞社大阪本社、非売品、1958年)や「選抜高校野球大会35年史」(毎日新聞社大阪本社、非売品、1963年)にも引用されている。

ただ、第19回大会が行なわれた1947年は、大会期間中の4月1日に学校教育法(六・三・三・四制)が施行されたことにより、それまでの中等学校が高等学校に変更された年であり、それが社会的にはまだ完全に浸透していない時期だったため、大会では、毎日の社告も大会名も校名も敢えて旧称が使われた。文中登場する“大阪市音楽隊”(市音)も同様で、実は、市音は、前年の1946年(昭和21年)6月22日(土)に“大阪市音楽団”に改称されていた。以上は、この当時はそれで十分通っただろうが、21世紀の現時点からみると、少々紛らわしい。

また、当時わが国を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)が、当初この開催に難色を示し、開幕まで1ヶ月を切った時点で、文部省から“大会中止”が通達される一幕もあった。関係者の奔走で“一回に限り開催許可”となったが、いったん開催が決まると、アメリカ軍の支援は積極的で、開会式で、ホームベース付近に椅子を並べて66名編成の米陸軍第25師団軍楽隊が12曲のコンサートを行なったり、飛来した米軍機が始球式のボールを投下するなど、大会を盛り上げた。前記の毎日2面には演奏中の写真も掲載されている。

さて、そういう微妙な話題もあるにはあったが、「第19回全国選抜中等学校野球大会」に登場した“市音”(当時40名)は、ドイツのヘルマン・シュタルケ(Hermann Starke)作の入場行進曲「剣と槍(With Sword and Lance)」を演奏しながら、球児の先頭に立ってグラウンドに入場。開閉会式の大会歌の演奏のほか、各試合の勝利校の校歌もナマ演奏する大活躍をみせた。

そして、その演奏をとりまとめたのが、大会期間中の4月1日に市音第3代団長に就任した辻井市太郎さん(1910~1986)だった。(参照:《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》)

その後、大会名が「選抜高等学校野球大会」と改められ、1948年(昭和23年)以降も継続が決まったとき、辻井さんは、毎日から思いがけないユニークなオファーを受けた。それが、選手入場時に既存のマーチを使うのではなく、世相を反映した曲や映画音楽などを新しく入場行進曲へ編曲することだった。

それを受けて、辻井さんが最初に手がけた曲が、NHKラジオの連続放送劇の主題歌『鐘の鳴る丘』(古関裕而作曲、第20回大会、1948年)で、入場行進曲の編曲はその後も継続(辻井さんの海外出張中の第31回大会の『皇太子のタンゴ』(ロタール・オリアス作曲)だけは、永野慶作さんが編曲)して行なわれ、1962年(昭和37年)の『上を向いて歩こう』(中村八大作曲、第34回大会)からは、若い人を意識して前年のヒット曲を中心に選曲されるようになった。

そして、この『上を向いて歩こう』がたいへんな評判を呼んで、早速、音楽之友社が楽譜を出版。全国的に演奏されることとなった。

その後、辻井さんは、定年までの間に、『いつでも夢を』(吉田 正作曲、第35回大会、1963年)、『こんにちは赤ちゃん』(中村八大作曲、第36回大会、1964年)、『幸せなら手をたたこう』(アメリカ民謡、有田 怜編曲、第37回大会、1965年)、『ともだち』(いずみたく作曲、第38回大会、1966年)、『世界の国からこんにちは』(中村八大作曲、第39回大会、1967年および第42回大会、1970年)、『世界は二人のために』(いずみたく作曲、第40回大会、1968年)、『365歩のマーチ』(米山正夫作曲、第41回大会、1969年)、『希望』(いずみたく作曲、第43回大会、1971年)、『また逢う日まで』(筒美京平作曲、第44回大会、1972年)を入場行進曲に編曲。毎日新聞社は、これらを市音の演奏でソノシートにして参加球児に贈り、また、多くが音楽之友社や全音楽譜出版社から出版され、市音のパブリックなコンサートでも大阪市民の人気を博した。(参照:《第30話 ソノシートの頃》)

東京佼成ウインドオーケストラの元ユーフォニアム奏者で、日本吹奏楽指導者協会(JBA)副会長の三浦 徹さんから、自身の明星中学校(大阪)時代を振り返って、『辻井市太郎先生が出来上がったばかりのセンバツのマーチの楽譜を持ってこられて演奏したことがありました。たぶん、試奏だったんでしょうが、当時はこれらの曲をいち早く演奏できることを誇りのように思っていました。“いつでも夢を”や“こんにちは赤ちゃん”など、よく覚えています。』と伺ったことがある。

また、いろいろお世話になった鈴木竹男さんが隊長・指揮者をつとめる“阪急少年音楽隊”の毎年恒例の定期演奏会でも、アンコールは、決まって辻井さんが編曲したその年の最新のセンバツ・マーチで、それは、『愉しみにしていました。』という、大阪音楽大学教授の木村寛仁さんの記憶にもしっかりと刻み込まれていた。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)

そして、辻井さんのセンバツ・マーチの編曲は、市音退職後も続いた。筆者が、日本ボーイスカウト大阪連盟から“音楽章”という技能章の考査員を委ねられていた1977年(昭和52年)の第49回大会では、開閉会式で校名のプラカードを持つスカウトたちの行進指導を甲子園球場などで行なったが、そのときのマーチは、『ビューティフル・サンデー』(ダニエル・ブーン、ロッド・マックイーン作曲)だった。

明けて1978年(昭和53年)の1月30日(月)、31日(火)の両日。毎日新聞社は、大阪北区の毎日ホールで、第50回記念大会に向け、「第50回選抜高等学校野球大会記念 センバツ行進曲集」という記念アルバムのレコーディング・セッションを行なった。演奏は、辻井さんのあとを継いだ永野慶作さん(1928~2010)が指揮する市音で、曲目は、『上を向いて歩こう』をはじめ、編曲者自身が選んだ全10曲だった。

このセッションを客席に誰もいないホールでただ一人、聴く機会を与えられた。

録音は、テープ編集を嫌うディレクター、日本ワールド・レコード社の靭 博正さんの意向を受けて、すべて通し演奏というハードワーク。しかし、市音のテンションは下がらない。マーチ10曲とこの当時の大会歌(旧陸軍戸山学校軍楽隊作曲)がしっかりと時間をとって録音された。その結果は、センバツ開会式の臨場感ただよう溌剌としたマーチ・アルバムに仕上がった。

辻井さんの他界後、センバツ・マーチの編曲・録音は、前記の永野さんに受け継がれ、その後も、酒井 格さんと市音から民営化したOsaka Shion Wind Orchestraが担っている。

“春はセンバツから”という大会コピーを見るたびに血が騒ぎ、興奮が脳裏を駆け巡る若き日の一章である!!

▲自筆スコア – 鐘の鳴る丘(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲自筆スコア – 上を向いて歩こう(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲楽譜表紙 – いつでも夢を(全音楽譜出版社)

▲楽譜表紙 – こんにちは赤ちゃん(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 幸せなら手をたたこう(全音楽譜出版社)

▲楽譜表紙 – ともだち(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 世界の国からこんにちは(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 三百六十五歩のマーチ(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 希望(音楽之友社)

▲毎日新聞(大阪)、昭和22年3月31日(月)1面

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第141話 小山清茂作品集の登場

▲LP – 吹奏楽のための太神楽(東芝音楽工業、TA-9301、1971年)

▲TA-9301 – A面レーベル

▲TA-9301 – B面レーベル

▲東芝レコード広告(1971年)

2020年(令和2年)12月20日(日)の朝、東京佼成ウインドオーケストラの元ユーフォニアム奏者で、日本吹奏楽指導者協会(JBA)副会長の三浦 徹さんから一本の電話が入った。

『ちょうど今、バンドパワーに書かれている樋口さんの話の最新の回を読み終えたところで、どうしても樋口さんにお話しておきたいことがあって電話しました。』

“最新の回”とは、その1日前にアップロードしたばかりの《樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第138話 普門館、落成の頃》のことだった。

『実は、あの“佼成”の演奏会は、藝大(東京藝術大学)の4年生のときで、呼んでもらったんです。「ローマの松」が阪口 新先生(1910~1997)の編曲で、ユーフォニアムが4本必要だったんで、それで呼ばれたわけです。』

東京佼成吹奏楽団(後の東京佼成ウインドオーケストラ)が、1970年(昭和45年)11月20日(金)、完成したばかりの普門館で初めて行なった「第12回定期演奏会」の現場証人の登場である。

楽団創立10周年を期して開かれたこの演奏会の客演指揮者は、伝説のマエストロ、山田一雄さん(1912~1991)だった。なので、当然、電話口のこちらのテンションも一気に盛り上がり、当時の模様について、あれやこれやと質問を投げかける。

すると、『ヤマカズ(山田一雄)さんが右へ行ったり左へ行ったり、忙しかったんですが、「1812年」では、NHKからわざわざ“ロシア正教会”の鐘の音や大砲の音を借りてきて、テンポを決めて演奏とシンクロさせる練習を行ない、リハーサルは完璧だったんですが、本番では指揮者が約束とは違う速いテンポで振ったので、エンディングの音が終わった後、(カンカラコンと)鐘の音が盛大に降り注いできてしまったんです。でも、さすがだったのは、そのアクシデントをまるで演出であるかのように指揮台で振る舞ってから客席に向かって一礼したことでした。』(カッコ内は筆者)

“ヤマカズさん”とは、リスペクトも込めて、いつしかそう呼ばれるようになったマエストロへの親称で、指揮ぶりはとくに若い聴衆に絶大な人気があった。

そのアツい指揮の結果、オーバーアクションになって、指揮台はおろか、ステージからも転落して這い上がった件とか、指揮台でジャンプして落とした眼鏡を踏み砕いてしまった件のような数々のエピソードを伝説のように残したマエストロは、この日の佼成定期でもしっかりと爪跡を残していったわけだ。

三浦さんとの演奏会についての対話は、その後もはずみ、マエストロには失礼ながら、“その日はステージから落ちなかったか”についても確認したところ、『あの普門館の広いステージだけに、さすがに落ちなかった!』(笑)との返答。

ステージの広さを知る当方も、それを聞いて、“そりゃそうだ!”と思わず納得の展開となった。

他方、ヤマカズさんは、その生涯を通じて数多くの初演を行なった指揮者としてもよく知られている。

この佼成定期でも、小山清茂(1914~2009)さんが自作の管弦楽曲を自ら吹奏楽曲に改編した『吹奏楽のための“木挽歌”』の初演が行なわれた。

作曲者の小山さんは、長野県更級郡信里村字村山の生まれ。日本各地に残る民謡などの旋律をモチーフとした多くの作品で知られ、管弦楽、吹奏楽、オペラ、室内楽、合唱、放送音楽など、多岐にわたるジャンルで活躍した。1980年(昭和55年)の『吹奏楽のための“花祭り”』は、第28回全日本吹奏楽コンクール課題曲として書かれたものだ。

山田一雄指揮、東京佼成吹奏楽団が初演した『吹奏楽のための“木挽歌”』については、演奏会のプログラム・ノートに、こう書かれている。

『九州民謡の木挽歌(故三好十郎の範唱による)を主題とした、一種の変奏曲で、4つの部分から成っています。原曲は管弦楽曲として書かれたもので、昭和32年10月3日、渡辺暁夫指揮、日本フィルハーモニー交響楽団により初演、以来、国内はもとより外国においても、しぱしば演奏、及び放送されております。この度は、音楽の友社のご好意により、作者自身によって、吹奏楽用に編曲していただき、吹奏楽として初めて演奏されるものであります。』(著者不詳、一部引用、原文ママ)

管弦楽原曲の出版後、部分的に吹奏楽に編曲する人も現れたため、作曲者自身が全曲を吹奏楽に改編することを思い立ったことがこの吹奏楽版を作る契機となった。

そして、佼成定期の翌月、1970年(昭和45年)12月11日(金)と16日(水)の両日にわたり、東芝音楽工業は、普門館で、1枚のLPレコードのレコーディング・セッションを行なった。翌1971年4月に、「吹奏楽のための大神楽」(東芝音楽工業、TA-9301)としてリリースされた小山清茂吹奏楽作品集のための録音だった。

演奏は、山田一雄指揮、NHK交響楽団団員で、ジャケットには、ラストの『イングリッシュ・ホルンと吹奏楽のための音楽より“田植唄”』の独奏者が似鳥健彦さんであることがクレジットされている。

この録音にNHK交響楽団の管打楽器奏者が起用された理由については、全く資料を持ち合わせていないが、「バンドジャーナル」1970年12月号(管楽研究会編、音楽之友社)56~57頁に打楽器奏者の有賀誠門さんが書いた「日本のオーケストラ・プレーヤー〈管・打〉」には、『現在のN響は総勢一二三名という大世帯であります。そのうちの五○名を管打楽器奏者でしめています。~』(原文ママ)というくだりがあるので、管弦楽に使わない楽器さえプラスすれば、吹奏楽演奏も可能だ、というレコード会社サイドの計算も働いた可能性はある。同時に、いつも他社の成果を自社にも取り込みたい日本のレコード会社のこと。当時トリオが発売したケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル(NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団など、在京のオケマンたちによって編成)の「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」LP:トリオ、RSP-7004 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:TSP-7008)がたいへんな評判を呼んでいたこともあったのかも知れない。(参照:第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》

いずれにせよ、この小山清茂作品集は、N響メンバーを中心に録音された。

収録されたのは、以下の6曲。

・吹奏楽のための“大神楽”(小山清茂
(1970)

・吹奏楽のための“もぐら追い”(同)
(1970)

・吹奏楽のための“おてもやん”(同)
(1970)

・吹奏楽のための“越後獅子”(同)
(1970)

・吹奏楽のための“木挽歌”(同)
(1957 / 1970)

・イングリッシュ・ホルンと吹奏楽のための音楽より“田植唄”(同)
(1969)

これは、吹奏楽レコードの世界では、レコード(東芝音楽工業)と楽譜出版(音楽之友社)がタイアップした日本初の企画であり、さらに言うなら、マーチ以外でひとりの邦人作曲家の作品だけを収録した初の吹奏楽アルバムとなった。

そして、発売されたレコードは、日本吹奏楽指導者協会(JBA)の昭和46年度「第一回吹奏楽レコード賞」を受賞。楽譜とリンクしたロングセラー盤となり、1984年(昭和59年)に、ジャケットをリニューアルし、同じタイトルのまま、LP(東芝EMI、TA-72109)として再リリース。2009年(平成21年)には、デジタル・リマスタリングされ、「小山清茂 吹奏楽のための太神楽」というタイトルでCD化(日本伝統文化振興財団、VZCC-1020)された。

見事だったのは、この3度のリリースに際してカップリングの変更が全くなかったことだろう。それだけ完成度が高かった証だ。

“邦人作品集”というジャンルを確立!!

日本の吹奏楽録音史上、忘れてはならないアルバムである!

▲LP(再発売盤) – 吹奏楽のための太神楽(東芝EMI、TA-72109、1984年)

▲TA-72109 – A面レーベル

▲TA-72109 – B面レーベル

▲CD – 小山清茂 吹奏楽のための太神楽(日本伝統文化振興財団、VZCC-1020、2009年)

▲VZCC-1020 インレーカード

▲「バンドジャーナル」1970年12月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第140話 ブリーズのデビューとブラック・ダイク

▲「バンドピープル」1995年3月号(八重洲出版)

▲手書きブラスバンド・フルスコア – Orient Express(Philip Sparke、Studio Music、完全限定版)

▲ブラスバンド・パート譜 The Year of the Dragon(Philip Sparke、Studio Music)

“今ヨーロッパで起こっている新しい潮流を、タイムラグなくオン・タイムで日本で再現する!”

そんなメッセージを込めたコンセプトを旗頭に掲げ、1990年代を鮮やかに駆け抜けたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)は、デビュー年の1990年(平成2年)から2000年までのほぼ10年間、ミュージカル・スーパーバイザーを委ねられた大阪のブラスバンドだ。

BBBの胎動期は1980年代で、本場イギリスでは、ちょうど、エドワード・グレッグスン(Edward Gregson)やフィリップ・スパーク(Philip Sparke)ら、新進気鋭の作曲家たちが、ブラスバンドのための魅力的な新作オリジナルをつぎつぎと発表し始めた頃だった。

当時、大阪シンフォニカー(後の大阪交響楽団)のトロンボーン奏者だった上村和義さんは、出身大学の大阪芸術大学や大阪音楽大学を卒業した若手プレイヤーたちと大阪ロイヤル・ブラスという金管グループを作って活動し、いつかこのグループをブラスバンドとして本格デビューさせたいと考えていた。(参照:《第49話 ムーアサイドからオリエント急行へ》)

氏のこの着想は、オーケストラ中心主義の音楽界にあっては、間違いなく異端児扱いされてアッという間に弾き跳ばされてしまいそうな超アグレッシブなアイデアだった。しかも、大阪には、市民生活に浸透する大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)という歴史あるウィンドオーケストラがあった。

そんな音楽環境の中に新たにプロのブラスバンドをデビューさせようというのである。それには、これからやろうとするブラスバンドが、既存のオーケストラやウィンドオーケストラとはまるで違う異種の音楽形態であることを誰の目にも耳にもはっきりと示す必要があった。

言い換えれば、独自のレパートリー、サウンド、使用楽器、編成やステージ配置等が既存の音楽形態とは完全に一線を画す明確なコンセプトを必要としたのである。

上村さんは、伝を頼って情報やアドバイスを得ようと試みたが、最新のブラスバンド事情は、あらゆる音楽情報が集まる東京でさえ、ブラスバンドへの誤解や偏見から、一昔前の情報以外、ほとんど得ることができなかった。

そんなとき、上村さんは、大阪・心斎橋の三木楽器旧2階管楽器フロアの責任者、植松栄司さんの引き合わせで、“運悪く”筆者と出会ってしまった。

早速、話をうかがうと、上村さんたちが全力で集めた情報や楽曲が、このジャンルのクラシックを知るという点では大いに意義があるが、やはり二昔前のものであり、当時、イギリスを中心としたヨーロッパの広いエリアで行なわれていたものとかなり乖離があることがすぐにわかった。当然、話の主導権はこちらへと移る。

筆者は、まず、前述のような大阪の音楽界において、評論家も来場するコンサートで新たな音楽グループをデビューさせるわけだから、それは『どうせ、ブラスバンドなんて……』なんて言わせない鮮烈なデビューでないと意味がないと主張。『ブラスバンドの何たるかも知らずに、偉そうなことをいう難しい人たちを黙らせるような独自の最新レパートリーと魅力あるサウンドをまずものにしなくてはなりません。』と話した。また、『友人にフィリップ・スパークという、今売り出し中のすばらしい作曲家がいるので、まずそこから手をつけてみませんか。話せばすぐに楽譜を送ってくれるので。』とも加えた。

上村さんへの話はそれだけで充分だった。速攻で『聴かせて欲しい。』という話に発展。その後、日を改めて来宅した上村さんは、今度はオーディオ装置の隣のラックに列を成して並んでいるものに目が点になってしまった。

この当時は、個人的道楽で、イギリスEMIやRCA Victor、Polydor、Decca、Polyphonicなどの各レーベルから発売されるブラスバンドのLPレコードの新譜を片っ端から買い揃えていた頃で、イギリスのマニアには到底及ばないものの、我が家には、旧譜の名盤のほか、100枚以上の最新ブラスバンドLPがゴロゴロ転がっていた。一日やそこいらで全部聴くことなど到底不可能な数の。また、それらは出版社が参考音源として作った類いのものでなく、多少の出来不出来はあるものの、すべてバンドが伸び伸びプレイしているものばかりだった。

上村さんには、その中から“これは”と思う曲をどんどん聴いてもらうことにしたが、予想したとおり、フィリップの『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』や『ジュビリー序曲(Jubilee Overture)』、『オリエント急行(Orient Express)』は、一発で『楽譜が欲しい。』という話に発展。その日の内にフィリップにFAXでリクエストを送信すると、フィリップの方もアッという間に楽譜を揃えて送ってくれ、早速、週一の定例練習でリハーサルが開始された。

ブラスバンドの専門紙もその辺に散らばっていたので、『樋口さんのところは、まるで宝の山です。』と言う上村さんの来宅はその後も継続的に続いた。1990年7月2日(月)、いずみホールで行なわれたBBBの「デビュー・コンサート」のプログラムは、こうして次第に組み立てられていったのである。

また、さらに運がいいことに、BBBデビュー直前の6月11日(月)、イギリスのブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)が大阪国際交流センターに来演した。同年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で行なわれた“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”で、ヨーロッパ・チャンピオンに返り咲いたばかりのブラック・ダイクがである。

この日のコンサートは、BBBがデビューに向けて積み上げてきたものを当時最高のバンドのステージから再確認するまたとない機会となった。

“ヨーロピアン”でも演奏されたピーター・グレイアム(Peter Graham)の『エッセンス・オブ・タイム(The Essence of Time)』やフィリップの『ハーモニー・ミュージック(Harmony Music)』は、“圧巻”という表現がふさわしいパフォーマンスで、既存の演奏形態と明確な差別化を図りたい新しいグループのレパートリーとプログラミングに、ブラスバンドの最新オリジナルは欠かせないアイテムであることをまず確認した。場内の反応を見ていても、少なくとも“新しいものが大好き”な地元大阪の聴衆には間違いなく“受ける”と確信できた。

上村さんは、『これからやりたいものがハッキリ見えました。』と言った。

ついで、各セクションの楽器がすべて同じラッカー仕様のベッソン(ソヴェリン)で統一されていることも目をひいた。とくに、『ハーモニー・ミュージック』のように、奏者一人ひとりに異なる音が割り当てられているコンテンポラリー作品では、全員が使う道具(楽器)のキャラクターが統一されていることが合奏面でとてつもない優位性を発揮することが分かった。これからどんどん進化するオリジナルを取り入れていこうとするBBBにとって、これは重要なポイントとなった。

同時に、この日聴いたブラック・ダイクのピュアなサウンドの実現を当面の目標としたいという上村さんの意思はここで固まり、議論の末に、サクソルン族各楽器はベッソンのラッカー仕様、楽曲の上でサクソルンとは違ったキャラクターが求められるトロンボーンだけはキングで揃えるというサウンド・ポリシーが定まった。

ただ、デビュー時のBBBは、奏者が持ち寄った様々な楽器の集合体であり、経済的事情も手伝ってこの目標の実現には3年近い時間を要した。また、大型楽器のため、同時にいくつも輸入されるわけではなく、かつ高額なバス(Ebバス x 2、Bbバス x 2)は、筆者が順次購入し、バンドに貸与することに決めた。最終的に、BBBには10年間で2500万ほどの個人資金を投下したが、これはその一部である。海外から新しい楽器が届くたび、こちらの奏者に自由に試奏させてもらった東京のブージー&ホークス社(後のビュッフェ・クランポン)には、感謝するほかない。

また、ブラック・ダイクに帯同したロイ・ニューサム(Roy Newsome)、デヴィッド・キング(David King)、ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)の3人の指揮者とも終演後の会食でめでたく知己を結び、デビュー後の密な協力関係が構築された。

これらに加え、ブラック・ダイクのナマを聴いた最大の成果は、練習で聴くBBBのサウンドとダイナミック・レンジがこの日を境にガラリと変わったことである。聴けばわかる見本のような結果だった。

そして、迎えたデビュー当日、まるで知らない曲をまるで知らない楽器編成で聴かされた評論家諸氏は、将来に期待をこめて好評価の演奏会評を寄せた。

BBBデビュー大作戦、まんまと大成功である!!

その後も、探究心の固まりと化した上村さんは、同年10月6日(土)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた全英ブラスバンド選手権(Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain)をその目と耳で確認するために渡英。ユース選手権にも足を運ぶなど、ブラスバンドに対する見識と経験をさらに深めてきた。(参照:《第133話 全英ブラスバンド選手権1990》)

そして、帰国後、最初のリハーサルで上村さんが放った一語は、その後、BBBの内部で流行語となった。

『もっと“リブリブ”に吹かんかい!』

BBBの定期公演「ライムライト・コンサート」が開始されるおよそ半年前の出来事である。

▲チラシ – Black Dyke Mills Band 大阪公演(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲Solo & Tutti Cornets, & Flugel Horn:(左から)R. Webster、R. Westacott、J. Hudson、J. Pritchard、D. Pogson(同、撮影:関戸基敬)

▲Soprano, Ripieno, 2nd & 3rd Cornets:(左から)N. Fielding、L. Rigg、P. Rose、G. Williams、I. Broadbent、D. Clegg(同)

▲Tenor Horns:(右から)S. Smith、T. McCormick、S. Jones(同)

▲Baritones:(右から)P. Christian、S. Booth(同)

▲Euphoniums:(右から)M. Griffiths、S. Derrick(同)

▲Trombones:(右から)N. Law、A. Gray、M. Frost(同)

▲Basses:(右から)S. Gresswell(Bb)、P. Goodwin(Eb)、G. Harrop(Eb)、D. Jackson(Bb)(同)

▲Percussion:(右から)R. Payne、R. Clough、M. Arnold(Timpani)(同)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第139話 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》

▲LP – 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》(トリオ、RSP-7016)

▲RSP-7016、A面レーベル(テスト盤)

▲RSP-7016、B面レーベル(テスト盤)

▲RSP-7016、A面レーベル

▲RSP-7016、B面レーベル

1970年(昭和45年)1月30日(金)午後3時から、トリオは、東京・丸の内の大手町サンケイ国際ホールにおいて、“ケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル”の演奏で、後に「我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》」(LP:トリオ、RSP-7016 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:トリオ、TSP-7013)というタイトルでリリースされる新録音のセッションを行なった。

演奏者の“ケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル”は、NHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団のほか、在京のオケマンたちによって編成されたレコーディングのための管楽アンサンブルで、この日の録音は、前年このグループによって録音、リリースされて大きな反響を巻き起こした「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」LP:トリオ、RSP-7004 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:TSP-7008)の続篇企画のためのものだった。(参照:第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》

セッションのディレクターは草刈津三さん、ミキサー(バランス・エンジニア)は若林駿介さんと、録音スタッフは前録音盤とまったく同じで、録音会場、フロア・セッティング、使用マイクやレコーダー、ミキシング・アンプ等の使用機材など、基本的な録音方式もすべて前回を踏襲していた。

前録音の成果が、それほどまでに、制作側、演奏側の双方を納得させる出来映えだったからだ。

ただし、今回はレパートリーの曲種だけは違っていた。前がすべてマーチだけの録音だったのに対し、今回は、アメリカのコンサート・バンドのレパートリーを録ろうとする企画だったからだ。そこで、演奏人数は、フルート x 2(ピッコロ兼)、オーボエ x 2、クラリネット x 8、ファゴット x 2、サクソフォン x 3、ホルン x 4、トランペット x 4、トロンボーン x 4、ユーフォニアム x 2、テューバ x 1、打楽器4と、より一般的な吹奏楽編成に近い規模に拡充されている。

そして、各セクションのリーダーは、フルートが峰岸荘一さん、小出信也さん、クラリネットが千葉国夫さん、浅井俊雄さん、ファゴットが戸沢宗雄さん、サクソフォンが阪口 新さん、ホルンが千葉 馨さん、田中正大さん、トランペットが北村源三さん、戸部 豊さん、トロンボーンが福田日出彦さん、打楽器が岩城宏之さんが担い、全体をアンサンブルのセンター近くに位置するファゴットの戸沢さんが仕切るスタイルをとったのも前回と同じだった。

唯一違ったのは、今度の録音には、NHK交響楽団の指揮者、岩城宏之さんが、指揮者ではなく、打楽器奏者として参加したことだった。

この岩城さんの参加に関しては、ディレクターの草刈さんがジャケットに寄せた一文「ケンウッド・ブラス第2弾」に、つぎのようなエピソードが記されている。

『第1回の録音以来しばらくは、大げさに云えば、東京のオーケストラの管楽器界は、その録音の話しでもち切りであった。……(中略)……。私は、メンバーたちに会うたび毎に、あの録音の話しが出、「又、やろうよ」。といって別れる日々が続いたが、忙しい人達ばかりだから、まあ出来て一年に一回位だと思っていた。しかし、そのチャンスは以外に早くやって来た。昨年の暮れに近い頃だったが、オーケストラ仲間がよく集る千葉馨氏宅でのパーティ、その日は何で集まったのかは良く覚えてないが、N響終身指揮者の岩城宏之氏など10数名の中に、千葉、戸沢両氏をはじめ管楽器のメンバーが何人か居た。そのための酒の肴の音楽は、自然あのブラス・バンドのマーチ集となったが、録音の思い出話しがはずむうち、岩城氏が「俺も一緒にやりたいな」と云い出したことが第2回目の録音のきっかけとなったのである。……(後略)……。』(原文ママ)

文中の“昨年の暮れ”とは、1969年の年末のことだ。

そして、このパーティーの場で、草刈さんは、機は熟したと感じとり早速トリオに連絡。アレよアレよという間に日程調整が進んで、岩城さんの渡欧直前のこの日、1月30日に録音が行なわれる運びとなった訳である。

こうして、レジェンドたちは再び同じホールに参集した!

この日、録音されたレパートリーは、以下のようにものだった。

古いアメリカン・ダンスによる組曲
Suite of Old American Dances(Robert Russell Bennette)

ビギン・フォー・バンド
Beguine for Band(Glenn Osser)

コラールとアレルヤ
Chorale and Alleluia(Howard Hanson)

トランペット・オーレ!
Trumpet Ole!(Frank D. Cofield)

トロンボナンザ
Trombonanza(Frank D. Cofield)

クラリネット・ポルカ
Clarinet Polka(Arr. David Bennett)

クラリネット・キャンデ
Clarinet Candy(Leroy Anderson)

オリジナル・デキシーランド・ワンステップ
Original Dixieland Onestep(John Warrington)

この選曲を誰が担ったかについては、何も情報を持たないが、選曲のコンセプトそのものは、1967年(昭和42年)に日本コロムビアがリリースした「楽しいバンド・コンサート」シリーズ(EP:日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)とほぼ同じ傾向のもので、アメリカのオリジナル曲および、このグループに参加するレジェンドたちのプレイを際立たせるトランペットやトロンボーン、クラリネットのセクション・フィーチャーやソロ・フィーチャーからなっていた。ただし、そんな中に、ロバート・ラッセル・ベネットの『古いアメリカン・ダンスによる組曲』やハワード・ハンソンの『コラールとアレルヤ』という、アメリカのコンサート・バンドの定番レパートリーが含まれていたことは大きな話題となった。(参照:《第18話 楽しいバンドコンサート》

また、全体を俯瞰するなら、シリアスからエンターテイメントまでの少し欲張ったコンセプトにも映るが、それらの多彩な演目をわずか1日のセッションで録り終えてしまったレジェンドたちに対しては、正直“リスペクト”という以外、適当な言葉が見つからない。

月刊誌「バンドジャーナル」1970年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)も、当日のセッションを取材。アンサンブル全体、パーカッション・セクション、モニタールームの模様を撮影したモノクロ写真3枚を配したグラビア頁のリポート“国内レコーディング・ニュース”(24頁)を入れた。記事には『とくに岩城宏之が打楽器を担当したのが注目される』(原文ママ)との記述もあり、掲載写真にも、バス・ドラムを叩いたり、プレイバックを聴く岩城さんの姿が大きく映りこんでいた。それは、岩城さん本人にとっては恐らくは15年ぶりの打楽器プレイだと思われるレアなシーンだったが、それもあってか、この第2弾のレコードやテープは、吹奏楽ファンだけでなく、再びオケマンたちの関心を呼びさますことになった。

ひとつの伝説の誕生である!

結果として、「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」と「我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》」の2タイトルが揃うことになった両アルバムは、普段は別々のオーケストラで活躍するオケマンたちが、楽団の垣根を超えて参集し、指揮者不在という自分たちだけのアンサンブル・プレイを愉しみながら、真摯に吹奏楽曲と向き合った貴重なアーカイヴ、オーディオ・ファイルとなった。

これらは、間違いなく、今後とも長く記憶に留められることになるだろう。

筆者が初めてこれらを聴いたときの個人的印象も強烈なものだった!

そして、両盤は、吹奏楽のレパートリーがそれまでのマーチ一色に変わって、吹奏楽固有のレパートリーを温め始めるようになったそんな時代に、我々に新しい風を吹き込んでくれた鮮烈なメッセージとなった!

いろいろなものが変わり始めていた!

だから音楽はおもしろい!!

▲ LP(再発売見本盤) – 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》(トリオ、PA-5026)

▲PA-5026、A面レーベル(見本盤)

▲ PA-5026、B面レーベル(見本盤)

▲「バンドジャーナル」1970年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第138話 普門館、落成の頃

▲東芝レコード広告、1969年

▲LP – 子どものためのバンド入門 笛吹きパンの物語(東芝音楽工業、TA-6054)

▲TA-6054、A面レーベル

▲TA-6054、B面レーベル

1969年(昭和44年)4月1日(火)、東芝音楽工業がリリースしたLP3枚組ボックス・セット「世界吹奏楽全集」(TP-7299~7301)は、3枚中2枚の新録音を担った東京佼成吹奏楽団(後の東京佼成ウインドオーケストラ)の記念すべきメジャー・デビュー盤となっただけでなく、その後、レコード各社が国内制作する吹奏楽レコードに大きな影響を及ぼした。(参照:《第27話 世界吹奏楽全集》、《第119話 東京佼成のメジャー・デビュー》)

その最大の成果は、収録曲を“マーチ”“ポピュラー”“オリジナル”という3つのカテゴリーに分類・構成された中に、“オリジナル篇”という、吹奏楽のために作曲されたオリジナル作品だけに特化した極めて特徴的な1枚が含まれていたことだ。

吹奏楽レコードの世界に登場した新たなカテゴリーの成立である。

これ以前に国内録音された吹奏楽オリジナルと言えば、加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブルが、1967年(昭和42年)7月にリリースされた「楽しいバンド・コンサート」シリーズ(EP:日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)に、アメリカのオリジナル曲から、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『献呈序曲(Dedicatory Overture)』(EES-176)やハロルド・ウォルターズ(Harold Walters)の『フーテナニー(Hootenanny)』(EES-177)、ジョセフ・オリヴァドーティ(Joseph Olivadoti)の『イシターの凱旋(Triumph of Ishtar)』(EES-178)を録音し、他の曲種と組み合わせて発売された一例があるだけだった。なので、この東芝盤の扱いはとても新鮮に映った。(参照:《第18話 楽しいバンドコンサート》、《第93話 “楽しいバンド・コンサート”の復活》)

月刊誌「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)に掲載された作曲家、松平 朗さんの寄稿“「世界吹奏楽全集」レコーディングに寄せて”(75頁)でも、『三枚目のオリジナル作品集、これがこの三枚組レコードの価値を最も高めている部分だが、……、このオリジナル作品集があることによって、このレコードが単に資料的、参考書的なものからぬき出て、芸術作品として鑑賞に耐えるものになっている。』(引用:原文ママ)と賞賛された。

結果として、東芝の“オリジナル篇”に収録された作品は、日本中で広く演奏されるようになった。と同時に、創立10周年に満たないニュー・フェイスだった東京佼成吹奏楽団の名も、レコード・セールスとともに次第に知られるようになった。当然、その対外アピールも活発化する。

そして、1970年(昭和45年)4月、東京・杉並区和田の地に、1967年から2年8ヶ月の歳月をかけて建設された5000名収容の大ホール“普門館”が落成した。

東芝は、この機を逃さず、1970年(昭和45年)7月31日~8月1日(金~土)、東京佼成吹奏楽団を起用した第2作、「子どものためのバンド入門 – 笛吹きパンの物語」(東芝音楽工業、TA-6054)のレコーディングをこの真新しい普門館のステージで行なった。

恐らくは、これが式典や練習等を除き、このホールで行なわれた初の吹奏楽のレコーディング・セッションだったように思う。

当時の写真(後述)を見ると、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身首席指揮者兼芸術総監督のヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan、1908~1989)のリクエストで後年作られた反響版がまだ無かった当時の広いステージをまるで大きなスタジオのフロアのように贅沢に使い、音響効果優先でプレイヤーを配したセッションの様子がたいへん興味深い。(当時の吹奏楽の録音は、今のようにコンサート・セッティングで行なわれることはほとんど無かった。)

監修は、東京藝術大学で作曲の教鞭をとり、自作品の吹奏楽曲がすでにアメリカで出版されていた作曲家の川崎 優さん(1924~2018)だった。

指揮者には、福田一雄さんが起用され、以下の曲が録音された。

笛吹きパンの物語
(物語:姫ゆり子 / 構成:小川さかえ)
Pan the Piper(George Kleinsinger)

ディヴェルティメント
Divertimento(John J. Morrissey)

やさしいバンドの歌
The Band Song(William Schuman)

「ピアノ協奏曲第21番」(K.467)より アンダンテ
Andante from Concerto for Piano (Wolfgang A. Mozart、arr. Hale Smith)

アメリカン・ドラム
American Drum(John Warrington & George Frock)

組曲「水上の音楽」より
(アレグロ、アリア、フィナーレ)
From “Water Music”(Georg F. Handel、arr. Hershey Kay)

“子どものためのバンド入門”というサブ・タイトルのとおり、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten、1913~1976)の「青少年のための管弦楽入門」(1945)の“吹奏楽版”といったタッチのアルバム構成で、セッションの模様を取材した月刊誌「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)は、モノクロ写真4枚を配した「吹奏楽の楽器紹介レコード録音さる」というグラビア2頁記事(24~25頁)を入れている。

『「むかし数千年もむかし、ギリシャにパンという名の羊飼いの少年がいました。ある日……」童話風に語られるナレーションとともに一本のアシの笛からだんだんいろんな楽器がふえてアンサンブルができ、打楽器が加わり、そしてついに金管楽器が加わって吹奏楽ができあがる、という過程をゆかいに説明していくこの曲「笛吹きパンの物語り」の録音が、7月31日、8月1日の両日、杉並の立正佼成会・普門館にて行なわれた。…(中略)… 吹奏楽がだれでも理解され、親しみやすいものになる意味で重要なレコードとなる有意義な録音であった。…(後略)…』(引用:「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)、原文ママ)

ナレーターには、当時、テレビ、ラジオ、舞台等で活躍中の女優、姫 ゆり子さん(1937~)が起用され、たいへん話題を呼んだ。

先の「世界吹奏楽全集」が、日本の吹奏楽の現場が求めていた実用選集であるのに対し、「子どものためのバンド入門 – 笛吹きパンの物語」は、広く一般の音楽ファンに、マーチだけではない吹奏楽の面白さを知ってもらうための啓蒙的な役割を果たした。

東京佼成吹奏楽団の名は、こうして、さらに認知度を高めていく。

そして、同年11月20日(金)、東京佼成吹奏楽団は、同じ普門館において、創立10周年を期して「第12回定期演奏会」(開演:18時30分)を開催した。

この演奏会は、客演指揮に山田一雄さんと初代常任指揮者の水島数雄さん(*)のふたりを招いて開かれた記念演奏会で、以下の意欲的なプログラムが演奏された。

天使の夢
Reve Angelique(from “Kamenoi-Ostorow” Op.10-22)(Anton Rubinstein)

ディヴェルティメント
Divertimento(John J. Morrissey)

吹奏楽のための木挽歌
<吹奏楽版初演>
Kobiki-Uta for Band(小山清茂 Kiyoshige Koyama)

大序曲「1812年」
Overture 1812(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)

行進曲「希望に燃えて」(*)
<自作自演>
With Full of Hope、March(水島数雄 Kazuo Mizushima)

序曲「詩人と農夫」(*)
Dichter und Bauer、Ouverture(Franz von Suppe)

シンフォニック・プレリュード
Symphonic Prelude(John B. Chance)

交響詩「ローマの松」
Pini di Roma、poema sinfonico(Ottorino Respighi)

これが、ここを本拠として活動する東京佼成吹奏楽団(東京佼成ウインドオーケストラ)が初めて普門館で行なった定期演奏会の演奏曲目だ。そして、ぜひとも記憶に留めておきたい吹奏楽演奏史上の重大事件は、この日、小山清茂さんが自作の管弦楽曲から自ら改編した『吹奏楽のための木挽歌』が山田一雄指揮で初演されたことだった。

この1970年以来、普門館では、数多くのコンサートやレコーディング・セッションが行なわれ、全日本吹奏楽コンクールの会場としても親しまれた。個人的にも、このホールにはたいへんお世話になった。

しかし、東日本大震災の後に明らかになった耐震性という思わぬ弱点の発覚で、図らずもこの大ホールは解体されることになった。心底から残念至極だ!

吹奏楽をやった者には、“普門館”という名は特別な意味をもって響く!!

2018年(平成30年)11月のさよならイベントにも、多くのファンがつめかけた。その姿はまさしく青春、そして情熱の発露だった!

このホールを基点に繰り広げられた多くの音楽シーンやメッセージは、きっと彼らの胸の奥にずっとずっと生き続けるだろう!!

さらばだ、普門館!!

▲チラシ – 東京佼成吹奏楽団第12回定期演奏会(1970年11月20日、普門館)

▲プログラム – 東京佼成吹奏楽団第12回定期演奏会(同上)

▲ 1~2頁(普門館とあいさつ)

▲ 3~4頁(指揮者プロフィールと曲目)

▲ 9~10頁(楽団プロフィール)

▲「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

▲「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第137話 トーマス・ドス「スポットライト」との出会い

トーマス・ドス作品リスト

2014年(平成26年)9月16~18日(火~木)、筆者は、愛知県北名古屋市の名古屋芸術大学3号館ホールで、同大学ウィンドオーケストラによるオランダのデハスケ(de haske)レーベルのためのレコーディング・セッションに臨んでいた。

周知のとおり、名古屋芸術大学ウィンドオーケストラは、デハスケ社の社長がヤン・デハーン(Jan de Haan / 参照:《第47話 ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動》)だった当時から同社の新作録音を手がけ、2005~2018年の14年間に、以下に挙げる計12タイトルのアルバムを蘭デハスケあるいは英アングロのレーベルからリリースしている。

ヤン・ヴァンデルローストと4人の作曲家たち
Jan Van der Roost presents(de haske、DHR 23-001-3、2005年)

アースクェイク
Earthquake(de haske、DHR 24-002-3、2006年)

バベルの塔
Tower of Babel(de haske、DHR 4-020-3、2007年)

ロマンティック・クラシックス
Romantic Classics(de haske、DHR 11-013-3、2008年)

ハーコン(ホーコン)善王のサガ
The Saga of Haakon the Good(Anglo、AR 025-3、2009年)

ヨーロピアン・パノラマ
European Panorama(de haske、DHR 4-029-3、2010年)

バイ・ザ・リヴァー
By The River(de haske、DHR 4-032-3、2011年)

イースト・ミーツ・ウェスト
East meets West(de haske、DHR 04-038-3、2012年)

アウレウス
Aureus(de haske、DHR 04-041-3、2013年)

セカンド・トゥー・ナン
Second to None(de haske、DHR 04-044-3、2014年)

ザ・ハーツ・アンド・ザ・クラウン
The Hearts and the Crown(de haske、DHR 4-046-3、2015年)

アインシュタイン
Einstein(de haske、DHR 4-047-3、2018年)

結果的に、日本のひとつの音楽大学のウィンドオーケストラが長年にわたって海外の音楽出版社の新作の録音を継続して手がけることになるこのシリーズは、実は、最初、同大学大学院教授で指揮者の竹内雅一さんがヤン・デハーン宛てに自分たちの録音を送り、その内容が評価されたことが契機となってスタートしている。海外への積極的なアプローチが見事に実を結んだ好例で、日本に音楽大学は数あれど、こんなケースは類例を見たことがない。

セッションでは、その竹内さんと、客員教授として同学に招かれていたベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のふたりが交代でタクトをとり、レコーディング・プロデューサー(デハスケでは、“レコーディング・スーパーヴァイザー”と呼ぶ)は、当初はヤン・デハーンが、2011年以降は、1枚を除いて、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)がつとめた。

一方、レコーディング・エンジニアは、同学准教授の長江和哉さんとそのクラスに学ぶ学生のチームが全録音を担っている。

というような訳で、自前のホールが使え、演奏、指揮、録音、舞台のスタッフがすべて学内に揃っている、即ちオール・イン・ワンであることが、このプロジェクトを長年に渡って進めることができた大きな要因となった。

また、竹内さんは、常々、ドイツの録音現場に学んだ長江さんの存在がとても大きかったと言われる。実際、筆者も、ベルリナー・フィルハーモニカー(ベルリン・フィルの本拠地)の録音ブースで撮影された画像や興味深い体験談をたびたび聞かされ、とても勉強になった。

名古屋芸大のCDリストをよく見ると、「ザ・ハーツ・アンド・ザ・クラウン」(DHR 4-046-3)と「アインシュタイン」(DHR 4-047-3)の2枚の間に少しブランクがあることに気づくだろう。実は、その間は、ちょうど長江さんがドイツに留学をしていた時期にあたる。関係者にあたると、そのタイミングには録音企画それ自体が見送られており、その事実ひとつをとっても、名古屋芸大の録音プロジェクトにとって、長江さんが欠かせない存在であることがとてもよくわかる。

話をもとに戻そう。

2014年9月、筆者が名古屋芸大で取り組んだのは、リストにあるCD「セカンド・トゥー・ナン」のレコーディング・セッションだった。スケジュール上の都合で来日が適わなかったベンに代わって急遽筆者が指名され、スーパーヴァイズすることになった録音である。

ベンから託された録音レパートリーは、かなりの分量で、折りしも2014年がベルギーの楽器発明家アドルフ・サックス(Adolphe Sax、1814~1894)生誕200周年というアニヴァーサリー・イヤーだったことと重なっていたことから、一般的な合奏曲に混じり、サクソフォンのために書かれたコンチェルトやカルテットまで含まれ、かなり意欲的で重量感のある内容となっていた。概して演奏グレードの高い作品が多かったが、すべてが過去に録音されたことがない新しい楽譜ばかりで、試しに計算すると、演奏時間のトータルがCD1枚分をはるかに超えていた。

例年は4日間で行なうセッションがこの年に限って3日間しか時間がとれないことにまるで気づいていないような出版社の対応がとても気になった。

しかし、どんなセッションでも終わるまで何が起こるかわからない。仮にもしもレコーディングの最中に、何か音楽的な疑問点や問題点が発覚するような事態に見舞われたら最後、時間内に録り終えることが難しくなることが必定であり、この時点でかなりタフなセッションになるかも知れないという予感が走った。

ところが、浄書が上がったものから順に届くスコアを眺めていく内、いくつかお気に入りの曲が出てきた。

オーストリアの作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)が、サクソフォン四重奏とウィンドオーケストラのためのために書いた『スポットライト(Spotlights)』も、個人的に魅力を感じた曲のひとつだった。(参照:《第50話 トーマス・ドスがやってきた》、《第51話 ト―マス・ドス「アインシュタイン」の事件簿》)

トーマスのこの作品は、2014年4月12日(土)、オーストリアのニーダーエスターライヒ(Niederosterreich)州ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス(Waidhofen an der Ybbs)の“ヴァイトホフナー音楽村(Waidhofner Music Village)”と呼ばれている会場で、作品を委嘱したオーストリアのモビリス・サクソフォン四重奏団(The Mobilis Saxophone Quartet)と、トーマス・マダーターナー(Thomas Maderthaner)が指揮する地元吹奏楽団のトラハテンムジカカぺレ・ヴィンターク(Trachtenmusikkapelle Windhag)の共演で世界初演された。

編成上の特徴は、サクソフォン四重奏と一般的編成のウィンドオーケストラ(サクソフォンを含む)の掛け合いが愉しめる音楽となっていることで、ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの各サクソフォンのキャラクターをフィーチャーし、そのヴィルトゥオーゾ性はもとより、さまざまなリズム遊びや、ときにはファンクのノリまで求められる、ひじょうにエンターテイメント性の高い曲になっていることだろう。

初演者のモビリス・サクソフォン四重奏団は、ウィーンに学んでいたサクソフォン奏者、オーストリア出身のミヒャエル・クレン(Michael Krenn、ソプラノ)、スロヴェニア出身のイエネ・ウルセイ(Janes Ursej、アルト)、日本出身のユキコ・クレン(Yukiko Krenn <岩田享子>、テナー)、クロアチア出身のゴラン・ユルコヴィチ(Goran Jurkovic、バリトン)によって2009年に結成されたグループで、CDデビューも飾っていた。

名古屋芸大のセッションでは、ソプラノ・パートを三日月 孝さん(教員)、アルトを滝上典彦さん(教員)、テナーを中山順次さん(学生)、バリトンを櫻井牧男さん(教員)の4人が担当。セッション中にたびたびお願いした細かいリクエストにも拘わらず、現場ではモチベーションの高いノリノリのパフォーマンスが繰り広げられた。これは、正しくグッジョブだった!

また、このときの『スポットライト』は、伴奏をつとめたウィンドオケも快調そのもので、セッションの千秋楽となった9月18日(木)の有終の美を飾る演奏となった。そして、録り終えた後の爽快感と開放感は、間違いなくセッション参加者のすべてのハートを揺らしたことだろう。

ステージからは大きな歓声が上がった!

長江さんの録音・編集チームにも大感謝だ!

それから数日。ベルギーに帰国したヤンから、録音を聴いたトーマスの“感想”が届いた。

『とても綺麗なサウンドで録ってくれて、本当にありがとう!』

▲CD – Second to None(蘭de haske、DHR 04-044-3、2014年)

▲DHR 04-044-3 – インレーカード

▲名古屋芸術大学ウィンドオーケストラ(名古屋芸術大学3号館ホール、2014年9月17日)

▲ソロイストたち(左から、三日月、中山、櫻井、滝上の各氏。同上。2014年9月18日)

▲大団円!(同上。2014年9月18日)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第136話 ジェイガー:交響曲第3番《神のかがやき》日本初演

▲チラシ- 広島ウインドオーケストラ第54回定期演奏会(2020年10月24日、JMSアステールプラザ大ホール)

▲プログラムと演奏曲目 – 広島ウインドオーケストラ第54回定期演奏会(同)

2020年(令和2年)10月24日(土)、筆者は、山陽新幹線“のぞみ25号”に乗車。一路広島を目指した。市内、中区加古町のJMSアステールプラザ大ホールにおいて16時から開かれる「広島ウインドオーケストラ第54回定期演奏会」を聴くためだ。

演奏会は“オール ジェイガー プログラム”と副題がつけられ、最大の注目作は、何といっても当日に日本初演が行なわれるアメリカの作曲家ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager)の交響曲第3番『神のかがやき』(Symphony No.3“The Grandeur of God”)だった。

指揮者は、同ウインドオーケストラ音楽監督の下野竜也さん。(参照:《第25話 保科 洋「交響曲第2番」世界初演》、《第134話 Shion 定期の再起動》)

作曲者のジェイガーは、1939年8月25日、ニューヨーク州ビンガムトンの生まれ。わが国でも、1963年の『シンフォニア・ノビリッシマ』(Sinfonia Nobilissima)がヒットし、他の多くの作品も広く取り上げられている。交響曲第3番『神のかがやき』は、1963年の交響曲第1番(Symphony No.1 for Band)、1976年の交響曲第2番『三法印』(Symphony No.2 “The Seal of the Three Laws”)についで書かれた3曲目の交響曲だ。(参照:《第20話 ジェイガー:交響曲第1番》)

しかし、我ながら情けないことに、この演奏会情報に気づいたのは、演奏会当日まで1ヶ月を切った2020年9月下旬のこと。また、ジェイガーは、同年夏に81歳の誕生日を迎えていたが、過去、手紙やメールのやりとりや、リクエストに応えてCDを送付するなど、長く交友のある作曲家だけに、その最新作の今度のナマ本番を聴き逃す訳にはいかなかった。

で、急にスイッチが入って、いつものように“弾丸”を決意!!

調べると、この交響曲が書かれたのは、2017年。世界初演は、2018年5月1日、アラバマにおいて、マーク・ウォーカー(Dr. Mark Walker)指揮、トロイ大学シンフォニー・バンド(Troy University Symphony Band)の演奏で行なわれた。同バンドは、トロイ大学最優秀の音楽専攻生が学ぶジョン・M・ロング音楽学校(John M. Long School of Music)の学生からオーディションで選ばれた55名から63名編成の優れたバンドで、当然、世界初演のパフォーマンスにも賞賛が贈られていた。交響曲第3番は、その後、初演があったその年の内に作曲者が大きな改訂を行なったことから、作曲年は“2017/2018”と両年併記されることになった。当然ながら、広島ウインドオーケストラの日本初演に際しては、作曲者から届けられた改訂後の楽譜が使われている。(作曲者は、これを改訂版初演としている。)

作品は、4楽章構成。イングランドのロンドン近郊エセックスのストラトフォードに生まれ、アイルランドのダブリンに没したイエズス会(カトリックの男子修道会)の聖職者ジェラード・マンリー・ホプキンズ(Gerard Manley Hopkins、1844~1859)が書きのこした「詩集(Poems)」(没後30年たった1918年に友人が草稿から刊行)に含まれる《God’s Grandeur(神のかがやき)》(1877年作)という一篇の詩にインスパイアーされている。この詩の作者ホプキンズは、1930年の「詩集」第二版の刊行後、広く知られるようになり、聖職者のひとりというだけでなく、英ヴィクトリア朝時代の詩人と位置づけられるようになった。

リサーチすると、19世紀に書かれたホプキンズの英文の原詩《God’s Grandeur》は、いろいろな書物や論文に掲出されていた。そこで、本話でもそのまま引用する。

The world is charged with the grandeur of God. 
 It will flame out, like shining from shook foil;
 It gathers to a greatness, like the ooze of oil
Crushed. Why do men then now not reck his rod?
Generations have trod, have trod, have trod;
 And all is seared with trade; bleared, smeared with toil;
 And wears man’s smudge and shares man’s smell: the soil
Is bare now, nor can foot feel, being shod.

And for all this, nature is never spent;
 There lives the dearest freshness deep down things;
And though the last lights off the black West went
 Oh, morning, at the brown brink eastward, springs
Because the Holy Ghost over the bent
 World broods with warm breast and with ah! bright wings.

その後、国内に日本ホプキンズ協会もあり、研究者による和訳や関連書籍もかなりの数が出版されていることがわかった。作品の元となった素材へのアプローチに関してはハードルが低いので、日本語でホプキンズの詩に触れて意味を噛み締めたい人は、ぜひとも直にそれらを参照されることをお薦めしたい。

オーシ!曲を聴く前の下調べとしては、これぐらいで充分だ!

チケットは、250席限定で発券とホームページにあったので、10月21日(水)、楽団事務局と書かれた携帯番号に直接予約電話を入れた。その時は、あいにく留守電だったので電話を切ると、しばらくして楽団の平林さんと名乗る人物から折り返しの電話がかかってきた。“練習の休憩に入った”という話だったので、恐らくプレイヤーさんなんだろう。そこで、ホームページの記載についての質問と空席状況を尋ね、座席を定めて当日窓口引き換えとした。このとき、2階27列の“13番”という座席番号が妙に気に入った。また、公演プログラムは、印刷物ではなく、まもなくダウンロード可能になるという話。正に楽団員によるセルフ・オーガナイズ感が漂うコンサートだ。

きっとバック・ステージには、いろいろな試行錯誤があるのだろう。

そして、演奏会当日の出発前、ダウンロードしたプログラムをプリントアウトする。のぞみ車中で読むと、そこには、交響曲第3番『神のかがやき』は、2014年に他界した作曲者が愛した妻への想い出に捧げられているという記述があった。

なんとドラマチックなんだろうか!

広島が近づくにつれ、気分がどんどん高揚していく!

演奏会場となったJMSアステールプラザ大ホールは、座席数が通常時1,200席(+身障者席4席)で、オケピット使用時には前5列の座席が収納されて1,091席(+身障者席4席)となる大ホールだ。地元広島のアウフタクトの録音エンジニア、藤井寿典さんに電話で尋ねると、ルートは、JR「広島」駅の南口から出る広島バス24号系統・吉島線が便数も多く最も便利だという。新幹線下車後、藤井さんの教示に素直に従って、南口ロータリーの乗り場にすでに停まっていた発車間際のバスに飛び乗り、ホール最寄りの「加古町」停留所へと向かう。所要時間はおよそ15分といったところで、ホールには、15時すぎに入った。

5月30日(土)に同ホールで予定されていた第53回定期演奏会(広上淳一指揮)がコロナ禍で延期された後、初めて開催される定期だけに、エントランスの応対は何かと手探り感が漂うが、まずはチケット代金を支払い、半券に住所を鉛筆で記入して自らもぎり、感染症予防対策のためのさまざまな関門もパスして無事に入場する。

コンサートは途中休憩なしの約1時間のプロと予告されていたが、指揮者の下野さんが曲間にマイクをとって、“紙に印刷したプログラムを用意できなかった”ことを聴衆に詫びながら、即席の解説者に変身。指揮者として感じた楽曲分析や解釈を聞かせてもらえたのは有意義でとても面白かった。しかし、そのため進行は間違いなく“押した”ようだったが、最後にアンコールとしてジェイガーが1978年の全日本吹奏楽コンクール課題曲として書いた『ジュビラーテ(Jubilate)』を快速テンポで決めて、17時20分頃に終演!!

核心の交響曲第3番『神のかがやき』も、作品、演奏ともどもオールド・ジェイガー・ファンを唸らせる仕上がりで、これをナマで聴けたことはたいへん大きな収穫となった!

この間、広島滞在は、僅かに3時間あまり!

オール・ジェイガー・プロによる演者の気持ちの入った音楽の宴は、心地よい余韻を残しながら大団円を迎えた!!

▲11月16日に届いた《特典CD》(BR-37010、制作:ブレーン、2020年)

▲同、インレーカード

▲同、レーベル盤面

▲CD送付挨拶文

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》

▲ステレオ・テープ – マーチの極致(トリオ、TSP-7008、1969年)(溝邊典紀氏所蔵)

▲同、バックインレー

▲トリオ社広告(1969年8月)

『去る四月十三日夜六時から、東京丸ノ内にあるサンケイ国際ホールにて、トリオ株式会社のマーチの録音があるという話をきいたので出かけてみた。広い国際ホールに楽器毎、広々と広がって席をとり、各セクション毎にマイクを立て、中央にも一本と、計七本のマイクで録音をしていた。メンバーはわが国の管楽器奏者としては一流のトップ・プレーヤーのみであり、録音メンバーも、草刈津三ディレクター、若林駿介ミキサーと、演奏する方も、録音する方も当代一流の人ばかりで、仕事もグングンはかどっていった。…(後略)…。』(原文ママ)

これは、1969年(昭和44年)4月12~13日(土~日)に行なわれたケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルの2日目のセッションを取材した月刊誌「バンドジャーナル」1969年6月号(管楽研究会編、音楽之友社発行)68頁の大石 清さん(1923~2005)の署名記事“国内レコーディング・ニュース”冒頭の引用だ。

少し脱線するが、表紙に“管楽研究会編”もしくは“管楽研究会編集”とクレジットされていた頃の同誌(1959年創刊号~1970年12月号)は、大石さんをはじめ、秋山紀夫さん、広岡淑生さんら、吹奏楽の発展に大きく寄与された先達たちが、“管楽研究会”と称して取材、執筆、編集までを担う、“吹奏楽に特化した”吹奏楽専門誌だった。個人的にも、村方千之さん、飯塚経世さん、赤松文治さんらが国内外の吹奏楽レコードの新譜にスポットをあてる頁が、情報がほとんどない地方都市に暮らし、その種の最新情報に飢えていた筆者の愛読コーナーとなっていた。

執筆陣の内、東京藝術大学の教官でテューバ奏者の大石さんは、取材に際して必ずカメラを現場に持ち込み、演奏家目線からのいい写真を押さえていた。当時の「バンドジャーナル」に使われている写真の多くが、実は大石さんの撮影だったことも、知る人ぞ知る隠れた事実だ。

この録音の取材でも、アンサンブル全体、各セクション、マイクを扱うエンジニアを捉えた計5枚のモノクロ写真が、22頁のグラビア頁と68頁の記事頁を飾ることとなった。いずれも、セッション当日の様子を正確に伝える貴重なショットだ。

演奏者のケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルは、NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団ほかのプレイヤーで構成されたこのレコーディングのために組まれたアンサンブルで、“アンサンブル”というだけあって指揮者は置かない。グループ名に“ブラス(金管)”という言葉も使われているが、実態は、木管、金管、打楽器で構成される、限りなく“吹奏楽”に近い楽器構成の管楽アンサンブルである。

大石さんが撮影した写真から、このアンサンブルには、センター近くにポジショニングしたファゴット奏者の戸沢宗雄さんをリーダーに、ピッコロ x 1、クラリネット x 4、サクソフォン x 3、トランペット x 4、ホルン x 3、トロンボーン x 3、テナーテューバ x 1、テューバ x 1、コントラバス x 1。パーカッション x 4の計26名のプレイヤーが参加していたことが確認できる。また、ジャケットのクレジットから、各セクション・リーダーが、ピッコロが峰岸荘一さん、クラリネットが千葉国夫さん、浅井俊雄さん、ホルンが千葉 馨さん、田中正大さん、トランペットが北村源三さん、戸部 豊さん、トロンボーンが福田日出彦さん、打楽器が有賀誠門さんという布陣だったことがわかる。

ディレクター(プロデューサー)は、戦後、東宝交響楽団(東京交響楽団)にビオラ奏者として入団し、その後、日本フィルハーモニー交響楽団の立ち上げに参画するなど、プロデューサーとしても活躍した草刈津三さん(1926~2004)で、このケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルの企画も、草刈さんが戸沢さんにアイデアを持ちかけたところから始まっている。

ミキサー(バランス・エンジニア)は、後に日本音響家協会名誉会長となる若林駿介さん(1930~2008)。アメリカに学び、帰国後、クラシックの録音や評論で大活躍された。筆者も、佼成出版社のレコーディング・セッションでたびたびご一緒し、いろいろと教示を受けている。このケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブルの録音に際しても、録音会場を大手町サンケイ国際ホールと定めたのが若林さんのアイデアだったと聞いた。(参照:《第57話 スパーク「セレブレーション」ものがたり》)

セッションは、初日の4月12日に譜読みと練習を兼ねた音出しと編成に合わせたアレンジの検討およびマイキングのバランス調整を行い、二日目の4月13日に録音本番という流れで行なわれた。大石さんが訪れたのは、すべて準備が整った二日目の本番の日だった。

録音は、テスト録音~プレイパック~プレイヤー間の意見の摺り合わせ~本番~プレイバックという合議制のスタイルで進行。瀬戸口藤吉の『軍艦行進曲』に始まり、ジョン・フィリップ・スーザの『星条旗よ永遠なれ』や『ワシントン・ポスト』、カール・タイケの『旧友』など、合計14曲のマーチが手際よく収録された。当時、草刈さんや若林さん、大石さんらの関係者が雑誌やライナーノートに書かれた文を読んでも、これらのマーチが実に効率よくスピーディーに録音されていったことがうかがえる。

リリースは、同年6月末。オーディオ・メーカーのトリオから、TDKが独自に開発した150SD(Super Dynamic)テープを使い、世界最高峰のデュプリケーターと謳われたアメリカのガウス(Gauss)社のG-12でテープ・プリントを行なった、当時のレコードをはるかに凌駕する高音質の“レコーディッド・テープ(録音済みテープ)”(速度19cm/秒の4トラック・ステレオ・オープンリール・テープ)として発売された。

そして、オーディオ・メーカーらしく、最先端技術のデモンストレーションも兼ねていたこのテープのタイトルは、《我が国最高の管楽器奏者による──「マーチの極致」》(トリオ、TSP-7008、1969年)と、なかなか押しが強かった!

当然、このテープは、コアなオーディオ・マニアたちが飛びつく一方、価格が\3,200と、当時のLPレコードに比べて少々お高かったこともあって、一般の吹奏楽ファンにはまるで高嶺の花。テープが正しく再生できるプレイヤーも必要となるので、タイムリーに超ビンボーだった筆者は、触手を伸ばさなかった。

という訳で、一般的な吹奏楽ファンが、この録音の演奏を確認できたのは、1969年秋に同社から発売された同内容のLPレコード(トリオ、RSP-7004、1969年)が登場して以降のことだったろう。少なくとも筆者はそうだ。

定価も、\2,000とかなりリーズナブルなお値段だった!!

しかし、安かろう悪かろうでは、話にならない。オーディオ・メーカーとしての自負もあったのだろう。トリオは、若林さんのアメリカでの恩師であるスチュアート・C・プラマー(Stuart C. Plummer)を通じ、ロサンジェルスのマスタリング・ラブ社(The Mastering Lab)にマスターテープを持ち込み、同社ベテラン・カッティング・エンジニア、ダグラス・サックス(Douglas Sax)が、当時最先端を行くノイマン(Neumann)社のSX-68カッター・ヘッドを駆使してカッティング。以降のプレスに至るまでの工程もすべて同地で行ない、プラマーが1枚ごとに検盤するという、徹底したこだわりの末にレコード化された。

「バンドジャーナル」では、1969年8月号で、秋山紀夫さんが、プレイヤー、アンプ、スピーカーの組み合わせをいろいろ変えながら試聴した詳細なテープ(TSP-7008)評を、1970年1月号の“吹奏楽新譜レコード紹介”の頁で、飯塚経世さんがレコード(RSP-7004)評を書き、相当な盛り上がりを見せた。

この内、飯塚評の結びは、今も記憶の中に鮮明に焼きついている。

『…(前略)…、今後できたらこのメンバーで、マーチ以外のコンサート・ピースも録音して欲しいと思う。』(原文ママ)

オケ・マンたちの吹奏楽レパートリーへの関わりは、こうして始まった!

▲楽器配置及び音場構成図(RSP-7004ジャケットから)

▲ LP – マーチの極致(トリオ、RSP-7004、1969年、米プレス)

▲ RSP-7004 – A面レーベル

▲ RSP-7004 – B面レーベル

▲ LP – マーチの祭典(トリオ、PA-5001、1972年再発売盤、日本プレス)

▲ PA-5001 – A面レーベル

▲ PA-5001 – B面レーベル

▲「バンドジャーナル」1969年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社発行)

▲「バンドジャーナル」1970年1月号(管楽研究会編、音楽之友社発行)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第134話 Shion 定期の再起動

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第132回定期演奏会(2020年9月19日、ザ・シンフォニーホール

▲プログラム – Osaka Shion Wind Orchestra 第132回定期演奏会(同)

▲同 – 演奏曲目

『みなさん、ようこそお越し下さいました。』

2020年(令和2年)9月19日(土)、ザ・シンフォニーホール(大阪市北区)で開催されたOsaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインドオーケストラ)第132回定期演奏会で、奏者入場の前、客電が落ちた中でひとりステージに立ったのは、同楽団のバス・トロンボーン奏者であると同時に楽団長、さらには運営母体の公益社団法人の理事長もつとめる石井徹哉さんだった。

石井さんは、千葉県佐倉市の出身。武蔵野音楽大学に学び、トロンポーンを前田 保、井上順平の両氏に師事。2004年(平成16年)、大阪市音楽団(市音)に入団し、その後、突如として吹き荒れた市音民営化の嵐、楽団史上最大の激動の時代を体験。2014年(平成26年)4月に民営化し、2015年3月16日に“Osaka Shion Wind Orchestra”(シオン)と名を改めたこの楽団を、2017年5月以降、理事長として束ねている。

だが、コロナ禍で日本全体のありとあらゆるものが自粛を求められた2020年、シオンも例外なく活動自粛を余儀なくされた。通常の演奏やリハーサルも軒並み中止となり、大阪市住之江区にある事務所も一時閉鎖された。

近年は、ザ・シンフォニーホールを中心に行なわれているシオンの定期演奏会も、3月14日(土)の第129回(指揮:渡邊一正)、4月23日(木)の第130回(指揮:フランコ・チェザリーニ)、6月7日(日)の第131回(指揮:汐澤安彦)が公演中止となった。(参照:《第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新》)

シオンに限らず、自粛期間中、プロ奏者の多くは、原点に立ち戻ってエチュードを徹底してさらうなど、来る日も来る日もまるで音大生時代を思い出させるような毎日を過ごしながら、演奏再開の日に備えたと聞く。しかし、自宅に練習用スペースや設備がある人ばかりとは限らない。音楽家としてのモチベーションの維持も含め、この間の過ごし方は本当にたいへんだったと思う。

やがて、自粛要請の解除に伴い、シオンの事務所も6月22日(月)に完全再開。7月12日(日)の再始動後初のコンサート、題して「新型コロナウイルスに負けるな!Shion再始動 初陣!宮川彬良×Osaka Shion Wind Orchestra」をめざすことになった。

会場のザ・シンフォニーホールも、在阪の各演奏団体と意見を交換しながら、感染拡大予防のための施策に取り組み、手探りの試行錯誤がつづく中の本番となった。だが、6月26日(金)に“限定席数”だけ売り出したチケットはすぐに完売。楽団も奏者も、あらためて、ナマの音楽を愉しみたいファンの存在の大きさに気づかされることになった。

その翌月の8月、大阪城音楽堂で行なわれた夏の風物詩「たそがれコンサート」においても、事前電話申込制の入場整理券(限定数)は、アッという間に予約で一杯に。何時間も電話がつながらないこともあったというから、ファンの後押しは本当に凄かった!

そして、演じる側も聴く側も、誰もが経験したことのないそんな状況下で迎えた9月19日の「第132回定期演奏会」。それは、いろいろな意味でシオン定期シリーズの再起動の日として人々に記憶されることになるだろう!

指揮は、これが初共演となる下野竜也さん。鹿児島市出身で、鹿児島大学教育学部音楽科、桐朋学園大学音楽学部附属指揮教室などに学び、2000年、第12回東京国際音楽コンクール<指揮>で優勝、2001年、フランスの第47回ブザンソン国際指揮者コンクールで優勝。2006年、読売日本交響楽団に初代正指揮者として迎えられ、2013年に同楽団首席客演指揮者に。シオン初共演時には、広島交響楽団音楽総監督、広島ウインドオーケストラ音楽監督、京都市交響楽団常任首席客演指揮者だった。かつて朝比奈 隆さんが音楽総監督をつとめていた頃の大阪フィルハーモニー交響楽団(大フィル)で初代指揮研究員(1997~1999年)だった時期もあるので、実は大阪とも縁のある指揮者である。大フィルを指揮し、『大阪俗謡による幻想曲』『大阪のわらべうたによる狂詩曲』ほかをレコーディングしたCD「日本作曲家選輯:大栗 裕」(Naxos、8.555321、2000年)が反響を呼んだことも記憶に新しい。(参照:《第25話 保科 洋「交響曲第2番」世界初演》)

プログラムに取り上げられた作品は、すべてウィンドオーケストラのために書かれたオリジナルで、この内、2曲がアメリカのシンフォニーだった!!

吹奏楽のための協奏的序曲 
(藤掛廣幸)

交響曲第5番「エレメンツ」
(ジュリー・ジロー)

交響曲第4番
(デイヴィッド・マスランカ)

この意欲的なプログラミングは、もちろん楽団と指揮者がアイデアを摺り合わせた成果だろうが、今回は、楽団をリードする石井さんの前向きなハートにかつての吹奏楽青年の下野さんが共鳴した。なんとなく、そんな気がする組み立てとなっている。

こんなことがあった。演奏会前年の2019年(令和元年)12月13日(金)、筆者は石井さんと、大阪市内なんばの某所で、恒例の“夜のミーティング”を持った。

意見交換がつづく中で、石井さんが『ほんといい曲なんです。』と言った曲があった。それがジュリーの“第5番”だった。

作曲者とは旧知の間柄だ。

石井さんの情報収集力に“なかなかやるなぁ”と思った筆者は、一年前の2018年(平成30年)6月19日(火)、オーストリアの作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)とともに訪れた武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブルのリハーサルで聴いた曲、それが正にその“第5番”だったと言葉を返した。

“武蔵野”は、石井さんの母校だけに、表情に少し驚きが見え隠れする。

この訪問は、同ウィンドアンサンブル指揮者で名誉教授のレイ・クレーマー(Ray Cramer)氏の了解と、専任講師でクラリネット奏者の三倉麻実さん、演奏部演奏課主任の古谷輝子さんの力添えがあって実現した。トーマスの方は、前週の6月15日(金)、杉並公会堂(東京)で行なわれた「タッド・ウインドシンフォニー第25回定期演奏会」(指揮:鈴木孝佳)で日本初演された自作『アインシュタイン(Einstein)』のコラボレーションが主目的の来日だった。(参照:《第50話 トーマス・ドスがやってきた》、《第51話 ト―マス・ドス「アインシュタイン」の事件簿》)

武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブルは、ちょうどその頃、2018年7月12日(木)、東京オペラシティ コンサートホールで行なわれる予定の「武蔵野音楽大学ウィンドアンサンブル演奏会(東京公演)」に向けてのリハーサルに入っていて、“太陽”“雨”“風”という3楽章構成の交響曲第5番『エレメンツ』もレパートリーの1つだった。

リハには、フルスコアも用意され、運がいいことに、ウィンドアンサンブルは“第5番”の全曲を練習。未知の作品をスコアを見ながらナマ演奏で聴くという、なんとも贅沢な展開となった。また、指揮者から奏者へのリマークもとても勉強になった。

そして、リハ後、トーマスは『このスコアはどこで買える?すぱらしい作品だ。』と言った。

筆者にとっても印象深い作品との出会いだったので、石井さんとの“夜のミーティング”においても、このとき現場で感じた感想をありのままに述べることができた。

話を元に戻そう。

こうして迎えたシオンの“第132回定期”は、ソーシャル・ディスタンスもあって、入場券は750席だけを発券。ホールスタッフによる入場時の検温、入場者がもぎったチケット半券をスタッフがもつ箱に投入、テーブルに積まれたプログラムを入場者自らが取り上げる、開演前や休憩中にコーヒーやワインを気軽に愉しめる“ザ・シンフォニーカフェ”もクローズ、楽団のグッズ販売もないなど、感染拡大予防のためのさまざまな規制があって少し面喰ったが、こればっかりは仕方ない。

演奏会それ自体に関して言うなら、それでも相当な数の熱心なファンが詰めかけ、とても聴きごたえのあるすばらしい音楽会となった。

個人的には、武蔵野リハで聴いたクレーマー、シオン定期で聴いた下野の両マエストロのジュリーのシンフォニーへのアプローチの違いがとても印象に残っている。これぞ、音楽を愉しむ醍醐味というべきか!

終演後、エントランス付近で市音元コンサートマスターで、くらしき作陽大学音楽学部教授の長瀬敏和さんと喋っているところに、石井さんが駆け込んできた。

石井:プログラム、短くなかったですか?

樋口:そんなことは感じなかった。充足感があったし。シンフォニー2曲だから。そう言えば、(長瀬さんに向かって)、昔、“指輪”(ヨハン・デメイの『指輪物語』)やることになったとき、みんな(長いって)怒ってましたよね。

石井:今では、当たり前になりました。

長瀬:木村(吉宏)さんと秋山(和慶)さん(の棒)で、2回やりました。(註:1992年5月13日(水)の第64回定期〈日本初演〉と2010年6月12日(土)の第100回定期。ともにザ・シンフォニーホールで。)

樋口:(長瀬さんの)ソプラノ(サクソフォン)のソロもよく覚えていますよ。

一同:(大きな笑顔)

シオン定期は、こうして語り継がれていく!

だから、音楽はおもしろい!!

▲Shion Times シオンタイムズ、2020 June、No.50

▲チラシ – たそがれコンサート2020(2020年7~8月、大阪市立大阪城音楽堂)

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第129回定期演奏会(公演中止)

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第130回定期演奏会(公演中止)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第133話 全英ブラスバンド選手権1990

▲プログラム – Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain(1990年10月6日、Royal Albeet Hall)

▲英女王(パトロン)の肖像(Held under the gracious patronage of Her Majesty The Queen)

▲チャンピオンシップ・セクション・テストピースと審査員

▲チャンピオンシップ・セクション出場バンド

『やっぱり、実際(に)やっていること(を)見てこんと(見てこないと)、よう(よく)わかりませんわ。』(カッコ内注釈、筆者)

ブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の常任指揮者、上村和義さんから電話がかかってきたのは、1990年(平成2年)の9月も下旬に掛かろうかという頃だった。

上村さんは、大阪芸術大学演奏学科の出身。トロンボーンを呉 信一、伊藤 清の両氏に師事し、在学中から、森下治郎ブラスアンサンブルや日本テレマン協会管弦楽団に参加。同大を卒業後、大阪シンフォニカ(現、大阪交響楽団)のトロンボーン奏者となった。だが、トロンボーンには、何かとユニークな面々が多い。在学当時からブラスバンドの面白さにすっかりはまってしまった氏は、1990年にBBBを創設。電話の2ヶ月前の同年7月2日(月)に、こけら落とし直後のいずみホールでデビュー・コンサートを終えたばかりだった。(参照:《第49話 ムーアサイドからオリエント急行へ》)

また、デビュー・コンサート後のBBBは、成果報告も兼ね、作曲家のフィリップ・スパーク(Philip Sparke)や指揮者・編曲家のハワード・スネル(Howard Snell)、同年6月のブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)の来日公演で知己を得た(イギリスでは狂牛病騒ぎで肉が喰えなかったこの頃、大阪で安全な日本の肉をご馳走した)3人の指揮者ロイ・ニューサム(Roy Newsome)、ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)、デヴィッド・キング(David King)などにデビュー時のライヴ録音を送って、将来に向けてのサジェスチョンをもらう一方、週一回の定例練習で海外から届く新しい楽譜をつぎつぎリハーサル。それらを箕面市民会館(大阪府箕面市)を借りて録音(通称“モーレツしごき教室”)するなど、1991年以降に行なう予定になっていた定期演奏活動に向けてレパートリーとサウンド作りの地固めを行なっていた。

BBBは全員プロ奏者。だが、現実にはブラスバンドで使うサクソルンの扱いになじみのない人も多かった。しかしながら、毎週、実際に合奏すると効果はてきめんで、ミュージカル・スーパーバイザーとしての立場からみた贔屓目ながらも、1970年代を通じてヒットを連発したゴードン・ラングフォード(Gordon Langford)やそれ以前の作品の演奏では、すでにレコードで聴くチャンピオンシップ・セクション・クラスに近いサウンドが出せるようになっていたように思う。

冒頭の上村さんの電話は、そんな折にかかってきた。

電話の趣は、翌月の10月6日(土)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれる全英ブラスバンド選手権(Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain)の決勝を聴きに行きたいが、どうしたらいいか、という相談だった。

当時のBBBの課題は、現代作曲家がつぎつぎと発表する最新オリジナルの演奏法だった。それを全英選手権という、手抜き無しの本気の演奏で聴ける格好の場で確かめたいという話だ。

しかし、チラリと横目でカレンダーを見ると、航空券や宿はこれからでもなんとかなるかも知れないが、もう日があまり無い。肝心のチケットを入手するにはどうすればいいのか。そこがポイントだった。

1900年(日本では明治33年!)に始まった全英選手権は、ブラスバンドをやっている英国の面々が、年に一度、寝食を忘れ、事によっては家庭をも省みず熱中してしまう超人気のイベントだ。そのロンドン決勝のチケットは、FAXや国際電話が最速の通信手段だったこの当時、英国内の知人を介して購入を試みたとしても時間切れになる可能性が高かった。

それではダメだ。

そこで、上村さんには、BBBのサポーターでもある東京のブージー&ホークス社(現、ビュッフェ・クランポン)にすぐ連絡をとって相談に乗ってもらうのがベストだと助言した。運よく、この年の選手権の主催者が楽器メーカーの同社だったからだ。

そして、この読みは見事的中。同社の千脇健治さんの手配でチケットをゲットできた上村氏は、10月2日(火)早朝に大阪・伊丹空港を発ち、成田空港からモスクワ経由、ロンドン・ガトウィック空港行きの英ヴァージン・アトランティック機に乗り継いで渡英した。

10月6日の選手権当日は、まだステージの設営をやっている早朝からロイヤル・アルバート・ホールに入り、現場をつぶさに見たという上村さん。

土産話でとくに傑作だったのは、チケットの自席付近をウロウロしているところを、前記ケヴィン・ボールトン、ロイ・ニューサムの両氏に見つけられ、ブラック・ダイクが借り切っていたボックス席に手招きされ、ステージをほぼ正面から俯瞰できるその特等席から選手権を愉しんだという話だ。

(やはり肉の力は絶大だった!)

1990年大会の選手権部門(Championship Section)決勝のテストピース(課題)は、ジョージ・ロイド(George Lloyd)の『イングリッシュ・ヘリテージ(English Heritage)』だった。

この作品は、2年前の1988年7月2日(土)、ロンドンのハムステッド・ヒース公園北端の湖の畔で夏開かれる恒例の野外コンサートで、ジェフリー・ブランド(Geoffrey Brand)指揮、ブラック・ダイクとグライムソープ・コリアリー・バンド(Grimethorpe Colliery Band)の合同演奏で初演された。即ち、ブラック・ダイクにとっては、手の内に入っている曲のはずだった。

ところが、デヴィッド・キングが指揮をとったこの日のブラック・ダイクは、1つのミスから立て続けにアクシデントが各パートを伝播。優勝を飾ったジョン・ハドスン(John Hudson)指揮、CWSグラスゴー・バンド(CWS Glasgow Band)に10ポイント差をつけられる186ポイントで第7位に沈んだ。

この惨憺たる結果は、同年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で行なわれた“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”で完勝した“ブラック・ダイク”(ヨーロッパ・チャンピオン)のパフォーマンスが“全英”のステージでは崩壊してしまったことを意味した。(参照:《第42話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990》

上村さんによると、このとき、レジデント・コンダクターのケヴィンが頭を抱え、名伯楽ロイに肩を叩かれ慰められるという、外国映画でよく見かけるようなシーンが展開され、ブラック・ダイクのボックスは一様に沈うつな空気に包まれたのだという。正しく大事件だった!!

(後日郵送されてきたイギリスの週間ブラスバンド新聞「ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)」上にも、ブラック・ダイクのこの日のパフォーマンスについて、酷評と失望の文字が溢れていた。)

しかし、あちらの人は頭の切り替えが早い。

選手権本番の後、審査発表までの間に行なわれたガラ・コンサートの開演前、ロイは上村さんをバックステージに誘い、当日のガラでエリック・ポール(Eric Ball)の名曲『自由への旅(Journey into Freedom)』をサプライズで指揮することになっていたブラスバンド界のレジェンド、“ミスター・ブラス”ことハリー・モーティマー(Herry Mortimer)夫妻を紹介され、ゲスト・ソロイストとしてデリック・ブルジョワ(Derek Bourgeois)の『トロンボーン協奏曲(Trombone Concerto)』やヤン・サンドストレーム(Jan Sandstrom)の『ショートライド・オン・ア・モーターバイク(A Short Ride on a Mortorbike)』をプレイする前のクリスティアン・リンドベルィ(Christian Lindberg)とも、“これから面白い曲をやるんだ”といった感じの気軽な会話で盛り上がったという。

日本ではあまり知られていないが、2000年9月9日(日)、バーミンガム・シンフォニー・ホールで行なわれた「全英オープン・ブラスバンド選手権(British Open Brass Band Championships 2000)」で、CWSグラスゴー・バンド(CWS Glasgow Band)の招きで、ハワード・スネルが抜けた後の同バンドを指揮した上村さんのキャリアは、こういった人脈の中で磨かれていったものだ。そして、この“全英オープン”での指揮は、イギリスの二大選手権史上初の日本人指揮者の登場となった。

(余談ながら、上村さんは、CWSグラスゴーからこの翌月の全英選手権決勝の指揮もオファーされたが、入管当局から就労ビザが下りず、実現しなかった。英国王がパトロンの“全英”だけに、外国人指揮に難色が示されたようだった。)

一方、1990年の“全英”で辛酸をなめたキングもそのままでは終わらなかった。

1991年7月5~6日、キング指揮のブラック・ダイクは、ウェストヨークシャーのデューズバリー・タウン・ホールで1枚のCDをレコーディングした。

タイトルは、「イングリッシュ・ヘリテージ~ジョージ・ロイド作品集(English Heritage and Other Music for Brass)」(英Albany、TROY 051-2、1991年)。

プライドの高いキングならではのリベンジだった!!

▲ガラ・コンサート・プログラム(1990年10月6日、Royal Albeet Hall)

▲CD – Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain – Gala Concert 1990(英Heavy Weight、HR006/D、1990年)

▲HR006/D – インレーカード(上村和義氏所蔵)

▲ジョージ・ロイド(George Lloyd)

▲CD – George Lloyd English Heritage and othermusic for brass(英Albany、TROY 051-2、1991年)

▲TROY 051-2 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第132話 「ブラス・タイムズ」の創刊と「バンド・タイムズ」

▲「ブラス・タイムズ(japan brass times)」創刊号 1面(ブラス・ウィークリー社、1965年12月1日発行)

▲同、2面(同上)

『吾国(わがくに)の吹奏楽界が目覚しい躍進を続け、世界の注目の的となっている時、この「ブラス・タイムズ」の誕生は、まことに時宜(じぎ)を得たものというべきであろう。旬刊(じゅんかん)の吹奏楽専門紙といえば、出版界からみても、前例のない思い切った企画でもあり、しかも全日本バンド音楽のメッカである関西から生れたことも大いに意義のある処であろう。私が先般来、各方面に強調していることは、日本吹奏楽の発展の健全性、即ち他の文化部門が大都市偏重の中央集中的であるのに対し、全く「地域差」がなく、文字通り、全国津々浦々の青少年達や各指導者諸君が、足並みを揃え、たくましい成長とをなしている事である。この明るく誇らしい勢いに「ブラス・タイムズ」が、共同の研究の交流の場として、更に有力な推進力となることを期待し、確信するものである。』(改行省略とカッコ内のフリ仮名を除き、原文ママ)

引用は、1965年(昭和40年)の年末に創刊されたタブロイド版の吹奏楽専門紙「ブラス・タイムズ(japan brass times)」12月(第1)号(創刊号)(ブラス・ウィークリー社、1965年12月1日発行)の1面に掲載された、当時の全日本吹奏楽連盟理事長、朝比奈 隆さんの祝辞「発刊を祝して」の全文である。

同文が掲載されている「ブラス・タイムズ」の実物は、実は、2020年(令和2年)8月25日(火)、Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)の未整理の資料の中から偶然見つかった。

出てきたときのコンディションは、経年変化で紙の縁の部分が赤茶け、触ると簡単にポロポロと分解するような、ほとんど朽ち果てる寸前という状態だった。幸い、白ボール紙に挟まれていた記事部分は、縁の部分より状態が良く、文字は問題なく読めた。しかし、紙の劣化はかなり進んでおり、写真はすでに解像度が落ち、文字の方もいずれ近い内に触れることもままならない状態になることが容易に想像できた。

そこで、シオン事務局長でホルン奏者の長谷行康さんらと相談し、念のため原本をきちんと保管するとともに、デジタル化などの保存措置がとられることになった。

筆者を含め、かつて「ブラス・タイムズ」という吹奏楽専門紙が存在したことを知るものがその場に誰もいなかったからだ。

帰宅後も、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんなど、当時を知っていそうな指導者に電話やメールでリサーチを続けたが、誰からも存在を確認できなかった。

これは、とんでもないものを発掘してしまったのかも知れない!!

その「ブラス・タイムズ」の紙面情報を整理すると、発行元は、大阪市東淀川区十三東之町1丁目16の13の(株)ブラス・ウィークリー社で、編集・発行人は大井克之。毎月1日・15日の月2回発行で、一部25円。直接購読料は、6ヵ月:370円、1ヵ年:700円(いずれも送料込み)とあった。

時系列的に時間を遡ると、終戦から8年後の1953年(昭和28年)に同じくタブロイド版の“月刊”新聞として創刊され、1956年(昭和31年)の5月号(通巻31号)から雑誌に発展した「月刊 吹奏楽研究」(月刊 吹奏楽研究社)が、1964年(昭和39年)の3月号(通巻87号)をもって廃刊。「ブラス・タイムズ」が創刊された1965年はその1年後にあたり、1959年(昭和34年)に創刊された月刊誌「バンドジャーナル」(管楽研究会編、音楽之友社刊)が、国内で唯一の吹奏楽を扱う媒体となっていた。(参照:《第39話 ギャルド:月刊吹奏楽研究が伝えるもの》《第61話 U.S.エア・フォースの初来日》《第74話 「月刊吹奏楽研究」と三戸知章》

この「ブラス・タイムズ」で面白いのは、同紙が、先行紙(誌)のような“月刊”ではなく、朝比奈さんも書いているように、創刊時に“旬刊”(本来は、十日ごとに刊行する雑誌や新聞に対する用いられる)を目指していたことだろう。また、発行元の社名に“ウィークリー”という文字が使われていることから、あるいは、最終的に“週刊”にすることを目標に定めていたのかも知れない。

情報の速達性という視点でみると、以上の事実は、「ブラス・タイムズ」が将来的に先行紙(誌)より魅了的な媒体に発展する可能性を内に秘めた媒体だったように感じさせる。しかし、そんな理想は理想として、同紙が創刊時に掲げた“月2回刊行”の方針は、取材面はもとより経営面でもかなりの冒険、あるいは野心的な発想だったように思う。

そして実際、12月1日発行の創刊号の後、紙面に告知されていた同15日の次号の発行はミスリードとなってしまった!!

なぜそんなことになったかについては、発行元が解散してしまった今となってはまるで事情が分からない。しかし、購読料を先に徴収して刊行する新聞にとって、これはあってはならない由々しき事態だった。

一方、刊行された「ブラス・タイムズ」の創刊号、それ自体は、かなりインパクトのあるコンテンツで構成されていた。

紙面は全6ページ構成。創刊号ということもあり、朝比奈さんの祝辞(1面)の他に、大阪市音楽団(現シオン)団長で指揮者の辻井市太郎さんの「発刊によせて」(3面)、阪急少年音楽隊隊長の鈴木竹男さんの「『ブラス・タイムズ』の活躍を期待」(3面)という祝辞も掲載されたなかなか華やかな紙面づくりだった。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》

最も力が入った記事は、1965年(昭和40年)11月14日(日)、長崎市公会堂で行なわれた「第13回全日本吹奏楽コンクール」の特集(1~2面)だった。同記事には写真6枚のほか、各部門の講評、得点表、折から来日中だった前A.B.A.(America Bandmasters Association)会長で作曲家、指揮者のポール・ヨーダー(Paul Yoder、1908~1990)の感想などもあり、それらが簡潔にまとめられていた。

また、つづく3面から5面には、神奈川、京都、福井、大阪など、全国各地の演奏会や講習会の記事が散りばめられ、音楽評論家のポップス講座もあるなど、限られた紙数に盛りだくさんの内容となっていた。

とくにユニークだったのは、日本楽器・心斎橋店、京都・十字屋楽器店、日本楽器・神戸元町店とタイアップして、店頭在庫をリスト化した「輸入楽譜在庫リスト」(40・12・1現在)を掲載したことだった。

普通、毎日どんどん変化する(つまり、掲載情報が刻一刻と古くなる)楽器店の“店頭在庫”を、入稿から刊行までタイムラグがある“印刷物”である新聞に載せようという発想は誰も思いつかない。

そんなリストを、まるで新聞の夕刊のテレビ欄かなんかのようにかなり目立つ最終ページの6面に持ってきたのは、間違いなく新聞の編集に手馴れた人のアイデアだったのだろう。ただ、この種の企画は、印刷情報のアップデートが欠かせないので、次号が出るまで間隔ができるだけ短かいことが必然的に要求される。残念だったのは、「ブラス・タイムズ」は、それが出来なかった。現場は、さぞかし大混乱だった筈だ。

しかし、編集・発行人には、メディアとしての使命感はあったようだ。

翌年の1966年(昭和41年)1月20日(木)、ブラス・ウィークリー社は、紙名を「ブラス・タイムズ」から「バンド・タイムズ」に改め、毎月20日発行の“月刊紙”として第2号を刊行。再出発を図っている。紙面は8ページに拡大。一部25円の定価は据え置き、直接購読料は、1ヵ年:400円のみの扱いとするなど、大きな改善を図っている。しかし、一旦失った信頼は戻ってはこなかったようだ。断続的にリサーチは続けているが、その後の同紙の消息についてはまるで情報が出てこない。とても残念なことに!

ただ、ラッキーなことに、この「バンド・タイムズ」第2号の原紙も、全8ページ中、半数の4ページを同じ日シオンの未整理資料の中から発見した。その状態は、前記「ブラス・タイムズ」とほぼ同様だったので、それも時代を伝える貴重な歴史資料として同様の保存措置がとられることになった。

余談ながら、TPP11協定の発効日の2018年(平成30年)12月30日以降、日本国内の著作権の保護期間は、発表後50年から発表後70年に延長された。

これを知らない人が意外と多いが、念のためチェックすると、シオンで見つかった両紙の著作権は、それ以前にすでに消滅。一旦消滅しパブリックドメイン化した著作物の権利が復活することはないというベルヌ条約の規定に従い、両紙のいくつかの紙面をそのままのかたちで紹介できることが明らかとなった。

ただ、そうは言っても、経年変化によってすっかり赤茶けてしまった紙の素地の色のまま画像にしたのでは、印刷された文字がたいへん見づらい。なので、ここでは色補正を施した上で画像化することにした。

しかし、これらはほとんど現物が残されていない時代の生き証人だ!

原著作者をリスペクトし、遠い先人たちの時代に想いを馳せながら愉しんでいただければと願う!

▲「ブラス・タイムズ(japan brass times)」創刊号 3面(ブラス・ウィークリー社、1965年12月1日発行)

▲同、6面(同上)

▲「バンド・タイムズ(japan band times)」第2号 1面(ブラス・ウィークリー社、1966年1月20日発行)

▲同、8面(同上)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第131話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版日本初演

▲管弦楽版日本初演プログラム(座席番号入り) – 中部電力ふれあいチャリティーコンサート(2004年2月5日、愛知県芸術劇場コンサートホール)

▲同、出演者プロフィール

▲CD – デメイ:交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版(Band Power、BPHCD-8001、2004年)

BPHCD-8001、インレーカード

2020年(令和2年)9月4日(金)、朝の東海道新幹線に飛び乗り上京。同日夕刻までに大阪に戻った。3日前に急逝した親友、元NHKプロデューサーの梶吉洋一郎さんを見送るためである。

梶吉さんは、武蔵野の出身。実家は東小金井だったと聞く。お爺さんが中島飛行機の技術畑で、“疾風(はやて)”という旧陸軍の戦闘機に携わっていたと聞かされた覚えがある。そんな物づくりの家系のDNAは、1979年(昭和54年)にNHK入局後、“報道部”を経て、念願の“音楽制作”に配属されるや、まるで水を得た魚のように遺憾なく発揮されることとなった。

そのキャリアの中でライフワークとなったのは、チェコのマエストロ、ラドミル・エリシュカ(Radomil Eliska, 1931~2019)と出会い、この名伯楽を日本各地の音楽シーンに紹介しながら、そのもっとも得意とするドヴォルザークの後期交響曲(第5番~第9番)やスメタナの「わが祖国」などのCDを世に送り出したことだったろう。これらCDの多くは、梶吉夫妻が立ち上げたオフィスブロウチェクのpastier(パスティエル)レーベルからリリースされたが、個人的なことながら、編集を終えたマスターや原稿を工場や印刷所に入稿するプロセスを担い、それがCDという形で広く世の音楽ファンに喜んでもらえたことは、馬が合った彼との長年の友情の証となったように思う。

奇しくも、マエストロと梶吉さんは、1年違いの同じ日に旅立った。今頃、天国で次の録音を何にしようか話し合っているかも知れない。

また、中高一貫校“成蹊”の音楽部で活動した若い日の記憶と血が騒ぐのか、こと吹奏楽に関しては一家言を持ち、当然、それは番組作りに色濃く反映されることとなった。

とは言うものの、彼が音楽制作に移った頃、NHKでは、会長の方針に従って、吹奏楽の唯一の定時番組「ブラスのひびき」(秋山紀夫さんの名調子で人気だった)が打ち切られ、何かの偶然で放送される曲を除けば、何年間も、NHKの電波に吹奏楽が乗らないという信じがたい状況が続いていた。

そんな中、カチンコチンに凍りついた部内の吹奏楽に対する冷淡な空気をものともせず、彼が立ち上げた3つのFM特別番組、1992年(平成4年)8月16日(日)放送の「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」、1993年(平成5年)3月20日(土)放送の「二大ウィンドオーケストラの競演」、1994年(平成6年)3月21日(月・祝)放送の「世界の吹奏楽・日本の吹奏楽」は、吹奏楽への想いを放送番組の形にした彼なりのこだわりであり挑戦だった。そして、それら特番は間違いなく、その後の「ブラスのひびき」復活へのプロローグとなった。また、NHK在職中、最後に手がけた番組の中に、中橋愛生さんがナビゲーターをつとめる「吹奏楽のひびき」があったことも、いかにも彼らしい有終の美の飾り方だったように思う。(参照:《第58話 NHK 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》《第102話 NHK 二大ウィンドオーケストラの競演》《第121話 NHK 世界の吹奏楽・日本の吹奏楽》

さて、そんな梶吉さんと一緒に手がけた作品の中に、オランダ人の親友、ヨハン・デメイ(Johan de Meij)の代表作、交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』がある。

周知のとおり、この作品は、ヨハンが1984~88年の歳月をかけてウィンドオーケストラのために作曲した彼自身初の交響曲だ。イギリスの作家ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン(John Ronald Reuel Tolkien, 1892~1973)の同題の冒険ファンタジー小説に題材を求めた5楽章構成、演奏時間およそ42分という作品だ。初演は、1988年3月15日、ベルギー王国の首都ブリュッセルのベルギー国営放送(BRT)グローテ・コンサートスタジオにおける、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(Orchestre de la Musique Royale des Guides)のコンサートで行なわれ、その模様はFMでオンエアされた。ロワイヤル・デ・ギィデは、ベルギー・ギィデ交響吹奏楽団(The Royal Symphonic Band of the Belgian Guides)の別名でCD等が発売されるベルギー国王のプライベートな吹奏楽団だ。(参照:《第55話 ノルベール・ノジとの出会い》

その後、この交響曲は、1989年12月、指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti、1912~1997)を審査委員長とする“サドラー国際ウィンド・バンド作曲賞1989”(主催: ジョン・フィリップ・スーザ財団)で、世界27ヵ国からノミネートされた143楽曲中、最優秀作品に選ばれた。

日本初演(全曲)は、1992年(平成4年)5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールにおける「第64回大阪市音楽団定期演奏会」で、木村吉宏の指揮で行なわれた。“大阪市音楽団(市音)”は、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活躍を続ける大阪のウィンドオーケストラの市直営当時の名称だ。(参照:《第59話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」日本初演》

そして、市音のこの演奏会に、大阪局(BK)にはない中継車を東京から走らせたのが、梶吉さんだった。言い換えれば、『指輪物語』と彼との付き合いは、このときに始まった。

この日のライヴ録音は、筆者がナピゲートした前記FM特番「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」でオンエアされ、大きな反響を巻き起こし、その後、市音初の自主CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年)へと繋がった。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》

それから数年余。すでに世界的ヒットとなっていた『指輪物語』に新たに管弦楽版(2000年)が完成したという知らせがヨハンから入った。管弦楽版を作る気になったのは、なんでも、アメリカのオーケストラ指揮者、デーヴィッド・ウォーブル(David Warble)から強いリクエストがあったからだそうで、管弦楽用のオーケストレーションは、優れたオーケストレーターとして名を上げていた友人のオランダ放送管弦楽団首席打楽器奏者のヘンク・デフリーヘル(Henk de Vlieger)がヨハンのアイデアを管弦楽スコアに起こしていくコラボレーションのかたちをとった。これは、ヨハン自身がそれまで管弦楽のスコアを書いた経験がなかったことと、世界的ヒット作となったこの曲を第三者的視点から見直すためだった。

管弦楽版の公式世界初演は、オランダのロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(Rotterdams Philharmonisch Orkest)が本拠とするロッテルダムの有名なコンサート・ホール、デ・ドゥーレン(De Doelen)における3日連続演奏会として企画された。初日は、2001年9月28日(金)で、演奏は、3日とも、ディルク・ブロッセ(Dirk Brosse)指揮、同管弦楽団によって行なわれている。

しかし、この話を企画段階で聞いたウォーブルは、『これはまず、提案者である自分にやる権利がある。』と言って頑として譲らず、ヨハンと話し合った結果、≪公式世界初演≫より7ヶ月前の2001年2月17日(土)、米ニューヨーク州ロング・アイランド(Long Island)のティレス・センター・ノース・フォーク・ホール(Tilles Center North Fork Hall)で、“スター・トレック(Star Trek)”でおなじみの俳優ジョージ・タケイ(George Takei)をナレーターに立てた≪ナレーション入りバージョンのオーケストラによる初演≫として、ウォーブル指揮、ロング・アイランド・フィルハーモニー(Long Island Philharmonic)によって演奏された。(実は、ウォーブルは、それまでにタケイをナレーターとするウィンドオーケストラ版の演奏を60回やっていた。)

その後、ウォーブルは、≪公式世界初演≫直前の2001年9月22日(土)、英BBC放送のスタジオとしてもおなじみのロンドンのゴールダーズ・グリーン・ヒポドローム(Golders Green Hippodrome)でレコーディングされたロンドン交響楽団(London Symphony Orchestra)演奏の『指輪物語』管弦楽版の世界初CD(カナダMadacy、M2S2 3193、2001年)の指揮者にも起用されている。

梶吉さんに、『指輪物語』に新たに管弦楽版ができたことを話したのは、2002年後半の某日。一時、彼がNHKの外郭であるNHK中部ブレーンズ(名古屋)に籍を置いていた頃だった。当時、筆者は、《第125話 スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」の衝撃》でお話ししたような事情で、何かやりたいと思ったとことがあったとしても、大阪に張り付いたまま身動きがまったくとれない状態にあった。なので、このときの“指輪物語管弦楽版情報”は、彼がかけてきた電話の中で話した雑談として終わるはずだった。

しかし、彼にとってはこの話は、相当刺激的な内容だったようだ。彼は電話の最後の方で『今、たいへんだろうけど、楽譜がどうなっているかだけ、訊いてくれない。』と言った。

何か閃いたのだろうか?

すぐ了解して、ヨハンに訊ねると、版権は彼の出版社アムステル・ミュージック(Amstel Music)が所有するが、楽譜本体は、アルベルセン(Albersen Verhuur V.O.F.)のレンタル譜だという。直感の鋭いヨハンらしく料金表まで添付されてきたので、早速、それらをまとめて梶吉さんに送った。これにて一件落着だと思っていたら、これが大きな間違いだった。

このとき、梶吉さんが筆者の知らないところで立案していたコンサートの組み立ては、2003年(平成15年)4月22日(火)に流れてきた1枚のFAXで初めて知った。

【演奏会名】中部電力ふれあいチャリティーコンサート  
【日時】2004年2月5日(木)、14:30開演と18:30開演の2回
【会場】愛知県芸術劇場コンサートホール
【指揮】大勝秀也
【管弦楽】名古屋フィルハーモニー交響楽団

また、この演奏会は、NHKが音声収録し、2004年2月29日(日)、14:00からの「FMシンフォニーコンサート」(解説:外山雄三)の中でオンエアとも書かれてある。2回本番で、いい方を放送しようという腹積もりなんだろうか。

しかし、続いて『楽譜は、指揮者は6月末までにスコアが欲しいと言っています。オーケストラは9月末までにスコアとパート譜が欲しいと言っています。』と書かれてあったのには、目が点になってしまった。つまり、やり取りのない相手から“レンタル譜を借り出して欲しい”というリクエストだった。

『あれ?それって俺の仕事?』と思いながらも、一方で日があまり無いのも事実。すぐヨハンと連絡をとって、アルベルセンの連絡方法と担当者を教えてもらい、手探りの折衝を開始。今度のケースでは、公開演奏回数、録音の有無、放送回数など、料金に関係する詳細なデータを知らせてレンタル料金を見積もってもらい、合意の上で契約を取り交わした後でないと、楽譜は送られてこない。そんな訳だから、シリアスなやりとりを繰り返した後、アルベルセンが楽譜を送り出してくれたのは、6月24日のことだった。到着後、楽譜を点検して名古屋フィルに急送。指揮者のリクエストにも辛うじて間に合った!(当然、後日の返送も筆者の役割りとなる。)

やれやれと思っていたら、今度は、ヨハンが『来日したい。』と言い出した。理由を訊ねると、ロンドンの録音が練習と本番を1日で済ましてしまう、いわゆる“ゲネ本”だったので、『今度は演奏者とのコラボレーションを重ねてさらにいいものに仕上げて欲しいんだ。』と言う。気持ちはわかる。

ダメもとでこの件を梶吉さんに電話すると、『(新しい楽譜だけに)来てもらうのは大変ありがたいんだけど、クライアントからの追加予算はないよ。』との返答。即ち渡航費は出ないとの由。そりゃそうだ。また、こちらが大阪を離れることが厳しい状況だけに、ヨハンが来るとなれば、誰かアテンドをつけなくてはならなかった。もちろん、ヨハンは、そんな事情など知る由も無かったが…。

その内、東京のバンドパワーが、NHKの放送が終わった後、その録音を使ったライヴCDを作ることに関心を寄せ、もしそれがOKなら渡航費ほかの負担に応じてもいいという話になった。名古屋フィルからも、もし作曲者が名古屋まで来られるのなら、楽団のゲストとして宿の用意をする旨、申し出があった。また、アテンドについても、あてにする黒沢ひろみさんから日程を空けてくれるという確約が入った。

オーシ、もう大丈夫! 誠意をこめて折衝に当たってくれた梶吉さんをはじめとする各位に大感謝だ!

その後、名フィルの中から面白い話がこぼれてきた。ヨハンの『指輪物語』は、楽団事務局が全く知らない曲だったが、管楽器や打楽器奏者の中から、『学生時代に演奏したかった曲だ。』とか『指導に行った学校の吹奏楽部がやっていた曲だ。』、『子供達(中高生)がよく知っている曲だ。』という話が出て、事務局は原曲が吹奏楽の世界では相当な有名曲であることをついに認識。口コミで伝わった東京のプレイヤーからも“のせて欲しい”という要望があったというが、全国放送もあることだし、ことこの本番に関しては、“首席”“副首席”の全員出席で望むことになったという。

そんなこともあり、当日は、ひじょうにモチベーションの高い演奏が繰り広げられることになった。それがライヴCDのかたちで残されたことは、望外の喜びだ!

ホールで聴いていたバンドパワーの鎌田小太郎さんも、この日聴いた第3楽章のソプラノ・サクソフォーンのソロが、『もっとも“ゴラム”らしい。』とお気に入りの様子!

傍らで聴く演奏会の立案者の梶吉さんもとても愉快そうだった。

それから16年の歳月が流れた。

筆者を乗せ東京へと向かう“のぞみ”がちょうど名古屋を出た頃、彼とともに『指輪物語』に関わった日々が、まるで走馬灯のように頭の中を駆け巡った!!

▲管弦楽版公式世界初演プログラム – Symphonisch gedicht voor viool en orkest(2001年9月28~30日、De Doelen、Rotterdam)

▲同、演奏曲目

▲「中日新聞」2004年2月16日(月)夕刊、9面

▲「朝日新聞」2004年2月29日(日)朝刊、3版27面

▲スタディ・スコア – 交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版(Amstel Music、非売品、2000年)

▲ラドミル・エリシュカ、梶吉洋一郎の両氏

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第130話 ミャスコフスキー「交響曲第19番」日本初演

▲チラシ – 第5回大阪市音楽団特別演奏会(1962年5月8日、毎日ホール)

▲プログラム – 同

▲同、演奏曲目

▲「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)

『今までの多くの作曲家を交響曲の作品数でランキングをつけると、第1位がハイドン、第2位がモーツァルト、そして第3位がミアスコフスキーということになります。ミアスコフスキーはこのように交響曲の数の多さでよく知られていますが、作品そのものは殆どといつていいくらい知られておりません。大変美しく感動的な曲もあるということですが、日本での紹介がおくれているのは何としても残念なことです。』(一部異体字の変更以外、原文ママ / 作曲者カナ表記“ミアスコフスキー”は演奏会プログラムどおり)

1962年(昭和37年)5月8日(火)、旧ソヴィエト連邦(現ロシア)の作曲家、ニコライ・ミャスコフスキー(Nikolai Myaskovsky、1881~1950)の『交響曲第19番 変ホ長調』(作品46)の日本初演が行なわれた「第5回大阪市音楽団特別演奏会」(於:毎日ホール、開演:18時30分)のプログラムに、辻井英世さん(1934~2009)が書いた同曲の解説文冒頭の引用である。氏は、吹奏楽作品もある在阪の現代作曲家として知られ、当夜の指揮者、大阪市音楽団団長の辻井市太郎さん(1910~1986)の長男でもある。後年、会食をともに愉しんだこともあった。

ロシア語の人名を我々が普段使っているラテン文字のアルファベットに変換する手法には、いくつかルールがある。それぞれ一長一短があり、今のところ決定打はない。今回の話の主人公ニコライ・ミャスコフスキーのケースだと、筆者が実際にこの目で確認したスペルだけでも、ファースト・ネームに“Nikolai”や“Nikolay”、ファミリー・ネームにも“Miaskovsky”や“Myaskovsky”、“Myaskovskii”がある。さらにロシア人の名前の“v”を“w”と表記するケースも結構あるので、現実にはまだまだあるかも知れない。また、それらのスペルを見ながら考案されてきた日本語カナ表記に至っては、問題はさらに複雑だ。辻井さんは“Miaskovsky”に従い、筆者は“Myaskovsky”あるいは“Myaskovskii”に従っている。そして、ロシア人が喋るのを聞いていると、たとえ日本で使われているカナ表記を意識しながらヒヤリングしても“ア”や“ャ”は案外聞こえない(筆者の耳が悪いだけかも知れないが)ので、あるいは“ミスコフスキー”が近いのかも知れない。逆に英米人は我々に近い。ただ、文字としてのカナ表記“ミャスコフスキー”は、アルファベットのスペルを想像しやすいという利点もあるので、一応OKだと思う。

我々が何の疑いもなく使っているチャイコフスキーやムソルグスキーの横文字表記にも、実は同じような課題が存在する。

出版社などから、ときどき『ネット検索できないから、なんとかまとめてくれ。』というリクエストがくるが、そんな場合は『それならロシア文字で表記したら?』と笑いながら答えるようにしている。すると、相手はたいてい音を上げる。恐らくは、“こいつ使えない!”と思われているだろうが…。

話を元に戻そう。

1962年5月8日、ミャスコフスキーの『交響曲第19番』の日本初演を行なった“大阪市音楽団(市音)”は、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活躍を続けている。“大阪市音楽団”は、大阪市直営当時の名称だ。

当夜の演奏会は全国的な注目を集めた。吹奏楽専門誌「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)は、表紙に当日のステージ写真をあしらい、「最高レベルのシムフォニックバンド 大阪市音楽団 第5回特別演奏会」という題する2頁記事(12~13頁)を入れた。現場取材の同記事が伝える出席者の顔ぶれも次のようにひじょうに多彩だ。

『この日、この音楽団の多くの固定ファンや関西方面の好楽家、吹奏楽関係者で会場が埋り、一曲ごとに感激の拍手がをくられた。大フィルの指揮者朝比奈隆氏、NHK西川潤一氏、毎日新聞渡辺佐氏、大阪新聞中田都史男氏、音楽新聞佐藤義則氏、評論家上野晃氏、松本勝男氏、滝久雄氏や大阪府警音楽隊の山口貞隊長、大阪府音楽団小野崎設団長、阪急少年音楽隊の鈴木竹男隊長や、関西吹奏楽連盟の矢野清氏、得津武史氏など地元の人たちの外、東京から、芸大の山本正人、小宅勇輔、大石清の諸氏、東京都吹奏楽連盟の広岡淑生理事長、前警視庁音楽隊長山口常光氏、広島から広島大学の佐藤正二郎氏、岡山の前野港造氏なども来朝、この音楽団の発展を祝福した。』(原文ママ)

関西一円の吹奏楽関係者だけでなく、記事の中にやがて全日本吹奏楽連盟理事長に就任する朝比奈 隆さんや、「東京吹奏楽協会」のアーティスト名でレコードやソノシートにマーチをさかんに録音していた東京藝術大学の山本正人さん(指揮者)、小宅勇輔さん(打楽器)、大石 清さん(テューバ)の諸氏の名があることも目をひく。これは、当時の東西の人的交流の様子や、市音が1960年にはじめたコンサート・ホールでの定期演奏活動がいかに注目を集めていたかを如実に物語っている。山本さんが創立指揮者となる「東京吹奏楽団」が1963年に立ち上がる以前の話である。(参照:《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》《第129話 東京吹奏楽団の船出》

メイン・プロとなった『交響曲第19番』について、「吹奏楽研究」はこう記している。

『ソヴィエトの作曲家として、新しいソ連の音楽…大衆と密着した音楽という理念にもとづいて数多くの交響曲を作っているミアスコフスキーの、輝やかしいすぐれた交響曲の四つの楽章全曲が本邦初演された。』(原文ママ / “ミアスコフスキー”はプログラム表記どおり)

ニコライ・ミャスコフスキーは、生涯を通じて27曲の交響曲を作曲した。『交響曲第19番』は、その中で唯一吹奏楽編成で書かれた作品で、作曲者がモスクワ音楽院の院長をしていた当時、友人のモスクワ騎兵軍楽隊の隊長イワン・ペトロフの依頼を受け、1939年に作曲された。初演は、1939年2月15日、ペトロフ指揮の同軍楽隊のラジオ放送の中で行なわれ、公開演奏は、一週後の赤軍記念日にモスクワ音楽院で催されたコンサートで同軍楽隊によって行なわれた。評者も称賛!大成功を収めた。

ドイツ式楽器編成をルーツとする旧ソ連のミリタリー・バンドの楽器編成は、サクソフォンを使わない代わりに、アルト、テノール、バリトン、バスのサクソルン系の金管楽器を含んでおり、この交響曲もその特徴的な編成で書かれていた。初演はひじょうに好評で、たちどころにソ連のミリタリー・バンドのレパートリーとなった。その後、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーやエフゲニー・スヴェトラーノフといったクラシック畑で活躍する指揮者もレコーディングを行なっている。スヴェトラーノフは、ミャスコフスキーの交響曲全集を録音した指揮者だ。

この作品を日本人が知ったのは、1959年にアメリカでリリースされ、日本にも少数が輸入されてきたLP「MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND」(米Monitor、MC 2038、モノラル録音)だった。このレコードは、間違いなく、旧ソヴィエト国営レーベル“メロディア”がオリジナル原盤で、演奏者は、イワン・ペトロフ(Ivan Petrov)指揮、モスコー・ステート・バンド(Moscow State Band)とあった。また、ジャケットには、“A First Recording(初録音)”の小さな文字も印刷されていた。

後年、筆者がこのレコードを手にしたとき、指揮者が初演を振ったペトロフであることはすぐに気がついた。だが、バンド名の“モスコー・ステート・バンド”がどうしても謎だった。当時、共産党政権下のモスクワにミリタリー・バンド以外に民間吹奏楽団ができたというニュースはついぞ聞いたことがなかったからだ。“モスコー”が“モスクワ”、“ステート”が“ソヴィエト連邦”を意味していそうだとはおぼろげに想像できたが、実際にこれを日本語にするとなると、一体どう訳せばいいのだろうか。また、録音のための臨時編成なのか、常設のバンドなのか。それによっても日本語訳はかなり変わってくる。

この謎が解決したのは、その後、何十年も過ぎてから、AB両面のカップリング曲こそ違うが、同じ『第19番』の演奏が入っているメロディア盤を中古市場で手に入れたときだった。もちろん、レーベルに印刷されているロシア文字はチンプン・カンプンだったが、一文字ずつ照らし合わせていくと、レーベル最下部に指揮者のイワン・ペトロフ(ファースト・ネームはイニシャルのみ表記)の名が印刷され、その上に演奏者名があるらしいことが分かってきた。また、演奏者名は2行で構成され、最後の文字は“CCCP(ソヴィエト社会主義共和国連邦)”だった。ということは、それは間違いなく“公”の楽団であることを示していた。そして、その時点で“民間楽団説”は泡のように消えた。

同時に、外貨獲得目的で海外輸出用に製造されたメロディア盤のジャケットには、ロシア語名のほかに“ちょっと怪しい英訳”が印刷されていることが多いことを思い出した。そこで、30枚程度ある手持ちのメロディア盤を片っ端からあたっていくと…。

ハイ、ハイ、ほぼ同じ演奏団体名が、英訳付きでゾロゾロ出てきた!

文字化けの可能性もあるので、ここにロシア名は記さないが、英訳の方は、“ORCHESTRA OF THE USSR MINISTRY OF DEFENCE(ソヴィエト国防省吹奏楽団)”とあった。彼らはモスクワを本拠とするソヴィエト連邦最優秀、最大編成のミリタリー・バンドだ。さらに調べると、指揮者イワン・ペトロフは、初演の後、着実に昇進し、1950年から1958年までソ連邦最高峰のこのバンドの楽長をつとめていた。階級が少将とあったので、最高位の楽長だったことは間違いない。

以上のペトロフの履歴から、オーディオ好きの人は、ひょっとするとピンときただろう。

そう。アメリカでステレオ用カッティング・マシーンが実用化され、ステレオ録音のレコードがプレスされるようになったのが、実は1958年だった。それまでリリースされたレコードがすべてモノラル盤だったので、ペトロフが指揮したミャスコフスキーの『交響曲第19番』の世界初録音盤がモノラル録音であることも見事に辻褄が合った。

当時は、折りしも米ソ冷戦下。厚いベールに包まれたソヴィエトの国内情報のディティールに欠ける恨みはあるが、ここで追加情報をまじえて時系列的に整理すると、『交響曲第19番』の楽譜がソヴィエト国営の出版社から出版されたのは1941年。エドウィン・フランコ・ゴールドマン指揮、ゴールドマン・バンド(参照:《第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの》)が全曲のアメリカ初演を行なったのが、1948年7月7日(部分初演は、同年1月3日)。その後、ペトロフ指揮の世界初録音が1950~1958年の間に行なわれ、そのアメリカ盤がリリースされたのが1959年だったという流れとなる。

この間、作曲者のミャスコフスキーは、1950年8月8日、モスクワで亡くなっている。

それにしても、西側初のレコードで作品情報に接してから、僅かな年月で日本初演にまでこぎつけた市音の情報収集力とモチベーションはすごい!!

ウィンド・ミュージックにかけるこの楽団の情熱がひしひしとして伝わってくる1つのエピソードだ!

▲Nikolai Myaskovsky

▲LP – MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND(米Monitor、MC 2038、1959)

▲MC 2038 – A面レーベル

▲MC 2038 – B面レーベル

▲〈露語記号略〉5289-56 – A面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)

▲〈同〉5289-56 – B面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第129話 東京吹奏楽団の船出

▲「月刊 吹奏楽研究」1963年12月号(通巻86号、吹奏楽研究社)

▲東京吹奏楽団パンフレット(1970年代前半)

▲東京吹奏楽団、吹奏楽テープ・リスト(1972年頃)

『これまで、わが国のプロ吹奏楽団は、自衛隊、警察、消防などの外、大阪府・市の両音楽団くらいのもので、何れも官庁が設けているものであるが、民間のプロ吹奏楽団として、わが国ではじめて「東京吹奏楽団」が誕生した。このメンバーは専門家だけの、日本の吹奏楽界のトップを行く人たちばかりである。十月二十四日の夜、第一ホテルで結成披露パーティが催され、吹奏楽関係の人たち百余人が集り、この楽団の前途を祝福した。…(後略)…』(原文ママ)

1963年(昭和38年)10月24日(木)、東京・新橋の第一ホテル(旧)で行なわれた東京吹奏楽団結成披露パーティを伝える吹奏楽専門誌「月刊 吹奏楽研究」1963年12月号(通巻86号、吹奏楽研究社)の28ページに掲載された「新しく生れたプロバンド 東京吹奏楽団」というニュースの冒頭部分の引用だ。

「月刊 吹奏楽研究」は、1953年(昭和28年)に、タブロイド版の“月刊新聞”でスタート。1956年(昭和31年)5月号(通巻31号)から雑誌に姿を変え、1964年(昭和39年)3月号(通巻87号)まで刊行された吹奏楽の現場で活動する専門家による吹奏楽専門誌だ。記事の執筆者は不詳だが、この書き手が“プロ吹奏楽団”というカテゴリーをどのように捉えていたのか、当時の認識がよくわかってたいへん興味深い。(参照:《第74話 「月刊吹奏楽研究」と三戸知章》ほか)

関東エリアの吹奏楽に限ると、以上のほかに、1951年から東京藝術大学で、1953年から武蔵野音楽大学で、1960年から国立音楽大学で始まったアカデミックな活動もよく知られていたが、東京吹奏楽団の1963年の結成は、これら専門大学の動きからもさらに一歩踏み出して一線を画す、新たな職業吹奏楽団の旗揚げとしてたいへん注目を集めることになった。

記事によると、東京吹奏楽団(東吹)は、当時、東京都中央区銀座東1-10の三晃社ビルに事務局を構え、楽団員は60名。当初は常任指揮者は置かず、事務局は、以下の諸氏が束ねていた。

会長:河合 滋
理事長:加藤成之
専任理事:川崎 優、前沢 功
常任理事:梅原美男、江間恒雄、大塚茂之、春日 学
事務局長:沢野立二郎

この内、会長の河合 滋さん(1922~2006)は、河合楽器製作所二代目社長(後に会長)であり、理事長の加藤成之さん(1893~1969)は、元貴族院男爵議員で、東京音楽学校(東京藝大の前身)の校長をつとめ、学制改革で東京藝術大学が発足するとその初代音楽学部長となった人物だ。よく見ると、専任理事に東京音楽学校でフルート、作曲、指揮法を専攻した作曲家の川崎 優さん、常任理事に東京音楽学校でオーボエを専攻し、東京藝術大学教授となった梅原美男さん、海軍省委託学生として東京音楽学校を修了し、後に全日本吹奏楽連盟理事長、日本吹奏楽指導者協会(JBA)会長を歴任した春日 学さんの各氏の名前が見られる。これらから、東吹が、河合楽器がスポンサードし、東京藝大とつながりが深い楽団として出発したことは誰の目にも明らかだった。(経営母体は、2006年に(株)グローバルに移管。)

「吹奏楽研究」の記事中の“このメンバーは専門家だけの、日本の吹奏楽界のトップを行く人たちばかりである”や、東吹の初期のプログラムに記載されていた“演奏者は、音楽の基礎を身につけた専門家ばかりで、誰一人みても日本吹奏楽界のトップレベルの人達ばかりである”という文脈から、当時、東吹にどのような演奏家が参加していたかがよくわかるだろう。

東京吹奏楽団の「第1回定期演奏会」は、結成披露パーティ翌月の1963年(昭和38年)11月5日(火)午後6時30分から、東京・千代田区の九段会館で開催され、プログラムは以下のとおりだった。

・喜歌劇「こうもり」序曲
(ヨハン・シュトラウス〈子〉)

・ヒル・ソング第2番
(パーシー・グレインジャー)

・吹奏楽のための交響曲
(ポール・フォーシェ)

・交響組曲「シェヘラザード」
(ニコライ・リムスキー=コルサコフ)

(管弦楽曲の編曲者名はなし。楽団公式ホームページには、このときのプログラム、ステージ写真、新聞レビューなど、歴史的資料がアップロードされている。)

この演奏会の指揮者は、山本正人さん(1916~1986)だった。山本さんは、東京音楽学校でトロンボーンを専攻し、同研究科を修了。同学教員になった後、1951年(昭和26年)、東京藝術大学吹奏楽研究部を組織し、指揮者として活躍。年2回の定期演奏会のほか、レコーディングにも進出するなど、同学吹奏楽の立役者だった。東吹結成以前に山本さんの指揮で発売された吹奏楽レコードやソノシートの演奏者クレジットは、“東京藝術大学吹奏楽研究部”あるいは“東京吹奏楽協会”の2種類があるが、いずれも東京藝大の教官と学生による演奏だった。時系列的検証をすると、東吹がこの流れの中から生まれた楽団であることがよくわかるだろう。当初、常任指揮者をおかないとプレスリリースした東京吹奏楽団だが、公式サイト(2020年現在)では、山本さんは“創立指揮者”および“桂冠名誉指揮者”としてリスペクトされている。東吹定期には、指揮者として計24回登場。藝大関係者には、“トロさん”とか“トロ先生”の愛称で親しまれた。

その後、東吹定期に登場した指揮者には、外山雄三、山田一雄、金子 登、加藤正二、大橋幸夫、朝比奈 隆、中山冨士雄、石丸 寛、荒谷俊治、三石精一、汐澤安彦、上垣 聡、時任康文、エリック ウィッテカー、岩村 力、フィリップ・スパーク…という錚々たる顔ぶれが並ぶ。この内、拙稿《第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新》にも登場する汐澤安彦さんは、1983年に東吹の“常任指揮者”となり、2009年の東吹結成45周年を機に“名誉指揮者”に就任。創立指揮者の山本さんは、藝大時代のトロンボーンの師であり、東吹とは切っても切れない関係にある。

他方、大阪ネイティヴの筆者としては、1967年(昭和45年)4月27日(木)、日比谷公会堂で行なわれた「第12回定期演奏会」に朝比奈 隆さんが指揮者として登場し、日本では《運命》と呼ばれるべ一トーヴェンの『交響曲第5番』を演奏したと少したってから聞かされて腰を抜かした記憶がある。《運命》を吹奏楽で演奏しただけでなく、この演奏会では、同じベートーヴェンの『エグモント』序曲やドン・ギリスの交響的肖像『タルサ』、モートン・グールドの『サンタ・フェ・サガ』、フローラン・シュミットの『ディオニソスの祭り』が演奏されていた。

なんとも、派手なプログラミングだ!

しかしながら、若い頃は、遠い東京で開かれる東吹定期は、そう簡単に聴きに行けなかった。国鉄東海道本線の東京~大阪間を毎日走っていた夜行の寝台急行「銀河」の往復利用で宿泊なしの弾丸ツアーを決行しても、かなりの出費だったからだ。やはり、東京は遠かった。

それでも、コロムビアやビクター等から発売されたマーチのレコードは、結構な数が手許に残っている。中でも、日本コロムビアからマーチ4曲入りのEPレコードとしてリリースされた《世界マーチ集》シリーズ(全55タイトル、1964~1965)には、かなりレアな曲が含まれ、マーチ・コレクションとして評価が高い。

また、その後いつしかサービス終了となったが、演奏会ライヴの一部をリクエストごとにオープン・リールのテープにコピーして頒布するサービスも、ひじょうに先進性があった。

1972年(昭和47年)に郵送してもらった頒布可能曲のリストを見ると、奥村 一、草川 敬、秋山紀夫、斎藤高順、保科 洋、陶野重雄、森村寛治、小川原久雄、清水 脩、黛 敏郎、兼田 敏、菅原明朗、岩河三郎、名取吾朗、小山清茂、浦田健次郎による邦人のオリジナル吹奏楽曲がズラリと並んでいた。ほとんどがレコードがない曲だったが、その中から多くが、河合楽器系列のカワイ楽譜から出版されることになった。

まるで“吹奏楽の総合商社”のようだが、楽譜とタイアップしながらの定期演奏活動はひじょうに画期的だった。

東吹がスタートした1960年代の初めは、1960年1月にアメリカ空軍バンドが3度目の来日、同4月に大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)がコンサート・ホールにおける定期演奏活動を開始、1961年11月にフランスからギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団(公演名)が初来日したなど、わが国の吹奏楽をとりまく環境がダイナミックに変貌を遂げつつあった時期と重なる。

それでも、プロ楽団の立ち上げは、大きな挑戦だ!

『その運営が軌道にのるためには、いろいろいばらの道を歩むことであろうが、順調な発展成長を期待したいものである。』

「月刊 吹奏楽研究」も、記事後半にこう記し、新しい楽団の船出にエールを贈っていた!!

▲EP – 世界のマーチ集(アメリカ・マーチ その18)(日本コロムビア、ASS-10040、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(アメリカ・マーチ その19)(日本コロムビア、ASS-10041、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(アメリカ・マーチ その20)(日本コロムビア、ASS-10042、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(ドイツ・オーストリア・マーチ その8)(日本コロムビア、ASS-10044、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(ドイツ・オーストリア・マーチ その9)(日本コロムビア、ASS-10045、1964年)

▲EP – 世界のマーチ集(日本・マーチ その7)(日本コロムビア、ASS-10052、1964年)

▲プログラム – 東京吹奏楽団第20回定期演奏会“吹奏楽オリジナル作品の夕べ”(1971年10月21日、郵便貯金会館)

▲同、演奏曲目等

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第128話 ヴァルター・ブイケンスとクラリネット合奏団

▲ヴァルター・ブイケンス – プロフィール&ディスコグラフィ(Buffet Crampon)

▲CD – ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団 ライヴ・イン・ジャパン(佼成出版社、KOCD-2502、1993年)

▲KOCD-2502、インレーカード

1993年(平成5年)7月1日(木)、東芝EMIプロデューサーの佐藤方紀さん、音楽出版社デハスケ(de haske)マネージャーのハルムト・ヴァンデルヴェーン(Garmt van der Veen)の2人と、オランダから列車でベルギーのアントワープ入りした筆者は、同夜、友人のヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)が手配してくれた中華レストランでプライベートな会食をもった。

このとき、一足先にレストランに着いて、我々を待っていたのは、クラリネット奏者、ヴァルター・ブイケンス(Walter Boeykens、1938~2013)夫妻だった。

ブイケンスは、筆者の姿を見つけるなり、駆け寄ってきて、『本当にすばらしいレコーディングをありがとう。とにかく、いいライヴに録ってくれて、みんなとても気に入っているよ!』と言いながら握手を求めてきた。そして『私の妻だ。』と傍らの奥さんを紹介される。こちらは、初対面だ。

ヴァルター・ブイケンスは、1964年から1984年までの20年にわたり、当時はBRTと言ったベルギー国営放送のオーケストラ“ベルギー放送フィルハーモニー管弦楽団(BRT Filharmonisch Orkest / その後、ブリュッセル・フィルハーモニック Brussels Philharmonic に改称)”の首席クラリネット奏者をつとめ、ベルギーを代表するクラリネット奏者として、日本はもとより世界的な知名度を誇っていた。

その彼が言うレコーディングとは、一年前の1992年(平成4年)11月8日(日)、東京・御茶ノ水のカザルス・ホールでライヴ収録したCD「ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団 ライヴ・イン・ジャパン」(佼成出版社、KOCD-2502、1993年5月25日リリース)のことだった。

ヤンも、『あのディスクは、ナイス・レコーディングだ! こっちでもかなり話題になっているよ。』と言葉をかぶせてくる。実は、奥さんがブイケンスの秘書をしている関係で両者は家族ぐるみの付き合いがあり、当然このCDも聴いていた。

演奏者の“ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団”は、1981年、ブイケンスが教鞭をとっていたアントワープ音楽院で組織された大編成のクラリネット合奏団で、全員がブイケンスの教えを受けた現役学生と卒業生のプロで構成。音色の暖かさと滑らかさから“ブイケンス・クラリネット・スクール”とも呼ばれる統一したスタイルでトレーニングされていた。

そのクラリネット合奏団が、東京のビュッフェ・クランポン社の招聘で来日したのが1992年。

当時のプログラムを開くと、彼らは以下のような人数で日本にやって来ていた。

2 Sopranino Clarinet in Eb

29 Soprano Clarinet in Bb

1 Soprano Clarinet in A

4 Alto Clarinet in Eb

5 Bass Clarinet in Bb

2 Contra-Alto Clarinet in Eb

2 Contra-Bass Clarinet in Bb

(各楽器名は、公演プログラムどおり)

総勢45名。引き合いとしてはあまりいい例ではないかも知れないが、フランスのギャルド・レピュブリケーヌやベルギーのロワイヤル・デ・ギィデといったフランス系の吹奏楽団のクラリネット・セクションをそっくり引き抜いてさらに補強したような楽器編成をもつクラリネットだけの同族合奏団だ。

ブイケンスは、クラリネットだけで構成されるこのグループの音楽的な可能性を切り開くため、現代作曲家への委嘱を含めた新しいレパートリーの開発に取り組み、積極的な演奏活動を展開。ベルギー国内の重要なコンサート・シリーズにすべて登場するとともに、オランダやフランスにも進出。ブイケンスの指揮者としての人気や名声も手伝って、いずこも満席の成功を収めていた。

また、テレビやラジオにも積極的に出演し、来日までに「The Walter Boeykens Clarinet Choir, The Antwerp Clarinet Quartet」(LP:ベルギーTerpsichore、1982 007、1982年)、「From J.S. Bach to J.L. Coeck」(CD:ベルギーRene Gailly、CD87 003、1986年)の2枚のアルバムのレコーディングも行なっていた。

佼成出版社の「ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団 ライヴ・イン・ジャパン」は、彼らの3枚目のアルバムということになる。

ただ、このアルバムに筆者が関わることになったのは、いくつかの小さな偶然の重なりからだった。

筆者は、1980年代の終わり頃から、東京のビュッフェ・クランポン社代表取締役、保良 徹さんの意向を受けて、同社が企画する公演のプログラム・ノート(楽曲解説)の執筆依頼を引き受けることが多くあった。その後、さまざまな音楽シーンで活動をともにすることになる担当の千脇健治さん(後、代表取締役社長兼CEO)と知己を得たのもその頃のことだ。

そして、ちょうど「ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団」の公演プログラム用のノートの執筆に取り組んでいた時、相次いで東京からの電話を受けた。『何か面白い話ない?』といった感じの。

最初の電話の主は、1992年8月16日(日)にNHK-FMの特別番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」(参照:第58話 NHK 生放送!ブラスFMオール・リクエスト)をやって以後、定期的な情報交換を行なっていたNHKの梶吉洋一郎さん。ついで、電話があったのは、筆者が提案・選曲したフィリップ・スパーク自作自演CD「オリエント急行」(佼成出版社、KOCD-3902、リリース:1992年12月21日 / 参照:第48話 フィリップ・スパークがやってきた)を制作した同社の水野博文さん(後、社長)だった。

ふたりは、筆者のもとに、東京の音楽界ではまったく話題に上らない地方発の“怪しい”ネタが眠っているかも知れないと思っていたふしがある。ときどき雑談がてら電話が架かってきた。当然、その時やっている仕事の話はする。もちろん、両者には同じ話を誰にしたかなんて無粋なことは言っていない。それは、東京には東京の複雑に入り組んだ事情があり、関西ローカルの“とある情報筋”との雑談をどう扱うかは彼ら次第、というスタンスだったからだ。

だが、意外にも結果は早く出た。NHKでは、自分たちが認知していない新しいものにはことごとくアレルギー反応を示す放送局らしく、アッという間にボツ。逆に、それまでの枠を超えてポジティブに新しいものに取り組みたいとする水野さんは、前記の千脇さんと話を詰めて、即攻でライヴ収録を決めてしまった!

録音エンジニアも、すぐに藤井寿典さん(後、auftactを設立)に決定。当時、ブレーン(広島)にいた藤井さんは、プロ、アマのライヴ収録を数多く手がけていた適任者で、これで、あとはライヴの日を待つばかり、となる手筈だった。

しかし、その後、ブイケンス側からゲネの時間に難しい曲を完全に録音しておきたいというリクエストが出て、プロデューサー(日本流に言うと“ディレクター”)をつけてくれという話になったから、企画サイドは少し慌てた。何しろ人探しの日が無い。結局、大阪ネイティブの筆者が、11月4日(水)、大阪厚生年金会館中ホールの大阪公演を聴いた上で、急遽、プロデューサーとして上京することになった。ビュッフェ・クランポンから、収録用スコア(ほぼ手書譜のコピー)を受け取ったのも、収録前夜に宿泊した東京のホテルという慌しさで、もちろん断酒で深夜まで猛勉強した!

当日のコンサートは、午後2時開演のマチネで、食事休憩のことも考えると、午前中、ゲネに使える時間はそんなにはなかった。リクエストされた曲は、完全にセッション収録したが、正直に言わせてもらうなら、これは演奏者の“精神安定剤”のような気休め程度のもので、本当は不要だったかも知れない。ツアー最終日に寝起きでやったゲネと満員で盛り上がった本番のコンサートとでは、まるで音楽のテンションが違ったからだ。

唯一、どうするか悩んだのは、高揚した世界的名手がカデンツの駆け上がりで唯一リードをキッと鳴らしたロッシーニの『序奏、主題と変奏』だった。これはゲネでも録った曲だった。なので、そこだけ見事に音色もテンションもテンポまで変わってしまうが、編集は可能かも知れなかった。また、CDの収録時間上の制約もあるので、あるいは“お蔵入り”という手もあるかも知れない。終演後、そんなことをひとり考えていたとき、突然、合奏団のマネージャー氏が赤く興奮した面持ちでモニター席に飛びこんで来た。

『ロッシーニは、ライヴを使ってくれ!! 圧倒的にライヴがいい!!』

結局、思い悩んだ挙句、そのままCDに収録した。もちろん、その責はひとり筆者に帰する。

そして、アントワープでの会食で愉快にビールを飲み交わしながら、ブイケンスは悪戯っぽい表情でこう言った。

『こちらで録ったものより、圧倒的にいい。ただ、1つだけ“ユニークな音”が入っていたけど。』

あ~あ、言われてしまった!!

▲プログラム- ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団(ビュッフェ・クランポン、1992年)

▲同上、スケジュールとAプロ

▲同上、Bプロ、Cプロ

▲CD – From J.S. Bach to J.L. Coeck(ベルギーRene Gailly、CD87 003、1986年)

▲CD87 003、インレーカード

CD – Rikudim(蘭de haske、14.001、1997年)

▲14.001、インレーカード

▲ヴァルター・ブイケンス・クラリネット合奏団

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第127話 ウェリントン・シタデル・バンドの来日

▲チラシ – ウェリントン・シタデル・バンド大阪・京都公演(1979年4月10日、フェスティバルホール / 4月12日、京都会館第二ホール)

▲ツアー・プログラム – ウェリントン・シタデル・バンド 1979 JAPAN TOUR

▲同、演奏曲目

▲LP – WELLINGTON CITADEL BAND IN JAPAN(CBSソニー、25AG 630、1979年)〈ステレオ〉

▲ 25AG 630 – A面レーベル

▲ 25AG 630 – B面レーベル

2019年(令和元年)11~12月、ニュージーランドのウェリントン・シタデル・バンド(Wellington Citadel Band of Salvation Army)が、5度目の日本演奏旅行を実現した。

バンドは、1883年の創立。ニュージーランド北島南端部にある首都ウェリントンを本拠とし、世界的にその名を知られる救世軍ブラスバンドの“至宝”だ。

初来日は、1979年(昭和54年)の4月のこと。それは、その9年前の1970年(昭和45年)7月8日(水)、大阪・千里丘丘陵で開催された日本万国博覧会の“ニュージーランド・ナショナルデー”に際し、同国政府の派遣で来日した“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド(National Band of New Zealand)”についで日本の地を踏んだ2番目の海外ブラスバンドとなった。(参照:《第95話 ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド来日》

来日ブラスバンドの第1陣、第2陣が、意外にもブラスバンドの母国イギリスからではなく、いずれも古き良きイギリスが息づくニュージーランドからだったことは、とても興味深い事実だ。

加えて、特筆しておきたいことは、先にやってきた“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド”が万博会場のみの演奏だったのに対し、“ウェリントン・シタデル・バンド”は、東京、浜松、大阪、名古屋、京都、前橋の各会場で演奏会を行い、NHKホール(東京)のライヴは、テレビとFMラジオでオンエア。また、滞在中、日本のレコード会社によるレコーディング・セッションも行なわれるなど、実質、両者の露出度にはかなりの差異があった。

言い換えるなら、運良く万博でナショナル・バンドを聴いたり、イギリス等でブラスバンドに接した経験があるなど、一部の例外を除けば、大部分の日本人にとって、ウェリントン・シタデル・バンドは、はじめてナマのサウンドを聴く海外のブラスバンドとなった。

1979年ツアーの主なスケジュールは、以下のように組まれた。

・4月6日(金) 成田空港に到着
歓迎レセプション(ニュージーランド大使館主催)

・4月7日(土) NHKホール(東京)

・4月9日(月) 浜松市体育館

・4月10日(火)フェスティバルホール(大阪)

・4月11日(水) 愛知県文化会館講堂(名古屋)

・4月12日(木) 京都会館第二ホール

・4月14日(土) 共愛学園頌栄館(前橋)

・4月15日(日) セブンシティホール(東京)

・4月17日(火) 石橋メモリアルホール(東京)、CBSソニー録音
朝日講堂(東京)「公開講座」

・4月18日(水) 成田空港から出国

(以上の他にも、屋外の演奏や礼拝演奏もあった。)

この内、ネイティブ大阪の筆者が聴いたのは、座席数2700を誇るフェスティバルホールを満席(フルハウス)にした大阪(4月10日)のコンサートだった。

その後、知己を得た救世軍ジャパン・スタッフ・バンド(東京・神田神保町)の元楽長(Bandmaster)、鈴木 肇さん(2012年に退任)とは、会えばいつもこの当時の話題で盛り上がる。

鈴木さんは、後に東京藝術大学名誉教授となった師の中山冨士雄さん(1918~1997)が1982年に設立した日本トランペット協会の理事をつとめる一方、2011年6月、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた救世軍インターナショナル・スタッフ・バンド(International Staff Band)の120周年を祝う記念コンサートへの参加などを目的として、ジャパン・スタッフ・バンドを率いて渡英。日本の救世軍音楽のドライビングフォースとして国際的な知名度も高い。楽長退任後も、ブラスバンドにかける情熱は衰えない。

その鈴木さんが救世軍の音楽に関心をもったそもそものきっかけが、師のレッスンを待つ間、ときおり聴かされた古い救世軍バンドのレコードだったというから面白い。さらに驚いたことに、オーケストラのトランペット奏者としても名を馳せた中山さんも、実は、少年期に東京・芝の救世軍でコルネットのレッスンを受け、救世軍のバンドで演奏した時期があった。

それだけに救世軍ブラスバンドへの思い入れも強く、中山さんがウェリントン・シタデル・バンドのツアー・プログラムに寄せた「訪日を心から歓迎して」と題する祝辞も、以下のような書き出しで始まる。

『この度のウェリントン・シタデル・バンドの来日は私にとって全く嬉しいことの一つです。待ちに待った友人が訪ねてくれたという感じです。私が中学生のときにコーネットを始めたのは日本の救世軍支部のバンドで、この落着いた美しい音に魅せられたのが音楽入門の動機でした。この少年時代の感動はいまでも私の心の糧となっています。(後略)。』(原文ママ)

ウェリントン・シタデル・バンドの来日は、師弟ともどもの悲願でもあった!

そして、ついにその初来日が実現!!

コンサートはいずこも大盛況となった。

しかし、現場をサポートした鈴木さんの話によると、当時の日本の映像・音響スタッフは、はじめて目の前に現れたブラスバンドの姿に大いに戸惑ったようだ。

例えば、NHKは、初日のコンサート(4月7日、NHKホール)を録画・音声収録したが、まずブラスバンド独特のステージ配置に面喰った。客席側からだとコルネットやトロンボーンが横向きに向かい合って配置され、各奏者の表情を映像でうまく伝えにくい上に、バンドの内側に入る指揮者の顔もステージ上から撮らねばならない。しかも、バンドのステージ衣装のジャケットの色が赤だったため、画像がハレーションを起こしやすい。色調整も兼ねてカメラを変えたり、カメラワークには相当苦労したようだ。また、音響面でもいろいろ試した挙句、最終的にマトリクス方式のワンポイント・ステレオとソロ用などの必要最少限の補助マイクで対応した。

『ビートルズからカラヤンまで広い幅のある映像を撮ってきたNHKにとっては、初めての音楽形態だったようだね。』と鈴木さんは苦笑い。

テレビの初放送は、5月5日(土・祝)、19時30分から45分番組として教育テレビで、再放送は、翌日の5月6日(日)、15時45分から同じく教育テレビでオンエアされた。FM放送は、秋山紀夫さんがコメンテーターをつとめた「ブラスのひびき」で、6月10日(日)、8時30分からの30分番組として放送された。(その後、テレビもFMも、放送時間や内容を変更した放送が何度か行なわれている。)

一方、CBSソニーのためのレコーディングは、4月17日(火)、石橋メモリアルホールで行なわれた。

ここでは、ホール各部を利用してセパレーションのいいマルチ方式で録音したいレコード会社のスタッフと、ニュージーランドでいつもやっているステージ配置でナチュラルにブレンドさせたサウンドを“通し演奏”で録ってほしいバンド側の考え方が真っ向から激突。演奏中、何度もストップがかかり、指揮者やバンドにとってはかなりストレスを伴うセッションになったようだ。

『楽長のエリック・ゲデス(Eric Geddes)や前楽長のバート・ニーヴ(Bert Neeve)と、ソニー技術陣との間で相当シリアスなやりとりがあった感じで…..。ステージ上にかなりの数の近接マイクが並び、アクリル板のパーテーションもあったりして、不慣れな環境になかなか思ったように音が決まらず、時間もかなり押して、口には出さなかったものの、バンドも疲れきってしまった。』とは、鈴木さんの率直な感想だった。

正しく“日本の常識は、海外の非常識。海外の常識は、日本の非常識”という類いの話で、無責任な外野的立場から言わせてもらうなら、日本側にブラスバンド録音の経験値が全くなかったことが一因のように思えた。この考え方の相違については、解説者の秋山紀夫さんがレコードのスリーヴに詳細に書かれている。

『ところが、セッション終了後、朝日講堂に移動してからの公開講座(全日本吹奏楽連盟・WCB招聘委員会主催)では、バンドは“ビッシビシ”で、すばらしかった。』と、鈴木さんの弁はつづいた。どうやら、セッションから開放されたバンドはいつもの調子を取り戻したようだった。

最終的に、レコードは、6月21日(木)、「ウェリントン・シタデル・バンド WELLINGTON CITADEL BAND IN JAPAN」(LP:CBSソニー、25AG 630)としてリリースされ、かなりの注目を集めている。

その他、報道サイドでは、「バンドジャーナル」1979年6月号(音楽之友社)が、カラー記事3頁、記事11頁ほかという破格の大特集を組み、中山冨士雄、中河原理、菅野浩和、山本武雄、林 和雄、張田 望の各氏が執筆。“ベルヴェット・サウンド”と称賛されたウェリントン・シタデル・バンドの名は、広く日本のバンド・ファンの知るところとなった。

そして、大成功を収めた1979年ツアーから40周年。1985年、2007年、2013年、2019年と来日を重ねたこのバンドのハートフルなパフォーマンスは、日本のステージでもおなじみのものとなった。

長年培われたスタイルを守り、温かいサウンドも健在!

今後とも何度も来日して、心に響く演奏を届けて欲しいものだ!!

▲ LP(25cm)、The Salvation Army(ニュージーランドHis Master’s Voice、MDLP 6036)〈モノラル〉

▲ MDLP 6036 – A面レーベル

▲ MDLP 6036 – B面レーベル

▲ LP – Wellington Citadel Band(ニュージーランドViking、VP 20)〈モノラル〉

▲ VP 20 – A面レーベル

▲ VP 20 – B面レーベル

▲ LP – Marches(ニュージーランドSalem、XPS 5072)〈ステレオ〉

▲ XPS 5072 – A面レーベル

▲ XPS 5072 – B面レーベル

▲「朝日新聞」1979年5月5日(土)朝刊、〈東京版〉13面

▲「讀賣新聞」1979年6月9日(土)夕刊、〈東京版、2版〉7面

▲「バンドジャーナル」1979年6月号(音楽之友社)