■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第118話 ピーター・グレイアムがやってきた

▲ピーター・グレイアム(大阪城天守閣、2006.2.6)

▲スタディ・スコア(ブラスバンド版)- Journey to the Centre of the Earth(英Gramercy Music、2005年)

▲DVD – European Brass Band Contest 2005(英World of Brass、WOB 112 DVD、2005年)

▲同ブックレット、曲目

▲CD – Highlights from The European Brass Band Contest 2005(英Doyen、DOYCD 196、2005年)

▲同、インレーカード

2006年(平成18年)2月5日(日)、イギリスの作曲家ピーター・グレイアム(Peter Graham)がやってきた!!本当に!!

ここでわざわざ“本当に”と断る理由は、この4年前の2002年(平成14年)11月8日(金)、大阪市音楽団(市音 / 民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra)が、フェスティバルホール(大阪)で行なった「大阪市音楽団第85回定期演奏会」(指揮:秋山和慶)で、ピーターの『ハリスンの夢(Harrison’s Dream)』の日本初演を行なう、その少し前、東京から突如撒き散らされた“作曲者が聴きに来る!”という事実無根、本人未確認のデマによって、大きな騒ぎに発展したことがあったからだ。(参照:《第117話 ピーター・グレイアムとの交友の始まり》)

幸いなことに、そのデマの発信元は、すぐに特定され、その後、関係者からその軽口を厳しく諌められることになった。どこの世界にも口から先に生まれ出たような性格の人物はいる。しかし、SNSもなかった時代に、“よくもまぁ…”と思えるほど、それはそれは強力な感染力だった!

話を元に戻そう。

2006年、今度は本当に日本をめざしたピーターは、2月4日(土)、10時30分発のオランダ航空 KLM 1076便で、英マンチェスターを出発。経由地オランダのアムステルダムで、同日14時5分発のオランダ航空 KLM 867便に乗り換え、2月5日(日)、9時20分に関西国際空港に降り立った。

ピーターにとっては、これが正しく初来日だ!!

来日目的は、市音の自主制作CD「ニュー・ウィンド・レパートリー2006」(大阪市教育振興公社、OMSB-2812、2006年)に収録予定の新作『地底旅行(Journey to the Centre of the Earth)』のリハーサルとセッションの立会い、コラボーレーションだった。

未知の新曲の日本初演や初録音において、作曲者がその場にいるコラボレーションが持つ意味はとても大きい。とくに、世界の最先端を走るピーターのような現代作曲家の作品にとっては!

ましてや、2日ほどの練習で結果を出さなければならないプロの現場ではなおさらだ!

『地底旅行』は、フランスの作家ジュール・ヴェルヌ(Jules Verne、1828~1905)の有名な同名小説にインスパイアーされた作品だ。原作は、ヘンリー・レヴィン(Henry Levin、1909~1980)監督によって映画化(20世紀フォックス、1959)もされているので、イメージが捉えやすい。

さて、ピーターの『地底旅行』だが、これは、ヴェルヌ没後100年にあたる2005年4月30日(土)、オランダ、フローニンゲン(Groningen)のマルティニプラザ(MartiniPlaza)で開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権2005(European Brass Band Contest 2005)”にエントリーされたイングランド代表、ブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)が、選手権本番で課せられるセット・テストピース(指定課題)とオウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)の2曲の内、“オウン・チョイス”のステージで“世界初演”する目的で委嘱された“ブラスバンド編成”で書かれたオリジナル作品だった。

ブラック・ダイクの指揮者ニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs)にとっては、優勝をもぎ取るために準備してきた“秘中の秘”の曲であり、“世界初演”となった選手権本番の演奏では、100ポイント満点中、98ポイントという、ほぼ満点に近いセンセーショナルな成功を収めた!

(余談ながら、2005年大会のセット・テストピースは、オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)がこの選手権のために委嘱された『エクストリーム・メイク=オーヴァー(Extreme Make-Over)』で、ブラック・ダイクは、そちらでも100ポイント満点中、96ポイントという、エントリー9バンド中、最高点をゲット。セットとオウン・チョイスの両課題の合計が、194ポイントとなり、2位に7ポイント差をつける圧勝となった!)

今回の話は、ブラスバンドのために書かれたオリジナルをもとに、ウィンドオーケストラ編成用に新たなオーケストレーションを施して作り直し、それを市音が初演奏、初録音するというプロジェクトだった。

その経緯については、2006~2007年、《樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」ファイル・ナンバー14》として、以下の7編をバンドパワーに寄稿したことがある。

File No.14-01:作品ファイル

File No.14-02:ピーターからの一通のメール

File No.14-03:市音への最初のアプローチ

File No.14-04:原曲スコアと初演の第一印象

File No.14-05:ウィンド・オケ版、産みの苦しみ

File No.14-06:動き始めた録音プロジェクト

File No.14-cd:CD & DVDファイル

プロジェクトのきっかけとなったのは、2005年5月、“ヨーロピアン”の直後にピーターから届いたこの新作に関するメールだった。その要旨は、ブラック・ダイクの初演の大成功と当初からウィンドオーケストラ・バージョンの構想があり、それに関心を示すような楽団がはたして日本にあるだろうか、という質問だった。

当時、英国BBC放送の番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」をネットを通じて愉しんでいた筆者は、ブラック・ダイクの優勝ライヴを聴いて“凄い音楽だな!”と感じていたので即行動開始。すでにピーターの『ハリスンの夢』と『ザ・レッド・マシーン(The Red Machine)』を手がけていた市音に、まず打診した。

その結果、ブラスバンド版スコアを見た市音はたいへん大きな関心を寄せたものの、当時の市音は“大阪市”という行政組織の一部であり、年度内にウィンドオーケストラ版を委嘱するための新たな予算を計上することが不可能であることが判明。紆余曲折の末、筆者が委嘱し、作曲者立会いのもとでレコーディングが実現する運びとなった。

そして、その経緯から、たいへん名誉なことに、出版スコアの扉に以下のようなピーターの献辞が印刷された。

This wind transcription was commissioned
by Yukihiro Higuchi.

The premiere recording was given by the
Osaka Municipal Symphonic Band (Japan)
with Kazuyoshi Akiyama, Conductor, February 2006

(このウィンド版トランスクリプションは、樋口幸弘によって委嘱された。初の録音は、2006年2月、指揮者の秋山和慶と大阪市音楽団(日本)によって行なわれた。)

しかし、それからしばらくたって、市音プログラム編成の田中 弘さんから電話があり、この献辞が思わぬ事態を巻き起こしていることが判明した!

なんでも、市音のメンバーが吹奏楽コンクールの審査員として行った先々で『地底旅行』を聴いて審査したが、その際、プログラムに印刷されている編曲者の名前が筆者だったことにみんな驚いたのだそうだ。しかも、正しく実名だったので!!

またもや青天の霹靂だ!!

天地神明に誓ってまったく身に覚えがない筆者は、『そんなことで“小遣い稼ぎ”をしているようなヒマはないよ。』と笑い飛ばした。田中さんも、『そうでしょうね。どうもおかしいと思って電話したんです。』と笑う。

そのとき、ピーンときた。ひょっとしてスコアの扉の英文の“commission(委嘱する)”という動詞を訳せなかった(訳さなかった)のじゃないのか!?

オー!!無実だ!!ガセだ!!冤罪だ!!

お願いだから、辞書を引いてくれ!!

▲スコア(ウィンドオーケストラ版)- Journey to the Centre of the Earth(英Gramercy Music、2006年)

▲同上 – 扉

▲▼レコーディング風景(八幡市文化センター大ホール(京都府)、2006.2.8)

▲セッション・ルーム風景動画(八幡市文化センター大ホール(京都府)、2006.2.8)

▲ピーター・グレイアム・インタビュー(撮影:バンドパワー 鎌田小太郎)、2006.2.7)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第117話 ピーター・グレイアムとの交友の始まり

ピーター・グレイアム(本人提供)

▲スコア – The Essence of Time(英Rosehill Music、1989年)

CD – The Essence of Time(英Polyphonic、QPRL 047D、1991年)

▲QPRL 047D – インレーカード

スコットランド生まれのイギリスの作曲家ピーター・グレイアム(Peter Graham)も、筆者の音楽観に大きな影響を及ぼした作曲家のひとりである。

彼との交友は、実は、1990年(平成2年)6月に2度目の来日を果たしたジョン・フォスター・ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)(当時の正式名称)の公演準備の最中に始まった。

第42話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990》でもお話ししたが、このツアーの主催者は、1984年(昭和59年)の初来日の際と同じ、東京のブージー&ホークス社。当時、筆者は、同社代表取締役の保良 徹さんの意向を受け、企画当初からそれに参画していた。

同社からは、公演プログラム用の原稿の執筆も依頼されており、東京藝術大学の山本武雄さんが「ブラス・バンドの魅力」という読み物を、筆者が演奏楽曲の「プログラム・ノート」を書くことになった。

その執筆過程でピーターとのやりとりが始まった訳だ。

というのも、ツアーが計画に上がったちょうどこの頃、イギリスでは、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)やエドワード・グレッグスン(Edward Gregson)といった新進気鋭の若手作曲家たちがつぎつぎとブラスバンドのための意欲的な新作オリジナルを発表するようになった、いわゆる“ブラスバンド・レパートリーの変革期”と重なっており、ツアー前年の1989年に弱冠32歳という若さでブラック・ダイクのプロフェッショナル・コンダクターに就任したデヴィッド・キング(David King)も、公演レパートリーに、そんな新しいオリジナル作品や委嘱新作を盛り込んできた。

言い換えれば、日本でまだ演奏されたことがない、あるいは誰も聴いたことがない、そんな“楽曲解説者冥利”につきるような作品がズラリと並び、その中に、ピーターの『エッセンス・オブ・タイム(The Essence of Time)』という作品があった。

当然、日本国内には作品についての資料はなく、録音資料もなかった。

ただ、この作品は、来日直前の1990年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で開催され、キング指揮のブラック・ダイクが優勝を飾った“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”のセット・テストピース(指定課題)として書かれた新作としてすでに注目を集めており、指揮者のキングとしても、ブラック・ダイクがオウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)として演奏したフィリップ・スパークの『ハーモニー・ミュージック(Harmony Music)』とともに、日本の聴衆にぜひとも聴いて欲しいと考えていた作品だった。

スコアを読むのにも、自然と力が入る。

さて、この『エッセンス・オブ・タイム』のスコアのト書きには、「すべてのものには季節(時)があり、すべてのわざには時がある」に始まる旧約聖書「伝道の書(コヘレトの言葉)」第3章の引用があり、作品のモチーフとして、“生るるに時があり”、“死ぬるに時があり”、“踊るに時があり”、“愛するに時があり”、“憎むに時があり”、“悲しむに時があり”、“戦うに時があり”、“和らぐに時がある”と、8つの時(とき)が選ばれていた。

聖書を題材にするあたり、さすがは、ロンドンの救世軍リージェント・ホール・バンド(The Salvation Army Regent Hall Band)のバンドマスター(1987~1991)をつとめた人物の作品だ。クリスチャンではない筆者は、ト書きを読んだ後、すぐ聖書を買いに走ったが、もちろん短期間でそれを読み解く能力など、ある訳なかった。

しかし、一種の変奏曲として書かれているこの作品のスコアリングは、ひじょうにクレバーに書き進められていて、繊細かつ緻密。ハーモニーも斬新で、その後、来日したブラック・ダイクによるナマ演奏を実際に聴いたとき、クライマックスのハーモニーが鳴り響いている中、不覚にも涙が頬を伝わるほどの、深い感動を覚えた。

プレイヤーも自然な流れの中に高揚していくのが手にとるようにわかる。

正しく“ブラスバンドって、こんなにハートに響くんだ!”と思わせてくれた作品のひとつであり、その後、ミュージカル・スーパーバイザーをつとめさせていただくことになる大阪のブリーズ・ブラス・バンドでも定番レパートリーとなった。

筆者の中では、ブラスバンド・オリジナルのベストのひとつであり、忘れ得ぬ名曲のひとつである。

しかしながら、日本の大方のウィンド・ミュージックのファンが最も大きな衝撃を受けたピーターの作品というと、それはやはりアメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(The United States Air Force Band, Washington D.C.)の委嘱で書かれた『ハリスンの夢(Harrison’s Dream)』(2000)だったのではないだろうか。

デーヴァ・ソベル(Dava Sobel)著の「Longitude(経度)」に描かれている18世紀の英国の時計技師ジョン・ハリスン(John Harrison)が作り上げた渡洋航海時に必要な経度が測定可能な“クロノメーター”と呼ばれる精巧な機械式時計とその製作者の人生をテーマとするこの作品については、2002~2008年にかけて、《樋口幸弘の「ウィンド楽書(ラクガキ)ノ-トファイル」No.12》というタイトルで、以下のような全15編を「バンドパワー」に寄稿したことがあった。

File No.12-01:作品ファイル

File No.12-02:深夜のCD鑑賞会

File No.12-03:はじめてのカタログ

File No.12-04:幻に終わった日本語ホームページ計画

File No.12-05:アッという間に読破してしまったソべルの原書

File No.12-06:始動!! 大阪市音楽団

File No.12-07:これは、一生の宝物だ!!

File No.12-08:BPラジオ計画スタート

File No.12-09:コーポロンが!! ハンスバーガーが!!

File No.12-10:青天のへきれき!! アメリカで出版決定!!

File No.12-11:ついに届いたアメリカ空軍のオフィシャルCD

File No.12-12:日本初演直前、作曲者来日ガセ情報飛び交う!!

File No.12-13:BPラジオ初放送と市音による日本初演

File No.12-14:演奏グレード表示、“Grade 7”の謎

File No.12-15:誕生秘話とコンポーザーズ・ノート

今、読み返すと、ほんと“若気の至り”と恥じ入るばかりだが、逆にその当時に起こった数々の出来事と現場の緊迫感がそのままストレートに文字になっている。

登場人物も、指揮者陣から、ロウル・E・グレイアム(Colonel Lowel E. Graham)、ユージン・コーポロン(Eugene Corporon)、ドナルド・ハンスバーガー(Donald Hunsberger)、フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)、ダグラス・ボストック(Douglas Bostock)など、盛りだくさん。バンドの方も、作品を委嘱したアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドのほか、日本初演を行なった大阪市音楽団、シカゴにこの作品を持っていった東京佼成ウインドオーケストラと、キャストについては文句なしだ。

多少脱線気味のところもあるが、作曲者自身の出版社であるイギリスのグラマーシー(Gramercy Music)から出版されるはずだった『ハリスンの夢』が、なぜアメリカのワーナー・ブロス(Warner Bros.)に変更になったかについても触れてある。

作品のバック・グラウンドに関心のある方は、お読みいただければと思う。

しかし、その中で、最も記憶に残るとんでもなく迷惑な話は、2002年(平成14年)11月8日(金)、大阪のフェスティバルホールで開催された「大阪市音楽団第85回定期演奏会」(指揮:秋山和慶)で『ハリスンの夢』が日本初演される直前、東京の練馬界隈から流れ出した「日本初演を聴きにピーターが来る」という怪情報を描いた、「日本初演直前、作曲者来日ガセ情報飛び交う!!」(File No.12-12)だろう。

これは、情報をきちんと確認しなかったさる音楽関係者が、東京佼成ウインドオーケストラの事務局に、『こんど大阪に、ピーター・グレイアムが“ハリスンの夢”の日本初演を聴きに来るって知ってる?』と軽いノリで連絡を入れたことがきっかけとなっている。“らしい”ではなく、“確かな”ネタとして。

実は、その年の暮れ、東京佼成ウインドオーケストラは、アメリカのミッドウェスト・クリニックに出かけてこの曲を演奏することになっていた。なので、突如聞いたこのおいしいネタに、当然、事務局は大騒ぎ!

話はアメリカ行きに帯同する佼成出版社にもすぐに伝わり、急遽、楽団と出版社の計4人で“大阪詣で”を挙行することが決定してしまった!

当然、大阪市音にも東京佼成から電話連絡が入る流れとなり、寝耳に水の市音でも大騒ぎとなった。

2002年10月15日(火)のことである。

そして、きっと“ヤツに訊けば、詳細が分かるかも知れない”ということだったのだろう。まず、佼成出版社の水野博文さん(後に社長)から、ついで市音の延原弘明(後に団長)から、ピーター来日を確認するための電話がたて続けに入った。

青天のへきれきとは正にこのことだ。驚いた筆者は、『初耳です!』とだけ答え、連絡をとって本人に確認し返答することを両者に約束した。

返信はすぐにあった。

『ディアー・ユキヒロ。これは奇妙なことだ。というのも、数分前、同じ内容のメッセージをダグラス・ボストックから受け取ったところだったからだ。しかも、ソルフォード(ピーターが教鞭をとっていた音楽大学)の私の教え子がそう言ったという内容だった。残念ながら、それは事実ではない。どうしてそんな噂がたったかは知らないが、たぶん数日前のことだろう。実際、大学の日程が一杯で、とても無理な話なんだが・・・。』 

渡米直前の東京佼成ウインドオーケストラが、12月10日(火)に東京文化会館大ホールで行なう「第75回定期演奏会」でこの曲を指揮する予定のダグラス・ボストックの耳にも、この話は入っていた。

まったくのガセだった!!

調べると、この話は、東京ではものすごい勢いで拡散されており、多くの人を興奮させていた!

日本では、なぜこのようなことが起こるんだろう!?

▲チラシ – 大阪市音楽団第85回定期演奏会(2002年11月8日、フェスティバルホール)

▲プルーフ・スコア – Harrison’s Dream(大阪市音楽団用)(英Gramercy Music、2002年)

▲プルーフ・スコア – Harrison’s Dream(筆者用)(英Gramercy Music、2002年)

▲CD – Signatures(The United States Air Force Band、BOL-0202、2002年、非売品)

▲BOL-0202 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第116話 ニュー・ウィンド・レパートリーの旅立ち

▲CD – ニュー・ウィンド・レパートリー1996(大阪市教育振興公社、OMSB-2802、1996年)

▲OMSB-2802 – インレーカード

▲同、デザイン原稿

▲同、レーベル面校正紙

『あのなぁ、ちょっと力貸してくれへんか(貸してくれないか)?』

大阪市音楽団(市音 / 民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra)団長(当時)の木村吉宏さんから電話がかかってきたのは、1995年(平成7年)の秋口だった。

『なんですか?』と伺うと、それは“自主制作で新企画のCDを作るために手を貸してほしい”という話だった。

第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》でお話しした市音初の自主制作盤「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年2月27日)に次ぐ2枚目の自前のCDを作りたいという話だ。

前作は、今や世界的マスターワークに数えられるようになったオランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』の日本国内初のCDという栄誉を担っただけでなく、大反響を巻き起こしたNHK-FMの放送音源のCD化というニュース性も手伝い、アッという間に予定数を売り切った。(《第58話 NHK ? 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》参照)

筆者は、そのCDのプロデュースを担った。

これは、流通を頼らず、演奏会場直売と通販だけの“完全限定盤”だったが、そのときの成功体験は市音に有形無形の財産をのこした。

だが、当時の市音は、あくまで大阪市という行政組織の一部だ。

制作者にとっては、何度も“行政のハードル”にぶち当たりながら、それを1つずつクリアし、のり超えていくという、かなり難易度の高い仕事だった。

なので、木村さんがいくら『業務命令や!』とか『“わが社”独自の自主CDを独力で作りたいんや!』とハッパをぶち上げても、おいそれと“ハイ、では考えてみましょう”などと安請け合いするわけにはいかなかった。前回時の悪夢のような記憶がつぎつぎと津波のように押し寄せてきたからだ。(“わが社”というのは、木村さんが自楽団(市音)を指して言うときの口癖だった。)

実務面でも、市音には、録音からマスタリング、プレスに至る機材やスタッフの確保、流通販路の開拓、総予算がどのくらいに見積もられるのかについての予備知識はなかった。畑違いなので当然だ。ただ、楽団の自主制作になるので、エキストラ以外、演奏料がかからない(つまり手弁当でやる)ことだけはみんな分かっていた。

そんな前途多難さを感じながらも、とにかく市音に出向き、素案を聞かせてもらう。

すると、市音が作りたいというCDは、“市音独自のリサーチによる最新楽曲を含む、市音おすすめの楽曲集”だった。

だが、待てよ!

それに近いコンセプトのCDは、例年5月、三重県・合歓の郷で開催されていた「日本バンドクリニック」に向け、以下のようなものがレコード各社から発売され、市音も、東芝EMIの「吹奏楽ベスト・セレクション」シリーズの1993年盤から1995年盤までの演奏を担っていた。

・吹奏楽名曲集’93(ソニー、SRCD-9134、1993年5月1日)
(汐澤安彦指揮、東京佼成ウィンドオーケストラ)

・’93 NEMU吹奏楽ベスト・ピース(ファンハウス、FHCE-2010、1993年5月2日)
(汐澤安彦指揮、シエナ・ウィンド・オーケストラ)

・吹奏楽ベスト・セレクション’93(東芝EMI、TOCZ-9205、1993年5月12日)
(木村吉宏指揮、大阪市音楽団)

・吹奏楽名曲集’94(ソニー、SRCD-9523、1994年5月1日)
(汐澤安彦指揮、東京佼成ウィンドオーケストラ)

・’94 NEMU吹奏楽ベスト・ピース(ファンハウス、FHCE-2017、1994年5月8日)
(汐澤安彦指揮、シエナ・ウィンド・オーケストラ)

・吹奏楽ベスト・セレクション’94(東芝EMI、TOCZ-9222、1994年5月11日)
(木村吉宏指揮、大阪市音楽団)

・吹奏楽名曲集’95(ソニー、SRCD-9797、1995年4月21日)
(汐澤安彦指揮、東京佼成ウィンドオーケストラ)

・吹奏楽ベスト・セレクション’95(東芝EMI、TOCZ-9252、1995年5月17日)
(木村吉宏指揮、大阪市音楽団)

ソニー盤は、1960年代から海外の楽曲の紹介につとめられてきた秋山紀夫さんの海外人脈と眼力に負うところ大の日本の吹奏楽シーンに欠かせない定番シリーズ!

一方の市音は、例年、シカゴのミッドウェスト・クリニックに現役プレイヤーからなる“プログラム編成委員”を直接派遣。ホテルの一室に、炊飯器と米、味噌汁の材料まで持ち込んで行なう楽曲情報の収集と分析は、日本のいかなる楽団の追従も許さず、その成果は、市音の演奏プログラムに色濃く反映され、大阪市民の人気を集めていた。

言い換えるなら、東京を含む日本の他のどの地域でも耳にすることがほとんどない曲が、大阪ローカルではふつうに演奏されていた。また、定期演奏会においても、未出版曲の日本初演の取り組みが多かった。

そんな訳で、市音が演奏した東芝の「吹奏楽ベスト・セレクション」にも、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『テームサイド序曲(A Tameside Overture)』など、明らかに市音サイドから提案されたのではないかと思われる曲が含まれていた。市音の“プログラム編成”への東芝サイドのリスペクトがあったからだろう。

話をもとに戻そう。

冒頭の電話を受けて、市音団長室を訪ねると、木村さんが『これからの“わが社”は、レコード会社から“録らせて欲しい”と持ち込まれた曲を演奏しているだけでは、あかんのや!(ダメなんだ!)』とやけに鼻息が荒い!

何だか、いつもと調子が違うなと思っていると、トランペット首席でコンサートプランナーの竹原 明さん(後に団長、2005~2008)が、『実は、今年(1995年盤)の「吹奏楽ベスト・セレクション」を打ち合わせた際、“これだけは録音させてほしい”と自信をもって提案させていただいた曲が、東芝から“ぜったいダメだ”と断られたんです。誠心誠意、何度頼んでもダメでした。』 とソッと打ち明けられた。

曲は、前年の1994年(平成6年)6月2日(木)、ザ・シンフォニーホールにおける「第68回大阪市音楽団定期演奏会」で、木村さんの指揮で日本初演され、大きな反響を呼んだスパークの『シンフォニエッタ第2番(Sinfonietta No.2)』だった。(《第111話 スパーク「宇宙の音楽」の迷走》参照)

竹原さんは、『これは、スタイルの違う3つの楽章からできていて、いろんな場面でそれぞれ単独でも演奏できる。ほんまにエエ(本当にいい)曲やと思うんです。樋口さんにお世話になった曲やから言うてるんと(言っているのと)ちゃい(違い)ます。ほんまにエエ曲やと思ってるんです(思っているのです)。』と続ける。

この一件、その後も市音はあきらめず、最終的な打ち合わせで、第2楽章の「セレナーデ」だけは収録されることになった。

だが、市音サイドが味わったダメージと挫折感は大きかった。

そんなところへ、次年度の「吹奏楽ベスト・セレクション’96」が、別のバンドで録音されるらしいという情報が飛び込んできた。東京には東京の事情があったのだろうが、大阪ネイティブは、こういう話が一番嫌いだ!

で、冒頭の木村さんの突然の電話に至ったわけだ。

結論は早かった!

木村さんは、『“プログラム(編成)”の連中に、ヘタ打つと、みんなで持ち回って“手売り(直接販売)”せな(しないと)あかん(いけなくなる)かも知れんぞと訊いたら、それでも、どうしても自主のCDをやらせてくれ、と言いよるんや。曲案は、これから“プログラム”に作らせて、あんたには弘(田中 弘さん、後の団長、2015~2016)から連絡させるから。アイツら、ホンマに真剣にやっとーんのや(やっているんだ)。面倒みたってくれんか!頼むわ!』と言い、こちらにアレコレ言わせない。

加えて、未定のシリーズ・タイトルも、今度のミーティングにアイデアを持ち寄ることになった。そして、11月6日のミーティングで、つぎのように提案した。

『いろいろ考えてみましたが、“ニュー・ウィンド・レパートリー”というのは、いかがでしょう!ちょっとベタ(少々ありふれたもの)かも知れませんが…。』

市音からもいくつかアイデアが提示されたが、結局、わかりやすさもあってか、筆者の案に落ちついた。

そして、『やる以上、ぜったい成功させなあかん!』と、完全に火がついてしまった木村さんの陣頭指揮のもと、プロジェクトは本格始動!

調査楽曲は、総計454曲に及んだ!!

こうして、市音自主制作CD第2弾「ニュー・ウィンド・レパートリー1996」(大阪市教育振興公社、OMSB-2802)は、1996年(平成8年)2月1日(木)~2日(金)、兵庫県尼崎市のアルカイックホールで録音され、リリースは、同4月20日(土)に決まった。

打ち上げで、木村さんは、人目もはばからず大粒の涙をこぼした。

『みんな、ホンマにありがとう!ありがとうな!』

▲録音候補曲リスト – 1(1995年11月5日)

▲録音候補曲リスト – 2(1995年11月27日)

▲録音仮決定曲リスト(1995年12月7日)

▲CD – 吹奏楽ベスト・セレクション’93(東芝EMI、TOCZ-9205、1993年)

▲TOCZ-9205 – インレーカード

▲CD – 吹奏楽ベスト・セレクション’94(東芝EMI、TOCZ-9222、1994年)

▲TOCZ-9222 – インレーカード

▲CD – 吹奏楽ベスト・セレクション’95(東芝EMI、TOCZ-9252、1995年)

▲TOCZ-9252 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第115話 ニュー・サウンズの素(もと)の素(もと)

▲LP – バート・バカラック・イン・マーチ(東芝音楽工業、TP-8152、1972年)

▲TP-8152 – 付属スコア“雨にぬれても”

▲TP-8152 – A面レーベル

▲TP-8152 – B面レーベル

▲LP(4チャンネル) – ダイナミック・マーチ・イン・バカラック(東芝音楽工業、TP-9519Z、1972年)

▲「バンドジャーナル」1972年1月号(音楽之友社)

1971年(昭和46年)11月11日(木)~12日(金)、東京・港区、溜池交差点からほど近い場所にあった旧東芝スタジオで、“わが国初”のエポック・メイキングなアルバム(LP)がレコーディングされた。

何が“エポック・メイキング”かと言うと、吹奏楽のレコードなのに、収録されたレパートリーが、『サン・ホセへの道(Do You Know The Way To San Jose)』、『雨にぬれても(Raindrops Keep Fallin’ On The Head)』、『ディス・ガイ(This Guy’s In Love With You)』、『恋よさようなら(I’ll Never Fallin’ Love Again)』などという、そのすべてがアメリカのヒット・メーカー、バート・バカラック(Burt Bacharach、1928~)のヒット曲。つまり、全曲がポップスだったことだ。

発売される吹奏楽レコードがマーチ中心で、吹奏楽のオリジナル曲のレコードさえ珍しかった時代に、よくぞこんなポップスだけの吹奏楽LPが制作されたものだ!?!?

しかも、バカラックの曲だけで!

演奏は、ポップスの演奏で定評があった、塚原国男指揮、航空自衛隊航空音楽隊(現、航空自衛隊航空中央音楽隊)があたり、編曲は、東芝専属の岩井直溥さんが担当!

セッションは、当時最先端の“4チャンネル”方式で行なわれた。

アルバムは、年を越した1972年(昭和47年)2月5日、「バート・バカラック・イン・マーチ(Burt Bacharack in March)」(東芝音楽工業、TP-8152)として、通常の2チャンネル・ステレオ盤がリリース。4チャンネル盤の方は、タイトルを変えて「ダイナミック・マーチ・イン・バカラック(Dynamic March in Bacharach)」(東芝音楽工業、TP-9519Z)として発売された。

面白かったのは、セッションで使われたのと同じ岩井直溥編の『雨にぬれても』のフルスコアの縮刷版が付録として封入されていたことだ。

セッションを取材した月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)も、1972年1月号に『サン・ホセへの道』(岩井直溥編)、同3月号に『雨にぬれても』(同)を付録楽譜としてつけた。

これらが結構演奏された!!

時系列的に振り返ると、このような動きが、楽譜出版とタイアップするという、その後の“ニュー・サウンズ・イン・ブラス”の発想へとつながっていく。

第110話 ニュー・サウンズの始動》でお話ししたシリーズ第1弾LP「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」(CBSソニー、SOLL 8、1972年)のライナー・ノート(執筆:秋山紀夫)では、プロジェクトの選曲などのために、東京・えびすのヤマハ音楽振興会にスタッフが会したのは、1972年2月の某日だったとされている。

東芝の“バカラック”がリリースされたのと同じ月だ!!

話をもとに戻そう。

東芝で“吹奏楽によるバート・バカラック集”を企画・制作したのは、渋谷森久(しぶや もりひさ、1939~1997)という、当時のレコード業界では、その名をよく知られていたディレクターだった。

渋谷さんが、東芝音楽工業に入社したのは1961年。慶應義塾大学在学中にジャズをやり、ピアノを弾いていた前歴をもつ。東芝では、クレージーキャッツや加山雄三、越路吹雪、伊藤咲子、本田美奈子などを担当してヒットを飛ばし、その傍ら、劇団四季の音響を担当し、曲も書いている。東芝退社後は、東京ディズニーランドや劇団四季の音楽監督をつとめた。稀代のアイデアマンとして知られ、多くの若い才能を発掘した。

余談ながら、『マツケンサンバ』で知られ、吹奏楽の世界では、大阪市音楽団のアーティスティック・ディレクターに就任し、その民営化後、Osaka Shion Wind Orchestraの音楽監督をつとめる宮川彬良さんを劇団四季に誘ったのも実は渋谷さんだった。

まあ、どこから見ても、歌謡、ポップ路線の売れっ子音楽プロデューサーだ。

その渋谷さんが、“吹奏楽のバート・バカラック集”のヒントを得たのは、《第113話 アイリッシュ・ガーズがやってきた》でお話ししたイギリスEMIの世界的ヒット・アルバム「Marching with the Beatles(マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ)」(ステレオ:英EMI-Columbia Studio 2、TWO125、1966年 / モノラル:英EMI-Columbia、SX6087、1966年)だった。

バッキンガム宮殿の衛兵交代でもおなじみのアイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards)が演奏したこの「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ」は、わが国でもレコード時代に都合3度発売されている。

・マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ
(東芝音楽工業(Angel)、AA-8394、1969年1月10日)

・ビートルズ行進曲/マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ
(東芝音楽工業(Odeon)、OP-80192、1971年5月)

・エンジェル・バンド・ミュージック・ライブラリー/マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ
(東芝EMI(Angel)、EAC-80430、1978年4月20日)

たいへん珍しいケースだが、初出と3度目が洋楽クラシック部門のエンジェル・レーベルから、2度目が洋楽ポピュラー部門のオデオン・レーベルからのリリースだった。

一度クラシック扱いで出たアルバムが、品切れ後にポピュラー扱いで出るなんて、あまり聞いたことがない。「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ」は、東芝では全部門的に注目された吹奏楽レコードだった。で、当然、渋谷さんの目にもとまる。

その結果、完全なポップ路線の渋谷さんが、畑違いの吹奏楽で“バート・バカラック集”を作ろうとし、その編曲を岩井さんに依頼するという“事件”が起こった。

この偶然が、“ニュー・サウンズ・イン・ブラス”へとつながった。

本家のイギリス盤にも、実は面白いストーリーがある。

ビートルズが爆発的人気を集めていた1965年、BBC放送のプロデューサーで作編曲家、指揮者のアーサー・ウィルキンスン(Arthur Wilkinson、1919~1968)が、ロイヤル・バレエ団(Royal Ballet Company)のバレリーナ、ドリーン・ウェルズ(Doreen Wells、1937~)に呼ばれて、彼女が踊るテレビの新番組の音楽監督となり、チャイコフスキーの“くるみ割り人形”のスタイルを借りてビートルズの曲をバレエに編曲したところ、これがたいへんな評判を呼び、7曲構成の「ビートル・クラッカー組曲(Beatle Cracker Suite)」(EP – 英EMI-His Master’s Voice、7EG 8919、1965年)としてレコード化。

アーサー・ウィルキンスン・アンド・ヒズ・オーケストラ(Arthur Wilkinson and his Oorchestra)が演奏したこのEPは、リリース後、半年の間イギリスのヒット・チャートにエントリーされる大ヒットとなった。

「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ」は、その成功に気をよくしたビートルズの出版社ノーザン・ソングズ(Northern Songs)のディック・ジェームズ(Dick James、1920~1986)のアイデアから誕生した。

当時、“ステューディオ・ツー(Studio 2)”と呼ばれた、英EMIが誇るロンドンのアビー・ロード・スタジオ(The EMI Abbey Road Studios)の最新技術を駆使したフル・ステレオ・サウンドの吹奏楽演奏のビートルズ曲集として!

編曲は、「ビートル・クラッカー組曲」のアーサー・ウィルキンスンが新たに12曲を書き下ろし、そのスコアを見たEMIクラシックのレコーディング・プロデューサー、ブライアン・B・カルヴァーハウス(Brian B. Culverhouse)が、この録音に最適のバンドとして、当時、セシル・H・イェーガー少佐(Major Cecil H. Jaeger、1913~1970)が音楽監督をつとめていたアイリッシュ・ガーズ・バンドを推薦!

イギリスのミリタリー・バンド史に燦然と輝く超ロングセラー盤が誕生した。

ウィルキンスンは、このアルバムの成功後、『イエスタデイ(Yesterday)』、『ミッシェル(Michelle)』、『抱きしめたい(I Want To Held Your Hand)』、『今日の誓い(Things We Said Today)』、『ヘルプ!(Help!)』の5曲をまず出版。ヒズ・オーケストラでも、ザック・ローレンス(Zack Lawrence)のピアノをソロイストに迎え、4楽章構成の「ザ・ビートル・コンチェルト(The Beatle Concerto)」(EP – 英EMI-His Master’s Voice、7EG 8968、1966年)を発表する。

だが、不幸なことに、50才を前にして、1968年に死去。

全世界からリクエストが寄せられていた「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ」の楽譜も、全曲が出版される日は、ついに来なかった。

▲[LP – Marching with the Beatles(英EMI-Columbia Studio 2、TWO 125、ステレオ、1966年)

▲TWO 125 – A面レーベル

▲TWO 125 – B面レーベル

▲LP – Marching with the Beatles(英EMI-Columbia、SX 6087、モノラル、1966年)

▲LP – ビートルズ行進曲/マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ(東芝音楽工業(Odeon)、OP-80192、ステレオ、1971年)

▲EP – Beatle Cracker Suite(英EMI-His Master’s Voice、7EG 8919、モノラル、1965年)

▲EP – The Beatle Concerto(英EMI-His Master’s Voice、7EG 8968、モノラル、1966年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第114話 スパーク「宇宙の音楽」初演の興奮

▲チラシ – 第90回大阪市音楽団定期演奏会(2005年6月3日、ザ・シンフォニーホール)

▲プログラム – 第90回大阪市音楽団定期演奏会(同上)

▲同、演奏曲目

2004年(平成16年)7月、大阪市音楽団(市音 / 現Osaka Shion Wind Orchestra)は、その後、翌2005年6月3日(金)にザ・シンフォニーホールで行なわれることが確定する“第90回大阪市音楽団定期演奏会”で、イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の最新作『宇宙の音楽(Music of the Spheres)』のウィンドオーケストラ版の世界初演を行なう意思を固めた。

決定に到るプロセスは、《第107話 スパーク「宇宙の音楽」との出会い》や《第111話 スパーク「宇宙の音楽」の迷走》でお話ししたとおりだ。

原曲は、サクソルン属金管楽器を主体に構成されるブラスバンド編成の作品で、委嘱者であるデヴィッド・キング(David King)指揮、ヨークシャー・ビルディング・ソサエティ・バンド(Yorkshire Building Society Band)の圧倒的なパフォーマンスで、ヨーロッパで驚異的な成功を収めていた。

とは言え、当時は、その原曲すら未出版の段階。いくら作曲者から提案されたとは言え、それがウィンドオーケストラ作品として作り変えられたとき、実際にはどんなオーケストレーションが施されるのか、まったく想像がつかない中での意思決定だった!

その根底には、ここまでフィリップの作品の日本初演を数多く手がけてきた市音とフィリップの間で積み重ねてきたゆるぎない信頼関係があった。

別の視点から振り返ると、同時点において、ウィンドオーケストラ版の音符は、まだ五線譜の上に一音も記されておらず、地球上には、すぐ参照できるいかなる録音物も存在しなかった。

オリジナルのブラスバンド版スコアを読みきった延原弘明さんをリーダーとする市音プログラム編成委員の面々には、大いなる敬意を表したい。

どんな作品にも好き嫌いはある。或いは、作品誕生後、時(とき)の淘汰を経て、それが100年、200年先にまだ支持を得ているかは、現世の誰にも判らない。

名匠と謳われるベートーヴェンやモーツァルトの作品だって同じだ。

しかし、作曲家と同じ時間を共有する同じ時代の演奏家が生み出される作品を全くリスペクトしようとせず、世に問うことを怠るようなことが仮にあるとするなら、間違いなく、そんなジャンルに未来は無い!

結果が出たから、或いは原曲スコアを見た筆者が推したから言うのではない。

このときの市音の決定は、ウィンド・ミュージックの大きなムーブメントの中にあって、未来永劫語り継がれるべき、燦然と輝く一里塚になったように思う。

話をもとに戻そう。

延原さんから電話で“市音の意思”を伝えられた筆者は、即刻それをフィリップに伝えた。その時、『ワォーッ!!すばらしいニュースをありがとう!!』とすぐ打ち返してきたフィリップの喜びようは、もう大変!!

それはそれはアツいものだった!!

こうして、『宇宙の音楽』ウィンドオーケストラ版は、作曲者の高いモチベーションのもとで新たなオーケストレーションが施され、この世に送り出されることになった。

2004年夏に始まったオーケストレーションは、秋の始め頃にはスコアを完成。その後に仕上げられたパート譜とともに、同年末のシカゴのミッドウェスト・クリニックで、渡米した市音プログラム委に直接手渡された。

一方で、指揮者は、山下一史さんに決定!!

ここまで来れば、もう大丈夫!!

あとは、演奏会の日を心待ちにするだけとなった。

だが、その内、延原さんからしばしば“市音のブラック(黒)・スクリーン(幕)”と呼ばれた当時の筆者の脳裏に、ふつふつとある想いが浮かんできた。

『宇宙の音楽』ウィンドオーケストラ版を“無償”で書いてくれたフィリップに、なんとかその労苦を報い、それが世界初演される瞬間を聴かせてやることができないものだろうか、と。

しかし、相手は2年半先まで委嘱作の約束でスケジュールが埋まっている超多忙な作曲家だ。そんな瞬間的な閃きに構ってくれるかどうかはまったく分からない。

それでも筆者は、いつものように無茶振りのメールを送った。

『前にも言ったと思うが、ボクは、心の底から今度の作品はキミの最高傑作だと思う。そして、ボクは、その新しいバージョンが初めて世に出る瞬間、キミはその場に立ち会っているべきだと考えるんだ!!おいでよ!』と。

このメールには、さすがのフィリップも相当面喰ったようだった。

しかし、やりとりを繰り返す内、互いのスケジュールを摺り合わせ、彼に日本国内での仕事をひとつ依頼することで、この計画は実現の運びとなった。もちろん、渡航費は仕事のクライアントである筆者持ち。実はこの時、どうしても、彼の棒(指揮)で録音しておきたい曲が1曲あったのだ。

ただ、いたずら好きのふたりは、演奏会の練習が始まる少し前まで、彼の来日を市音には知らせないで、サプライズにしようと決めた!

そして、運命の2005年6月3日。ホールでゲネを聴かせていただいたとき、クライマックス近くで降り注いできた魂を揺さぶるようなサウンドに、なぜか頬を伝って涙がこぼれ落ちた。もう訳が分からない。フィリップには、肩をポンポンと叩きながら、“コングラチュレーションズ(おめでとう)”と言うのがやっとだった!

また、客席には、1998年から2001年まで団長をつとめた龍城弘人さんなど、市音OBの顔も結構見られた。そして、こちらが何か特別なことをした訳でもないのに、『ありがとう!ありがとう!ええ曲やなぁ(いい曲だなぁ)!』とつぎつぎ握手を求められた。

『練習が聞こえてきたとき、本当に“宇宙が見えた”ような気がした瞬間がありました。ホンマでっせ!(本当ですよ!)』と言ったのは、元副団長の多賀井 英夫さんだった。

何かが降臨していた。

本番でも、モチベーション全開の市音は、客席で聴くフィリップが、しばらくの間、身震いが停まらないくらい感動的な演奏を叩き出した!!

初演後、ステージに呼び上げられたときも、彼は興奮状態!

普通の日本人には聞き取れないほど超高速の英語で聴衆に挨拶し、楽屋に戻ってからも、人に聞かれるのも構わず、10分近くずっと、ブツブツと何かをつぶやいていた。

“信じられない、信じられない”と言いながら….。

あんなフィリップの姿は、後にも先にも見たことがない!!

▲CD – スパーク:宇宙の音楽<世界初演ライヴ>(CRYSTON、OVCC-00017、2005年)

OVCC-00017 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第113話 アイリッシュ・ガーズがやってきた

▲チラシ – 英国近衛兵軍楽隊 アイリッシュ ガーズ〈訪日第2陣〉(1972年10月25日、大阪市中央体育館)]

▲プログラム – IRISH GUARDS 1972 IN JAPAN

▲「バンドジャーナル」1972年12月号(音楽之友社)

1972年(昭和47年)10月から11月の1ヶ月間、イギリスからアイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards)が来日した!

来日時の音楽監督は、1968年に就任したエドモンド・G・ホラビン少佐(Major Edmund Gerald Horabin、1925~2008)。

バンドは、バッキンガム宮殿の衛兵交代でもおなじみの5つある“近衛兵軍楽隊”(当時は、各65名編成)の1つで、1952年、BBCのラジオ番組を通じて、パウル・ヒンデミット(Paul Hindemith)の『交響曲変ロ調(Symphony in Bb for Concert Band)』を国内初放送するなど、イギリスの音楽界ではその実力者ぶりはよく知られていた。

また、1966年に英EMIからリリースされ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ブラジル、日本など、各国でロングセラーとなったアルバム「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ(Marching with the Beatles)」(英EMI-Columbia Studio 2、TWO125)が何週にもわたってヒット・チャートを賑わし、そのワールドワイドな大ヒットで、吹奏楽でセンスのいいポップスをお洒落に聴かせるバンドとして世界的人気を誇った。

第96話 スコッツ・ガーズと1812年》でお話した、2年前の1970年(昭和45年)に大阪・千里丘陵で開催された日本万国博覧会の“英国ナショナルデー”のために来日し、東京公演も行なったスコッツ・ガーズ・バンド(The Band of the Scots Guards)につづく、“英国近衛兵軍楽隊”の訪日第2陣である。

招聘元は、スコッツ・ガーズ東京公演を行なった東京・新宿のコンシエルタ。

プログラム掲載の公演日程は、以下のとおりだった。

・10月10日(祝) 東京:上野駅前パレード、日本橋パレード

・10月11日(水) 横浜:文化体育館

・10月12日(木) 東京:皇居・宮殿東庭

・10月13日(金) 川崎:市体育館

・10月14日(土) 東京:都体育館

・10月15日(日) 東京:都体育館

・10月16日(月) 宇都宮:栃木県体育館

・10月19日(木) 佐世保:市立体育館

・10月20日(金) 長崎:国際体育館

・10月21日(土) 熊本:市立体育館

・10月23日(月) 福岡:九電記念体育館

・10月24日(火) 北九州:新日鐵大谷体育館

・10月25日(水) 大阪:中央体育館

・10月26日(木) 京都:府立体育館

・10月27日(金) 富山:市体育館

・10月28日(土) 福山:市体育館

・10月30日(月) 広島:県立体育館

・10月31日(火) 姫路:厚生会館

・11月1日(水) 静岡:駿府会館

・11月2日(木) 名古屋:愛知県体育館

・11月3日(祝) 名古屋:愛知県体育館

・11月5日(日) 宇部:俵田翁記念体育館

・11月6日(月) 神戸:中央体育館

2019年(令和元年)に来日し、わずか1週間という短い滞日期間中に5回ものコンサートを行い、最終日には、ソロイストのひとりがリップ・アクシデントのため出演不能になったブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)も“口アングリ”になってしまいそうなハード・スケジュールだ。(《第103話 ブラック・ダイク弾丸ツアー2019》参照)

大阪ネイティブの筆者が聴いたのは、もちろん、大阪市中央体育館で開催された10月25日の夜の部の公演だった。

鈴なりに近い中で披露された演奏は、とてもエキサイティングで、アイリッシュ・ガーズ・ファン待望の「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ」からも、“ミッシェル(Michelle)”と“キャント・バイ・ミー・ラヴ(Can’t Buy Me Love)”の2曲が演奏され、“余は大満足じゃ!”とひとり御満悦!!

さすがは、ロンドンのミュージシャンたちだ!

レコードと寸分違わぬブリティッシュなサウンドとセンスのいいキリリとしたパフォーマンスに大感激した。

アイリッシュ・ガーズは、また、10月17日(火)午後3時から9時まで、ビクターの第1スタジオでレコーディングも行なった。

ちょうどレコード各社が競うように4チャンネルに取り組んでいた時期だったので、録音はスタジオ内に衝立を立ててセクションごとに音を拾うセパレーションのいいCD-4方式の4チャンネル録音!

互いの顔が見えないだけに、スタジオ慣れしているはずのアイリッシュ・ガーズの面々も面喰う、彼らにとっては未知の録音方式だった。(《第94話 エキスポ ’70と大失敗》参照)

他方、昔から頑なに“吹奏楽はマーチ”と思い込んでいるふしがあるビクターらしく、普段アイリッシュ・ガーズがどんなレパートリーを得意にしているかとか、公演曲目にどんな曲を準備してきたかについてはまるでお構いなしで無関心!

スタジオに用意された楽譜は、すべてマーチだった!

しかも、イギリス人である彼らが普段演奏する機会がないアメリカのジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa)の『星条旗よ永遠なれ( The Stars and Stripes Forever )』や『雷神(The Thunderer)』『ハイ・スクール・カデッツ(The High School Cadets)』『忠誠(Semper Fidelis)』、フランスのルイ・ガンヌ(Louis Ganne)の『勝利の父(Le Pere la Victoire)』、日本の瀬戸口藤吉の『軍艦マーチ』などをズラリと並べて….。

一方で、ビクターは、このとき、イギリスでリリースされたばかりの最新アルバム「At Ease with the Band of the Irish Guards」(英RCA Victor、LSA 3111)を来日記念盤「ポップス・イン・マーチ/アイリッシュ・ガーズ」(ビクター音楽産業(RCA)、RCA-5023)としてリリースしていた。

だが、ここで初来日のアイリッシュ・ガーズにわざわざお決まりのマーチをやってもらう必要が本当にあったのか。あるとすれば、4チャンネル録音のカタログ化の拡大だが、《第94話》でお話したように、それはアメリカのポール・ヨーダー(Paul Yoder)を指揮者として起用。多くのマーチがつぎつぎと録音されていた。

やはり、ビクターとしては“吹奏楽はマーチ”という呪縛(固定概念)から逃れられなかったのだろう。

また、公演のほとんどが、招聘側の希望で、アイリッシュ・ガーズが母国ではほとんどやらない体育館のフロアを使ったドリル形式のものとなった。一から準備し、特別に練習してきたのだという。しかし、公演各地では、逆に“なぜ、コンサートをやらないのか”という声が多く聞かれたという。

当然だろう!

帰国後にBBC放送のクラシック・チャンネルで演奏することになっていたのは、アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schonberg)の『主題と変奏、作品43a(Theme and Variations, Op.43a)』だった。

自信をもって実力バンドを送り込んできた英国側に対して、姿かたちの外見上のカッコ良さだけに目を奪われたような演芸路線の日本側。

皇居での御前演奏に際しては、当初“外国の軍隊が皇居に入ったことはないので、制服は脱いでお越しいただきたい”と言われたとの逸話もある。

何かが微妙にずれていた。

そして、その後発覚するのが、招聘元の倒産による演奏料の未払い!!

全員がミュージシャン・ユニオンに加入するプロの音楽家だけに、事は大問題となり、英国国防省が、“今後日本へのバンドの派遣を禁止する”と通達するほどの事態にまで発展した。

演奏は本当にすばらしかった。

公演を取り上げた「バンドジャーナル」1972年12月号(音楽之友社)も表紙だけでなく、カラー・グラビア2頁、モノクロ・グラビア6頁、記事3頁の大特集を組み、民放FM局も東京公演の模様をオンエアした。

しかし….。

あってはならない事件だった!

▲LP – On Guard(英MCA、CKPS 1004、1970年)

▲CKPS 1004 – A面レーベル

▲CKPS 1004 – B面レーベル

▲LP – At Ease with the Band of the Irish Guards(英RCA Victor、LSA 3111、1972年)

▲LSA 3111 – A面レーベル

▲LSA 3111 – B面レーベル

▲LP(4チャンネル) – Marches on Parade(ビクター音楽産業(RCA)、R4J-7018、1973年)

▲R4J-7018 – A面レーベル

▲R4J-7018 – B面レーベル

▲LP – 来日記念盤 ポップス・イン・マーチ/アイリッシュ・ガーズ(ビクター音楽産業(RCA)、RCA-5023、1972年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第112話 チェザリーニ:交響曲第2番「江戸の情景」の初放送

▲フランコ・チェザリーニ(撮影:Daniel Vass)]

『ディアー・ユキヒロ、

今夜、中央ヨーロッパ時間(Central European Time)の20時30分、ラジオ・スヴィッツェラ・イタリアーナ・RSI・ネットワーク2(Radio Svizzera Italiana RSI Rete2)で、この前の日曜に行なった我々のコンサートの放送がある。おそらく、そちらでも聴くことができるだろう。それは、私のセカンド・シンフォニーの初演コンサートの放送だ。

貴方が最高のホリデーをもたれますように。メリー・クリスマス&ハッピー・ニューイヤー!』

2018年(平成30年)12月18日(火)、スイスの作曲家フランコ・チェザリーニ(Franco Cesarini)が、12月9日(日)、スイス・ルガーノ市のパラッゾ・デイ・コングレッシ・ルガーノ(Palazzo dei Congressi Lugano)で開かれた自身指揮の年末恒例のガラ・コンサートが、スイス公共放送のネットワークを通じて放送されることを知らせてきたときのメールだ。(参照:《第82話 チェザリーニ:交響曲第2番「江戸の情景」の誕生》)

演奏者は、シヴィカ・フィラルモニカ・ディ・ルガーノ(Civica Filarmonica di Lugano)。1988年以降、フランコが音楽監督、指揮者をつとめ、スイス最高峰のウィンドオーケストラに列せられる。ルガーノ音楽院で専門教育を受けたプレイヤーを中心に構成されるスイスのチャンピオン・バンドだ。

スイス公共放送がコンサートを放送するくらいだから、その実力のほどは推して知るべし。ひじょうに活動的なウィンドオーケストラで、音楽監督就任以来、フランコは、すでに数百回を超えるコンサートを指揮している。

残念ながら、日本で吹奏楽を愉しんでいる人々にはあまり知られていないが、フランコは著名なフルート奏者ペーター=ルーカス・グラーフ(Peter-Lukas Graf)の高弟で、スイスのソロ・コンテストで第1位に輝いたフルート奏者でもある。グラーフのために『フルート協奏曲』も書いており、たびたび師弟デュエットを行なうほどの実力者だ。作曲家の他に、室内楽フルート奏者、指揮者としての顔をもっている。

また、ラジオ・スヴィッツェラ・イタリアーナ・RSIは、スイスのイタリア語圏向けの公共放送だ。

試しにメールに書かれてあるURLにアクセスすると、PCからいきなり流暢なイタリア語が聞こえてきた。どうやら、クラシックなどの音楽専門チャンネルらしく、FMと同時放送のようだった。

大阪からアクセス可能なことを確認後、すぐフランコに返信した。

『ディアー・フランコ、

連絡ありがとう。ラジオ番組はとても興味深い。だが、ひとつだけ問題がある。時差だ。中央ヨーロッパ時間で12月18日の20時30分といえば、日本時間では翌12月19日の早朝4時30分だ。もちろん、懸命に起きようと努めるが、目覚ましがうまく機能してくれるかどうか分からない。結果については、必ず報せる…。

ともかく、とてもエキサイティングなニュースをありがとう!

メリー・クリスマス&ハッピー・ニューイヤー!』

さて、どうしよう。もう夜の11時(日本時間)近い。さすがに、少々睡魔が….。

シヴィカ・フィラルモニカ・ディ・ルガーノのライヴは、聴き逃せないし…。

“寝るべきか”、“起き続けるべきか”の選択で悩んだ挙句、出した結論は、夜食と睡魔撲滅用ドリンクを買ってきて、今から放送を聴き始めるというもの。

(不健康の極みだが、我ながらこれは名案だ!!)

それでも睡魔は繰り返し押し寄せ、それと闘いながら放送を聴いていると、それは室内楽やオーケストラの演奏と演奏者への生インタビューで構成されるラジオ局のようだ。ときどきジングルを挿みながら番組は進行していく。音楽用語を除いて、コメンテーターのイタリア語はさっぱり理解できないが、CDではなく、ナマ収録された音楽素材中心の番組構成はとても新鮮だ。

しかし、さすがはイタリア系!!

予告された時刻になっても、フランコの番組は一向に始まらない。

ここまで必死に起きてきたのに、なにか設定を間違えたのか。ひとり焦るが、どうしようもない。そして、PCの画面に示されている定刻を10分くらい過ぎた頃、ジングルに続いて、コメンテーターがついにフランコの名前を口にした。

(ついに始まったか!)

余談ながら、かなり前、大阪市音楽団(民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra)の団長だった木村吉宏さんから、ローマである演奏会に行ったとき、告知されている開演時間の前に行ったら、誰も居らず、定刻になった頃に奏者がゾロゾロと集まりだした、と面白おかしく聞かされたことあった。冗談だろうと思っていたが、ラテン系の国々ではよく似た話をよく聞く。隣国スイスでも、イタリア文化圏は同じなのかも知れない!

時間の概念が違うのだ。

番組は、ここからコメンテーターとフランコの2人の会話が始まった。だが、すべてがイタリア語なので、何を言っているのか、さっぱり分からない。ただ、会話の中に混じる音楽用語や人物の固有名詞などから、フランコは、これから放送される曲についてコメンテーターの質問に答えているのは確かだった。

放送は、コンサートとは違い、つぎの曲順で行なわれた。

・イクエストリアン・シンフォニエッタ(Equestrian Symphonietta)(作品52)

・交響曲第2番『江戸の情景』(Sinfonia N.2“VEDUTE DI EDO”)(作品54)

・カリビアン・シンフォニエッタ(Caribbean Symphonietta)(作品51)

(欧題は、イタリア語表記)

世界的成功を収めた交響曲第1番『アークエンジェルズ(The Archangels)』(作品50)後に完成させた2曲のシンフォニエッタと2作目の交響曲だけの重量感のあるプログラムだった。

80名近い人数のシヴィカ・フィラルモニカ・ディ・ルガーノの安定感のあるゴージャスなサウンドにも圧倒される。そして、フランコに対するリスペクトからだろう。ひじょうにモチベーションが高い。

世界初演となった『江戸の情景』における集中力は、とくにすばらしかった。

そして、割れんばかりの圧倒的な拍手が聞こえてくる!!

初演は大成功だった!

実際にナマのライヴを聴いた出版社ハル・レナード・ヨーロッパの音楽出版部門の責任者ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)が、『それはもう、ファンタスティックだった!』と演奏会直後に短文メールしてきた気持ちもよくわかる。

また、放送でフランコの話す流暢なイタリア語を聞いていて、来日中も、不慣れな英語ではなく、本当はイタリア語で自由に話したかったんだろうなと感じた。

そう言えば、フランコは翻訳では何度もひどい目にあったことがあると話していた。ある国に招かれたときなどは、事前に渡したプロフィールで“フルート奏者”と書いてあったはずなのに、なんと“バグパイプ奏者”と訳されていたのだそうだ。

(あ~ぁ、お気の毒に!)

番組は、3曲の後、初めて聴くマーチがアンコールとして流れたが、その時点で時計を確認すると、まだ告知された番組枠がかなり残っていた。どうするんだろう、と思っていたら、ボーナスとして、なんとフランコのフルート独奏で、クリスマス・キャロルを2曲、ピアノ伴奏で聴かせてくれた。

いかにもヨーロッパらしいクリスマス!

とても美しいエンディングだった。

▲フルート三重奏(Flute Trio Op.24)

▲フルート四重奏曲第1番(1st Flute Quartet Op.26)(zimmermann)

▲フルート四重奏曲第2番(2nd Flute Quartet Op.30)(Vigormusic)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第111話 スパーク「宇宙の音楽」の迷走

▲フィリップ・スパーク(本人提供)

▲スコア – 宇宙の音楽(英Anglo Music Press、出版:2005年)

『ヒグチさん、この前スコアをお預かりしましたスパやんの新曲の件なんですが、早速“プログラム”の方で協議して、話を上げましたら、上が“どうしてもアカン”ってゆうてますねん(どうしてもダメだと言ってるんです)。』

2004年(平成16年)6月下旬、大阪市音楽団(市音 / 現Osaka Shion Wind Orchestra)のプログラム編成委員のリーダー、延原弘明さんから掛かってきた電話だ。

延原さんは、Ebクラリネットの名手で、その後、楽団が民営化されて一般社団法人となったとき、初代代表理事になった人物だ。

会話の中の“スパやん”とは、無論、イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)のことだ。何度も来阪し、ひとりで地下鉄に乗れるまでに、その空気の中に溶け込んでいたフィリップは、当時、市音内部では、大阪流親愛の念とリスペクトを込めてそう呼ばれていた。

周囲の話を総合すると、そのネーミング・ライツは、どうやら筆者にあるらしいが、今さらそんなことはどうでもいい。自然発生的に生まれた大阪ネイティブによる親称だ。

また、市音に預けていたスコアとは、フィリップのブラスバンドのための新作『宇宙の音楽(Music of the Spheres)』の出版前オリジナル・スコアのプルーフだった。

第107話:スパーク「宇宙の音楽」との出会い》でお話したとおり、これより少し前の6月1日(火)、フィリップと東京で会った際、“もし、それをウィンドオーケストラのために新たにオーケストレーションを施して作り直すとするなら、果たして市音は演奏してくれるだろうか?”という驚くべき相談を受けた作品で、帰阪するとすぐ、市音にスコアを手渡し、彼の提案を投げかけていた。

冒頭の延原さんの電話は、それに対する正式な回答だった。

『本当に申し訳ない。(“プログラム”委員の間では)面白いと思ってるんですが…。』という延原さん。

少し踏み込んでその訳を尋ねると、およそ信じられない理由が返ってきた。

延原さんの説明によると、2004年6月11日(金)、ザ・シンフォニーホールで行なわれた第88回定期演奏会(指揮:秋山和慶)で『四つの真理(The Four Noble Truths)』を日本初演したばかりの市音は、同年11月22日(月)に同ホールで開かれる第89回定期演奏会(指揮:ディルク・ブロッセ)でも、『二つの流れのはざまに(Between the Two Rivers)』を予定していた。もし、その翌年の第90回定期演奏会(日時、指揮者未定)で今度の新作をやるとなると、結果としてスパーク作品を3回連続で取り上げることになる。楽団上層部は、それは“どうしてもアカン”と難色を示したのだという。

まるで世間の目を気にする“お役所”仕事のような反応だ。

同じ作曲家の作品がつづくことがそれほど“まずい”ことなのか!?

確かに、市音は、そこまで、フィリップの作品を定期演奏会だけで7曲取り上げていた。

・シンフォニエッタ第2番《日本初演》
Sinfonietta No.2
第68回大阪市音楽団定期演奏会
1994年(平成6年)6月2日(木)
ザ・シンフォニーホール、指揮:木村吉宏

・オリエント急行
Orient Express
第69回大阪市音楽団定期演奏会
1994年(平成6年)11月2日(水)
フェスティバルホール、指揮:金 洪才

・シンフォニエッタ第1番《日本初演》
(Sinfonietta No.1)
第76回大阪市音楽団定期演奏会
1998年(平成10年)6月10日(水)
ザ・シンフォニーホール、指揮:堤 俊作

・ディヴァージョンズ
Diversions
第80回大阪市音楽団定期演奏会
2000年(平成12年)6月16日(金)
ザ・シンフォニーホール、指揮:堤 俊作

・交響曲第1番「大地・水・太陽・風」《日本初演》
Symphony No.1 – Earth, Water, Sun, Wind
第81回大阪市音楽団定期演奏会
2000年(平成12年)11月9日(木)
フェスティバルホール、指揮:渡邊一正

・エンジェルズ・ゲートの夜明け《日本初演》
Sunrise at Angel’s Gate
第83回大阪市音楽団定期演奏会
2001年(平成13年)11月14日(水)
フェスティバルホール、指揮:渡邊一正

・カレイドスコープ《日本初演》
Kaleidoscope
第86回大阪市音楽団定期演奏会
2003年(平成15年)6月6日(金)
ザ・シンフォニーホール、指揮:秋山和慶

これに、先述の第88回と第89回の2曲を加えると、定期だけで計9曲となる。内、7曲は日本初演で、すでに東京佼成ウインドオーケストラがCD(佼成出版社、KOCD-3902 / 参照:第48話 フィリップ・スパークがやってきた)に録音していた『オリエント急行』も、実は、楽譜出版後、日本初の演奏だった。

話を聞いている内、誰が“アカン”と言っているのか、すぐに想像がついた。しかし、その理由は、残念ながら、およそ音楽をやろうとする人が簡単に口にしていいものだとは思えなかった。

もっと他の理由だったら、“そうですか”と簡単に引き下がっていたかも知れない。

例えば、曲がダメだと判断したとか、演奏時間が長すぎるとか、編成が大きすぎるとか、予算がかかりすぎるとか…..。

電話をかけてこられた延原さんには、何の恨みもないが、ここから筆者の反論が始まった。

『スコアをご覧になったからお分かりだと思いますが、今度の曲は、10年に1曲出るか出ないかというクラスの作品です。個人的には、彼の最高傑作だと思っています。しかも、今回は、市音を名指しで提案してきたわけです。そんな機会を簡単に捨ててしまうということは、私には到底理解できません。』

すでにスコアを読んで作品を理解されているだけに、筆者の主張を黙って聞いているしかない延原さんは、やっとのことで、『それは、じゅうぶん理解しているのですが…。』と言葉を挿まれたが、こちらは、それを遮るように、さらに畳み掛ける。

『いいですか。世界中にフィリップ・スパークに曲を書いてもらいたい、あるいは初演をしたいという演奏団体は山ほどあるわけです。今回、彼は、世界中から市音を選んだ訳です。彼は“演奏してくれるだろうか?”と控えめに言いながらも、実は市音に演奏して欲しいわけです。そんな天から降りてきたような千載一遇の機会を他に持っていけと、そう言われるんですか? 信じられない! もう一度、みなさんでよくスコアを検討していただけないでしょうか? どんな作品にも“旬”というか、取り上げるべきタイミングというものがあります。私がこれほどまで言うことはこれまでなかったでしょう? それだけの作品なんです!』

一度火がついてしまった筆者を押し止めることなど、地球上の誰にもできない。

延原さんは、『よく分かりました。』とついに折れ、『もう一度みんなで話し合い、上層部にも再度掛け合ってみます。』と約束された。

楽団という組織に属さない自由な立場にいる筆者には、その後、市音内部で何があったかについてはうかがい知れない。さぞかし激論が交わされたことだろう。

しかし、7月に入って再び掛かってきた電話の延原さんの声は弾んでいた!

『いろいろ言う者もおりましたが、押し通しました!』

スコアの魅力が、ついに楽団を動かした瞬間だった!

この決定の有る無しで、この作品の運命は大きく変わっていただろう。

その後、世界を席巻する『宇宙の音楽』ウィンドオーケストラ版の誕生秘話である!

▲第68回大阪市音楽団定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 第88回大阪市音楽団定期演奏会(2004年6月11日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 第89回大阪市音楽団定期演奏会(2004年11月22日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第110話 ニュー・サウンズの始動

▲LP – ニュー・サウンズ・イン・ブラス(CBSソニー、SOLL 8、1972年)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

▲楽譜 – オブラディ オブラダ(岩井直溥編)(ヤマハ音楽振興会、1972年)

▲岩井直溥(1923~2014)

『それ、指揮されているのは、間違いなく岩井(直溥)先生です。“ヘイ・ジュード”とかビートルズの曲が入っているレコードでしょ? 私も、トロンボーンで乗ってました。』

2014年(平成26年)、九州は熊本の某所。「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」(CBSソニー、SOLL 8、1972年)のオリジナルLPレコードのジャケットを手に、何人かの先生方と、ジャケットに写っている謎の指揮者の正体について“ああでもない、こうでもない”と騒いでいるところへ、少し離れた位置から不意に飛びこんできた鈴木孝佳さん(タッド・ウインドシンフォニー音楽監督)の衝撃発言だ!

有名な“ニュー・サウンズ・イン・ブラス”シリーズの<第1弾>として知られるこのアルバムのレコーディング・セッションが行なわれたのは、1972年(昭和47年)5月16日(火)~17日(水)の2日間。ところは東京の旧杉並公会堂だった。

ただ、発売されたこのレコードのジャケットのどこにも、指揮者の名前がなかった。客席上手側やや斜め後方から撮影されたモノクロ写真が見開きジャケットの内側に結構大きく印刷されているにも拘わらずだ!

“これはきっと何かある!”

筆者だけではない。写真の顔がはっきりしないだけに、リリース後、巷ではいろいろな憶測や怪説が飛び交い、それらは、やがて“都市伝説”と化していく。

写真の指揮者が一体“誰”なのか。

最も有力だと思わせた説は、当時のスタジオ録音の多くがそうだったように、“収録された10曲のアレンジャー、岩井直溥、東海林 修、服部克久の三氏がそれぞれ自分の編曲を指揮した際に撮影された、その中のひとり”という至極もっともなものだったが、残念ながら、手元の公表データの中にはそれを確実に検証できるものはなかった。

“ニュー・サウンズ”は、その後、「ヤング・ポップス・イン・ブラス!!」のタイトルでリリースされた翌年の<第2弾>(LP:東芝音楽工業、TP-7694、1973年9月5日リリース / タイトル変更した再発盤LP:「《吹奏楽ニュー・コンサート・シリーズ》ニュー・サウンズ・イン・ブラス/レット・イット・ビー」、東芝EMI、TA-60039、1975年12月20日リリース)以降、ソニーから東芝に完全に移行。その後の多くの録音が岩井さんの指揮となっただけに、ひょっとして、ソニー盤の時もそうだったのではないかと推測する人もかなり出てきた。

しかし、1972年当時、岩井さんは、れっきとした東芝の専属。契約上ソニーのレコードを指揮するのは、限りなく“掟破り”に近いので、その可能性は低いように思われた。

ただ、演奏からは、本当は岩井さんが振っていたのではないかと思わせる匂いがプンプン漂ってくる。それもまた事実だった。

やがて、時代は21世紀に突入!

2009年、すでに“時効”が過ぎていたためか、岩井さんは、バンドパワーに連載された「吹奏楽ポップスの父 昭和大爆走!岩井直溥自伝“第19回 NSBスタート!”」(聞き書き:富樫鉄火、2009年3月30日)で、“もちろん、実際に指揮したのは僕ですよ。”と白状された。

NSBとは、ニュー・サウンズ・イン・ブラスの略だ。

そして、世間一般的には“これにて一件落着!”となった筈だったが、発売以来のモヤモヤした気分を解消するために、石橋を思い切り叩いた上で渡りたい、ちょっと困った性格の筆者としては、チャンスがあれば、いつかそれをご本人以外の関係者の口から直接確認・検証したいと思っていた。

ホント、困った性格だ!(と、ときどき言われる!)

まあ、そんな個人的な事情から、2014年(平成26年)5月10日(土)の岩井さんの逝去後、その頃のことを知っていそうな人と会うときには、必らずこのレコードを持って出かけるようになった。

実際、別件で奈良にお住まいの全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さん宅をおじゃましたときも、この“謎の指揮者”について、ジャケット写真を見ながらかなり盛り上がっている。溝邊さんは、近畿大学吹奏楽部のポップ・コンサートに岩井さんを何度も客演指揮者として招かれており、関西では、岩井さんをもっともよく知るひとりだったからだ。

結局、その時の結論は、“写真からの特定は、ご本人以外難しい”の線で落ち着いた。

冒頭の鈴木さんの発言は、その指揮者が岩井直溥さんだったという証言だ!

また、ジャケット上に記載された演奏アーティスト名は、“NEW SOUNDS WIND ENSEMBLE(ニュー・サウンズ・ウィンド・アンサンブル)”。

それについても、鈴木さんは、東京佼成吹奏楽団(当時)のメンバーに、スタジオ・ミュージシャンを加えたものだったと証言された。

発売日に購入して以来、40年以上のモヤモヤが、一気に解消されていった瞬間だった!!

『岩井先生とは、スタジオ・ワークも含め、随分いろいろな現場でご一緒させていただきました。おそらく アオイスタジオだったと思いますが、トロンボーンつながりということで、クレイジーキャッツの谷 啓さんを紹介していただき、お話しするうち出身校の話になって、“たぶんご存知ないと思いますが、福岡電波高です”とお話ししたら、“オー!!、ボクは厨子開成だ”と言われたのをよく覚えています。ハナ肇さんや植木等さんらにも食事に連れていっていただいたこともありましたね。』と、鈴木さんは、懐かしそうに話される。

さらに、『佼成が普門館でやったときもご一緒しましたよ。』ときた。

1972年11月5日(日)、東京佼成吹奏楽団が、岩井さんの指揮で、普門館(東京)で行なわれた第20回全日本吹奏楽コンクールの賛助演奏を行なったときの話だ!

岩井さんは、同年の中学校の部の課題曲『シンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」』の作曲者でもあり、賛助出演時にも、そのポップ・バージョンが演奏された。

そこで、レコードとともに持ち歩いていた「バンドジャーナル」1973年1月号(音楽之友社)をカバンから取り出し、59~61頁のグラビア「第20回全日本吹奏楽コンクールの賛助演奏をきいて」を開いて見せる。

すると、グラビアの写真を見ながら、『オヤッ?いますね!』と、トロンボーンを吹いていた若き日の自身を発見!!

『岩井先生は真っ赤な派手な衣装をつけ、ステージの真ん中にはドラムスの猪俣(猛)さんがいて…。みんな懐かしいですね。』と、いろいろなことを思い出されているようだった。

その後、鈴木さんが指揮するタッド・ウインドシンフォニーは、2015年(平成27年)1月18日(日)、ティアラこうとう大ホール (東京)で行なわれた「ニュー・イヤー・コンサート2015」のアンコールで、岩井さんを偲んで作品を1曲取り上げ、後日、「タッド・ウィンド・コンサート Vol.33 イーストコーストの風景」(Windstream、WST-25039、2017年)の中の1曲としてCD化した!

曲は、懐かしの『シンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」』だった!

▲「バンドジャーナル」1973年1月号(音楽之友社)

▲▼TAD Wind Symphony ニュー・イヤー・コンサート2015(2015年1月18日、ティアラこうとう、撮影:鈴木 誠)

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.33 イーストコーストの風景(Windstream、WST-25039、2017年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第109話 アッぺルモントがやってきた

▲ベルト・アッぺルモント(2008年12月19日、パルテノン多摩)

▲セッション風景(同)

2008年(平成20年)12月17日(水)、朝8時ごろ、筆者は、成田空港第1ターミナルの国際線到着ロビー最寄りのタクシー乗り場で、客待ちのドライバーをつかまえては、つぎのような質問を繰り返していた。

『ちょっとお訊ねしますが、こちらの運転手さんで、都内・杉並周辺にめちゃくちゃ明るいベテランさんおられますか?』

すると、“なんだなんだ”と筆者のまわりにドライバーが集まってくる。

事情を話す内、“それなら、○○さんが適役だ”という人が出てきて、その場にいた全員が“そうだ、そうだ”と同意。中の1人が、○○さんを探しにいって連れてきてくれた。

当方があまりにも“テンぱって”いて、メモる余裕がなかったため、失礼ながら、名前は失念してしまったが、そのスペシャルな○○さんは、運よくすぐそばにいた。

早速、事情と目的地を話すと、○○さんは快諾してくれ、到着ロビー出口から最も近いところで待機してくれることになった。他のドライバーさんもその位置を譲り、協力してくれる。

筆者のリクエストは、“8:40到着予定の外国人と筆者を立正佼成会大聖堂近くの目的地まで、最短時間、できれば10:30頃までに連れて行って欲しい”というもの。即ち、ウィークデー朝の通勤時間帯に都内中心部の渋滞を避けながら、杉並まで車を走らせるという難題だった。

何しろ、こちらは生粋の大阪ネイティブであり、東京はまるで不案内。ルート選択からしても、ベテランの経験と勘だけが頼りだった。

しかし、どうしてそんな事態に至ったのか。

事の起こりは、3日前の12月14日の深夜から15日の早朝にかけてのことだった。

この日、筆者は、ベルギーの音楽出版社ベリアート(Beriato Music)のベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)と新宿ワシントンホテルに宿泊していた。

第108話 ヴァンデルロースト「オスティナーティ」世界初演》でお話したように、ベンは、ドイツのバンベルク交響楽団(Bamberger Symphoniker Bayerische Staatsphilharmonie)の首席トロンボーン奏者をつとめ、一方でベリアートを創業。ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のクラスから、『ノアの箱舟(Noah’s Ark)』を書いたベルト・アッぺルモント(Bert Appermont)を見い出し、トロンボーン協奏曲『カラーズ(Colors)』を委嘱・初演・初録音し、そのCDが大ブレーク。やがて、ハル・レナード・ヨーロッパ(Hal Leonard Europe)の音楽部門のトップとなる実力者である。

14日の夜、ふたりは、バンドパワーの鎌田小太郎(コタロー)さんや作曲家の清水大輔さんらとの会食後、ホテルに戻り、それぞれ自室で微睡んでいた(はずだった)。

ちょうどウトウトし始めたところへ、慌てた声のベンから電話が入ったのは、結構な深夜。日付はとっくに変っていた。

何事かと訊ねると、『ベルトが予定した飛行機に乗っていない!ナイトメア(悪夢)だ!!』という。

ベルトとは、前述のベルト・アッペルモントのことだ。

一気に目が覚めた筆者は、詳しい話を聞くため、急いでベンの部屋に向かう。

実は、この12月15日から、東京佼成ウインドオーケストラ演奏の佼成出版社の自作自演CD「ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.7、エグモント~ベルト・アッペルモント作品集」(佼成出版社、KOCD-3907、2009年)のセッション前の練習とレコーディングが予定され、スケジュールは、以下のように組まれていた。

12/15(月)、リハ(東京佼成WO練習場)(指揮:稲垣雅之)

12/16(火)、リハ(東京佼成WO練習場)(指揮:B・アッぺルモント)

12/17(水)、リハ(東京佼成WO練習場)(指揮:B・アッぺルモント)

12/18(木)、録音(パルテノン多摩)(指揮:B・アッぺルモント)

12/19(金)、録音(パルテノン多摩)(指揮:B・アッぺルモント)

ベンが話すとおりだと、14日の飛行機に乗れなかったなら、当然15日中の日本到着は不可能。同時にそれは、日本時間の16日朝10:30からのリハにも間に合わないことを意味した。

今さら原因など、どうでもいい。プロの仕事として、約束した時刻にその場にいないということが問題だった。

佼成出版社絡みだと、かつて、アルフレッド・リード(Alfred Reed)が誤って一日遅い便で来日したとき以来の大騒動になることが予想された。

企画のプロダクション・スーパーバイザー(制作統括)を任されていた筆者にとっても、これは正しくナイトメアだ。

ベンには、クライアントの佼成出版社と東京佼成ウインドオーケストラには、早朝に連絡を入れて善後策を練ってもらうから、ベルトには“とにかく一番早い便に乗る”ように指示してほしいと頼んだ。ベンは、即刻その場からベルトに国際電話を入れる。それはすぐつながったが、いつもは穏やかなベンの口調がやたらきびしい。

やがて、ベルトから返答が入った。残念ながら、15日には日本便がなく、どんなに早い便に乗ったとしても、到着は17日の朝になるという。ベンは、『とにかくすぐ来い!』と言って電話を切り、“ナイトメアだ!”と繰り返した。

もうすぐ夜明けだった。

佼成出版社には、“指揮者が突発事態で予定の飛行機に乗れなかったこと”、“次の便での到着が4/17朝になること”、“どんな結論(一旦バラして延期)に至ったとしても、4/17には必ず顔を出させること”などを連絡し、オケと協議してもらうことになった。

その後、セクション・リーダーをまじえた協議の結果、“本人の棒で4/17の練習ができるのなら、レコーディングをやろう”という結論が出た。

一旦決まると、プロの仕事はスケジュール通りに進む。

当初から稲垣雅之さんの指揮で組まれていた4/15のリハは予定通り行われ、4/16のリハは完全休養。あとは、本人の来日を待つばかりとなった。

その後は、幸運が続いた。

4/17、ベルトの乗ったルフトハンザ機は、ジェット気流に乗って、予定より15分以上早く成田に到着。事前に“入国審査の時間が惜しいので、荷物は小さく”、“タクシーを待たせているので、審査を終えたら急いで出口へ”とメールしておいたら、ベルトは、スコアと指揮棒だけを小さなショルダーに入れただけの軽装で到着口から“走って”出てきた。

恐らく、飛行機を降りた後、入国審査へ走って一番乗りでそれを済ませ、再び全力疾走したのだろう。

挨拶もそこそこに、ふたりで○○さんのタクシーにダッシュ!

『お任せ下さい。』という○○さんの状況判断も的確で、東京佼成ウインドオーケストラの練習場には思っていた以上に早く到着。ちょうど、佼成出版社の担当者、藤本欣秀さんが練習開始前の挨拶を始めたところだった。

『指揮者のアッぺルモントさんは、無事成田に到着され、もうまもなくこちらへ到着されると連絡が入っています。』

その藤本さんの挨拶が終わるか終わらない内、ベルトと筆者は、合奏室に飛び込んだ。

ベルトとは初対面の藤本さんが、ちょっと戸惑いを見せながらも、彼をプレイヤーに紹介。すると、ベルトは、サッと指揮台へ進み、真剣な面持ちでまず遅れたことを“謝罪”。間髪を入れず指揮棒を振り上げ、1曲目の『リオネッス(Leonesse)』のリハーサルを始めた。

様子を見ていると、指揮でグイグイ引っ張っていくので、オケのモチベーションもグングン上がっていくのがよくわかる。

リハ終了後、トロンボーンの萩谷克己さんから、『ここまでくれば、もう大丈夫。それにしても、彼の棒(指揮)がいいのには、ちょっと驚きました。』と声がかかる。

正直“いつ着くのか”と、心中、針のムシロ状態だった筈の藤本さんも、『最初に“謝罪”があり、あれこれ言わず、すぐリハに入ったのには、みなさん感心されていました。』とホッとした面持ち。

マネージャーの古沢彰一さんからは、『もちろんバラすことも考えたんだけど、4/17のリハさえできれば、1日休んだことでリフレッシュしてから、本番に望める。それに賭けるという考え方もあるしね。これが、4/17の練習ができないというのなら、本当に大変なことになったんだろうけど。』と舞台裏を聞かされた。

正にタイトロープ。ギリギリの線の対応だった訳だ。

また、このレコーディングには、コンサートマスターの 田中靖人さん、下棒をつけた稲垣雅之さん、マイクを通じたディレクションを行なった山里佐和子さん、ステージ上通訳の黒沢ひろみさん、録音チームの石崎恒雄さんや藤井寿典さん、宮下雄二さん、新技術のSHMプレスのマスタリングを手がけた杉本一家さんなど、それぞれの持ち場で、多くのスキルが惜しげもなく注がれている。

そして、CDが完成したとき、真っ先に歓喜の声をあげたベン!

当然、反省点はある。

だが、こんなチームワークのいいCD制作は、もう二度とないかも知れない。

東京佼成ウインドオーケストラにとっては、すべてが新曲!

定年のため、これが最後のレコーディングとなったプレイヤーさんも結構多かった!

CD「エグモント」は、作曲者本人によるたった1日のリハーサルから実を結んだ、とても思い出深いアルバムとなった!!

▲モニタールーム風景(2008年12月19日、パルテノン多摩)

▲セッション終了後の東京佼成ウインドオーケストラ(同)

▲ホールを出たアッぺルモント(写真提供:鎌田小太郎)

▲CD – ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.7、エグモント~ベルト・アッペルモント作品集(佼成出版社、KOCD-3907、2009年)

▲同、インレーカード