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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第24話 ギャルド1961外伝

▲赤松文治著「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」

フランスのギャルド・レピュブリケーヌの1961年の初来日は、今なお日本の音楽ファンの記憶に残る大成功をおさめた。

そのフィーバーぶりは、前々話(第22話)と前話(第23話)でお話ししたとおりだが、1つの吹奏楽団の来日が、これほどの社会現象と化したことは、かつてなく、その後もなかった。

それは、招聘の中心となったのが新聞社というメディアであり、東京エリアを中心とした全日本吹奏楽連盟の全面的サポートがあったことも無論ではあるが、それらとともにけっして見逃せないのは、第2次大戦前から、ギャルドのことは遠く離れたこの日本でも多くの著名人によって語られ、サクソフォーン・カルテットも含めるなら、戦前だけでもおよそ40枚ものSPレコードがビクターやコロムビアから発売され、人気を博していたことだろう。

我が家にも、何故か、パリ・オペラ座の名テノール、ジョルジュ・ティル(Georges Thill、1897~1984)が独唱し、ピエール・デュポン(Pierre Dupont、1888~1969)指揮、ギャルド・レピュブリケーヌがバックをつとめた「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」(Rouget de Lisle)と「往時の夢(La Reve Passe)」(Georges Krier & Charles Helmer)がカップリングされたコロムビアのSPレコードがあったことを覚えている。

指揮者のデュポンは、ギャルド来日時の楽長フランソワ=ジュリアン・ブランの前任者で、1927年から1944年まで楽長のポストにあった。

戦前から音楽解説をされていた赤松文治さんの労作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」(自費出版 / 1988 / 制作:音楽之友社)の序文には、この吹奏楽団がわが国でも注目を集めるようになったのは、“1930年代にコロムビアが発売した数々のレコード”と同じ年に陸軍委託楽長候補者としてパリに留学し、デュポンが楽長をつとめるギャルドに5ヵ月間勤務した山口常光さん(戦後は、警視庁音楽隊初代隊長)が、帰国後に音楽雑誌「月刊楽譜」に詳細な体験記を発表されたことによると書かれてある。

また、雑誌「ブラスバンド」(主幹:目黒三策)も、山口さんを含め、フランス音楽評論家の松本太郎、管楽器研究家の平林 勇、レコード評論家の近江屋清兵衛の各氏の執筆で、当時の情報のすべてをまとめた50ページの特集を組んだことがあった、とも書かれてある。

ともかく、ギャルド・レピュブリケーヌは、日本でも戦前から多くのファンがその名を知る吹奏楽団だった訳だ。そのナマ演奏がはじめて日本で聴けることになった訳だから、盛り上がらない訳がなかった。

そして、その初来日については、吹奏楽専門誌の「バンドジャーナル」が大きく取り上げる一方、来日直前の「音楽の友」1961年11月号(音楽之友社)も前記の松本太郎さんの紹介記事を掲載。来日後の1962年1月号でも、滞在中に撮影された6枚の写真(内1枚は、昭和天皇と皇后の両陛下が国立博物館の庭で演奏を聴かれている場面)を割り付けた2ページのグラビアのほか、東京藝術大学作曲科教授の池内友次郎(いけのうち ともじろう、1906~1991)さんが筆をとった「偶然なめぐり合わせ ギャルド・レピュブリケーヌ隊長ブラン – 池内友次郎」という、とても痛快な寄稿が掲載された。

池内さんは、俳人の高浜虚子(1874~1959)の二男。1927年にフランスに渡り、パリ音楽院でポール・フォーシェ(Paul Fauchet、1881~1937)やアンリ・ビュッセル(Henri Busser、1872~1973)のクラスに学んだ。日本にフランス流の作曲技法を持ち帰った日本作曲界の牽引者の1人だった。

和声法や対位法などの著作も多いが、師のピュッセル著を訳編した「パリ楽壇70年」(1966年 / 音楽之友社)は、当時のフランスの作曲家の活動がまるで日記帳のように細かく語られ、写真もふんだんに盛り込まれていることから、筆者のお気に入りの1冊となっている。

また、フォーシェは、日本では、ギャルド・レピュブリケーヌが初演した「吹奏楽のための交響曲(Symphonie pour Musique d’Harmonie)」(1926)の作曲者としても知られる。

そして、池内さんが学んでいたフォーシェのクラスに新入生として入ってきたのが、かのフランソワ=ジュリアン・ブランだった。

寄稿では、2人の出会いに始まり、机を並べて学んだ学生時代、戦後デュポンのあとを受けてギャルドの楽長になったブランとのパリでの再会、ギャルド来日時の数々のエピソードなどが語られている。

バリでのくだりでは、『今の君の地位は立派だと思う』という池内さんに対し、ブランはそれには答えないままに『全員を連れて日本に行ってみたい、とそのことだけをくりかえし私に念を押していたのであった。』(原文ママ)と書かれてある。

筆者の知る限り、ギャルドとブランについて、これほど私的で愉快なサイドストーリーはない。和服姿の池内さんと制服姿のブランがどこかの食堂のテーブルで親しげに語り合っている写真も貴重だ。(状況から、この写真は、11月2日、国立博物館での美術展開催のための儀礼演奏を終え、東京文化会館の食堂で昼食をとったときのものと思われる。)

大阪芸術大学教授で作曲家の田中久美子さんとこの話題で盛り上がったことがある。

そのとき、田中さんから『東京の池内先生のご自宅に月2回のプライベート・レッスンで伺っていたとき、先生がふいに“「ボレロ」の吹奏楽での初演をギャルドの演奏会でラヴェル自身の指揮で聴いた”と話されたことがあった。』と聞いて驚いた。

慌てて赤松文治さんの本を読み返すと、当時のフランスの作曲家たちは自作がギャルドで試奏されるのを聴くためにしばしば練習場を訪れていて、そこでデュポンが編曲した「ボレロ」の試奏を聴いたラヴェルが満足の意を表したこと、そして、1931年6月9日の演奏会でラヴェルが「ボレロ」を指揮したことが書かれてあった。時期もピッタリ符合する。池内さんが聴かれたのはこの日の演奏会だったと思われる。

ブランの前任者デュポンも、実は同じフォーシェのクラスで和声法、対位法、フーガを学んでいる。そのポジションを親友のブランが引き継いだのだから、池内さんにとってこれほど痛快な出来事はなかった。

話は少し跳ぶが、来日プログラムには、音楽評論家の堀内敬三さんをはじめ、前記の山口常光さん、陸上自衛隊中央音楽隊初代隊長の須磨洋朔さん、東京藝大の山本正人さんが熱筆を振るわれている。

その中の須磨さんの寄稿には、来日1年前の1960年秋にローマ・オリンピックの視察も兼ねて渡欧した須磨さんが、9月30日にギャルドの練習場を訪れたとき、ビシッと正装で身を固めた楽員に迎えられ、自作の行進曲「大空」を示されて、ブランから指揮を所望されたというくだりが出てくる。

楽譜は、ギャルドと交流のあった赤松文治さんが1959年に贈呈したもので、ギャルドはこれをレパートリーにとり入れていた。1961年の来日で、この曲が唯一日本の曲として正プロで取り上げられ、11月11日の東京文化会館における演奏会で作曲者の須磨さんが客演指揮者としてステージに上がったのにも、こんな背景があったからだ。

須磨さんによると、ギャルドの練習場の壁には、戦前ギャルドに勤務された山口常光さんの写真も掲げられていたという。そして、自作のあと、ドヴォルザークの「新世界交響曲」の指揮も所望され、それを振り終えた後、須磨さんはこう訊いた。

『日本で、ギャルドを招待する計画がありますが、来てくれますか?』(原文ママ)

すると、“全員まるで子供のように飛びあがったり、足ぶみしたりしたりして、「ブラボ―」の連続”だったそうだ。

これだから、バックステージはおもしろい。

いつか忘却の彼方へ忘れ去られるかも知れないギャルド1961の外伝である。

▲アンリ・ピュッセル著、池内友次郎訳編、「パリ楽壇70年」

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第23話 ギャルド、テイクワンの伝説

▲EP – ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集(Angel(東芝音楽工業)、YDA-5001)▲同、包装ビニール

1961年11月に初めて日本にやってきたフランスのギャルド・レピュブリケーヌ。

前話(第22話)でもお話ししたように、その滞在17日間に日本側が見せた過熱気味の歓迎と全国に伝播した音楽的熱狂は、数ある海外アーティストの来日フィーバーの中でも極めて異例なものだった。

招聘の中心的役割を果たしたのが新聞社だっただけに、関連記事も多く、演奏活動以外の一挙手一投足までもが関心をもたれた。

NHKも、東京文化会館における2回のコンサートを収録して、テレビ(モノクロ)、AMラジオ、FMラジオの実験放送を通じ、合計8本のライヴ番組を全国放送した。

当時の報道や記録の断片を精査すると、NHKのライヴ以外にも、少なくとも、11月3日(金)の東京厚生年金会館(新宿)での歓迎演奏会と、同12日(日)の東京・台東体育館における第9回全日本吹奏楽コンクール特別演奏でも記録録音が行われている。

とくに後者は、当時、全日本吹奏楽コンクールの出場団体に当日の実況録音テープをプレゼントしていたソニーによってステレオ録音されたもので、翌11月13日(月)にソニー工場を訪れたギャルド一行の前で再生された。

ギャルド・レピュブリケーヌにとって、これは極めてエポック・メイキングな出来事だった。

なぜなら、1961年の来日までにリリースされた彼らのレコードがすべてモノラル録音だったからだ。つまり、彼らは極東の地の日本ではじめて自分たちのライヴ演奏のステレオ録音を聴いたことになる。

そして、この滞在期間中、“後世に残す”という意味で最も重要なできごとが、公演スケジュール終了後の11月16日(木)、東京・杉並公会堂で行われた東芝音楽工業によるレコーディングだった。離日の1日前のことだ。

ソノシートもついた全38ページ(折り返しを除く)の公演プログラムの36ページに掲載された《東芝レコードがご家庭に贈る!》と文字が躍る広告には、以下のような予告が入っている。

『ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団演奏のLPステレオ盤 ナポレオン時代からの歴史と伝統を誇る世界最高の大吹奏楽団の来朝を記念して、東芝レコードがこの素晴らしい演奏を録音いたしました。当楽団演奏のレパートリーの中から、軍艦マーチなど、皆様よくご存知のマーチ8曲を収録した25cmLPステレオ・レコードが、カッティング、録音技術、盤質の優秀性を誇る東芝レコードによって、来春発売の予定です。皆様のお気に召す演奏で、充分ご満足いただけるものと確信しております。』(原文ママ)

時系列の視点で見るなら、この広告が世に出た時点では、実際にはまだ録音は行なわれていない。しかし、ここでのフライング気味の表現も、このレコードにかける東芝サイドのモチベーションの発露と考えるとわからないでもない。

コロムビアやビクター、キング、テイチクといった戦前からある老舗レコード会社とは違い、東芝のレコード事業は、戦後にスタートした完全な後発組。東京芝浦電気のレコード部門が移管されて東芝音楽工業が発足したのも、実はギャルド来日のわずか1年前の1960年10月1日のことだった。

広告からは、何が何でもフェイルできないという空気すら漂ってくる。

さて、当時、数寄屋橋にあった朝日新聞東京本社と同じビル内に入っていた東芝音楽工業がギャルド来日を知ったのは、その年の2月のことだった。

このあたりの事情は、1962年4月の「バンドジャーナル」(第4巻第4号 / 音楽之友社)に6ページを割いて掲載されているレコード発売を期した記事「ギャルド・レピュブリケーヌの日本行進曲集レコード発売記念座談会」に詳しい。

出席者は、須磨洋朔(陸上自衛隊中央音楽隊長)、辻 豊(朝日新聞企画部)、野宮 勲(東芝音楽工業文芸部)、秋山紀夫(バンドジャーナル編集部)、大石 清(同)の5氏。

主役は、フランス人を相手に丁々発止のやりとりをした朝日の辻さんと東芝のディレクターの野宮さんの2人。また、須磨さんは、公演で日本人の曲として唯一取り上げられ、東芝のセッションでも録音された『大空』の作曲者で、11月11日(土)の東京文化会館のコンサートでは、客演指揮者としてステージに上がられ、このマーチと『禿山の一夜』を指揮されている。

座談会記事によると、レコーディングに至る経緯は、およそ以下のようなものだ。

招聘元の朝日から話を聞いた東芝は、早速、朝日との間で独占録音契約を取り交わし、録音希望曲を日本のマーチ8曲に定めて楽譜を送付。しかし、この送付が、東芝→朝日→フランス大使館→フランス陸軍省→ギャルド・レピュブリケーヌという何ステップもある正式ルートを踏まねばならず、返答もこの逆をたどることから、夏頃に至っても受け取られたかのかどうか返事が来ず、念のため慌てて楽譜を再度揃えて送る破目になった。

しかし、2回目もとうとう返事が来ず、11月を迎えて彼らは日本には着いたが、本当に録音をやってくれるのかどうか、やきもきしながら準備を進めたのだという。

当然、日本側は、録音をやってくれるのかを楽長フランソワ=ジュリアン・ブラン(Francois-Julien Brun)に確認するが、“やらないとは言わない”との返答。

なにしろ、その日のコンサートの演奏曲目すら、当日にならないとはっきりしないこの楽団のことだ。座談会の野宮さんの弁によると、録音の確約がもらえたのは“なんと11月15日、吹込前日の夕方”だったそうだ。(“吹込”という言葉が時代を感じさせる!)

録音当日も、東芝録音チームは、午前10時からの音出し予定に備えてホールで待機。しかし、彼らがバスでホールに着いたのは、11時近く。

後年、仕事でご一緒することが多くなった東芝EMIの佐藤方紀さんら、野宮さんの後輩にあたる方々から聞いた話(即ち、東芝に伝わる伝説)によると、ここからの展開が傑作だ。

楽員到着からほどなくハイヤーで到着した指揮者フランソワ=ジュリアン・ブランは、にこやかな笑顔で野宮さんにこう訊いた。

『どうしても残しておきたい曲が3つあるが、録音してくれるかな?』

野宮さんが了承すると、ブランは11時30分から13時までを割いてその3曲を猛練習。さあ、いよいよ録音開始かと思ったところで、一同バスで新宿へ向かい、昼食タイム。当然、録音スタッフのイライラはもう最高潮!

しかし、15時すぎに戻ってきた彼らは、15時30分からのセッションで、これら3曲をすべてテイクワンで録り終えてしまった。野宮さんは、日本の習慣でセカンド・テイクをリクエストしたが、返ってきた言葉が『何度やっても同じ。』で、テイク終了!

この時、録音されたのが、後日発売されるやたいへん大きな話題となった『アルルの女』組曲第2番から“ファランドール”(ビゼー)、『牧神の午後への前奏曲』(ドビュッシー)、『ディオニソスの祭り』(フローラン・シュミット)の3曲だった。

セッションは、ここで、指揮者が副楽長レイモン・リシャール(Raymond Richard)に交代。東芝がリクエストしたマーチの録音が始まった。公演Bプロで演奏された『大空』以外は、彼らがこの日初めて見る譜面ばかりだった。

しかし、ここでもギャルドは伝説を作る。

『軍艦行進曲』(瀬戸口藤吉)で始まったセッションは、練習1回 – 本番1回のペースで、アッという間に6曲を録り終え、そこで彼らは、2曲を残したまま、ガサゴソと楽器を片付け始めてしまった。

慌てた野宮さんが理由を訊ねると、“つまらない”と答えが返ってきたそうだ。

社命により日本のマーチばかり8曲の録音をリクエストした最終結末がこれだった。当時、東芝も“吹奏楽=マーチ”で固まっていたから、これは仕方がない。一方のブランも、マーチの録音にはまったく興味がなかったのだろう。

東芝は、当初、広告にもあるように、片面にマーチ4曲ずつが入った計8曲入りの25センチ盤LPの発売を考えていたが、マーチが6曲しか録音できなかったため、2曲入りの17センチ・シングルと6曲入りのEP盤用に編集して、“全日本吹奏楽連盟推薦”盤としてそれぞれモノラル盤とステレオ盤をリリース。この日の録音から、マーチが入った計8種類のレコードが出来上がった。(6曲入りステレオEP: YDA-5001 / 発売: 1962年3月)

一方のブランが“どうしても残したい”と語った残る3曲は、それからしばらくたった1962年7月に25センチのステレオ盤LP(5SA-5003)でリリースされ、アッと言う間に売り切れ。品切れとなってしまった。

この中に、シュミットの『ディオニソスの祭り』が入っていた。

ひょっとして今もまだ続いているかもしれないが、吹奏楽に対するレコード会社の認識と演奏現場のニーズが見事なほどズレていた、今や昔の物語である。

▲シングル盤(モノラル) – 軍艦行進曲 – 君が代行進曲(Angel(東芝)、HJ-5001)▲シングル盤(ステレオ) – 立派な青年 – コバルトの空(Angel(東芝)、SA-7005)▲25センチLP(ステレオ) – GARDE EN STEREO(Angel(東芝)、5SA-5003)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第22話 ギャルド1961の伝説

▲初来日プログラム – 表紙

▲初来日プログラム – 表紙裏

▲初来日プログラム – 中表紙

フランスから“ギャルド・レピュブリケーヌ”が初来日したのは、1961(昭和36)年11月のことだった。

その年の11月3日から翌年の1月15日まで東京・上野の国立博物館で開催された「ルーブルを中心とするフランス美術展」の開幕を期して朝日新聞社が招聘したものだ。

当初は、煌びやかなユニフォームを身にまとい馬上演奏を行なうギャルドのバテリー・ファンファールの招聘が企画されたが、最終的にラ・ミュジーク(吹奏楽団)の来日となった。

滞在中使われたアーティスト名は、“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”。

指揮者は、楽長フランソワ=ジュリアン・ブラン(Francois-Julien Brun, Chef de la Musique et du Orchestre)と副楽長レイモン・リシャール(Raymond Richard, Captaine, Chef Adjoint du Orchestre)の2人で、来日したのは総勢76名。

彼らは、11月1日からの17日間の滞在期間中、美術展開幕のための公式儀礼特別演奏のほか、東京、大阪、八幡(福岡県)、京都、名古屋、高崎(群馬県)の6都市で計8回のフル・コンサートや公開講座、レコーディングなど、隙間が無いほどビッシリ組まれたスケジュールを精力的にこなした。

11/1(水) 来日(羽田空港着 エールフランス特別機)

11/2(木) 「ルーブルを中心とするフランス美術展」開幕式
(東京 / 国立博物館庭 / 屋外演奏)

11/3(金) ギャルド歓迎演奏会出演(東京厚生年金会館)

11/4(土) 公開講座(東京 / 朝日講堂)

11/5(日) コンサート(東京文化会館) Aプロ

11/6(月) コンサート(大阪 / フェスティバルホール) Aプロ

11/7(火) 公開講座(大阪 / 朝日講堂)

11/8(水) コンサート(福岡県八幡 / 八幡製鉄体育館) Bプロ

11/9(木) コンサート(京都会館) Bプロ

11/10(金) コンサート(名古屋市公会堂) Cプロ

11/11(土) コンサート(東京文化会館) Bプロ

11/12(日) 第9回全日本吹奏楽コンクール特別演奏
(東京 / 台東体育館)

11/13(月) ソニー工場訪問 / サクソフォン・カルテット演奏
サヨナラ・コンサート(東京体育館)  Cプロ

11/14(火) 皇居内、宮内庁楽部訪問 / 日管工場訪問

11/15(水) コンサート(高崎 / 群馬音楽センター) Aプロ

11/16(木) レコーディング(東京 / 杉並公会堂)
レセプション(朝日新聞社会長宅)

11/17(金) 離日(羽田空港発 エールフランス特別機)

全日本吹奏楽連盟が共催したこのツアーは、羽田空港到着時の陸上自衛隊中央音楽隊および大田区中・高連合バンドによる歓迎演奏(11/1)に始まり、陸海空自衛隊や東京藝大、連盟所属の中・高吹奏楽部による歓迎演奏会(11/3)、帰国時のソニー吹奏楽団による送別演奏(11/17)まで、主に東京圏の連盟をあげてのサポートとなった。

これは、吹奏楽連盟として前例がないほどの歓迎ぶりであり、この時、実際にナマ演奏に接した興奮と熱狂は、1962年1月発行の「バンドジャーナル」(第4巻第1号 / 音楽之友社)の特集「ギャルドを聞いて」で、専門家から中学生まで、実に多くの人々の筆でアツく語られることになった。

事前発表されていたプログラムは、つぎの3つだった。

A:歌劇「タンホイザ―」序曲(ヴァーグナー)、トッカータとフーガ 二短調(バッハ)、歌劇「イーゴリ公」から“ダッタン人の踊り”(ボロディン)、交響曲第9番「新世界から」(ドヴォルザーク)、「アルルの女」組曲第1番(ビゼー)、牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)、英雄行進曲(サンサーンス)

B:「ハンガリー狂詩曲」第2番(リスト)、歌劇「ウィリアム・テル」序曲(ロッシーニ)、行進曲「大空」(須磨洋朔)、交響詩「禿山の一夜」(ムソルグスキー)、序曲「ローマの謝肉祭」(ベルリーズ)、ボレロ(ラヴェル)、「アルルの女」組曲第2番(ビゼー)

C:交響詩「レ・プレリュード」(リスト)、歌劇「魔弾の射手」序曲(ウェーバー)、歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲(ヴァーグナー)、イタリア奇想曲(チャイコフスキー)、歌劇「ゴエスカス」から“間奏曲”(グラナドス)、歌劇「カルメン」抜粋(ビゼー)、スペイン狂詩曲(シャブリエ)

しかし、実際には、曲順も含め、プログラムはしばしば差し替えが行われ、まるでサプライズのようにレスピーギの交響詩「ローマの松」(全曲)やファリャの「三角帽子」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、シュミットの「ディオニソスの祭り」が取り上げられ、「ダフニスとクロエ」は第9回全日本吹奏楽コンクールの特別演奏でも演奏された。

東京の3公演については、赤松文治さんが自費出版された労作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」(1988 / 制作:音楽之友社)に詳細に記述されている。

アンコールが「ハンガリー狂詩曲」第2番だったこともあった!

演奏レパートリーは、シュミットを除き、大部分が管弦楽からのトランスクリプションだったが、多くがその後の日本の吹奏楽レパートリーにつぎつぎととり入れられていった事実1つをとっても、この初来日時の印象が、まるで一種の衝撃波のように日本列島の隅々まで伝わっていったことがよくわかる。

また、11月5日(日)の東京文化会館のコンサートは、NHKがテレビ収録。ラジオ用のステレオ音声収録も同時に行なわれ、まず、11月10日(金)、午後8時30分から、AMラジオの“NHK第1放送”と“NHK第2放送”の同時放送によるステレオ30分番組「夜のステレオ」で、「トッカータとフーガ」、「ダッタン人の踊り」「ファランドール」(アルルの女から)を放送。演奏会一週間後の11月12日(日)には、総合テレビで午前11時30分からの30分番組「音楽のひととき」で、「牧神の午後への前奏曲」、「英雄行進曲」、「ファランドール」(同)が放送された。当時の新聞番組欄には、「ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団演奏会 牧神の午後への前奏曲」他、とある。

その後、11月26日(日)には、教育テレビ、午後8時からの2時間番組「芸術劇場」で、「ウィリアム・テル序曲」、「ハンガリー狂詩曲」 第2番、「ボレロ」、「ローマの松」が、12月3日(日)にも、札幌エリアを除き、総合テレビ、午前11時30分からの「音楽のひととき」で、「ウィリアム・テル序曲」と「ファランドール」が放送されている。

NHKは、当時すでにビデオレコーダーを使っていたのだ。

元NHKプロデューサーで古くからの友人である梶吉洋一郎さんにこの件を確認すると、当時ギャルドのテレビ番組があったことに驚きながらも、『この頃には、もうあった。当時は、白黒映像で音声はモノラル。しかし、ビデオテープがひじょうに高価だったため、一度使ったテープを使いまわししていた時代だから、もう番組映像は残っていないハズ。』との回答を得た。NHKの看板番組の“大河ドラマ”まで放送後に消して、別の番組の収録に使っていた時代だ。この映像が出てくることは、恐らくもうないだろう。

NHKは、11月11日(土)の東京文化会館のコンサートもラジオ用にステレオで音声収録し、テレビ放送もあった12月3日(日)、ほぼ同時刻の午前11時からAMラジオによる1時間番組「立体音楽堂」としてオンエアされた。当時の新聞番組欄には、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団演奏会から 序曲「ローマの謝肉祭」(ベルリオーズ)、交響詩「ローマの松」(レスピーギ)、ボレロ(ラヴェル)の3曲の曲名が載っている。

さらに、年を開けた1962年2月25日(日)、午前11時からの「立体音楽堂」でも、「ハンガリー狂詩曲」第2番、「大空」、「はげ山の一夜」、「アルルの女 組曲第2番」が放送されている。

「立体音楽堂」は、FMステレオ放送の登場以前にあった人気番組で、AMラジオ(モノラル放送)の“NHK第1放送”と“NHK第2放送”から、それぞれステレオ音源の片チャンネルの音を出し、リスナーはラジオを2台準備して、一方を“第1放送”に、もう一方を“第2放送”にチューニングしてステレオで愉しむという、とても野心的な放送だった。

(以上2本の「立体音楽堂」は、FMの実験放送でも同時刻にモノラル放送されている。)

AM2波を使ったステレオ放送の欠点は、ラジオが1台しかない場合、辛抱して片チャンネルだけを聴かねばならないということだったが、AMラジオの電波を1波しか持たない民放もNHKのこの動きに追従し、例えば日本放送と文化放送というように、他局とタッグを組んで音楽番組をステレオ放送で流すことも実際に行われていた。

ただ、実際には、全てのリスナーがまったく同じ性能のラジオを2台揃えていることは有り得なかった。このため、ステレオ放送の魅力を体現するためにAMチューナーを2つ備えたラジオが発売されたこともあった。

我が家には、何故か、この番組を聴くための同じ型のAMラジオが2台あり、オーディオ好き、音楽好きの父が、仕事の無い日曜に、嬉々としてNHKのステレオ番組を愉しんでいた記憶がある。少年時代の筆者も、訳が分からないまま、いつも座布団に正座して聴かされた。ギャルドが来日時にレコーディングしたEPレコードもあった。

いずれにせよ、記憶は遠くなりにけり。

1990年代にNHK-FM「ブラスのひびき」のコメンテーターをつとめさせていただいた時、スタジオや収録現場でお世話になったベテラン・スタッフから、まるで少年のように嬉々とした顔で聞かされたギャルドと向き合った時の興奮と臨場感あふれるストーリー。

その語り部たちの多くもすでに故人となった。

1961年のギャルド初来日は、今や歴史の1コマ、伝説と化してしまったのかも知れない。

▲昭和36年11月7日(火) 朝日新聞 夕刊3版4面

▲昭和36年11月12日(日) 朝日新聞 朝刊12版9面

▲昭和36年12月3日(日) 毎日新聞 朝刊13版9面

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第21話 ジェイガーがやってきた

▲LP – 第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会(非売品、YB-1001)

『交響曲第1番(Symphony No.1 for Band)』の作曲者ロバート・E・ジェイガーが日本にやってきたのは、1975年のことだった。

この年、「昭和50年度 日本バンドクリニック(吹奏楽指導者講習会)」(主催:日本バンドクリニック委員会、日本楽器製造)のゲスト講師として招かれたジェイガーは、大阪(3/25~3/26)、名古屋(3/28~3/29)、東京(4/2~4/3)の3都市で開催された各2日間の日程のクリニックで、モデルバンドの東京佼成ウインドオーケストラを音のパレットに、自作を用いた“リハーサル・テクニック”や“フェスティバル・コンサート”で指揮を行なった。

▲昭和50年度 日本バンドクリニックの案内

ジェイガーは、このとき、すでに『シンフォニア・ノビリッシマ(Sinfonia Nobilissima)』が広く演奏され、日本でも人気作曲家となっていたが、クリニックで扱われた『交響曲第1番』や他の作品を通じ、彼の音楽の魅力を再認識した指導者も多かった。

(名古屋~東京の間には、福岡にも足を延ばしてクリニックを行っている。)

その後、4/6(日)、東京・日比谷公会堂で開催された「第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会」にも登場。第3部で自作の『組曲第3番(Third Suite)』を客演指揮した。

このコンサートは、浜松のヤマハ吹奏楽団が初めて東京で行ったコンサートというだけでなく、ジェイガー以外にも、岩城宏之(指揮)、宮本明恭(フルート / NHK交響楽団)、戸部 豊(トランペット / 新日本フィル)、塚本紘一郎(サクソフォン / ニュークールノーツ)という豪華な顔ぶれが客演した、たいへん話題を呼んだコンサートだった。

▲第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会の広告

注目すべきは、ジェイガーが臨席したこのコンサートで、原田元吉の指揮で『交響曲第1番』全曲が演奏されたことだ。

指揮の原田さんは、東京藝術大学在学中の1957年以降、NHK交響楽団テューバ奏者として活躍。1965年から1985年までヤマハ吹奏楽団の常任指揮者もされていた。

そして、幸いにも、作曲者が立ち会ったこの日の演奏は、ヤマハ音楽振興会によってライヴ・レコーディングされ、ヤマハ吹奏楽団の自主制作でレコード化(非売品、YB-1001)された。

「第10回ヤマハ吹奏楽団特別定期演奏会」と題するこのレコードには、第1部冒頭に演奏された『交響曲第1番』のほか、ジェイガー自身が指揮した『組曲第3番』第1楽章、この演奏会のために兼田 敏に委嘱された『交響的瞬間』の初演(指揮:原田元吉)、岩城宏之が指揮したリストの交響詩『レ・プレリュード』の4曲が収録されていた。

21世紀の現時点から見ると、これらは正しく“歴史的証人”的アーカイブだ。

幸いなことに、その後、CBSソニーが同じライヴ録音ほかを使ったアルバム「ヤマハ吹奏楽団イン・コンサート」(CBSソニー、20AG 195 / 1977.7新譜)を企画してリリース。

この日のライヴからは、ジェイガーの『交響曲第1番』、戸部 豊のトランペット独奏によるフンメルの『トランペット協奏曲』、塚本紘一郎のサクソフォン独奏によるフランシス・レイ / 岩井直溥編の『ある愛の詩』がピックアップされた。

▲LP – ヤマハ吹奏楽団イン・コンサート(CBSソニー、20AG 195)

マスタリング等の違いから、ヤマハ吹奏楽団の自主制作盤とCBSソニー盤のサウンドは、かなり違う。自主制作盤からは、マイクが拾ったナマナマしい当日の空気がダイレクトに伝わってくる一方、CBSソニー盤からは、ソニーらしく整音された立体感のある音が飛びだしてくる。

いずれにせよ、カップリングが違い、サウンドの好みの問題は確かに残るが、この2枚のレコードが、ジェイガーが臨席した時のこのシンフォニーの日本における最初期の姿を今に伝えることになった意義は、ひじょうに大きい。

ご承知のとおり、ジェイガーは、その後、クリニックで共演した東京佼成ウインドオーケストラの委嘱により、交響曲第2番『三法印』(1976年)を作曲。これ以降、自身も、1963年のシンフォニーを“Symphony No.1 for Band”と呼ぶようになった。第20話に登場する「Band Music Notes」(Revised Edition / Kjos、1979)に本人が書いたプログラム・ノートの曲名表記も実はそう変わっていた。

米Volkweinから出版されたときの英題は、確かに“Symphony for Band”。日本では、今でもオリジナル原題の邦訳にこだわる人も多いが、同じ作曲者の交響曲が2曲になってから相当な年月が流れ、そろそろ作曲者の意を汲んでいい時代になったのではないだろうか。

2017年12月16日(土)、JMSアステールプラザ大ホール(広島市)で開催された下野竜也指揮、広島ウインドオーケストラの「シカゴ ミッドウェストクリニック壮行公演 第48回定期演奏会」での曲名表記も『交響曲第1番』となっていた。もう大正解だ。

『交響曲第1番』は、さまざまな事情から、今では3種類の楽譜が存在する。

“温故知新”とは使い古された言葉だが、少なくともジェイガーのこのシンフォニーを手掛けられる際には、ぜひにもこの言葉を思い出していただければと思う。

▲広島ウインドオーケストラ「シカゴ ミッドウェストクリニック壮行公演 第48回定期演奏会」プログラム]表紙と曲目

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第20話 ジェイガー:交響曲第1番

▲ロバート・E・ジェイガー(1990年代、作曲者提供)

日本が初の東京オリンピック開催に向かって邁進していた1963年、アメリカでは、ウィンド・ミュージックの新時代到来を確かに告げる1曲のシンフォニーが産ぶ声をあげようとしていた!

ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager / 1939~)の『交響曲第1番(Symphony No.1 for Band)』(発表当時の原題:Symphony for Band)がそれだ。

後に、この曲が入った3種のレコーディングと関わり合い、事あるごとに作曲者とやりとりを交わすことになった筆者としてもたいへん縁の深い作品だ。

交響曲は、4つの楽章で構成される。

第1楽章:Andante espressivo – Allegro – Andante

第2楽章:Alla Marcia

第3楽章:Largo espressivo

第4楽章:Allegro con fuoco – Andante – Allegro molto vivace

“徴兵制度”があった時代のアメリカの音楽家には似たような例が山のようにあるが、ジェイガーも、徴兵によりミシガン大学での音楽教育学の勉強を一時中断し、アメリカ海軍にいた時代がある。(1966年1月に復学し、1968年8月に修了。)

『交響曲第1番』は、アメリカ海軍音楽学校(The U.S. Naval School of Music)で音楽理論のインストラクターをつとめていた頃に書かれた作品で、結婚したばかりの1963年2月から11月にかけて作曲された。

作曲者は、この頃、プロコフィエフやショスタコーヴィチの音楽に傾倒しており、この交響曲からもそんな匂いがプンプン漂ってくる。

余談ながら、アメリカ海軍音楽学校は、もとはワシントンD.C.にあったが、1961年からアメリカ海軍ノーフォーク海軍基地にほど近いヴァージニア州ヴァージニア・ビーチ、リトル・クリークへの移動が始まり、1964年8月に移動を完了。アメリカ陸軍のミュージシャンも受け入れていていた事情もあり、アメリカ軍音楽学校(The U.S. Armed Forces School of Music)と改称した。どちらかと言えば今も後者の名で広く知られているが、改称は移動と並行して行われたので、2つの校名が同じ時期に存在した。

ジェイガーの近年のプロフィールでは、“アメリカ海軍の一員としてアメリカ軍音楽学校のスタッフ・アレンジャーとして従事した”という記述が使われている。

この交響曲が完成した時点では、ジェイガーが配属されていた部署は、すでにリトル・クリークに移っていた。

完成後、この作品は、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(American Bandmasters Association)のオストウォルド作曲賞(Ostwald Award)に応募され、エントリー70曲の応募作の中から第1位に選ばれた。

この応募に際しては、A.B.A.会長で作曲賞委員会の委員長でもあったポール・ヨーダー(Paul Yoder)に電話を掛けて“応募の締切がいつか”を訊ねたところ、“その日の夜”ということを知り、ワシントンD.C.まで車をとばして試奏をするアメリカ陸軍バンド(The United States Army Band “Pershing’s Own”)にまで楽譜を届けたというエピソードがよく知られている。また、応募に必要な推薦人にも、同じく“締切がさし迫っている”という理由からヨーダー自身が引き受けてくれるという幸運にも恵まれた。

受賞の報せは、年を明けた1964年2月、アメリカ陸軍バンドの隊長サミュエル・R・ロボダ(Colonel Samuel R. Loboda)から電話でもたらされ、発表は、同年3月6~9日、テキサス州サン・アントニオで開催されたA.B.A.のコンベンションの席上、行われた。

その場に臨んだジェイガーは、作曲賞のスポンサーであるアドルフ・オストウォルド(Adolph Ostwald)から賞金750ドルを贈られるととともに、初演を聴きに行くための費用一切を保証された。蛇足ながら、本人に少し突っ込んで質問したところ、『その時、賞状や認定書の類いは一切なく、手元には何もない。』という返答が返ってきた。わかりやすく言うと、受賞はアナウンスによる発表だけだったということだ。

公式初演は、1964年6月9日(火)、ワシントンD.C.の“ザ・ウォーターゲート(The Watergate)”で催されたアメリカ陸軍バンドの火曜恒例のイブニング・コンサートで、ギルバート・ミッチェル(Captain Gilbert Mitchell)の指揮で行われた。翌日のワシントンポスト(The Washington Post)紙で批評家ポール・ヒューム(Paul Hume)が、イブニング・スター(The Evening Star)紙でウェンデル・マーグレープ(Wendell Margrave)が賞賛。大成功を収めた作品は、初演指揮者のミッチェルに献じられた。

▲初演プログラム(作曲者提供)

▲The Washington Post、1964年6月10日(作曲者提供)

この受賞は、当然ジェイガーの音楽学校内の立場にもいい影響をもたらした。音楽理論のインストラクターからスタッフ・アレンジャーになれたのも、この成功のおかげだったとのちに語っている。

『交響曲第1番』の日本初演は、アメリカでの初演の3年後の1967年6月8日(木)、東京文化会館大ホールで開催された「東京藝術大学音楽学部第31回吹奏楽定期演奏会」で、山本正人の指揮で行われた。

当時のプログラムには、「バンドのための交響曲」(R. E. ジャガー)と印刷されていたが、この頃は、自国アメリカでも自分の名前をちゃんと呼んでもらえたことはほとんどなかったという。それこそ“ジャガー”とか“イェーガー”とか。

▲「東京藝術大学音楽学部第31回吹奏楽定期演奏会」プログラム

その後、1968年5月28日(火)、大阪・毎日ホールにおける「大阪市音楽団第17回定期演奏会」でも、辻井市太郎の指揮で演奏されており、このあたりが、日本における第一次演奏ブームだった。

しかし、4楽章構成で演奏時間が20分を超える当時としては規模の大きな作品だ。

全曲が収録されたアメリカ初の商業レコードについては、残念ながら正確な情報を持ち合わせない。有名なシュワン(Schwann)など、1960年代のカタログ類などを精査してもアメリカのメジャー・レーベルがレコード化した形跡はどこにもなかった。

インディーズとしては、ノーマン・スミス(Norman Smith)とアルバート・スタウトミアー(Albert Stoutamire)の共著「Band Music Notes」(Revised Edition / Kjos、1979)に掲載されているジェイガー自身のブログラム・ノートに付属データとして載っているウェイン・ぺグラム(Wayne Pegram)指揮、テネシー工科大学バンド(Tennessee Tech University Band)のものが、最初期の録音の1つだと思われる。

▲Band Music Notes – Revised Edition(Kjos)

“テネシー・テック”の通称で知られるテネシー工科大学(Tenessee Technological University)は、ジェイガーが1971年から2001年まで30年にわたり教鞭をとった大学だ。指揮のウェイン・ぺグラム(1938~2010)も、1968年から35年間、同大学のバンド・ディレクター(Director of Bands)をつとめ、1970年代には、アメリカの出版社ハル・レナードの録音を手掛けている。

前記「Band Music Notes」には、レコードの問い合わせ先として、大学バンドの住所が明示されている。筆者自身は入手に失敗したが、作曲者が関係した録音だけに、21世紀の今頃になって、もっと粘り強く頑張っていればよかったと大いに反省している。

人生の痛恨事の1つである。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第19話 世界のブラスバンド

 

▲LP – 世界のブラスバンド<第1巻>行進曲編(日本ビクター(Philips)、SFL-9060~61)

▲LP – 世界のブラスバンド<第2巻>ポップ・コンサート編(日本ビクター(Philips)、SFL-9062~63)

▲LP – 世界のブラスバンド<第3巻>クラシカル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9064~65)

▲LP – 世界のブラスバンド<第4巻>オリジナル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9066~67)

▲LP – 世界のブラスバンド<別巻>コンサートのためのアンコール集(日本ビクター(Philips)、SFL-9068~69)

1967年、日本コロムビアがリリースしたEP3枚の「楽しいバンドコンサート」が、レコード各社に与えたインパクトは大きかった。

なにしろ、“吹奏楽=マーチ”というイメージで凝り固まった各社が“マーチさえ出しておけば、それでよし!”とさえ考えていた中での登場である。しかも、第18話でお話ししたように、収録された9曲が国内初登場の“マーチ以外の楽曲”ばかり!! その上、すべてが新録音ときた!!

何もかも、想定外の出来事だった。

日本ビクターでも、負けてはならじと新たな吹奏楽アルバムの企画が立ちあがった。

契約レーベルのフィリップスの豊富な録音ソースを活用して、アメリカ、イギリス、フランス、オランダ、ドイツの有名吹奏楽団の演奏によるテーマ別の2枚組4タイトル(LP8枚)を作ろうという全集プロジェクトである。

全集のタイトルは、「世界のブラスバンド」!?!?

<第1巻>行進曲編 (日本ビクター(Philips)、SFL-9060~61 / 1968年9月新譜)
<第2巻>ポップ・コンサート編(日本ビクター(Philips)、SFL-9062~63 / 1968年10月新譜)
<第3巻>クラシカル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9064~65 / 1968年11月新譜)
<第4巻>オリジナル・ブラス編(日本ビクター(Philips)、SFL-9066~67 / 1968年12月新譜)

という、月に1タイトルの発売ペースで4ヵ月で完結する、当時としてはスケール感のある企画だ。

レコード編成の中心人物は、後にカメラータ・トウキョウを立ち上げられ、レコード関係の著作も多い若き日の井阪 紘さんだった。

ビクターがここまでリリースしてきた吹奏楽レコードは、基本的にほとんどマーチだった。しかし、今度は、コロムビア盤の登場後の企画である。

実際に吹奏楽を行なっている現場の人々とレコードの企画があまりにもかけ離れているのではないかと考えた氏は、まず「バンドジャーナル」誌の山田編集長を訪ね、ついで全日本吹奏楽連盟事務局の斎藤好司、理事の広岡淑生、音楽解説者の赤松文治、大石 清、指揮者の朝比奈 隆、山本正人、春日 学の各氏に意見を求めてまわった。

井阪さんは、当時「バンドジャーナル」誌(音楽之友社)への寄稿“世界のブラスバンドを企画して”(1968年)の中で、日本のアマチュア・バンドが、リヒャルト・シュトラウスやショスタコーヴィチまで演奏しているとは夢にも思ってなかったという率直な感想を吐露され、“やはり良くわかっていなかったのである”とも書かれている。

吹連理事の広岡さんは、フィリップスのバンド・レコードのほとんどに耳を通された後、当時の現場の空気がよく伝わる一文が寄せられている。

<第3巻>のジャケットに掲載されたその一部を引用すると…

『吹奏楽人口は相当な数にのぼり吹奏楽演奏会の聴衆はそれらしい若い人達が一杯で、そうした聴衆が仲々聴く耳を持って批評の一つも云うから頼もしいものです。所でレコードではと言うと行進曲がバンドのレコードとしか理解されていない様で、これはレコード会社の宣伝不足というところでしょう。戦後の吹奏楽人口は景気のよい行進曲が大衆向きであるというのではなく吹奏楽の芸術性を論じたり、新しい曲目を迫ったり演奏上の細かい点まで聴き入って楽しみ、いつまでも行進曲を喜んでいる人々ではないのです。このシリーズでも先づ行進曲のようですが次に続くレコードには新しい吹奏楽レコードや今迄発売されていなかった名盤によって愛好家の要望に対し期待にそうように企画されています。』(原文ママ)

レコード会社への苦言と期待の両面が込められた情熱あふれる推薦文だ。

赤松文治さんに話をうかがわれた際には、同社がリリースしたばかりの「ESSSプレゼンツ・スーザ・マーチ」(日本ビクター(Philips)、45X-103 / 演奏:ジェームズ・H・ハウ指揮、スコッツ・ガーズ・バンド)について、オリジナル盤(英Fontana、STL 5428 / 原盤タイトル:King Sousa!)から2曲、『飛行士(Aviator)』と『ライト・フォワード(Right Forward)』をカットして発売したが、そのカットした2曲が実は当時スーザ・ファンが最も興味を持っていたLPレコード世界初登場の曲だったと指摘された。これについても“知らぬこととは言え……”と、前記寄稿の中で失敗談として書かれている。とても実直な方だ。

“ESSS高音質シリーズ”が、通常のLPよりもターンテーブルの回転速度が速い45回転(シングル盤と同じ回転速度)を採用していたため、レコード面に収録できる時間が短かく、物理的に何曲かカットせざるを得なかったために起こった悲劇だった。

赤松さんは、戦前から音楽解説をなさっていた大先輩だ。筆者もいろいろと教えを乞うたことがあり、この“キング・スーザ・カット事件”も、東京・永田町のご自宅におじゃましたときに直接うかがった。そのときのとても残念そうに話される姿を今もよく覚えている。

(個人的には、日本盤ジャケットに使われた写真が、スコッツ・ガーズではなく、ライバルのコールドストリーム・ガーズだったのも気になった。要はよく知らなかったということだが…。)

▲LP – ESSSプレゼンツ・スーザ・マーチ」(日本ビクター(Philips)、45X-103)

▲LP – King Sousa!(英Fontana、STL 5428)

赤松さんの指摘に対して、ビクターは、カットした『飛行士』を新企画の「世界のブラスバンド<第1巻>行進曲編」のディスク-2(SFL-9061)のA面トラック-2に収録。もう1曲の『ライト・フォワード』は、1969年4月新譜の「スーザ・スペシャル」(日本ビクター(Philips)、SFX-7155 / 原盤タイトル:Sousa Specials!)という、同じスコッツ・ガーズ・バンドが演奏する新録音のスーザ・マーチ集のA面のラストに、トラック-7として追加し、スーザ・ファンの期待に応えた。

これは、レコード編成者の良識的判断として称えられるかもしれない。

3枚のアルバムを買うことにはなるが、とにかく「King Sousa!」収録の全曲が日本国内で購入できるようになったのだから。

そんな予想外のハプニングこそあったが、広岡淑生監修、全日本吹奏楽連盟推薦、日本吹奏楽指導者協会推薦、全日本学校吹奏楽研究協議会推薦という文字が躍る日本ビクターの「世界のブラスバンド」は、発売されるやひじょうに大きな成功を収めた。

それは世界の有名バンドの演奏をより身近なものにし、4巻完結後の1969年7月に<別巻>として「コンサートのためのアンコール集」(日本ビクター(Philips)、SFL-9068~69)が追加リリースされることにも繋がった。

▲当時のレコード・カタログから(年-月表示は、カタログ掲載月)

一方、筆者個人は、このシリーズにたいへん残念な思いをしている。

筆者が購入した<第1巻>のディスク-1のA面トラック-4には、ジャケットに印刷されたジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa)の『自由の鐘(The Liberty Bell)』の代わりに、フジテレビ系列テレビのスポーツ番組のテーマとしておなじみだったアール・E・マッコイ(Earl E. McCoy)の『ライツ・アウト(Lights Out)』が入っていた。

大阪では、20~30円もあればおいしい“きつねうどん”を食べることができた時代だ。そんな時代に買った定価3000円のアルバムだけに、さすがにムッときて、すぐ“曲名表示と違う曲が入っているんですが…”とビクターにクレームの手紙を出した。すると、制作セクションの課長さんから、ていねいなお詫びの返信が届いた。それによると、プレスの際に原盤番号を取り違えたとの説明で、“表示曲目どおりのものと交換します”と書かれていた。

当然と言えば当然の対応だが、いろいろ考えた挙句、“交換しない”と決めた。なんとなく、この種の“エラーもの”が、またとないコレクターアイテムになると感じたので!!

しかし、つぎに買った<第2巻>では、ディスク-2(SFL-9063)のB面トラック-2の『アレルヤ』(モーツァルト)とトラック-3の『カレリヤ』間奏曲(シベリウス)の曲順が逆になっていた!

これにはさすがに気が滅入った。どうしてこんなことがたて続けて起こるんだ!

いろいろ調べる内、このシリーズのアルバムが、すべて複数タイトルのアルバムからのコンピレーションで作られていることに気がついた。

例えば、フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)の演奏が収められている<第1巻>行進曲編のディスク-1(SFL-9060)は、一部モノラル音源を含む以下のようなアルバムからコンピレーションされていた。

《A面》

1 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

2 – 米Mercury、SR 90207 Hands Across the Sea

3 – 米Mercury、SR 90314 Screamers!

4 – 米Mercury、SR 90264 Sound Off!

5 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

6 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

《B面》

1 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

2 – 米Mercury、MG 40007 / 50080 Marches

3 – 米Mercury、MG 40007 / 50080 Marches

4 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

5 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

6 – 米Mercury、SR 90105 Marching Along

▲LP – Marches(米Mercury、MG 40007)

▲LP – Marching Along(米Mercury、SR 90105)

▲LP – Hands Across the Sea(米Mercury、SR 90207)

▲LP – Sound Off!(米Mercury、SR 90264)

▲LP – Screamers!(米Mercury、SR 90314)

信じられない事故は、編集時もしくはプレスの際に起こっているに違いなかった。

それなら、そんな心配のない海外オリジナル原盤を買えばいい!!

そう考えた筆者は、その後、<第3巻>以降をすぐには購入せず、外国盤や海外通販店の情報を片っ端から集める内、外国盤を海外オーダーするようになっていた。結果、少し時間はかかったものの、「世界のブラスバンド」LP10枚の収録曲のほとんどを原盤で聴くようになった。

プレスの違いからくるサウンドの違いも新鮮だった。日本盤ではカットされた曲にも“聴きもの”がいっぱいあった。これは大きな収穫だった。

(余談ながら、筆者が、資料として<第3巻>と<第4巻>を入手したのは、21世紀になってからだった。)

井阪さんは、同じ寄稿の中でこうも書かれている。

『だいたい、レコード編成者の使う「ブラス・バンド」という言葉は、実に不正確な使い方をしていることが多く、大半はミリタリー・バンドの演奏するマーチをさしており、今度のタイトルも「世界のブラス・バンド」としてみたもののこれでは金管のいわゆるブラスばかりのレコードとまちがわれるのではないかと今になって冷や汗をかいている次第である。』(原文ママ)

“音楽文化の発展は、レコード会社が担っている”と自負する1960年代の日本のレコード会社の一般認識を伝える貴重な証言だ。

とくにビクターは、吹奏楽のアルバムに“ブラスバンド”という表現を好んで使っていたから。

イギリスのブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)や他国のブラスバンドが、つぎつぎ来日するようになった今、この同じタイトルを吹奏楽(ウィンドオーケストラ)のCDに使うのは、かなりの勇気がいるだろう。

21世紀の今あらためて見ると、曲目一覧ページに作曲者や編曲者の情報が一切なく、解説にたどり着くまで一体誰の曲かさっぱりわからないという“使い勝手の不自由さ”があったり、演奏者名や曲名に細かいチェック・ミスがあったり、叩けば埃が出るような残念な点も散見されるが、ともあれ、日本ビクターの「世界のブラスバンド」は、それまでマーチ以外の曲が国内発売されることがなかったイーストマン・ウィンド・アンサンブルやオランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)、スコッツ・ガーズ・バンド(The Regimental Band of the Scots Guards)など、世界の有名バンドが演奏するクラシックやオリジナルをはじめて国内に紹介することになった。

イーストマンで言うなら、1959年10月23日録音のアルバム「Wagner for Band」(米Mercury、SR 90276)から、ヴァーグナーの歌劇『リエンツィ』序曲、歌劇『ローエングリン』から“第三幕への前奏曲”と“エルザの大聖堂への行列”、楽劇『ラインの黄金』から“ワルハラ城への神々の入城”、同年10月24日収録のアルバム「Ballet for Band」(同、SR 90256)から、グノ―の歌劇『ファウスト』の“舞踏音楽”、1955年10月5日モノラル録音を疑似ステレオ化した「Folksong Suites & Other British Band Classics」(同、SR 90388)からホルストの『組曲第1番』『組曲第2番』、ヴォーン=ウィリアムズの『イギリス民謡組曲』、1958年3月2日録音のアルバム「Winds in Hi-Fi」(同、SR 90173)から、グレインジャーの『リンカーンシャーの花束』、1959年3月3日録音のアルバム「West Point Symphony – American Masterpieces for Concert Band}(同、SR 90220)から、クリフトン・ウィリアムズの『ファンファーレとアレグロ』など、マーチ以外の曲が国内初出となった。

その他、フィリップスと専属契約のあったオランダ海軍に、川崎 優の行進曲『希望』、大栗 裕の『吹奏楽のための小狂詩曲』、塚原哲夫の『吹奏楽のための幻想曲』、團 伊久磨の『祝典行進曲』の4曲を依頼録音し、<第4巻>に収録したことは、大きく評価されるべきことだろう。

個人的には、このシリーズは、海外に大きく目と耳を向けさせるきっかけとなった。

そして、そこには、まだ知らぬ豊かな音楽の世界が広がっていた!

 

 

▲LP – Ballet for Band(米Mercury、SR 90256)

▲LP – Wagner for Band(米Mercury、SR 90276)

▲LP – Folksong Suites & Other British Band Classics(米Mercury、SR 90388)(疑似ステレオ)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第18話 楽しいバンドコンサート

▲吹奏楽楽譜 – オリンピック・マーチ(出版:イースタン・ミュージック)

1964年の東京オリンピック開催決定は、日本社会のあらゆる分野、人心に大きな興奮と活気をもたらした。

音楽業界も時流に乗り遅れるなとばかり、オリンピック関連の曲がつぎつぎと作られ、レコードが売り出された。

吹奏楽のジャンルでも、オリンピック東京大会組織委員会(OOC)と日本放送協会(NHK)の共同制作で、開会式等で演奏される古関裕而の『オリンピック・マーチ』と今井光也の『オリンピック東京大会ファンファーレ』が作曲された。

レコード各社も、先を争うようにこれらを録音したが、開会式の演奏を担当することが決まった陸上、海上、航空の3自衛隊音楽隊は、引っ張りだこで、日本ビクターを除く各社の録音を担った。ビクターは、第16話でお話ししたとおり、レーベル契約のあったオランダのフィリップス・レーベルを通じて、オランダ王国海軍バンド(日本ビクターのアーティスト名:ロイヤル・ネヴィー・バンド)への新録音の依頼となった。

ともあれ、東京の国立競技場で世界から集った選手たちによる大入場行進があるという話は、レコード会社にとってひじょうに刺激的で魅力的な話だった。NHKのスポーツ・テーマである古関裕而の『スポーツショー行進曲』を“運動会用行進曲”として発売(SP盤:AK-29、モノラル盤シングル:BK-143 / SP盤の曲名は“スポーツショウ行進曲”)し、隠れたベストセラーになっていた日本コロムビアの学芸部も当然色めきたった!

▲モノラル・シングル – 運動会用行進曲 (日本コロムビア、BK-143)

コロムビアは、既発売盤のカップリングを組み替えたり、新録音を加えるというスタイルでマーチのシリーズ・プロジェクトをスタート。オリンピック3ヵ月前の1964年7月新譜で「世界国歌全集」7タイトル(ASS-10001 ~ ASS-10007)と「世界マーチ集」30タイトル(ASS-10008 ~ ASS-10037)を、9月新譜で「世界マーチ集」続篇15タイトル(ASS-10038 ~ ASS-10052)をリリース。オリンピック後の1965年7月新譜でも「世界マーチ集」にさらに10タイトル(ASS-10053 ~ ASS-10062)を加え、最終的にEPレコード(17センチ盤)全62タイトルをマーケットに送り出した。

▲EP – 世界マーチ集 イギリス・マーチ(1)(日本コロムビア、ASS-10029)

▲EP – 世界マーチ集 日本マーチ(6)(日本コロムビア、ASS-10051)

演奏アーティストは、東京吹奏楽団(指揮:山本正人)、大阪市音楽団(指揮:辻井市太郎)、陸上自衛隊中央音楽隊(指揮:齋藤徳三郎)、海上自衛隊東京音楽隊(指揮:片山正見)、東京消防庁音楽隊(指揮:内藤清五)に、来日時のアメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(指揮:ジョージ・ハワード)を加えた各バンド。

3年後の1968年6月には、ベスト盤LP(30センチ盤)として「決定盤 これが世界のマーチ! その1 ~ その3」(EDS-6、EDS-7、EDS-8)というネーミングの3タイトルもリリース。同年8月の2枚組LP「決定盤!スーザ・マーチのすべて」(EDS-14~15)のベースにもなり、多くの録音曲が、今も他の多くのアルバムに使われている。同社にとっては、使いまわしが効く付加価値の高い音楽財産だ。

他方、同じこの時期に他社もマーチをつぎつぎリリース。レコード各社に“吹奏楽=マーチ”というイメージが完全に定着することになった。

しかし、レコード制作現場の興奮とは裏腹に、レコード会社と吹奏楽の演奏現場との間には、いつの間にか微妙な意識のズレが生じていた。

各社の吹奏楽新譜がマーチばかりという状況に、いささか食傷気味となっていたのだ。

現場は、マーチ以外のレコードを渇望していたのだ。

そこで現場の声を汲み入れて制作されたのが、1967年7月リリースの3枚のEPアルバム「楽しいバンドコンサート」(日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)だった。

制作委員は、中山冨士雄、加藤正二、大石 清、村方千之、秋山紀夫、酒井正幸という、当時の日本の吹奏楽の世界を第一線で牽引した各氏。加えて文部省教科調査官、花村 大氏と全国音楽教育連合会が監修したレコードだ。

▲EP – 楽しいバンドコンサート (日本コロムビア、EES-176)

▲EP – 楽しいバンドコンサート (日本コロムビア、EES-177)

▲EP – 楽しいバンドコンサート (日本コロムビア、EES-178)

商業レコードのジャケットに、これだけ多くの方々の名前が並ぶのは、ひじょうに珍しい。

ジャケットにも楽器メーカー提供の写真が使われるなど、販促のためのタイアップにも余念がなかった。

当時、マーチの売れ方は、ある程度数字が読めた。しかし、日本のマーケットで初リリースとなる曲ばかりが収録される予定の「楽しいバンドコンサート」各盤は、いきなり一般のマーチ・ファンや音楽愛好家に売れるはずがなかった。あくまで、吹奏楽の現場向きの企画だった。

また、外国盤のライセンス発売はあっても、マーチやファンファーレ以外の吹奏楽曲を自前で新録音することは、他社もやったことがなく、かなりの冒険だったはずだ。“吹奏楽=マーチ”で固まっている社内で稟議を通す気苦労のようなものも、垣間透けて見える。

逆に言うと、それだけ将来を見据えたアグレッシブなプロジェクトだった。

演奏は、加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブル。

録音セッションは、1967年の春に行われた。

結果、1枚目のEES-176には、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『献呈序曲(Dedicatory Overture)』、エドリッチ・シーバート(Edrich Siebert)の『森のそよ風(Wind in the Wood)』、ハリー・シメオネ(Harry Simeone)編の『バンドのためのカンカン(Can Can for Band)』の3曲。

2枚目のESS-177には、ハロルド・ウォルターズ(Harold Walters)の『フーテナニー(Hootenanny)』、アーネスト・キャネーヴァ(Ernest Caneva)の『フローレンスの祭り(Florentine Festival)』、フランク・D・コフィールド(Frank D. Cofield)の『トランペット・オーレ!(Trumpets Ole!)』の3曲。

3枚目のESS-178には、ジョセフ・オリヴァドーティ(Joseph Olivadoti)の『イシターの凱旋(Triumph of Ishtar)』、フランク・D・コフィールドの『トロンボナンザ(Trombonanza)』、トルチャ―ド・エヴァンズ(Tolchard Evans)/ドナルド・ハンスバーガー編(arr. Donald Hunsberger)の『スペインの姫君(Lady of Spain)』の3曲が収録された。

「楽しいバンドコンサート」には、今で言うところの“吹奏楽オリジナル”に、トランペット4重奏やトロンボーン3重奏など、マーチ以外のコンサート向きの作品が選曲されていた。

老舗レコード各社には、21世紀の今も“吹奏楽は、まずマーチありき”という、先代から受け継がれたイメージが残っている。

吹奏楽に情熱を傾けた先達たちが、日本のレコード業界の大きな壁にはじめて風穴を開けた第一歩だった。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第17話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド初来日

▲ブラック・ダイク・ミルズ・バンド 日本ツアー1984プログラム

イギリスの“ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)”が初来日したのは、1984年のことだった。

1970年のナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド、1979年の救世軍ウェリントン・シタデル・バンド(ニュージーランド)、1980年のレイランド・ヴィークルズ・バンド(イギリス)につぐ、4番目の来日ブラスバンドだ。

東京のブージー・アンド・ホークス社(現ビュッフェ・クランポン)が招聘したこの年の日本ツアーは、5/29(火):富士文化センター(静岡県富士市)を皮切りに、5/30(水):愛知厚生年金会館(愛知県名古屋市)、6/2(土):尼崎市総合文化センターアルカイックホール(兵庫県尼崎市)、6/3(日):福岡郵便貯金会館大ホール、6/5(火):簡易保険ホール(東京)、6/6(水):栃木県教育会館大ホール(栃木県宇都宮市)、6/7(木):郡山市民会館(福島県郡山市)に至る全7公演。

いずれも、コンサート開催地やその近隣で“ブラスバンド”の芽が少しずつ芽吹くか芽吹き始めている場所での開催であり、さすがは“ベッソン”ブランドの管楽器を扱う会社のマーケティングとリサーチの成果だと感じさせた。

▲ブラック・ダイク・ミルズ・バンド1984公演広告

しかし、当時の日本の音楽界では、まだ“ブラスバンド”自体についてあまりよく知られていない実態が一方にあった。相当高名な吹奏楽指導者の中でも、『日本では木管楽器の入る吹奏楽が盛んなので、金管だけなんて、そんなのダメだよ。』とか『うるさいだけだ!』、あるいは『まったく関心がありません。』などなど、信じられないくらい一方的かつネガティブな反応が圧倒的だった。

偶然、この年の秋には、フランスのギャルド・レピュブリケーヌの日本ツアー(招聘:ジャパン・アーツ)もあったので、『うちの子らは、そちらに行かせます。』と言ってまったく相手にしてもらえなかった吹奏楽部顧問の先生も結構いたという。

別の次元では、ナマを聴いたこともない筈なのに、“ブラスバンド”を最下層の音楽と決めつける高名な音楽大学の先生もいた。いわゆる“管弦楽至上主義”である。『オーケストラで使われていない楽器は、音楽としては認められません。』という発言も実際に聞いた。

そんな逆境の中、初来日が決まったブラック・ダイク・ミルズだったが、21世紀の現時点から振り返ると、この1984年の来日は、いろいろな意味で本当にいいタイミングで行なわれた日本初上陸だったように思える。

1975年に就任したプロフェッショナル・コンダクター、ピーター・パークス(Major Peter W. Parkes)の指揮の下、来日までの9年間に、ブラック・ダイク・ミルズは、全英選手権(Nationals)で5度(1975、1976、1977、1979、1981)、全英オープン選手権(British Open)で3度(1976、1977、1983)、ヨーロピアン選手権で5度(1978、1979、1982、1983、1984)、王座に輝いていた。また、日本ツアー翌年の1985年には、5月5日のヨーロピアン、9月7日の全英オープン、10月6日の全英という3大タイトルすべてに優勝する“グランド・スラム(The ‘Grand Slum’)”まで達成している。

1984年の来日は、バンドとしてのピークに行われたものだったのだ。

レコ―ディングも快調で、パークスが就任した1975年から1984年までの9年間だけを例にとっても、英Decca、英RCA、英Chandosの各レーベルから計20タイトル(選手権のライヴ盤やアメリカから録音依頼された2枚のプライベート盤を除く)のLPアルバムがリリース。ライセンス関係のあったRVCや日本コロムビアから一部が日本プレスとしてリリースされたこともあった。

この内、とくに1977年リリースの「British Music for Brass Band」(英RCA – Red Seal、RL 25078)と1982年リリースの「Blitz」(英Chandos、BBRD 1014)は、ブラスバンド史に残るアルバムとして高く評されている。

▲LP – British Music for Brass Band (英RCA Red Seal、RL 25078)

後者は、日本でも「ブリッツ – ロンドン大空襲」(日本コロムビア(Chandos)、OB-7388-CD)として、音質が格段にいいという触れ込みの超重量盤でリリースされ、オーディオ・マニアにも大いに注目された。このアルバムで、デリック・ブルジョワ(Derek Bourgeois)の衝撃作『ブリッツ(Blitz)』に出会い、“これはいったい何なんだ!?”と狂喜乱舞したファンも多かったように思う。イギリスでは後にCD化(英Chandos、CHAN 8370)されたが、筆者は、オリジナルの英盤LPから受けたぶん殴られたような圧倒的な衝撃感が忘れられない。

▲LP – Blitz (英Chandos、BBRD 1014)

ブラック・ダイク・ミルズ・バンドが初来日した1984年。それは、それまでのクラシック音楽の尺度では測ることのできない“ブラスバンド・オリジナル”がつぎつぎと産ぶ声を上げ始めた、そんなタイミングの年でもあった。

例を挙げると、フィリップ・スパークの「ドラゴンの年」がウェールズでコーリー・バンドによって初演されたのも、ブラック・ダイク・ミルズ日本滞在中に向こうで起こった出来事。その同じ日(6/2)、筆者は、尼崎のアルカイックホールで初来日のブラック・ダイク・ミルズを堪能していた!

舞台上では、ブラック・ダイク・バンドの現音楽監督、首席指揮者であるニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs)をして、“ブラスバンド界のゴッド・ファーザーだった”と言わしめたピーター・パークスが、髪の毛の乱れなどものともせず、燃え上がるようなタクトを振り、プリンシパル・コルネットの席にはフィリップ・マッキャン(Philip McCann)、アシスタント・プリンシパル・コルネットにはデヴィッド・キング(David King)、ソプラノ・コルネットにはケヴィン・クロックフォード(Kevin Crockford)、フリューゲルホーンにはデヴィッド・ポグスン(David Pogson)、テナーホーンにはサンディー・スミス(Sandy Smith)、バリトンにはピーター・クリスチャン(Peter Christian)、ユーフォニアムにはジョン・クラフ(John Clough)、トロンボーンにはジョン・メインズ(John Maines)という、今日でもリスペクトされる名手たちがいた。

▲上3枚はいずれも「バンドピープル」1984年8月号より

来日した彼らは、大方の予想を大きく裏切り、各地で熱烈な歓迎を受けた。また、東京・五反田の簡易保険ホール(ゆうぽうと)におけるライヴは、NHKがテレビ収録し、1時間番組にまとめられて、7月7日(日)、午後2時40分から総合テレビでステレオ放送された。番組名は「輝くブラスアンサンブル」。いろいろな柵(しがらみ)があるのか、番組名に“ブラスバンド”を使うことができなかったところが、いかにもNHKらしい。

この番組のラストあたりで、実際にナマを聴いた人々がコンサート直後の率直な感想を口々に語るシーンがあった。

『参りましたねー。ヤラレター!! 全然違う、響きが……。』

『なんか安心するというか、聴いてて……。』

『なにしろ、ちょっと人間離れした演奏でした。もう、ちょっと日本じゃ考えられないような…。あんなに吹ける人があれだけ揃っているって、見たことないです。』

『やっぱり、音楽を楽しんでいるという感じがイイナーと思いました。』

(以上、NHKテレビ番組より)

月刊「バンドピープル」からも、編集長の冨田尚義さんとカメラマンの関戸基敬さんの2人が会場で徹底取材。演奏に感動しただけでなく、1984年8月号に来日メンバー全員の名前とセクション・フォトが残された。今からみると、それらは歴史の貴重な証人だ。

“来日記念盤”は、キングからリリースされた。

「新世界交響曲 全英チャンピオン/ブラック・ダイク・ミルズ・バンド」(キング(London)、K25C-336)というアルバム(LP)がそれだ。

原盤は、1975年に全英選手権優勝を飾った記念盤的アルバム(英Decca、SB 324 / リリース:1976)で、ジャケットには、選手権の会場であるロンドンのロイヤル・アルバート・ホールの外で優勝カップを手にした指揮者2人を取り巻くメンバーが歓喜するモノクロ写真が使われていた。指揮者は、パークスと当時レジデント・コンダクターだったロイ・ニューサム(Roy Newsome)の2人。セッション盤だが、ライブ感溢れるいいアルバムだ。

▲LP – Sounds of Brass Series / Black Dyke Mills Band (英Decca、SB 324

当然、筆者は原盤を持っていたが、来日を記憶にとどめるため、公演に先行して発売された日本盤を買いに走り、いきつけのレコード店で現物を手にした。しかし、つぎの瞬間、信じがたいショックと激しい羞恥心に襲われた!

ジャケット裏の解説面の写真が、このアルバムの録音セッション当時のものから、レジデント・コンダクターがトレヴァー・ウォームズリー(Trevor Walmsley)に代わっていた1982年撮影のものになっていたが、それはまだいい。

信じられなかったのは、ジャケットに印刷された指揮者パークスのファミリーネームのスペル“Parkes”から“e”の一文字がスルリと抜け落ち、“Parks”になっていたことだ。

みるみる怪訝な顔になっていく筆者に、顔なじみの店員が心配そうに声をかける。

『いや、あなたのせいではありません。』と言って勘定を済ませ、持ち帰ってさらによく見ると、ジャケット裏もレーベル面もすべて“Parks”と印刷されていた。これは単純なチェック・ミスで済まされるような誤植ではない。指揮者名をすべて間違えるなんて!!

“一体、なんてことをしでかしてくれたんだ!”

とても残念な気持ちになった筆者は、これから来日する彼らに気持ち良く演奏して欲しいとの願いから、すぐ東京のブージー・アンド・ホークスに電話を入れた。

『今度の来日記念盤だけは、指揮者のパークスに見せない方がいい。』と。

▲LP – 新世界交響曲 全英チャンピオン / ブラック・ダイク・ミルズ・バンド」(キング(London)、K25C-336)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第16話 エリック・バンクス「世界のマーチ名作集」

▲ロイヤル・アルバート・ホールのRAF音楽の祭典

全身全霊を傾けて取り組んだ“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本ツアー1988”が成功裏に終わり、ホッと一息ついた1988年5月始め、ビクターの西村時光さんからミーティングのオファーがあった。

ロイヤル・エア・フォースの新録音を、ぜひビクターでやりたいという提案だった。

その頃、“来日記念盤”としてスタートしたビクターの「女王陛下のウィンド・オーケストラ ロイヤル・エア・フォース・バンド」シリーズ(英Polyphonic原盤)は、同年3月21日リリースの【Vol.1-1984ライヴ】(LP:VIC-28262 / CD:VDC-1276 / カセット:VCC-10061)と【Vol.2-1987ライヴ】(LP:VIC-28263 / CD:VDC-1277 / カセット:VCC-10062)の2タイトルが順調な滑り出しを見せていた。

その後、1992年4月21日リリースの【Vol.8-1991ライヴ】(CD:VICC-88)までの合計8タイトルに加え、ベスト盤まで発売されたので、“ビクターの吹奏楽”としては、かなり存在感を示すものとなった。。

このシリーズは、エリック・バンクス(Eric Banks)がロイヤル・エア・フォース(RAF)の首席音楽監督に就任後、RAF所属の5つのバンドの内、4つのバンド(セントラル・バンド、レジメント・バンド、カレッジ・バンド、ウェスタン・バンド)の合計200名のプレイヤーを一堂に集め、1984年以降、毎年秋にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催されていた“RAF音楽の祭典(RAF Festival of Music)”をライヴ収録したライセンスものだったが、今度の新しい提案では、ビクター原盤でセントラル・バンドの新録音をセッションで行いたいという話だった。

『どういう内容がいいと思われますか?』という西村さんに対して、全国7公演のツアーに帯同し、どういうレパートリーが日本の聴衆に喜ばれたかを肌で感じとっていた筆者は、せっかくイギリス最高峰のセントラル・バンドに新録音をオファーするならば、それは“これまで日本の吹奏楽レコードになかったもの”であることが重要かと話して、2つの録音案を示した。

A案は、グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)の組曲『惑星(The Planets)』全曲のようなセンセーショナルなクラシックもの。

B案は、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』を中核にしたイギリスのウィンド・ミュージックの新旧オリジナル集だった。

さすがに本場イギリスもの。セントラル・バンドが演奏した『惑星』の“木星”や『ドラゴンの年』は、各地で大絶賛されていたからだ。まるで聴いたことのないサウンドだった。

実際、この両曲が演奏された大阪のザ・シンフォニーホールでのライヴは、信じがたいほどの熱狂をもたらした。また、日本の聴衆にとって未知の新曲“ドラゴン”に、その後、関西から火がついたのも、ごくごく自然な成り行きだった。

ただ、A案には、過去、英EMIがセントラル・バンドの大部分のレコードを手掛けながら、情報不足で来日に完全に乗り遅れてしまった東芝EMIも高い関心を示していること。また、“火星”“木星”以外は、新しいトランスクリプションが必要なこともお話しした。

一方、B案には、ゴードン・ジェイコブの『吹奏楽のための協奏曲(Concerto for Band)』やジョン・アイアランドの『コメディ序曲(Overture:Comedy)』、エリック・ポールの交響詩『復活(Resurgam)』、パーシ―・フレッチャーの『エピック・シンフォニー(An Epic Symphony)』の終楽章“英雄行進曲(Heroic March)”といったレパートリーがすでに出そろっていることもつけ加えた。

筆者としては、あれほどまでの熱狂をもたらし、まだ日本盤の無かった“ドラゴン”をメインに据えたB案が一押しであり、第15話でお話ししたように、ナマ演奏で“ドラゴン”を聴いた西村さんの感触も上々だった。

氏は、まず新録音の構想があることをバンクスに伝えてほしいと筆者に依頼し、両案は持ち帰って検討されることとなった。

だが、その後、西村さんからもたらされたビクターの回答は、まったく予想外のものだった!

『ビクターとしては、“世界のマーチ集”の録音をロイヤル・エア・フォースにお願いしたいと思います。』

大いに驚いた筆者に西村さんは、『こういう企画は、ハンコを押してもらわないと進まないということです。ご理解下さい。』と言った。

録音希望リストには、スーザの『星条旗よ永遠なれ』や『ワシントン・ポスト』、タイケの『旧友』、バグリーの『国民の象徴』、ジンマーマンの『錨を上げて』、瀬戸口藤吉の『軍艦行進曲』などが並んでいた。

リストを見たバンクスは、『今、日本は平和国家になったはずなのに、どうして?』と書いて寄越した。

筆者も提案した相手が間違っていたことを痛感!大いに反省した。

老舗レコード会社には、老舗ながらの社風と歴史がある。

マーチ全盛時代の1960年代、オランダのフィリップス・レーベルのライセンスを得て発売していたビクターは、フィリップス専属のオランダ王国海軍バンド(De marinierskael der Koninklijke marine)に、瀬戸口藤吉の『軍艦行進曲』、吉本光蔵の『君が代行進曲』、古関裕而の『オリンピック・マーチ』、今井光也の『オリンピック東京大会ファンファーレ』、シャルル・ルルーの『扶桑歌』、国歌『君が代』などを録音依頼し、大成功を収めていた。ビクターでの演奏バンド名は、“ロイヤル・ネヴィー・バンド”。ところが、1970年に“日本フォノグラム”が立ちあがると、ビクターは、上記録音曲の原盤権も同時に失っていた。

“そうか、昔の栄光よ、今一度”という訳か。ビクターとしては、優秀なバンドが演奏するマーチの原盤権が欲しかったのだ。組み合わせを変えて何度でも使える自社の“カタログ”として….。

後日、ビクターの別のセクションのプロデューサー、山田 誠さんと別の仕事で話す機会があったが、その際、話の冒頭で『今度、西村が“ひじょうにいい仕事”をしましてねー!』と言われていたのが忘れられない。

提案は、完全にスルーされたが、手許にあった『オリンピック・マーチ』の楽譜も役に立ったので、まあ、良しとするか。

CD「エリック・バンクス/世界のマーチ名作集」(ビクター、VDC-1394)は、その後、曲目のすり合わせの後、1989年1月19日、ロンドンのエンジェル・スタジオで、エリック・バンクス指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの演奏で収録され、同年8月21日にリリースされた。

▲CD – エリック・バンクス 世界のマーチ名作集

▲エンジェル・スタジオでのレコーディング風景

▲EP – 日本ビクター(Philips)、SFL-3025

▲EP – 日本ビクター(Philips)、SFL-3052

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第15話 「ジ・イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」

『いやー、プログラム見たら、映画音楽もやるんですね。いいですねー!』

フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』のウィンドオーケストラ(吹奏楽)版の日本初演が行われた1988年4月17日(日)、東京・普門館で行なわれたロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドのコンサート開演前、ビクター音楽産業、クラシック・グループのプロデューサー、西村時光(ときみつ)さんの言葉だ!

老舗の大手レコード会社には、随分とユニークなキャラで知られる方々がいらっしゃる。もちろん、氏もその中の1人で、ヴァイオリニストの千住真理子やピアニストのスタニスラフ・ブーニンなどを担当されたプロデューサーだ。

果たして、その西村さんの挙げた“映画音楽”とは、『ドラゴンの年』のことだった。

内心“おいおい”とは思ったが、氏の発言が、ニューヨーク市のチャイナタウンを舞台にチャイニーズ・マフィアとニューヨーク市警の刑事との死闘を描いたアメリカ映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン(Year of the Dragon)」(1985 / 監督:マイケル・チミノ / 日本公開:1986)のテーマ曲か何かだと“早トチリ”してのものだったし、曲を聴けばすぐ分かることなので、こちらも軽くスルーする。

実は、ロイヤル・エア・フォースとスパークの“ドラゴン”に関わり始めた時から、この種の混同は間違いなく起こると想定していた。時系列で見ると、曲の初演(1984)の方が、映画の封切(1985)より先行していたが、日本でも封切られた(1986)映画は、ロイヤル・エア・フォース来日(1988)より前に、すでにヒットしていた。映画「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」の活字は、メディアに溢れていた。

音楽と映画の英語タイトルの違いは、唯一“The(ジ)”が頭に付くか付かないかだけだった。これでは混同するなという方に無理がある。

常々、筆者は、音楽の邦題は、原語タイトルとほぼ同じに聞こえるようにできれば最高だと考えている。その流れで言うなら、スパークの“ドラゴン”も『ジ・イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』にすれば良かったのかも知れない。しかし、日本の吹奏楽の世界では、「ジ」を「ザ」としたり、「ジ」を省略することも平気に起こり得ると想定された。また、仮に何年かたって曲が有名になったとしても、映画との混同も永遠に続く可能性があった。そこで、ロイヤル・エア・フォースの公演プログラムでは、日本語としてインパクトのある“ドラゴン”を頭にして『ドラゴンの年』と訳すことにした。

何が起こるか判らない日本で、音楽の邦題を決めて世に送り出すことは、いつもとても怖いものだ。しかし、こと『ドラゴンの年』に限っては、いろいろな意味でベターだったと考えている。

結果、1988年4月17日、東京・普門館における、エリック・バンクス指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド演奏の『ドラゴンの年』ウィンドオーケストラ版の日本初演は、5月4日、NHK-FMの特別番組「ジョイフル・コンサート」で、秋山紀夫さんの解説でオン・エア。また、来日2度目の演奏となった4月19日、大阪のザ・シンフォニーホールでは、来日中最高のパフォーマンスを叩きだし、関西の“ドラゴン”ブームに一気に火をつけた。

▲ザ・シンフォニーホールのステージから

▲ザ・シンフォニーホールのステージから指揮のエリック・バンクス

余談だが、ザ・シンフォニーホールの下手側舞台そでには、公演オーケストラのステッカーがところせましと貼られている壁がある。そして、この日、『こんな演奏聴いたことがありません。彼らはすばらしいオーケストラです!』と感動したホールのステージ・マネージャーの手で、ロイヤル・エア・フォースのエンブレムもそこに加えられた。筆者の目の前で!

ロイヤル・エア・フォースに関わった人間として、これほど誇らしく思えた瞬間はなかった。

ビクターの西村さんが、ロイヤル・エア・フォースに関心を持ったのは、1987年12月、年末恒例の挨拶まわりで訪れた月刊「バンドピープル」の編集部だった。当時、東京都中央区新富にあった編集部では、ボスの冨田尚義さんをはじめ、大沢秀安さん、鎌田小太郎さんら、個性豊かなサムライが揃い、日々エネルギッシュな誌面作りに邁進していた。

『健康より原稿!締切守って生活安定!』という、そのスローガンは忘れられない!

そんな編集部で、『ねえ、ねえ、なにか面白い話はない?』と切り出した西村さんに対し、大沢さんが『こんなの知ってる?』と見せたのが、1984年以降、ロイヤル・エア・フォースが毎年秋にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催していた“Festival of Music”の1986年のライヴ盤(LP:英Polyphonic、PRM111D)だった。次の瞬間、小太郎さんがレコードを取り出し、B面1曲目のジョン・ウィリアムズの『レイダース・マーチ(Raiders of the Lost Ark)』を爆音でかける。これに、冨田さんが『これ、200人でやっているんだ!』と畳みかける!見事なチームワークだ。『へぇー、200人でやってもズレないんだ!』とは、西村氏の弁。

レコードは、この時点での最新盤。第8話でお話ししたように、ロイヤル・エア・フォースの件でさんざん迷惑をかけていた編集部に“迷惑料”代わりに進呈したものだった。翌日、大阪へ帰郷していた筆者にも、編集部から電話が入り、顛末の一部始終が知らされる。『ビクターから連絡が行くと思うので、よろしく。』と。

西村さんのアクションは素早かった!!

電話で筆者に“日本の他のレコード会社からのリリース予定”の有無をまず確認。それが無いと分かるや、『ぜひとも、ウチでリリースしたいと思います。』と言って、“プロデューサーとの連絡方法”、“演奏者”や“ツアー”のことなど、ものすごい勢いで質問攻めが始まった。

その後、ロンドンのプロデューサー、スタン・キッチン(Stan Kitchen)にコンタクトして、社内稟議もクリア。年内の超多忙な時期に、アッという間に、ロイヤル・エア・フォース「来日記念盤」として、2タイトルをLP、CD、カセットの3種類のソフトで、1988年3月21日同時リリースすることを決めてしまったのだ。

この結果、発売されたのは、ロイヤル・エア・フォースの“Fesival of Music”が初めて行われた1984年盤(LP:VIC-28262 / CD:VDC-1276 / カセット:VCC-10061)と、ライヴが行なわれたばかりの1987年盤(LP:VIC-28263 / CD:VDC-1277 / カセット:VCC-10062)の2タイトル。1985年盤と1986年盤は、先行2タイトルの動きを見ながら、リリース日を決めるというのが、ビクターの戦略だった。

普門館でコンサートを聴いた後の西村さんの“ドラゴン”への感想も忘れられない。

『いやー、コープランドみたいな魅力的な音楽でした。』

▲ビクター盤LP:女王陛下のウィンド・オーケストラ ロイヤル・エア・フォース・バンドVol.1

▲ビクター盤LP:女王陛下のウィンド・オーケストラ ロイヤル・エア・フォース・バンドVol.2