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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第42話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990

▲プログラム表紙 – ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990

▲日本ツアー1990の3人の指揮者

▲日本ツアー1990時のバナー

1984年、イギリスの“ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)”が初来日した!!

そのときのフィーバーぶりは、第17話「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド初来日」でお話ししたとおりだ。

だが、その際、さまざまな反響の中で、筆者が個人的に驚いたのは、普段“所詮ブラスバンドなんか…”と高を括り、うそぶいていたクラシック評論の大先生方が、実際に目の前でナマを聴かされ、“これは一体なんなの!?”と、まるで手のひらを返すように、一様に“驚嘆”するという、予想外の反応を示したことだった!

NHKの年末FM番組でも絶賛された!

“日本の常識は海外の非常識、海外の常識は日本の非常識”と言ったらいいのか、“井の中の蛙、大海を知らず”と言ったらいいのか。おそらくは、未知との遭遇!!

生まれてこの方、気の毒にも“ブラスバンド”というジャンルの音楽をお聴きになったことがおそらくなかったのだろう。

とにかく、この時、音楽評論の世界で“ブラスバンド”という言葉を簡単に口にできない空気が生まれたのは、紛れもない事実だった。

また、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドが、クラシックの評論家に評価の高い英シャンドス(Chandos)レーベルの専属バンドだったため、先生方の“専門外”である“ブラスバンド”のレコードやCDがこのレーベルからつぎつぎリリースされる状況も、実は微妙な影を投げかけていた。

有名クラシック・レーベルの新譜だけにむげに無視はできない…ということで。

一方のブラスバンド・ファンは、イギリスでつぎつぎリリースされるブラスバンドのLPレコードやCDを個人輸入したり、週刊のブラスバンド紙「ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)」を定期購読して、最新の音楽と情報に接していた。

プロが“知ったかぶり”をしておかしなことを書こうものなら、ファンからモロに反撃を喰らう、そんな時代が始まろうとしていた。

さて、そんなブラック・ダイク・ミルズ・バンドの再来日が実現したのは、初来日から6年たった1990年のことだった。

実は、この6年という年月の間に、ブラック・ダイクの方でも実に大きな変化があった。

まず、1975年からこのバンドのプロフェッショナル・コンダクターをつとめ、1984年の初来日時も指揮をつとめたピーター・パークス(Major Peter Parkes)が、1989年にバンドを去ったことだ。ライバルである“ウィリアムズ=フェアリー・バンド”のプロフェッショナル・コンダクターに就任するために。

在任14年の間、メジャー・タイトルで18度(全英6度、全英オープン5度、ヨーロピアン7度)の優勝!“ブラック・ダイク史上、最も成功を収めたプロフェッショナル・コンダクター”と謳われ、1985年には、全英、全英オープン、ヨーロピアンの3大タイトルを総なめにする“グランド・スラム”まで達成した指揮者がバンドを離れた影響は大きかった。

前記のシャンドス・レーベルも、ブラック・ダイクとの専属契約を解き、パークスが移動した先のウィリアムズ=フェアリー・バンドと新たな専属契約を結んだ。

メンバーの移動も多く、1984年来日時のプリンシパル・コルネット奏者、フィリップ・マッキャン(Philip McCann)が1988年にバンドを去り、その跡にロジャー・ウェブスター(Roger Webster)が入った。

ソロ・ユーフォ二アム奏者、ジョン・クラフ(John Clough)も同じ1988年にバンドを離れ、代わってロバート・チャイルズ(Robert Childs)が加わった。

ソプラノ・コルネット奏者のケヴィン・クロックフォード(Kevin Crockford)も1989年にバンドを去り、ナイジェル・フィールディング(Nigel Fielding)が加わった。

この時期、スター級だけでこれだけのプレイヤーが入れ替わっているが、その後しばらくの間は移動も激しく、ウィリアムズ=フェアリーに移るプレイヤーも結構いて、後にこのバンドが“ブラック・フェアリー”と呼ばれる要因の1つになった。

このようにバンドの新陳代謝が進む一方で、1980年代はまた、その後の世界のバンド界に大きな影響を及ぼす若い世代の作曲家が台頭し、それまでの楽曲のスタイルとは明らかに一線を画す、魅力的な作品を発表し始めた、そんな時代でもあった。

今やメジャーとなったフィリップ・スパーク(Philip Sparke)、エドワード・グレッグスン(Edward Gregson)、ピーター・グレイアム(Peter Graham)らの作品や編曲が、この時期につぎつぎと発表され始めたのだ。

正しくブラスバンド・レパートリーの変革期だった。

そんな1989年、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドは、驚くべきアナウンスを行なった。

それは、若干32才のオーストラリア生まれ。フィリップ・マッキャンの隣の席で長年アシスタント・プリンシパル・コルネット奏者をつとめたデヴィッド・キング(David King)のプロフェッショナル・コンダクター就任の発表だった。

無論コルネットのオーストラリア・ソロ・チャンピオンだったキングの音楽性は、誰しも疑うところではなかった。マイナーなバンドでの指揮活動も始めていたが、まだ大きな舞台での実績はなかった。

他方、ブラック・ダイク史上、プレイヤーからいきなり指揮者になった例は過去にはなく、この就任はサプライズというだけでなく、ギャンブルにも写った。当然、一部プレイヤーの反発も招き、バンドを去ったものも出た。

キングは、この逆境を、1990年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”の場で見事に跳ね返した。

スコットランド開催ということもあり、セット・テストピース(指定課題)は、スコットランド生まれの作曲家ピーター・グレイアムの「エッセンス・オブ・タイム(The Essence of Time)」だった。

キング指揮、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドは、この曲の演奏で、満点が100ポイントの中で、99ポイントという得点でトップに立ち、つづくオウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)で演奏したフィリップ・スパークの「ハーモニー・ミュージック(Harmony Music)」でも、99ポイントをゲット!!

合計198ポイントという信じられないハイスコアで見事優勝を飾ったのだ!!

イギリスのバンドとしては、3年ぶりの王者復帰だった!

その直後の1990年6月の日本ツアーは、その勢いのままの来日となった。

ツアーを主催したのは、この時も東京のブージー&ホークス社。

公演は、6月10日(日)の米子に始まり、大阪、福岡、広島(非公開)、松戸(非公開)、東京(非公開)、厚木とつづき、6月19(火)の東京に至る全8公演。

当時、筆者は、同社代表取締役の保良 徹さんの意を受け、企画当初からバンド(つまりキング)と公演演奏曲の曲目の擦り合わせを行った。

そのため、今も手許に多くの資料が残っているが、キングは、このとき、それまでのトラディッショナルなレパートリーを一新!

日本ツアーのプログラムにも、ピーター・グレイアムの「エッセンス・オブ・タイム」と「日の出」(ツアー委嘱作)、フィリップ・スパークの「ハーモニー・ミュージック」と「山の歌」、ジョン・ゴーランドの「瞑想」(ツアー委嘱作)など、ブラスバンドの当時の最新オリジナル曲を積極的に盛り込んできた。

そして、これらがコンサートで大当たり!

スパークやグレイアムの作品が、わが国でこれだけ多く演奏されたのは、間違いなくこのツアーが初めてだった。

リフレッシュされたブラック・ダイクによる最新オリジナル!

新しい時代が今そこに花開こうとしていた!!

▲大阪国際交流センターのステージ(1990年6月11日)

▲CD – European Brass Band Campionships 1990(Heavyweight、HR005/D)

▲同、インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第41話 「フランス組曲」と「ドラゴンの年」

 ▲CD – ドラゴンの年(佼成出版社、KOCD-3102)

▲CD – フランス組曲(佼成出版社、KOCD-3101)

『今日は、ちょっと相談があって、電話したんだけど…。』

東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんから電話があったのは、1988年秋のことだった。

第10話「“ドラゴン”がやってくる!」でお話ししたように、古沢さんには、その年4月の“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本公演1988”の実行にあたり、並々ならぬお世話になっていた。

『はい、何でしょう?』と話を伺うと、それは、東京佼成ウインドオーケストラが、翌年の1989年7月に予定している初のヨーロッパ演奏旅行についてだった。

なんでも、演奏旅行の旅程の中ほどでレコーディングを組めないだろうかという話がプレイヤー・サイドから持ちあがってきたとのこと。

『ロンドンって録音がいいって、うちの連中が言っているんだけど、それって実際のところ、どうなの?』という古沢さんに対し、“あらゆるジャンルの録音がシステマティックに組まれ、毎日セッションが行われる”ロンドンの現状をかいつまんでお話する。また、管弦楽だけでなく、吹奏楽を得意とするプロデューサーやエンジニアが何人もいることもつけ加えた。

話から可能性を嗅ぎ取った古沢さんは、『ウチのレコードの録音をやってくれてる佼成出版社に話をして、樋口さんに電話させるから、話を聞いてやって欲しいんだ。』と言われる。そのくらいのことは、お安い御用だ。

やがて、同社音楽出版室の柴田輝吉さんから電話がかかってきた。

氏は、“ウルトラマン”シリーズでおなじみの“円谷プロ”の出身。ポイントを的確にとらえ、舌鋒も切れ味鋭かった。

当然、話の方向は、とてもポジティブ。しかし、録音会場やスタッフ選びから始めないといけないという話だったので、迷うことなく、直ちにロイヤル・エア・フォースの音楽総監督エリック・バンクス(Eric Banks)に連絡をとるように薦めた。

バンクスは、BBC放送やEMIなどのレコ―ディンクをホールやスタジオで数多く行ない、ロンドンの録音スタッフにも広い人脈をもっている。それだけでなく、東京佼成ウインドオーケストラの練習場で実際に指揮をしたり、1988年4月16日(日)、東京・普門館で行われた東京佼成とロイヤル・エア・フォースのジョイント・チャリティー・コンサートを通じて、このウインドオーケストラのことをとてもよく理解していた。

ロンドンのバンクスとの英語のやりとりは、佼成出版社国際業務部、国際業務課の清水康博さんが担当された。

連絡を受けたバンクスもひじょうに喜び、直ちに動いてくれた。

バンクスは、まず、プロデューサーとして、ロンドンのイズリントンにあるエンジェル・レコーディング・スタジオ(Angel Recording Studios)のチーフ、ジョン・ティンパーリー(John Timperly、1941~2006)にオファーした。

ティンパーリーは、1970年代以降、バンクスの録音を何度も手掛けてきたバンクスがもっとも信頼をおくプロデューサーの1人で、彼のロイヤル・エア・フォース時代最後のCD「エリック・バンクス/世界のマーチ名作集」(ビクター、VDC-1394)も、1989年1月19日にティンパーリーのプロデュースで行われることが決まっていた。(「第16話」参照

折衝の結果、ティンパーリー個人とともに、彼のホームであるエンジェル・スタジオを4日連続でブッキングできたことから、佼成出版社は、常任指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)の指揮による録音に加え、エリック・バンクスの指揮による録音も行なうことになった。

その結果、ツアー後の1989年10月25日にリリースされたのが、フェネル指揮の「フランス組曲」(佼成出版社、KOCD-3102)とバンクス指揮の「ドラゴンの年」(同、KOCD-3102)の2枚のCDだった。

前者は、ツアー・プログラムから選曲された記念碑的CD。後者は、ロンドン録音を記憶にとどめるため、筆者が提案した“イギリス作品集”だ。

当時フルート奏者をつとめられ、プレイヤー引退後、総務として事務所に入られた牧野正純さんが個人的に書き留められていた記録によると、エンジェル・スタジオでのセッションは、以下のような流れで進行した。

【7月13日】指揮:フレデリック・フェネル

11:00~12:30 フランス組曲(ミヨー)練習

12:30~13:30 <昼食>

13:30~14:30 フランス組曲(ミヨー)

14:30~15:00 <休憩>(間食)

15:00~16:40 交響曲第6番(パーシケッティ)

16:40~17:10 <休憩>

17:10~17:40 自由への賛歌(ゴセック/ドンデイヌ編)

【7月14日】指揮:フレデリック・フェネル

11:10~12:50 ウィリアム・テル序曲(ロッシーニ/稲垣卓三編)

12:50~13:50 <昼食>

13:50~15:40 スリー・ダンス・エピソード(ハチャトゥリアン/ハンスバーガー編)
(間に、ソーメン休憩あり)

【7月15日】指揮:エリック・バンクス

11:00~13:10 ドラゴンの年(スパーク)

13:10~14:10 <休憩>

14:10~15:15 練習

15:15~15:45 <休憩>

15:45~17:50 復活(ボール)

17:50~18:00 <休憩>

18:00~18:30 英雄行進曲(フレッチャー)

【7月16日】指揮:エリック・バンクス

11:00~12:30 練習

12:30~13:30 <昼食>

13:30~14:50 吹奏楽のための協奏曲(ジェイコブ)

14:50~15:20 <休憩>

15:20~17:10 コメディー序曲(アイアランド)

バンクスは、翌7月17日にも、BBC放送FMラジオの名物番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」のプロデューサーにも、フレデリック・フェネル指揮の番組収録を持ちかけ、その放送用録音もBBCスタジオで行われた。

当時、ユーフォニアム奏者の三浦 徹さんから、スタジオ入りしてまず、番組テーマ「リッスン・トゥー・ザ・バンド」を初見で収録したという話をうかがったことがある。

結果的に、東京佼成ウインドオーケストラは、ロンドンで連続5日間、スタジオに入ってレコーディングを行なった。

しかし、それを成し得た裏に、フェネルが指揮するこの楽団をリスペクトするバンクスの献身的な貢献があったことを忘れてはならない。

1989年4月3日の日付がある筆者宛の手紙に、バンクスはこう書いている。

『先週、私は、空港でTKWOの古沢さんと清水さんに会いました。彼らは、7月のヨーロッパ・ツアー中、ロンドンで行なうレコーディングについて、私と打ち合わせをするために来たのです。私は、とてもいい録音をするプロデューサーをアレンジしています。また、同じ時期に、BBC放送のレコーディングも組めればと思います。その時期、私は(ロイヤル・エア・フォースを退役し)、オーストラリアに移っています。しかし、彼らは、とても親切にも、7月に彼らと一緒にいることができるよう、私にロンドンに戻って来るよう招待してくれたのです。』(カッコ内は、筆者)

佼成出版社から、バンクスを録音に起用する話を聞き、その録音レパートリーのプランを求められたのは、この直後のことだった。

これはもう、イギリスものでいくしかない!

「ドラゴンの年」のセッションが、ついに実現することになった!

▲東京佼成ウインドオーケストラ、ヨーロッパ・ツアー日程表

▲<名盤・珍盤・かわら版>Part 113(「バンドピープル」1989年12月号、八重洲出版)(許諾により掲載)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第40話 スパーク:シオン“111”のプロが決まるまで

▲地下鉄「阿波座」駅に張り出されたポスター

▲プログラム案(2014年12月)

2015年5月27日(金)、筆者は、大阪と和歌山のほぼ中間点に位置する関西国際空港の第1ターミナル到着ロビーで、フィンランド航空のAY77便で到着したフィリップ・スパークが、入国審査を終え、ゲートから出てくるのを待っていた。

空港でこうして彼を出迎えるのは、何度目のことだろう。

フィリップの話を聞いていると、日本には、こういう基本的な応対すらできない主催者もいるんだそうで、筆者にとってそれは大きなナゾだ。

あるときは、成田空港に誰も出迎えが来なかったり、またあるときは、演奏会後になぜか置き去りにされてしまい、自分のいるロケーションを完全にロストしてしまった彼が、知り合いの演奏家に電話を掛けて、運よく(?)つかまえることができた人に、そこまで来てもらってホテルまで連れていってもらったりと、本当にいろいろあったようだ。

もちろん、筆者は、フィリップのマネージャーなどではない。

しかし、2015年5月のこの日は、勝手ながら友人として出迎えを引き受けていた。

Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)の第111回定期演奏会の客演指揮のための来日だった。

やがて、ゲートから出てきたフィリップは、いつもの満面の笑顔!!

しかし、その姿はショルダーを肩にかけただけの軽装だった!

アレアレ!?

再会の挨拶もそこそこに事情を尋ねると、ロンドンからヘルシンキへのフライトが遅れ、トランジットの時間もギリギリだったため、トランクは積載できなかったらしい。

オッ、いきなりのトラブル発生だ!

しかし、荷物だけ届いて、本人がヘルシンキという事態ではなかったので良かった。

それでも、ステージ衣装や着替えが入っているトランクが届かないとなると、かなり面倒なことになる。

“最終的に届かなかった場合は、そのままジーンズでステージに立てばいいから!”などと軽口を叩きながら二人で大笑い!

ホテルにチェックインの際、フロントに事の顛末と、翌日に彼宛にトランクが届く予定であることを伝え、シオンには無事到着を知らせるメールを送る。

『スパやん、体だけは無事到着し、ホテルにチェックインしました。ヘルシンキで乗継ぎの際、荷物が取り残されたようで、ヒコーキ会社と交渉の結果、明日(5/30)、ホテルに届けてもらう段取りとなりました。

というわけで、明日の練習で1つ追加でお願いができました。練習時に、指揮棒を1本拝借したいというリクエストがありました。実際には、どの長さがいいのか、判断がつきかねますので、もし可能なら、複数本をご準備いただけると幸いです。荷物が到着すれば、すべて解決です。よろしくお願いします。

幸いなことに、スコアは手荷物の方に入れてあったそうです。着替えがないので、シャツを買いにいかねば、などと言っておりましたが、すこぶる元気でした。』

シオンからは、すぐに“指揮棒は準備できる”と返信があった。

余談ながら、“スパやん”とは、プリーズ・ブラス・バンドの客演指揮者として、しばしば大阪の地を訪れるようになった彼に対しての“大阪ローカルだけで通用する”リスペクトを込めた親称だ。プリーズの元プレイヤーの言によると、言いだしたのはどうやら筆者らしいが、そのうち、誰彼となく、そう呼ぶようになり、シオンのベテランも違和感なく普通に使っていた。

話を元に戻そう。

フィリップが客演指揮をしたシオン第111回定期は、大阪市音楽団民営化後のコンサートだが、独自に外国人アーティストを招聘する企画だけに、民営化したばかりの楽団側にあまりにも未経験な要素が多く、筆者もあまりの信じられない対応に“この件から降りる”と言って、さじを投げたこともあった。それだけに、到着初日のこの日を迎えたことには、一種感慨深いものがあった。

プログラムの決定プロセスも、二転三転だった。

第38話「スパーク:ギブ・ミー・チケット・パーティー」でお話ししたように、プログラム選曲担当の三宅孝典さんのリクエストに従い、フィリップが送ってきた『知られざる旅(The Unknown Journey)』のスコアをシオンに渡したのは、2014年の7月23日だった。

しかし、それが関西学院大学の委嘱作だと判って、演奏するのか、しないのかについての楽団内の意見は真っ二つ。

結局、『知られざる旅』は省かれ、楽団内で検討を重ねた“プログラム案”が楽団長の延原弘明さんから提示されたのは、それからかなりたった11月10日だった。

曲目は、以下のとおりだった。

・陽はまた昇る(The Sun Will Rise Again)

・セレブレーション(Celebration)

・オリエント急行(Orient Express)

・ドラゴンの年(The Year of the Dragon)

——–<休憩>——–

・デザーツ(Deserts)(もしくは2014~15年度新作)

・故郷からの手紙(Letter from Home)

・宇宙の音楽(Music of the Spheres)

メールには、一度ミーティングを持ちたいとも書かれてあった。

スケジュールが擦りあわなかったため、このミーティングは12月にずれ込んだが、その間にも、筆者は、この曲案をフィリップに投げて感想を求めていた。

彼は、第1部の曲案は、『陽はまた昇る』を除き、速い曲が続くので、バランスを欠く。まず『セレブレーション』をやめ、その位置に『オリエント急行』を移動。『オリエント急行』の位置には、フィリップお気に入りの『エンジェルズ・ゲートの日の出(Sunrise at Angel’s Gate)』のようなゆったりと静かな音楽を組み入れたいと書いてきた。逆に第2部はとても好きだという意見が返ってきた。また『陽はまた昇る』は、アンコールでもいいかな、ともあった。

12月11日のミーティングは、延原、三宅の両氏と筆者の3人で行なった。

その場にシオンの二人が持参した提案シートに目を落とすと、11月の最初の提案時より新たに4曲の候補曲名が欄外に書き加えられていたが、それはともかく、フィリップの意見をシートの上に書き示していく。

すると、『陽はまた昇る』をアンコールにするのはいいが、コンサートを『オリエント急行』で始めるのは、ちょっと…..と言われる。

訳を訊ねると、“開演に遅れた人が聴き逃す”確率が高いという返答。“そんなこと言っていたら、コンサートにならない。プログラムがわかっていて遅れる方がおかしいんだ”と反論し、激論に発展。

一方、『エンジェルズ・ゲートの日の出』は、何度か演奏してCDにもなっているので、作曲者からの他の曲の提案を待ちたいという。第2部に関しては、双方異論はなかった。

両者は、それらの議論を持ち帰ることになった。

ゴールは近いゾ!

しかし、10日後の12月21日に再び持ったミーティングで、シオン側が以下のような“第2案”を出してくることは、まったく予期できなかった。(出席者は、前回と同じ)

・フィエスタ!(Fiesta!)

・風のスケッチ(Wind Sketches)

・オリエント急行(Orient Express)

・ドラゴンの年(The Year of the Dragon)

——–<休憩>——–

・デザーツ(Deserts)(もしくは2014~15年度新作)

・スピリット・オブ・エンデバー(Spirit of Endeavour)

・宇宙の音楽(Music of the Spheres)

シオン側は、“新曲を入れたい”のだという。

『風のスケッチ』も『スピリット・オブ・エンデバー』も、初のCDが12月に発売されたばかりのバリバリの新曲だ。それはそれで理解できるが、よく見ると、これまでの議論で出てこなかった曲までリストアップされている。“速い曲が続き…”というフィリップが言う曲の並びにも配慮が無いように映る。

いかにも“元気な曲”が好きな三宅さんらしいアイデアのように思えた。

しかし、ここまで時間をかけて積み上げてきたものをひっくり返し、“これをフィリップに訊いて欲しい”というのは、筆者には少々理解不能だ。

『もちろん、訊けと言われるのであるなら、話はしますが、どういう返答がくるか、わかりませんよ。』と返し、次回ミーティングは、2015年1月14日に行うこととした。

年を明けた1月13日、フィリップから“翌日のミーティングで、オオサカ・シオンにこれを薦めて欲しい”と回答があった。

<第1部>

  1. オリエント急行
  2. 風のスケッチ
  3. ドラゴンの年

<第2部>

  1. デザーツ
  2. 故郷からの手紙
  3. 宇宙の音楽

<アンコール>

陽はまた昇る

『このプログラムは、“曲の新旧”と言う意味でも、“緩急”と言う意味でもバランスがよくとれている。』との“マエストロのお墨付き”で、プログラム論争は一件落着!

その後、三宅さんからの新たな提案で、フィリップが編曲した『サンダーバード(The Thunderbrds)』をアンコールに加えることになったが、とにもかくにもオオサカ・シオン第111回定期演奏会のプログラムは確定した。

ここで、もう一度叫びたい!!

筆者は、フィリップ・スパークのマネージャーではない!!

▲フィリップと共有した手作りのタイムテーブル

▲関空到着日のタイムテーブルの頁

▲シオン第111回定期の進行表

▲離日時の関西空港の案内表示(黒沢ひろみ氏提供)

▲フィリップの乗ったAY78便(黒沢ひろみ氏提供)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第39話 ギャルド:月刊吹奏楽研究が伝えるもの

▲月刊 吹奏楽研究 1962年1月号(三浦 徹氏所蔵)

▲バンドジャーナル 1962年2月号(三浦 徹氏所蔵)

2018年5月7日(月)、筆者は、川崎市中野島にある三浦 徹さんのご自宅を訪ねていた。

三浦さんは、周知のとおり、東京佼成ウインドオーケストラのユーフォニアム奏者を長くつとめた後、国立音楽大学教授に転じられ、退任後の今も、吹奏楽の発展とユーフォニアムの啓蒙のために精力的な活動を続けられている。

東京佼成WOのレコーディングやさまざまな演奏シーンでご一緒しただけでなく、プリーズ・ブラス・バンドの客演独奏者として招いたこともあり、NHK名古屋放送局(CK)から全国生放送されたFMラジオ番組で共演したこともあった。

毎年末、関西のユーフォニアム奏者たちが氏を囲んで開く忘年会で、互いの近況を確認したり音楽談義をするのも恒例行事となっている。

この日おじゃました最大の目的は、所蔵されている古い「バンドジャーナル」誌(音楽之友社)を直接見せていただくことにあった。

古い雑誌は、公立の図書館でも一定期間を過ぎると破棄され、国立国会図書館でも全号が揃っていないことが多い。最後の砦は、“個人所有”となる。

「バンドジャーナル」の創刊号は 1959年(昭和34年)の10月号で、発売は9月15日だったと記録にある。フランスのギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団(公演名)が初来日する2年前のことだ。

氏は、大阪の明星高等学校音楽部の出身で、所蔵されている中で特に古い号は、音楽部の部室の改築時に貰い受けられたものや、その後に進まれた東京藝術大学時代の師である大石 清さんから譲り受けたものだとのこと。

『もっと一杯あったんですが、痛みが激しく家内に処分されたのもあって…。』と恐縮されていたが、筆者が訪れる前までに、丁寧に陰干しまでしていただいていた。

そして、テーブルに積み上げられたそれらを古い順にページをめくり始めたとき、『これは、バンドジャーナルじゃないんですが・・・。』と言われ、ふいに手渡された同じサイズの一冊の雑誌に目が釘付けになった!

それは、今や“まぼろし”の「月刊 吹奏楽研究」(発行:月刊 吹奏楽研究社)の1962年1月号(通巻75号)だった。

「月刊 吹奏楽研究」(もしくは「吹奏楽研究」)は、「バンドジャーナル」より3年早い1956年(昭和31年)創刊の吹奏楽専門誌で、編曲者としても知られた三戸知章さんが編集主幹をつとめられ、1964年(昭和39年)に廃刊になるまで、吹奏楽ファンにホットな情報を提供した。

国立国会図書館には1冊も所蔵なく、ネット上の検索システムで25冊の所蔵が確認できたのは、全国のライブラリーで唯一、東京文化会館の音楽資料館だけだった。実は、同館には三浦氏宅訪問翌日に閲覧に行く予定になっていた。

三浦氏宅で手にしたその号は、1961年11月2日(木)、東京・上野の国立博物館庭で行われた「ルーブルを中心とするフランス美術展」の開幕式で、昭和天皇、皇后両陛下を前に演奏するギャルド・レピュブリケーヌの写真(朝日新聞社撮影)が表紙を飾っていた。写真に写っている人物が全員起立しているから、国歌を演奏中のシーンと思われた。

そして、その号は、東京文化会館音楽資料館では歯抜けとなっている1冊だった!

早速ページを開くと、それは正しく“タイムカプセル”のような世界!

ギャルド関連の記事は、約3ページに渡り、とくに目を引いたのは、1961年11月3日(金・祝)の文化の日に新宿の厚生年金会館で行われた“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団歓迎演奏会”についての1ページをこえる詳細レポートだった。

記事によると、午後6時に始まり、午後10時に及んだこの演奏会のプログラムは、つぎのようなものだった。(カッコ内氏名は、指揮者名)

■海上自衛隊東京音楽隊(高山 実)

クレッチマー:行進曲「戴冠式」
マスネ:序曲「フェードル」

■日本大学(山岡永知)

ピラジーニ:序曲「ローマの鐘」

■国立音楽大学(大橋幸夫)

グローフェ:組曲「大峡谷」より“日没”“豪雨”

■日本大学第一高校(小山光男)

スッペ:序曲「詩人と農夫」

■航空自衛隊音楽隊(松本秀喜)

シュトラウス:皇帝円舞曲
松本秀喜:日本古謡集

■武蔵野音楽大学(加藤正二)

ホルスト:バンドのための組曲第二番
陶野重雄:若人の踊り

■豊島区立第十中学(酒井正幸)

トマ:歌劇「レーモン」序曲

■東京藝術大学(山本正人)

フォーシェ:バンドのための交響曲 第1楽章

■陸上自衛隊中央音楽隊(須磨洋朔)

ファリャ:舞踏組曲「恋は魔術師」

■ギャルド・レピュブリケーヌ(フランソワ=ジュリアン・ブラン)

ベルリオーズ:ローマの謝肉祭
ファリャ:三角帽子
リスト:ハンガリー狂詩曲第2番

歓迎する日本側は、合計9つのバンドが登場。くしくも3つの音楽大学、3つの自衛隊音楽隊が共演するかたちとなり、東京都吹奏楽連盟加盟団体から“東京都吹奏楽コンクール”で第2位に入った豊島十中、日本大学第一高校、日本大学の3校も演奏。これが都大会優勝の代表バンドでなかったのは、11月12日(日)、東京・台東体育館で開催予定の第9回全日本吹奏楽コンクールが目前にせまっていたことも配慮されたのだろう。

記事には、各団体の演奏評も書かれているが、ギャルド以外のバンドの中では、豊島十中の演奏に対して書かれた以下の記述がとくにおもしろい。

『音楽大学のバンドの間にはさまって、少しもヒケを取らぬ少年少女の好演に、アンコールの嵐がわき、….、このために、陸上自衛隊の連隊行進曲の演奏が省略されるハメになったほどである。….。この夜の演奏会で、いちばん聴衆に感銘を与えたバンドであった。』(原文ママ)

第30話「ソノシートの頃」でお話ししたとおり、この演奏会は、朝日ソノラマがライヴ収録し、同誌1961年12月号のソノシートにギャルド・レピュブリケーヌの演奏が、1962年1月号には豊島区立第十中学校吹奏楽部の演奏が収められた。演奏会当日の空気を伝えるこの「月刊 吹奏楽研究」の評者(恐らく、三戸知章氏)の弁を読む限り、それは当然の結果だと思えた。

「月刊 吹奏楽研究」が“ギャルド来日決定”をはじめて報じたのは、1961年7月号(通巻70号)。同号では、来日するのは65名で、“45名編成のバンドに、ラッパ鼓隊20名が加わる”と紹介されている。

余談ながら、東芝音楽工業や東芝EMIが発売したギャルドのレコードやCDのジャケット写真が、吹奏楽団ではなく、馬にのった騎兵ばかりであるのは、このときに朝日新聞社を通じて東芝がゲットできた写真が“バテリー・ファンファール”の騎兵のものと40名の弦楽奏者を加えた“グラン・オーケストラ”のものだけだったからだ。

しかし、この直後、朝日新聞社がさらに折衝を重ねた結果、来日するのは“ラ・ミュジーク”と呼ばれる吹奏楽団に変更され、「月刊 吹奏楽研究」は、これを1961年8月号(通巻71号)でつぎのように報じている。

『世界最高の吹奏楽として認められるフランス巴里のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団の来日については、前号で報道してあるが最初予定された二十名のラッパ鼓隊を含む六十五名の編成のものでは、ギャルド・レピュブリケーヌの真の姿の演奏を聴くことができないうらみがあるので、主催者の朝日新聞社では、さらに折衝をかさねた結果、フルメンバー八十名が正指揮者プルーン楽長とともに来日することに決定した。』(原文ママ)

その後、「月刊 吹奏楽研究」は、同年10月号(通巻73号)で、詳細スケジュールを掲載。来日評が載った前記の1962年1月号では、招聘にあたり“朝日新聞社が三千万円を越える巨額の費用で招いた”という驚くべき事実まで報じられていた。

当時の三千万円が、いま一体どのくらいの価値になるのだろうか!?

「月刊 吹奏楽研究」が伝えるもの。

紙の上に残された一文字、一文字の重みをこれほど感じたことは無かった!!

▲EP – ギャルド・レピュブリケーヌ日本行進曲集(東芝音楽工業(Angel)、AA-4046)(再発盤)

▲EP – スーザ・マーチ集(東芝音楽工業(Angel)、AA-4506)

▲EP – 牧神の午後への前奏曲(東芝音楽工業(Angel)、AA-4625)

▲EP – ギャルド・レピュブリケーヌ日本行進曲集(東芝音楽工業(Angel)、AA-4535)(再々発売盤)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第38話 スパーク:ギブ・ミー・チケット・パーティー

▲Osaka Shion Wind Orchestra 第111回定期演奏会チラシ

『まだホールはとれていないんですが、スパークさんにスケジュールを訊ねていただけませんでしょうか?』

大阪市音楽団(愛称:市音。現オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)の三宅孝典さんからフィリップ・スパークを2015年春の定期演奏会で客演指揮者として招きたいという旨の電話があったのは、その前年の始め頃だった。

もちろん、筆者は、フィリップ・スパークのマネージャーなどではない。だが、長いつき合いから、都合を訊ねるくらいのことはいつだってできる。受話器の向こうの相手は、それを承知の上で電話してきているのだ。

一方のフィリップも、作曲家として超多忙な毎日を過ごしている。世界中から寄せられる作品委嘱も2年半先まで抱えていた。来日ともなると、それを中断し、最短でも1~2週間、ホームをあけることになる。“ホールがとれていない”ような状態で、来日の可能性を打診するなんて真似は到底できなかった。何よりも時間の無駄遣いだ。

プロらしからぬ打診だと思えた。

長く続いた大阪市の直営から民営化される、ちょうどそんな時期にあたっていたこともあるのだろう。しかし、それにしても意味不明の不思議な電話だった。

実は、ここまで2度、市音はフィリップに断られていた。日程が擦りあわないこともあったが、要は、話の進め方がおかしいのだ。

『ホールが確定してから、改めてお話し下さい。』と言って電話を切った。

フィリップが日本の聴衆の前に、はじめて指揮者として姿を現したのは、1993年11月8日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで催されたプリーズ・ブラス・バンドの「ライムライト・コンサート6」だった。当時、筆者は、このプロのブラスバンドのミュージカル・スーパーバイザーをつとめていたが、その後、何度も大阪の地に招いたので、彼はひとりで地下鉄を自在に乗りこなせるほど、大阪の街に親しんでいた。

2005年6月3日(金)、ザ・シンフォニーホールで行なわれた「大阪市音楽団第90回定期演奏会」で、山下一史の指揮で行われた『宇宙の音楽(Music of the Spheres)』ウィンドオーケストラ版の世界初演の際にも、“これは作曲者として聴いておくべきだ。聴きにおいでよ。”と言って彼を招いている。

そのとき、ホールに流れるサウンドに身を任せていると、後半部で不覚にも涙がこぼれそうになった自分がいた。普段冷静なフィリップも、指揮者の山下さんからステージに招かれ、聴衆に向って何かをコメントしようとしたとき、何を喋っているのかわからないほど早口になり、かなり興奮していた。

圧倒的な演奏だった!!

それから10年近い時が流れ、2014年の1月11日(日)、彼が客演指揮した文京シビックホール 大ホール(東京)でのシエナ・ウインド・オーケストラ「第37回定期演奏会」も、満員札止めの大成功を収めていた。

話を元に戻そう。

三宅さんから再び電話があったのは、6月17日のことだった。

2015年6月2日(火)のザ・シンフォニーホールを押さえることができたので、前3日の練習という日程で来日が可能かどうか打診してほしいとの話だった。

早速、フィリップにメールすると、

『ディア―・ユキヒロ, それはとてもエキサイティングだ!それらの日付は空いている。彼らの条件やプログラムの提案などを聞くのを楽しみにしている。』

と打ち返されてきた。

すぐ、結果を三宅さんに連絡を入れ、一度ミーティングを行うことになった。民営化され、一般社団法人となった彼らの運営方針にも興味があったからだ。

7月3日、三宅さんと会った。“仕事として受けて欲しい”と言われるので、指揮料、渡航費、ホテルなどの条件をつめていく。しかし、市音が外国人アーテイストを独力で招いたことが過去になかったので、“興業ビザ”の取得や“日本滞在中の待遇”など、多くの課題があることが分かった。

また、前年のシカゴのミッドウェスト・クリニックで、三宅さんがすでに“簡単に演奏できない無茶苦茶難しい曲”をリクエストしていたことも発覚!

(オイオイ、それなら最後まで自力でやれよ。何度も言うが、筆者はフィリップのマネージャーなどではない!)

それは、しばらくしてフィリップから出来上がったばかりの曲のスコアが送られてきて市音を二分する問題となる。

兵庫県西宮市の関西学院創立125周年・関西学院大学応援団総部吹奏楽部創部60周年記念委嘱作『知られざる旅(The Unknown Journey)』だった。その初演は、2014年11月8日に予定されていたので、フィリップとしては、2015年の演奏なら何の問題もないと判断しての送付だった。

演奏賛成派は、音楽的な興味から“やるべし”と言い、演奏反対派は、市音と関学との関係がやっかいなことになるのを懸念して“やめるべき”と言った。

結局、少なくとも委嘱者による初演が終わるまではまったく広報できないという興業上の事情もあり、演奏は見送られたが、一方で初演より早く市音がスコアを見ていたのも紛れもない事実だった。

費用面についての折衝もかなり難航した。

まず、できたばかりの新しい一般社団法人の規定では、客演指揮者のホテルの食事は“朝食のみ”と定められていた。

しかし、これまで筆者が手掛けてきた外国人アーティストとの条件では、ホテル・アコモデーションと言って、招聘者が滞在中の宿泊と食事のすべてをみるのは常識だった。

フィリップに市音の条件を知らせたときの反応が傑作だった。

『ブレックファーストだけで一日を過ごすなんて!たいへんだ!!』

筆者も、“日本人なら、居酒屋に行ったり、うどんをすすったりできるが、食習慣も違い、いつも食べているものを好きな時に食べることのできない異国に招いたお客に、自分で勝手に喰えというのはどう考えてもおかしい。”とかなりねじ込んだが、“規定”を前にあえなく爆沈!

無駄遣いなど、さらさらする気はなかったが、常識的な必要経費にも大きくクギを刺されて、ついに爆発!『この件からは降りる!』と言って大ゲンカに発展したこともあった。

ついこの前まで公務員だった人たちとの折衝は、感覚的に勝手が違う。

最終的に、フィリップの滞在中の夜の食事は、友人としてすべて筆者が面倒をみることになった。

しかし、ものは考えよう。

毎日の練習後は、完全にこちらの世界だ。

早速、フィリップとゆかりの深い人たちに連絡をとり、6月1日(月)午後6時45分、JR大阪駅(5F)にある大阪ステーションシティ「時空(とき)の広場」“金時計”前に集合し、ラヴァーニャというイタリアンのお店で、食事会を開催することができた。

集まったのは、名古屋芸術大学の竹内雅一さん、大阪音楽大学の木村寛仁さん、相愛大学の石田忠昭さん、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さん、早稲田摂陵高校(当時)の井上 学さん、プリーズ・ブラス・バンドの上村和義さん、フィリップご指名の音楽通訳の黒沢ひろみさんという、愉快な面々!

共通するのは、全員が翌日のフィリップ vs シオンのコンサートのチケットを持っていなかったことだ。チケットはかなり前に完売。招待状の発送すら見送られたという状況だったからだが、当然のことながら、逆に食事会は大盛り上がり!

いい気分になったところで、解散時に全員で声を揃えて大合唱!

ギブ・ミー・チケット!!!

▲スコア – 知られざる旅

▲Osaka Shion Wind Orchestra 第111回定期演奏会プログラム表紙

▲第111回定期演奏会演奏曲

▲CD – シオン×スパーク!

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第37話 大阪府音楽団の記憶

▲LP – 吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1(東芝EMI、TA-60006)

▲吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1 – A面レーベル

▲吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1 – B面レーベル

かつて「大阪府音楽団」という名のプロの吹奏楽団が大阪に存在し、精力的な演奏活動を行なっていた時代があった。

全国的視野にたつと、正しく大阪ローカルな話題ではあるが、地元では今もって惜しむ声が出るほど、精緻なアンサンブルと透明なサウンドをもつひじょうにスキルの高い“ウィンド・アンサンフル”だった。

また、年間演奏回数が200回近かった年もあり、“精力的”と書いて何ら誇張のない、そんなエネルギッシュな楽団でもあった。

ん!? 「大阪府音楽団」!? いったい何だそれ!?

残念ながら、大阪以外で生活されている人にとっては、目の前で見たことも聴いたこともない存在だったろうから、“大阪”という字と“音楽団”という字が並んだ楽団名をみた瞬間、橋下市政の下で存廃問題に揺れ、市議会での廃止議決後、2014年に民営化した“オオサカ・シオン・ウインドオーケストラ”の前身「大阪市音楽団(通称:市音)」と同一視あるいは混同されてしまいがちな、正直言ってそれぐらいの認知度の楽団だったのではないだろうか。

しかし、だからだこそ、大阪ネイティブがしっかり語っておかねばならないヒストリーだってある。

「大阪府音楽団」(通称:府音)は、昭和27(1952)年10月、都道府県立としては全国唯一の職業吹奏楽団として創設。昭和天皇崩御によって元号が改まった平成元(1989)年の3月まで演奏活動を行った。37年間、実在したプロ吹奏楽団だった。

この楽団には、今やすっかり忘れられてしまった誕生前史がある。

もともと大阪府庁には、作曲家としても知られた江頭林次郎が指導、指揮をする“大阪府庁吹奏楽団”という府職員による職場のバンドがあった。彼らは、各方面のリクエストに応えて都合がつけば演奏に出向いていたが、次第に認知を得て演奏頻度が高くなるにつれ、通常の役所勤務の傍ら演奏活動を継続的に行うことが難しくなった。その結果が、府立の職業吹奏楽団創設へとつながったというわけだ。

編成は“40名前後”の中編成。

1956年から1964年まで刊行されていた月刊誌「吹奏楽研究(もしくは、月刊吹奏楽研究)」(発行:吹奏楽研究社。国会図書館には所蔵なく、全号ではないが、東京文化会館音楽資料室に所蔵を確認)の1961年3月号(No.67)の記事「プロバンドめぐり3 洋々たる前途の明るい大阪府音楽団 全国都道府県でただ一つの存在」には、沿革と38名の楽員のパート、氏名が紹介されている。

当時、大阪府知事室広報課(のち、大阪府企画部教育文化部)に所属し、同課長が団長をつとめた“府音”の演奏は、この頃、当初のマーチングやセレモニーのためのものから、ホール等におけるコンサート・バンドの活動中心へとシフトしていった。

大阪市内にあった毎日ホールや厚生会館文化ホール(後の大阪府立青少年会館)、大阪厚生年金会館中ホールなどで開かれる定期演奏会(府庁配布の招待券を持っていきさえすれば無料)では、アメリカで出版されたばかりの最新オリジナルが取り上げられることもあり、吹奏楽ファンには欠かせないコンサートとしてたいへんな人気を博した。

筆者も、1966年に府音に迎え入れられた井町 昭さんが指揮を振る定期は、欠かさず聴きに行ったものだ。

ウィリアム・シューマン(William Schuman)の「イエス涙を流したもう時(When Jesus Wept)」やロバート・ジェイガー(Robert Jager)の「アラモ(Alamo)」、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の「パッサカリア(Passacaglia)」などをはじめてナマ演奏で聴いたのも、すべて“府音”の演奏会だった。

また、当時としてはたいへん珍しく、パウル・ヒンデミット、モートン・グールド、ヴィットリオ・ジャンニーニ、ヴィンセント・パーシケッティ、ロバート・ジェイガー、アルフレッド・リード(金管と打楽器のための)、ポール・フォーシェ、フランク・エリクソン(第1番、第2番)のオリジナル交響曲も積極的に取り上げられた。

「創設20周年記念特別演奏会」(1972年11月9日、大阪厚生年金会館大ホール)や「朝比奈 隆 音楽生活40年 記念演奏会」(1973年5月25日、フェスティバルホール)など、機を捉えては“市音”と合同の大編成のステージも企画され、大阪フィルハーモニー交響楽団や関西歌劇団との協演も行なわれた。

1972年には、FM大阪の番組「大阪府の時間」のために収録(4月17日、大阪府立青少年会館)が行われ、毎月1回、同番組で府音の演奏が放送された。このほか、FM大阪は、「創設20周年記念特別演奏会」のライヴも放送した。

また、1974年8月12~14日、箕面市民会館で録音セッションが行われた東芝EMIのLP「吹奏楽オリジナル名曲集 Vol.1」(TA-60006 / 指揮:井町 昭、朝比奈 隆、大栗 裕 / リリース:1975年2月5日)は、府音絶頂期の演奏を伝えるレコードとして、今なお評価が高い。

しかし、府音の終焉は、突如として訪れた。

当時、府音友の会が発行していた会報「Fuon Echo(フオン・エコー)」の第9号(1989年春)に掲載された大阪府音楽団長、井上 正さんの「友の会会員の皆様へ」という一文が物語る内容は衝撃的だ。

『大阪府では、昭和27年の発足以来、「府音」の名で親しまれて参りました大阪府音楽団を、平成元年度を期して管弦楽団に再編し、その運営を大阪府が新たに設立する文化振興財団に移管すべく準備を進めております。この改革は、鑑賞機会の増大や音響機器の発達・普及により、府民の皆様の求める演奏がより質の高いものへと変化してきていることを受け、音楽専門家からなる懇話会のご意見も踏まえて行うものであります。

新たな楽団におきましては、これまでの音楽団の伝統を受け継ぎ、地域での演奏活動を通じて音楽の普及に努めるとともに、バレエやオペラの演奏等を通じて。音楽文化の振興を担う活動をすすめてまいります….。』(原文ママ)

こうして誕生したのが、大阪センチュリー交響楽団(現、日本センチュリー交響楽団)で、運営母体となる大阪府文化振興財団には、府が億単位の原資を出資した。

しかし、その設立事情の説明でよく見かける“府が運営したプロ吹奏楽団、大阪府音楽団を発展的に解消する形で設立”という“オブラートに包んだきれいごと”の文言に、筆者は強い違和感を覚える。とくに“発展的”と言う言葉に対して!?

『ええか、今はオフレコやけど。“吹奏楽なんかいらん”と言いよったオーケストラ推進派の評論家がおってな。府音をめちゃくちゃにしよったんや。』

すでに鬼籍に入られてしまったが、筆者の音楽の師の一人である市音の元団長、そして大栗 裕の「吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”」の委嘱者であり、初演指揮者だった永野慶作さん(1928~2010)の言葉だ。

いつも笑顔でひじょうに温厚な氏が、これほどの怒気をはらんだ言葉を吐露されたことをこの前にも後にも聞いたことがない。それを“ひとり言”に記す責は間違いなく筆者にあるが、すでに21世紀。もはやオフレコにしておく必要はどこにもないだろう。

そう言えば、指揮者の井町さんが府音を去った後の1976年以降、府音のレパートリーはガラリと変わり、「ナマオケで第九を歌おう」とか「フラメンコ カルメン」、「ピアノ協奏曲の夕べ」、「オペラ“ヘンゼルとグレーテル”全3幕」といったようなおよそ吹奏楽らしくない演目のコンサートもしばしば開かれるようになった。ために、府音に対する音楽的興味を完全に失ない、コンサートに足を運ばなかった自分がいた。

それでも、無くなるとなると、一抹の寂しさが脳裏をよぎった。

新たなオーディションの結果、オーケストラに残留が決まった府音のメンバーは3名だったと聞く。どこが“発展的に解消”だ。

壊すのは簡単。しかし、人が壊したものは、ゼッタイ元へは戻らない。

ゆえに、前記の“Fuon Echo”で井上団長が友の会の会員に寄せたメッセージの文末に近い部分も、ぜひにも引用して記憶にとどめたいと思う。

『来る18日に開催いたします第79回定期演奏会は、大阪府音楽団として最後の演奏となります。この演奏会では、これまでの音楽団活動の集大成とするため、全プログラムを吹奏楽のオリジナル作品でまとめ、団員一同が総力を結集して取り組みます…。』

1989年3月18日(土)、八尾市文化会館プリズムホールで行われた府音最後の定期演奏会にふれた部分だ。(指揮:小田野宏之)

いろいろな想いがつまったメッセージの一言一句が心にグサリと突き刺さった!

嗚呼、大阪府音楽団!!

▲LP – 創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会(日本ワールド、W-549)

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会 – A面レーベル

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会 – B面レーベル

▲創設20周年記念 大阪府音楽団特別演奏会プログラム

▲元団員がワープロ打ちで手作りした“大阪府音楽団主要演奏記録”

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第36話 ネルソン「ロッキー・ポイント・ホリディ」の事件簿

▲ロン・ネルソン(作曲者提供)

アメリカの作曲家ロン・ネルソン(Ron Nelson)と交友が始まったのは、1997年のことだった。

楽曲解説の必然性から、「冬の日のはじまりのための“モーニング・アレルヤ”(Morning Alleluias for the Winter Solstice)」(1989)と「パッサカリア(B-A-C-Hを讃えて)(Passacaglia (Homage on B-A-C-H)」(1992)についていくつか質問を書いたときのことだ。

当時は、電子メールのようなインターネット・ツールの利便性はまだまだこれからというときで、原稿をすべて鉛筆で書き、デジタル化にも積極的ではない筆者が持つ通信ツールと言えば、当然“電話”と“ファクシミリ”だけ。自然、海外との通常のやりとりは、緊急時の“国際電話”を除くと、もっぱら航空便(エアメール)だけだったが、ロンからの返信は、いつも迅速、そして要点が明瞭だ。

2人のやりとりのハイライトは、なんといっても、2007年秋に突然表面化することになった名作「ロッキー・ポイント・ホリディ(Rocky Point Holiday)」の“実は作曲年が違っていた”事件だろう!!

きっかけは、鈴木孝佳(タッド鈴木)指揮、TADウインドシンフォニーが、2007年6月1日(金)、大田区民ホール アプリコ(東京) で開いた“第14回定期演奏会”で演奏したこの曲のライヴ録音をCD化する話が固まったときのことだった。(CD:タッド・ウィンド・コンサート Vol.3 ヴィジルス・キープ、Windstream、WST-25006、リリース:2008年1月

もう21世紀に入っていたので、この時のやりとりは電子メールに進化していたが…。

結論を先にお話しすると、それまでアメリカと日本のすべての解説や資料に載っている“作曲:1969年”というデータが完全な事実誤認で、実際には3年前の1966年に曲が書かれていたということが判ってしまったという事件だった。

その顛末は、「スクープ!! ロン・ネルソンの人気曲『ロッキー・ポイント・ホリディ』の作曲年が書き換えられることになった!!」(バンドパワー、2007年)という、まるで“週刊なんとか”のような派手なタイトルの投稿となった。タイトルは“若気(?)の至り”ということでお許しいただきたい。我ながら、それくらい興奮していたということだ。

そもそも、この作品の作曲年に疑問を感じたのは、楽譜の下部左側に印刷されているコピーライト・ラインのつぎの記載だった。

Copyright 1969 by Boosey & Hawkes, Inc.
Copyright for all countries. All rights reserved.

著作権に明るい人が見れば、すぐわかるだろうが、この“Copyright 1969”は、作曲年を示さない。出版社のブージー&ホークスが、この自社の出版楽譜の権利を全世界に向けて表明した年に過ぎない。即ち、音楽著作権を管理する組織に対して“この楽譜は自社の作品”である旨を届け出た年だ。

当然、作曲はこの年を含めたそれ以前に行われたことになる。

そこで、いろいろな資料をチェックすると、この曲は、1969年にミネソタ大学コンサート・バンド・アンサンブル ’69(University of Minnesota Concert Band Ensemble ’69)が行ったソヴィエト演奏旅行のコンサートのオープナー(コンサートの冒頭を飾る曲)として、指揮者のフランク・ベンクリシュート(Dr. Frank Bencriscutto、1928~1997)が作曲者に委嘱したというエピソードが出てきた。

だが、この演奏旅行のことを調べると、ツアーは、いつ核戦争が起こっても不思議ではない一触即発の冷戦状態で非難の応酬に終始していたアメリカとソヴィエトがその危機的状況を緩和するため、両国政府の主導で1968年から1969年にかけて行った互いに文化人や団体を行き来させる文化交換アグリーメント(1968-69 United States-USSR Cultural Exchange Agreement)の一環として計画されたものの1つで、ミネソタ大学バンドのツアーは、1969年3月31日~5月21日の期間にソヴィエトにバンドを派遣して実施され、帰国直後の5月23日、ホワイト・ハウスのローズ・ガーデンで、ファイナル・コンサートが行なわれたことが分かった。

ツアーが“1968年以前の両国同意”から準備がスタートしたことと、作曲が出版目的ではないことだけは確かなようだ。すると、曲はいつ書かれたのだろうか。

もちろん1969年のツアー直前に書かれたとも考えられるが、プランを立てて進められる国家プロジェクトをそんな直前に“やっつけ”でやるはずはないし、仮にそうだとしても、“ホリディ”というタイトルがどうにも腑に落ちなかった。冬の“ホリディ”に書かれた曲にしては、曲想やハーモニーがやたら明るいのだ。

アタマの中は“作曲年”ひとつを巡ってもう大混乱!

急いでロンに連絡をとると、40年近い昔のことで彼はもう何も覚えていなかった。曲を委嘱したベンクリシュートもすでに故人だったし…。しかし、筆者の疑問は当然だとし、ダメもとでミネソタ大学に当時のことを誰か覚えていないか、FAXで照会してくれたのだ。

大学も、直ちに同窓会ネットワークを通じてこの質問を広めてくれ、それにメールで応えてくれたのが、ディズニーランドのタレント・ブッキング・マネージャー、スタンフォード・フリース(Stanford Freese)氏だった。大学では“スタン”と親称で呼ばれ、ソヴィエト・ツアーでは、ソロリストとして大活躍した。

彼からのメールは明解だった。

『ハイ、ロン。我々は、“ロッキー・ポイント・ホリディ”を、1967年の冬、CBDNAのコンヴェンションで初演しました。ロシアではすべてのコンサートで真っ先に演奏。この曲は、確かにアメリカ合衆国を有名にしましたよ。聴衆も熱狂。私は、今でもテューバ・パートを覚えています。』

これには、ロンも筆者もビックリ仰天!!

CBDNAとは、全米カレッジ・バンド・ディレクター協会(College Band Directors National Association)の略だ。チェックすると、1967年2月8~11日の日程でミシガン州アナーバーで開催されたCBDNA第14回全国コンヴェンションにベンクリシュート指揮のミネソタ大学バンドが出演。2月9~11日の3日間にコンサートを行ったことが確認できた。

こいつはすごい!

急いでこの事実をロンに知らせると、すぐ“その前年(つまり1966年)の夏のヴァケーションにロッキー・ポイントでこの曲を書いたことを思い出した”という内容の打ち返しがきた。

やはり夏の“ホリディ”の作品だった。

2人は、ついにめざすゴールにたどり着いたのだ!

手許に、アメリカ政府制作の1枚のLPレコードがある。

「A FORCE FOR PEACE(ア・フォース・フォー・ピース)」(White House Record (Century)、35416)と題するこのレコードは、1969年5月23日(金)、ホワイト・ハウスのローズ・ガーデンで行なわれたミネソタ大学バンドのツアーをしめくくるファイナル・コンサートのライヴ盤だ。

調べると、これには、ソヴィエトでのライヴを構成に取り入れた2枚組とホワイト・ハウスでのダイジェストをまとめた1枚ものの2種類があったようだ。

筆者の手許にあるのは、ダイジェストの方で、「ロッキー・ポイント・ホリディ」は省かれ、一部曲目が表記と違っていたりするが、ジャケットの写真には、椅子についた若い学生たちのバンドを前にスピーチするソヴィエト大使とその傍らで笑うニクソン大統領が写り、ツアー当時の空気がよく伝わってくる。もちろん、レコードには両氏のスピーチも入っている。また、見開きジャケットを開くと、多くの新聞の切り抜きとともに、ノヴォシビルスクのコンサートで撮影された写真が僅かに1枚だけ掲載されていた。

そこに写っていたのは、指揮者フランク・ベンクリシュートと「ロッキー・ポイント・ホリディ」の初演のことをメールで知らせてくれたソロイストのスタンフォード・フリースの2人だった。こんなところで、当時の2人の姿を見つけることができるなんて、なんと感動的なんだろう!

レコードには、ホワイト・ハウスのコンサートでも大受けで、“Tuba Player Hits High Note With Soviet Ambassador”と新聞の見出しにもなったフリース独奏の「ベニスの謝肉祭」も入っていた。

名作「ロッキー・ポイント・ホリディ」は、作曲者と筆者の間にいろいろなことを自由に語り合える信頼感と連帯感を生みだしていた。

後日、完成したタッドのCDをロンに送ると、『この年になって、若い頃の自分の作品にこんなに興奮させられるとは思わなかった。とにかく、“ロッキー・ポイント・ホリディ”に再び新しい命を注ぎこんでいただいたことに対して大いに感謝したい。』というポジティブな感想が返ってきた。

いくつもの幸運が重なった結果だった。

しかし、だからこそ言える。

音楽に歴史あり。真実は、1つしか無い!!

▲LP – A FORCE FOR PEACE(White House Record)

▲A FORCE FOR PEACE – A面]

▲A FORCE FOR PEACE – B面

▲ジャケットの新聞切り抜きと写真

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.3 ヴィジルス・キープ(Windstream、WST-25006)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第35話 保科洋「パストラーレ(牧歌)」の事件簿

▲“パストラーレ”掲載の「ヤマハが選んだバンド100曲」(1989年版)

ウィンド・ミュージックの楽曲解説に手を染めたのは、1980年代のことだった。

その頃、アメリカでは、アルフレッド・リードやジェームズ・スウェアリンジェン、ロジャー・ニクソン、ジェームズ・カーナウ、ジェームズ・バーンズ、クロード・T・スミスら、わが国でもおなじみの作曲家たちの活躍がつづき、ヨーロッパでも、後に生涯の友となるフィリップ・スパークやヤン・ヴァンデルロースト、ヨハン・デメイらが創作活動を本格化させようとする、ちょうどそんな時期にあたる。

世界中から好奇心をかきたてられるニュースが毎日のように飛び込んでくる、そんな時代だった。

周囲にも、大阪市音楽団の楽曲解説や「最新 吹奏楽講座」(音楽之友社)の執筆をされた奥村 望さん、月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)に多く寄稿され、外国文献の読み解きや原稿用紙の使い方のイロハから教えていただいた橘 清三さん、戦前からの音楽解説者でヨーロッパを中心とした古い音楽資料やレコードに関する不躾な質問にいつも丁寧に答えていただいた赤松文治さん、アメリカを中心とする質問に即答いただき、廃盤になった何枚ものレコードをカセット・テープにしていただいたこともあった秋山紀夫さんなど、リスペクトする多くの先人がいた。すべて筆者の師である。

もちろん、厳しいお叱りや教育的指導を受けたこともあったが、今は、それらがすべて懐かしい。

執筆は、レコード各社や演奏団体からの依頼原稿のほか、自ら企画・制作したレコードやCD、コンサートのためのもの、1980年創刊の月刊誌「バンドピープル」の連載など、多岐にわたるが、“感想”や“印象”“批評”ではなく“解説”を書くことになったときから、常に心がけてきたことがある。

その内、最も大切だと考えていたことを列挙すると・・・。

・情報は、可能な限り原点に遡る

これは、アメリカのことはアメリカ人の書いたもの、フランスのことはフランス人の書いたものを、イギリスのことはイギリス人の書いたものを、オランダのことはオランダ人の書いたものを第一次資料とせよ、ということ。橘 清三さんや赤松文治さんの教えだ。また、楽曲のことを書く場合、疑問点が出てきたら、作曲者が存命ならば、必ず本人とコンタクトする。そうでなかったとしても、出版社や放送局、演奏団体などの関係者に照会する手間を惜しんではいけないということだ。

・徹底した現場主義

レコード会社の中には、録音されたものをヒョイと送って寄こして“解説を書いてくれ”というふざけたリクエストをするところがある。いや結構多い。しかし、解説者も万能ではない。新録音や初録音の楽曲の場合、スコアを手に録音セッションが行われる現場に出向いて勉強し、そこで流れる時間を演奏者と共有する必要がある。時には、煩がられることもあるが、現場で起こったことは、すべて血となり肉となり、文章にも自然と臨場感が出る。

・継続的な検証とアップデート

他の執筆者が書いたものも自身が書いたものも、徹底的な検証が必要。もちろん時間はかかるが、妥協はしない。また、それに伴うアップデートは、いずれ書く機会があるかも知れないので、原稿が印刷された後も関心を失ってはいけない。思わぬところから、思わぬ新事実が出てくることがあるからだ。作曲者が忘れていたことや間違っていることを逆にこちらが見つけてしまうこともある。ために、一度書いたからといって、後日使用した資料や情報の誤りに気付いたときは、それを正さず押し通すような不誠実な対応は、解説者たるもの、ゼッタイにしてはならない。解説者の“名誉”や“メンツ”など、“事実”の前にはまったく意味をもたないからだ。

しかし、ウィンド・ミュージックの音楽解説を始めると、意外なことに気がついた。

現代作曲家の近年の楽曲なのに、基礎データが分からなくなっていることがとても多いのだ。

意外なことに、全日本吹奏楽連盟や日本バンドクリニック委員会といった組織の委嘱作ですら、基礎データが整理されていない曲がいくつも出てきた。

ベートーヴェンやブラームスのことは、もっとよく知られているのに!

こんなことがあった。2018年4月9日のことだ。

筆者のこの日のテーマは、保科 洋作曲の「パストラーレ(牧歌)」(1985)だった。

日本バンドクリニック委員会が“技術的に易しく、日本人のセンスにあったオリジナル作品を”というコンセプトでスタートした委嘱シリーズで、浦田健次郎の「バラード・フォー・バンド」(1983)、兼田 敏の吹奏楽のための「交響的音頭」(1984)についで誕生した委嘱作品の第3作だ。

これは日本バンドクリニック委員会の委嘱作だから、まず、例年発行の「ヤマハが選んだバンド100曲」という日本バンドクリニック委員会が選曲や編纂にタッチしていた本を見る必要がある。しかし、チェックすると…。

スコアの一部とプログラム・ノートが掲載された楽曲紹介の頁は、1989年版にすぐ見つかったが、必要な基礎データ(初演日、初演会場名、初演指揮者名、初演演奏団体名)は、どこにもない。

ついで、手許にあったLPレコード、日本バンドクリニック監修「吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」(東芝EMI、TA-72129)をチェックするが、ここにも基礎データはない。

ただ、このレコードの演奏者が、汐澤安彦指揮、東京アカデミック・ウインド・オーケストラで、録音日は、1985年2月24-26日、会場は、尚美のバリオホールであることが判明した。

だが、この作品は、日本バンドクリニック委員会の委嘱作だ。正式な初演は、例年5月に三重県志摩市の合歓の郷で開催されていたバンドクリニックで行われているはずであり、録音日を“初演”とするにはいささか抵抗がある。“初録音”ならいいが。

そこで、作曲者のホームページをチェックすると、初演日、初演会場名、初演指揮者名は、空欄だが、初演の演奏団体名は“東京佼成ウインドオーケストラ”だと書かれてあった。

頭の中はすでに大混乱! これは、もう作曲者にお訊ねするしかない!

質問をメールで送ると、即答があった。

『当時、合歓の郷で行っていたバンドクリニックで新しい吹奏楽曲の発掘を目的として始めたシリーズの一曲です(私はその時の委員の一人でした)。当然初演は合歓の郷のホール、演奏はフェネル指揮の“東京佼成ウインドオーケトラ”です。もちろん私はその初演に立ち会いました。楽譜の出版は昭和60年5月ですので、初演はその年だと思います。(合歓の郷のクリニックは5月ですのでクリニック開催に合わせて出版したはずです)。汐澤氏の録音には立ち会っていません(彼の演奏は私の意図したテンポより速いので立ち会っていれば直したでしょう)。』(原文ママ)

初演日を除けば、すべてがクリアになった。

こうなると、最後の手立ては、演奏者だった東京佼成ウインドオーケトラだ。

早速、事務局次長でマネージャーの遠藤 敏さんに電話を入れ、当時の演奏記録の詳細が残っていないかどうか調べてもらうことになった。

そして待つこと約2時間。遠藤さんから電話がかかってきた。

『残念ながら、事務所には、当時の詳細は残っていませんでした。しかし、もう帰ってここにはいないんですが、ウチの牧野がプレイヤー時代の詳細な演奏記録を家に残しているということですので、わかるかも知れません。メールを入れておきましたので、返答があると思います。』という高い確率の可能性を示す電話だった。

話に出てくる“牧野”さんとは、長らくフルートをつとめられ、プレイヤー引退後、総務として事務所に入られた牧野正純さんのことだ。1985年当時は、もちろん現役。これは期待できる。

その後、遠藤さんから再度電話が入った。

『連絡が入りました。結論から言いますと、それは、1985年5月18日。合歓の郷では都合6回演奏したのですが、その日の2回目のコンサートに“パストラーレ”とあるそうです。手書きですが、明日FAXでそちらへ送ります。』

まるで考古学のような調査に協力していただいた遠藤、牧野の両氏には大感謝だ!!

先の保科さんからのメールには、こういう一節もあった。

『余談ですが、佼成ウインドオーケトラは合歓の郷に出演の後、演奏旅行だったので数十曲のレパートリーをもっていたのですが、フェネル氏はその中で最も好きな曲が「パストラーレ」だと言って褒めていただきました。たしかその年のクリニックには特別ゲストとしてアルフレッド・リード氏も参加しており、彼にも気に入ってもらい、後に彼が大阪府音楽団の指揮をした際に、オールリードのプログラムの中にパストラーレを加えていただきました(吹田のメイシアターホール、残念ですが日にちは覚えていません)』(原文ママ)

リード指揮の日付は、手許にある当時の“府音”の演奏記録でたちどころに判明。直ちに、2つの演奏データを結果を待ちかねていらっしゃる保科さんにメールでお知らせした。

その後、作曲者のホームページの「パストラーレ」の頁は、つぎのようにアップデートされた。

■初演データ

初演 1985.5.18
場所 合歓の郷ホール
指揮 フレデリック・フェネル
演奏 東京佼成ウィンドオーケストラ

最後に力を発揮するのは、人と人とのつながりである。ネットなどではない!

▲牧野正純さん提供の東京佼成ウインドオーケストラの演奏データ

▲牧野正純さん提供の東京佼成ウインドオーケストラの演奏データ(拡大)

▲LP – 吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」(東芝EMI、TA-72129)

▲吹奏楽ベストセレクション ’85 Vol.1」演奏メンバー

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第34話 ヴァンデルロースト「むかしむかし…」日本語版世界初演!

▲高山市制施行80周年記念 第2回飛騨高山文化芸術祭こだま~れ2016 チラシ

▲スコア – ES WAR EINMAL…

▲むかしむかし…フィナーレ

2016年9月4日(日)、筆者は、名古屋からJR高山本線の特急「ひだ3号」に乗車。遠く山上に見える国宝犬山城や眼下の名勝飛水峡など、車窓を流れる景色を愉しみながら、次第しだいに高揚感が拡がっていくのを感じていた。

めざす目的地は、飛騨高山。

この日は、古くからの友人ヤン・ヴァンデルローストのジングシュピール「むかしむかし…(Es war einmal…)」のキャストを集めて行なわれる全体での初の通し稽古の日だった。

練習会場は、高山市立日枝中学校。

ジングシュピール(Singspiel)は、ドイツ語で演じられる歌芝居や大衆演劇の一種。現代のミュージカルと少し似てはいるが、ヨーロッパでは、しばしばオペラやオペレッタの一種とみなされる。

ヤンの「むかしむかし…」は、ヤーコプ・グリム(1785~1863)、ヴィルヘルム・グリム(1786~1859)の“グリム兄弟”が編纂した有名な“グリム童話”のストーリーをベースとするジングシュピールで、原題もドイツ語読みで“エス・ヴァー・アインマル…”。グリム兄弟の兄ヤーコプの没後150周年にあたる2013年に生地ドイツのハーナウで上演するため、この地方の吹奏楽団ライン=マイン・ウィンド・フィルハーモニー(Blaserphilharmonie Rhein-Main)から委嘱された作品だった。

ウィンドオーケストラのほか、語り手、俳優(オプション)、児童合唱を必要とし、オリジナルの台詞や歌詞は、すべてドイツ語で書かれている。“序曲”に始まり、“金のかぎ”、“赤ずきん”、“ルンペルシュティルツヒェン”、“いばら姫”という、グリム童話の有名な4つの物語から構成される。

『誰もボクがこの種類の作品を手掛けるとは思ってもみなかったようだ。だが、プロジェクトをはじめて知った時、これはチャンスだと思った。それで他者に先を越されないように、真っ先に手を挙げてコンタクトしたんだ!』とは、作曲者の弁。

委嘱者による世界初演は、2013年9月29日(日)、ハーナウ市内のコングレス・パーク・ハーナウ(Congress Park Hanau)で、イェンス・ヴァイスマンテル(Jens Weismantel)の指揮で行われた。このとき、ヤンは、奥さんを伴ってドイツまで観劇に出かけている。

あくまで作曲者本人の“自己申告”だが、この“初演大成功”の知らせはこちらにもすぐに入ってきた。出版社ハル・レナード・MGBの音楽部門責任者、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)から、『ちょっとこれを聴いて欲しい!』とそのライヴがWAVファイルで送られてきたのは、それからしばらくたった2014年6月12日のことだった。メールには“CD化したいが、どう思う?”とも書かれてある。

録音は、ライヴだけに無キズではないが、音楽の中身そのものがすばらしい。速攻で、『ヤンに“おめでとう”と伝えて欲しい!』と打ち返した。

高山での上演計画が持ちあがったのも、ちょうどその頃。ヤンが、名古屋芸術大学教授の竹内雅一さんに“日本でも上演できないだろうか?”と持ちかけたことが発端だった。

ヤンがらみの作品の場合、しばしばこういう展開になってしまうが、自動的というか、例によって、筆者は、関係者間の事情を交通整理し、調整する役まわりをつとめることになった。

飛騨高山文化芸術祭実行委員会会長の大萱真紀人さんにお目にかかったのは、名古屋芸大3号館のホールにおけるハル・レナード・MGB(de haskeレーベル)のためのレコーディング初日の2014年9月16日のことだった。

その日のセッション終了後、張本人のヤンも含め、関係者一同が勢ぞろい。順に話を伺っていくと、この上演には、いくつか高いハードルがあることがすぐに分かった。

まず、ヤンに楽譜のことを尋ねる。すると、「むかしむかし…」は、スコアだけが市販され、他はレンタル扱いになるという。

過去、筆者には、上原 宏さんが音楽監督、指揮者をつとめる東芝府中吹奏楽団によるベルト・アッペルモント(Bert Appermont)のミュージカル「サタンの種(Zaad Van Satan)」上演のお手伝いをさせていただいた経験があり、その楽譜も同様にレンタル譜だったので、ヤンの話から、演奏者と出版社との手続きや約束事が容易ではないことが想像できた。

一方、高山市は、予算執行が年度ごと、つまり、文化芸術祭が催される会計年度に入った2016年4月以降の支払いになるとの説明が大萱さんからあった。しかし、指揮をする竹内さんからは、演奏をするウインドオーケストラが、市中の中高生の合同バンドであり、練習のために楽譜はもっと早く、できれば2015年の秋あたりまでには欲しいという要望が出る。

まず、このタイムラグをベン・ハームホウトスに認めさせる必要があった。

次に、これが肝だったが、主催側としては、ドイツ語の歌詞や台詞をすべて“日本語”に訳して上演したい、つまり高山としては“日本語版世界初演”というステータスがひじょうに大切な条件になるという話が出た。

もちろん、ドイツ語の歌詞と台詞にも、作者がおり、出版社がそのコピーライトを管理しているので、翻訳のチェックや許諾を出版社の日本法人である東京のハル・レナード・MGBが処理する必要がある。当然、作品の規模に応じた許諾料が発生することになるが、必要なものは予算に組み入れるから問題ないといわれる。

大萱さんの熱意に、こちらも押され気味だ!

また、日本語での上演となると、関西弁まじりの“あやしい日本語”を操るヤンと言えども、指揮はできない。アドリブも含め、舞台上に飛び交うすべての日本語に即応できないからだ。もちろん、これはヤンも納得済み。

他にも、細かい課題がいくつかあったが、それらを確実に1つずつクリアしながら、やっとたどり着いたのが、9月4日の初の通し稽古だった。

ここまで、およそ2年の時間が流れていた。

この日、それまで別々に練習していたウィンドオーケストラ、語り手、俳優、児童合唱が一堂に会した訳だから、それはそれは壮観。そして、それぞれのグループが自分たち以外のパートがどんなことをやっているのかをお互いに初めて意識したわけで、多少戸惑いを見せながらもモチベーションの高い稽古となった。駆けつけた市の担当者も感動の様子だ!

各セクションは、この日判明した課題を持ち帰って各個にリハーサル。前日の総練習をへて、2016年9月18日(日)、高山市民文化会館での本番の日を迎えた。

コンサートのタイトルは、「高山市制施行80周年記念 第2回飛騨高山文化芸術祭こだま~れ2016 ES WAR EINMAL…(むかしむかし・・・)日本初演・日本語版世界初演」。

“こだま~れ”とは、美しい山々に囲まれる高山らしいネーミングだ。

この日、1280名収容の大ホールは、溢れんばかりの聴衆が集まり、急遽予備席も準備し、出演者のために用意した座席まで開放するような大盛況!!

高山市内の小学生・中学生・高校生を主体とする“こだま~れジュニアコーラス”、“こだま~れウィンドオーケストラ”、“こだま~れアクターズ”が演じた「むかしむかし…」は、集まった市民たちに大きな感動をもたらした。

ヤンや筆者らとともにこの上演を観た高山市副市長の西倉良介さんも、思わずスタンディング・オーべ―ションで、『ウチの子供たちがこんなすばらしいことができるなんて、信じられません。感動しました。』と率直な感想を述べられた。

指揮者の竹内さんから促され、ステージに駆け上がる作曲者のヤンと合唱指導に当たられた平田 誠さんにも万雷の拍手が贈られる。

澄み切った水やおいしい空気、そして有名な高山祭だけじゃない。

こんなことができるこの町が大好きになっていた!

▲あかずきん

▲おおかみ

▲王子といばら姫

▲カーテンコール

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの

▲25cm LP – On the Mall(米Decca、DL 5386)モノラル

▲LP – I Love to hear a Band!(米Decca、DL 8445)モノラル

▲The Wind Band – Richard Franko Goldman著(Allyn and Bacon、1962)

20世紀アメリカの吹奏楽史において、エドウィン・フランコ・ゴールドマン(1878~1956)とリチャード・フランコ・ゴールドマン(1910~1980)の父子がのこした功績は、アメリカのバンド指導者が例外なく広く認めるところだ。

父エドウィンは、1911年に誕生したニューヨークの有名なプロ吹奏楽団“ゴールドマン・バンド”の創設者であり指揮者で、作曲家としてもおよそ150曲の作品をのこした。アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A.)の初代会長としても知られる。

わが国では「木陰の散歩道」という邦題で親しまれる「オン・ザ・モール(On the Mall)」も、エドウィンの代表作の1つで、曲名は、ゴールドマン・バンドがしばしばコンサートを催した野外音楽堂ナウムブルク・バンドシェル(Naumburg Bandshell)が建つニューヨーク・セントラル・パーク最大の並木道“ザ・モール(The Mall)”をさしている。

鋳鉄作りの小さなバンドスタンドに代わって、ナウムブルク・バンドシェルが建設されたのは1923年のことだ。ニューヨーク市民がパーク内にオーケストラも演奏可能なステージを求めたことがきっかけだったと言われている。

第20話でとりあげたノーマン・スミス(Norman Smith)とアルバート・スタウトミアー(Albert Stoutamire)の共著「Band Music Notes」(Revised Edition、Kjos、出版:1979年)の表紙写真のバンドシェルがそれで、名称は、建設資金を提供した銀行家エルカン・ナウムブルク(Elkan Naumburg)の名からとられた。

マーチ「オン・ザ・モール」は、このバンドシェルの完成年と同じ1923年の9月29日、エルカン・ナウムブルク氏を称えるためにバンドシェルに迎え、オーケストラ指揮者フランツ・カルターボーン(Franz Kaltenborn)の指揮、ゴールドマン・バンドの演奏で初演された。

トリオで、“ラララ”と歌ったり、“口笛”を吹いたりする箇所があるこの曲は、ゴールドマン・バンドのお気に入りとして繰り返し演奏され、レコードがLP時代になった後も、ズバリ曲名をタイトルとするアルバム「On the Mall」(米Decca、DL 5386、モノラル、リリース:1952年)のほか、有名なノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell)のイラストがジャケットに使われたアルバム「I Love to hear a Band!」(米Decca、DL 8445、モノラル、リリース:1957年)など、何度もレコード化され、ヒット曲となった。

「木陰の散歩道」という邦題は、吹奏楽にも造詣が深かった音楽評論家、堀内敬三さんの作だと言われている。

一方、息子リチャードは、コロムビア大学卒業後、パリに渡り、ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887~1979)に作曲を師事。帰国後、1937年から1956年の間、ゴールドマン・バンドの副指揮者をつとめ、1956年の父の死後、そのあとを受けて正指揮者となった。

音楽博士としてリスペクトされる存在であり、1961年に執筆し、翌年出版された代表的著作「ウィンド・バンド(The Wind Band)」は、吹奏楽の歴史から、編成、レパートリー、オリジナル作品、編曲とスコアリング、課題まで、幅広いテーマを豊富な資料(スコアや写真など)を使いながら解説した、当時としては類例を見ない書物で、世界中の多くのバンド関係者に大きな影響を及ぼした。もちろん、筆者も多くのことを学んだ。

書名を“ウィンド・バンド”としたことも画期的だった。

この“ウィンド・バンド”というワード、それ自体は、日本にもちょくちょく顔を出すようになったイギリスのブラスバンド“ブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)”の歴史にも、19世紀に“ウィンド・バンドとして創設”(ラフに和訳すると、木管楽器も入った吹奏楽編成で創設)というくだりがあるので、別段新しいものでも何でもない。

しかし、1980年代に筆者が音楽解説の中で使い始めると、各方面から(まるで“潰してやろう”とでもいうような意図さえ感じられる)陰口に晒された。まるで鼻つまみもの扱いだ。おそらく、それまでの日本の音楽界の常識にはなかった“おかしな新語”を作りだした田舎出の解説者がそれを振りかざして生意気だということだったのだろう。

旧態依然とした体質から抜け出せないレコード会社の編成担当者の、音楽上の事象を深く理解したり時代の移り変わりをタイムリーに捉える能力の無さも呆れるばかりだった。

もちろん、筆者が使う以前から、CDのオビに“WIND BAND”という文字を入れてリリースする佼成出版社のような新進気鋭の会社もあったが….。

一方で、鈴木竹男さんのように、自身が指導・指揮をするバンドの愛称を“阪急少年音楽隊”から“阪急商業学園ウィンドバンド”(後の“向陽台高等学校ウィンドバンド”。現在の“早稲田摂陵高等学校ウィンドバンド”)と改名する理解者も現れ、当時このバンドがよく登場した朝日放送(大阪)の番組でも、看板アナウンサーの道上洋三さんが“ウィンド・バンド”というワードを使った。

話を元に戻そう。

エドウィン、リチャードのゴールドマン父子の業績の中で今も輝きをまったく失わないことの1つが、バンドのために書かれたオリジナル・レパートリーの開発だった。

今から1世紀以上も前の1910年代の話である。

オーストラリア出身のすばらしいピアニストで作曲家のパーシ―・グレインジャー(Percy Grainger、1882~1961)とエドウィンの親交が始まったのもこの時代で、直接的には、エドウィンが応募作の審査をグレインジャーに依頼したことがきっかけだった。

1937年3月7日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催されたA.B.A.年次総会の最終日に作曲者の指揮で初演された「リンカーンシャーの花束(Lincolnshire Posy)」もまた、A.B.A.会長のエドウィンの委嘱で生まれた作品だった。(興味深いことに、この作品のスコアの曲名のすぐ下にある短い説明文には、“set for Wind Band”というくだりが出てくる。)

ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev、1891~1953)とも親交があり、作曲者から送られてきた新作「スパルタキアード行進曲(Athletic Festival March)」(作品69-1、1935年)をアメリカ初演したのもエドウィン指揮のゴールドマン・バンドだった。

そして、父のエドウィンもしくは子のリチャード、あるいは特別なゲストが指揮をつとめたゴールドマン・バンドは、ナウムブルク・バンドシェルを含む各会場のコンサートで、委嘱作の初演や海外オリジナルのアメリカ初演あるいはニューヨーク初演をつぎつぎと行った。

ジャケットにナウムブルク・バンドシェルでのゴールドマン・バンドのコンサートの写真が使われている「Band Masterpieces」(米Decca、DL 78633、ステレオ、リリース:1958年)と管楽器の写真をあしらった「The Sound of the Goldman Band」(米Decca、DL 78931、ステレオ、リリース:1962年」のフランコが指揮した2枚のLPは、父子の成果の集大成といっていい。

曲目を見ると、フランソワ=ジョセフ・ゴセック(Francois-Joseph Gossec、1734~1829)の「古典序曲(Classic Overture)」やフェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy、1809~1847)の「吹奏楽のための序曲(Overture for Band)」、シャルル・シモン・カテル(Charles Simon Catel、1773~1830)の「序曲ハ調(Overture in C)」のアメリカ初演も、ウィリアム・シューマン(William Schuman、1910~1992)の序曲「チェスター(Chester)」のニューヨーク初演も、すべてゴールドマン・バンドが行っていたことがわかり、とても興味深い。

また、ジャケットには、曲名、作曲者名、ゴールドマン・バンドの初演日、指揮者名などの詳細が整理されて載っており、さすがは音楽博士の仕事だとうならせる。

例えば、グレインジャーの「子供たちのマーチ“丘を越えてかなたへ”(Children’s March“Over The Hills And far Away”)」の項には、こう書かれてある。

For Band and Piano. The Composer at the Piano. Composed in 1918. First Performance: The Goldman Band, June 6, 1919, Percy Graingerconducting, Ralph Leopold, piano.

(バンドとピアノのための。(このレコードでは)作曲者がピアノを担当。1918年に作曲。初演: ゴールドマン・バンド。1919年6月6日。パーシ―・グレインジャーの指揮。ラルフ・レオポルドのピアノ。)(カッコ内の注釈は、筆者)

時を超える第一級の資料とはこういうものを指す!

当時、米Deccaレーベルと契約関係にあった日本のレコード会社は、テイチクだった。演歌でおなじみの老舗レコード会社だ。

もちろん、米Decca音源のゴールドマン・バンドのレコードもつぎつぎ国内リリースされた。しかし、いわゆる“マーチ黄金時代”の話だ。テイチクが関心が寄せ、発売されたのはすべてマーチだった!

吹奏楽のレコード史上けっして見逃すことのできない「Band Masterpieces」と「The Sound of the Goldman Band」の両盤は、テイチクには見向きもされなかった。

幸いにも、これら収録曲の多くは、その後、およそ15年ほどの時間をかけて、日本国内で新たに録音されるなどして紹介され、今も演奏されるわが国のバンドのレパートリーとなった。

しかし、ゴールドマン・バンドの両盤を見るたび、それらのレパートリーが“ずっと以前からまとまって収録されていた”という衝撃的事実にいつも突き当たる。

これをいったい何と表現したらいいのだろうか。

1960年代初頭といえば、アメリカから“アメリカ空軍交響吹奏楽団”(公演名)、フランスから“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(同)が来日し、日本の音楽界の“吹奏楽”に対する認識に大きな衝撃を与えた時代だ。間違いなく何かが変わり始めていた。しかし…。

我々は、間違いなく遠回りをしている!

▲LP – Band Masterpieces(米Decca、DL 78633)ステレオ

▲Band Masterpieces – A面

▲Band Masterpieces – B面

▲LP – The Sound of the Goldman Band(米Decca、DL 78931)ステレオ

▲The Sound of the Goldman Band – A面

▲The Sound of the Goldman Band – B面