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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第26話 デジレ・ドンデイヌの遺産

▲デジレ・ドンデイヌ(パリ警視庁提供)

▲パリ警視庁吹奏楽団(パリ警視庁提供)

1960年代初頭、日本のレコード各社は、例外なく、それこそシャカリキになって“マーチ”の録音に取り組んでいた。

“吹奏楽=マーチ”という固定概念がレコード会社の制作部門の揺るぎない思想として完全に定着するのも、この前後のことだった。当然、国内リリースされる“吹奏楽レコード”はほとんどすべてがマーチで、この頃に相継いで日本にやってきたアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドに日本コロムビアが、フランスのギャルド・レピュブリケーヌに東芝音楽工業が録音依頼したのも、すべて“マーチ”だった。

外国原盤をライセンスする際にも、中にはオリジナル盤から“マーチ以外の曲”をわざわざカットして、“マーチ”だけを抽出してリリースするほど徹底したものもあり、また、発売後に“ダイナミック”とか“スーパー”といった派手な形容詞を加え、何度もカップリングを替えて新譜として発売するリメイク手法も確立していた。

かのフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)が、1953年から1962年の間に、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)を指揮して録音した22タイトルのアルバム(米Mercury原盤)ですら、この当時、日本で発売されたのは“マーチ”だけだった。

他のレパートリーは、商業レコードとしては見向きもされなかったという訳だ!

さて、そんな“マーチ・レコード黄金時代”の1961年、それらとはまったく違うアーティスティックなポリシーから制作された海外の吹奏楽レコードがライセンス発売され、識者から高く評されたことがあった。

日本ウエストミンスターのヴォアドール(VOIX-D’OR)レーベルから発売された2枚のレコードがそれだ。

「ベルリオーズ 葬送と凱旋の大交響曲(大軍楽隊と合唱の為の)作品15」(VOIX-D’OR, VOS-2003E/Stereo/25センチLP) – 1961年6月新譜(録音:1958年1月21日-23日、パリ)

「吹奏楽 ロマンティック・コンサート」
(VOIX-D’OR,VOS-3038E / Stereo/30センチLP)- 1961年11月新譜(録音:1958年12月20日、パリ)

2枚はともに、デジレ・ドンデイヌ(Desire Dondeyne, 1921~2015)指揮、パリ警視庁吹奏楽団(Musique des Gardiens de la Paix)が演奏したアルバムで、フランスのエラート(Erato)が録音を担った盤だった。

フランス盤のリリースは、もちろんエラートからで、アメリカ盤は、エラートと提携関係の深かったウェストミンスター(Westminster)レーベルからリリースされた。

「BERLIOZ:GRANDE SYMPHONIE FUNEBRE ET TRIOMPHALE OP.15」(Stereo:仏Erato, STE 50005 / Mono:同, LDE 3078)

「RICHARD WAGNER – FELIX MENDESSOHN – CONCERT ROMANTIQUE」(Stereo:仏Erato, STE 50016 / Mono:同, LDE 3113)

「BERLIOZ:GRANDE SYMPHONIE FUNEBRE ET TRIOMPHALE OP.15」(Stereo:米Westminster, WST-14066 / Mono:同, XWN-18865)

「WAGNER AND MENDELSSOHN DOUBLING BRASS」(Stereo:米Westminster, WST-17014 / Mono:同, XWN-19014)

演奏者のパリ警視庁吹奏楽団は、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団、フランス国家警察吹奏楽団と並ぶ、フランスを代表する交響吹奏楽団の1つで、公式には1929年3月31日に誕生した。その当時は警察の業務も兼務したが、後に音楽選任となった。現在は、吹奏楽団とバテリー・ファンファールの2つの演奏団体で構成され、計122名の音楽家を擁している。

指揮者のドンデイヌは、パリ音楽院に学び、クラリネット、室内楽、和声法、フーガ、対位法、作曲でプルミエプリを得た。1939年から1953年までフランス空軍バンドのソロ・クラリネット奏者をつとめ、1954年から1979年までパリ警視庁吹奏楽団の指揮者をつとめた。

パリ警視庁吹奏楽団は、ドンデイヌが指揮者をつとめたこの時代に大きく飛躍し、放送番組での活躍のほか、レコード各社におよそ100枚のレコードをのこしている。

この“100枚”という数字は、とてつもない数字だ。また、その中身も極めて特徴的で、行進曲や大衆音楽から交響曲まで、とにかくフランスを中心としたヨーロッパ圏の吹奏楽のために書かれた音楽にスポットをあてるアーティスティックな内容のものが大部分だった。ディスク大賞に輝いたものも多い。

氏とのやりとりは、フランスの作品をめぐって質問を手紙に書いて差し出した1990年代に始まった。返信はいつもフランス語で書かれてきたので、辞書と文法書を片手に必死に読み解いたが、日本とはまったく違う吹奏楽文化のある国の第一人者からの手紙は、いつも新鮮だった。

今回、冒頭に掲示した2枚の写真は、その当時に送られてきたものだ。できるだけ古いもの(つまりドンデイヌの若い頃)という、当方のわがままなリクエストに応え、元職場のパリ警視庁にかけあってくれたものだった。拡大してみると、当時使われていた楽器がよくわかる。

話を2枚のレコードに戻すと、1枚目は、7月革命10周年の1840年にエクトル・ベルリオーズ(Louis Hector Berlioz, 1803~1869)が吹奏楽の編成を使って書き、今では『葬送と勝利の交響曲、作品15』もしくは『葬送と勝利の大交響曲、作品15』との表記が一般的になっているシンフォニーを、2枚目は、リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner, 1813~1883)とフェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn, 1809~1847)が同様に吹奏楽の編成を使って書いた序曲や行進曲、葬送音楽を取り上げた、およそ日本のクラシック・ファンが聴いたことがない作品ばかりがフィーチャーされたアルバムだった。

ベルリオーズを取り上げた1枚目のフランス盤には、ジャケットに録音で使われた楽器編成が掲載されているのでそのまま書き出してみた。(カッコ内は、便宜上、アメリカ編成に照らし合わせてみたもの)

2 petites flutes ut (Piccolos in C)
4 grandes flutes ut (Flutes in C)
3 hautbois (Oboes)
2 petites clarinettes mi b (small Clarinetts in Eb)
15 premieres clarinettes si b (1st Clarinets in Bb)
8 secondes clarinettes si b (2nd Clarinets in Bb)
3 clarinittes basses (Bass Clarinets)
2 bassons (Bassoons)
1 saxo-basse / contre-basson (Bass Saxophone / Contra Bassoon)
5 trompettes en ut (Trumpets in C)
6 cors mi b (Horns in Eb)
5 trombonestenors (Tenor Trombones)
3 cornets a piston si b (Cornets in Bb)
5 tubas saxhorn si b (Saxohorn Basses/Euphoniums)
3 contre-tubas saxhorn si b (Basses in Bb)
4 tambours militaires (Military Drums)
grosse caisse (Bass Drum)
cymbales (Cymbales)
tam-tam (Tam-tam)
chapeau chinois / les grelots (Turkish Crescent / Bells)
timbales (Timpani)
110 choristes (Choirs)

110名の合唱を含め、200名近い演奏家がこのセッションに加わったことがわかる。また、ベルリオーズのオリジナル・スコアに敬意を表し、Alto、Tenor、Baritoneの各サクソフォンは使わなかったとの添え書きもある。フランスの楽器編成が分かってとても興味深い。

面白いのは、1840年にこのシンフォニーが演奏された当時、パリにいたヴァーグナーが、ベルリオーズのこのシンフォニーに全面的な支持を表明していたことだ。

『それは最初の1音から最後の1音にいたるまで、気高く偉大である。….この交響曲は、フランスという名の国家が存続するかぎり、すたれることがなく、また、人々をふるいたたせるであろう。といわねばならない。』(VOIX-D’OR, VOS-2003Eのライナーノートから引用。執筆:佐川吉男)

2枚目のレコードは、そのヴァーグナーがバイエルン国王ルートヴィヒ2世に捧げた『誓忠行進曲』とロンドンで客死した作曲家カール・マリア・フォン・ウェーバー(Carl Maria von Weber, 1786~1826)の遺骨を迎えて行われた追悼式のために書かれた『“オイリアンテ”の主題によるウェーバーのための葬送音楽』、そして、メンデルスゾーンの『吹奏楽のための序曲ハ長調、作品24』と若くして亡くなった同年代の作曲家ノルベルト・ブルグミュラー(Norbert Burgmuller, 1810~1836)の死を悼んだ『吹奏楽のための葬送行進曲、作品103』の4曲が収められていた。

メンデルスゾーンの序曲をのぞくと、今やナマ演奏をほとんど耳にできない音楽ばかりだ。

1958年にこれらが録音されていた事実は大きい。

そして、日本盤の発売年、すなわち1961年は、同じフランスからギャルド・レピュブリケーヌが初来日し、伝説的な大成功を収めた年だった。

▲LP – VOIX-D’OR(日本ウエストミンスター), VOS-2003E

▲LP – VOIX-D’OR(日本ウエストミンスター), VOS-3038E

▲LP – 仏Erato, STE 50005

▲LP – 仏Erato, LDE 3113

 

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第25話 保科 洋「交響曲第2番」世界初演

▲保科 洋

▲広島ウインドオーケストラ第45回定期演奏会のチラシ

2016年4月28日(木)、筆者は、山陽新幹線を走る「さくら」で、一路広島を目指していた。

午後6時45分開演の広島ウインドオーケストラ「第45回定期演奏会 80歳記念 保科洋プロジェクト」を記憶にしっかりと留めさせるために。

会場の広島市西区民文化センターホールは、JRの山陽本線と可部線が分岐し、広島市民が“ひろでん”“しでん”と親しみを込めて呼ぶ広島電鉄の路面電車も発着する横川駅前ロータリーから歩いてすぐのところにある。座席数550(固定席)の中ホールながら、ステージ面が横に広く、かなり大編成のものまで対応できるホールだ。

横川到着後、チケットを押さえてもらっていた録音エンジニアの藤井寿典さんと合流し、2人でホールへと向かう。ロビーは、すでに開場を待つ多くの聴衆で熱気があふれている。

この日の指揮は、2011年以降、同ウインドオケの音楽監督をつとめる下野竜也さん。

題目に“80歳記念”とあるとおり、プログラムは、その少し前の1月31日に80歳の誕生日を迎えられた保科 洋さんの作品を中心に組まれていた。

第1部は、『交響的断章(改訂版)』(1972/1999)に始まり、東京藝術大学の同期でともに作曲の道を歩んだ盟友、兼田 敏の『嗚呼!』(1985)を間に挟み、『Lamentation to ─ (Theme and Variations)』(1999)に至る3曲構成、第2部は、広島ウインドオーケストラの委嘱作である『交響曲第2番』(2016)の“世界初演”がずっしりと存在を示す、重量感のある2部構成のコンサートだ。

この内、『嗚呼!』と『Lamentation to ─ (Theme and Variations)』は、“生きている内に互いの葬送曲を書いて贈り合う”という、保科-兼田の2人の約束から生まれた作品だった。

広島ウインドオーケストラのプログラミングアドバイザー、国塩哲紀さんの心憎いばかりの演出で、保科さんも、プログラムの挨拶文で、同氏への謝意を述べられている。

会場には、これまで保科さんが吹奏楽の世界に貢献されてきた年輪の深みの証しのように、氏の友人、知人、音楽関係者がつめかけている。作曲家の鈴木英史さんの顔も見える。

そして、会場に詰めかけた多くのファンの最大の関心事は、1996年に大阪市音楽団の委嘱で書かれた初の“シンフォニー”以来、20年ぶりに書かれた『交響曲第2番』の世界初演だった。

2015年に作曲に着手され、2016年2月に完成した入魂の一作で、演奏時間は、約30分。急 – 緩 – 急の以下の3楽章で構成される。

第1楽章:アレグロ・モデラート・エ・マエストーゾ – ヴィヴァーチェ
Allegro Moderato e Mastoso – Vivace

第2楽章:レント・ミステリオーゾ
Lento misterioso

第3楽章:アレグロ・コン・ブリオ
Allegro con brio

やがて第2部の開始が告げられ、プレイヤーに続いて指揮者が入場すると、期待のボルテージはもう最高調!

シーンと静まり返った中、タクトが振り下ろされ、ホルンが提示する勇壮なファンファーレ風の第1テーマがホールに鳴り響くと、そのあとはもう“保科ワールド”一色!

場内は、息をのむように聴き入り、音楽は、自由なソナタ形式の第1楽章~コラールと各楽器のソロが交錯する三部形式の第2楽章~激しく力感を伴った推進力ある第3楽章と展開していく。

時間のたつのが速い。

随所に散りばめられた“保科節”もとても魅力的だ!

こうして、高いモチベーションに裏打ちされた世界初演は、割れんばかりの拍手がこだまする文字どおりの大成功を収めた。

指揮者から促され、ステージに駆け上がる作曲者の足取りも軽い!!

そして、力強い握手!!

初演にかけた両者がリスペクトし合う、すばらしい瞬間だった。

作品のルーツをたどると、広島ウインドオーケストラが結成20周年という節目の年を迎えた2013年4月にまで遡る。

東京オペラシティコンサートホールにおける”結成20周年記念東京公演”をちょうど一週間後に控えた2013年4月14日(日)。それは、広島・アステールプラザ大ホールで催された第39回定期演奏会の終演後、多くの関係者が集った“広島ウインド20周年を祝う会”の席上、音楽監督の下野さんから保科さんへのひと言に始まった。

『広島ウインドのために交響曲を書いて下さい。』

初演指揮後に聴衆に向ってマイクをとった下野さんは、『この“無茶ぶり”に対して、保科先生はその場で“書きます”と言われたのです。』と、このエピソードを披露された。

新作誕生のとき、その場に居合わすことができ、その瞬間を作曲者や初演者と共有できることは、音楽に携わる1人として、これ以上ない幸せなこと。

初演後、いくつものプロフェッショナルたちの心を揺り動かし、つぎつぎととり上げられるようになった保科洋『交響曲第2番』初演のこの日。

それは、間違いなく日本のウィンド・ミュージックが世界に向けて打ち立てた金字塔であり、21世紀のマスターワークが誕生した瞬間だった。

▲広島ウインドオーケストラ第45回定期演奏会 – プログラム表紙

▲広島ウインドオーケストラ第45回定期演奏会 – 演奏曲目

▲交響曲第2番 – 作曲者によるプログラム・ノート

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第24話 ギャルド1961外伝

▲赤松文治著「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」

フランスのギャルド・レピュブリケーヌの1961年の初来日は、今なお日本の音楽ファンの記憶に残る大成功をおさめた。

そのフィーバーぶりは、前々話(第22話)と前話(第23話)でお話ししたとおりだが、1つの吹奏楽団の来日が、これほどの社会現象と化したことは、かつてなく、その後もなかった。

それは、招聘の中心となったのが新聞社というメディアであり、東京エリアを中心とした全日本吹奏楽連盟の全面的サポートがあったことも無論ではあるが、それらとともにけっして見逃せないのは、第2次大戦前から、ギャルドのことは遠く離れたこの日本でも多くの著名人によって語られ、サクソフォーン・カルテットも含めるなら、戦前だけでもおよそ40枚ものSPレコードがビクターやコロムビアから発売され、人気を博していたことだろう。

我が家にも、何故か、パリ・オペラ座の名テノール、ジョルジュ・ティル(Georges Thill、1897~1984)が独唱し、ピエール・デュポン(Pierre Dupont、1888~1969)指揮、ギャルド・レピュブリケーヌがバックをつとめた「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」(Rouget de Lisle)と「往時の夢(La Reve Passe)」(Georges Krier & Charles Helmer)がカップリングされたコロムビアのSPレコードがあったことを覚えている。

指揮者のデュポンは、ギャルド来日時の楽長フランソワ=ジュリアン・ブランの前任者で、1927年から1944年まで楽長のポストにあった。

戦前から音楽解説をされていた赤松文治さんの労作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」(自費出版 / 1988 / 制作:音楽之友社)の序文には、この吹奏楽団がわが国でも注目を集めるようになったのは、“1930年代にコロムビアが発売した数々のレコード”と同じ年に陸軍委託楽長候補者としてパリに留学し、デュポンが楽長をつとめるギャルドに5ヵ月間勤務した山口常光さん(戦後は、警視庁音楽隊初代隊長)が、帰国後に音楽雑誌「月刊楽譜」に詳細な体験記を発表されたことによると書かれてある。

また、雑誌「ブラスバンド」(主幹:目黒三策)も、山口さんを含め、フランス音楽評論家の松本太郎、管楽器研究家の平林 勇、レコード評論家の近江屋清兵衛の各氏の執筆で、当時の情報のすべてをまとめた50ページの特集を組んだことがあった、とも書かれてある。

ともかく、ギャルド・レピュブリケーヌは、日本でも戦前から多くのファンがその名を知る吹奏楽団だった訳だ。そのナマ演奏がはじめて日本で聴けることになった訳だから、盛り上がらない訳がなかった。

そして、その初来日については、吹奏楽専門誌の「バンドジャーナル」が大きく取り上げる一方、来日直前の「音楽の友」1961年11月号(音楽之友社)も前記の松本太郎さんの紹介記事を掲載。来日後の1962年1月号でも、滞在中に撮影された6枚の写真(内1枚は、昭和天皇と皇后の両陛下が国立博物館の庭で演奏を聴かれている場面)を割り付けた2ページのグラビアのほか、東京藝術大学作曲科教授の池内友次郎(いけのうち ともじろう、1906~1991)さんが筆をとった「偶然なめぐり合わせ ギャルド・レピュブリケーヌ隊長ブラン – 池内友次郎」という、とても痛快な寄稿が掲載された。

池内さんは、俳人の高浜虚子(1874~1959)の二男。1927年にフランスに渡り、パリ音楽院でポール・フォーシェ(Paul Fauchet、1881~1937)やアンリ・ビュッセル(Henri Busser、1872~1973)のクラスに学んだ。日本にフランス流の作曲技法を持ち帰った日本作曲界の牽引者の1人だった。

和声法や対位法などの著作も多いが、師のピュッセル著を訳編した「パリ楽壇70年」(1966年 / 音楽之友社)は、当時のフランスの作曲家の活動がまるで日記帳のように細かく語られ、写真もふんだんに盛り込まれていることから、筆者のお気に入りの1冊となっている。

また、フォーシェは、日本では、ギャルド・レピュブリケーヌが初演した「吹奏楽のための交響曲(Symphonie pour Musique d’Harmonie)」(1926)の作曲者としても知られる。

そして、池内さんが学んでいたフォーシェのクラスに新入生として入ってきたのが、かのフランソワ=ジュリアン・ブランだった。

寄稿では、2人の出会いに始まり、机を並べて学んだ学生時代、戦後デュポンのあとを受けてギャルドの楽長になったブランとのパリでの再会、ギャルド来日時の数々のエピソードなどが語られている。

バリでのくだりでは、『今の君の地位は立派だと思う』という池内さんに対し、ブランはそれには答えないままに『全員を連れて日本に行ってみたい、とそのことだけをくりかえし私に念を押していたのであった。』(原文ママ)と書かれてある。

筆者の知る限り、ギャルドとブランについて、これほど私的で愉快なサイドストーリーはない。和服姿の池内さんと制服姿のブランがどこかの食堂のテーブルで親しげに語り合っている写真も貴重だ。(状況から、この写真は、11月2日、国立博物館での美術展開催のための儀礼演奏を終え、東京文化会館の食堂で昼食をとったときのものと思われる。)

大阪芸術大学教授で作曲家の田中久美子さんとこの話題で盛り上がったことがある。

そのとき、田中さんから『東京の池内先生のご自宅に月2回のプライベート・レッスンで伺っていたとき、先生がふいに“「ボレロ」の吹奏楽での初演をギャルドの演奏会でラヴェル自身の指揮で聴いた”と話されたことがあった。』と聞いて驚いた。

慌てて赤松文治さんの本を読み返すと、当時のフランスの作曲家たちは自作がギャルドで試奏されるのを聴くためにしばしば練習場を訪れていて、そこでデュポンが編曲した「ボレロ」の試奏を聴いたラヴェルが満足の意を表したこと、そして、1931年6月9日の演奏会でラヴェルが「ボレロ」を指揮したことが書かれてあった。時期もピッタリ符合する。池内さんが聴かれたのはこの日の演奏会だったと思われる。

ブランの前任者デュポンも、実は同じフォーシェのクラスで和声法、対位法、フーガを学んでいる。そのポジションを親友のブランが引き継いだのだから、池内さんにとってこれほど痛快な出来事はなかった。

話は少し跳ぶが、来日プログラムには、音楽評論家の堀内敬三さんをはじめ、前記の山口常光さん、陸上自衛隊中央音楽隊初代隊長の須磨洋朔さん、東京藝大の山本正人さんが熱筆を振るわれている。

その中の須磨さんの寄稿には、来日1年前の1960年秋にローマ・オリンピックの視察も兼ねて渡欧した須磨さんが、9月30日にギャルドの練習場を訪れたとき、ビシッと正装で身を固めた楽員に迎えられ、自作の行進曲「大空」を示されて、ブランから指揮を所望されたというくだりが出てくる。

楽譜は、ギャルドと交流のあった赤松文治さんが1959年に贈呈したもので、ギャルドはこれをレパートリーにとり入れていた。1961年の来日で、この曲が唯一日本の曲として正プロで取り上げられ、11月11日の東京文化会館における演奏会で作曲者の須磨さんが客演指揮者としてステージに上がったのにも、こんな背景があったからだ。

須磨さんによると、ギャルドの練習場の壁には、戦前ギャルドに勤務された山口常光さんの写真も掲げられていたという。そして、自作のあと、ドヴォルザークの「新世界交響曲」の指揮も所望され、それを振り終えた後、須磨さんはこう訊いた。

『日本で、ギャルドを招待する計画がありますが、来てくれますか?』(原文ママ)

すると、“全員まるで子供のように飛びあがったり、足ぶみしたりしたりして、「ブラボ―」の連続”だったそうだ。

これだから、バックステージはおもしろい。

いつか忘却の彼方へ忘れ去られるかも知れないギャルド1961の外伝である。

▲アンリ・ピュッセル著、池内友次郎訳編、「パリ楽壇70年」

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第23話 ギャルド、テイクワンの伝説

▲EP – ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集(Angel(東芝音楽工業)、YDA-5001)▲同、包装ビニール

1961年11月に初めて日本にやってきたフランスのギャルド・レピュブリケーヌ。

前話(第22話)でもお話ししたように、その滞在17日間に日本側が見せた過熱気味の歓迎と全国に伝播した音楽的熱狂は、数ある海外アーティストの来日フィーバーの中でも極めて異例なものだった。

招聘の中心的役割を果たしたのが新聞社だっただけに、関連記事も多く、演奏活動以外の一挙手一投足までもが関心をもたれた。

NHKも、東京文化会館における2回のコンサートを収録して、テレビ(モノクロ)、AMラジオ、FMラジオの実験放送を通じ、合計8本のライヴ番組を全国放送した。

当時の報道や記録の断片を精査すると、NHKのライヴ以外にも、少なくとも、11月3日(金)の東京厚生年金会館(新宿)での歓迎演奏会と、同12日(日)の東京・台東体育館における第9回全日本吹奏楽コンクール特別演奏でも記録録音が行われている。

とくに後者は、当時、全日本吹奏楽コンクールの出場団体に当日の実況録音テープをプレゼントしていたソニーによってステレオ録音されたもので、翌11月13日(月)にソニー工場を訪れたギャルド一行の前で再生された。

ギャルド・レピュブリケーヌにとって、これは極めてエポック・メイキングな出来事だった。

なぜなら、1961年の来日までにリリースされた彼らのレコードがすべてモノラル録音だったからだ。つまり、彼らは極東の地の日本ではじめて自分たちのライヴ演奏のステレオ録音を聴いたことになる。

そして、この滞在期間中、“後世に残す”という意味で最も重要なできごとが、公演スケジュール終了後の11月16日(木)、東京・杉並公会堂で行われた東芝音楽工業によるレコーディングだった。離日の1日前のことだ。

ソノシートもついた全38ページ(折り返しを除く)の公演プログラムの36ページに掲載された《東芝レコードがご家庭に贈る!》と文字が躍る広告には、以下のような予告が入っている。

『ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団演奏のLPステレオ盤 ナポレオン時代からの歴史と伝統を誇る世界最高の大吹奏楽団の来朝を記念して、東芝レコードがこの素晴らしい演奏を録音いたしました。当楽団演奏のレパートリーの中から、軍艦マーチなど、皆様よくご存知のマーチ8曲を収録した25cmLPステレオ・レコードが、カッティング、録音技術、盤質の優秀性を誇る東芝レコードによって、来春発売の予定です。皆様のお気に召す演奏で、充分ご満足いただけるものと確信しております。』(原文ママ)

時系列の視点で見るなら、この広告が世に出た時点では、実際にはまだ録音は行なわれていない。しかし、ここでのフライング気味の表現も、このレコードにかける東芝サイドのモチベーションの発露と考えるとわからないでもない。

コロムビアやビクター、キング、テイチクといった戦前からある老舗レコード会社とは違い、東芝のレコード事業は、戦後にスタートした完全な後発組。東京芝浦電気のレコード部門が移管されて東芝音楽工業が発足したのも、実はギャルド来日のわずか1年前の1960年10月1日のことだった。

広告からは、何が何でもフェイルできないという空気すら漂ってくる。

さて、当時、数寄屋橋にあった朝日新聞東京本社と同じビル内に入っていた東芝音楽工業がギャルド来日を知ったのは、その年の2月のことだった。

このあたりの事情は、1962年4月の「バンドジャーナル」(第4巻第4号 / 音楽之友社)に6ページを割いて掲載されているレコード発売を期した記事「ギャルド・レピュブリケーヌの日本行進曲集レコード発売記念座談会」に詳しい。

出席者は、須磨洋朔(陸上自衛隊中央音楽隊長)、辻 豊(朝日新聞企画部)、野宮 勲(東芝音楽工業文芸部)、秋山紀夫(バンドジャーナル編集部)、大石 清(同)の5氏。

主役は、フランス人を相手に丁々発止のやりとりをした朝日の辻さんと東芝のディレクターの野宮さんの2人。また、須磨さんは、公演で日本人の曲として唯一取り上げられ、東芝のセッションでも録音された『大空』の作曲者で、11月11日(土)の東京文化会館のコンサートでは、客演指揮者としてステージに上がられ、このマーチと『禿山の一夜』を指揮されている。

座談会記事によると、レコーディングに至る経緯は、およそ以下のようなものだ。

招聘元の朝日から話を聞いた東芝は、早速、朝日との間で独占録音契約を取り交わし、録音希望曲を日本のマーチ8曲に定めて楽譜を送付。しかし、この送付が、東芝→朝日→フランス大使館→フランス陸軍省→ギャルド・レピュブリケーヌという何ステップもある正式ルートを踏まねばならず、返答もこの逆をたどることから、夏頃に至っても受け取られたかのかどうか返事が来ず、念のため慌てて楽譜を再度揃えて送る破目になった。

しかし、2回目もとうとう返事が来ず、11月を迎えて彼らは日本には着いたが、本当に録音をやってくれるのかどうか、やきもきしながら準備を進めたのだという。

当然、日本側は、録音をやってくれるのかを楽長フランソワ=ジュリアン・ブラン(Francois-Julien Brun)に確認するが、“やらないとは言わない”との返答。

なにしろ、その日のコンサートの演奏曲目すら、当日にならないとはっきりしないこの楽団のことだ。座談会の野宮さんの弁によると、録音の確約がもらえたのは“なんと11月15日、吹込前日の夕方”だったそうだ。(“吹込”という言葉が時代を感じさせる!)

録音当日も、東芝録音チームは、午前10時からの音出し予定に備えてホールで待機。しかし、彼らがバスでホールに着いたのは、11時近く。

後年、仕事でご一緒することが多くなった東芝EMIの佐藤方紀さんら、野宮さんの後輩にあたる方々から聞いた話(即ち、東芝に伝わる伝説)によると、ここからの展開が傑作だ。

楽員到着からほどなくハイヤーで到着した指揮者フランソワ=ジュリアン・ブランは、にこやかな笑顔で野宮さんにこう訊いた。

『どうしても残しておきたい曲が3つあるが、録音してくれるかな?』

野宮さんが了承すると、ブランは11時30分から13時までを割いてその3曲を猛練習。さあ、いよいよ録音開始かと思ったところで、一同バスで新宿へ向かい、昼食タイム。当然、録音スタッフのイライラはもう最高潮!

しかし、15時すぎに戻ってきた彼らは、15時30分からのセッションで、これら3曲をすべてテイクワンで録り終えてしまった。野宮さんは、日本の習慣でセカンド・テイクをリクエストしたが、返ってきた言葉が『何度やっても同じ。』で、テイク終了!

この時、録音されたのが、後日発売されるやたいへん大きな話題となった『アルルの女』組曲第2番から“ファランドール”(ビゼー)、『牧神の午後への前奏曲』(ドビュッシー)、『ディオニソスの祭り』(フローラン・シュミット)の3曲だった。

セッションは、ここで、指揮者が副楽長レイモン・リシャール(Raymond Richard)に交代。東芝がリクエストしたマーチの録音が始まった。公演Bプロで演奏された『大空』以外は、彼らがこの日初めて見る譜面ばかりだった。

しかし、ここでもギャルドは伝説を作る。

『軍艦行進曲』(瀬戸口藤吉)で始まったセッションは、練習1回 – 本番1回のペースで、アッという間に6曲を録り終え、そこで彼らは、2曲を残したまま、ガサゴソと楽器を片付け始めてしまった。

慌てた野宮さんが理由を訊ねると、“つまらない”と答えが返ってきたそうだ。

社命により日本のマーチばかり8曲の録音をリクエストした最終結末がこれだった。当時、東芝も“吹奏楽=マーチ”で固まっていたから、これは仕方がない。一方のブランも、マーチの録音にはまったく興味がなかったのだろう。

東芝は、当初、広告にもあるように、片面にマーチ4曲ずつが入った計8曲入りの25センチ盤LPの発売を考えていたが、マーチが6曲しか録音できなかったため、2曲入りの17センチ・シングルと6曲入りのEP盤用に編集して、“全日本吹奏楽連盟推薦”盤としてそれぞれモノラル盤とステレオ盤をリリース。この日の録音から、マーチが入った計8種類のレコードが出来上がった。(6曲入りステレオEP: YDA-5001 / 発売: 1962年3月)

一方のブランが“どうしても残したい”と語った残る3曲は、それからしばらくたった1962年7月に25センチのステレオ盤LP(5SA-5003)でリリースされ、アッと言う間に売り切れ。品切れとなってしまった。

この中に、シュミットの『ディオニソスの祭り』が入っていた。

ひょっとして今もまだ続いているかもしれないが、吹奏楽に対するレコード会社の認識と演奏現場のニーズが見事なほどズレていた、今や昔の物語である。

▲シングル盤(モノラル) – 軍艦行進曲 – 君が代行進曲(Angel(東芝)、HJ-5001)▲シングル盤(ステレオ) – 立派な青年 – コバルトの空(Angel(東芝)、SA-7005)▲25センチLP(ステレオ) – GARDE EN STEREO(Angel(東芝)、5SA-5003)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第22話 ギャルド1961の伝説

▲初来日プログラム – 表紙

▲初来日プログラム – 表紙裏

▲初来日プログラム – 中表紙

フランスから“ギャルド・レピュブリケーヌ”が初来日したのは、1961(昭和36)年11月のことだった。

その年の11月3日から翌年の1月15日まで東京・上野の国立博物館で開催された「ルーブルを中心とするフランス美術展」の開幕を期して朝日新聞社が招聘したものだ。

当初は、煌びやかなユニフォームを身にまとい馬上演奏を行なうギャルドのバテリー・ファンファールの招聘が企画されたが、最終的にラ・ミュジーク(吹奏楽団)の来日となった。

滞在中使われたアーティスト名は、“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”。

指揮者は、楽長フランソワ=ジュリアン・ブラン(Francois-Julien Brun, Chef de la Musique et du Orchestre)と副楽長レイモン・リシャール(Raymond Richard, Captaine, Chef Adjoint du Orchestre)の2人で、来日したのは総勢76名。

彼らは、11月1日からの17日間の滞在期間中、美術展開幕のための公式儀礼特別演奏のほか、東京、大阪、八幡(福岡県)、京都、名古屋、高崎(群馬県)の6都市で計8回のフル・コンサートや公開講座、レコーディングなど、隙間が無いほどビッシリ組まれたスケジュールを精力的にこなした。

11/1(水) 来日(羽田空港着 エールフランス特別機)

11/2(木) 「ルーブルを中心とするフランス美術展」開幕式
(東京 / 国立博物館庭 / 屋外演奏)

11/3(金) ギャルド歓迎演奏会出演(東京厚生年金会館)

11/4(土) 公開講座(東京 / 朝日講堂)

11/5(日) コンサート(東京文化会館) Aプロ

11/6(月) コンサート(大阪 / フェスティバルホール) Aプロ

11/7(火) 公開講座(大阪 / 朝日講堂)

11/8(水) コンサート(福岡県八幡 / 八幡製鉄体育館) Bプロ

11/9(木) コンサート(京都会館) Bプロ

11/10(金) コンサート(名古屋市公会堂) Cプロ

11/11(土) コンサート(東京文化会館) Bプロ

11/12(日) 第9回全日本吹奏楽コンクール特別演奏
(東京 / 台東体育館)

11/13(月) ソニー工場訪問 / サクソフォン・カルテット演奏
サヨナラ・コンサート(東京体育館)  Cプロ

11/14(火) 皇居内、宮内庁楽部訪問 / 日管工場訪問

11/15(水) コンサート(高崎 / 群馬音楽センター) Aプロ

11/16(木) レコーディング(東京 / 杉並公会堂)
レセプション(朝日新聞社会長宅)

11/17(金) 離日(羽田空港発 エールフランス特別機)

全日本吹奏楽連盟が共催したこのツアーは、羽田空港到着時の陸上自衛隊中央音楽隊および大田区中・高連合バンドによる歓迎演奏(11/1)に始まり、陸海空自衛隊や東京藝大、連盟所属の中・高吹奏楽部による歓迎演奏会(11/3)、帰国時のソニー吹奏楽団による送別演奏(11/17)まで、主に東京圏の連盟をあげてのサポートとなった。

これは、吹奏楽連盟として前例がないほどの歓迎ぶりであり、この時、実際にナマ演奏に接した興奮と熱狂は、1962年1月発行の「バンドジャーナル」(第4巻第1号 / 音楽之友社)の特集「ギャルドを聞いて」で、専門家から中学生まで、実に多くの人々の筆でアツく語られることになった。

事前発表されていたプログラムは、つぎの3つだった。

A:歌劇「タンホイザ―」序曲(ヴァーグナー)、トッカータとフーガ 二短調(バッハ)、歌劇「イーゴリ公」から“ダッタン人の踊り”(ボロディン)、交響曲第9番「新世界から」(ドヴォルザーク)、「アルルの女」組曲第1番(ビゼー)、牧神の午後への前奏曲(ドビュッシー)、英雄行進曲(サンサーンス)

B:「ハンガリー狂詩曲」第2番(リスト)、歌劇「ウィリアム・テル」序曲(ロッシーニ)、行進曲「大空」(須磨洋朔)、交響詩「禿山の一夜」(ムソルグスキー)、序曲「ローマの謝肉祭」(ベルリーズ)、ボレロ(ラヴェル)、「アルルの女」組曲第2番(ビゼー)

C:交響詩「レ・プレリュード」(リスト)、歌劇「魔弾の射手」序曲(ウェーバー)、歌劇「ニュルンベルクのマイスタージンガー」序曲(ヴァーグナー)、イタリア奇想曲(チャイコフスキー)、歌劇「ゴエスカス」から“間奏曲”(グラナドス)、歌劇「カルメン」抜粋(ビゼー)、スペイン狂詩曲(シャブリエ)

しかし、実際には、曲順も含め、プログラムはしばしば差し替えが行われ、まるでサプライズのようにレスピーギの交響詩「ローマの松」(全曲)やファリャの「三角帽子」、ラヴェルの「ダフニスとクロエ」第2組曲、シュミットの「ディオニソスの祭り」が取り上げられ、「ダフニスとクロエ」は第9回全日本吹奏楽コンクールの特別演奏でも演奏された。

東京の3公演については、赤松文治さんが自費出版された労作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」(1988 / 制作:音楽之友社)に詳細に記述されている。

アンコールが「ハンガリー狂詩曲」第2番だったこともあった!

演奏レパートリーは、シュミットを除き、大部分が管弦楽からのトランスクリプションだったが、多くがその後の日本の吹奏楽レパートリーにつぎつぎととり入れられていった事実1つをとっても、この初来日時の印象が、まるで一種の衝撃波のように日本列島の隅々まで伝わっていったことがよくわかる。

また、11月5日(日)の東京文化会館のコンサートは、NHKがテレビ収録。ラジオ用のステレオ音声収録も同時に行なわれ、まず、11月10日(金)、午後8時30分から、AMラジオの“NHK第1放送”と“NHK第2放送”の同時放送によるステレオ30分番組「夜のステレオ」で、「トッカータとフーガ」、「ダッタン人の踊り」「ファランドール」(アルルの女から)を放送。演奏会一週間後の11月12日(日)には、総合テレビで午前11時30分からの30分番組「音楽のひととき」で、「牧神の午後への前奏曲」、「英雄行進曲」、「ファランドール」(同)が放送された。当時の新聞番組欄には、「ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団演奏会 牧神の午後への前奏曲」他、とある。

その後、11月26日(日)には、教育テレビ、午後8時からの2時間番組「芸術劇場」で、「ウィリアム・テル序曲」、「ハンガリー狂詩曲」 第2番、「ボレロ」、「ローマの松」が、12月3日(日)にも、札幌エリアを除き、総合テレビ、午前11時30分からの「音楽のひととき」で、「ウィリアム・テル序曲」と「ファランドール」が放送されている。

NHKは、当時すでにビデオレコーダーを使っていたのだ。

元NHKプロデューサーで古くからの友人である梶吉洋一郎さんにこの件を確認すると、当時ギャルドのテレビ番組があったことに驚きながらも、『この頃には、もうあった。当時は、白黒映像で音声はモノラル。しかし、ビデオテープがひじょうに高価だったため、一度使ったテープを使いまわししていた時代だから、もう番組映像は残っていないハズ。』との回答を得た。NHKの看板番組の“大河ドラマ”まで放送後に消して、別の番組の収録に使っていた時代だ。この映像が出てくることは、恐らくもうないだろう。

NHKは、11月11日(土)の東京文化会館のコンサートもラジオ用にステレオで音声収録し、テレビ放送もあった12月3日(日)、ほぼ同時刻の午前11時からAMラジオによる1時間番組「立体音楽堂」としてオンエアされた。当時の新聞番組欄には、ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団演奏会から 序曲「ローマの謝肉祭」(ベルリオーズ)、交響詩「ローマの松」(レスピーギ)、ボレロ(ラヴェル)の3曲の曲名が載っている。

さらに、年を開けた1962年2月25日(日)、午前11時からの「立体音楽堂」でも、「ハンガリー狂詩曲」第2番、「大空」、「はげ山の一夜」、「アルルの女 組曲第2番」が放送されている。

「立体音楽堂」は、FMステレオ放送の登場以前にあった人気番組で、AMラジオ(モノラル放送)の“NHK第1放送”と“NHK第2放送”から、それぞれステレオ音源の片チャンネルの音を出し、リスナーはラジオを2台準備して、一方を“第1放送”に、もう一方を“第2放送”にチューニングしてステレオで愉しむという、とても野心的な放送だった。

(以上2本の「立体音楽堂」は、FMの実験放送でも同時刻にモノラル放送されている。)

AM2波を使ったステレオ放送の欠点は、ラジオが1台しかない場合、辛抱して片チャンネルだけを聴かねばならないということだったが、AMラジオの電波を1波しか持たない民放もNHKのこの動きに追従し、例えば日本放送と文化放送というように、他局とタッグを組んで音楽番組をステレオ放送で流すことも実際に行われていた。

ただ、実際には、全てのリスナーがまったく同じ性能のラジオを2台揃えていることは有り得なかった。このため、ステレオ放送の魅力を体現するためにAMチューナーを2つ備えたラジオが発売されたこともあった。

我が家には、何故か、この番組を聴くための同じ型のAMラジオが2台あり、オーディオ好き、音楽好きの父が、仕事の無い日曜に、嬉々としてNHKのステレオ番組を愉しんでいた記憶がある。少年時代の筆者も、訳が分からないまま、いつも座布団に正座して聴かされた。ギャルドが来日時にレコーディングしたEPレコードもあった。

いずれにせよ、記憶は遠くなりにけり。

1990年代にNHK-FM「ブラスのひびき」のコメンテーターをつとめさせていただいた時、スタジオや収録現場でお世話になったベテラン・スタッフから、まるで少年のように嬉々とした顔で聞かされたギャルドと向き合った時の興奮と臨場感あふれるストーリー。

その語り部たちの多くもすでに故人となった。

1961年のギャルド初来日は、今や歴史の1コマ、伝説と化してしまったのかも知れない。

▲昭和36年11月7日(火) 朝日新聞 夕刊3版4面

▲昭和36年11月12日(日) 朝日新聞 朝刊12版9面

▲昭和36年12月3日(日) 毎日新聞 朝刊13版9面