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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第14話 チャイルズ・ブラザーズの衝撃

▲チャイルズ・ブラザーズのプロモ・カード

アメリカのニューヨーク・スタッフ・バンド、イギリスのコールドストリーム・ガーズ・バンドとの感動的な出会いがあった1989年には、もう2人、忘れてはならないすばらしい出会いがあった。

それは、今や完全に“伝説”となった兄弟ユーフォニアム・デュオ“チャイルズ・ブラザーズ(The Childs Brothers)”である。

ウェールズの小さな村クリックホーウェル(Crickhowell)出身の2人のユーフォニアム奏者、兄ロバート・チャイルズ(Robert Childs、1957年4月5日生まれ)と弟ニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs、1961年10月7日生まれ)が、ユーフォニアム・デュオとしてデビューしたのは、1984年10日6日、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された全英ブラスバンド選手権ファイナル前夜のガラ・コンサートだった。

この兄弟は、すばらしいユーフォニアム奏者であると同時にブラスバンド指揮者としても知られた父ジョン・チャイルズ(John Childs)から音楽の手ほどきを受け、1984年当時、ロバートがブリッグハウス&ラストリック・バンド(Brighouse & Rastrick Band)、ニコラスがグライムソープ・コリアリー・バンド(Grimethorpe Colliery Band)という、イングランドのトップ・バンドで、ともにプリンシパル・ユーフォニアム奏者として活躍。仲間内では、ロバートが“ボブ”、ニコラスが“ニック”と親称で呼ばれていた。

彼らは、使っているユーフォニアムがともに“ベッソン”だったので、デュオ・デビュー以前から、製造メーカーであるブージー&ホークス社(Boosey & Hawkes)との関係は良好で、クリニックやコンサートのために海外に出向くことも多かった。だが、その時点では各人のソロ活動がメインで、デュオとしては認識されていなかった。

全英選手権ガラ・コンサートのゲスト・ソロイストとして、この2人にデュオを組ませるというアイディアも、実はこのコンサートをオーガナイズしたブージー&ホークス社の発案だった。

同社は、このデュオを実現するために、『ベニスの謝肉祭(Carnival of Venice)』のスペシャル・アレンジを気鋭の編曲家レイ・ファー(Ray Farr)に委嘱し、コンサートでは、後に2人のテーマ曲のように演奏されることになるアラン・キャザロール(Alan Catherall)編の『ソフトリー・アズ・リーヴ・ユー(Softly, As Leave You)』とともに演奏されることになった。

指揮のキャスティングにも力が入っていた。『ベニスの謝肉祭』ではアーサー・ケニー(Major Arthur Kenney)が、『ソフトリー・アズ・リーヴ・ユー(Softly, As Leave You)』ではジョン・チャイルズが指揮者として起用された!

ケニーは、第9話でお話ししたように、フィリップ・スパークの『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』の初演指揮者としても知られるが、ボブとニックがロイヤル・アルバート・ホールのステージにデュオとして登場したこの日は、翌日(10/7)開かれる全英選手権のファイナルで、ウェールズのコーリー・バンドを指揮してのハットトリック(全英3連覇)がかかっていた!  当時、イギリス中のブラスバンド・ファンの間で、もっとも注目を集めていた指揮者だった!

また、ジョン・チャイルズは、言うまでもなく2人の父であり、親子共演は、演出効果も満点!

伴奏をつとめたバンドも、ニックが16歳のときにソロイストとして招かれたヨークシャー・インペリアル・バンド(Yorkshire Imperial Band)だった。

こうして準備万端。“ボブ”と“ニック”がステージに登場すると、単に若く優れたユーフォニアム奏者のデュオというだけでなく、父を共通の師とする兄弟だけに息もピッタリ。風圧すら感じさせるスピード感とダイナミック・レンジの広さ、さらには6オクターヴを超える音域をラクラクと吹きこなすスキルをもつ2人のデュオ・デビューは、センセーショナルな大成功を収めた!

このライヴは、同年内にリリースされたLPアルバム「1984 Brass Band Festival」(英Chandos、BBRD1028)に収録され、これも大ヒットとなった。

▲LP-1984 Brass Band Festival

このため、1回限りのイベントで終るはずだったデュオは、“チャイルズ・ブラザーズ”と呼ばれるようになり、スポンサーもついて2人のための新作もつぎつぎと書かれ、2人はアーティストとして世界に大きく羽ばたくことになった。

“チャイルズ・ブラザーズ”は、1985年にスイス、ドイツ、1986年にアメリカ、フランス、オランダ、ユーゴスラヴィア、1987年にスイス、オランダ、ベルギー、ノルウェー、オーストリア、1988年にオランダ、ベルギー、スイス、スウェーデン、オーストラリアのツアーを成功させ、1989年にはアメリカ、カナダ、スイス、スペイン、ベルギーへのツアーがブッキングされている、と当時のパンフレットには説明がある。

レパートリーも、『ベニスの謝肉祭』と『ソフトリー・アズ・リーヴ・ユー』だけでなく、ジョン・ゴーランド(John Golland)の『チャイルズ・プレイ(Childs Play)』、ピーター・グレイアム(Peter Graham)の『ブリランテ(Brillante)』、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ツー・パート・インベンション(Two-Part Invention)』など、新しく魅力的な楽曲がつぎつぎと生まれた。デュオ以外にも、各人のソロ活動の中で生み出されたゴーランドの『ユーフォニアム協奏曲第1番 作品64(Euphonium Concerto No.1, Op.64)』(ボブの委嘱作、1981)やスパークの『パントマイム(Pantomime)』(ニックの委嘱作、1986)も、“チャイルズ・ブラザーズ”の活動とともに広く世界中に知られるようになった。

正しくユーフォニアムのための新しいレパートリーがつぎつぎ書かれるようになった転機の1つだった。

そんな2人と縁ができたのは、ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mlls Band)が初来日した1984年以来、何かと縁が深くなっていた東京のブージー&ホークス社(現ビュッフェ・クランポン)から“1989年7月来日”の報せと原稿依頼が舞い込んだことがきっかけだった。

この時、2人は、ボブがピーター・パークス(Major Peter Parkes)が指揮するブラック・ダイク・ミルズ・バンドのプリンシパル・ユーフォニアム奏者に、ニックがハワード・スネル(Howard Snell)が指揮するブリタニア・ビルディング・ソサエティ・バンド(Britannia Building Society Band)のプリンシパル・ユーフォニアム奏者に、それぞれポジション・アップしていた。

原稿依頼の電話を受けたのは、1989年の初夏。あまりにも急に決まった来日だったので、同社の事前告知も宣材もなく、最初の依頼は、プログラム用のアーティストのプロフィール・ノートを書くことだった。しかし、電話を受けたときに、筆者が“チャイルズ・ブラザーズ”についてすでにかなり噛み砕いて認識していることが相手に露見してしまい、その後、それならばと、コンサートの司会進行やクリニック後の質疑応答の通訳まで追加で依頼された。

来日後初の大きなアクションは、7/20(木)、福岡市博多区のガスホールにおけるピアノ伴奏のコンサート(主催:クレモナ楽器)だった。ピアニストは、出羽真理さん。

▲福岡コンサートのプログラム(表紙&曲目)

前記レコードやカセット(英Rosehill、RMPC 0068 & 0078)で2人のスキルやレパートリーは知っていたはずだったが、ナマで聴くパフォーマンスは、正しく“衝撃”そのもので、レパートリーも新鮮。また、無理に力を込めて吹いているわけでも、フォルテシモでもないのに、ホールの壁まで共鳴して“ビーン”と鳴る。一瞬ホールの素材のせいかと疑ったが、そうではなかった。その後の大阪でも東京でも、ホールの壁や天井が共震していた。音色もソフトからハードまで、ペダルからハイノートまで、すべての音符がクリアに聞こえる確実なフィンガリングが光る。“看板に偽りなし”とは、こういうときに使う言葉だろう。こんなユーフォニアムの音は、かつて聴いたことがなかった。

博多の聴衆は学生服姿が多かったが、“チャイルズ・ブラザーズ”のパフォーマンスには一様にビックリ仰天した様子で、彼らがイギリスからもってきたデビューCD「Childs Play」(Doyen, DOYCD001)の即売会は、長蛇の列となった。ニックが立ち上げ、その後ブラスバンドの大レーベルとなる“ドイエン”の第1号CDだ。(同時に、LPレコードとカセットでもリリースされた。)

▲CD-Childs Play

7/22(土)、大阪・御堂筋の周防町交差点にあった日産ギャラリーでのコンサート&クリニック(主催:三木楽器)も彼らは絶好調だった。博多でしっかりネタを仕込んでいたから、こちらの司会進行も快調に進む。いいものには嵐のような拍手が飛ぶ大阪らしい大盛り上がりのコンサートの後、ギャラリー地下での2人を囲む懇親会では、木村寛仁さん、中西 勲さん、石田忠昭さん、坂岡裕志さん、高橋修司さんら、その後、関西のユーフォニアム界を牽引する主役となった多くの若く熱意あるプレイヤーたちとの出会いがあった。これも、チャイルズのオーラが引き寄せたものだったように思う。

7/24(月)、東京・こまばエミナースでのコンサートは、前半がピアノ伴奏、後半が山本武雄指揮、玉川マスターズ・バンドとの共演という2部構成だった。もちろん、ピアノ伴奏のステージもすばらしかったが、ブラスバンド伴奏となると、何か別のスイッチが入るようで、2人はますます絶好調! アンコールでは、サプライズでニックがタクトをもってバンドを指揮するシーンも!これが、今やブラック・ダイク・バンドの音楽監督となったニックの“日本における指揮デビュー”となった。

すっかり仲が良くなった2人とは楽屋でも大盛り上がりで、指揮の山本さんも加わってスナップを撮りまくる!

終演後、握手をかわして再会を約し、東海道線の名物寝台急行「銀河」で大阪への帰路についた。

▲ピアノ伴奏で演奏する2人

▲山本武雄とチャイルズ・ブラザーズ

▲こまばエミナースでのフォト

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第13話 英国女王陛下の音楽大使

日本交響楽協会(日響)の小林 公さんから、1989年秋の“英国女王陛下の近衛軍楽隊 – コールドストリーム・ガーズ・バンド日本公演”をバック・ステージから自由に学ぶ機会を与えられた筆者は、10月4日から11日までの約1週間、バンドに帯同した。

イギリスは、正式国名を“United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland”(グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国)といい、グレート・ブリテン島のイングランド、ウェールズ、スコットランドに、北アイルランドを加えた4つの国で構成される。“ユニオンジャック”もしくは“ユニオンフラッグ”と呼ばれる現在の国旗も、イングランド(聖ジョージ旗:白地に赤の十字)、スコットランド(聖アンドリュー旗:青地に白の斜めクロス)、アイルランド(聖パトリック旗:白地に赤の斜めクロス)の国旗の意匠を組み合わせたものだ。有名なレッド・ドラゴン(赤い竜)が描かれているウェールズ国旗だけは、長くイングランドに服属していた歴史的背景から、組み込まれていないが、エリザベス女王もウェールズ国旗を承認している。昨今話題のスコットランド独立が実現するような事態になると、国旗も変更される可能性が高い。

こんな背景をもつ連合王国だけに、女王が居住し、執務を行なうロンドンのバッキンガム宮殿を警護する近衛師団も、イングランドのグレナディア・ガーズ(Grenadier Guards)とコールドストリーム・ガーズ(Coldstream Guards)、スコットランドのスコッツ・ガーズ(Scots Guards)、北アイルランドのアイリッシュ・ガーズ(Irish Guards)、ウェールズのウェルシュ・ガーズ(Welsh Guards)の5箇歩兵連隊で構成されている。

イギリスが他と違うのは、それら5つの近衛連隊すべてが、音楽監督1人と楽員49名で構成される定員50名の固有の吹奏楽団を有していることだろう。それらは、グレナディア・ガーズ・バンド、コールドストリーム・ガーズ・バンド、スコッツ・ガーズ・バンド、アイリッシュ・ガーズ・バンド、ウェルシュ・ガーズ・バンドと呼ばれる。例年5月にホース・ガーズ・パレードで挙行される“トゥルーピング・ザ・カラー(Trooping the Colour)”と呼ばれる女王公式誕生日の軍旗授与式のセレモニーなどでは、スコッツ・ガーズとアイリッシュ・ガーズのバグパイプ鼓隊や他のガーズの鼓隊を加えた250名を超す大編成の合同演奏で行う。BBCは、その模様を毎年放送するので、彼らの演奏は英国民にすっかりおなじみとなっている。(軍縮前の定員は、各66名だった。)

この内、最初に日本にやってきたバンドは、1970年に大阪で開催された「日本万国博」のイギリス・ナショナルデーのために派遣され、東京でも公演を行ったスコッツ・ガーズ・バンドだった。ついで、1972年、パレードを含め、全国24回のパフォーマンスを行なったアイリッシュ・ガーズ・バンド。その後、日響の小林さんが訪日を要請した1986年のコールドストリーム・ガーズ・バンド、東京ドームのオープニングを記念して開催されたイベントに招かれ、大阪でも公演を行った1988年のウェルシュ・ガーズ・バンドとつづく。1990年に大阪で開催された「国際花と緑の博覧会」には、香港に来演中のグレナディア・ガーズ・バンドから分派された小編成の名物アンサンブル“18世紀バンド”が来日している。

1972年のアイリッシュ・ガーズから、1986年のコールドストリーム・ガーズまで、かなりの期間が空いているが、それは、アイリッシュ・ガーズの招聘元からバンドへの出演料支払いをめぐる重大トラブルが発生したからだ。結果、招聘元は解散。プレイヤー全員がユニオンに入っているプロ・ミュージシャンだけに、これはたいへんな事態となった。その後、イギリス国防省が“女王陛下の音楽大使”であるガーズ・バンドの日本へのツアーをけっして認めようとしなかったのも無理はない。

小林さんは、招聘まで1年余計にかかってしまったと言われていたが、1986年のコールドストリーム・ガーズ日本初公演が実現したのは、偏に折衝に当った小林さんらの熱意と誠意が相手に通じたからに他ならない。

筆者がツアーに同行を許されたのは、その3年後、1989年に行われた2度目の来日ツアーだった。

公演は、バラエティーに富んでいた!!

10/4(水)、音楽監督ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)らとロンドン以来の再会。この日の非公開の公演先である成徳学園では、コールドストリーム・ガーズ単独ステージのほか、同学園吹奏楽部との合同演奏のステージが組まれていた。当日リハーサルだけに多少の混乱はあったものの、手慣れたスタッフの誘導も功を奏し、すばらしいステージとなった。

▲成徳学園でのステージ

1日休みをとった10/6(金)の東京文化会館大ホールは、招聘元・日響の本公演。小林さんがもっとも日本の聴衆に愉しんで欲しいと思っていたステージで、ロビーでのグッズ販売もメンバーが対応。あちらこちらで入場者のリクエストに応えて即席のフォト・セッションが行われるほど、大盛り上がりのコンサートとなった。

▲東京文化会館(友人提供)

10/7(土)の米沢市営体育館(山形)では、広いフロアを使ったマーチング・ドリルとコンサートをミックスしたプログラムだった。マーチングはお手のもののはずだが、会場に入るや、フロアの広さをチェックし、入念なリハーサルが行われた。このあたり、正しくプロフェッショナル。ユニフォーム姿ではない思い思いの服装でのマーチングでも、姿勢や陣形がまったく崩れないのは、さすが第一級のバンドを感じさせた。このとき、少しチューニングに微妙なズレが感じられたので、日響スタッフを通じてスウィフト少佐に伝えてもらうと、コンサート・リハ前に、ハーモニーでサウンドを整えていく珍しいシーンに遭遇した。いつも同じメンバーでやっているからだろうが、アッと言う間に豊かで輝かしい響きを取り戻していく彼らに、あらためて惚れ直すことになった。

▲米沢市営体育館

ここで2日間オフがあり、次の出番は、10/10日(火)、愛知県豊明市の藤田学園での非公開の学内公演となった。ここは、まるでヨーロッパの宮殿のような美しい内装の“フジタホール2000”(2000人収容)でのフル・コンサートと、聖火台のあるスタンドとナイター設備も整った“総合フジタグラウンド”でのマーチング・ディプレイの2本建てだった。コンサートでの最大の収穫は、ジョン・ゴーランド(John Golland)の『ユーフォニアム協奏曲第1番(Euphonium Concerto No.1)』(独奏:ジョナサン・スミス)のウィンドオーケストラ版日本初演をナマで聴けたこと。また、ナイターで行われたディスプレイでは、緑の天然芝の上で、伝統のマーチングを繰り広げるコールドストリーム・ガーズのフォーメーションが、カクテル照明に映え、とても美しかった。

▲藤田学園でのショー

翌日の10/11(水)、滋賀県の大津に移動。コンサート前の一仕事として、バンドは、JR大津駅前から会場の滋賀会館までパレードを行なった。途中、バンドの進行ルートの路上中央部に陣取ったどこかのメディアのカメラマンと衝突寸前のハプニングも。思わず、トロンボーン奏者が“あぶない!”と大声を張り上げたが、英語がわからないためか、いい絵を撮りたいためか、カメラマンはそのまま撮影を続行。結局、行進するバンドの中央部あたりを辛うじてすり抜けるような形となった。パレード終了後、メンバーも口々に“あれはクレージーだ!”と言い、同じ日本人として何とも言えない気持ちとなった。しかし、ハイノートが炸裂するアメリカのデニス・エドルブロック(Dennis Edelbrock)のファンファーレ『サリュート・トゥー・ア・ビギニング(A Salute to a New Beginning)』 でこの日のコンサートが始まると、気分一新、メンバーたちはいつものミュージシャンの姿に戻っていた。すっかり名物となったケヴィン・コーツ曹長独奏の『ポスト・ホーン・ギャロップ(Post Horn Gallop)』も場内からヤンヤの喝采を浴びていた。

▲JR大津駅前から会場の滋賀会館までパレード

▲滋賀会館でのステージ

コールドストリーム・ガーズとの珍道中もこの日でお別れ。

この間、主催者の要望に応えようとするバンドのミュージシャンシップ、臨機応変の対応をする音楽マネージャー、想定外のハプニングのカバーリングなど、聴衆が興奮するステージの裏側で、さまざまな人々がそれをサポートをしている姿を目の当たりにすることができた。特筆すべきは、この間1つとして同じスタイルの公演はなかったことだ。これは地元主催者との緻密な事前折衝と演奏者との信頼関係があって、始めて成立する世界だ。

現場では、小林さんの著『85%成功するコンサートの開き方』(芸術現代社)に書かれたノウハウが見事に具現化されていた。

2017年までに、コールドストリーム・ガーズは、都合13度の来日を果たしている。これは、このバンドがどれだけ日本人のハートを捉えているか、その証明のようなものである。

大津からバスで京都のホテルに到着後、この間すっかり仲が良くなったトロンボーン軍団が、筆者のために気持ちのこもった小さな誕生パーティーを開いてくれた。

若き日の想い出の1ページである。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第12話 85%成功するコンサートの開き方

1988年4月、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーは、音楽的にも幾つもの成果を上げながら、成功裏に終えることができた。

東京、大阪、名古屋を含む、全7公演のプロデュースの責務を担う以前は、まさかこのような規模の大きなツアーを4ヵ月という短期間の内にまとめあげねばならなくなるとは想像すらしていなかったが、幸いにも各方面のいろいろな方々の知恵と協力、尽力を得て、ぶっつけ本番ながら、勢いだけでなんとか乗り切ることができた。その悪戦苦闘ぶりは、第8話第10話でお話ししたとおりだ。

しかし、70余名のイギリス人ミュージシャンを率いて各地の会場をめぐる内、自分に決定的に不足しているものが何であるかが次第に見えてきた。

それは、多くのファンがただ音楽を愉しみたい、ただそれだけの目的のためにやってくるコンサートを澱みなく進行させ、事故なく舞台を動かしていくステージの実体験だ。

ポップスやオーケストラの世界では、専門教育を受ける場や機会は確かにある。しかし、筆者は、管楽器が中心になって活躍する音楽に特化した勉強がしたかった。

幸いなことに、ロイヤル・エア・フォースのツアー翌年の1989年には、アメリカのブラスバンド、救世軍ニューヨーク・スタッフ・バンド(Salvation Army New York Staff Band)(5月)と、ロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵交代でおなじみの5つの近衛軍楽隊から、コールドストリーム・ガーズ・バンド(The Regimantal Band of the Coldstream Guards)(9~10月)の来日が予定されていた。

▲ニューヨーク・スタッフ・バンド

そこで、筆者は、まず、東京・神田神保町の救世軍本営を訪ね、旧知のジャパン・スタッフ・バンド楽長、鈴木 肇(はじめ)さんに、ボランティアで舞台をお手伝いしたい旨、申し入れた。鈴木楽長は、最初、とても驚かれた様子だったが、真摯にその目的を話す内、快く舞台スタッフに迎え入れていただけることになった。また、大阪でも、救世軍の関西ディビジョナル・バンド楽長、前田徳晴さんの理解を得た。

救世軍は世界的組織だ。内部に音楽スタッフも大勢いらっしゃるのに、よくもまあ、キリスト教徒でもない、完全に部外者の筆者のリクエストに好意的な回答を出していただいたものだ。

この時に得たブラスバンドのバック・ステージの実体験は、その後、1990年に大阪の地に誕生したプロのブラスバンド、プリーズ・ブラス・バンドで、ミュージカル・スーパーバイザーという重責を担うことになったとき、大いに意味をもつことになった。

ニューヨーク・スタッフ・バンドの大阪での終演後、サプライズがあった。バンド・メンバーや救世軍スタップの皆さんの前で、ブライアン・ボーエン楽長(Bandmaster Brian Bowen)から“公演チラシに自筆サインをあしらった額”を贈られたのだ。貴重なステージ体験を得ることができただけでも感謝感激なのに、これはもう、一生の宝物だ!

コールドストリーム・ガーズ・バンドの音楽監督、ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)には、レコーディングでロンドンを訪れた1989年4月、バッキンガム宮殿に近いウェリントン兵舎にあるコールドストリーム・ガーズ音楽監督室でお目にかかった。面会のアポをとってくれたのは、ロイヤル・エア・フォース首席音楽監督のエリック・バンクス(Wing Commander Eric Banks)だった。

▲ロジャー・G・スウィフト少佐

そこでは、スウィフト少佐と副官のマイクル・A・ミッチェナル准尉(Warrant Officer Micheal A. Michenall)が笑顔で出迎えてくれた。両人とも、ユニフォームではなく、誂えのいいきちんとした三つ揃えの背広姿だ。(こちらも、きちんとネクタイをしめていって良かった!)

早速、1989年ツアーの抱負やプログラムについて質問しようと話し始めたら、それを遮るように、現地でも大成功が伝えられていたロイヤル・エア・フォースのツアーやプログラムについての話を聞かせて欲しいというリクエストがきた。逆に質問攻めだ!

ご承知のように、同じイギリスの演奏団体ながら、ロイヤル・エア・フォースとガーズとでは、使われている楽器、編成、レパートリー、プログラミング、演奏スタイルがまるで違う。そこで、まず敬意を表し、実際に聴いた1986年のコールドストリーム・ガーズ初来日時のプロがとても愉しかったので、そのスタイルを変える必要はないこと。ついで、ポップスについては、イギリスと日本では流行のサイクルが違うこと。普段は演奏しない日本の曲を無理に取り入れる必要はないこと。聴衆は、イギリスの、そしてロンドンの空気が伝わる曲を聴きたがっているということなどを話した。

スウィフトは、バンクスからフィリップ・スパークの「ドラゴンの年」が大成功を収めたことも聞かされていた。そこで、『イギリスのオリジナル曲がイギリスのバンドのサウンドでナマで聴けることはとても意義があるので、プログラムの中に1曲ぐらい、そういう曲が入っていてもいいのではないかと思う。ただし、コールドストリーム・ガーズの普段のスタイルを崩さない範囲で。』とサジェストした。

以上の会話がどれほどの意味があったのか、この時はよく分からなかった。しかし、別れ際には、記念にと言って、65名という当時のフル編成でウェリントン兵舎の前庭を行進するすばらしいカラー写真と、ひじょうに重い鋳造製の連隊バッジがついた士官用の革製馬具を贈られた。“空港検査でブザーが鳴るかも知れない”とジョークをかまされながら…。(写真は、その後、公演プログラムを飾った!)

帰国後、ロンドンの土産話を携えて、コールドストリーム・ガーズ日本公演を手掛ける東京・恵比寿の日本交響楽協会を訪ねた。出迎えてくれたのは、代表取締役の小林 公(ひろし)さんだった。かつて名古屋交響楽団を立ち上げ、日本フィルハーモニー交響楽団初代事務局長、読売日本交響楽団初代事務局長をつとめられた筋金入りの大ベテランだ。

今夜もどこかでコンサートがあるという多忙の中、筆者の話に耳を傾けていた小林さんは、前年ロイヤル・エア・フォース公演をなんとかやり遂げたという話に、音楽マネージャーの仲間内でも“一体誰がやったのか”と話題になっていたと言われ、ロンドンでスウィフトと話してきた中身については、目前の公演だけに、身を乗り出すように関心を示された。

その後、筆者にとって最も重要な案件である“今度の公演を舞台裏から勉強したい”という希望を切り出した。すると、すっと立ち上がった小林さんが、一冊の自著を取り出してきて、筆者に手渡した。

それが、『85%成功するコンサートの開き方』(芸術現代社, 1981)だった。

この本では、「コンサートを成功させる心がまえ」「企画のたて方とポイント」「聴衆はこうして多くする」「コンサート実務のすべて」「外タレを安く仕込む方法」「音楽鑑賞団体の課題」など、小林さんのノウハウが惜しげもなく語られていた。

実際、この本からは実に多くのことを学んだ。コンサートを作る側にとっては、正しくバイブルであり、今も座右の銘のように扱っている大切な書物だ。また、筆者の意を汲みとって、この公演を舞台裏から自由に勉強できるよう便宜を図って下さった小林さんは、大の恩人となった。

小林さんがコールドストリーム・ガーズ・バンドに魅了されたのは、1984年3月、オーストラリアの全音楽企画者会議に日本代表として招かれたとき、偶然メルボルンの新しいホールで聴いたコンサートだった。手許に残してある1986年の公演チラシには、こう書かれてある。

『2000名を越える大ホールは満席で、ステージに登場した金色の肩章やモールに飾られた真紅の上着とサイド・ラインの入った黒ズボンの隊員50名に、歓声と盛大な拍手がおくられました。冒頭でタンホイザ―の行進曲が演奏されたが、その音色のやわらかさ、ピアニッシモの美しさ、日本のオーケストラでも聴けなかった絶妙の演奏にまず驚かされました。続いて勇壮華麗な得意のマーチが聴衆の胸を躍らせ、颯爽とした指揮官のユーモラスな司会に、和かな笑いが起り、ミュージカル、オペラ、ポピュラーのヒットナンバーとプログラムが展開していって、時のたつのを忘れさせてくれました。曲によって、隊員の中の名手がすばらしい独奏を披露し、打楽器群のユーモラスな掛け合い演奏が聴衆を湧かせましたが、隊員達の姿勢や行動にすがすがしい規律正しさがみえて爽快でした。私は、軍楽隊がこれ程技術的に高いものであり、これ程娯楽に徹しているとは予想していませんでしたから、非常に驚き且感銘して、終演後指揮官に会い、訪日を要請しました。』(小林 公)

オーケストラを幾つも立ち上げてきたベテランが吹奏楽に寄せたこの一文には、教えられることが多い。

その後、スウィフトから送られてきたプログラム案には、エルガーやホルストなどのクラシックに混じって、当時ロンドンで大ヒットしていたアンドルー・ロイド=ウェバーのミュージカル『オペラ座の怪人』や『スターライト・エクスプレス』のセレクション、イギリスのオリジナル曲からは、フィリップ・スパークの『ドラゴンの年』、ジョン・ゴーランドの『ユーフォニアム協奏曲』、ローリー・ジョンスンの『ロートレックの3枚の絵』などが盛り込まれていた。

小林さんは、スウィフトが書いてきたプログラム・ノートの和訳を筆者に任せてくれた。

イギリス色満開のそのプログラムに、全力投球で取り組んだことを今もよく覚えている!

▲コールドストリーム・ガーズ・バンド

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第11話 「士官候補生」と「ハイ・スクール・カデッツ」

ヨーロッパの出版社Hal Leonard MGBが、2年ぶりに名古屋芸術大学ウインドオーケストラと取り組むレコーディング・セッションの準備に没頭していた2017年8月30日、日本コロムビアのプロデューサー、遠藤亮輔さんから電話が入った。

コロムビアとは古くからのつき合いだが、遠藤さんとは初めてのやりとりだ。

話は、12月新譜で“ベスト盤”と銘打ってリリース予定の26曲入りのマーチのコンピレーション・アルバムのプログラム・ノートの依頼であった。

筆者に白羽の矢がたったのは、その内16曲が、かつて筆者がプログラム・ノートを提供したアルバムからのピックアップだったからで、まずはそのノートを転用させて欲しいという依頼と、それに加えて、残りの10曲のノートを新たに書き足して欲しいというものだった。

すでにノートを書いた16曲は、ロンドンのバッキンガム宮殿の衛兵交代でおなじみのイギリスの近衛軍楽隊の1つ、コールドストリーム・ガーズ・バンド(The Regimental Band of the Coldstream Guards)が、音楽監督ロジャー・G・スウィフト少佐(Major Roger G. Swift)の指揮でロンドンのEMIアビー・ロード・スタジオで録音し、1989年9~10月の日本ツアーに合わせてリリースされた「コールドストリーム・ガーズ/マーチ集I 英国篇」(日本コロムビア、CO-3806)と「コールドストリーム・ガーズ/マーチ集II 米国・欧州大陸篇」(日本コロムビア、CO-3807)の2枚のCDアルバムからのものだった。とても懐かしいアルバムだ!!

遠藤さんには、そのプログラム・ノートの二次使用については即座に同意した。しかし、他のノートの締切日(9/20)を聞いて、それは難題だと回答した。

何よりも、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)が指揮者として、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)がプロデューサーとしてやってくる名古屋芸術大学ウインドオーケストラのセッションが目前にせまっていた。ハームホウトスは、ドイツのバンベルク交響楽団の元首席トロンボーン奏者で、ベルト・アッペルモント(Bert Appermont)のトロンボーン協奏曲「カラーズ(Colors)」の初演時の独奏者だ。この時点で、名芸教授で指揮者の竹内雅一さんとも半年以上も前から準備をし、ヨーロッパから来日する2人の友人が関わるこの録音が何よりも優先されるのは間違いない。加えて、コンサートのプログラム・ノートの執筆依頼やスタジオでのCDマスタリングも直近に予定されていた。

遠藤さんには、自身のタイトなスケジュールを話し、他をあたるように繰り返しお話ししたが、とにかく曲目一覧を送るので見てほしいと粘られる。

しかし、しばらくして送られてきたリストを見て、しばし脳波が停止してしまった!!

他の9曲は、山本正人指揮、東京吹奏楽団、残る1曲は、斉藤徳三郎指揮、陸上自衛隊中央音楽隊の演奏だった。いずれも1960年代半ばまでに録音されたものだ。コールドストリーム・ガーズの録音はデジタルなので、アナログ時代とデジタル時代の録音をコンピレーションする大胆な企画だ。それはまだいい。しかし、収録曲目リストに編曲者名が記載されていないものがいくつもあることがたいへん気になった。

あまりにイライラしたので、先方から電話がくる前に、こちらから遠藤さんに電話を入れた。

『リストを拝見しました。いくつも問題点が気になってしまう曲がありますが….。』と話を切り出すと、電話口の向こうから“何を言われるのだろう”と息を呑んでいる様子が伝わってくる。

『まず、「錨を上げて(Anchors Aweigh)」ですが、1960年代初旬の録音ということから考えると、使われている編曲は3種類ぐらいが考えられます。マスターには何て書かれていますか?』と言いながら、実際にそれらを歌ってみる。相手は“何も書かれていません”と言って沈黙するので、『そうですか。時期から考えて、恐らくは、三戸知章の編曲もしくはポール・ヨーダー(Paul Yoder)の編曲だと思いますが、それがはっきりしないと誰も解説なんて書けませんよ。これは東京藝大の山本正人さんの指揮なんで、東京吹奏楽団か東京藝大に確認しないといけないのでは….。』とサジェストする。

続いて『次の「士官候補生(The High School Cadets)」ですが、これは日本語タイトルに重大な誤解があります。まず、“士官”という言葉ですが、一般的に言って、これは“軍隊”以外では使われない語ですよね。しかし、実際にこの曲を書いて欲しいと作曲者に依頼したのは、正真正銘“ハイ・スクール”の生徒たちなんです。もっと分かりやすく説明しますと、“士官候補生”などというタイトルをつけると、それは完全な“軍隊マーチ”と捉えられてしまいます。曲が書かれた当時の事情から考えても、実際にはそうではなかったのに…。曲名をどうしても和訳しなければならないとしたら、音読みして「ハイ・スクール・カデッツもしくはハイスクール・カデッツ」にしておくのがベターかも知れません。』といった調子で、気になる曲を取り上げては、バサバサ斬っていった。

アメリカのナショナル・マーチ(即ち国歌に準ずる“国のマーチ”)に制定されている「星条旗よ永遠なれ(The Stars and Stripes Forever)」で知られるジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa、1854~1932)が「ハイ・スクール・カデッツ」を作曲したのは、彼がワシントンD.C.(コロムビア自治区)のアメリカ海兵隊バンド(The President’s Own United States Marine Band)の隊長、指揮者をつとめていた1890年のこと。ワシントンD.C.初、そして当時唯一のハイ・スクールだったワシントン・ハイ・スクール(Washington High School / その後、Central High Schoolと改称)のカデッツ・ドリル・チームの生徒たちのリクエストで書いたマーチだった。

南北戦争(1861~1865)の記憶がまだ色濃く残っていたこの時代のアメリカの学校では、軍隊のような煌びやかなユニフォームを身に纏い、模擬銃を肩に乗せて歩調をとりながら統一された動きやフォーメーションの美しさを競うドリル・パフォーマンスが人気を集めていた。軍に由来するフォーメーションを採り入れていることから、それを“カデッツ”と呼ぶチームもあった。“ドリル・チーム”という言葉から、楽器を持って行進するマーチング・バンドと誤解されやすいが、そうではない。

ワシントン・ハイ・スクールのカデッツ・ドリル・チームの生徒たちは、2年前の1888年、スーザがライバル校のチームのために「ナショナル・フェンシブルズ(National Fencibles)」というマーチを書いたことを知っていた。作曲の依頼は、生徒たちがそれを上回る自分たちのためのマーチが欲しいと考えたことがきっかけだった。

曲が完成すると、スーザは生徒たちを自身が隊長をつとめるアメリカ海兵隊バンドの練習場に招いて演奏して聴かせた。それに感激した生徒たちが、作曲料として自分たちの小遣いから持ち寄った24ドルを差し出したというエピソードが知られている。

以上が、「ハイ・スクール・カデッツ」の凡その作曲の経緯だ。

しかし、1960年代の日本のレコードには、“1890年にウェスト・ポイント士官学校の依頼により作曲されたもので、若々しい士官候補生の元気のよい様子を描いて…..”とか“1890年ウエスト・ポイント士官学校の要請に応じて作曲したマーチで、候補生たちの規律正しいムードと、若さと希望に溢れた日常生活を描いたもの。”というような曲目解説が載っていた。(これら解説は、発行から50年以上が経過し、すでに日本の著作権が消滅しているので、ここに引用した。)

また、1964年7月にリリースされたEPレコード「世界のマーチ/アメリカ・マーチ(7)」(日本コロムビア、ASS-10014)のジャケットにも、アメリカのウェスト・ポイント陸軍士官学校の学生たちが行進するイラストが使われていた。この曲が「士官候補生」という曲名で“軍のマーチ”としてイメージ付けされてしまったのも無理はない。

この事情が一変するのは、アメリカのポール・E・バイアリー(Paul E. Bierley、1926~2016)が、スーザの伝記「John Philip Sousa: American Phenomenon」(ACC/Meredith Corporation, 1973)や作品情報をまとめた「John Philip Sousa: The Descriptive Catalog of His Works」(University of Illinois Press, 1973)を著し、さらにそのカタログ情報をアップテートさせた「The Works of John Philip Sousa」(Integrity Press, 1984)の存在が日本でも知られるようになって以降のことだ。

1976年のアメリカ合衆国建国200周年を機に企画されたアメリカ海兵隊バンドのスーザ作品集(LPレコード)や、1974~1981年に計10枚のアルバム(LPレコード)がリリースされたデトロイト・コンサート・バンド(Detroit Concert Band)のスーザ作品集も、すべてバイアリーの著作の記述に従っていた。

30分近く喋ったろうか。ここまでくると、相手はもう黙って聞くしかない状況に。

そこで、『コロムビアさんやビクターさんという老舗レコード会社が、つぎつぎとマーチを録音し、レコードをリリースされていた“マーチ黄金時代”には、現時点から考えると“まるで嘘”のような誤情報にもとづく解説や日本語曲名がまかり通っていました。これは、遠藤さんの責任ではありません。また、老舗には、良くも悪くも脈々と受け継がれてきた伝承のようなものもあります。私は、これまで300枚近いレコードやCDの解説を書いてきましたが、それは、もう少しきちんと調査したものを書き残したいと考えたことがきっかけでした。21世紀の今、私が他のマーチすべての解説を書くなら、もう少し時間を頂戴しないと不可能です。』と柔らかくオファー自体を断わった。

しかし、その後、遠藤さんからは、もう一度連絡があった。話を伺うと、録音当時に大石 清さんが書かれたノートを社内で見つけられたそうで、今度のCDには合わせてそれを使うことにしたという説明だった。その一方、散々話をお聞かせした「ハイ・スクール・カデッツ」だけは、どうしても新しいノートを書いて欲しいとのことだった。

クラシックの偉大なる作曲家たちと重なる時代に書かれた音楽なのに、日本には、マーチの解説を書ける人は、もうほとんどいない。

マーチ不遇時代は、今もなお続いている。

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第10話“ドラゴン”がやってくる!

波乱の1988年が明けた。

それまで外部からの私設応援団と考えていた“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本公演”をいきなり実行しなくてはならない立場となった筆者は、大阪での仕事や生活をすべて整理、キャンセルし、単身上京した。東京・虎の門の公演実行委員会では、専用の机が用意され、バンドがやってくる4月までの間、そこで昼夜兼行の格闘が始まった。

状況を整理すると…。第8話でお話ししたように、実行委は何らかの不手際でサントリーホールを失ない、条件の合う東京の空きホールは、もうどこにもなかった。日程が確定していたのは、4/19(火)、ザ・シンフォニーホール(大阪)のコンサートだけだった。だが、大阪が決まったことは大きく、すべてがガラガラと動き出した。

とは言うものの、ここから3ヵ月後にせまった来日2週間のスケジュールをフィックスさせようというのは、どう考えても無理があった。委員長の萩野荘都夫さんも出張から帰国。ホール代を支払ったことで尻に火が付いた実行委全員がありとあらゆる知人、関係者に片っ端から電話を入れて他の公演地の可能性を探った。しかし、電話を掛ける方も受ける方も音楽畑ではない人ばかりだから、まるでうまく運ばない。

そんな中、突然、委員長が『名古屋のレインボーホールを見に行こう。』と言い出した。ネタ元はわからないが、空き日があるようだった。早速ホールに出向くと、その理由がわかった。例年ロイヤル・エア・フォースが200名編成のコンサート“フェスティヴァル・オブ・ミュージック”を行っていたロンドンのロイヤル・アルバート・ホールそっくりのアリーナ形式のホールだった。キャパシティーは、最大10000席(固定席5000席、可動席2000席、移動席3000席)。現在は、日本ガイシホール(名古屋市総合体育館) と呼ばれるこのホールは、1987年にオープンしたばかりだった。自画自賛の委員長だったが、東京でいえば武道館、大阪でいえば大阪城ホールでコンサートをやるようなものだ。ステージも組まないといけないし、ホールの事業誘致係長、山中 敦さんも懐疑的だった。しかし、その場は上機嫌の委員長の顔をたてて“空き日の4/22(木)を仮押さえ”し、とにもかくにも2ヵ所目の公演地を確保する。

一方で、筆者は、かつてフレデリック・フェネルが指揮した大阪市音楽団のライヴLP制作などでお世話になった東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんを訪ね、無茶は承知で“東京でのコンサート開催”について何か妙案がないか相談を持ちかけていた。話を聞いた古沢さんも、3ヵ月前からホールを捜そうなんて聞いたことが無いと言いながら、話を持ち帰って佼成文化協会内で揉んでいただけることになった。

また、ザ・シンフォニーホールの秋田宣久さん(朝日放送シンフォニーホール事業本部部長)からは、九州のRKB毎日放送事業推進局次長の河原俊二さんと中部日本放送(CBC)文化事業部長の安藤和彦さんの紹介を受け、大阪以降の福岡、名古屋でのコンサートの可能性を探っていただくことになった。

しかし、さすがは餅は餅屋だ!プロたちの動きは素早かった!

まず、古沢さんから“東京佼成ウインドオーケストラとのジョイントで《日英交歓チャリティーコンサート》を必ず開催する”という条件で、普門館を会場に使うことが許可されるかも知れない、との打診が入った。もちろん、当方に異論はない。すぐにユニセフに連絡をとり、オケのスケジュールとすり合わせた結果、4/14(木)合同リハーサル、4/15(金)東京佼成のリハーサル、4/16(土)に日英交歓コンサート、4/17(日)にロイヤル・エア・フォース単独コンサートという流れが決まった。東京佼成WOの指揮者は、汐澤安彦さんだ!

福岡へ飛ぶと、すでにリサーチを終えていたRKBの河原さんから“4/21(水)の福岡郵便貯金会館が使える”という打診があり、CBCの安藤さんとも“レインボーホールは当方でキャンセルするので、市内の愛知文化講堂でやりましょう”と話がまとまった。

他方、年明けからの実行委の電話攻勢、ついで公演地が順次決まっていったことが伝わると、それまで半信半疑だった人々も“今度は本当にやりそうだ”という空気を肌で感じるようになってきた。ビジネスに繋がるかも知れないと考えた大手広告代理店やメディアからも問い合わせが入るようになり、スポンサーになってくれそうな企業も出てきた。このあたりは、さすがはビジネスマンの委員長の人脈だと感心する。

その後、スポンサーからの申し入れで横浜(4/15)と大分(4/21)の公演が急浮上したことから、バンドのオフ日を調整して博多入りの日程を1日早め、会場をサンパレスに変更したり、スポンサーにお願いして大分から名古屋への移動のためのチャーター機を手配したりするなど、多少の揺れ動きもあったが、プロの手を借りながら調整して全7公演を確定。やっと来日ツアーらしい姿にまとまってきた。

次のテーマは、2年前に指揮者バンクスと実行委との間でフィックスされていた演奏プログラムの組み直しの交渉だった。ここで、筆者が、プログラムにはなかったフィリップ・スパークの「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」にこだわったのには理由があった。

第9話でお話ししたように、「ドラゴンの年」のオリジナルは吹奏楽曲ではなく“ブラスバンド”編成の曲だった。しかし、1984年に全英チャンピオンが初演したこの作品は、翌年の初演者によるレコードのリリース以降、イギリスだけでなく、広くヨーロッパのバンド界全体を揺るがしていた。

この作品は、まず、ヨーロピアン・ブラスバンド・アソシエーションによって“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1986”のセット・テストピース(指定課題)に採用された。そして、同年5月3日(土)、ウェールズ、カーディフのセント・デーヴィッズ・ホールで行われた同選手権では、ハワード・スネル(Howard Snell)指揮、デスフォード・コリアリー・ダウティ・バンド(Desford Colliery Dowty Band)が、100ポイント中、99ポイントという驚異的なハイスコアでトップに立ち、オウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)との合計で王座を競う総合点でもブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)の猛追を3ポイント差でかわしてチャンピオンとなった。

その時のほぼ完璧とされる“ドラゴン”は、BBCが放送し、17年後の2003年にリリースされた選手権の25周年記念3枚組CD「25 Years of the European Brass Band Championships」(Doyen、DOYCD156/廃盤)にも収録された。

一方、作曲者のもとへは、バーミンガム・スクールズ・ウィンドオーケストラ(Birmingham Schools Wind Orchestra)から“ウィンドオーケストラ(吹奏楽)”のためのバージョンを新たに作る依頼が寄せられた。オーケストレーションは1985年に行なわれ、初演は、翌年の1986年2月22日(土)、バーミンガムのサー・エードリアン・ボールト・ホール(Sir Adrian Boult Hall)で、キース・アラン(Keith Allan)指揮、同ウィンドオーケストラの演奏で行われた。これが、我々が知る“ウィンドオーケストラ(吹奏楽)版”の誕生日だ!

1987年には、“ブラスバンド版”収録の2枚目のアルバムがリリースされた。それは、ヤマハ創業100周年を記念して同年5月に日本に招かれたスウェーデンのエーテボリ・ブラス・バンド(The Gothenburg Brass Band)が、ベングト・エクルンド(Bengt Eklund、1944~2007)の指揮で日本公演プロを来日を前に録音したLPアルバム「The Gothenburg Brass Band」(Polyphonic、PRL032D)だった。同バンドは、デスフォードが優勝した前記“ヨーロピアン1986”で、イギリス以外のバンドとして最上位の第4位に入ったバンドで、選手権を経ていただけに、レコードの“ドラゴン”も現代風に洗練されたパフォーマンスだった。

“ドラゴン”のブラスバンド版は、意外にも、イギリスではなく、スウェーデンのブラスバンドによって日本に紹介されていたのだ!

同じ1987年、イギリスでは、ダンカン・ビート(Lieutenant-Colonel Duncan R. Beat)指揮、ネラ―ホール陸軍音楽学校バンド(The Band of the Royal Military School of Music, Kneller Hall)演奏の初の“ウィンドオーケストラ版”のLP「Kneller Hall in Concert」(Polyphonic、PRM111D)もリリースされ、楽譜も出版された!!

ロイヤル・エア・フォースでも、ステータスが格違いのセントラル・バンドを除く、地方配置の40名編成の各バンド(レジメント、カレッジ、ウェスターン、ジャーマニー)のスキル向上のために例年行なっている団内コンクールで、「ドラゴンの年」をテストピースに採用した。作曲者も関わったこのコンクールの審査委員長は、もちろんロイヤル・エア・フォース首席音楽監督のエリック・バンクスだった。

つまり、筆者が公演に関わらなくてはならなくなった1987年の年末時点で、“ドラゴン”は、ヨーロッパを揺るがす衝撃的最新作であったばかりか、ロイヤル・エア・フォースのマスト・アイテムだったのだ。

しかし、2月に来日したバンクスへの直談判は、難航を極めた。彼は、“クラシックからポップスまで誰でも知っている曲をロイヤル・エア・フォースのスキルで日本の聴衆に愉しんでもらいたい”という強い意向を持っていたからだ。そんな中に、日本の聴衆が知らないシリアスな曲を加えるなんて問題外という訳だ。

『そんなことだから、ウィンド・ミュージックは、一段低く見られるんだ!』と、こちらも譲らない!

ここで委員長が出てくると、『音楽のことは樋口さんに任せるよ。』と言いながらも、間違いなくバンクス寄りの方向に誘導されてしまう。そこで一計を案じた筆者は、NHK-FMの「ブラスのひびき」のコメンテーターをつとめられていた秋山紀夫さんがCBSソニーの録音でちょぅど東京に来られているというので、喫茶店までご足労いただいて、2人がかりで“バンドのオリジナルを今度の来日プロクラムに入れることの重要性”を説くことに!

議論は白熱したが、その日はタイムオーバーで、結論は出なかった。しかし、筆者がその後も意見を曲げなかったことと、“1年前の実行委”が組み立てることができなかった公演スケジュールを短期間でフィックスさせていたことへの謝意の表明もあったのだろうか。離日を前に、頑固な英国紳士バンクスが、ついに折れてくれた。

『そんなにまで言うなら、プログラムの1つに“ドラゴン”を入れてもいい。』と。

立ちあがって『サンキュー、サー!』と英国式敬礼をした筆者は、東京、大阪、名古屋のプロに“ドラゴン”を組み入れることを提案し、笑顔のバンクスもそれを了承してくれた。

「ドラゴンの年」ウィンドオーケストラ版の日本初演は、1988年4月17日(日)、東京・普門館において、エリック・バンクス指揮、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドによって行われた。