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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第49話 ムーアサイドからオリエント急行へ

▲LP – Sounds of Brass Series Vol.18 – The Fairey Band More Concert Classics」(英Decca、SB 718)

▲LP – The Spice of Life(英Polyphonic、PRL 034D)

イギリスのブラスバンド“ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)”の1990年5月の再来日は、日本のブラスバンド・ムーブメントに決定的な変化をもたらした。

メンバーを一新し、ヨーロピアン・チャンピオンに返り咲いた直後に来日した彼らが、ナマ演奏でダイレクトに日本に届けたフィリップ・スパーク(Philip Sparke)やピーター・グレイアム(Peter Graham)の最新オリジナルの音楽的衝撃は、それまでの日本のバンド界の常識を覆しかねないほど強烈なインパクトがあった。

再来日前後のバック・グラウンドは、第42話「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990」でお話ししたとおりだ。

日本各地でも、当然、新しい動きが起こった!!

その中に、大阪の“ブリーズ・ブラス・バンド(Breeze Brass Band)”の本格デビューがある。

“ブリーズ・ブラス・バンド”立ち上げの中心人物は、大阪シンフォニカー(後の“大阪交響楽団”)のトロンボーン奏者、上村和義さんだった。

大阪芸術大学出身の上村さんは、所属オーケストラの演奏以外にも、在学時の仲間や先輩、後輩たちと“大阪ロイヤル・ブラス”という名称のグループを作り、外部からの要請に応じて、さまざまな演奏活動を行っていた。

その活動を通じ、上村さんは、次第にこのグループを“ブリティッシュ”スタイルのブラスバンドとしてデビューさせたいと思うようになっていく。

もっとも、氏が“ブリティッシュ”に関心をもったのは、これよりかなり前、大阪芸大在学時の下宿先で同じだったトランペットの西井昌宏さんが手に入れたLPレコードを聴かされたときだった。

グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)の『ムーアサイド組曲(A Moorside Suite)』が収録されていたそのレコードは、イギリスのメジャー・レーベルであるDeccaが、1972年から1980年の9年間に合計42枚ものアルバムをリリースした“サウンズ・オブ・ブラス・シリーズ(Sounds of Brass Series)”というブラスバンド・シリーズの1枚で、シリーズの第18集にあたる。

タイトルを「Sounds of Brass Series Vol.18 – The Fairey Band  – More Concert Classics」(Decca、SB 718、リリース:1975年)という、ケネス・デニスン(Kenneth Dennison)指揮、フェアリー・バンド(The Fairey Band)演奏のLPだった。

イギリスのレコード界には、“ブラス&ミリタリー”という、ブラスバンドとミリタリー・バンドを扱うカテゴリーが存在する。メジャーがこれほど多くのアルバムをリリースしていたことは、同国の“ブラスバンド”がどれだけポピュラーであるかの証明のようだが、それはさておき、上村さんが聴いたそのサウンドは、それまでまるで聴いたことがないものだった。

しかし、それと同時に、『金管だけでこんなことができるなんて、これは、おもろい(面白い)!!』と思ったそうだ。

若いということは、すばらしい!

その後、上村さんたちは、“大阪ロイヤル・ブラス”のメンバーで合宿をやって、『ムーアサイド組曲』やイギリスのケネス・J・オルフォード(Kenneth J. Alford)のマーチ『後甲板にて(On the Quater Deck)』などの録音にトライしたり、新しい楽譜を捜したりしながら、どうしたらそのサウンドが出るのかをテーマに定期的に練習を繰り返し、試行錯誤ながら、継続的なスキルアップをはかっていく。

しかし、プロの楽団としてデビューを考え始めた頃、新しいバンドの指針となるコンセプトやレパートリーに関する情報収集など、“独力”に近いそれまでの積み上げだけでは解決しえないテーマをいくつも抱えるようになっていった。

とくに、日本で本場イギリスの最新情報を得ることはほとんど不可能だった。

そんなとき、上村さんと筆者を引き合わしたのは、大阪・心斎橋にある三木楽器2階管楽器フロアの責任者、植松栄司さんだった。1989年、ちょうどロンドンの録音から戻ってきた頃のことである。

三木楽器で最初のミーティングを行った後、上村さんは、毎晩のように時間を見つけては拙宅を訪れられ、深夜に至るまでブラスバンドのレコードを聴き漁るようになった。

その貪欲な姿は、まるで“ブラスバンドのレコードがこんなにいっぱい出ているとは思わなかった”と言わんばかりで、絶えず質問の山!!

とくに、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)やゴフ・リチャーズ(Goff Richards)、ハワード・スネル(Howard Snell)ら、日本では“まるで知られていない”の新進気鋭の作曲家たちがブラスバンドのためにつぎつぎと新しい曲を書いているという現実は、かなり衝撃的だったようだ。

氏のノートには、お気に入りの曲がつぎつぎメモされていった。

そして、その中でもとくにお気に入りだったのが、キース・ウィルキンスン(Keith Willkinson)指揮、ウィリアム・デーヴィス・コンストラクション・グループ・バンド(William Davis Construction Group Band)演奏のアルバム「The Spice of Life」(英Polyphonic、PRL 034D、リリース:1987年)に入っていたフィリップの『オリエント急行(Orient Express)』(世界初録音)だった。

“こんなわかりやすい、愉しい曲があったのか!”

実際、そのレコードを聴いたとき、上村さんは、そう思ったのだそうだ。

その時点で、大学時代の氏らが“おもろい”と感じた前記フェアリー・バンドのレコードが録音されてから、すでに15年近い歳月が流れていた。

それは、まるで浦島太郎状態だった!!

“ブラスバンド”の世界は、絶えず動いているのである!

そこで、氏の意向を受けて、イギリスのフィリップにFAXで連絡をとると、“全面的に協力する”との嬉しい返信が速攻で戻ってきた!

この結果、『オリエント急行』のほか、『スリップストリーム(Slipstream)』、『ジュビリー序曲(Jubilee Overture)』、『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』など、その後、このバンドの主要レパートリーとなっていくフィリップのブラスバンド作品の楽譜が、出版・未出版を問わず、毎週のように筆者の手許に届くようになった。

“今、ヨーロッパで起こっている新しい潮流を、タイムラグなく日本で再現!”というブリーズ・ブラス・バンドのコンセプトの1つは、このようなプロセスを経て決まった。

他方、1989年7月に来日した兄弟ユーフォニアム・デュオ“チャイルズ・ブラザーズ”(参照:第14話 チャイルズ・ブラザーズの衝撃)のニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs)が、名古屋でユーフォニアムのことを“ブリーズのようだ”と例えたという話がメンバーの耳に伝わると、拙宅を提供して行われたメンバーのミーティングで、“ブリーズ”がバンド名に決まった。

後日、上村さんに訊くと、“ブリーズ”は、以前から考えていた候補名の1つだったとか。

道理で、満場一致で決まったはずだ。

その他、京都のバロックザールの協力も得て、当時練習中だったデリック・ブルジョワ(Derek Bourgeois)の『ブリッツ(Blitz)』ほかをイギリスのステージ・セッティングとマイク・アレンジでレコーディング。メンバーのほか、その収録カセットを海外に送ったところ、さらに何人かの作曲家の協力を得ることに成功した。

後日“ブリーズ”の有力スポンサーとなる東京のブージー&ホークスの安弘弘明さんも、カセットを聴いてすぐ電話を寄こし、“正直驚いた!”と賞賛してくれた。

その後、冒頭でお話ししたとおり、数々の最新オリジナル曲をひっさげてブラック・ダイク・ミルズ・バンドが来日!!

上村さんと筆者は、ロイ・ニューサム(Roy Newsome)、デヴィッド・キング(David King)、ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)という3人の同行指揮者とも知己を深め、ブラスバンドの最新オリジナルへの取り組み方など、多くを演奏現場で身近に吸収する機会を得た。

21世紀の現時点から遡ると、これら一連の流れは、まるであらかじめ予定されていたことであったかのように連続して起こった。

とくに印象的だったのは、イギリスの関係者がこぞって力を貸してくれたことだった。

ブリーズ・ブラス・バンドは、1990年7月2日(月)、こけら落しを終えたばかりの大阪・いずみホールに満場の聴衆を集めてデビュー・コンサートを行った。

公演プログラム冒頭には、フィリップがデビューに寄せたメッセージが存在感を示す!

同時に、この日は、『オリエント急行』の日本初演が行われた日として、多くにファンの記憶にのこる一日となった!!

▼「ブリーズ・ブラス・バンド・デビュー・コンサート」プログラム

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第48話 フィリップ・スパークがやってきた

▲CD – オリエント急行(佼成出版社、KOCD-3902)

 ▲フィリップ・スパークの作品リスト(1989年当時)

イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)が、英国航空 BA007便(成田11:55着)で初めて日本の土を踏んだのは、1992年9月18日(金)のこと。

佼成出版社のCD「オリエント急行」(同、KOCD-3902、リリース:1992年12月21日)のレコーディング・セッションで指揮をするための来日だった。

前話(第47話:ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動)でお話しした「ヨーロピアン・ウィンド・サークル」シリーズの第2弾であり、すべての楽曲を作曲者が指揮をする“自作自演盤”だ!

レパートリーは、佼成出版社の柴田輝吉さんから一任され、フィリップの作品リストから、以下の計7曲をピックアップした。

祝典のための音楽
(Music for a Festival)

ジュビリー序曲
(Jubilee Overture)

山の歌
(Mountain Song)

コンサート・プレリュード(*)
(Concert Prelude)

ファンファーレ、ロマンス、フィナーレ
(Fanfare、Romance & Finale)

オリエント急行
(Orient Express)

長く白い雲のたなびく国“アオテアロア”(*)
(The Land of the Long White Cloud “Aotearoa”)

出版社別では、英R. Smith(* 印)が2曲で、他はすべて英Studio Musicの楽曲である。

また、この内、『祝典のための音楽』と『長く白い雲のたなびく国“アオテアロア”』は、録音時点では未出版。『山の歌』と『オリエント急行』の2曲は、このレコーディングのために、佼成出版社の了解を得て、筆者がウィンドオーケストラへのトランスクライブを委嘱したものだ。

後日出版された『山の歌』と『オリエント急行』の楽譜のタイトルまわりには、“東京佼成ウインドオーケストラの委嘱により”という英語の文言が印刷されているが、事実は少々違う。

委嘱費を予算化した佼成出版社の英断と担当の柴田さん、録音直前に柴田さんから担当を引き継いだ水野博文さんの各位に感謝の意を表すために、ここに特に記し、多くの記憶に留めたい。

このCDのレコーディングは、実は3年越しの企画だった。

ロンドンのエンジェル・レコーディング・スタジオで録音されたCD「ドラゴンの年」(佼成出版社、KOCD-3102、リリース:1989年10月25日)の録音前に同社に寄せられた声の中に、すでにスパークものの“続篇”をリクエストするものが結構あったからだ。

しかし、当時、柴田さんのリクエストに応えて調査を開始した筆者は、日本とはあまりにも違うイギリスの出版社の現実にいきなり直面することとなった。

ブラスバンド王国のイギリスでは、ブラスバンド用の楽譜はものすごいスピードで出版されるのに対し、ウィンドオーケストラのために書かれた楽曲は、たとえ初演が成功し、楽譜が存在していても、なかなか出版されなかった。英国内で売れる見込みが立たなかったからだ。

実際、『長く白い雲のたなびく国“アオテアロア”』は、版権をもつR. Smithの経営が思わしくないこともあって出版が見送られていた。もしCD「オリエント急行」の録音がなかったら、本当に“お蔵入り”になっていたかもしれない楽曲だった。とてもエキサイティングな楽曲なのに…。

また、『オリエント急行』のウィンドオーケストラ用の楽譜を作る話についても、当初、出版社から積極的な返答はなかった。フィリップ自身も『イエス、作るプランはある。しかし、今はいつとは言えない。君がそれをいつ必要とするのかを知らせてくれたら、間違いなく時間内に仕上げる。』と1989年6月14日の日付のあるFAXに書いているくらいだ。

柴田さんには、そこで、現在準備中の楽譜が出そろうのを待つと同時に、できれば作曲者に注目曲のウィンドオーケストラ用の譜面を書いてもらうことを提案。それらが熟成するまで、“スパーク作品集”のアイデアは凍結してもらうことにした。

その後、「ヨーロピアン・ウィンド・サークル」シリーズの方向性が定まったとき、まず交響詩「スパルタクス」のレコーディングを先行させ、その後に「オリエント急行」に向かうことしたのには、こんな事情があったからである。

話を元に戻そう。

CD「オリエント急行」のレコーディングは、以下のスケジュールで行われた。

9月20日(日) リハーサル
9月21日(月) リハーサル
9月22日(火) レコーディング
9月23日(水) レコーディング

リハーサルは、地下鉄「中野富士見町」駅の近くにあった立正佼成会の「第二研修会館」で、2日間で計8時間の練習が組まれた。

練習初日、プレイヤーの前に立ったフィリップは、『おはようございます。』と、まず日本語で挨拶!

プレイヤーの顔に“おっ!?”という表情が浮かんだところで、間髪を入れず、今度は英語で、

『ロンドンで皆さんにお会いして以来、この日が来るのをずっと待ち続けていました。』

と続ける。

実は、筆者から連絡を受けたフィリップは、エンジェル・スタジオで行われたCD「ドラゴンの年」のセッションに顔を出していた。無論、セッションに集中していたプレイヤーの中で、彼が来ていたことに気づいた人はほとんどいなかった。いや、恐らく誰も気づいてなかったと思う。

しかし、初顔合わせの挨拶として、相手をリスペクトするすばらしいスピーチだ。

そして、おもむろにバッグから指揮棒を取り出したフィリップが、『私は左利きなので、このように振ります。』と指揮のパターンを示すと、プレイヤーから、『おぉ、やっぱり左利きだ!』と声が上がった。

もちろん、楽団には左手で指揮をすることは事前に知らせてあったが、実際に目の前で見せられると、いかにベテランと言えども、少なからず戸惑いを隠せないようだった。

しかし、そこはプロフェッショナル。リハーサルは、澱みなくリズミカルに進行する。

初日終了後、コントラバスの稲垣卓三さんが、『あのリハーサルの進め方を見たか!』と驚きの声をあげた。サウスポーへの戸惑いも確かにあるが、フィリップがこの楽団に受け入れられた瞬間だった。

レコ―ディングは、普門館のステージで行われた。

録音にあたるスタッフは、シリーズ第1弾CDの交響詩「スパルタクス」(佼成出版社、KOCD-3901、リリース:1991年12月10日)同様、ディレクター&ミキサーは、録音界の大御所、若林駿介さん、アシスタント・ディレクターが鈴木由美さん、エンジニアが及川公夫さん、そしてテープ・エディターが杉本一家(JVC)さんという顔ぶれ。

セッションは、両日ともに午前11時に開始。

初日(9/22)に、『コンサート・プレリュード』-(昼食)-『長く白い雲のたなびく国“アオテアロア”』-『ファンファーレ、ロマンス、フィナーレ』-『山の歌』の順に収録。

2日目(9/23)は、『ジュビリー序曲』-(昼食)-『オリエント急行』-『祝典のための音楽』というペースで録音を完了した!

録音中、清掃係が何人かホールに入ってきて客席の掃除を始めたり、突然、原因不明の低い帯域のノイズ(空調から?)がホールに充満しセッションが中断するアクシデントもあったが、セッションは無事終わった。

ステージでは、稲垣さんらプレイヤーがフィリップとガッチリ握手をしている。

その日、東京佼成ウインドオーケストラのセッションとしては珍しく、打ち上げがあった。

思い思いにセッションのことを語るみんなが本当に楽しそうだ!

2018年に解体される普門館の想い出がいっぱいこもったアルバム「オリエント急行」!

それは、吹奏楽CDとして、空前のヒット作となった!!

▲フィリップ・スパーク(1992年9月22日、普門館)

▲▼普門館パンフ

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第47話 ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動

▲CD – 交響詩「スパルタクス」(佼成出版社、KOCD-3901)

▲第10回 ’90普門バンドフェスティバル」チラシ

東京佼成ウインドオーケストラが、1989年6月29日(木)~7月23日(日)の日程で行なったヨーロッパ演奏旅行は、楽団初の海外公演というだけでなく、ヨーロッパ各国で大きな反響を巻き起こし、音楽的にも多くの成果をあげた。

その最大の“お土産”ともいうべきものが、ロンドンのエンジェル・レコーディング・スタジオで、常任指揮者フレデリック・フェネルと客演のエリック・バンクスの2人の指揮で各個にレコーディングされ、帰国後の10月25日に同時リリースされた「フランス組曲」(佼成出版社、KOCD-3101 / 指揮:フェネル)、「ドラゴンの年」(同、KOCD-3102 / 指揮:バンクス)の2枚のCDだ!

レコーディングに至るプロセスは、第41話:「フランス組曲」と「ドラゴンの年」、でお話ししたとおりだ。

時代を振り返ると、1980年代が終わりを告げようとするこの当時、日本の音楽産業は、ちょうどレコードからCDへ移行する過渡期にあった。各社の新譜リリースも、LPレコードだけだったり、CDだけだったり、あるいはLPレコードとCDの両方だったり、カセットもあったりと、まるではっきりしなかった。

ソフトをリリースする側にメディア選択の迷いがあり、どのメディアの製品がマーケットで支持されるのか、皆目見当がつかなかった訳だ。

しかし、佼成出版社のこの2枚のマスターは、当時最先端のDATテープで作られ、デジタル録音の特質を生かす意味でも、リリースは“CDのみ”と決定!

勇気あるこの決断は、今後は完全にCDにシフトすると見切った先見性からだった。

当然、リリースされたCDは、多方面の注目を集めることになる。

その後、プロジェクトのリーダー役だった同社の柴田輝吉さんから電話が入ったのは、明くる1990年の春のことだった。

ちょうどこのとき、筆者は、6月2日(土)~3日(日)、東京・普門館で催される“第10回 ’90普門バンドフェスティバル”に出番があり、東京に出る予定があったので、柴田さんとは、フェス終了後にミーティングを持つことにした。

ミーティングでは、まず、2枚のイギリス録音盤のリリース後の動きが報告された。

その後、元々“ウインド”(柴田さんは、東京佼成ウインドオーケストラのことをいつもこう呼んでいた)から出たアイデアのレコード化からスタートした同社吹奏楽レコード事業の制作コンセプトについて、あらためて説明を受ける。

掻い摘んでいうと、これまでに制作したレコードやCDには、基本的に2つの流れがあるという話だ。

1つは、楽団や常任指揮者のアイデアによるもの。

もう1つは、客演指揮者によるもので、アルフレッド・リード(1981年録音)に始まり、フレデリック・フェネル(1982)やロバート・E・ジェイガー(1983)、アーナルド・ゲイブリエル(1983)などのレコードがこれに該当した。同社では、それらを〈ゲスト・コンダクター・シリーズ〉と呼んでいた。

ロンドン録音にエリック・バンクスを起用できたのも、この基本コンセプトが社内で認められていたから実現したという話だった。

一方で、CD「ドラゴンの年」に収録されたレパートリーは、“ウインド”になかった曲ばかりで、とても新鮮だった、とも言われた。

そう言えば、レパートリーは、すべてイギリスの作品だった。

そして、これが肝だったが、佼成出版社としては、さらなるラインナップの充実のために、これまでどこも手掛けておらず、できればシリーズ化できるようなアイデアが欲しい、と求められたのだ。

『何か、アイデアをお持ちですか?』と。

一瞬、間を開けた後、筆者は、80年代半ばから暖めていた2つのアイデアを披露した。

ウィンドオーケストラのための交響曲全集

ヨーロッパのオリジナル作品を体系的に取り上げるシリーズ

前者は、“吹奏楽を見下ろす空気”が充満する管弦楽優位の日本の音楽界に一石を投じるアグレッシブな企画であり、後者には、オリジナルといえばアメリカという“盲従的な空気”を一度シャッフルし、リフレッシュさせる狙いが込められていた。

いずれも、これまでの日本の商業レコードには存在しないシリーズで、プロのウィンドオーケストラが先頭をきって取り組んで欲しい企画だった。

幸い、レパートリーには困らない。

柴田さんのメガネの奥がキラリと光る!

実はこの時、すでに頭の中では、具体的な曲名が浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返していたが、この日は、大枠の提案だけにしておき、一度、社内や“ウインド”でもアイデアを揉んでいただくことにした。

その後、幾度か擦り合わせを重ねた後に実現したのが、後に大ブームを巻き起こすことになる「ヨーロピアン・ウィンド・サークル」シリーズだった。

“ウインド”としても、客演指揮での企画なら異存がないという話だった。

後から振り返ると、この佼成出版社からのオファーは、まるで計ったように絶妙のタイミングで出た話だった。

ちょうどこの頃、イギリスのフィリップ・スパーク、ベルギーのヤン・ヴァンデルロースト、オランダのヨハン・デメイ、スイスのフランコ・チェザリーニなど、個性的な作曲家の活躍が始まっていたからだ。

シリーズの選曲は一任されていた。

そこで、第1弾CDの交響詩「スパルタクス」では、先行リリースされたCD「ドラゴンの年」とも関連を持たせつつ、後につづくCDへのガイド的役割も与え、ヨーロッパで新しい潮流を巻き起こしつつあったフレッシュな顔ぶれをできるだけ多く登場させた。

最終的に決めたのは、

・序曲 2000(Ouverture 2000)
Henk van Lijnschoten

・エル・ゴルぺ・ファタル(El Golpe Fatal)
Dirk Brosse

・ノルウェーの海の情景(A Norwegian Sea-Pictures)
Johan Halvolsen / Jan Eriksen

・シアター・ミュージック(Theatre Music)
Philip Sparke

・バンドのための間奏曲(Interlude for Band)
Franco Cesarini

交響詩「スパルタクス」(Spartacus – symphonic tone poem)
Jan Van der Roost

というラインナップ。

日本では、ほぼ“知名度ゼロ”の作曲家の作品ばかりだった。

しかし、このプログラムでは、レパートリーを単に並べた“~~音源集”のようなカタログ的性格ではなく、コンサートのようなストーリー性をもたせることで、オープニングからフィナーレまで一気に聴けるよう、最初から曲順にこだわった選曲を試みている。

客演指揮は、この種の録音をいくつも手掛けているオランダのヤン・デハーン(Jan de Haan)にオファー。声を掛けたら、二つ返事でOKしてくれた。

また、初期段階から、第2弾にフィリップ・スパーク、その後にヤン・ヴァンデルローストを客演指揮で招くことを提案。こちらも、概ね了解を得ていた。

とは言うものの、当時、日本では、“吹奏楽のオリジナル曲”と言えば、すなわちアメリカの作品を意味した。

一方のヨーロッパ作品は、伝統的クラシック音楽と同じ土壌の中で育まれてきた作品だけに、メロディアスだが、演奏現場では“キャラ”としてまるでなじみがなかった。

中身には大きな手ごたえを感じていたが、最初からいきなりの爆発的ヒットなど、期待してはならないことも分かっていた。

シリーズは、時間と手間をかけて熟成させ、先行の「ドラゴンの年」から4枚のCDが出揃ったあたりで、はじめて成果を問えるような、そんな長期プロジェクトだった。

シリーズ初の録音セッションは、1991年9月26日(木)~27日(金)の両日、普門館において行なわれた。

ディレクター&エンジニアは、録音界の大御所、若林駿介さん。

初顔合わせの指揮者と東京佼成ウインドオーケストラは、限られた時間の中でベストを尽くすべく、ホットな音楽的バトルを繰り広げる!!

言葉のやりとりも含め、正しく異文化交流の真剣モードだった!

そして、ヨーロッパのオリジナルが初めて日本の空気に触れたこの瞬間!!

何かが、確かに起ころうとしていた!

▲ヤン・デハーン(1991年9月26日、普門館)

▲コンサート・マスター須川展也とヤン・デハーン(同)

▲東京佼成ウインドオーケストラ(同)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第46話 H・オーウェン・リードを追って

▲H・オーウェン・リード(1989年)(本人提供)

▲同、自筆裏書

『ミスター・リードは、あなたからの連絡を愉しみに待っています。今日、彼は、アリゾナ州グリーン・バレーのウィンターのホーム(冬の住まい)を離れ、ミシガン州スタンウッドのサマーのホーム(夏の住まい)に向け、1週間の旅に出発しました。

ミシガンの住所は、XXXXXXX です。

あなたは、5月8日以降、この住所の彼にコンタクト可能です。彼は、喜んであなたとお話したいと考えています。電話番号は、(616)XXX-XXXXです。FAXはありません。』

H・オーウェン・リード(Dr. H. Owen Reed、1910~2014)の『メキシコ民謡による交響曲「メキシコの祭り」(La Fiesta Mexicana, A Mexican Folk Song Symphony for Concert Band)』の初演者、ワシントンD.C.のアメリカ海兵隊バンド(“The President’s Own” United States Marine Band)のチーフ・ライブラリアン、マイク・レスラー特務曹長(Master Gunnery Sergeant Mike Ressler)に照会した作曲者の連絡先について、返答がFAXで送信されてきたのは、1996年4月30日のことだった。

さすがは、国民の信頼をあつめるアメリカ大統領附きのミリタリー・バンドのチーフ・ライブラリアンだ。即座に本人に電話で連絡をとってくれただけでなく、送られてきたこのFAXは、必要な情報がすべて含まれ、簡潔で無駄がなかった。

唸ること、しばし…。凄いキレ味だ。

このとき、筆者が取り組んでいたのは、『メキシコの祭り』が収録されるCD「ウィンド・オーケストラのための交響曲 4」(東芝EMI、TOCZ-9274 / 指揮:木村吉宏 / 演奏:大阪市音楽団 / リリース:1996年6月26日)のためのプログラム・ノートの執筆だった。

『メキシコの祭り』の初演者であるアメリカ海兵隊バンドへの照会は、プログラム・ノートを準備するにあたって必要不可欠なプロセスの1つだった。

こういうときは、手続きに時間がかかる隊長経由より、担当者とダイレクトに話を進める方が話が早い。

チーフ・ライブラリアンのレスラーとは、執筆の最初の段階から緊密に連絡を取り合い、初演時のプログラムのコピーもすでにFAXで受領していた。

しかし、リードが、季節に応じて暮らすための家をアリゾナとミシガンの2つの州に持ち、それを行き来しているのは、このFAXで初めて知った。

リードの連絡先については、ここまで、アメリカについてよくアドバイスを受けていた秋山紀夫さんや東京ウインドオーケストラの三浦 徹さん、佼成出版社の水野博文さんなど、思いつくままに電話を掛けてお訊ねしたが、残念ながら情報はなかった。

リードがかつて教鞭をとったミシガン・ステート大学への照会も不発に終わっていた。

また、アメリカの吹奏楽界と知己の多い秋山さんが、『リードには会ったことがない。』と言われたのも衝撃だった。これはもう、一から自力で道を切り開くしかない!

とにかく、『メキシコの祭り』という楽曲の知名度に比べ、日本では、基本的なプロフィール以外、作曲者リードに関する情報があまりにも無かった。

一方、プログラム・ノートの執筆は着々と予定通りに進んだ。

しかし、その過程で、さらにもう1つ課題があることが明らかとなった。

日本国内に、プロフィール用のリードの“写真”が見当たら無かったのだ!!

そして、それは、アメリカ海兵隊バンドのライブラリーにも無かった。

まるで八方ふさがりの状況!!

しかし、その後、唯一、秋山さんが、「Music of H. Owen Reed – The Touch of the Earth」(米Mark、MC23566 / 指揮:Stanley E. De Rusha、Paul W. Schultz、Charles K. Smith / Michigan States University Wind Symphony & Symphony Band)というリード作品集のLPレコードをお持ちだと判明!

早速、ジャケットをお借りすることにした。

しかし、拝見すると、それは、本人広報用のプロフィール写真ではなく、森の中に座ってたたずんているリードをあしらったまるで風景画のようなジャケットだった。

とても雰囲気のある写真だったが、注意して見ると、撮影者としてプロ・カメラマンのDick Wettersの名がクレジットされていた。これは、許諾なく使う訳にはいかない。

秋山さんには、その旨をお話しして、ジャケットはすぐにお返しした。

しかし、さあ、困ったゾ。6月リリース予定なので、もう時間がない!

そこで、レコード会社には、文字原稿だけを先行して郵送。アメリカ海兵隊バンドのレスラーにS.O.S.を送った。

『大至急、本人にコンタクトしたい。』と。

冒頭のFAXは、その返信である。無論、速攻で返礼のFAXを返す!

一方、指定の5月8日まで、まだ数日あったので、日本とミシガンとの時差などをチェックしながら、国際電話を掛ける日時を決める。

そして、電話を掛ける当日がきた。日本時間では、完全に真夜中だ。

最初に電話口に出たのは、夫人だった。

夫人は、“日本から掛けています”という筆者の声に驚いて、少々高い声で『エッ? ジャパーン!?!?』と大声をあげた後、慌ててご主人を呼んでいる。

オーッ、ついに本人がつかまった!!

電話口にでたリードも、『日本から電話なんて、はじめてだ。』という。

そこで、これまでの経緯を話し、“日本のファンはあなたの顔を知りません。大至急、プロフィール用の写真が欲しいのですが…。”と切り出すと、『OK、わかった。』と即答が返ってきた。そこで、こちらの住所のスペルを正確に一文字ごと伝え、EXTREMELY URGENTという、当時の郵便で最速の便で写真を送ってくれることになった。

御礼を言って電話を切り、“あとは待つばかりだ”と一気に肩の力が抜ける。

そして、待つこと3日。届いた写真を見てちょっと吹きだした!(失礼ながら)

きっと、プロフィール写真なんて手許に持ってなかったんだろう。それは、自宅の庭かなんかでポーズをとったスナップのようだった。裏に、自筆で“1989年”と書かれてある。

しかし、それはそれでOKだ!

早速、写真をレコード会社に送る!

その後、さらに詳細な『メキシコの祭り』の本人解説やインタビュー記事、他の作品のスコアやカセットなど、多くの資料が送られてきた。

残念ながら、締め切りのある商業印刷物のため、それらの追加情報をCDブックレットに盛り込むことは叶わなかったが、一方で、筆者は、『メキシコの祭り』以外、まるで知らなかった作曲者のバック・グラウンドに触れることができた。

驚かせてしまった夫人の声とともに、筆者の忘れ得ぬ想い出の1つである!

ありがとう!ドクター・リード!!

▲初演指揮者ウィリアム・F・サンテルマン少佐(当時)のプロフィール(1949年)

▼FAXで送られてきた初演プログラム(1950年2月26日)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言第45話 祝・交友30周年 – スパークとイーグル・アイ

▲「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第120回定期演奏会」ポスター

『私は、大阪で、最も素晴らしい時を過ごしました。私にとって、それは本当に思い出深いコンサートとなりました。そのときの録音を聞いていますが、彼らは素晴らしいと思います!』

彼にしては、やけに丁寧な文言だが、フィリッブ・スパークが、2018年6月3日(日)大阪のザ・シンフォニーホールで開かれた「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第120回定期演奏会」を客演指揮し、帰国後すぐに筆者に寄せたメールの冒頭部分だ!

この日、シオンがとり上げたプログラムは、以下のようなものだった。

・ナポリの休日
(Neapolitan Holiday)

・スラヴォニカ!〈日本初演〉
(Slavonica!)

・ドラゴンの年(2017)
(The Year of the Dragon – 2017)

・交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」
(Symphony No.2 – A Savannah Symphony)

全曲が作曲者指揮の自作自演で、オープニングを彩る『ナポリの休日』をのぞくと、大阪では演奏されたことのない作品ばかりだが、コントラストの効いた第1部と、シンフォニーをどかっと据えた第2部という、プロフェッショナルの定期公演らしいストーリーの感じられるプログラムだった!

また、来場者だけが愉しめるアンコールには、

・陽はまた昇る
(The Sun Will Rise Again)

・オリエント急行
(Orient Express)

という、スパーク・ファンなら誰もが知っている大ヒット作2曲が、ある種サプライズとして用意され、プロ公演のステータスだけでなく、エンターテイメント面でも聴衆の期待を裏切らないコンサート・ビルディングとなった。

そして、シオンのプレイヤーも、民営化後に示した最高のステージの1つに数えられる高いスキルと集中度を発揮。冒頭のフィリップの率直な感想が、儀礼的な世辞でもなんでもない、すばらしい音楽的成果を挙げた!

それは、まさしく世界最高峰のウィンド・コンサートだった!

こういう充実した演奏会の入場料は、安い!安い!安い!

しかし、それが成就するまでの道のりはけっして平坦とは言えなかった。

プロジェクトの起点となったのは、コンサート前年の、2017年の1月27日(金)の夜に掛かってきた一本の電話だった。

受話器の向こうは、シオンのバス・トロンボーン奏者の石井徹哉さん。

氏から電話をもらうのは、はじめてのことだった。

話をうかがうと、前任の延原弘明さんのあとを受け、シオンの理事長兼楽団長になられたとのこと。おぼろげな記憶では、武蔵野音大出身の氏は、まだ40代前半だったはず。長い歴史をもつシオン史上、最年少の楽団長の誕生だ。

ついで、2015年6月2日(火)の“第111回定期演奏会”(於:ザ・シンフォニーホール)に引きつづき、再びフィリップを客演指揮者に招きたいという話が出る。

なんでも、前回は、楽団としてフィリップの音楽的要求に完全に応えることができなかったという大きな悔いがプレイヤー・サイドに残ったそうで、今度はそれに応えられるように、ぜひにも再演を願いたいということだった。

同時に、NHK-FMの番組「吹奏楽のひびき」のコメンテーターをつとめる中橋愛生さんからも、もっと筆者に協力してもらうように、という主旨のアドバイスもあったそうで、それがこの日の電話に繋がったということだった。

話の要旨はわかった。

しかしながら、石井さんのリクエストに対し、筆者は、つぎのように返した。

『いいですか。まず、私はシオンさんには、冷たいですよ。そして、古い友人ではありますが、フィリップ・スパークのマネージャーではありません。』

電話というものは、相手の感情も敏感に伝わる。それまで滑らかに話されていた受話器の向こう側に、一瞬の驚きとためらいが入り混じった微妙な空気が流れたのが、手に取るようにわかった。

第38話「スパーク:ギブ・ミー・チケット・パーティー」第40話「スパーク:シオン“111”のプロが決まるまで」でお話ししたように、前回の第111回定期に際し、筆者は、大阪市の直営から民営化したばかりの楽団側の運営面の経験・準備不足から、プログラミングや実行面など、さまざまなプロセスで、想定外の事態に何度も直面させられるハメとなった。

また、“仕事として引き受けて欲しい”というスタート時点の話にもかかわらず、結局のところ、求められていたのは“限りなくボランティア”であり、意味不明の個人的持ち出しも半端ではなかった。

長年の間に滲みついた“お上”体質の払拭は、当時のこの楽団最大の課題だった。

他方、財源上の課題を抱えていた楽団は、結果的に大きな予算を使ったことから、団内でまるで諸悪の根源であるかのようにいう人までいた。しかし、それは、筆者の責任ではない。企画側の見通しの甘さと論旨のすり替えである。

アンチは、どこにでもいる。(余談ながら、橋下市政下で楽団の存続問題が議論されていた当時に、筆者の名は“演奏会招待者名簿”から削除された。もっとも、筆者なりの私設応援団的発想で、“聴きたいときは、S席を買って聴きに行くから”と言った結果がこれだったが、その伝統は今も守られている。)

とにかく、限られた人生。余計なことに振り回され、これ以上、無駄に時間を費やすことだけは避けたかった。

この日の電話で、まさかそんな話をつぎつぎ聞かされるとは思ってもみなかった石井さんは、『私がこの件に関わる限り、樋口さんにそのようないやな思いはけっしてさせませんので…。』という声を絞り出すのがやっとだった。

しかし、氏は粘り強かった。

その後、ホール日程の確定、予算の策定など、電話でお話しした課題をつぎつぎとクリアしながらメール連絡がくるようになり、とうとう、3ヵ月後の4月26日(木)、心斎橋の「ホテル日航」地下の喫茶ベルヴィルで初のミーティングを行なうことになった。

その席上、ふと気がついたことがある。コンサートがあるのは、2018年なのか。筆者とフィリップの付き合いが始まったのは、1988年だった。すると、我々ふたりにとってもちょうど交友30周年にあたる!!

フィリップにとっても、シオンにとっても、未来に繋がるものにしないと….。

そこで、石井さんにプログラムのアイデアを訊ねると、『スパークさんがシオンと取り組みたいといわれる曲なら、何でもやりたい。』という答えが返ってきた。

なので、フィリップからすでに聞いていた“シンフォニーをやりたい”という意向を伝えると、石井さんは即座にそれを了承。他の曲については、ちょうど6月16日(金)に東京でフィリップに会う予定になっていたので、そこでアイデアを訊きだしてくるということで、その場はお開きになった。

その後、何度かすり合わせを行った結果が、冒頭に挙げたプログラムだった。

コンサート冒頭は、華やかな曲からスタートということから、第111回定期の曲案でも出た『ナポリの休日』、2曲目には、必ず日本初演も混ぜておきたいとするシオンの希望を入れて、木管セクションだけで演奏される曲ながら、フィリップのまったく新しいタッチの作風を感じさせるクラシック・スタイルの『スラヴォニカ!』、3曲目にはシエナ・ウインド・オーケストラのリクエストで2017年に初演されたばかりの話題作『ドラゴンの年(2017)』という変化に富んだ音楽で第1部を構成。第2部には、3曲のシンフォニーの中から、交響曲第2番『サヴァンナ・シンフォニー』が選ばれた。

交響楽団のように、シンフォニーを据えるプログラミングは、プロのウインド・オーケストラの今後の行く末を占うようなアグレッシブなものだが、フィリップも、この日のプログラムが本当に好きだといった。

そして、リハーサルをやりながら、その気持ちは日増しに高まっていったようで、『すべては、イーグル・アイのおかげだ!』などと言い出した。

英語の“イーグル・アイ”とは、一般に、人間の4~8倍の視力をもつ“ワシ”のような優れた観察力や眼力をさす言葉だが、フィリップは、1990年代にミュージカル・スーパーバイザーをつとめていた大阪のプリーズ・ブラス・バンドのライヴや、佼成出版社のCDのための筆者の選曲を見て、筆者のことをそう呼ぶようになった。

久しぶりにそれを繰り返し聞いた。

そしてコンサート当日、会場のザ・シンフォニーホールに入ると、下手側舞台袖に、とても懐かしいものを発見した。それは、1988年4月19日(火)、当時の最新曲、フィリップの『ドラゴンの年』を引っ提げて行ったイギリスのロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの大阪公演の際、演奏に感動したこのホールのステージ・マネージャーの手で壁に貼り付けられたロイヤル・エア・フォースのエンブレムだった。(第15話「ジ・イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」参照。)

それから30年。この日のシオンも最高の演奏を叩きだした!!

それは、若返ったこの楽団の未来を自らの手で切り開き、祝福するような、素晴らしいパフォーマンスだった!!

▲「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第120回定期演奏会」プログラム

▲同、曲目

▲ザ・シンフォニーホール、下手舞台袖に貼られた演奏者のステッカー類

▲同、ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドのエンブレム

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第44話 朝比奈 隆と大栗 裕

▲大栗 裕

▲歌劇「赤い陣羽織」(日本オペラ協会 / 1971)

▲歌劇「夫婦善哉」(関西歌劇団)

関西に根ざした作曲家、大栗 裕(1918~1982)さんのご自宅は、大阪と京都のちょうど中間点にある枚方市樟葉にある。

京都女子大学の教授をつとめる一方、大阪音楽大学でも教鞭をとり、大阪フィルハーモニー交響楽団や関西歌劇団、大阪市音楽団などと密接な関係をもっていた氏には、両都市を結ぶ京阪本線「樟葉」駅周辺に広がるこのニュータウンは、とても利便性の高いロケーションにあった。

そして、没後10年にあたる1992年、のちに「大栗 裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195)としてリリースされることになる大阪市音楽団(市音)の演奏によるレコーディングやプログラム・ノートの整備にかかわって以降、筆者は、大栗夫人の芳子さんから生前のお話を伺おうと何度か電話で連絡を試みていたが、何故かいつもご不在。結局、お会いすることが叶ったのは、その年の暮れ、12月2日(水)のこととなった。

そんな経緯もあり、「大栗 裕」と表札がかかる樟葉のご自宅でお話しを伺うことができたときには、作品集CDのプログラム・ノートはすでに出稿後で校正を待つばかりという段階にあった。このため、残念ながら、そのとき伺った興味深いお話をCDブックレットに盛り込むことは叶わなかったが、それでも、作曲家・大栗 裕の人となりについて、見識をさらに深めることができた。

中でも興味深かったのは、ホルン奏者として鳴らした氏が、ピアノではなく、得意だったハーモニカで曲を書かれていたという話だった。

あの独特のハーモニーの秘密も、どうやらハーモニカにあったようなのだ。

『作曲に息詰まっていたとき、窓の外の電線にとまる雀たちを指さして、“あれなんかはどう?” なんて話しましたら、とたんに筆が進みだしたこともありましたよ。』と話される夫人は、そんな話をとても愉しげに話して下さる。

そして、『これらは、あなたに預かっていて欲しい。』と言われ、書き込みのあるオペラの進行台本や写真など、多くの遺品を手渡されることになった。(さすがに想い出の詰まる写真だけは、後日、返却した。)

また、指揮者の朝比奈 隆さん(1908~2001)とは、10歳違いながら、誕生日が同じ7月9日であることから、誕生日には、いつも神戸の朝比奈家に両家族が集まってお祝いをしたという話も伺った。

大栗さんは、両親の強い反対で音楽学校への進学を一度は断念したものの、音楽への情熱は絶ちがたく、単身上京。アルバイトで生活を支えながら、1941年に旧東京交響楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団の前身)のホルン奏者となった。大戦後の1946年には当時の日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)の首席ホルン奏者に迎えられたが、その後、活動を関西に戻し、1949年に宝塚管弦楽団に入団、1950年に朝比奈さんに請われて関西交響楽団(現在の大阪フィルハーモニー交響楽団)に入団した。

以降、2人の親密な関係は終生続き、誕生日の件だけでなく、人間味あふれる2人の愉しいエピソードは、関西の楽壇では今も語り続けられている。

他方、水を得た大栗さんは、1955年に関西歌劇団のために書いた『赤い陣羽織』や1956年の朝比奈渡欧に際し、ベルリン・フィルによって演奏された『大阪俗謡による幻想曲』など、いくつものすばらしい作品を後世に残すことになった。

こんなことがあった。

大阪市音楽団(市音)演奏の大栗作品の録音プランが浮上したとき、2人の関係を知る筆者は、なんとかこの録音に朝比奈さんにも参画していただこうと市音団長の木村吉宏さんに提案した。

『樋口君なぁ、なんちゅうこと(なんということを)言い出すんや!』と仰天した木村さんだったが、自宅でこの話を聞いた朝比奈さんは、『これ、やるからな。あれこれ言うな。』とその場で事務所に電話を入れ、即断していただいた。

市音のコンサート・マスターをつとめていた木村さんは、指揮をしなくてはならない立場になったとき、楽団の了解を得た上で、1年間、朝比奈さんのかばん持ちをした時期がある。直接、指揮法を指導してもらう機会はなかったというが、練習~本番を通じて指揮をする姿や演奏家とのやりとりを真近かで見せることで、多くを吸収させようとされたようだった。なので、木村さんのプロフィールには、「朝比奈 隆氏の薫陶を受け…」というくだりが出てくる。

そして、一見無鉄砲に見える筆者の提案も、こういうバック・グラウンドを知っての発言だった。確証は無かったが、大栗さんとの信頼関係からきっと受けていただけるのではないかという、ボンヤリとした自信はあった。(怖いもの知らずの若気の至りだったかも知れないが…。)

そして、ついに録音日、1992年4月16日(木)がやってきた。

ときは、兵庫県尼崎市のアルカイックホールで行われたセッション2日目の午後。収録曲は、『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』と『吹奏楽のための小狂詩曲』の2曲で、セッション前2日の練習で、木村さんが下棒をつけ、録音本番だけが朝比奈さんの棒。そういう進行のセッションだった。

モニタールームに現われたマエストロは、『トーンマイスター、よろしく。』とだけ挨拶をかわし、定刻まで誰とも顔を合わせず、楽屋に籠ったきり出てこない。

録音スタッフは当然、ステージ上にスタンバイした市音のプレイヤーのモチベーションも次第に高まっていく。

そして、定刻。マエストロは、わざわざステージ側版のドアを大きく開けて登場。それに気づいた市音のプレイヤーは、演奏家の性というか、この予想外の展開にまるでコンサートのようにザッと鋭い音をのこして全員が一斉に起立。指揮台に歩を進めたマエストロは、プレイヤーを席につけ、勢いよく“大阪俗謡”のタクトを振り下ろした。

“完璧な音の出だった”と、木村さんも含め、その場に居合わせた全員がそう思った。

だが、つぎの瞬間、演奏をサッと止めたマエストロは、『なぜ、合わないんだ!』とステージ上を一喝!

明治生まれの大指揮者は、眼光鋭くプレイヤーと対峙する。

その後、ベルリンで演奏した当時を少し振り返った後、セッションが始まった。

あとはもう、まるで全員が煙に巻かれるように、朝比奈ワールドが炸裂!!

セッションのはずなのに、まるでライヴのような演奏となった。

この当時、“ライヴ以外の録音はしない”と巷では言われていたマエストロのセッション録音は、こうして残されることとなった。

後にも先にも、こんなセッションは見たことない!

終生忘れられない想い出の1つである。

▲CD – 大栗 裕作品集、セッション・シーンから(1992年4月16日、アルカイック・ホール)以下2枚も同じ

 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第43話 大栗 裕「仮面幻想」ものがたり

▲CD – 大栗裕作品集(東芝EMI、TOCZ-9195)

▲春日大社の舞楽面(春日大社宝物殿 / 第4刷 / 1992)

▲春日大社 古神宝宝物図録(春日大社社務所 / 第2版 / 1991)

『〈新鳥蘇〉─ しん・とりそ ─ という舞楽面がある。「この面の形は卵形,色は肌色で,目じりの下がった目も眉も,その末端をぴんとはねあげ,鯰ひげをつけて笑う。両頬には朱の濃淡を重ねた丸を描きその中に黒点を七つ点ずるなどいかにも道化者といいたい面である。大きな帽子をかぶり,払子(ほっす)をもって4人あるいは6人で組となって舞うものであったらしい。」─ 日本の美術・舞楽面・至文堂 ─ より。引用が少し長くなったが,西洋のピエロに似たこの仮面をつける舞楽はすでに失われて現行のレパートリーにはないのかも知れぬ。

作曲者はこの仮面から貧しいイマジネーションを触発されて,かなり自由な発想でこの作品を書いた。…(中略)…。この仮面のもつユーモラスな感じと,アルカイックな笑い,それに明るく舞われたという伝承を私なりに音楽化したわけであるが,この面を選んだ理由の一つは国立音楽大学シンフォニック ウインド アンサンブル設立10周年に対する作者のささやかな祝意も含められていることを記憶していただければありがたい。…(後略)…。』(原文ママ。カッコ内注釈のみ筆者。)

大栗 裕(1918~1982)が、吹奏楽のために書いた最後の作品となった『仮面幻想』が委嘱者によって初演された「国立音楽大学 第10回シンフォニック ウインド アンサンブル定期演奏会」(1981年11月18日(水)、日本青年館、指揮:大橋幸夫)のプログラムに寄せた解説文からの引用だ。

そして、その演奏会からちょうど5ヵ月後の1982年4月18日(日)、作曲者は永い眠りにつく。享年は、63歳。

『仮面幻想』は、その後、同年7月1日(木)、東京文化会館大ホールで開催された「国立音楽大学ブラスオルケスター第23回定期演奏会」(指揮:大橋幸夫)のプログラムにも急遽組み入れられ、追悼演奏された。

そんな経緯から、作曲者の遺作と呼ばれることもあるこの作品は、実は病いを得て入院中のベッドの上で完成された。

筆者がこの作品のテーマをもう少し掘り下げたいと思ったのは、没後10年の1992年に、この年の半分以上の日数をかけて取り組むことになった大阪市音楽団演奏のCD「大栗裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195、リリース:1993年1月21日)のプログラム・ノートのための調査を始めたときだった。

実は、この当時、大栗作品のノートは、まるで整備されていなかった。

作業を始めて分かったことだが、作曲者がモチーフにした“舞楽面”が、実際は“どんな面”なのか、演奏者の大阪市音楽団も含め、誰も知らなかった。

いくら説明されても、どうしてもイメージがわかない。

そんなことでいいハズなかった!

幸い、作曲者の解説に出てくる「日本の美術」第62号“舞楽面”(西川杏太郎編、至文堂、1971年7月15日発行)は、大阪府立中之島図書館の蔵書にあった。

早速、借り出すと、それには、奈良・東大寺の蔵だった手向山(たむけやま)神社の1面、奈良・法隆寺の5面、奈良・春日大社の4面の現存する合計10面の“新鳥蘇”面の紹介があり、内、春日大社の1面は、大きくカラー・ページに掲載されていた。

そのカラーのお顔の様子は、先の解説にピッタリ符合する!!

この写真を見れば一目瞭然だ!

なんとか、これをプログラム・ノートに添付できないだろうか、と思ってよく見ると、出典は、春日大社の“古神宝宝物図録”とある。(撮影:田中真知郎)

宝物の世界にはまるで縁がなかったが、調べる内、春日大社の古神宝はいつでも見れるものでないことがわかった。つまり、こちらの都合では撮影できないということだ。

しかし、先の美術誌同様、春日大社所蔵の写真(図録)の転載は、条件さえ整えば不可能ではないはずだ。

思い立ったら吉日。近鉄で一路奈良へと向かい、春日大社宝物殿で直談判を行なったのは、1992年11月22日(日)のことだった。

応対に出た文化財課の八木尚広さんは、モチベーションの高い当方に少々面喰った様子!

しかし、意図をきちんと説明し、折衝した結果、大社の花山院親忠宮司宛に「転載許可願い」を提出し、“原版”となる「春日大社古神宝宝物図録」ほかはその場で購入。許可が降りた後、完成品の“献呈”と使用料を“奉納”することで話がまとまった。

帰阪後、東芝EMIの担当者、佐藤浩士さんに電話で経緯を話し、『作曲者最後の作品のモチーフになったインパクトのあるお面の写真なんで、できればジャケットにも使ってほしい。』と打診。写真を見てもらったところ、速効で採用決定!春日大社に追加で願いを提出した。

それから数日後の12月2日(水)、作曲者の奥さん、大栗芳子さんからご自宅でいろいろと貴重な話をうかがう機会を得た。

すると、こんな話が出てきた。

『そう言えば、入院中の病院から電話を掛けてきて、本棚にある本を持ってきて欲しいというので、届けたことがありました。何のために必要なのかわかりませんでしたが、お面の写真が載っている本と言ってました。』

ズバリ、作曲者が“仮面幻想”と向かい合っていたときの話だった。

結果的に、このお面の写真を使ったジャケットは、相当インパクトがあったようだ。

作曲者と長いつき合いの市音のベテランはとくに大絶賛!!

『これは、ホンマにええ(いい)ジャケットやなぁ!』

『まるで、大栗さんが笑うてはる(笑っている)顔みたいや!』

と口々にいう。

「大栗裕作品集」。それは、東芝EMIの商業CDでありながら、市音メンバーには、まるで自主制作した自分たちのCDのように、演奏者から愛される1枚となった!

奉納した10,000円は、安い!!

▲「国立音楽大学 第10回シンフォニック ウインド アンサンブル定期演奏会」プログラム

▲「国立音楽大学ブラスオルケスター第23回定期演奏会」プログラム

▲春日大社宝物殿 宝物写真使用許可書

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第42話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990

▲プログラム表紙 – ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990

▲日本ツアー1990の3人の指揮者

▲日本ツアー1990時のバナー

1984年、イギリスの“ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)”が初来日した!!

そのときのフィーバーぶりは、第17話「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド初来日」でお話ししたとおりだ。

だが、その際、さまざまな反響の中で、筆者が個人的に驚いたのは、普段“所詮ブラスバンドなんか…”と高を括り、うそぶいていたクラシック評論の大先生方が、実際に目の前でナマを聴かされ、“これは一体なんなの!?”と、まるで手のひらを返すように、一様に“驚嘆”するという、予想外の反応を示したことだった!

NHKの年末FM番組でも絶賛された!

“日本の常識は海外の非常識、海外の常識は日本の非常識”と言ったらいいのか、“井の中の蛙、大海を知らず”と言ったらいいのか。おそらくは、未知との遭遇!!

生まれてこの方、気の毒にも“ブラスバンド”というジャンルの音楽をお聴きになったことがおそらくなかったのだろう。

とにかく、この時、音楽評論の世界で“ブラスバンド”という言葉を簡単に口にできない空気が生まれたのは、紛れもない事実だった。

また、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドが、クラシックの評論家に評価の高い英シャンドス(Chandos)レーベルの専属バンドだったため、先生方の“専門外”である“ブラスバンド”のレコードやCDがこのレーベルからつぎつぎリリースされる状況も、実は微妙な影を投げかけていた。

有名クラシック・レーベルの新譜だけにむげに無視はできない…ということで。

一方のブラスバンド・ファンは、イギリスでつぎつぎリリースされるブラスバンドのLPレコードやCDを個人輸入したり、週刊のブラスバンド紙「ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)」を定期購読して、最新の音楽と情報に接していた。

プロが“知ったかぶり”をしておかしなことを書こうものなら、ファンからモロに反撃を喰らう、そんな時代が始まろうとしていた。

さて、そんなブラック・ダイク・ミルズ・バンドの再来日が実現したのは、初来日から6年たった1990年のことだった。

実は、この6年という年月の間に、ブラック・ダイクの方でも実に大きな変化があった。

まず、1975年からこのバンドのプロフェッショナル・コンダクターをつとめ、1984年の初来日時も指揮をつとめたピーター・パークス(Major Peter Parkes)が、1989年にバンドを去ったことだ。ライバルである“ウィリアムズ=フェアリー・バンド”のプロフェッショナル・コンダクターに就任するために。

在任14年の間、メジャー・タイトルで18度(全英6度、全英オープン5度、ヨーロピアン7度)の優勝!“ブラック・ダイク史上、最も成功を収めたプロフェッショナル・コンダクター”と謳われ、1985年には、全英、全英オープン、ヨーロピアンの3大タイトルを総なめにする“グランド・スラム”まで達成した指揮者がバンドを離れた影響は大きかった。

前記のシャンドス・レーベルも、ブラック・ダイクとの専属契約を解き、パークスが移動した先のウィリアムズ=フェアリー・バンドと新たな専属契約を結んだ。

メンバーの移動も多く、1984年来日時のプリンシパル・コルネット奏者、フィリップ・マッキャン(Philip McCann)が1988年にバンドを去り、その跡にロジャー・ウェブスター(Roger Webster)が入った。

ソロ・ユーフォ二アム奏者、ジョン・クラフ(John Clough)も同じ1988年にバンドを離れ、代わってロバート・チャイルズ(Robert Childs)が加わった。

ソプラノ・コルネット奏者のケヴィン・クロックフォード(Kevin Crockford)も1989年にバンドを去り、ナイジェル・フィールディング(Nigel Fielding)が加わった。

この時期、スター級だけでこれだけのプレイヤーが入れ替わっているが、その後しばらくの間は移動も激しく、ウィリアムズ=フェアリーに移るプレイヤーも結構いて、後にこのバンドが“ブラック・フェアリー”と呼ばれる要因の1つになった。

このようにバンドの新陳代謝が進む一方で、1980年代はまた、その後の世界のバンド界に大きな影響を及ぼす若い世代の作曲家が台頭し、それまでの楽曲のスタイルとは明らかに一線を画す、魅力的な作品を発表し始めた、そんな時代でもあった。

今やメジャーとなったフィリップ・スパーク(Philip Sparke)、エドワード・グレッグスン(Edward Gregson)、ピーター・グレイアム(Peter Graham)らの作品や編曲が、この時期につぎつぎと発表され始めたのだ。

正しくブラスバンド・レパートリーの変革期だった。

そんな1989年、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドは、驚くべきアナウンスを行なった。

それは、若干32才のオーストラリア生まれ。フィリップ・マッキャンの隣の席で長年アシスタント・プリンシパル・コルネット奏者をつとめたデヴィッド・キング(David King)のプロフェッショナル・コンダクター就任の発表だった。

無論コルネットのオーストラリア・ソロ・チャンピオンだったキングの音楽性は、誰しも疑うところではなかった。マイナーなバンドでの指揮活動も始めていたが、まだ大きな舞台での実績はなかった。

他方、ブラック・ダイク史上、プレイヤーからいきなり指揮者になった例は過去にはなく、この就任はサプライズというだけでなく、ギャンブルにも写った。当然、一部プレイヤーの反発も招き、バンドを去ったものも出た。

キングは、この逆境を、1990年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”の場で見事に跳ね返した。

スコットランド開催ということもあり、セット・テストピース(指定課題)は、スコットランド生まれの作曲家ピーター・グレイアムの「エッセンス・オブ・タイム(The Essence of Time)」だった。

キング指揮、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドは、この曲の演奏で、満点が100ポイントの中で、99ポイントという得点でトップに立ち、つづくオウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)で演奏したフィリップ・スパークの「ハーモニー・ミュージック(Harmony Music)」でも、99ポイントをゲット!!

合計198ポイントという信じられないハイスコアで見事優勝を飾ったのだ!!

イギリスのバンドとしては、3年ぶりの王者復帰だった!

その直後の1990年6月の日本ツアーは、その勢いのままの来日となった。

ツアーを主催したのは、この時も東京のブージー&ホークス社。

公演は、6月10日(日)の米子に始まり、大阪、福岡、広島(非公開)、松戸(非公開)、東京(非公開)、厚木とつづき、6月19(火)の東京に至る全8公演。

当時、筆者は、同社代表取締役の保良 徹さんの意を受け、企画当初からバンド(つまりキング)と公演演奏曲の曲目の擦り合わせを行った。

そのため、今も手許に多くの資料が残っているが、キングは、このとき、それまでのトラディッショナルなレパートリーを一新!

日本ツアーのプログラムにも、ピーター・グレイアムの「エッセンス・オブ・タイム」と「日の出」(ツアー委嘱作)、フィリップ・スパークの「ハーモニー・ミュージック」と「山の歌」、ジョン・ゴーランドの「瞑想」(ツアー委嘱作)など、ブラスバンドの当時の最新オリジナル曲を積極的に盛り込んできた。

そして、これらがコンサートで大当たり!

スパークやグレイアムの作品が、わが国でこれだけ多く演奏されたのは、間違いなくこのツアーが初めてだった。

リフレッシュされたブラック・ダイクによる最新オリジナル!

新しい時代が今そこに花開こうとしていた!!

▲大阪国際交流センターのステージ(1990年6月11日)

▲CD – European Brass Band Campionships 1990(Heavyweight、HR005/D)

▲同、インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第41話 「フランス組曲」と「ドラゴンの年」

 ▲CD – ドラゴンの年(佼成出版社、KOCD-3102)

▲CD – フランス組曲(佼成出版社、KOCD-3101)

『今日は、ちょっと相談があって、電話したんだけど…。』

東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんから電話があったのは、1988年秋のことだった。

第10話「“ドラゴン”がやってくる!」でお話ししたように、古沢さんには、その年4月の“ロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド日本公演1988”の実行にあたり、並々ならぬお世話になっていた。

『はい、何でしょう?』と話を伺うと、それは、東京佼成ウインドオーケストラが、翌年の1989年7月に予定している初のヨーロッパ演奏旅行についてだった。

なんでも、演奏旅行の旅程の中ほどでレコーディングを組めないだろうかという話がプレイヤー・サイドから持ちあがってきたとのこと。

『ロンドンって録音がいいって、うちの連中が言っているんだけど、それって実際のところ、どうなの?』という古沢さんに対し、“あらゆるジャンルの録音がシステマティックに組まれ、毎日セッションが行われる”ロンドンの現状をかいつまんでお話する。また、管弦楽だけでなく、吹奏楽を得意とするプロデューサーやエンジニアが何人もいることもつけ加えた。

話から可能性を嗅ぎ取った古沢さんは、『ウチのレコードの録音をやってくれてる佼成出版社に話をして、樋口さんに電話させるから、話を聞いてやって欲しいんだ。』と言われる。そのくらいのことは、お安い御用だ。

やがて、同社音楽出版室の柴田輝吉さんから電話がかかってきた。

氏は、“ウルトラマン”シリーズでおなじみの“円谷プロ”の出身。ポイントを的確にとらえ、舌鋒も切れ味鋭かった。

当然、話の方向は、とてもポジティブ。しかし、録音会場やスタッフ選びから始めないといけないという話だったので、迷うことなく、直ちにロイヤル・エア・フォースの音楽総監督エリック・バンクス(Eric Banks)に連絡をとるように薦めた。

バンクスは、BBC放送やEMIなどのレコ―ディンクをホールやスタジオで数多く行ない、ロンドンの録音スタッフにも広い人脈をもっている。それだけでなく、東京佼成ウインドオーケストラの練習場で実際に指揮をしたり、1988年4月16日(土)、東京・普門館で行われた東京佼成とロイヤル・エア・フォースのジョイント・チャリティー・コンサートを通じて、このウインドオーケストラのことをとてもよく理解していた。

ロンドンのバンクスとの英語のやりとりは、佼成出版社国際業務部、国際業務課の清水康博さんが担当された。

連絡を受けたバンクスもひじょうに喜び、直ちに動いてくれた。

バンクスは、まず、プロデューサーとして、ロンドンのイズリントンにあるエンジェル・レコーディング・スタジオ(Angel Recording Studios)のチーフ、ジョン・ティンパーリー(John Timperly、1941~2006)にオファーした。

ティンパーリーは、1970年代以降、バンクスの録音を何度も手掛けてきたバンクスがもっとも信頼をおくプロデューサーの1人で、彼のロイヤル・エア・フォース時代最後のCD「エリック・バンクス/世界のマーチ名作集」(ビクター、VDC-1394)も、1989年1月19日にティンパーリーのプロデュースで行われることが決まっていた。(「第16話」参照

折衝の結果、ティンパーリー個人とともに、彼のホームであるエンジェル・スタジオを4日連続でブッキングできたことから、佼成出版社は、常任指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)の指揮による録音に加え、エリック・バンクスの指揮による録音も行なうことになった。

その結果、ツアー後の1989年10月25日にリリースされたのが、フェネル指揮の「フランス組曲」(佼成出版社、KOCD-3102)とバンクス指揮の「ドラゴンの年」(同、KOCD-3102)の2枚のCDだった。

前者は、ツアー・プログラムから選曲された記念碑的CD。後者は、ロンドン録音を記憶にとどめるため、筆者が提案した“イギリス作品集”だ。

当時フルート奏者をつとめられ、プレイヤー引退後、総務として事務所に入られた牧野正純さんが個人的に書き留められていた記録によると、エンジェル・スタジオでのセッションは、以下のような流れで進行した。

【7月13日】指揮:フレデリック・フェネル

11:00~12:30 フランス組曲(ミヨー)練習

12:30~13:30 <昼食>

13:30~14:30 フランス組曲(ミヨー)

14:30~15:00 <休憩>(間食)

15:00~16:40 交響曲第6番(パーシケッティ)

16:40~17:10 <休憩>

17:10~17:40 自由への賛歌(ゴセック/ドンデイヌ編)

【7月14日】指揮:フレデリック・フェネル

11:10~12:50 ウィリアム・テル序曲(ロッシーニ/稲垣卓三編)

12:50~13:50 <昼食>

13:50~15:40 スリー・ダンス・エピソード(ハチャトゥリアン/ハンスバーガー編)
(間に、ソーメン休憩あり)

【7月15日】指揮:エリック・バンクス

11:00~13:10 ドラゴンの年(スパーク)

13:10~14:10 <休憩>

14:10~15:15 練習

15:15~15:45 <休憩>

15:45~17:50 復活(ボール)

17:50~18:00 <休憩>

18:00~18:30 英雄行進曲(フレッチャー)

【7月16日】指揮:エリック・バンクス

11:00~12:30 練習

12:30~13:30 <昼食>

13:30~14:50 吹奏楽のための協奏曲(ジェイコブ)

14:50~15:20 <休憩>

15:20~17:10 コメディー序曲(アイアランド)

バンクスは、翌7月17日にも、BBC放送FMラジオの名物番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」のプロデューサーにも、フレデリック・フェネル指揮の番組収録を持ちかけ、その放送用録音もBBCスタジオで行われた。

当時、ユーフォニアム奏者の三浦 徹さんから、スタジオ入りしてまず、番組テーマ「リッスン・トゥー・ザ・バンド」を初見で収録したという話をうかがったことがある。

結果的に、東京佼成ウインドオーケストラは、ロンドンで連続5日間、スタジオに入ってレコーディングを行なった。

しかし、それを成し得た裏に、フェネルが指揮するこの楽団をリスペクトするバンクスの献身的な貢献があったことを忘れてはならない。

1989年4月3日の日付がある筆者宛の手紙に、バンクスはこう書いている。

『先週、私は、空港でTKWOの古沢さんと清水さんに会いました。彼らは、7月のヨーロッパ・ツアー中、ロンドンで行なうレコーディングについて、私と打ち合わせをするために来たのです。私は、とてもいい録音をするプロデューサーをアレンジしています。また、同じ時期に、BBC放送のレコーディングも組めればと思います。その時期、私は(ロイヤル・エア・フォースを退役し)、オーストラリアに移っています。しかし、彼らは、とても親切にも、7月に彼らと一緒にいることができるよう、私にロンドンに戻って来るよう招待してくれたのです。』(カッコ内は、筆者)

佼成出版社から、バンクスを録音に起用する話を聞き、その録音レパートリーのプランを求められたのは、この直後のことだった。

これはもう、イギリスものでいくしかない!

「ドラゴンの年」のセッションが、ついに実現することになった!

▲東京佼成ウインドオーケストラ、ヨーロッパ・ツアー日程表

▲<名盤・珍盤・かわら版>Part 113(「バンドピープル」1989年12月号、八重洲出版)(許諾により掲載)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第40話 スパーク:シオン“111”のプロが決まるまで

▲地下鉄「阿波座」駅に張り出されたポスター

▲プログラム案(2014年12月)

2015年5月27日(金)、筆者は、大阪と和歌山のほぼ中間点に位置する関西国際空港の第1ターミナル到着ロビーで、フィンランド航空のAY77便で到着したフィリップ・スパークが、入国審査を終え、ゲートから出てくるのを待っていた。

空港でこうして彼を出迎えるのは、何度目のことだろう。

フィリップの話を聞いていると、日本には、こういう基本的な応対すらできない主催者もいるんだそうで、筆者にとってそれは大きなナゾだ。

あるときは、成田空港に誰も出迎えが来なかったり、またあるときは、演奏会後になぜか置き去りにされてしまい、自分のいるロケーションを完全にロストしてしまった彼が、知り合いの演奏家に電話を掛けて、運よく(?)つかまえることができた人に、そこまで来てもらってホテルまで連れていってもらったりと、本当にいろいろあったようだ。

もちろん、筆者は、フィリップのマネージャーなどではない。

しかし、2015年5月のこの日は、勝手ながら友人として出迎えを引き受けていた。

Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)の第111回定期演奏会の客演指揮のための来日だった。

やがて、ゲートから出てきたフィリップは、いつもの満面の笑顔!!

しかし、その姿はショルダーを肩にかけただけの軽装だった!

アレアレ!?

再会の挨拶もそこそこに事情を尋ねると、ロンドンからヘルシンキへのフライトが遅れ、トランジットの時間もギリギリだったため、トランクは積載できなかったらしい。

オッ、いきなりのトラブル発生だ!

しかし、荷物だけ届いて、本人がヘルシンキという事態ではなかったので良かった。

それでも、ステージ衣装や着替えが入っているトランクが届かないとなると、かなり面倒なことになる。

“最終的に届かなかった場合は、そのままジーンズでステージに立てばいいから!”などと軽口を叩きながら二人で大笑い!

ホテルにチェックインの際、フロントに事の顛末と、翌日に彼宛にトランクが届く予定であることを伝え、シオンには無事到着を知らせるメールを送る。

『スパやん、体だけは無事到着し、ホテルにチェックインしました。ヘルシンキで乗継ぎの際、荷物が取り残されたようで、ヒコーキ会社と交渉の結果、明日(5/30)、ホテルに届けてもらう段取りとなりました。

というわけで、明日の練習で1つ追加でお願いができました。練習時に、指揮棒を1本拝借したいというリクエストがありました。実際には、どの長さがいいのか、判断がつきかねますので、もし可能なら、複数本をご準備いただけると幸いです。荷物が到着すれば、すべて解決です。よろしくお願いします。

幸いなことに、スコアは手荷物の方に入れてあったそうです。着替えがないので、シャツを買いにいかねば、などと言っておりましたが、すこぶる元気でした。』

シオンからは、すぐに“指揮棒は準備できる”と返信があった。

余談ながら、“スパやん”とは、プリーズ・ブラス・バンドの客演指揮者として、しばしば大阪の地を訪れるようになった彼に対しての“大阪ローカルだけで通用する”リスペクトを込めた親称だ。プリーズの元プレイヤーの言によると、言いだしたのはどうやら筆者らしいが、そのうち、誰彼となく、そう呼ぶようになり、シオンのベテランも違和感なく普通に使っていた。

話を元に戻そう。

フィリップが客演指揮をしたシオン第111回定期は、大阪市音楽団民営化後のコンサートだが、独自に外国人アーティストを招聘する企画だけに、民営化したばかりの楽団側にあまりにも未経験な要素が多く、筆者もあまりの信じられない対応に“この件から降りる”と言って、さじを投げたこともあった。それだけに、到着初日のこの日を迎えたことには、一種感慨深いものがあった。

プログラムの決定プロセスも、二転三転だった。

第38話「スパーク:ギブ・ミー・チケット・パーティー」でお話ししたように、プログラム選曲担当の三宅孝典さんのリクエストに従い、フィリップが送ってきた『知られざる旅(The Unknown Journey)』のスコアをシオンに渡したのは、2014年の7月23日だった。

しかし、それが関西学院大学の委嘱作だと判って、演奏するのか、しないのかについての楽団内の意見は真っ二つ。

結局、『知られざる旅』は省かれ、楽団内で検討を重ねた“プログラム案”が楽団長の延原弘明さんから提示されたのは、それからかなりたった11月10日だった。

曲目は、以下のとおりだった。

・陽はまた昇る(The Sun Will Rise Again)

・セレブレーション(Celebration)

・オリエント急行(Orient Express)

・ドラゴンの年(The Year of the Dragon)

——–<休憩>——–

・デザーツ(Deserts)(もしくは2014~15年度新作)

・故郷からの手紙(Letter from Home)

・宇宙の音楽(Music of the Spheres)

メールには、一度ミーティングを持ちたいとも書かれてあった。

スケジュールが擦りあわなかったため、このミーティングは12月にずれ込んだが、その間にも、筆者は、この曲案をフィリップに投げて感想を求めていた。

彼は、第1部の曲案は、『陽はまた昇る』を除き、速い曲が続くので、バランスを欠く。まず『セレブレーション』をやめ、その位置に『オリエント急行』を移動。『オリエント急行』の位置には、フィリップお気に入りの『エンジェルズ・ゲートの日の出(Sunrise at Angel’s Gate)』のようなゆったりと静かな音楽を組み入れたいと書いてきた。逆に第2部はとても好きだという意見が返ってきた。また『陽はまた昇る』は、アンコールでもいいかな、ともあった。

12月11日のミーティングは、延原、三宅の両氏と筆者の3人で行なった。

その場にシオンの二人が持参した提案シートに目を落とすと、11月の最初の提案時より新たに4曲の候補曲名が欄外に書き加えられていたが、それはともかく、フィリップの意見をシートの上に書き示していく。

すると、『陽はまた昇る』をアンコールにするのはいいが、コンサートを『オリエント急行』で始めるのは、ちょっと…..と言われる。

訳を訊ねると、“開演に遅れた人が聴き逃す”確率が高いという返答。“そんなこと言っていたら、コンサートにならない。プログラムがわかっていて遅れる方がおかしいんだ”と反論し、激論に発展。

一方、『エンジェルズ・ゲートの日の出』は、何度か演奏してCDにもなっているので、作曲者からの他の曲の提案を待ちたいという。第2部に関しては、双方異論はなかった。

両者は、それらの議論を持ち帰ることになった。

ゴールは近いゾ!

しかし、10日後の12月21日に再び持ったミーティングで、シオン側が以下のような“第2案”を出してくることは、まったく予期できなかった。(出席者は、前回と同じ)

・フィエスタ!(Fiesta!)

・風のスケッチ(Wind Sketches)

・オリエント急行(Orient Express)

・ドラゴンの年(The Year of the Dragon)

——–<休憩>——–

・デザーツ(Deserts)(もしくは2014~15年度新作)

・スピリット・オブ・エンデバー(Spirit of Endeavour)

・宇宙の音楽(Music of the Spheres)

シオン側は、“新曲を入れたい”のだという。

『風のスケッチ』も『スピリット・オブ・エンデバー』も、初のCDが12月に発売されたばかりのバリバリの新曲だ。それはそれで理解できるが、よく見ると、これまでの議論で出てこなかった曲までリストアップされている。“速い曲が続き…”というフィリップが言う曲の並びにも配慮が無いように映る。

いかにも“元気な曲”が好きな三宅さんらしいアイデアのように思えた。

しかし、ここまで時間をかけて積み上げてきたものをひっくり返し、“これをフィリップに訊いて欲しい”というのは、筆者には少々理解不能だ。

『もちろん、訊けと言われるのであるなら、話はしますが、どういう返答がくるか、わかりませんよ。』と返し、次回ミーティングは、2015年1月14日に行うこととした。

年を明けた1月13日、フィリップから“翌日のミーティングで、オオサカ・シオンにこれを薦めて欲しい”と回答があった。

<第1部>

  1. オリエント急行
  2. 風のスケッチ
  3. ドラゴンの年

<第2部>

  1. デザーツ
  2. 故郷からの手紙
  3. 宇宙の音楽

<アンコール>

陽はまた昇る

『このプログラムは、“曲の新旧”と言う意味でも、“緩急”と言う意味でもバランスがよくとれている。』との“マエストロのお墨付き”で、プログラム論争は一件落着!

その後、三宅さんからの新たな提案で、フィリップが編曲した『サンダーバード(The Thunderbrds)』をアンコールに加えることになったが、とにもかくにもオオサカ・シオン第111回定期演奏会のプログラムは確定した。

ここで、もう一度叫びたい!!

筆者は、フィリップ・スパークのマネージャーではない!!

▲フィリップと共有した手作りのタイムテーブル

▲関空到着日のタイムテーブルの頁

▲シオン第111回定期の進行表

▲離日時の関西空港の案内表示(黒沢ひろみ氏提供)

▲フィリップの乗ったAY78便(黒沢ひろみ氏提供)