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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第101話 グレナディア・ガーズがやってきた

▲チラシ – 英国近衛軍楽隊コンサート(2019年10月9日、阪急うめだホール、大阪)

▲ チラシ – 裏

▲プログラム表紙 – The Band of Grenadier Guards Japan Tour 2019

▲同、演奏曲目

『えーッ??“グレナディア”、来るんですか??全然知りませんでした!』

2019年(令和元年)10月3日(木)、全日本学生吹奏楽連盟理事長、溝邊典紀さんに、大阪・梅田の阪急うめだホール(阪急百貨店9階)で10月9日に開かれるイギリスのグレナディア・ガーズ・バンド(The Regimental Band of the Grenadier Guards)のコンサートをどうされるのか、電話でおたずねした時、ものすごい勢いで返ってきた驚きの声だ。

招聘元は、東京のベルカントジャパン。だが、何といっても、コンサートの主催者が、阪急うめだ本店であることが、大阪ネイティブにとっては、一際目を引く大事件として映る。チラシにも、高級感のある“Hankyu”のロゴが光っている!

グレナディア・ガーズ・バンドの創立は、1685年。「グレナディア・ガーズ」「コールドストリーム・ガーズ」「スコッツ・ガーズ」「ウェルシュ・ガーズ」「アイリッシュ・ガーズ」と、現在5隊ある“近衛歩兵連隊”の名を冠した5つのバンドの1つとして、バッキンガム宮殿やウィンザー城の衛兵交代など、王室関連の演奏を他のガーズ・バンドとともに担う。また、ミリタリー・バンドとして、イギリスで最も長い歴史を誇っている。(参照:《第13話 英国女王陛下の音楽大使》)

当然、レコードや放送でも大活躍。《第92話 かくて歴史は書き換わる!》でお話した、グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)の『組曲第1番(First Suite in E flat for Military Band, Op.28 No.1)』を、世界でいち早く1920年代の前半、英Columbiaにジョージ・ミラー(Lt.-Col. George Miller、在任:1921~1942)の指揮で全曲録音したバンドだ。

エリザベス女王の戴冠式が行なわれた1953年の奉祝記念盤「Marches of the British Fighting Forces」(英Decca、LK 4058、モノラル)以降は、老舗メジャー・レーベル、英Decca専属のドル箱アーティストとして活躍。フレデリック・J・ハリス(Lt.-Col. Frederick J. Harris、在任:1942~1960)、ロドニー・B・バシュフォード(Lt.-Col. Rodney B. Bashford、在任:1960~1970)、ピーター・W・パークス(Major Peter W. Parkes、在任:1970~1976)の3代の音楽監督の指揮で録音されたレコードは、日本でもDeccaと契約関係にあったキング(Londonレーベル)やユニバーサル(同)からレコードやCDとしてリリースされたから、国内にも相当数のファンをもつ。

また、1990年(平成2年)、大阪・鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会 EXPO’90」(期間:4月1日~9月30日)でも、9月25日(火)の“英国ナショナルデー”のために、演奏旅行中のタイから、バンドのほぼ半数を分派して初来日。ナショナルデーのセレモニーや当時このバンドが売り物にしていた“18世紀バンド”(18世紀当時のユニフォームと曲目で人気を博した)の演奏で会場を大いに沸かせた。

グレナディア・ガーズの“日本ツアー2019”の主なスケジュールは、つぎのように組まれた。

・10/9(水)阪急うめだホール(大阪)

・10/10(木) 金沢歌劇座(石川)

・10/12(土) 武蔵野市民文化会館(東京)
(※台風19号のため、公演中止)

・10/13(日) 北上市文化交流センターさくらホール(岩手)

・10/14(月・祝) 神奈川県立音楽堂

・10/15(火) 昭和女子大学人見記念講堂(非公開)(東京)

・10/17(木) 英国大使館(非公開)(東京)

・10/19(土) 皇居前広場(奉祝パレード)(東京)

上記以外にも、公演地によっては、パレードも組まれていたが、それはともかく、2019年のツアーは大阪が起点であり、これはなかなかない千載一遇のチャンスだと思えた。なぜなら、ガーズのコンサートでは、聴衆の反応や地元のニーズを見極めながら、演目が変更されることが多いからだ。しかしながら、初日だけは用意したプロどおりに演奏されるはずで、それを聴けば、このバンドがこのツアーにどれだけの準備をしてきたかがよくわかる。また、密かな愉しみである即販グッズもひととおり全部が並ぶ!

(今回も、グレナディア・ガーズの連隊バッジが刺繍されているポロシャツやガーズ・ネクタイ、装身具、各種ステッカー、絵葉書、書籍、CDなど、盛りだくさん。片っ端から買えば、間違いなく破産の憂き目をみるほどだった!)

そこで、海外バンドのコンサートをご一緒する機会が多い溝邊さんに電話を入れたわけだが、当日は、たいへん珍しい午前11時の開演だったため、あいにく氏は同じ時間帯に先約があり、コンサートにはひとりで出向くことになった。

それにしても、事情通の溝邊さんが地元で開かれるこのコンサートのことをまったくご存知なかったのは、たいへんなレアケースだ!!恐らくは広報不足だろうが、電話では『なんで(なぜ)、そんな時間に…。』とたいへん残念がられていた。

ホールに入り、早速ツアー・プログラム(500円なり!)を購入し、中を開くと、プログラムには、ヤン・ヴァンデルローストの『横浜音祭りファンファーレ』や広瀬勇人の『キャプテン・マルコ』、今井光也の『オリンピック東京大会ファンファーレ』、古関裕而の『オリンピック・マーチ』など、日本を意識した曲名が並ぶ。同行するスコッツ・ガーズとグルカのバグパイプ鼓隊のメンバーを交えた『アメージング・グレース』や『ハイランド・カテドラル』、クィーンのヒット曲『ボヘミアン・ラプソディー』やミュージカル『キャッツ』から“メモリー”、エルガーの行進曲『威風堂々』第1番など、イギリスを感じさせる曲も多い。

日英交歓と誰でも愉しめるエンターテイメント性をミックスさせたプログラムだ!

実際、平日の午前スタートのこのコンサートの聴衆の大半は、百貨店に買い物ついでに誘い合わせて来られたようなご婦人衆が多かったから、肩肘張らずに愉しめるこのプログラムは、この日の聴衆にはぴったりマッチしていたようだ。

やがてステージの明かりが上がり、メンバーが入ってきた。そのとき、あることに気がついた。おなじみの赤いユニフォームの腕に伍長や軍曹の階級章をつけたプレイヤーがかなり多いのだ。ラフに数えても、全体の3/4以上がそのようだった。これはかなり期待できるゾ!

ほとんどベテラン奏者で構成されるバンドであることを示していたからだ。

プログラムが始まると、筆者の予想は的中。この日のホールがそんなに大きな空間をもたないのにもかかわらず、バンドの音が混じりあって美しくソフトに響く。個々のスキルも高い。指揮者は2人制だったが、音楽監督のマイクル・スミス(Major Michael Smith)が指揮をとった『キャプテン・マルコ』がとくに絶品だった!

その一方、公演チラシのオモテ・ウラの両面に、グレナディア・ガーズではない別のバンド(グレナディアとは“永遠のライバル関係”にあるコールドストリーム・ガーズ・バンド)のステージ写真が使われていたり、ツアー・プログラムの曲目解説中、古関裕而の『オリンピック・マーチ』の解説文の中身が全篇“リバーダンス”になっていたり、いったい何と表現したらいいのか分からないほど、パワー全快で“つっこみたい”気分になった。まるで拙速の見本のようなもので、本当に、もう少し注意深く作れないものだろうかと願う。

なによりも、グレナディア・ガーズに対する礼を失している!

しかし、しかしである。そんな残念なこともあったが、この日聴いたグレナディア・ガーズのパフォーマンスには、かなりの満腹感を覚えた。

そして、プログラム終了時、司会者から驚くべき案内が告知された。

なんと、この後、百貨店内の同じフロアにある祝祭広場(階段状に石造りの座席が組まれている)で30分プロの演奏(無償)が何度か行なわれるというのだ。しかも、マーチングもあると!

オッと、これは大ニュースだ!溝邊さんに、すぐにでもお知らせせねば!

この予想外の“緊急事態”に、急いで家までとって返し、奈良の溝邊さんに電話を入れて、これからまだ午後5時からと7時からの2回、30分プロがあることを伝える。

すると、ちょうど大阪から帰宅されたばかりだった氏は、『えッ?それは、聴きにいかんと(行かないと)!』と、ふたたび大阪に向かうことを即断された!

ロケーションが近い筆者は、朝のコンサートとは完全に別プロの午後5時と7時の両回(それぞれの曲目も違った)を堪能し、急遽奈良から来られた溝邊さんも、7時からの演奏には間に合った。

この祝祭広場でのパフォーマンスは、ドラム・メイジャーの号令一下、グレナディア・ガーズの制式速歩行進曲『ブリティッシュ・グレナディアーズ(British Grenadiers)』で下手サイドから入場。広場でコンサート隊形にフォーメーションを変え、立奏のままポップな曲を何曲か演奏した後、再びマーチング・フォーメーションに戻って『ブリティッシュ・グレナディアーズ』で下手へと捌けていくというスタイルのパフォーマンス。

おなじみの熊皮(ベアスキン)の帽子を被った姿で入場してくる彼らに向けられるもの凄い数のスマホと万雷の拍手!

みんな笑顔だ!

『ええ音(いい音)してますなー!』

溝邊さんが思わず口にされたこの言葉が、そのすべてを物語っていた!

▲英国ナショナルデーのファンファーレ隊(1990年9月25日、国際花と緑の博覧会、大阪)

▲グレナディア・ガーズ18世紀バンド(同)

▲ファンファーレ隊と18世紀バンドの合同パフォーマンス(同)

▲LP(30センチ) – Marches of the British Fighting Forces(英Decca、LK 4058、モノラル、1953年)

▲LK 4058 – A面レーベル

▲LK 4058 – B面レーベル

▲LP(25センチ) – Finlandia – Overtura di Ballo(英Decca、LW 5117、モノラル、1954年)

▲LW 5117 – A面レーベル

▲LW 5117 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第100話 第1回国際作曲コンクール

▲プログラム – 1e Internationale Compositiewedstrijd voor harmonie orkest 1995(1995年11月30日、Rodahal、Kerkrade)

▲チケット

▲ケルクラーデの観光パンフレット(ロダハルの写真が表紙左上に掲載)

『おはようさん。朝から、おとといのコンサート(の録音)を流しで聴いてたんやけど。じっくり聴いたら、ベルギーのバンド、あれなぁ、むちゃくちゃうまいで!』

1995年12月2日(土)、滞在先のオランダ・ケルクラーデのホテルで、少し遅めの朝食のためにレストランに現れた大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)団長兼常任指揮者(当時)の木村吉宏さんの朝の一言(!?)だ。

“おとといのコンサート”とは、2日前の11月30日(木)、ケルクラーデ市内のコンサート・ホール、ロダハル(Rodahal)で行なわれた「第1回国際ウィンドオーケストラ作曲コンクール(1e Internationale Compositiewedstrijd voor harmonie orkest 1995)」の“決勝コンサート(Finale Concert)”のことだ。

我々は、そのコンサートを、オランダ人指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)夫妻の誘いで聴きに行った。(参照:《第98話:アルプス交響曲とフリーセン》

そして、それはまた、4年に1度の間隔でケルクラーデで開催される“世界音楽コンクール(Wereld Muziek Concours / WMC)”の最上位クラスである“コンサート部門”に出場するバンドに課される“セット・テストピース(指定課題)”の選考も兼ねた国際作曲コンクールでもあった。

コンクールで“一等賞(1e Prijs)”に選ばれた曲が、自動的に2年後の1997年7月に開催される「第13回世界音楽コンクール」の“指定課題”となるわけだ。

また、“ベルギーのバンド”とは、ベルギー国王のプライベートな吹奏楽団として知られ、当時、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)が楽長(シェフ・ド・ミュジーク)をつとめていた“ロワイヤル・デ・ギィデ(La Musique Royale des Guides)”だった。

《第55話:ノルベール・ノジとの出会い》でもお話したベルギーの至宝だ!

しかし、木村さんにとっては、それは初めて名前を耳にするバンドだった。そこで、その沿革や音楽的ステータスを簡単に説明する。

『へぇー、そうか。ヨーロッパって、ギャルドやカラビニエーリだけやないんやなぁ。知らんかった。』とは、そのときの木村さんの率直な反応だった。

ロダハルにいたときはまったく気づかなかったが、木村さんは、そのコンサートの一部をポータブル・レコーダーに録音していて、朝からもう一度聴き直していたようだ。それが冒頭の言葉につながった。

コンクールには、最終的に43の作品がエリトリーされた。そして、当夜、スコア審査を経て最終選考に残ったつぎの5作品が演奏された。

  • Steps to the Heaven(Michael Short)- イギリス
  • Rapsodie Espagnole(Andre Waignein)- ベルギー
  • Symphony for Winds and Percussion(Ladislav Kubik)- アメリカ
  • Triptique(Luctor Ponce)- スイス
  • Diptic Sinfonic(Francisco Zacares Fort)- スペイン

いずれも20分近い作品で、難易度も相当高い。超満員の会場では、1曲が終わるたびに口々に感想が交わされる。それは、そうだろう。今、目の前で初めて演奏される曲が、ひょっとすると2年後に自分たちも演奏することになるかも知れないのだから!!

審査には、以下の著名な作曲家と指揮者があたった。

・ピエール・キュエイペルス(Pierre Kuijpers)- オランダ

・ジャン・クラーセンス(Jean Claessens)- オランダ

・アマンド・ブランケル・ポンソダ(Amando Blanquer Ponsoda)- スペイン

・トレヴァー・フォード(Trevor Ford)- ノルウェー

・ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)- ベルギー

・ドナルド・ハンスバーガー(Donald Hunsberger)- アメリカ

・アルフレッド・リード(Alfred Reed)- アメリカ

・エヴジェヌ・ザーメチュニーク(Evzen Zamecnik)- チェコ

当夜知ったこの顔ぶれには正直驚いた。審査員に、知人、友人が結構いたからだ。

その内のひとり、演奏を担ったロワイヤル・デ・ギィデの指揮者のノジは、5曲の演奏が終わると、ステージを降りて最終審査に合流。代わってステージに上がった副指揮者フランソワ・デリデル(Francois De Ridder)が、審査の合間を利用して、ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)の『アルルの女(L’Arlestenne)』第2組曲(全曲)、そして、全員が制帽を被っていつもコンサートのしめくくりに演奏するジャン=ヴァレンタン・ベンダー(Jean-Valentine Bender)の制式マーチ『第1ギィデ連隊行進曲(Marche du Premier Regiment de Guides )』の2曲を演奏した。

場内のそれまでの張り詰めたムードは、一転してくつろいだムードに!゛

主催者のプランとしては、そのマーチが終わったところで華やかに“審査発表”といきたかった筈だが、審査が難航しているのか、ここからの待ち時間がかなり長かった。しかし、もう夜の11時近くなろうというのに誰一人として席を立たない。当然、場内には、自然発生的にかなりのざわめきとイライラムードが湧いてきた。騒然とした雰囲気だ。

そこで、“ロワイヤル・デ・ギィデ”は、プログラムには印刷されていないとっておきの1曲、ピエール・レーマンス(Pierre Leemans)の『ベルギー落下傘部隊マーチ(Marche des Parachutistes Belges)』を演奏!!

あらかじめ、こういうことも想定して楽譜を準備していたのかも知れないが、この思わぬ1曲のプレゼントに、場内は大いに沸いた!

筆者も、初めて聴くベルギー正調の『ベルギー落下傘部隊マーチ』に大感動!!

ゆったりとしたテンポで演奏されたそのマーチは、優雅にしてシンフォニック!

本場ものの演奏は、日本やアメリカで聴くものとまるで音楽が違った。

そして、その演奏が終わったところで、ついに審査発表!

結果は、フランシスコ・ザカレス・フォートの『ディブティック・シンフォニック』が第1位に選ばれ、賞金10,000ドル。ラディスラフ・クビックの『管楽器と打楽器のための交響曲』が第2位で賞金6,000ドル。ルクトール・ポンセの『トリプティック』が第3位で3,000ドルとアナウンスされ、作曲者がつぎつぎステージに上がる。

当然、場内は、賞賛の拍手に包まれたが、筆者の頭の中では、作曲コンクールの結果より、先ほど聴いた『ベルギー落下傘部隊マーチ』のメロディーが繰り返し、繰り返しリフレインする。

時代を超えて受け継がれる曲には、間違いなく人を惹きつける何かがある。

“ロワイヤル・デ・ギィデ”を聴くのはこの日が初めてではなかったが、彼らが演奏するほんものの『ベルギー落下傘部隊マーチ』をナマで聴くのはこれが初めてだった!

“あぁ、これだ、これだ!!”

当夜聴いたどんな優秀作より、ギィデの感性とサウンドに感動する自分がいた!

▲ロワイヤル・デ・ギィデのプログラム表紙(1987年4月6日、Verviers、Belgium)

▲ロワイヤル・デ・ギィデ吹奏楽団(1987年)

▲CD – Belgian Military Marches – Volume 1(ベルギーRene Gailly、CD87 041、1987年)

▲CD87 041 – インレーカード

▲CD – Piotr I. Tchaikovsky(ベルギーRene Gailly、CD87 048、1990年)

▲CD87 048 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第99話 トルン聖ミカエル吹奏楽団訪問記

▲レターヘッド – Harmonie St. Michael van Thorn

▲CD – Highlights WMC 1993(蘭Mirasound、399154~399155、1993年)

▲399154~399155 – インレーカード

▲WMC 1993 プログラムから(7月25日、Rodahal, Kerkrade)

『今から行くところは、車をつける場所を間違えると、“何しに来た”と睨まれて、ちょっと面倒なことになるかも知れません。』(笑)

1995年12月3日(日)の朝、指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)の奥さん、マリアーンさんは、車を運転しながら、冗談っぽくこう切り出した。

この日、我々が向かっていたのは、オランダ南部、リンブルフ(Limburg)州の村トルン(Thorn)。オランダの吹奏楽に関心がある者にとっては、一度は訪れてみたい場所だ。

同行者は、マリアーンさんと筆者のほか、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)団長の木村吉宏夫妻、同マネージャーの小梶善一さん。

市音の首席指揮者(当時)をつとめていたフリーセンが、“オランダ・オープン選手権コンサート部門(Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling)”で、「オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz)」を指揮してリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』(全曲)を演奏するという話を聞き、勇み足でオランダに飛んだ面々だった。(参照:《第98話:アルプス交響曲とフリーセン》

この日は、その“オランダ・オープン”の2日目。フリーセンが指揮する「ボホルツ・フィルハーモニー」の出番は、夜の20時30分で、彼はその準備に余念がなかった。そこで、かねてからトルン行きを熱望していた我々のために、代わってマリアーンさんが道案内を買って出てくれたのだった。

我々がめざした“トルン”は、ベルギーと国境線を接する小さなコミュニティ。2007年1月1日、へール(Heer)、マースブラハト(Maasbracht)と統合されてマースハウ市(Maasgouw)の一部となるまでは、独立した自治体だった。小さなエリアだが、かつては“公国”で、中心部の家々の外壁が白く塗られていることから“白い町”とも呼ばれる。また、“トルン大聖堂教会”とも呼ばれるローマカトリック教区教会の“聖ミカエル教会(De Sint-Michaelskerk)”も有名な存在で、同地を訪れる観光客も多い。音楽関係者には、有名な楽器メーカー、アダムス(Adams)の所在地と言った方が分かりやすいかも知れない。

そのトルンが近づいてきたところで、マリアーンさんが放ったのが冒頭の言葉である。

マリアーンさんの説明によると、当時、トルンの人口はおよそ5000人!

そんなコミュニティに、オランダを代表する100名クラスのコミュニティー・ウィンドオーケストラが2つも存在する!!

一方が、1971~1975年と1983~2015年の間、フリーセンが音楽監督をつとめた「トルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn / Harmonie St. Michael van Thorn)」であり、もう一方が「オランダ王国トルン吹奏楽団(Koninlijke Harmony van Thorn)」だった。

前者が“聖ミカエル(St. Michael)”を、後者が“オランダ王国の(Koninlijke)”を冠(かんむり)とする吹奏楽団である。

遠く離れた日本からは、そんなトルンの事情など窺い知ることはできないが、マリアーンさんの話によると、トルンには、200年くらい前から村を二分する勢力争いがあり、彼らは今も別々の教会の信徒として互いに結婚することもないほどの関係にあるとか。その結果、当然バンドも2つ存在し、両者はシリアスなライバル関係にあるのだという。

マリアーンさんの話はつづく。

『ある年、両者がケルクラーデ(Kerklade)で行なわれた同じ日のコンクールに揃って出場したことがありました。一方の演奏が終わったとき、誰もが“優勝者はこのバンドに決まった”と思ったそうです。しかし、その後ステージに上ったもう一方がそれを上回るパフォーマンスで逆転してしまったのです。結果は、後者が“優勝者”となり、前者が“第2位”に。直後、トルンの村は、お祭り騒ぎになるどころか、約半年もの間、一触即発のたいへん険悪なムードに包まれることになりました。』

このとき優勝したのが、今から訪れようとしている「トルン聖ミカエル」であり、優勝指揮者はもちろんハインツ・フリーセン!!

優勝を逃した側の「オランダ王国トルン」からみると、フリーセンは彼らの偉業を阻んだ憎っくき“仇(かたき)”の総大将だ。奥方のマリアーンさんの面も割れている。

もちろん、マリアーンさんが行き先を間違えるなど、ある訳ないが、冒頭の『車をつける場所を間違えると…。』という言葉の意味が、ここではじめて明らかとなった。

まるで、“ロメオとジュリエット”に出てくる話のようだ。

帰国してから記録を調べると、この話にあてはまるのは、1993年7月25日(日)に行なわれた“世界音楽コンクール(Wereld Muziek Concours)”のコンサート部門決勝のようだった。

日本でも少し知られるようになった、1つのバンドに許されるステージ上の持ち時間が出入りを含めて1時間半という同コンクールの最上位グレードの選手権で、指定課題が、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の『交響曲第4番(4th Symphony)』だった年だ。

我々は、それからわずか2年後、その大事件がまだ人々の記憶に新しい時期にトルンに向かっていたのだ。

他の町のバンド関係者は、トルンの両バンドを“牡ヤギ”“牝ヤギ”と呼ぶ。理由を訊ねると、“オスとメスは永遠に理解し合えない”という理由からだそうだ。

なんとも奥の深い話ではある。

その後、さすがに両バンドは、同じコンクールにはエントリーしないことを申し合わせたのだという。

「トルン聖ミカエル吹奏楽団」の練習場は、聖ミカエル・ハーモニーザール(Harmoniezaal St. Michael)と呼ばれる前年完成したばかりの真新しい専用の建物だった。

オランダ語のザールには英語のホールと同じ意味があるが、この合奏場も座席さえ設えればコンサートができるようになっていた。地下には、個人練習ができるスタジオを完備している。カフェも備え、休憩になると、シャッターが開いてバーがオープンする。飲み物はすべて無料。大人の社交場というイメージだ。

出迎えてくれたプレジデントのケース・ハウケス博士(Drs. Kees Halkes)によると、実際にここでサポーターのためのコンサートも開かれるそうで、この日もバンドの元メンバーと思しき年配者が三々五々集まってきては、あーだこーだと言いながら、練習を愉しんでいた。創設は、1863年。まさに“おらが村のバンド”だ。

そんなバンドが世界を揺るがす演奏をする。

1993年の“世界音楽コンクール”で演奏された『交響曲第4番』のライヴCD(蘭Mirasound、399180、1993年)を聴いた作曲者のリードも、手放しで賛辞を贈っていたし、同じCDに入っている同じ日のリヒャルト・シュトラウスの『死と変容(Tod und Verklarung)』も圧倒的な演奏だった!

我々が訪れたこの日は、フリーセンが不在のため、副指揮者の棒だったが、リハーサルで聴かせてもらった曲は、フリーセンが編曲したカール・オルフの『カルミナ・プラーナ(Carmina Burana)』(独唱、コーラス入りの全曲)とヨハン・デメイの交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』(全曲)の2曲。聞けば、この2曲は、近く開かれるコンサートのプログラムだそうだ。FMラジオでもオランダ全土にオン・エアされるという。

まるで、プロのようなプログラミングだ!

歴代音楽監督にも、フリーセンのほか、ヴァルター・ブイケンス、ノルベール・ノジ、イヴァン・メイレマンスなど、一流どころの名がズラリ!

ヨーロッパで地に足を着けて活動する、コミュニティ・ウィンドオーケストラの地力の凄さをまざまざと見せつけられた思いがした!!

▲ Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(指揮:Heinz Friesen)

▲CD – Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(自主制作(蘭Mirasound)、399180、1993年)

▲ 399180 – インレーカード

▲ Heinz Friesen サイン

▲ CD(再リリース盤) – Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(蘭World Wind Music、WWM500.107)

▲WWM500.107 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第98話 アルプス交響曲とフリーセン

▲プログラム – Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling(1995年12月2~3日、Rodahal、Kerkrade)

▲同、チケット

▲ハインツ・フリーセン

▲オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(1995年12月3日、ケルクラーデ)

『ヒグチくん、あんたなぁー、12月の始めのへん、ヒマかぁー?』

東京弁に翻訳すると、おそらくは“君、12月の始め頃、スケジュールはどうなってる?”に近いニュアンスとなるこの電話の主は、大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)の団長、木村吉宏さんだった。

電話がかかってきたのは、1995年(平成7年)の9月。

“ははぁ、さては、また何か企んでいるな!”とピーンときたが、話の続きを伺うと、予想どおり『オランダ行けへんかー?(オランダ行かない?)』という打診が直球でとんでくる!

つづいて、『フリーセンが“アルプス”をやるてゆうとーんのや。これ、聴きたいとおもてな、電話したんやけど…。』ときた。

“フリーセン”とは、《第69話:首席指揮者ハインツ・フリーセン》でもお話した、市音がオランダから招いた首席指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)のことだ。

木村さんの電話は、フリーセンが、オランダのウィンドオーケトラで、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)の『アルプス交響曲(Eine Alpensinfonie)』(全曲)の指揮をすると話しているので、どうしても聴きたくなって連絡したという、早い話が“Noという答えが返ってこない”ことをある程度見越した上での“確信犯的お誘い”だった。

言外に、オランダに明るい筆者に“ガイド兼通訳(!?)”として一緒に行ってくれないかという、限りなく“業務命令”に近い臭い(!?)も漂う!

また、どういう魔法を使ったのか、手廻しよくJTB難波支店を通じて、航空券も、なかなかとれない筈の現地ホテルも仮押えしてあるそうで、『すぐ返答したらな、あかんねん(即答してやらないとダメなんだ)。』という。なんとも性急な話だ!!

急いで手帳を見ると、いくらか調整すれば、なんとかなりそうだったので、チケットや宿の手配はお任せすることにした。アッという間の“オランダ行き”の決定だった。

とは言うものの、木村さんの言うことは、一体全体何の話やら、さっぱりわからなかったので、すぐに大阪城公園内にあった市音練習場に行って、フリーセンに確認することにした。

もう、いつの間にか、即席の臨時マネージャーだ!

フリーセンに訊ねると、この年の12月2日(土)~3日(日)、ケルクラーデ市のコンサート・ホール、ロダハル(Rodahal, Kerkrade)で、世界音楽コンクール(WMC)の一環で開かれるオランダ・オープン選手権コンサート部門(Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling)の決勝があり、彼はドイツ国境に近いボホルツ(Bocholtz)という小さな町のウィンドオーケストラ、“オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz)”を指揮して出場するのだという。

その選手権で演奏する曲が、彼が作曲者の遺族の了解を得て、かなりの年月をかけ心血を注いでトランスクライブしたシュトラウスの『アルプス交響曲』という訳だ。

やっと話が見えてきた。

“オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー”は、1886年8月25日の創立。人口が5000人を少し上回ったあたりのオランダ・リンブルフ州の町ボホルツのバンドだ。バンド名に“オランダ王国の(Koninklijke)”という冠(かんむり)が付いているが、これは1954年にケルクラーデで開催された“第1回世界音楽コンクール(Wereld Muziek Concours)”で優勝した際、ときのユリアナ女王から、その輝かしい実績を称えられ、今後“Koninklijke”を名乗ることを特に許されたからで、決して“オランダ王立”というわけではない。強いて言うなら、“おらが町の”限りなく“町立”に近いバンドだ。今も誇りを込めて“オランダ王国の”というステータスを名乗ってはいるが!!

レコード時代には、フリーセン指揮のこのバンドのアルバムが、“コロムビア世界吹奏楽シリーズ”の第2集「オランダの吹奏楽(March in Holland)」(日本コロムビア、XMS-53-RT、1968年12年新譜、蘭Artone原盤)として、国内リリースされたこともあった。

ボホルツにはフリーセンに連れられて一度行ったことがあるが、小さな町なのに専門の音楽学校があり、そこから輩出されてプロになった音楽家がときどき戻ってきては、次世代を担う子供たちを教えている。100名編成のユースバンドもあると聞いた。

オランダには、そんな町が結構あり、結果として、人口5000人ほどの町にも100名を超える編成のウィンドオーケストラが存在したりする。それで、町対抗のバンド合戦も盛んなのだ。

話を元に戻そう。

このとき、オランダを訪れたのは、木村吉宏夫妻と市音マネージャーの小梶善一さん、筆者の都合4人。一行は、11/29にエールフランス機で大阪を出発し、アムステルダムに一泊の後、列車で北ブラバント州アウデンボス(Oudenbosch)のフリーセンの自宅を表敬訪問。この日は、ボホルツの練習を見学後、同氏宅に一泊。翌12/1にフリーセンが運転する車でケルクラーデのホテルに入った。滞在中、ベルギーのロワイヤル・デ・ギィデ(Orchestre de la Musique Royale des Guides)のコンサートを聴いたり、トルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn)のリハを覗くこともできた。

フリーセンがボホルツを指揮して『アルプス交響曲』を演奏するという12月2~3日の“オランダ・オープン選手権コンサート部門”には、ファンファーレオルケスト部門2団体とウィンドオーケストラ部門5団体の合計7団体がエントリーされていた。

各団体のステージ上の持ち時間は、出入りを含めて1時間30分。指定課題(ウィンドオケ部門は、エド・デブール(Ed de Boer)の『アルメニア狂詩曲第1番(Armeense Rhapsody nr.1)』)はあるが、コンサートを競う選手権だけに、それは各々のプログラムのどこで演奏してもよいというルールとなっていた。

面白いことに、演奏曲数も演奏者の自由で、いろいろな曲を組み合わせて構成するバンドがある一方、ボホルツのように、課題を演奏した後、『アルプス交響曲』の全曲、ただそれだけで勝負にのぞむバンドもあった。世界的に有名なソロイストの独奏を組み込んでもよかった。

審査員は、そのコンサートを各出演者から提出されたスコアを手に審査する訳だ!

結果は、全出場団体中、最後に登場したボホルツが優勝!!

指定課題が118.5ポイント、それ以外が237ポイントで、合計が355.5ポイントというのは、オランダ・オープン選手権史上、最高記録の得点だったそうだ。

会場で出会った作曲家のヨハン・デメイ(Johan de Meij)によると、この日のライヴは、12月中にテレビで放送されるそうだ。そういえば、放送ブースには、旧知のロワイヤル・デ・ギィデ音楽監督ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)がコメンテーターとして入っていた。

得点発表後、フリーセンを囲んで即席のパーティーが行なわれたが、その後、フリーセンが心血を注いで書いたスコアが何者かによってステージから持ち去られてしまったという事件が発覚。ボホルツのメンバーと祝杯をあげながら上気するフリーセンの赤い顔が、一瞬、真っ青になるという信じられないハプニングも!!

結局、スコアはフリーセンの手元に戻らなかったが、その日のすばらしいライヴは、放送用音源をもとにした完全限定アーカイブCD「Eine Alpensinfonie」(自主制作(Miragram)、88111-2)として残されることになった。

ブラビッシモ、フリーセン!!

▲演奏曲目 – Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling

▲CD – Eine Alpensinfonie(自主制作(Miragram)、88111-2、1996年)

▲同、インレーカード

▲LP – オランダの吹奏楽(日本コロムビア、XMS-53-RT、1968年)

▲XMS-53-RT – A面レーベル

▲XMS-53-RT – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第97話 決定盤 1000万人の吹奏楽 カラビニエーリ吹奏楽団

▲LP – BANDA DEI CARABINIERI DI ROMA」(伊Columbia、33QSX 12022、1957年)

▲33QSX 12022 – A面レーベル

▲33QSX 12022 – B面レーベル

『万国博に、ローマからカラビニエーレ軍楽隊が来ていることを聞き、一体、何日、どこで、どんな手順で東京公演があるのか全然わからないので、吹連の春日氏にたずねてみた。彼もさっぱりわからず、NHKの催物係にたずねたらと教えられ、さっそく問い合わせると、4月11日午後3時からNHKで録画があるが、もう満員とのことで断られた。だが一日前でよかった。

4月11日、私は小雨煙る内幸町のNHKにとびこみ、控室を訪れ、マエストロ、ファンティーニに面会を求めた。….。』(原文ママ)

以上は、「バンドジャーナル」1970年6月号(管楽研究会編、音楽之友社)の90~91頁に掲載された須磨洋朔さん(1907~2000)の寄稿「演奏会評、なつかしのカラビニエーレ軍楽隊をきいて」(原文ママ)の書き出しの引用である。

文中“吹連の春日氏”とは、当時、東京都吹奏楽連盟理事長をつとめられていた春日 学さん(1915~1993)のことだ。(余談ながら、筆者も、1988年のロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーの際、氏にはたいへんお世話になった。参照:《第8話:ドラゴン伝説の始まり》ほか)

《第24話 ギャルド1961外伝》でもお話したように、須磨さんは、陸上自衛隊中央音楽隊長だった1960年の秋、4年後に東京オリンピックを控え、ローマ・オリンピックの視察のために渡欧し、ヨーロッパ各国のミリタリー・バンドを訪ねられた。

ローマにも約1ヶ月滞在し、毎日のように顔を合わせていたマエストロ、ドメニコ・ファンティーニ(Domenico Fantini、1897~1984)、そしてローマ・カラビニエーリ吹奏楽団(Banda dell’Arma dei Carabinieri di Roma)の面々の多くとも顔なじみだった。

雑誌の構成上、”演奏会評”というタイトルがつけられてはいるが、須磨さんの寄稿は、ローマ・オリンピックで水泳の山中 毅選手(1939~2017)が400メートル自由形で優勝したら、カラビニエーリを指揮して「君が代」を演奏することになったので、みんなで「ヤマナーカ、ヤマナーカ」と大声援を送ったが、惜しくも2着で全員でガッカリしたという、ラテン系ならではの微笑ましいエピソードも交えながら、日本では一部のツウを除いてあまり知られていなかったカラビニエーリについて、わかりやすく丁寧な“紹介文”となっていた。

さすがは、ローマでつぶさに活動を見た人によって書かれた内容だ。

当時の使用楽器についても、以下のように調や呼称も明快に分類された、たいへん貴重な資料となっている。

・ピッコロ Db

・フルート C

・オーボエ C

・クラリネット
(ピッコロ Ab、ピッコロ Eb、ソプラノ Bb、アルト Eb、バス Bb、コントラバス Eb)

・サクソフォーン
(ソプラノ Bb、アルト Eb、テノール Bb、バリトン Eb、バス Bb)

・サリュソフォーン Bb

・ピューグル Eb・Bb

・コルネット Bb・F

・ホルン F

・ピストン・トロンボーン
(テノール Bb、バス F、コントラバス Bb)

・バリトン Bb

・ユーフォニューム Bb

・大バス Eb、F、Bb

・打楽器 七名

(一部楽器名に須磨さん独自の呼称もあるが、このリストアップでは、先人に敬意を表し、カッコを追加した以外は、敢えて“原文のママ”とした。また、寄稿文中には、“バス・トランペット C管を使用”という記述があるので、このリスト以外の楽器への持ち替えもあった。)

カラビニエーリの演奏者の総計は、なんと102名で、創設は1820年!

それは、まるで生きる楽器博物館のようであり、複合倍音の妙とでも言えばいいのか、それまで聴いたことのないすばらしいサウンドがした!!

フレデリック・フェネルが提唱したウィンド・アンサンブルとは、対極をいく吹奏楽団だ。

イタリアでは、使用楽器に多少の違いはあっても、このような大編成のバンドが一般に存在する。19世紀から吹奏楽のために書かれたオリジナル交響曲があったほどの国だから、ある意味で当然かも知れないが….。

ただただ、我々が知らないだけだった!

須磨さんは、日本のバンドに比べ音域が“優に1オクターブ以上広い”とも書かれていた。

そして、ナマで聴いた人はみな異口同音に言うが、カラビニエーリは、屋外で聞いてもキラキラと明るく豊かに響く“別世界”のサウンドをもっている。

イタリア政府は、そんな“カラビニエーリ”を、1970年4月8日(水)午前10時から「日本万国博覧会」会場のお祭り広場で行なわれたイタリア・ナショナルデーのために派遣した。

万博会場では、イタリア・ナショナルデーのセレモニーで、カラビニエーリの制式マーチであるルイージ・チレネイの『ラ・フェデリッシマ(忠誠)』ほかを演奏。イタリア・パビリオン周辺での演奏やお祭り広場に大きなステージを組んだフォーマルなコンサートも行なわれた。

しかし、大阪と東京の距離はやはり遠かった!

冒頭の須磨さんの寄稿にもあるように、どうやら万博にイタリアの至宝“カラビニエーリ”が来演することが東京の吹奏楽関係者にはうまく伝わっていなかったようだ。時系列で考えると、須磨さんにしても、テレビのニュースか口コミかはわからないが、4月8日のナショナルデーにこの吹奏楽団がやってきているという情報を得てから動かれたに違いなかった。

この年は、本当に多くのバンドが万博をめざしてやってきていたので、間違いなく情報過多ではあったが、「バンドジャーナル」にしても正確な情報をキャッチし損なっていたようだ。須磨さんの寄稿が掲載された1970年6月号の編集後記には、つぎのように書かれている。

『カラビニエーレ音楽隊の来日を予告することができませんでした。せめて今月の写真と須磨先生の記事でお許し下さい。』(原文ママ)

メディアがここまで書くのはたいへん珍しい。逆説的に言うと、それだけ万博会場やNHKホールでナマを聴いた人から口コミで伝わる反響がいかに凄かったかを物語っているようだ。

実際、万博で大活躍の阪急少年音楽隊の隊長、鈴木竹男さんも、カラビニエーリとスコッツ・ガーズ(前話参照)のパフォーマンスのすばらしさを何度も口にされていた。

4月11日(土)、NHKホールでの公開録画で、カラビニエーリは、オペラの国の吹奏楽団らしく、以下の曲目を演奏した。

・歌劇「運命の力」序曲(ヴェルディ)

・マスカーニの歌劇より抜粋

  1. ランツァウ
  2. シルヴァーノ
  3. わが友フリッツ

・歌劇「四人の田舎者」から(ヴォルフ・フェラーリ)

・楽劇「ワルキューレ」から“第3幕への前奏曲”“騎行”(ワーグナー)

・歌劇「アイーダ」から(ヴェルディ)

・歌劇「ウィリアム・テル」序曲(ロッシーニ)

・ラ・フェデリッシマ(忠誠)(チレネイ)- アンコール –

放送は、まず、2週間後の4月25日(土)、総合テレビ、午後3時30分からの30分番組「カラビニエリ吹奏楽団演奏会」としてオンエアされ、その後、全曲が、門馬直美さんが進行役をつとめていたNHK-FM「ホームコンサート」の中でとりあげられた。

その一方、カラビニエーリのレコードは、1950年代の後半に制作された「BANDA DEI CARABINIERI DI ROMA」(モノラル録音)(伊Columbia、33QSX 12022 / 米Angel、35371)のアメリカ盤が60年代に日本に輸入されたことがあった。

後半の激しい展開が日本でも話題になったヴェルディの歌劇「シチリア島の夕べの祈り」序曲が入っているアルバムだ。

しかし、日本国内の本格デビュー盤となると、1971年2月新譜でリリースされた「日本吹奏楽指導者協会推薦 決定盤 1000万人の吹奏楽」(日本ビクター(RCA)、SRA-5196)が初出となる。

これは、伊RCA Italianaが1960年代にリリースしたステレオ録音の3枚のLPからのコンピレーション・アルバムだが、いつもながら、ビクターの“愉快な(!?)”タイトルには本当に吹きだしそうになる!

マーチや軍歌以外の吹奏楽レコードの販売によほど自信がなかったか、それともリリースが来日後になり、タイミングを失したことへの照れ隠しのためなのか。真相はよくわからない。

しかし、NHKの放送やこのアルバムのリリースで、アメリカやイギリス、フランス、ドイツとはまったく違う別世界の吹奏楽がイタリアに存在することが広く知られるようになり、カラビニエーリは、多くのバンド指導者にとって憧れの的となった。

ローマ・カラビニエーリ吹奏楽団!

それは、筆者にとっても衝撃の出会いであった!!

▲LP – 日本吹奏楽指導者協会推薦 決定盤 1000万人の吹奏楽」(日本ビクター(RCA)、SRA-5196、1971年)

▲同、ジャケット裏

▲SRA-5196 – A面レーベル

▲SRA-5196 – B面レーベル

▲イタリア・ナショナルデーを伝える記事(「万国博記録写真集」第3巻・第5号から(万国博グラフ社、1970年5月)

▲讀賣新聞、昭和45年4月25日(土)、朝刊11版、17面

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第96話 スコッツ・ガーズと1812年

▲「万国博記録写真集」第3巻・第5号(万国博グラフ社、1970年5月)

▲プログラム – 英国近衛兵軍楽隊(1970年4月23日、東京体育館)

▲スコッツ・ガーズ・バンド(1970年4月23日)(知人提供)

管楽研究会編の月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)の1970年(昭和45年)の各号は、21世紀の今見返しても本当に面白い!

あくまで、個人的趣味の領域を超えない範囲の話で恐縮だが、《第95話:ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド来日》でもお話したように、地元大阪の千里丘陵で行なわれていた“日本万国博覧会”につぎからつぎへと来演する海外のバンドの紹介記事やインタビュー、グラビアなど、筆者の琴線に触れる記事で溢れていたからだ。

そして、嬉々として万博会場に足を運んで、実際にナマを聴いたときの鮮やかな印象!!

日本のバンドとはまったく違うサウンドやレパートリー、そして、音楽の運び方。そこでの実体験は、間違いなく筆者の音楽観の幅を拡げさせる一因となった。

当時の「バンドジャーナル」を注意深く見返してみると、数ある来日バンドの中で、同誌が最も注目し、ページを割いていたのは、4月22日(水)に行なわれたイギリスのナショナルデーのために来日し、翌23日(木)、東京体育館でも東京公演を行なったスコッツ・ガーズ・バンド(The Band of the Scots Guards)だったことがわかる。

ロンドンのバッキンガム宮殿の華やかな衛兵交代のセレモニーで世界的に知られる近衛軍楽隊の1つだ。もう少し詳しく言うなら、5隊ある近衛連隊の内、“スコッツ(スコットランドの)”という語を冠する“スコッツ・ガーズ(近衛スコットランド連隊)”に所属するバンドだ。

4月19日(日)に大阪入りした彼らは、22日に万博会場で3度演奏した後、東京へ飛び、23日の東京での1回の公演を終えて25日に帰国した。

来日メンバーは、バンド(Regimental Band)60名に、バグパイプ鼓隊(Pipes & Drums)27名。東京公演のプログラムに掲載されているリストを整理すると、来日時のバンドは、以下のような編成だった。

2 ピッコロ&フルート
1 オーボエ
1 バスーン
1 Ebクラリネット
14 Bbクラリネット
5 サクソフォン
11 コルネット
4 ホルン
7 テナー・トロンボーン
2 バス・トロンボーン
2 ユーフォニアム
5 バス
5 パーカッショ

(計60名)

音楽監督は、ロンドンっ子から“ジミー”の愛称で親しまれたジェームズ・H・ハウ(Major James H. Howe、在職:1959~1974)。当時のガーズ・バンドは、複数の楽器を演奏できるマルチ・ミュージシャンを積極的に採用していたので、実際には、低音部クラリネットやトランペットなど、演奏機会や曲に応じていろいろな楽器の持ち替えが行なわれていた。

「バンドジャーナル」が、このバンドの来日を告知したのは、1970年3月号。巻頭グラビアの“万博に来日する二つのバンド”の頁に、3枚のモノクロ写真を掲載する扱いだった。

やがて、バンドが来日すると、6月号の巻頭グラビアで、カラー2ページ、モノクロ4ページの東京公演フォト・リポートを入れ、48~53頁にインタビュー記事“スコッツ・ガーズ来日!近衛スコッツ連隊軍楽隊長J・ハウ少佐にきく”、53~54頁に保柳 健さんの“スコッツ・ガーズ来日!素顔の「女王陛下の軍楽隊」”、92頁に赤松文治さんの“スコッツ・ガーズ・バンド演奏会”というサイド記事を入れるほどの大特集を組んでいる。

当時の「バンドジャーナル」がいかにこのバンドに関心を寄せていたかがよくわかる。

日本盤こそリリースされてなかったが、1950年代後半のステレオ初期にハウの前任の音楽監督であるサミュエル・S・ローズ(Lt.-Col. Samuel S. Rhodes、在職:1937~1959)の指揮で録音された数々のレコードがアメリカから輸入され、日本でもすでに高い評価を得ていたこと。

そして、1959年にローズの跡を継いだハウの指揮でも、デッカ(Decca)、フォンタナ(Fontana)の各レーベルに積極的なレコーディングが続き、来日当時のバンドは、フィリップス(Philips)やフォンタナを傘下にもつフォノグラムの専属という人気バンドとなっていたこともあったのだろう。

そんなバンドの初来日にレコード会社も敏感に反応した。

まず、キングが、来日記念盤として、英デッカ原盤の「栄光のスコッチ・ガーズ・バンド(The Scots Guards)」(キング(London)、SLC 298)を1970年3月新譜としてリリース。

英語の“Scots”を“スコッチ”と印刷してしまうキングの“センスの良さ(?)”は、今もって理解不能だが、兎にも角にも、ハウが、スコッツ・ガーズ着任後に初めてレコーディングしたデビュー・アルバムの国内初登場は、ハウ時代の端正な演奏スタイルをわが国に紹介する上で大きな役割りを果たした。

一方、《第19話 世界のブラスバンド》でとりあげた「ESSSプレゼンツ・スーザ・マーチ」(日本ビクター(Philips)、45X-103)」や「世界のブラスバンド」シリーズ(日本ビクター(Philips)、SFL-9060~61、ほか)など、ハウが指揮をしたレコードの国内発売をすでに始めていた日本ビクターも負けてはいなかった。

ビクターは、〈イギリス近衛歩兵スコッツ連隊軍楽隊来記念盤〉と謳って、フォンタナ原盤の「序曲「1812年」/ スコッツ連隊軍楽隊(1812)」(日本ビクター(Philips)、SFX-7197)と3枚のフォンタナ盤からマーチだけをピックアップしたコンピレーション・アルバム「近衛兵スコッツ連隊がやってきた(Marching with the Scots Guards)」(日本ビクター(Philips)、SFX-7198)の2枚のLPをリリースした。

後者はいかにも“マーチや軍歌が大好き”なビクターらしいが、これら2枚がリリースされると、ビクターの思惑とは異なり、高い評価を得たのは「1812年」の方だった。

日本の吹奏楽ファンの音楽的嗜好は、確実に変化していた!

そして、このアルバムは、実は、戦前戦後を通じて吹奏楽の演奏だけでノーカットで録音された世界初の「1812年」の商業レコードだった。

セッション会場は、“ガーズ・チャペル”の通称で知られ、美しい残響で知られるロンドンのロイヤル・ミリタリー・チャペル。イギリスでは、1969年9月に「1812」(英Fontana、LPS 16264)として発売されたばかりの最新盤だった。

指揮者のハウは、世界的な話題となったこのアルバムについて、方々でこう語っている。

『オーケストラと共演して“1812年”を演奏する機会はたびたびあるけれど、長い時間ずっと待たされて最後に少しだけ登場というのはちょっとね。我々だってちゃんとできるのに!』

スコッツ・ガーズを定年で退職した後、ロンドン市中のオーケストラを指揮する機会も増えたハウならでは言葉だ。

今や40分を超える楽曲もどんどん登場するようになったウィンドオーケストラの世界!!

時の流れの速さを感じる今日この頃である!

▲LP – 栄光のスコッチ・ガーズ・バンド(キング(London)、SLC 298)

▲SLC 298 – A面レーベル

▲SLC 298 – B面レーベル

▲LP – 序曲「1812年」(日本ビクター(Philips)、SFX-7197)

▲SFX-7197 – A面レーベル

▲SFX-7197 – B面レーベル

▲LP – 近衛兵スコッツ連隊がやってきた(日本ビクター(Philips)、SFX-7198)

▲SFX-7198 – A面レーベル

▲ SFX-7198 – B面レーベル

▲ 「バンドジャーナル」1970年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

▲「バンドジャーナル」1970年6月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第95話 ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド来日

▲LP – The National Band of New Zealand at Expo’70(ニュージランドWorld Record Club、SLZ 8318)

▲SLZ 8318 – A面レーベル

▲SLZ 8318 – B面レーベル

1970年(昭和45年)は、気分が高揚するとてもハッピーな一年だった。

大阪・千里丘陵で開催された“日本万国博覧会”で、プロ、アマを問わず、地元バンドがホスト役となって大活躍し、世界各国から続々とバンドが来演したからだ!

そのときの気分をネイティブ語で言い換えるなら、“めっちゃ、おもろい!”

これを東京弁に翻訳すると、おそらく“信じられないぐらい愉しい!”とか“とっても面白い!”が交じり合ったちょうどその中間あたりのニュアンスになるんだろうが、それはともかく、この万国博では、吹奏楽が吹奏楽らしく躍動する役割を担っていた。

月刊誌「バンドジャーナル」(音楽之友社)も、東京発の全国誌としては例外的に思えるほど、この関西発ローカル・ネタに大きくページを割いていた。中でも、普段は聴くことがない海外からの来演バンドのニュースは新鮮に響いた。

そして、最寄りの大阪市営地下鉄御堂筋線「心斎橋」駅から電車に乗りさえすれば、会場入り口の北大阪急行電鉄「万博中央口」駅まで直通運転で一直線という、我が家の地の利の良さ、これがよくなかった。

世界のバンド三昧の始まりである!

世間では、アポロ12号が持ち帰った“月の石”が話題となった“アメリカ館”や、宇宙船が展示された“ソビエト館”のパビリオンが人気を集めていたが、筆者は、もっぱらナマのバンドのパフォーマンスを聴くために万博に向かった。(もちろん、米ソ両パビリオンにもそのついでに入場したが….。)

大阪音楽大学教授の木村寛仁さんとの雑談の中でこの話題で盛り上がったことがある。そのとき、氏は『ボクは7回行きました。』と言われていたが、筆者はいったい何度会場に足を運んだのだろうか!それは、もう記憶には残らないほどの数になっていたはずだ。

しかし、新聞、テレビ、口コミなど、いろいろな情報ソースをよりどころに、せっせと万博会場に向かっていた自分がいたことだけは覚えている。

とは言いながらも、万博会場では多種多彩な催しが同時進行的に行なわれた。その日になって、現場で突然決まる演奏や曲目もあり、当然、見逃しや聴き逃しもあった。

そんなとき、「バンドジャーナル」1970年8月号から11月号まで短期連載された伊藤信雄さんの「万博だより ── お祭り広場で活躍する世界のバンド」や関連インタビュー、グラビアが本当に役に立った。

また、博覧会閉幕後の座談会記事「万国博を終えて」(同、1970年11月号)も、当時の現場の空気や感想を活字で残すことになった。

座談会の出席者は、麻 正保(日本万国博覧会事業第一課長)、渡辺武雄(日本万国博覧会プロデューサー)、鈴木竹男(阪急少年音楽隊隊長)、松平正守(池田市立呉服小学校教頭)、松岡楽男(報徳学園教諭)の各氏。

座談会の中身も、関西らしく、いろいろな感想が自由に飛び交う様子がおもしろいが、その中で、現場を仕切った麻さんの口から出たつぎの発言が博覧会サイドの吹奏楽に寄せる期待を知る上でひじょうに印象に残る。

『お祭り広場は、アマチュアが参加するというのがたてまえでございます。これだけの広い空間を埋めていく人数的なことと、音ですね。それとの両方の調和、それには吹奏楽の演奏とパレードがぴったりくると考えたわけです。』(原文ママ)

兵庫県の西宮球場で催されていた「2000人の吹奏楽」の内容も何故かよく知っていた博覧会側のこの着想が、3月14日(土)の開会式から9月13日(日)の閉会式に至る博覧会期間中、吹奏楽が前面に出て活躍する原点となった。

そして、前記座談会メンバーのほか、開催前年の1969年まで全日本吹奏楽連盟理事長だった朝比奈 隆さんや作曲家の大栗 裕さん、大阪市音楽団長の辻井市太郎さん、大阪府音楽団指揮者の井町 昭さん、後に大阪音楽大学学長になった西岡信雄さんら、関西の音楽界全体が、オモテになりウラとなって催しを盛り上げたのは、周知のとおりだ。

このエネルギーが、各国のナショナルデーにも、イタリアのローマ・カラビニエーリ吹奏楽団(Banda dell’Arma di Carabinieri di Roma)やイギリスのスコッツ・ガーズ・バンド(The Band of the Scots Guards)など、演奏者の人数や楽器編成にもお国柄を感じさせる多種多彩なバンドの来演を実現させる原動力となった。

そんな来日バンドの中にあって、7月8日(水)のニュージーランド・ナショナルデーに来演した“ナショナル・バンド・オブ・ニュージーランド(National Band of New Zealand)”も忘れられないバンドの1つだ。

“太陽の中のキーウィ”と題されたこのショーは、ニュージーランド放送が一年前から企画を練ったもので、総出演者数は270名。“ナショナル・バンド”は、音楽監督エルガー・クレイトン(Elgar Clayton)ほか、バンドマスターを含めた57名のフルメンバーで登場し、マーチングとコンサートを披露した。

この“ナショナル・バンド”が組織されたのは1953年。ニュージーランド国内の50のバンドからオーディションで選抜されたメンバーで構成され、世界各国へ派遣されるなど、ニュージーランドを代表するブラスバンドとして世界的に知られる存在だ。レコードも、本国以外でも、アメリカ、イギリスなどでリリースされていた。

日本万国博覧会への来演は、ロシア、イギリス、オランダ、カナダ、アメリカを含む4ヶ月にわたる世界演奏旅行の一環として実現したもので、演奏旅行中に実に175回のコンサートやディスプレイが行なわれたことが記録に残っている。

関東方面での演奏がなかったためか、東京のブラスバンド関係者にもほとんど知られていないが、これが日本で初めてナマで響いた海外のブラスバンドのサウンドだった。

木管が入った吹奏楽の音しか知らなかった者にとって、サクソルン族の金管楽器を中心に編成させるナマの“ブラスバンド”のサウンドは、正しく“未知との遭遇”!

筆者に、大きく目を開かせることになった瞬間だった!

「バンドジャーナル」1970年10月号のグラビアのほか、万国博でのパフォーマンスの一部は、ニュージーランド・ナショナル・フィルム・ユニット(New Zealand National Fim Unit)が制作した短篇記録映画「THIS IS EXPO」(公開:1971年)に収録され、今でもネットを通じてニュージーランドのフィルム・アーカイブから見ることができる。

その溌剌とした姿とハートに響くサウンドを聴く度に思う。

すばらしいかな、ナショナル・バンド!

▲LP – The National Band of New Zealand(英Great Bands、GBS 1012)

▲GBS 1012 – A面レーベル

▲GBS 1012 – B面レーベル

▲LP – Colonel Bogey on Parade(ニュージーランドSalem、XPS 5043)

▲XPS 5043 – A面レーベル

▲XPS 5043 – B面レーベル

▲LP – Polished Brass(米Orion、ORS 80932)

▲ORS 80932 – A面レーベル

▲ORS 80932 – B面レーベル

▲「バンドジャーナル」1970年10月号(管楽研究会編、音楽之友社)

▲「バンドジャーナル」1970年11月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第94話 エキスポ ’70と大失敗

▲LP – Brass & Percussion(米RCA Victor、LSC-2080、1958年)

▲ RCA Victor、LSC-2080 – A面レーベル

▲RCA Victor、LSC-2080 – B面レーベル

『(試聴会は)、去る2月17日、日本ビクター東京スタジオで行なわれた。当日はオーディオ愛好家および技術雑誌編集部員が集まった。まず高柳氏の説明につづいて、われわれ(は)、初めて、一本溝の立体レコードを聞いたわけである。この45/45立体レコードについては本文45ページを参照して頂きたい。なにしろまだレコードは1枚しかはいっていないので音質云々などといえないが、立体に聞こえたということは事実である。操作・装置の点で今後テープに変って大衆化することであろう。』(カッコ内を除き、原文ママ)

スマートフォンにイヤフォンやヘッドフォンを接続して左右に拡がる“ステレオ”サウンドを気軽に愉しんでいる今日の若い世代にはピンとこないかも知れないが、これは、1958年(昭和33年)2月17日(月)、東京・築地にあった日本ビクターのスタジオで行なわれた日本最初の“ステレオ“レコードの試聴会を取材した月刊誌「無線と実験」1958年4月号(誠文堂新光社)の記事「わが国最初の45/45立体レコード試聴会(日本ビクター)」からの引用だ。

当時、“ステレオ”は“立体”と呼ばれていた。対して、1個のスピーカーやイヤフォンで再生する従来の記録方式を“モノラル”と呼ぶ。

45/45方式は、何種類か実用化までこぎつけたステレオ・レコードの記録方式の1つで、汎用性の高さから、日本のステレオ・レコードでもこの45/45方式の規格が採用された。

文中の高柳氏は、戦前、ブラウン管による電送・受像を世界で始めて成功させ、“日本のテレビの父”と呼ばれた工学博士、高柳健次郎さん(1899~1990)のことだ。氏は、日本ビクターの技術最高顧問であり、副社長、社長も歴任した。

また、同誌の45頁には、不二音響社長の中村久次さんが執筆した「1本溝の新ステレオディスク方式 45/45立体レコード」というステレオ盤についての解説も掲載されていた。

記事が“1本溝”という表現にこだわっているのは、ステレオの“右チャンネル”と“左チャンネル”の音をそれぞれ独立した2本の溝にカッティングしたレコードがこれ以前にアメリカで発表されていたからだ。もっとも、再生操作が難しく実用性が乏しかったので、いつの間にか消えてしまったが…。

また、この試聴会以前にも、AMラジオ2台を左右に置いてステレオを愉しむNHKの“立体音楽堂”のようなラジオ番組《参照:第22話 ギャルド1961の伝説》や、オープン・リール方式の音楽テープを専用のステレオ・テープレコーダーで再生するなど、いくつかの“ステレオ”の愉しみ方は知られていた。

しかし、市販されたステレオ音楽テープ1本の価格が、当時の初任給とほぼ同じぐらいだったので、庶民にはまるで高嶺の花。ホールを使ったステレオ・テープの鑑賞会が人気を集めるぐらいだったので、誰でも気軽に“ステレオ”を愉しめるような、もう少し安価なレコード盤の登場が待たれていたのである。

そんな折も折、ステレオの2チャンネルの音を1本の溝にカッティングする技術が、アメリカでついに実用化された!

そのアメリカから持ち込まれたたった1枚のレコードを使って、ステレオ・レコードの音が日本ではじめて公開されたのが、この日の試聴会だった。

使われたレコードは、モートン・グールド・アンド・ヒズ・シンフォニック・バンド(Morton Gould and his Symphonic Band)演奏の『ブラス&パーカッション(Brass & Percussion)』(米RCA Victor、LSC-2080)という、米プレスの30センチ・ステレオ盤だった。作編曲家としても指揮者としても有名なモートン・グールド(1913~1996)が、ニューヨークの主要オーケストラ・プレイヤーを集めて編成されたシンフォニック・バンドを指揮したアルバムだった!

レパートリーは、ジョン・フィリップ・スーザの『星条旗よ永遠なれ(The Stars and Stripes Forever)』やエドウィン・フランコ・ゴールドマンの『木陰の散歩道(On the Mall)』、 エドウィン・E・バグリーの『国民の象徴(National Emblem)』など、アメリカ人なら誰もが知っているマーチが中心!

そう!

日本で初めて“ステレオ”レコードのデモンストレーションが行なわれたときに使われたのが、実は“吹奏楽”のマーチ・アルバムだったのだ!

オーケストラでもポップスでもなく!!

このデモンストレーションの派手な成功体験と他社に与えた衝撃は小さくなかった。

その後、レコード各社がマーチの録音に邁進したのは、《第93話 “楽しいバンド・コンサート”の復活》などでお話したとおりだ。

もちろん、“ステレオ”というオーディオの技術革新が、派手な演奏効果を求めて“吹奏楽のマーチ”の録音に走らせたという側面もあった。

しかし、オーディオ技術の進歩は、日進月歩だ!

“ステレオ”レコードの登場から、10年ちょっとが過ぎた頃、今度は“4チャンネル録音”方式という新しい技術が登場し、レコード各社をして再び吹奏楽に目を向かわせるきっかけとなった。

だが、今はなき“4チャンネル”方式のレコードを言葉で説明するのは意外と難しい。

簡単に言うなら、“ステレオ”ではリスナーの前方、左右に1個ずつのスピーカーを並べて立体的なサウンドを愉しむが、“4チャンネル”は、リスナーの後方にも、さらに2個のスピーカーを加えて、前後左右の計4つのスピーカーから流れるサウンドで愉しむ方式だった。今でいうなら、さしづめサラウンド方式のようなものだ。

ただ、当時の“4チャンネル”が直面した問題は、レコード各社の4チャンネル規格がてんでバラバラで互換性がなかったことだ。ビクターが“CD-4”方式、ソニーは“SQ”方式…という具合に。

このため、各社は、市場で自社の“4チャンネル”の優位性を担保するため、自前の4チャンネル音源を増やす必要に迫られた。

そのとき、デモンストレーションで効果があがる吹奏楽の華やかなマーチのサウンドに再びスポットが当たった。

ビクターは、まず、1963~1964年の間、A.B.A.(アメリカ・バンドマスターズ・アソシエーション)の会長をつとめ、1965年以降、1968年、1969年と度々来日していたアメリカのポール・ヨーダー(Paul Yoder、1908~1990)を指揮者に起用。

レコーディングは、4度目の来日となった1970年3~4月に、東京・渋谷に前年開設されたばかりの同社の新スタジオ(301スタジオ)で、ヨーダー自身の作編曲を中心に“4チャンネル”に備えたマルチ録音方式で行なわれた。演奏は、既存の吹奏楽団ではなく、この目的のために集められたスタジオ・ミュージシャンたちだった。

そして、その成果は、同年夏、まず2チャンネルの通常のステレオ盤が先行して登場。

「ゴールデン・ポピュラー・マーチ、ポール・ヨーダー(指揮)吹奏楽団」(ビクター・ワールド・グループ、SWG-7190)および「ゴールデン・マーチ/日本軍歌集、ポール・ヨーダー(指揮)吹奏楽団」(ビクター・ワールド・グループ、SWG-7197)という2枚のLPといくつかのシングル・カットがリリースされた。

だが、正直に言うなら、このとき、このレコード(2枚の内の前者)を買うか買わないかで相当迷った。スタジオ録音の吹奏楽レコードの音が“まるで歌謡曲のようで”どうしても好きになれなかったからだ。ホールのような空気感もまるで感じられないし…。

しかし、時は1970年。地元大阪では“日本万国博覧会”が華やかに開催されていた。

迷いに迷った挙句、広告に印刷されている『万国博マーチ』という、ただ1曲の曲名の誘惑に負けてレコード店に注文してしまった。ひょっとして、大阪では、いろいろなバンドが毎日のように演奏していた川崎 優作曲の同名のマーチ《参照:第89話 朝比奈隆氏を送る全関西音楽祭
が入っているんじゃないかと思って!

だが、レコードが店に届いて、持ち帰ってジャケットを開いたとき、その夢は無残にも打ち砕かれた。

ヤラレター!!

ジャケットにも『万国博マーチ』と日本語で印刷されていたその曲は、指揮者のヨーダーが、日本万国博に捧げるため、岩井直溥さんが編曲した『八木節』の要素を積極的に取り込んで作った曲だった。英語曲名は“EXPO ’70”。今日では『エキスポ ’70』という曲名で知られる曲だ。

ついでに言うなら、この曲にはマーチらしさはカケラもなかった。

その後、この曲は、万博に来日するアメリカのバンドが好んで演奏。世界中で演奏され、有名バンドによってレコーディングもされた。

しかし、21世紀の今でも鮮明に覚えている!

いくらなんでも、『万国博マーチ』はないんじゃないの!!

若かりし頃、先走った末の大失敗である!!

▲ビクター・ワールド・グループの広告(1970年)

▲LP – ゴールデン・ポピュラー・マーチ(ビクター・ワールド・グループ、SWG-7190、1970年)

▲シングル – 月月火水木金金 / ラバウル小唄(ビクター・ワールド・グループ、SJET-1197、1970年)

▲シングル – 軍艦マーチ / 君が代行進曲(ビクター音楽産業、VIP-1047)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第93話 “楽しいバンド・コンサート”の復活

▲EP – 世界マーチ集 / アメリカ・マーチ(1)(日本コロムビア、ASS-10008、1964年7月)

▲EP – 世界マーチ集 / ドイツ・オーストリア・マーチ(1)(日本コロムビア、ASS-10023、1964年7月)

▲EP – 世界マーチ集 / ドイツ・オーストリア・マーチ(2)(日本コロムビア、ASS-10024、1964年7月)

▲EP – 世界マーチ集 / 日本マーチ(2)(日本コロムビア、ASS-10034、1964年7月)

大阪・千里丘陵で“日本万国博覧会”が開催された1970年(昭和45年)は、わが国のありとあらゆる事象が大きく変貌を遂げる1つの節目になった年だったと多くの人に記憶される。

ウィンド・ミュージックを扱うレコード業界の動きも、この年を境に大きく変貌を遂げた。

国内で新たに録音される吹奏楽レコードがすべて“マーチ”か“軍歌”だった1960年代初頭以降、レコード業界に起こった出来事を簡単に振り返ると…。

【1960年(昭和35年)】アメリカ空軍ワシントンD.C.バンドが3度目の来日。日本ビクター、日本コロムビア、クラウン、朝日ソノラマの各社が録音を依頼。それらはすべて各国国歌とマーチだった。《参照:第63話 U.S.エア・フォースの再来日》

【1961年(昭和36年)】フランスのギャルド・レピュブリケーヌが初来日。東芝音楽工業が『軍艦行進曲』(瀬戸口藤吉)や『君が代行進曲』(吉本光蔵)など、日本のマーチ8曲の録音を依頼。その内、6曲が録音され、現場でギャルド側の希望で『アルルの女』から“ファランドール”(ビゼー)、『牧神の午後への前奏曲』(ドビュッシー)、『ディオニソスの祭り』(シュミット)の3曲も録音された。レコードは、翌年リリース。マーチは再版を繰り返したが、コンサート曲は完売後の再プレスはなく、1969年まで長期お蔵入りとなった。《参照:第23話 ギャルド、テイクワンの伝説》

【1962年(昭和37年)】在京オーケストラのプレイヤーによる“ギャルド・日本吹奏楽団”が結成され、マスプレスにマーチの録音を開始。福田一雄、服部 正、須磨洋朔が指揮をつとめた。

【1963年(昭和38年)】東京吹奏楽団の設立。コンサート活動のほか、山本正人の指揮で、レコード各社に数多くのマーチを録音した。東京オリンピックをめざして、レコード各社のマーチ録音熱に拍車がかかり、日本ビクターは、契約レーベルのフィリップスを通じてオランダ王国海軍バンドに『軍艦行進曲』(瀬戸口藤吉)や『君が代行進曲』(吉本光蔵)など、マーチの録音を依頼する。東芝音楽工業は、イギリス原盤のロイヤル・マリーンズ・バンドのマーチを定期的に発売するようになった。《参照:第16話 エリック・バンクス「世界のマーチ名作集」》

【1964年(昭和39年)】東京オリンピック開催。古関裕而の『オリンピック・マーチ』が大ヒットし、レコード各社から盛んに国内録音のマーチが発売された。東芝音楽工業は、フランス原盤のギャルドのマーチ・アルバム3枚をリリース。

とまあ、1960年代の前半は、間違いなく“吹奏楽 = マーチ”の時代だった。スタジオ録りの吹奏楽演奏の戦時歌謡や軍歌のレコードもかなり発売されている。

その後、東京オリンピックの余韻の中、マーチ・ブームも続いたが、60年代後半に入ると、それまでのマーチ一辺倒とは、少し違う動きが見られるようになってきた。

【1967年(昭和42年)】日本コロンビアが、加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブルの演奏による《楽しいバンドコンサート》(EP3枚)を新録音でリリース。これは、マーチを一切含まず、アメリカのオリジナル曲やコンサート曲が入る新しい感覚の吹奏楽レコードで、クリフトン・ウィリアムズの『献呈序曲』やジョセフ・オリヴァドーティの『イシターの凱旋』、ハロルド・ウォルターズの『フーテナニー』など、今も演奏される曲が紹介された。東芝音楽工業は、バッハの『トッカータやフーガ』やリストの『ハンガリー狂詩曲第2番』などが入ったギャルド・レピュブリケーヌのアルバム「栄光のギャルド」をリリースし、大ヒットとなった。《参照:第18話 楽しいバンドコンサート第81話 栄光のギャルド》

【1968年(昭和43年)】日本ビクターが、海外契約レーベルのフィリップス(Philips)の豊富なソースを編集して、《世界のブラスバンド》(LP2枚組、全5巻)を月に1巻のペースでリリース。イーストマン・ウィンド・アンサンブルのマーチ以外の演奏が初めて国内に紹介されたほか、フィリップス専属のオランダ王国海軍バンドに、川崎 優の行進曲『希望』、大栗 裕の『吹奏楽のための小狂詩曲』、塚原哲夫の『吹奏楽のための幻想曲』、團 伊久磨の『祝典行進曲』の邦人オリジナル作品の録音が依頼された。日本コロムビアは、ビクターを追い、海外原盤から「コロムビア世界吹奏楽シリーズ」(10タイトル)を月に1枚のペースでリリースしたが、1タイトルを除き、すべてがマーチだったためか、大きな話題とはならなかった。《参照:第19話 世界のブラスバンド》

【1969年(昭和44年)】東芝音楽工業が、海上自衛隊東京音楽隊演奏の既録音のマーチと東京佼成吹奏楽団を起用して新録音したアメリカのオリジナルなどを組み合わせて“マーチ篇”“ポピュラー篇”“オリジナル篇”のLP3枚組にまとめた《世界吹奏楽全集》をリリース。3枚の内、ジム・アンディ・コーディルの『バンドのための民話』やシーザー・ジョヴァンニ―ニの『コラールとカプリチオ』、クリフトン・ウィリアムズの『シンフォ二アンズ』などが入った“オリジナル篇”は、その後、単独盤として独立し、リリースを繰り返すヒット盤となった。ビクターは、前年の「世界のブラスバンド」などから、オランダ王国海軍バンド演奏の日本人作曲家の作品を中心にしたデラックス版「日本の吹奏楽」をリリースして注目を集めた。また、東芝音工は、長期お蔵だったギャルドの『ディオニソスの祭り』ほかを再発した。《参照:第27話 世界吹奏楽全集第90話 デラックス版「日本の吹奏楽」》

東京佼成ウインドオーケストラの元ユーフォニアム奏者、三浦 徹さんにこの頃の話をうかがうと、氏の東京藝術大学在学当時にも、いろいろなスタジオによく“軍歌”の録音で呼ばれたと言われていたから、レコード会社の中身や考え方がすっかり変わったわけではなかった。

しかし、それでも、コロムビアの《楽しいバンドコンサート》やビクターの《世界のブラスバンド》《日本の吹奏楽》、東芝の《世界吹奏楽全集》という、1960年代後半にリリースされたレコードによって、一般の音楽ファンがまったく知らない曲(とくにアメリカのオリジナル曲)が入ったレコードが少しずつ売れ始めたのである。もちろん、吹奏楽というごく限られたフィールドの中ではあったが…。

一般音楽ファンが知らない曲は、当然レコード会社も知らない。

その一方で、ひょっとして売れるかも知れないので、できるだけリスクなく吹奏楽のレコードを作りたい。

そんな思惑がレコード業界に広がり始めていた1970年3月17日(火)、杉並公会堂で、 ある1枚のEPレコードのレコーディング・セッションが行なわれた。

演奏は、大橋幸夫指揮、国立音楽大学ブラスオルケスター(総勢53名)で、曲目は、以下の2曲だった。

・チェスター(ウィリアム・シューマン)
Chester(William Schuman)

音楽祭のプレリュード(アルフレッド・リード)
A Festival Prelude(Alfred Reed)

録音・制作する日本コロムビアと、『チェスター』の楽譜を2年前に出版した音楽之友社、『音楽祭のプレリュード』を4月中旬に出版予定の東亜音楽社がタイアップをした企画で、文部省教科調査官の花村 大さんが監修し、村方千之さんが解説を、大阪市音楽団長の辻井市太郎さんが推薦文を書くという、コロムビアらしい手堅い布陣が組まれていた。

コロムビアとしては、この新譜は、1967年以来の《楽しいバンド・コンサート》シリーズの続編的意味合いがあったが、あれもこれも入れたいという欲張った考えを捨て、時流を着実に捉えて録音曲をアメリカのオリジナルだけに絞り、A面、B面に各1曲を収録するというシンプルなアイデアが斬新で潔かった!

「バンドジャーナル」誌(音楽之友社)の1970年5月号に掲載された当時の東亜音楽社の広告が最高に面白い。


全日本吹奏楽
コンクール自由曲の決定は今しばらくお待ち下さい。

レコードを助言者として、
今年のコンクールではすばらしい演奏を!

音楽祭のプレリュード
A FESTIVAL PRELUDE
アルフレッド・リード作曲

4月中旬発行 ── いましばらく、お待ち下さい。
コロムビア・レコードから同時発売されます。


なんとか“自由曲”に使ってもらいたいという、コピーから伝わる“必死さ”が実にいい!!

そして、レコードは、予定どおり5月新譜(4月発売)に!!

ところが、ここで思いがけない展開がこのレコードを待ち受けていた。

なんと『音楽祭のプレリュード』が《1970年度全日本吹奏楽コンクール 高校・大学・一般・職場の部 課題曲》として発表されたのだ!

既存出版曲から課題曲2曲が選ばれた年だった!

この結果、このEPは、アッという間に店頭から姿を消し、コロムビアは慌てて追加プレスの準備をしなければならない羽目に!

どれぐらい売れるか予想がつかないレコードが売れてしまった瞬間だった。

筆者の知人にも、『レコードが買えない!』とこぼしていた人が何人もいた。

楽譜出版の現場もたいへんなことになっていただろう。すでにアメリカ版で演奏していたバンドがあったとは言え、最低限、全国のコンクール出場団体の新規購入希望に添わないといけなかったのだから…。

コロムビアは、この成功で味をしめたためか、その後も、両出版社とタイアップした2曲入りのEPレコードを毎年1枚のペースでリリース。それらは、やがてLPに発展し、デジタル化されてCDとしてもリリースされるロングセラーとなった。

そして、これは、ソニーや東芝など、他社の同種のアルバムの先駆けとなった。

多分に“棚からぼた餅”的だが、間違いなく1970年代初頭を飾った大事件だった!

▲東亜音楽社広告(「バンドジャーナル」1970年5月号、音楽之友社)

▲EP – 楽しいバンド・コンサート(日本コロムビア、EES-400、1970年5月)

▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈2〉(日本コロムビア、EES-451、1971年3月)

▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈3〉(日本コロムビア、EES-473、1972年4月)

▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈4〉(日本コロムビア、EES-474、1973年4月)

▲EP – 楽しいバンド・コンサート〈5〉(日本コロムビア、EES-605、1974年3月)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第92話 かくて歴史は書き換わる!

▲CD – 英Specialist、SRC110(2007年)

▲SRC110、バックインレー

▲マイク・プアートン

2006年(平成18年)、筆者は、スペシャリスト(Specialist / SRC)というイギリスの新興レーべルがリリースを決めた、あるアルバムに夢中になっていた。

それは、《グスターヴ・ホルスト:ミリタリー・バンドのための全作品集 – オラフ王を称えて(Holst’s Complete Music for Military Band – The Parise of King Olaf)》(Specialist、SRC110、2007年)(2枚組)という、その時点において存在が確認されている、ホルストがウィンド・バンド(吹奏楽)のために書いた全作品を収録した世界初のアルバムだった。

プロデューサーは、マイク・プアートン(Mike Purton)。

マイクは、1973年、厳格で鳴る指揮者サー・ジョン・バルビローリ(Sir John Barbirolli)率いる“ハレ管弦楽団(Halle Orchestra)”に21才の若さで首席ホルン奏者として迎え入れられた逸材だ。彼は、1858年に創設され、マンチェスターに本拠を持つイギリスで最も歴史のあるこのオーケストラで演奏する傍ら、1978~1991年の間にロイヤル・ノーザン音楽カレッジのホルンの主任教授、1991~1997年の間はフィリップ・ジョーンズのもとでトリニティ音楽カレッジの管打楽器科長をつとめ、1987年からはべネンデン音楽学校の音楽監督も兼任するというすばらしいキャリアを持っていた。

レコード・プロデュースの夢もこの間に実現し、Virgin Classics、EMI, Naxos, ASV, BMGなどのクラシック・レーベルのためにCDをプロデュースした。

ミリタリー・バンドの録音に特化したスペシャリストの設立は、トリニティ時代にコールドストリーム・ガーズ・バンド(The Band of the Coldstream Guards)の音楽監督デヴィッド・マーシャル(Major David Marshall)と知己を得たことが契機になったという。

そのマイクとは、彼の名がイギリスのバンド誌に盛んに登場するようになった頃、1990年代の後半にやりとりが始まった。遠く離れた日本からのいきなりのコンタクトに、最初マイクは驚いた様子だったが、ロイヤル・エア・フォースやコールドストリーム・ガーズ、ブラック・ダイク・ミルズなどの日本公演に参画し、放送やCD制作にも関わっている筆者の立ち位置に逆に関心を持ってくれ、コールドストリーム・ガーズのマーシャルが共通の知人ということもあってかなり濃い情報のやりとりが始まった。

プロデュースの心得や録音現場でのアーティストとの対応、失われてしまったかも知れない楽譜へのアプローチの手法など、マイクから教えられたことも多い。

そのマイクがミリタリー・バンドのフィールドでプロデュースした最高傑作が、レイフ・アルネ・タンゲン・ペデルセン(Leif Arne Tangen Pedersen)指揮、ノルウェー王国海軍バンド(Kongelige Norske Marines Musikkorps)を起用したCD「オラフ王を称えて」だった。

演奏者のノルウェー海軍バンドは、少人数ながら比類なきスキルと音楽性をもつバンドとして知られる。彼らについては、2009年の拙稿《ヴァイキングの末裔、ノルウェー王国海軍バンド…定員は29名!! 世界最高峰のウィンド・アンサンブルを聴く愉しみ!!》でお話したとおりだ。

そして、2006年2月13~17日、ノルウェーのテンスベルィ審判教会で収録されたこのアルバムには、以下の曲が収録された。

・3つの民謡
Three Folk Tunes

・ミリタリー・バンドのための組曲第1番 変ホ長調 作品28-1
First Suite in E flat for Military Band, Op.28 No.1

・「ハマースミス」 – プレリュードとスケルツォ 作品52
Hammersmith – Prelude & Scherzo Op.52

・ミリタリー・バンドのための組曲第2番 へ長調 作品28-2
Second Suite in F for Military Band, Op.28 No.2

・ジーグ風フーガ(ヨハン・セバスティアン・バッハ/ホルスト編)
Fugue A La Gigue (Johan Sebastian Bach, arr. Holst)

・ムーアサイド組曲(作曲者自身によるミリタリー・バンド用バージョン – 未完)
A Moorside Suite – Unfinished transcription for Military Band

・オラフ王を称えて
The Praise of King Olaf – For Choir and Military Band

・マーチング・ソング(「2つの無言歌」から)
Marching Song

・ムーアサイド組曲(ゴードン・ジェイコブ編)
A Moorside Suite (arr. Gordon Jacob)

・祖国よ、我は汝に誓う(レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ編)
I Vow To Thee My Country (arr. Ralph Vaughan Williams)

・組曲『惑星』より”火星” (ジョージ・スミス編)
Mars from ‘The Planets’(arr. George Smith)

・組曲『惑星』より”木星” (ジョージ・スミス編)
Jupiter from ‘The Planets’(arr. George Smith)

プロデューサーのマイクからは、制作過程から意見を求められることも多く、そんなことを繰り返す内、自然な成り行きで、こちらの音楽的関心にもスイッチが入ってしまった!

その結果として、CDがリリースされた2007年、《樋口幸弘の「マイ・フェイヴァリッツ!!」オラフ王を称えて – グスターヴ・ホルスト:ミリタリー・バンドのための全作品集》全10篇を“吹奏楽マガジン バンドパワー”に寄稿。それが一段落した後、2008年と2009年の両年に“外伝”の形をとり、周辺事情に言及した5篇を新たに書き加えた。

この計15篇は、マイクがプロデュースしたCDだけでなく、ホルストの娘イモージェン(Imogen Holst)やアメリカのイーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)の創始者で指揮者のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)の著作、他のホルスト研究者の最新研究などを読み返し、いま日本にいてホルストのバンド作品に始めて接するとしたら、予備知識としてこれくらいは最低限知っておいた方がより作品についての理解が進みやすくなるだろうという事柄だけをピックアップしたもので、当時としては“ホルスト入門ガイド”程度にはまとめることができたのではないかと自負している。

フェネルの口から直接確認できた話も多かった。

ところが、寄稿から何年か過ぎたあるとき、筆者は、イギリスの中古レコード店から、およそ信じられないものを掘り当ててしまった。

それは、ジョージ・ミラー(Lt. George Miller、1877~1960)指揮、グレナディア・ガーズ・バンド(The Regimental Band of H.M. Grenadier Guards)が演奏した1枚のSPレコードだった。

A面が、「FIRST SUITE IN E FLAT – Part 1. – CHACONNE(Gustav Holst)」

B面が、「FIRST SUITE IN E FLAT – Part 2. – INTERMEZZO(Gustav Holst)」

(Speed 80.)と表示されているので、ターンテーブルの回転数が一般的なSPレコードの78回転ではなく、それより少し速い80回転のレコードだ。

そんなことはどうでもいい!

世界中に流布されている多くの書物やレコード会社Mercuryの広告、音楽メディア、あるいはフェネル自身の言質によって“世界初録音”とされているフェネル指揮のイーストマン・ウィンド・アンサンブルのLPレコード(米Mercury、MG 40015、モノラル録音、アルバム・タイトル:British Band Classic)より相当早い時期にリリースされたホルストの「組曲第1番」のレコード(英Columbia、3260、10インチ盤)を偶然掘り当ててしまったのだ。

しかし、見つけたのは、第1楽章の“シャコンヌ”と第2楽章の“インテルメッツォ”が表裏に入ったレコード1枚だけだった。当然、第3楽章の“マーチ”がどうなっているかが気になった。

そこで、SPレコードに詳しい知人に電話で問い合わせると、『とんでもないものを見つけたね。それは、ホルストの「組曲第1番」を2枚のレコードに分けて入れたもので、こちらのカタログでは、第3楽章が入った盤のレコード番号は、Columbia、3261となっている。3260と3261の2枚一組で売っていたものだよ。』と教えてくれた。

その後、郵送されてきたSP盤専門店のカタログのコピーを見ると、それには“アコースティック録音”だと書かれていた。

“アコースティック録音”とは、簡単に言うなら、ラッパのベルのような集音機に向かって全員で演奏して原盤をカッティングする方式の録音だ。当世はやりの“編集”などあり得ない、文字どおりの“一発勝負”の世界だ。“吹き込み”という日本語も、ここから生まれた。

調べると、英Columbiaが“アコースティック録音”をやめて、今日と同じくマイクを使う“電気録音”方式に移行したのは、1925年秋以降のことだった。

一方、ミラーがグレナディア・ガーズのバンドマスターに就任したのは、1921年だった。すると、この「組曲第1番」の“吹き込み”は、1921~1925年の間に行なわれたと特定できる!!

レーベルに印刷されているミラーの階級が、バンドマスターに就任した時の“中尉(Lieut.)”であることも、この録音時期と見事に符合する!(1942年まで在職したミラーの最終階級は“中佐(Lieutenant Colonel)”だった。中尉→ 大尉→ 少佐→中佐と昇進した訳だ。)

いずれにせよ、1955年のフェネルの録音より、30年以上も前に、ロンドンで「組曲第1番」の全曲の録音が行なわれていたことは、これで動かぬ事実となった。

その後、筆者は、幸いにも、ジョージ・H・ウィルコックス(Captain George H. Willcocks、1899~1962)指揮、アイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards)が演奏したホルストの「組曲第2番」第1楽章から第3楽章までが入ったSP盤(英Boosey & Hawkes、MT.2010、12インチ盤)も入手することができた。ウィルコックスがアイリッシュ・ガーズの音楽監督をつとめた時期は、1938~1948年だったことと、録音時の階級が“大尉(Captain)”(最終階級は“少佐(Major)”。大尉→少佐と昇進。)だったので、これもフェネルの録音時期よりかなり以前のものであることが明らかとなった。

とは言うものの、1955年録音のフェネルのLPレコードの音楽的価値が完全に色褪せたものになってしまうことは決してない。

ただ、今後、フェネルの録音について何らかのノートで触れられる人もいるかも知れない。

その際は、ぜひ、“LPレコードしては世界初録音”とされるか、あるいは“LPレコードしては”と注釈を入れられればと願う。

名曲ながら、本当の初演日すら特定されていないホルストの「組曲第1番」と「組曲第2番」。

今後も、さらに新たな事実が解き明かされる可能性がある!

マイクがプロデュースしたCD「オラフ王を称えて」は、圧倒的な評価を得ながらも、スペシャリスト(SRC)の解散で再プレスの可能性を閉ざされてしまった。

しかし、このアルバムによって、詳らかにされたこともとても多い!!

彼には、大きなブラボーを贈りたい!!

かくて歴史は書き換わる!!

▲SP – 英Columbia、3260(A面レーベル)

▲SP – 英Columbia、3260(B面レーベル)

▲SP – 英Boosey & Hawkes、MT.2010(A面レーベル)

▲SP – 英Boosey & Hawkes、MT.2010(B面レーベル)

▲▼「グレナディア・ガーズ、オーストラリア-ニュージーランド演奏旅行プログラム」から(1934-1935年)