「ウインド交友録」カテゴリーアーカイブ

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第107話 スパーク「宇宙の音楽」との出会い

▲Philip Sparke(1990年代前半)(本人提供)

▲DVD – Highlights from The European Brass Band Championships 2004(World of Brass、WOB 104 DVD、2004年)

▲同ブックレット、曲目

▲CD – Highlights from The European Brass Band Championships 2004(Doyen、DOYCD 176、2004年)

▲同、インレーカード

『ディアー・ユキヒロ。グッド・モーニング!

東京のホテルからだ。実は、ちょっと頼みたいことがあるんだ!』

イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)からメールが入ったのは、2004年(平成16年)6月1日(火)朝のことだった。

長い付き合いだが、フィリップのこういう“頼み方”はとても珍しい。

ある種の“予感”、あるいは“胸騒ぎ”のような気を感じた筆者は、“頼みたいこととは、いったい何だい?”とストレートに返す代わりに、『今日の仕事が上がるのは、何時頃になる?』と打ち返してみた。

すると、本当に驚いたように、『それは、“東京まで来る”っていう意味か!?!?』と30秒もしないうちにメールが返ってくる。

そこで、『ああ、そうだ!メシでも喰おうよ!』と返し、あらためて彼が完全にフリーになる時刻を確認し、待ち合わせの場所と時刻を確定する。

しかし、遠く離れた東京の餌場(エサ場)についてはまるで疎い。

フィリップとのやりとりの一方、いつも無理ばかり言って来日中の彼のアテンドをお願いしているユーフォニアム奏者の黒沢ひろみさんを何とか捕まえ、夕刻すぎにJR「東京」駅の近場で“肉”を喰える店を探して予約を入れてもらうことにした。

旨い“肉”さえあれば、フィリップはいつもゴキゲン。話も弾む。日本のビールも『軽くていい!』と言うので、彼のリクエストも確かめずにそう決めた。

「東京」駅近くを指定したのは、そのロケーションなら、食事をゆっくり愉しんでも、最終かその1本前の“のそみ”に乗れば、日付が変わらない内に大阪まで帰還可能だからだ。文字どおりの“弾丸ツアー”計画だった!!

しかし、気になるのはもちろん、フィリップの“相談事”の方だ!

バタバタと大阪でのその日の仕事の代役の段取りをつけ、前月フィリップが送ってくれた未出版の新作ブラスバンド曲のスコアだけをバッグに放り込んで、タクシーでJR「新大阪」駅へ急行。ホームに滑り込んできた午後2時頃の新幹線に飛び乗って上京した!

バッグに入れたスコアの曲名は、MUSIC OF THE SPHERES!

少し前の同年4~5月、スコットランドのグラスゴー(Glasgow)のロイヤル・コンサート・ホール(Royal Concert Hall)で行なわれた「第27回ヨーロピアン・ブラスバンド選手権(The 27th European Brass Band Championships)」で、他をぶっちぎって優勝を飾ったデヴィッド・キング(Professor David King)指揮、ヨークシャー・ビルディング・ソサエティ・バンド(Yorkshire Building Society Band / YBS)が、選手権本番で“オウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)”としてとりあげるため、フィリップに“委嘱”。その晴れの舞台で“世界初演”された新作だ。

インターネットの発展は、当時も日進月歩!

旧知のフランク・レントン(Lt.-Col. Frank Renton)がプレゼンターをつとめていたBBC放送ラジオ2の人気FM番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」も、英国内で開催されたこの年の“ヨーロピアン選手権”に密着し、直後にハイライトをネット上で公開。筆者も、BBCウェブキャスト指定のリアルプレイヤー(RealPlayer)を使って、この放送を聴くことができた。日本に居ながらにしてだ!!

番組中、放送されたフィリップの新作は、残念ながら、短い抜粋だけだったが、こちらにとっては、それだけで十分すぎるインパクトがあった!ラジオのフランクも興奮気味に喋っているし、YBSの演奏もケタ違いの凄さだった!

早速、フィリップに短文の“おめでとうメール”を送った。

すると、たまたま家にいたのか、すぐ『YBSは、すばらしかった!本当に感動したよ!よかったらスコアを送るけど、感想を聞かせてくれる?』と返信があった。

こういう言い方を彼がするときは、間違いなく自信作だ。

『もちろん!』と短かく返答して、その日は床についた。

翌朝、メールでスコアが届いていることを確認。全部で489小節、85頁ある。すぐプリントアウトし、リーディングのため、A4サイズの分厚いクリア・ファイルに1頁ずつ入れていく。

その作業が終わり、あらためてスコアをみると、それは、とんでもない作品だった。冒頭のテナーホーンのソロも、放送されなかった部分の神秘的な美しさも魅力たっぷりで、“のるかそるか”というクライマックスのスピード感もしびれるような展開をみせていた。

ナマで聴けばきっと大興奮だろうな。フランクが興奮する理由もよくわかる。

フィリップには、『すばらしい!ボクは、これまでキミが書いてきた全作品の中で、間違いなく最高傑作だと思う!!確信をもって!!』とメール。彼もとても喜んでくれた。

6月1日に、急に決まった東京ミーティングと食事会は、それから3週間もたっていない日の出来事だった。

それは、フィリップの“相談事”から始まったことだったが、このスコアを持参するのも当然のことのように思えた。直接聞きたいこともいっぱいあったし….。

夕刻、約束した品川プリンスホテルで再会したふたりは、互いの健康や現状を確認しあった後、ロビーのソファーに腰掛けて最大の懸案について話し合った。

しかし、開口一番、彼が口にした“相談事”は、驚くべきものだった。

『ユキヒロ。この前キミがとても高く評価してくれた“MUSIC OF THE SPHERES”なんだけど、もし、それをウィンドオーケストラのために新たにオーケストレーションを施して作り直すとしたら、果たして大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)は、演奏してくれるだろうか?』

とんでもない相談を受けてしまった!

『それって、これのこと?』と、持参したファイルを慌ててバッグから取り出すと、フィリップは『そうだ!』と言い、なぜ市音にこの作品を託したいかという理由を延々と述べ始める。

最も大きな理由は、Bbクラリネット各パートに4人の奏者を配すなど、ほとんどのパートが偶数のプレイヤーで構成されていた当時の市音の編成が、彼にとって“理想的”な編成であったことだ。逆に言うと、それだけこの新作が自信作であり、あらためてウィンドオーケストラのために書くなら、その初演は、作曲者がイメージする理想的な編成でやって欲しいという願望のようだった。わからないでもない。

過去にさかのぼると、筆者は、1990年代を通じて何度か彼を大阪に招いており、『シンフォニエッタ第2番(Sinfonietta No.2)』が日本初演された1994年(平成6年)6月2日(木)の「第68回大阪市音楽団定期演奏会」(於:ザ・シンフォニーホール)では、彼は実際に客席でナマのライヴを聴いていた。

その後も、市音は、『オリエント急行(Orient Express)』、『シンフォニエッタ第1番(Sinfonietta No.1)』、『ディヴァージョンズ(Diversions)』、交響曲第1番『大地・水・太陽・風(Symphony No.1“Earth、Water、Sun、Wind”)』、『エンジェルズ・ゲートの日の出(Sunrise at Angel’s Gate)』、『カレイドスコープ(Kaleidoscope)』と、定期だけでも6曲のフィリップの作品をとりあげ、内4曲は日本初演だった。また、彼の他の作品のCDレコーディングも行なわれるなど、両者の関係はひじょうに良好だった。

『もし、市音が演奏してくれるならば、この夏、少し時間が取れるので、秋ぐらいまでに新たなオーケストレーションを完成させることができる。どうだろうか?』

もう、設計図は頭の中にあるようだった。

続けて、『できれば、来年の作曲賞にもエントリーしてみたいんだ!』とも言う。

時系列にそって話を整理すると、現時点からならパート譜も含めた全ての楽譜を年内に市音に渡すことは物理的に可能。当時、市音は、春と秋、年2回の定期演奏会を行なっていたので、演奏機会さえ得られるならば、世界初演は、自動的に2005年春の第90回定期演奏会(於:ザ・シンフォニーホール)という流れとなる。

しかし、この時点では同定期の指揮者は決まっていなかった。また、スコアがまだ出来上がっていない曲を果たして市音がスケジュールに上げてくれるかどうかは判断がつかなかった。

そこで、フィリップには、そういうハードルがいくつかあることを話し、『どうなるかは分からないけど、とにかく一度話をしてみよう。』と約束した。

難しい話はここまで!

その後は、タクシーでさっさと餌場へと出発。“肉”をたらふく喰いながら大いに盛り上がった。

しかし、実際には、帰路の新幹線車中も、頭の中は彼の夢の提案のことでいっぱいだった!

一体なんてことを頼まれてしまったんだ!!

宇宙の音楽』ウィンドオーケストラ版世界初演への胎動は始まった!!

▲チラシ – 大阪市音楽団第68回定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第69回定期演奏会(1994年11月2日、フェスティバルホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第76回定期演奏会(1998年6月10日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第80回定期演奏会(2000年6月16日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第81回定期演奏会(2000年11月9日、フェスティバルホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第83回定期演奏会(2001年11月14日、フェスティバルホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第86回定期演奏会(2003年6月6日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第106話 「祝典行進曲」の初演

▲アサヒグラフ臨時増刊 皇太子御結婚記念画報(朝日新聞社、1959年4月16日発行)

▲アサヒグラフ 皇太子御結婚記念画報第二集(朝日新聞社、1959年4月26日発行)

▲「朝日新聞」社告(昭和34年3月21日(土)朝刊、12版、11頁)

『私は、四拍子のマーチはけっして認めませんが、これだけは別です。』

2019年(令和元年)6月14日(金)、東京、杉並公会堂大ホールで催された「タッド・ウインドシンフォニー第26回定期演奏会」に向け、千葉県松戸の“森のホール21リハーサル室1”で行なわれた前2日の練習の初日、アンコール曲にとりかかる前の指揮者、鈴木孝佳さんが演奏家に向け発した一言である。

曲は、團 伊玖磨(1924~2001)作曲の『祝典行進曲』。

2019年(平成31年)4月30日限りで天皇を退位された上皇陛下がまだ皇太子だった頃、1959年(昭和34年)4月のご成婚に際し、東芝レコードの委嘱で作曲され、宮内庁を通じて献上されたグランド・マーチだ。

タッド・ウインドシンフォニーとは、2006年以来のおつき合いだ。『祝典行進曲』の練習は、一度通しただけで終わったが、ザッ、ザッと大地を踏みしめるようではなく、まるで宮殿の絨毯の上を優雅に歩むようなテンポ設定と進行は、とても新鮮だった。

しかし、演奏を聴きながら、筆者は、あまりにも有名なこの曲について、曲が世に産ぶ声を上げたあたりのことを、これまでほとんどリサーチする機会がなかったことに気づいていた。

もちろん、この曲が、その後、同年の「全日本吹奏楽コンクール」高等学校の部の課題曲として使用され、同11月15日(日)、八幡市民会館(福岡県)で開かれた全国大会では、関東代表の大宮工業高等学校吹奏楽団(指揮:秋山紀夫)が優勝。5年後の1964年(昭和39年)10月に開かれた「東京オリンピック」の開会式の入場行進でも演奏されたことなど、誰でも知っている基礎データは一応頭の中にあった。しかし、作曲時の意図や、初演奏がどのようなシチュエーションで行なわれたかという詳細になると、間違いなくリサーチ不足だった。

そこで、“これは良くない!!”と、エンジン始動!!

スイッチが入った筆者は、帰阪すると早速リサーチを開始した!!

すると、幸いにも、ヒントになりそうなものがいくつか出てきた。

1つは、ご成婚を祝して、東芝レコードがリリースしたEPレコード「祝典行進曲 / 越天楽」(東芝レコード、EC 1001、1959年)のジャケットに書かれた作曲者のノート「祝典行進曲について」だった。

レコードの演奏者は、團 伊玖磨指揮、東京ブラス・オーケストラ!

言うまでもなく、自作自演で録音された『祝典行進曲』の世界初のレコードだ。録音時の写真も掲載。ノートも作曲者本人が書き、それには作品発表当時の作曲者の率直な気持ちが綴られていた。その音楽史的な意味たるや、他と比ぶべくもない。

あまりに貴重な文章なので、ここに引用しておきたい。

『皇太子殿下の御成婚の盛儀に際し、この行進曲をつくり上げるよろこびは、私にとって、大きく、深く、且つ真面目なものでありました。

行進曲は、古来健康なものである筈なのですが、我が国では、その歴史が常に軍隊と結び付いていたために戦闘的な主題に限られたものが多く、躍動的な明るい行進曲が甚だ少なかったようです。

平和な明るさを持ち、そして気品と格調の高い今の世の中の行進曲を作りたい。それは私の前々からの願いでした。戦争という暗い目的のための行進曲と異なるスタイルを創り上げることが出来たとすれば、それは“お祝い”という希望が創らせてくれたのだと考えます。(團 伊玖磨)』(原文ママ、東芝レコード、EC 1001、1959年)

初演前に書かれた文章だけに、当然それに関わるデータはない。

しかし、近くに並べてあったもう1枚のEPがそれをカバーしてくれた。

それは、《第23話 ギャルド、テイクワンの伝説》でもお話したフランスのギャルド・レピュブリケーヌ初来日時の1961年11月16日(木)、杉並公会堂(東京)で、東芝音楽工業のリクエストで録音されたEP「ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集」(Angel(東芝音楽工業)、YDA-5001、1962年)だった。

ジャケットにはこう書かれていた。

『昭和34年皇太子・美智子妃の御成婚を祝して、東芝レコードが團伊玖磨(現東芝レコード専属)に委嘱して作った優れた行進曲です。同年4月国立競技場に7万の聴衆を集めて初演され、~(後略)~』(原文ママ、執筆者不詳)

演奏者と日が未確認だが、これで“いつ”と“どこで”が大方明らかとなった。

ここまでくると、新聞や雑誌など、当時の紙媒体が頼りになる。そう直感した筆者は、図書館や古書店に狙いを定め、片っ端からページを捲っていった。

すると、まず、「朝日新聞」昭和34年3月21日(土)朝刊掲載の社告「皇太子さま御結婚 祝賀吹奏楽大行進 四月十日 全国六十七都市で」と、同4月9日(木)夕刊掲載の記事「あす 各地で吹奏楽大行進」が出てきた。

それらをまとめると、皇居で挙式が行なわれた4月10日(金)、東京では、式後、午後2時30分に皇居を出発して東宮仮御所に戻られる馬車列を追う形で“吹奏楽大行進”(主催:東京都、朝日新聞社、協賛:全日本吹奏楽連盟、東京芝浦電気株式会社)が行なわれ、その後、午後5時30分から明治神宮外苑、国立競技場で“お祝いの夕”(主催:朝日新聞社、共催:東京都、協賛:東京芝浦電気株式会社)が開かれることが告知されていた。

『祝典行進曲』の曲名は、残念ながらどこにも見当たらなかったが、社告にある国立競技場の“お祝いの夕”で“ご成婚奉祝行進曲合同演奏 参加全音楽隊”とあるのが、どうやらそれらしい。そして、この2年後に録音されたギャルド盤に、国立競技場での初演が明記されていたので、その前に行なわれた“吹奏楽大行進”ではこの曲が演奏されなかったことが、ここで確認できる。

ナイターで行なわれた光の祭典「皇太子さまご結婚お祝いの夕」については、翌日の「朝日新聞」昭和34年4月11日(土)朝刊7頁の記事「「おめでとう」の人文字 お祝い気分最高潮 国立競技場、昨夜六万人集る」が写真4枚入りで詳報している。

その記事の中に『第二部の演技では、まずこの日のために作曲された「祝典行進曲」を音楽隊が合同演奏し、スタンドの奉祝気分ももり上がる一方。…』とある。

ついに、曲名が出てきた!

他方、「アサヒグラフ」1959年4月26日号には、『マスゲーム「御成婚祝典行進曲」では、女生徒1300人が紅白の懐中電灯で舞踏』とキャプションがつけられた写真が掲載されていた。映像や音で確認できた訳ではないが、第二部冒頭の初演の後、祭典のクライマックス近くの東京女子短期大学の学生と藤村高校の生徒による音楽マスゲームでもあるいはこの曲が流れたのかも知れない。

作曲者の團さんは、その後、有名なエッセイ集の第22巻「降ってもパイプのけむり」(朝日新聞社、1994年)の“祝典行進曲”(1993年6月25日~7月9日に執筆)の中で、曲の立案者が東芝レコードの砂田 茂専務と團さんで、具体化には同社の芦原 貢プロデューサーも加わったこと。太平洋戦争中、陸軍(戸山学校)軍楽隊の鼓手を務めた経験から旧軍の行進曲の構造や慣用作法を熟知しており、その匂いを細部まで払拭することにつとめたこと。今度は馬車のパレードなので、優雅で気品のある音楽を書こうとしたこと。国立競技場で初演を行なったバンドが、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空音楽隊、警視庁音楽隊、東京消防庁音楽隊、皇宮警察本部音楽隊、アメリカ第五空軍音楽隊の合同演奏だったこと。御成婚の馬車パレードで演奏されなかったのは、従来の行進曲とは違う書法の曲だけに暗譜が難しいという理由からだったことなどを明らかにされている。

最後に残るポイントは、初演指揮者が誰だったかの特定だが、前記新聞のモノクロ写真の解像度を上げてみると、国立競技場のフィールド上に、結構な高さの指揮用の仮設スタンドがいくつか組まれ、その上に人が立っているので、大人数の合同演奏の指揮は、副指揮者をたてて手分けして行なわれたのかも知れない。

仮にそうだとすると、指揮者を一人だけ特定することは、もはや大きな意味を持たない。

かくて、團 伊玖磨の『祝典行進曲』は、当時の皇太子殿下の御成婚を祝して東芝レコードの委嘱で作曲され、1959年(昭和34年)4月10日(金)、東京・明治神宮外苑、旧国立競技場で行なわれた「皇太子さまご結婚お祝いの夕」で、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空音楽隊、警視庁音楽隊、東京消防庁音楽隊、皇宮警察本部音楽隊、アメリカ第五空軍音楽隊の合同演奏で初演された。

あー、スッキリした!

これでグッスリ眠ることができる!

▲EP – 「祝典行進曲 – 越天楽」(東芝レコード、EC 1001、1959年)

▲同、ジャケット裏

▲EC 1001 – A面レーベル

▲EC 1001 – B面レーベル

▲團 伊玖磨著「降ってもパイプのけむり」(朝日新聞社、1994年2月1日、第1刷)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第105話 オランダ海軍がやってきた

▲プログラム – 日蘭交流400周年記念演奏会(2000年4月22日、京都コンサートホール)

▲同、演奏曲目

▲オランダ王国海軍バンド(1999年頃)

▲「世界の艦船」2000年7月号(海人社)

『ユキヒロ~!!いいところにいた!』

オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)から、そういって声が掛かったのは、1996年12月、米イリノイ州シカゴ市内のホテル“シカゴ・ヒルトン&タワーズ”で開催された“第50回ミッドウェスト・インターナショナル・バンド&オーケストラ・クリニック(The 50th Annual Mid-West International Band & Clinic)”で、展示プースを冷やかしてまわっている時だった。

声がする方を振り向くと、そこには、ヨハンと並んで、誰が見てもそれとわかる海軍のユニフォームをピシッと決めた人物が、後方に副官を従えて立っていた。

『友人を紹介しよう!オランダ海軍の新しい指揮者、モーリス・ハマース(Maurice Hamers)だ!』と、ヨハンは言った。

オッと、少し驚いたふりをしながら、初対面の握手を交わす。

それにしても、若い!!

ハマースは、1962年11月9日、オランダ南部、リンブルフ州ファルケンブルフ・アーン・デ・ヘウル(Valkenburg aan de Geul)の生まれ。マーストリヒト音楽院にトランペット、及びウィンドオーケストラとファンファーレオルケストの指揮法を学んだ。

1989年、ケルクラーデの指揮者コンクールで、シルバー・バトン賞を授与され、作曲家、編曲家としても活躍。1995年12月、ヘルト・バイテンハイス(Gert Buitenhuis)の後を受け、オランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)の音楽監督、首席指揮者となった。

1945年創設の海軍バンドの第6代音楽監督である。

ただ、ハマースは、それまでの音楽監督とある点で立ち位置が異なっていた。

彼より以前の音楽監督が、全員、一度は海軍バンドの奏者としての演奏経験があったのに対し、ハマースが、海軍初、民間人指揮者からのいきなりの登用だったからだ。

そんな背景も手伝って、当時、彼の動向は世界的にたいへん注目を集めていた。もちろん、筆者もまた、この“時の人”といずれ連絡をとりたいと思っていた。

それだけに、偶然のこの出会いに筆者もやや興奮気味で、ヨハンを交えた3人は、しばし時を忘れるかように会話を愉しんだ。

ハマースといろいろ喋った中で、もっとも印象に残ったのは、日本への演奏旅行を計画しているという話だった。そして、彼は、筆者への表敬のしるしとして、副官に命じ、バッグから1枚のCDを取り出させた。

それは、オランダ海軍とロシア海軍の交流が始まって“300周年”にあたる1996年に制作された「Hommage A Saint Petersbourg(サンクト・ペテルブルクに捧ぐ)」(Naval、88134-2)というタイトルのバンドの自主制作盤だった。(ジャケットが違う別番号の市販盤もある / World Wind Music、500.019、1996年)

海軍の歴史を紐解くとわかるが、創設された当時のロシア海軍は、オランダ人の指導を受けていた。言い換えるなら、オランダ海軍は、ロシア海軍の先生という訳だ。

ハマースはまた、『我々海軍バンドは、この前サンクト・ペテルブルクに招かれ、“ピョートル大帝イヤー”のオープング・コンサートを行なった。』と誇らしげに言う。

なるほど、国どうしの何周年というようなオフィシャルな記念の年にはバンドが動きやすい訳か。よく分かった。ただ、オランダの歴史に疎い筆者は、それがどうして日本演奏旅行につながるのか、この時はまるで気づかなかった。

しかし、世界屈指と謳われるこのバンドがやってくるのは、もちろん大歓迎だ!

そこで、帰国後、大阪市音楽団首席指揮者で、オランダ海軍バンドのOBでもあるハインツ・フリーセン(Heinz Friesen、参照:《第104話 ハインツ・フリーセンの逝去》)に会って、この話を振ってみた。

すると、彼は意外なことを口にした。

『ハマースか…。彼は海軍バンドの中で少し浮いているんだ。ベテラン連中は、彼が“私が長だ ” と言って、我々の言うことをまるで聞いてくれないとこぼし、よく電話をかけてくるんだ。』

困り果てたようなその表情に、この先ハマースの計画がうまく運ぶのかどうか、少し懐疑的になってしまった。また、その後、音沙汰もなかったので、時の経過とともに、シカゴで聞いた話もまた、忘却の彼方へと遠ざかってしまった。

ところが、2000年の始め頃にかかってきた一本の電話から、話は俄かに現実化する!

それは、大阪市音楽団を1998年に定年退職し、当時、名誉指揮者だった木村吉宏さんからの電話だった。無論、自宅からの電話だ。

『あんたなぁ、この話、聞いとる(聞いているか)?』といきなり切り出されたので、“なんでしょう”と返すと、『オランダの海軍が日本でコンサートをやるんやけど、トランペットを一人貸せと、フリーセンを通じてマネージに言うてきとーんのや(マネージャーに言ってきてるんだ)。そのFAXをマネージが俺のところへまわして来よってな(来たんだよ)…。』

そうか、ついにやってくるのか!?

瞬間的にいろいろなことを思い出した筆者は、まずシカゴでの話をし、その後に、なぜトランペットが必要なのかを訊ねた。

すると、『それがなぁ、奏者が急病で来られへん(来日できない)ようになったらしいんや。しかし、俺も退職して現職ではない部外の身やし、今は“たっちゃん(龍城弘人さん)”が(団長を)やっとるやろ。フリーセンも今は首席指揮者じゃない。こっちで勝手に動かれへんし(動く訳にはいかないし)、どうしたらいいと思う?』と逆に訊かれる。

どうやら“音の数”が足りなくなるという音楽上の理由のようだった。いかにも、オランダ海軍らしい。しかも、一日だけでいいという話だったので、よっぽどのことなんだろう。そこで、『これは、正式に“日蘭親善”と“緊急事態”という理由をつけて音楽団に話を通されたらいいんじゃないでしょうか。ちゃんと判断してくれますよ。』と答えた。

その後しばらくして、2000年4月22日(土)、京都市、京都市音楽芸術振興財団、在大阪・神戸オランダ総領事館、京都府吹奏楽連盟、朝日新聞社が主催する「日蘭交流400周年記念演奏会」(京都コンサートホール 大ホール)には、市音トランペット奏者の村山広明さんが友情出演することになったと聞かされた。

京都が選ばれた理由は分からないが、これは、大分・臼杵沖の黒島にオランダ船が漂着し、ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)が上陸して、日本とオランダの交流が始まってから400年を記念する演奏会だった!

まったくの不見識で恥じ入るばかりだが、後日調べると、月刊誌「世界の艦船」の2000年5月号と7月号(海人社)に、長崎と臼杵を出航した4隻からなるオランダ艦隊が、4月21~22日に大阪港に親善入港するという記事が、また、「毎日新聞」(2000年4月22日、大阪版夕刊)には、大阪国際会議場で開かれた“日蘭交流400周年記念シンポジウム”の開会式(4月22日朝)のために、オランダ皇太子が来阪されていることを伝える記事が掲載されていた。

演奏会は、国と国とを結ぶ交歓プログラムの一部だったのだ!

オランダ側からみると、そんなオフィシャルなコンサートでおかしな演奏などできない。後日、村山さんに訊くと、指揮者のハマースが『もし費用が発生するなら、自分のポケットマネーから出すから…。』というほど、本気モードだったという。

後年、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんとこの演奏会について、二人で盛り上がったことがある。そのとき、溝邊さんはこう言われた。

『本当にすばらしい演奏でした!そう言えば、日本人がひとり(ステージに)いました。普通のステージ衣装の。しかし、9割方ほとんど埋まっている会場をくまなく見渡したんですが、私の知る限り、吹奏楽関係者は2、3人しかいませんでした。ほんま(本当)です。こんないいものをなぜ聴きにこないんですかね?』

同僚の村山さんが出るということで聴きにいった市音トランペット奏者の田中 弘さん(後に団長)も、演奏を賞賛していた一人だ。

オランダの管楽器奏者の間では、“ロッテルダム・フィルとオランダ海軍のオーディションに同時にパスしたら、どっちにいくか本当に迷う”とまで言われるぐらい、ステータスの高い海軍バンド!

たいへん驚いたことは、帰国直後、ハマースがバンドを辞し、ドイツのニュルンベルク・アウグスブルク音楽大学(Hochschule fur Musik Nurnberg-Augsburg)の指揮法と楽器法の教授になってしまったことだろうか。ゴーイング・マイ・ウェイとは、このことだ!

来日中、ただ一度だけホールで行なわれた古都・京都での海軍バンドの演奏会!

それは、ハマースにとっても、海軍在職中、最後のホール・コンサートとなった!

▲ CD – Hommage A Saint Petersbourg(Naval、88134-2、1996年)

▲88134-2 – インレーカード

▲CD – It’s so nice to meet The Brazz Brothers(Naval、4010、1996年)

▲4010 – インレーカード

▲CD – Zorg dat je erbij komt(Naval、1800、コンピレーション)

▲1800 – インレーカード

▲CD – Masters of Show(Naval、4030、1998年)

▲4030 – インレーカード

▲CD – Wait of the World(Naval、NAV3030、1999年)

▲NAV3030 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第104話 ハインツ・フリーセンの逝去

▲「いちょう並木」1995年8月号(大阪市教育振興公社)

▲CD – 「シンフォニエッタ~水都のスケッチ~」(Fontec、FOCD9204、2004年)

▲同 – インレーカード

2019年(令和元年)10月23日(水)、ヨーロッパから一通のメールが届いた。

差出人は、ハルムト・ヴァンデルヴェーン(Garmt van der Veen)。かつて、ヤン・デハーン(Jan de Haan)とともに、音楽出版社のデハスケを立ち上げ、現在もハル・レナード・ヨーロッパの役員をつとめる人物だ。

メールは、“今朝、指揮者ハインツ・フリーセンが、入院先のブレダ(Breda)の病院で息をひき取った”という悲しい知らせだった。

享年は85歳。

日本における指揮活動が、唯一、大阪だけだったため、彼の名は、他の地域に住まいする方には、あまりなじみがないかも知れない。

しかし、筆者にとって、彼の音楽との出会いはあまりにも衝撃的で、失ったものの大きさは、本当に計り知れない。学んだことも多かった。

彼とはじめて言葉を交わしたのは、《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》でお話した1993年6月のアムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)のレコーディングのときだった。

彼とはすぐに打ち解け、リハーサルやセッションを通じてすっかり意気投合!

帰国後、そのセッション映像を見た大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)団長(当時)の木村吉宏さんがほれ込んで、1995年からの3シーズン、市音首席指揮者として招聘。首席指揮者退任後も、2003年11月21日(金)の「第87回大阪市音楽団定期演奏会」(フェスティバルホール)の客演指揮者としてアンコール招聘された。(参照:《第69話 首席指揮者ハインツ・フリーセン》

その“第87回定期”で、作曲者を客席に招き、世界初演された委嘱新作が、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のシンフォニエッタ『水都のスケッチ(Suito Sketches)』だった。

履歴を紐解くと、フリーセンは、1934年7月16日、オランダ南部、リンブルフのブリュンスム(Brunssum)の生まれ。

デンハーフ(Den Haag)音楽院で、オーボエをヤープ・ストテイン(Jaap Stotijn)に、オーケストラ指揮法をロークス・ヴァンイーペレン(Rocus van Yperen)、ピート・ケッティング(Piet Ketting)、ヴィレム・ヴァンオッテルロー(Willem van Otterloo)に師事。

ブラバント管弦楽団(Brabants Orkest / 現在の南ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団 Philharmonie Zuidnederland)をへて、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(Rotterdams Philharmonisch Orkest)のソロ・オーボエ奏者となり、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(Koninklijk Concertgebouworkest)とも何度も競演した。古巣ブラバント管弦楽団や自ら立ち上げた室内楽団のコンセルト・ロッテルダム(Concerto Rotterdam)の指揮者としても活動。母校デンハーフ音楽院のオーボエの主任教授を20年間つとめた。ウィンド・ミュージックのフィールドでは、オランダ初の民間プロ・ウィンドオーケストラであるアムステルダム・ウィンド・オーケストラの創設者、音楽監督であり、コミュニティーのウィンド・オーケストラであるトルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn、参照:《第99話 トルン聖ミカエル吹奏楽団訪問記》)、オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz、参照:《第98話 アルプス交響曲とフリーセン》)などを率い、輝かしい成果を残している。

意外なところでは、1991年4月27日(土)、ロッテルダムで開催された「ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1991」のガラ・コンサートに出演したブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)を客演指揮したこともあった。

シンフォニー・オーケストラからウィンドオーケストラ、さらにはブラスバンドまで、プロとアマを分け隔てることなく、真正面から音楽と向き合ったフリーセン。

その彼が、自らのバンド・ミュージックの関わりについて語ってくれたことがある。

1995年(平成7年)7月4日(火)、大阪夏の風物詩、大阪城音楽堂で開かれる「たそがれコンサート」に向けての練習後、フリーセン御用達の近くの居酒屋「与作」でだった。

彼の夕食のメニューは、大阪で覚えたマグロの刺身とビールのみ!!

そのとき聞いた話によると、ブリュンスムの彼の実家の裏には、村のバンド(ファンファーレ・オルケスト)の練習場があり、小さい頃は、いつもその練習場の入り口に座ってマーチの練習を聴いていたそうだ。当然、音楽のレッスンもそのバンドに参加した8歳のときに始まり、最初に与えられた楽器はホルンだった。やがて、そのバンドがファンファーレ・オルケストからウィンドオーケストラに編成替えされることになると、つぎに受け持たされたのがクラリネット。しかし、あるとき、ラジオから聞こえてきたオーケストラのオーボエの音に魅せられ、11歳のときにオーボエに転向する。

ところが、オーボエを勉強するとなると、地元には先生がいなかったため、どうしてもデンハーフまで長い時間をかけてレッスンに通わねばならなかったという。

やがて、オランダ国民の義務として、徴兵を迎える。

短い履歴にはほとんど出てこないが、オーディションにパスしたフリーセンは、音楽院に学ぶ傍ら、1954年から1960年までの6年間、世界的に有名なあのオランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)に、第1オーボエ奏者として在籍。ブラバント管弦楽団のソロ・オーボエ奏者になったのは、兵役明けのことだ。

当時を振り返って、彼は、海軍にいたこの時期は、ものすごい勉強と練習ができたし、実地も体験できたとてもいい時だったという。

今もヨーロッパ最高水準と謳われる吹奏楽を肌身をもって体験したわけだ。

(余談ながら、オランダ王国は、冷戦終結後、召集を停止しているが、制度としての徴兵は今も廃止されていない。)

フリーセンは、、ウィンド・ミュージックへの顕著な業績により、オランダ女王から“シャブリエ級”文化勲章”を授けられた。

アメリカのフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)やアルフレッド・リード(Alfred Reed)も一目置く存在だった。

人と人とのつながりは、本当に不思議なものだ。ちょっとした縁と偶然の重なり合いが何かを生み出す原動力になったりする。

『水都のスケッチ』の世界初演をナマで聴いて感動したヤンは、帰国後、デハスケに働きかけ、すでに国内リリース(CD:「シンフォニエッタ~水都のスケッチ~」、Fontec、FOCD9204、2004年)が決まっていた当日のライヴからこの曲だけをピックアップし、オランダでCD付きスタディー・スコアとして発行されたことがあった。

そのプロジェクトを担ったのが、冒頭のメールを送ってくれたハルムトと筆者だった。

何もかも懐かしい。

フリーセンの訃報が伝わると、その日の内に、ロッテルダム・フィルをはじめ、彼と縁のあった多くの楽団や団体がホームページで大きくそれを伝えた。

ハルムトのメールを受け取ったその日は、ヤンや海外の友人たちと故人を偲んで想い出を語り合う一日となった。

▲スタディー・スコア – Sinfonietta~Suito Sketches(蘭de haske、2004年)

▲同附属CD

▲▼プログラム – 創立80周年記念 第87回大阪市音楽団定期演奏会(2003年11月23日、フェスティバルホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第103話 ブラック・ダイク弾丸ツアー2019

▲ニックから送られてきた広報資料ファイルのカバー

▲チラシ – SAYAKAホール開館記念25周年記念公演 – ブラック・ダイク・バンド(2019年10月27日、大阪狭山市)

▲同 – プログラム表紙

▲同 – 演奏曲目

2019年(令和元年)10月27日(日)、筆者は、快調に走る南海電鉄高野線急行の心地よい揺れに身を委ね、一路、5度目の来日を果たしたブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)のツアー初日のコンサートが行なわれる大阪狭山市文化会館SAYAKAホールを目指していた!

これは、《第72話 史上最低のコンサート鑑賞記》でお話した2016年のツアーにつづき、翌年の2017年ツアーでも見事にスルー(つまり2年連続スルー!! もう、笑うしかない)された関西では、実に“29年ぶり”となるブラック・ダイクのコンサートであり、1989年の「チャイルズ・ブラザーズ・ツアー」(参照:《第14話 チャイルズ・ブラザーズの衝撃》)以来のつきあいとなる音楽監督のニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs、親称:ニック)や、2013年に大阪でソロ・リサイタルを成功させたプリンシパル・コルネット奏者リチャード・マーシャル(Richard Marshall)に、『なぜ、いつも大阪は素通りになるんだ!』と顔を合わせるたびに苦情を申し立てていた筆者としては、行きがかり上、万難を排し、何としても顔を出さねばならないものだった。

とは言っても、もうすぐそこに山がせまる大阪府南部の大阪狭山市は、筆者が暮らす大阪市内からは意外と遠い。そんなロケーションから、ホールのサービスエリア外とみなされていたのか、筆者がよく訪れる大阪市内のいくつかの楽器店でも公演のチラシはついぞ見かけなかった。かつてニックやリチャードのリサイタルを開いた三木楽器でも、“来日それ自体”を知らなかったので、ひょっとすると、この日のコンサートを見逃してしまった大阪ピープルは、意外と多かったかも知れない。

それはさておき、日本の多目的ホールでブラスバンドのバランスのいい音を愉しむには、座席のポジショニングが結構重要なポイントとなる。幸い、会場となっていたSAYAKAホールの大ホールは、大阪市音楽団のレコーディング等で経験していたので、ホール音響の性格もよくわかっていた。そこで、チケットは、ネット購入ではなく、直接ホールに出向いて座席表を見ながら購入した。

都合、この日のコンサートのために、南海電車で二往復したことになる。

まあ、それほどにまでにこだわった上で、彼らのナマが聴きたかったわけだ!

こうして迎えた当日。ホールに到着すると、まず、よく外来バンドのコンサートでご一緒する全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんから声がかかった。ついで、その輪に加わったのは、ブリーズ・ブラス・バンド常任指揮者の上村和義さん夫妻で、それに、かつてリチャード・マーシャルとのジョイントを成功させた泉大津市吹奏楽団(大阪府)の団長、岩田雅之さん夫妻も加わるといった具合に、どんどん輪が拡がっていく。

これだから、ブラスバンドのコンサートは愉しい!

ホールに入ってからも、かつてブリーズが国内ツアーをしたときに2度もコンサートを設けていただいた長野県松本市のBritish Brass DOLCE(ブリティッシュ・ブラス・ドルチェ)代表の荒木信明さんや元ブリーズで今は大阪コンサートブラスでテナーホーンを吹く杉浦青也さん夫妻らが加わり、もうまるで同窓会のノリだ。

今日が何の日だったのか、忘れてしまいそうだ!

イギリスでは、“ブラスバンドをやっているものは皆ファミリーだ!”という言葉をよく聞く。日本にもそんな空気が生まれてきたのかも知れない。

プログラムにも、大阪ハーモニーブラス、インモータル・ブラス・エターナリー、大阪コンサートブラスのコンサートのチラシが挿まれ、DOLCEの荒木さんも、2020年3月に開かれる“30周年記念コンサート”のチラシを知人に渡している。

ホールの人には申し訳ないが、もう完全に社交場だ!

1990年にブリーズ・ブラス・バンドが関西で一人ぼっちで立ち上がった頃とは明らかに違う空気が流れていた!

さて、そんな盛り上がった空気の中、ステージに登場したブラック・ダイクは、やはりブラック・ダイクだった!

彼らは、前日の10月26日に来日したばかりで、いきなり母国では真夜中から早朝にかけての時間帯のマチネのコンサートはかなりキツいはずだ。旅の疲れも時差の影響もあっただろう。さすがに冒頭は、ホールの響きを確かめるようなノリで、珍しく少しアンバランスなところも散見されたが、そこはブラック・ダイク!すぐにホールの個性を捉えてブリリアントなサウンドが鳴り出し、プログラムの進行とともに、しり上がりのパフォーマンスとなっていく。

『すごい音ですねー!?』とは、ピーター・グレイアム(Peter Graham)の注目作、交響詩『ダイナスティ(Dynasty)』のフィナーレのコードが鳴り響いた後で、溝邊さんが思わずもらした一言だ!

また、プリンシパルのリチャードはもちろん、フリューゲルホーンのゾーイ・ロヴァット=クーパー(Zoe Lovatt-Cooper)、テナーホーンのシオバン・ベイツ(Siobhan Bates)、バリトンのカトリーヌ・マーゼラ(Katrina Marzella)、トロンボーンのブレット・ベーカー(Brett Baker)、ユーフォニアムのダニエル・トーマス(Daniel Thomas)、Ebバスのギャビン・セイナー(Gavin Saynor)という、ブラック・ダイクが誇る個性豊かなソロイストたちも聴衆を魅了した。

アンコール(この日は、グレイアムの『ゲールフォース』)の後、ホワイエでは、右から左にブレット・ベーカー、リチャード・マーシャル、シオバン・ベイツ、ギャビン・セイナー、ダニエル・トーマス、そして、指揮者のニックの順に並んで座り、サイン大会の開始!

もちろん列に並んで顔を見せると、リチャードもニックも、顔をくちゃくちゃにして喜んでくれた。

ニックが『いつ以来だ?』と言うので、『何年にもなるかな。』と曖昧に答えると、大袈裟なジェスチャーで“それはダメだ”という。

ところが、“2019年ツアー記念”のCDブックレットにサインを入れてもらったとき、いつものようにニックに『日付も!』とリクエストしたところで、事件発生!!

彼は、何を勘違いしたのか(たぶん時差の疲れだろう)、間違えて“10/26(26-10-2019)”と書いてしまい、アレ?そこにいたみんなで大笑いとなった!

『日本到着日のこの日付は、ある意味レアものかも知れませんね!』と、隣りにいた顔なじみのツアーコンダクターに言われて、“それもありか”と思って、あとの人に場を譲ったが、そのとき、“ツアーCD”の売り場に顔なじみのアリスン(Alison Childs。ニックの奥さんで、テナーホーン奏者)が立っているのを発見!

ブックレットを見せて、『ニックが日付を間違えたんだ。』と言うと、『まあ、なんてことでしょう。ラインを引いて消しましょうか?』と返してきたので、『いやいや、その上のスペースに“あなたのサイン”と“正しい今日の日付”を書いてくれれば、それでOK!』とリクエストして、笑顔で一件落着!!

この日につづき、ブラック・ダイクは、10/29(火) 札幌文化芸術劇場hitaru(19:00)、10/31(木) 東京芸術劇場コンサートホール(19:00)、11/1(金) 四日市市文化会館第1ホール(19:00)、11/2(土) すみだトリフォニーホール(15:00)の4公演。それに加えて、11/1の朝9時から、J-WAVE(81.3 FM)の“MUSICLICK!”にナマ出演もあるというから、口アングリの弾丸ツアーとはこのことだ!

日本人の体力なら、まず無理かな?

あっ、忘れていたゾ!

この日会った人の中に、“5公演をすべて聴く”という猛者がいたことを!!

(どうか“離婚案件”にまで発展しないことを心よりお祈り申し上げます…。)

イギリス発祥のラグビーではないが、彼らの凄さとチームワーク、そして音楽への献身をあらためて感じた一日だった!!

▲ CD – Tour of Japan 2019(自主制作、WOS 148)

▲同 – 演奏者リスト

▲同 – サイン用の頁

▲同 – インレーカード

▲チラシ – ブラック・ダイク・バンド札幌公演(2019年10月29日)

▲チラシ – ブラック・ダイク・バンド東京公演(2019年10月31日、11月2日)

▲チラシ – ブラック・ダイク・バンド四日市公演(2019年11月1日)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第102話 NHK – 二大ウィンドオーケストラの競演

▲プログラム – アルカイック・ブラスフェスティバル(1993年2月11-14日、アルカイックホール、兵庫県尼崎)

▲演奏曲目 – 尼崎市吹奏楽団(2/11)

▲演奏曲目 – 大阪市音楽団(2/12)

▲演奏曲目 – シエナウィンドオーケストラ(2/13)

▲演奏曲目 – 東京佼成ウィンドオーケストラ(2/14)

▲チラシ – アルカイック・ブラスフェスティバル(1993年2月11-14日)

1992年(平成4年)8月16日(日)、午後3時から6時30分までの3時間30分、NHK-FMは、「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」という特別番組をオンエアした!

番組ディレクターは、梶吉洋一郎さん。出演者は、筆者のほか、アナウンサーの坪郷佳英子さん、ゲストにサックス奏者のMALTAさんという顔ぶれだった。

この番組は、NHKが“久しぶり”に放送する吹奏楽番組だったためだろうか、はたまた、放送される曲のすべてがリクエストで構成され、唯一、事前アナウンスされたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』(NHKが収録した木村吉宏指揮、大阪市音楽団による日本初演ライヴ)以外、放送当日までどんな曲が流れるのかまるでわからないというワクワク感があったためだろうか。ナピゲートしたこちらが感じた以上に、お茶の間の音楽ファンに強いインパクトを残したようだ。(参照:《第58話 NHK 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》

そして、NHKには、放送終了後、全国各地の放送局やサービスセンターを通じて問い合わせが殺到した!

伝え聞くところによると、現代吹奏楽に対する基礎知識やマーチ以外のレコードやCDをライブラリーに持たないNHKの音楽制作スタッフは、少し気の毒に思えるほど、応対に右往左往した模様だ。まあ、放送で使用した“指輪物語”以外の音源ソースが、すべて“筆者の私物”だったから、ある程度仕方なかったかも知れないが…。

結果、音楽制作の部内で、まるで“念仏”か“合言葉”のように密かに囁かれ始めたのが、『梶吉の吹奏楽には気をつけろ!』だった!

“自分たちの勉強不足を棚に上げて、何言ってるんだ!”とは内心思ったが、NHKには“学閥”のようなものがあって、吹奏楽の作曲家や作品はまるで相手にされていなかったので、この騒ぎについては、“認識を新たにするきっかけになればいいので、まあいいか。”くらいに軽く受け流すことにした。

しかし、この放送で一気に認知されることになる“大阪市音楽団”の名もまるで知らなかった人たちだから、他は推して知るべしである。梶吉さんは、提案を上げる際、まず、市音の歴史から説明しないといけなかった。それでも、放送当日のオンエア寸前まで、NHKが東京ではなく大阪の楽団をとりあげることに対して、局内では異論や雑音が渦巻いていたが,,,,。

残念ながら、これは事実である。

ともかく、常々『吹奏楽の定時番組をなんとか復活させたい。』とアツく語っていた氏が、その具体的な第一歩として立ち上げた番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」は、局内の予想をくつがえす大成功を収めた。

そして、その半年後、氏と筆者が再びタッグを組んで送り出した吹奏楽特番第2弾(NHK-FM)が、1993年(平成5年)3月20日(土)、午前9時から11時50分の2時間50分にわたって放送された「二大ウィンドオーケストラの競演」だった。

この番組は、兵庫県尼崎市のアルカイックホールが“開館10周年記念”の一環で企画した「アルカイック・ブラスフェスティバル」(1993年2月11日~2月14日)が契機となって立案されたものだった。

フェスティバルは、つぎのような日程で組まれていた。

・2/11(祝)14:00開演 尼崎市吹奏楽団
(指揮:木村吉宏、辻井清幸)

・2/12(金)18:30開演 大阪市音楽団
(指揮:金 洪才)

・2/13(土)18:30開演 シエナウィンドオーケストラ
(指揮:福田一雄)

・2/14(日)14:00開演 東京佼成ウインドオーケストラ
(指揮:フレデリック・フェネル)

アルカイックホールをホームとする「尼崎市吹奏楽団」による“ウエルカムコンサート”に始まり、「東京佼成ウインドオーケストラ」の“フェアウェルコンサート”まで、同じホールで4日連続の吹奏楽のコンサートをやろうというアグレッシブな催しだ。

こんな試みは、前代未聞だ!

チラシには“日本初!吹奏楽夢のジョイント”というコピーが踊っていた。

また、同時開催で“楽器展”なども開かれ、ホール周辺では、9月開業予定の“都ホテル ニューアルカイック”や、11月開館予定の多目的ホール“アルカイックホール・オクト”の準備も進められているなど、いろいろな動きが多角的に行なわれていた。

実は、この催しには、いずれ施設が整う尼崎を中核とする大きなイベントを作りあげたいとする、ある将来構想への布石としての意味合いも込められていた。当時、尼崎には、シカゴのミッドウェスト・クリニックのようなイベントを自主開催するという構想があったのだ。

それはさておき、電話による恒例の情報交換で、筆者からこの連続コンサートの話を聞いた梶吉さんは、すぐ企画を立ち上げた。

タイトルは、なんとも刺激的な「二大ウィンドオーケストラの競演」!

4つのコンサートから、東西の両雄、2月12日の“市音”と2月14日の“東京佼成”を選んで収録し、一本の番組を作ろうというものだった。

先に演奏がある市音のプログラムは、以下のようなものだった。

・フェスティヴァル・ヴァリエーション
(クロード・T・スミス)

・アイヌ民話によるソプラノ、語り手と吹奏楽のための音楽物語
「ピカタカムイとオキクルミ」
 
(大栗 裕)

・アマゾニア(本邦初演)
(ヤン・ヴァンデルロースト)

・メキシコの祭り
(H・オーウェン・リード)

日米欧のオリジナル作品だけで構成される“市音”らしいプログラムだ!

もう一方の“東京佼成”のプログラムは、以下のようだった。

・ファンタジア ト長調(BWV 572)
(ヨハン・セバスティアン・バッハ / リチャード・フランコ・ゴールドマン、ロバート・リースト編)

・ワーグナーの“ポラッチ”の主題による変奏曲
(アルフレッド・リード)

・風変りな店
(ジュゼッペ・ロッシーニ、オットリーノ・レスピーギ / ダン・ゴットフリー編)

・交響曲第5番、作品47
(ドミトリー・ショスタコーヴィチ / 伊藤康英編)

こちらも、指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)と当時の佼成が好んでとりあげた定番プログラムだった。

結果的に、市音の『アマゾニア』と佼成の『交響曲第5番』第4楽章で勢い余ったアクシデントがあったものの、収録が入ったことで、両本番は白熱のライヴとなった。

何よりも、同じポイントから同じスタッフによって録られた両楽団のガチンコ勝負、そしてキャラクターの違いは、両者が組んだ本格的なプログラムとともに、リスナーを魅了した。

番組は、市音団長の木村さんとフェネルのインタビューをまじえて構成。

クロージングにフェネルがアンコールでとりあげた

・主よ、人の望みの喜びよ(BWV.147)
(ヨハン・セバスティアン・バッハ / アルフレッド・リード編)

を組み入れて放送された。

プロ同士のガチンコは、さすがに聴きごたえ満点!

やっぱりライブはいい!

番組は、東京と大阪をホームに活躍する2つのプロ楽団の本格交流が始まる1つのきっかけとなった。

また、東京佼成と市音を表して“東西の二大ウィンドオーケストラ”とするコピーも、この時に生まれた。

グッジョブ(Good Job)だ!梶吉さん!

▲大阪市音楽団(1993年2月12日)(許諾により「バンドピープル」1993年4月号(八重洲出版)から転載)

▲東京佼成WO(1993年2月14日)(同)

▲▼番組作成シート – 二大ウィンドオーケストラの競演

▲讀賣新聞、平成5年3月20日(土)、朝刊、25面

▲「バンドピープル」1993年4月号(八重洲出版)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第101話 グレナディア・ガーズがやってきた

▲チラシ – 英国近衛軍楽隊コンサート(2019年10月9日、阪急うめだホール、大阪)

▲ チラシ – 裏

▲プログラム表紙 – The Band of Grenadier Guards Japan Tour 2019

▲同、演奏曲目

『えーッ??“グレナディア”、来るんですか??全然知りませんでした!』

2019年(令和元年)10月3日(木)、全日本学生吹奏楽連盟理事長、溝邊典紀さんに、大阪・梅田の阪急うめだホール(阪急百貨店9階)で10月9日に開かれるイギリスのグレナディア・ガーズ・バンド(The Regimental Band of the Grenadier Guards)のコンサートをどうされるのか、電話でおたずねした時、ものすごい勢いで返ってきた驚きの声だ。

招聘元は、東京のベルカントジャパン。だが、何といっても、コンサートの主催者が、阪急うめだ本店であることが、大阪ネイティブにとっては、一際目を引く大事件として映る。チラシにも、高級感のある“Hankyu”のロゴが光っている!

グレナディア・ガーズ・バンドの創立は、1685年。「グレナディア・ガーズ」「コールドストリーム・ガーズ」「スコッツ・ガーズ」「ウェルシュ・ガーズ」「アイリッシュ・ガーズ」と、現在5隊ある“近衛歩兵連隊”の名を冠した5つのバンドの1つとして、バッキンガム宮殿やウィンザー城の衛兵交代など、王室関連の演奏を他のガーズ・バンドとともに担う。また、ミリタリー・バンドとして、イギリスで最も長い歴史を誇っている。(参照:《第13話 英国女王陛下の音楽大使》)

当然、レコードや放送でも大活躍。《第92話 かくて歴史は書き換わる!》でお話した、グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)の『組曲第1番(First Suite in E flat for Military Band, Op.28 No.1)』を、世界でいち早く1920年代の前半、英Columbiaにジョージ・ミラー(Lt.-Col. George Miller、在任:1921~1942)の指揮で全曲録音したバンドだ。

エリザベス女王の戴冠式が行なわれた1953年の奉祝記念盤「Marches of the British Fighting Forces」(英Decca、LK 4058、モノラル)以降は、老舗メジャー・レーベル、英Decca専属のドル箱アーティストとして活躍。フレデリック・J・ハリス(Lt.-Col. Frederick J. Harris、在任:1942~1960)、ロドニー・B・バシュフォード(Lt.-Col. Rodney B. Bashford、在任:1960~1970)、ピーター・W・パークス(Major Peter W. Parkes、在任:1970~1976)の3代の音楽監督の指揮で録音されたレコードは、日本でもDeccaと契約関係にあったキング(Londonレーベル)やユニバーサル(同)からレコードやCDとしてリリースされたから、国内にも相当数のファンをもつ。

また、1990年(平成2年)、大阪・鶴見緑地で開催された「国際花と緑の博覧会 EXPO’90」(期間:4月1日~9月30日)でも、9月25日(火)の“英国ナショナルデー”のために、演奏旅行中のタイから、バンドのほぼ半数を分派して初来日。ナショナルデーのセレモニーや当時このバンドが売り物にしていた“18世紀バンド”(18世紀当時のユニフォームと曲目で人気を博した)の演奏で会場を大いに沸かせた。

グレナディア・ガーズの“日本ツアー2019”の主なスケジュールは、つぎのように組まれた。

・10/9(水)阪急うめだホール(大阪)

・10/10(木) 金沢歌劇座(石川)

・10/12(土) 武蔵野市民文化会館(東京)
(※台風19号のため、公演中止)

・10/13(日) 北上市文化交流センターさくらホール(岩手)

・10/14(月・祝) 神奈川県立音楽堂

・10/15(火) 昭和女子大学人見記念講堂(非公開)(東京)

・10/17(木) 英国大使館(非公開)(東京)

・10/19(土) 皇居前広場(奉祝パレード)(東京)
(※当日朝に中止決定)

上記以外にも、公演地によっては、パレードも組まれていたが、それはともかく、2019年のツアーは大阪が起点であり、これはなかなかない千載一遇のチャンスだと思えた。なぜなら、ガーズのコンサートでは、聴衆の反応や地元のニーズを見極めながら、演目が変更されることが多いからだ。しかしながら、初日だけは用意したプロどおりに演奏されるはずで、それを聴けば、このバンドがこのツアーにどれだけの準備をしてきたかがよくわかる。また、密かな愉しみである即販グッズもひととおり全部が並ぶ!

(今回も、グレナディア・ガーズの連隊バッジが刺繍されているポロシャツやガーズ・ネクタイ、装身具、各種ステッカー、絵葉書、書籍、CDなど、盛りだくさん。片っ端から買えば、間違いなく破産の憂き目をみるほどだった!)

そこで、海外バンドのコンサートをご一緒する機会が多い溝邊さんに電話を入れたわけだが、当日は、たいへん珍しい午前11時の開演だったため、あいにく氏は同じ時間帯に先約があり、コンサートにはひとりで出向くことになった。

それにしても、事情通の溝邊さんが地元で開かれるこのコンサートのことをまったくご存知なかったのは、たいへんなレアケースだ!!恐らくは広報不足だろうが、電話では『なんで(なぜ)、そんな時間に…。』とたいへん残念がられていた。

ホールに入り、早速ツアー・プログラム(500円なり!)を購入し、中を開くと、プログラムには、ヤン・ヴァンデルローストの『横浜音祭りファンファーレ』や広瀬勇人の『キャプテン・マルコ』、今井光也の『オリンピック東京大会ファンファーレ』、古関裕而の『オリンピック・マーチ』など、日本を意識した曲名が並ぶ。同行するスコッツ・ガーズとグルカのバグパイプ鼓隊のメンバーを交えた『アメージング・グレース』や『ハイランド・カテドラル』、クィーンのヒット曲『ボヘミアン・ラプソディー』やミュージカル『キャッツ』から“メモリー”、エルガーの行進曲『威風堂々』第1番など、イギリスを感じさせる曲も多い。

日英交歓と誰でも愉しめるエンターテイメント性をミックスさせたプログラムだ!

実際、平日の午前スタートのこのコンサートの聴衆の大半は、百貨店に買い物ついでに誘い合わせて来られたようなご婦人衆が多かったから、肩肘張らずに愉しめるこのプログラムは、この日の聴衆にはぴったりマッチしていたようだ。

やがてステージの明かりが上がり、メンバーが入ってきた。そのとき、あることに気がついた。おなじみの赤いユニフォームの腕に伍長や軍曹の階級章をつけたプレイヤーがかなり多いのだ。ラフに数えても、全体の3/4以上がそのようだった。これはかなり期待できるゾ!

ほとんどベテラン奏者で構成されるバンドであることを示していたからだ。

プログラムが始まると、筆者の予想は的中。この日のホールがそんなに大きな空間をもたないのにもかかわらず、バンドの音が混じりあって美しくソフトに響く。個々のスキルも高い。指揮者は2人制だったが、音楽監督のマイクル・スミス(Major Michael Smith)が指揮をとった『キャプテン・マルコ』がとくに絶品だった!

その一方、公演チラシのオモテ・ウラの両面に、グレナディア・ガーズではない別のバンド(グレナディアとは“永遠のライバル関係”にあるコールドストリーム・ガーズ・バンド)のステージ写真が使われていたり、ツアー・プログラムの曲目解説中、古関裕而の『オリンピック・マーチ』の解説文の中身が全篇“リバーダンス”になっていたり、いったい何と表現したらいいのか分からないほど、パワー全快で“つっこみたい”気分になった。まるで拙速の見本のようなもので、本当に、もう少し注意深く作れないものだろうかと願う。

なによりも、グレナディア・ガーズに対する礼を失している!

しかし、しかしである。そんな残念なこともあったが、この日聴いたグレナディア・ガーズのパフォーマンスには、かなりの満腹感を覚えた。

そして、プログラム終了時、司会者から驚くべき案内が告知された。

なんと、この後、百貨店内の同じフロアにある祝祭広場(階段状に石造りの座席が組まれている)で30分プロの演奏(無償)が何度か行なわれるというのだ。しかも、マーチングもあると!

オッと、これは大ニュースだ!溝邊さんに、すぐにでもお知らせせねば!

この予想外の“緊急事態”に、急いで家までとって返し、奈良の溝邊さんに電話を入れて、これからまだ午後5時からと7時からの2回、30分プロがあることを伝える。

すると、ちょうど大阪から帰宅されたばかりだった氏は、『えッ?それは、聴きにいかんと(行かないと)!』と、ふたたび大阪に向かうことを即断された!

ロケーションが近い筆者は、朝のコンサートとは完全に別プロの午後5時と7時の両回(それぞれの曲目も違った)を堪能し、急遽奈良から来られた溝邊さんも、7時からの演奏には間に合った。

この祝祭広場でのパフォーマンスは、ドラム・メイジャーの号令一下、グレナディア・ガーズの制式速歩行進曲『ブリティッシュ・グレナディアーズ(British Grenadiers)』で下手サイドから入場。広場でコンサート隊形にフォーメーションを変え、立奏のままポップな曲を何曲か演奏した後、再びマーチング・フォーメーションに戻って『ブリティッシュ・グレナディアーズ』で下手へと捌けていくというスタイルのパフォーマンス。

おなじみの熊皮(ベアスキン)の帽子を被った姿で入場してくる彼らに向けられるもの凄い数のスマホと万雷の拍手!

みんな笑顔だ!

『ええ音(いい音)してますなー!』

溝邊さんが思わず口にされたこの言葉が、そのすべてを物語っていた!

▲英国ナショナルデーのファンファーレ隊(1990年9月25日、国際花と緑の博覧会、大阪)

▲グレナディア・ガーズ18世紀バンド(同)

▲ファンファーレ隊と18世紀バンドの合同パフォーマンス(同)

▲グレナディア・ガーズ(2019年10月9日、阪急うめだ本店9階祝祭広場、溝邊典紀氏提供)

▲音楽監督マイクル・スミス少佐(2019年10月9日、阪急うめだ本店9階祝祭広場、溝邊典紀氏提供)

▲LP(30センチ) – Marches of the British Fighting Forces(英Decca、LK 4058、モノラル、1953年)

▲LK 4058 – A面レーベル

▲LK 4058 – B面レーベル

▲LP(25センチ) – Finlandia – Overtura di Ballo(英Decca、LW 5117、モノラル、1954年)

▲LW 5117 – A面レーベル

▲LW 5117 – B面レーベル

▲当日中止が決まった奉祝パレードの告知

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第100話 第1回国際作曲コンクール

▲プログラム – 1e Internationale Compositiewedstrijd voor harmonie orkest 1995(1995年11月30日、Rodahal、Kerkrade)

▲チケット

▲ケルクラーデの観光パンフレット(ロダハルの写真が表紙左上に掲載)

『おはようさん。朝から、おとといのコンサート(の録音)を流しで聴いてたんやけど。じっくり聴いたら、ベルギーのバンド、あれなぁ、むちゃくちゃうまいで!』

1995年12月2日(土)、滞在先のオランダ・ケルクラーデのホテルで、少し遅めの朝食のためにレストランに現れた大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)団長兼常任指揮者(当時)の木村吉宏さんの朝の一言(!?)だ。

“おとといのコンサート”とは、2日前の11月30日(木)、ケルクラーデ市内のコンサート・ホール、ロダハル(Rodahal)で行なわれた「第1回国際ウィンドオーケストラ作曲コンクール(1e Internationale Compositiewedstrijd voor harmonie orkest 1995)」の“決勝コンサート(Finale Concert)”のことだ。

我々は、そのコンサートを、オランダ人指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)夫妻の誘いで聴きに行った。(参照:《第98話:アルプス交響曲とフリーセン》

そして、それはまた、4年に1度の間隔でケルクラーデで開催される“世界音楽コンクール(Wereld Muziek Concours / WMC)”の最上位クラスである“コンサート部門”に出場するバンドに課される“セット・テストピース(指定課題)”の選考も兼ねた国際作曲コンクールでもあった。

コンクールで“一等賞(1e Prijs)”に選ばれた曲が、自動的に2年後の1997年7月に開催される「第13回世界音楽コンクール」の“指定課題”となるわけだ。

また、“ベルギーのバンド”とは、ベルギー国王のプライベートな吹奏楽団として知られ、当時、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)が楽長(シェフ・ド・ミュジーク)をつとめていた“ロワイヤル・デ・ギィデ(La Musique Royale des Guides)”だった。

《第55話:ノルベール・ノジとの出会い》でもお話したベルギーの至宝だ!

しかし、木村さんにとっては、それは初めて名前を耳にするバンドだった。そこで、その沿革や音楽的ステータスを簡単に説明する。

『へぇー、そうか。ヨーロッパって、ギャルドやカラビニエーリだけやないんやなぁ。知らんかった。』とは、そのときの木村さんの率直な反応だった。

ロダハルにいたときはまったく気づかなかったが、木村さんは、そのコンサートの一部をポータブル・レコーダーに録音していて、朝からもう一度聴き直していたようだ。それが冒頭の言葉につながった。

コンクールには、最終的に43の作品がエリトリーされた。そして、当夜、スコア審査を経て最終選考に残ったつぎの5作品が演奏された。

  • Steps to the Heaven(Michael Short)- イギリス
  • Rapsodie Espagnole(Andre Waignein)- ベルギー
  • Symphony for Winds and Percussion(Ladislav Kubik)- アメリカ
  • Triptique(Luctor Ponce)- スイス
  • Diptic Sinfonic(Francisco Zacares Fort)- スペイン

いずれも20分近い作品で、難易度も相当高い。超満員の会場では、1曲が終わるたびに口々に感想が交わされる。それは、そうだろう。今、目の前で初めて演奏される曲が、ひょっとすると2年後に自分たちも演奏することになるかも知れないのだから!!

審査には、以下の著名な作曲家と指揮者があたった。

・ピエール・キュエイペルス(Pierre Kuijpers)- オランダ

・ジャン・クラーセンス(Jean Claessens)- オランダ

・アマンド・ブランケル・ポンソダ(Amando Blanquer Ponsoda)- スペイン

・トレヴァー・フォード(Trevor Ford)- ノルウェー

・ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)- ベルギー

・ドナルド・ハンスバーガー(Donald Hunsberger)- アメリカ

・アルフレッド・リード(Alfred Reed)- アメリカ

・エヴジェヌ・ザーメチュニーク(Evzen Zamecnik)- チェコ

当夜知ったこの顔ぶれには正直驚いた。審査員に、知人、友人が結構いたからだ。

その内のひとり、演奏を担ったロワイヤル・デ・ギィデの指揮者のノジは、5曲の演奏が終わると、ステージを降りて最終審査に合流。代わってステージに上がった副指揮者フランソワ・デリデル(Francois De Ridder)が、審査の合間を利用して、ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)の『アルルの女(L’Arlestenne)』第2組曲(全曲)、そして、全員が制帽を被っていつもコンサートのしめくくりに演奏するジャン=ヴァレンタン・ベンダー(Jean-Valentine Bender)の制式マーチ『第1ギィデ連隊行進曲(Marche du Premier Regiment de Guides )』の2曲を演奏した。

場内のそれまでの張り詰めたムードは、一転してくつろいだムードに!゛

主催者のプランとしては、そのマーチが終わったところで華やかに“審査発表”といきたかった筈だが、審査が難航しているのか、ここからの待ち時間がかなり長かった。しかし、もう夜の11時近くなろうというのに誰一人として席を立たない。当然、場内には、自然発生的にかなりのざわめきとイライラムードが湧いてきた。騒然とした雰囲気だ。

そこで、“ロワイヤル・デ・ギィデ”は、プログラムには印刷されていないとっておきの1曲、ピエール・レーマンス(Pierre Leemans)の『ベルギー落下傘部隊マーチ(Marche des Parachutistes Belges)』を演奏!!

あらかじめ、こういうことも想定して楽譜を準備していたのかも知れないが、この思わぬ1曲のプレゼントに、場内は大いに沸いた!

筆者も、初めて聴くベルギー正調の『ベルギー落下傘部隊マーチ』に大感動!!

ゆったりとしたテンポで演奏されたそのマーチは、優雅にしてシンフォニック!

本場ものの演奏は、日本やアメリカで聴くものとまるで音楽が違った。

そして、その演奏が終わったところで、ついに審査発表!

結果は、フランシスコ・ザカレス・フォートの『ディブティック・シンフォニック』が第1位に選ばれ、賞金10,000ドル。ラディスラフ・クビックの『管楽器と打楽器のための交響曲』が第2位で賞金6,000ドル。ルクトール・ポンセの『トリプティック』が第3位で3,000ドルとアナウンスされ、作曲者がつぎつぎステージに上がる。

当然、場内は、賞賛の拍手に包まれたが、筆者の頭の中では、作曲コンクールの結果より、先ほど聴いた『ベルギー落下傘部隊マーチ』のメロディーが繰り返し、繰り返しリフレインする。

時代を超えて受け継がれる曲には、間違いなく人を惹きつける何かがある。

“ロワイヤル・デ・ギィデ”を聴くのはこの日が初めてではなかったが、彼らが演奏するほんものの『ベルギー落下傘部隊マーチ』をナマで聴くのはこれが初めてだった!

“あぁ、これだ、これだ!!”

当夜聴いたどんな優秀作より、ギィデの感性とサウンドに感動する自分がいた!

▲ロワイヤル・デ・ギィデのプログラム表紙(1987年4月6日、Verviers、Belgium)

▲ロワイヤル・デ・ギィデ吹奏楽団(1987年)

▲CD – Belgian Military Marches – Volume 1(ベルギーRene Gailly、CD87 041、1987年)

▲CD87 041 – インレーカード

▲CD – Piotr I. Tchaikovsky(ベルギーRene Gailly、CD87 048、1990年)

▲CD87 048 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第99話 トルン聖ミカエル吹奏楽団訪問記

▲レターヘッド – Harmonie St. Michael van Thorn

▲CD – Highlights WMC 1993(蘭Mirasound、399154~399155、1993年)

▲399154~399155 – インレーカード

▲WMC 1993 プログラムから(7月25日、Rodahal, Kerkrade)

『今から行くところは、車をつける場所を間違えると、“何しに来た”と睨まれて、ちょっと面倒なことになるかも知れません。』(笑)

1995年12月3日(日)の朝、指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)の奥さん、マリアーンさんは、車を運転しながら、冗談っぽくこう切り出した。

この日、我々が向かっていたのは、オランダ南部、リンブルフ(Limburg)州の村トルン(Thorn)。オランダの吹奏楽に関心がある者にとっては、一度は訪れてみたい場所だ。

同行者は、マリアーンさんと筆者のほか、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)団長の木村吉宏夫妻、同マネージャーの小梶善一さん。

市音の首席指揮者(当時)をつとめていたフリーセンが、“オランダ・オープン選手権コンサート部門(Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling)”で、「オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz)」を指揮してリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』(全曲)を演奏するという話を聞き、勇み足でオランダに飛んだ面々だった。(参照:《第98話:アルプス交響曲とフリーセン》

この日は、その“オランダ・オープン”の2日目。フリーセンが指揮する「ボホルツ・フィルハーモニー」の出番は、夜の20時30分で、彼はその準備に余念がなかった。そこで、かねてからトルン行きを熱望していた我々のために、代わってマリアーンさんが道案内を買って出てくれたのだった。

我々がめざした“トルン”は、ベルギーと国境線を接する小さなコミュニティ。2007年1月1日、へール(Heer)、マースブラハト(Maasbracht)と統合されてマースハウ市(Maasgouw)の一部となるまでは、独立した自治体だった。小さなエリアだが、かつては“公国”で、中心部の家々の外壁が白く塗られていることから“白い町”とも呼ばれる。また、“トルン大聖堂教会”とも呼ばれるローマカトリック教区教会の“聖ミカエル教会(De Sint-Michaelskerk)”も有名な存在で、同地を訪れる観光客も多い。音楽関係者には、有名な楽器メーカー、アダムス(Adams)の所在地と言った方が分かりやすいかも知れない。

そのトルンが近づいてきたところで、マリアーンさんが放ったのが冒頭の言葉である。

マリアーンさんの説明によると、当時、トルンの人口はおよそ5000人!

そんなコミュニティに、オランダを代表する100名クラスのコミュニティー・ウィンドオーケストラが2つも存在する!!

一方が、1971~1975年と1983~2015年の間、フリーセンが音楽監督をつとめた「トルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn / Harmonie St. Michael van Thorn)」であり、もう一方が「オランダ王国トルン吹奏楽団(Koninlijke Harmony van Thorn)」だった。

前者が“聖ミカエル(St. Michael)”を、後者が“オランダ王国の(Koninlijke)”を冠(かんむり)とする吹奏楽団である。

遠く離れた日本からは、そんなトルンの事情など窺い知ることはできないが、マリアーンさんの話によると、トルンには、200年くらい前から村を二分する勢力争いがあり、彼らは今も別々の教会の信徒として互いに結婚することもないほどの関係にあるとか。その結果、当然バンドも2つ存在し、両者はシリアスなライバル関係にあるのだという。

マリアーンさんの話はつづく。

『ある年、両者がケルクラーデ(Kerklade)で行なわれた同じ日のコンクールに揃って出場したことがありました。一方の演奏が終わったとき、誰もが“優勝者はこのバンドに決まった”と思ったそうです。しかし、その後ステージに上ったもう一方がそれを上回るパフォーマンスで逆転してしまったのです。結果は、後者が“優勝者”となり、前者が“第2位”に。直後、トルンの村は、お祭り騒ぎになるどころか、約半年もの間、一触即発のたいへん険悪なムードに包まれることになりました。』

このとき優勝したのが、今から訪れようとしている「トルン聖ミカエル」であり、優勝指揮者はもちろんハインツ・フリーセン!!

優勝を逃した側の「オランダ王国トルン」からみると、フリーセンは彼らの偉業を阻んだ憎っくき“仇(かたき)”の総大将だ。奥方のマリアーンさんの面も割れている。

もちろん、マリアーンさんが行き先を間違えるなど、ある訳ないが、冒頭の『車をつける場所を間違えると…。』という言葉の意味が、ここではじめて明らかとなった。

まるで、“ロメオとジュリエット”に出てくる話のようだ。

帰国してから記録を調べると、この話にあてはまるのは、1993年7月25日(日)に行なわれた“世界音楽コンクール(Wereld Muziek Concours)”のコンサート部門決勝のようだった。

日本でも少し知られるようになった、1つのバンドに許されるステージ上の持ち時間が出入りを含めて1時間半という同コンクールの最上位グレードの選手権で、指定課題が、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の『交響曲第4番(4th Symphony)』だった年だ。

我々は、それからわずか2年後、その大事件がまだ人々の記憶に新しい時期にトルンに向かっていたのだ。

他の町のバンド関係者は、トルンの両バンドを“牡ヤギ”“牝ヤギ”と呼ぶ。理由を訊ねると、“オスとメスは永遠に理解し合えない”という理由からだそうだ。

なんとも奥の深い話ではある。

その後、さすがに両バンドは、同じコンクールにはエントリーしないことを申し合わせたのだという。

「トルン聖ミカエル吹奏楽団」の練習場は、聖ミカエル・ハーモニーザール(Harmoniezaal St. Michael)と呼ばれる前年完成したばかりの真新しい専用の建物だった。

オランダ語のザールには英語のホールと同じ意味があるが、この合奏場も座席さえ設えればコンサートができるようになっていた。地下には、個人練習ができるスタジオを完備している。カフェも備え、休憩になると、シャッターが開いてバーがオープンする。飲み物はすべて無料。大人の社交場というイメージだ。

出迎えてくれたプレジデントのケース・ハウケス博士(Drs. Kees Halkes)によると、実際にここでサポーターのためのコンサートも開かれるそうで、この日もバンドの元メンバーと思しき年配者が三々五々集まってきては、あーだこーだと言いながら、練習を愉しんでいた。創設は、1863年。まさに“おらが村のバンド”だ。

そんなバンドが世界を揺るがす演奏をする。

1993年の“世界音楽コンクール”で演奏された『交響曲第4番』のライヴCD(蘭Mirasound、399180、1993年)を聴いた作曲者のリードも、手放しで賛辞を贈っていたし、同じCDに入っている同じ日のリヒャルト・シュトラウスの『死と変容(Tod und Verklarung)』も圧倒的な演奏だった!

我々が訪れたこの日は、フリーセンが不在のため、副指揮者の棒だったが、リハーサルで聴かせてもらった曲は、フリーセンが編曲したカール・オルフの『カルミナ・プラーナ(Carmina Burana)』(独唱、コーラス入りの全曲)とヨハン・デメイの交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』(全曲)の2曲。聞けば、この2曲は、近く開かれるコンサートのプログラムだそうだ。FMラジオでもオランダ全土にオン・エアされるという。

まるで、プロのようなプログラミングだ!

歴代音楽監督にも、フリーセンのほか、ヴァルター・ブイケンス、ノルベール・ノジ、イヴァン・メイレマンスなど、一流どころの名がズラリ!

ヨーロッパで地に足を着けて活動する、コミュニティ・ウィンドオーケストラの地力の凄さをまざまざと見せつけられた思いがした!!

▲ Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(指揮:Heinz Friesen)

▲CD – Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(自主制作(蘭Mirasound)、399180、1993年)

▲ 399180 – インレーカード

▲ Heinz Friesen サイン

▲ CD(再リリース盤) – Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(蘭World Wind Music、WWM500.107)

▲WWM500.107 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第98話 アルプス交響曲とフリーセン

▲プログラム – Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling(1995年12月2~3日、Rodahal、Kerkrade)

▲同、チケット

▲ハインツ・フリーセン

▲オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(1995年12月3日、ケルクラーデ)

『ヒグチくん、あんたなぁー、12月の始めのへん、ヒマかぁー?』

東京弁に翻訳すると、おそらくは“君、12月の始め頃、スケジュールはどうなってる?”に近いニュアンスとなるこの電話の主は、大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)の団長、木村吉宏さんだった。

電話がかかってきたのは、1995年(平成7年)の9月。

“ははぁ、さては、また何か企んでいるな!”とピーンときたが、話の続きを伺うと、予想どおり『オランダ行けへんかー?(オランダ行かない?)』という打診が直球でとんでくる!

つづいて、『フリーセンが“アルプス”をやるてゆうとーんのや。これ、聴きたいとおもてな、電話したんやけど…。』ときた。

“フリーセン”とは、《第69話:首席指揮者ハインツ・フリーセン》でもお話した、市音がオランダから招いた首席指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)のことだ。

木村さんの電話は、フリーセンが、オランダのウィンドオーケトラで、リヒャルト・シュトラウス(Richard Strauss)の『アルプス交響曲(Eine Alpensinfonie)』(全曲)の指揮をすると話しているので、どうしても聴きたくなって連絡したという、早い話が“Noという答えが返ってこない”ことをある程度見越した上での“確信犯的お誘い”だった。

言外に、オランダに明るい筆者に“ガイド兼通訳(!?)”として一緒に行ってくれないかという、限りなく“業務命令”に近い臭い(!?)も漂う!

また、どういう魔法を使ったのか、手廻しよくJTB難波支店を通じて、航空券も、なかなかとれない筈の現地ホテルも仮押えしてあるそうで、『すぐ返答したらな、あかんねん(即答してやらないとダメなんだ)。』という。なんとも性急な話だ!!

急いで手帳を見ると、いくらか調整すれば、なんとかなりそうだったので、チケットや宿の手配はお任せすることにした。アッという間の“オランダ行き”の決定だった。

とは言うものの、木村さんの言うことは、一体全体何の話やら、さっぱりわからなかったので、すぐに大阪城公園内にあった市音練習場に行って、フリーセンに確認することにした。

もう、いつの間にか、即席の臨時マネージャーだ!

フリーセンに訊ねると、この年の12月2日(土)~3日(日)、ケルクラーデ市のコンサート・ホール、ロダハル(Rodahal, Kerkrade)で、世界音楽コンクール(WMC)の一環で開かれるオランダ・オープン選手権コンサート部門(Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling)の決勝があり、彼はドイツ国境に近いボホルツ(Bocholtz)という小さな町のウィンドオーケストラ、“オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz)”を指揮して出場するのだという。

その選手権で演奏する曲が、彼が作曲者の遺族の了解を得て、かなりの年月をかけ心血を注いでトランスクライブしたシュトラウスの『アルプス交響曲』という訳だ。

やっと話が見えてきた。

“オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー”は、1886年8月25日の創立。人口が5000人を少し上回ったあたりのオランダ・リンブルフ州の町ボホルツのバンドだ。バンド名に“オランダ王国の(Koninklijke)”という冠(かんむり)が付いているが、これは1954年にケルクラーデで開催された“第1回世界音楽コンクール(Wereld Muziek Concours)”で優勝した際、ときのユリアナ女王から、その輝かしい実績を称えられ、今後“Koninklijke”を名乗ることを特に許されたからで、決して“オランダ王立”というわけではない。強いて言うなら、“おらが町の”限りなく“町立”に近いバンドだ。今も誇りを込めて“オランダ王国の”というステータスを名乗ってはいるが!!

レコード時代には、フリーセン指揮のこのバンドのアルバムが、“コロムビア世界吹奏楽シリーズ”の第2集「オランダの吹奏楽(March in Holland)」(日本コロムビア、XMS-53-RT、1968年12年新譜、蘭Artone原盤)として、国内リリースされたこともあった。

ボホルツにはフリーセンに連れられて一度行ったことがあるが、小さな町なのに専門の音楽学校があり、そこから輩出されてプロになった音楽家がときどき戻ってきては、次世代を担う子供たちを教えている。100名編成のユースバンドもあると聞いた。

オランダには、そんな町が結構あり、結果として、人口5000人ほどの町にも100名を超える編成のウィンドオーケストラが存在したりする。それで、町対抗のバンド合戦も盛んなのだ。

話を元に戻そう。

このとき、オランダを訪れたのは、木村吉宏夫妻と市音マネージャーの小梶善一さん、筆者の都合4人。一行は、11/29にエールフランス機で大阪を出発し、アムステルダムに一泊の後、列車で北ブラバント州アウデンボス(Oudenbosch)のフリーセンの自宅を表敬訪問。この日は、ボホルツの練習を見学後、同氏宅に一泊。翌12/1にフリーセンが運転する車でケルクラーデのホテルに入った。滞在中、ベルギーのロワイヤル・デ・ギィデ(Orchestre de la Musique Royale des Guides)のコンサートを聴いたり、トルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn)のリハを覗くこともできた。

フリーセンがボホルツを指揮して『アルプス交響曲』を演奏するという12月2~3日の“オランダ・オープン選手権コンサート部門”には、ファンファーレオルケスト部門2団体とウィンドオーケストラ部門5団体の合計7団体がエントリーされていた。

各団体のステージ上の持ち時間は、出入りを含めて1時間30分。指定課題(ウィンドオケ部門は、エド・デブール(Ed de Boer)の『アルメニア狂詩曲第1番(Armeense Rhapsody nr.1)』)はあるが、コンサートを競う選手権だけに、それは各々のプログラムのどこで演奏してもよいというルールとなっていた。

面白いことに、演奏曲数も演奏者の自由で、いろいろな曲を組み合わせて構成するバンドがある一方、ボホルツのように、課題を演奏した後、『アルプス交響曲』の全曲、ただそれだけで勝負にのぞむバンドもあった。世界的に有名なソロイストの独奏を組み込んでもよかった。

審査員は、そのコンサートを各出演者から提出されたスコアを手に審査する訳だ!

結果は、全出場団体中、最後に登場したボホルツが優勝!!

指定課題が118.5ポイント、それ以外が237ポイントで、合計が355.5ポイントというのは、オランダ・オープン選手権史上、最高記録の得点だったそうだ。

会場で出会った作曲家のヨハン・デメイ(Johan de Meij)によると、この日のライヴは、12月中にテレビで放送されるそうだ。そういえば、放送ブースには、旧知のロワイヤル・デ・ギィデ音楽監督ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)がコメンテーターとして入っていた。

得点発表後、フリーセンを囲んで即席のパーティーが行なわれたが、その後、フリーセンが心血を注いで書いたスコアが何者かによってステージから持ち去られてしまったという事件が発覚。ボホルツのメンバーと祝杯をあげながら上気するフリーセンの赤い顔が、一瞬、真っ青になるという信じられないハプニングも!!

結局、スコアはフリーセンの手元に戻らなかったが、その日のすばらしいライヴは、放送用音源をもとにした完全限定アーカイブCD「Eine Alpensinfonie」(自主制作(Miragram)、88111-2)として残されることになった。

ブラビッシモ、フリーセン!!

▲演奏曲目 – Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling

▲CD – Eine Alpensinfonie(自主制作(Miragram)、88111-2、1996年)

▲同、インレーカード

▲LP – オランダの吹奏楽(日本コロムビア、XMS-53-RT、1968年)

▲XMS-53-RT – A面レーベル

▲XMS-53-RT – B面レーベル