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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第112話 チェザリーニ:交響曲第2番「江戸の情景」の初放送

▲フランコ・チェザリーニ(撮影:Daniel Vass)]

『ディアー・ユキヒロ、

今夜、中央ヨーロッパ時間(Central European Time)の20時30分、ラジオ・スヴィッツェラ・イタリアーナ・RSI・ネットワーク2(Radio Svizzera Italiana RSI Rete2)で、この前の日曜に行なった我々のコンサートの放送がある。おそらく、そちらでも聴くことができるだろう。それは、私のセカンド・シンフォニーの初演コンサートの放送だ。

貴方が最高のホリデーをもたれますように。メリー・クリスマス&ハッピー・ニューイヤー!』

2018年(平成30年)12月18日(火)、スイスの作曲家フランコ・チェザリーニ(Franco Cesarini)が、12月9日(日)、スイス・ルガーノ市のパラッゾ・デイ・コングレッシ・ルガーノ(Palazzo dei Congressi Lugano)で開かれた自身指揮の年末恒例のガラ・コンサートが、スイス公共放送のネットワークを通じて放送されることを知らせてきたときのメールだ。(参照:《第82話 チェザリーニ:交響曲第2番「江戸の情景」の誕生》)

演奏者は、シヴィカ・フィラルモニカ・ディ・ルガーノ(Civica Filarmonica di Lugano)。1988年以降、フランコが音楽監督、指揮者をつとめ、スイス最高峰のウィンドオーケストラに列せられる。ルガーノ音楽院で専門教育を受けたプレイヤーを中心に構成されるスイスのチャンピオン・バンドだ。

スイス公共放送がコンサートを放送するくらいだから、その実力のほどは推して知るべし。ひじょうに活動的なウィンドオーケストラで、音楽監督就任以来、フランコは、すでに数百回を超えるコンサートを指揮している。

残念ながら、日本で吹奏楽を愉しんでいる人々にはあまり知られていないが、フランコは著名なフルート奏者ペーター=ルーカス・グラーフ(Peter-Lukas Graf)の高弟で、スイスのソロ・コンテストで第1位に輝いたフルート奏者でもある。グラーフのために『フルート協奏曲』も書いており、たびたび師弟デュエットを行なうほどの実力者だ。作曲家の他に、室内楽フルート奏者、指揮者としての顔をもっている。

また、ラジオ・スヴィッツェラ・イタリアーナ・RSIは、スイスのイタリア語圏向けの公共放送だ。

試しにメールに書かれてあるURLにアクセスすると、PCからいきなり流暢なイタリア語が聞こえてきた。どうやら、クラシックなどの音楽専門チャンネルらしく、FMと同時放送のようだった。

大阪からアクセス可能なことを確認後、すぐフランコに返信した。

『ディアー・フランコ、

連絡ありがとう。ラジオ番組はとても興味深い。だが、ひとつだけ問題がある。時差だ。中央ヨーロッパ時間で12月18日の20時30分といえば、日本時間では翌12月19日の早朝4時30分だ。もちろん、懸命に起きようと努めるが、目覚ましがうまく機能してくれるかどうか分からない。結果については、必ず報せる…。

ともかく、とてもエキサイティングなニュースをありがとう!

メリー・クリスマス&ハッピー・ニューイヤー!』

さて、どうしよう。もう夜の11時(日本時間)近い。さすがに、少々睡魔が….。

シヴィカ・フィラルモニカ・ディ・ルガーノのライヴは、聴き逃せないし…。

“寝るべきか”、“起き続けるべきか”の選択で悩んだ挙句、出した結論は、夜食と睡魔撲滅用ドリンクを買ってきて、今から放送を聴き始めるというもの。

(不健康の極みだが、我ながらこれは名案だ!!)

それでも睡魔は繰り返し押し寄せ、それと闘いながら放送を聴いていると、それは室内楽やオーケストラの演奏と演奏者への生インタビューで構成されるラジオ局のようだ。ときどきジングルを挿みながら番組は進行していく。音楽用語を除いて、コメンテーターのイタリア語はさっぱり理解できないが、CDではなく、ナマ収録された音楽素材中心の番組構成はとても新鮮だ。

しかし、さすがはイタリア系!!

予告された時刻になっても、フランコの番組は一向に始まらない。

ここまで必死に起きてきたのに、なにか設定を間違えたのか。ひとり焦るが、どうしようもない。そして、PCの画面に示されている定刻を10分くらい過ぎた頃、ジングルに続いて、コメンテーターがついにフランコの名前を口にした。

(ついに始まったか!)

余談ながら、かなり前、大阪市音楽団(民営化後、Osaka Shion Wind Orchestra)の団長だった木村吉宏さんから、ローマである演奏会に行ったとき、告知されている開演時間の前に行ったら、誰も居らず、定刻になった頃に奏者がゾロゾロと集まりだした、と面白おかしく聞かされたことあった。冗談だろうと思っていたが、ラテン系の国々ではよく似た話をよく聞く。隣国スイスでも、イタリア文化圏は同じなのかも知れない!

時間の概念が違うのだ。

番組は、ここからコメンテーターとフランコの2人の会話が始まった。だが、すべてがイタリア語なので、何を言っているのか、さっぱり分からない。ただ、会話の中に混じる音楽用語や人物の固有名詞などから、フランコは、これから放送される曲についてコメンテーターの質問に答えているのは確かだった。

放送は、コンサートとは違い、つぎの曲順で行なわれた。

・イクエストリアン・シンフォニエッタ(Equestrian Symphonietta)(作品52)

・交響曲第2番『江戸の情景』(Sinfonia N.2“VEDUTE DI EDO”)(作品54)

・カリビアン・シンフォニエッタ(Caribbean Symphonietta)(作品51)

(欧題は、イタリア語表記)

世界的成功を収めた交響曲第1番『アークエンジェルズ(The Archangels)』(作品50)後に完成させた2曲のシンフォニエッタと2作目の交響曲だけの重量感のあるプログラムだった。

80名近い人数のシヴィカ・フィラルモニカ・ディ・ルガーノの安定感のあるゴージャスなサウンドにも圧倒される。そして、フランコに対するリスペクトからだろう。ひじょうにモチベーションが高い。

世界初演となった『江戸の情景』における集中力は、とくにすばらしかった。

そして、割れんばかりの圧倒的な拍手が聞こえてくる!!

初演は大成功だった!

実際にナマのライヴを聴いた出版社ハル・レナード・ヨーロッパの音楽出版部門の責任者ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)が、『それはもう、ファンタスティックだった!』と演奏会直後に短文メールしてきた気持ちもよくわかる。

また、放送でフランコの話す流暢なイタリア語を聞いていて、来日中も、不慣れな英語ではなく、本当はイタリア語で自由に話したかったんだろうなと感じた。

そう言えば、フランコは翻訳では何度もひどい目にあったことがあると話していた。ある国に招かれたときなどは、事前に渡したプロフィールで“フルート奏者”と書いてあったはずなのに、なんと“バグパイプ奏者”と訳されていたのだそうだ。

(あ~ぁ、お気の毒に!)

番組は、3曲の後、初めて聴くマーチがアンコールとして流れたが、その時点で時計を確認すると、まだ告知された番組枠がかなり残っていた。どうするんだろう、と思っていたら、ボーナスとして、なんとフランコのフルート独奏で、クリスマス・キャロルを2曲、ピアノ伴奏で聴かせてくれた。

いかにもヨーロッパらしいクリスマス!

とても美しいエンディングだった。

▲フルート三重奏(Flute Trio Op.24)

▲フルート四重奏曲第1番(1st Flute Quartet Op.26)(zimmermann)

▲フルート四重奏曲第2番(2nd Flute Quartet Op.30)(Vigormusic)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第111話 スパーク「宇宙の音楽」の迷走

▲フィリップ・スパーク(本人提供)

▲スコア – 宇宙の音楽(英Anglo Music Press、出版:2005年)

『ヒグチさん、この前スコアをお預かりしましたスパやんの新曲の件なんですが、早速“プログラム”の方で協議して、話を上げましたら、上が“どうしてもアカン”ってゆうてますねん(どうしてもダメだと言ってるんです)。』

2004年(平成16年)6月下旬、大阪市音楽団(市音 / 現Osaka Shion Wind Orchestra)のプログラム編成委員のリーダー、延原弘明さんから掛かってきた電話だ。

延原さんは、Ebクラリネットの名手で、その後、楽団が民営化されて一般社団法人となったとき、初代代表理事になった人物だ。

会話の中の“スパやん”とは、無論、イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)のことだ。何度も来阪し、ひとりで地下鉄に乗れるまでに、その空気の中に溶け込んでいたフィリップは、当時、市音内部では、大阪流親愛の念とリスペクトを込めてそう呼ばれていた。

周囲の話を総合すると、そのネーミング・ライツは、どうやら筆者にあるらしいが、今さらそんなことはどうでもいい。自然発生的に生まれた大阪ネイティブによる親称だ。

また、市音に預けていたスコアとは、フィリップのブラスバンドのための新作『宇宙の音楽(Music of the Spheres)』の出版前オリジナル・スコアのプルーフだった。

第107話:スパーク「宇宙の音楽」との出会い》でお話したとおり、これより少し前の6月1日(火)、フィリップと東京で会った際、“もし、それをウィンドオーケストラのために新たにオーケストレーションを施して作り直すとするなら、果たして市音は演奏してくれるだろうか?”という驚くべき相談を受けた作品で、帰阪するとすぐ、市音にスコアを手渡し、彼の提案を投げかけていた。

冒頭の延原さんの電話は、それに対する正式な回答だった。

『本当に申し訳ない。(“プログラム”委員の間では)面白いと思ってるんですが…。』という延原さん。

少し踏み込んでその訳を尋ねると、およそ信じられない理由が返ってきた。

延原さんの説明によると、2004年6月11日(金)、ザ・シンフォニーホールで行なわれた第88回定期演奏会(指揮:秋山和慶)で『四つの真理(The Four Noble Truths)』を日本初演したばかりの市音は、同年11月22日(月)に同ホールで開かれる第89回定期演奏会(指揮:ディルク・ブロッセ)でも、『二つの流れのはざまに(Between the Two Rivers)』を予定していた。もし、その翌年の第90回定期演奏会(日時、指揮者未定)で今度の新作をやるとなると、結果としてスパーク作品を3回連続で取り上げることになる。楽団上層部は、それは“どうしてもアカン”と難色を示したのだという。

まるで世間の目を気にする“お役所”仕事のような反応だ。

同じ作曲家の作品がつづくことがそれほど“まずい”ことなのか!?

確かに、市音は、そこまで、フィリップの作品を定期演奏会だけで7曲取り上げていた。

・シンフォニエッタ第2番《日本初演》
Sinfonietta No.2
第68回大阪市音楽団定期演奏会
1994年(平成6年)6月2日(木)
ザ・シンフォニーホール、指揮:木村吉宏

・オリエント急行
Orient Express
第69回大阪市音楽団定期演奏会
1994年(平成6年)11月2日(水)
フェスティバルホール、指揮:金 洪才

・シンフォニエッタ第1番《日本初演》
(Sinfonietta No.1)
第76回大阪市音楽団定期演奏会
1998年(平成10年)6月10日(水)
ザ・シンフォニーホール、指揮:堤 俊作

・ディヴァージョンズ
Diversions
第80回大阪市音楽団定期演奏会
2000年(平成12年)6月16日(金)
ザ・シンフォニーホール、指揮:堤 俊作

・交響曲第1番「大地・水・太陽・風」《日本初演》
Symphony No.1 – Earth, Water, Sun, Wind
第81回大阪市音楽団定期演奏会
2000年(平成12年)11月9日(木)
フェスティバルホール、指揮:渡邊一正

・エンジェルズ・ゲートの夜明け《日本初演》
Sunrise at Angel’s Gate
第83回大阪市音楽団定期演奏会
2001年(平成13年)11月14日(水)
フェスティバルホール、指揮:渡邊一正

・カレイドスコープ《日本初演》
Kaleidoscope
第86回大阪市音楽団定期演奏会
2003年(平成15年)6月6日(金)
ザ・シンフォニーホール、指揮:秋山和慶

これに、先述の第88回と第89回の2曲を加えると、定期だけで計9曲となる。内、7曲は日本初演で、すでに東京佼成ウインドオーケストラがCD(佼成出版社、KOCD-3902 / 参照:第48話 フィリップ・スパークがやってきた)に録音していた『オリエント急行』も、実は、楽譜出版後、日本初の演奏だった。

話を聞いている内、誰が“アカン”と言っているのか、すぐに想像がついた。しかし、その理由は、残念ながら、およそ音楽をやろうとする人が簡単に口にしていいものだとは思えなかった。

もっと他の理由だったら、“そうですか”と簡単に引き下がっていたかも知れない。

例えば、曲がダメだと判断したとか、演奏時間が長すぎるとか、編成が大きすぎるとか、予算がかかりすぎるとか…..。

電話をかけてこられた延原さんには、何の恨みもないが、ここから筆者の反論が始まった。

『スコアをご覧になったからお分かりだと思いますが、今度の曲は、10年に1曲出るか出ないかというクラスの作品です。個人的には、彼の最高傑作だと思っています。しかも、今回は、市音を名指しで提案してきたわけです。そんな機会を簡単に捨ててしまうということは、私には到底理解できません。』

すでにスコアを読んで作品を理解されているだけに、筆者の主張を黙って聞いているしかない延原さんは、やっとのことで、『それは、じゅうぶん理解しているのですが…。』と言葉を挿まれたが、こちらは、それを遮るように、さらに畳み掛ける。

『いいですか。世界中にフィリップ・スパークに曲を書いてもらいたい、あるいは初演をしたいという演奏団体は山ほどあるわけです。今回、彼は、世界中から市音を選んだ訳です。彼は“演奏してくれるだろうか?”と控えめに言いながらも、実は市音に演奏して欲しいわけです。そんな天から降りてきたような千載一遇の機会を他に持っていけと、そう言われるんですか? 信じられない! もう一度、みなさんでよくスコアを検討していただけないでしょうか? どんな作品にも“旬”というか、取り上げるべきタイミングというものがあります。私がこれほどまで言うことはこれまでなかったでしょう? それだけの作品なんです!』

一度火がついてしまった筆者を押し止めることなど、地球上の誰にもできない。

延原さんは、『よく分かりました。』とついに折れ、『もう一度みんなで話し合い、上層部にも再度掛け合ってみます。』と約束された。

楽団という組織に属さない自由な立場にいる筆者には、その後、市音内部で何があったかについてはうかがい知れない。さぞかし激論が交わされたことだろう。

しかし、7月に入って再び掛かってきた電話の延原さんの声は弾んでいた!

『いろいろ言う者もおりましたが、押し通しました!』

スコアの魅力が、ついに楽団を動かした瞬間だった!

この決定の有る無しで、この作品の運命は大きく変わっていただろう。

その後、世界を席巻する『宇宙の音楽』ウィンドオーケストラ版の誕生秘話である!

▲第68回大阪市音楽団定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 第88回大阪市音楽団定期演奏会(2004年6月11日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 第89回大阪市音楽団定期演奏会(2004年11月22日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第110話 ニュー・サウンズの始動

▲LP – ニュー・サウンズ・イン・ブラス(CBSソニー、SOLL 8、1972年)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

▲楽譜 – オブラディ オブラダ(岩井直溥編)(ヤマハ音楽振興会、1972年)

▲岩井直溥(1923~2014)

『それ、指揮されているのは、間違いなく岩井(直溥)先生です。“ヘイ・ジュード”とかビートルズの曲が入っているレコードでしょ? 私も、トロンボーンで乗ってました。』

2014年(平成26年)、九州は熊本の某所。「ニュー・サウンズ・イン・ブラス」(CBSソニー、SOLL 8、1972年)のオリジナルLPレコードのジャケットを手に、何人かの先生方と、ジャケットに写っている謎の指揮者の正体について“ああでもない、こうでもない”と騒いでいるところへ、少し離れた位置から不意に飛びこんできた鈴木孝佳さん(タッド・ウインドシンフォニー音楽監督)の衝撃発言だ!

有名な“ニュー・サウンズ・イン・ブラス”シリーズの<第1弾>として知られるこのアルバムのレコーディング・セッションが行なわれたのは、1972年(昭和47年)5月16日(火)~17日(水)の2日間。ところは東京の旧杉並公会堂だった。

ただ、発売されたこのレコードのジャケットのどこにも、指揮者の名前がなかった。客席上手側やや斜め後方から撮影されたモノクロ写真が見開きジャケットの内側に結構大きく印刷されているにも拘わらずだ!

“これはきっと何かある!”

筆者だけではない。写真の顔がはっきりしないだけに、リリース後、巷ではいろいろな憶測や怪説が飛び交い、それらは、やがて“都市伝説”と化していく。

写真の指揮者が一体“誰”なのか。

最も有力だと思わせた説は、当時のスタジオ録音の多くがそうだったように、“収録された10曲のアレンジャー、岩井直溥、東海林 修、服部克久の三氏がそれぞれ自分の編曲を指揮した際に撮影された、その中のひとり”という至極もっともなものだったが、残念ながら、手元の公表データの中にはそれを確実に検証できるものはなかった。

“ニュー・サウンズ”は、その後、「ヤング・ポップス・イン・ブラス!!」のタイトルでリリースされた翌年の<第2弾>(LP:東芝音楽工業、TP-7694、1973年9月5日リリース / タイトル変更した再発盤LP:「《吹奏楽ニュー・コンサート・シリーズ》ニュー・サウンズ・イン・ブラス/レット・イット・ビー」、東芝EMI、TA-60039、1975年12月20日リリース)以降、ソニーから東芝に完全に移行。その後の多くの録音が岩井さんの指揮となっただけに、ひょっとして、ソニー盤の時もそうだったのではないかと推測する人もかなり出てきた。

しかし、1972年当時、岩井さんは、れっきとした東芝の専属。契約上ソニーのレコードを指揮するのは、限りなく“掟破り”に近いので、その可能性は低いように思われた。

ただ、演奏からは、本当は岩井さんが振っていたのではないかと思わせる匂いがプンプン漂ってくる。それもまた事実だった。

やがて、時代は21世紀に突入!

2009年、すでに“時効”が過ぎていたためか、岩井さんは、バンドパワーに連載された「吹奏楽ポップスの父 昭和大爆走!岩井直溥自伝“第19回 NSBスタート!”」(聞き書き:富樫鉄火、2009年3月30日)で、“もちろん、実際に指揮したのは僕ですよ。”と白状された。

NSBとは、ニュー・サウンズ・イン・ブラスの略だ。

そして、世間一般的には“これにて一件落着!”となった筈だったが、発売以来のモヤモヤした気分を解消するために、石橋を思い切り叩いた上で渡りたい、ちょっと困った性格の筆者としては、チャンスがあれば、いつかそれをご本人以外の関係者の口から直接確認・検証したいと思っていた。

ホント、困った性格だ!(と、ときどき言われる!)

まあ、そんな個人的な事情から、2014年(平成26年)5月10日(土)の岩井さんの逝去後、その頃のことを知っていそうな人と会うときには、必らずこのレコードを持って出かけるようになった。

実際、別件で奈良にお住まいの全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さん宅をおじゃましたときも、この“謎の指揮者”について、ジャケット写真を見ながらかなり盛り上がっている。溝邊さんは、近畿大学吹奏楽部のポップ・コンサートに岩井さんを何度も客演指揮者として招かれており、関西では、岩井さんをもっともよく知るひとりだったからだ。

結局、その時の結論は、“写真からの特定は、ご本人以外難しい”の線で落ち着いた。

冒頭の鈴木さんの発言は、その指揮者が岩井直溥さんだったという証言だ!

また、ジャケット上に記載された演奏アーティスト名は、“NEW SOUNDS WIND ENSEMBLE(ニュー・サウンズ・ウィンド・アンサンブル)”。

それについても、鈴木さんは、東京佼成吹奏楽団(当時)のメンバーに、スタジオ・ミュージシャンを加えたものだったと証言された。

発売日に購入して以来、40年以上のモヤモヤが、一気に解消されていった瞬間だった!!

『岩井先生とは、スタジオ・ワークも含め、随分いろいろな現場でご一緒させていただきました。おそらく アオイスタジオだったと思いますが、トロンボーンつながりということで、クレイジーキャッツの谷 啓さんを紹介していただき、お話しするうち出身校の話になって、“たぶんご存知ないと思いますが、福岡電波高です”とお話ししたら、“オー!!、ボクは厨子開成だ”と言われたのをよく覚えています。ハナ肇さんや植木等さんらにも食事に連れていっていただいたこともありましたね。』と、鈴木さんは、懐かしそうに話される。

さらに、『佼成が普門館でやったときもご一緒しましたよ。』ときた。

1972年11月5日(日)、東京佼成吹奏楽団が、岩井さんの指揮で、普門館(東京)で行なわれた第20回全日本吹奏楽コンクールの賛助演奏を行なったときの話だ!

岩井さんは、同年の中学校の部の課題曲『シンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」』の作曲者でもあり、賛助出演時にも、そのポップ・バージョンが演奏された。

そこで、レコードとともに持ち歩いていた「バンドジャーナル」1973年1月号(音楽之友社)をカバンから取り出し、59~61頁のグラビア「第20回全日本吹奏楽コンクールの賛助演奏をきいて」を開いて見せる。

すると、グラビアの写真を見ながら、『オヤッ?いますね!』と、トロンボーンを吹いていた若き日の自身を発見!!

『岩井先生は真っ赤な派手な衣装をつけ、ステージの真ん中にはドラムスの猪俣(猛)さんがいて…。みんな懐かしいですね。』と、いろいろなことを思い出されているようだった。

その後、鈴木さんが指揮するタッド・ウインドシンフォニーは、2015年(平成27年)1月18日(日)、ティアラこうとう大ホール (東京)で行なわれた「ニュー・イヤー・コンサート2015」のアンコールで、岩井さんを偲んで作品を1曲取り上げ、後日、「タッド・ウィンド・コンサート Vol.33 イーストコーストの風景」(Windstream、WST-25039、2017年)の中の1曲としてCD化した!

曲は、懐かしの『シンコペーテッド・マーチ「明日に向かって」』だった!

▲「バンドジャーナル」1973年1月号(音楽之友社)

▲▼TAD Wind Symphony ニュー・イヤー・コンサート2015(2015年1月18日、ティアラこうとう、撮影:鈴木 誠)

▲CD – タッド・ウィンド・コンサート Vol.33 イーストコーストの風景(Windstream、WST-25039、2017年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第109話 アッぺルモントがやってきた

▲ベルト・アッぺルモント(2008年12月19日、パルテノン多摩)

▲セッション風景(同)

2008年(平成20年)12月17日(水)、朝8時ごろ、筆者は、成田空港第1ターミナルの国際線到着ロビー最寄りのタクシー乗り場で、客待ちのドライバーをつかまえては、つぎのような質問を繰り返していた。

『ちょっとお訊ねしますが、こちらの運転手さんで、都内・杉並周辺にめちゃくちゃ明るいベテランさんおられますか?』

すると、“なんだなんだ”と筆者のまわりにドライバーが集まってくる。

事情を話す内、“それなら、○○さんが適役だ”という人が出てきて、その場にいた全員が“そうだ、そうだ”と同意。中の1人が、○○さんを探しにいって連れてきてくれた。

当方があまりにも“テンぱって”いて、メモる余裕がなかったため、失礼ながら、名前は失念してしまったが、そのスペシャルな○○さんは、運よくすぐそばにいた。

早速、事情と目的地を話すと、○○さんは快諾してくれ、到着ロビー出口から最も近いところで待機してくれることになった。他のドライバーさんもその位置を譲り、協力してくれる。

筆者のリクエストは、“8:40到着予定の外国人と筆者を立正佼成会大聖堂近くの目的地まで、最短時間、できれば10:30頃までに連れて行って欲しい”というもの。即ち、ウィークデー朝の通勤時間帯に都内中心部の渋滞を避けながら、杉並まで車を走らせるという難題だった。

何しろ、こちらは生粋の大阪ネイティブであり、東京はまるで不案内。ルート選択からしても、ベテランの経験と勘だけが頼りだった。

しかし、どうしてそんな事態に至ったのか。

事の起こりは、3日前の12月14日の深夜から15日の早朝にかけてのことだった。

この日、筆者は、ベルギーの音楽出版社ベリアート(Beriato Music)のベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)と新宿ワシントンホテルに宿泊していた。

第108話 ヴァンデルロースト「オスティナーティ」世界初演》でお話したように、ベンは、ドイツのバンベルク交響楽団(Bamberger Symphoniker Bayerische Staatsphilharmonie)の首席トロンボーン奏者をつとめ、一方でベリアートを創業。ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のクラスから、『ノアの箱舟(Noah’s Ark)』を書いたベルト・アッぺルモント(Bert Appermont)を見い出し、トロンボーン協奏曲『カラーズ(Colors)』を委嘱・初演・初録音し、そのCDが大ブレーク。やがて、ハル・レナード・ヨーロッパ(Hal Leonard Europe)の音楽部門のトップとなる実力者である。

14日の夜、ふたりは、バンドパワーの鎌田小太郎(コタロー)さんや作曲家の清水大輔さんらとの会食後、ホテルに戻り、それぞれ自室で微睡んでいた(はずだった)。

ちょうどウトウトし始めたところへ、慌てた声のベンから電話が入ったのは、結構な深夜。日付はとっくに変っていた。

何事かと訊ねると、『ベルトが予定した飛行機に乗っていない!ナイトメア(悪夢)だ!!』という。

ベルトとは、前述のベルト・アッペルモントのことだ。

一気に目が覚めた筆者は、詳しい話を聞くため、急いでベンの部屋に向かう。

実は、この12月15日から、東京佼成ウインドオーケストラ演奏の佼成出版社の自作自演CD「ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.7、エグモント~ベルト・アッペルモント作品集」(佼成出版社、KOCD-3907、2009年)のセッション前の練習とレコーディングが予定され、スケジュールは、以下のように組まれていた。

12/15(月)、リハ(東京佼成WO練習場)(指揮:稲垣雅之)

12/16(火)、リハ(東京佼成WO練習場)(指揮:B・アッぺルモント)

12/17(水)、リハ(東京佼成WO練習場)(指揮:B・アッぺルモント)

12/18(木)、録音(パルテノン多摩)(指揮:B・アッぺルモント)

12/19(金)、録音(パルテノン多摩)(指揮:B・アッぺルモント)

ベンが話すとおりだと、14日の飛行機に乗れなかったなら、当然15日中の日本到着は不可能。同時にそれは、日本時間の16日朝10:30からのリハにも間に合わないことを意味した。

今さら原因など、どうでもいい。プロの仕事として、約束した時刻にその場にいないということが問題だった。

佼成出版社絡みだと、かつて、アルフレッド・リード(Alfred Reed)が誤って一日遅い便で来日したとき以来の大騒動になることが予想された。

企画のプロダクション・スーパーバイザー(制作統括)を任されていた筆者にとっても、これは正しくナイトメアだ。

ベンには、クライアントの佼成出版社と東京佼成ウインドオーケストラには、早朝に連絡を入れて善後策を練ってもらうから、ベルトには“とにかく一番早い便に乗る”ように指示してほしいと頼んだ。ベンは、即刻その場からベルトに国際電話を入れる。それはすぐつながったが、いつもは穏やかなベンの口調がやたらきびしい。

やがて、ベルトから返答が入った。残念ながら、15日には日本便がなく、どんなに早い便に乗ったとしても、到着は17日の朝になるという。ベンは、『とにかくすぐ来い!』と言って電話を切り、“ナイトメアだ!”と繰り返した。

もうすぐ夜明けだった。

佼成出版社には、“指揮者が突発事態で予定の飛行機に乗れなかったこと”、“次の便での到着が4/17朝になること”、“どんな結論(一旦バラして延期)に至ったとしても、4/17には必ず顔を出させること”などを連絡し、オケと協議してもらうことになった。

その後、セクション・リーダーをまじえた協議の結果、“本人の棒で4/17の練習ができるのなら、レコーディングをやろう”という結論が出た。

一旦決まると、プロの仕事はスケジュール通りに進む。

当初から稲垣雅之さんの指揮で組まれていた4/15のリハは予定通り行われ、4/16のリハは完全休養。あとは、本人の来日を待つばかりとなった。

その後は、幸運が続いた。

4/17、ベルトの乗ったルフトハンザ機は、ジェット気流に乗って、予定より15分以上早く成田に到着。事前に“入国審査の時間が惜しいので、荷物は小さく”、“タクシーを待たせているので、審査を終えたら急いで出口へ”とメールしておいたら、ベルトは、スコアと指揮棒だけを小さなショルダーに入れただけの軽装で到着口から“走って”出てきた。

恐らく、飛行機を降りた後、入国審査へ走って一番乗りでそれを済ませ、再び全力疾走したのだろう。

挨拶もそこそこに、ふたりで○○さんのタクシーにダッシュ!

『お任せ下さい。』という○○さんの状況判断も的確で、東京佼成ウインドオーケストラの練習場には思っていた以上に早く到着。ちょうど、佼成出版社の担当者、藤本欣秀さんが練習開始前の挨拶を始めたところだった。

『指揮者のアッぺルモントさんは、無事成田に到着され、もうまもなくこちらへ到着されると連絡が入っています。』

その藤本さんの挨拶が終わるか終わらない内、ベルトと筆者は、合奏室に飛び込んだ。

ベルトとは初対面の藤本さんが、ちょっと戸惑いを見せながらも、彼をプレイヤーに紹介。すると、ベルトは、サッと指揮台へ進み、真剣な面持ちでまず遅れたことを“謝罪”。間髪を入れず指揮棒を振り上げ、1曲目の『リオネッス(Leonesse)』のリハーサルを始めた。

様子を見ていると、指揮でグイグイ引っ張っていくので、オケのモチベーションもグングン上がっていくのがよくわかる。

リハ終了後、トロンボーンの萩谷克己さんから、『ここまでくれば、もう大丈夫。それにしても、彼の棒(指揮)がいいのには、ちょっと驚きました。』と声がかかる。

正直“いつ着くのか”と、心中、針のムシロ状態だった筈の藤本さんも、『最初に“謝罪”があり、あれこれ言わず、すぐリハに入ったのには、みなさん感心されていました。』とホッとした面持ち。

マネージャーの古沢彰一さんからは、『もちろんバラすことも考えたんだけど、4/17のリハさえできれば、1日休んだことでリフレッシュしてから、本番に望める。それに賭けるという考え方もあるしね。これが、4/17の練習ができないというのなら、本当に大変なことになったんだろうけど。』と舞台裏を聞かされた。

正にタイトロープ。ギリギリの線の対応だった訳だ。

また、このレコーディングには、コンサートマスターの 田中靖人さん、下棒をつけた稲垣雅之さん、マイクを通じたディレクションを行なった山里佐和子さん、ステージ上通訳の黒沢ひろみさん、録音チームの石崎恒雄さんや藤井寿典さん、宮下雄二さん、新技術のSHMプレスのマスタリングを手がけた杉本一家さんなど、それぞれの持ち場で、多くのスキルが惜しげもなく注がれている。

そして、CDが完成したとき、真っ先に歓喜の声をあげたベン!

当然、反省点はある。

だが、こんなチームワークのいいCD制作は、もう二度とないかも知れない。

東京佼成ウインドオーケストラにとっては、すべてが新曲!

定年のため、これが最後のレコーディングとなったプレイヤーさんも結構多かった!

CD「エグモント」は、作曲者本人によるたった1日のリハーサルから実を結んだ、とても思い出深いアルバムとなった!!

▲モニタールーム風景(2008年12月19日、パルテノン多摩)

▲セッション終了後の東京佼成ウインドオーケストラ(同)

▲ホールを出たアッぺルモント(写真提供:鎌田小太郎)

▲CD – ヨーロピアン・ウィンド・サークル Vol.7、エグモント~ベルト・アッペルモント作品集(佼成出版社、KOCD-3907、2009年)

▲同、インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第108話 ヴァンデルロースト「オスティナーティ」世界初演

▲チラシ – タッド・ウインドシンフォニー第19回定期演奏会(2012年6月8日、大田区民ホール アプリコ)

▲オスティナーティを聴く(同、撮影:関戸基敬)

▲トロンボーン吹き仲間(同、撮影:関戸基敬)

▲ゲネプロ風景(同、撮影:関戸基敬)

『おはようございます。今日は、皆さんにご紹介したい人物がいます。古い友人で、ベルギーから飛んで来てくれましたベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)さんです。』

2012年(平成24年)6月8日(金)の午後、「タッド・ウインドシンフォニー第19回定期演奏会」のゲネプロが、これからまさに行なわれようとしていた東京・大田区民ホール「アプリコ」のステージで、客席に座っているベンを手招きで呼び寄せ、ステージ上の面々に紹介しようとする際、筆者が話した言葉だ。

つづけて、呼ばれたベンがステージまで歩いてくる間、『彼は、ドイツのバンベルク交響楽団(Bamberger Symphoniker Bayerische Staatsphilharmonie)の首席トロンボーン奏者をつとめ、オランダのデハスケ(de haske)という音楽出版社の音楽出版部門の責任者をつとめています。今日は、彼の出版社からこの秋にも出版が予定されているヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の『オスティナーティ(Ostinati)』のパブリックな世界初演が行なわれますが、彼からも“ぜひともリハーサルを聴かせて欲しい”とリクエストがありましたので、この場にお招きしました。』と補足する。

『オスティナーティ』の楽譜は、この日の世界初演に向け、出版社からタッド・ウインドシンフォニーに贈られたものだった。

ステージに上がったベンは、『今日は、ヤンからさんざん聞かされているタッド・ウインドシンフォニーの演奏を聴かせていただけるのを愉しみにしてきました。』と簡単な挨拶をし、プレイヤーから大きな拍手を浴びる!!

一方、作曲者のヤンは、後でお話しするように、訳あってこの日は欠席。しかし、ヤンは、この2年前の2010年6月18日(金)、同じアプリコで行なわれたタッドの“第17回定期”で、『いにしえの時から(From Ancient Times)』という超話題作のウィンドオーケストラ版のパブリックな世界初演があった際、それを聴くために来日している。

それがこの日の『オスティナーティ』につながった。

『オスティナーティ』は、『いにしえの時から』の後に書かれた作品で、もともとは、洗足学園音楽大学ファンファーレオルケストの委嘱で書かれた“ファンファーレ・オルケスト編成”の作品だった。初演は、2011年6月11日(土)、同学前田ホールで作曲者の指揮で行なわれ、同年秋、ベルギーのフォンドス・カレル・ヴェルブルッヘン作曲賞を受賞している。

音楽用語の“オスティナート(執拗もしくは頑固な反復)”からイマジネーションを膨らませ、連続して演奏される3つの楽章で構成される演奏時間18分超の作品だ。

古典の書法をリスペクトする、いかにもヤンらしい格調高い音楽だ。

そのオーケストレーションを一からやり直して、新たなウィンドオーケストラ版を作るという仕事は、実はタッドの『いにしえの時から』をナマで聴いたときの強烈な音楽的衝動と感激が作曲者をしてそうさせたものだった。

筆者は、2011年夏前、突然そのアイデアを聞かされたときのことを、今も鮮明に覚えている。

『ユキヒロ。もし、“オスティナーティ”を作り直してウィンドオーケストラ版を作るとするなら、タッド・ウインドシンフォニーは、果たして演奏してくれるだろうか?』

“えっ!?そら、またきたぞ!!”

と思いながらも、すぐ米ネヴァダ州ラスベガス在住の音楽監督の鈴木孝佳(タッド鈴木)さんに詳細を伝えると、鈴木さんから、『ヤンの曲なら、いつでもウェルカムです。スコアが上がったらぜひ見せてください。』と打ち返しがあった。

作曲者の熱烈アプローチによる『オスティナーティ』ウィンドオーケストラ版世界初演プロジェクトは、こうしてスタートした!!

それからほぼ1年が過ぎた2012年6月、ヤンは、洗足学園音楽大学ファンファーレオルケストのレコーディングのために来日していた。

このとき、彼の本心は、洗足のスケジュールの合間をぬって、タッドの世界初演も合わせて聴きたかったのだが、たまたまタッドのコンサートと洗足のレコーディングのリハーサルの時間帯が見事に重なっていたため、残念ながら断念!

しかし、ベンがアプリコを訪れた前日の6月7日、ヤンは、千葉県松戸市の“森のホール21リハーサル室1”で行なわれていたタッドのリハーサルを訪れ、『いにしえの時から』に続いて『オスティナーティ』も世界初演として取り上げてもらえることに対する礼と作品への想いを演奏家に伝えている。こういうところ、本当に義理堅い男だ。

そして、結局このときは『アプリコと洗足は、すぐ近くなのに…。』と涙したが、後日、タッドのライヴをCD-Rにして届けたところ、一気にテンションが上がって狂喜乱舞!!

『なんとすばらしいパフォーマンスなんだろうか!演奏者のクオリティに加え、音楽のアプローチと解釈が実にすばらしく、私はひじょうに満足しています。今後、これを上回る演奏がもう聴けないんじゃないかと心配になるほど感動的なライヴです!』という感想を寄せてきた。

そして、翌2013年5月、その演奏は「タッド・ウィンド・コンサートVol.19 ヤン・ヴァンデルロースト:オスティナーティ」(Windstream、WST-25025)としてCD化できた。

ほとんど報道されないので日本ではあまり知られていないが、鈴木さんの世界的な人脈も手伝い、タッド・ウインドシンフォニーのコンサートやリハーサルには、このように国内外の作曲家や演奏家がちょくちょく顔を出す。

なので、ゲネプロ前のベンの登場は、ステージ上の演奏家たちにとっては“いつもの”ことであり、事前にきちんと引き合わせをした鈴木さん以外には、“また誰か外国の出版社から人が来てるな”ぐらいに捉えられている様子だった。

しかし、ゲネが進む内、ベンの“正体”に気づいてしまった人がいた。

震源地は、どうやらトロンボーン周辺だった。

休憩時、ホルンの下田太郎さんから、『トロンボーンの桒田 晃さんが“どうして彼がここにいるんだ!”と言われてますが….』と一報が入り、事情が判明。

そう、ベンは、国内外で多くのトロンボーン奏者に親しまれ、桒田さん自身も演奏したことがあるベルト・アッぺルモント(Bert Appermont)のトロンボーン協奏曲『カラーズ(Colors)』の委嘱者であり、世界初演のときの独奏者、そして初のCD録音を行なったトロンボーン奏者だった!!

彼がソロをとり、世界的成功を収めたCD「カラーズ(Colors)」(蘭World Wind Music、WWM500.054、1999年)を聴いた人も多くいるだろう。

タッド指揮者の鈴木さんも、日本フィルハーモニーや東京佼成、アンサンブル・アカデミーなどで活動された、元はと言えばオーケストラ・トロンボーン奏者!

トロンボーン吹き同士の不思議な波長とでも言えばいいのだろうか。鈴木さんとベンは、いろんな話で盛り上がり、すっかり意気投合した様子だった。

その日の演奏会の打ち上げで、最終的に“第三次会”まで残ったのは、指揮の鈴木さん、トロンボーンの桒田さん、そして筆者の3人。

そこでの桒田さんの思いがけない一言も忘れられない。

『次のタッド、彼(ベン)を呼びましょうよ。』

残念ながら、これは、まだ実現できていない!

▲プログラム – タッド・ウインドシンフォニー第19回定期演奏会(2012年6月8日、大田区民ホール アプリコ)

▲同、演奏曲目


▲タッド・ウインドシンフォニー第19回定期演奏会から(同、撮影:関戸基敬)

▲タッド・ウインドシンフォニー第19回定期演奏会から(同、撮影:関戸基敬)

▲CD – タッド・ウィンド・コンサートVol.19 ヤン・ヴァンデルロースト:オスティナーティ」(Windstream、WST-25025、2013年)

▲CD – Colors(蘭World Wind Music、 WWM500.054、1999年)

▲同、インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第107話 スパーク「宇宙の音楽」との出会い

▲Philip Sparke(1990年代前半)(本人提供)

▲DVD – Highlights from The European Brass Band Championships 2004(World of Brass、WOB 104 DVD、2004年)

▲同ブックレット、曲目

▲CD – Highlights from The European Brass Band Championships 2004(Doyen、DOYCD 176、2004年)

▲同、インレーカード

『ディアー・ユキヒロ。グッド・モーニング!

東京のホテルからだ。実は、ちょっと頼みたいことがあるんだ!』

イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)からメールが入ったのは、2004年(平成16年)6月1日(火)朝のことだった。

長い付き合いだが、フィリップのこういう“頼み方”はとても珍しい。

ある種の“予感”、あるいは“胸騒ぎ”のような気を感じた筆者は、“頼みたいこととは、いったい何だい?”とストレートに返す代わりに、『今日の仕事が上がるのは、何時頃になる?』と打ち返してみた。

すると、本当に驚いたように、『それは、“東京まで来る”っていう意味か!?!?』と30秒もしないうちにメールが返ってくる。

そこで、『ああ、そうだ!メシでも喰おうよ!』と返し、あらためて彼が完全にフリーになる時刻を確認し、待ち合わせの場所と時刻を確定する。

しかし、遠く離れた東京の餌場(エサ場)についてはまるで疎い。

フィリップとのやりとりの一方、いつも無理ばかり言って来日中の彼のアテンドをお願いしているユーフォニアム奏者の黒沢ひろみさんを何とか捕まえ、夕刻すぎにJR「東京」駅の近場で“肉”を喰える店を探して予約を入れてもらうことにした。

旨い“肉”さえあれば、フィリップはいつもゴキゲン。話も弾む。日本のビールも『軽くていい!』と言うので、彼のリクエストも確かめずにそう決めた。

「東京」駅近くを指定したのは、そのロケーションなら、食事をゆっくり愉しんでも、最終かその1本前の“のぞみ”に乗れば、日付が変わらない内に大阪まで帰還可能だからだ。文字どおりの“弾丸ツアー”計画だった!!

しかし、気になるのはもちろん、フィリップの“相談事”の方だ!

バタバタと大阪でのその日の仕事の代役の段取りをつけ、前月フィリップが送ってくれた未出版の新作ブラスバンド曲のスコアだけをバッグに放り込んで、タクシーでJR「新大阪」駅へ急行。ホームに滑り込んできた午後2時頃の新幹線に飛び乗って上京した!

バッグに入れたスコアの曲名は、MUSIC OF THE SPHERES!

少し前の同年4~5月、スコットランドのグラスゴー(Glasgow)のロイヤル・コンサート・ホール(Royal Concert Hall)で行なわれた「第27回ヨーロピアン・ブラスバンド選手権(The 27th European Brass Band Championships)」で、他をぶっちぎって優勝を飾ったデヴィッド・キング(Professor David King)指揮、ヨークシャー・ビルディング・ソサエティ・バンド(Yorkshire Building Society Band / YBS)が、選手権本番で“オウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)”としてとりあげるため、フィリップに“委嘱”。その晴れの舞台で“世界初演”された新作だ。

インターネットの発展は、当時も日進月歩!

旧知のフランク・レントン(Lt.-Col. Frank Renton)がプレゼンターをつとめていたBBC放送ラジオ2の人気FM番組「リッスン・トゥー・ザ・バンド(Listen to the Band)」も、英国内で開催されたこの年の“ヨーロピアン選手権”に密着し、直後にハイライトをネット上で公開。筆者も、BBCウェブキャスト指定のリアルプレイヤー(RealPlayer)を使って、この放送を聴くことができた。日本に居ながらにしてだ!!

番組中、放送されたフィリップの新作は、残念ながら、短い抜粋だけだったが、こちらにとっては、それだけで十分すぎるインパクトがあった!ラジオのフランクも興奮気味に喋っているし、YBSの演奏もケタ違いの凄さだった!

早速、フィリップに短文の“おめでとうメール”を送った。

すると、たまたま家にいたのか、すぐ『YBSは、すばらしかった!本当に感動したよ!よかったらスコアを送るけど、感想を聞かせてくれる?』と返信があった。

こういう言い方を彼がするときは、間違いなく自信作だ。

『もちろん!』と短かく返答して、その日は床についた。

翌朝、メールでスコアが届いていることを確認。全部で489小節、85頁ある。すぐプリントアウトし、リーディングのため、A4サイズの分厚いクリア・ファイルに1頁ずつ入れていく。

その作業が終わり、あらためてスコアをみると、それは、とんでもない作品だった。冒頭のテナーホーンのソロも、放送されなかった部分の神秘的な美しさも魅力たっぷりで、“のるかそるか”というクライマックスのスピード感もしびれるような展開をみせていた。

ナマで聴けばきっと大興奮だろうな。フランクが興奮する理由もよくわかる。

フィリップには、『すばらしい!ボクは、これまでキミが書いてきた全作品の中で、間違いなく最高傑作だと思う!!確信をもって!!』とメール。彼もとても喜んでくれた。

6月1日に、急に決まった東京ミーティングと食事会は、それから3週間もたっていない日の出来事だった。

それは、フィリップの“相談事”から始まったことだったが、このスコアを持参するのも当然のことのように思えた。直接聞きたいこともいっぱいあったし….。

夕刻、約束した品川プリンスホテルで再会したふたりは、互いの健康や現状を確認しあった後、ロビーのソファーに腰掛けて最大の懸案について話し合った。

しかし、開口一番、彼が口にした“相談事”は、驚くべきものだった。

『ユキヒロ。この前キミがとても高く評価してくれた“MUSIC OF THE SPHERES”なんだけど、もし、それをウィンドオーケストラのために新たにオーケストレーションを施して作り直すとしたら、果たして大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)は、演奏してくれるだろうか?』

とんでもない相談を受けてしまった!

『それって、これのこと?』と、持参したファイルを慌ててバッグから取り出すと、フィリップは『そうだ!』と言い、なぜ市音にこの作品を託したいかという理由を延々と述べ始める。

最も大きな理由は、Bbクラリネット各パートに4人の奏者を配すなど、ほとんどのパートが偶数のプレイヤーで構成されていた当時の市音の編成が、彼にとって“理想的”な編成であったことだ。逆に言うと、それだけこの新作が自信作であり、あらためてウィンドオーケストラのために書くなら、その初演は、作曲者がイメージする理想的な編成でやって欲しいという願望のようだった。わからないでもない。

過去にさかのぼると、筆者は、1990年代を通じて何度か彼を大阪に招いており、『シンフォニエッタ第2番(Sinfonietta No.2)』が日本初演された1994年(平成6年)6月2日(木)の「第68回大阪市音楽団定期演奏会」(於:ザ・シンフォニーホール)では、彼は実際に客席でナマのライヴを聴いていた。

その後も、市音は、『オリエント急行(Orient Express)』、『シンフォニエッタ第1番(Sinfonietta No.1)』、『ディヴァージョンズ(Diversions)』、交響曲第1番『大地・水・太陽・風(Symphony No.1“Earth、Water、Sun、Wind”)』、『エンジェルズ・ゲートの日の出(Sunrise at Angel’s Gate)』、『カレイドスコープ(Kaleidoscope)』と、定期だけでも6曲のフィリップの作品をとりあげ、内4曲は日本初演だった。また、彼の他の作品のCDレコーディングも行なわれるなど、両者の関係はひじょうに良好だった。

『もし、市音が演奏してくれるならば、この夏、少し時間が取れるので、秋ぐらいまでに新たなオーケストレーションを完成させることができる。どうだろうか?』

もう、設計図は頭の中にあるようだった。

続けて、『できれば、来年の作曲賞にもエントリーしてみたいんだ!』とも言う。

時系列にそって話を整理すると、現時点からならパート譜も含めた全ての楽譜を年内に市音に渡すことは物理的に可能。当時、市音は、春と秋、年2回の定期演奏会を行なっていたので、演奏機会さえ得られるならば、世界初演は、自動的に2005年春の第90回定期演奏会(於:ザ・シンフォニーホール)という流れとなる。

しかし、この時点では同定期の指揮者は決まっていなかった。また、スコアがまだ出来上がっていない曲を果たして市音がスケジュールに上げてくれるかどうかは判断がつかなかった。

そこで、フィリップには、そういうハードルがいくつかあることを話し、『どうなるかは分からないけど、とにかく一度話をしてみよう。』と約束した。

難しい話はここまで!

その後は、タクシーでさっさと餌場へと出発。“肉”をたらふく喰いながら大いに盛り上がった。

しかし、実際には、帰路の新幹線車中も、頭の中は彼の夢の提案のことでいっぱいだった!

一体なんてことを頼まれてしまったんだ!!

宇宙の音楽』ウィンドオーケストラ版世界初演への胎動は始まった!!

▲チラシ – 大阪市音楽団第68回定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第69回定期演奏会(1994年11月2日、フェスティバルホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第76回定期演奏会(1998年6月10日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第80回定期演奏会(2000年6月16日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第81回定期演奏会(2000年11月9日、フェスティバルホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第83回定期演奏会(2001年11月14日、フェスティバルホール)

▲チラシ – 大阪市音楽団第86回定期演奏会(2003年6月6日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第106話 「祝典行進曲」の初演

▲アサヒグラフ臨時増刊 皇太子御結婚記念画報(朝日新聞社、1959年4月16日発行)

▲アサヒグラフ 皇太子御結婚記念画報第二集(朝日新聞社、1959年4月26日発行)

▲「朝日新聞」社告(昭和34年3月21日(土)朝刊、12版、11頁)

『私は、四拍子のマーチはけっして認めませんが、これだけは別です。』

2019年(令和元年)6月14日(金)、東京、杉並公会堂大ホールで催された「タッド・ウインドシンフォニー第26回定期演奏会」に向け、千葉県松戸の“森のホール21リハーサル室1”で行なわれた前2日の練習の初日、アンコール曲にとりかかる前の指揮者、鈴木孝佳さんが演奏家に向け発した一言である。

曲は、團 伊玖磨(1924~2001)作曲の『祝典行進曲』。

2019年(平成31年)4月30日限りで天皇を退位された上皇陛下がまだ皇太子だった頃、1959年(昭和34年)4月のご成婚に際し、東芝レコードの委嘱で作曲され、宮内庁を通じて献上されたグランド・マーチだ。

タッド・ウインドシンフォニーとは、2006年以来のおつき合いだ。『祝典行進曲』の練習は、一度通しただけで終わったが、ザッ、ザッと大地を踏みしめるようではなく、まるで宮殿の絨毯の上を優雅に歩むようなテンポ設定と進行は、とても新鮮だった。

しかし、演奏を聴きながら、筆者は、あまりにも有名なこの曲について、曲が世に産ぶ声を上げたあたりのことを、これまでほとんどリサーチする機会がなかったことに気づいていた。

もちろん、この曲が、その後、同年の「全日本吹奏楽コンクール」高等学校の部の課題曲として使用され、同11月15日(日)、八幡市民会館(福岡県)で開かれた全国大会では、関東代表の大宮工業高等学校吹奏楽団(指揮:秋山紀夫)が優勝。5年後の1964年(昭和39年)10月に開かれた「東京オリンピック」の開会式の入場行進でも演奏されたことなど、誰でも知っている基礎データは一応頭の中にあった。しかし、作曲時の意図や、初演奏がどのようなシチュエーションで行なわれたかという詳細になると、間違いなくリサーチ不足だった。

そこで、“これは良くない!!”と、エンジン始動!!

スイッチが入った筆者は、帰阪すると早速リサーチを開始した!!

すると、幸いにも、ヒントになりそうなものがいくつか出てきた。

1つは、ご成婚を祝して、東芝レコードがリリースしたEPレコード「祝典行進曲 / 越天楽」(東芝レコード、EC 1001、1959年)のジャケットに書かれた作曲者のノート「祝典行進曲について」だった。

レコードの演奏者は、團 伊玖磨指揮、東京ブラス・オーケストラ!

言うまでもなく、自作自演で録音された『祝典行進曲』の世界初のレコードだ。録音時の写真も掲載。ノートも作曲者本人が書き、それには作品発表当時の作曲者の率直な気持ちが綴られていた。その音楽史的な意味たるや、他と比ぶべくもない。

あまりに貴重な文章なので、ここに引用しておきたい。

『皇太子殿下の御成婚の盛儀に際し、この行進曲をつくり上げるよろこびは、私にとって、大きく、深く、且つ真面目なものでありました。

行進曲は、古来健康なものである筈なのですが、我が国では、その歴史が常に軍隊と結び付いていたために戦闘的な主題に限られたものが多く、躍動的な明るい行進曲が甚だ少なかったようです。

平和な明るさを持ち、そして気品と格調の高い今の世の中の行進曲を作りたい。それは私の前々からの願いでした。戦争という暗い目的のための行進曲と異なるスタイルを創り上げることが出来たとすれば、それは“お祝い”という希望が創らせてくれたのだと考えます。(團 伊玖磨)』(原文ママ、東芝レコード、EC 1001、1959年)

初演前に書かれた文章だけに、当然それに関わるデータはない。

しかし、近くに並べてあったもう1枚のEPがそれをカバーしてくれた。

それは、《第23話 ギャルド、テイクワンの伝説》でもお話したフランスのギャルド・レピュブリケーヌ初来日時の1961年11月16日(木)、杉並公会堂(東京)で、東芝音楽工業のリクエストで録音されたEP「ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集」(Angel(東芝音楽工業)、YDA-5001、1962年)だった。

ジャケットにはこう書かれていた。

『昭和34年皇太子・美智子妃の御成婚を祝して、東芝レコードが團伊玖磨(現東芝レコード専属)に委嘱して作った優れた行進曲です。同年4月国立競技場に7万の聴衆を集めて初演され、~(後略)~』(原文ママ、執筆者不詳)

演奏者と日が未確認だが、これで“いつ”と“どこで”が大方明らかとなった。

ここまでくると、新聞や雑誌など、当時の紙媒体が頼りになる。そう直感した筆者は、図書館や古書店に狙いを定め、片っ端からページを捲っていった。

すると、まず、「朝日新聞」昭和34年3月21日(土)朝刊掲載の社告「皇太子さま御結婚 祝賀吹奏楽大行進 四月十日 全国六十七都市で」と、同4月9日(木)夕刊掲載の記事「あす 各地で吹奏楽大行進」が出てきた。

それらをまとめると、皇居で挙式が行なわれた4月10日(金)、東京では、式後、午後2時30分に皇居を出発して東宮仮御所に戻られる馬車列を追う形で“吹奏楽大行進”(主催:東京都、朝日新聞社、協賛:全日本吹奏楽連盟、東京芝浦電気株式会社)が行なわれ、その後、午後5時30分から明治神宮外苑、国立競技場で“お祝いの夕”(主催:朝日新聞社、共催:東京都、協賛:東京芝浦電気株式会社)が開かれることが告知されていた。

『祝典行進曲』の曲名は、残念ながらどこにも見当たらなかったが、社告にある国立競技場の“お祝いの夕”で“ご成婚奉祝行進曲合同演奏 参加全音楽隊”とあるのが、どうやらそれらしい。そして、この2年後に録音されたギャルド盤に、国立競技場での初演が明記されていたので、その前に行なわれた“吹奏楽大行進”ではこの曲が演奏されなかったことが、ここで確認できる。

ナイターで行なわれた光の祭典「皇太子さまご結婚お祝いの夕」については、翌日の「朝日新聞」昭和34年4月11日(土)朝刊7頁の記事「「おめでとう」の人文字 お祝い気分最高潮 国立競技場、昨夜六万人集る」が写真4枚入りで詳報している。

その記事の中に『第二部の演技では、まずこの日のために作曲された「祝典行進曲」を音楽隊が合同演奏し、スタンドの奉祝気分ももり上がる一方。…』とある。

ついに、曲名が出てきた!

他方、「アサヒグラフ」1959年4月26日号には、『マスゲーム「御成婚祝典行進曲」では、女生徒1300人が紅白の懐中電灯で舞踏』とキャプションがつけられた写真が掲載されていた。映像や音で確認できた訳ではないが、第二部冒頭の初演の後、祭典のクライマックス近くの東京女子短期大学の学生と藤村高校の生徒による音楽マスゲームでもあるいはこの曲が流れたのかも知れない。

作曲者の團さんは、その後、有名なエッセイ集の第22巻「降ってもパイプのけむり」(朝日新聞社、1994年)の“祝典行進曲”(1993年6月25日~7月9日に執筆)の中で、曲の立案者が東芝レコードの砂田 茂専務と團さんで、具体化には同社の芦原 貢プロデューサーも加わったこと。太平洋戦争中、陸軍(戸山学校)軍楽隊の鼓手を務めた経験から旧軍の行進曲の構造や慣用作法を熟知しており、その匂いを細部まで払拭することにつとめたこと。今度は馬車のパレードなので、優雅で気品のある音楽を書こうとしたこと。国立競技場で初演を行なったバンドが、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空音楽隊、警視庁音楽隊、東京消防庁音楽隊、皇宮警察本部音楽隊、アメリカ第五空軍音楽隊の合同演奏だったこと。御成婚の馬車パレードで演奏されなかったのは、従来の行進曲とは違う書法の曲だけに暗譜が難しいという理由からだったことなどを明らかにされている。

最後に残るポイントは、初演指揮者が誰だったかの特定だが、前記新聞のモノクロ写真の解像度を上げてみると、国立競技場のフィールド上に、結構な高さの指揮用の仮設スタンドがいくつか組まれ、その上に人が立っているので、大人数の合同演奏の指揮は、副指揮者をたてて手分けして行なわれたのかも知れない。

仮にそうだとすると、指揮者を一人だけ特定することは、もはや大きな意味を持たない。

かくて、團 伊玖磨の『祝典行進曲』は、当時の皇太子殿下の御成婚を祝して東芝レコードの委嘱で作曲され、1959年(昭和34年)4月10日(金)、東京・明治神宮外苑、旧国立競技場で行なわれた「皇太子さまご結婚お祝いの夕」で、陸上自衛隊中央音楽隊、海上自衛隊東京音楽隊、航空自衛隊航空音楽隊、警視庁音楽隊、東京消防庁音楽隊、皇宮警察本部音楽隊、アメリカ第五空軍音楽隊の合同演奏で初演された。

あー、スッキリした!

これでグッスリ眠ることができる!

▲EP – 「祝典行進曲 – 越天楽」(東芝レコード、EC 1001、1959年)

▲同、ジャケット裏

▲EC 1001 – A面レーベル

▲EC 1001 – B面レーベル

▲團 伊玖磨著「降ってもパイプのけむり」(朝日新聞社、1994年2月1日、第1刷)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第105話 オランダ海軍がやってきた

▲プログラム – 日蘭交流400周年記念演奏会(2000年4月22日、京都コンサートホール)

▲同、演奏曲目

▲オランダ王国海軍バンド(1999年頃)

▲「世界の艦船」2000年7月号(海人社)

『ユキヒロ~!!いいところにいた!』

オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)から、そういって声が掛かったのは、1996年12月、米イリノイ州シカゴ市内のホテル“シカゴ・ヒルトン&タワーズ”で開催された“第50回ミッドウェスト・インターナショナル・バンド&オーケストラ・クリニック(The 50th Annual Mid-West International Band & Clinic)”で、展示プースを冷やかしてまわっている時だった。

声がする方を振り向くと、そこには、ヨハンと並んで、誰が見てもそれとわかる海軍のユニフォームをピシッと決めた人物が、後方に副官を従えて立っていた。

『友人を紹介しよう!オランダ海軍の新しい指揮者、モーリス・ハマース(Maurice Hamers)だ!』と、ヨハンは言った。

オッと、少し驚いたふりをしながら、初対面の握手を交わす。

それにしても、若い!!

ハマースは、1962年11月9日、オランダ南部、リンブルフ州ファルケンブルフ・アーン・デ・ヘウル(Valkenburg aan de Geul)の生まれ。マーストリヒト音楽院にトランペット、及びウィンドオーケストラとファンファーレオルケストの指揮法を学んだ。

1989年、ケルクラーデの指揮者コンクールで、シルバー・バトン賞を授与され、作曲家、編曲家としても活躍。1995年12月、ヘルト・バイテンハイス(Gert Buitenhuis)の後を受け、オランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)の音楽監督、首席指揮者となった。

1945年創設の海軍バンドの第6代音楽監督である。

ただ、ハマースは、それまでの音楽監督とある点で立ち位置が異なっていた。

彼より以前の音楽監督が、全員、一度は海軍バンドの奏者としての演奏経験があったのに対し、ハマースが、海軍初、民間人指揮者からのいきなりの登用だったからだ。

そんな背景も手伝って、当時、彼の動向は世界的にたいへん注目を集めていた。もちろん、筆者もまた、この“時の人”といずれ連絡をとりたいと思っていた。

それだけに、偶然のこの出会いに筆者もやや興奮気味で、ヨハンを交えた3人は、しばし時を忘れるかように会話を愉しんだ。

ハマースといろいろ喋った中で、もっとも印象に残ったのは、日本への演奏旅行を計画しているという話だった。そして、彼は、筆者への表敬のしるしとして、副官に命じ、バッグから1枚のCDを取り出させた。

それは、オランダ海軍とロシア海軍の交流が始まって“300周年”にあたる1996年に制作された「Hommage A Saint Petersbourg(サンクト・ペテルブルクに捧ぐ)」(Naval、88134-2)というタイトルのバンドの自主制作盤だった。(ジャケットが違う別番号の市販盤もある / World Wind Music、500.019、1996年)

海軍の歴史を紐解くとわかるが、創設された当時のロシア海軍は、オランダ人の指導を受けていた。言い換えるなら、オランダ海軍は、ロシア海軍の先生という訳だ。

ハマースはまた、『我々海軍バンドは、この前サンクト・ペテルブルクに招かれ、“ピョートル大帝イヤー”のオープング・コンサートを行なった。』と誇らしげに言う。

なるほど、国どうしの何周年というようなオフィシャルな記念の年にはバンドが動きやすい訳か。よく分かった。ただ、オランダの歴史に疎い筆者は、それがどうして日本演奏旅行につながるのか、この時はまるで気づかなかった。

しかし、世界屈指と謳われるこのバンドがやってくるのは、もちろん大歓迎だ!

そこで、帰国後、大阪市音楽団首席指揮者で、オランダ海軍バンドのOBでもあるハインツ・フリーセン(Heinz Friesen、参照:《第104話 ハインツ・フリーセンの逝去》)に会って、この話を振ってみた。

すると、彼は意外なことを口にした。

『ハマースか…。彼は海軍バンドの中で少し浮いているんだ。ベテラン連中は、彼が“私が長だ ” と言って、我々の言うことをまるで聞いてくれないとこぼし、よく電話をかけてくるんだ。』

困り果てたようなその表情に、この先ハマースの計画がうまく運ぶのかどうか、少し懐疑的になってしまった。また、その後、音沙汰もなかったので、時の経過とともに、シカゴで聞いた話もまた、忘却の彼方へと遠ざかってしまった。

ところが、2000年の始め頃にかかってきた一本の電話から、話は俄かに現実化する!

それは、大阪市音楽団を1998年に定年退職し、当時、名誉指揮者だった木村吉宏さんからの電話だった。無論、自宅からの電話だ。

『あんたなぁ、この話、聞いとる(聞いているか)?』といきなり切り出されたので、“なんでしょう”と返すと、『オランダの海軍が日本でコンサートをやるんやけど、トランペットを一人貸せと、フリーセンを通じてマネージに言うてきとーんのや(マネージャーに言ってきてるんだ)。そのFAXをマネージが俺のところへまわして来よってな(来たんだよ)…。』

そうか、ついにやってくるのか!?

瞬間的にいろいろなことを思い出した筆者は、まずシカゴでの話をし、その後に、なぜトランペットが必要なのかを訊ねた。

すると、『それがなぁ、奏者が急病で来られへん(来日できない)ようになったらしいんや。しかし、俺も退職して現職ではない部外の身やし、今は“たっちゃん(龍城弘人さん)”が(団長を)やっとるやろ。フリーセンも今は首席指揮者じゃない。こっちで勝手に動かれへんし(動く訳にはいかないし)、どうしたらいいと思う?』と逆に訊かれる。

どうやら“音の数”が足りなくなるという音楽上の理由のようだった。いかにも、オランダ海軍らしい。しかも、一日だけでいいという話だったので、よっぽどのことなんだろう。そこで、『これは、正式に“日蘭親善”と“緊急事態”という理由をつけて音楽団に話を通されたらいいんじゃないでしょうか。ちゃんと判断してくれますよ。』と答えた。

その後しばらくして、2000年4月22日(土)、京都市、京都市音楽芸術振興財団、在大阪・神戸オランダ総領事館、京都府吹奏楽連盟、朝日新聞社が主催する「日蘭交流400周年記念演奏会」(京都コンサートホール 大ホール)には、市音トランペット奏者の村山広明さんが友情出演することになったと聞かされた。

京都が選ばれた理由は分からないが、これは、大分・臼杵沖の黒島にオランダ船が漂着し、ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)が上陸して、日本とオランダの交流が始まってから400年を記念する演奏会だった!

まったくの不見識で恥じ入るばかりだが、後日調べると、月刊誌「世界の艦船」の2000年5月号と7月号(海人社)に、長崎と臼杵を出航した4隻からなるオランダ艦隊が、4月21~22日に大阪港に親善入港するという記事が、また、「毎日新聞」(2000年4月22日、大阪版夕刊)には、大阪国際会議場で開かれた“日蘭交流400周年記念シンポジウム”の開会式(4月22日朝)のために、オランダ皇太子が来阪されていることを伝える記事が掲載されていた。

演奏会は、国と国とを結ぶ交歓プログラムの一部だったのだ!

オランダ側からみると、そんなオフィシャルなコンサートでおかしな演奏などできない。後日、村山さんに訊くと、指揮者のハマースが『もし費用が発生するなら、自分のポケットマネーから出すから…。』というほど、本気モードだったという。

後年、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんとこの演奏会について、二人で盛り上がったことがある。そのとき、溝邊さんはこう言われた。

『本当にすばらしい演奏でした!そう言えば、日本人がひとり(ステージに)いました。普通のステージ衣装の。しかし、9割方ほとんど埋まっている会場をくまなく見渡したんですが、私の知る限り、吹奏楽関係者は2、3人しかいませんでした。ほんま(本当)です。こんないいものをなぜ聴きにこないんですかね?』

同僚の村山さんが出るということで聴きにいった市音トランペット奏者の田中 弘さん(後に団長)も、演奏を賞賛していた一人だ。

オランダの管楽器奏者の間では、“ロッテルダム・フィルとオランダ海軍のオーディションに同時にパスしたら、どっちにいくか本当に迷う”とまで言われるぐらい、ステータスの高い海軍バンド!

たいへん驚いたことは、帰国直後、ハマースがバンドを辞し、ドイツのニュルンベルク・アウグスブルク音楽大学(Hochschule fur Musik Nurnberg-Augsburg)の指揮法と楽器法の教授になってしまったことだろうか。ゴーイング・マイ・ウェイとは、このことだ!

来日中、ただ一度だけホールで行なわれた古都・京都での海軍バンドの演奏会!

それは、ハマースにとっても、海軍在職中、最後のホール・コンサートとなった!

▲ CD – Hommage A Saint Petersbourg(Naval、88134-2、1996年)

▲88134-2 – インレーカード

▲CD – It’s so nice to meet The Brazz Brothers(Naval、4010、1996年)

▲4010 – インレーカード

▲CD – Zorg dat je erbij komt(Naval、1800、コンピレーション)

▲1800 – インレーカード

▲CD – Masters of Show(Naval、4030、1998年)

▲4030 – インレーカード

▲CD – Wait of the World(Naval、NAV3030、1999年)

▲NAV3030 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第104話 ハインツ・フリーセンの逝去

▲「いちょう並木」1995年8月号(大阪市教育振興公社)

▲CD – 「シンフォニエッタ~水都のスケッチ~」(Fontec、FOCD9204、2004年)

▲同 – インレーカード

2019年(令和元年)10月23日(水)、ヨーロッパから一通のメールが届いた。

差出人は、ハルムト・ヴァンデルヴェーン(Garmt van der Veen)。かつて、ヤン・デハーン(Jan de Haan)とともに、音楽出版社のデハスケを立ち上げ、現在もハル・レナード・ヨーロッパの役員をつとめる人物だ。

メールは、“今朝、指揮者ハインツ・フリーセンが、入院先のブレダ(Breda)の病院で息をひき取った”という悲しい知らせだった。

享年は85歳。

日本における指揮活動が、唯一、大阪だけだったため、彼の名は、他の地域に住まいする方には、あまりなじみがないかも知れない。

しかし、筆者にとって、彼の音楽との出会いはあまりにも衝撃的で、失ったものの大きさは、本当に計り知れない。学んだことも多かった。

彼とはじめて言葉を交わしたのは、《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》でお話した1993年6月のアムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)のレコーディングのときだった。

彼とはすぐに打ち解け、リハーサルやセッションを通じてすっかり意気投合!

帰国後、そのセッション映像を見た大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)団長(当時)の木村吉宏さんがほれ込んで、1995年からの3シーズン、市音首席指揮者として招聘。首席指揮者退任後も、2003年11月21日(金)の「第87回大阪市音楽団定期演奏会」(フェスティバルホール)の客演指揮者としてアンコール招聘された。(参照:《第69話 首席指揮者ハインツ・フリーセン》

その“第87回定期”で、作曲者を客席に招き、世界初演された委嘱新作が、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のシンフォニエッタ『水都のスケッチ(Suito Sketches)』だった。

履歴を紐解くと、フリーセンは、1934年7月16日、オランダ南部、リンブルフのブリュンスム(Brunssum)の生まれ。

デンハーフ(Den Haag)音楽院で、オーボエをヤープ・ストテイン(Jaap Stotijn)に、オーケストラ指揮法をロークス・ヴァンイーペレン(Rocus van Yperen)、ピート・ケッティング(Piet Ketting)、ヴィレム・ヴァンオッテルロー(Willem van Otterloo)に師事。

ブラバント管弦楽団(Brabants Orkest / 現在の南ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団 Philharmonie Zuidnederland)をへて、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(Rotterdams Philharmonisch Orkest)のソロ・オーボエ奏者となり、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(Koninklijk Concertgebouworkest)とも何度も競演した。古巣ブラバント管弦楽団や自ら立ち上げた室内楽団のコンセルト・ロッテルダム(Concerto Rotterdam)の指揮者としても活動。母校デンハーフ音楽院のオーボエの主任教授を20年間つとめた。ウィンド・ミュージックのフィールドでは、オランダ初の民間プロ・ウィンドオーケストラであるアムステルダム・ウィンド・オーケストラの創設者、音楽監督であり、コミュニティーのウィンド・オーケストラであるトルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn、参照:《第99話 トルン聖ミカエル吹奏楽団訪問記》)、オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz、参照:《第98話 アルプス交響曲とフリーセン》)などを率い、輝かしい成果を残している。

意外なところでは、1991年4月27日(土)、ロッテルダムで開催された「ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1991」のガラ・コンサートに出演したブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)を客演指揮したこともあった。

シンフォニー・オーケストラからウィンドオーケストラ、さらにはブラスバンドまで、プロとアマを分け隔てることなく、真正面から音楽と向き合ったフリーセン。

その彼が、自らのバンド・ミュージックの関わりについて語ってくれたことがある。

1995年(平成7年)7月4日(火)、大阪夏の風物詩、大阪城音楽堂で開かれる「たそがれコンサート」に向けての練習後、フリーセン御用達の近くの居酒屋「与作」でだった。

彼の夕食のメニューは、大阪で覚えたマグロの刺身とビールのみ!!

そのとき聞いた話によると、ブリュンスムの彼の実家の裏には、村のバンド(ファンファーレ・オルケスト)の練習場があり、小さい頃は、いつもその練習場の入り口に座ってマーチの練習を聴いていたそうだ。当然、音楽のレッスンもそのバンドに参加した8歳のときに始まり、最初に与えられた楽器はホルンだった。やがて、そのバンドがファンファーレ・オルケストからウィンドオーケストラに編成替えされることになると、つぎに受け持たされたのがクラリネット。しかし、あるとき、ラジオから聞こえてきたオーケストラのオーボエの音に魅せられ、11歳のときにオーボエに転向する。

ところが、オーボエを勉強するとなると、地元には先生がいなかったため、どうしてもデンハーフまで長い時間をかけてレッスンに通わねばならなかったという。

やがて、オランダ国民の義務として、徴兵を迎える。

短い履歴にはほとんど出てこないが、オーディションにパスしたフリーセンは、音楽院に学ぶ傍ら、1954年から1960年までの6年間、世界的に有名なあのオランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)に、第1オーボエ奏者として在籍。ブラバント管弦楽団のソロ・オーボエ奏者になったのは、兵役明けのことだ。

当時を振り返って、彼は、海軍にいたこの時期は、ものすごい勉強と練習ができたし、実地も体験できたとてもいい時だったという。

今もヨーロッパ最高水準と謳われる吹奏楽を肌身をもって体験したわけだ。

(余談ながら、オランダ王国は、冷戦終結後、召集を停止しているが、制度としての徴兵は今も廃止されていない。)

フリーセンは、、ウィンド・ミュージックへの顕著な業績により、オランダ女王から“シャブリエ級”文化勲章”を授けられた。

アメリカのフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)やアルフレッド・リード(Alfred Reed)も一目置く存在だった。

人と人とのつながりは、本当に不思議なものだ。ちょっとした縁と偶然の重なり合いが何かを生み出す原動力になったりする。

『水都のスケッチ』の世界初演をナマで聴いて感動したヤンは、帰国後、デハスケに働きかけ、すでに国内リリース(CD:「シンフォニエッタ~水都のスケッチ~」、Fontec、FOCD9204、2004年)が決まっていた当日のライヴからこの曲だけをピックアップし、オランダでCD付きスタディー・スコアとして発行されたことがあった。

そのプロジェクトを担ったのが、冒頭のメールを送ってくれたハルムトと筆者だった。

何もかも懐かしい。

フリーセンの訃報が伝わると、その日の内に、ロッテルダム・フィルをはじめ、彼と縁のあった多くの楽団や団体がホームページで大きくそれを伝えた。

ハルムトのメールを受け取ったその日は、ヤンや海外の友人たちと故人を偲んで想い出を語り合う一日となった。

▲スタディー・スコア – Sinfonietta~Suito Sketches(蘭de haske、2004年)

▲同附属CD

▲▼プログラム – 創立80周年記念 第87回大阪市音楽団定期演奏会(2003年11月23日、フェスティバルホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第103話 ブラック・ダイク弾丸ツアー2019

▲ニックから送られてきた広報資料ファイルのカバー

▲チラシ – SAYAKAホール開館記念25周年記念公演 – ブラック・ダイク・バンド(2019年10月27日、大阪狭山市)

▲同 – プログラム表紙

▲同 – 演奏曲目

2019年(令和元年)10月27日(日)、筆者は、快調に走る南海電鉄高野線急行の心地よい揺れに身を委ね、一路、5度目の来日を果たしたブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)のツアー初日のコンサートが行なわれる大阪狭山市文化会館SAYAKAホールを目指していた!

これは、《第72話 史上最低のコンサート鑑賞記》でお話した2016年のツアーにつづき、翌年の2017年ツアーでも見事にスルー(つまり2年連続スルー!! もう、笑うしかない)された関西では、実に“29年ぶり”となるブラック・ダイクのコンサートであり、1989年の「チャイルズ・ブラザーズ・ツアー」(参照:《第14話 チャイルズ・ブラザーズの衝撃》)以来のつきあいとなる音楽監督のニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs、親称:ニック)や、2013年に大阪でソロ・リサイタルを成功させたプリンシパル・コルネット奏者リチャード・マーシャル(Richard Marshall)に、『なぜ、いつも大阪は素通りになるんだ!』と顔を合わせるたびに苦情を申し立てていた筆者としては、行きがかり上、万難を排し、何としても顔を出さねばならないものだった。

とは言っても、もうすぐそこに山がせまる大阪府南部の大阪狭山市は、筆者が暮らす大阪市内からは意外と遠い。そんなロケーションから、ホールのサービスエリア外とみなされていたのか、筆者がよく訪れる大阪市内のいくつかの楽器店でも公演のチラシはついぞ見かけなかった。かつてニックやリチャードのリサイタルを開いた三木楽器でも、“来日それ自体”を知らなかったので、ひょっとすると、この日のコンサートを見逃してしまった大阪ピープルは、意外と多かったかも知れない。

それはさておき、日本の多目的ホールでブラスバンドのバランスのいい音を愉しむには、座席のポジショニングが結構重要なポイントとなる。幸い、会場となっていたSAYAKAホールの大ホールは、大阪市音楽団のレコーディング等で経験していたので、ホール音響の性格もよくわかっていた。そこで、チケットは、ネット購入ではなく、直接ホールに出向いて座席表を見ながら購入した。

都合、この日のコンサートのために、南海電車で二往復したことになる。

まあ、それほどにまでにこだわった上で、彼らのナマが聴きたかったわけだ!

こうして迎えた当日。ホールに到着すると、まず、よく外来バンドのコンサートでご一緒する全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんから声がかかった。ついで、その輪に加わったのは、ブリーズ・ブラス・バンド常任指揮者の上村和義さん夫妻で、それに、かつてリチャード・マーシャルとのジョイントを成功させた泉大津市吹奏楽団(大阪府)の団長、岩田雅之さん夫妻も加わるといった具合に、どんどん輪が拡がっていく。

これだから、ブラスバンドのコンサートは愉しい!

ホールに入ってからも、かつてブリーズが国内ツアーをしたときに2度もコンサートを設けていただいた長野県松本市のBritish Brass DOLCE(ブリティッシュ・ブラス・ドルチェ)代表の荒木信明さんや元ブリーズで今は大阪コンサートブラスでテナーホーンを吹く杉浦青也さん夫妻らが加わり、もうまるで同窓会のノリだ。

今日が何の日だったのか、忘れてしまいそうだ!

イギリスでは、“ブラスバンドをやっているものは皆ファミリーだ!”という言葉をよく聞く。日本にもそんな空気が生まれてきたのかも知れない。

プログラムにも、大阪ハーモニーブラス、インモータル・ブラス・エターナリー、大阪コンサートブラスのコンサートのチラシが挿まれ、DOLCEの荒木さんも、2020年3月に開かれる“30周年記念コンサート”のチラシを知人に渡している。

ホールの人には申し訳ないが、もう完全に社交場だ!

1990年にブリーズ・ブラス・バンドが関西で一人ぼっちで立ち上がった頃とは明らかに違う空気が流れていた!

さて、そんな盛り上がった空気の中、ステージに登場したブラック・ダイクは、やはりブラック・ダイクだった!

彼らは、前日の10月26日に来日したばかりで、いきなり母国では真夜中から早朝にかけての時間帯のマチネのコンサートはかなりキツいはずだ。旅の疲れも時差の影響もあっただろう。さすがに冒頭は、ホールの響きを確かめるようなノリで、珍しく少しアンバランスなところも散見されたが、そこはブラック・ダイク!すぐにホールの個性を捉えてブリリアントなサウンドが鳴り出し、プログラムの進行とともに、しり上がりのパフォーマンスとなっていく。

『すごい音ですねー!?』とは、ピーター・グレイアム(Peter Graham)の注目作、交響詩『ダイナスティ(Dynasty)』のフィナーレのコードが鳴り響いた後で、溝邊さんが思わずもらした一言だ!

また、プリンシパルのリチャードはもちろん、フリューゲルホーンのゾーイ・ロヴァット=クーパー(Zoe Lovatt-Cooper)、テナーホーンのシオバン・ベイツ(Siobhan Bates)、バリトンのカトリーヌ・マーゼラ(Katrina Marzella)、トロンボーンのブレット・ベーカー(Brett Baker)、ユーフォニアムのダニエル・トーマス(Daniel Thomas)、Ebバスのギャビン・セイナー(Gavin Saynor)という、ブラック・ダイクが誇る個性豊かなソロイストたちも聴衆を魅了した。

アンコール(この日は、グレイアムの『ゲールフォース』)の後、ホワイエでは、右から左にブレット・ベーカー、リチャード・マーシャル、シオバン・ベイツ、ギャビン・セイナー、ダニエル・トーマス、そして、指揮者のニックの順に並んで座り、サイン大会の開始!

もちろん列に並んで顔を見せると、リチャードもニックも、顔をくちゃくちゃにして喜んでくれた。

ニックが『いつ以来だ?』と言うので、『何年にもなるかな。』と曖昧に答えると、大袈裟なジェスチャーで“それはダメだ”という。

ところが、“2019年ツアー記念”のCDブックレットにサインを入れてもらったとき、いつものようにニックに『日付も!』とリクエストしたところで、事件発生!!

彼は、何を勘違いしたのか(たぶん時差の疲れだろう)、間違えて“10/26(26-10-2019)”と書いてしまい、アレ?そこにいたみんなで大笑いとなった!

『日本到着日のこの日付は、ある意味レアものかも知れませんね!』と、隣りにいた顔なじみのツアーコンダクターに言われて、“それもありか”と思って、あとの人に場を譲ったが、そのとき、“ツアーCD”の売り場に顔なじみのアリスン(Alison Childs。ニックの奥さんで、テナーホーン奏者)が立っているのを発見!

ブックレットを見せて、『ニックが日付を間違えたんだ。』と言うと、『まあ、なんてことでしょう。ラインを引いて消しましょうか?』と返してきたので、『いやいや、その上のスペースに“あなたのサイン”と“正しい今日の日付”を書いてくれれば、それでOK!』とリクエストして、笑顔で一件落着!!

この日につづき、ブラック・ダイクは、10/29(火) 札幌文化芸術劇場hitaru(19:00)、10/31(木) 東京芸術劇場コンサートホール(19:00)、11/1(金) 四日市市文化会館第1ホール(19:00)、11/2(土) すみだトリフォニーホール(15:00)の4公演。それに加えて、11/1の朝9時から、J-WAVE(81.3 FM)の“MUSICLICK!”にナマ出演もあるというから、口アングリの弾丸ツアーとはこのことだ!

日本人の体力なら、まず無理かな?

あっ、忘れていたゾ!

この日会った人の中に、“5公演をすべて聴く”という猛者がいたことを!!

(どうか“離婚案件”にまで発展しないことを心よりお祈り申し上げます…。)

イギリス発祥のラグビーではないが、彼らの凄さとチームワーク、そして音楽への献身をあらためて感じた一日だった!!

▲ CD – Tour of Japan 2019(自主制作、WOS 148)

▲同 – 演奏者リスト

▲同 – サイン用の頁

▲同 – インレーカード

▲チラシ – ブラック・ダイク・バンド札幌公演(2019年10月29日)

▲チラシ – ブラック・ダイク・バンド東京公演(2019年10月31日、11月2日)

▲チラシ – ブラック・ダイク・バンド四日市公演(2019年11月1日)