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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第161話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」への旅

▲東京文化会館ユニバーサルガイド

▲▼図解!東京文化会館・音楽資料室

2021年(令和3年)の年の瀬、もうあと少しで寅年の新しい年を迎えようとしていた12月18日(土)、筆者は、JR「新大阪」駅10時09分発、東海道新幹線“のぞみ8号”に飛び乗り、一路東京を目指した。どうしても年内に解決しておきたいテーマが出てきたからだ。

その命題とは、前話の《第160話 オール関西の先駆者たち》の中でもお話しした、かつて兵庫県西宮市立今津中学校教諭として同校吹奏楽部の指導にあたり、全国的にその名を知られた得津武史さん(1917~1982)が月刊誌「バンドジャーナル」(管楽研究会編集、音楽之友社)に連載した自伝エッセイ「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の全貌をリサーチすることだった。

掲載当時、得津さんが本音で綴ったこのエッセイは、吹奏楽をこよなく愛す人々がこれまた吹奏楽をこよなく愛す人に向けて執筆、責任編集した本作りに特化していた“管楽研究会編集”当時の「バンドジャーナル」の中でもかなり異色の連載で、全国的に大きく話題を呼ぶ読み物となった。(参照:第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》)

筆者も、若い頃に何回かバックナンバーで読んだ記憶があり、2006年(平成18年)に刊行された西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう)にもリライトされて引用されていることは知っていたが、実のところ、オリジナルの連載がいつ始まって、いつ終わったものだったかについては、まるで情報を持ち合わせなかった。“昔、読んだことあるなぁ”という程度の記憶である。

ところが、2021年の7月からOsaka Shion Wind Orchestraの事務局に加わった齋藤庸介さんから個人所有の1966年(昭和41年)1月号を見せられ、あらためて得津さんの懐かしい文章に接した瞬間、筆者の中で何かがスパークした!

書いた人の人となりが伝わるオリジナルを埋もれさせてはならない!

殊に、伝説の多い個性の塊りのような人物については!

だが、瞬間的にそうは思ったものの、実際に半世紀以前の雑誌情報を見つけ出すのはなかなか至難のワザだった!

ただ、齋藤さん手持ちの1966年1月号に掲載されていたのが“第20篇”と“第21篇”だったことから逆算すると、連載が1965年のいずれかの時点から始まったことだけは、ほぼ間違いなかった。

その一方、その後どこまで続いたのかについては、現物を当たるしか方法が見あたらなかった。ただ、幸いなことに、手許に1967年1月号、3~7月号、10~12月号の現物もしくはコピーがあり、それらには「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の頁がまったくなかったので、いかにも短絡的だが、1966年12月号あたりまでチェックできれば、ほぼ全貌がつかめるのではないかと予想できた。

そこで、いつものように、図書館データに蔵書検索を掛ける。

しかし、この当時の雑誌は蔵書がまるでなかったり、蔵書していても欠号が多いものだ。加えて、コロナ禍で一般に蔵書を開放していないところもあったりで、専門大学を含め、希望がかなう図書館は地元では見つからなかった。

こうなると東京に出張るしか手段がない。もっとも頼りになるのは、国立国会図書館だが、入館は時間帯で予約抽選制となっていたので、筆者のように田舎から出張るものには、不便なことこの上ない。検索のエリアを広げると、以前「月刊吹奏楽研究」(月刊吹奏楽研究社)の閲覧で利用したことがある東京文化会館の音楽資料室に、閲覧希望号が蔵書されていることがわかった。コロナ禍のため、利用時間に制限(換気のための途中閉館など)があったが、泊りがけで2日もあれば、希望資料の閲覧と必要箇所のメモ出しや複写が可能だと思えた。

そこで、1年3ヵ月ぶりの上京をいきなり決定。筆者の乗る“のぞみ”は、前夜からの関ヶ原付近の大雪による遅れも「名古屋」駅以東の爆走でかなり取り戻したようで、およそ11分遅れで「東京」駅に到着。「上野」駅界隈で昼食を済ませ、音楽資料室に入った。

資料室では、半年分ごとに合本として綴じられている1965年1月号から1966年12月号までの24冊を1頁ごとめくりながらチェックし、「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の頁を探し出し、同時に休載号の有無もチェックした。

その結果、掲載号とエッセイ中の各小題は以下のとおりだった。

【1965年1~6月号】《掲載なし》

【1965年7月号】吹奏楽部の息子達と一緒に
(掲載初回)

この道を行く
その瞬間
文化さい果ての地
死んでもラッパは離しません

【1965年8月号】吹奏楽部の息子たちと一緒に
(目次頁の表記:吹奏楽部の息子達といっしょに)

(5)吹奏楽部に入るならヘルメットをかぶれ!
(6)物は使いよう
(7)アサター・ヒルター・ナイター

【1965年9月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(8)三六二日
(9)お弟子制度
(10)精神注入棒
(11)あいつ、コロシタル!

【1965年10月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(12)合言葉
(13)予算のとり方
(14)新兵器登場
(15)ジャリ・ゴミ・チリ

【1965年11月号】《掲載なし》

【1965年12月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(17)阪神キチガイ
(18)アルバイト
(19)夏の演奏旅行

【1966年1月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(20)今年もまた
(21)わが恩師

【1966年2月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(22)わが交友録

【1966年3月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(23)わが参謀録
(24)オカヤン

【1966年4月号】《掲載なし》

【1966年5月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(25)ホントに不思議な話
(26)おヨメさんさがし
(27)おもろいヤツら

【1966年6月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(28)送別会の演説のこと
(29)卒業する息子の中から

【1966年7月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

(30)得津比紗子先生方 たけしさま
(31)校長先生のこと

【1966年8月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

ソーセージのこと
市会議員立候補のこと
Aのこと
マニキュアのタコハチ
ワルターズ氏との会話

【1966年9月号】《掲載なし》

【1966年10月号】《掲載なし》

【1966年11月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに

○吹奏楽と野球のこと
○息子たちのアタマ
○わが教育長の巻
○演奏旅行の良いところ
○大マネージャーの松ちゃん

【1966年12月号】《掲載なし》

予定どおり、この日は、以上24冊の内容を確認。タイトルに微妙な使用文字の違いやナンバリングのズレ、《休載》もあったが、ついに2年間に13回掲載された人気エッセイを読むことができた。

また、事前チェックで、この後につづく1967年1月号、3~7月号、10~12月号の9冊には掲載がないことは確認済みだったので、普通に考えるなら、連載もここで終わった可能性があると思われたので、この日はここで調査を一旦終了。池袋のホテルにチェックインした。

翌19日(日)の朝食後、メモ類を点検して、複写モレの有無や追加必要事項を確認するため、再び上野の音楽資料室に参上した。午前中の冷静なアタマでもう一度現物と付き合わせるためである。

しかし、上野に向かう山手線の車中、ふとある不安が頭をよぎった!

ひょっとして、大阪で確認できなかった1967年2月号、8月号、9月号に何かあるかも知れないという心配性特有の直感である。

というのも、《休載》中の1966年10月号に、米盗勉(べいとうべん)さんの「今津中にもの申す」、同12月号にも、鈴木竹男さん(1923~2005)の「得津武史先生の西宮市民文化賞受賞」というエッセイつながりの記事を見つけたからだ。言うまでも無く、当時、阪急少年音楽隊や阪急百貨店吹奏楽団の指揮者として活躍中の鈴木さんは、かつて今津中学校吹奏楽部を創り、関西有数の中学校バンドに育てたあとを得津さんに委ねた前任の指導者であり、実際、記事中にも得津さんの秘話がいくつか語られ、とても面白かった。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)

そして、結果からいうと、筆者の悪い予感は見事的中した。新たに資料請求した上記3冊の内、1967年2月号にも、もう一本、「吹奏楽部の息子たちといっしょに」が見つかったのだ。

そこで当然、前記リストには、以下を加えねばならない。

【1967年1月号】《掲載なし》

【1967年2月号】吹奏楽部の息子たちといっしょに
(掲載最終回)

おめでとう、豊島第十中学校
涙・いろいろ
拝啓 審査員殿
ありがとう、東北のみなさん

【1967年3~12月号】《掲載なし》

以上が、「吹奏楽部の息子たちといっしょに」のすべてである。

2021年の大晦日、わが家恒例の清荒神参りの道中、かつて梶本りん子マーチングスタジオに所属した弟と得津さんの話題でひとしきり盛り上がった。

聞けば、あるとき電話番をしていると、“梶りんさん”から『得津先生から電話がかかってくるから、くれぐれも粗相のないように。』と言われたことがあったそうだ。しばらくして電話がかかってくると、電話の相手は名乗ることなく、『ワシや!』とだけ言い、いきなり用向きを話したという。弟は、聞いていたからすぐ誰かわかったけれど、吹奏楽の指導者の中に『ワシや!』で通じる人がいると知って面喰ってしまったんだそうだ。

今、この『ワシや!』を覚えている人がどれほどいるだろうか。エッセイに触れた結果、遠い日々を思い出してしまった年末の午後だった。

▲LP – 栄光のトクツ・サウンド(日本ワールド、W-80005)

W-80005 – A面レーベル

▲W-80005 – B面レーベル

▲LP – 栄光のトクツ・サウンド 2(日本ワールド、W-80010)

▲W-80010 – A面レーベル

▲W-80010 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第160話 オール関西の先駆者たち

▲「バンドジャーナル」1966年1月号(管楽研究会編集、音楽之友社、齋藤庸介氏所蔵)

▲「バンドジャーナル」1964年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社、同所蔵)

『全日本吹奏楽連盟理事長で、現在、大阪フィルハーモニー常任指揮者である朝比奈隆氏は、私にとってかけがえのない大親分である。昭和十二、三年、音楽学校以来、ずっとお世話になっている(無論公私ともに)。毎年、元旦には、この大親分のところへ、あいさつに行くのが常であるが、今だに必ず、学生時代のエンマ帳を出して来て、楽式論は四〇点だったとか、音楽美学はなってなかったとか私の頭の弱かったことを強調してクダサル。,,,,。』(原文ママ)

兵庫県西宮市立今津中学校教諭として同校吹奏楽部の指揮にあたり、日本のアマチュア吹奏楽をリードした指導者のひとりだった得津武史さん(1917~1982)が、1965~66年(昭和40~41年)にかけて、月刊誌「バンドジャーナル」(管楽研究会編集、音楽之友社)に執筆した「吹奏楽部の息子たちといっしょに」という自伝エッセイで、1966年1月号の71頁に掲載された第21篇“わが恩師”の冒頭部の引用だ。

21世紀になってから刊行された西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう、2006年)にも、小題を“わが恩師、わが親分!”と変え、一部リライトされて引用されているので、そちらで読んだ方も多いだろう。

この一篇では、まず、得津さんが、朝比奈 隆さん(1908~2001)が大阪音楽学校(現大阪音楽大学)で教鞭をとった頃の教え子であることが語られ、ついで、その偉大なる恩師をもったがために、毎年恒例の年賀の挨拶の際、昔の成績の話を持ち出されて、冷や汗をかかされたということがユーモアたっぷりに綴られている。因みに、得津さんはピアノ科卒である。

文章は、その後こう続く。

『朝比奈先生が大親分なら、大阪市音楽団々長の辻井市太郎氏は、親分と言える。なにしろ彼は私ども夫婦の仲人さんである。,,,,。』(原文ママ)

第126話 ベルリオーズ「葬送と勝利の交響曲」日本初演》でもお話ししたとおり、ともに明治生まれの朝比奈さんと辻井さん(1910~1986)は、昭和のはじめ、市音がまだ“大阪市音楽隊”と称した頃からの知己で、年齢が近く何かとウマが合っただけでなく、管弦楽、吹奏楽の違いこそあれど、戦後、大阪を代表するオーケストラ(関西交響楽団、のちの大阪フィルハーモニー交響楽団)とバンド(大阪市音楽団)の指揮者となった。

そこへ、朝比奈さんの教え子である得津さんが絡んでくるのは、ごくごく自然の成り行きだろう。

しかしながら、得津さんは、エッセイでこうも語っている。

それは、得津夫妻の挙式当日の出来事だった。会場の係りの女性には、やや強面の得津さんより辻井さんの方が若く映ったのか、本来新郎がつけるはずの花をなぜか隣にいた仲人の辻井さんの胸につけてしまうハプニングが発生。その後、式は両者その姿のままで進行し、辻井さんは気づいていたが、得津さんがそれを知らされたのは、一年近くたってからだったという。それについての恨み節がひとしきり語られているのだ。

“いやナァ、ボクの方が若く見えたらしい。なにしろ頭の毛はボクの方がフサフサしてたもんな。その時は気の毒でよう言わなんだ。アッハッハッ!”(原文ママ)と言う辻井さんに対し、得津さんは、『何がアッハッハッだ。毛のうすいのは気苦労が多いからだ。ホットケ!』(同)と、誰がいつ読むかわからない雑誌のエッセイの中で返している。

実際、21世紀の今、筆者が読んでいるし….。

とはいうものの、実のところ、辻井さんと得津さんは、西宮市内の同じアパートの上の階と下の階に住まいしていた時期があるほど親しい間柄だった。そして、そのアパートには、なんと驚いたことに両家直通のインターホンがあり、行くのが面倒くさいときは、それで用を足していたという。

最近、あるところで、近畿大学吹奏楽部の元監督で全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんとこのことが話題となった。

聞けば、溝邉さんは、実際にそのアパートに行ったことがあるそうだ。

『国道171号線から少し入ったところで、隣りを阪急電車の今津線が走ってました。』と溝邉さんは当時を振り返る。

そこで、いつもの癖で“どちらが上の階でした?”と訊ねると、『それは覚えてません。ただ、そのときは辻井さんに用事があって行ったときで、階段を上ったことだけは覚えています。』と返って来た。

得津さんは、エッセイで、『上がったり、下ったり、しんどいから、窓から窓へナワバシゴでもかけようかと考えているが、…。』(原文ママ)と冗談まじりで書いているが、残念ながら、筆者のどうでもいいこの疑問に答えてくれる人はいない。

だが、その一方、同じこの文には、辻井さんが良き相談相手であり、いろいろと助言を受けていたとも書かれ、得津さんは、『そのことを思えば、花ムコを間違えられたことはガマンしよう。』(原文ママ)とエッセイを結んでいる。

道理で、市音が初演したり録音した曲がいつの間にか今津中学のレパートリーに化けているようなことがよく起こった。

そう言えば、ふたりはまた、よく連れ立って呑みにでかけたそうだが、そんなとき、お店の女性陣には辻井さんばかりがもてたと、得津さんは、よくこぼしていた。これもいかにもという話だ。

しかし、ふたりの互いに包み隠すことのない直球バトルは、関西に暮らすものにとっては、何度読み返してもある種の“爽快感”と“親近感”を感じさせるもので、プロ、アマの垣根を超え、何かあると、まるで“村祭り”かなんかのように熱を帯びて集まってくる関西吹奏楽界特有の人間関係と風通しの良さが伝わってくる。

「バンドジャーナル」1964年6月号(管楽研究会編集、音楽之友社)の58~59頁の「吹奏楽・東西南北」には、阪急百貨店吹奏楽団の鈴木竹男さん(1923~2005)が書いたあるリポートが載っている。

それは、関西のアマチュア吹奏楽をますます発展させ、指導技術の研究のほか、指導者相互の親睦をはかるため、1964年(昭和39年)4月12日(日)に創立総会が開かれた「関西吹奏楽研究会」について書かれたものだ。リポートでは、同研究会発足当日の会員数は71名。以下のような面々が役員に名を連ねていたと書かれている。

【会長】朝比奈 隆

【副会長】辻井市太郎

【運営委員(50音順)】有永正人(明石高校)、大野泰司(明星高校)、河野 肇(関西学院大学)、呉 幸五郎(明石高校OB)、山藤 功(菫中学校)、鈴木竹男(阪急百貨店)、得津武史(今津中学校)、中島嘉治(内出中学校)、西岡和彦(水口中学校)、福永和司(堅田中学校)、松平正守(呉服小学校)、村上辰雄(洛南中学校)、矢野 清(天理高校)、山崎 敏(東山高校)、鷲尾 武(関西大学)

正しく、当時の“オール関西”という顔ぶれだ。

1937年(昭和12年)に全関西吹奏楽団連盟が誕生。戦後、1946年(昭和21年)に再建がなった“オール関西”の活動は、その時代その時代の先人たちの知恵とエネルギーを結集して行なわれてきた。《第89話 朝比奈隆氏を送る全関西音楽祭》でお話しした1956年(昭和31年)5月6日(日)、大阪府立体育館で開催された同音楽祭も、1961年(昭和36年)4月29日(土・祝)、阪急西宮球場で「春の吹奏楽~1000人の合同演奏~」の名称で始まった「3000人の吹奏楽」(現在は、京セラドーム大阪で開催)も、1970年(昭和45年)3月14日(土)、日本万国博お祭り広場における開会式演奏も、1987年(昭和62年)5月10日(日)、日本万国博覧会記念公園に1万人以上の参加者を得て行なわれた「ブラス・エキスポ ’87」も、みなそうである。

『ええか、血わき肉たぎる演奏せな、あかん!』

やはり、大親分ゆずりだろう。得津さんが、若い指導者を捉まえては口癖のように話していたドスの効いたあの声が脳裏にふと甦ってきた!

▲▼得津武史(1917~1982)

▲西谷尚雄著「天国へのマーチ ─ ブラスバンドの鬼 得津武史の生涯 ─」(かんぽう、2006年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第159話 ヴァンデルロースト「いにしえの時から」世界初演

▲プログラム – タッド・ウインドシンフォニー第17回定期演奏会(2010年6月18日、大田区民ホール アプリコ)

▲鈴木孝佳(同上、撮影:関戸基敬)

2010年(平成22年)6月18日(金)、東京・大田区民ホール アプリコ大ホールで、ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の『いにしえの時から(From Ancient Times)』ウィンドオーケストラ版のパブリックな世界初演が行なわれた。

キャストは、鈴木孝佳指揮、タッド・ウインドシンフォニー。初演は彼らの「第17回定期演奏会」で行なわれ、客席には、演奏を聴くためにはるばる日本まで飛んできた作曲者の姿もあった。

タッドWSのコンサートでは、よく見かける光景だ。

初演された『いにしえの時から』は、ヤンがそれまでに書いた最も密度の濃いウィンドオーケストラ作品であり、出版社が“グレード6”と表示したとおり、技術的に見てもひじょうに高度な作品だ。

タッドの組合員でも準構成員でもない部外者ながら、例によって、作曲者と演奏者との橋渡しの役回りを担うことになった筆者にとっても、生涯忘れ得ぬ作品のひとつとなった。

“記憶に残る”という点では、この日の記念碑的演奏を担ったプレイヤーたちにもこの作品は相当鮮烈な印象をもたらしたようだ。当時の初演関係者が集まると、今なお“あのときの「いにしえ」は…”と口にする人が多い。彼らの演奏家人生でたった一度やっただけの曲にも拘わらずにだ。実際、2021年(令和3年)10月15日(金)にアップロードした前話の《第158話:ヴァンデルロースト「いにしえの時から」ができるまで》を目にしたプレイヤーからも多くのメールが届いた。

翌10月16日(土)、大阪・難波で夜のミーティングを行なったホルン奏者、下田太郎さんも、そんな中のひとりだ。

下田さんは、タッドWSでは今や絶滅危惧種化した、かつて鈴木さんが指導者としてタクトをとった福岡工業大学附属高校吹奏楽部の出身で、タッドWSでも長年セクション・リーダーをつとめてきた。都内各オーケストラのほか、東京佼成ウインドオーケストラやシエナ・ウインド・オーケストラ、東京吹奏楽団などでもプレイし、フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)が佼成ウインドを指揮したCD「スペイン狂詩曲」(佼成出版社、KOCD-3579、1999年)の『ボレロ』のソロが実は下田さんだったりする。

この日は、下田さんが所属するオーケストラ・ジャパンが、同年9月から12月の約3ヶ月間に全51公演・33都市を巡る「ディズニー・オン・クラシック」ツアーの大阪・堺市のフェニーチェ堺における公演日で、ミーティングはその終演後になった。

南海電車「なんば駅」改札で待ち合わせた我々は、道頓堀に居場所を定め、大盛り上がり。ふたりの話題の中心は、もちろん“いにしえ”の世界初演だった!!

『あのとき、“いにしえ”以外、何をやったか覚えてなかったんです。』

そう口火を切った下田さんは、前話に載せたチラシを見て思い出したそうだ。それほど“いにしえ”の印象がインパクトがあった証しだ。

振り返ると、あのときは本番前練習から驚きの連続だった。

『練習は、確か前2日でしたよね。』の筆者の問いかけに、『ハイ、2日です。』と下田さん。

筆者は、ヤンを引き連れて2日目の練習から参加したが、案内されたリハ会場は、千葉県市川市内のとある高校の音楽室だった。そこへフル編成のウィンドオケの他に、同校吹奏楽部の生徒も加わって満員すし詰め状態。クーラーも全開だったが、やたら暑い。いつも借りるリハ室が改修のために使えないための緊急措置という説明だったが、これにはヤンも目をシロクロ!

掛け値なしにギューギュー詰めだったので、筆者とヤンに用意された席も、サクソフォン奏者の新井靖志さんの真横約1メートルの位置。あまりにも近いので、目が合った新井さんから『緊張しますね。』との声も。そりゃそうだろう。自席のすぐ隣りにスコアを手にした怪しい部外者ふたりが座っているのだから…。

練習は、『バランスは、明日ホールのゲネでとります。お疲れでした。』という鈴木さんの言葉とともに終了。我々ふたりにマエストロとその長男でトランペット奏者の鈴木徹平さんを加えた4名(前話の写真参照)は、メンバーさんが運転する車で当夜のネグラに定めた大田区蒲田へと移動。

車中と夕食の間に、2日間のリハの成果を根掘り葉掘り訊ねたが、一時スコアリングで難渋していた作曲者にマエストロが『手加減は無用!』と言って励ましたという逸話が残るこの曲はさすがに手ごわかったようだった。

マエストロは、『セクション練習をやったり、みんなよく復習って(さらって)きてくれていましたが、それでも、初日、トロンボーンが“アッ”とか“ウッ”とか言っているので、“トロンボーン、そこはアッとかウッとか書いてないんだけど!”と言ったら、全員サッと立ち上がって“すいません!”ですよ。彼らがすばらしかったのはそこからで、2日目の練習前にあった所属オケの練習のノリ番の曲順を調整してもらってしっかりと復習ってきて、2日目にはもう完璧でした。』と賞賛を惜しまない。

下田さんとの夜のミーティングでも、当然話題に上ったが、『あのとき、桒田さんらは、(管楽器専門店の)DACに電話してミュートを練習場所まで持ってきてもらったりしてるんですよ。』と、トロンボーン・セクション(桒田晃さん、古賀 光さん、伊藤敬二さん、篠崎卓美さん)がミュートを吟味してからこの本番に臨んだという裏話があることを知った。

他方、曲を書いた張本人がその場にいることも、もちろんプラスに働いた。曲冒頭に出てくるフランドルの古い教会の鐘の音のイメージはヤンからパーカッションへの直伝だったし、オフ・ステージからのユーフォニアム(円能寺博行さん、齋藤亜由美さん)の聞こえ方もヤンのイメージが尊重された。また、曲中、ハートフルなソロを見事に聴かせたフリューゲルホーン(鈴木徹平さん)やソプラノ・サクソフォン(新井靖志さん)とのコラボレーションでも、ヤンは『何も言うことが無い。』と手放しでOKサイン。本番が最も高速だった細かいフレーズの動きが重なって“のるかそるか”の展開になるトリッキーな全合奏をぐいぐいリードしたコンサート・ミストレスの三倉麻実さんのプレイにも大絶賛を表していた!

というわけで、6月18日のステージは、冷静でありながらも、その一方で全身全霊を傾けたようなモチベーションの高いパフォーマンスとなった。恐らく、会場内でもっとも自由でハッピーだったのは、この作品をものにできたヤン自身だっただろう。

余談ながら、2日目練習の休憩中、突然現れたヤンをさして、マエストロが『この人、誰か知ってる?』と高校生に質問を投げたら、『知りません。』と返答が戻ってきてガックリ。『じゃー、あなた方、“カンタベリー・コラール(Canterbury Chorale)”って曲、知ってる?』と質問を変えたら、全員から『はい。』の回答。そこで、『彼はその曲を書いた作曲家なんだよ。』と言うなり、突然“エーッ!?”と大騒ぎが始まり、顧問の先生のところへ猛ダッシュでご注進。それを聞いてさらに驚いた先生も『すぐに色紙を買ってきなさい。』と指示を出す騒ぎとなった。

そんな事件勃発も手伝ってか、タッドWSの練習終了後は、プレイヤーもつかまって賑やかな大サイン大会に発展!

下田さんによると、世界初演の演奏会には、同校の生徒さんも大勢で駆けつけてくれたんだそうで、その中からは、その後、専門家への道を歩む人も出てきたという話だった。

作曲家と演奏家がガチンコで望んだ『いにしえの時から』の世界初演!

そのドラマは、ひとりタッド・ウインドシンフォニーだけの伝説にとどまらず、次世代を担う若い世代のハートへも受け継がれることになった!!

▲▼ヴァンデルロースト「いにしえの時から」世界初演(2010年6月18日、大田区民ホール アプリコ、撮影:関戸基敬)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第158話 ヴァンデルロースト「いにしえの時から」ができるまで

▲チラシ – タッド・ウインドシンフォニー第17回定期演奏会(2010年6月18日、大田区民ホール アプリコ)

▲ CD – Highlights from the European Brass Band Championships 2009(英Doyen、DOYCD260、2009年)

▲DOYCD260 – インレーカード

▲DVDブックレット – Highlights from the European Brass Band Championships 2009(英World of Brass、WOB138 DVD、2009年)

1991年(平成3年)10月、在京のオーケストラやウィンドオーケストラ、自衛隊、スタジオ、専門学生などの演奏家が自発的に集まり、月に1度か2度、定期的にリハーサルを繰り返すセルフ・オーガナイズ(メンバー自主運営)のリハーサル・バンドとしてスタートした「タッド・ウインドシンフォニー(TAD Wind Symphony)」。

当初は、アメリカから音楽監督として迎えられた指揮者の鈴木孝佳さんと交した“演奏会はやらない”という約束もあり、公開演奏を行なう気配などまるで感じられないグループだった。(参照:《第157話 タッド・ウインドシンフォニーとの出会い》)

タッドの初代団長で、後に代表となった田島和男さんの回想によると、音楽監督との鉄の約束が脆くも崩れ、演奏会を開くことになったのは、あるリハーサル後の楽器の積み込み作業中、当時、新星日本交響楽団のホルン奏者だった田場英子さんから『田島さん、凄いイイ演奏するんだから本番やりましょうよ! リハだけじゃ勿体ないですよ!』と言われたのがきっかけだったという。さらに、『もし田場さんのこの一言がなかったら、本番は数年遅れていたかも知れませんね。』という、ウソのような証言までとび出した。

すべて音楽監督の鈴木さんがまるで知らない中での出来事だった。

タッド・ウインドシンフォニーの初コンサートは、発足3年目の1993年(平成5年)2月6日(土)、ルミエール府中(市民会館)で開かれた「タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)」。以後、年に一度のペースで、定期演奏会を開く流れが定着した。

しかし、もともとがセルフ・オーガナイズ。それだけに、広告宣伝費など皆目ゼロで、コンサート告知もチラシの手配りと口コミのみ。チケットも、広い東京で直接メンバーをつかまえて買わなければ“残っていても極めて入手困難”という、何から何まで異例づくしのグループだった。当然、音楽メディアにその名が登場することも、ほとんどなかった。

しかし、一度、彼らが楽譜と向かい合うと、プロ意識に溢れ、マエストロとの信頼関係から生み出されるパフォーマンスは、知る人ぞ知るワンダー・ワールド!

熱心なリピーターが多いことでも知られていた。

さて、そんなタッド・ウインドシンフォニーだが、その名が東京ローカル限定から広く認知されるようになったのは、2010年(平成22年)6月18日(金)、大田区民ホール アプリコ(東京)における「タッド・ウインドシンフォニー第17回定期演奏会」で、ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)を客席に迎え、その最新作『いにしえの時から(From Ancient Times)』ウィンドオーケストラ版のパブリックな世界初演が行なわれたあたりからだった。

よく知られるように、ヤンは、自国の先人たちから受け継いだものをとても大切にする作曲家だ。もう少し具体的に話すと、彼の暮らすフランドル地域は、15世紀から16世紀のルネサンス期にポリフォニー(2つ以上の旋律を同時に重ねる多声音楽)の技法を駆使して黄金時代を迎えた“フランドル楽派(フランダース・ポリフォニスト)”を生み出したエリアだ。他方、サクソルンやサクソフォンなどの楽器体系を構築した楽器製作者アドルフ・サックス(Adolphe Sax、1814~1894)もまたベルギーの生まれだった。

『いにしえの時から』は、そんな彼の音楽的バック・グラウンドを一つの曲に昇華させた作品で、オリジナルは、2009年4月30日(木)~5月3日(日)、ベルギー、オーステンド(Oostend)のクルサール(Kursaal)で開催された「ヨーロピアン・ブラスバンド選手権2009(European Brass Band Championships 2009)」のチャンピオンシップ部門の指定課題(セット・テストピース)として委嘱された“ブラスバンド編成”の楽曲だった。

ヤンにとっては、自国開催の栄誉を担って委嘱された曲だけに、ポリフォニーの技法を駆使するだけでなく、自国のヒーローであるアドルフ・サックスにも敬意を表す作品となったのは、当然の帰結だった。

選手権の優勝者は、指定課題のこの曲で、100点満点中、98点をゲットし、自由選択課題(オウン・チョイス・テストピース)として世界初演したピーター・グレイアム(Peter Graham)の『巨人の肩にのって(Standing on the Shoulders of Giants / 初演当時の原題)』でも98点を獲得して合計196点のぶっちぎり優勝を飾ったウェールズ代表のロバート・チャイルズ(Robert Childs)指揮、コーリー・バンド(Cory Band)だった。

筆に力の込められた自信作だけに、ナマ演奏を聴いたヤンの興奮も半端ではなく、選手権後、間髪をいれず『スコアを送るので….。』という連絡が入った。つまりは“すぐに感想を聞かせろ!”という訳だ。

ご承知のとおり、ヤン自身、ベルギー初のブラスバンド“ブラスバンド・ミデン・ブラバント(Brass Band Midden Brabant)”の副指揮者だった時期があり、筆者が大阪のブリーズ・ブラス・バンド(Breeze Brass Band)のミュージカル・スーパーバイザーをつとめた頃、何度か客演指揮で招いた間柄だった。そして、そんな付き合いから、ヤンはブラスバンドのための新作が出来上がるたび、必ず知らせてきた。近況報告と自作のプロモーションを兼ねて!(参照:《第5話 ヴァンデルローストの日本語教師》)

しかし、このときのヤンのメッセージには、文末に次のような気になる記述があった。

『今、ウィンドオーケストラ版の構想を練っているんだ。』

この話にいち早く関心を寄せたのが、ほかならぬ鈴木さんだった。ヤンの音楽に全幅の信頼を寄せていたからだ。

鈴木さんは、『スコアが出来上ったら、ぜひ見せて下さい。できれば次の定期に取り上げたいので!』と言った。2009年夏の話だ。

実は、この一年前の2008年(平成20年)6月12日(木)、同じアプリコで行なわれた「第15回定期演奏会」でタッド・ウインドシンフォニーが演奏したチャイムを加えた『カンタベリー・コラール(Canterbury Chorale)』の録音を聴いたヤンが激賞。両者の間には音楽家どうしの特別な信頼関係が生まれていた。2010年のタッドWSによる『いにしえの時から』ウィンドオーケストラ版の世界初演は、そんな流れの中で決まった話だった。

しかし、最高グレードのブラスバンド作品を、やはり最高グレードのウィンドオーケストラ作品に書き換える作業は難航を極めた。

ヤンは、ピアノやハープのほか、コントラバス・クラリネット、バス・サクソフォンなどの充実した低音楽器を加えるアイデアを、すぐ思いついたが、実際にオーケストレーションに取り掛かると、ポリフォニーを多用する作品だけに、『あまりにも難しい曲になってしまう。』という悩みが頭をもたげてきた。つまりは、金管だけのときには問題にならなかったハーモニーが木管が加わることで、なかなかうまく処理できないという和声上の課題にぶつかってしまったのだ。

シンセサイザーやPCソフトでスコアを作るのではなく、ナマの管楽器が発する現実の音のキャラクターを熟知し、実際に五線紙の上に一音一音鉛筆で音を書いていく作曲家らしい悩みだった。

また、曲に込められたアドルフ・サックスへのリスペクトの表明にしても、ブラスバンド作品のときは、金管楽器であるサクソルンのキャラクターをフィーチャーすることに専念すればよかったのが、ウィンドオーケストラ作品にするなら、木管楽器のサクソフォーンへのトリビュートも必要になるとの意識も持つようになっていた。

これらをすべて盛り込みたいという作曲家の想いには、外野からリミッターは掛けられない。しかし、盛り込みたい課題と管楽器の実音との板ばさみになったヤンは一時ドロ沼にはまり、作業をストップしてしまった。

そのヤンに、再びスコアに立ち向かう勇気をもたらしたのが、鈴木さんのつぎの一言だった。

『手加減は無用!』

2009年12月、アメリカのシカゴで開かれたミッドウェスト・クリニック(The Midwest Clinic International Band, Orchestra and Music Conference)でヤンに会った鈴木さんは、“思いどおりに筆を進めてくれ”と、ヤンを激励したのだ。これはまた、タッドWSに参加するプレイヤーたちを信頼しての言葉でもあった。

アメリカから帰国したヤンは、スコアリングに再びアタックを始めた。

しかし、本人曰く、その作業は新しい曲を書くのと同じぐらいの労力と時間を要したそうで、何度も何度も加筆訂正を繰り返したため、完成予定も遅れに遅れ、筆者のもとへオランダの出版社デハスケ(de haske)のエディターが浄書を終えたスコアとパートのプルーフが届いたのは、4月半ば過ぎのこと。そこから使用楽器の最終確認などを開始した訳だから、舞台裏はてんやわんやの大騒ぎに発展した。結果、実際に鈴木さんや各プレイヤーに楽譜が渡ったのは、5月の連休明けとなった。6月のコンサートには、もうギリギリのタイミングだった。

一方、やっとのことで約束を果たしたヤンの気分は、ハッピーそのもので、やりとりを繰り返している内、『どうしても聴きたい!』と言い出して、日本に飛んでくることになった。

渡航費はもちろん自腹!

ヤンも、いつの間にか、タッド流に馴染んでいた!

ブラスバンド版スコア – From Ancient Times(蘭de haske、2009年)

ウィンドオーケストラ版スコア – From Ancient Times(蘭de haske、2010年)

▲演奏会前夜。鈴木徹平、鈴木孝佳、ヤンの各氏と(2010年6月17日、東京・蒲田某所)(鈴木徹平氏提供)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第157話 タッド・ウインドシンフォニーとの出会い

▲鈴木孝佳(2012年6月8日、大田区民ホール アプリコ、撮影:関戸基敬)

▲チラシ – タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)(1993年2月6日、ルミエール府中(市民会館))

▲プログラム – タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)(1993年2月6日、ルミエール府中(市民会館)

東京を中心に多種多彩なフィールドで活動する演奏家が自発的に集まり、世界的な作曲家とも積極的に結んで音楽界の注目を集める演奏活動を展開するタッド・ウインドシンフォニー(TAD Wind Symphony)と出会い、音楽監督の鈴木孝佳さんとの長いつき合いが始まったのは、2006年(平成18年)のことだった。

直接のきっかけは、当時インスペクターだったテューバ奏者、佐野日出男さんから、6月8日(木)、大田区民ホール アプリコ(東京)における“第13回定期演奏会”をライヴ収録してほしいという突然の電話を受けたことだった。しかし、すぐに現場に出向くことができる在京の身分ではなく、何をやるにも新幹線かヒコーキで上京しないといけない上、自前の録音機材やスタッフも持たない、録音を生業としていない筆者にそんな難しいリクエストをいきなり投げてくるとは、焼く前の餅に濃い目の醤油で“無茶振り”という文字を描いていきなり網にのせて炙るような話だった。(参照:《タッド・ウィンド・コンサート(1)灰から救われた魂たち プロダクション・ノート》)

無論、遠い大阪に暮らしながらも、タッドの名前それ自体は、これ以前に、航空自衛隊航空中央音楽隊(当時)のユーフォニアム奏者、外囿祥一郎さんから、『樋口さん、今度すごいバンドができるんですよ。』と聞かされて知ってはいたが….。

さて、そんなタッド・ウインドシンフォニーだが、楽団の結成は、1991年(平成3年)10月のこと。その最大の特徴は、楽団の活動が、参加する演奏家たちによる完全な自主運営(セルフ・オーガナイズ)に委ねられていることだろう。当初は、定期的に集まって音楽を追い求めることだけを目的とするリハーサル・バンドで、鈴木さんとメンバーの間では、“決して演奏会を開かない”ことが堅く申し合わされていた。

この間の事情を、アメリカから音楽監督に招かれることになった鈴木さんに訊ねると、最初は監督就任を固辞したものの、集まった演奏家たちの熱意に絆され、演奏会を開かないという条件でその指揮を引き受けることになったという。従って、日米間の渡航費は自腹という、ひじょうにユニークな人間関係にある。(ときどき、アメリカ在住のプレイヤーも参加するが、その渡航費も見事に奏者の持ち出しである。)

楽団名の“TAD”は、主にアメリカを活動の場とする鈴木さんの名前“タカヨシ”をアメリカ人たちがなかなか発音できず、まるでセカンドネームであるかのように“タッド”と呼ぶようになったことに由来する。傑作だったのは、楽団名を決める際、メンバーの中に、“スズキ・バンド”にしようというアイデアまであったということで、さすがにその案に対しては、鈴木さんから『それだけは、やめてくれ。』と“待った”が入ってボツになったそうだ。

そんな顛末もあり、名前が入るので世間的には勘違いを招きやすいが、タッド・ウインドシンフォニーとは、“鈴木さんが若い教え子を集めてやっている….”などと言われるような、そんな私的なグループなどではなかった。

主役は、あくまで自発的に参加する演奏家たちなのだ。50代や60代のベテランもいるので、平均年齢こそやや押し上げられているが….。(暴言多謝!)

参加メンバーは、当初から、オーケストラやウィンドオーケストラ、自衛隊、室内楽、ミュージカル、スタジオ、音楽大学など、様々な音楽分野で活動する多ジャンル横断的に演奏家が集まり、今すぐにでも演奏会活動が行なえるような陣容が揃っていたが、先述の鈴木さんとの堅い約束もあり、初の演奏会が実際に開かれたのは、結成3年目の1993年(平成5年)2月6日(土)、ルミエール府中(市民会館)における「タッド・ウインドシンフォニー コンサート(結成記念公演)」だった。

鈴木さんにその間の事情を確認すると、『あれには、見事に裏切られました。』と、演奏会が自身の知らないところで企画されていたと苦笑していた。一方で、リスペクトするマエストロと演奏会を開きたいというプレイヤーの気持ちもよくわかる。

音楽監督の鈴木さんは、上京後、日本フィルハーモニー交響楽団のオーディションを経て、トロンボーン奏者として活躍。オーケストラやスタジオワークのほか、東京吹奏楽団や東京佼成ウインドオーケストラにも参加。指揮者に転じた後、有名なアーナルド・ゲイブリエル(Arnald Gabriel)など、多くのアメリカ人指揮者たちの推挙により、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(American Bandmasters Association / ABA)の日本人初の正会員となった。ABAでは、同じく名誉会員の秋山紀夫さんとともに、日本の顔的存在となっている。

アメリカの作曲家や演奏家だけでなく、国際的な知己も幅広く、レナード・バーンスタイン(Leonard Bernstein)のもとを訪ねて、いきなり指揮法のレッスンを受けた話や東京で聴いて驚いたというイタリアの名門ローマ・カラビニエーリ吹奏楽団(Banda dell’Arma dei Carabinieri)のマエストロ、ドメニコ・ファンティーニ(Domenico Fantini)をローマに訪ねて、カラビニエーリの練習場で、実際に奏者が吹く楽器を使いながら、合奏の中でサクソルンを活用する楽器法やハーモニーを直接伝授された話、モートン・グールド(Morton Gould)と意気投合してタクシーで食事に出かけたときの話などは、何度聞いても面白い。(参照:《第97話 決定盤 1000万人の吹奏楽 カラビニエーリ吹奏楽団》)

とにかく、思い立ったら即行動が鈴木さんの真骨頂!!

そして、そんな鈴木さんがタッドの「結成記念公演」のために組んだプログラムは、以下のようなものだった。

・トリビュート(マーク・キャンプハウス)
Tribute(Mark Camphouse)

・詩的間奏曲(ジェームズ・バーンズ)
Poetic Intermezzo(James Bernes)

・パガニーニの主題による“幻想変奏曲”(ジェームズ・バーンズ)
Fantasy Variations on a Theme by Niccolo Paganini(James Bernes)

・交響曲第1番「指輪物語」(ヨハン・デメイ)
Symphony No.1“The Lord of the Rings”(Johan de Meij)

これは、当時の東京のプロの演奏会でもなかなかお目にかかれないオリジナルと最新楽曲だけで構成される鮮烈なプログラムで、それを、10年後の2013年(平成15年)5月31日(金)、杉並公会堂大ホールで開かれた「第20回記念定期演奏会」と比較すると、この間、鈴木さんのプログラミングにまるでブレがないことが実によくわかる。

・リバティ・ファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ / ジェイ・ボコック編)
Liberty Fanfare(John Williams, arr. Jay Bocook)

・ルクス・アルムクエ(エリック・ウィッテカー)
Lux Aurumque(Eric Whitacre)

・ダンス・ムーブメント(フィリップ・スパーク)
Dance Movements(Philip Sparke)

・交響曲第1番「指輪物語」(ヨハン・デメイ)
Symphony No.1“The Lord of the Rings”(Johan de Meij)

鈴木さんは、しばしばメンバーや関係者にこう話す。

『我々プロが、もっとオリジナルを大切にしないといけないと思います。』

世界的話題を呼んだヤン・ヴァンデルローストの『いにしえの時から(From Ancient Times)』をはじめ、世界初演や日本初演された作品も多いが、近年は、とくにウィンドオーケストラのために書かれたシンフォニーの演奏に力を注ぎ、コロナ禍前の2015~2020年の間にも以下のシンフォニーが連続して取り上げられている。

・交響曲第4番(アルフレッド・リード)
Fourth Smphony(Alfred Reed)
2015年6月12日(金)、大田区民ホール アプリコ

・交響曲第2番「カラー・シンフォニー」(フィリップ・スパーク)
Symphony No.2“A Colour Symphony”(Philip Sparke)
2016年1月23日(土)、ティアラこうとう大ホール《日本初演》

・交響曲第1番「アークエンジェルズ」(フランコ・チェザリーニ)
Symphony No.1“The Archangels”(Franco Cesarini)
2016年6月10日(金)、ティアラこうとう大ホール《日本初演》

・交響曲第2番(ジェームズ・バーンズ)
Second Symphony(James Barnes)
2017年1月15日(日)、ティアラこうとう大ホール

・交響曲第2番(保科 洋)
Symphony No.2 for Wind Orchestra(Hiroshi Hoshina)
2017年6月9日(金)、ティアラこうとう大ホール

・マンハッタン交響曲(セルジュ・ランセン)
Manhattan Symphony(Serge Lansen)
2018年1月12日(金)、杉並公会堂大ホール

・交響曲第1番「大地、水、太陽、風」(フィリップ・スパーク)
Symphony No.1“Earth, Water, Sun, Winds”
2018年6月15日(金)、杉並公会堂大ホール

・交響曲第2番(ジョン・バーンズ・チャンス)
Symphony No.2(John Barnes Chance)
2019年1月11日(金)、杉並公会堂大ホール

・交響曲第2番「江戸の情景」(フランコ・チェザリーニ)
Symphony No.2“Views of Edo”(Franco Cesarini)
2019年6月14日(金)、杉並公会堂大ホール《公式日本初演》

・交響曲第4番「イエローストーン・ポートレイト」(ジェームズ・バーンズ)
Fourth Symphony“Yellowstone Portraits”(James Barnes)
2020年1月9日(木)、ティアラこうとう大ホール

曲名を眺めているだけでワクワクするような見事なラインナップだ。

真のワールドワイド・レパートリーとは、正しくこういう曲を指す。

タッド・ウインドシンフォニー。彼らとの出会いは、先の佐野さんの突発的リクエストに始まったが、結果として、これらをライヴ収録し、多くをCDとして世に問うことができたことは、筆者の望外の喜びとなっている!

相変わらず、機材もスタッフも持たないので、収録のたびに血の気が引くような大出血サービスになっているが!

▲チラシ – 第20回記念定期演奏会(2013年5月31日、杉並公会堂大ホール)

▲プログラム – 第20回記念定期演奏会(2013年5月31日、杉並公会堂大ホール)

▲タッド・ウインドシンフォニー(2013年5月31日、杉並公会堂大ホール、撮影:鈴木 誠)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第156話 フェネル「ローマ三部作」のレコーディング

▲CD – レスピーギ「ローマ三部作」初回発売盤(佼成出版社、KOCD-3570、1992年)

▲フェネル夫妻と(1991年10月、京王プラザホテル多摩)

1992年(平成4年)4月23~24日(木~金)、東京都多摩市のパルテノン多摩大ホールで行なわれたフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)指揮、東京佼成ウインドオーケストラ演奏のCD「ローマ三部作」(佼成出版社、KOCD-3570、1992年)のレコーディング・セッションは、筆者にとってもひじょうに思い出深いものとなった。

CDの発売は、同じ年の10月10日(土)。リリースされた初回発売盤のオビ上に印刷されたコピーは、《世界初!ウィンドオーケストラによる熱演》だった。

アルバムは、もともとは管弦楽(オーケストラ)作品であるイタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi、1879~1936)の“ローマ三部作”すべてをウィンドオーケストラだけで録音しようとする野心的な企画だった。先述のキャッチ・コピーからも当時の制作関係者の意気込みが伝わってくる。

録音スタッフは、ディレクター&ミキサーが若林駿介さん、アシスタント・ディレクターが鈴木由美さん、エンジニアが及川公夫さん、そしてテープ・エディターが杉本一家(JVC)さんという、当時の佼成出版社の録音の多くを担ったおなじみの顔ぶれで、筆者も解説者として両日のセッションに参加した。

使用されたウィンドオーケストラ用のトランスクリプションは、3曲ともすべて手書きで、『ローマの松(Pini di Roma)』が鈴木英史さん(1965~)、『ローマの噴水(Fontane di Roma)』と『ローマの祭り(Feste Romane)』が木村吉宏さん(1939~2021)のトランスだった。(参照:《第155話 フェネル「ローマ三部作」の起点》)

管弦楽のオリジナルと録音されるものの楽器編成が違うわけだから、筆者も、解説用に用意してもらった各スコアのほか、伊Ricordi版の管弦楽スコアも別に準備するという“重装備”でセッションに臨んでいる。

東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、遠藤 敏さんを介し、元フルート奏者の牧野正純さんに当時の進行を確認すると、牧野さんはセッション両日の進行を以下のように記録されていた。(曲名等は、牧野さんの記載のママ)

4/22

11:00~13:30 ローマの松 1, 2, 3
13:30~14:30 昼休み
14:30~16:20 ローマの松 3, 4
16:20~16:50 休憩
16:50~18:40 ローマの泉

4/23

11:00~13:00 ローマの祭り 1, 2
13:00~14:00 昼休み
14:00~16:45 ローマの祭り 3, 4
(16:00頃小休憩あり)

なかなかタイトな進行だ。これを眺めると、もし仮に“1日1曲収録”というスケジュールを組めていたなら、もっと余裕のある進行になっていたと思う。だが、セッションを3日間にすると、ホール代もスタッフ代もオケの使用料も跳ね上がり、あまりにもコスト・パフォーマンスが悪い録音になってしまう。協議の末、最終的にこう決まったというが、無責任な外野的立場からみると、それが逆にいい意味で緊迫感のある空気を生み出し、まるでライヴのようなすばらしいパフォーマンスにつながった印象がある。

録音現場にいたからわかるが、このセッションに関わったすべての人々のモチベーションは、それほどに高かった!

正しくブラボーもののパフォーマンスである!

一方、指揮者のフェネルにとっても相当気合いの入ったセッションだったようで、彼のスコアには、書き込みがビッシリ入っていた。また、ユーフォニアムの三浦 徹さんの回想によると、『(指揮台の上の)スコアには、テンポとディナーミク表示をグラフにして、何処でも曲想が変わらないように、また繋いでも良いように独自の方法で音楽の流れをキープされていた。』というし、筆者も、彼がくりだす指示のイメージがひじょうに明確で、繊細だったことを鮮明に記憶している。『ローマの松』の中で聞かれるナイチンゲールの泣き声にも、鳥の種類まで挙げながら、“微に入り細に入る”こだわりの注文がつけられた。

しかし、それでいて、指揮ぶりは神経質ではなく、とても愉しそうだった。

そのフェネルとは、前年の1991年(平成3年)10月24~25日(木~金)、同じパルテノン多摩で行なわれたCD「ピース オブ マインド(Piece of Mind ? Contemporary Mix)」(佼成出版社、KOCD-3569、1992年)のセッションで知己を得て以来、いろいろな現場で会話を重ねたが、この「ローマ三部作」のときは、明らかに何かが違った。(参照:第53話 フェネル:ピース オブ マインド

そして、その謎が、ある休憩のときに突然詳らかとなる。

筆者をつかまえたマエストロは、悪戯っぽい目をしながら、こう言った。

『私がはじめて“三部作”の勉強をしたのはいつだったか、知ってるいるかい?』

筆者が“いいえ”と応えると、『それはね、トスカニーニの“三部作”のレコーディングのときだったんだ。そのとき、私はスタジオの隅っこから、そのすべてを見ることができたんだよ。』と返ってきた。

なんと、フェネルは、作曲者レスピーギの信頼厚かった伝説のマエストロ、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867~1957)のセッションを真近かで見ていたのだ!

これは、特別な想いがあって当然だ!

そして、この時、筆者は、こんな特別な現場に偶然居合わせることができた幸運を音楽の神様に感謝した。

他方、このセッションでは、『ローマの松』をトランスクライブした鈴木英史さんとの新たな出会いもあった。楽屋でいろいろ話ができたことが今も懐かしい。

その後、『ローマの噴水』と『ローマの祭り』の木村吉宏さんも、『あんまり、いじめんといてや(いじめないでね)!』と、ユーモアを交えたいつもの大阪弁とともに、はるばる大阪から来場!

クラリネットの関口 仁さんらと盛り上がっていた。

ところが、その『ローマの祭り』のクライマックスで、突然大事件が勃発する!

オルガンとして使われた「ヤマハエレクトーン クラシック F700」が、フェネルの音量のリクエストに音を上げたためか、突然“バン”といったきり、何も音が出なくなってしまったのだ。で、ステージ上には休憩の指示が出て、プレイヤーさんたちはティータイムに三々五々散っていく。しかし、一方で、最終曲を録っている段階でのハプニングだけに、佼成出版社の担当者、水野博文さんらは真っ青になってしまった。F700が日本には2台しかないという高級機だったこともあって…。

結局、その対応のため、休憩は長めになったが、音響スタッフの懸命の作業の結果、最終的にホール備品のアンプを活用してこの難局をなんとか乗り切ることに成功。その後、セッションは一気に進んで、無事すべてを録了することができた。

どんな録音現場でも、録り終えるまで本当に何が起こるかわからない。

思いがけないハプニングあり、懸命なリカバリングあり、場を和ませるユーモアあり…。

さらに嬉しかったことは、後日イタリア政府観光局からの協力を得ることができ、ブックレットに多くのローマの写真が提供されたことだろう。

これもすべて人と人の繋がりがなせるわざだ。

フェネル「ローマ三部作」もまた、多くの人々の情熱が結実した一枚となった。

▲CD – レスピーギ「ローマ三部作」第二回発売盤(佼成出版社、KOCD-0201、2000年)

▲KOCD-0201 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第155話 フェネル「ローマ三部作」の起点

▲CD – レスピーギ「ローマ三部作」(佼成出版社、KOCD-3570、1992年)

▲同、インレーカード

1991年(平成3年)のとある夏の朝、東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんから一本の電話が入った。

誰もが知ってのとおり、海外と日本、あるいは、関東と関西では、吹奏楽の立ち位置や趣向、活動ぶりがまるで違う。言葉や地域性が違うのだから、好みが違うのも当然で、時には同じ曲名の別の曲がそれぞれの地域だけで人気を得るような事態まで発生するから面白い。どこを切っても同じ絵が出てくる金太郎飴のように“全国一律”とはいかないという話だ。そこで、全国に足をのばすプロの楽団にとっては、日頃の情報収集や意見交換が欠かせない仕事となる。そんな訳で、古沢さんからは、《第41話 「フランス組曲」と「ドラゴンの年」》でもお話ししたように、これまでにもちょくちょく、東京では得られない情報を求めて電話がかかってきた。

この日も『ちょっと教えて欲しいことがあってね。』という切り出しだったので、さっそく用件を覗うと….。

『今、ウチでは、吹奏楽のいい編曲の譜面を探していて、こちらでもそちらの市音の団長さんの名前がちょくちょく挙がることがあるんだけど、実際、どうなの?』という質問だった。

市音とはもちろろん大阪市音楽団(民営化後、Osaka Shion Wind Orchestraと改称)のことだ。しかし、電話では、古沢さんが“団長さん”としか言わなかったので、こちらの頭には複数の名前がつぎつぎと浮かび、はじめは、話がまったく噛み合わなかった。だが、アレコレ話している内、古沢さんの言う“団長さん”が、1985年4月に団長に就任した木村吉宏さん(1939~2021)のことで、“編曲”がオーケストラの曲を指していることがわかった。(参照:《第144話 ウィンド・オーケストラのための交響曲》)

一般的に、東京では、大阪で普段感じている以上に、管弦楽の大曲や難曲を吹奏楽で全曲演奏したり、原調で演奏したときのステータスや充足感が高いようだ。

東京佼成は、管弦楽曲の優れた吹奏楽編曲や編曲者の情報を求めていたのである。

これより少し前から、アマチュアの世界では、西宮市立今津中学校吹奏楽部や尼崎市吹奏楽団という、全日本吹奏楽コンクールに出場する関西代表のバンドが、木村さんが吹奏楽に編曲した管弦楽曲を自由曲としてよく演奏し、そのライヴ盤も全国発売されて評判を呼んでいた。しかし、それらは演奏団体個別のリクエストで書かれたコンクール・サイズの編曲で、出版譜もなく、誰でも自由に利用できるものではなかった。その一方、木村さんが自楽団の定期演奏会などのために書き下ろした本格的な編曲が多く存在することは、意外なほど知られていなかった。

分かりやすく言うと、木村編曲の概要は、コンクールで演奏されたもの以外、東京にはほとんど伝わってなかったのである。

そこで、場合によっては編曲委嘱も視野に入れていると話す古沢さんには、当地では、木村編曲の評価、評判はひじょうに高いこと、そして、バッハ、レスピーギ、ヴェルディ、チャイコフスキーなど、多彩な作曲家の編曲が存在することなどを具体的な曲名を挙げながら説明する一方で、あくまで現職の市音の長であるから、東京佼成の委嘱を受けてもらえるか否かについては、自分にはわからないと答えた。

しかし、古沢さんがこんな遠まわしに質問を投げてくるのは、一体なぜなんだろうか。

この日の電話では、それについての言及はなく、こちらも敢えて訊かなかったが、話を聞きながら、東京では確実に何かが進んでいる、という予感が脳裏をかすめた。

その後、しばらく時が流れた同年秋、佼成出版社音楽出版室の柴田輝吉さんから入った電話で、それが何だったのか、バック・グラウンドがすべて明らかとなった。

東京佼成ウインドオーケストラの常任指揮者(当時)のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)が録音したいという曲をCD化する同社の「FFシリーズ」の新企画に、フェネルは、イタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi、1879~1936)の“ローマ三部作”を提案していたのである。

周知のように、レスピーギの“ローマ三部作”は、『ローマの噴水(Fontane di Roma)』(1916)、『ローマの松(Pini di Roma)』(1924)、『ローマの祭り(Feste Romane)』(1928)の3つの交響詩を総称してそう呼ばれる作品群だ。

柴田さんの話は、これまでの楽団との意見交換の結果、“松”は、佼成がすでに慣れ親しんでいる楽譜を使うことに決まっているが、残る“噴水”と“祭り”に関しては、ぜひにも木村さんの編曲を使わせて欲しいというものだった。ついては、市音に伺って直接挨拶と依頼をしたいので、その日取りの調整と同席もしてもらえないかとのリクエストも受けた。

つまりは、露払いの役まわりだ。

木村編の『ローマの噴水』は、1988年(昭和63年)11月16日(水)、フェスティバルホールで開かれた「第57回大阪市音楽団定期演奏会」で、小泉ひろしの指揮で、『ローマの祭り』は、1989年(平成元年)10月4日(水)、同ホールで開かれた「大阪市制100周年記念 第59回大阪市音楽団定期演奏会」で、山本直純の指揮でそれぞれ初演奏が行なわれていた。

さて、こいつはエラいことになったぞ!

と思いながらも、すぐ、事前の打診のために市音に電話すると、『なんや、“松”はいらん(必要ない)のか。』などと口では言いながらも、意外にも木村さんのご機嫌はたいそう麗しく、柴田さんを市音にお連れする日も、1991年も押し迫った12月10日(木)と決まった。

おそらくは、1984年(昭和59年)10月31日(水)、フェスティバルホールで開催された「第49回大阪市音楽団定期演奏会」以降、市音定期に3度客演(第49回、第53回、第55回)して知己を結び、それ以降も、木村さんと交友を深めていたフェネルが“やりたい”と言いだしたことがこの話をスムーズに進めさせる一因になったのではなかろうか。

また、木村さんは、リスペクトするゲストには、鉛筆書きの自筆スコアをよく見せていた。市音客演時には“噴水”も“祭り”もまだ陽の目を見る前だったが、東京佼成の事務局に編曲家としての木村さんの名をもたらしたのも、案外フェネルだった可能性もあるように思う。

ともに物故者になった今となっては、確認する術を持たないが…..。

それはともかく、柴田さんを交えた面談当日も、『佼成さんがやってもらえるんやったら、喜んで楽譜をお貸ししましょう。』と珍しく東京弁風の受け答えの満額回答が出た。

柴田さんはもちろん満面の笑みに包まれていた。

その後、間に入る立場になった筆者と氏は頻繁にやりとりをし、今もその時の資料が手許にいくつか残る。その内、年末に届いたつぎのメモには、興味深い事実がいくつも記されている。

『ローマ三部作  4/22. 23 パルテノン

  1.  ローマの松  阪口版
  2.  ローマの祭  木村版
  3.  ローマの泉  木村版

を使用する予定です。東京佼成の同意(形式的)がえられたら、大阪に行って諸々の打合わせをする予定です。柴田』(原文ママ)

走り書きなので、タイトル等は未確定のものだが、このメモには、録音は1992年(平成4年)4月23~24日(木~金)、ホールはパルテノン多摩に決まったこと、そして、使用楽譜が決まり、残るは正式に楽団と契約書面を交わすところまで話が進んでいるということが記されている。

最も興味をひく点は、最終的に、鈴木英史さん(1965~)の編曲で録音された『ローマの松』が、この時点(1991年年末)までは、東京ではひじょうにポピュラーに演奏され、東京佼成も過去に取り上げていた阪口 新さん(1910~1997)の編曲を使う前提で話が進められていたことだろう。

一方、結果的に録音に至った鈴木さんの編曲は、1990年(平成2年)12月24日(月・祝)、東京文化会館で開催された「東京佼成ウインドオーケストラ第47回定期演奏会」の指揮者、小田野宏之さんの要望で書かれ、その後も楽団プレイヤーとのコラボレーションを重ねていたものだった。

柴田さんからは、最終的に、新しい編曲で行こうということになったと聞いた。

どんなCDも、人と人との繋がり、係わり合いがあってはじめて完成に至る。

フェネルの『ローマ三部作』もまた、そんな歩みの中で制作された一枚だった。

▲フェネル自筆サイン

▲連絡メモ(1991年12月)

▲フェネル、木村両氏と(1993年2月13日、兵庫県尼崎市)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第154話 フェネル:マーチング・アロング

▲LP(モノラル) – Marching Along(米Mercury、MG 50105、1956年)

▲MG 50105 – A面レーベル

▲MG 50105 – B面レーベル

1956年1月20日(金)、米ニューヨーク州ロチェスターにキャンパスをもつロチェスター大学イーストマン音楽学校(The Eastman School of Music of the Rochester University)のイーストマン劇場(Eastman Theater)で、マーキュリー・レコード(Mercury)によるフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensenble)のLPアルバム「Marching Along(マーチング・アロング)」のレコーディング・セッションが行なわれた。

このアルバムは、「American Concert Band Masterpieces(アメリカン・コンサート・バンド・マスターピーシーズ)」(Mercury、MG 40006、1953年)、「Marches(マーチーズ)」(Mercury、MG 40007、1954年)、「La Fiesta Mexicana(ラ・フィエスタ・メヒカーナ)」(Mercury、MG 40011、1954年)、「British Band Classics(ブリティッシュ・バンド・クラシクス)」(Mercury、MG 40015、1955年)についで制作されたイーストマン・ウィンド・アンサンブルの5枚目のLPで、そこまでの4枚がモノラル録音だったのに対し、初のステレオ方式を採用して録音されたアルバムとなった。(カッコ内、LP番号と発売年は、初出盤のもの)

ただ、残念ながら、このアルバムが録音された当時は、まだステレオ方式の音をレコード盤にカッティングする技術が実用化されていなかったので、アルバムは、1956年2月に、まずモノラル盤(Mercury、MG 50105)としてリリースされ、ステレオ盤(Mercury、SR 90105)は、3年後の1959年2月にリリースされた。

蛇足ながら、ステレオ方式を採用した当時のマーキュリーは、《第148話 ヒンデミット-シェーンベルク-ストラヴィンスキー》でもお話ししたように、セッションでは、モノラル用とステレオ用にラインを分けて、それぞれの方式の専用レコーダーで録音していた。そのため、このアルバムにもモノラル用とステレオ用の2種類のマスターが存在し、リリースにあたっては、モノラル盤はモノラル・マスターから、ステレオ盤はステレオ・マスターから制作された。このため、マスタリングの時期が異なる両盤を聴き比べると、編集や定位、残響感などに差異があり、とても面白い。実は、演奏が違う箇所もあるのだ。

話を元に戻そう。

アルバム「マーチング・アロング」には、以下の12曲が収録された。

・アメリカ野砲隊
The U.S. Field Artillery
(John Philip Sousa、1854~1932)

・雷神
The Thunderer
(John Philip Sousa、1854~1932)

・ワシントン・ポスト
Washington Post
(John Philip Sousa、1854~1932)

・キング・コットン
King Cotton
(John Philip Sousa、1854~1932)

・エル・カピタン
El Capitan
(John Philip Sousa、1854~1932)

・星条旗よ永遠なれ
The Stars and Stripes Forever
(John Philip Sousa、1854~1932)

・アメリカン・パトロール
American Patrol
(Frank W. Meacham、1856~1909)

・オン・ザ・モール
On The Mall
(Edwin Franko Goldman、1878~1956)

・ライツ・アウト
Lights Out
(Earl E. McCoy、1884~1934)

・バーナム&ベイリーのお気に入り
Barnum and Bailey’s Favorite
(Karl L. King、1891~1971)

・ボーギー大佐
Colonel Bogey
(Kenneth J. Alford、1881~1945)

・ビルボード
The Billboard
(John N Klohr、1869~1956)

アルバム・タイトルを、アメリカのマスコミが“マーチ王”と称えたジョン・フィリップ・スーザの自伝「Marching Along: Recollections of Men, Women and Music」(米Hale, Cushman Flint、1928年)の書名からとったこのアルバムは、LPのA面にスーザのマーチを6曲、B面に他の作曲家のマーチを6曲収録した本格マーチ・アルバムだった。

21世紀の現時点からそれを眺めると、それまでのシンフォニック・バンドとは一線を画したウィンド・アンサンブル理論を提唱し、1952年に、世界初のウィンド・アンサンブルであるイーストマン・ウィンド・アンサンブルを学内に創設したフェネルがこのようなマーチ・アルバムを作っていることを不思議に思う人がいるかも知れない。

しかし、新しいことを始めようとするときには“つきもの”と言うべきか、フェネルが提唱したウィンド・アンサンブル理論のアカデミックな評価や高い注目度とは裏腹に、「マーチング・アロング」以前に発売された4枚中、商業レコードとして最も成功を収めた(売れた)のは、ウィリアム・シューマン(William Schuman)やロバート・ラッセル・ベネット(Robert Russel Bennett)、H・オーウェン・リード(H. Owen Reed)、グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)らのオリジナルが入ったアルバムではなく、マーチ・アルバムの「マーチーズ」だった。

1954年8月にリリースされたこの「マーチーズ」(MG 40007)は、スーザのマーチ8曲を含むアメリカのポピュラーなマーチ16曲を収録したアルバムで、1956年10月に規格番号をMG 50080に改めて再プレス(ジャケット・デザインは同一)。その後、ジャケットをマーチング・バンドのミニチュアの写真に改めたので、合計3つのバージョンがある。(参照:《第19話 世界のブラスバンド》)

そして、ヒット作が出ると“2匹目のどじょう”を狙って続編が企画されるのは、商業レコード業界の常。「マーチング・アロング」は、ヒット・アルバム「マーチーズ」とまるで同じコンセプトで作られた続編だったわけだ。

その後、マーキュリーは、さらに“3匹目”を狙って、1956年10月に「マーチーズ」と「マーチング・アロング」のコンピレーション・アルバム「Marches for Twirling(マーチーズ・フォー・トワリング)」(Mercury、MG 50113)までリリースしているから、当時、フェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル演奏のマーチの人気がいかに高かったかがよくわかる。

フェネルは、「マーチング・アロング」のセッションに際し、オリジナル版の楽譜を集め、それらのオーケストレーションを丹念に精査して、木管25名、金管16名、打楽器6名、コントラバス1名、計48名のプレイヤーをレコーディングに選んだ。内声部をクリアにする目的もあり、作曲者が書いたもの以外、いかなる管楽器パートも加えていないが、フェネルの専門領域である打楽器だけは、彼がいつも演奏でそうしてきたように独自のアイデアを加えている。

リハーサルは、セッション2日前の1956年1月18日(水)、イーストマン劇場においてフェネルの指揮で行なわれたコンサートの練習を兼ねて行なわれ、コンサートでは、第一部でスーザ以外のマーチ6曲が、第二部でスーザのマーチ6曲が、レコードとは異なる曲順で演奏されている。

セッションは、ディレクターが、デヴィッド・ホール(David Hall)、エンジニアが、C・ロバート・ファイン(C, Robert Fine)のコンビによって行なわれ、そのひじょうに明瞭でダイナミックなサウンドは、21世紀の今聴いても惚れ惚れするような輝きをもつものに仕上がった。リリース後は、世界各国でリリースされるヒット作となっている。

日本でも、LPレコード時代のかなり早い時期にライセンスを得たキング、その後、ビクターからさまざまなカップリングでリリースされているが、父のレコード棚には、なぜかそのキングから発売された8曲入りの「アメリカン・パトロール」(25cmLP、MPM-17、モノラル)というレコードがあり、物心ついた頃から毎日のように聴いていた。

いずれ、そのマエストロと、同じ現場でご一緒することになるとは、夢にも思わずに!!

▲LP(モノラル) – Marches for Twirling(米Mercury、MG 50113、1956年)

▲MG 50113 – A面レーベル

▲MG 50113 – B面レーベル

▲LP(ステレオ) – Marching Along(米Mercury、SR 90105、1959年)

▲SR 90105 – A面レーベル

▲SR 90105 – B面レーベル

▲LP(ステレオ) – Marching Along(蘭Mercury Golden Imports、SRI 75004)

▲SRI 75004 – A面レーベル

▲SRI 75004 – B面レーベル

▲LP(ステレオ) – マーチング・アロング(Philips(日本フォノグラム)、PC-1612、1975年)

▲PC-1612 – A面レーベル

▲PC-1612 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第153話 大栗 裕作品集の起点

▲「新・実践吹奏楽指導全集」指導書(東芝EMI、1993年)

▲同、スタッフ・クレジット

1993年(平成5年)1月20日(水)、東芝EMIがリリースしたCD「吹奏楽名曲コレクション31 大栗 裕作品集」(TOCZ-9195 / 参照:《第152話 「大栗 裕作品集」とともに》)は、わが国の吹奏楽CD史に残る空前のセールスを記録しただけでなく、あらゆる点で“異例づくし”のアルバムだった。

CDのタイトルが示すとおり、収録曲は、すべて関西ローカルの作曲家、大栗 裕さん(1918~1982)が吹奏楽のために書いたオリジナル作品で、ここがまず“異例”の出発点だった!

今、吹奏楽をやっている人には、“オヤ?”と思われるかも知れないが、当時、中央の楽壇で大栗さんの名が語られるのは、木下順二(1914~2006)原作のオペラ『赤い陣羽織』(初演:1955)や指揮者朝比奈 隆(1908~2001)の渡欧に際して作曲を依頼され、ベルリン・フィルに献呈された『大阪俗謡による幻想曲』(管弦楽、初演:1956)が話題に上るときぐらいだったからだ。

それほど在京以外の作曲家や吹奏楽への関心は薄かった。

そして、今もそれは変わらない。

演奏もまた、在京ではなく、1991年に通販で始まった東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピースシリーズ」(3枚組ボックス全10巻:TOCZ-0001~0030)を除けば、それまで単独演奏のCDが市場になかった大阪市音楽団(市音。民営化後、Osaka Shion Wind Orchestraと改称)の新録音で、指揮を作曲者と家族ぐるみのつき合いだった前出の朝比奈さん、そしてその薫陶を受けた市音団長で常任指揮者(当時)の木村吉宏さん(1939~2021)の両マエストロが担うという、オール関西キャストによるもので、これまた異例な出来事だった。

なぜなら、東京に本社のある大手レコード会社が、何か企画ものを作るとなると、まずは在京の演奏者や指揮者に声がかかるのがごくごく自然だからだ。

というのも、一般的に、商業レコード会社にとって、プロのオーケストラやウィンドオーケストラが複数存在し、録音経験豊富なフリーランスの奏者も多くいて、必要なエキストラの手配など、キャスト面の心配がない上、楽器や録音機材、スタッフの出張旅費や宿泊費、運搬費など、セッションに関わるコスト全体を押さえながら、人的移動を自宅から現場への往復だけで済ますことができる“在京アーティスト”で録音が行なうことはソロバン上とても理に適う話で、その状況は今も昔も変わらない。

なので、仮に、この「大栗 裕作品集」が、企画段階から東芝EMIが立ち上げたもの(つまり商業レコード会社が主体となった企画)だったとしたら、演奏キャストはまったく違う顔ぶれになっていた可能性もあったわけだ。

また、業界やファンの間では、ライヴ録音以外のレコーディングを行なわないと言われていた朝比奈さんが積極的にセッション・レコーディングの指揮を行なったということも異例だったが、これは、朝比奈さんと大栗さんの長年にわたる交友を肌で感じていた筆者からの提案だった。(参照:《第44話 朝比奈 隆と大栗 裕》)

レコーディングが行なわれたのは、リリース前年の1992年(平成4年)4月15~16日(水~木)の両日で、録音会場は、兵庫県尼崎市のアルカイックホール。わざわざそれを狙って予定が組まれた訳ではなかったが、それは、1982年(昭和57年)4月18日(日)に逝去した作曲者の没後10年(しかも同月)にあたった。

セッション前、カレンダーを眺めていて偶然それに気づいた筆者が、指揮の木村さんにそれを話すと、『そうか、それも、なんか(何か)のめぐり合わせやなぁ。』と感慨深げで、その波動は市音のメンバーにも静かに広がっていった。

周知のとおり、作曲者と市音のつながりは、太平洋戦争以前にまで遡る。(《参照:《第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話》)

市音が東芝EMIの録音を担うのはこれが初めてではなかったが、リリース後、このアルバムで示した市音のパフォーマンスが業界を驚かせたのも、今にして思えば、セッションが作曲者と市音の人間関係が醸し出す、そんな特別な空気の中で行なわれたものだったからかも知れない。確かに、何かのプラス・アルファーがセッションを後押ししていた。時は流れ、令和の時代になっても、つくづくそう思う。

しかし、普通、1枚のCDが録音から世に送り出されるまでの時間は3~4ヵ月というのが商業レコード会社のスケジュール進行の常識。なので、ここまでお話ししたことを時系列的に並べると、このCDのセッションからリリースまでがやけに時間がかかっていることに気づく人も多いだろう。

今、その種明かしをするなら、この録音は、実は、始めから“作品集”としての発売が確約されたものではなかった。

それは、当時、東芝EMIの通販ものや自主制作などを担う第三営業本部がプロジェクトを進めていた吹奏楽指導者向けの「新・実践吹奏楽指導全集」の一環で録音されたものだったのだ。

この「新・実践吹奏楽指導全集」は、指導書、CD15枚、ビデオ6巻、楽譜などがセットされた大全集で、セット価格が“ン十万”という高価なものだったので、ビンボーな筆者には到底手が出る類いのものではなかった。なので、残念ながら手許にはない。

東芝EMIは、この全集の目玉のひとつとして、大阪府立淀川工業高等学校(現、淀川工科高等学校)吹奏楽部(指揮:丸谷明夫)が、1993年(平成5年)1月24日(日)に大阪のフェスティバルホールで行なったグリーン・コンサートで取り上げた『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』の練習初日から本番までを密着取材したドキュメントをCD化(HDCD-1452)した。しかし、全体企画の過程で、コンクール用にカットされた演奏とは別に、ノーカット全曲も収録したいというアイデアが浮上したのである。

そうなると、この曲を委嘱、初演し、作曲者から寄贈された手書きの原譜をもつ市音が適役なのは、誰の目にも明らかだった!

そこで、東芝EMIは市音の木村さんにこの曲の録音をオファーした。

担当者は、東芝EMI第三営業本部の鈴木武昭さんだった。

鈴木さんの話を受け、木村さんからすぐ相談があった…..。

『東芝が、どうしても“大阪俗謡”を録らせてくれって、ゆうて(言って)来よってな。向こうはそれだけ録れたらそれでええ(それでいい)らしいんやが、ウチの方としては、ただそれだけのために、人を集めてやる(演奏する)わけにはいかんのや。東芝には、それ以外の曲を録るアイデアは何もないらしい。なんぞ(何か)ええ(いい)考えないか?』

木村さんは、ちゃんとしたセッションが組めるなら話を前に進める意向だと受け取った筆者は、こう切り返した。

『それやったら、大栗さんの他の作品を録るというのはどうでしょうか。“小狂詩曲”や“神話”、“仮面幻想”など、曲も結構揃っているし…。大栗作品集というのは、東京では思いもよらないでしょうし、いかにも市音らしい。』

東京のレコード会社にとってリスキーな関西ローカルの作曲家の作品を、初演者による“大阪俗謡”の音が欲しいというオファーがきたこの機会をとらえて、同時に録ってもらおうという、なんとも手前勝手で無責任なアイデアである。

一方で、もし東芝が“作集集”としてのリリースを渋っても、大阪だけの自主制作盤にすれば、地元びいきの”市音ファン”には確実に喜んでもらえるという、生活観に根ざす大阪ネイティブとしての妙な自信もあった。

このアイデアに、木村さんも『それは、確かにウチにしかできない仕事や!あとは、東芝がどう言いよる(答える)か、やな。よし、わかった!』と、すこぶる上機嫌だった!

その後、東芝EMIと市音は協議を重ね、1992年4月のアルカイックホールでのセッションは、スケジュール化された。

「作品集としての商品化は白紙だが、東芝EMI第三営業本部が録音。並行してCDショップでの一般発売用のカタログ商品化を、社内の邦楽クラシック部門に強く働きかけてもらう」という条件で!

▲CD – 「新・実践吹奏楽指導全集」2 指導講座編 ドキュメンタリー 初見から演奏会までII「大阪俗謡による幻想曲」(東芝EMI、HCD-1452)

▲HCD-1452 – インレーカード

▲CD – 「新・実践吹奏楽指導全集」7 実践曲集編 オリジナル作品 I ~邦人作品~ 「故郷」によるパラフレーズ(東芝EMI、HCD-1457)

▲ HCD-1457 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第152話 大栗 裕作品集とともに

▲CD – 吹奏楽名曲コレクション31 大栗 裕作品集(東芝EMI、TOCZ-9195、1993年)

▲TOCZ-9195 – インレーカード

『今そのタイトルを作るとしたら、まずぱ楽団さんに500枚買い取ってもらうことが前提になりまして、その際、ウチの販売用を70枚か80枚か製造させていただくことになります。』

2018年(平成30年)、Osaka Shion Wind Orchestra理事長&楽団長の石井徹哉さんのリクエストで、ユニバーサル ミュージック ジャパンに問い合わせた際、電話に応じた担当者からの回答だ。

このとき、追加プレスの可否を問い合わせたタイトルとは、日本の吹奏楽CD史上、空前のセールスを記録した大阪市音楽団(Shionの民営化前の楽団名)演奏の「大栗 裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195、1993年)のことで、当時、Shionは、同年末の12月6日(木)に、あましんアルカイックホール(兵庫県尼崎市)で開催する「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ創立95周年 大栗 裕 生誕100年記念特別演奏会」に向けて準備を進めていた。石井さんのリクエストは、その時までに、自楽団CD史上最高のセールスを記録し、新聞にも大きく取り上げられたそのCDの再プレスが可能かどうかをレコード会社に打診してみて欲しいというものだった。(参照:《第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話》)

石井さんからこの話を聞いた時、正直これはかなりハードルが高い話かも知れないなと感じた。なぜなら、1993年にこのCDをリリースした東芝EMIが、2007年にイギリスのEMIに売却されてEMIミュージック・ジャパンとなり、そのイギリスEMIも2012年にアメリカのユニバーサル傘下に入り、電話を入れた頃には、合併をへてユニバーサル ミュージック合同会社(ユニバーサル ミュージック ジャパン)という日本法人に変わっていたからである。当然、人も会社の所在地も変わっていた。

そんなわけで、この時点の同社には昔なじみの担当者は皆無。筆者がかけた電話も、各部をたらいまわしになった挙句やっと目指すクラシック担当につながった。しかし、さすがは世界最大のミュージック・グループを自負する“ユニバーサル”のことだ。電話がつながると、単刀直入に用件を切り出したが、先方の関心の無さと情報の薄さは、感動的ですらあった。恐らく、いつも世界のスーパースターの話題作のようなものばかりを追いかけているからかも知れないが、吸収合併した旧東芝盤の扱いにはあまり熱量が感じられなかった。問い合わせた内容が、彼らがまるで知らない日本人作曲家の作品を在京以外の楽団が演奏した吹奏楽のCDだったからかも知れないが……。

そして、自分達の作ったものじゃなかったからか、盛んにPCをカタコトやりながら、『このタイトルは、過去2度発売されていますが、作るとすると、社名も変わりましたので印刷物も作り直さないといけませんし。どう計算しても、500枚買取が前提となります。』とのかなり冷たいお言葉!

しかし、当方は、このCDが過去3度リリースされたことを知っていたので、相手のデータベースへのアクセスが不完全なことだけは、瞬間的にわかった! しかも、少し深層まで入って“どれくらい売れたか”も確認していないようだった。

【初回発売】:吹奏楽名曲コレクション31 大栗 裕作品集
朝比奈 隆、木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(東芝EMI、TOCZ-9195、リリース:1993年1月20日)

【第2回発売】:新・吹奏楽名曲コレクション ウィンド・スタンダーズ Vol.14 ジャパニーズ・バンド・ミュージックIV 大栗 裕作品集
(東芝EMI、TOCF-6018、リリース:1999年2月24日)

【第3回発売】:大栗 裕作品集
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90011、リリース:2009年4月22日)

実は、ユニバーサルに電話した2018年は、“大栗 裕生誕100周年”であるとともに“朝比奈 隆生誕110周年”で関西の音楽界はかなり盛り上がっていた。そこで、CDの2曲が朝比奈さんの指揮であることも話したが、『ウチは朝比奈音源がほとんど無いので』と、取り付く島もない。これでは埒があかないと感じた筆者は、先方の出した条件だけを再確認して、『楽団に伝えて、彼らが承諾するなら、また連絡する。』と言って電話を切った。

その後、石井さんに結果を知らせると、彼も“500枚買取条件”には、さすがに口アングリで計画断念。こうして、ユニバーサルからの“大栗 裕作品集”の4度目のプレスは成就しなかった。

ここで話は少し脱線する。

実は、「大栗 裕作品集」には、以上の3回のほかに、もう1回“幻のプレス計画”があった。それは、このCDが市場から消えてしまっている状況をとても残念に思っていた「バンドパワー」の鎌田小太郎さんが、2008年にEMIジャパンからライセンスを得て“オリジナルどおりに復刻する”という話を持ちかけたときのことだった。そして、この話は、当初、交渉も順調に進んで、残すは最終合意と契約を交わすばかりという段階までこぎつけたが、そこで、突然白紙になった。理由は、EMIジャパンが過去のデータを再度チェックして、このCDが“実はひじょうによく売れたアイテム”だったことに気づき、“そんなに売れるものなら、自社で販売する”という方向に潮目が変ったからである。

ただ、ここで、EMIジャパンがすばらしかったのは、一旦話を断った小太郎さんに、かつて東芝EMIがリリースした吹奏楽CDの内容をしっかり取材して、「大栗 裕作品集」第3回発売と同時に、市場から消えていた以下のCDも再リリースされることが決まったことである。

・ロバート・ジェイガー作品集
渡邊一正指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90012、リリース:2009年4月22日)

・アルメニアン・ダンス全曲
フレデリック・フェネル指揮、東京佼成ウインドオーケストラ
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90013、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[1]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90014、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[2]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90015、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[3]
ハインツ・フリーセン指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90016、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[4]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90017、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[5]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90018、リリース:2009年4月22日)

・リアル・フェネル
フレデリック・フェネル指揮、東京佼成ウインドオーケストラ
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90019、リリース:2009年4月22日)

・リアル・フェネル[II]
フレデリック・フェネル指揮、東京佼成ウインドオーケストラ
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90020、リリース:2009年4月22日)

外野から眺めていると、一般的に、商業レコード会社では、規模が大きくなればなるほど、自社が築いてきた音楽財産の中身を知らないという、そういった事件が起こりやすい。冒頭にお話ししたユニバーサルの電話対応もその典型的な一例である。

しかし、なにはともあれ、このときの小太郎さんが起こしたアクションが、「大栗 裕作品集」の3度目のリリース(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90011)につながったことは確かである。誰がなんと言おうが、これは、日本の吹奏楽の世界への小太郎さんの大きな貢献である。

そして、この3度目のリリースによって、筆者にも出番が回ってきた。

小太郎さんの橋渡しで新たに担当となったEMIジャパンの森 真理子さんと打ち合わせた結果、いずれはやらねばと思っていた「大栗 裕作品集」のプログラム・ノートの全面的アップデートが実現する運びになったのである。

第43話 大栗 裕「仮面幻想」ものがたり》でもお話ししたように、1992年に「大栗 裕作品集」の企画がスタートした当時、大栗作品のノートは、まるで整備されていなかった。そのため、何ヵ月も大阪市内を駆けずり回って関係者に直接取材し、約3ヵ月をかけてノートを執筆。しかし、〆切りまでに積み残したテーマも当然あり、CDリリース以降も断続的に調査を継続した結果、新たな事実がいくつも判明。第3回発売のプログラム・ノートにそれらを盛り込むことができた。

この結果、TOCF-90011のオビのバックに小さく(解説改訂版)と表記された。

余談ながら、1999年の「大栗 裕作品集」第2回発売のときには、ノートのアップデートはできなかった。というより、初回発売の旧盤を廃した第2回発売自体、東芝EMIからまるで知らされていなかった。筆者がそれを知ったのは、何人かの大阪市音楽団のベテラン・プレイヤーに捕まって、突然『なんで、ジャケットを変えたんや!!何の意味もない、しょうもない(つまらない)ジャケットにしやがって!!』と大きな声で叱責されたときだった。晴天の霹靂とは、まさにこのことだ。

初回発売時のオリジナルのジャケットには、大栗さんの最後の吹奏楽作品となった『仮面幻想』のモチーフとなった奈良の春日大社所蔵の新鳥蘇(しん・とりそ)という舞楽面の写真を大社の許諾をとりつけた上、個人的に1万円を奉納して使わせてもらった。それが、『まるで、大栗さんが笑うてはる(笑っている)顔みたいや!』と市音のメンバーには大好評で、「大栗 裕作品集」は、レコード会社の商業CDには違いないが、市音の人々は自分たちの代表作としていろいろな機会をとらえて広報してくれた。

また、作曲者の奥さん、大栗芳子さんにも、このジャケットはたいへん気にいってもらい、『友人に贈りたい。』と言われ、かなりの枚数を筆者を通じて注文されている。

知らぬこととはいえ、東芝EMIは、作曲者につながるそんな人々の気持ちを踏みにじっていたのである。

なので、EMIミュージック・ジャパンによる第3回発売に際しては、まず最初に担当の森さんにジャケットをオリジナルどおりに戻してもらうようにお願いした。

事情を知った森さんは、即座にそれに同意!!

ノートをアップデートした「大栗 裕作品集」は、こうして旧日の歓びを取り戻すことになった。

▲CD – 新・吹奏楽名曲コレクション ウィンド・スタンダーズ Vol.14 ジャパニーズ・バンド・ミュージックIV 大栗 裕作品集(東芝EMI、TOCF-6018、1999年)

▲TOCF-6018 – インレーカード

▲CD – 大栗 裕作品集(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90011、2009年)

▲TOCF-90011 – インレーカード