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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第156話 フェネル「ローマ三部作」のレコーディング

▲CD – レスピーギ「ローマ三部作」初回発売盤(佼成出版社、KOCD-3570、1992年)

▲フェネル夫妻と(1991年10月、京王プラザホテル多摩)

1992年(平成4年)4月23~24日(木~金)、東京都多摩市のパルテノン多摩大ホールで行なわれたフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)指揮、東京佼成ウインドオーケストラ演奏のCD「ローマ三部作」(佼成出版社、KOCD-3570、1992年)のレコーディング・セッションは、筆者にとってもひじょうに思い出深いものとなった。

CDの発売は、同じ年の10月10日(土)。リリースされた初回発売盤のオビ上に印刷されたコピーは、《世界初!ウィンドオーケストラによる熱演》だった。

アルバムは、もともとは管弦楽(オーケストラ)作品であるイタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi、1879~1936)の“ローマ三部作”すべてをウィンドオーケストラだけで録音しようとする野心的な企画だった。先述のキャッチ・コピーからも当時の制作関係者の意気込みが伝わってくる。

録音スタッフは、ディレクター&ミキサーが若林駿介さん、アシスタント・ディレクターが鈴木由美さん、エンジニアが及川公夫さん、そしてテープ・エディターが杉本一家(JVC)さんという、当時の佼成出版社の録音の多くを担ったおなじみの顔ぶれで、筆者も解説者として両日のセッションに参加した。

使用されたウィンドオーケストラ用のトランスクリプションは、3曲ともすべて手書きで、『ローマの松(Pini di Roma)』が鈴木英史さん(1965~)、『ローマの噴水(Fontane di Roma)』と『ローマの祭り(Feste Romane)』が木村吉宏さん(1939~2021)のトランスだった。(参照:《第155話 フェネル「ローマ三部作」の起点》)

管弦楽のオリジナルと録音されるものの楽器編成が違うわけだから、筆者も、解説用に用意してもらった各スコアのほか、伊Ricordi版の管弦楽スコアも別に準備するという“重装備”でセッションに臨んでいる。

東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、遠藤 敏さんを介し、元フルート奏者の牧野正純さんに当時の進行を確認すると、牧野さんはセッション両日の進行を以下のように記録されていた。(曲名等は、牧野さんの記載のママ)

4/22

11:00~13:30 ローマの松 1, 2, 3
13:30~14:30 昼休み
14:30~16:20 ローマの松 3, 4
16:20~16:50 休憩
16:50~18:40 ローマの泉

4/23

11:00~13:00 ローマの祭り 1, 2
13:00~14:00 昼休み
14:00~16:45 ローマの祭り 3, 4
(16:00頃小休憩あり)

なかなかタイトな進行だ。これを眺めると、もし仮に“1日1曲収録”というスケジュールを組めていたなら、もっと余裕のある進行になっていたと思う。だが、セッションを3日間にすると、ホール代もスタッフ代もオケの使用料も跳ね上がり、あまりにもコスト・パフォーマンスが悪い録音になってしまう。協議の末、最終的にこう決まったというが、無責任な外野的立場からみると、それが逆にいい意味で緊迫感のある空気を生み出し、まるでライヴのようなすばらしいパフォーマンスにつながった印象がある。

録音現場にいたからわかるが、このセッションに関わったすべての人々のモチベーションは、それほどに高かった!

正しくブラボーもののパフォーマンスである!

一方、指揮者のフェネルにとっても相当気合いの入ったセッションだったようで、彼のスコアには、書き込みがビッシリ入っていた。また、ユーフォニアムの三浦 徹さんの回想によると、『(指揮台の上の)スコアには、テンポとディナーミク表示をグラフにして、何処でも曲想が変わらないように、また繋いでも良いように独自の方法で音楽の流れをキープされていた。』というし、筆者も、彼がくりだす指示のイメージがひじょうに明確で、繊細だったことを鮮明に記憶している。『ローマの松』の中で聞かれるナイチンゲールの泣き声にも、鳥の種類まで挙げながら、“微に入り細に入る”こだわりの注文がつけられた。

しかし、それでいて、指揮ぶりは神経質ではなく、とても愉しそうだった。

そのフェネルとは、前年の1991年(平成3年)10月24~25日(木~金)、同じパルテノン多摩で行なわれたCD「ピース オブ マインド(Piece of Mind ? Contemporary Mix)」(佼成出版社、KOCD-3569、1992年)のセッションで知己を得て以来、いろいろな現場で会話を重ねたが、この「ローマ三部作」のときは、明らかに何かが違った。(参照:第53話 フェネル:ピース オブ マインド

そして、その謎が、ある休憩のときに突然詳らかとなる。

筆者をつかまえたマエストロは、悪戯っぽい目をしながら、こう言った。

『私がはじめて“三部作”の勉強をしたのはいつだったか、知ってるいるかい?』

筆者が“いいえ”と応えると、『それはね、トスカニーニの“三部作”のレコーディングのときだったんだ。そのとき、私はスタジオの隅っこから、そのすべてを見ることができたんだよ。』と返ってきた。

なんと、フェネルは、作曲者レスピーギの信頼厚かった伝説のマエストロ、アルトゥーロ・トスカニーニ(Arturo Toscanini, 1867~1957)のセッションを真近かで見ていたのだ!

これは、特別な想いがあって当然だ!

そして、この時、筆者は、こんな特別な現場に偶然居合わせることができた幸運を音楽の神様に感謝した。

他方、このセッションでは、『ローマの松』をトランスクライブした鈴木英史さんとの新たな出会いもあった。楽屋でいろいろ話ができたことが今も懐かしい。

その後、『ローマの噴水』と『ローマの祭り』の木村吉宏さんも、『あんまり、いじめんといてや(いじめないでね)!』と、ユーモアを交えたいつもの大阪弁とともに、はるばる大阪から来場!

クラリネットの関口 仁さんらと盛り上がっていた。

ところが、その『ローマの祭り』のクライマックスで、突然大事件が勃発する!

オルガンとして使われた「ヤマハエレクトーン クラシック F700」が、フェネルの音量のリクエストに音を上げたためか、突然“バン”といったきり、何も音が出なくなってしまったのだ。で、ステージ上には休憩の指示が出て、プレイヤーさんたちはティータイムに三々五々散っていく。しかし、一方で、最終曲を録っている段階でのハプニングだけに、佼成出版社の担当者、水野博文さんらは真っ青になってしまった。F700が日本には2台しかないという高級機だったこともあって…。

結局、その対応のため、休憩は長めになったが、音響スタッフの懸命の作業の結果、最終的にホール備品のアンプを活用してこの難局をなんとか乗り切ることに成功。その後、セッションは一気に進んで、無事すべてを録了することができた。

どんな録音現場でも、録り終えるまで本当に何が起こるかわからない。

思いがけないハプニングあり、懸命なリカバリングあり、場を和ませるユーモアあり…。

さらに嬉しかったことは、後日イタリア政府観光局からの協力を得ることができ、ブックレットに多くのローマの写真が提供されたことだろう。

これもすべて人と人の繋がりがなせるわざだ。

フェネル「ローマ三部作」もまた、多くの人々の情熱が結実した一枚となった。

▲CD – レスピーギ「ローマ三部作」第二回発売盤(佼成出版社、KOCD-0201、2000年)

▲KOCD-0201 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第155話 フェネル「ローマ三部作」の起点

▲CD – レスピーギ「ローマ三部作」(佼成出版社、KOCD-3570、1992年)

▲同、インレーカード

1991年(平成3年)のとある夏の朝、東京佼成ウインドオーケストラのマネージャー、古沢彰一さんから一本の電話が入った。

誰もが知ってのとおり、海外と日本、あるいは、関東と関西では、吹奏楽の立ち位置や趣向、活動ぶりがまるで違う。言葉や地域性が違うのだから、好みが違うのも当然で、時には同じ曲名の別の曲がそれぞれの地域だけで人気を得るような事態まで発生するから面白い。どこを切っても同じ絵が出てくる金太郎飴のように“全国一律”とはいかないという話だ。そこで、全国に足をのばすプロの楽団にとっては、日頃の情報収集や意見交換が欠かせない仕事となる。そんな訳で、古沢さんからは、《第41話 「フランス組曲」と「ドラゴンの年」》でもお話ししたように、これまでにもちょくちょく、東京では得られない情報を求めて電話がかかってきた。

この日も『ちょっと教えて欲しいことがあってね。』という切り出しだったので、さっそく用件を覗うと….。

『今、ウチでは、吹奏楽のいい編曲の譜面を探していて、こちらでもそちらの市音の団長さんの名前がちょくちょく挙がることがあるんだけど、実際、どうなの?』という質問だった。

市音とはもちろろん大阪市音楽団(民営化後、Osaka Shion Wind Orchestraと改称)のことだ。しかし、電話では、古沢さんが“団長さん”としか言わなかったので、こちらの頭には複数の名前がつぎつぎと浮かび、はじめは、話がまったく噛み合わなかった。だが、アレコレ話している内、古沢さんの言う“団長さん”が、1985年4月に団長に就任した木村吉宏さん(1939~2021)のことで、“編曲”がオーケストラの曲を指していることがわかった。(参照:《第144話 ウィンド・オーケストラのための交響曲》)

一般的に、東京では、大阪で普段感じている以上に、管弦楽の大曲や難曲を吹奏楽で全曲演奏したり、原調で演奏したときのステータスや充足感が高いようだ。

東京佼成は、管弦楽曲の優れた吹奏楽編曲や編曲者の情報を求めていたのである。

これより少し前から、アマチュアの世界では、西宮市立今津中学校吹奏楽部や尼崎市吹奏楽団という、全日本吹奏楽コンクールに出場する関西代表のバンドが、木村さんが吹奏楽に編曲した管弦楽曲を自由曲としてよく演奏し、そのライヴ盤も全国発売されて評判を呼んでいた。しかし、それらは演奏団体個別のリクエストで書かれたコンクール・サイズの編曲で、出版譜もなく、誰でも自由に利用できるものではなかった。その一方、木村さんが自楽団の定期演奏会などのために書き下ろした本格的な編曲が多く存在することは、意外なほど知られていなかった。

分かりやすく言うと、木村編曲の概要は、コンクールで演奏されたもの以外、東京にはほとんど伝わってなかったのである。

そこで、場合によっては編曲委嘱も視野に入れていると話す古沢さんには、当地では、木村編曲の評価、評判はひじょうに高いこと、そして、バッハ、レスピーギ、ヴェルディ、チャイコフスキーなど、多彩な作曲家の編曲が存在することなどを具体的な曲名を挙げながら説明する一方で、あくまで現職の市音の長であるから、東京佼成の委嘱を受けてもらえるか否かについては、自分にはわからないと答えた。

しかし、古沢さんがこんな遠まわしに質問を投げてくるのは、一体なぜなんだろうか。

この日の電話では、それについての言及はなく、こちらも敢えて訊かなかったが、話を聞きながら、東京では確実に何かが進んでいる、という予感が脳裏をかすめた。

その後、しばらく時が流れた同年秋、佼成出版社音楽出版室の柴田輝吉さんから入った電話で、それが何だったのか、バック・グラウンドがすべて明らかとなった。

東京佼成ウインドオーケストラの常任指揮者(当時)のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)が録音したいという曲をCD化する同社の「FFシリーズ」の新企画に、フェネルは、イタリアの作曲家オットリーノ・レスピーギ(Ottorino Respighi、1879~1936)の“ローマ三部作”を提案していたのである。

周知のように、レスピーギの“ローマ三部作”は、『ローマの噴水(Fontane di Roma)』(1916)、『ローマの松(Pini di Roma)』(1924)、『ローマの祭り(Feste Romane)』(1928)の3つの交響詩を総称してそう呼ばれる作品群だ。

柴田さんの話は、これまでの楽団との意見交換の結果、“松”は、佼成がすでに慣れ親しんでいる楽譜を使うことに決まっているが、残る“噴水”と“祭り”に関しては、ぜひにも木村さんの編曲を使わせて欲しいというものだった。ついては、市音に伺って直接挨拶と依頼をしたいので、その日取りの調整と同席もしてもらえないかとのリクエストも受けた。

つまりは、露払いの役まわりだ。

木村編の『ローマの噴水』は、1988年(昭和63年)11月16日(水)、フェスティバルホールで開かれた「第57回大阪市音楽団定期演奏会」で、小泉ひろしの指揮で、『ローマの祭り』は、1989年(平成元年)10月4日(水)、同ホールで開かれた「大阪市制100周年記念 第59回大阪市音楽団定期演奏会」で、山本直純の指揮でそれぞれ初演奏が行なわれていた。

さて、こいつはエラいことになったぞ!

と思いながらも、すぐ、事前の打診のために市音に電話すると、『なんや、“松”はいらん(必要ない)のか。』などと口では言いながらも、意外にも木村さんのご機嫌はたいそう麗しく、柴田さんを市音にお連れする日も、1991年も押し迫った12月10日(木)と決まった。

おそらくは、1984年(昭和59年)10月31日(水)、フェスティバルホールで開催された「第49回大阪市音楽団定期演奏会」以降、市音定期に3度客演(第49回、第53回、第55回)して知己を結び、それ以降も、木村さんと交友を深めていたフェネルが“やりたい”と言いだしたことがこの話をスムーズに進めさせる一因になったのではなかろうか。

また、木村さんは、リスペクトするゲストには、鉛筆書きの自筆スコアをよく見せていた。市音客演時には“噴水”も“祭り”もまだ陽の目を見る前だったが、東京佼成の事務局に編曲家としての木村さんの名をもたらしたのも、案外フェネルだった可能性もあるように思う。

ともに物故者になった今となっては、確認する術を持たないが…..。

それはともかく、柴田さんを交えた面談当日も、『佼成さんがやってもらえるんやったら、喜んで楽譜をお貸ししましょう。』と珍しく東京弁風の受け答えの満額回答が出た。

柴田さんはもちろん満面の笑みに包まれていた。

その後、間に入る立場になった筆者と氏は頻繁にやりとりをし、今もその時の資料が手許にいくつか残る。その内、年末に届いたつぎのメモには、興味深い事実がいくつも記されている。

『ローマ三部作  4/22. 23 パルテノン

  1.  ローマの松  阪口版
  2.  ローマの祭  木村版
  3.  ローマの泉  木村版

を使用する予定です。東京佼成の同意(形式的)がえられたら、大阪に行って諸々の打合わせをする予定です。柴田』(原文ママ)

走り書きなので、タイトル等は未確定のものだが、このメモには、録音は1992年(平成4年)4月23~24日(木~金)、ホールはパルテノン多摩に決まったこと、そして、使用楽譜が決まり、残るは正式に楽団と契約書面を交わすところまで話が進んでいるということが記されている。

最も興味をひく点は、最終的に、鈴木英史さん(1965~)の編曲で録音された『ローマの松』が、この時点(1991年年末)までは、東京ではひじょうにポピュラーに演奏され、東京佼成も過去に取り上げていた阪口 新さん(1910~1997)の編曲を使う前提で話が進められていたことだろう。

一方、結果的に録音に至った鈴木さんの編曲は、1990年(平成2年)12月24日(月・祝)、東京文化会館で開催された「東京佼成ウインドオーケストラ第47回定期演奏会」の指揮者、小田野宏之さんの要望で書かれ、その後も楽団プレイヤーとのコラボレーションを重ねていたものだった。

柴田さんからは、最終的に、新しい編曲で行こうということになったと聞いた。

どんなCDも、人と人との繋がり、係わり合いがあってはじめて完成に至る。

フェネルの『ローマ三部作』もまた、そんな歩みの中で制作された一枚だった。

▲フェネル自筆サイン

▲連絡メモ(1991年12月)

▲フェネル、木村両氏と(1993年2月13日、兵庫県尼崎市)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第154話 フェネル:マーチング・アロング

▲LP(モノラル) – Marching Along(米Mercury、MG 50105、1956年)

▲MG 50105 – A面レーベル

▲MG 50105 – B面レーベル

1956年1月20日(金)、米ニューヨーク州ロチェスターにキャンパスをもつロチェスター大学イーストマン音楽学校(The Eastman School of Music of the Rochester University)のイーストマン劇場(Eastman Theater)で、マーキュリー・レコード(Mercury)によるフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensenble)のLPアルバム「Marching Along(マーチング・アロング)」のレコーディング・セッションが行なわれた。

このアルバムは、「American Concert Band Masterpieces(アメリカン・コンサート・バンド・マスターピーシーズ)」(Mercury、MG 40006、1953年)、「Marches(マーチーズ)」(Mercury、MG 40007、1954年)、「La Fiesta Mexicana(ラ・フィエスタ・メヒカーナ)」(Mercury、MG 40011、1954年)、「British Band Classics(ブリティッシュ・バンド・クラシクス)」(Mercury、MG 40015、1955年)についで制作されたイーストマン・ウィンド・アンサンブルの5枚目のLPで、そこまでの4枚がモノラル録音だったのに対し、初のステレオ方式を採用して録音されたアルバムとなった。(カッコ内、LP番号と発売年は、初出盤のもの)

ただ、残念ながら、このアルバムが録音された当時は、まだステレオ方式の音をレコード盤にカッティングする技術が実用化されていなかったので、アルバムは、1956年2月に、まずモノラル盤(Mercury、MG 50105)としてリリースされ、ステレオ盤(Mercury、SR 90105)は、3年後の1959年2月にリリースされた。

蛇足ながら、ステレオ方式を採用した当時のマーキュリーは、《第148話 ヒンデミット-シェーンベルク-ストラヴィンスキー》でもお話ししたように、セッションでは、モノラル用とステレオ用にラインを分けて、それぞれの方式の専用レコーダーで録音していた。そのため、このアルバムにもモノラル用とステレオ用の2種類のマスターが存在し、リリースにあたっては、モノラル盤はモノラル・マスターから、ステレオ盤はステレオ・マスターから制作された。このため、マスタリングの時期が異なる両盤を聴き比べると、編集や定位、残響感などに差異があり、とても面白い。実は、演奏が違う箇所もあるのだ。

話を元に戻そう。

アルバム「マーチング・アロング」には、以下の12曲が収録された。

・アメリカ野砲隊
The U.S. Field Artillery
(John Philip Sousa、1854~1932)

・雷神
The Thunderer
(John Philip Sousa、1854~1932)

・ワシントン・ポスト
Washington Post
(John Philip Sousa、1854~1932)

・キング・コットン
King Cotton
(John Philip Sousa、1854~1932)

・エル・カピタン
El Capitan
(John Philip Sousa、1854~1932)

・星条旗よ永遠なれ
The Stars and Stripes Forever
(John Philip Sousa、1854~1932)

・アメリカン・パトロール
American Patrol
(Frank W. Meacham、1856~1909)

・オン・ザ・モール
On The Mall
(Edwin Franko Goldman、1878~1956)

・ライツ・アウト
Lights Out
(Earl E. McCoy、1884~1934)

・バーナム&ベイリーのお気に入り
Barnum and Bailey’s Favorite
(Karl L. King、1891~1971)

・ボーギー大佐
Colonel Bogey
(Kenneth J. Alford、1881~1945)

・ビルボード
The Billboard
(John N Klohr、1869~1956)

アルバム・タイトルを、アメリカのマスコミが“マーチ王”と称えたジョン・フィリップ・スーザの自伝「Marching Along: Recollections of Men, Women and Music」(米Hale, Cushman Flint、1928年)の書名からとったこのアルバムは、LPのA面にスーザのマーチを6曲、B面に他の作曲家のマーチを6曲収録した本格マーチ・アルバムだった。

21世紀の現時点からそれを眺めると、それまでのシンフォニック・バンドとは一線を画したウィンド・アンサンブル理論を提唱し、1952年に、世界初のウィンド・アンサンブルであるイーストマン・ウィンド・アンサンブルを学内に創設したフェネルがこのようなマーチ・アルバムを作っていることを不思議に思う人がいるかも知れない。

しかし、新しいことを始めようとするときには“つきもの”と言うべきか、フェネルが提唱したウィンド・アンサンブル理論のアカデミックな評価や高い注目度とは裏腹に、「マーチング・アロング」以前に発売された4枚中、商業レコードとして最も成功を収めた(売れた)のは、ウィリアム・シューマン(William Schuman)やロバート・ラッセル・ベネット(Robert Russel Bennett)、H・オーウェン・リード(H. Owen Reed)、グスターヴ・ホルスト(Gustav Holst)、レイフ・ヴォーン=ウィリアムズ(Ralph Vaughan Williams)らのオリジナルが入ったアルバムではなく、マーチ・アルバムの「マーチーズ」だった。

1954年8月にリリースされたこの「マーチーズ」(MG 40007)は、スーザのマーチ8曲を含むアメリカのポピュラーなマーチ16曲を収録したアルバムで、1956年10月に規格番号をMG 50080に改めて再プレス(ジャケット・デザインは同一)。その後、ジャケットをマーチング・バンドのミニチュアの写真に改めたので、合計3つのバージョンがある。(参照:《第19話 世界のブラスバンド》)

そして、ヒット作が出ると“2匹目のどじょう”を狙って続編が企画されるのは、商業レコード業界の常。「マーチング・アロング」は、ヒット・アルバム「マーチーズ」とまるで同じコンセプトで作られた続編だったわけだ。

その後、マーキュリーは、さらに“3匹目”を狙って、1956年10月に「マーチーズ」と「マーチング・アロング」のコンピレーション・アルバム「Marches for Twirling(マーチーズ・フォー・トワリング)」(Mercury、MG 50113)までリリースしているから、当時、フェネル指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル演奏のマーチの人気がいかに高かったかがよくわかる。

フェネルは、「マーチング・アロング」のセッションに際し、オリジナル版の楽譜を集め、それらのオーケストレーションを丹念に精査して、木管25名、金管16名、打楽器6名、コントラバス1名、計48名のプレイヤーをレコーディングに選んだ。内声部をクリアにする目的もあり、作曲者が書いたもの以外、いかなる管楽器パートも加えていないが、フェネルの専門領域である打楽器だけは、彼がいつも演奏でそうしてきたように独自のアイデアを加えている。

リハーサルは、セッション2日前の1956年1月18日(水)、イーストマン劇場においてフェネルの指揮で行なわれたコンサートの練習を兼ねて行なわれ、コンサートでは、第一部でスーザ以外のマーチ6曲が、第二部でスーザのマーチ6曲が、レコードとは異なる曲順で演奏されている。

セッションは、ディレクターが、デヴィッド・ホール(David Hall)、エンジニアが、C・ロバート・ファイン(C, Robert Fine)のコンビによって行なわれ、そのひじょうに明瞭でダイナミックなサウンドは、21世紀の今聴いても惚れ惚れするような輝きをもつものに仕上がった。リリース後は、世界各国でリリースされるヒット作となっている。

日本でも、LPレコード時代のかなり早い時期にライセンスを得たキング、その後、ビクターからさまざまなカップリングでリリースされているが、父のレコード棚には、なぜかそのキングから発売された8曲入りの「アメリカン・パトロール」(25cmLP、MPM-17、モノラル)というレコードがあり、物心ついた頃から毎日のように聴いていた。

いずれ、そのマエストロと、同じ現場でご一緒することになるとは、夢にも思わずに!!

▲LP(モノラル) – Marches for Twirling(米Mercury、MG 50113、1956年)

▲MG 50113 – A面レーベル

▲MG 50113 – B面レーベル

▲LP(ステレオ) – Marching Along(米Mercury、SR 90105、1959年)

▲SR 90105 – A面レーベル

▲SR 90105 – B面レーベル

▲LP(ステレオ) – Marching Along(蘭Mercury Golden Imports、SRI 75004)

▲SRI 75004 – A面レーベル

▲SRI 75004 – B面レーベル

▲LP(ステレオ) – マーチング・アロング(Philips(日本フォノグラム)、PC-1612、1975年)

▲PC-1612 – A面レーベル

▲PC-1612 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第153話 大栗 裕作品集の起点

▲「新・実践吹奏楽指導全集」指導書(東芝EMI、1993年)

▲同、スタッフ・クレジット

1993年(平成5年)1月20日(水)、東芝EMIがリリースしたCD「吹奏楽名曲コレクション31 大栗 裕作品集」(TOCZ-9195 / 参照:《第152話 「大栗 裕作品集」とともに》)は、わが国の吹奏楽CD史に残る空前のセールスを記録しただけでなく、あらゆる点で“異例づくし”のアルバムだった。

CDのタイトルが示すとおり、収録曲は、すべて関西ローカルの作曲家、大栗 裕さん(1918~1982)が吹奏楽のために書いたオリジナル作品で、ここがまず“異例”の出発点だった!

今、吹奏楽をやっている人には、“オヤ?”と思われるかも知れないが、当時、中央の楽壇で大栗さんの名が語られるのは、木下順二(1914~2006)原作のオペラ『赤い陣羽織』(初演:1955)や指揮者朝比奈 隆(1908~2001)の渡欧に際して作曲を依頼され、ベルリン・フィルに献呈された『大阪俗謡による幻想曲』(管弦楽、初演:1956)が話題に上るときぐらいだったからだ。

それほど在京以外の作曲家や吹奏楽への関心は薄かった。

そして、今もそれは変わらない。

演奏もまた、在京ではなく、1991年に通販で始まった東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピースシリーズ」(3枚組ボックス全10巻:TOCZ-0001~0030)を除けば、それまで単独演奏のCDが市場になかった大阪市音楽団(市音。民営化後、Osaka Shion Wind Orchestraと改称)の新録音で、指揮を作曲者と家族ぐるみのつき合いだった前出の朝比奈さん、そしてその薫陶を受けた市音団長で常任指揮者(当時)の木村吉宏さん(1939~2021)の両マエストロが担うという、オール関西キャストによるもので、これまた異例な出来事だった。

なぜなら、東京に本社のある大手レコード会社が、何か企画ものを作るとなると、まずは在京の演奏者や指揮者に声がかかるのがごくごく自然だからだ。

というのも、一般的に、商業レコード会社にとって、プロのオーケストラやウィンドオーケストラが複数存在し、録音経験豊富なフリーランスの奏者も多くいて、必要なエキストラの手配など、キャスト面の心配がない上、楽器や録音機材、スタッフの出張旅費や宿泊費、運搬費など、セッションに関わるコスト全体を押さえながら、人的移動を自宅から現場への往復だけで済ますことができる“在京アーティスト”で録音が行なうことはソロバン上とても理に適う話で、その状況は今も昔も変わらない。

なので、仮に、この「大栗 裕作品集」が、企画段階から東芝EMIが立ち上げたもの(つまり商業レコード会社が主体となった企画)だったとしたら、演奏キャストはまったく違う顔ぶれになっていた可能性もあったわけだ。

また、業界やファンの間では、ライヴ録音以外のレコーディングを行なわないと言われていた朝比奈さんが積極的にセッション・レコーディングの指揮を行なったということも異例だったが、これは、朝比奈さんと大栗さんの長年にわたる交友を肌で感じていた筆者からの提案だった。(参照:《第44話 朝比奈 隆と大栗 裕》)

レコーディングが行なわれたのは、リリース前年の1992年(平成4年)4月15~16日(水~木)の両日で、録音会場は、兵庫県尼崎市のアルカイックホール。わざわざそれを狙って予定が組まれた訳ではなかったが、それは、1982年(昭和57年)4月18日(日)に逝去した作曲者の没後10年(しかも同月)にあたった。

セッション前、カレンダーを眺めていて偶然それに気づいた筆者が、指揮の木村さんにそれを話すと、『そうか、それも、なんか(何か)のめぐり合わせやなぁ。』と感慨深げで、その波動は市音のメンバーにも静かに広がっていった。

周知のとおり、作曲者と市音のつながりは、太平洋戦争以前にまで遡る。(《参照:《第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話》)

市音が東芝EMIの録音を担うのはこれが初めてではなかったが、リリース後、このアルバムで示した市音のパフォーマンスが業界を驚かせたのも、今にして思えば、セッションが作曲者と市音の人間関係が醸し出す、そんな特別な空気の中で行なわれたものだったからかも知れない。確かに、何かのプラス・アルファーがセッションを後押ししていた。時は流れ、令和の時代になっても、つくづくそう思う。

しかし、普通、1枚のCDが録音から世に送り出されるまでの時間は3~4ヵ月というのが商業レコード会社のスケジュール進行の常識。なので、ここまでお話ししたことを時系列的に並べると、このCDのセッションからリリースまでがやけに時間がかかっていることに気づく人も多いだろう。

今、その種明かしをするなら、この録音は、実は、始めから“作品集”としての発売が確約されたものではなかった。

それは、当時、東芝EMIの通販ものや自主制作などを担う第三営業本部がプロジェクトを進めていた吹奏楽指導者向けの「新・実践吹奏楽指導全集」の一環で録音されたものだったのだ。

この「新・実践吹奏楽指導全集」は、指導書、CD15枚、ビデオ6巻、楽譜などがセットされた大全集で、セット価格が“ン十万”という高価なものだったので、ビンボーな筆者には到底手が出る類いのものではなかった。なので、残念ながら手許にはない。

東芝EMIは、この全集の目玉のひとつとして、大阪府立淀川工業高等学校(現、淀川工科高等学校)吹奏楽部(指揮:丸谷明夫)が、1993年(平成5年)1月24日(日)に大阪のフェスティバルホールで行なったグリーン・コンサートで取り上げた『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』の練習初日から本番までを密着取材したドキュメントをCD化(HDCD-1452)した。しかし、全体企画の過程で、コンクール用にカットされた演奏とは別に、ノーカット全曲も収録したいというアイデアが浮上したのである。

そうなると、この曲を委嘱、初演し、作曲者から寄贈された手書きの原譜をもつ市音が適役なのは、誰の目にも明らかだった!

そこで、東芝EMIは市音の木村さんにこの曲の録音をオファーした。

担当者は、東芝EMI第三営業本部の鈴木武昭さんだった。

鈴木さんの話を受け、木村さんからすぐ相談があった…..。

『東芝が、どうしても“大阪俗謡”を録らせてくれって、ゆうて(言って)来よってな。向こうはそれだけ録れたらそれでええ(それでいい)らしいんやが、ウチの方としては、ただそれだけのために、人を集めてやる(演奏する)わけにはいかんのや。東芝には、それ以外の曲を録るアイデアは何もないらしい。なんぞ(何か)ええ(いい)考えないか?』

木村さんは、ちゃんとしたセッションが組めるなら話を前に進める意向だと受け取った筆者は、こう切り返した。

『それやったら、大栗さんの他の作品を録るというのはどうでしょうか。“小狂詩曲”や“神話”、“仮面幻想”など、曲も結構揃っているし…。大栗作品集というのは、東京では思いもよらないでしょうし、いかにも市音らしい。』

東京のレコード会社にとってリスキーな関西ローカルの作曲家の作品を、初演者による“大阪俗謡”の音が欲しいというオファーがきたこの機会をとらえて、同時に録ってもらおうという、なんとも手前勝手で無責任なアイデアである。

一方で、もし東芝が“作集集”としてのリリースを渋っても、大阪だけの自主制作盤にすれば、地元びいきの”市音ファン”には確実に喜んでもらえるという、生活観に根ざす大阪ネイティブとしての妙な自信もあった。

このアイデアに、木村さんも『それは、確かにウチにしかできない仕事や!あとは、東芝がどう言いよる(答える)か、やな。よし、わかった!』と、すこぶる上機嫌だった!

その後、東芝EMIと市音は協議を重ね、1992年4月のアルカイックホールでのセッションは、スケジュール化された。

「作品集としての商品化は白紙だが、東芝EMI第三営業本部が録音。並行してCDショップでの一般発売用のカタログ商品化を、社内の邦楽クラシック部門に強く働きかけてもらう」という条件で!

▲CD – 「新・実践吹奏楽指導全集」2 指導講座編 ドキュメンタリー 初見から演奏会までII「大阪俗謡による幻想曲」(東芝EMI、HCD-1452)

▲HCD-1452 – インレーカード

▲CD – 「新・実践吹奏楽指導全集」7 実践曲集編 オリジナル作品 I ~邦人作品~ 「故郷」によるパラフレーズ(東芝EMI、HCD-1457)

▲ HCD-1457 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第152話 大栗 裕作品集とともに

▲CD – 吹奏楽名曲コレクション31 大栗 裕作品集(東芝EMI、TOCZ-9195、1993年)

▲TOCZ-9195 – インレーカード

『今そのタイトルを作るとしたら、まずぱ楽団さんに500枚買い取ってもらうことが前提になりまして、その際、ウチの販売用を70枚か80枚か製造させていただくことになります。』

2018年(平成30年)、Osaka Shion Wind Orchestra理事長&楽団長の石井徹哉さんのリクエストで、ユニバーサル ミュージック ジャパンに問い合わせた際、電話に応じた担当者からの回答だ。

このとき、追加プレスの可否を問い合わせたタイトルとは、日本の吹奏楽CD史上、空前のセールスを記録した大阪市音楽団(Shionの民営化前の楽団名)演奏の「大栗 裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195、1993年)のことで、当時、Shionは、同年末の12月6日(木)に、あましんアルカイックホール(兵庫県尼崎市)で開催する「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ創立95周年 大栗 裕 生誕100年記念特別演奏会」に向けて準備を進めていた。石井さんのリクエストは、その時までに、自楽団CD史上最高のセールスを記録し、新聞にも大きく取り上げられたそのCDの再プレスが可能かどうかをレコード会社に打診してみて欲しいというものだった。(参照:《第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話》)

石井さんからこの話を聞いた時、正直これはかなりハードルが高い話かも知れないなと感じた。なぜなら、1993年にこのCDをリリースした東芝EMIが、2007年にイギリスのEMIに売却されてEMIミュージック・ジャパンとなり、そのイギリスEMIも2012年にアメリカのユニバーサル傘下に入り、電話を入れた頃には、合併をへてユニバーサル ミュージック合同会社(ユニバーサル ミュージック ジャパン)という日本法人に変わっていたからである。当然、人も会社の所在地も変わっていた。

そんなわけで、この時点の同社には昔なじみの担当者は皆無。筆者がかけた電話も、各部をたらいまわしになった挙句やっと目指すクラシック担当につながった。しかし、さすがは世界最大のミュージック・グループを自負する“ユニバーサル”のことだ。電話がつながると、単刀直入に用件を切り出したが、先方の関心の無さと情報の薄さは、感動的ですらあった。恐らく、いつも世界のスーパースターの話題作のようなものばかりを追いかけているからかも知れないが、吸収合併した旧東芝盤の扱いにはあまり熱量が感じられなかった。問い合わせた内容が、彼らがまるで知らない日本人作曲家の作品を在京以外の楽団が演奏した吹奏楽のCDだったからかも知れないが……。

そして、自分達の作ったものじゃなかったからか、盛んにPCをカタコトやりながら、『このタイトルは、過去2度発売されていますが、作るとすると、社名も変わりましたので印刷物も作り直さないといけませんし。どう計算しても、500枚買取が前提となります。』とのかなり冷たいお言葉!

しかし、当方は、このCDが過去3度リリースされたことを知っていたので、相手のデータベースへのアクセスが不完全なことだけは、瞬間的にわかった! しかも、少し深層まで入って“どれくらい売れたか”も確認していないようだった。

【初回発売】:吹奏楽名曲コレクション31 大栗 裕作品集
朝比奈 隆、木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(東芝EMI、TOCZ-9195、リリース:1993年1月20日)

【第2回発売】:新・吹奏楽名曲コレクション ウィンド・スタンダーズ Vol.14 ジャパニーズ・バンド・ミュージックIV 大栗 裕作品集
(東芝EMI、TOCF-6018、リリース:1999年2月24日)

【第3回発売】:大栗 裕作品集
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90011、リリース:2009年4月22日)

実は、ユニバーサルに電話した2018年は、“大栗 裕生誕100周年”であるとともに“朝比奈 隆生誕110周年”で関西の音楽界はかなり盛り上がっていた。そこで、CDの2曲が朝比奈さんの指揮であることも話したが、『ウチは朝比奈音源がほとんど無いので』と、取り付く島もない。これでは埒があかないと感じた筆者は、先方の出した条件だけを再確認して、『楽団に伝えて、彼らが承諾するなら、また連絡する。』と言って電話を切った。

その後、石井さんに結果を知らせると、彼も“500枚買取条件”には、さすがに口アングリで計画断念。こうして、ユニバーサルからの“大栗 裕作品集”の4度目のプレスは成就しなかった。

ここで話は少し脱線する。

実は、「大栗 裕作品集」には、以上の3回のほかに、もう1回“幻のプレス計画”があった。それは、このCDが市場から消えてしまっている状況をとても残念に思っていた「バンドパワー」の鎌田小太郎さんが、2008年にEMIジャパンからライセンスを得て“オリジナルどおりに復刻する”という話を持ちかけたときのことだった。そして、この話は、当初、交渉も順調に進んで、残すは最終合意と契約を交わすばかりという段階までこぎつけたが、そこで、突然白紙になった。理由は、EMIジャパンが過去のデータを再度チェックして、このCDが“実はひじょうによく売れたアイテム”だったことに気づき、“そんなに売れるものなら、自社で販売する”という方向に潮目が変ったからである。

ただ、ここで、EMIジャパンがすばらしかったのは、一旦話を断った小太郎さんに、かつて東芝EMIがリリースした吹奏楽CDの内容をしっかり取材して、「大栗 裕作品集」第3回発売と同時に、市場から消えていた以下のCDも再リリースされることが決まったことである。

・ロバート・ジェイガー作品集
渡邊一正指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90012、リリース:2009年4月22日)

・アルメニアン・ダンス全曲
フレデリック・フェネル指揮、東京佼成ウインドオーケストラ
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90013、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[1]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90014、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[2]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90015、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[3]
ハインツ・フリーセン指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90016、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[4]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90017、リリース:2009年4月22日)

・ウィンド・オーケストラのための交響曲[5]
木村吉宏指揮、大阪市音楽団
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90018、リリース:2009年4月22日)

・リアル・フェネル
フレデリック・フェネル指揮、東京佼成ウインドオーケストラ
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90019、リリース:2009年4月22日)

・リアル・フェネル[II]
フレデリック・フェネル指揮、東京佼成ウインドオーケストラ
(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90020、リリース:2009年4月22日)

外野から眺めていると、一般的に、商業レコード会社では、規模が大きくなればなるほど、自社が築いてきた音楽財産の中身を知らないという、そういった事件が起こりやすい。冒頭にお話ししたユニバーサルの電話対応もその典型的な一例である。

しかし、なにはともあれ、このときの小太郎さんが起こしたアクションが、「大栗 裕作品集」の3度目のリリース(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90011)につながったことは確かである。誰がなんと言おうが、これは、日本の吹奏楽の世界への小太郎さんの大きな貢献である。

そして、この3度目のリリースによって、筆者にも出番が回ってきた。

小太郎さんの橋渡しで新たに担当となったEMIジャパンの森 真理子さんと打ち合わせた結果、いずれはやらねばと思っていた「大栗 裕作品集」のプログラム・ノートの全面的アップデートが実現する運びになったのである。

第43話 大栗 裕「仮面幻想」ものがたり》でもお話ししたように、1992年に「大栗 裕作品集」の企画がスタートした当時、大栗作品のノートは、まるで整備されていなかった。そのため、何ヵ月も大阪市内を駆けずり回って関係者に直接取材し、約3ヵ月をかけてノートを執筆。しかし、〆切りまでに積み残したテーマも当然あり、CDリリース以降も断続的に調査を継続した結果、新たな事実がいくつも判明。第3回発売のプログラム・ノートにそれらを盛り込むことができた。

この結果、TOCF-90011のオビのバックに小さく(解説改訂版)と表記された。

余談ながら、1999年の「大栗 裕作品集」第2回発売のときには、ノートのアップデートはできなかった。というより、初回発売の旧盤を廃した第2回発売自体、東芝EMIからまるで知らされていなかった。筆者がそれを知ったのは、何人かの大阪市音楽団のベテラン・プレイヤーに捕まって、突然『なんで、ジャケットを変えたんや!!何の意味もない、しょうもない(つまらない)ジャケットにしやがって!!』と大きな声で叱責されたときだった。晴天の霹靂とは、まさにこのことだ。

初回発売時のオリジナルのジャケットには、大栗さんの最後の吹奏楽作品となった『仮面幻想』のモチーフとなった奈良の春日大社所蔵の新鳥蘇(しん・とりそ)という舞楽面の写真を大社の許諾をとりつけた上、個人的に1万円を奉納して使わせてもらった。それが、『まるで、大栗さんが笑うてはる(笑っている)顔みたいや!』と市音のメンバーには大好評で、「大栗 裕作品集」は、レコード会社の商業CDには違いないが、市音の人々は自分たちの代表作としていろいろな機会をとらえて広報してくれた。

また、作曲者の奥さん、大栗芳子さんにも、このジャケットはたいへん気にいってもらい、『友人に贈りたい。』と言われ、かなりの枚数を筆者を通じて注文されている。

知らぬこととはいえ、東芝EMIは、作曲者につながるそんな人々の気持ちを踏みにじっていたのである。

なので、EMIミュージック・ジャパンによる第3回発売に際しては、まず最初に担当の森さんにジャケットをオリジナルどおりに戻してもらうようにお願いした。

事情を知った森さんは、即座にそれに同意!!

ノートをアップデートした「大栗 裕作品集」は、こうして旧日の歓びを取り戻すことになった。

▲CD – 新・吹奏楽名曲コレクション ウィンド・スタンダーズ Vol.14 ジャパニーズ・バンド・ミュージックIV 大栗 裕作品集(東芝EMI、TOCF-6018、1999年)

▲TOCF-6018 – インレーカード

▲CD – 大栗 裕作品集(EMIミュージック・ジャパン、TOCF-90011、2009年)

▲TOCF-90011 – インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第151話 ヒンデミット・コンダクツ・ヒンデミット

▲LP – Paul Hindemith Volume One(英Columbia、33CX1512、モノラル、1958年)

▲33CX1512 – A面レーベル

▲33CX1512 – B面レーベル

▲スコア – Paul Hindemith:Symphony in Bb(Edition Schott、1951年)

1951年4月5日(木)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で行なわれたアメリカ陸軍バンド“パーシングズ・オウン”(The United States Army Band ,“Pershing’s Own”)のコンサートで、20世紀のウィンド・ミュージックの発展にひじょうに大きな影響を及ぼすことになる、ある交響曲が作曲者自身の指揮で初演された。

その曲は、陸軍バンドの隊長、ヒュー・カリー中佐(Lt. Col. Hugh Curry, 在職:1946~1964)のリクエストで客演指揮を引き受けることになったパウル・ヒンデミット(Paul Hindemith, 1895~1963)が、自分が振るその演奏会のために作曲した『(コンサート・バンドのための)交響曲変ロ調(Symphony in Bb for Concert Band)』だった。

作曲者のヒンデミットは、ドイツのハーナウ (Hanau)の生まれ。周知のとおり、20世紀を代表する大作曲家であり、指揮者、ヴァイオリン奏者、ビオラ奏者としても活動し、クラリネットやピアノも演奏した。同時代の音楽家に多大な影響を及ぼした先鋭的作曲家だったが、やがて、その活動や作品に対し、ナチスから否定的な扱いを受けるようになると、身の危険を感じて1938年にスイスに亡命。その後さらに、1940年にアメリカに亡命し、コネチカット州ニューヘイブン(New Haven)に住み、1953年まで同地のイェール大学(Yale University)で教授として教鞭をとった。1951~1958年の間は、スイスのチューリッヒ大学(University of Zurich)でも教鞭をとり、1953年にはイェール大学を辞してスイスに移住。1963年、治療のために訪れていたドイツのフランクフルト(Frankfult am Main)に没した。

『交響曲変ロ調』は、ニューヘイブンに住んでいた頃、1950年から1951年にかけて作曲された。

作曲の経緯は、前述のとおりだ。だが、それに加え、さらに詳細な証言が、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A. / American Bandmasters Association)のアーカイブとして、米メリーランド州カレッジパーク(College Park)にメイン・キャンパスをもつ州立大学、メリーランド大学(University of Maryland)のスペシャル・コレクションに残されていた。

それは、1965年3月2~7日(火~日)の日程で開かれたA.B.A.年次コンベンションで行なわれた作曲家ドン・ギリス(Don Gillis, 1912~1978)による、前年退役したばかりのカリー中佐へのインタビューの音声アーカイブだ。インタビューアーのギリスは、『交響曲5 1/2番(Symphony 5 1/2)』や『タルサ、オイルの交響的肖像(Tulsa, a symphonic portrait in oil)』などで知られる作曲家だが、筆者がこの録音をはじめて聴いたとき、彼らふたりの肉声がとてもクリアに残されていることに、まず驚かされた。さすがA.B.A.らしいすばらしい仕事だ。

インタビューでは、陸軍バンドが毎年冬のシーズンにワシントンD.C.で行なうウィークリー・コンサートのシリーズでは、歌手やピアニスト、独奏者など、毎週違ったゲストを招いており、その中のあるコンサートのゲストとしてヒンデミットに客演指揮を依頼したこと。依頼の際、そのために何か曲を書いてもらえるのなら素晴らしい、と話したこと。中佐としては、序曲か何かを書いてもらえたら、という程度の軽いアクションだったが、その後、受け取った手書き譜が本格的な交響曲だったので驚いたこと。コンサートの少し前に手直しのためにヒンデミットがバンドを訪れた際にいろいろ訊ねたら、ヒンデミットは、第1次世界大戦中、ドイツのバンドでクラリネットを吹いていたので、ずっとバンドにも関心があったこと。そのため、何年にもわたってバンドのための主要曲を書くつもりだったので、実際にいくつかのスケッチが彼の頭の中で飛び交っていたこと。だが、実際には誰も頼んでこなかったので、これまでバンド曲を書かなかったこと。ヒンデミットは曲を書くとき必ず何らかの理由を必要としたが、客演指揮の話が来たときに、“今回”がそれを書くチャンスだと彼が思ったことなどが、澱みなく語られている。

たいへん貴重なインタビューだが、ここでまず押さえておきたいのは、ヒンデミットの『交響曲変ロ調』が、作曲者の自由裁量で書かれた創作であったことだ。つまり、陸軍バンドは幸いにも初演の栄誉に浴したが、具体的に“交響曲を書いて欲しい”と委嘱したわけではなかった。この曲について書かれたものの中には、陸軍バンドの“commission(委嘱)”であるかのように書かれたものも存在する。しかし、ここまでお話ししてきたように、事情は少し違っている。“客演を依頼されたときのrequest(リクエスト)に従って”と書くならまだいい。筆者は、この曲について語るような場合には、必ず留意しないといけないポイントだと思っている。

『交響曲変ロ調』の初演は、演奏会それ自体が、作曲家としても指揮者としても名を成していたヒンデミットが有名な陸軍バンドを客演するという話題性も手伝って、相当な注目を集めている中で行なわれ、結果的に賛否両論が渦巻くたいへんなセンセーションを巻き起こした。

初演を聴いた感想は人によってはっきりと意見が分かれ、どちらかというとそれまでのバンド音楽の形式感や構成を好む層には全否定される一方、ヴィットリオ・ジャンニー二(Vittorio Giannini、1903~1966)やヴィンセント・パーシケッティ(Vincent Persichetti、1915~1987)、ポール・クレストン(Paul Creston、1906~1985)、アラン・ホヴァネス(Alan Hovhaness、1911~2000)らの作曲家には、“バンドは、シリアスな音楽にもふさわしい媒介だ”と確信させる契機となった。

コンサート翌年の1952年秋に世界初のウィンド・アンサンブルであるイーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)を創設した指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)もまた、衝撃を受けたひとりだった。

フェネルは、ロンドンのショット(Schott)が1951年に版権を取得し、ドイツで印刷された楽譜が1952年に出版されるや、早速それを取り揃えてリハーサルを始め、1953年2月8日(日)、米ニューヨーク州ロチェスター(Rochester)のイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)のキルボーン・ホール(Kilbourn Hall)で開かれたイーストマン・ウィンド・アンサンブル初のコンサートで取り上げた。

その後、フェネルは、《第148話 ヒンデミット-シェーンベルク-ストラヴィンスキー》でもお話ししたように、1957年3月24日(日)、ロチェスター市内のイーストマン劇場(Eastman Theatre)で、この曲のアメリカ初のレコーディングを米マーキュリー・レーベル(米Mercury、MG 50143、モノラル、1957年 / Mercury、SR 90143、ステレオ、1960年)に行ない、この内、モノラル盤のMG 50143は、『交響曲変ロ調』の世界初LPとなった。

楽譜の出版により、この交響曲は、海を渡ったイギリスでも注目された。

イギリスの公共放送であるBBC放送の“サード・プログラム(Third Programme)”(後のラジオ3)は、1952年、セシル・H・イェーガー(Lt.-Col. Cecil H. Jager, 1913~1970)指揮、アイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards / 参照:《第113話 アイリッシュ・ガーズがやってきた》)を起用し、『交響曲変ロ調』の英国初演をラジオ放送で行なった。

BBC放送アーカイビストのトニー・ストーラー(Tony Stoller)の著作「クラシカル・ミュージック・レイディオ・イン・ザ・ユナイテッド・キングダム, 1945-1995(Clasical Music Radio in the United Kingdom 1945-1995」(Palgrave Macmillan、2017年)には、ヒンデミットもこの放送を愉しんだと書かれ、この番組は、放送翌年の1953年、『交響曲変ロ調』の英国初演を伝えたBBCの“ランドマーク・ブロードキャスト(a landmark broadcast)番組”に選ばれた。

また、かねてより、ヒンデミット指揮の自作自演作品集の録音構想を暖めてきた英EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグ(Walter Legge, 1906~1979)は、1956年11月、ロンドンのキングズウェイ・ホール(Kingsway Hall)で、『交響曲変ロ調』を含む6曲のレコーディング・セッションを行なった。演奏はすべてフィルハーモ二ア管弦楽団(Philharmonia Orchestra)のもので、セッションはステレオ方式で行なわれたが、リリース時には、2曲入り3枚のLPに分けられ、イギリスでは、コロムビア・レーベルからモノラル盤3枚(英Columbia、33CX1512 / 33CX1533 / 33CX1676)が、アメリカでは、エンジェル・レーベルからモノラル盤3枚(米Angel、35489 / 35490 / 35491)とステレオ盤3枚(米Angel、S-35489 / S-35490 / S-35491)がリリースされた。『交響曲変ロ調』は、これら各3枚中、1958年にリリースされた第1集(英Columbia、33CX1512 / 米Angel、35489 / 米Angel、35489)のB面に収録されている。

また、イギリスで『交響曲変ロ調』のステレオ盤LPがリリースされたのは、1987年にデジタル・リマスターされたコンピレーション盤「ヒンデミット・コンダクツ・ヒンデミット(Hindemith Conducts Hindemith)」(英His Master’s Voice、EH 29 1173 1)が初出となった。

演奏者のフィルハーモ二ア管弦楽団は、第2次大戦後の1945年にレッグによって創設されたオーケストラで、主要メンバーは、大戦中、ホルンのデニス・ブレイン(Dennis Brain)などを擁し、英国屈指と謳われたロイヤル・エア・フォース・オーケストラ(Royal Air Force Orchestra)および同セントラル・バンド(The Central Band of the Rpyal Air Force)を除隊したプレイヤーを中心に構成されていたので、吹奏楽曲の『交響曲変ロ調』の演奏でも違和感なく、イギリスの管のサウンドを愉しませてくれる。

他方、レコーディング中、ヒンデミットは、指揮者としてすばらしい手腕を発揮したようだ。レッグは、セッションの進行について、ニューヨークで、ユーモアを交えてこう語っている。

『ヒンデミットの満足の微笑と疲れ知らずのエネルギーの下、レコーディングは、大学進学校でのムンプス(おたふく風邪)のように、(次の曲へと)うつっていきました。

(Under Hindemith’s happy smile and tireless energy, the recordings are going like mumps at a prep school.)』(米Angel、S-35489のジャケットから)

▲LP – Paul Hindemith Conducts His Own Works Album 1(米Angel、S-35489、ステレオ、1958年)

▲S-35489 – A面レーベル

▲S-35489 – B面レーベル

▲LP – Hindemith Conducts Hindemith(英His Master’s Voice、EH 29 1173 1、ステレオ、1987年)

▲EH 29 1173 1 – A面レーベル

▲EH 29 1173 1 – B面レーベル

▲書籍 – Clasical Music Radio in the United Kingdom 1945-1995(Palgrave Macmillan、2017年)

▲カタログ – Numerical Catalogue 1959 – 1960(英E.M.I Records Ltd.)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第150話 市音の祖、林 亘

▲ポスター – 故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会(1948年7月10日、中央公会堂、Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲林 亘(1886~1948)

1948年(昭和23年)7月10日(土)午後1時から、大阪・中之島の中央公会堂において、ある特別な演奏会が催された。

それは、大阪市音楽団(市音 / 民営化後の2015年3月、Osaka Shion Wind Orchestraと改称)と林亘氏遺族後援会が共催した「故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会」という名前の演奏会で、1923年(大正12年)6月に“大阪市音楽隊”として発足し、戦後、1946年(昭和21年)6月に“大阪市音楽団”と名を改めた市音の初代楽長とともに、大阪市楽長という要職をもつとめ、3ヵ月前の4月28日に逝去した林 亘(はやし わたる)さんを追悼する音楽会形式のお別れ会だった。

大阪市教育委員会が刊行した「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(参照:《第149話:市音60周年と朝比奈隆》)によると、林さんは、1886年(明治19年)8月6日(金)、高知県の生まれ。1900年(明治33年)12月1日、陸軍軍楽隊の総本山にあたる東京の陸軍戸山学校に入校し、翌年、大阪の陸軍第四師団軍楽隊に転属、1923年(大正12年)3月31日の同隊廃止による退職まで、同隊でクラリネット奏者および楽長補(指揮者)として活躍。陸軍屈指のクラリネット奏者として名を馳せ、1910年(明治43年)、イギリス政府の要請で、ロンドンで開催された日英同盟記念親善博覧会のために派遣された陸軍各軍楽隊から選抜された遣英軍楽隊(35名。楽長:永井建子)の独奏者としても活躍した。

派遣国では、イギリスの近衛軍楽隊のグレナディア・ガーズ・バンド(The Band of the Grenadier Guards / 参照:《第101話 グレナディア・ガーズがやってきた》)やイタリアのカラビニエーリ(La Banda dell’Arma dei Carabinieri / 参照:《第97話 決定盤 1000万人の吹奏楽 カラビニエーリ吹奏楽団》)とも交歓演奏もあったというが、林さんのソロは至るところで聴く者を驚嘆させ、市音には、その後、“クラリネッター・ハヤシ”をたずねて英国人が来団したという逸話も残る。

前出の「市音60年誌」にも、かつて林さんからその話を直接聞いた指揮者、朝比奈 隆さん(1908~2001)が、市音ゆかりの人たちと行なった“座談会-I、市音誕生前後と林さん”(司会:小林 仁)で語ったつぎの発言が載っている。

『林さんのご自慢だったワ。ワシがクラリネット吹いたら毛唐がビックリしおった、ってね。』(原文ママ)

その朝比奈さんを中心として、戦後、1947年に設立された関西交響楽団(1960年に改組、改称されて大阪フィルハーモニー交響楽団)の楽団機関誌「交響」創刊号(1949年2月)には、さらに興味を引くものが掲載されている。

それは、遣英の4年前の1906年(明治36年)12月2日、「大阪音楽協会第1回演奏会」(中之島中央公会堂)を前にして撮影された集合写真だ。“大阪音楽協会”というのは、第四師団軍楽隊と市中の音楽家が協調して誕生した大阪初のオーケストラで、この写真には、市中の音楽家と幅広い交遊をもった第四師団軍楽隊楽長の小畠賢八郎さんや後に大阪音楽学校(現大阪音楽大学)を設立した永井幸次さん(1874~1965)らに混じって、林さんの顔も見える。(3列目、左から3人目)

正しく大阪の西洋音楽の黎明期を伝える1枚だ。

その後、第四師団軍楽隊が単独で管弦楽演奏ができるまでに整備されたことも、朝比奈さんの師で、関西の交響楽運動を推進した亡命ウクライナ人指揮者エマヌエル・メッテル(Emmanuel Metter、1878~1941)が市音から管楽器奏者の応援を得ていたことも、市音が管弦楽演奏もやっていたことも、すべては開かれたこの小畠楽長時代に起こったことを基点とする。当然、林さんの幅広い人脈もこの頃から広がりを見せることになった。

朝比奈さんは、前出の座談会で、司会者の小林 仁さんから、林さんとの付き合いを訊ねられて、以下のように答えている。

『当時ね、京都の学生で、そこでメッテルさんというロシア人の指導者がいたんですが、この人は学生を指導する、というよりも、京都の大学を中心にして、関西でオーケストラをやろう、というのがどうもネライなんですね。場所は京都で…そこで当然ここに管楽器が沢山いるわけですから…今は管楽器失業時代ですけれど、その頃は管楽器といえば大阪市音楽隊へ来れば…というのでね、林先生は林先生でバンドばかりやっていたんではいかん、シンフォニーもやらなきゃあというお考えだったんでしょう。それで両者ウマが合ってね。合ったのは良かったけれど、怒られている方は両方から怒られて……(笑)。そんなんで、天王寺の前の音楽堂へメッテルさんの使いで行くと、林先生てのは外から来たお客さんにはエライ丁寧なんですわ。(笑)「用件は今度の練習の時に…」てなこといって「ちょっと新世界へ行こう」いって、あそこの角のビヤホールに連れて行かれるんですよ。』(原文ママ)

いかにも、音楽には厳しく、“怖かった”と誰もが畏れたが、たとえ酒席であっても人前で他人を論評することはなく、配下に対しては細やかな気配りをみせた人だったと伝わる林さんらしいエピソードだ。

1923年(大正12年)3月31日に第四師団軍楽隊(当時53名)が廃止され、平野主水楽長はじめ、約半数の楽員が東京の陸軍戸山学校軍楽隊に移った後も、“大阪市音楽隊”の構想をめぐって市と粘り強く話し合いを続け、ついにそれを実現したのも林さんの大きな功績だ。

この構想は、そもそも、3月末で廃止が決まっている軍楽隊に、大阪市が同年5月21~26日に市内築港の大阪市立運動場などで行なわれる“第6回極東選手権競技大会”における様々な演奏に軍楽隊の協力を求めた話の中から浮上したものだった。

市の話はかなり無理筋の依頼で、話を聞いた軍楽隊の返答は無論“出演不可能”。そのときにはもう隊が存在しないのだから当然だ。しかし、軍楽隊廃止で失職する楽員の行く末を案じ、同じ音楽の分野での再就職先探しで腐心していた第四師団の司令官鈴木荘六中将がこの話を聞きつけ、『それならば、今後のこともあり、この際、退役楽士を大阪市に引受けてもらって、市の音楽隊として再出発させるようにできないものか。』(原文ママ、大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983)と市に逆提案。市の担当者もすぐに池上四郎市長に報告し、市長も、これはアイデアだ、と具体化の検討を命じた。大阪や京都のオーケストラにエキストラを派遣するだけでなく、有償ながら民間の求めに応じかなりの数の演奏をこなした第四師団軍楽隊の大阪の洋楽全般への貢献がそれだけ高かったからだろう。

一方で、陸軍省の廃止方針が巷に伝わり、市民や新聞から“廃止反対”の声が沸きあがったことも、市と師団との間で秘密裏に進められた折衝を大いに後押しした。

しかし、議会筋に「極東選手権大会に奏楽を必要とすることは判るが、それだからといって市が音楽隊を所有するとか、その隊員を市の職員に採用するのは行きすぎではないか」(前出60年誌から引用)という意見があり、市の内部にも「財政の面で、軍が行政整理の対象とした軍楽隊要員を、すぐさま地方行政がこれを引継いで官吏採用することはどうか」(同)という議論もあって、平野楽長自ら先頭にたった折衝はなかなか進展を見せず、2月頃にはその平野楽長の戸山学校への移動も決まり、大阪に残って楽長補として折衝を引き継ぐことになった林さんも30名前後の編成案をいくつか市に提出するなどしたが、廃隊の日まで具体策は何も決まらず、ついにタイムアウト。

廃隊後も市からの連絡はなかなか来ず、極東選手権大会の正式な演奏依頼を林さんが受け取ったのは、大会が開かれる5月の早々。元第四師団軍楽隊だけでなく、各地から呼び集めた有志やエキストラ計15名による、急ごしらえながらも見事な演奏で乗り切った林さんは、翌月の6月1日、大阪市が補助金を拠出する民間の会員組織“大阪市音楽隊”結成の正式決定を得たのである。

発足当時の市音の正会員(楽員)は、17名。身分はまだ市の職員ではなく、規模も林さんが構想した30名前後ではなかったが、今日の“Osaka Shion Wind Orchestra”につながる“大阪市音楽隊”の歴史はこうして始まった。

林時代の市音の演奏活動については、戦前の地方ネタだけに、戦後発刊された東京発のメディアには多くが語られていない。しかし、Shionなどに残された資料を眺めると、大阪市の公式行事などの演奏のほか、400回を超える定期演奏活動や管弦楽演奏、専属だったNHK大阪放送局(BK)からのスタジオ生放送、諸外国などからの来阪バンドとのジョイント・コンサートなど、旺盛な演奏活動が行なわれており、とくに、1934年(昭和9年)から1936年(昭和11年)にかけて、作曲家菅原明朗らと結んで、やはりNHK大阪放送局から定期的に生放送された“大阪交響吹奏楽団”(大阪市音楽隊と大阪放送管弦楽団の管楽器奏者により結成)の活動も人気を集めた。

現在のShionのホームページにも見られる“交響吹奏楽”という用語がこんなに早く昭和初期から使われていたことはかなり驚きで、戦後、辻井市太郎団長時代に始まった数多くの海外オリジナル作品の本邦初演や木村吉宏団長時代以降のシンフォニーのレコーディングなど、市音独自の活動のルーツが、すでに昭和初期のこの時代に芽吹いていたことがとてもよくわかる。

また、この間、林さんは、大日本吹奏楽連盟常任理事、全関西吹奏楽連盟理事長等を歴任。関西の民間楽界への貢献も大であった。

そんなわけで、1948年の“偲ぶ大演奏会”には、大阪市音楽団のほか、大阪市警察音楽隊、大阪ハーモニカバンド、天商楽奏会、東商楽友会、大阪音楽高等学校混声合唱団という故人ゆかりの団体が顔を揃えた。

プログラムに名を連ねたレコード各社の社名だけを見ても、林さんがどれだけ大きい存在だったかを知ることになるだろう。

▲プログラム- 故 林 亘氏を偲ぶ大演奏会(1948年7月10日、中央公会堂)

▲辻井市太郎指揮、大阪市音楽団(同上)

▲演奏会の記念帳(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲近藤博夫・大阪市長の揮毫(同上)

▲「交響」創刊号(1949年2月、関西交響楽団)

▲大阪音楽協会 第1回演奏会(1906年12月2日)(「交響」創刊号から)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第149話 市音60周年と朝比奈隆

01「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(大阪市教育委員会、1983年11月)

▲▼プログラム – 大阪市音楽団創立40周年記念演奏会(1964年3月10日、大阪市中央体育館)

『創立60年。人間でいえば還暦。これを祝うとともに、激動と波瀾に満ちた歳月と、先人が歩んだ道をふりかえり、記録にとどめておきたいとの念願から記念誌の発刊を思いたちました。』(原文ママ)

1983年(昭和58年)11月に刊行された「大阪市音楽団60年誌 1923 – 1983」(発行:大阪市教育委員会 / 編集:大阪市音楽団創立60周年記念事業委員会 / 協賛:大阪真田山ライオンズクラブ)に、当時の大阪市音楽団(市音)団長、永野慶作さん(1928~2010)が書いた“あとがき”冒頭部の引用だ。

永野さんは、市音の指揮をつとめた時代に、大栗 裕の『吹奏楽のための神話~天の岩屋戸の物語による』(1973)と『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』(1974年)の2曲を委嘱し、初演の指揮をした人物だ。個人的にもいろいろ教えを受け、公私共にお世話になった。実は、いま手元にある年誌も氏から頂戴したものだ。《参照:第66話 大栗 裕:吹奏楽のための神話

年誌は、B5版124ページで、濃緑色の硬表紙にタイトルの金文字がキラリ。市音の足跡をつづるこの60年誌は、2014年(平成26年)4月に大阪市直営から民営化、翌年の2015年(平成27年)3月には“Osaka Shion Wind Orchestra”と改称、日本を代表するウィンドオーケストラのひとつとして活躍が続くこの楽団が、かつて創立60周年を期して発行した初の楽団史誌でもある。

1923年(大正12年)に創立し、年間150回ほどの演奏機会がある楽団に、それまで同種の年誌がまるでなかったことは、なんとも不思議な印象を受けるが、その発案から発刊に至る経緯については、市音ファンの会員組織として1974年(昭和49年)に発足した“大阪市音楽団友の会”(会長:辻井市太郎)が隔月発行していたタブロイド紙「市音タイムズ」18号(1983年5月1日発行)に“今秋、市音60年史刊行”という予告記事がまず入り、21号(1983年11月1日発行)に“楽団史誌編纂なる”という完成記事が掲載されている。

それらによると、その編纂プロジェクトは、永野さんの発案で1983年2月末にスタート。元市音団長で日本吹奏楽指導者協会(JBA)会長の辻井市太郎さんを委員長に「大阪市音楽団創立60周年記念事業委員会」(委員:山本 保、六島逸郎、福西幸夫、飯田博一、小林 仁の各氏)も立ち上がり、同年11月の各種記念行事(記念パーティー、記念定期演奏会を含む)に向けて資料収集などの調査、編纂作業が始まった。

委員の内、とくに年誌に深く関わったのは、飯田博一、小林 仁の両氏である。

飯田さんは、戦前から大阪市の文化公報を担当され、1964年(昭和39年)3月10日(火)、大阪市中央体育館で開催された「大阪市音楽団創立40周年記念演奏会」と1973年(昭和48年)9月26日(水)、同体育館で開催された「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」の両プログラムに、市音や役所に残る内部資料や記録から市音の歴史を執筆された。一方の小林さんは、友の会事務局次長でありながら、元は新聞等で活動されたジャーナリストで、独自の調査をもとに、1981年(昭和56年)3月以降、大阪市音楽団友の会会報「おんがくだん」(「市音タイムズ」の前身)に、“大阪市音楽団物語・楽の音永遠に ”というコラムを連載された。

実は、プログラム等に演奏されるプロフィールを除けば、両氏が執筆したこれら3つのノートやコラムが、当時、市音の歴史について唯一の拠りどころとなっていた。

委員会での討議をへて、60周年誌の執筆は、前記コラムを書いた元ジャーナリストの小林さんに任されることに決まった。コラムのための氏の独自調査で、すでに公表された記録にも異説を生じる資料がいくつも出るなど、通説となっている楽団史を外部の目を通して洗いなおす必要にせまられたからである。

第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲》でお話しした市音60周年記念のために企画したLP「吹奏楽のための交響曲」(日本ワールド、WL-8319、1983年11月)のジャケットに筆者が書いたライナーノートも、もちろん小林さんに目を通していただいた。

当然、楽団のルーツにかかわる史実の再検証も行なわれた。

例えば、市音の前身と書かれることもままある旧陸軍第四師団軍楽隊の隊員は、1923年(大正12年)3月31日の軍楽隊の廃止後、隊長の平野主水陸軍一等楽長をはじめ、約半数が東京の陸軍戸山学校軍楽隊に移り、残りの三分の一が宝塚少女歌劇など、市中の楽団に再就職したこと。

大阪市が補助金を拠出する民間の会員組織“大阪市音楽隊”の結成が正式に決まったのが、第四師団軍楽隊の廃止3ヵ月後の同年6月1日だったこと。さらに市の直轄に移管されたのは、1934年(昭和9年)4月1日。

発足直後の同年8月の楽員17名中、第四師団出身者は、市音の初代指揮者となった林 亘を含めて9名で、残る3名が同じ日に廃止された東京の近衛師団軍楽隊、3名が前年3月31日に廃止された名古屋の第三師団軍楽隊、2名が東京の戸山学校軍楽隊の出身者で構成されていたこと。

結成決定前の同年5月に大阪市の要請で行なった有志による演奏が一度あるが、その際も林 亘が各地から呼び集めた同様の構成の13名に2名のエキストラを加えた15名編成の演奏だった。

つまりは、多くの通説で語られるように、廃止された陸軍第四師団軍楽隊が自動的に大阪市音楽隊になった訳ではなかったのである。

恐らく、小林さんは、自身の調査や取材を通じて、通説とは異なるいろいろな事実を掘り当てていたのだろう。念には念を入れて、年誌には、昔日を知る市音ゆかりの関係者やOBの証言を得るための年代別に分けた2度の座談会の様子も掲載されている。

その内、朝比奈 隆、岩国茂太郎、大岩隆平、辻井市太郎、宮本晋三郎、永野慶作の各氏が出席した“座談会-I、市音誕生前後と林さん”(司会:小林 仁)が当時の空気をよく伝えていて面白い。その一部を引用すると……。

朝比奈:この中に四師団におった人はいるの?

辻井:いや、いません。

朝比奈:現存している人はいる訳でしょう。

辻井:葛生さんだけが……あ、あの人は名古屋か。(註:第三師団)

朝比奈:四師団からの人はもう誰もいない?

辻井:いないですねェ。

朝比奈:ということは大阪市に移管された時に、四師団じゃないところからもいった訳ですね。そうか、わたしも知らなかったんだけれども、われわれ一般市民というのは、第四師団軍楽隊が大阪市音楽団だった、とまあ、非常に簡単な道筋になってるけれども、今お話し伺うと、四師団を主力に、各陸軍系の軍楽隊の方が参加された、ということですな。

司会:そういうことですね。

朝比奈:ここんところは一般の人は知らんワ。僕でも今はじめて聞いたもの。(岩国氏に)あなたはどういう経路からお入りになったの。

岩国:わたしは三越。(註:三越少年音楽隊)

朝比奈:三越か……(辻井氏に)あなたはもう頭から……。

辻井:そうなんですよ。

朝比奈:えらい所にとび込んできた。(笑)

辻井:もう最初に一発かまされてね。(笑)

朝比奈:そらあ林先生っていう方は非常に厳しい方でしたからね。何も隊員でなくても、わしらでも怒られたんだから。(笑)大岩君はいたことあるの。

大岩:ここに10年おったの。(註:のち関西交響楽団、大阪フィル)

朝比奈:ああそう。それは知らんかったなァ。

(以上、筆者註をのぞき、原文ママ)

何かとウマがあった朝比奈さんと辻井さんの掛け合いが面白いが、教育委員会の出版物なので、ぜひ図書館などでお読みいただきたい。《参照:第126話 ベルリオーズ「葬送と勝利の交響曲」日本初演

小林さんは、“大阪市音楽団物語・楽の音永遠に ”の初回(1981年3月1日発行)にこう書いている。

『古い歴史と伝統と称せられながらこの楽団の年譜というか、まとめられた資料がまるでない。(当の楽団にもないのだから……)。少なくとも現在そのルーツを探る手がかりの大部分は時の流れの中に埋もれつつある。この物語を進めるのは、消え去ろうとする歴史的事実を一つ一つ発掘することから始まる。……。とにかくやれるところまで私は書きつづけてみたいと思っている。』

▲永野慶作(1928~2010)

▲林 亘(1886~1948)

▲▼座談会風景(大阪市音楽団練習場アンサンブル室、1983年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第148話 ヒンデミット-シェーンベルク-ストラヴィンスキー

▲LP – Hindemith-Schoenberg-Stravinsky(Mercury、MG 50143、モノラル、1957年)

▲MG 50143 – A面レーベル

▲MG 50143 – B面レーベル

▲LP – Hindemith-Schoenberg-Stravinsky(Mercury、SR 90143、ステレオ、1960年)

▲SR 90143 – A面レーベル

▲SR 90143 – B面レーベル]

『これは、パウル・ヒンデミットの SYMPHONY IN B FLAT(1951)とアルノルト・シェーンベルクの VARIATIONS、OPUS 43a(1943)という、かなり最近のヴィンテージである、2つのシリアスな作品のプレミア・レコーディングです。これら“新しい”作品とイーゴリ・ストラヴィンスキーの37年“前”の傑作、SYMPHONIES FOR WIND INSTRUMENTS(1920-改訂1947)という、この前例のない組み合わせでは、一流の作曲家による、成長し続ける音楽文化への多大なる貢献として、我々に今日の管楽の3つの異なるコンセプトを提示することができます。

(This is the premiere recording for Paul Hindemith’s SYMPHONY IN B FLAT (1951) and for Arnold Schoenberg’s VARIATIONS, OPUS 43a (1943), two serious scores of fairly recent vintage. In this unprecedented conpling of these “new” works with Igor Stravinsky’s thirty-seven year “old” masterpiece, SYMPHONIES FOR WIND INSTRUMENTS (1920-revised 1947), it is possible for us to present three divergent concepts of the current wind medium in these major contributions to its ever-growing musical literature by composers of the first rank.) 』

1957年(日本では昭和32年)6月、米Mercuryレーベルからリリースされたイーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)のLP「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」(Mercury、MG 50143、モノラル)のジャケットに指揮者のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)が寄せたプログラム・ノート冒頭部の引用だ。

演奏者のイーストマン・ウィンド・アンサンブルは、《第145話 リード「メキシコの祭り」初録音》でもお話ししたように、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスターにキャンパスをもつロチェスター大学(University of Rochester)の音楽学部に該当するイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)で、フェネルの提唱によって組織された世界初のウィンド・アンサンブルだ。組織されたのは、1952年で、フェネルの指揮によって、米Mercuryレーベルからリリースされた先駆的な数々のアルバムが世界的に評価され、その後も管楽の世界で大きな存在感を示している。

アルバム「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」は、1957年3月24日(日)、ロチェスター市内のイーストマン劇場(Eastman Theatre)でレコーディングされた。米Mercuryがリリースしたイーストマン・ウィンド・アンサンブルの10タイトル目のアルバムで、録音スタッフは、レコーディング・ディレクターがウィルマ・コザート(Wilma Cozart)、ミュージカル・スーパーヴァイザーがハロルド・ローレンス(Harold Lawrence)、エンジニアがC・ロバート・ファイン(C. Robert Fine)という布陣で、いろいろな再生装置で聴いて自身が納得がいくまで原盤のカッティングやテスト・プレスを繰り返したという有名なエピソードで知られるコザートがイーストマン・ウィンド・アンサンブルを録った初アルバムとなった。

また、この時代には、すでにステレオ方式の録音は実用化されていたが、ステレオ方式のレコード・カッティング技術の実用化前だったため、セッションでは、モノラル用とステレオ用にラインを分けて、それぞれの方式のための別々のレコーダーで録音されている。

分かりやすく言うと、モノラル用とステレオ用の2種類のマスターが存在し、1957年の初リリース時のモノラル盤(MG 50143)は、モノラル用マスターから作られ、3年後の1960年にあらためてリリースされたステレオ盤(SR 90143)には、ステレオ用マスターが使われている。その後よく行なわれたモノラル録音を電気的に擬似ステレオ化したものではない。

日本では、録音18年後の1975年に「バンドのための交響作品集」(Philips(日本フォノグラム)、PC-1607)として発売されたステレオ盤が初出で、オランダでも「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」(蘭Mercury Golden Imports、SRI 75057)としてリリースされた。

さて、ここで話は少し飛ぶが、1991年(平成3年)10月、筆者は、東京佼成ウインドオーケストラのレコーディングで京王プラザホテル多摩に宿泊した際、フェネル夫妻と朝食をともにし、そこでとても面白い話を聞いた。

それは、この「Hindemith-Schoenberg-Stravinsky」までのアルバムでは、Mercuryは、アーティスト名を“Eastman Symphonic Wind Ensemble(イーストマン・シンフォニック・ウィンド・アンサンブル)”とクレジットしてきたが、このアルバムからは“Symphonic”が省かれ、クレジットが“Eastman Wind Ensemble(イーストマン・ウィンド・アンサンブル)”に変更されたという話だった。

思わず『“シンフォニック”というのは、誰のアイデアですか?』と訊ねると、『マーキュリーのだ。ビジネス上の都合だろう。しかし、以降は正規のものになったよ。(笑)』と返ってきた。

あまりに面白かったので、大阪に戻って早速手持ちのレコードを確かめると、確かにそのとおりで、1957年発売のモノラル盤のジャケットからは“Symphonic”のクレジットが消えていることをまず確認。しかし、それはあまりに急な変更だったようで、残念ながら、同盤のフェネルのノートが印刷されているジャケット裏やレコードのレーベル面には、“Symphonic”の文字がしっかりと残っていた。つぎに、1960年のステレオ盤はどうなのかを見ると、そちらのクレジットからは“Symphonic”の文字は完全に消えていた。きっと世界初の“ウィンド・アンサンブル”の提唱者、命名者として、フェネルはなんとかしたかったのだろう。

収録曲が、パウル・ヒンデミットの『コンサート・バンドのための交響曲変ロ調』、アルノルト・シェーンベルクの『主題と変奏、作品43a』、イーゴリ・ストラヴィンスキーの『管楽器のための交響曲』という大御所の作品がズラリと並んでいるこのアルバムが作られたこのときは、確かにクレジット変更の絶好のタイミングだった。

フェネル自身が書いたプログラム・ノートも気持ちの入ったものだった。

しかし、その冒頭で、ヒンデミットとシェーンベルクを“premiere recording”と書いてしまったことは、ややフライング気味の表現だったと評価されることになるかも知れない。

他方、1953年から1993年までの過去40年間のフェネルの主要録音を本人インタビューを交えながら1冊の本にまとめたロジャー・E・リクスン(Roger E. Rickson)の労作「ffortissimo A Bio-Discography of fredrick fennell the first forty years 1953 to 1993」(米Ludwig Music、1993年)でも、両曲は“premiere recording”だと記載されている。(参照:《第52話 ウィンド・アンサンブルの原点》)

調べると、シェーンベルクに関しては、間違いなく“premiere recording”だった。つまり“世界初録音”な訳だ。

しかし、ヒンデミットに関しては、著者のリクスンも、作曲者がほぼ同じ頃にヨーロッパで自作自演の録音を行なっていたことに気づいており、『レコードの現物を確認したが、録音日の記載はなかった。』と書いている。これには留意しておく必要がある。

そこで、あらためて記録を確認すると、実際には、ヒンデミットは、フェネルの録音の4ヵ月前の1956年11月に、海を渡ったロンドンのキングズウェイ・ホールで、他の自作品とともに、フィルハーモニア管弦楽団のメンバーを指揮して『コンサート・バンドのための交響曲変ロ調』の録音を英Columbiaレーベル(EMI)に行なっていた。

この録音は、イギリスでは、1958年に「Paul Hindemith、Vol.1」(英Columbia、33CX1512)としてモノラル盤がリリースされ、アメリカでは、同年に、Angelレーベルから「Paul Hindemith Conducts His Own Works、Vol.1」(米Angel、35489、モノラル / S-35489、ステレオ)として、モノラル盤の先行発売後、ステレオ盤がリリースされた。

つまり、時系列で整理すると、アメリカでは、後に録音されたフェネル盤が先に発売されたことがわかる。ちょっとした歴史のいたずらと言えなくもないが、レコードとして市場に並んだのはフェネル盤が間違いなく世界初となった。

この結果、ヒンデミットのこの交響曲については、“premiere recording”を“世界初録音”と訳すと事実誤認となり、“recording”を“録音物(商品)”ととらえるなら、“世界初商品化レコード”と言えることになる。確かに、その意味においては“premiere”なのだ。なので、冒頭の直訳では便宜上“プレミア・レコーディング”とした。和訳は難しい。

しかし、なにしろ、インターネットなど無かった当時の話だ。このとき、フェネルがヒンデミットの自作自演録音について、どこまで正確に認識していたかについて、残念ながら、もう彼に訊くことはできない。

しかし、リクスンとのインタビューでは、フェネルが、ヒンデミットに“premiere recording”と印刷されていたはずのこのイーストマンのレコードを贈ったら、ヒンデミットからはお返しに自身の写真が送られてきたと答えている。それ以外の言及はないので、ヒンデミットはレコードの贈呈を喜んだという事実だけがのこる。とてもいい話だ。

互いに互いを認め合うアーティスト同士のリスペクトを感じさせるエピソードである。

▲LP – バンドのための交響作品集(Philips(日本フォノグラム)、PC-1607、1975年)

▲PC-1607 – A面レーベル

▲PC-1607 – B面レーベル

▲LP – Hindemith-Schoenberg-Stravinsky(蘭Mercury Golden Imports、SRI 75057、1975年)

▲SRI 75057 – A面レーベル

▲SRI 75057 – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第147話 ブリーズ・オン・ステージ

▲チラシ – ライムライト・コンサート(1991年6月17日、大阪厚生年金会館中ホール)

▲プログラム – ライムライト・コンサート(同)

▲同、演奏曲目

▲同、演奏メンバー

『本日は、ブリーズ・ブラス・バンド・ライムライト・コンサートにご来場下さいましてありがとうございます。昨年の7月2日、いずみホールに於きまして皆様のあたたかい拍手に支えられてデビューをさせて頂いて以来、西日本各地で様々なコンサートを、又、レコーディング等を活動の軸に過ごしてまいりましたところ、早くも一周年を迎えようとしています。B.B.B.では今後の演奏活動を3つのスタイルで展開して行く事に決定致しました。

「ライムライト・コンサート」(本拠地大阪での本格的なスタイルのコンサート)

「ブリーズ・イン………」(各地でのコンサート)

「ア・ファンタスティック・ナイト」(ライト・ミュージックを中心としたコンサート)

これからも益々意欲的に取り組んでいきたく、皆様のご支援を心からお願い申し上げます。

間もなく開演です。“ブラス・バンド・ミュージック”ごゆっくりとお楽しみ下さい。

Breeze Brass Band 一同』

1991年(平成3年)6月17日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開催されたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)初の定期公演“ライムライト・コンサート”のプログラムに、BBB代表で常任指揮者の上村和義さんが書いたファンへの挨拶文の全文である。

幾つかの来日バンドの大阪公演を除くと、およそナマの“ブラスバンド”なんか聴いたことがないという音楽ファンが圧倒的大多数をしめる大阪の地にプロの“ブラスバンド”を本格的に立ち上げるという、いわば“未知との遭遇プロジェクト”である。参加するプレイヤー諸氏も、専門大学の学生時代に“室内楽”や“オーケストラ・スタディー”のトレーニングをつんだ経験はあっても、イギリスのように“ブラスバンド・スタディー”まで受講できるわけではないから、BBBでは、まず、プレイヤーに“ブラスバンドとはどういう音楽なのか”という音楽的構造を実際の演奏を通じてほとんどゼロから体感してもらいながら、経験値を積み上げていくという内的な課題がある一方、外的には“ブラスバンドの魅力”をいかにして広め、“ブラスバンド”というジャンルの固定ファンをどう獲得していくのかというテーマを同時進行的に追い求める必要があった。

これらの諸点において、1990年(平成2年)7月2日(月)、いずみホールで行なわれたBBBの「デビュー・コンサート」の成功は、そこに至る様々なプロセスと音楽的準備の賜物であり、バンドの大きな財産となった。評論家諸氏の演奏評も概ね好意的で、何よりもサクソルン属金管楽器を中心に編成される“ブラスバンド”のパイプ・オルガン似のサウンドを初めて耳にした音楽ファンからの熱狂的な反響とともに、ライヴ・テープを送って聴いてもらった海外の作曲家や指揮者から戻ってきた期待をこめた感想もバンドを大いに勇気づけることになった。(参照:《第140話 ブリーズのデビューとブラック・ダイク》)

“今ヨーロッパで起こっている新しい潮流を、タイムラグなくオン・タイムで日本で再現する!”という基本コンセプトを売りに、大阪でひとりぼっちで立ち上がったBBBではあったが、どういう経緯なのか分からないが、前述のライヴ・テープの1本がロンドンのコヴェント・ガーデン王立歌劇場のオーケストラ監督ブラム・ゲイ(Bram Gay、1930~2019)の手に渡り、その演奏評がイギリスの「ブリティッシュ・バンズマン(British Bandsman)」紙(1887年9月創刊)を飾ったこともあった。

BBBが、デビュー前から本場イギリスと双方向のコミュニケーションをキープしながら、世界の“ブラスバンド・ファミリー”の輪に加えてもらえた事実は大きい。

そして、その成果として、BBBは、未出版や日本に楽譜が入ってきていない楽曲をつぎつぎと日本のステージに上げること(日本初演)ができたのである。指揮者や独奏者からの売り込みも結構あり、大阪にやってきた来日オーケストラの金管プレイヤーが何人かで突然訪ねてきたこともあった。世界的なネットワークがどんどん広がっていったのである。

デビュー後、BBBは、次年度から始める定期公演に向け、海外の新譜レコードがどんどん届く拙宅に定期的に集まり、レコードを流しながら、2年後以降の活動方針についてミーティングを重ねた。まるで、作戦本部である。

最初に決めたのは、活動の中核となる定期公演の名称を“ライムライト・コンサート”に定めたことだった。これは、上村さんが、せっかく新しいことを始めるのに、“BBB第~回定期演奏会”というような、どこにでも転がっていそうな堅苦しいものではなく、何か都会的で洒落っ気のあるものにしたいと発議したことから議論が始まり、参加者全員で提案を出し合った結果、最終的に筆者のアイデアが賛成多数で採択された。とても名誉なことだった。

ついで、自主公演を年4回開催と決定。ブラスバンドの真価を問う“ライムライト・コンサート”は大阪で年2回開催とし、大阪以外の地で行なう“ブリーズ・イン・(地名)”と、ポップなテイストを感じさせるレパートリーを色照明やミラーボールなどでショーアップしながら聴かせる“ア・ファンタスティック・ナイト”をそれぞれ各1回行なうことにした。

レパートリー面では、「デビュー・コンサート」で取り上げたフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『ジュビリー序曲(Jubilee Overture)』、『オリエント急行(Orient Express)』、『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』がすこぶる好評だったので、「ライムライト・コンサート」のシリーズでは、スパーク路線は継続し、加えてベルギーの新星ヤン・
ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の注目作『エクスカリバー(Excalibur)』を取り上げ、エリック・ボール(Eric Ball)やゴードン・ラングフォード(Gordon Langford)などのクラシカルな名作もくりかえし継続的に手がけていくことになった。

ともかく、当時のBBBのミーティングは、メンバーが皆若く血気盛んであり、その大阪にはない新しいカルチャーを作ろうとする意気込みには並々ならぬものがあった。

しかし、そんなところに水をさす事件が起こった。

一度は次年度の使用もOKが出ていたいずみホールから、ステージ上の奏者の数にクレームがついたのである。多すぎると。

当時、BBBのマネージメントは、大阪アーティスト協会を通じて行なわれていたが、協会からホール側の話を伝えられた上村さんは、最初は何の話なのかさっぱり意味がわからなかったそうだ。その話を上村さんから電話で伝え聞いた筆者も右に同じで、協会も当惑していた。

“クラシック音楽専門ホール”を謳ってオープンしたこのホールには、何でも音楽ディレクターという演目を審査する人がいたそうだ。(知らんけど)

上村さんから話を聞いた筆者は、直感的に『どこの偉い人か知らんけど、“ブラスバンド”に関しては皆目“素人”やな。』と感じたので、25パートある金管楽器に打楽器が加わる“ブラスバンド”の楽器編成の詳細を協会からホールに伝えてもらい、そのために書かれた楽曲を演奏表現するには、どうしてもこの音数(おとかず)が必要になると話してもらうことにした。

しかし、それが先方の心証を害したようだ。しばらくして再びかかってきた電話で、上村さんは、『とにかく人数を減らせ、の一点張りなんですわ。何でも、ホールのシャンデリアがビリッと言ったとか言わなかったとか。訳わからんことをぬかしてます。金管は大きな音がする、という先入観をもっている相手のようで…。しかし、おかしいんですよ。ボク、大阪シンフォニカー(現、大阪交響楽団)で、サンサーンスの“オルガン・シンフォニー”をフルでやりましたし、そのときは人数制限の話なんか出てなかった。』という。

筆者も『そうですね。こちらも、録音をお願いしたホールのベテラン音響さん(元NHK)から、“こんど、自衛隊の“軍楽隊”が来るんで、楽しみにしてるんです。”と聞きましたし、どこかのオケが(ストラヴィンスキーの)“火の鳥”をやるとも聞きました。』と応じ、とにかく協会にもう一度ていねいに話をしてもらうことにした。

しかし、やがて返って来た回答は、まるでふざけたものだった。

上村さんは、電話で『そこまで言うのならやってもいいが、ただし、金管は12名以下で演奏するように、と言ってきました。埒あきませんわ。』と怒り狂っている。

ここまで来ると、たちの悪いただの言いがかりのように聞こえる。

筆者も、一般貸しの日の演目にそこまで首を突っ込んでくるホールの“上から目線”にカチンと来たのと同時に、200年近くほぼ同じ楽器編成で演奏を積み上げてきた“ブラスバンド・ミュージック”に対する侮辱だと受け取った。

大阪ネイティブがこんな不条理を鵜呑みにすることはない!

上村さんには、速攻で『ホールを変えよう』と提案!!

BBBの定期公演の会場がキャパが821席のいずみホールから、1110席の大阪厚生年金会館中ホールに移ったのは、以上のような事件に直面したことが主原因だった。

幸い、年金の中ホールは、平成元(1989)年まで活動した大阪府音楽団(府音)がしばしば定期演奏会を開催してきたホールで、管楽器の音楽にひじょうにフィットした“いい音”のするホールとして知られていた。その上、演目にアレコレ口を挿むような高飛車なホールではなかった。(参照:《第37話 大阪府音楽団の記憶》)

その一方、BBBのミュージカル・スーパーヴァイザーとしては、この一件を通じ、もっと多くの音楽ファンに“ブラスバンド・ミュージック”を身近に知ってもらう必要性を強く感じた。

ファン作りの推進である!

その結果、生み出されたのが、1992年から1994年の3年間に合計6タイトルを自費制作したCD「ブリーズ・オン・ステージ」シリーズである。コンサートの来場者に“ブラスバンド・サウンド”をお土産として家まで持って帰ってもらおうという志向の企画だった。

使用音源は、すべて筆者が録ったBBBのライヴ録音で、編集は一切無し。ために曲によっては小さなキズがなくもないが、“積極的にチャレンジした結果起こった事件は不問”という筆者の制作方針から、CDの音楽的内容の一切は演奏者ではなく筆者の責任に帰す。なので、些細なキズより、BBBが作ろうとしていたサウンドやノリが体現されているものを積極的にCD化した。

これがBBBのコンサートに来場するファンに受けた!

そして、各会場で毎回100枚以上が売れる“隠れヒット作”となった。

と同時に、バンドのサウンドはぐんぐんピュアになっていき、プレイのモチベーションも向上。やがてBBBは、ヨーロッパに招かれるまでのグループとなった。

これは、正しく“怪我の功名”!!

わが音楽人生の中でもトップ5に数えることができる“強い憤り”を音楽作りのエネルギーに昇華させたひとつの大事件であった。

▲CD – Breeze On Stage Volume 1 Postcard from Mexico(BBB、BBBCD-001、1992年)

▲BBBCD-001 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 2 Oceans(BBB、BBBCD-002、1992年)

▲BBBCD-002 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 3 Stage Centre(BBB、BBBCD-003、1993年)

▲BBBCD-003 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 4 Pantomime(BBB、BBBCD-004、1993年)

▲BBBCD-004 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 5 Slipstream(BBB、BBBCD-005、1994年)

▲BBBCD-005 – バックインレー

▲CD – Breeze On Stage Volume 6 Romance(BBB、BBBCD-006、1994年)

▲BBBCD-006 – バックインレー