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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第80話 ギャルドとジャケット写真の謎

▲Peter Martland著、SINCE RECORDS BEGAN – EMI – The First 100 years(英Batsford / 1997年)

▲LP – ギャルド・フランス・アメリカ行進曲集 (Angel(東芝)、CA 1027 )

▲ LP – ギャルド・シンフォニック・マーチ名曲集 (Angel(東芝)、AB 7008)

かつてイギリスに“EMI”(イーエムアイ)という世界的なレコード会社が存在した。

ファンにとって、それは芸術の香りを我が家へと運び、身近なものにしてくれる夢や憧憬の担い手であり、演奏家にとってはステータスの証しだった。間違いなく、レコード史に燦然と輝くブランドである。

歴史を紐解くと、EMIは、1931年、英Grammophone(グラモフォン)と英Columbia(コロムビア)の合併によって誕生した。それは、当時のイギリスを代表する2大レコード会社が1つになることを意味する大事件だった。

EMIとは、正式な社名“Electric and Musical Industries Limited”の頭文字だ。

旧社名の“グラモフォン”、それ自体が、円盤の上に音の溝を刻んだレコードを再生する“円盤式蓄音機の登録商標名”であるぐらいだから、それをルーツとする社名をもっていた事実1つをとっても、レコード業界でどれほどの“老舗”だったかをよく物語っている。

EMIのドル箱は、合併前から Grammophone が発売していた“蓄音機から聞こえる主人の声に耳を傾ける犬の絵”をトレード・マークとする《His Master’s Voice(ヒズ・マスターズ・ヴォイス)》と、Columbia が発売していた“音符”のマークの《Columbia(コロムビア)》の2大レーベルだった。契約アーティストとの個別の兼合いもあり、両レーベルは合併後も存続され、録音・制作体制も維持された。

1997年のEMI100周年を記念して出版されたピーター・マートランド著の「SINCE RECORDS BEGAN – EMI – The First 100 years」(英Batsford)を読むと、その100年間に信じられないほどすごい顔ぶれのアーティストがEMIのカタログに加わっていたことがわかり、とても興味深い。

EMIの歴史は、レコードの歴史と言って過言ではなかった。

日本国内で、日本ビクターが“犬の絵”を、日本コロムビアが“音符”を登録商標に使っているのも、第二次世界大戦前から個別に両レーべルと契約関係を結び、日本国内への販売権をもっていた名残りである。

さて、前話(第79話「ギャルドとコロムビア・レーベル」)でお話したように、“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(公演名)が来日した1961年当時、この吹奏楽団の主なレコードは、英Columbiaが子会社として1923年に設立した仏Columbiaレーベルからリリースされていた。

当然、日本での販売権は、英Columbiaとレーベル契約を結んでいた日本コロムビアが持っていた。

コロムビアは、1956年(昭和31年)、手始めに『フランス行進曲集/アメリカ行進曲集(MARCHE MILITAIRES FRANCAISES ~MARCHES MILITAIRES AMERICAINES)』(日本コロムビア、KL-5005)(モノラル)をリリース。1961年の来日が決まると、同盤のタイトルを『ギャルド行進曲集(MARCHE MILITAIRES FRANCAISES ~MARCHES MILITAIRES AMERICAINES)』(日本コロムビア、SL-3072)(モノラル)と改めて再リリースし、来日後の1962年には『ギャルド・グランド・マーチ集(MARCHES CELEBRES)』(日本コロムビア、OL-3234)(モノラル)という、クラシックの名行進曲を集めたアルバムをリリースした。

しかし、1962年、EMIグループの全世界規模の再編の結果、英Columbiaと日本コロムビアとの契約関係が解消すると、英仏Columbia盤の日本国内における販売権は、すべて東芝音楽工業に移行。このとき、コロムビアが販売していたギャルドのレコードも、一定期間の販売継続は許されたものの、追加プレスは認められず、すべて廃盤。マスターも東芝へ移されることとなった。

実は、この前後、東芝は、コロムビアの動きを睨みながら、ギャルド来日中の1961年11月16日(木)、杉並公会堂(東京)でレコーディング・セッションを行ない、来日直後の1962年3月、團 伊玖磨の『祝典行進曲』など、日本のマーチ6曲が入った17センチEP『ギャルド・レピュブリケーヌ日本マーチ集』(Angel(東芝)、YDA-5001 / ステレオ)およびそのシングル・カットをリリース。7月には、日本公演で注目を集めたフローラン・シュミット(Florent Schmitt)の「ディオニソスの祭り(Dionysiaques)」などが入った25センチLP『ギャルド名演集』(Angel(東芝)、5SA-5003)(ステレオ)をリリースし、大きな成果を挙げていた。

その経緯は、第23話「ギャルド、テイクワンの伝説」でお話したとおりだが、そんな折、日本コロンビアがリリースしていたアルバムのマスターも移管されることになった訳だ。

後年、仕事上いろいろご一緒することになる東芝EMI洋楽クラシックのプロデューサー、中田基彦さんから伺った話だと、この当時、東芝の洋楽部門は『吹奏楽は、イギリスのロイヤル・マリーンズで行く。』と決めていたんだそうで、ちょうどスタートしたばかりの「エンジェル吹奏楽シリーズ」の第1集(Angel(東芝)、ASC-5286)と第2集(同、ASC-5292)も、ヴィヴィアン・ダン指揮、ロイヤル・マリーンズ・バンドが演奏するマーチ・アルバムだった。

同社も、やはり、“吹奏楽=マーチ”をポリシーとしていたのだ。

結果、コロムビアが出していたギャルドの2タイトルも、このシリーズの中でカバーする流れとなった。

■エンジェル吹奏楽シリーズ(第3集)
ギャルド・フランス・アメリカ行進曲集

ANGEL:MARCHES ON PARADE(Vol.3)MARCHES MILITAIRES FRANSES ET AMERICANS
(Angel(東芝)、CA 1027 / モノラル / 30cm LP)
(Matrix: XLX 311 / XLX 312)

■エンジェル吹奏楽シリーズ(第4集)
ギャルド, シンフォニック・マーチ名曲集

ANGEL:MARCHES ON PARADE(Vol.4)MARCHES CELEBRES
(Angel(東芝)、AB 7008 / モノラル / 30cm LP)
(Matrix:XLX 763 / XLX 762)(1964年2月新譜)

データ末尾のマトリクス(Matrix)を見れば明らかだが、先行した“フランス・アメリカ行進曲集”は、仏Columbia原盤や日本コロムビア盤と同じ曲順のリリースだが、もう一方の“シンフォニック・マーチ名曲集”は、日本コロムビア盤では組み換えられていた曲順を仏Columbia原盤当時に戻し、A面をB面に、B面をA面に入れ替えてのリリースとなった。

東芝は、両盤につづいて、フランスでステレオ録音されたフランスのマーチ集をリリースした。ルイ・ガンヌの「ロレーヌ行進曲(Marche Lorraine)」とジャン・ロベール・ブランケット/ジョセフ・フランソワ・ラウスキーの「サンブル・エ・ムーズ(Sambre et Meuse)」などを除くと、収録曲は日本ではほとんど知られていない曲ばかりだったが、ステレオ効果も満点で、“これぞギャルド”という、湧き立つようなサウンドが喜ばれた。

■エンジェル吹奏楽シリーズ(第5集)
ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)

ANGEL:MARCHES ON PARADE(Vol.5)MARCHES MILITAIRES
(Angel(東芝)、AA 7048 / ステレオ / 30cm LP)
(Matrix:YLX 1040 / YLX 1041)(1964年4月新譜)

東芝時代の国内盤では、ジャケットにギャルドのカラー写真が使われるようになった。しかし、その後、CD時代も経て半世紀以上たった今、もう一度振り返ってみると、東芝から発売されたギャルドのレコードやCDのジャケットに使われてきた多くが“馬に跨ったラッパ手”の写真であることに気がつく。

唯一、例外的だったのが、『ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)』(AA 7048)で、ジャケットには“馬”の写真ではなく“ギャルド”の全体写真が使われた。しかし、その写真を注意深く見ると、かなりの数の弦楽器奏者が写りこんでいる。これは、来日した“吹奏楽団”だけを写したものではなく、その後、ジャケットには二度と使われなかった。

種明かしをすると、前者は、当初、来日予定だった馬上演奏が人気を呼ぶ別編成の“バテリー・ファンファール”のラッパ手を写したもので、後者は、83名定員の吹奏楽団に40名の弦楽を加えた“グラン・オルケストル”編成のものだった。いずれも招聘元の朝日新聞社を通じて入手した写真だった。

“グラン・オルケストル(Grand Orchestre)”編成は、楽長のフランソワ=ジュリアン・ブランがベルリオーズの「葬送と勝利の交響曲」のスコアからアイデアを得てスタートさせたギャルド独特の編成で、その編成で録音されたレコードも仏Deccaから発売されていた。

 公演プログラムの表紙(第22話「ギャルド1961の伝説」、参照)にも、『ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)』とは別の、後方から俯瞰で撮影された“グラン・オルケストル”の写真が使われていた。

 ひょっとすると、ブランは、弦楽奏者までを含めたギャルド全員を連れてきたかったのかも知りない。

▲LP – ギャルド・イン・ステレオ(軍隊行進曲集)(Angel(東芝)、AA 7048)

▲Angel(東芝)、AA 7048 – A面レーベル

▲Angel(東芝)、AA 7048 – B面レーベル

▲EP – BATTERIE-FANFARE DE LA GARDE REPUBLICAINE DE PARIS(仏Decca、450573)

▲仏Decca、450573 – A面レーベル

▲ 仏Decca、450573 – B面レーベル

▲EP – LE GRAND ORCHESTRE DE LA GARD REPUBLICAINE(仏Decca、458501)

▲仏Decca、458501 – A面レーべル

▲仏Decca、458501 – B面レーべル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第79話 ギャルドとコロムビア・レーベル

▲25センチLP – LISZT SUPPE CHABRIER(仏Columbia、FC 25032)

▲仏Columbia、FC 25032 – A面レーベル

▲仏Columbia、FC 25032 – B面レーベル

フランス政府の派遣により、“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”が初めて日本の土を踏んだのは、1961年(昭和36年)のことだった。

一行は、11月1日(水)、エールフランス特別機で羽田空港に到着。その後、同17日(金)、同じ特別機で羽田から離日するまでの17日間、日本に滞在した。

ギャルドは、その滞日期間中、東京(11/3、11/5、11/11、11/13)、大阪(11/6)、福岡(11/8)、京都(11/9)、名古屋(11/10)、高崎(11/15)の各都市のコンサートに出演。東京の台東体育館で開催された第9回全日本吹奏楽コンクール(11/12)でも特別演奏を行った。

NHKも、東京文化会館における2回のコンサート(11/5、11/11)をライヴ収録し、テレビ(モノクロ)、AMラジオ、FMラジオ(モノラル実験放送)を通じ、計8本の番組がオンエアされた。

日本中を包んだ熱狂は、第22話「ギャルド1961の伝説」ほかでお話したとおりだ。

しかし、その後、この吹奏楽団の再来日は、1984年まで20年以上、実現しなかった。

このため、それまでの間、我々が聴き得た“ギャルド・レピュブリケーヌ”の演奏は、もっぱらアナログのレコードを通じてとなったのである。

当時、母国フランスでは、初来日時の楽長(シェフ・ド・ミュジーク)であるフランソワ=ジュリアン・ブラン(Francois-Julien Brun, Chef de la Musique et du Orchestre)の指揮で録音されたレコードは、下記のものがリリースされていた。

■MUSIQUE MILITAIRE FRANCAISE
(仏Columbia、FCX 190 / モノラル録音 / 30cm LP)
(Matrix: XLX 132 / XLX 133)

■MARCHES MILITAIRES FRANCAISE ET AMERICAINES
(仏Columbia、FCX 374 / モノラル録音 / 30cm LP)
(Matrix: XLX 311 / XLX 312)

■MARCHES MILITAIRES FRANCAISE
(仏Columbia、FCX 714 / モノラル録音 / 30cm LP)
(Matrix: XLX 664 / XLX 665)

■LES MARCHES CELEBRES
(仏Columbia、FCX 780 / モノラル録音 / 30cm LP)
(Matrix: XLX 762 / XLX 763)

■LISZT SUPPE CHABRIER
(仏Columbia、FC 25032 / モノラル録音 / 25cm LP)
(Matrix: XL 502 / XLX 503)

■MUSIQUE DE LA GARDE REPUBLICAINE DE PARIS
(仏Columbia、ESBF 185 / モノラル録音 / 17cm EP)
(Matrix: 7 TCL 770 / 7 TCL 771)

MARCHES MILITAIRES
(仏Columbia、SAXF 130 / ステレオ録音 / 30cm LP)
(Matrix:YLX 1040 / YLX 1041)

それらは、30センチLPが5タイトル、25センチLPが1タイトル、17センチEPが1タイトルの合計7タイトルで、すべてイギリスColumbiaの子会社であるフランスColumbiaレーベルからリリースされていた。

(上記以外にも、30センチLP用のマスターから曲数をカットした25センチ盤や17センチ盤が多数リリースされていたが、曲目が重複するのでこのリストアップからは省いている。また、リストには、バテリー・ファンファールやグラン・オーケストラ、サクソフォン四重奏団のレコードも含まない。各タイトルの最後に挙げた“Matrix”とは、原盤に付与された番号のことで、曲目のカップリングに変更が無い再リリース盤や、他国でリリースされる場合でも活かされることが多いので、チェック時のクロス・レファレンスのために記載した。スラッシュの前の番号がA面、後の番号がB面に付与されたマトリクスとなる。)

戦前から音楽解説をされ、筆者も多くの教示を得た赤松文治さんの労作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」(自費出版 / 1988 / 制作:音楽之友社 / 第24話「ギャルド1961外伝」参照)には、イギリスColumbiaがフランスに進出し、フランスColumbiaが設立されたのが1923年。ギャルドが本格的にフランスColumbiaとの間で録音をするようになったのは、1927年に第6代楽長に就任したピエール・デュポン(Pierre Dupont、1888~1969)の時代に遡るという記述がある。

1944年にデュポンが定年を迎えた後、1945年に第7代楽長に就任したブランの時代にも、その流れは確実に引き継がれていた。ただ、フランス政府の楽団だけに、この当時には専属契約はもはやなかったとされ、実際、バテリー・ファンファールやグラン・オーケストラ、サクソフォン四重奏団のレコードは、他のレーベルからリリースされていた。しかし、吹奏楽団が演奏した前記7枚は、すべてColumbiaからのリリースだった。

一方、第31話「日本初の吹奏楽LP」でお話したように、英仏Columbiaのレコードの日本における販売権は、戦前から関係が深かった日本コロムビアが有していた。

前記7枚を各個にチェックすると、リスト上の3枚目までは、すべてマーチ・アルバムだ。

日本コロムビアは、まず、つぎのアルバムをリリースした。1956年(昭和31年)3月25日のことだ。

■フランス行進曲集/アメリカ行進曲集
MARCHE MILITAIRES FRANCAISES~MARCHES MILITAIRES AMERICAINES
(日本コロムビア、KL-5005 / モノラル録音 / 30cm LP)
(Matrix: XLX 311 / XLX 312)

結局、日本コロムビアからは未発売となる他の2枚には、日本では馴染みの薄いフランスのマーチばかりが収録されていたので、このリリースが、1953年のアメリカ演奏旅行中に録音されたジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa)の「星条旗よ永遠なれ(The Stars and Stripes Forever)」や「ワシントン・ポスト(Washington Post)、エドウィン・E・バグリー(Edwin E. Bagley)の「国民の象徴(National Emblem)」などの有名なアメリカン・マーチの“曲名”に惹かれてのものだったことは明白だ。

当時は、すべての国内レコード会社が“吹奏楽 = マーチ”と信じ、戦後進駐してきたアメリカ軍のバンドが持ち込んだ明るいアメリカン・マーチが町にあふれていた時代だ。

この時点では、5年後のギャルド来日など、想像も及ばなかっただけに、このアルバムをリリースしたレコード会社としての企図もよくわかる。

しかし、1961年のギャルド初来日が業界内で伝わると、コロムビアの動きはすばやかった。

上記アルバムの日本語タイトルを「フランス行進曲集/アメリカ行進曲集」から「ギャルド行進曲集」に変更し、ジャケット外装も完全にやり直し、1961年6月新譜として再リリースしたのである。

■ギャルド行進曲集
MARCHE MILITAIRES FRANCAISES ? MARCHES MILITAIRES AMERICAINES

(日本コロムビア、SL-3072 / モノラル録音 / 30cm LP)
(Matrix: XLX 311 / XLX 312)

それは、マスターが国内にあったからこそできた離れ業だった。同時に、まるで来日記念盤のような扱いのリリースだったから、他社に先駆けてレコードを出したコロンビアの圧勝を業界の誰もが信じて疑わなかった。

事実、来日当時、日本国内で唯一販売されていたギャルドのレコードだったこのアルバムは、それなりのセールスを記録する。

しかし、コロムビアにとってまるで想定外だったのは、まず国内の音楽界を挙げての大騒ぎとなったギャルドの初来日で最も注目を集めたレパートリーが、マーチではなく、クラシックの名曲やオリジナルだったことだ。

銀座をパレードするようなパフォーマンスもなかった。

ついで、コロムビアが知らないところで、東芝音楽工業が秘密裏にレコーディングを企画。11月16日(木)、東京・杉並公会堂でセッションを敢行したことも衝撃だった。

第23話「ギャルド、テイクワンの伝説」でお話したように、このセッションは、東芝の録音史に残るセンセーショナルなものとなり、メディアも大きく取り上げた。

東芝は、このときの録音から、まず、團 伊玖磨の『祝典行進曲』など、日本のマーチ6曲が入った17センチEP(Angel(東芝音楽工業)、YDA-5001)とそのシングル・カット盤を来日直後の1962年3月に、フローラン・シュミット(Florent Schmitt)の「ディオニソスの祭り(Dionysiaques)」など、日本公演で注目を集めた曲目が入った25センチLP(Angel(東芝)、5SA-5003)を同じく7月にリリース!

音楽界の話題を完全にさらってしまった!

その直後、コロムビアも、前記リストの4番目にあるクラシックのコンサート・マーチ集を、1962年9月新譜としてリリースする。

■ギャルド・グランド・マーチ集
LES MARCHES CELEBRES

(日本コロムビア、OL-3234 / モノラル録音 / 30cm LP)
(Matrix: XJX 23 / XJX 24)

このアルバムには、ワーグナーの「タンホイザー」大行進曲やメンデルスゾーンの「結婚行進曲」、サンサーンスの「フランス軍隊行進曲」など、誰でも知っているクラシックの名行進曲が入っていた。しかし、東芝盤は、日本初のギャルドのステレオ盤であり、国内初出とはいえ、モノラル録音のコロムビア盤が劣勢を強いられることになったのは明らかだった。とにかく、インパクトがあまりにも違っていた。(日本リリースにあたり、曲順に変更を加えたので、コロムビア独自の新しいマトリクスが付与されている。)

日本コロムビアにとってさらにショックだったのは、同じ1962年、英仏Columbiaを含む、世界的なEMIグループ各レーベルの再編があり、日本コロムビアと英仏Columbiaとの間で戦前から続いていた契約関係が終了。英仏Columbiaレーベルの日本国内の販売権が、東芝音楽工業にすべて移行されることになったことだ。

このため、この「ギャルド・グランド・マーチ集」は、日本コロムビアがリリースした最後のギャルドのアルバムとなった。契約終了に伴う短期間の販売だったから、レア度は結構高い。

ここで、もう一度、前記フランスColumbiaのリストに立ち戻ってみよう。

実は、リストに残る上から5番目の25センチ盤と6番目の17センチ盤の2枚は、日本コロムビアがギャルド初来日を知った時点で、間違いなくマスターを取り寄せる時間的余裕があった盤なのだ。

この内、1958年のブリュッセル万国博覧会にギャルドの出演が決まった際に制作された17センチ盤は、マーチ・ファン向きの内容で、有名な「ベルギー落下傘部隊」の作曲者ピエール・レーマンス(Pierre Leemans)が、ブリュッセル万博のために作曲した2曲のマーチが片面に1曲ずつ収録されていた。

それとは対照的に、25センチ盤の方は、同じ1958年のモノラル録音ながら、リストの「ハンガリー狂詩曲第2番」、スッペの喜歌劇「軽騎兵」序曲、同じくスッペの喜歌劇「詩人と農夫」序曲、シャブリエの「スペイン狂詩曲」の4曲が収録されたコンサート・アルバムだった。

1961年の来日でギャルドが賞賛を集めたのは、間違いなくそういったレパートリーの演奏だった。

結局、このアルバムが、“レコードの時代”に日本で発売されることはなかった。

もちろん、当時、マーチは確かに売れていたし、“マーチ至上主義”で凝り固まっていたレコード会社は、何も日本コロムビアだけではなかった。

ただ、コロムビアは、ギャルドという楽団の本質を見誤っていた。

また、圧倒的な勝者となったとは言え、当初、東芝が録音を依頼したのは、日本のマーチ8曲だけだった。

“日本の常識は海外の非常識。海外の常識は日本の非常識”とは、よく聞かれる言葉だ

ひょっとすると、“吹奏楽は、世界中いずこも同じ”だと誤解されていたのかも知れない。

今がそうでないことをひたすら願う、今日この頃である!

▲EP – MUSIQUE DE LA GARDE REPUBLICAINE DE PARIS(仏Columbia、ESBF 185)

▲仏Columbia、ESBF 185 – A面レーベル

▲仏Columbia、ESBF 185 – B面レーベル

▲LP – ギャルド行進曲集(日本コロムビア、SL-3072) – 上、下

▲日本コロムビア、SL-3072 – A面レーべル

▲日本コロムビア、SL-3072 – B面レーべル

▲LP – ギャルド・グランド・マーチ集(日本コロムビア、OL-3234) – 上、下

▲日本コロムビア、OL-3234 – A面レーべル

▲日本コロムビア、OL-3234 – B面レーべル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第78話 ヴァンデルロースト:交響詩「スパルタクス」の物語

▲東京佼成ウインドオーケストラ第141回定期演奏会&第3回大阪定期演奏会のチラシ

▲同、プログラム

▲同、演奏曲目ページ

2018年(平成30年)11月24日(土)、筆者は、「東京佼成ウインドオーケストラ第3回大阪定期演奏会」が催される大阪のザ・シンフォニーホールに向かっていた。

とっても懐かしい“ある曲”に再び出会うために!

指揮者は、シンガポール出身のカーチュン・ウォン(Kah Chun Wong)。ドイツのバンベルク交響楽団が催した2016年の第5回グスタフ・マーラー国際指揮者コンクールで優勝した話題の俊英だ。

この大阪定期では、前日の11月23日(金・祝)に東京芸術劇場大ホールで催された同ウインドオケの「第141回定期演奏会」と同一の、以下のようなプログラムが組まれていた。

・呪文とトッカータ(ジェームズ・バーンズ)
Invocation and Toccata(James Barnes)

・交響詩「スパルタクス」(ヤン・ヴァンデルロースト)
Spartacus, Symphonic Tone Poem(Jan Van der Roost)

・ピータールー序曲(マルコム・アーノルド / 近藤久敦編)
Peterloo Overture(Malcolm Arnold / Hisaatsu Kondo)

・組曲「展覧会の絵」(モデスト・ムソルグスキー / 高橋 徹編)
Pictures at an Exhibition(Modest Mussorgsky / Tohru Takahashi)

筆者が再会したかったのは、ベルギーのヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost、1956~)が作曲した交響詩「スパルタクス」だった。

完成および初演は1988年。ベルギー王室の至宝とも謳われる、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy)指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(Orchestre de la Musique Royale des Guides / 第55話 ノルベール・ノジとの出会い、参照)の演奏で初演された作品だ。

初演翌年の1989年にオランダの出版社デハスケ(de haske muziekuitgave bv)が出版。この作品は、その後、世界的に演奏されるようになった。

作曲者によると、フランスのギャルド・レピュブリケーヌが演奏した唯一の自作品でもあるそうだ。

また、個人的には、作曲者との交友が始まるきっかけを与えたくれた作品であり、日本における初演奏や初レコーディングをオーガナイズした作品でもあった。

作品は、日本でも大ヒット!

その上で“再び出会うために”とワザワザ書いたのには、理由がある。

第47話「ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動」でお話した、ヨーロッパのオリジナル作品の“今”にスポットをあてる佼成出版社のシリーズCDの第1弾、交響詩「スパルタクス」(佼成出版社、KOCD-3901、リリース:1991年12月10日)のために、東京佼成ウインドオーケストラが録音して以降、本当に久しぶりにこの作品を演奏することを知ったからである。

(ついに、定期で取り上げられる!)

東京佼成ウインドオーケストラが、オランダ人指揮者ヤン・デハーン(Jan de Haan)のタクトで、レコーディング・セッション(於:普門館、東京)を行ったのは、1991年(平成3年)9月27日(金)のこと。筆者が知る限り、今度の東京・大阪の両定期演奏会における演奏は、それから27年ぶりのことだった。

メールやスカイプなんかでやりとりできる21世紀の今からみると、まるで信じられないかも知れないが、その当時、国際間の主な通信手段は、もっぱらエア・メール(手紙)かFAXだった。もちろん国際電話という手もあったが、他と比べて通信費がべらぼうに高く、電話は本当にいざという場合の最後の伝達手段として使用された。

しかし、紙の力はすごい!

四半世紀を超える年月が経過した今も、ヤンが送ってきた最初の手紙が筆者のファイルの中にそのまま残っているのだ。ファイルを開いて見ると、その手紙の日付は、1990年10月31日!

タイプライターで印字されたそれは、購入した交響詩「スパルタクス」のスコアの感想とともに日本でも録音プランがあることを知らせた筆者への返信だった。

『ミスター・ヒグチ。私は、大編成のウィンド・バンド(吹奏楽)のために書いた自作「スパルタクス」に関して、あなたが熱狂していると聞き、とても喜んでいます。また、有名な“東京佼成ウインドオーケストラ”とのCDレコーディングを企図されているとも聞かされました。もし、それが現実となるなら、私がとても名誉に思うのは、言うまでもなく明らかなことです!』

こちらが出した手紙が英語だったので、母国語ではなく、得意としない英語で返信してきた彼の気持ちがよく伝わってくる文面だった。

そして、その後の文面がとくに興味を引いた。

『ここでちょっとお知らせしたいことがあります。私は、(スコアの)編成リストにいくつか補足パートを加えます。それらは、もしレコーディングが本当になされるなら、お知らせいただければ送ります。それらは、ダブル・バスーン、コントラバス・クラリネット、ハープ、ピアノ及びチェレスタです。これらのオプショナル・パート譜は、ひじょうに読みやすい手書きで書かれています。….。』

はじめてこれを読んだ瞬間、きわめてシンプルな疑問が頭をよぎった。

(去年出版されたばかりの作品に、もう変更を加えるのだろうか??)

しかし、その後、ヤンや出版社とやりとりを繰り返す内、彼が手紙で知らせてきたこれらのパートは、実際には作曲時からすでに存在したもので、初演にも使われたことが判明した。

それらが出版譜にないのは、以下のような作品の出自と出版社の規模が微妙に絡む事情があった。

まず、交響詩「スパルタクス」は、誰か、もしくは、どこかの楽団からの委嘱作ではなく、作曲者の自由な発想によって書かれた作品だった。

加えて、ロワイヤル・デ・ギィデが初演するぐらいの作品だから、使用楽器の選択も自在であり、当然、編成も大きかった。

また、出版は、作曲者からデハスケに持ちかけたものだった。

この当時、デハスケは、創業間もない社員数5名ほどの“吹けば飛ぶような”弱小出版社で、話を聞いた音楽部門責任者のヤン・デハーン(指揮者、作曲家としても知られる)は、当初、スコアを見る以前に、“そんな規模の大きな作品は、残念ながら当社としは出版できない”といったん断っている。演奏時間が長い上、販売楽譜に“特殊”なパートまで入れると、楽譜がまったく売れない恐れがあると判断したからだった。

しかし、作曲者は粘った。彼は、『スコアを送るので、出版できなくてもいいから、とにかく見てほしい。』と言って、ついにヤン・デハーンからスコアを見る約束を取りつけたのだ。

結果、交響詩「スパルタクス」は、前記パートを除いた姿で出版されることが決まった。

スコアを一読したヤン・デハーンから、『たとえ1冊も売れなかったとしてもいい。当社はこの曲を出版することにした。』と電話がかかってきたその日のことを、作曲者のヤン・ヴァンデルローストはけっして忘れられないという。

この経緯については、彼の60歳を記念して2016年に制作された自伝的CDブック「ヤン・ヴァンデルロースト~マイルストーンズ」(de haske、DHR 16-016-3)でも、彼自身の語り口で書かれている。

そして、1991年、出版を決めたヤン・デハーンを指揮者に起用することが決まった東京佼成ウインドオーケストラのセッションでは、オットリーノ・レスピーギの色彩感豊かなオーケストレーションに触発されて書かれたというこの作品とその作曲者をリスペクトする意味で、出版譜からは省かれたパートもすべて入れた“オリジナル”の形で行なうことにした。

この決定は、作曲者を何よりも喜ばせた。

そして、セッションのために来日したヤン・デハーンもまた、普門館のステージ横でこう言った。

『出版社のレコーディングではないんだから、これでいい!』と。

▲ヤン・ヴァンデルロースト(1980年代後半)

▲交響詩「スパルタクス」初版スコア

▲CDブック – ヤン・ヴァンデルロースト~マイルストーンズ(de haske、DHR 16-016-3)

▲同、曲目

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第77話 阪急少年音楽隊の記憶

▲阪急商業学園 阪急少年音楽隊 創立30周年記念写真集(1986年3月)

▲同、ごあいさつ

▲「月刊吹奏楽研究」1957年7月号(通巻43号)(月刊吹奏楽研究社)

『いつの間にか“30年”の月日が過ぎてしまいました。西宮球場の6階の一隅に、なんとか学科の学習と音楽の練習ができる教室と、職員室兼事務室の僅かな2部屋で阪急少年音楽隊として発足したのが昭和32年4月ですから間違いなく“30年”になります。….。』(原文ママ)

阪急少年音楽隊の隊長、そして阪急百貨店吹奏楽団の常任指揮者として知られた鈴木竹男さんから贈られた「阪急商業学園 阪急少年音楽隊 創立30周年記念写真集」(1986年3月発行)の巻頭を飾る氏の挨拶文は、こんな書き出しで始まる。

文中の西宮球場とは、かつてプロ野球“阪急ブレーブス”が本拠とした球場で、阪急神戸線と今津線が交差する「西宮北口」駅の南側正面すぐのところにあった。吹奏楽ファンには、1961年に“春の吹奏楽~1000人の合同演奏~”の名で始まった“2000人の吹奏楽”(後に“3000人の吹奏楽”と改称)の会場としておなじみだった。

阪急少年音楽隊は、1957年(昭和32年)3月15日、当時の阪急百貨店社長、清水 雅さんの発意により創設された。

「記念写真集」には、清水社長による“創設趣意書”が掲載されている。

『我が国は昨年国連に加盟し名実共に自主独立の民主国家として着実に再建の道を歩んで居りますことは誠に御同慶の至りに存じます。

音楽を愛する者は平和の愛好者と申します。世界の平和と相互の理解を促進する上に音楽の果す役割は誠に大きなものがあるのみならず、職場や家庭におきましても音楽による情操教育によつて明るく楽しい雰囲気を作り、又能率の向上に資しておりますことは御承知の通りで御座います。

阪急百貨店は企業の性質上 創業以来 常に文化生活の向上に関し深く関心を持って参りましたが、特に阪急経営の一環として宝塚音楽学校との関係も御座いまして、音楽につきましても由縁浅からざるものが御座います。この度阪急百貨店に阪急少年音楽隊を創設致しましたのもこの阪急の文化的基盤に立って、純真なる少年に音楽を通じて豊かな教養と情操を与え、近き将来阪急百貨店の社員として立つにふさわしい資質を習得せしめ、職場の明朗化をはかり、楽しい社会を作り上げ度念願する次第で御座います。 昭和三十二年三月』(原文ママ)

指導者となる隊長には、西宮市立今津中学校(兵庫県)の英語教諭で、音楽部の指導者としてバンドを創り、1955~56年の“全関西吹奏楽コンクール”で同部を2年連続の第2位に導いた鈴木さんが、副隊長には、阪急百貨店の楽器売場主任の小川原久雄さん(後に、第11回全日本吹奏楽コンクール(1963年)の課題曲『朝のステップ』を作曲する)が選任された。

しかし、新しいものを創る際によくあることだが、諸準備に予想以上に手間取り、募集開始の発表は、1956年3月7日の朝日、毎日両新聞への広告掲載の日までずれ込んでしまった。関係者一同、こんな年度末ギリギリの発表で果たして応募者があるのかどうか心配したが、蓋を開けてみると、100名を超える応募者があり、ホッと胸をなでおろしたという一幕もあった。

初の入隊テスト(今日流に言うなら“オーディション”)は、同年3月28日に実施され、学科試験を百貨店人事部が管轄し、実技試験は大阪市音楽団団長の辻井市太郎さんと、大阪府警察音楽隊隊長の山口 貞さんの立会いのもとに行われた。

結果、4月10日、阪急百貨店8階会議室で行われた晴れの入隊式を迎えたのは、第一期生の18名だった。

当時、唯一の吹奏楽誌だった「月刊吹奏楽研究」(月刊吹奏楽研究社)(第74話:「月刊吹奏楽研究」と三戸知章、参照)も、いち早くこの動きを捉え、1957年7月号(通巻43号)19頁に「阪急少年音楽隊 教育はじまる」という記事を掲載した。

記事中、興味深い箇所を引用すると…

『…。この少年隊員は三ヵ年の教育を受ける。専門教育の音楽の外に商業教育として英語、商業、珠算、国語、数学、理科、社会、習字、美術まで学び、三年の教育を終ったときは、社員に採用、新制高校卒業生と同じ待遇を受けることになる。その間月額八千円程度の給与を受け楽器制服を支給されるという好条件である。デパートの少年音楽隊は、三越、松坂屋などにその前例はあるが、現在はどこも持っていない。….。楽長に就任した鈴木竹男氏は今津中学バンドを超中学の実力バンドに育て上げた有能な指導者であるから、この音楽隊が年々新隊員を採用し予定の編成になった時、新しい関西の新名物楽団が美しく開花するであろう』(誤植を除き、原文ママ)

執筆者名はないが、書きっぷりから編集主幹の三戸知章さんの文章だろう。

また、同記事には、前記の清水社長も文を寄せている。

『その昔、欧州に住んでいた頃、ライン地方を自転車で走り廻っていたことがある。スイスの近くでムールーズと云う小さな町があって、どういうわけか、ここで何日か宿っていたが何かの機会に来がとてもさわがしいので、二階の窓をあけて見たら、丁度二つの列がすれ違っている時である。先頭に小さな棒をもった指揮者がいて、後からフルート、太鼓、ラッパなどの音楽隊が整然と進んでいく後から、無数の行列がいつまでも続いている。気持のよいものだなあ、と思っていたが先般アメリカに旅行したら、今度は女のこうした音楽隊に打つかった。…(中略)…。この女子音楽隊は数曲の気持のよい音楽を聞かせて呉れたが、その度に万雷の拍手が起って、全くよい雰囲気である。こんなものを阪急百貨店がもっていたら、随分世間からよろこんでもらえるだろう….』(原文ママ)

ほどなく、阪急少年音楽隊は、お茶の間のラジオのリスナーの人気者となった。

1958年(昭和33年)3月11日から、大阪の新日本放送(後の“毎日放送”)が、日曜日を除く毎日、午前10時5~15分のラジオ番組「緑の手帖」(阪急百貨店提供)の放送を開始、演奏が電波に乗るようになったからだ。

その後、1960年(昭和35年)3月8日からは、「緑の手帳」に加え、ライバル局の朝日放送ラジオでも「朝のファンファーレ」(午前8時10分開始)(阪急百貨店提供)という番組の放送が開始され、阪急少年音楽隊は、これら2本のラジオのレギャラー番組を通じて、幅広いファンを獲得していった。

ラジオ収録は、年に25回から35回程度あったと記録されている。全国すべての情報を知り得ているわけではないが、日本広しといえども、 民放 ラジオのレギュラー番組を2本持つバンドは他になかったのではないだろうか。

ともかく、関西の吹奏楽ファンの朝は、阪急少年音楽隊の演奏と共に始まったのである。

「記念写真集」には、「緑の手帳」のプロデューサー、佐藤 操さんのつぎのようなコメントも掲載されている。

『阪急少年音楽隊とは、その誕生から今日まで実に長いおつき合いですが、一口にいって大変真面目で感じのいい音楽隊です。また、あの年齢にありがちな生意気さが全然なく、実に素直です。演奏そのものも上品で、各人が非常に熱心、自分達の入れた録音テープを巻き返してくれと要求されては、いつもそれを聞いてお互いに批判研究されています。50名という音楽隊は人数から申しましてもすばらしく、3学年に分かれていますが実に良く統制がとれています。技術面では、これはもう皆さん始め聴衆者の方がすでにおみとめになっていると思いますが、大変上達が速いんです。私達スタッフ一同が一番感心することは、録音が終わってから全員起立して私達スタッフ全員に丁寧に挨拶して下さる。こんな事は、私達放送にたずさわってから初めてです。ただ恐縮するばかりでなく、その純真さに打たれますと同時に、唯たんに仕事を通じての関係だけでなく、スタッフ一同一番楽しみにしているプロなんです。』(原文ママ)

ラジオ放送は、その後、1972年(昭和47年)4月に、FM大阪の「モーニング・ブラス」(阪急百貨店提供)に移行し、演奏は音質のいいステレオで放送されるようになった。

創立当時の“阪急少年音楽隊”の名称は、1969年(昭和44年)に正式な校名が“阪急商業学園”となった後も、放送を含め、バンドの愛称として幅広く使用された。

当初、男子だけのバンドとしてスタートした少年音楽隊だったが、1997年(平成9年)から女子だけの募集となり、やがて完全な女子校になることから、愛称も“阪急商業学園ウィンドバンド”に変更。2004年、学園が阪急から向陽台高等学校吹奏楽コースに移管されるまで使用された。(2009年以降は、早稲田摂陵高等学校ウィンドバンド)

兄貴分にあたる職場バンドの雄“阪急百貨店吹奏楽団”の設立は、実は少年音楽隊の発足3年後の1960年(昭和35年)のことで、その合言葉は「職場に明るい音楽を」。少年音楽隊第一期生が卒業した年に当たるが、阪急百貨店のクラブ活動として、少年音楽隊出身者でなくても社員であれば誰でも参加できるバンドとなった。

そして、常任指揮者は、もちろん鈴木さん。

余談になるが、日本経済新聞社編集委員の井上文夫さんが、関西の音楽団体に直接取材した著作「 関西音楽草の根まっぷ 」(日本機関紙出版センター、1988年2月25日発行)の“阪急百貨店吹奏楽団”の項には、以下の引用にあるようにとても面白いことが書かれてある。

『楽団の常任指揮者鈴木竹男は、音楽隊(阪急少年音楽隊)の隊長でもある。鈴木は師の朝比奈 隆が阪急電鉄社員だった縁で、棒を振るようになり、六四年(1964年)に朝比奈から「楽団は任せたよ」と免許皆伝に。』(原文ママ / カッコ内注釈は筆者)

全関西吹奏楽連盟理事長だった朝比奈さんと吹奏楽との関わりの一端を知りうる貴重な証言だ。

もちろん、鈴木さんが“免許皆伝や!”と話されるのを、筆者を含め、多くの者が聞いていた。また、コルネットなどもうまく活用し、鈴木さんが目指した“ヨーロッパ的な響きを”というテーマも、朝比奈さんが自身のオーケストラで取り組んだ“音作り”と共通するものが感じられる。正しく直伝だ!

その阪急百貨店吹奏楽団も、村上ファンドによるM&Aの煽りを受けて、阪急百貨店が長年のライバルの阪神百貨店と統合されることになり、2008年(平成20年)10月1日、“阪急阪神百貨店吹奏楽団”に名称変更された。

時の流れを押し留めることはできない。しかし、変わらなくてもいいものまでどんどん壊されていくように感じるのは、ひとり筆者だけだろうか!

鈴木さんには、梶本りん子マーチングスタジオにいた弟ともども、いろいろお世話になった。

若い世代と向き合うことの好きな人物で、「記念写真集」を頂いたときも“中身は好きに使っていい”と、こちらがあっけなく感じるほど、気さくに許しをいただいた。

そのアツい眼差しは、かつて毎朝のように聴いた“阪急少年音楽隊”の心地よいサウンドとともに、今もしっかりと記憶に焼きついている!

▲阪急百貨店 阪急少年音楽隊第6回定期演奏会(1965年2月26日、毎日ホール)(記念写真集から)

▲阪急百貨店 阪急少年音楽隊第13回定期演奏会プログラム

▲第13回定期演奏曲目

▲阪急百貨店 阪急少年音楽隊第14回定期演奏会プログラム

▲第14回定期演奏曲目

▲井上文夫著「 関西音楽草の根まっぷ 」(日本機関紙出版センター、1988年)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第76話 ヤン・ヴァンデルローストのメモ

▲ヤン・ヴァンデルロースト(2018年9月30日、飛騨芸術堂)(提供:月刊さるぼぼ)

▲高山市民吹奏楽団創立50周年記念誌(2018年6月発行)

▲高山市吹50周年の特集記事が組まれた「月刊さるぼぼ」(2018年11月号)

2018年(平成30年)9月29日(土)、モーレツな暴風域を伴った台風24号が日本列島を窺う中、筆者は、オープン・キャンパスが開かれている名古屋芸術大学を訪れていた。

2日前、教授の竹内雅一さんからの電話で、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の来学を聞かされていたからだ。ヤンは、同大学の名誉教授でもある。

実はこの時、ヤンには、訊かねばならない質問が山のようにあった。しかし、午前中のウィンド・オーケストラのリハを終え、3人で昼食をとったとき、こちらが何かを切り出す前に、彼はポケットから何やらメモのようなものを取り出しながら、こう言った。

『ちょっと相談にのって欲しいことがあるんだ….。』

(こういうノリの“相談”が、実は怖い!)

ペン書きのメモには、何やら箇条書きのような文字が並んでいた。

『明日、タカヤマで50周年委嘱作のリハーサルをやるんだけど。まだタイトルが固まっていないんだ…。』

(ほーら、きたきた!)

ヤンの言う“タカヤマ”とは、春・秋に行われる有名な“高山祭”で知られる岐阜県高山市で活動する“高山市民吹奏楽団”のことだ。記念演奏会は、竹内さんの指揮で、11月18日(日)に予定されていた。

バンド創立以来のメンバーもプレイする、そんなこのバンドと付き合いが始まったのは、ヤンのジングシュピール「むかしむかし…(Es War Einmal…)」日本語版の世界初演プロジェクトが立ち上がった2014年のことだった。(第34話、参照

そして、同公演(2016年9月18日、高山市民文化会館)を満員札止めの大成功に導いた飛騨高山文化芸術祭実行委員会会長の大萱真紀人さんが、実は高山市民吹奏楽団の理事長でもあった。

頂戴した「高山市民吹奏楽団創立50周年記念誌」に、団長の原田政彦さんが書かれている“市吹半世紀の時を刻む”という挨拶文を拝見すると、このバンドは、1968年(昭和43年)に高山ウインドアンサンブルの名で誕生。その翌年の1969年に現在のバンド名に改称し、今日に至っているという。

“我々団員は、吹奏楽を通して団員各自の教養と情操を高め、団員相互の理解と親睦を深めるとともに、地域社会の文化発展と国際交流に寄与しよう。”という、活動の理念としてまとめられた綱領がすばらしい。

その言葉どおり、“仲間と、音楽と、地域と・・・”と綴られる50年の活動をみると、1994年、2000年、2014年の3回に渡って、高山の姉妹都市デンバー(アメリカ合衆国コロラド州)を公式訪問。コンクール出場をめざすのではなく、この地域の吹奏楽祭を主催したり、コンクールの運営協力を行うなど、積極的に地域と係ってきた。

また、高山の子供たちにいいものを聴いてもらおうと、エリック・ミヤシロ、津堅直弘、田中靖人、小田桐寛之、露木 薫など、ポップからクラシックまで著名なソロイストが招かれ、客演指揮者にも、アルフレッド・リード、ヤン・ヴァンデルロースト、ヤン・デハーン、岩井直溥など、多彩な顔ぶれが招かれてきた。

とくに“ニュー・サウンズ”でおなじみの岩井さんとは、1993年(平成5年)からほぼ20年にわたって定期演奏会での共演が続き、このバンドに関わるすべての人々の音楽的財産となっている。

円谷プロの協力を得て、ウルトラマン、ウルトラセブン、ウルトラマン・ジャック、ウルトラマンタロウ、バルタン星人、レッドキングが出演したことまであった。

話を元に戻そう!

ヤンは、曲名のアイデアが書かれているメモを見せながら、こう続けた。

『明日のリハーサルの後、タカヤマのみんなと曲名について議論することになっているんだけど、議論のまとめ役をしてほしいんだ。』

(“一緒に高山に行ってくれ”というわけ?)

ヤンはまた、『英語の出版タイトルには、最終的に“ネイティブ”(アメリカ人の責任者)のチェックが入るんだ!』とも言う。

これにはさすが驚いた!

アメリカとヨーロッパでは、英語の単語1つをとっても、発音だけでなく、意味やニュアンス、使われ方が違うことが多いからだ。こんなところにまで、アメリカン・スタンダードが押し出してくるのか!

第一、“作曲家に自由な曲名の裁量権がない”なんて!?

すぐ演奏課に戻り、ホテル情報をチェックしてもらうと、台風直撃予想のためか空室が多く、アッという間に高山行きが決定! オープン・キャンパス終了後、3人で高山に向かうことになった。

9月30日(日)、ヤンが指揮をした“飛騨・世界生活文化センター 飛騨芸術堂”(高山市千島町)でのリハーサルは、“飛騨 地域みっちゃく生活情報誌「月刊さるぼぼ」”の取材も入り、とても充実したものとなった。

これまで何度も高山を訪れ、この町の風土や歴史をよく噛みしめていたのであろう。ヤンは、冒頭部分に特に感情移入し、まるで日本人作曲家が書いたようなピッコロ・ソロ(もしくは、ソリ)のメロディーを書いていた。それは、和音階(和のペンタニック)を見事に消化し、和楽器の篠笛に持ち替えてもいいほど、和に同化していた。実際、高山祭では“祭笛”が大活躍する。

中間あたりでは堂々とした展開が聴かれる。曲を書いた本人は、『ここは高山を支配した“将軍”の権威をあらわしている…。』と説明してくれたが、『高山は、確かに天領(幕府直轄領)だったが、“将軍”が暮らしたのは江戸(今の東京)だった。』と言うと、大笑い。彼も『それじゃ、ここはこの地方を治めた“支配者”の権威ということにしよう。支配者はいたんだろう?』と、なんとか“落としどころ”を見つけて一件落着。ただ、ヤンに“天領”とか“代官”、“郡代”を理解させることは、とうてい不可能なことのように思えた。

また、曲には、直接的な引用ではないが、祭りのイメージも随所に盛り込まれ、ヤンが曲名から、アルファベットの“TAKAYAMA”という文字だけははずせないと言った理由もよく理解できた。

ヤンがあまりにも見事に和音階を取り込んだ音楽を書いてきたため、リハーサル後の食事会を兼ねたミーティングでは議論百出!日本文字の“宴”とか“祭”を曲名にできないだろうか、という意見まで出た。

他方、曲は、高山市吹50周年の祝典曲の性格も担っていた。ヤンのメモには、「TAKAYAMA ~」という候補がいくつも書かれ、その最上部に「CELEBRATION」という文字があった。ヤンもかなり前向きだったことから、この日は、意見集約の第一案として、臨機応変にこの2つの意味を組み合わせ、サブに「U-TA-GE」とするのはどうだろうかとヤンに提案した。もちろん、“ネイティブ”がどう言うかはまったく気にせずに!

次の日の10月1日(月)、朝起きると、台風24号の被害のため、交通網は大混乱。帰路は、午後になってやっと動き出した高山本線の特急「ひだ14号」となった。

その車中、車窓を流れる景色と、聴いたばかりのヤンの新作の印象が重なり何度も何度もリフレインする。そのとき、不意に『高山の印象』という日本語が頭をよぎった。英語に訳すなら、「Impressions of Takayama」もしくは「Impressions from Takayama」という感じになるかも知れない。

(曲想ともマッチングする!第二案は、これでいくか!)

その後、第一案を持ち帰ったヤンからも、出版社とのバトルを終え、メールが入った。

そこには、こう書かれていた。

『TAKAYAMA IMPRESSIONS』

2人は、同じことを考えていた!

▼リハーサル風景(2018年9月30日、飛騨芸術堂)(撮影:竹内雅一) 

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第75話 大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」こぼれ話

▲大栗 裕

▲大フィルから届いた社告(1956年5月16日(水)神戸新聞朝刊7面)

▲神戸新聞会館完成広告(1956年5月12日(日)、神戸新聞朝刊10面)

『神戸新聞会館完成記念の新聞記事をお送りします。年月日が記載されていないのが残念ですが、真実とは感動的なものですね….。』

大阪フィルハーモニー協会楽団事務局の今田徹也(こんた てつや)さんから、上記のような書き出しのFAXが届いたのは、2005年(平成17年)10月13日(木)の夜のことだった。

それは、過日、こちらから調査を依頼したことへの回答として送られてきたもので、FAXの発信時刻は、19:55だった。届いたFAXの2ページ目には、大阪フィルハーモニー交響楽団のスクラップ・ブックから直接コピーされた神戸新聞社、神戸新聞会館連名の社告がそのまま送られてきていた。

社告とは、新聞社が自社の事業や新刊等を紙面で告知するためのものだ。この日FAXで受け取ったそれには、「神戸新聞会館完成記念 関響グランド・コンサート」という見出しの文言が踊っていた!

今田さんが“年月日が記載されていないのが残念”と書いてきたのは、社告掲載日が不明という意味で、それは新聞紙面から社告だけを切り抜いて、スクラップされていたことに起因する。あらためて調査の要がある。

しかし、それにしても、よく現物が残されていたものだ!

社告にある“関響”は、1947年に大阪で誕生した関西交響楽団(現大阪フィルハーモニー交響楽団)の名を短縮した愛称だ。大阪フィルに改称されたのは、1960年。なので、この社告は、少なくとも改称前に紙面に掲載されたものであることが明らかとなった。

社告は、こう告げる。

『神戸新聞会館落成記念事業のトップを飾る“関響グランド・コンサート”は音響効果を誇る大劇場で朝比奈隆氏が指揮をする関響フルメンバー百名の演奏と世界の音色で知られる名器「グロトリアンスタインウェイ」ピアノで帰国後最初の神戸公演を原智恵子女史の特別出演で開かれる。なお朝比奈氏はベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の招待による再渡欧のため三十日出発するので、この演奏会が日本で行う最後のものとなります。』(原文ママ)

演奏会の日時は、5月28日(月)午後6時半からで、会場は、神戸新聞会館大劇場。

告知された曲目は、以下のとおりだった。(曲名、作曲者名は、原文ママ)

◇楽堂祝典(ベートーヴェン)
◇新世界交響曲(ドボルシャック)
◇ピアノ協奏曲第一番(ショパン)
◇大阪俗謡による「幻想曲」ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に捧ぐ(大栗裕)[本邦初演]

社告は、1956年(昭和31年)5月28日、渡欧直前の朝比奈 隆が、旧神戸新聞会館の“こけら落とし”の演奏会の指揮をすること、そして、同じ演奏会で、ベルリン・フィルに捧げるために作曲された大栗 裕の『大阪俗謡による幻想曲』が初演されることを伝えるものであった。

ここでいきなり時間が飛ぶが、筆者は、1992年(平成4年)12月2日(水)、大阪府枚方市樟葉にあるご自宅に作曲者の奥さん、芳子夫人をお訪ねしていろいろと話を伺う機会を得ている。そのとき、この演奏会についても質問を試みたが、夫人はこの日のことをとてもよく覚えておられ、以下のような明快な回答を得た。

『そういえば、パパの曲で朝比奈先生に呼ばれて1度だけ神戸へ行ったことがありました。とても新しいきれいなホールでした。おそらく、それがこの時だったのでしょうね。』

演奏会の11日前、5月17日に落成式が行われた旧神戸新聞会館大劇場は、当時、座席数二千と謳われた神戸市内屈指の大ホールだった。しかし、1995年(平成7年)1月17日(火)の午前5時46分に発生した阪神・淡路大震災で全壊の被害を受けたため、残念ながら取り壊されて今は無い。跡地には、新しい神戸新聞会館(ミント神戸)が建つ。

しかし、朝比奈さんが大栗さんに作曲を依頼した『大阪俗謡による幻想曲』の初演が、旧神戸新聞会館で行われたことだけは、紛れも無い事実となった。

筆者がそのことに留意するようになったのは、1973年(昭和48年)5月25日(金)、フェスティバルホールで行われた「朝比奈 隆 音楽生活40周年演奏会」(出演:大阪フィル、大阪市音楽団、大阪府音楽団ほか / 演奏曲:第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲、参照)を聴きにいって、プログラムに大野敬郎さん(音楽クリティッククラブ)が書かれた“曲目をめぐって”というノートを読んだときだった。

その一部を引用すると、そこにはこう書かれてあった。

『朝比奈・大阪フィルと縁の深い作曲家が大栗裕。かって、大阪フィルのホルン奏者として活躍しており、作品の初演もこのコンビによっている。つい先日も、フラワー・バレエ「花のいのち」が初演されている。「大阪俗謡による幻想曲」が初演されたのは、昭和31年5月、大阪フィルの前身関西交響楽団によってである。彼の作品には、関西の民謡を素材にしたものが多く、この曲も天神祭のダンジリ、生国魂神社のししまいの笛・はやしによっている。31年、朝比奈がヨーロッパに演奏旅行をした際、ベルリン・フィルを指揮してこの曲を演奏し、好評を得ている。』(原文ママ)

初演は、世間でよく言われていたベルリン・フィルではなかったのだ!

その後、作曲者の没後10年にあたる1992年に、大阪市音楽団演奏のCD「大栗 裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195)のプログラム・ノートを書くことになった筆者は、まず大野さんのこの記述を思い出した。あらためてチェックすると、作品集CDのノートとするためには、記述されている情報の他に、少なくとも、完全な初演日、演奏会場名称、演奏会名称の各データを補強する必要があるように思えた。そこで、大阪フィルに調査を依頼。朝比奈さんが“調べ魔”と呼ぶこともあった小野寺昭爾さん(現大阪フィルハーモニー交響楽団 顧問、元事務局長)の尽力により、それらは「初演日:昭和31年5月28日、会場:神戸新聞会館、演奏会名:関響グランド・コンサート」であると判明した。

しかし、つねに精度を高めるため、どんな事実にもいつも検証が必要だ。

冒頭の今田さんへの依頼は、2005年11月16日(木)、ザ・シンフォニーホールで開かれた「創立90周年 大阪音楽大学第37回吹奏楽演奏会 大栗 裕の世界」のプログラム・ノートの執筆の依頼を受けたとき、以前に書いたノートに使った全データを再検証する作業の流れの中で行なった。

小野寺さんが13年前にチェックされた原資料が、いったい何であったのかを確認するためだった。

その結果、発掘されたのが前記の“社告”だった。(後日、これは、1956年5月16日(水)朝刊7面に掲載された社告であることも判明した。)

そして、もう1つ、1992年に書いた東芝CDのノート執筆後に、新たに判明したことがあった。

それは、1955年の作曲当時、この作品のオリジナル・スコアやパート譜には、「Fantasia“Osaka”」もしくは「Fantasia“大阪の祭囃子による”」のような曲名が手書きされていたことだった。

手書きタイトルは、楽譜ごとに微妙に違っていたが、それらを日本語曲名として整理すると、作曲者は、当初、曲名を「大阪の祭囃子による幻想曲」にしようと考えていたことが明らかだった。

大阪市内の中心部に暮らす筆者のような人間には、天神祭の“鉦(かね)”や生国魂神社の獅子舞の“お囃子”を取り込んだこの作品は、「大阪の祭囃子による幻想曲」と呼ばれるほうが実はピンとくる。

もちろん、社告のとおり、初演時には、曲名はすでに『大阪俗謡による「幻想曲」』となっていたので、音楽史上、「大阪の祭囃子による幻想曲」が邦題としてプログラムを飾ることはなかった。

しかし、朝比奈さんがヨーロッパに持参し、演奏後、ベルリン・フィルに寄贈され、同楽団のアルキーフの所蔵となった手書き譜には、「Fantasia“Osaka”」あるいは「Fantasia“大阪の祭囃子による”」などが書かれたままだった。

幸いにも、現物を確認できた者として、ぜひにも多くの記憶に留めたいと思う。

また、曲は、作曲過程で、朝比奈さんのリクエストで何度か書き換えられている。現代風に言うなら、作品はコラボレーションを経て完成されたわけだ。そのため、作曲者の手元や写譜の現場には、スケッチや断片、破棄された楽譜の類いが残されることとなった。これは後に大きな意味をもつことになる。

21世紀の現時点からすると、想像すらできないだろうが、コピー機もスキャナーもなかったこの時代、演奏で使われる楽譜は、実際に版を起こして作る“印刷譜”以外、すべてが手書きだった。スコアからパート譜を起こしたり、オーケストラのプルトにしたがってパート譜を手で書き増す“写譜屋”という職業が成立した時代だった。

従って、朝比奈さんが「関響グランド・コンサート」での初演に使ったスコアもパートもすべて手書きで、それが演奏に使える唯一の楽譜だった。前記のとおり、この《原典》が、ベルリン・フィルの所有となった。

作曲者は、その後、少なくとも1958年までの間に、必要に迫られ、残された楽譜や作曲時の記憶から作品を再構築した。それが、大フィルが1970年頃まで演奏に使った《第二版》である。

しかし、この《第二版》は、その後、“やっぱり違う”と感じた作曲者が大フィルのライブラリーから持ち帰り、記憶違いと思われる箇所の修正や音楽的補正を加えた現行の《第三版》が1970年に作られた。

大阪市音楽団の委嘱で書かれ、1974年(昭和49年)5月30日(木)、毎日ホールで開かれた「第28回大阪市音楽団定期演奏会」で、永野慶作の指揮で初演された「吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”」は、管弦楽版の《第三版》をベースに作られている。

以上のように、大栗 裕の『大阪俗謡による幻想曲』には、小改訂を除くと、3つの管弦楽版と1つの吹奏楽版が存在する。

その後、ベルリンの《原典》は、朝比奈さんのリクエストによって一時帰郷が叶い、1999年(平成11年)11月11日(木)、フェスティバルホールで開催された「大阪フィルハーモニー交響楽団 第333回定期演奏会」で、外山雄三の指揮で演奏され、大きな話題となった。

同演奏会のプログラムには、つぎのような注釈が書かれている。

『本日演奏します「大阪俗謡による幻想曲」は、ベルリン・フィル所有の楽譜を使用致します。大栗氏はベルリン・フィルにこの曲を献呈された後、メモを基にスコアを再製されたのですが、改めて照合してみますと、かなりの部分で相違がありました。本日はオリジナル楽譜での演奏としてお楽しみ下さい。』(原文ママ)

やはり、オリジナルは違っていた!

そして、これもまた、音楽の歴史の一頁である!!

▲第28回大阪市音楽団定期演奏会プログラム

▲同、演奏曲目

▲第28回大阪市音楽団定期演奏会(1974年5月30日(木)、毎日ホール)

【関連楽譜】

■吹奏楽のための大阪俗謡による幻想曲(自筆譜に基づく 原典版) 全曲版
https://item.rakuten.co.jp/bandpower-bp/set-0106/

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第74話 「月刊吹奏楽研究」と三戸知章

▲ 「神奈川県吹奏楽連盟創立50年記念 月刊吹奏楽研究 復刻版(昭和28年10月15日創刊)」(2004)

▲「月刊吹奏楽研究 復刻補完版」

▲「全日本吹奏楽連盟70年史」(社団法人全日本吹奏楽連盟)(2008)]

『例の、“吹奏楽研究”の雑誌になる前の話なんですが、いろいろ(な人と)話をしましたら、関東のどこかの連盟が記念事業として復刻したことがあったらしいんです。』

全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんから、まるで“トレジャー・ハンター”が“お宝”の噂話を聞きつけた時のように興奮した電話が入ったのは、2018年11月のことだった。

“吹奏楽研究”とは、第39話の「ギャルド:月刊吹奏楽研究が伝えるもの」や、第61話の「U.S.エア・フォースの初来日」などでお話した第二次大戦後に日本で初めて発行された吹奏楽専門紙で、後に内容を拡充して吹奏楽専門誌になった「月刊吹奏楽研究」のことだ。

発行元は、東京の“月刊吹奏楽研究社”で、1953年の創刊当初は、タブロイド版の“月刊新聞”としてスタート。1956年5月号(通巻31号)から雑誌に姿を変え、1964年3月号(通巻87号)まで刊行された。

雑誌時代のものには、国立情報学研究所の書誌番号(NCID)も与えられている。1959年創刊の“バンドジャーナル”誌(音楽之友社)より6年スタートが早い。

しかし、現在、全国の図書館の所蔵データにアクセスしても、蔵書数が日本一といわれる国立国会図書館にも所蔵はなく、全国で唯一、東京文化会館音楽資料館が25冊を所蔵しているだけだった。

残念ながら、雑誌は、どの図書館でも、一定期間を過ぎるとほとんどが破棄される傾向にあり、それは何も「月刊吹奏楽研究」に限った話ではなかった。

そこで、2018年、筆者は、どこかに眠っているであろう現物を求めて、知人、友人に“ウオンテッド(WANTED)”を立て続けに発信!

元東京佼成ウインドオーケストラのユーフォニアム奏者の三浦 徹さんをはじめ、前記の溝邊さん、たわらもと吹奏楽団(奈良県田原本)の団長、藤本義則さん、天理大学学務部長の佐々木孝幸さん、天理高校吹奏楽部の吉田秀高さんなど、多くの人々の協力を得て、1冊を除き、雑誌として発行された通巻31号以降のほぼすべての「月刊吹奏楽研究」に目を通すことができた。

そして、現物を実際に目にした時、紙の上の“事実”にただただ圧倒された!

メディアとしてのスタート時点が相当違うから当然だが、「月刊吹奏楽研究」に印刷されている情報の多くは、ネット上にはまったく存在しない。今ではほとんどが忘れ去られてしまったことばかりだ。

あらためて活字の力のすごさを実感した。

しかし、筆者の“ウオンテッド”に呼応した多くの人々の献身的な努力にもかかわらず、雑誌になる以前に発行されていたタブロイド版(通巻1号~30号、号外)の消息は、なかなか掴めなかった。

冒頭の溝邊さんの電話は、それらが見つかるかも知れないという連絡だった!!

氏はさらに、懇意にされている千修吹奏楽団の常任指揮者、井上 学さんが、実は、当時、復刻版を受け取っていたが、現在は“家庭内消息不明”になっているようだとも話された。

追跡は、もう少しで現物につきあたるかも知れないという寸前まで進んでいたのだ。

(これはどこかから出てくる可能性がある!!)

溝邊さんは、『“まなぶ(井上さん)”には、“絶対探せ!”って、言うてあります。(東京弁に翻訳:絶対に探し出せ!と指示してあります)。』と言われた。

その後、何日かして、再び溝邊さんから、元海上自衛隊東京音楽隊の谷村政次郎さんが復刻版をお持ちだとわかり、2週間に限って貸していただけることになったとの連絡が電話で入った。

溝邊さんの厳命を受けた井上さんが知人や関係者に当たった結果だった。

(関係各位には、大感謝だ!)

谷村さんが所有される「月刊吹奏楽研究」の復刻版は、その後“しばらく”して、井上さん、溝邊さんの手を経て筆者の手元に届いた。“しばらく”というのは、谷村さんから現物を受け取られた井上さんが、その中身のあまりの面白さに読みふけってしまい、少なくとも3日間、氏の手元で滞留したままになるという予想外の展開となったからだ。

井上さんにとっても、恐らく、まるで“未知との遭遇”のような内容だったのだろう!

思わず読みふけってしまった気持ちもよくわかる。

それはさておき、受け取った復刻版は、2004年(平成16年)12月5日、神奈川県吹奏楽連盟の創立50年記念事業として発行されたものだった。

“復刻”は、発行当時の原紙に一切手を加えず、そのまま複写(あるいはスキャニング)して原寸どおりの姿で製本するという丁寧な手法で行われていた。

復刻年の2004年は、オリジナルの発行元“月刊吹奏楽研究社”が活動をやめてから、ちょうど40年という節目の年。商業出版物としての著作権が完全に消滅する前だけに、“復刻版”の表紙にも“月刊吹奏楽研究社”の社名が印刷されていた。

“復刻”の実際にあたっては、各地に点在する“原紙”を集め直したようだ。

しかし、1955年(昭和30年)4月1日発行の「通巻18号」、同12月1日発行の「通巻26号」、1956年(昭和31年)1月15日発行の「号外」の3号は、なかなか見つからず、記念事業の“復刻版”の締め切りに間に合わなかったようだ。そのため、後日それら3号をまとめた“復刻補完版”が別に作られた。

そのような事情から、復刻版は、「神奈川県吹奏楽連盟創立50年記念 月刊吹奏楽研究 復刻版(昭和28年10月15日創刊)」と「月刊吹奏楽研究 復刻補完版」の2分冊に分かれている。

分冊にはなったが、“復刻”は、当時の神奈川県吹奏楽連盟がやり遂げた本当に価値ある仕事だ!

そして、そのコンテンツは、同紙創刊時にはまだ全日本吹奏楽連盟が存在しなかった、そんな時代の日本の吹奏楽の活動をありのままに伝える、まるで“タイムカプセル”のような存在だった!

ところで、「月刊吹奏楽研究」が大きく“全日本吹奏楽連盟”について触れたのは、1954年(昭和29年)1月15日発行の「通巻4号」に掲載された「社説 希望に輝く昭和二十九年 全日本連盟の結成に協力せよ」という、編集主幹の三戸知章さんが書いたその文中においてだった。

三戸さんは、社説の中で、『わが月刊吹奏楽研究社は今回の全日本吹奏楽連盟の結成に全面的に協力しこれが結実をはかるものであるが、特に全日本連盟は、全國千を越えるすべての吹奏楽團を全部網羅包含して名実共に打つて一丸とした強力なものたらしめたいのである。』(原文ママ)と檄をとばしている。

同紙は、その後も、「昭和二十九年度吹奏楽 大方針大要決定」(1954年2月15日発行 / 通巻5号)、「全日本吹奏楽連盟結成準備着々進む」(1954年6月1日発行 / 通巻8号)と続報記事を掲載。全日本連盟結成に向けての動きを刻々と伝えるとともに、関東吹奏楽連盟や全関西吹奏楽連盟など、各連盟が独自に行なっている吹奏楽祭やコンクールを詳報。まるで、吹奏楽連盟の機関紙のような役割までこなしていた。

そして、1954年(昭和29年)12月1日発行の「通巻14号」で、ついに「全日本吹奏楽連盟 全国待望裡に結成さる」という記事を掲載!!

引用すると、それは以下のような内容だった。

『菊花咲き乱れる十一月十四日に東京芸大奏楽堂で催された一九五四年度吹奏楽コンクール終了後、引きつづいて、全日本吹奏楽連盟結成式が挙行された。

これは昨年十一月十五日のコンクール当日上野公園明月園で催された東西吹奏楽関係者懇談会で決定され、その後準備中であつたもので、遂に今回その結成式挙行のはこびとなつたことは、躍進をつづけるわが国吹奏楽将来の発展のため大いに慶祝されなくてはならない。

当日は関東吹奏楽連盟各役員および関係者全員の外、大阪から辻井市太郎、東信太郎、菅野圀太郎、山口 貞、伊藤信雄、矢野清、竹本義弘、九州から長崎市警の磯田有志朗、北海道から室蘭富士鉄の高橋沢五郎、東海連盟理事山本誘の諸氏が列席、無事結成終了。理事長に堀内敬三(関東連盟理事長) 副理事長に神納照美(東海連盟理事長) 朝比奈隆(全関西連盟理事長)の諸氏の就任が決定、事務所を朝日新聞東京本社企画室に置き 今後吹奏楽を通じて日本文化の向上、国民情操の陶冶、吹奏楽の普及及発展のための一大運動展開の巨歩を進めることになつた。

組織及び事業その他に就ては今後具体的に協議するが、とにかくその結成を見た全日本連盟の前途の多幸を祈るのである。』(原文ママ)

少々時代がかった書きっぷりながら高揚感を伴うその文体から、この記事は、間違いなく社説と同じ三戸さんが執筆したものであろう。

以上を、2008年(平成20年)に出版された「全日本吹奏楽連盟70年史」(社団法人全日本吹奏楽連盟)とクロス・レファレンスすると、結成式が行われた会場が「日本青年館」だったこと以外、新しい事実はとくに出てこなかった。他方、主たる出席者の顔ぶれや当日の集合写真、結成に至る経緯などは、1953年以降、現場取材を継続した「月間吹奏楽研究」の独壇場だった。

だが、「全日本吹奏楽連盟70年史」にも、1972年(昭和47年)11月5日、普門館(東京)で催された第20回全日本吹奏楽コンクールの席上、第20回を記念して“特別に全日本吹奏楽連盟の発展に功績のあった方々”の1人として、三戸さんが連盟から感謝状を贈呈されたことが記録されていた。

「月刊吹奏楽研究」の紙面だけでなく、全日本吹奏楽連盟結成のバック・グラウンドやその後の発展に大いなる貢献があったからだろう。

今日、“三戸知章”の名は、共同音楽出版社から出版されていた多くの吹奏楽曲の編曲者としてオールド・ファンの記憶に留まるのみである。しかし、氏は、全日本連吹奏楽連盟の結成当時、吹奏楽のアレンジャーとしても、ジャーナリストとしても、間違いなく日本の吹奏楽の中心的人物の一人だった!

茶色く変色したり、劣化してボロボロになることもあるが、記録媒体としての紙と活字の力は絶大だ!

「月刊吹奏楽研究」が伝えた歴史の一頁!

それは、時間の流れの中に忘れ去られようとしていた史実を正しく今に伝えてみせたのである!


▲「月刊吹奏楽研究」(昭和28年10月15日、創刊1号、1面)

▲「月刊吹奏楽研究」(昭和29年12月1日、通巻14号、2面)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第73話 フィリップとロジャーの再会

▲「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」のチラシ

▲「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」のプログラム

▲オオサカ・シオンにて(2019年1月17日)

▲オオサカ・シオンにて(2019年1月17日)

2019年1月14日(月・祝)、大阪の空の玄関口、関西国際空港(KIX)にイギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)が降り立った。

週末の1月19日(土)、ザ・シンフォニーホールで開催される「大阪音楽大学第50回吹奏楽演奏会」の客演指揮をつとめるためだ。

フィリップが大阪音楽大学吹奏楽団のステージに立つのは、2年前の2017年3月4日(土)、フェスティバルホールで開催された「第48回吹奏楽演奏会」(第7話:スパーク“ウェイ・トゥー・ヘヴン”とロイヤル・エア・フォース」、参照)以来、これが2回目。来阪は、6ヶ月前の2018年6月3日(日)、ザ・シンフォニーホールで開かれた「オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ第120回定期演奏会」(第45話:祝・交友30周年 ~スパークとイーグル・アイ、参照)を客演指揮して以来のことだった。

これで、大阪では過去4年間に5度登場!すごい頻度だ!

今回、フィリップと大阪音大が取り組んだプログラムは、2011年6月17日(金)、めぐろパーシモンホール(東京)で行われたTADウインド・シンフォニーによる日本初演(指揮:鈴木孝佳)以降、東京吹奏楽団、オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラが定期演奏会で取り上げ、ジワリジワリと存在感を高めている交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」をフィナーレに据えたものだった。

・マドリガルム
Madrigalum

・エンジェルズ・ゲートの日の出
Sunrise at Angel’s Gate

・スピリット・オブ・アンダルシア
Spirit of Andalusia

・3つのワシントンの彫像
Three Washington Statues

・天と地をめぐりて~ガブリエル・フォーレに基づく創作主題による協奏変奏曲
Moving Heaven and Earth ~Concertante Variations on an Original Theme (after Gabriel Faure

・インヴィクタス~征服されざるもの
Invictus ~The Unconquered

・交響曲第2番「サヴァンナ・シンフォニー」
Symphony No.2 – A Savannah Symphony

この発表時、ひょっとすると、「ドラゴンの年(The Year of the Dragon)」や「宇宙の音楽(Music of the Spheres)」、「祝典のための音楽(Music for a Festival)」、「オリエント急行(Orient Express)」、「ウィークエンド・イン・ニューヨーク(A Weekend in New York)」といった、日本でもすっかりおなじみとなっているスーパー・ヒットを一切含まないこのプログラミングに、一瞬“あれ?”と思ったファンもいたかも知れない。

しかし、フィリップにとって、今回は、初顔合わせで好感触を得た大阪音大のバンドとの2度目の共演。そのプロには、“今度はぜひ、今のフィリップ・スパークを表現したい”という強いメッセージが込められていた。

言い換えれば、多作家として知られるフィリップが近年の自作品からとくに厳選したレパートリーで構成した“お気に入り”のプログラムだった。同時に、作曲者とプログラムの摺り合わせを行ない、来日前の下棒をつけた同大特任准教授、伊勢敏之さんのポジティブなジャッジメントの成果でもあった。

大阪は、1993年11月8日(月)、大阪厚生年金会館中ホールで開催されたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の「ライムライト・コンサート6」(第4話:スパーク・コンダクツ・スパーク、参照)以来、日本でもっとも数多く“フィリップの客演指揮による自作自演”が行われてきた町だ。

「オリエント急行」や「宇宙の音楽」ウィンドオーケストラ版など、大阪で日本初演や世界初演が行われた新作の多くがこの町から日本国内へと発信されていった。

今回のフィリップ招聘を企画した同大教授の木村寛仁さん(ユーフォニアム)や前記の伊勢さん(トロンボーン)も、かつて、この町でものすごい人気を誇った“ブリーズ”のスター・プレイヤーであり、日本でもっとも数多くフィリップの作品を手がけてきた音楽家だった。また、現在のオオサカ・シオン・ウインド・オーケストラにも、フィリップと共演を重ねたプレイヤーは多い。

それだけに、友人の多い大阪に滞在し、指揮をするときのフィリップは、いつも、まるでホームであるような感覚で音楽を愉しんでいる。大阪人の気さくで開放的な性格や、市民生活に“お笑い文化”が溶け込んだ明るい町の雰囲気もお気に入りで、当然イングリッシュ・ジョークも連発する。

一方で、大阪の音楽ファンも、彼の新作をこぞって受け入れてきた。

当然、今回のプログラミングも、“あたらしもんずき”(東京弁に翻訳:新しいもの好き)の大阪という土地柄を強く意識してのものとなっていた。

終演後のパーティーで同大副理事長の本田耕一さんに伺うと、席が足らなくなって200名近い聴衆の入場をお断りしなければならない事態となった第48回演奏会と同様、第50回演奏会のチケットの売れ行きもたいへん好調で、実売1500席を超えた時点で慌てて発券をストップしなければならないほどの勢いだったそうだ。

フィリップの作品や指揮にはじめて接した学長の本山秀毅さんも、『自然体というか、(音楽もしぐさも)とてもナチュラルな印象を受けました。』と言われた。それに応えて『彼とは30年を超えるつきあいですが、近年は間違いなくマーラーをリスペクトしています。』とお話しすると、さかんに頷かれていた。

<アンコール>には、「陽はまた昇る(The Sun Will Rise Again)」と「マーチッシモ(Marchissimo)」の2曲が演奏され、コンサートは大成功に終わった。この内、「陽はまた昇る」は、2018年6月18日(月)に大阪を見舞った大阪北部を震源とするM6.1の大きな地震からの復興を祈念して、大学側からとくに要望された曲だった。震源に近いところは、今もってブルーシートが多い。

その日、東海道新幹線に乗っていた筆者もひどい目に遭った。

フィリップのメンタルの上でも、今回の来阪は、いつもとは状況が違っていた。

前記地震の3ヵ月後の9月4日(火)、大阪は、未曾有の暴風のため、関空連絡橋に衝突したタンカーが橋を破壊する騒ぎとなった猛烈な台風21号の直撃を受けた。

そのニュースは、海外でも大きく報じられたようで、筆者のもとにも多くの友人、知人から安否確認のメールがつぎつぎと届き、フィリップからも、“キミ自身やオオサカ・シオンなどの友人たちに何事もなければいいんだけど…”と、メールが届いた。こちらも速攻で無事を知らせたが、街路樹がつぎつぎなぎ倒されて道が完全に塞がれている様子や、建物が吹き飛ぶ被害動画をいくつか添付したころ、“とにかく、無事でよかった!しかし、なんてことだ!!あの美しい大阪の町がこんなことになっているなんて…”と絶句。

今回の来阪は、その被災直後だった。それだけにコンサートにかける彼のモチベーションは、いつも以上に高まっていた。

一方、大阪音大の方も、例年3月に行われる吹奏楽演奏会を、フィリップのスケジュールに合わせて1月に変更した。第50回という“区切り”の演奏会を、どうしても彼とやりたいとする熱意の表明でもあった。

しかし、この変更は、筆者のスケジュール調整やその後の体調に少なからず影響を及ぼした。

普通に授業や試験がある時期だけに、コンサートに向けての合奏練習が、毎日同じ時刻に始まらず、夕刻スタートで午後9時まで組まれていたからだ。学内の調整もたいへんだったことは、容易に想像できる。

木村さんからは、事前に、初日(1/15)の練習や演奏会当日(1/19)のゲネの立会い、夕食のケアなどを委ねられていた。しかし、良質の牛肉を好むイギリス人のフィリップに合わせた適当な食事場所を午後9時半をまわった時間帯に見つけるのは意外と大変だった。チープな呑み屋なら、宿泊するホテル周辺にいろいろあるのだが、食事だけはできるだけ彼の好みに合わせてあげたかった。

そして、この時、同時にもう1つ、練習初日の1月15日にフィリップと筆者の共通の友であるコルネット奏者ロジャー・ウェブスター(Roger Webster)のソロ・リサイタルが大阪で行われることにも頭を悩ませていた。

ロジャーは、1990年にブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)が2度目の来日を果たした当時のプリンシパル・コルネット奏者で、長年にわたり、ロイヤル・ノーザン・カレッジ・オブ・ミュージックなどでも教鞭もとる名手。どんな難曲でもサラリと音楽的に演奏し、“ミスター・クール”との異名をもつ世界最高峰のコルネット奏者の1人だ。彼とは、国内外でコンサートを行い、レコーディング・セッションも行った。

そんな間柄から、本来、ロジャーが希望するなら、友人として来日をできるだけサポートしなければならないと思っていた。ロジャーもまた、来日をオーガナイズする東京のビュッフェクランポンに強くそれを申し入れていた。しかし、企業には企業側の論理があったのだろう。経営陣が日本人からフランス人に代わった同社からは、結局、何の連絡もなかった。そんな状況下では、当方は表立ってまったく動けない。日程上、ゲスト招聘が可能なアーティストに、彼の来日を知らせただけだった。頻繁にメールを寄こしたロジャーも、“キミに一度もコンタクトしないなんて、彼らはプロじゃない!”と怒りをぶつけていたが…。

ピンポイントで1月15日について言うなら、最大の問題は、ロジャーの大阪でのコンサートと木村さんに約束した大阪音大の練習時間が、完全に被っていることだった。

しかし、“今回は恐らく会えないかも知れないな”とちょっと弱気になっていたそのときだった。突然、「練習を終えたフィリップとともに、ロジャーの打ち上げを奇襲する」という閃きが頭をかすめた。

(これは、いけるかも知れない!)

そこで、大阪音大でフィリップと顔を合わせたとき、“今晩、サプライジングなアイデアがあるんだが…。”と切り出すと、フィリップも、まるでMr.ビーンのように目をキラキラさせながら、“サプライジングは大好きだ!そうか、ロジャーが大阪にいるのか!やろう、やろう!”とやる気十分!!

(一方で、筆者は、三木楽器開成館で行われているロジャーのコンサートに“忍び”を放ち、打ち上げがどこで行われるのか、粗方情報をつかんでいた。あとは、実行あるのみだ!!)

そして、この会話を隣で聞いていた木村さんも、話に割って入ってきて、“樋口さん、もうすぐホテルに戻るためにタクシーが来ます。その車で直接そこへ向かってもらっていいか、ちょっと訊いてきます。たぶんOKだと思いますが…。”と言いながら、コンサートセンターの責任者に了解を取りにいってくださる。このあたり、長年の付き合いがものをいう。“あうんの呼吸”とでも言えばいいのか!

結果、我々2人は、本田さん、木村さん、伊勢さん、そして吹奏楽団の多くの学生さんたちの盛大な見送りを受けながら、ハイヤーで大阪音大を意気揚々と出発!

見事、ロジャーの“奇襲”に成功した!!

日本語には“鳩が豆鉄砲を喰らったような”という表現があるが、ロジャーのいる場所を遠めから視認し、周囲に気づかれないようにその斜め後方から近づいて“ジャジャーン”と声をあげながら現れたときの彼の驚いた顔といったらまさしくそんな感じだった!近くにいる日本人関係者も、その場にフィリップまで現れたことに、口々に“エッ!なんで?(東京弁に翻訳:どうして?)”と驚いた様子だった。

(やったぞ、奇襲は大成功だ!)

ロジャーとフィリップも、本当に久しぶりの再会であり、座は一気に盛り上がる!

ホテルに戻ったとき、真顔のフィリップから、“今日は、ロジャーとの時間を設けてくれて本当にありがとう。”とあらためて感謝された。

(どういたしまして!)

そこで、カバンから、前年6月の来阪時に約束した第2次大戦中の英空軍(RAF)の「デ・ハビランド – モスキート(de Havilland – Mosquito)」のモデルを取り出してプレゼント!!

“オーッ!シックス・スリー・スリー(映画「633爆撃隊」)の名機か!ありがとう!”と、まるで子供のように大はしゃぎ!!

(これで、彼のベッドサイドの私設“英空軍博物館”の所有機も、計4機に発展した!)

その後、大阪音大の練習開始時刻がかなり遅く設定されていた1月17日に、いろいろな事情から民営化後3度目の引っ越しを余儀なくされたオオサカ・シオンの練習場をいきなり訪れることでも話がまとまった!!

そのシオンでは、楽団長の石井徹哉さんや広報担当の案内で合奏場、指揮者室、ライブラリーなどを見学。第120回定期で客演指揮をした「ドラゴンの年(2017)(The Year of the Dragon – 2017)」のスコアにサインを入れたり、ライブラリーのロッカーに張られた“千客万来”の招き猫を見つけて一緒に写真に収まるなど、やはりというか、大盛り上がりの展開に!!

まるで漫才のようにナマで飛び出した「もうかりまっか」(筆者)→「ぼちぼちでんなー」(フィリップ)の掛け合いも、シオンのメンバーに大ウケだった!

フィリップにとって、大阪は、間違いなく日本のホーム!!

2019年1月、その絆は、さらに深くなった!!

▲「ロジャー・ウェブスター、コルネット・リサイタル」のチラシ

▲ 初来日時のロジャー(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲初来日時のロジャー(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲ ロジャーとフィリップ(2019年1月15日、大阪某所)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第72話 史上最低のコンサート鑑賞記

▲ブラック・ダイク・バンド 松山(愛媛)公演チラシ(2016年11月4日)

▲同、チラシ裏の説明

▲コラボ企画チラシ

2016年11月4日(金)、筆者は、JR「新大阪」駅から、山陽新幹線「のぞみ23号」~予讃本線「しおかぜ13号」と特急列車を乗り継いで、JR「松山」駅に降り立った。

久しぶりに仕事とは無関係で、26年ぶりに来日がなったブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)のコンサートを個人的に愉しむためである。

旧友の音楽監督ニコラス・チャイルズ(Nicholas Childs、第14話「チャイルズ・ブラザーズの衝撃」参照)や、大阪でのソロ・リサイタルの後、大盛り上がりしたプリンシパル・コルネット奏者リチャード・マーシャル(Richard Marshall)らと旧交を温めるのも目的だった。

特急「しおかぜ」の終点“松山”駅は、四国最大の都市、松山の表玄関だ。しかし、21世紀のこの時代に自動改札ではなく、列車の到着と同時に何人かの駅員が改札口に出て乗客の切符を検札するスタイルのままであることに、まず大感動する!

まるでタイムスリップしたような、昭和の国鉄そのものだ!!

“イヤー、なつかしい!”と結構ウキウキした気分で、何日か前に主催者のテレビ愛媛の事業部に電話予約したチケットを引き換えるため、市内電車の電車道を歩いて会場の松山市民会館に向かう。

スマホ世代には、“なになに? 今どき電話予約だって?”と呆れられてしまいそうだ。

しかし、日本の多目的ホールでブラスバンドをいいサウンドで聴くには、席のポジショニングがとても重要な要素になるので、実は、この前近代的予約方法がとてもありがたかった。

事前に席割りを確認すると、チケットは2種類(S席:6,500円、A席:4,500円)。その内、大部分がS席の設定で、数少ないA席はいいサウンドがまるで期待できない場所に設定されていた。“電話予約”では、S席の中から好みの席を選んで指定できたわけだ。

ホールに向かう途中、とても面白かったのは、すれ違う人の多くが“大阪弁”をしゃべっていたことだ。筆者も暮らす大阪は、公演地から外されていたから当然か。少なからず“東京弁”を話す人もいる。こちらは、東京公演を愉しんだ後のリピーターだろう。結構、遠くからファンが来ているのを知って、ちょっと愉快な気分になった。

しかし、この日は、ここからどんどん残念な方向に話が展開する。

窓口でのチケット交換は、名前の確認だけで、比較的スムーズだった。そして、“ハイ、承っております”という愛想のいい言葉に促されて代金を支払い、テレビ局の封筒入りのチケットを受け取った。

時計を見ると、開場まではまだかなり時間があるので、市内を散策することにした。

再び電車道に戻り、「松山」駅の方向に歩いていくと、進行方向正面のホテル1階ロビーに、見慣れた外国人が難しい顔をしながら2人の日本人と何やら話し込んでいる姿が目に飛び込んできた。

音楽監督のニック(ニコラス・チャイルズの親称)だ!

打ち合わせ中なら拙いが、どうもそんな雰囲気ではない。とても暗い。

それならとホテルに入り、難しい顔をしているイギリス人に声をかけた。

“ニック、久しぶり!!”

彼もすぐ気がついたようで、急に顔が明るくなった。

互いに“何年ぶりだろうか、元気にしていたか?”と会話が弾む。

しかし、“なぜ大阪がなかったのか? 大阪ではブリ―ズ・ブラス・バンドのスタート以来、ブラスバンドをよく理解しているファンがとても多いのに…。”と少し抗議を込めながら問うと、彼は少し真剣な顔になって、“そうなんだ。残念ながら、大阪は外されたんだ。そのことも含めて、今、招聘元(ジャパン・アーツ)に詳細なリポートを書いているところだ。来年(2017年)も来ることが決まったので、そのときは必ず行くから…。”と一気に話してくれる。

どうやら、大阪が完全に無視されたのは、彼の責任ではないことは分かった。

(大阪は、その後、2017年ツアーでも公演地から外されている。)

ニックの傍らにいる洗足学園音楽大学の滝澤尚哉さんは、彼が難しい顔をしていたのは、ホテルで用意された食事の内容にまったく融通が利かないことに対して激怒していたからだと説明してくれる。

昔から、ニックは、食べ物についてはひじょうに煩かった。そんな彼に、定食のようなものを喰えといったら、大変なことになることは否を見ることより明らかだった。

いやしくも、ブラック・ダイクの音楽監督である。もう少し、別の対応ができなかったのだろうか。主催サイドの基本的な落ち度と思えた。

そこへ、背後から声がかかった。振り返ると、プリンシパルのリチャードが立っている。

彼は、陽気に“車をとばして来たのか?何時間かかった?”と訊いてくる。そこで“列車で4時間くらいだ!”と答えると少しビックリした様子だったが、“約束したとおり、今夜は愉しませてもらうよ!”と続けると、“そうか、ではエンジョイしてくれ!”と言葉が返ってきた。

やがて、難しそうな顔をしていたニックも、少し気分が落ち着いたのか、“それじゃ、コンサートで”と言いながら、食事はまったくとらず、コーヒーだけを手にホテルの自室に戻っていった。

こうして、ロビーのソファーには、日本人だけが残された。そこで付き添っている彼らに、いろいろ事情を訊ねると、このツアーでは、他にもいくつか事件が勃発している様子だった。

実は、大阪を発つ前、“今日は、都合でフィナーレの「インモータル(Immortal)」(ポール・ロヴァット=クーパー)は、やらないらしい”との情報にも接していた。

滝澤さんは、コルネットのバックロー(後列)のヴィクトリア・ケネディのお父さんの訃報が入り、急遽帰国することになったためだという。

“本人は、最後まで演奏する”と言っていたらしいが、“すぐに戻れ”ということになったそうだ。その結果、演出上の都合もあり、この曲はカットされることになった。ブラック・ダイクのコンサートのために特別に書かれた曲だけに、ファンはガッカリするかも知れないが、事情を知ればみんな納得してくれるだろう。

世界中のブラスバンドは、ファミリーのようなものだから。

しかし、その一方で、この夜のブラック・ダイク公演は、完全に演奏者の“定足数割れ”、曲によっては“音の数まで不足する”かたちで行われることが明らかとなった。

いったい主催者は、これをどう説明するのだろうか。

筆者がミュージカル・スーパーバイザーを任されていた当時のブリーズ・ブラス・バンドの有償コンサートなら、入場料は間違いなく払い戻しにしていただろう。

もう過去の話なんで知らない人も多いだろうが、ブリーズは、ヨークシャーでブラック・ダイクとジョイント・コンサートを開いたこともある大阪のプロのブラスバンドだ。

そんなことを考えている時、ふと気になって、先ほど受取ったチケットを確認する。すると、その席番は“電話予約”したものとまるで違うものだった。“ここは、音が悪い!”

慌てて開場前のホールにとって返すと、“電話予約”したチケットは取り分けられてまだ残っていた。相手は、“米つきバッタ”のようにペコペコ謝罪するが、何とも意味不明の言い訳が実に空しい!!

しかし、当夜の事件は、ここからが本番だった。

まず、入場の際、手渡されたのが“この日の公演のチラシ”と“テレビ愛媛の番組表”など。不審に思って係員に訊ねると“そのチラシがプログラムです”と呆れた回答が返ってきた。怒りを抑えて、さらに“招聘元が作った有料のプログラム”なんかを別に売っていないのか訊ねると、“ありません。それがプログラムの代わりになります”という。

松山では、こんなコンサートが通用するのか!?

チラシ最上部には、明治乳業グループのロゴと「四国明治株式会社 Presents」との文字が入るれっきとした“冠興業(かんむりこうぎょう)”だ。“特別協賛”の文字まで入っている。

主催者や招聘元は、いったいどんな感覚でこのコンサートをやっているのだろうか?

恥ずかしくはないのか!!(たぶん、ないのだろう)

会場では、東京、大阪、広島などから聴きに来た知人からつぎつぎ声がかかった。話をすると、みんな“なんか変だ”と首をかしげている。

とにかく、素人以下の対応。聴衆を会場に迎え入れる準備がまるでできていないのだ。

コンサートは、テレビ愛媛のアナウンサーが案内役となり、手にした原稿を一字一句間違わないように“棒読み”しながら進行した。滑舌こそさすがだが、当然ながら、演奏以外、まるで盛り上がらない。

そして、案の定、“メンバーが個人的な事情で急遽帰国し、出演が叶わなくなったこと”や“プログラムが変更になったこと”“アンコール曲”についての説明や場内アナウンスも一切なかった。会場をくまなく見て回ったが、“張り紙”すらなかった。

なんだろう、これは!あまりにも稚拙、レベルが低すぎる!

同時に、ブラスバンドを舐めている!

これは、フィクションではない。

わが人生における“史上最低”のコンサート鑑賞記である!

▲CD – Black Dyke Band Japan Tour 2016(自主制作、WOS 102)

▲同、曲目

▲メンバー表

▲サイン

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第71話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」完成前夜


▲ヨハン・デメイ

▲愛用のピアノに向かうヨハン

▲交響曲第2番「ビッグ・アップル」のスコア表紙の見本を見せるヨハン

交響曲第1番『指輪物語』(Symphony No.1 “The Lord of the Rings”)の世界的ヒットで知られるオランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)のアムステルダムの自宅に招かれたのは、1993年6月27日(日)のことだった。

前夜、ブーニゲンで聴いたオランダ王国陸軍バンドのコンサート(第70話:オランダKMK(カーエムカー)の誇り”、参照)の興奮がまだ冷めやらない、オランダ滞在2日目のことである。

この日の朝、筆者の泊るホテルまで車で迎えに来てくれたヨハンは、“今日は、自分のことをいろいろ知って欲しいんだ”と言いながら、まず、彼が所属するコンテンポラリー・ミュージック(現代音楽)合奏団“オルケスト・デ・フォルハルディンフ(Orkest de Volharding)”の練習へと筆者を誘う。

オランダは、コンテンポラリー・ミュージックの演奏がひじょうに盛んな国だ。

ヨハンは、金管楽器、サクソフォン、ピアノ、ギターからなるこのグループのセカンド・トロンボーン奏者でもあった。

この日聴いた曲は、はじめて耳にするものばかりだった。しかし、練習は、近く予定されているレコーディングのためのリハーサルだということで、演奏はすでにほとんど仕上がっていた。それを、他に聴衆がいない中、自分の好みの“特等席”で自由に聴けるとは、正しく贅沢の極みだ!

オランダの管楽器プレイヤーの個々の実力を間近で聴くことができるすばらしい時間となった。

練習終了後、ヨハンは、“せっかくオランダに来たんだから、オランダ流のランチにしよう!”と言って、車でアムステルダム北方のどこかの田舎町(これが思い出せない)のパンケーキのレストランに連れていってくれた。

昨夜につづき、ヨハンは、『この店には、日本からの観光客はまだ誰も来たことが無いはずだ!』とやけに自信満々だ!

そこは、日本のような派手なネオン類が一切ない店だった。ヨハンの“ここのがうまいんだ!”という言葉に促されながら一歩店内に入ると、そこは常連とおぼしき人たちで一杯で、ワイワイガヤガヤと、まるで村の集会場といった感じだった。

しかし、オランダ語で書かれたメニューらしきものは、もちろん、まるでチンプンカンプン。なので、彼に注文を任せると、いろいろ違った種類のものが出てきた。

日本で知る“パンケーキ”とはまるで違う。しかもどれも結構ボリュームがあった。

“そうか、オランダ人は、こういうものを毎日のように喰っているので、あんなに背が高くなるんだ!”などと、勝手に自分を納得させながら、二人でランチを愉しんだ。

ランチの後、今度は、“マルケン”というアムステルダム近郊の港町で“ハーバー・フェスティヴァルをやっているので行こう!”ということになった。

マルケンのハーバーに着くと、大きな仮設テントがしつらえてあり、その中で4つの町のコミュニティ・バンドが得意の曲を披露していた。座席もテントの中にあり、各町の応援団が押しかけていた。

しかし、演奏するバンドは我々が知るいわゆる“吹奏楽団”ではなかった。 。ヨハンの説明によると、この日演奏した4つの団体すべてが、フリューゲルホーンを主たるリード楽器とし、ソプラノからバスまでのサクソフォン、若干のトランペットやクラリネットを加えた“ファンファーレ・オルケスト”スタイルのバンドだった。オランダでは、“ウィンドオーケストラ”スタイルより、“ファンファーレ・オルケスト”スタイルが一般的で、コミュニティ(町)を代表するバンドは、ほとんど“ファンファーレ・オルケスト”なんだという。

“ファンファーレ・オルケスト”のために作曲されたオリジナル曲もかなりあるというから、驚きだ。

そして、ヨハンは、ちょうど着いた時に演奏を始めたバンドでは、“少し前まで指揮を務めていたんだ”と説明してくれた。

道理で、サポーターからも演奏メンバーからもヨハンに向けて親しみを込めた目くばせが飛ぶ訳だ。

演奏が終わると、ヨハンから自分の後任だという指揮者テーオ・ヤンセン(Theo Jansen)を紹介された。

彼はなんとアムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)のテューバ奏者だった。

自己紹介に続いて、氏から『日本からとは珍しい。実は来週に日本の東芝EMIのための録音があるんですが、のぞきに来ませんか?』と“お誘い”を受ける。

東芝EMIのための録音とは、第54話「ハインツ・フリーセンとの出会い」でお話ししたCD「吹奏楽マスターピース・シリーズ 第6集」の1枚、「バッハの世界」(TOCZ-0017)のセッションのことだった。

そこで、“そのために来た”と話すと、氏はビックリ仰天し、きびすを返すや、いきなりハイネケン(オランダのビール)を注文し“さあ、何杯でも呑んでくれ!”と熱烈歓迎状態となった。

大盛り上がりのマルケンの後、ヨハンは、アムステルダムの自宅に案内してくれた。

部屋に通されたとき、いきなり目に飛び込んできたのは、壁に飾られた交響曲第1番『指輪物語』の初演(1988年、演奏:ロワイヤル・デ・ギィデ)のポスターだった。

“すべてはそこから始まった!”

ヨハンにとっては、それは正しく“宝物”だ!

そして、“これを見て欲しい”と言いながら、最終頁あたりを残すだけとなっていた書いている最中の新作のスコアを見せてくれる。

曲は、アメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(The United States Air Force Band, Washington D.C.)から委嘱された交響曲第2番『ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォニー)』(Symphony No.2 “The Big Apple” – A New York Symphony)だった。

それは、“指輪”とは、かなり図柄の違うスコアで、音数がかなり多い。

もとは3楽章構成のシンフォニーとして書き始めたと説明されたが、目の前にあるのは、第1楽章「Skyrine(スカイライン)」と第2楽章「Gotham(ゴーサム)」の2つの楽章だけだった。“もう1つはどうなったの?”と訊ねると、“途中で考えが変って、対照的な2つの楽章の間に、ブリッジのようなつなぎのインタールードを入れることにしたんだ”という。

さらに“それは、どうなるの?”と尋ねると、“今度アメリカに行ったときにニューヨークの雑踏を録音して使おうと思うんだ。どうだい、面白いだろう!”との返答が返ってきた。

いかにも、コンテンポラリー・ミュージックを演奏するヨハンらしい着想だ。これは、後に「Times Square Cadenza(タイムズ・スクエア・カデンツァ)」と名付けられ、“ニューヨークの街の雑踏と地下鉄の音”の録音(楽譜では、付属CDに収録)として実現する。

食い入るようにスコアに目を走らしていると、ヨハンは愛用のピアノでいくつかのテーマを弾いてくれたり、シンセで作ったハーモニーの断片を聴かせてくれる。

中でも、第1楽章で現われる“スカイライン・モチーフ”のカッコよさは、とくに耳に残った。

しかし、話を聞いている内、なんとなくぼんやりとだが、目の前にいるこの作曲家が、既存の“吹奏楽”の固定的概念や限界を超える音楽を書き始めていることを感じ始める自分がいた。

交響曲第2番『ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォニー)』は、その後、当初1993年10月に計画されていた“委嘱者による公式初演”が1994年3月に変更されたため、1994年2月20日、ユトレヘトで行われたハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラによる“オランダ初演”が日としては先になるというハプニングもあった。

1つのウィンドオーケストラの作品が、国境という枠組みを簡単に超えて世界中で演奏されるようになったればこそのハプニングだった。

しかし、その“オランダ初演”直後に同じアムステルダム・ウィンド・オーケストラによってセッション・レコーディングされたCDは、発売されるや世界的ヒットとなり、ヨハン・デメイの名に再び脚光をあてることになった。

作品のルーツに思わぬハプニングあり!

これだから、バックステージは面白い!

▲「ビッグ・アップル」の紹介パンフ(1994年)

▲同、説明

▲“オランダ初演”の成功を伝える現地新聞(作曲者提供)

▲CD – The Big Apple(蘭World Wind Music, WWM 500.003、リリース:1994年)

▲同、収録曲