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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第171話 ドス:交響曲第3番「シンフォニー・オブ・フリーダム」の完成

▲Thomas Doss(2018年6月18日、東京、黒沢ひろみ氏提供)

▲Manuscript Score – Sinfonie Nr. 3 Sinfonie der Fteiheit(Thomas Doss、2019年)

2019年(平成31年)2月22日(金)、オーストリアの作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)から一通のメールが届いた。

驚いたことに、それには、出来上がったばかりの新曲のマニュスクリプト・スコアが添付されていた。“マニュスクリプト”は本来“手書き”のものに対して使われるワードだが、現代のマニュスクリプト・スコアは、たとえそれがコンピュータ・ソフトを使って作られたものであっても、ぺンや鉛筆で楽譜が書かれた時代の名残りで慣例的にそう呼ばれる。大抵の場合、作曲者の“自筆譜”と同じ扱いを受ける完成初稿を意味する。

また、それは同時に、出版社等に作品を見せる前の、まだ作曲者が全ての権利を有しているスコアであるという意味合いを有している。

この曲の場合、スコア上の複製権(著作権)を示すコピーライト・ラインには、Copyright by Thomas Doss Manuskript Ausgabe と明示されていた。

『ディアー・ユキヒロ

元気にしているかい!ちょっと知らせたいことがある。6月に書いたとおり、私は今、交響曲第3番を仕上げたところだ。初演は、2020年1月だ。キミのために、マニュスクリプト・スコアを添付したので見て欲しい。この曲は、7月以降は、自由に演奏していいようになる。

トーマス』

これが発信されたとき、突然のPCクラッシュと自身の体調不良で3週間あまり寝込んでいた時期とがたまたま重なったため、実際に筆者がメールを読んだのは、6日後の2月28日となった。だが、その内容はとても刺激的なものだった。

ここで時系列を少し整理しておきたい。

まず、メール文中の“6月”は、鈴木孝佳指揮、タッド・ウインドシンフォニーが「第25回定期演奏会」(2018年6月15日、杉並公会堂大ホール)で彼の新作『アインシュタイン(Einstein)』の本邦初演を行なった際、それに立ち会ったトーマスが、帰国後に送って寄こした“2018年6月末のメール”をさしている。実は、彼は、その中で“今、交響曲を書いている”と近況を報せてきていたのだ。ただ、いろんなジャンルの曲を書く作曲家だけに、その時点では、その“交響曲”が管弦楽編成なのか、吹奏楽編成なのか、はたまた他の編成のものなのか、何も触れられてなかったので、それ以上に話題を膨らませることはしなかった。しかし、いずれにせよ、今度の2019年2月のメールでそれが完成したことがわかった。そして、これが、今回のストーリーの起点となった。(参照:《第50話 トーマス・ドスがやってきた》)

また、後ろの方に出てくる“7月”は、明らかに作品初演後を意識したくだりに書かれているので“2020年7月”を意味する。即ち、同年7月以降は、委嘱者のプロテクト(独占演奏権)が解けて、楽譜さえ入手できれば、誰でも演奏可能になるということを意味していた。

つまりは、暗に“日本で演奏してくれるところがあれば、いいなぁ”という、筆者への個人的なリクエストも込められていると、このとき感じた。

しかし、トーマスが交響曲を書こうと思い立ったのはいつだったのだろうか。その後の経緯から、その時点で彼が何らかの委嘱を引き受けていたことは確かだが、今振り返ると、思い当たるそのタイミングは、タッド・ウインドシンフォニーが『アインシュタイン』を本邦初演したときのリハーサルで、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の交響曲第1番『大地、水、太陽、風(Symphony No.1 ? Earth, Water, Sun, Wind)』を初めて耳にしたときだったような気がしてならない。

フィリップが、グスタフ・マーラー(Gustav Mahler、1860~1911)への明らかな傾倒を隠すことなく示した初のシンフォニーだ。指揮の鈴木孝佳さんのアプローチもひじょうに繊細で、自作以外の作品にもかかわらず、トーマスも真顔で聴き入っていた。

そして、そのリハーサルのあと、トーマスは、リンツの自宅にフィリップを招いたときに交わした議論など、しきりにフィリップとの話題を口にするようになった。

敬愛するアントン・ブルックナー(Anton Bruckner、1824~1896)が眠るリンツに暮らすトーマスと、マーラーの音楽をリスペクトするフィリップの間に音楽談義が交わされたというだけで興味深いが、それをタッドのリハーサル後に大きな身振りをまじえながらものすごい勢いで話すトーマスの姿を見て、突然“何かのスイッチが入ったな”と感じたのは事実だった。(参照:《第125話 スパーク:交響曲第1番「大地、水、太陽、風」の衝撃》)

こいつは面白い!!

タッドのリハーサルのときのシーンを想い出して、今度の新曲に一気に関心をもった筆者は、早速、添付ファイルのスコアを開く。すると、表紙には、ドイツ語で“Sinfonie Nr. 3 Sinfonie der Fteiheit”と曲名が書かれてあるのを発見。それを英語に訳すと、“Symphony No.3 Symphony of Freedom”、日本語だと、交響曲第3番『シンフォニー・オブ・フリーダム』となる。いいタイトルだ。編成は、ドイツでいうブラースオルケスタ、即ちウィンドオーケストラで、演奏時間はおよそ30分。3楽章構成の立派な交響曲だ。

また、曲名の上部に付記された「ノルトライン=ヴェストファーレン州ブレサー・フィルハーモニーの委嘱により(Im Auftrag der Blaser philharmonie NRW)」という献辞から、作品が、ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州音楽評議会と同州青年アンサンブル推進協会が組織・運営する州内から選抜した優れたメンバーによる青少年吹奏楽団(ユンゲ・ブレサー・フィルハーモニー)のために委嘱されたものであることがわかった。ドイツでは、州単位や地区単位でこのような組織が作られ、将来を担う若者たちの音楽活動をサポートしている。これもそんな組織のひとつである。

そして、マニュスクリプト・スコアには、表紙に続き、国連人権憲章の世界人権宣言第一条がドイツ語で書かれていた。

“すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。 人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。”

また、作品は、ノルトライン=ヴェストファーレン州ユンゲ・ブレサー・フィルハーモニーが2020年1月に企画した「GREETINGS TO BEETHOVEN(ベートーヴェンへの表敬)」というベートーヴェン関連楽曲だけで構成されたシリーズ・コンサートのための委嘱作品で、作曲の経緯も手短かに書かれている。

『委嘱を受けたとき、2020年に生誕250年の誕生日を迎えるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770~1827)との関連性を築き上げることがクライアントの願いでした。アントン・ブルックナーの音楽に近似性をもたらしたベートーヴェンの節目の誕生日は、彼の卓越した人生の理想、つまり人間の自由とフランス革命の理想を強調する理由になるはずです。自由-平等-友愛、これらの価値観は、国連人権憲章の世界人権宣言の第一条にも記載されています。』

交響曲は、つぎの3つの楽章で構成されている。

第1楽章:Schrei nach Freiheit(自由を求める叫び)- Allegro risoluto

第2楽章:Traum der Freiheit(自由の夢) – Andante calmo

第3楽章:Freiheit uber alles(何よりも自由)- Vivace

世界初演は、2020年1月5日(日)、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州ライネのシュタットハレ・ライネ(Stadthalle Rheine)において、ティモール・オリヴァー・チャディク(Timor Oliver Chadik)指揮、ノルトライン=ヴェストファーレン州ユンゲ・ブレサー・フィルハーモニーの演奏で行なわれ、1月10日(金)にはアーハウスのシュタットハレ・アーハウス、11日(土)にはジーゲンのジーラントハレ・ジーゲン、18日(土)にはギュータースローのシュタットハレ・ギュータースローと、初演に続いて州内の3都市でも演奏された。

一方、“ベートーヴェン・イヤー2020”のためにトーマスが交響曲を書いたというニュースは、ヨーロッパ各国で拡散され、プロテクトもなんのその、早速、2020年2月2日(日)、ポルトガル、アルベルガリア=ア=ヴェーリャ(Albergaria-a-Velha)のシネテアトロ・アルバ(Cineteatro Alba)において、パアロ・マルチンス(Paulo Martins)指揮、アミーゴス・ダ・ブランカ吹奏楽団(Associacao Recreativa e Musical Amigos da Branca)のポルトガル初演が決まるなど、ドイツ以外の国での演奏がつぎつぎと企画され、日本でも、6月5日(金)、杉並公会堂大ホールにおいて、鈴木孝佳指揮、タッド・ウインドシンフォニーによる本邦初演が行なわれることになった。

しかし、ここで誰もが予期しなかった事態が発生する。

それは、世界的なコロナ禍の襲来だった!

▲▼プログラム – GREETINGS TO BEETHOVEN(2020年1月5日、Rheine、Germany)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第170話 Osaka Shion – 愛知初の主催公演

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 愛知特別演奏会(2022年5月21日、愛知県芸術劇場コンサートホール)

▲プログラム – Osaka Shion Wind Orchestra 愛知特別演奏会(同上)

▲同上、演奏曲目

2022年(令和4年)5月21日(土)、筆者は、「大阪難波」駅、午前10時30分発の近鉄特急アーバンライナー(110列車)で、名古屋市東区の愛知県芸術劇場コンサートホールで開かれる「Osaka Shion Wind Orchestra 愛知特別演奏会」を愉しむため、名古屋に向かった。

この時、新幹線ではなく、近鉄を使ったのには訳がある。新幹線だと、筆者が生息するエリアからいったんJR「新大阪」駅に出なければならないが、それには意外と時間がかかる。一方、近鉄だと、歩いて10分ほどの千日前通の地下に「大阪難波」駅がある。しかも、特急料金も割安だ。座席も広いし、時間に余裕があるときはこれに限る。

また、この日は、成り行きで全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんも同行するという話になったから、「大和西大寺」駅を出た溝邉さんとアーバンライナーが途中停車する「大和八木」駅で合流できるこのルートが最適だった。ただ、全車座席指定の列車なので、指定席特急券は、筆者が事前にブッキングすることになった。

そんな流れだったので、行きの道中は、まるで学生時代の遠足のバスの車中のように、ワイワイガヤガヤと吹奏楽がらみのさまざまな話題で大いに盛り上がる。当然、いい話題もあったが、残念な話題も….。

しかし、夢中になって喋っていると、時間が経つのはアッという間だ。

アーバンライナーは、やがて、終点「近鉄名古屋」駅に到着。駅周辺でランチを済ませた二人は、地下鉄東山線に乗り換えてホールに向かった。

演奏会場の愛知県芸術劇場コンサートホールは、2020年(令和2年)に急逝した親友、元NHKプロデューサーの梶吉洋一郎さんと、ヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語』管弦楽版の日本初演(大勝秀也指揮、名古屋フィルハーモニー交響楽団、2004年2月5日)を手がけた想い出が残るホールだ。(参照:《第131話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」管弦楽版日本初演》)

他方、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)や竹内雅一さんが指揮する名古屋芸術大学ウィンドオーケストラの定期演奏会もしばしばこのホールで開かれ、コロナ禍以前はよく訪れていた。客席で聴く残響感の居心地の良さから、個人的には好きなホールだ。だから、溝邉さんとこのShionの演奏会が話題に上がったとき、“響きのいいホールですよ。近鉄で行けますし。”と言うと、“それなら行きます。”と即答が返って来た。

コロナ禍のため、3ヵ月前の2月23日(水・祝)に東海市芸術劇場大ホールで予定されていた演奏会が公演前日に中止されたため、結果的に、この日は、Osaka Shion初の愛知での主催公演となった。そして、そのプログラムは、以下のようにひじょうに意欲的なものだった。

・ドラゴンの年(2017版):フィリップ・スパーク
The Year of the Dragon(2017)(Philip Sparke)

・ブリュッセル・レクイエム:ベルト・アッぺルモント
A Brussels Requiem(Bert Appermont)

・交響曲第1番「指輪物語」:ヨハン・デメイ
Symphony No.1“The Lord of the Rings”(Johan de Meij)

指揮者は、西村 友。シンフォニーをフィナーレに据え、オール・オリジナルで組まれた堂々たるプログラミングで、筆者自身にとっても、作曲者全員が友人で縁浅からぬ間柄の面々が書いた曲だけがプログラムに上がるスペシャルなコンサートだった!

この内、メイン・プロの交響曲第1番『指輪物語』は、Osaka Shionの演奏メニューの中でもいわゆる“定番人気曲”の1つだ。それは、楽団の民営化以前、まだ“大阪市音楽団(市音)”という楽団名だった、ちょうど30年前の1992年(平成4年)5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールに於ける「第64回大阪市音楽団定期演奏会」で木村吉宏の指揮で日本初演。NHKもライヴ収録し、同年8月16日(日)にオンエアされてセンセーショナルな成功を収めた。(参照:《第59話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」日本初演》)

あれから30年が過ぎたのか!

実は、そのときのNHKの担当者も前述の梶吉さんだった。つまり、氏は、『指輪物語』のオリジナルであるウィンドオーケストラ(吹奏楽)版の日本初演のときも、その後に編曲された管弦楽版の日本初演のときもプロデュースをつとめたことになる。幸い、これら2本のライヴ録音は、放送終了後、筆者がCD化のお膳立てをする運びとなった。なので、この交響曲を彼と協力して国内に紹介できた記憶は、ささやかながら、個人的な誇りとなっている。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

一方、演奏者のShionは、日本初演後も『指輪物語』の再演を繰り返し、近々では、航空自衛隊航空中央音楽隊の特別出演を得た2021年(令和3年)10月9日(土)、京都コンサートホール大ホールにおける「第4回京都定期演奏会」でも、西村 友の指揮で演奏していた。

名古屋でのパフォーマンスでは、同じ指揮者ながら、まるで第3楽章の主人公“ゴラム”が乗り移ったかのように振る舞う指揮者の“ゴラム化”は京都よりさらに進み、とくに曲調に合わせて指揮台の上で大きくシコを踏むような所作は、大いに場内を沸かせることになった。

京都、名古屋の両演奏会を聴いた溝邉さんも、『京都のときとまた違う演奏でしたね。』と、同じ曲の表現の違い、音楽の機微というものを愉しまれていた。

それにしても、このところのShionのプログラミングは、どうだ!

「第4回京都定期演奏会」からこの日の名古屋までの主催公演だけをピックアップしても、計5回のコンサートが、実は、ウィンドオーケストラのために作曲されたオリジナル作品だけで企画・構成されているのだ。

その内、3回がザ・シンフォニーホールにおける定期演奏会で、2021年11月28日(日)の「第139回」(指揮:秋山和慶)では、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の生誕100周年を祝って、『春の猟犬(The Hounds of Spring)』や『エル・カミーノ・レアル(El Camino Real)』、『法華経からの三つ啓示(Three Reverations from the Lotus Sutra)』などの名作をセレクト。2022年3月26日(土)の「第141回」(指揮:山下一史)では、スペインのルイス・セラーノ・アラルコン(Luis Serrano Alarcon)の『インヴォカシオン(Invocacion)』、アメリカのジェームズ・M・スティーヴンソン(James M. Stephenson)の『交響曲第2番“ヴォイセス”(Symphony No.2 “Voices”)』、アンドリュー・ボス(Andrew Boss)の『サウンド・アスリープ(Sound Asleep)』、ジェームズ・バーンズ(James Barnes)の『交響曲第7番“シンフォニック・レクイエム”(Symphonic Requiem“Seventh Symphony”)』という、ウィンド・ミュージックの先端を走る作品にチャレンジ。同4月24日(日)の「第142回」では、『ウインドオーケストラのためのマインドスケープ』で知られる作曲家、高 昌師を客演指揮者に迎えた自作自演演奏会とほんとうにバラエティ豊か!

残念ながら中止になった東海市での「愛知特別演奏会」も、以下のとおり、ひょっとすれば、地元大阪の定期以上にポジティブなプログラムだったかも知れない。

・トラベラー:デイヴィッド・マスランカ
Traveler(David Maslanka)

・コルシカ島の祈り:ヴァーツラフ・ネリベル
Corsican Litany(Vaclav Nelhybel)

・リンカーンシャーの花束:パーシー・グレインジャー
Lincolnshire Posy(Percy Grainger)ed. Frederick Fennell

・オセロ:アルフレッド・リード
Othello(Alfred Reed)

・コロニアル・ソング:パーシー・グレインジャー
Colonial Song(Percy Grainger)ed. R. Mark Rogers

・知られざる旅:フィリップ・スパーク
Unknown Journey(Philip Sousa)

もう、一口に“オリジナル作品”とは語れない、そんな時代になってきたようだ。

そして、戦前から“交響吹奏楽”をテーマに掲げて演奏を積み重ねてきた、いかにもこの楽団らしい変幻自在のプログラミングだ!!

“月に一度の定期演奏会の開催”を目標に掲げるShionの夢の実現が、もうすぐそばに近づいているのかも知れない!

名古屋への小旅行の帰路は、「近鉄名古屋」駅、20時08分発の特急ひのとり(68列車)。

今日聴いてきたばかりの音楽の興奮を肴に、大いに盛り上がる二人だった。

▲▼Osaka Shion Wind Orchestra 愛知特別演奏会(2022年5月21日、愛知県芸術劇場コンサートホール)(写真:楽団提供)

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第4回京都定期演奏会(2021年10月9日、京都コンサートホール大ホール)

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第139回定期演奏会(2021年11月28日、ザ・シンフォニーホール)]

▲チラシ(中止公演) – Osaka Shion Wind Orchestra 愛知特別演奏会(2022年2月23日、東海市芸術劇場大ホール

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第141回定期演奏会(2022年3月26日、ザ・シンフォニーホール)

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第142回定期演奏会(2022年4月24日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第169話 「ニュー・ウィンド・レパートリー1998」に向けて

▲▼NHK大阪放送局で(1997年11月19日)

▲ライムライト・コンサート 14(1997年11月19日、大阪府立青少年会館)

▲プログラム – ライムライト・コンサート 14 & ブリーズ in 京都(1997年11月)

▲同上、演奏曲目

『ディアー・フレンド・ユキヒロ、先週、大阪で一緒に過ごした時間は、本当にすばらしいものだった。BBB(ブリーズ・ブラス・バンド)との3度目の共演は、リハーサル、コンサートを通じてエクセレントだったし、友情を深めるグレートな機会となった。加えて、大阪音楽大学やNHK、大阪市音楽団のミスター木村、近畿大学などとも….。』

1997年(平成9年)11月15日(土)に来阪し、21日(金)まで滞在したベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)が、帰国後の29日に送って寄こしたFAXの書き出しだ。

大阪滞在中、ヤンは、17日の「ブリーズ in 京都」(京都外国語大学森田記念講堂)、19日の「ライムライト・コンサート 14」(大阪府立青少年会館)の2回のBBBの演奏会で客演指揮をしたほか、自作の祝典序曲『オリンピカ(Olympica)』などを教材とした大阪音楽大学での吹奏楽授業(18日)、大阪市音楽団への表敬訪問(18日)、NHK大阪放送局でFM「ブラスのひびき」のためのコメント録り(19日)、近畿大学吹奏楽部のレッスン(20日)、雑誌「バンドピープル」のインタビュー(21日)というタイトなスケジュールをこなし、離日後は、アメリカのシアトルへ飛び、約一週間滞在して大学で講義などを行なった後、ベルギーに帰国したばかりだった。

いつものことながら、本当にアクティブだ。

そして、大阪滞在中の感謝の意に始まったこのFAXの文面は、それに続いて、宿泊先のホテルで手渡した「大阪市音楽団第75回定期演奏会」における交響詩『モンタニャールの詩(Poeme Montagnard)』の本邦初演(指揮:木村吉宏、1997年10月30日、フェスティバルホール)の録音を収めたMD(ミニ・ディスク)についての感想が綴られていた。旅の途上だけでなく、帰国してからも丹念に聴き直した感想だ。

『その間にも、私は、MDに入っている市音の“モンタニャールの詩”のレコーディングを愉しんだ。それはファンタスティックな演奏だった。オーケストラのサウンドは、圧倒的に並外れた実力を示しているし、録音のクオリティもエクセレントだった。ヨシヒロとすべてのメンバーに“おめでとう”と伝えて欲しい。彼の解釈はあらゆる点においてたいへん愉しませてもらった。それは、いかなる疑問を挿む余地なく、ベリー・グッドなライヴ・パフォーマンスだ。私はとても嬉しかった。』

加えて、このFAXには、同時に録音から気づいたいくつかのアドバイスが書かれていた。それは、18日の市音訪問時に、木村さんから、『この曲をぜひともレコーディングしたい。』と聞かされていたからで、ヤンのアドバイスは、翌1998年(平成10年)2月5~6日(木~金)、兵庫県尼崎市のアルカイックホールでセッションが行なわれた市音自主制作CD「ニュー・ウィンド・レパートリー1998」(大阪市教育振興公社、OMSB-2804、1998年)に生かされることになった。

話を本邦初演に戻そう。

交響詩『モンタニャールの詩』の本邦初演が行なわれた「大阪市音楽団第75回定期演奏会」のライヴ収録は、市音OBの元ホルン奏者で、退職後、兵庫県宝塚市のベガ・ホールの音響のチーフなどをつとめられていた塚田 清さん(市音在職:1946~1978)とフェスティバルホールの音響スタッフによって行なわれた。メイン・マイクのほか、ステージ上の天板から垂直に垂らした複数の無指向性マイクから上がってくる音をミキシングする、よくヨーロッパのクラシックの放送現場なんかで見かけるマイキングだ。

日本では、仕込み時間や人手、バランス調整が大掛かりになるため、効率も考慮してあまり採られないが、今回が市音の重要な演奏会であるだけでなく、出版社に掛け合って出版前の楽譜提供に尽力してくれたヤンからも“ぜひ録音を聴きたい”と再三リクエストがあり、自身も当時コメンテーターをつとめていたNHK-FMの番組「ブラスのひびき」でのオンエアも視野に入れていたので、現場のこの積極的な取り組みは正直嬉しかった。もちろん、マイキング等の選択は現場裁量になるが、この日の録音スタッフには、最終的に、単なる記録録音以上のすばらしい結果を導き出してもらったと思う。

録音は、終演後の楽屋前で、マネージャーの小梶善一さんからDATテープで受け取った。それを持ち帰り、ヤンのリクエストに応えてDATからMDに落とすのが筆者の役割だった。当時、自宅に3台のDATプレイヤーのほか、大きなMD専用デッキを備えていたからだった。

その結果、とてもラッキーなことに、筆者は、この日ホールでナマで聴いたばかりの『モンタニャールの詩』本邦初演の録音を演奏当日の深夜に確認することになった。

“とてもバランスのいいナチュラルな音だ。ステージからのサウンドが湧き上がってくるようだ!”

一聴して、率直にそう感じた。

ただ、現実のFM放送では、聴感上、独特の圧縮がかかることや、収録時の瞬間的なフェーダーの動きやアンビエンスなど、微調整の要を感じるポイントもほんのわずかあった。が、それ以外は何のストレスも感じない。

当然、演奏それ自体に手を加える必要はまったくない。すばらしい演奏だ。

そう感じた筆者は、直ちにスコアでチェックしながら何度かテープを走らせてマスタリングのリハーサルを繰り返し、翌朝までにラジオ用のDATマスターとヤンに渡すためのMDを完成させた。気力充実の若い頃だからできた作業だった。

早速、市音の指揮者、木村さんに結果報告の電話を入れる。すると、『どうや?、使えそうか?』と返ってきた。どうやら、木村さんは、ヤンに録音を聴かせることより、NHKの放送に使えるかどうかの方が気になっている様子だった。で、『大丈夫です。これは反響を呼びますよ。来月の局への番組提案に盛り込んでおきます。』と自信をもって答えた。それを聞いた木村さんもとても嬉しそうだった。

その後、筆者は、予定どおり、NHKの音楽番組部へ新年の放送予定曲の1曲として提案書を提出。交響詩『モンタニャールの詩』の本邦初演ライヴは、1998年(平成10年)4月25日(土)午前7時15分~8時のFM「ブラスのひびき」~バンド・ミュージック・ナウ~の3曲目としてオンエアされ、翌26日(日)午前5時~5年45分にも再放送された。

これは、1992年(平成4年)8月16日(日)の「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」でオンエアしたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』の本邦初演、1996年(平成8年)8月31日(土)の「ブラスのひびき」~世界のコンサート~でオンエアしたピート・スウェルツ(Piet Swerts)の『マルテニッツァ~春の序曲(Martenizza)』とジェームズ・バーンズ(James Barnes)の交響曲第3番(Third Symphony)第3、第4楽章の世界初演についで、市音のナマ演奏がNHK-FMの全国ネットで流れた音楽となった。(参照:《第58話 NHK ? 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》)

余談ながら、筆者が夜なべをして作った番組用マスターは、その後、前述したCD「ニュー・ウィンド・レパートリー1998」(ディレクター:佐藤方紀、エンジニア:藤井寿典)のセッション時のモニタールームでも再生され、アルバム全体の“音決め”用の参考に供されている。とても名誉なことだ。

かくて、1997年初頭のヤンからのメッセージに始まった『モンタニャールの詩』のNHK-FMによる国内初放送は、人気作曲家ヴァンデルローストの新曲ということもあり、多方面から関心を呼ぶことになった。その反響のひとつとして、市音トランペット奏者でプログラム編成委員の田中 弘さんから放送後にかかってきたつぎの電話も、忘れられない。

『さきほど、宮本先生から電話がありまして、“ひろむ、こんな曲あるんやったら、なんで(先に)言うてくれへんかったんや….。”て、言わはるんですよ(言われるんですよ)….。』と、田中さんの母校である京都の洛南高校の宮本輝紀さん(1940~2010)から番組を聴いた感想が思わぬ形で返って来たという話だった。

同時に、演奏について賞賛する言葉もあったという。

洛南の宮本さんとは、コンサートで顔を合わせた時なんかにお話しする程度で、とくに深い間柄でもなかった。しかし、同校OBの田中さんにとってはそうはいかない。母校の後輩達のことをいつも気に掛けてアドバイスを送っていたので、恩師からのこの直電に、胸の内はさぞかし複雑だったのではないかと想像する。

しかしながら、現実に起こったことを振り返るなら、市音が楽譜を受け取った時点は、楽譜の出版前で、宮本さんのこの日のリクエストはやや無理筋だった。さすがの田中さんも未出版曲の情報を出すわけにはいかなかったはすだ。しかも、1997年の市音は、と言えば、《第167話 交響詩「モンタニャールの詩」日本初演》や《第168話 交響詩「モンタニャールの詩」のライヴと国内初放送》でもお話しした著作権を完全に無視した“アンオーソライズド・コピー事件”のあおりをもろに受け、指揮者の木村さんが大激怒。近く迫った定期演奏会や東京特別演奏会など、大きな本番の予定曲を急遽組み替えなければならないという散々な事態に巻き込まれていた。

市音プログラム編成の諸氏や広報担当者の気苦労は、そりゃなかった。

筆者も、楽曲情報を管理することの難しさを痛感した出来事だった。

▲市音練習場で木村吉宏氏と(1977年11月18日)

▲ニュー・ウィンド・レパートリー 1998 収録予定表

▲CD – ニュー・ウィンド・レパートリー1998(大阪市教育振興公社、OMSB-2804、1998年)

▲OMSB-2804、インレーカード

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第168話 交響詩「モンタニャールの詩」のライヴと国内初放送

▲Jan Van der Roost作品カタログ(1997年)

▲木村吉宏(1997年10月30日、フェスティバルホール)

1997年(平成9年)5月2日(金)、オランダの出版社デハスケ(de haske)から、ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の交響詩『モンタニャールの詩(Poeme Montagnard)』のスコアがエアメールで届いた。

この作品は、イタリア北部ヴァレ・ダオスタ(Valle d’Aosta)州の州都アオスタ(Aosta)の市民参加のセミ・プロフェッショナル・バンド“ヴァル・ダオスト吹奏楽団(Orchestre d’Harmonie du Val d’Aoste)”の委嘱で1996年に作曲され、1997年1月26日(日)、同地におけるコンサートで、作曲者の客演指揮で世界初演された。

アオスタは、紀元前25年にローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが造った町で、今もローマ時代以降の歴史的建造物や美術工芸品が多く残る。モンブランを眼の辺りにする風光明媚な地で、アルプス越えの要衝としても知られる。フランスとの国境が近いこともあって、イタリアとフランスの文化が混在し、日常会話では普通にフランス語が話されている。楽団名のスペルや読みがフランス語なのもそのためである。

『モンタニャールの詩』は、そんなアオスタが育んできた歴史や文化、すばらしい景観からインスピレーションを得て書かれた交響詩だ。

筆者は、この作品の存在を、世界初演直後の作曲者からの報せで知った。

作曲者の相当な自信作であり、なんとかこの作品をクリティカルなステージにかけることができないかと考えた筆者は、当時の大阪市音楽団(市音、現 Osaka Shion Wind Orchestra)の団長で常任指揮者の木村吉宏さんに電話で相談した。すると、ひじょうに大きな関心が寄せられ、早速、作曲者から送られてきたカセットを市音に持参。団長室で一緒に聴くと、思いがけずも、その年の11月15日(土)に東京芸術劇場で開催予定の市音初の東京公演「大阪市音楽団東京特別演奏会」という大きな本番で本邦初演できないかと打診され、すぐにスコアを見たいという要望も出る流れとなった。

同様に、筆者も早くスコアを見たかったので、本邦初演の要望も含めてヤンに打診した。すると、東京での“本邦初演”の件にはあっさりOKが出て、“スコア”も出版社からできるだけ早く送らせる旨、連絡がきた。出版社の編集作業は着々と進んでいるようだ。

届いたスコアは、まだ表紙や解説類がなく、簡易的にリングで綴じただけのものだった。恐らく、若干のチェック漏れが残る完成途上のものだろうが、録音だけだと判然としない使用楽器編成や楽曲の構造など、音楽のあらましがはっきりした。

見れば見るほど、想像していた以上の作品だ。

早速、木村さんに電話を入れ、その日の内にスコアを市音事務所に持参。木村さんにザッと目を通してもらった後、当時、市音の全ての演奏曲をコントロールしていたプログラム編成委員(演奏家で構成)に手渡された。システム上、これではじめて市音の演奏予定レパートリーとなったわけだ。その後、編成委ではより綿密に専門的なチェックが行なわれ、必要なエキストラの確認や手配なども始まる。この時点では、遠隔地の東京で演奏される予定だったので、楽団として、これはとくに慎重な作業が必要となる。

一方のヤンは、『11月15日なら、コンサートに出席できるかも知れない。』などと無邪気なことを言ってくる。実は、この年の11月半ばは、筆者がミュージカル・スーパーバイザーをつとめていた大阪のブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の“ライムライト・コンサート”シリーズ(京都、大阪)にヤンをゲスト・コンダクターとして招聘していたので、両楽団のリハーサルのスケジュールを摺り合わせれば、15日の東京本番の出席はまだしも、直前リハへの立ち会いはなんとか叶う可能性があった。

しかし、作曲者のこのささやかな願いは、誰もが予想し得ない著作権が絡む事件の勃発に伴って、残念ながら実現されることはなかった。

東京公演のおよそ2週間前の1997年10月30日(木)に開催予定の「大阪市音楽団第75回定期演奏会」で本邦初演されるはずだったある作品が、こともあろうに、楽譜出版前に、アンオーソライズド・コピー(著作権上、作品の権利者である作曲家と出版社が承知しない非合法のコピー譜)が日本に持ち込まれ、スクール・バンドによって演奏されるという前代未聞の出来事があったことが発覚。市音では、急遽、その作品の演奏をとりやめ、代わって、ヤンの『モンタニャールの詩』が演奏予定を繰り上げて本邦初演することになったからだ。(参照:《第167話 交響詩「モンタニャールの詩」日本初演

しかし、この離れ業は、発覚が第75回定期のポスターやチラシが公にされる直前だったから可能となった。不幸中の幸いというべきか。ただし、当然、現場は大混乱。いきなり顔にドロを塗られるかたちとなった木村さんの“怒りの形相”もすさまじかった。

かくて、交響詩『モンタニャールの詩』の本邦初演は、10月30日、大阪・北区中之島のフェスティバルホールで開催予定の「大阪市音楽団第75回定期演奏会」(大阪文化祭参加)で行なわれることに決まった。

思い返すと、この年の夏は、木村さんが、オランダのケルクラーデで開かれる世界音楽コンクール(WMC)に出場する近畿大学吹奏楽部のヨーロッパ演奏旅行に客演指揮者として帯同するなど、結構バタバタしたため、『モンタニャールの詩』に関しては、ヤンからのスコアの編集ミス等の連絡以外、しばらく動きはなかった。一方、肝心の楽譜の方は、出版前の初秋までには届き、あとは本番に向けてのリハーサルの日を待つばかりとなった。

しかし、10月に入ると、演奏前の細かいチェックが入る。木村さんからも、『途中の四声のリコーダーやけどなぁ、木管に持ち替えパートの指定が書いてあるんやけど、あれ、どう思う?』とクエスチョンの電話が入る。早速スコアを見ると、リコーダーに持ち替える各パートの指定に特に深い意味があるように思えない。そこで、『おそらく、これは初演したバンドのステージ上の並びに関係していて、演奏当日のパート割りがそのまま印刷されているんじゃないでしょうか。』と応える。すると、『せやろな(そうだろうな)、ウチでこの指定どおりやると、リコーダーの間隔もバラバラになって、バランスがとりにくいんや。プレイヤーも吹き辛らそうにしているし…。』と返って来た。

他の練習が早く終わったときに、試奏をしたみたいだ。

木村さんは、つづけて『実は、大阪になかなかええリコーダーのグループがおってな。それを木管の第一列の前に指揮台を取り巻くように並べようかと思うんや。ヴァンデルローストに“やってええか”訊いてくれへんか?』とリクエストが入る。木村さんらしいすばらしい閃きだ。そう思った筆者は、『了解です。しかし、たぶん何も言わないと思いますよ。』と返し、実際にこの質問を投げると、ヤンは何も言わなかった。要は、リコーダーの四重奏が音楽的に機能することがポイントだった。

交響詩『モンタニャールの詩』の本邦初演は、この日が初演となった櫛田てつ之扶の組曲『星へのきざはし』第1部や、市音による初レコーディング後のはじめての公開演奏となった保科 洋の『交響曲第1番』などとともに行なわれ、感動的な成功を収めた。終演後、2人の作曲家を楽屋に迎えた木村さんの晴れ晴れとした顔は忘れられない。

一方、運悪くタイミングをはずして来場が適わなかったヤンにこの日の演奏を届けるために、筆者は、事前にマネージャーの小梶善一さんを通じて依頼しておいたライヴ録音のDATテープを終演後に受け取り、本人の希望に沿ってMD(ミニ・ディスク)に落として、BBBの客演のために滞在中の大阪のホテルで“市音から”と言って彼に手渡した。

ヤンのそのときの喜びようはなかったが、これはすばらしい新曲を我々に託してくれた作曲家への最低限の礼節だ。

筆者は、同時に、木村さんの了解を得て、NHKのプロデューサーにもこの日の演奏を当時コメンテーターをつとめていたFM番組「ブラスのひびき」で放送することを提案。了解をとりつけて、翌1998年(平成10年)4月25日(土)にオンエア。翌26日(日)にも再放送できたことも、生涯忘れられない思い出のひとつとなった。

▲▼第75回大阪市音楽団定期演奏会(1997年10月30日、フェスティバルホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第167話 交響詩「モンタニャールの詩」日本初演

▲▼Orchestre d’Harmonie du Val d’Aoste パンフレット

このストーリーは、1997年(平成9年)1月31日(金)にベルギーのコンティフ(Kontich)から投函された普通便扱いのスモール・パケット郵便物と、その後、2月17日(月)に発信された一通のFAXから話がスタートする。

差出人は、いずれもベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)。

FAXが届いたとき、先に発送されたパケットの方は未着だったが、後日それが届いたときに内容物を確認すると、中にはDATテープとカセット・テープが各1本と、パンフレットが1冊入っていた。添えられていた簡単なメモ書きによると、DATは、当時、彼が教鞭をとっていたベルギーのレマンス音楽院(Lemmensinstituut)のシンフォニック・バンドのライヴ録音で、ふたりの共通の友であるオランダ人作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)が客演指揮をした交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』の第1楽章と第5楽章、そしてヤンが指揮をした自作の『ホルン・ラプソディ(Rhapsody for Horn, Winds and Percussion)』が、カセットには、最近、ピーター・ヤンセン(Pieter Jansen)指揮、オランダ王国陸軍バンド(Koninkilike Militaire Kapel)によってレコーディングされた新作の『モンタニャールの詩(Poeme Montagnard)』のファースト・エディットが入っており、パンフはその新作を委嘱したイタリアのヴァル・ダオスト吹奏楽団(Orchestre d’Harmonie du Val d’Aoste)のものだと書かれていた。イタリア北部の、普段はフランス語が話されている地域の楽団だ。

一方、FAXには、注意喚起のためか強調のためか、わざわざ“近況”という文字が記され、文面もパケットのコンテンツを補完する内容で、両者を合わせると話がひとつにまとまる感じだ。

そして、筆者が、ヤンの交響詩『モンタニャールの詩』の曲名と初期情報に接したのも、このときが始めてだった。

どこかでお話ししたかも知れないが、ヤンは反応がすぐに返って来ないと心配になる性分だ。このときは、彼が先に送り出したパケットを実際にはまだ受け取っていなかったので、こちらには何の落ち度もないが、相手はもう届いているはずだと確信しながらFAXを送ってきた様子だ。なので、FAXは、事実上の返信を催促するプレッシャーのように映る。つまりは、それだけ筆者の最初のアクションが気になって仕方なかったのだろう。

FAXの本文は、『“モンタニャールの詩”は、大編成のシンフォニック・バンドのための Symphonic Tone Poem(交響詩)で、演奏時間は15分前後。少なくとも“スパルタクス”と同じ程度の難易度だ。』に始まる。

ヤンがここで引き合いに出した“スパルタクス”とは、彼との交友がはじまるきっかけとなった1988年作の交響詩『スパルタクス(Spartacus)』のことだ。そのときは、まずスコアを入手した後、彼との質疑応答をへて楽譜を購入。知人が指揮をする大阪や京都のバンドに紹介するといずれもたいへんな好評で、その後、月刊誌「バンドピープル」1990年12月号(八重洲出版)の連載《名盤・珍盤・かわら版、パート125》やオランダ盤CDなどを通じて紹介を重ねると、日本国内で一気に火がつき、編成規模の大きなオリジナルなのであまり売れないかも知れないと考えていたオランダの出版社デハスケ(de haske)の予想をはるかに上回る部数の楽譜が日本向けに輸出されたというエピソードをもっている。同時に、ヤンの名も一気に知られるところとなった。(参照:《第78話 ヴァンデルロースト:交響詩「スパルタクス」の物語》)

後日談だが、個人的に不思議に思ったのは、我々が知り合う少し前、商談のために来日したデハスケのマネージャーが、東京佼成ウインドオーケストラやヤマハを含む在京の大手楽譜ディーラーに楽譜を持ち込んだものの、行く先々でまるで相手にされなかったと聞かされたことだ。あんないい曲なのに。今では笑い話のようだが、当時は、バンド用のオリジナル作品の楽譜と言えば“アメリカもの”という当時の業界の固定概念がそうさせたのかも知れない。

ヤンのFAXは、その後こう続く。

『それ(モンタニャールの詩)は、イタリアのセミ・プロフェッショナル・バンドによって委嘱され、イタリアでの初演は、ボクが振った。初演は本当に大成功だった。過去数年来の自作のベストであり、もっともオリジナリティーにあふれる作品のひとつだと思う。しかし、…、作品はとても難しい。』

ここまでを読んでピンときたが、今度の『モンタニャールの詩』という交響詩は、相当な自信作のようだ。つまりは、それを日本でお披露目をする機会を作ってほしいということなんだろう。まだスコアは見ていないが、そうだとすると、日本での紹介は、少なくとも作品のステータスにふさわしいかたち、即ちプロフェッショナルによる演奏で評論家が入るようなクリティカルなコンサートで評価されるべきだと、瞬間的にそう思った。

そうなると、演奏者や演奏機会は限定される。

ときは1990年代の半ばを過ぎたあたり。ちょうどその頃、木村吉宏さんが団長兼常任指揮者をつとめる大阪市音楽団(市音、現Osaka Shion Wind Orchestra)は、間違いなく一時代のピークを迎えていた。また、Bbクラリネットの3パートに各4名の奏者を配すなど、木管を中心に多くの種類の楽器を使うヤンのオーケストレーションに即応できる充実した編成をもっていた。レコーディングも活発で、年2回開催される定期演奏会では、前述したヨハンの交響曲第1番『指輪物語』、同第2番『ビッグ・アップル(The Big Apple)』、フィリップ・スパーク(Philip Sparke)の『シンフォニエッタ第2番(Sifonietta No.2)』、ジェームズ・バーンズ(James Barnes)の『交響曲第3番(Third Symphony)』などの初演や本邦初演をつぎつぎと成功させていた。(参照:《第59話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」日本初演》、第143話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」日本初演》)

もちろん、話を持ちかける相手として不足は無い!

また、以上4曲を定期で取り上げることを木村さんに提案した張本人が、偶然、すべて筆者だったため、木村さんが今度のヤンの最新作にも関心を寄せることはまず間違いないと、妙な確信を持っていた。ただ、またまた未知の新曲だけに、市音のプレイヤーさんにとっては、いい迷惑だったろうが…。

唯一心配だったのはスケジューリング、つまりどの演奏会で取り上げてもらえるか、という点だけだった。というのは、市音の年2回の定期の選曲は、ほぼ1年前から始まっており、1997年のケースだと、6月10日(火)の第74回(指揮:ハインツ・フリーセン、ザ・シンフォニーホール)のための曲も10月30日(木)の第75回(指揮:木村吉宏、フェスティバルホール)のための曲も、かなり早い時点にフィックスされていた。また、演奏予定曲にいわゆる“初演もの”が入っている場合、これまた早い時点から権利者との長い折衝がはじまっていた。

さて、そんな市音にヤンの送ってきたカセットを持ち込んで、木村さんと一緒に聴いたのは4月11日(金)の午後だった。

テープを一聴後、木村さんはこう言った。

『これなぁー、楽譜、いつもらえるんや?』

もう、やる気満々である。そこで、“ヤンのオリジナル譜は鉛筆書きなんで、デハスケでの浄書はかなり時間がかかりますが、恐らく秋には大丈夫だと思います”と返すと、『そうか。それやったら、これなぁー、11月の東京公演でやらせてくれへんか?』との想定外の回答が返ってきた。なんと、11月15日(土)、東京芸術劇場で開催する市音初の東京公演で演奏したいというのである。しかし、確か東京用のプロは、大栗 裕の『大阪俗謡による幻想曲』や前述したバーンズの『交響曲第3番』なんかですでに固まっていたはず。それを確認すると、こう返ってきた。

『プログラム(編成委員)がなかなかええアイデア出してくれてるんやが、“初演もの”がないんや。しかし、これを入れると立派なプログラムになる。初の東京やし、ぜったい成功させな、あかんのや。』と。

心の中で“あ~あ、これで市音プログラム編成委員の諸氏には、またまたヒグチにひっくり返されたと思われるなぁー”とため息をつきつつも、一方で本邦初演が一年先の1998年(平成10年)にならなくてよかったという妙な安堵感もあった。やれやれ。

帰宅してヤンに知らせると彼も大喜びで、普通はこれにて“一件落着”のはずだった。

しかし、それから1ヵ月後の5月18日(日)、三重県志摩市の合歓の里で開催された日本吹奏楽指導者クリニックのヤマハ・バンドクリニック・ゴールデン・コンサート(合歓の響ホール)に市音が出演した際、思いがけない事件が起こった。この騒ぎは、木村さんとクリニック参加者の歓談中、前年の1996年(平成8年)に作曲者からスコアを贈られ、市音が10月の第75回定期演奏会で本邦初演を予定していた曲を“もうウチがやりました”という、とある高校の先生が登場したことに始まった。その曲は、当時未出版で、著作権法のルール上、委嘱関係以外の演奏はあり得なかったが、どうやら著作権者である作曲者も出版社も知らない内にアンオーソライズド・コピーが海外から日本に持ち込まれ、それが演奏されたようだった。

なんてこった!!

その結果、満座の中で大恥をかかされるかたちとなった木村さんは、すぐプログラム編成委員全員を招集し、『恥をかかせる気か!』と珍しく強い言葉で叱責。この話は、すぐに委員の田中 弘さんからの電話で筆者にももたらされた。その曲の演奏提案も筆者がしたものだったからだ。ただ、事情が急に呑みこめない筆者は、“それはあり得ない”とだけ言って、作曲者と出版社にすぐ連絡をとり、その回答を持って市音で事情説明をすることになった。しかし、作曲者と出版社の回答は、『それはあり得ない。今、日本にあるのはあなたの手許に届けた1セットだけだ。』という断定調の強い否定だった。彼らは、出版前のプルーフを市音の日本初演用に1セットだけ特別に作って送ってくれていたのだ。

結局、筆者が管理不行き届きのかどで市音と木村さんに深く謝罪することになり、事情を汲んだ木村さんは、怒りの矛先を収めてくれた。ただ、一度ケチのついた同曲の演奏は市音では見送られることになり、第75回定期演奏会では、代わって、一度は東京公演用としてヤンと合意した交響詩『モンタニャールの詩』が本邦初演されることになった。

▲チラシ – 第75回大阪市音楽団定期演奏会(1997年10月30日、フェスティバルホール)

▲プログラム – 第75回大阪市音楽団定期演奏会(同上)

▲同、演奏曲目

▲第75回大阪市音楽団定期演奏会(1997年10月30日、フェスティバルホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第166話 アルフレッド・リード「栄光への脱出」の頃

▲CD – 栄光への脱出(佼成出版社、KOCD-3013、1990年、褪色アリ)

▲KOCD-3013 – インレーカード

▲CD – ゴールデン・イーグル/金管と打楽器のための交響曲(佼成出版社、KOCD-3012、1990年)

▲KOCD-3012 – インレーカード

▲Alfred Reed(撮影日不詳、普門館、提供:佼成出版社)

2021年(令和3年)、ウィンドオーケストラの世界は、ひとりのアメリカ人作曲家の生誕100周年というアニヴァーサリー・イヤーを迎えた。

作曲家の名は、アルフレッド・リード(Alfred Reed, 1921~2005)。

1981年(昭和56年)、東京佼成ウインドオーケストラの招きで初来日。同年3月28日(土)、東京の新宿文化センターで行なわれた第28回定期演奏会を客演指揮し、満員札止めの大成功を収めたのを手始めに、以降もたびたび来日し、同ウインドオケを指揮して自作品を中心とした多くの録音を残した。

その功績はひじょうに大きいものがあるが、それに加えてゼッタイ忘れてはならないことは、つぎつぎリリースされたこれら自作自演盤の収録曲に、必ずといっていいほどの頻度で、ファンが待ちわびる新曲が含まれていたことだろう。中には本国アメリカにもない初録音の曲もあり、日本のファンはいち早くそれらを耳にする機会を得たのである。

一方で、リードは全国各地の吹奏楽団のコンサートやイベントにも客演するなど、指揮者やクリニシャンとしても大活躍を見せた。その結果、日本国内におけるリード人気と作品の知名度は、他国のそれと比べてもかなり大きなものになった。この時代、身近にレコーディングや自身のライヴが存在するかしないかの差は、歴然としていた。

それだけに、折からのコロナ禍にさえ見舞われなかったら、2021年は、文字どおりの“リード・イヤー”となっていただろう。

しかし今、1980年代以降に国内で制作された数々のレコーディングをあらためて振り返ると、当時情熱を傾けて進められたリードの録音プロジェクトが、ある意味、際立ってユニークな企画だったことにすぐに気がつくことになるだろう。

それはまず、日本国内における体系的なリード作品の録音を先頭をきって手がけることになったのが、一般の商業レコード会社ではなく、東京・杉並区和田に本社がある(株)佼成出版社の音楽出版室だったことだ。

逆説的に言うなら、同社プロジェクトの発想は、いつも近々の採算のことばかり気にかけているような商業レコード会社では、とうてい実現不可能なものだった。

佼成出版社は、まず、1981年の初来日に際し、3月25日(水)と26日(木)の両日、普門館でリードとの初のセッションを行ない、前述した28日の第28回定期演奏会で収録したライヴやインタビュー、リハ風景を組み合わせた2枚組LP「A.リード&東京佼成ウィンドオーケストラ」(佼成出版社、KOR-8101~8102)を、同社のゲスト・コンダクター・シリーズの第1弾として、6月10日(水)にリリース。それがレコード各社が驚くような大成功を収めると、以降も、リードの来日機会をとらえてセッションを継続。世界的に見ても類例を見ない自作自演によるリードの作品コレクションを創り上げた。

そして、同社音楽出版室のホームページに示されているとおり、同社のCD全127タイトルは、21世紀の現在もiTunes Storeを通じてダウンロード購入可能となっている。

こういうものを真のアーカイヴスという。

今も手許に残る関係者向けの同社の録音企画書(平成1年10月30日付)には、こんな文言が見られる。

『….。リード作品は約100曲生まれており、オリジナル作品を、当社は初期からの作品を含めて31曲を発刊してきました。これからもリード氏の来日が可能な限りレコーディングを年1回春に行なっていく予定であり、彼の作品を集大成して、完璧なアルバムになるものにしたいものです。….』(原文ママ)

将来の完成形を見据えたある種の信念にも似たこのやる気まんまんの提案はどうだ!!

在京大手がインディーズ・レーベルの一つぐらいにしか捉えていなかった佼成出版社の先進性とモチベーションの高さをよく表している文章だ!!

筆者がリードと初めてタッグを組むことになった異色のCD「栄光への脱出」(佼成出版社、KOCD-3013、1990年)も、そんなリード・プロジェクトの中で制作された。

ことの発端は、1989年秋のことだった。ちょうどこの頃は、同年7月に行なわれた東京佼成ウインドオーケストラ初のヨーロッパ演奏旅行を終えた直後であり、ツアー中にロンドンで録音された「フランス組曲」(フレデリック・フェネル指揮、佼成出版社、KOCD-3101)と「ドラゴンの年」(エリック・バンクス指揮、佼成出版社、KOCD-3102)の2枚のCDが10月25日(水)に発売される直前だった。因みに、「ドラゴンの年」の方は、筆者が佼成出版社からプログラム・ノートの執筆を依頼された初のCDである。(参照:《第41話 「フランス組曲」と「ドラゴンの年」

そして、その日、たまたまビクターの打ち合わせで上京していた筆者は、用件を片付けた後、帰りの新幹線まで少し余裕があったので、夕刻の短時間、挨拶だけのつもりで佼成出版社をアポなし訪問した。

すると、筆者の顔を見るなり、ロンドン録音CDの担当でもあった柴田輝吉さんから、『今、来年3月のリードさんの録音でちょっと困ったことになっていてね。』と話が振られてきた。屈託のない笑顔を伴いながら…。(こういうときは、怖い!)

何かと聞けば、佼成出版社では例年どおり2枚のアルバムを作ることを考えていて、東京佼成ウインドオーケストラと録音会場の普門館の日定もその流れで押さえているが、リードから送られてきた提案をオケに提示すると、それは、後に1曲を加えてCD「ゴールデン・イーグル/金管と打楽器のための交響曲」(佼成出版社、KOCD-3012、1990年)になる、ちょうど1枚分にあたる分量のレパートリーだけだったので、『押さえている日程でもう1枚録れるよ。もったいない。』という反応が返ってきたそうだ。それを社に持ち帰ってすぐにリードに確認すると、“たまたま作品が揃ってないので、今回もう1枚録るのは不可能だ”という趣旨の返信があったのだという。

そこで、“どうしようか”と部内で話していたところへ、“飛んで火に入る~”といった感じで、突然筆者が目の前に現れたというシチュエーションだったらしい。シメシメと思われたのか、柴田さんは、『何かアイデアない?』と質問を投げてくる。

そして、この時は、まさか自身の発言がそのまま採用されることになるとは夢にも思っていない筆者は、瞬間的にこう切り返した。

『ところで、リードがアレンジした“グリーンスリーヴス”や“枯葉”を聴いたことある? “栄光への脱出”とか“アラビアのロレンス”とか“メリー・ポピンズ”とか、アレンジはいっぱいあるんですよ。シリアスなファンには叱られるかも知れないけど、ボクならそんなCDがあれば飛びついて聴きますよ。楽しいもんね。』とだけ口にしたところで、急いで同社を後にした。新幹線の時刻が刻々とせまっていたためだ。

柴田さんは、“ウルトラマン・シリーズ”でおなじみの円谷プロの出身。直感的にピンときたのか、筆者が口にする曲名をしきりにメモっていた。こちらもそれには気づいていたが、まさかそれを即行でリードに逆提案するとは….。若い頃ダンス・バンドを率いてアメリカ中を駆け巡っていたというリードもそれに呼応し、すでに絶版になっていた楽譜もアメリカでかき集めるという方向で、このセッションの実現がアッという間に決まってしまった。ただ、オリジナル出版社と権利関係の折衝はかなり大変だったらしい。だが、それもリードが率先してあたってくれ、最終的に彼はアルバムのサプ・タイトルを「シンフォニック・ポップス」と決めた!

因みに、メイン・タイトル「栄光への脱出」は、筆者のアイデアだ!

収録中、『大切なのは、ハートを込めることです。』と何度も口にしたリード。

セッション終了後に、『グリーンスリーヴス』だけは、リードの希望で同時発売のCD「ゴールデン・イーグル/金管と打楽器のための交響曲」に移されることになったが、それでも筆者はけっこう大満足!!

録音2ヵ月後の1990年5月13日(日)、日本万国博覧会記念公園に於ける「ブラス・エキスポ ’90」で撮影されたリードの写真が表紙中央にあしらわれた「バンドピープル」1990年8月号(八重洲出版)掲載の連載“名盤・珍盤・かわら版”Part 121にもそう書いたが、CD「栄光への脱出」は、こうして“棚からボタモチ”のような1枚として実現した!!

▲「バンドピープル」1990年8月号(八重洲出版)

▲▼ 録音企画書(1989年10月30日)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第165話 日本ワールド・レコード社の記憶

▲ソノシート – 「第38回選抜高校野球大会大会歌・行進曲」(毎日新聞社、非売品、1966年)

▲LP – 阪急少年音楽隊コンサートシリーズ第1集」(日本ワールド、W-312、1968年)

▲W-312 – A面レーベル

▲W-312 – B面レーベル

かつて、大阪に、在京大手とはまるで繋がりがない独立系のたいへんユニークなレコード会社が存在した。

その名は、「日本ワールド・レコード社」。

筆者は、かつて月刊誌「バンドピープル」1983年9月号(八重洲出版)に、連載“名盤・珍盤・かわら版”のPart 40として、「JWR訪問記 ─ 日本ワールド・レコード(大阪)─」という一文を寄稿したことがある。だが、時の流れは速い。今では、同社の名を知る人も本当に少なくなってしまった。

そこで今回は、その頃を思い出しながら、日本のウィンド・ミュージックの発展に少なからず寄与・貢献した同社の記憶を語っていきたいと思う。

日本ワールド・レコード社があったのは、戦前から関西を代表する高級住宅街のひとつといわれる大阪市阿倍野区帝塚山の一角。市内浪速区の「恵美須町」駅を起点とする路面電車、阪堺電気軌道の電停「東玉出」~「塚西」間の電車道から東方向に石畳の敷かれた細い坂道を登った先にあった。創業者は、靭 博正(うつぼ ひろまさ)さんで、門があり庭に高低さまざまな庭木が植わる氏の自宅の玄関左側の洋間が事務所兼編集室として使われ、右側の別室にマスターテープや在庫品が保管されていた。

社長の靭さんは、関西学院大学(関学)の出身で、同窓には、同じ年の生まれで、のちに兵庫県西宮市立今津中学校吹奏楽部の初代指導者として関西屈指のスクール・バンドに育て上げ、その後、阪急少年音楽隊の隊長、阪急百貨店吹奏楽団の常任指揮者として全国に名を轟かせた鈴木竹男さん(1923~2005)がいる。ともに音楽好きで鳴らしたが、出身校の私立甲陽中学校在学時に吹奏楽部で活動した鈴木さんは、関学に吹奏楽部が無かったため、グリークラブに入り、その傍ら、甲陽中OBバンドを結成。一方の靭さんは、関学の軽音楽部の創設メンバーとして活動。出発点のジャンルこそ違うが、それぞれの道で切磋琢磨していた。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)

卒業後、鈴木さんは、母校の甲陽中学の教員として吹奏楽部を再出発させ、1953年(昭和28年)に前述の今津中に赴任。靭さんは、大阪・梅田にあった進駐軍専用の北野劇場のジャズバンドにテナー・サクソフォン奏者として参加したが、そのピアニスト兼バンドマスターが、かの得津武史さん(1917~1982)だった。

人の縁とは面白いものだ。

得津さんは、大阪音楽学校(後の大阪音楽大学)を卒業後、1939年(昭和14年)に大阪市立南田辺尋常小学校の代用教員となり、ほどなく出征。満州では、上官の命令で速成の軍楽隊を作り、指揮者として活動。2度目の応召から復員した後は、南田辺小の教員とジャズバンドの二足の草鞋を履き、とはいいながら、実態はほとんど毎日バンドを率いて進駐軍キャンプをめぐって、演奏に明け暮れていた。進駐軍というのは、敗戦後、日本を統治したアメリカ軍を主体とする占領軍のことで、その仕事はギャラが良かったので、ひとり得津さんだけが例外ではなく、音楽で腕に覚えのあるものはみな、生きていくためにこぞって進駐軍の仕事をした。だが、その反面、得津さんが学校に行く日はどんどん減っていき、週に一日程度になってしまったので、当然校長との折り合いは悪く、やがて退職。その後、1952年(昭和27年)に、西宮市立夙川小学校の専任音楽教員となるのを機に、ジャズバンドを解散。1956年(昭和31年)に、前任者の鈴木さんに口説かれるかたちで、今津中学校吹奏楽部の二代目の指導者となった。(参照:《第160話 オール関西の先駆者たち》)

余談ながら、のちに大阪市音楽団(後のOsaka Shion Wind Orchestra)の団長となり、長年、関西学院大学応援団総部吹奏楽部の顧問をつとめた永野慶作さん(1928~2010)も、得津さんや靭さんらと同じフィールドで腕を競い合ったライバル・バンドのスター・トランペッターで、戦後すぐのこの時代を駆け抜けた人たちが、その後の関西の吹奏楽界の隆盛を支える中心になっていくのはとても興味深い。(参照:《第149話 市音60周年と朝比奈隆》)

得津さんのバンドが解散後、靭さんは、仲間に声を掛けて新たなバンドを作り、バンドマスターとして活動。参加メンバーからは、後に、東京に出て成功を収めた歌手やピアニスト、作曲家など、有名人を何人も輩出している。

事務所で古い話に興じるとき、靭さんは、懐かしそうにこう呟いた。

『みんな東京に行って成功しよってなぁー!』

その後、靭さんは、本業のジャズバンドと並行して、1963年(昭和38年)から録音やレコード制作の会社を立ち上げる準備を始め、翌64年にその業務をスタートさせる。これが日本ワールド・レコード社のルーツである。もっとも、当初は、知人や関係者を通じて依頼される社歌や校歌等の制作がメインで、たまに関西ローカルの歌手のインディーズもあったようだが、レコードよりもソノシートの制作が多く、収入もバンドだけが頼りという時代がしばらく続いたという。(参照:《第30話 ソノシートの頃》)

そのワールドの事務所で靭さんから頂いた辻井市太郎指揮、大阪市音楽団演奏のソノシート「第38回選抜高校野球大会大会歌・行進曲」(毎日新聞社、非売品、1966年)は、そんな最初期の1枚で、因みに同年の入場行進曲は、いずみ たく作曲『ともだち』を指揮者の辻井さんが編曲したものだった。(参照:《第142話 もうひとつの甲子園》)

吹奏楽レコードの制作も、ここまで話してきた人脈の中から自然発生的に始まったようで、最初に制作されたアルバムは、1968年(昭和43年)に通信販売でリリースされた30センチLP「阪急少年音楽隊コンサートシリーズ第1集」(日本ワールド、W-312)と今津中吹奏楽部の25センチLP「吹奏楽部の息子たちと一緒に」(日本ワールド、W-313)の2枚だった。(参照:《第164話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の余韻》)

他方、今もマニアの間でコレクター・アイテムとして評価が高い吹奏楽コンクールのライヴEPは、同一団体の課題曲と自由曲の演奏をレコード表裏のA面とB面に収めたもので、1967年(昭和42年)11月26日(日)、東京厚生年金会館で開催された“第15回全日本吹奏楽コンクール”のものから存在が確認されている。

あまり知られていないが、これらEPは、靭さんの方針で、会場で録音したオリジナル・テープがそのままマスターとしてプレス工場に送られており、音の鮮度の高さと臨場感が魅力だった。

1989年(平成元年)に事務所を大阪府池田市住吉に移し、靭さんの事業を引き継いだ村瀬正和さんにこのあたりの事情を訊ねると、『私が入社する前のことなのでよくわかりませんが、この当時のものは、レーベルに校章や社章がきちんと印刷されていますので、恐らくは演奏者の依頼を受けて始まったものだったと思います。』との証言を得た。

村瀬さんは、2007年(平成19年)に後進に道を譲り、その時の組織変更に伴い、同社の社名も「ワールドレコード株式会社」に変更された。筆者ともここで関係が完全に途切れたので、同社のその後の動向についてはまったくわからない。

そう言えば、筆者がロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーで悪戦苦闘した1988年より少し前、靭さんから、『この事業を引き継いでくれないか?』と打診されたことがあった。一方で村瀬さんたちの日頃の頑張りをよく知っていたので即答できなかったが、もしもこのオファーを受けていたら、その後の人生はまるで違ったものになっていただろう。

正しく人生の分岐点のひとつだった。

▲LP – 第18回全日本吹奏楽コンクール金賞シリーズ 第一集《中学・高校編》(日本ワールド、JWR-2001、1971年)

▲JWR-2001 – A面レーベル

▲JWR-2001 – B面レーベル

▲LP – 第18回全日本吹奏楽コンクール金賞シリーズ 第二集《大学・職場・一般編》(日本ワールド、JWR-2002、1971年)

▲JWR-2002 – A面レーベル

▲JWR-2002 – B面レーベル

▲「バンドピープル」1983年9月号(八重洲出版)

▲同上66頁、“名盤・珍盤・かわら版”Part 40「JWR訪問記」(出版社の許諾により掲載)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第164話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の余韻

▲25cm LP – 吹奏楽部の息子たちと一緒に(日本ワールド、W-313、1968年、齋藤庸介氏所蔵)

▲W-313 A面レーベル(褪色アリ)

▲W-313 B面レーベル

▲W-313、インレーカード

2022年(令和4年)の寅年、新年早々の1月4日(火)にアップロードした《第161話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」への旅》への反響は、ある程度予期していたとはいえ、その予想をはるかに超えるものだった。

それだけ、かつて兵庫県西宮市立今津中学校吹奏楽部の名を全国に轟かせた伝説的指導者、得津武史という人物のネーム・バリューが大きかったということだろう。

アップ直後の第一波は、ホルン奏者の下田太郎さんからもたらされたつぎのメールだった。下田さんとは、《第159話 ヴァンデルロースト「いにしえの時から」世界初演》でもお話ししたとおり、都合の合った各地で“夜のミーティング”を絶賛開催する間柄だ。

『先月18日、私は大阪に居りました(笑)。フェスティバルホールでの公演を20:30に終えて、緊急事態宣言中に長く休業を余儀なくされていた、JR甲子園口駅近くの焼き鳥屋さんでビールを頂いていました。こちらのお店の店主さんが、得津先生時代の今津中のOBで、まさに得津先生のお話で盛り上がっていたので、偶然に驚きました…..。』

下田さんの出身母校の福岡工業大学附属高校には、今津中出身者が何人も進学しており、附属高時代の先輩後輩つながりの縁りもあって、氏と今津中OBとの間には深い交流がある。筆者も、彼らの愉快な宴にお誘いを受けたことがあった。

メールにある“先月18日”とは、かつて「バンドジャーナル」誌(管楽研究会編、音楽之友社)に連載された得津さんのエッセイ「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の全貌を確かめるべく急遽上京。上野の東京文化会館4階の音楽資料室で、同誌の調査に没頭していた年末の12月18日(土)、まさにその日で、下田さんはその偶然の一致に驚いたという訳だ。

下田さんのこのメールに続き、この日は、新年の挨拶も兼ね、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんや関西国際大学の伊藤 透さん、東京佼成ウインドオーケストラのマネージャーの遠藤 敏さん、同じく元トロンボーン奏者の萩谷克己さん、名古屋芸術大学の竹内雅一さん、大阪音楽大学の木村寛仁さんなどからも、つぎつぎとメールや電話が入り、中には質問も含まれていたので、返信などでかなりバタバタした。

ただ、それらを読み返す内、質問を投げてくる人の文面に、得津さんのエッセイを今すぐ読みたいという願望が込められているのに気がついた。

実は、そんなこともあろうかと、《第161話》には、「国立国会図書館」や「東京文化会館音楽資料室」、「図書館データに蔵書検索」などのキーワードを盛り込んでおり、筆者が大阪から新幹線で東京に出向かないといけなかった事情などもお話ししてあったので、PCなどでそれらをたどって普通に検索していけば図書館情報にたどりつくのは比較的容易なはずなんだが、何故かみなさん僅かな時間を惜しむかのように質問を投げてくる。

『どこで読めますか?』と。

今や誰もがネット検索が使える時代なのに、である。

とても不思議だ。

という訳で、今回は、少しばかり実例もまじえながら、筆者の基本的な調査の進め方についてお話ししてみたいと思う。

まず、古い文献資料を当たるには、その所有者を見つけることに始まる。運よく身近に所有する個人がいればそれで解決するが、そうでない場合、全国の図書館が頼りとなる。その内、国内最大の蔵書数を誇るのが、東京の国立国会図書館だ。とはいえ、同館にも所蔵しない書籍も当然あるので、図書館同士の蔵書情報などを交換・検索するためにデータベースが存在し、その活用がとても有益である。

以上が、アプローチまでの基礎知識となる。

ここからは、件の「バンドジャーナル」誌を例に話を進めたい。

まず、グーグルに“国立国会図書館 バンドジャーナル 蔵書”と打ち込んで普通に検索してみる。すると、同館には創刊号(1959年10月号)からしばらくの間のバンドジャーナルの所蔵がなく、最も古い蔵書が第3巻12号(1961年12月号)と出てくるので、残念ながら所蔵のない号もあることが判明する。ちょっとガッカリするが、雑誌ではよくある話だ。また、12巻12号(1970年12月号)までの編者が“管楽研究会”だと表示されているのも興味深い。(参照:《第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》》

ついで、「国立国会図書館」ホームページのWebサービス「国立国会図書館サーチ」の検索窓に“バンドジャーナル”と入れ、検索結果の項目をスクロールしながら“バンドジャーナル”の項を見つける。その際、1970年までの初期の号を見たい場合は、その中から“管楽研究会”と表示されているページを選択し、さらに右側に表示される“見る・借りる”の項目から“CiNii Booksで探す”を選択。すると、全国の大学図書館などで蔵書を持つ図書館が表示される。CiNii(サイニ)とは、国立情報学研究所が提供するデータペースのことだ。

ただ、ここで留意したいのは、このシステムの蔵書表示が、創刊の1959年を起点(第1巻)とする“巻数”とカッコ内に表示される“号数”の組み合わせで表示されていることだ。

例えば、4(10-12)という表示があれば、それは創刊4年目の1962年(第4巻)の10月号~12月号を所蔵するということを意味している。

これには慣れるまで少し戸惑うことになるかも知れないが、このルールさえ理解してしまえば、あとは簡単。目的の号を持つ図書館を見つけてコンタクトすれば、目的が達成されるというわけだ。

因みに、《第161話》で示した「吹奏楽部の息子たちといっしょに」掲載号を当たっていくと、思っている以上に簡単に、探している号がすべて所蔵されている以下の6館を見つけだすことができる。

国立国会図書館
東京文化会館音楽資料館
愛知県立芸術大学 芸術情報センター図書館
大分大学 学術情報拠点(図書館)
東京藝術大学 附属図書館
明治学院大学図書館付属 日本近代音楽館

他方、在阪図書館においては、エッセイが掲載されている可能性のある号は、残念ながら、大阪芸術大学図書館にわずか1冊が所蔵されるだけだと判明。それが、筆者をして新幹線で東京に向かわせる直接の引き金となった。

しかしながら、新幹線運賃を払った成果は上々!!

アップ翌日にも、東京のフルート奏者、岡本 謙さんから『こちらで持っていても、宝の持ち腐れになってしまいます。』とメールが届き、その結果、1966~1968年のバンドジャーナル7冊の贈呈を受けたり、Osaka Shion Wind Orchestra事務局の齋藤庸介さんが個人所有する、今津中初の25センチLP「吹奏楽部の息子たちと一緒に」(日本ワールド、W-313、1968年)を見せてもらったり、なおも余韻はつづいた。

動けば必ず何かが起きる!!

レッツ・トライだ!!

▲EPレーベル – 第16回全日本吹奏楽コンクール優勝(記念)(日本ワールド、W-347)A面

▲EPレーベル – 第16回全日本吹奏楽コンクール優勝(記念)(日本ワールド、W-347)B面

▲EPレーベル – 第17回全日本吹奏楽コンクール優勝記念(日本ワールド、WA-1087)A面

▲EPレーベル – 第17回全日本吹奏楽コンクール優勝記念(日本ワールド、WA-1087)B面

▲EPレーベル – 今津中学校吹奏楽部 華麗なる招待演奏 得津先生ハリキル(日本ワールド、JWR-4000)A面

▲EPレーベル – 今津中学校吹奏楽部 華麗なる招待演奏 得津先生ハリキル(日本ワールド、JWR-4000)B面

▲EPレーベル – 第20回全日本吹奏楽コンクール(金賞受賞)(日本ワールド、W-514)A面

▲EPレーベル – 第20回全日本吹奏楽コンクール(金賞受賞)(日本ワールド、W-514)B面

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第163話 汐澤安彦、Shion定期を振る

▲チラシ – Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会(2022年1月22日、ザ・シンフォニーホール)

▲▼Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会(同、楽団提供)

『大阪へ、ようこそ!』

『なかなかご縁がありませんでしたので…。』

2022年(令和4年)1月22日(土)、大阪のザ・シンフォニーホールで開催された「Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会」の終演後、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邉典紀さんとふたりで、当日の指揮者、汐澤安彦さんの楽屋を表敬訪問したとき、真っ先に交わした挨拶だ。

筆者は、この34年前の1988年4月16日(土)、東京の杉並区和田にあった普門館で開催したロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンド(The Central Band of the Royal Air Force)と東京佼成ウインドオーケストラによる《日英交歓チャリティーコンサート》の主催者で、そのときの東京佼成単独ステージの指揮者が汐澤さんだった。加えて、それ以降も、解説者として東芝EMIの録音セッションなどでご一緒する機会があった。《参照:第10話“ドラゴン”がやってくる!

一方の溝邉さんも、汐澤さんを学生吹奏楽連盟のコンサートや講習会に客演指揮者や講師として招いていた。

最初の挨拶を交わした後、すぐ旧知のふたりが久しぶりに訪ねてきたことに気づいた汐澤さんは、終始表情もにこやかで会話もはずみ、例えば先述の《日英交歓チャリティーコンサート》に話題を振ったら、『あのときは英語がわからなくてね。いろいろ助けてもらいました。』とすぐ返ってきたし、東芝EMIのセッション後、ご自宅まで車でお送りする車中、面白い話をいろいろと聞かせてもらい、そのことに話が及ぶと、懐かしそうに『あれは、新座(のセッション)でしたね。』と20年も30年も以前のことについても、それはそれは鮮明に覚えてらっしゃる。

傍らでふたりのやりとりを耳を澄ませて聞いていた溝邉さんも、『昔のこと、本当によう(よく)覚えてはりますねー。』と舌を巻くようなシーンもあった。

さて、そんな終演後の盛り上がりはさておき、《初共演、巨匠、汐澤安彦》というコピーがポスターやチラシ上に踊ったこの日の公演は、大阪市直営だった大阪市音楽団当時を含め、汐澤さんがShionを振った初のコンサートとなった。

日本最長の歴史をもつプロ・ウィンドオーケストラとウィンド・ミュージックのドライビング・フォースとして数多くのレコードやCDをソニーや東芝、コロムビアからリリースしたマエストロとの共演が過去に一度もなかったというのは、日本の吹奏楽史上の七不思議の一つのようなもので、当然ながら、筆者が慣れ親しんだ大阪のホールで汐澤さんの音楽を愉しんだのもこの日が初めてだった。

後から振り返ると、このコンサートのプロジェクトは、Shion理事長でバス・トロンボーン奏者の石井徹哉さんとの恒例の“夜のミーティング”で、筆者が何気なく『汐澤先生をお招きしたら?』と口にしたのが事の発端だったように思う。

その夜、“汐澤先生”という単語に反応した石井さんは、『学生のときにレッスンを受けたことがありまして,,,。』と言って、早速ウィンドのレジェンドに関心を寄せた。その後、連絡をとったら、すぐ返答があったことから、今度の初顔合わせが実現したのだという。

もっとも、当初は、2020年(令和2年)6月7日(日)の第131回定期演奏会(ザ・シンフォニーホール)として企画されたものの、折からのコロナ禍により一旦中止となっていた。(参照:《第124話 ウィンド・ミュージックの温故知新》)

その結果、日をあらためて第140回定期として開催されたこの日のプログラムは、第131回定期に予定されていた曲目をそっくりそのまま移したもので、以下のように、すべて懐かしい管弦楽曲からの吹奏楽編曲で構成されていた。

・キャンディード序曲
(レナード・バーンスタイン)クレア・グランドマン編

・ハンガリー狂詩曲第2番
(フランツ・リスト)クラーク・マカリスター編 / アルフレッド・リード校訂

・歌劇「ローエングリン」から “エルザの大聖堂への行列”
(リヒャルト・ワーグナー)ルシアン・カイエ編

・歌劇「イーゴリ公」から “韃靼人の娘の踊り”“韃靼人の踊り
(アレクサンドル・ボロディン)汐澤安彦編

・祝典序曲 作品96
(ドミトリ・ショスタコーヴィチ)ドナルド・ハンスバーガー編

・狂詩曲「スペイン」
(エマニュエル・シャブリエ)マーク・ハインズリー編

・序曲「1812年」 作品49
(ピョートル・チャイコフスキー)メイヒュー・L・レイク編

以上は、曲順も含めてすべて汐澤さんの提案で組まれ、長年にわたってレパートリーとして練りこまれ、愛演されてきたものばかりだった。

そして、汐澤人気も手伝ったのだろう。楽団直接販売分のチケットは見事に完売。会場には久しぶりに顔を合わせたような平均年齢の高いファンも多く見られ、あちらこちらに挨拶の輪ができる華やいだムードが漂っていた。

そして迎えた本番。しっかりとした足取りでステージに登場した汐澤さんの音楽は、メリハリが効き、ひじょうに立体的で、何よりも大音量になっても決してうるさくなく、耳あたりのいい美しいサウンドが響いていた。しかも全曲を暗譜で指揮。オケ原曲の吹奏楽演奏を聴いているはずなのに、随所でソロ・ワークが浮き出し、時折り繰り出すホルンやトロンボーンの咆哮もひじょうに効果的で、聴衆はいつの間にか汐澤ワールドに引きこまれていき、会場を大いに湧かせることになった。

さすがはレジェンドだ!ステージで見せる笑顔もすばらしい!!

『汐澤さん、元気ですね!』

隣りの席で聴いていた溝邉さんも正直驚いたというその指揮ぶりは、84歳という年齢をまるで感じさせない生き生きとしたパフォーマンスだった。

すばらしい音楽会だった!

そして、万雷の拍手に応えて、

・主よ、人の望みの喜びよ
(ヨハン・セバスティアン・バッハ)アルフレッド・リード編 / 汐澤安彦監修

・ティコティコ
(ゼキーニャ・ジ・アブレウ)岩井直溥編

の2曲がアンコールとして演奏され、コンサートは大団円!

もっと聴いていたい!

楽屋を退室する際、『いいバンドです!』というマエストロに大きく頷いた筆者は、思わず『また、大阪に来てください!』と叫んでいた!!

▲▼プログラム – Osaka Shion Wind Orchestra 第140回定期演奏会(2022年1月22日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第162話 Shion Times(シオンタイムズ)の系譜

▲「Shion Times シオンタイムズ」第58号(2022年1月)

▲My Favorite Classic Vol.01(同、第50号、2020年7月)

▲My Favorite Classic Vol.02(同、第51号、2020年9月)

▲My Favorite Classic Vol.03(同、第52号、2020年12月)

いつも、Osaka Shion Wind Orchestraの演奏会に出かけるとき、筆者のささやかな愉しみのひとつに、プログラムなどと共に入場時に配られる楽団発の広報紙「Shion Times シオンタイムズ」がある。

同紙の創刊号は、2014年(平成26年)4月1日(火)の発行。つまり、大阪市直営から民営化された当日の発行だ。そして、当時の楽団名が市営時代から引き継がれた“大阪市音楽団”のままだったから、同紙も「市音タイムズ」という名称で船出した。

当初は月刊で、楽団名が“Osaka Shion Wind Orchestra”に変更された2015年(平成27年)4月1日(水)の第13号からは「Shionタイムズ」と名を改めた。

また、2016年(平成28年)2月1日(月)の第23号以降は、合併号や季刊号もあったが、基本的に隔月刊のペースで発行され、2021年(令和3年)4月発行の第50号を機に表題を英語・日本語併記の「Shion Times シオンタイムズ」に改めた。

内容は、近く行なわれる演奏会の告知はもとより、音楽監督の宮川彬良さん、芸術顧問の秋山和慶さん、楽団長の石井徹哉さんのファンに向けてのメッセージや楽団員のお気に入り曲、各種特典など、その時その時にShionが伝えたい情報が盛りだくさん!!

近年では、ホルン奏者で事務局長の長谷行康さんの「事務局長のお仕事」(第51号)、ステージマネージャーの西上育郎さんの「ステージマネージャーのお仕事」(第52号)、チーフライブラリアンの津村芳伯さんの「ライブラリアンのお仕事」(第53号)、コンサートマスターの古賀喜比古さんの「コンサートマスターのお仕事」(第54号)という活動を支える人達が“自らの役割”をアツく語った“お仕事”シリーズや打楽器奏者でインスペクターの高鍋 歩さんが縁りが深い作曲家や作品について自由に語った「今月の作曲家(Our Favorite Composers)」(第55号~)のような特色あるコラムがファンの関心を呼んでいる。

因みに、「今月の作曲家」では、第55号でフィリップ・スパーク(Philip Sparke)の、第56号でヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の、第57号でヨハン・デメイ(Johan de Meij)の、第58号でジェームズ・バーンズ(James Barnes)の各5作品について、プレイヤー目線の紹介がなされている。

このように、ファンと楽団とを結ぶ貴重なツールとなっている「Shion Times シオンタイムズ」だが、実は同紙には前史があり、その始まりは市営時代の1977年(昭和52年)2月5日(土)に“大阪市音楽団友の会”が会報として発行したタブロイド紙「友の会だより」をルーツとする。

発行元の大阪市音楽団友の会は、市民の有志に楽団が協力するかたちで立ち上げられた民間組織で、1973年(昭和48年)7月6日(金)の“設立準備会”を含め4回の発起人会をへて、翌1974年4月21日(日)の“設立総会”をもって発足した。また、初代会長には、発起人総意で、1947年(昭和22年)から1972年(昭和47年)の定年まで市音団長をつとめた辻井市太郎(1910~1986)さんが推薦され、総会の了承をもって会長に就任した。《参照:第120話 交響吹奏楽団を夢みる

その活動ぶりについては、大阪圏外のファンには馴染みが薄いかも知れないが、あのアッという間に売り切れた“大阪市音楽団創立70周年 – 大阪市音楽団友の会20周年”記念の完全限定盤CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1974年)をはじめ、筆者が携わった大阪市の予算が見込めない何枚かの市音自主制作CDで、資金提供や販売で力添えいただいた。正しく“縁の下の力持ち”的な存在で、いくら感謝してもしきれない人達だ。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

さて、そんな友の会の会報だが、第1号の後しばらくは休刊状態がつづき、補完的に手書きコピー印刷の「大阪市音楽団友の会ニュース“おんがくだん”」が隔月刊で発行されていた。

一方、印刷による“会報第2号”が発行されたのは、第1号から2年後の1979年(昭和54年)2月5日(月)で、同時に表題も“友の会ニュース”でお馴染みとなっていた「おんがくだん」に改称された。

その後、会報「おんがくだん」は、しばらく不定期で発行されたが、1980年(昭和50年)11月1日(土)の第4号からは隔月刊の定期発行となり、友の会10周年の1983年(昭和53年)1月1日(土)の第18号から、表題を「市音タイムズ」と改称。友の会による発行は、民営化寸前の2014年(平成26年)3月1日(土)の第198号まで続いている。

というわけで、現在の「Shion Times シオンタイムズ」は、大阪の地に育まれた市音の豊かな吹奏楽文化の流れを途切れさすことなく民営化後のShionに引き継がれたものなのである。

確かに、つぎつぎアップテートできるネット上のホーム頁にも意味がある。しかし、紙の上に印刷された当時の空気を伝える情報のなんと生き生きとしていることか。

一方で、それは、Shionが確実にその一端を担ってきた日本の吹奏楽史の大きな一部分を成している。

それを簡単に朽ち果てさせてはいけない。

“Shion 100周年”に向け、同紙の再収集と整理にまい進する中、あらためて感じさせられた紙情報の重みの凄さだった!!

▲「友の会だより」 第1号(大阪市音楽団友の会、1977年5月2日)

▲「おんがくだん」第10号(大阪市音楽団友の会、1981年11月1日)

▲「市音タイムズ」創刊号(大阪市音楽団、2014年4月1日)

▲「Shion タイムズ」13号(Osaka Shion Wind Orchestra、2015年4月1日)