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■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第146話 ウィンド・オーケストラのための交響曲《第2弾》

▲CD – ウィンド・オーケストラのための交響曲[2](東芝EMI、TOCZ-9253、1995年)

▲ TOCZ-9253、インレーカード

1994年(平成6年)、東芝EMIが、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)の演奏で録音を開始。都合5枚のアルバムが世に送り出された「ウィンド・オーケストラのための交響曲」シリーズは、ウィンド・オーケストラ(吹奏楽)のために作曲されたシンフォニーだけにスポットをあてた画期的な交響曲シリーズだ。未完に終わったとはいえ、世界中のどの商業レコード会社にも類例を見ない超アグレッシブな企画となった。

プロジェクトの原案は、前々話《第144話:ウィンド・オーケストラのための交響曲》でお話ししたとおり、その前年の1993年(平成5年)5月に市音のオリジナル自主制作シリーズとして企画を立ち上げた“全集”プロジェクトで、発案者である筆者は、当時の市音団長で常任指揮者の木村吉宏さん(1939~2021)からシリーズ監修を委ねられていた。

とても名誉なことだった。

意気投合した木村さんとはすぐに中身の大筋で合意。氏の指示によって直ちに市音プログラム編成委員(当時のリーターは、竹原 明さん)による所蔵楽譜のチェックが始まり、その結果をもとに最初の企画会議が、6月24日(木)に市音練習場2階奥のアンサンブル室で行なわれた。

出席者は、木村さんのほか、プログラム編成委員とマネージャーの各位、そして言い出しっぺの筆者。当時の市音は、大阪市という行政の一組織だっただけに、やや場違いの筆者を除けば、さすがにみなさん会議というものに馴れている。テーブル上にはプログラム委まとめの楽器編成表付きの交響曲のリストが配られ、企画意図の説明、リストを通して課題の洗い出しなど、粛々と質疑が進められた。

しかし、なにしろ世界初企画である。制作費の予算請求という現実的課題だけでなく、マーケットの構築も課題のひとつになるかも知れなかった。分かりやすく言うと、狭い国内マーケットだけをたよりにするようなものであってはならず、あらゆるコンセプトに“大阪から世界に向けて発信”という基本理念が貫かれていた。国際交流事業は、役所の中でもコンセンサスを得やすい話であり、創作を掌る海外の作曲家と緊密なネットワーク作りなど、同時進行的あるいは双方向の協力関係を得ることが必要不可欠だと思えた。

当然、海外通販も視野に入れていたのである。

幸い、この直後、筆者は、東芝EMIによる「吹奏楽マスターピース・シリーズ」のオランダ録音ほかの目的の渡欧があり、現地では、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の最新作『交響曲第4番(Forth Symphony)』がセット・テストピース(指定課題)として使われる“世界音楽コンクール1993(Wereld Muziek Concours 1993)”の会場も訪れることにしていたので、現地で出会う作曲家や演奏家、出版社と情報交換するので、帰国後の7月8日(木)の次回会議では成果を報告すると約し、この日の会議は終わった。(参照:《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》)

そして、オランダ到着初日の6月26日(土)の夜、交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』の作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)らに誘われるままついていったオランダ王国陸軍バンド(Koninklijke Militaire Kapel / KMK)のコンサートではじめて聴いたユリアーン・アンドリーセン(Jurriaan Andriessen、1925~1996)の『交響曲第2番(Symphonie No.2)』から、渡欧最初の音楽的衝撃を受けた。演奏も凄かったが、作品も凄かった!(参照:《第70話 オランダKMK(カーエムカー)の誇り》)

なぜこんないい曲が普通に演奏されているのだ!

早速、ヨハンからこのシンフォニーの版権をもつ出版社モレナール(Molenaar)の社長、ヤン・モレナール(Jan Molenaar)を紹介されたが、氏に質問を投げると、『この曲は、高度なためあまり演奏されないと思うので出版予定はない。リクエストがあればレンタルするが…。』とそっけない回答に正直失望。手続きも面倒そうなので、残念ながら構想上の優先順位を下げざるを得なかった。モレナールと言えば、かつてヨハンが売り込みのために持ち込んだ『指輪物語』のスコアを見て、『こんな長い曲はゼッタイ売れないので…』といって曲のサイズだけで自社での出版を断った人物だ。ひょっとして、他にも優れた作品が眠っているのでは、と思わせる残念な出会いとなった。

一方、世界音楽コンクール(WMC)で聴いたお目当てのリードの『交響曲第4番』もまた、充実したすばらしい作品だった。たまたま聴いたバンドは、すべてオプションのチェロを入れた演奏だったが、楽譜を見ると仮にそれを省いても支障ないように書かれていたので、これは収録すべき作品だと直感し、帰国後もそのように報告させてもらった。

話はどんどん前に進む。

残るはマネージメント部門、大阪市教育振興公社の予算化の報を待つばかりだ。

しかし、ちょうどこの頃、公社では市音初の自主制作CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年2月27日頒布開始)の制作にゴーサインが出たばかりで、その結果が出ない内からいきなり次の新企画の稟議を上げるのはかなり難しそうだった。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

ここでしばし、予算上のペンディングとなった訳だ。

そこへ白馬の騎士のように現れたのが、東芝EMIだった。

当時の市音は、東芝EMIの様々な部門から依頼録音を受けていたが、その中から“ぜひ、ウチでやらせてください”と手を挙げたのは、ヒット街道驀進中だった「大栗裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195、1993年)の録音を手がけたチームだった。

早く企画を始めたかった市音が、申し出を喜んで受けたことから、シリーズは、市音の自主制作盤から、東芝EMIのカタログ商品(商業CD)へと立ち位置が変った。マーケットの反応がまったく読めない中、商業レコード会社としてはかなり勇気ある決断だった。

一方の市音側としても予算面の心配をしなくてもよくなった反面、企画の自由度は後退せざる得ない局面もあることが予想された。

例えば、第1弾には、市音が最近手がけ、手の内にあるものから選ぶのがベストという点と話題性から、ヨハン・デメイの交響曲第1番『指輪物語』と同2番『ビッグ・アップル』のカップリング盤(2枚組)を当初提案したが、東芝は『録るんだったらどちらか一方ですね。』と提案を持ち帰り、森田一浩さんをはじめ、東芝関係者の意見を集約し、『ビッグ・アップル』にもう1曲をカップリングしたものにしたい、と返してきた。白馬の騎士のクライアントの意向には逆らえない。その結果、第1弾は、テーマをニューヨークに装いを改め、フランスのセルジュ・ランセン(Serge Lansen)が作曲し、デジレ・ドンデイヌ(Desire Dondeyne)がオーケストレーションを施した『マンハッタン交響曲(Manhattan Symphony)』をカップリングした「ウィンド・オーケストラのための交響曲[1]」(東芝EMI、TOCZ-9242、1994年)となった。

『指輪物語』については、前記の自主制作CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801)が市音事務所からの通販だけでアッという間に1500枚を売り切ったというニュースも伝わっていたので、東芝の関心度は薄かったのかも知れない。

また、この結果を受け、大阪方は、東芝EMIとタッグをくむシリーズの今後は、在京の専門筋をも納得させる選曲でないと企画が通らないということを学習した。

そんな訳で、『つぎ(第2弾)はどうすんのや?(どうするんだ?)』という木村さんの問いに対し、筆者は、ややオーソドックスながら、アメリカのバンド界の顔というべきアルフレッド・リード(Alfred Reed)の『交響曲第3番(Third Symphony)』に、ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager)の『交響曲第1番(Symphony for Band No.1)』、ジェームズ・バーンズ(James Bernes)の『交響曲第2番、作品44(Second Symphony, Opus 44)』を加えた3曲を提案。

リードの“3番”については、最新の“4番”もありと話したが、木村さんからは『“4番”やと、チェロをどうするかで、アレコレ言い出しよるかも知れんしな(言いだされるかもわからんしな)、ここは“3番”にするわ(決めるわ)。』と返って来た。

もちろん異存はなかった。

その後、この曲案は市音からそのまま東芝に提示され、今度はすんなりOKとなった。

しかし、好事魔多し。運命の1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分52秒、京阪神地方を激しい揺れが襲った。阪神・淡路大震災の発生である。

筆者も、その直前に“バチッ”という電気がショートするような音がして眼が覚め、立ち上がったところにズドーンときた。近所でも教会の塔が倒れたり家屋損壊があり、淀川の堤防が崩れるような大地震だったので、正直何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。何日かたってやっとのことで市音に行くと、木村さんが大きなジェスチャーで『ええとこ(いいところ)に来た。録音、どうする?』と声がかかる。話を聞くと、第2弾の録音に予定したホール(尼崎のアルカイックホール)の舞台装置が落ちて立ち入り禁止となり、他のホールも被害点検中で代わりが見つからないのだという。

木村さんからはまた、脳味噌を含め身体全体が強烈に揺さぶられたせいか、プレイヤーの音にも潤いがなくなって、音楽感を取り戻すにはかなりの時間が必要だという見立ても聞いた。大きな余震も続き、楽団のスケジュール上も、ほぼ1ヵ月後の録音予定だけに、仮に代わりの録音会場が見つからなかった場合、早急にバラシ(キャンセル)を考えないといけないという状況だった。

ここでも大変なことが起こっていた。

ところが、そんなふたりの大騒ぎに割り込むように、元市音クラリネット奏者でマネージャーの小梶善一さんの『ここ、どうです?』というやたら落ち着いた声が響いた。『ちょうど2ヵ月前(1994年11月)にオープンしたばかりの真新しいホールで、連絡したら、被害は無く、今やったら、偶然、録音予定日と同じ日が空いているそうです。』

ふたりで小梶さんのPCを覗き込むと、ホールは、大阪狭山市のSAYAKAホール。映し出された大ホールは1200名のキャパ。大きさは申し分ないが、新装開店というのが気になった。ホールの各部材が完全に乾く前は、設計上の音響が発揮されないというケースに遭遇した過去の苦い経験があったからだ。周囲に確認しても、誰もホールの音を知らない。

“苦労するかも知れない”と思いながらも、その場は『東芝さんに現状を話し、当初予定したホールが地震で使用禁止になって、新装のSAYAKAホールだけが同じ日程で録音を組めるが、一旦バラすか、予定どおり進めるか判断を仰ぎましょう。』と言うしかなかった。

東芝と市音の協議の結果、録音はゴーサイン。1995年(平成7年)3月1日(水)~3日(金)、SAYAKAホールでの第2弾のセッションでは、初日ジェイガー、2日目リード、3日目バーンズの順の録音が決まった。

しかし、いざ始まってみると、これが想像を絶するたいへんな現場となった。いつものと同じステージ配置なのに音が自然に流れ出さないのである。なぜかプレイヤー間の連携も取りづらく、マイク乗りもよく無かった。

ステージ上では、録音ディレクターの佐藤浩士さん、エンジニアの小貝俊一さん、アシスタントの本間 篤さんだけでなく、市音スタッフやプレイヤーまで、関係者総出で楽器や椅子を何度も移動、オケピットを動かし、その高さを調整してはまたポジション移動と、なんとか良好なプレゼンスを得ようと懸命の試行錯誤が繰り広げられた。

結果的に、CD「ウィンド・オーケストラのための交響曲[2]」(東芝EMI、TOCZ-9253)は、1995年6月21日(水)にリリースされ、斯界の高い評価を得た。

しかし、それはこの現場で注がれた全員の情熱があったればこその成果だった。

今あらためて、関係者すべてに大きなブラボーを贈りたい!!

ブラボー!ブラボー!ブラビッシモ!!

大地震のニュースのたびに想い出す、遠い記憶の1ページである!

▲▼セッション風景(1995年3月3日、SAYAKAホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第145話 リード「メキシコの祭り」初録音

▲19CD Box – Frederick Fennell The Collection(Venias、VN032、2017年)

▲ 同、収録曲一覧

▲ LP – La Fiesta Mexicana(米Mercury、MG 40011、1954年)

▲MG 40011 – A面レーベル

▲MG 40011 – B面レーベル

1954年5月12日(水)、アメリカ合衆国ニューヨーク州ロチェスターのイーストマン劇場(Eastman Theater)で、マーキュリー・レコードによるフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)指揮、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensenble)演奏のあるLPレコードのレコーディング・セッションが行なわれた。

録音会場となったイーストマン劇場は、私学のロチェスター大学イーストマン音楽学校(The Eastman School of Music of the Rochester University)のパフォーマンスの中核施設で、オープンは1922年。コダックの創業者ジョージ・イーストマン(George Eastman、1854~1932)の寄付で建築費が賄われ、同じくイーストマンが1921年に私財で創立した同音楽学校と同様、“イーストマン”の名が冠されている。オープン当初は、3,352席を持っていたが、21世紀の大改修で、より快適な2,260席のホールに作り変えられた。その際、イーストマン・コダック社が再び10万ドルの寄付を行なったことから、新装なった劇場内のコンサート・ホールは、“イーストマン劇場コダック・ホール(Kodack Hall at Eastman Theater)”と名がつけられている。

この日のレコーディングは、マーキュリーがイーストマン音楽学校の演奏家を起用した「アメリカン・ミュージック・フェスティウァル・シリーズ(American Music Festival Series)」と呼ばれる現代のアメリカ音楽を追う野心的なシリーズの第12集で、イーストマン・ウィンド・アンサンブルが演奏した盤としては、「American Concert Band Masterpieces」(Mercury、MG 40006、1953年)、「Marches」(Mercury、MG 40007、1954年)につぐ3枚目のアルバムとなった。

現代アメリカを追うシリーズらしく、レパートリーは、以下のようにすべてアメリカの作曲家の手になる作品だった。

メキシコ民謡による交響曲「メキシコの祭り」
La Fiesta Mexicana – A Mexican Folk-Song Symphony
(H. Owen Reed)

カンツォーナ
Canzona
(Peter Mennin)

詩篇
Psalm
(Vincent Persichetti)

荘厳な音楽
A Solemn Music
(Virgil Thomson)

コラールとアレルヤ
Chorale and Alleluia
(Howard Hanson)

録音スタッフは、スーパーバイザー(日本流だとディレクター)およびエンジニアがデヴィッド・ホール(David Hall)、テープ・トランスファーがジョージ・ピロス(George Piros)だった。

当時のマーキュリーは、伝説的エンジニアのC・ロバート・ファイン(C, Robert Fine、1922~1982)が始めたシングル・マイク(1本の無指向性マイク)によるひじょうに明瞭で定位感のあるフルレンジ・モノラル録音が評者から“リビング・プレゼンス”と呼ばれて人気を集め、1954年のこの録音も、指揮者の少し後方の上方およそ15フィート(5メートル近く)にアレンジしたノイマン(アメリカでは、“テレフンケン”と呼ばれた)のU-47というマイク1本で録音された。

音楽史的な視点で捉えると、複数のマイクでバランスをとって録音する他社の方式とは異なる手法をとるマーキュリーと、“ウィンド・アンサンブル”という新しいコンセプトを押し出したいフェネルとがタッグを組むことになったことは、偶然の産物とは言え、正しく運命的な出会いだったような気がする。

また、マーキュリーは、セッション・テープをコピーしてマスタリングを行なった他社とは違い、セッション・テープをそのままマスター・テープとして使っていた。アナログ・テープで録音を行なった時代だけに、サウンドの鮮度と言う点でこれも見逃せない。

ステレオ録音の始まる以前のモノラル録音だが、今もフェネルのイーストマン・ウィンド・アンサンブルの録音が評価されるのは、こうした制作側の姿勢という側面もあったのではないだろうか。

さて、こうして録音された演奏は、3ヶ月後の1954年8月、「La Fiesta Mexicana」(Mercury、MG 40011)としてリリースされた。前述のように、これは当時のアメリカの作曲家たちのオリジナル作品だけで構成されたアルバムであり、全曲が“初録音”だったが、その中でも、“メキシコの祭り”というメキシコ民謡をベースに書かれた色彩感豊かなシンフォニーがこのアルバムを通じて世界に向けて発信された意義はひじょうに大きい。曲名がアルバム・タイトルに選ばれたのも当然だろう。

1950年2月26日(日)、ウィリアム・F・サンテルマン少佐(1902~1984)指揮、アメリカ海兵隊バンド(“The President’s Own” United States Marine Band)による初演の4年後の出来事である。(参照:《第46話 H・オーウェン・リードを追って》)

ここで少し時代は飛ぶが、《第52話 ウィンド・アンサンブルの原点》でお話したように、1991年10月、東京佼成ウインドオーケストラのレコーディングのために宿泊した京王プラザホテル多摩でフェネル夫妻との朝食の際、イーストマン時代のことを伺ったことがある。そのとき、このアルバムについても少し話題をふると、マエストロは悪戯っぽい目をしながら、こう応じてくれた。

『あの録音は、その日ハワード・ハンソン(イーストマンの校長)がやるはずだった別の録音が彼のお母さんが亡くなったためにキャンセルになって、その代わりに急遽やることになったものなんだ。本当はもっと後にやるはずだったんだが、マーキュリーのスケジュールが一杯で延期不能となって….。5曲を2時間半のセッションで録ったんだ。“メキシコ”のコントラバス・クラリネットの音が魅力的だろう?』

これは、いろいろなところで、彼が話しているので特に目新しい話題でもないが、本人の口から直接聞くと、答え合わせをしているようでなんだか嬉しい。

その後、このアルバムは、マーキュリーがシリーズの規格を変更して、ゴールデン・ライアー・シリーズ(Golden Lyre Series)として発売していた16枚のアルバムをカタログからすべて削除し、“リビング・プレゼンス”を謳うオリンピアン・シリーズ(Olympian Series)に組み込んだことから、1956年10月、「Mercury、MG 50084」という新たな規格番号で再リリースされた。その際、音量の増大によりレコード溝のピッチ(間隔)を調整するマージン・コントロールを改良した新たなカッティングが行なわれている。

また、マーキュリーの各アルバムは、イギリスでも1956~1958年にパイ(Pye)が、1958年以降はEMIがライセンス製造したことから、このアルバムもパイ盤の「Mercury、MRL 2535」とEMI盤の「Mercury、MMA 11084」という2種類のイギリス・プレスが存在する。日本でも、1975年に日本フォノグラムから「Mercury、PC-1622(M)」としてリリースされた。

プレスが違えば音も違う。

マエストロとの会話中、“当然イギリスの初回盤(パイ盤)も日本盤も持っていますよ”と話すと、さすがの彼も目を丸くしていた。

“なんてヤツだ!”という顔をしながら…。

若き日の愉快な想い出である!

▲LP – La Fiesta Mexicana(米Mercury、MG 50084、1956年)

▲MG 50084 – A面レーベル

▲MG 50084 – B面レーベル

▲LP – La Fiesta Mexicana(英Mercury(Pye)、MRL 2535、1950年代)

▲MRL 2535 – A面レーベル

▲MRL 2535 – B面レーベル

▲LP – ラ・フィエスタ・メヒカーナ(La Fiesta Mexicana(Mercury(日本フォノグラム)、PC-1622(M)、1975年)

▲PC-1622(M) – A面レーベル

▲PC-1622(M) – B面レーベル

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第144話 ウィンド・オーケストラのための交響曲

▲木村吉宏(1939~2021)(大阪市音楽団練習場前)

▲CD – ウィンド・オーケストラのための交響曲[1](東芝EMI、TOCZ-9242、1994年)

▲TOCZ-9242 – インレーカード

『よし! その話、こうた(買った)!!』

1993年(平成5年)5月、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)の団長兼常任指揮者(当時)の木村吉宏さん(1939~2021)から電話が入り、昼食をご一緒した際、木村さんのある問いに応えた筆者の言に対し、周囲も驚く大きな声で、もの凄い勢いで返って来た言葉だ。

場所は、森之宮ピロティホール併設のアピオ大阪(大阪市立労働会館)1階のレストランだった。

当時の市音は、1991年から、東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどとともに東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピースシリーズ」(3枚組ボックス全10巻:TOCZ-0001~0030)の国内レコーディングの一翼を担っており、市音としての初録音盤の「“吹奏楽:ワーグナーの饗宴”Vol.1」(TOCZ-0003)を含む《第1集》が1991年3月27日(水)に、2枚目の「“吹奏楽:ロシアの巨匠たち” VOL.2」(TOCZ-0006)を含む《第2集》が1991年10月23日(水)に、3枚目の「“吹奏楽:フランスの巨匠たち” VOL.2」(TOCZ-0009)を含む《第3集》が1992年4月22日(水)にリリースとなっていた。(参照:《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》

また、単独発売盤として国内吹奏楽CD史上空前のセールスを叩き出した「大栗裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195)が1993年1月20日(水)に、「吹奏楽ベスト・セレクション’93」(東芝EMI、TOCZ-9205)が同年5月12日(水)に発売。活発なレコーディング活動が行なわれていた。(参照:《第43話 大栗 裕「仮面幻想」ものがたり》、《第44話 朝比奈 隆と大栗 裕》

その一方、1992年5月13日(水)、大阪のザ・シンフォニーホールで行なわれた「大阪市音楽団 第64回定期演奏会」で日本初演されたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』をNHKがライヴ収録し、同年8月16日(日)のFM番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」でオン・エアされ、全国的な話題となり、その結果、1994年2月27日(日)に市音初の自主制作盤としてリリースされる「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801)の制作プロジェクトもなんとか目鼻がつく段階まで進んでいた。(参照:《第58話 NHK ? 生放送!ブラスFMオール・リクエスト》、《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

個人的にも、この短期間に、“マスターピース盤”3枚と“大栗盤”のプログラム・ノートの執筆とNHK番組のナビゲーター、市音初の自主制作盤のプロデューサーまでつとめることができたことは、とても愉快な想い出であり、誇りに思っている。

話を元に戻そう。

冒頭の木村さんのクエスチョンは、以下のようなものだった。

『東芝(EMI)の録音やNHKのラジオがあって、ウチの連中、みんな喜んどる(喜んでいる)けどなぁ、それではあかんのや(ダメなんだ)。これからのわが社(市音)は、わが社独自のもの(企画)をやっていかな(いかないと)、あかんのや(ダメなんだ)。なんぞ(何か)、ええ考え(面白いアイデア)ないか?』(カッコ内は筆者)

大阪弁バリバリのこの発言をもう少し噛み砕くと、持ち込まれた“依頼もの”だけを待っているようではダメで、誰もがやったことがない独自色のある“自主制作もの”がやれないか、という趣旨の質問だった。

これを聞いた瞬間は、正直まさかこの昼食の席で、楽団の将来を左右するかも知れない、そんな重大な質問が飛んでくるとは思ってもみなかった。しかし、目の前の現実として、《第3集》まで進んだ東芝EMIの“吹奏楽マスターピースシリーズ”が、監修者の石上禮男さんの発案で、《第4集》、《第5集》をアメリカの大学バンドで、《第6集》をヨーロッパのプロで録ることが決まっており、しばらくこのシリーズの国内録音がないのも事実だった。年間150回近い演奏機会がある市音を束ねる長としては、せっかくレコーディングで盛り上がった楽団としての上昇機運を萎めかねない状況を座視できなかったのだろう。

道理で、昼食時間とは言え、筆者を楽団事務所の外に連れ出した訳だ。

一瞬いろいろな考えが頭をめぐったが、その中から長く暖めてきたアイデアを1つだけ返すことにした。

『吹奏楽のオリジナル交響曲全集なんてどうでしょうか。』

第47話 ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動》でもお話ししたように、それは、3年ほど前に佼成出版社の柴田輝吉さんの質問に答えて一度発案したことがあった。しかし、その際は制作側と演奏側の議論が噛み合わず、敢えなくボツとなった。柴田さんから伺った話では、誰の指揮でやるのか、ということも政治的な課題となっていたらしい。

しかし、筆者にとっては、この交響曲録音構想は、1983年(昭和58年)に市音60周年を期して企画したLP「吹奏楽のための交響曲(日本ワールド、WL-8319)以来、ずっと時間をかけて暖めてきたアイデアであり、1988年の『指輪物語』など、新作の登場により、中身は絶えずアップデートを重ねてきた。(参照:《第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲》)

機はいよいよ熟していたのである。

筆者の言を聞いて、木村さんの眼鏡の奥がキラリと光った。

そして、冒頭の発言へとつながったわけだ!!

木村さんは、続けて『ウィンドのシンフォニー集とは面白い!!あんたなぁ、この話、最後まで責任もって面倒みな(面倒みないと)、アカンで(ダメだぞ)。監修者として。早速、ライブ(ライブラリー)にある楽譜をリストアップさせ、会議の日程出させて連絡入れさせるから。頼むわ。』(カッコ内は、筆者)と、こちらにアレコレ言わせず、すでに“もう決めている”様子だ。

その後、会議は、筆者のヨーロッパ渡航の前に、6月24日(木)と7月8日(木)、市音練習場2階奥のアンサンブル室で行なわれ、市音プログラム編成委のメンバーがライブラリーにあるオリジナル交響曲を調べ上げたリストと筆者のもつ最新ネタをもとに検討。それだけで、少なくとも10枚以上のCDが作れそうだった。

自主制作らしい、アカデミックなシリーズになりそうな予感がした!

とは言っても、当時の市音は、大阪市という行政機関の一部だったので、その時点での最大の課題が、予算請求とスケジューリングになることは明らかだった。

とくに予算面では、市音のマネージメント・セクションを拡充させるための外部組織として作られた“大阪市教育振興公社”の小梶善一さん(元市音クラリネット奏者)の尽力と大阪市音楽団友の会事務局長の藤川昌三さんの協力で、前述のCD「NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」の制作費の目処がついたばかりで、その結果がまだ出ていない内に、さらに次のCD制作の予算をつけることがどれだけ困難を極めるのか、それは誰の目にも明らかだった。

ところが、年を越し、1994年(平成6年)に入ると、にわかに情勢が変わってきた。

1993年1月リリースの「大栗裕作品集」が、東芝EMIの当初予想をはるかに上回り、セールスの勢いが衰えないところへもってきて、市音がはじめて自主制作したCD「NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」がアッという間に完売。制作費の回収どころか、収益まで出してしまったのである。

これらの結果は、市音のすべてのレコーディング構想に好循環をもたらした。

やがて、東芝EMIで「大栗裕作品集」を手がけたチーム(本来、企画ものや自主制作などを担う第三営業本部)が“シンフォニー・シリーズ”の話に関心を示し、『ぜひ、ウチでやらせてください。』と木村さんに申し入れたことから、後に《ウィンド・オーケストラのための交響曲》と名づけられるシンフォニー・シリーズは、市音の自主企画盤から東芝EMI制作盤へと立ち位置が変更となった。

その後、シリーズ第1弾の曲目が、1994年6月2日(木)の「大阪市音楽団第68回定期演奏会」(ザ・シンフォニーホール)で日本初演されたオランダのヨハン・デメイ(Johan de Meij)の『交響曲第2番“ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォ二ー)”(Symphony No.2“The Big Apple”- A New York Symphony)』に、フランスのセルジュ・ランセン(Serge Lansen)の『マンハッタン交響曲(Manhattan Symphony)』という、ニューヨークを題材とする2曲に決定。レコーディングは、同年9月29日(木)~30日(金)、京都府八幡市の八幡市文化センター大ホールで行なわれ、CDは12月21日(水)にリリースされた。(参照:《第143話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」日本初演》)

世界初、吹奏楽のオリジナル・シンフォニーだけのシリーズのスタートである!

そして、その大興奮から27年近い時が流れた…。

多くの人からの連絡で、2021年(令和3年)2月24日(水)夜に、このCDを仕掛けた中心人物でもあった木村さんが亡くなったとの訃報に接し、筆者も、落ち着かない気持ちで28日(日)午後に堺市立斎場で行なわれた告別式に参列した。

そして、近くでお顔を拝す機会を得たが、その時なぜか、“ちょうどええとこに(いいところに)来た。ちょっとやって欲しいことがあるんや。”という懐かしい声が聞こえたような気がした。

またひとつ、個性が旅立った。

合掌。

▲上記3枚 TOCZ-9242 – レコーディング風景(1994年9月29日、八幡市文化センター)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第143話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」日本初演

スコア – Symphony No.2 “The Big Apple”- A New York Symphony(Amstel Music、1994年)

▲プログラム – 大阪市音楽団第68回定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

▲同、メッセージ

▲同、プロフィール

▲同、演奏曲目

1994年(平成6年)5年29日(日)、バンコク発のタイ航空機(TG622便、大阪着 16:00)で、オランダの作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)が、当時はまだ大阪国際空港と呼ばれていた伊丹空港に降り立った。

来る6月2日(木)、大阪市北区大淀南のザ・シンフォニーホールで行なわれる「大阪市音楽団第68回定期演奏会」で日本初演が予定されている『交響曲第2番“ビッグ・アップル(ニューヨーク・シンフォニー)”(Symphony No.2“The Big Apple”- A New York Symphony)』のリハーサルの立会いと本番の演奏を聴くための来日だった。“大阪市音楽団”とは、長年“市音”の愛称で市民に親しまれ、2014年の民営化後に“Osaka Shion Wind Orchestra”(Shion)と改称されたウィンドオーケストラの大阪市直営当時の名称だ。

約3ヵ月後の9月4日(日)の関西国際空港の開港前の出迎えだったので、このときの伊丹到着時の記憶はかなり鮮明に残っている。少し早く着いた筆者は、空港ビルの送迎デッキからヨハンの乗ったTG622便のランディングなどを撮影してから、到着ゲートに向かい、彼を出迎えた。一年前の1993年初夏にオランダで会って以来の再会だった。

ゲートから出てきた彼はとても元気そうで、早速、再会を祝し、互いの健康を気遣った。市内に向かうタクシーの車中、軽く『搭乗機のランディングも撮れたよ。』と言うと、『つまり、“ヨハン・デメイの最期”というヤツか?』と返してきたので、『超レアものだし、記念としてちゃんと贈呈するから!』と、初日から軽口を飛ばし合う。口も絶好調だ。

この時は、たまたま、6月6日(月)に大阪国際交流センターで行なう「ライムライト・コンサート 7」に始まるブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の国内ツアー(大阪~宇都宮~東京)のために、イギリスの作曲家フィリップ・スパーク(Philip Sparke)も招いていて、フィリップも5月30日(月)、英国航空機(BA17便)で11:00に伊丹に到着。その他、市音のコンサート当日の6月2日には、やはりBBBが招いていた指揮者ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)とコルネット奏者ロジャー・ウェブスター(Roger Webster)の来日(キャセイパシフィック機、CX502便、20:20、伊丹到着)も迫り、海外の友人4人が同時に大阪に滞在するという、わが人生の中でも稀に見る稠密スケジュールとなっていた。

ともかく、別々に活動する2つの楽団のリハーサルや本番を4人のゲストを伴なって支障なく廻すのは、結構骨が折れる。本人たちは、自身の持ち曲のときだけ現場にいればいいが、こちらは身ひとつだからだ。

そこで、市音の元クラリネット奏者で当時マネージャーをされていた小梶善一さん(2020年逝去)と相談。4人全員の宿を市音練習場にほど近い大阪城公園南詰のKKRホテルに固める事で、この難局をなんとか乗り切った。空き時間には大阪城を自由に散策できるなど、いいロケーションだったと思う。

話を元に戻そう。

ヨハンの『交響曲第2番“ビッグ・アップル”』は、世界的ヒットとなった『交響曲第1番“指輪物語”(Symphony No.1 “The Lord of te Rings”)』についで書かれたシンフォニーの第2作で、アメリカ空軍ワシントンD.C.バンド(The United States Air Force Band – Washington D,C.)の委嘱で1993年に作曲された。

第1楽章「Skyrine(スカイライン)」と第2楽章「Gotham(ゴーサム)」の2つの楽章と、ブリッジのように両者を結ぶ“タイムズ・スクエア・カデンツァ(Times Square Cadenza)”という、ヨハンがニューヨークの町に出て実際に録音した雑踏や地下鉄の走行音を聞かせる箇所が中間部にある作品だ。

そして、そのスコアは、先にお話ししたオランダ滞在中の1993年6月27日(日)、アムステルダムのヨハンの自宅に招かれたとき、最終ページを残すだけという段階まで仕上がっていた。(参照:《第71話 デメイ:交響曲第2番「ビッグ・アップル」完成前夜》)

ヨハンは、『自由に見ていいよ。』と言い率直な感想を求めてきたが、実のところ、ちょっと面喰っていた。筆者の中で、前作の『指輪物語』のイメージが強すぎたためだろうか。別の曲ではあることは頭の中では理解していたが、何かしらロマン派音楽の流れを汲む前作のかけらのようなものを探そうと思って見始めたために、一定の音型がひじょうに多くの楽器で延々と繰り返され、インパクトのある打撃音が随所に散らばるスタイルで書かれた音楽は、1ページの音数も多く、まるで別の作曲家が書いたもののように感じたものだ。

あとで、それは、アメリカの現代作曲家ジョン・アダムズ(John Adams、b.1947)の影響を強く受けた曲であると種明かしをしてくれたが、不勉強の極みか無関心だったためか、当時の筆者はアダムズの名も作品も皆目知らなかった。帰国して勉強すると、アダムズは最小限の音の動きでパターン化した音形を反復させるミニマル・ミュージック(Minimal Music)の推進者の一人だとわかった。

さすがは、コンテンポラリー・ミュージック(現代音楽)の合奏団“オルケスト・デ・フォルハルディンフ(Orkest de Volharding)”にトロンボーン奏者として所属するヨハンらしい着想だ。

ただ、委嘱者がアメリカ空軍ワシントンD.C.バンドだったこともあったためか、第1楽章に登場する“スカイライン・モチーフ”と彼が呼んだ爽快なテーマのカッコよさは、万人を魅了するものだと思えた。

世界初演が同年10月に組まれ、ヨハンも渡米するのだという。

そして、ヨハンのこの新作の存在は、帰国した筆者の土産話のかたちで市音団長兼常任指揮者の木村吉宏さんに伝わった。過去に市音が演奏してきたどの曲とも構造が違うスリリングな音楽で、音域の広さや体力面も含め、“指輪物語”とは異次元の難しさがあることも含めて。

『それなぁ、来年の定期で日本初演できるようにヤツに話してくれへんか? ウチは、これから、そういう作品を取り上げていかな、あかんのや。』

木村さんのこの発言で、まだ委嘱者による初演すら行なわれていないこの交響曲を日本に持ってくるプロジェクトは始まった。

連絡すると、当然ヨハンは大喜び!!

その後、この曲は、1993年10月の“委嘱者による公式初演”が1994年3月に変更。だが、当初の予定どおり渡米したヨハンはニューヨークの雑踏を録音して2つの楽章をブリッジのようにつなぐ“タイムズ・スクエア・カデンツァ”の音源を完成し、アメリカ空軍バンドの練習場で曲全体のサンプル音源を収録。1994年2月には、ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)指揮、アムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)の演奏で、事実上の初ライヴとなった“オランダ初演”が行なわれ、そのライヴが同国FMで放送、同ウィンド・オーケストラによるCDレコーディング(蘭World Wind Music、500.003)も新たに行なわれた。

時系列的に振り返ると、この曲をめぐる動きは以上のように流れ、最終的に筆者はヨハンからラジオ放送のカセットテープを受け取った。

一方、市音は、この間、ディーラーを通じて楽譜を発注し、準備は着々と進んでいった。

しかし、その後、割と早い段階で突然ヨハンからあるリクエストが寄せられた。

それは、日本初演のために楽譜を1セット贈呈するので、聴きに行くための渡航費の面倒をみてはくれないか、という相談だった。恐らく彼は楽譜が発注済みであることを知らなかったのだろう。

しかし、すでに所定の手続きを経て、楽譜発注を終えていた市音にそんな追加予算はない。一時大騒ぎになったが、最終的にあくまで“個人的に送られてくる楽譜”を筆者が部外で受け取り、運よく必要とするバンドを見つけて現金化。ヨハンの渡航費にあてることができた。

こんな裏事情のため、ヨハンには、最安便のエコノミーでチケットを買うようにリクエスト。ヨハンも、直行便ではなく、運賃の安い便を乗り継いでやってきた。それが来日便がタイのバンコクからのフライトになった理由だった。個人的には、がたい(体格)のいいヨハンがエコノミーの狭いシートに押し込められて長時間フライトする図はちょっと滑稽に思えたが、こちらも背に腹は変えられない。

結果的に、ヨハンを迎えてのコラボレーションは、楽譜のチェックだけでなく、CDに収められた“タイムズ・スクエア・カデンツァ”のスタートとフェードアウトのタイミングを楽譜上の指示から変更するなど、たいへん有意義なものになった。

本番の演奏を聴いたヨハンは、市音の快演に大満足!

この時点で世界でまだ2回しかライヴに掛けられていない『ビッグ・アップル』の日本初演は、こうして成功裏に終わった!

▲到着したタイ航空 TG622便(1994年5年29日、大阪国際空港)

▲ヨハンとの再会(同)

▲掲示されたポスターを見て喜ぶヨハン(1994年5年30日、大阪城公園)

▲大阪市音楽団第68回定期演奏会(1994年6月2日、ザ・シンフォニーホール)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第142話 もうひとつの甲子園

▲LP – 第50回選抜高等学校野球大会記念 センバツ行進曲集](毎日新聞社、W-945、1978年)

▲W-945 – A面レーベル

▲W^945 – B面レーベル

▲辻井市太郎(1978年)

『観衆は胸を躍らせつつ開会前スタンドの大半を埋めた、その数およそ十万、戦争が終わってはじめての壮観である、あの大鉄傘はなくとも外野の内壁に描かれた大正十四年以来の優勝十八校の名は古いファンに往時を想い出させ興趣を深める、午前八時四十五分、大阪市音楽隊の奏する行進曲「槍と刀」の勇壮なメロディの中に紫紺の大会旗を先頭に出場二十六校三百名の選手は踏む足どりも力強く堂々と入場、色とりどりの出場旗と校名板を掲げてグラウンドをまわれば拍手は波濤となつて迎える、青空に打揚げられた花火の白煙から出場校名をくつきり浮かばせた旗が春風にのつてゆるやかにスタンドに舞い下りる。選手一同、センターポール前に整列、各校主将の手により大会旗が掲揚されるや、あのなつかしい“陽は舞い踊る甲子園……”の大会歌が大阪市音楽隊演奏、毎日音楽教室合唱でスタンドにとどろきわたる、…(後略)…。』(原文ママ)

1924年(大正13年)4月1日(火)、名古屋・山本球場で第1回大会が行なわれた「全国選抜中等学校野球大会」が、戦争による中断をへて戦後初の大会となった第19回大会の開会式(前日の3月30日)の模様を伝える毎日新聞社(大阪)、1947年(昭和22年)3月31日(月)1面からの引用である。

おそらくは、ベテラン記者の筆と思われる臨場感あふれる名文で、「選抜高校野球大会三十年史」(毎日新聞社大阪本社、非売品、1958年)や「選抜高校野球大会35年史」(毎日新聞社大阪本社、非売品、1963年)にも引用されている。

ただ、第19回大会が行なわれた1947年は、大会期間中の4月1日に学校教育法(六・三・三・四制)が施行されたことにより、それまでの中等学校が高等学校に変更された年であり、それが社会的にはまだ完全に浸透していない時期だったため、大会では、毎日の社告も大会名も校名も敢えて旧称が使われた。文中登場する“大阪市音楽隊”(市音)も同様で、実は、市音は、前年の1946年(昭和21年)6月22日(土)に“大阪市音楽団”に改称されていた。以上は、この当時はそれで十分通っただろうが、21世紀の現時点からみると、少々紛らわしい。

また、当時わが国を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)が、当初この開催に難色を示し、開幕まで1ヶ月を切った時点で、文部省から“大会中止”が通達される一幕もあった。関係者の奔走で“一回に限り開催許可”となったが、いったん開催が決まると、アメリカ軍の支援は積極的で、開会式で、ホームベース付近に椅子を並べて66名編成の米陸軍第25師団軍楽隊が12曲のコンサートを行なったり、飛来した米軍機が始球式のボールを投下するなど、大会を盛り上げた。前記の毎日2面には演奏中の写真も掲載されている。

さて、そういう微妙な話題もあるにはあったが、「第19回全国選抜中等学校野球大会」に登場した“市音”(当時40名)は、ドイツのヘルマン・シュタルケ(Hermann Starke)作の入場行進曲「剣と槍(With Sword and Lance)」を演奏しながら、球児の先頭に立ってグラウンドに入場。開閉会式の大会歌の演奏のほか、各試合の勝利校の校歌もナマ演奏する大活躍をみせた。

そして、その演奏をとりまとめたのが、大会期間中の4月1日に市音第3代団長に就任した辻井市太郎さん(1910~1986)だった。(参照:《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》)

その後、大会名が「選抜高等学校野球大会」と改められ、1948年(昭和23年)以降も継続が決まったとき、辻井さんは、毎日から思いがけないユニークなオファーを受けた。それが、選手入場時に既存のマーチを使うのではなく、世相を反映した曲や映画音楽などを新しく入場行進曲へ編曲することだった。

それを受けて、辻井さんが最初に手がけた曲が、NHKラジオの連続放送劇の主題歌『鐘の鳴る丘』(古関裕而作曲、第20回大会、1948年)で、入場行進曲の編曲はその後も継続(辻井さんの海外出張中の第31回大会の『皇太子のタンゴ』(ロタール・オリアス作曲)だけは、永野慶作さんが編曲)して行なわれ、1962年(昭和37年)の『上を向いて歩こう』(中村八大作曲、第34回大会)からは、若い人を意識して前年のヒット曲を中心に選曲されるようになった。

そして、この『上を向いて歩こう』がたいへんな評判を呼んで、早速、音楽之友社が楽譜を出版。全国的に演奏されることとなった。

その後、辻井さんは、定年までの間に、『いつでも夢を』(吉田 正作曲、第35回大会、1963年)、『こんにちは赤ちゃん』(中村八大作曲、第36回大会、1964年)、『幸せなら手をたたこう』(アメリカ民謡、有田 怜編曲、第37回大会、1965年)、『ともだち』(いずみたく作曲、第38回大会、1966年)、『世界の国からこんにちは』(中村八大作曲、第39回大会、1967年および第42回大会、1970年)、『世界は二人のために』(いずみたく作曲、第40回大会、1968年)、『365歩のマーチ』(米山正夫作曲、第41回大会、1969年)、『希望』(いずみたく作曲、第43回大会、1971年)、『また逢う日まで』(筒美京平作曲、第44回大会、1972年)を入場行進曲に編曲。毎日新聞社は、これらを市音の演奏でソノシートにして参加球児に贈り、また、多くが音楽之友社や全音楽譜出版社から出版され、市音のパブリックなコンサートでも大阪市民の人気を博した。(参照:《第30話 ソノシートの頃》)

東京佼成ウインドオーケストラの元ユーフォニアム奏者で、日本吹奏楽指導者協会(JBA)副会長の三浦 徹さんから、自身の明星中学校(大阪)時代を振り返って、『辻井市太郎先生が出来上がったばかりのセンバツのマーチの楽譜を持ってこられて演奏したことがありました。たぶん、試奏だったんでしょうが、当時はこれらの曲をいち早く演奏できることを誇りのように思っていました。“いつでも夢を”や“こんにちは赤ちゃん”など、よく覚えています。』と伺ったことがある。

また、いろいろお世話になった鈴木竹男さんが隊長・指揮者をつとめる“阪急少年音楽隊”の毎年恒例の定期演奏会でも、アンコールは、決まって辻井さんが編曲したその年の最新のセンバツ・マーチで、それは、『愉しみにしていました。』という、大阪音楽大学教授の木村寛仁さんの記憶にもしっかりと刻み込まれていた。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)

そして、辻井さんのセンバツ・マーチの編曲は、市音退職後も続いた。筆者が、日本ボーイスカウト大阪連盟から“音楽章”という技能章の考査員を委ねられていた1977年(昭和52年)の第49回大会では、開閉会式で校名のプラカードを持つスカウトたちの行進指導を甲子園球場などで行なったが、そのときのマーチは、『ビューティフル・サンデー』(ダニエル・ブーン、ロッド・マックイーン作曲)だった。

明けて1978年(昭和53年)の1月30日(月)、31日(火)の両日。毎日新聞社は、大阪北区の毎日ホールで、第50回記念大会に向け、「第50回選抜高等学校野球大会記念 センバツ行進曲集」という記念アルバムのレコーディング・セッションを行なった。演奏は、辻井さんのあとを継いだ永野慶作さん(1928~2010)が指揮する市音で、曲目は、『上を向いて歩こう』をはじめ、編曲者自身が選んだ全10曲だった。

このセッションを客席に誰もいないホールでただ一人、聴く機会を与えられた。

録音は、テープ編集を嫌うディレクター、日本ワールド・レコード社の靭 博正さんの意向を受けて、すべて通し演奏というハードワーク。しかし、市音のテンションは下がらない。マーチ10曲とこの当時の大会歌(旧陸軍戸山学校軍楽隊作曲)がしっかりと時間をとって録音された。その結果は、センバツ開会式の臨場感ただよう溌剌としたマーチ・アルバムに仕上がった。

辻井さんの他界後、センバツ・マーチの編曲・録音は、前記の永野さんに受け継がれ、その後も、酒井 格さんと市音から民営化したOsaka Shion Wind Orchestraが担っている。

“春はセンバツから”という大会コピーを見るたびに血が騒ぎ、興奮が脳裏を駆け巡る若き日の一章である!!

▲自筆スコア – 鐘の鳴る丘(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲自筆スコア – 上を向いて歩こう(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)

▲楽譜表紙 – いつでも夢を(全音楽譜出版社)

▲楽譜表紙 – こんにちは赤ちゃん(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 幸せなら手をたたこう(全音楽譜出版社)

▲楽譜表紙 – ともだち(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 世界の国からこんにちは(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 三百六十五歩のマーチ(音楽之友社)

▲楽譜表紙 – 希望(音楽之友社)

▲毎日新聞(大阪)、昭和22年3月31日(月)1面

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第141話 小山清茂作品集の登場

▲LP – 吹奏楽のための太神楽(東芝音楽工業、TA-9301、1971年)

▲TA-9301 – A面レーベル

▲TA-9301 – B面レーベル

▲東芝レコード広告(1971年)

2020年(令和2年)12月20日(日)の朝、東京佼成ウインドオーケストラの元ユーフォニアム奏者で、日本吹奏楽指導者協会(JBA)副会長の三浦 徹さんから一本の電話が入った。

『ちょうど今、バンドパワーに書かれている樋口さんの話の最新の回を読み終えたところで、どうしても樋口さんにお話しておきたいことがあって電話しました。』

“最新の回”とは、その1日前にアップロードしたばかりの《樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第138話 普門館、落成の頃》のことだった。

『実は、あの“佼成”の演奏会は、藝大(東京藝術大学)の4年生のときで、呼んでもらったんです。「ローマの松」が阪口 新先生(1910~1997)の編曲で、ユーフォニアムが4本必要だったんで、それで呼ばれたわけです。』

東京佼成吹奏楽団(後の東京佼成ウインドオーケストラ)が、1970年(昭和45年)11月20日(金)、完成したばかりの普門館で初めて行なった「第12回定期演奏会」の現場証人の登場である。

楽団創立10周年を期して開かれたこの演奏会の客演指揮者は、伝説のマエストロ、山田一雄さん(1912~1991)だった。なので、当然、電話口のこちらのテンションも一気に盛り上がり、当時の模様について、あれやこれやと質問を投げかける。

すると、『ヤマカズ(山田一雄)さんが右へ行ったり左へ行ったり、忙しかったんですが、「1812年」では、NHKからわざわざ“ロシア正教会”の鐘の音や大砲の音を借りてきて、テンポを決めて演奏とシンクロさせる練習を行ない、リハーサルは完璧だったんですが、本番では指揮者が約束とは違う速いテンポで振ったので、エンディングの音が終わった後、(カンカラコンと)鐘の音が盛大に降り注いできてしまったんです。でも、さすがだったのは、そのアクシデントをまるで演出であるかのように指揮台で振る舞ってから客席に向かって一礼したことでした。』(カッコ内は筆者)

“ヤマカズさん”とは、リスペクトも込めて、いつしかそう呼ばれるようになったマエストロへの親称で、指揮ぶりはとくに若い聴衆に絶大な人気があった。

そのアツい指揮の結果、オーバーアクションになって、指揮台はおろか、ステージからも転落して這い上がった件とか、指揮台でジャンプして落とした眼鏡を踏み砕いてしまった件のような数々のエピソードを伝説のように残したマエストロは、この日の佼成定期でもしっかりと爪跡を残していったわけだ。

三浦さんとの演奏会についての対話は、その後もはずみ、マエストロには失礼ながら、“その日はステージから落ちなかったか”についても確認したところ、『あの普門館の広いステージだけに、さすがに落ちなかった!』(笑)との返答。

ステージの広さを知る当方も、それを聞いて、“そりゃそうだ!”と思わず納得の展開となった。

他方、ヤマカズさんは、その生涯を通じて数多くの初演を行なった指揮者としてもよく知られている。

この佼成定期でも、小山清茂(1914~2009)さんが自作の管弦楽曲を自ら吹奏楽曲に改編した『吹奏楽のための“木挽歌”』の初演が行なわれた。

作曲者の小山さんは、長野県更級郡信里村字村山の生まれ。日本各地に残る民謡などの旋律をモチーフとした多くの作品で知られ、管弦楽、吹奏楽、オペラ、室内楽、合唱、放送音楽など、多岐にわたるジャンルで活躍した。1980年(昭和55年)の『吹奏楽のための“花祭り”』は、第28回全日本吹奏楽コンクール課題曲として書かれたものだ。

山田一雄指揮、東京佼成吹奏楽団が初演した『吹奏楽のための“木挽歌”』については、演奏会のプログラム・ノートに、こう書かれている。

『九州民謡の木挽歌(故三好十郎の範唱による)を主題とした、一種の変奏曲で、4つの部分から成っています。原曲は管弦楽曲として書かれたもので、昭和32年10月3日、渡辺暁夫指揮、日本フィルハーモニー交響楽団により初演、以来、国内はもとより外国においても、しぱしば演奏、及び放送されております。この度は、音楽の友社のご好意により、作者自身によって、吹奏楽用に編曲していただき、吹奏楽として初めて演奏されるものであります。』(著者不詳、一部引用、原文ママ)

管弦楽原曲の出版後、部分的に吹奏楽に編曲する人も現れたため、作曲者自身が全曲を吹奏楽に改編することを思い立ったことがこの吹奏楽版を作る契機となった。

そして、佼成定期の翌月、1970年(昭和45年)12月11日(金)と16日(水)の両日にわたり、東芝音楽工業は、普門館で、1枚のLPレコードのレコーディング・セッションを行なった。翌1971年4月に、「吹奏楽のための大神楽」(東芝音楽工業、TA-9301)としてリリースされた小山清茂吹奏楽作品集のための録音だった。

演奏は、山田一雄指揮、NHK交響楽団団員で、ジャケットには、ラストの『イングリッシュ・ホルンと吹奏楽のための音楽より“田植唄”』の独奏者が似鳥健彦さんであることがクレジットされている。

この録音にNHK交響楽団の管打楽器奏者が起用された理由については、全く資料を持ち合わせていないが、「バンドジャーナル」1970年12月号(管楽研究会編、音楽之友社)56~57頁に打楽器奏者の有賀誠門さんが書いた「日本のオーケストラ・プレーヤー〈管・打〉」には、『現在のN響は総勢一二三名という大世帯であります。そのうちの五○名を管打楽器奏者でしめています。~』(原文ママ)というくだりがあるので、管弦楽に使わない楽器さえプラスすれば、吹奏楽演奏も可能だ、というレコード会社サイドの計算も働いた可能性はある。同時に、いつも他社の成果を自社にも取り込みたい日本のレコード会社のこと。当時トリオが発売したケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル(NHK交響楽団、日本フィルハーモニー交響楽団など、在京のオケマンたちによって編成)の「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」LP:トリオ、RSP-7004 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:TSP-7008)がたいへんな評判を呼んでいたこともあったのかも知れない。(参照:第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》

いずれにせよ、この小山清茂作品集は、N響メンバーを中心に録音された。

収録されたのは、以下の6曲。

・吹奏楽のための“大神楽”(小山清茂
(1970)

・吹奏楽のための“もぐら追い”(同)
(1970)

・吹奏楽のための“おてもやん”(同)
(1970)

・吹奏楽のための“越後獅子”(同)
(1970)

・吹奏楽のための“木挽歌”(同)
(1957 / 1970)

・イングリッシュ・ホルンと吹奏楽のための音楽より“田植唄”(同)
(1969)

これは、吹奏楽レコードの世界では、レコード(東芝音楽工業)と楽譜出版(音楽之友社)がタイアップした日本初の企画であり、さらに言うなら、マーチ以外でひとりの邦人作曲家の作品だけを収録した初の吹奏楽アルバムとなった。

そして、発売されたレコードは、日本吹奏楽指導者協会(JBA)の昭和46年度「第一回吹奏楽レコード賞」を受賞。楽譜とリンクしたロングセラー盤となり、1984年(昭和59年)に、ジャケットをリニューアルし、同じタイトルのまま、LP(東芝EMI、TA-72109)として再リリース。2009年(平成21年)には、デジタル・リマスタリングされ、「小山清茂 吹奏楽のための太神楽」というタイトルでCD化(日本伝統文化振興財団、VZCC-1020)された。

見事だったのは、この3度のリリースに際してカップリングの変更が全くなかったことだろう。それだけ完成度が高かった証だ。

“邦人作品集”というジャンルを確立!!

日本の吹奏楽録音史上、忘れてはならないアルバムである!

▲LP(再発売盤) – 吹奏楽のための太神楽(東芝EMI、TA-72109、1984年)

▲TA-72109 – A面レーベル

▲TA-72109 – B面レーベル

▲CD – 小山清茂 吹奏楽のための太神楽(日本伝統文化振興財団、VZCC-1020、2009年)

▲VZCC-1020 インレーカード

▲「バンドジャーナル」1970年12月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第140話 ブリーズのデビューとブラック・ダイク

▲「バンドピープル」1995年3月号(八重洲出版)

▲手書きブラスバンド・フルスコア – Orient Express(Philip Sparke、Studio Music、完全限定版)

▲ブラスバンド・パート譜 The Year of the Dragon(Philip Sparke、Studio Music)

“今ヨーロッパで起こっている新しい潮流を、タイムラグなくオン・タイムで日本で再現する!”

そんなメッセージを込めたコンセプトを旗頭に掲げ、1990年代を鮮やかに駆け抜けたブリーズ・ブラス・バンド(BBB)は、デビュー年の1990年(平成2年)から2000年までのほぼ10年間、ミュージカル・スーパーバイザーを委ねられた大阪のブラスバンドだ。

BBBの胎動期は1980年代で、本場イギリスでは、ちょうど、エドワード・グレッグスン(Edward Gregson)やフィリップ・スパーク(Philip Sparke)ら、新進気鋭の作曲家たちが、ブラスバンドのための魅力的な新作オリジナルをつぎつぎと発表し始めた頃だった。

当時、大阪シンフォニカー(後の大阪交響楽団)のトロンボーン奏者だった上村和義さんは、出身大学の大阪芸術大学や大阪音楽大学を卒業した若手プレイヤーたちと大阪ロイヤル・ブラスという金管グループを作って活動し、いつかこのグループをブラスバンドとして本格デビューさせたいと考えていた。(参照:《第49話 ムーアサイドからオリエント急行へ》)

氏のこの着想は、オーケストラ中心主義の音楽界にあっては、間違いなく異端児扱いされてアッという間に弾き跳ばされてしまいそうな超アグレッシブなアイデアだった。しかも、大阪には、市民生活に浸透する大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)という歴史あるウィンドオーケストラがあった。

そんな音楽環境の中に新たにプロのブラスバンドをデビューさせようというのである。それには、これからやろうとするブラスバンドが、既存のオーケストラやウィンドオーケストラとはまるで違う異種の音楽形態であることを誰の目にも耳にもはっきりと示す必要があった。

言い換えれば、独自のレパートリー、サウンド、使用楽器、編成やステージ配置等が既存の音楽形態とは完全に一線を画す明確なコンセプトを必要としたのである。

上村さんは、伝を頼って情報やアドバイスを得ようと試みたが、最新のブラスバンド事情は、あらゆる音楽情報が集まる東京でさえ、ブラスバンドへの誤解や偏見から、一昔前の情報以外、ほとんど得ることができなかった。

そんなとき、上村さんは、大阪・心斎橋の三木楽器旧2階管楽器フロアの責任者、植松栄司さんの引き合わせで、“運悪く”筆者と出会ってしまった。

早速、話をうかがうと、上村さんたちが全力で集めた情報や楽曲が、このジャンルのクラシックを知るという点では大いに意義があるが、やはり二昔前のものであり、当時、イギリスを中心としたヨーロッパの広いエリアで行なわれていたものとかなり乖離があることがすぐにわかった。当然、話の主導権はこちらへと移る。

筆者は、まず、前述のような大阪の音楽界において、評論家も来場するコンサートで新たな音楽グループをデビューさせるわけだから、それは『どうせ、ブラスバンドなんて……』なんて言わせない鮮烈なデビューでないと意味がないと主張。『ブラスバンドの何たるかも知らずに、偉そうなことをいう難しい人たちを黙らせるような独自の最新レパートリーと魅力あるサウンドをまずものにしなくてはなりません。』と話した。また、『友人にフィリップ・スパークという、今売り出し中のすばらしい作曲家がいるので、まずそこから手をつけてみませんか。話せばすぐに楽譜を送ってくれるので。』とも加えた。

上村さんへの話はそれだけで充分だった。速攻で『聴かせて欲しい。』という話に発展。その後、日を改めて来宅した上村さんは、今度はオーディオ装置の隣のラックに列を成して並んでいるものに目が点になってしまった。

この当時は、個人的道楽で、イギリスEMIやRCA Victor、Polydor、Decca、Polyphonicなどの各レーベルから発売されるブラスバンドのLPレコードの新譜を片っ端から買い揃えていた頃で、イギリスのマニアには到底及ばないものの、我が家には、旧譜の名盤のほか、100枚以上の最新ブラスバンドLPがゴロゴロ転がっていた。一日やそこいらで全部聴くことなど到底不可能な数の。また、それらは出版社が参考音源として作った類いのものでなく、多少の出来不出来はあるものの、すべてバンドが伸び伸びプレイしているものばかりだった。

上村さんには、その中から“これは”と思う曲をどんどん聴いてもらうことにしたが、予想したとおり、フィリップの『ドラゴンの年(The Year of the Dragon)』や『ジュビリー序曲(Jubilee Overture)』、『オリエント急行(Orient Express)』は、一発で『楽譜が欲しい。』という話に発展。その日の内にフィリップにFAXでリクエストを送信すると、フィリップの方もアッという間に楽譜を揃えて送ってくれ、早速、週一の定例練習でリハーサルが開始された。

ブラスバンドの専門紙もその辺に散らばっていたので、『樋口さんのところは、まるで宝の山です。』と言う上村さんの来宅はその後も継続的に続いた。1990年7月2日(月)、いずみホールで行なわれたBBBの「デビュー・コンサート」のプログラムは、こうして次第に組み立てられていったのである。

また、さらに運がいいことに、BBBデビュー直前の6月11日(月)、イギリスのブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)が大阪国際交流センターに来演した。同年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で行なわれた“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”で、ヨーロッパ・チャンピオンに返り咲いたばかりのブラック・ダイクがである。

この日のコンサートは、BBBがデビューに向けて積み上げてきたものを当時最高のバンドのステージから再確認するまたとない機会となった。

“ヨーロピアン”でも演奏されたピーター・グレイアム(Peter Graham)の『エッセンス・オブ・タイム(The Essence of Time)』やフィリップの『ハーモニー・ミュージック(Harmony Music)』は、“圧巻”という表現がふさわしいパフォーマンスで、既存の演奏形態と明確な差別化を図りたい新しいグループのレパートリーとプログラミングに、ブラスバンドの最新オリジナルは欠かせないアイテムであることをまず確認した。場内の反応を見ていても、少なくとも“新しいものが大好き”な地元大阪の聴衆には間違いなく“受ける”と確信できた。

上村さんは、『これからやりたいものがハッキリ見えました。』と言った。

ついで、各セクションの楽器がすべて同じラッカー仕様のベッソン(ソヴェリン)で統一されていることも目をひいた。とくに、『ハーモニー・ミュージック』のように、奏者一人ひとりに異なる音が割り当てられているコンテンポラリー作品では、全員が使う道具(楽器)のキャラクターが統一されていることが合奏面でとてつもない優位性を発揮することが分かった。これからどんどん進化するオリジナルを取り入れていこうとするBBBにとって、これは重要なポイントとなった。

同時に、この日聴いたブラック・ダイクのピュアなサウンドの実現を当面の目標としたいという上村さんの意思はここで固まり、議論の末に、サクソルン族各楽器はベッソンのラッカー仕様、楽曲の上でサクソルンとは違ったキャラクターが求められるトロンボーンだけはキングで揃えるというサウンド・ポリシーが定まった。

ただ、デビュー時のBBBは、奏者が持ち寄った様々な楽器の集合体であり、経済的事情も手伝ってこの目標の実現には3年近い時間を要した。また、大型楽器のため、同時にいくつも輸入されるわけではなく、かつ高額なバス(Ebバス x 2、Bbバス x 2)は、筆者が順次購入し、バンドに貸与することに決めた。最終的に、BBBには10年間で2500万ほどの個人資金を投下したが、これはその一部である。海外から新しい楽器が届くたび、こちらの奏者に自由に試奏させてもらった東京のブージー&ホークス社(後のビュッフェ・クランポン)には、感謝するほかない。

また、ブラック・ダイクに帯同したロイ・ニューサム(Roy Newsome)、デヴィッド・キング(David King)、ケヴィン・ボールトン(Kevin Bolton)の3人の指揮者とも終演後の会食でめでたく知己を結び、デビュー後の密な協力関係が構築された。

これらに加え、ブラック・ダイクのナマを聴いた最大の成果は、練習で聴くBBBのサウンドとダイナミック・レンジがこの日を境にガラリと変わったことである。聴けばわかる見本のような結果だった。

そして、迎えたデビュー当日、まるで知らない曲をまるで知らない楽器編成で聴かされた評論家諸氏は、将来に期待をこめて好評価の演奏会評を寄せた。

BBBデビュー大作戦、まんまと大成功である!!

その後も、探究心の固まりと化した上村さんは、同年10月6日(土)、ロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開かれた全英ブラスバンド選手権(Boosey & Hawkes National Brass Band Championships of Great Britain)をその目と耳で確認するために渡英。ユース選手権にも足を運ぶなど、ブラスバンドに対する見識と経験をさらに深めてきた。(参照:《第133話 全英ブラスバンド選手権1990》)

そして、帰国後、最初のリハーサルで上村さんが放った一語は、その後、BBBの内部で流行語となった。

『もっと“リブリブ”に吹かんかい!』

BBBの定期公演「ライムライト・コンサート」が開始されるおよそ半年前の出来事である。

▲チラシ – Black Dyke Mills Band 大阪公演(1990年6月11日、大阪国際交流センター)

▲Solo & Tutti Cornets, & Flugel Horn:(左から)R. Webster、R. Westacott、J. Hudson、J. Pritchard、D. Pogson(同、撮影:関戸基敬)

▲Soprano, Ripieno, 2nd & 3rd Cornets:(左から)N. Fielding、L. Rigg、P. Rose、G. Williams、I. Broadbent、D. Clegg(同)

▲Tenor Horns:(右から)S. Smith、T. McCormick、S. Jones(同)

▲Baritones:(右から)P. Christian、S. Booth(同)

▲Euphoniums:(右から)M. Griffiths、S. Derrick(同)

▲Trombones:(右から)N. Law、A. Gray、M. Frost(同)

▲Basses:(右から)S. Gresswell(Bb)、P. Goodwin(Eb)、G. Harrop(Eb)、D. Jackson(Bb)(同)

▲Percussion:(右から)R. Payne、R. Clough、M. Arnold(Timpani)(同)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第139話 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》

▲LP – 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》(トリオ、RSP-7016)

▲RSP-7016、A面レーベル(テスト盤)

▲RSP-7016、B面レーベル(テスト盤)

▲RSP-7016、A面レーベル

▲RSP-7016、B面レーベル

1970年(昭和45年)1月30日(金)午後3時から、トリオは、東京・丸の内の大手町サンケイ国際ホールにおいて、“ケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル”の演奏で、後に「我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》」(LP:トリオ、RSP-7016 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:トリオ、TSP-7013)というタイトルでリリースされる新録音のセッションを行なった。

演奏者の“ケンウッド・シンフォニック・ブラス・アンサンブル”は、NHK交響楽団や日本フィルハーモニー交響楽団のほか、在京のオケマンたちによって編成されたレコーディングのための管楽アンサンブルで、この日の録音は、前年このグループによって録音、リリースされて大きな反響を巻き起こした「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」LP:トリオ、RSP-7004 / 19cm/sステレオ・オープンリール・テープ:TSP-7008)の続篇企画のためのものだった。(参照:第135話 我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》

セッションのディレクターは草刈津三さん、ミキサー(バランス・エンジニア)は若林駿介さんと、録音スタッフは前録音盤とまったく同じで、録音会場、フロア・セッティング、使用マイクやレコーダー、ミキシング・アンプ等の使用機材など、基本的な録音方式もすべて前回を踏襲していた。

前録音の成果が、それほどまでに、制作側、演奏側の双方を納得させる出来映えだったからだ。

ただし、今回はレパートリーの曲種だけは違っていた。前がすべてマーチだけの録音だったのに対し、今回は、アメリカのコンサート・バンドのレパートリーを録ろうとする企画だったからだ。そこで、演奏人数は、フルート x 2(ピッコロ兼)、オーボエ x 2、クラリネット x 8、ファゴット x 2、サクソフォン x 3、ホルン x 4、トランペット x 4、トロンボーン x 4、ユーフォニアム x 2、テューバ x 1、打楽器4と、より一般的な吹奏楽編成に近い規模に拡充されている。

そして、各セクションのリーダーは、フルートが峰岸荘一さん、小出信也さん、クラリネットが千葉国夫さん、浅井俊雄さん、ファゴットが戸沢宗雄さん、サクソフォンが阪口 新さん、ホルンが千葉 馨さん、田中正大さん、トランペットが北村源三さん、戸部 豊さん、トロンボーンが福田日出彦さん、打楽器が岩城宏之さんが担い、全体をアンサンブルのセンター近くに位置するファゴットの戸沢さんが仕切るスタイルをとったのも前回と同じだった。

唯一違ったのは、今度の録音には、NHK交響楽団の指揮者、岩城宏之さんが、指揮者ではなく、打楽器奏者として参加したことだった。

この岩城さんの参加に関しては、ディレクターの草刈さんがジャケットに寄せた一文「ケンウッド・ブラス第2弾」に、つぎのようなエピソードが記されている。

『第1回の録音以来しばらくは、大げさに云えば、東京のオーケストラの管楽器界は、その録音の話しでもち切りであった。……(中略)……。私は、メンバーたちに会うたび毎に、あの録音の話しが出、「又、やろうよ」。といって別れる日々が続いたが、忙しい人達ばかりだから、まあ出来て一年に一回位だと思っていた。しかし、そのチャンスは以外に早くやって来た。昨年の暮れに近い頃だったが、オーケストラ仲間がよく集る千葉馨氏宅でのパーティ、その日は何で集まったのかは良く覚えてないが、N響終身指揮者の岩城宏之氏など10数名の中に、千葉、戸沢両氏をはじめ管楽器のメンバーが何人か居た。そのための酒の肴の音楽は、自然あのブラス・バンドのマーチ集となったが、録音の思い出話しがはずむうち、岩城氏が「俺も一緒にやりたいな」と云い出したことが第2回目の録音のきっかけとなったのである。……(後略)……。』(原文ママ)

文中の“昨年の暮れ”とは、1969年の年末のことだ。

そして、このパーティーの場で、草刈さんは、機は熟したと感じとり早速トリオに連絡。アレよアレよという間に日程調整が進んで、岩城さんの渡欧直前のこの日、1月30日に録音が行なわれる運びとなった訳である。

こうして、レジェンドたちは再び同じホールに参集した!

この日、録音されたレパートリーは、以下のようにものだった。

古いアメリカン・ダンスによる組曲
Suite of Old American Dances(Robert Russell Bennette)

ビギン・フォー・バンド
Beguine for Band(Glenn Osser)

コラールとアレルヤ
Chorale and Alleluia(Howard Hanson)

トランペット・オーレ!
Trumpet Ole!(Frank D. Cofield)

トロンボナンザ
Trombonanza(Frank D. Cofield)

クラリネット・ポルカ
Clarinet Polka(Arr. David Bennett)

クラリネット・キャンデ
Clarinet Candy(Leroy Anderson)

オリジナル・デキシーランド・ワンステップ
Original Dixieland Onestep(John Warrington)

この選曲を誰が担ったかについては、何も情報を持たないが、選曲のコンセプトそのものは、1967年(昭和42年)に日本コロムビアがリリースした「楽しいバンド・コンサート」シリーズ(EP:日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)とほぼ同じ傾向のもので、アメリカのオリジナル曲および、このグループに参加するレジェンドたちのプレイを際立たせるトランペットやトロンボーン、クラリネットのセクション・フィーチャーやソロ・フィーチャーからなっていた。ただし、そんな中に、ロバート・ラッセル・ベネットの『古いアメリカン・ダンスによる組曲』やハワード・ハンソンの『コラールとアレルヤ』という、アメリカのコンサート・バンドの定番レパートリーが含まれていたことは大きな話題となった。(参照:《第18話 楽しいバンドコンサート》

また、全体を俯瞰するなら、シリアスからエンターテイメントまでの少し欲張ったコンセプトにも映るが、それらの多彩な演目をわずか1日のセッションで録り終えてしまったレジェンドたちに対しては、正直“リスペクト”という以外、適当な言葉が見つからない。

月刊誌「バンドジャーナル」1970年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)も、当日のセッションを取材。アンサンブル全体、パーカッション・セクション、モニタールームの模様を撮影したモノクロ写真3枚を配したグラビア頁のリポート“国内レコーディング・ニュース”(24頁)を入れた。記事には『とくに岩城宏之が打楽器を担当したのが注目される』(原文ママ)との記述もあり、掲載写真にも、バス・ドラムを叩いたり、プレイバックを聴く岩城さんの姿が大きく映りこんでいた。それは、岩城さん本人にとっては恐らくは15年ぶりの打楽器プレイだと思われるレアなシーンだったが、それもあってか、この第2弾のレコードやテープは、吹奏楽ファンだけでなく、再びオケマンたちの関心を呼びさますことになった。

ひとつの伝説の誕生である!

結果として、「我が国最高の管楽器奏者による《マーチの極致》」と「我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》」の2タイトルが揃うことになった両アルバムは、普段は別々のオーケストラで活躍するオケマンたちが、楽団の垣根を超えて参集し、指揮者不在という自分たちだけのアンサンブル・プレイを愉しみながら、真摯に吹奏楽曲と向き合った貴重なアーカイヴ、オーディオ・ファイルとなった。

これらは、間違いなく、今後とも長く記憶に留められることになるだろう。

筆者が初めてこれらを聴いたときの個人的印象も強烈なものだった!

そして、両盤は、吹奏楽のレパートリーがそれまでのマーチ一色に変わって、吹奏楽固有のレパートリーを温め始めるようになったそんな時代に、我々に新しい風を吹き込んでくれた鮮烈なメッセージとなった!

いろいろなものが変わり始めていた!

だから音楽はおもしろい!!

▲ LP(再発売見本盤) – 我が国最高の管楽器奏者による《ブラスの饗宴》(トリオ、PA-5026)

▲PA-5026、A面レーベル(見本盤)

▲ PA-5026、B面レーベル(見本盤)

▲「バンドジャーナル」1970年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第138話 普門館、落成の頃

▲東芝レコード広告、1969年

▲LP – 子どものためのバンド入門 笛吹きパンの物語(東芝音楽工業、TA-6054)

▲TA-6054、A面レーベル

▲TA-6054、B面レーベル

1969年(昭和44年)4月1日(火)、東芝音楽工業がリリースしたLP3枚組ボックス・セット「世界吹奏楽全集」(TP-7299~7301)は、3枚中2枚の新録音を担った東京佼成吹奏楽団(後の東京佼成ウインドオーケストラ)の記念すべきメジャー・デビュー盤となっただけでなく、その後、レコード各社が国内制作する吹奏楽レコードに大きな影響を及ぼした。(参照:《第27話 世界吹奏楽全集》、《第119話 東京佼成のメジャー・デビュー》)

その最大の成果は、収録曲を“マーチ”“ポピュラー”“オリジナル”という3つのカテゴリーに分類・構成された中に、“オリジナル篇”という、吹奏楽のために作曲されたオリジナル作品だけに特化した極めて特徴的な1枚が含まれていたことだ。

吹奏楽レコードの世界に登場した新たなカテゴリーの成立である。

これ以前に国内録音された吹奏楽オリジナルと言えば、加藤正二指揮、東京ウインド・アンサンブルが、1967年(昭和42年)7月にリリースされた「楽しいバンド・コンサート」シリーズ(EP:日本コロムビア、EES-176、EES-177、EES-178)に、アメリカのオリジナル曲から、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『献呈序曲(Dedicatory Overture)』(EES-176)やハロルド・ウォルターズ(Harold Walters)の『フーテナニー(Hootenanny)』(EES-177)、ジョセフ・オリヴァドーティ(Joseph Olivadoti)の『イシターの凱旋(Triumph of Ishtar)』(EES-178)を録音し、他の曲種と組み合わせて発売された一例があるだけだった。なので、この東芝盤の扱いはとても新鮮に映った。(参照:《第18話 楽しいバンドコンサート》、《第93話 “楽しいバンド・コンサート”の復活》)

月刊誌「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)に掲載された作曲家、松平 朗さんの寄稿“「世界吹奏楽全集」レコーディングに寄せて”(75頁)でも、『三枚目のオリジナル作品集、これがこの三枚組レコードの価値を最も高めている部分だが、……、このオリジナル作品集があることによって、このレコードが単に資料的、参考書的なものからぬき出て、芸術作品として鑑賞に耐えるものになっている。』(引用:原文ママ)と賞賛された。

結果として、東芝の“オリジナル篇”に収録された作品は、日本中で広く演奏されるようになった。と同時に、創立10周年に満たないニュー・フェイスだった東京佼成吹奏楽団の名も、レコード・セールスとともに次第に知られるようになった。当然、その対外アピールも活発化する。

そして、1970年(昭和45年)4月、東京・杉並区和田の地に、1967年から2年8ヶ月の歳月をかけて建設された5000名収容の大ホール“普門館”が落成した。

東芝は、この機を逃さず、1970年(昭和45年)7月31日~8月1日(金~土)、東京佼成吹奏楽団を起用した第2作、「子どものためのバンド入門 – 笛吹きパンの物語」(東芝音楽工業、TA-6054)のレコーディングをこの真新しい普門館のステージで行なった。

恐らくは、これが式典や練習等を除き、このホールで行なわれた初の吹奏楽のレコーディング・セッションだったように思う。

当時の写真(後述)を見ると、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団終身首席指揮者兼芸術総監督のヘルベルト・フォン・カラヤン(Herbert von Karajan、1908~1989)のリクエストで後年作られた反響版がまだ無かった当時の広いステージをまるで大きなスタジオのフロアのように贅沢に使い、音響効果優先でプレイヤーを配したセッションの様子がたいへん興味深い。(当時の吹奏楽の録音は、今のようにコンサート・セッティングで行なわれることはほとんど無かった。)

監修は、東京藝術大学で作曲の教鞭をとり、自作品の吹奏楽曲がすでにアメリカで出版されていた作曲家の川崎 優さん(1924~2018)だった。

指揮者には、福田一雄さんが起用され、以下の曲が録音された。

笛吹きパンの物語
(物語:姫ゆり子 / 構成:小川さかえ)
Pan the Piper(George Kleinsinger)

ディヴェルティメント
Divertimento(John J. Morrissey)

やさしいバンドの歌
The Band Song(William Schuman)

「ピアノ協奏曲第21番」(K.467)より アンダンテ
Andante from Concerto for Piano (Wolfgang A. Mozart、arr. Hale Smith)

アメリカン・ドラム
American Drum(John Warrington & George Frock)

組曲「水上の音楽」より
(アレグロ、アリア、フィナーレ)
From “Water Music”(Georg F. Handel、arr. Hershey Kay)

“子どものためのバンド入門”というサブ・タイトルのとおり、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten、1913~1976)の「青少年のための管弦楽入門」(1945)の“吹奏楽版”といったタッチのアルバム構成で、セッションの模様を取材した月刊誌「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)は、モノクロ写真4枚を配した「吹奏楽の楽器紹介レコード録音さる」というグラビア2頁記事(24~25頁)を入れている。

『「むかし数千年もむかし、ギリシャにパンという名の羊飼いの少年がいました。ある日……」童話風に語られるナレーションとともに一本のアシの笛からだんだんいろんな楽器がふえてアンサンブルができ、打楽器が加わり、そしてついに金管楽器が加わって吹奏楽ができあがる、という過程をゆかいに説明していくこの曲「笛吹きパンの物語り」の録音が、7月31日、8月1日の両日、杉並の立正佼成会・普門館にて行なわれた。…(中略)… 吹奏楽がだれでも理解され、親しみやすいものになる意味で重要なレコードとなる有意義な録音であった。…(後略)…』(引用:「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)、原文ママ)

ナレーターには、当時、テレビ、ラジオ、舞台等で活躍中の女優、姫 ゆり子さん(1937~)が起用され、たいへん話題を呼んだ。

先の「世界吹奏楽全集」が、日本の吹奏楽の現場が求めていた実用選集であるのに対し、「子どものためのバンド入門 – 笛吹きパンの物語」は、広く一般の音楽ファンに、マーチだけではない吹奏楽の面白さを知ってもらうための啓蒙的な役割を果たした。

東京佼成吹奏楽団の名は、こうして、さらに認知度を高めていく。

そして、同年11月20日(金)、東京佼成吹奏楽団は、同じ普門館において、創立10周年を期して「第12回定期演奏会」(開演:18時30分)を開催した。

この演奏会は、客演指揮に山田一雄さんと初代常任指揮者の水島数雄さん(*)のふたりを招いて開かれた記念演奏会で、以下の意欲的なプログラムが演奏された。

天使の夢
Reve Angelique(from “Kamenoi-Ostorow” Op.10-22)(Anton Rubinstein)

ディヴェルティメント
Divertimento(John J. Morrissey)

吹奏楽のための木挽歌
<吹奏楽版初演>
Kobiki-Uta for Band(小山清茂 Kiyoshige Koyama)

大序曲「1812年」
Overture 1812(Pyotr Ilyich Tchaikovsky)

行進曲「希望に燃えて」(*)
<自作自演>
With Full of Hope、March(水島数雄 Kazuo Mizushima)

序曲「詩人と農夫」(*)
Dichter und Bauer、Ouverture(Franz von Suppe)

シンフォニック・プレリュード
Symphonic Prelude(John B. Chance)

交響詩「ローマの松」
Pini di Roma、poema sinfonico(Ottorino Respighi)

これが、ここを本拠として活動する東京佼成吹奏楽団(東京佼成ウインドオーケストラ)が初めて普門館で行なった定期演奏会の演奏曲目だ。そして、ぜひとも記憶に留めておきたい吹奏楽演奏史上の重大事件は、この日、小山清茂さんが自作の管弦楽曲から自ら改編した『吹奏楽のための木挽歌』が山田一雄指揮で初演されたことだった。

この1970年以来、普門館では、数多くのコンサートやレコーディング・セッションが行なわれ、全日本吹奏楽コンクールの会場としても親しまれた。個人的にも、このホールにはたいへんお世話になった。

しかし、東日本大震災の後に明らかになった耐震性という思わぬ弱点の発覚で、図らずもこの大ホールは解体されることになった。心底から残念至極だ!

吹奏楽をやった者には、“普門館”という名は特別な意味をもって響く!!

2018年(平成30年)11月のさよならイベントにも、多くのファンがつめかけた。その姿はまさしく青春、そして情熱の発露だった!

このホールを基点に繰り広げられた多くの音楽シーンやメッセージは、きっと彼らの胸の奥にずっとずっと生き続けるだろう!!

さらばだ、普門館!!

▲チラシ – 東京佼成吹奏楽団第12回定期演奏会(1970年11月20日、普門館)

▲プログラム – 東京佼成吹奏楽団第12回定期演奏会(同上)

▲ 1~2頁(普門館とあいさつ)

▲ 3~4頁(指揮者プロフィールと曲目)

▲ 9~10頁(楽団プロフィール)

▲「バンドジャーナル」1969年3月号(管楽研究会編、音楽之友社)

▲「バンドジャーナル」1970年9月号(管楽研究会編、音楽之友社)

■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第137話 トーマス・ドス「スポットライト」との出会い

トーマス・ドス作品リスト

2014年(平成26年)9月16~18日(火~木)、筆者は、愛知県北名古屋市の名古屋芸術大学3号館ホールで、同大学ウィンドオーケストラによるオランダのデハスケ(de haske)レーベルのためのレコーディング・セッションに臨んでいた。

周知のとおり、名古屋芸術大学ウィンドオーケストラは、デハスケ社の社長がヤン・デハーン(Jan de Haan / 参照:《第47話 ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動》)だった当時から同社の新作録音を手がけ、2005~2018年の14年間に、以下に挙げる計12タイトルのアルバムを蘭デハスケあるいは英アングロのレーベルからリリースしている。

ヤン・ヴァンデルローストと4人の作曲家たち
Jan Van der Roost presents(de haske、DHR 23-001-3、2005年)

アースクェイク
Earthquake(de haske、DHR 24-002-3、2006年)

バベルの塔
Tower of Babel(de haske、DHR 4-020-3、2007年)

ロマンティック・クラシックス
Romantic Classics(de haske、DHR 11-013-3、2008年)

ハーコン(ホーコン)善王のサガ
The Saga of Haakon the Good(Anglo、AR 025-3、2009年)

ヨーロピアン・パノラマ
European Panorama(de haske、DHR 4-029-3、2010年)

バイ・ザ・リヴァー
By The River(de haske、DHR 4-032-3、2011年)

イースト・ミーツ・ウェスト
East meets West(de haske、DHR 04-038-3、2012年)

アウレウス
Aureus(de haske、DHR 04-041-3、2013年)

セカンド・トゥー・ナン
Second to None(de haske、DHR 04-044-3、2014年)

ザ・ハーツ・アンド・ザ・クラウン
The Hearts and the Crown(de haske、DHR 4-046-3、2015年)

アインシュタイン
Einstein(de haske、DHR 4-047-3、2018年)

結果的に、日本のひとつの音楽大学のウィンドオーケストラが長年にわたって海外の音楽出版社の新作の録音を継続して手がけることになるこのシリーズは、実は、最初、同大学大学院教授で指揮者の竹内雅一さんがヤン・デハーン宛てに自分たちの録音を送り、その内容が評価されたことが契機となってスタートしている。海外への積極的なアプローチが見事に実を結んだ好例で、日本に音楽大学は数あれど、こんなケースは類例を見たことがない。

セッションでは、その竹内さんと、客員教授として同学に招かれていたベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のふたりが交代でタクトをとり、レコーディング・プロデューサー(デハスケでは、“レコーディング・スーパーヴァイザー”と呼ぶ)は、当初はヤン・デハーンが、2011年以降は、1枚を除いて、ベン・ハームホウトス(Ben Haemhouts)がつとめた。

一方、レコーディング・エンジニアは、同学准教授の長江和哉さんとそのクラスに学ぶ学生のチームが全録音を担っている。

というような訳で、自前のホールが使え、演奏、指揮、録音、舞台のスタッフがすべて学内に揃っている、即ちオール・イン・ワンであることが、このプロジェクトを長年に渡って進めることができた大きな要因となった。

また、竹内さんは、常々、ドイツの録音現場に学んだ長江さんの存在がとても大きかったと言われる。実際、筆者も、ベルリナー・フィルハーモニカー(ベルリン・フィルの本拠地)の録音ブースで撮影された画像や興味深い体験談をたびたび聞かされ、とても勉強になった。

名古屋芸大のCDリストをよく見ると、「ザ・ハーツ・アンド・ザ・クラウン」(DHR 4-046-3)と「アインシュタイン」(DHR 4-047-3)の2枚の間に少しブランクがあることに気づくだろう。実は、その間は、ちょうど長江さんがドイツに留学をしていた時期にあたる。関係者にあたると、そのタイミングには録音企画それ自体が見送られており、その事実ひとつをとっても、名古屋芸大の録音プロジェクトにとって、長江さんが欠かせない存在であることがとてもよくわかる。

話をもとに戻そう。

2014年9月、筆者が名古屋芸大で取り組んだのは、リストにあるCD「セカンド・トゥー・ナン」のレコーディング・セッションだった。スケジュール上の都合で来日が適わなかったベンに代わって急遽筆者が指名され、スーパーヴァイズすることになった録音である。

ベンから託された録音レパートリーは、かなりの分量で、折りしも2014年がベルギーの楽器発明家アドルフ・サックス(Adolphe Sax、1814~1894)生誕200周年というアニヴァーサリー・イヤーだったことと重なっていたことから、一般的な合奏曲に混じり、サクソフォンのために書かれたコンチェルトやカルテットまで含まれ、かなり意欲的で重量感のある内容となっていた。概して演奏グレードの高い作品が多かったが、すべてが過去に録音されたことがない新しい楽譜ばかりで、試しに計算すると、演奏時間のトータルがCD1枚分をはるかに超えていた。

例年は4日間で行なうセッションがこの年に限って3日間しか時間がとれないことにまるで気づいていないような出版社の対応がとても気になった。

しかし、どんなセッションでも終わるまで何が起こるかわからない。仮にもしもレコーディングの最中に、何か音楽的な疑問点や問題点が発覚するような事態に見舞われたら最後、時間内に録り終えることが難しくなることが必定であり、この時点でかなりタフなセッションになるかも知れないという予感が走った。

ところが、浄書が上がったものから順に届くスコアを眺めていく内、いくつかお気に入りの曲が出てきた。

オーストリアの作曲家トーマス・ドス(Thomas Doss)が、サクソフォン四重奏とウィンドオーケストラのためのために書いた『スポットライト(Spotlights)』も、個人的に魅力を感じた曲のひとつだった。(参照:《第50話 トーマス・ドスがやってきた》、《第51話 ト―マス・ドス「アインシュタイン」の事件簿》)

トーマスのこの作品は、2014年4月12日(土)、オーストリアのニーダーエスターライヒ(Niederosterreich)州ヴァイトホーフェン・アン・デア・イプス(Waidhofen an der Ybbs)の“ヴァイトホフナー音楽村(Waidhofner Music Village)”と呼ばれている会場で、作品を委嘱したオーストリアのモビリス・サクソフォン四重奏団(The Mobilis Saxophone Quartet)と、トーマス・マダーターナー(Thomas Maderthaner)が指揮する地元吹奏楽団のトラハテンムジカカぺレ・ヴィンターク(Trachtenmusikkapelle Windhag)の共演で世界初演された。

編成上の特徴は、サクソフォン四重奏と一般的編成のウィンドオーケストラ(サクソフォンを含む)の掛け合いが愉しめる音楽となっていることで、ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの各サクソフォンのキャラクターをフィーチャーし、そのヴィルトゥオーゾ性はもとより、さまざまなリズム遊びや、ときにはファンクのノリまで求められる、ひじょうにエンターテイメント性の高い曲になっていることだろう。

初演者のモビリス・サクソフォン四重奏団は、ウィーンに学んでいたサクソフォン奏者、オーストリア出身のミヒャエル・クレン(Michael Krenn、ソプラノ)、スロヴェニア出身のイエネ・ウルセイ(Janes Ursej、アルト)、日本出身のユキコ・クレン(Yukiko Krenn <岩田享子>、テナー)、クロアチア出身のゴラン・ユルコヴィチ(Goran Jurkovic、バリトン)によって2009年に結成されたグループで、CDデビューも飾っていた。

名古屋芸大のセッションでは、ソプラノ・パートを三日月 孝さん(教員)、アルトを滝上典彦さん(教員)、テナーを中山順次さん(学生)、バリトンを櫻井牧男さん(教員)の4人が担当。セッション中にたびたびお願いした細かいリクエストにも拘わらず、現場ではモチベーションの高いノリノリのパフォーマンスが繰り広げられた。これは、正しくグッジョブだった!

また、このときの『スポットライト』は、伴奏をつとめたウィンドオケも快調そのもので、セッションの千秋楽となった9月18日(木)の有終の美を飾る演奏となった。そして、録り終えた後の爽快感と開放感は、間違いなくセッション参加者のすべてのハートを揺らしたことだろう。

ステージからは大きな歓声が上がった!

長江さんの録音・編集チームにも大感謝だ!

それから数日。ベルギーに帰国したヤンから、録音を聴いたトーマスの“感想”が届いた。

『とても綺麗なサウンドで録ってくれて、本当にありがとう!』

▲CD – Second to None(蘭de haske、DHR 04-044-3、2014年)

▲DHR 04-044-3 – インレーカード

▲名古屋芸術大学ウィンドオーケストラ(名古屋芸術大学3号館ホール、2014年9月17日)

▲ソロイストたち(左から、三日月、中山、櫻井、滝上の各氏。同上。2014年9月18日)

▲大団円!(同上。2014年9月18日)