■落ちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー 第5回

音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!

◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”タッド・ウインドシンフォニーメンバー。

1番じゃないと意味がない?

日本史上最多のメダルラッシュに盛り上がったリオ五輪が閉幕しました。見事メダルを獲得した選手はもちろんのこと、惜しくもメダルに手が届かなかった選手たちの頑張る姿に胸を打たれた方も多いと思います。特に金メダルが期待された選手にとっては、その期待通りの色のメダルを手にするために、長い年月をかけて苦しい練習を積み重ねてきたことでしょう。

金メダルを獲得した選手たちは本当に素晴らしいですが、それ以上に目標にあと一歩届かなかった選手たちの姿が強烈に心に残っている方も少なくないでしょう。そんな彼らの発した「1番じゃないと意味がないので…」という言葉が、私はとても印象に残りました。「決してそんなことはない!」と日本中の人が思ったはずです。しかしこれは、当人の正直な気持ちだと思います。

確かに世の中には“1番じゃないと意味がない”と思わされる現実はあります。音楽の世界でいうと、オーケストラのオーディションが同じような状況でしょうか。通常、募集人数は各パート1人です。しかも募集は数年に一度というときもあるので、そのたったひとつの席をめぐって数十人、場合によっては100人近くが競い合います。その中から楽団員、音楽監督等に認められた1番の人のみが採用されるのです。この場合、2番の人は意味がありません。もし次にオーディションがあったとしても採用される保証もなく、何回2番になろうともオーケストラには入れてくれません。これがプロオケに入る難しさで現実です。

私が音大を卒業した後、幸運なことに20回以上プロオケのオーディションを受けられるチャンスがありました。そのうちの何度かは二次審査に進むことができましたが、2度ほど2人のみが最終審査に残されたことがありました。50人以上の応募者から2人に絞られたとき、そこには1番と2番しか存在しません。1番にはプロオケ団員としての地位、安定した給料や社会的保証が待っています。2番は何の保証もなく不安定なフリーという現実のままです。この差はとてつもなく大きく、確かに“1番じゃないと意味がない”という現実ですね。

残念ながら私は1番になることはできませんでした。しかしながら、“1番じゃないと意味がない”とは決して思っていません。1番になれなかったのは運が悪かったのではなく“自分の力不足”だったからで、それは仮に1番になっていたとしても後にかなりの試練が待っていたと思います。また1番になった人もそれでゴールではなく、オケに入ってからの努力と試練は相当なものだと想像します。その努力ができ、試練を乗り越えられる人ことが“本当の1番”であり、プロオケの楽団員として活躍されているのです。

それでは、私が“1番じゃないと意味がない”と考えないのはどうしてでしょう? フリーという不安定な立場上(当時のシエナは固定給から歩合制へと移行)、仕事が続かなかったら楽器を辞めていた可能性だってあります。けれども“1番になれなかった”からこそ考えさせられたこと、出会えた人々、見えてきた道が沢山あります。

1番になれない理由はいろいろありますが、要は“何かが足りない(劣っている)”からです。全てに優れている人は文句なしに1番になってプロオケに入っています。1番になれなかった私のような音楽家たちは、その“何かが足りない”部分を少しでも向上させようと悪銭苦闘してることでしょう。もしかしたら、どんなに努力しても1番の人には追いつけないかもしれません。しかしながら、自分に足りない部分を認めてそれと向き合うことができて、初めて見えてくるものもあります。そして気がつけば50歳を目前に控えた今でも、まだフルートを吹き続けていられます。これは私にとって“とても意味のあること”なのだと思います。

ピッコロとの出会い

少し前置きが長くなってしまいましたが第5回となる今回のセミナーでは、ピッコロについてお話ししたいと思います。

▲私の愛器(ヘルムート・ハンミッヒ)

ピッコロはオーケストラや吹奏楽で最高音を担当する笛であることはみなさんご存じですが、その可愛らしい容姿とは裏腹にとてもコントロールの難しい楽器です。実際にフルート吹きの中にも、「ピッコロは苦手」とか「ピッコロは興味ない」という方もいらっしゃいます。

そういう私も、はじめは全くピッコロに興味がありませんでした。中学の吹奏楽部では、運動会でほんのちょっと吹いたことがあるくらいでした。その後進学した高松第一高校吹奏楽部でも、音楽科のフルート専攻生たちはピッコロを吹きたがらず、普通科の生徒がピッコロ担当でした。ですので普通だったらピッコロに全く触れないまま、私は高校を卒業していたかもしれません。

ところが高校2年のとき転機が訪れます。コンクールの県大会を2ヶ月後に控えたある日、私は吹奏楽部顧問の石川孝司先生に呼び出されました。そこで石川先生は、「岡本、コンクールでピッコロをやってくれ。」とおっしゃったのです。実はピッコロ担当の同級生が、諸事情で部活を辞めざるを得ない状況になったとのことでした。正直、私は迷いました。コンクールに出られるという期待と、ピッコロという慣れない楽器を吹く不安が交差したからです。

さらに当時の私は部活の欠席常習犯で、そんな自分がコンクール練習について行ける自信が持てませんでした。そこで、「僕より、真面目に部活に出ている他の同級生がやったほうが・・・」と石川先生に言ったところ、「おまえにやってもらいたいんだ。そのかわり、部活にはちゃんと出席しろよ!」と強い口調で先生はおっしゃいました。後で聞いた話しですが、当時の部の役員や先輩たちは、私がコンクールに出ることにみんな反対したそうです。それもそのはず、ろくに部活に来ない人をコンクールメンバーに入れられるはずがありません。

当時の私がどのくらい駄目な部員だったかというと、高校1年のときの全国大会への遠征で、1年の男子部員は手伝い要員として全員普門館まで同行しましたが、ただ一人私だけ連れて行ってもらえませんでした。それくらい、やる気のない生徒だったのです。しかし、そんな先輩たちの反対を押し切って、石川先生は私をコンクールメンバーに推したのです。今から思えば、「ちゃんと責任を負わせればコイツはやる!」と先生は見抜いていたのでしょう。

「おまえにやってもらいたいんだ!」という石川先生の言葉は、私の眠っていた心に火を付けました。その日から、私は真面目に部活に出席するようになりました。はじめのうちは先輩たちから、「おまえ、ちゃんと部活に来いよ!」と顔を合わす度に言われました。先輩とはいえ、休学前には一緒に高校受験した仲間ですので、その言葉は厳しくも「おまえ頑張れよ!」という温かいものでした。

ピッコロを吹くとフルートの調子が悪い?

ピッコロについては中学のときに少し吹いたことはあるものの、ほぼ初心者という状態でした。奏法や運指はフルートと同じですが、実際に吹いてみると高音で思うように音が出ません。自由曲はヴェルディの歌劇『運命の力』序曲、ピッコロが高音域まで使われている曲です。最初は譜面に書かれた音を出すのが精一杯でした。高い音を出そうとしてもヒット率は非常に低く、出るのは唾ばかり…。コンクールまで間もないだけに、焦る気持ちばかりが積もってきます。

さすがにこのままではまずいと思い、一旦フルートは後回しにしてピッコロ中心の練習へと切り替えました。まずはフルートと同じように「ソノリテについて」の最初のロングトーンから丁寧に行います。そして、徐々に高音域へと続けていきました。次にスケール(音階)練習。高音域では音が変わると息を入れるツボが微妙に変わるので、ちょっとしたことで音が出なくなります。それを修正しながら滑らかに音が繋がるまで繰り返しました。

しかしながら、高音の練習を続けていると耳鳴りがしてきました。これは、ピッコロ奏者の職業病のようなものです。当然、自分でも「うるさい!」と思うので、自然と息のスピードを緩めてしまいます。そうするとアンブシュアも閉まってしまい、高音は出しにくくなります。ですので、ピッコロ初心者の方には右耳だけ耳栓をして練習することを、私は勧めています。

まずはスピードのある息を保って、しっかりと高音域のロングトーンを行って下さい(但し周りの人からはできるだけ距離を離れて! 爆音で迷惑をかけますから…)。フルートと同様に十分に響きのある音色で高音が出せるようになると、フルートとピッコロは運指は同じでも実は“異なる楽器”であるということがわかってきます。フルートが吹ければピッコロも吹けるというものではないのです。しかしピッコロが吹ければ、それはフルートの高音域でのコントロールの幅が広がるという恩恵もあります。けれど私の場合、ピッコロの練習をすればするほどフルートの中低音の調子が悪くなってしまいました。ある日のレッスンで、「部活でピッコロを吹くようになって、フルートの調子が悪いのですが…」と野口博司先生(第1回セミナーを参照)に言ったことがあります。すると先生は、「将来オーケストラをやりたいのだったら、ピッコロは常識だよ。」とバッサリおっしゃいました。この言葉は胸に突き刺さりました。ピッコロを言い訳にしていた自分が恥ずかしかったですね。このときからピッコロは“フルートの練習の邪魔”になるものではなく、オケを目指す自分にとって“なくてはならないもの”になりました。

合奏で音が合わない!

さて、ようやく高音域でも音が当たるようになり楽譜通りに演奏できたところで、初めてコンクール合奏に参加しました。ところが、そこで驚くべき事態が発生します。あんなに苦労して吹けるようになった高音が、出る音出る音ことごとく音程が合いません。オケの編曲ものということで、オリジナルの1stヴァイオリンパートがピッコロ・フルート・クラリネットによるユニゾンで書かれているので確かに音程的にはシビアですが、それにしても吹く度にハウリングを起こし醜い状態でした。あまりにも音が合わないので、「おまえ、違う調で吹いないか?」とクラリネットの先輩から笑われる始末です。一人で練習しているときはそこまで酷い音程で吹いている自覚はありませんでしたが、周りの音を聴いて合わせるとか音色を工夫するという意識が欠落していたのですね。

それ以降、どうやったら周りと馴染む演奏ができるのかを追求する毎日でした。当時、個人で買える安価なチューナーは売っていませんでしたので、部活のチューナーを借りて楽器や自分の癖をチェックしたり、p から f までの音量の変化にできる限り対応する吹き方を研究しました。そうするうちに、あんなに合わなかった音程も気がつけば少しずつ周りとブレンドするようになっていきました。今でこそ個人個人がマイチューナーを持っていて手軽に音程をチェックできますが、私が中高生の頃はそれができなかった反面、各自がもっともっと耳を使って合わせていたと思います。

歌劇『運命の力』序曲で最も苦労した部分は、次のパッセージです。

▲歌劇『運命の力』序曲 206小節~(原調より短2度上)
オーケストラではヴァイオリンがオクターブのユニゾンで軽やかに演奏しますが、吹奏楽版ではピッコロ・フルート・クラリネットによる大ユニゾン大会になります。しかも私が演奏した版では原調より2度高い上、ピッコロはフルートよりオクターブ上で書かれていました。普通に吹けば相当騒がしいことになってしまいますが、この部分を弦楽器のようにいかに軽やかに吹けるかを研究することは、吹奏楽でピッコロを吹くにあたりとてもよい勉強になりました。吹奏楽においてピッコロは、最高音を担当するスパイス的な役割と同時に、バンド全体のサウンドの高音倍音に彩りを添える“かくし味”的な役割も担っています。そのためにはソリスティックな要素だけでなく音色のヴァリエーションや、何より耳を使った演奏が大切です。

最初はあんなに苦労した『運命の力』ですが、練習が進むにつれて周りとのアンサンブルが本当に楽しくなってきました。後にオーケストラでもこの曲を演奏しましたが、高校時代の吹奏楽のほうが“やりがい”がありましたね。残念ながらこの年は全国大会出場は成らず(第2回セミナーを参照)、私がピッコロに真剣に取り組んだのは四国大会までのたった3ヶ月弱でした。けれど、私のフルート人生にとってはとても意味のある時間でした。

ピッコロが運んできたチャンス

再び私がピッコロに出会うチャンスは、音大入学早々に訪れました。国立音楽大学では毎年5月に通称“C年ブラス”という新1年生による吹奏楽の演奏会が行われていました。指揮は管楽器専攻の4年生の先輩が務め、演奏する曲も先輩が選んで決めます。同期のフルート専攻生は12人いましたが、誰もピッコロを吹きたがらなかったので、私はすすんで立候補しました。演奏する曲はオーウェン・リード作曲の『メキシコの祭り』。3楽章からなる曲ですが、ピッコロは最高音のC(ド)が度々登場したり、第2楽章では叙情的なソロがあったりと大活躍です。

▲くにたちウインド・シンフォニカ(通称C年ブラス) 1986年、国立音楽大学講堂大ホール
この“C年ブラス”の演奏会が終わった後、出会う先輩たちが口々に「岡本、ピッコロすごく良かった!」と言って下さったのです。さらに同期生たちの間でも、いつしか“ピッコロの岡本”というイメージが定着していったように思います。またピッコロが吹けるからという理由で、先輩や同期生から中高の吹奏楽部の指導やアマチュアバンドのお手伝いの仕事を頼まれるようになりました。少し話しは逸れますが、先輩や仲間たちに認めて頂いたのにはもうひとつ理由があります。国立音楽大学ブラスオルケスター(以下ブラオケ)では新1年生の自己紹介の際、先輩たちの前で何かひとつ芸をする慣例がありました。私は、母校高松一高の応援歌『一高のファイト』を熱唱しました。熱唱といっても、「一高のファイトを知らないか」という歌詞をひたすら繰り返すだけです。幸運なことにこのインパクトが強かったようでして、「あいつは面白い」とか「あいつはピッコロが吹ける」と先輩たちに覚えてもらえたようです。

私が国立音楽大学を受験した理由のひとつに、ブラオケをやりたいという思いがありました。高校生のとき、ブラオケのレコードでラヴェルの『ダフニスとクロエ』第2組曲(藤田玄播編曲)を聴いたときは衝撃的でした。吹奏楽とは思えない色彩豊かなサウンドと、繊細かつダイナミックな演奏に感動しました。ブラオケはフルート18名、ピッコロ2名という独自の編成を基本とします。フルートパートを、まさにオケのヴァイオリンパートとして扱っているのです。

▲国立音楽大学ブラスオルケスター 1988年、国立音楽大学講堂大ホール
ブラオケのピッコロパートは、3年と2年の2人で担当する慣例でしたので、私は2年間ブラオケでピッコロを吹くことができました。ソロを除きピッコロ2本のユニゾンも多いので、2人のチームワークが大切になります。ここで最初の1年間は先輩の木次谷 緑さんと、次の1年間は後輩の中村めぐみさんとコンビを組んで演奏できたことは、非常に勉強になりました。1年先輩の木次谷さんとは後にシエナ・ウインドオーケストラでもご一緒でしたし(第3回セミナーを参照)、中村さんは広島交響楽団のフルート奏者として現在活躍されています。お二人共にピッコロもフルートも名手でいらしたので、その演奏や音楽に対する姿勢から学ばされたことは大きかったです。音大で過ごした4年間で誰かにピッコロのレッスンを受けたことは一度もありませんでしたが、このブラオケでの経験そのものが私の“ピッコロの師匠”でした。そしてこの大学生活の中で、益々ピッコロが大好きになっていきました。

高校2年のあのとき、石川孝司先生に「ピッコロをやってくれ。」と言われなかったら、シエナでピッコロを吹くことはなかったかもしれません。また初めて声をかけて頂いたプロオケの仕事もピッコロでしたし、ミュージカルのオーケストラでもピッコロ持ち替えが当たり前です。先生の言葉が、ピッコロ吹きとしての私の未来とチャンスを導いてくれました。ときに非常に厳しい先生でしたが、出会えたことに心から感謝しております。ピッコロで苦労されている方、チャレンジしたいけれど躊躇されている方、全く興味はないけれど…という笛吹きのみなさまにとって、少しでも私の経験が背中を押すことができれば幸いです。

余談ではありますが、私の母校高松一高は今年(2016年)19年ぶりの全国大会への切符を手にしました。指揮をされているのは石川先生の息子さんの石川幸司さんです。さらにもうひとつの母校である屋島中学校も全国大会出場が決まりました。ダブル母校の全国出場に、OBとしてこんなに嬉しいことはありません。両校ともに、讃岐パワー全開の演奏を全国大会でも披露してくれることでしょう。また全ての出場団体が持てる力を十分発揮して、最高の12分間を楽しまれることを願ってやみません。

★おすすめのピッコロCD

■ピッコロ・ジャンクション(ピッコロ:菅原 潤)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-1884/

■ピッコロ・ジャンクション2(ピッコロ:菅原 潤)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-2844/


ピッコロ吹きの巨匠、菅原 潤(NHK交響楽団)さんのピッコロ・アルバム。国立音楽大学の大先輩で、ピッコロ好きとしては学生時代からの憧れの先輩でした。確実で高度な技術力はもちろんのこと、包容力のある音色と表現の幅広さは必聴です! 他にも『Dedication for Piccolo』と『ピッコロ・アルバム』もおすすめ。

■ヴィヴァルディ:ピッコロ協奏曲集(ピッコロ:デュンシェーデ)
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-4097/


ベルリン・フィルのピッコロ奏者を務めたデュンシェーデのCD。柔らかい音色と繊細な表現力が本当に素晴らしいです。また、弦楽&チェンバロのアンサンブルの完成度が高く、とても7人での演奏とは思えません。ピッコロ好きなら、是非持っておきたい1枚です。

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