音楽に熱中するあまり受験勉強について行けず中学で不登校、何とか音楽科の高校に進学するも休学し小さな町工場で電気配線と格闘する1年を経験。「やっぱり音楽がやりたい!」と復学し音大を卒業後、プロオケを目指して20回以上オーディションを受けるも全て撃沈。そんな“落ちこぼれ笛吹き”が30年間のプロ経験で得たものとは? その中に“明日からもっと楽しくフルートが吹けるヒント”がみつかるかも!
◆岡本 謙(フルート奏者)プロフィール◆
10歳よりフルートを始める。香川県高松第一高等学校音楽科を経て、1990年に国立音楽大学を卒業。同年、シエナ・ウインドオーケストラ結成メンバーとして入団。6年間の在籍期間中、ピッコロ及びフルート奏者としてコンサート、CDレコーディングを多数行う。その後、東京吹奏楽団に移籍、ピッコロ奏者を務める。現在はフリーとしてオーケストラ、吹奏楽、室内楽等において演奏活動を行う。また、ミュージカルのオーケストラ・プレーヤーとしても、数多くの演目にて年間を通じて活躍している。フルートアンサンブル“ザ・ステップ”、タッド・ウインドシンフォニーメンバー。
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本物の音を聴くということ!
早いもので、4月末から開講した『おちこぼれ笛吹きの“やればできる!”ON LINEセミナー』も3回目となりました。この春、中学や高校に入学された新入生のみなさまもようやく学校生活に慣れてきた頃だと思います。吹奏楽部に入部して初めての楽器を手にされた方は、きっと悪戦苦闘しながら練習されていることでしょう。フルートに関していいますと、なかなか音がまとまらず「どうやったら先輩たちのように綺麗な音が出るのだろう?」と悩んでいる人もいらっしゃるかもしれませんね。
フルートは楽器自体に振動体が付いていないので、吹いていても息の抵抗感を実感し辛い部分があります。ましてや、息の大半を外に捨てているようなものですので、“一生懸命吹けば吹くほど音にならない”と落ち込むことだってあります。
そんなとき、街角でパフォーマンスをしている大道芸人を想像してみましょう。現実には何もないのに、あたかもそこに透明な壁があるかのように手で押してみたり寄りかかったり…。フルートを吹くときも、自分の顔の前に透明な壁があると想像してみましょう。そして、その壁に当たった空気が跳ね返ってくるようなイメージを持つことができれば、息のスピード感やまとめ方、方向性が定まってきます。ちょっと強く押すと消えてしまうような壁ではなく、しっかりと息を跳ね返してくれるような壁をイメージして下さいね。それができれば、壁のどの部分にどれくらいの強さで息を当てればよいか工夫してみましょう。きっと、気持ちよく息が跳ね返ってくるポイントを見つけられるはずです。
さて、楽器が上達するには練習が大切ですが、それと同じくらい重要なことがあります。それは“本物の音を聴く”ということです! 楽器はひたすら机に向かって勉強するだけで100点満点が採れるようなものではありません。女性がファッション誌を見て「このヘアースタイル素敵!」とか「この服可愛い!」とか思うように、そこに具体的なイメージがあると上達は早くなります。身近にフルートの先生や上手な先輩がいることが理想的ですが、そうでない場合はCD等を聴くということも音のイメージ作りには有効です。今はYouTubeでも様々な名手の演奏を聴くことができますが、ネット上の音のクオリティーはかなり低いです。少しでも本物に近い音を体験するには、やはり圧縮されていないCD等の音源を聴くことをお勧めします。また、少しだけ高級なイヤフォン(ヘッドフォン)を使うということも効果的です。音楽を勉強する上で、品質の高い音の追求は大切にして下さいね。
生で聴く名手の音色
私が初めて世界的な名手の演奏を聴くチャンスは、高校1年のときに突然やってきました。当時ウィーン・フィルの首席フルート奏者だったヴォルフガング・シュルツさんが、香川県まで来て下さったのです! しかも正式なリサイタルではなく、音楽を勉強している人のために、地元大学の施設を使ってのプライベート的なコンサートでした。そこでは、とても身近な距離でシュルツさんの演奏を聴くことができました。それだけに、シュルツさんの暖かい音色とパワフルなオーラに、高校生の私は圧倒されっぱなしでした。シュルツさんもノリノリで、アンコールにも関わらずバッハのh-mollソナタの終楽章を演奏してくれたのがとても印象的でした。普通に考えて、アンコールにそんなキツい曲を演奏するなんて、信じられないですよね。今から思い出しても、感性の敏感な若い時期にこういう体験ができたことは、本当に幸せだったと思います。
高校時代に聴いたフルーティストで最も鮮明に印象に残っているのは、何といっても大好きだったオーレル・ニコレさんです。さすがにニコレさんは四国まで来て下さらなかったので、高校でフルートを専攻していた仲間たちと一緒に大阪まで聴きに行きました。金曜日、授業を早退して連絡船で本州に渡り、さらに在来線と新幹線を乗り継いで大阪まで約3時間の道のりでした。
大阪に着いて最初に向かったのは、当時関西随一のフルート楽譜が揃っていた三宅楽器さん。そこで夢中になってアンサンブルの楽譜を探したことを覚えています。そして阪急梅田駅の地下街にある喫茶店で軽い夕食をとった後、リサイタルが開催されるザ・シンフォニーホールへと向かいました。
ザ・シンフォニーホールという最高の音響空間で聴くニコレさんの音色は想像通り、いや想像以上に暖かく柔らかく私を包み込んでくれました。プログラムは、これまた大好きなオール・バッハ! とにかく最初から最後までテンション上がりまくりでした。その後、何度もニコレさんの演奏を聴きましたが、この時の感動は格別でした。終演後、どうしてもひと目ニコレさんに会いたくて楽屋口に行ってみると、幸運なことにサイン会が行われていました。私はバッハのソナタの楽譜にサインして頂きました。ニコレさんは今年(2016年)の1月に90歳で他界されましたが、このとき頂いたサインは私の一生の宝物です。
▲ニコレさんから頂いたサイン
さて、サインをもらうのに時間を費やしてしまい、私たちは高松へ戻る船の出航時間に間に合わなくなってしまいました。そこで、船が途中立ち寄る神戸まで国鉄で先回りすることで、何とか高松行きの船に乗ることができました。ところがこの夜、普段は穏やかな瀬戸内海が大しけで、あまり大きくない船の揺れること揺れること。翌朝、高松港に到着するまで、船酔いで気持ち悪くなりながら、ほとんど眠れないまま一夜を過ごしました。今となっては、田舎の高校生(私以外はみんな女の子!)のとんでもない珍道中でしたが、やはりあの時ニコレさんを聴けてよかったと思います。
忘れられない音色との出会い
自らのフルート人生を振り返ってみると、その時々で“忘れられない音色との出会い”があったことに気づかされます。第1回のセミナーでご紹介した野口博司先生や、シュルツさんやニコレさんとの出会いは、高校生だった私に大きな影響を与えました。そして国立音楽大学に進学した私に、さらなる“衝撃的な音”との出会いが待っていました!
私が4年間師事することになった先生は、この年の春までNHK交響楽団で首席フルート奏者を務めていた宮本明恭先生でした。そして最初のレッスンで聴いた宮本先生の音色には衝撃を受けました! それは、今まで聴いたことがないスピード感と情熱溢れるサウンドでした。先生の演奏は、まさにsemple appassionato(常に情熱的に)という言葉がぴったりでした。
当時の宮本クラスの門下生たちは、少しでも先生の音に近づこうと日々のロングトーンには余念がなく、誰が聴いてもすぐに“宮本クラス”とわかってしまうほどでした。宮本先生のレッスンでは、ちょっとでも魂のこもっていない音を出すと「音!、音!、音!」、「ヴィヴラート!、ヴィヴラート!」と叱られたものです。また少しでもリズムがぶれると「指!、指!、指!」と繰り返し注意されました。宮本先生は、「ロングトーンをするときもメトロノームを使いなさい。」とおっしゃいました。
その際、(a)のような遅いテンポではなく、その倍のテンポ(b)で行いなさいと。要するにロングトーンをするとき、ただ音を長く伸ばすのではなく、速いテンポを感じながら音を出すことが大切なのです。そうすることで、スピード感のある息を使って楽器を100%響かせることができると、先生から教わった気がします。そんな宮本先生の演奏の中で今でも忘れられない瞬間は、1988年のリサイタルで演奏されたエマヌエル・バッハのソナタの冒頭部分です。
▲C.Ph.E.バッハ:無伴奏フルートのためのソナタ 第1楽章より
曲はA(ラ)の音のオクターブ跳躍から始まりますが、このときのAの響きの輝きと奥深さは「フルートでこんな音出るの?」と思うくらい凄かったです。私の中でのフルートの価値観が変わった瞬間でした!
今から思えば、もっともっと宮本先生から学びたかったことが山ほどありますが、当時あまり練習熱心ではなかった私は、いつも早々にレッスン室を追い出されていました。あの頃、もっと真面目に練習していれば・・・と思ってもあとの祭りですね。しかしながら、そんな私でも先生から受けた影響が染み込んでいて、それが今までのフルート人生を支えてくれていると思います。宮本先生は先月80歳を迎えられ、そのフルートの音色もまだまだ健在のご様子です。納得がいかないところがあると、何度も何度も繰り返しさらいこむ先生のお姿からは、フルートと音楽に対する深い愛情を学ばせて頂きました。
音大を卒業してから…
音大での4年間は、非常に充実した時間でした。何より大好きな音楽に没頭できましたし、志を同じくする仲間たちとの時間は「この生活が一生続けばいいのに…」というくらい楽しかったです。しかしながら、そんな楽しい時間もいつしか過ぎていき、やがて卒業後の進路を考える時期となってきます。
私は「30歳までにプロ・オーケストラに入る!」という目標(結局、達成できませんでしたが…)を決めてはいましたが、やはり卒業後のことが不安でした。そこで、ちょうどこの年から宮本先生が大学院でも教鞭をとられることになったので、大学院を受験することにしました。同期のフルート専攻生では、同じ宮本クラスから3人が受験しました。先生は大学院受験の私たちのために、特別に時間を割いて指導して下さいました。試験の結果は私以外の2人は合格し、私だけ不合格でした。私の実力不足は当然として、大学院で何を学びたいかという具体的なビジョンもなく、何となく受けてしまったことも敗因かと、反省する日々でしたね。
年が明け、いよいよ卒業が迫ってきた頃、高校以来の友人から電話がかかってきました。彼は同じ高松第一高等学校でクラリネットを専攻し、同じく音大卒業を控えていた橋本眞介さん(現在:名古屋音楽大学准教授)です。そして次のように切り出したのです。
「俺たち、音大を卒業しても仕事ないよね。そこで考えたのだけど、俺たち吹奏楽好きだよね。だから、同じような吹奏楽好きが集まってお金を出し合い、年に何回かでも演奏会をやらないか?」
当然ながら、私は二つ返事でOKと答えました。気の合った仲間たちと、大好きな吹奏楽ができるチャンスを見逃すはずがありません! 橋本さんは武蔵野音大の仲間を中心に、私は国立音大の仲間たちに話しを持ちかけました。具体的なことは何も決まっていませんでしたが、楽器を吹き続けたいという人は興味を持ってくれました。1990年初め、音大の枠を超えて集まった仲間による吹奏楽団が、今まさに生まれようとしていました。
シエナ誕生秘話
~ブラス好きから生まれた夢のプロ楽団~
若い音楽家による自主的なプロ吹奏楽団を作るという発想。このアイディアが思わぬ急展開を迎えることになります。橋本さんがこの吹奏楽団のことをクラリネットの師匠である藤井一男先生に相談したところ、非常に興味を持って聞いて下さりました。そして少しでも若者の力になりたいと思われた藤井先生は、「ちょっと待って。自分たちでお金を出すのもいいけれど、何か応援できないか考えてみるよ。」と言って下さったのです。ここからがまさにミラクルといってよいほどのドラマティックな展開でした。
藤井先生が長年に渡って一緒に仕事をされてきた楽器メーカーのヤマハから“全面的にバックアップする!”とのご提案を頂いたのです。さらに、メンバーには毎月決まった給料も出すというではありませんか! 最初、この話しを聞いたときは本当に信じられませんでした。しかしこれは現実でメンバーの給料や運営にかかる経費、練習場の費用、打楽器の無償貸与、そして日本各地でのコンサートやクリニック等を、ヤマハが全面的にサポートしてくれることが決まりました。このスピード感は目まぐるしいほどで、ほんの数箇月で発足した新楽団にも関わらず、次から次へとコンサートの開催やCD録音が決まりました。そして楽団の運営については、藤井先生が代表を務める音楽事務所に一任するとのことでした。そこで先生は“定年を28歳にする”という斬新な提案を打ち出します。この楽団を若手中心に構成し“次なるステップへの架け橋”にしてもらいたいという思いの表れでした。この28歳定年制は、後に「もっと長期的に楽団の将来を考えて頑張りたい!」という団員の意向で撤廃されることになりますが、この定年制があったおかげで若くフレッシュな吹奏楽団が誕生することになります。
ところで、楽団をバックアップするヤマハより、2つ条件が提示されました。
(1) メンバーは全員ヤマハの楽器を使ってほしい。楽器は特別割引で提供する。
(2) メンバーは公募のオーディションで選出してほしい。
(1)については、巨額のバックアップをするわけですから、楽器メーカーとしては当然の希望ですね。もちろん宣伝効果も大切ですが、「オールヤマハのプロ楽団を聴いてみたい!」という楽器メーカーの夢もあったと思います。ただ人それぞれに愛用してきた楽器もあるだけに、このことでオーディションを受けるのを諦めた人も少なからずいました。
(2)も当然といえば当然の条件でしたが、吹奏楽団の創設を目指していた私たちにとっては、「俺たち、入れてもらえるのかな?」と焦ったのも事実です。実力重視のオーディションですので、情状酌量の余地は全くありません。フルートに限らず既に活躍されているフリーのプレーヤーは大勢いらっしゃったので、このオーディションは相当なプレッシャーになりました。募集人数はフルート奏者2名とピッコロ奏者1名。フルートはかなり高い競争率になると思い、私はちょっとだけ得意だったピッコロで受験することにしました。オーディション前夜は気持ちが高ぶって寝つけず、一睡もしない状態でオーディションに臨みました。数日後、無事合格の通知を頂いたときは本当にホッとしました。また、橋本眞介さんをはじめ一緒に楽団創設を目指してきた多くのメンバーたちも合格したと聞いたときは、本当に嬉しかったです。
さらにフルートで合格したのは、大学で1年先輩の木次谷 緑さんと伊達佳代子さん。お二人とも同じ宮本クラスでしたので、シエナ創立時の初代フルートパートはオール宮本クラスということになります。木次谷さんは大学時代からオーケストラや国立音大ブラスオルケスターで、ずっとお隣で吹かせて頂きました。残念ながらご病気で若くして他界されましたが、いつも笑顔で性格も明るくフルートもピッコロも本当に素敵な先輩でした。伊達さんとは、長年に渡ってご一緒にお仕事をさせて頂いております。ドイツの名器ヘルムート・ハンミッヒを自在に操り、その音色と音楽性には日本人離れした魅力がいっぱいのフルーティストです。
“シエナ”命名の由来
ようやくメンバーも決定し、これから新楽団が活動していこうとするとき、「楽団の名前はどうしよう?」ということになりました。「とにかく若々しい名称がいいよね。」と話していると、藤井先生が「シエナっていいと思わないかい?」とおっしゃいました。先生のお話しによると、北海道の函館に『シエナホテル』というとても素敵なホテルがあるとのこと。今でこそイタリアの地名として有名ですが、当時シエナを知っている日本人は少なかったと思います。そこで先生はホテルに電話して、「シエナってどういう意味ですか?」と質問されたそうです。そうするとイタリアの地名ということがわかり、そこからイタリア…明るい太陽…地中海…青い空…爽やかな風…とイメージが膨らみ、フレッシュな新楽団にはピッタリと思ったそうです。私たちも先生のお話しを聞いているうちに、イタリアの青い海と空が頭の中に浮かんできて、この若い楽団には相応しい名称だと思いました。余談ですが、当時イタリアに詳しい方からは、「イタリアの楽団で演奏されていらっしゃるのですね。」なんて言われることもありましたよ。
かくして1990年5月、平均年令23歳の若々しいプロ楽団『シエナ・ウインドオーケストラ』が誕生することになります。当時のバンドピープル誌には、メンバー全員の顔写真とプロフィールが掲載される等、吹奏楽界において非常に注目を集めました。またヤマハの強力なバックアップにより、設立1年目の年間稼働日数は何と144日にも達しました。音大を卒業したばかりで経験の浅い私たちにとってコンサート、CD録音、クリニック等、多くのことを学び経験できる貴重な場があったことは、本当にありがたいことでした。
▲バンドピープル1990年6月号
■バンドピープル1990年7月号
■バンドピープル1990年8月号
いよいよシエナがデビューするとき、残念ながら“言い出しっぺ”の橋本さんの姿はそこにありませんでした。彼は大学院への進学も決まっていましたが、同時に広島交響楽団への入団が決まったのです。この時のことを私はよく覚えています。明け方まで藤井先生のお宅でシエナ発足の準備や話し合いをし、「よし、これから一緒に頑張っていこう!」と別れました。まだ電車の始発前でしたので、私のバイクに橋本さんを乗せて江古田のアパートまで送りました。私が帰宅するとすぐに彼から電話がかかってきて、「広島交響楽団から採用通知が届いた!」と言われました。つい数時間前までシエナの未来像について熱く語り合っていただけに、後ろ髪を引かれる思いは相当強かったと想像しますが、彼はオーケストラ奏者の道を選びました。しかしながら、橋本さんの“吹奏楽への情熱”はあの頃と全く変わっていないと、今の活躍ぶりからも察することができます。その彼の情熱があったからこそ、シエナが生まれたのですね。橋本眞介さんと藤井一男先生のお二人こそが“シエナの生みの親”だと思います。そして、若者の夢を応援してくれるヤマハという“大きな支え”があったからこそ、“ブラス好きの夢”が現実になったことは、本当に素晴らしいことですね。
その後、バブル崩壊等の時代の変化は音楽業界にも打撃を与え、シエナ・ウインドオーケストラは苦難にさらされるときもありました。しかしながら、そんなときも団員同士が知恵を出して協力し合い、今や本当に素晴らしい楽団に成長されました。きっと簡単には語れないほどの努力と、多くの方の協力があったことでしょう。26年前の創立時には、今の輝かしいシエナの姿を想像することは正直できませんでした。“吹奏楽への情熱”、“若い音楽家の夢”から生まれたシエナは、今後50年・100年とさらに輝き続けることでしょう。シエナよ永遠なれ!