■吹奏楽曲でたどる世界史【第28回】ピータールーの惨劇(1819年8月16日) ~ピータールー序曲(マルコム・アーノルド)

Text:富樫鉄火

●作曲:サー・マルコム・ヘンリー・アーノルド Sir Malcolm Henry Arnold(イギリス/1921~2006年)
●初出:原曲初演1968年
●編曲:国内版では近藤久敦、瀬尾宗利など。
●出版:ブレーン(レンタル)
●参考音源:『アーノルド・セレブレーション』東京佼成ウインドオーケストラ (佼成出版社)ほか多数
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-1144/
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cdi-0226/

●演奏時間:約10分
●グレード:4~5

近年、吹奏楽界で人気の、この《ピータールー序曲》が、労働争議で発生した惨劇を描いた曲であることは、ご存知の方も多いと思う。では、いったい、どういう争議だったのかとなると、音楽解説としては、詳しく紹介される機会は少ないようだ。まず、そこから述べておこう。

ロンドンから北西部へ向かって鉄道で3時間前後、飛行機だと1時間の位置に「マンチェスター」がある。

いまでは、サッカー・チーム「マンチェスター・ユナイテッド」の本拠地として有名だが、古い音楽ファンには、コーラス・グループ「ピンキーとフェラス」の大ヒット曲《マンチェスターとリヴァプール》(1968年)でおなじみだろう(作曲は《恋はみずいろ》のアンドレ・ポップ)。

この曲の歌詞は、おおむねこんな内容である。

「マンチェスターとリヴァプールはホコリだらけで、工場と石炭の町。人々はその日のために生きている。でも、どんなに遠くへ行っても、ここは懐かしい故郷。工場の煙突が迎えてくれる」

そう歌われるほど、マンチェスターの歴史は「工場」「産業」と切っても切れない関係にある。14世紀前後から、毛織物や綿織物の職人が移り住み、「繊維の町」として栄えてきた。原材料である綿花をアメリカから運び込むため、そして完成品を輸出するため、運河を始めとする便利な交通手段も早くから開拓されてきた。そうなると、繊維工場で職を得るために人々が集まるようになり、18世紀には人口1万人台だった田舎町が、19世紀には30万人以上の大都市に成長する。かくしてマンチェスターは産業革命の中心地となり、一大工業都市となる。だが、労働者たちの環境は劣悪なままだった。急激な人口増加に、職場の数も追いつかなかった。

こうして、労働者階級に次第に不満が鬱積し始めた。特に、低賃金もさることながら、労働者階級に選挙権がなかったことに不満が集中した。そもそも当時のイギリスは、「教育」や「政治」は上流階級のものであって、労働者階級には必要ないと思われていた。もちろん「労働組合法」とか、まともな「労働基準法」なんてものもなかった。

また、労働者たちは「穀物法」の撤廃も求めていた。これは1815年にできた法律で、外国から安い小麦を輸入することを禁止する法律である。当時の議会は農園主たちが牛耳っており、自分たちが生産した穀物の価格を高く維持するために設けられた悪法だった。労働者階級は、低賃金の上に高い穀物を買わされて、生活は苦しくなる一方だった。産業革命とは名ばかり、現場労働者はいつまでたっても上流階級の犠牲にさせられる。

1819年8月16日、「マンチェスター愛国者協会」の主催で、市内にあるセント・ピータース教会前の広場で大集会が開催された。同会は、穀物法の撤廃や労働者の参政権獲得を目的とする団体で、リーダー格の一人は、急進派の活動家ヘンリー・ハントであった。

警備当局は、この集会に危機感を持った。ハントはたいへんな演説上手で知られていた。「あいつが演説すると、聴衆は興奮し出して、何をするか分らない」――警備側は、数百人の騎兵隊を動員して厳重警備にあたった。

この集会にどれくらいの労働者が集まったのかは諸説あって、当初の“警察発表”だと8000人とのことだったが、実際には、周辺まで含めると6万~8万人だったとの説もあるようだ。

あまりの人数が集まったのを見た現地の治安担当者は、集会の中止命令を出した。この大群衆が暴徒と化したら、町は廃墟と化すかもしれない。だがもちろん労働者たちは応じない。ハントが演説を始めようとした午後1時30分、集会の中に、騎馬隊・騎兵隊が投入された。

現場は修羅場と化した。ハントを始めとする協会幹部たちは逮捕され、それに怒った労働者たちは騎馬隊や騎兵隊と衝突した。騎兵はサーベルを抜いて労働者たちを追い払った。

集会参加者と警備側双方に、計11人の死者が出た(中には、妊娠中の女性もいた)。負傷者は約500名(うち、100名強が女性だった)。多くの死傷者は、馬によって踏みつけられていた。サーベルで刺殺された者もいた。

翌日の地元紙「マンチェスター・オブザーバー」は、この事件を、皮肉を込めて「ピータールーの惨劇」と書いた。現場がセント・ピータース教会前の広場だったことと、数年前(1815年)にベルギーのワーテルローでナポレオン軍が惨敗した「ワーテルローの戦い」とをひっかけた合成語だった。ナポレオン惨敗以来、「ワーテルロー」(英語読みだと「ウォータールー」)は、「完全なる敗北」の代名詞となっていたのだ。【注1】

時が流れて1967年、イギリス労働組合連合会の創立100周年を記念して、マルコム・アーノルドに管弦楽曲が委嘱された(初演は翌年)。アーノルドは、イギリス労働運動史上に残る、この「ピータールーの惨劇」を音楽化した。それが《ピータールー序曲》である。

曲は、惨劇の一部始終をリアルに描写している。のどかな田園風景を思わせるコラール風の旋律が流れ、次第に騎兵隊の足音が響いてきて、大混乱、弾圧の模様が描かれる。阿鼻叫喚の音楽洪水のあと、静まると再び冒頭のコラール旋律に戻り、圧倒的な大合奏になる。労働者たちはその場では敗北したが、やがて勝利をつかむであろう、未来への希望を描いている。

アーノルドは、様々なタイプの音楽を書いたので、一部批評家からは「とらえどころがない作曲家」とも指摘されているらしい。現に母国イギリスの「ニュー・グローブ世界音楽大事典」ですら、たいへん小さな扱いで「《ピータールー序曲》に見られるように、平凡で陳腐な要素と破壊的な要素との葛藤が、その相反する力のアイヴズ風の出会いによって強調されることもある」とか、「(交響曲第5番などで)彼自ら『感情に訴える常套手段』と呼ぶものを計画的に用いるやり方は、多くの批評家を当惑させた」などと、いささか突き放したように解説している。

だが、この曲は、終始「描写」によっているので「当惑する」ようなことはない。管弦楽曲だが、以前から、吹奏楽版でよく演奏されている。アーノルド自身、ロンドン・フィルのトランペット奏者だったせいか、管打楽器の扱いを十分心得ており、吹奏楽版への移行も極めて自然だった。激しい乱闘場面から、ラスト、未来への希望を思わせるコラール賛歌になる部分は、何度聴いても感動的だ。国内版の編曲は、近藤久敦版、瀬尾宗利版などがある。

アーノルドは、いまや日本の吹奏楽界における大人気作曲家である。映画音楽『六番目の幸福』(日本公開時の邦題)による組曲《第六の幸福をもたらす宿》、同じく映画音楽からの組曲《戦場にかける橋》、映画『超音ジェット機』の音楽からの改編《狂詩曲「サウンドバリアー」》バレエ音楽《女王への忠誠》《4つのスコットランド舞曲》、交響曲第2・4・5番……枚挙に暇がない。【注2】  <敬称略>


【注1】ロンドンに「ウォータールー」という地名があり、これも、イギリス軍を含む連合軍がナポレオンをワーテルローの地で破ったことに由来するそうだ。名作映画『哀愁』(1949年)で、ヴィヴィアン・リーとロバート・テイラーが出会った橋は、この町にある。橋の名前は、映画の原題と同じ「ウォータールー・ブリッジ」。そういえば、往年の人気グループABBAが1974年のユーロビジョン・コンテストで歌って優勝し、最初の大ヒットとなった曲に《恋のウォータールー》なんてのもあった。(上記「ロバート・テイラー」部分、当初、「クラーク・ゲーブル」と記述しておりました。つい、別の映画とごちゃ混ぜになってました。ご指摘いただいた読者の方、ありがとうございます。何の映画とごちゃ混ぜになっていたかは…映画ファンはお分りだろうと思います/富樫)
【注2】アーノルドの音楽で、最も人口に膾炙しているのは、映画『戦場にかける橋』(1957年)の音楽だろう。アカデミー作曲賞を受賞している。この中で、アルフォード作曲の有名なマーチ《ボギイ大佐》が使用され、これに重ねてアーノルド作曲の《クワイ河マーチ》が流れる。たいへん見事な音楽構成なのだが、そのために、《ボギイ大佐》と《クワイ河マーチ》が同一曲であるかのような誤解が流布している。この2曲は、まったく別の曲である。余談ついでに、『戦場にかける橋』の原作は、フランスの作家ピエール・ブールによる体験実話小説。彼は戦時中、ビルマで日本軍の捕虜となっており、終生、黄色人種を憎み続けた。ところが体験談だけでは怒りがおさまらなかったと見えて、今度は黄色人種をサルに見立てたSF小説まで書いた。それが『猿の惑星』である。

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