■吹奏楽曲でたどる世界史【第15回】イエス・キリスト(その2…キリスト教迫害)~ローマの権力とキリスト教徒の心(グレインジャー)

Text:富樫鉄火

●原題:The Power of Rome and The Christian Heart
●作曲:パーシー・A・グレインジャー Percy Aldridge Grainger(1882~1961)
●発表:1941年初演(作曲者自身の指揮で、ゴールドマン・バンドにより)
●出版:Masters Music、またはEdwin F. kalmus(旧版はMills Music)
●参考音源:『ボストック・ライブ2000‐2002』(佼成出版社・廃盤)、他
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-1845/
http://item.rakuten.co.jp/bandpower/cd-1289/
●演奏時間:約14分
●編成上の特徴:独特にして巨大。本文参照。
●グレード:5

今回の作曲者グレインジャーは、クラシック分野でいささか傍流的に紹介されている人だが、吹奏楽の世界では重鎮である。≪ガムサッカーズ・マーチ≫≪ヒル・ソング第2番≫≪デリー地方のアイルランド民謡(ロンドンデリーの歌=ダニーボーイ)≫≪岸辺のモリー≫、組曲≪リンカーンシャーの花束≫など、多くのオリジナル曲、編曲がある。

イングランド周辺の民謡収集・編曲が有名なので(特に≪ロンドンデリーの歌=ダニーボーイ≫が、これほど広まったのは、彼の編曲の功績である)、一見イギリス人のように思われがちだが、「オーストラリア人」である。メルボルンに生まれ、ドイツで音楽を学び、イギリスで有名になり、最後はアメリカに渡って成功して亡くなった。墓はオーストラリアにある。

昔は、グレインジャーといえば、せいぜい「イギリス民謡を編曲して広めた人」とか、「吹奏楽作品も書いた作曲家兼ピアニスト」くらいの認識しかなかったが、近年、研究が進み、実は、先見性と個性に満ちた、バクハツ系奇人作曲家であることが分ってきた。

その奇人ぶりは、とてもこの紙幅では紹介できない。ブラジャーをデザインしたとか、車に乗らず「走って」移動していたとか、ピアノ3台を含む巨大オケ編成を考案したとか、自動電子演奏楽器(シンセサイザーの元祖?)を考案したとか、デューク・エリントンを尊敬していたとか、ムチ打ちSM愛好家だったとか、母親と「関係」があったらしいとか、とにかく常識では考えられない人生を送ったようだ。その全貌は、日本でも、宮沢淳一氏、柿沼敏江氏といった研究家によって発掘され、紹介されつつある。

この≪ローマの権力とキリスト教徒の心≫は、アメリカ吹奏楽史の重要人物エドウィン・F・ゴールドマン(1878-1956)の存在を抜きにしては語れない。そう、あの≪木陰の散歩道≫を作曲した人である。

ゴールドマンは、常設のプロ吹奏楽団「ゴールドマン・バンド」を結成し、ニューヨークのセントラルパークで野外コンサートを実施、絶大な人気を博した。教育活動にも熱心で、アメリカ中の吹奏楽関係者に呼びかけて、ABA(アメリカ吹奏楽指導者協会)を結成。また、吹奏楽オリジナル曲の開拓にも力を入れた。レスピーギ唯一の吹奏楽オリジナル曲といわれている≪ハンティング・タワー≫なども、ゴールドマンの薦めで書かれた作品である。

そんなゴールドマンが目をつけたのが、当時すでにアメリカに移住し、ニューヨーク大学音楽学部長もつとめたグレインジャーだった。彼に上質な吹奏楽オリジナル曲を書くよう求め、その結果生まれたのが、あの名曲、組曲≪リンカーンシャーの花束≫なのだ。

≪ローマの権力とキリスト教徒の心≫は、1948年、ゴールドマンが70歳を迎えた記念に、アメリカ作曲家連盟がグレインジャーに祝賀曲を委嘱して出来上がった曲である。

作曲者自身によれば、この曲は……

<初期キリスト教徒がそうであったように、またいつの時代のどこでも、個人の尊厳は力のある支配者に抑制されてきた。(略)第一次大戦中の若い新兵達の訓練の中にもそれを感じ、私はこの曲を書いたが、この曲は描写曲でも劇音楽でもない。個人の魂がいかに力のまえに無力であったかを音楽のフィーリングとして描きたかった>【注1】

……ということになる。タイトルからも分かるが、要は「権力の前に潰されて行く個人の無力さ」を描いたということであろう。

イエスの死後、弟子たちによってキリスト教が始まり、ローマ帝国にも広がっていた。もともとローマ帝国は多神教国家であり、国家は「皇帝崇拝」を強いていた。そこへキリスト教が広まり、皇帝は次第に権威を失い始めた。デキウス帝の時代(在位249~251年)に、正規のキリスト教迫害組織がつくられ、のち、ディオクレティアヌス帝(在位284~305年)の分割統治時代に、迫害は頂点に達する。

当時、すでにローマ帝国はボロボロになりかけており、広大な領地を完璧に統治することは難しくなっていた。そこへ来て、キリスト教徒の台頭で、ますます帝国の権威は失われつつあった。キリスト教の隆盛は、帝国にとって最大の悩みの種だった。そこでディオクレティアヌス帝は、伝統宗教を復活させようとし、多くのキリスト教徒を殺害した。

だが、それでもキリスト教徒は増える一方だった。結局、4世紀に入ると、周辺国でもキリスト教を公認する国があらわれ始め、311年の「ミラノ勅令」ですべての宗教とともに公認され、380年にはテオドシウス帝によって、キリスト教は「ローマ帝国国教」となる。いわば「迫害された側」が「迫害した側」にとって代わったのである。

グレインジャーの曲は、彼自身が語っているように「描写音楽」ではない。よって、聴いていても、弾圧や迫害を思わせる部分はない。スコア上には「寂しい男」のテーマ、「ローマの権力」のテーマと記された部分があり、これらが絡み合って自由に進行する。ワーグナーの無限旋律や、ブルックナーの重厚な和音を思わせる部分もある。テンポ60で始まり、一時、速まる部分もあるが、おおむね静寂・冷静に曲は進む。

ただし編成は独特・巨大である。パイプ(または電子)オルガンに、大量の鍵盤打楽器、チェレスタ、ピアノ、ハープに、「可能なら」の注意書き付きで「弦楽5部」も書かれている(もちろん弦楽5部の音は、すべてバンドの方で鳴っているように書かれているので、ナシでも全然かまわない)。そのほか、オプション処理も可能だろうが、イングリッシュ・ホーンやソプラノ&バス・サクソフォーンなども書かれている(オルガン部分も、一応、管・鍵盤打楽器によるキュー=代奏記譜がある)。

どうもグレインジャーの理想は、「管打楽器」部分が極端に肥大化した「管弦楽」であったようだ。にもかかわらず、ド派手に鳴り響いてカタルシスをもたらすような曲でないところがユニークだ。これは吹奏楽によって描かれる「精神の大壁画」なのである。

ところで……この曲に描かれる「キリスト教迫害」は、あくまで「迫害された側」=「キリスト教徒」の側からの視座であるはずだが、聴いていて、そう単純な構図が感じられないのは、筆者だけだろうか。もっと複雑な何かを、グレインジャーは描いたような気がするのである。

ローマがキリスト教徒を迫害したのは事実なのだから、この視座が誤っているとはいえない。だが、「違う視座」もあることは、知っておいていただきたい。つまり、「キリスト教がローマ文明を滅ぼした」「イエスの教えとキリスト教は別物」との視座である。

それを声高に唱えた人はけっこうたくさんおり、たとえば、ドイツの哲学者ニーチェ(1844~1900)や、イギリスの作家H.G.ウェルズ(1866~1946)がそうであった。

「ニーチェなんて、そんな難しいの、知らんよ」と言うなかれ。よく吹奏楽でも(冒頭だけが)演奏される、≪ツァラトゥストラはかく語りき≫。あれは、リヒャルト・シュトラウスが作曲した交響詩だが、原案は、ニーチェが書いた同名の哲学書である。

ニーチェは、キリスト教が、この世界をダメにしたと考えた……そもそもイエスは、あんな激しいことを言っておらず、真面目で大人しい、ユダヤ教の改革提唱者だった。ところが、イエスの死後、野望を持った男パウロがあらわれた。彼は、当初、キリスト教徒を迫害する側にいた。ところが、見たことも会ったこともないはずの「イエスの死」を利用して、伝説を創り上げてカリスマ化し、人々を従わせれば、ローマをも征服できると考えた。そこで、ありもしない「処女懐胎」だの「復活」だのをでっち上げ、『新約聖書』を作った。結局、素晴らしいローマ文明は、この「キリスト教」によって骨抜きにされ、滅んでしまった……おおむね、そのようなことを記したのが、ニーチェ晩年の問題作『アンチクリスト』(1888年)である。【注2】

また、H.G.ウェルズといえば、『タイムマシン』『宇宙戦争』『透明人間』といったSF小説の元祖作家として知られているが、それらは、ほんの一面にしかすぎない。彼は、本来が歴史家、文明論者なのである。彼が1920年に発表した超大作『世界史大系』(『世界文化史』等の邦題もあり)は、地球の始まりから現代までを、具体的なエピソードで綴った驚異的に面白い長編歴史エッセイだが、ここでは、ニーチェほど過激ではないにせよ、その後のキリスト教が、いかにイエス本人の教えとは違うものになって世界に広まっていったかが、ビッシリ述べられている。

<この十分に発展したニケアのキリスト教と、ナザレのイエスの教えとの間にある深刻な相違については、読者の注意を呼び起こす必要があろう(略)。(イエスの教えには)供物をそなえる神殿も、祭壇もなく、礼拝や、儀式もなく、捧げる犠牲というのは「傷心し、悔恨した心」であった。そして唯一の組織は説教者の団体であり、その主な仕事は説教であった。ところが四世紀になってすっかり羽の生えそろったキリスト教は、福音書におけるイエスの教えをその核心にもっているにもかかわらず、(略)祭司的宗教になったのである。そしてその念入りな儀式の中心は聖壇であり、礼拝の本質的行事は聖職者によって執り行われるミサの犠牲であった。こうして助祭とか、長老とか司教とかの組織は急激に発達したのである>【注3】

これは筆者の拙い想像なのだが、グレインジャーの曲には、これらニーチェやウェルズに近い思想が潜んでいるような気がするのだ。本来、イエスの教えはもっとシンプルなものであった。それが、なぜ、今のような巨大権力になってしまったのか。初期キリスト教世界で迫害を加えたローマの権力もさることながら、その後、キリスト教は往年のローマを上回る権力組織になってしまった。同じことを繰り返す虚しさと、それが歴史の必然である哀しさをグレインジャーは音楽にしたのではないだろうか。だからこそ、このような静謐で、極めて抽象的な音楽になったではないだろうか。

もしそうだとしたら、この曲は「21世紀」を予言していることになる。現代の地球上は、キリスト教とそれ以外の宗教(特にイスラム教)との対立が明確になっている。そして、「巨大権力」キリスト教社会の象徴(とイスラム社会の一部が考えた)ニューヨークの世界貿易センタービルは、いとも簡単に破壊されてしまった。あの9・11テロの瞬間だけは、間違いなく、イスラム教がキリスト教にとって代わったのだ。かつてキリスト教がローマに勝利した、その裏返しが起きたのである。いったい「迫害する側・される側」の線引きは、どこにあるのだろうか。静謐ながら混沌と進行するグレインジャーの≪ローマの権力とキリスト教徒の心≫は、そんなことを描いている曲ではないのだろうか。

この曲は、オルガンも加わる大編成であり、しかも派手さやキャッチーな部分が少ないので、決して頻繁に演奏される曲ではない。ほとんど埋もれていたといってもいい。ところが、2002年2月に、東京佼成ウインドオーケストラが、第72回定期演奏会(横浜みなとみらいホール)で、ダグラス・ボストックの指揮で取り上げ、ひさびさのプロによる演奏が披露された。しかも名演であり、ライブCD(上記参考音源)になって発売されている。吹奏楽には、こういう曲もあるのだということを、ぜひ、多くの方々に知っていただきたい。
<一部敬称略>
【注1】グレインジャーの言葉は、CD『ボストック・ライブ2000-2002』の、秋山紀夫氏のライナーノーツ解説から抜粋引用させていただいた。

【注2】ニーチェの『アンチクリスト』は、最近、『キリスト教は邪教です! 現代語訳「アンチクリスト」』(適菜収訳/講談社プラスα新書)となって刊行されている。小学生でも読めるような、分かりやすい講談調に訳されており、それでいて原文の主張はそのままなので、ぜひ、お読みいただきたい。

【注3】ウェルズの文章は、『世界文化史(三)』(藤本良造訳/新潮文庫、昭和32年初版/昭和39年5刷)より引用した(全8巻。現在、絶版で入手不可能)。なお、ウェルズ自身が、この大著を要約しながら書き起こした『世界史概観』邦訳が岩波新書(上下2巻)にあるが、ダイジェスト化されたせいか、本文で紹介したようなキリスト教に関するウェルズの主張は、こちらでは少々弱く感じられる。
※本稿の執筆にあたり、東京佼成ウインドオーケストラ事務局のご協力をいただきました。御礼申し上げます。

コメントを残す