▲「市音タイムズ」第85号(大阪市音楽団友の会、1995年1月1日発行)
▲木村吉宏
『交響曲と名の付く曲は、その作曲家が心血を注いで作った曲であり、難しい曲が多いのですが、芸術性の高い曲がたくさんあります。これは、管弦楽、吹奏楽共にいえることです。管弦楽、特にクラシックの分野の曲は、よく演奏されCDにもなっておりますが、吹奏楽では、あまり系統だった録音もなく、一般の音楽ファンに知られていない曲が多いのです。
吹奏楽オリジナルの交響曲は、現在約七十曲ほどが知られておりますが、その全てを聞いた事がある人は、まずいないのではないでしょうか。
もし全ての曲を録音したCDがあれば、非常によい資料になると思います。また、私は、単なる資料のための録音ではなく、芸術性も追求し、一般の音楽ファンの方にも聞いてもらえるような物にしたいのです。そうすると、吹奏楽のすそ野も広がりますし、現代に生きてる作曲家たちの刺激にもなるのではないでしょうか。作曲家がどんどんと新曲を書いてくだされば吹奏楽も今以上に発展して行くでしょう。…..』(原文ママ)
以上は、「市音タイムズ」第85号(大阪市音楽団友の会、1995年1月1日発行)に掲載された当時の大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)の団長で常任指揮者だった木村吉宏(1939~2021)さんへのインタビュー記事「ウィンド・オーケストラのための交響曲のCD 新発売」からの引用だ。
インタビューは、オランダのヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第2番『ビッグ・アップル~ニューヨーク交響曲』(Symphony No.2“The Big Apple”- A New York Symphony)とフランスのセルジュ・ランセン(Serge Lancen)の『マンハッタン交響曲』(Manhattan Symphony)がカップリングされた第1弾「ウィンド・オーケストラのための交響曲[1]」(東芝EMI、TOCZ-9242)が1994年(平成6年)12月21日にリリースされるにあたり、大阪市音楽団友の会の中村順七さんの質問に答える形で行なわれている。(参照:《第144話 ウィンド・オーケストラのための交響曲》)
「ウィンド・オーケストラのための交響曲」は、文字どおり、ウィンドオーケストラのために作曲された交響曲だけで構成された世界初のCDシリーズで、1993年(平成5年)5月のとある昼食時、木村さんから呼び出され、“次の自主企画”のアイデアを求められた筆者が出した『吹奏楽のオリジナル交響曲全集なんてどうでしょうか。』という提案に対し、木村さんが『よし! その話、こうた(買った)!!』という瞬間的なやりとりがあって動き出したプロジェクトだった。
同時に、筆者は、全体の“監修”を委ねられた。
とても名誉な指名だったが、一方で、筆者の頭の中には、市音の自主制作盤としてスタートするこのプロジェクトの実現のためにやらねばならないことがつぎつぎと浮かんできた。
まずは、マーケットのリサーチだ。“世界初企画”ということは、言い換えれば、世界中にひしめく商業レコード会社がどこも手をつけていない企画であることを意味している。“担当者が企画倒れになることをとても怖がっているのか”、“吹奏楽への誤った先入観から価値を見いだせないでいるのか”etc….。いずれにせよ、レコード業界にはびこる常識は、すべてが否定的なものだった。
かつて、イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)の創始者で指揮者のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)が、米マーキュリー・レーベル(Mercury)のクラシック部門の責任者デーヴィッド・ホール(David Hall)に録音レパートリーを提示したときに、『ねえ、フレッド、君はそれらの10枚も売り上げることはないでしょう。しかし、我々は、それらをいつでも卒業生たちに差し上げることができます。』(註:フレッドは、フェネルの愛称。)と遠回しに“採算が見込めない”と言われた場面もきっとこんな感じだったのだろう。
加えて、熱心な吹奏楽ファンの間でも、当時はまだ、オリジナルといえばアメリカの作品をさす風潮が強く、市音が本邦初演に力を注いでいたヨーロッパの作品は、他のエリアではほとんど実演すらされていないという地域差も受け入れねばならなかった。
そして、リサーチから導かれたひとつの結論は、このシリーズは、国内マーケットだけでは完結できない可能性もあるので、最初から広く海外の作曲家や出版社を巻き込んで、世界に向けたプロデュースやディストリビューションを考える必要がある、ということだった。
幸い、身近には、東京の佼成出版社のように、アメリカやヨーロッパの出版社とタイアップして、東京佼成ウインドオーケストラのCDのディストリビューションに成功しているというすばらしい成果を挙げている実例もあった。
楽団の自主制作盤なら、いろいろと参考になることも多いだろう。
しかし、海外を巻き込むには、世界中に企画の意義と録音のスタートを発信するだけでなく、まず市音の存在も演奏も知ってもらわないといけなかった。
そこで思いついたのが、大阪市音楽団演奏のベストセラーCD「大栗裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195、リリース:1993年1月21日)の名刺的活用だ。
市音初の単独リリースCDであるだけでなく、わが国を代表する吹奏楽CDの1枚だと考えていたからだ。
そして、この時たまたま、1993年6~7月に東芝EMIの「吹奏楽マスターピース・シリーズ」の録音でオランダとベルギーに渡欧することになっていたので、それを前に、このCDを100枚購入。両国で出会った作曲家や指揮者、出版社などと“交響曲CD”の企画の話をする機会にこのCDを片っ端から撒きまくった。(参照:《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》、《第55話 ノルベール・ノジとの出会い》)
結果的に、CDを名刺代わりに使ったこの作戦は大成功だった。
出版社では、モレナール(Molenaar)の社長ヤン・モレナール(Jan Molenaar)が“交響曲シリーズ”に大きな関心を寄せたの対し、デハスケ(de haske)のヤン・デハーン(Jan de Haan)は、他の出版社の作品が入るCDにはまったく無関心だった。このあたり、出版社の性格が現れており、とても面白い。
その後、筆者は、同年12月のシカゴのミッドウェスト・クリニックに際しても、CDを追加購入し同様のアクションを起こした。これで、市音の名前と演奏、そして彼らが“交響曲シリーズ”の録音を開始するというニュースも少しは関係者の知るところとなったはずだ。
一方、作曲家たちは、ヨーロッパでもアメリカでも、“交響曲”という言葉に一様に目を輝かせて話を聞いてくれた。これが、その後の彼らの創作活動の動機の一端にでもなっているとしたら、これほど愉快な話はない。
アルフレッド・リード(Alfred Reed)やヨハン・デメイ(Johan de Meij)、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)などからも、“ブックレットには日本語だけでなく英語のノートも必ず必要になる”などと、熱のこもった具体的なアドバイスやアイデアも寄せられ、大いに助けられた。また、交響曲だけでなく、新しい作品の情報もつぎつぎと寄せられるようになった。
その後、筆者は、市音での会議などでリストアップされた交響曲を「1.現代ヨーロッパの作曲家の交響曲」「2.現代アメリカの作曲家の交響曲」「3.古典的作品群」の3つのタイプに分類し、あとは市音からのGOサインを待つばかりとなった。
しかし、市音は市の楽団だけに新たな自主活動のための予算となると、まず役所の決済を得なくてはならない。実際、それは外野で見ているよりたいへんな作業のようだった。
そうこうする内、新年の1994年を迎えると、事態は大きく動き出した。この話を聞き込んだ東芝EMIが関心を示して途中参画し、同社の商業CDとして発売されることが決まったのだ。
予算の心配がなくなった市音には、正直ウェルカムだったろう。
しかし、大阪とは空気の違う東京の大手レコード会社の意向は、プロジェクトの組み立てに少なからず影響を及ぼすことになった。
今や昔。創作意欲のエネルギーに満ちた頃の1つのエピソードである。
▲交響曲シリーズ・ワークシート(1994年9月)