■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第168話 交響詩「モンタニャールの詩」のライヴと国内初放送

▲Jan Van der Roost作品カタログ(1997年)

▲木村吉宏(1997年10月30日、フェスティバルホール)

1997年(平成9年)5月2日(金)、オランダの出版社デハスケ(de haske)から、ベルギーの作曲家ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)の交響詩『モンタニャールの詩(Poeme Montagnard)』のスコアがエアメールで届いた。

この作品は、イタリア北部ヴァレ・ダオスタ(Valle d’Aosta)州の州都アオスタ(Aosta)の市民参加のセミ・プロフェッショナル・バンド“ヴァル・ダオスト吹奏楽団(Orchestre d’Harmonie du Val d’Aoste)”の委嘱で1996年に作曲され、1997年1月26日(日)、同地におけるコンサートで、作曲者の客演指揮で世界初演された。

アオスタは、紀元前25年にローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスが造った町で、今もローマ時代以降の歴史的建造物や美術工芸品が多く残る。モンブランを眼の辺りにする風光明媚な地で、アルプス越えの要衝としても知られる。フランスとの国境が近いこともあって、イタリアとフランスの文化が混在し、日常会話では普通にフランス語が話されている。楽団名のスペルや読みがフランス語なのもそのためである。

『モンタニャールの詩』は、そんなアオスタが育んできた歴史や文化、すばらしい景観からインスピレーションを得て書かれた交響詩だ。

筆者は、この作品の存在を、世界初演直後の作曲者からの報せで知った。

作曲者の相当な自信作であり、なんとかこの作品をクリティカルなステージにかけることができないかと考えた筆者は、当時の大阪市音楽団(市音、現 Osaka Shion Wind Orchestra)の団長で常任指揮者の木村吉宏さんに電話で相談した。すると、ひじょうに大きな関心が寄せられ、早速、作曲者から送られてきたカセットを市音に持参。団長室で一緒に聴くと、思いがけずも、その年の11月15日(土)に東京芸術劇場で開催予定の市音初の東京公演「大阪市音楽団東京特別演奏会」という大きな本番で本邦初演できないかと打診され、すぐにスコアを見たいという要望も出る流れとなった。

同様に、筆者も早くスコアを見たかったので、本邦初演の要望も含めてヤンに打診した。すると、東京での“本邦初演”の件にはあっさりOKが出て、“スコア”も出版社からできるだけ早く送らせる旨、連絡がきた。出版社の編集作業は着々と進んでいるようだ。

届いたスコアは、まだ表紙や解説類がなく、簡易的にリングで綴じただけのものだった。恐らく、若干のチェック漏れが残る完成途上のものだろうが、録音だけだと判然としない使用楽器編成や楽曲の構造など、音楽のあらましがはっきりした。

見れば見るほど、想像していた以上の作品だ。

早速、木村さんに電話を入れ、その日の内にスコアを市音事務所に持参。木村さんにザッと目を通してもらった後、当時、市音の全ての演奏曲をコントロールしていたプログラム編成委員(演奏家で構成)に手渡された。システム上、これではじめて市音の演奏予定レパートリーとなったわけだ。その後、編成委ではより綿密に専門的なチェックが行なわれ、必要なエキストラの確認や手配なども始まる。この時点では、遠隔地の東京で演奏される予定だったので、楽団として、これはとくに慎重な作業が必要となる。

一方のヤンは、『11月15日なら、コンサートに出席できるかも知れない。』などと無邪気なことを言ってくる。実は、この年の11月半ばは、筆者がミュージカル・スーパーバイザーをつとめていた大阪のブリーズ・ブラス・バンド(BBB)の“ライムライト・コンサート”シリーズ(京都、大阪)にヤンをゲスト・コンダクターとして招聘していたので、両楽団のリハーサルのスケジュールを摺り合わせれば、15日の東京本番の出席はまだしも、直前リハへの立ち会いはなんとか叶う可能性があった。

しかし、作曲者のこのささやかな願いは、誰もが予想し得ない著作権が絡む事件の勃発に伴って、残念ながら実現されることはなかった。

東京公演のおよそ2週間前の1997年10月30日(木)に開催予定の「大阪市音楽団第75回定期演奏会」で本邦初演されるはずだったある作品が、こともあろうに、楽譜出版前に、アンオーソライズド・コピー(著作権上、作品の権利者である作曲家と出版社が承知しない非合法のコピー譜)が日本に持ち込まれ、スクール・バンドによって演奏されるという前代未聞の出来事があったことが発覚。市音では、急遽、その作品の演奏をとりやめ、代わって、ヤンの『モンタニャールの詩』が演奏予定を繰り上げて本邦初演することになったからだ。(参照:《第167話 交響詩「モンタニャールの詩」日本初演

しかし、この離れ業は、発覚が第75回定期のポスターやチラシが公にされる直前だったから可能となった。不幸中の幸いというべきか。ただし、当然、現場は大混乱。いきなり顔にドロを塗られるかたちとなった木村さんの“怒りの形相”もすさまじかった。

かくて、交響詩『モンタニャールの詩』の本邦初演は、10月30日、大阪・北区中之島のフェスティバルホールで開催予定の「大阪市音楽団第75回定期演奏会」(大阪文化祭参加)で行なわれることに決まった。

思い返すと、この年の夏は、木村さんが、オランダのケルクラーデで開かれる世界音楽コンクール(WMC)に出場する近畿大学吹奏楽部のヨーロッパ演奏旅行に客演指揮者として帯同するなど、結構バタバタしたため、『モンタニャールの詩』に関しては、ヤンからのスコアの編集ミス等の連絡以外、しばらく動きはなかった。一方、肝心の楽譜の方は、出版前の初秋までには届き、あとは本番に向けてのリハーサルの日を待つばかりとなった。

しかし、10月に入ると、演奏前の細かいチェックが入る。木村さんからも、『途中の四声のリコーダーやけどなぁ、木管に持ち替えパートの指定が書いてあるんやけど、あれ、どう思う?』とクエスチョンの電話が入る。早速スコアを見ると、リコーダーに持ち替える各パートの指定に特に深い意味があるように思えない。そこで、『おそらく、これは初演したバンドのステージ上の並びに関係していて、演奏当日のパート割りがそのまま印刷されているんじゃないでしょうか。』と応える。すると、『せやろな(そうだろうな)、ウチでこの指定どおりやると、リコーダーの間隔もバラバラになって、バランスがとりにくいんや。プレイヤーも吹き辛らそうにしているし…。』と返って来た。

他の練習が早く終わったときに、試奏をしたみたいだ。

木村さんは、つづけて『実は、大阪になかなかええリコーダーのグループがおってな。それを木管の第一列の前に指揮台を取り巻くように並べようかと思うんや。ヴァンデルローストに“やってええか”訊いてくれへんか?』とリクエストが入る。木村さんらしいすばらしい閃きだ。そう思った筆者は、『了解です。しかし、たぶん何も言わないと思いますよ。』と返し、実際にこの質問を投げると、ヤンは何も言わなかった。要は、リコーダーの四重奏が音楽的に機能することがポイントだった。

交響詩『モンタニャールの詩』の本邦初演は、この日が初演となった櫛田てつ之扶の組曲『星へのきざはし』第1部や、市音による初レコーディング後のはじめての公開演奏となった保科 洋の『交響曲第1番』などとともに行なわれ、感動的な成功を収めた。終演後、2人の作曲家を楽屋に迎えた木村さんの晴れ晴れとした顔は忘れられない。

一方、運悪くタイミングをはずして来場が適わなかったヤンにこの日の演奏を届けるために、筆者は、事前にマネージャーの小梶善一さんを通じて依頼しておいたライヴ録音のDATテープを終演後に受け取り、本人の希望に沿ってMD(ミニ・ディスク)に落として、BBBの客演のために滞在中の大阪のホテルで“市音から”と言って彼に手渡した。

ヤンのそのときの喜びようはなかったが、これはすばらしい新曲を我々に託してくれた作曲家への最低限の礼節だ。

筆者は、同時に、木村さんの了解を得て、NHKのプロデューサーにもこの日の演奏を当時コメンテーターをつとめていたFM番組「ブラスのひびき」で放送することを提案。了解をとりつけて、翌1998年(平成10年)4月25日(土)にオンエア。翌26日(日)にも再放送できたことも、生涯忘れられない思い出のひとつとなった。

▲▼第75回大阪市音楽団定期演奏会(1997年10月30日、フェスティバルホール)

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