■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第165話 日本ワールド・レコード社の記憶

▲ソノシート – 「第38回選抜高校野球大会大会歌・行進曲」(毎日新聞社、非売品、1966年)

▲LP – 阪急少年音楽隊コンサートシリーズ第1集」(日本ワールド、W-312、1968年)

▲W-312 – A面レーベル

▲W-312 – B面レーベル

かつて、大阪に、在京大手とはまるで繋がりがない独立系のたいへんユニークなレコード会社が存在した。

その名は、「日本ワールド・レコード社」。

筆者は、かつて月刊誌「バンドピープル」1983年9月号(八重洲出版)に、連載“名盤・珍盤・かわら版”のPart 40として、「JWR訪問記 ─ 日本ワールド・レコード(大阪)─」という一文を寄稿したことがある。だが、時の流れは速い。今では、同社の名を知る人も本当に少なくなってしまった。

そこで今回は、その頃を思い出しながら、日本のウィンド・ミュージックの発展に少なからず寄与・貢献した同社の記憶を語っていきたいと思う。

日本ワールド・レコード社があったのは、戦前から関西を代表する高級住宅街のひとつといわれる大阪市阿倍野区帝塚山の一角。市内浪速区の「恵美須町」駅を起点とする路面電車、阪堺電気軌道の電停「東玉出」~「塚西」間の電車道から東方向に石畳の敷かれた細い坂道を登った先にあった。創業者は、靭 博正(うつぼ ひろまさ)さんで、門があり庭に高低さまざまな庭木が植わる氏の自宅の玄関左側の洋間が事務所兼編集室として使われ、右側の別室にマスターテープや在庫品が保管されていた。

社長の靭さんは、関西学院大学(関学)の出身で、同窓には、同じ年の生まれで、のちに兵庫県西宮市立今津中学校吹奏楽部の初代指導者として関西屈指のスクール・バンドに育て上げ、その後、阪急少年音楽隊の隊長、阪急百貨店吹奏楽団の常任指揮者として全国に名を轟かせた鈴木竹男さん(1923~2005)がいる。ともに音楽好きで鳴らしたが、出身校の私立甲陽中学校在学時に吹奏楽部で活動した鈴木さんは、関学に吹奏楽部が無かったため、グリークラブに入り、その傍ら、甲陽中OBバンドを結成。一方の靭さんは、関学の軽音楽部の創設メンバーとして活動。出発点のジャンルこそ違うが、それぞれの道で切磋琢磨していた。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)

卒業後、鈴木さんは、母校の甲陽中学の教員として吹奏楽部を再出発させ、1953年(昭和28年)に前述の今津中に赴任。靭さんは、大阪・梅田にあった進駐軍専用の北野劇場のジャズバンドにテナー・サクソフォン奏者として参加したが、そのピアニスト兼バンドマスターが、かの得津武史さん(1917~1982)だった。

人の縁とは面白いものだ。

得津さんは、大阪音楽学校(後の大阪音楽大学)を卒業後、1939年(昭和14年)に大阪市立南田辺尋常小学校の代用教員となり、ほどなく出征。満州では、上官の命令で速成の軍楽隊を作り、指揮者として活動。2度目の応召から復員した後は、南田辺小の教員とジャズバンドの二足の草鞋を履き、とはいいながら、実態はほとんど毎日バンドを率いて進駐軍キャンプをめぐって、演奏に明け暮れていた。進駐軍というのは、敗戦後、日本を統治したアメリカ軍を主体とする占領軍のことで、その仕事はギャラが良かったので、ひとり得津さんだけが例外ではなく、音楽で腕に覚えのあるものはみな、生きていくためにこぞって進駐軍の仕事をした。だが、その反面、得津さんが学校に行く日はどんどん減っていき、週に一日程度になってしまったので、当然校長との折り合いは悪く、やがて退職。その後、1952年(昭和27年)に、西宮市立夙川小学校の専任音楽教員となるのを機に、ジャズバンドを解散。1956年(昭和31年)に、前任者の鈴木さんに口説かれるかたちで、今津中学校吹奏楽部の二代目の指導者となった。(参照:《第160話 オール関西の先駆者たち》)

余談ながら、のちに大阪市音楽団(後のOsaka Shion Wind Orchestra)の団長となり、長年、関西学院大学応援団総部吹奏楽部の顧問をつとめた永野慶作さん(1928~2010)も、得津さんや靭さんらと同じフィールドで腕を競い合ったライバル・バンドのスター・トランペッターで、戦後すぐのこの時代を駆け抜けた人たちが、その後の関西の吹奏楽界の隆盛を支える中心になっていくのはとても興味深い。(参照:《第149話 市音60周年と朝比奈隆》)

得津さんのバンドが解散後、靭さんは、仲間に声を掛けて新たなバンドを作り、バンドマスターとして活動。参加メンバーからは、後に、東京に出て成功を収めた歌手やピアニスト、作曲家など、有名人を何人も輩出している。

事務所で古い話に興じるとき、靭さんは、懐かしそうにこう呟いた。

『みんな東京に行って成功しよってなぁー!』

その後、靭さんは、本業のジャズバンドと並行して、1963年(昭和38年)から録音やレコード制作の会社を立ち上げる準備を始め、翌64年にその業務をスタートさせる。これが日本ワールド・レコード社のルーツである。もっとも、当初は、知人や関係者を通じて依頼される社歌や校歌等の制作がメインで、たまに関西ローカルの歌手のインディーズもあったようだが、レコードよりもソノシートの制作が多く、収入もバンドだけが頼りという時代がしばらく続いたという。(参照:《第30話 ソノシートの頃》)

そのワールドの事務所で靭さんから頂いた辻井市太郎指揮、大阪市音楽団演奏のソノシート「第38回選抜高校野球大会大会歌・行進曲」(毎日新聞社、非売品、1966年)は、そんな最初期の1枚で、因みに同年の入場行進曲は、いずみ たく作曲『ともだち』を指揮者の辻井さんが編曲したものだった。(参照:《第142話 もうひとつの甲子園》)

吹奏楽レコードの制作も、ここまで話してきた人脈の中から自然発生的に始まったようで、最初に制作されたアルバムは、1968年(昭和43年)に通信販売でリリースされた30センチLP「阪急少年音楽隊コンサートシリーズ第1集」(日本ワールド、W-312)と今津中吹奏楽部の25センチLP「吹奏楽部の息子たちと一緒に」(日本ワールド、W-313)の2枚だった。(参照:《第164話 得津武史「吹奏楽部の息子たちといっしょに」の余韻》)

他方、今もマニアの間でコレクター・アイテムとして評価が高い吹奏楽コンクールのライヴEPは、同一団体の課題曲と自由曲の演奏をレコード表裏のA面とB面に収めたもので、1967年(昭和42年)11月26日(日)、東京厚生年金会館で開催された“第15回全日本吹奏楽コンクール”のものから存在が確認されている。

あまり知られていないが、これらEPは、靭さんの方針で、会場で録音したオリジナル・テープがそのままマスターとしてプレス工場に送られており、音の鮮度の高さと臨場感が魅力だった。

1989年(平成元年)に事務所を大阪府池田市住吉に移し、靭さんの事業を引き継いだ村瀬正和さんにこのあたりの事情を訊ねると、『私が入社する前のことなのでよくわかりませんが、この当時のものは、レーベルに校章や社章がきちんと印刷されていますので、恐らくは演奏者の依頼を受けて始まったものだったと思います。』との証言を得た。

村瀬さんは、2007年(平成19年)に後進に道を譲り、その時の組織変更に伴い、同社の社名も「ワールドレコード株式会社」に変更された。筆者ともここで関係が完全に途切れたので、同社のその後の動向についてはまったくわからない。

そう言えば、筆者がロイヤル・エア・フォース・セントラル・バンドの日本ツアーで悪戦苦闘した1988年より少し前、靭さんから、『この事業を引き継いでくれないか?』と打診されたことがあった。一方で村瀬さんたちの日頃の頑張りをよく知っていたので即答できなかったが、もしもこのオファーを受けていたら、その後の人生はまるで違ったものになっていただろう。

正しく人生の分岐点のひとつだった。

▲LP – 第18回全日本吹奏楽コンクール金賞シリーズ 第一集《中学・高校編》(日本ワールド、JWR-2001、1971年)

▲JWR-2001 – A面レーベル

▲JWR-2001 – B面レーベル

▲LP – 第18回全日本吹奏楽コンクール金賞シリーズ 第二集《大学・職場・一般編》(日本ワールド、JWR-2002、1971年)

▲JWR-2002 – A面レーベル

▲JWR-2002 – B面レーベル

▲「バンドピープル」1983年9月号(八重洲出版)

▲同上66頁、“名盤・珍盤・かわら版”Part 40「JWR訪問記」(出版社の許諾により掲載)

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