■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第151話 ヒンデミット・コンダクツ・ヒンデミット

▲LP – Paul Hindemith Volume One(英Columbia、33CX1512、モノラル、1958年)

▲33CX1512 – A面レーベル

▲33CX1512 – B面レーベル

▲スコア – Paul Hindemith:Symphony in Bb(Edition Schott、1951年)

1951年4月5日(木)、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.で行なわれたアメリカ陸軍バンド“パーシングズ・オウン”(The United States Army Band ,“Pershing’s Own”)のコンサートで、20世紀のウィンド・ミュージックの発展にひじょうに大きな影響を及ぼすことになる、ある交響曲が作曲者自身の指揮で初演された。

その曲は、陸軍バンドの隊長、ヒュー・カリー中佐(Lt. Col. Hugh Curry, 在職:1946~1964)のリクエストで客演指揮を引き受けることになったパウル・ヒンデミット(Paul Hindemith, 1895~1963)が、自分が振るその演奏会のために作曲した『(コンサート・バンドのための)交響曲変ロ調(Symphony in Bb for Concert Band)』だった。

作曲者のヒンデミットは、ドイツのハーナウ (Hanau)の生まれ。周知のとおり、20世紀を代表する大作曲家であり、指揮者、ヴァイオリン奏者、ビオラ奏者としても活動し、クラリネットやピアノも演奏した。同時代の音楽家に多大な影響を及ぼした先鋭的作曲家だったが、やがて、その活動や作品に対し、ナチスから否定的な扱いを受けるようになると、身の危険を感じて1938年にスイスに亡命。その後さらに、1940年にアメリカに亡命し、コネチカット州ニューヘイブン(New Haven)に住み、1953年まで同地のイェール大学(Yale University)で教授として教鞭をとった。1951~1958年の間は、スイスのチューリッヒ大学(University of Zurich)でも教鞭をとり、1953年にはイェール大学を辞してスイスに移住。1963年、治療のために訪れていたドイツのフランクフルト(Frankfult am Main)に没した。

『交響曲変ロ調』は、ニューヘイブンに住んでいた頃、1950年から1951年にかけて作曲された。

作曲の経緯は、前述のとおりだ。だが、それに加え、さらに詳細な証言が、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A. / American Bandmasters Association)のアーカイブとして、米メリーランド州カレッジパーク(College Park)にメイン・キャンパスをもつ州立大学、メリーランド大学(University of Maryland)のスペシャル・コレクションに残されていた。

それは、1965年3月2~7日(火~日)の日程で開かれたA.B.A.年次コンベンションで行なわれた作曲家ドン・ギリス(Don Gillis, 1912~1978)による、前年退役したばかりのカリー中佐へのインタビューの音声アーカイブだ。インタビューアーのギリスは、『交響曲5 1/2番(Symphony 5 1/2)』や『タルサ、オイルの交響的肖像(Tulsa, a symphonic portrait in oil)』などで知られる作曲家だが、筆者がこの録音をはじめて聴いたとき、彼らふたりの肉声がとてもクリアに残されていることに、まず驚かされた。さすがA.B.A.らしいすばらしい仕事だ。

インタビューでは、陸軍バンドが毎年冬のシーズンにワシントンD.C.で行なうウィークリー・コンサートのシリーズでは、歌手やピアニスト、独奏者など、毎週違ったゲストを招いており、その中のあるコンサートのゲストとしてヒンデミットに客演指揮を依頼したこと。依頼の際、そのために何か曲を書いてもらえるのなら素晴らしい、と話したこと。中佐としては、序曲か何かを書いてもらえたら、という程度の軽いアクションだったが、その後、受け取った手書き譜が本格的な交響曲だったので驚いたこと。コンサートの少し前に手直しのためにヒンデミットがバンドを訪れた際にいろいろ訊ねたら、ヒンデミットは、第1次世界大戦中、ドイツのバンドでクラリネットを吹いていたので、ずっとバンドにも関心があったこと。そのため、何年にもわたってバンドのための主要曲を書くつもりだったので、実際にいくつかのスケッチが彼の頭の中で飛び交っていたこと。だが、実際には誰も頼んでこなかったので、これまでバンド曲を書かなかったこと。ヒンデミットは曲を書くとき必ず何らかの理由を必要としたが、客演指揮の話が来たときに、“今回”がそれを書くチャンスだと彼が思ったことなどが、澱みなく語られている。

たいへん貴重なインタビューだが、ここでまず押さえておきたいのは、ヒンデミットの『交響曲変ロ調』が、作曲者の自由裁量で書かれた創作であったことだ。つまり、陸軍バンドは幸いにも初演の栄誉に浴したが、具体的に“交響曲を書いて欲しい”と委嘱したわけではなかった。この曲について書かれたものの中には、陸軍バンドの“commission(委嘱)”であるかのように書かれたものも存在する。しかし、ここまでお話ししてきたように、事情は少し違っている。“客演を依頼されたときのrequest(リクエスト)に従って”と書くならまだいい。筆者は、この曲について語るような場合には、必ず留意しないといけないポイントだと思っている。

『交響曲変ロ調』の初演は、演奏会それ自体が、作曲家としても指揮者としても名を成していたヒンデミットが有名な陸軍バンドを客演するという話題性も手伝って、相当な注目を集めている中で行なわれ、結果的に賛否両論が渦巻くたいへんなセンセーションを巻き起こした。

初演を聴いた感想は人によってはっきりと意見が分かれ、どちらかというとそれまでのバンド音楽の形式感や構成を好む層には全否定される一方、ヴィットリオ・ジャンニー二(Vittorio Giannini、1903~1966)やヴィンセント・パーシケッティ(Vincent Persichetti、1915~1987)、ポール・クレストン(Paul Creston、1906~1985)、アラン・ホヴァネス(Alan Hovhaness、1911~2000)らの作曲家には、“バンドは、シリアスな音楽にもふさわしい媒介だ”と確信させる契機となった。

コンサート翌年の1952年秋に世界初のウィンド・アンサンブルであるイーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)を創設した指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell、1914~2004)もまた、衝撃を受けたひとりだった。

フェネルは、ロンドンのショット(Schott)が1951年に版権を取得し、ドイツで印刷された楽譜が1952年に出版されるや、早速それを取り揃えてリハーサルを始め、1953年2月8日(日)、米ニューヨーク州ロチェスター(Rochester)のイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)のキルボーン・ホール(Kilbourn Hall)で開かれたイーストマン・ウィンド・アンサンブル初のコンサートで取り上げた。

その後、フェネルは、《第148話 ヒンデミット-シェーンベルク-ストラヴィンスキー》でもお話ししたように、1957年3月24日(日)、ロチェスター市内のイーストマン劇場(Eastman Theatre)で、この曲のアメリカ初のレコーディングを米マーキュリー・レーベル(米Mercury、MG 50143、モノラル、1957年 / Mercury、SR 90143、ステレオ、1960年)に行ない、この内、モノラル盤のMG 50143は、『交響曲変ロ調』の世界初LPとなった。

楽譜の出版により、この交響曲は、海を渡ったイギリスでも注目された。

イギリスの公共放送であるBBC放送の“サード・プログラム(Third Programme)”(後のラジオ3)は、1952年、セシル・H・イェーガー(Lt.-Col. Cecil H. Jager, 1913~1970)指揮、アイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards / 参照:《第113話 アイリッシュ・ガーズがやってきた》)を起用し、『交響曲変ロ調』の英国初演をラジオ放送で行なった。

BBC放送アーカイビストのトニー・ストーラー(Tony Stoller)の著作「クラシカル・ミュージック・レイディオ・イン・ザ・ユナイテッド・キングダム, 1945-1995(Clasical Music Radio in the United Kingdom 1945-1995」(Palgrave Macmillan、2017年)には、ヒンデミットもこの放送を愉しんだと書かれ、この番組は、放送翌年の1953年、『交響曲変ロ調』の英国初演を伝えたBBCの“ランドマーク・ブロードキャスト(a landmark broadcast)番組”に選ばれた。

また、かねてより、ヒンデミット指揮の自作自演作品集の録音構想を暖めてきた英EMIのプロデューサー、ウォルター・レッグ(Walter Legge, 1906~1979)は、1956年11月、ロンドンのキングズウェイ・ホール(Kingsway Hall)で、『交響曲変ロ調』を含む6曲のレコーディング・セッションを行なった。演奏はすべてフィルハーモ二ア管弦楽団(Philharmonia Orchestra)のもので、セッションはステレオ方式で行なわれたが、リリース時には、2曲入り3枚のLPに分けられ、イギリスでは、コロムビア・レーベルからモノラル盤3枚(英Columbia、33CX1512 / 33CX1533 / 33CX1676)が、アメリカでは、エンジェル・レーベルからモノラル盤3枚(米Angel、35489 / 35490 / 35491)とステレオ盤3枚(米Angel、S-35489 / S-35490 / S-35491)がリリースされた。『交響曲変ロ調』は、これら各3枚中、1958年にリリースされた第1集(英Columbia、33CX1512 / 米Angel、35489 / 米Angel、35489)のB面に収録されている。

また、イギリスで『交響曲変ロ調』のステレオ盤LPがリリースされたのは、1987年にデジタル・リマスターされたコンピレーション盤「ヒンデミット・コンダクツ・ヒンデミット(Hindemith Conducts Hindemith)」(英His Master’s Voice、EH 29 1173 1)が初出となった。

演奏者のフィルハーモ二ア管弦楽団は、第2次大戦後の1945年にレッグによって創設されたオーケストラで、主要メンバーは、大戦中、ホルンのデニス・ブレイン(Dennis Brain)などを擁し、英国屈指と謳われたロイヤル・エア・フォース・オーケストラ(Royal Air Force Orchestra)および同セントラル・バンド(The Central Band of the Rpyal Air Force)を除隊したプレイヤーを中心に構成されていたので、吹奏楽曲の『交響曲変ロ調』の演奏でも違和感なく、イギリスの管のサウンドを愉しませてくれる。

他方、レコーディング中、ヒンデミットは、指揮者としてすばらしい手腕を発揮したようだ。レッグは、セッションの進行について、ニューヨークで、ユーモアを交えてこう語っている。

『ヒンデミットの満足の微笑と疲れ知らずのエネルギーの下、レコーディングは、大学進学校でのムンプス(おたふく風邪)のように、(次の曲へと)うつっていきました。

(Under Hindemith’s happy smile and tireless energy, the recordings are going like mumps at a prep school.)』(米Angel、S-35489のジャケットから)

▲LP – Paul Hindemith Conducts His Own Works Album 1(米Angel、S-35489、ステレオ、1958年)

▲S-35489 – A面レーベル

▲S-35489 – B面レーベル

▲LP – Hindemith Conducts Hindemith(英His Master’s Voice、EH 29 1173 1、ステレオ、1987年)

▲EH 29 1173 1 – A面レーベル

▲EH 29 1173 1 – B面レーベル

▲書籍 – Clasical Music Radio in the United Kingdom 1945-1995(Palgrave Macmillan、2017年)

▲カタログ – Numerical Catalogue 1959 – 1960(英E.M.I Records Ltd.)

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