【コラム】富樫鉄火のグル新 第315回 1705年12月、リューベックにて(終)

◆《ゴルトベルク変奏曲》の出自
 バッハは、《クラヴィ―ア練習曲集》と題する楽譜集を、全部で4巻、刊行している。どの巻も複数曲が収録されているが、第4巻(1741年10月刊行)は長大な1曲のみ。曲名は《2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと様々な変奏より成る~愛好家の心の慰楽のために》という。現在、通称《ゴルトベルク変奏曲》BWV988と呼ばれている曲だ。
 「アリア」とは、《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィ―ア小曲集》(1725年版)に記された小曲の旋律を指す。

 ドレスデンに赴任していた前ロシア大使、ヘルマン・カール・カイザーリンク伯爵は、お抱えのチェンバロ奏者、ヨハン・ゴットリープ・ゴルトベルク(1727~1756)を連れ、しばしばライプツィヒを訪れ、バッハのレッスンを受けさせていた。
 あるとき、不眠に悩む伯爵は、バッハに、「穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィ―ア曲を、お抱えのゴルトベルクのために書いてほしいと申し出た」(フォルケル『バッハ小伝』、角倉一朗訳、白水Uブックス)。
 そこで書かれたのが、この《アリアと様々な変奏》である(と、いわれている)。
 この逸話は、しばしば不眠症の伯爵が「眠れる音楽を書いてくれと要求した」かのようにつたわっているが、そうではない(グレン・グールドの名録音が、この逸話に拍車をかけたかもしれない)。上記のように、伯爵は「気分が晴れるような」曲を望んだのである。

 この逸話は、例のフォルケルの記録で有名になったものだが、いまではマユツバものと見る向きも多い。
 というのも、この当時、ゴルトベルクは13~14歳の少年である(伯爵の稚児さんだったか)。たしかに、ヴィルトゥオーゾではあったようだが、それにしても、このような難曲を、その若さで弾けただろうか、というのだ(楽譜通りにリピートすると1時間以上かかる)。

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