■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第146話 ウィンド・オーケストラのための交響曲《第2弾》

▲CD – ウィンド・オーケストラのための交響曲[2](東芝EMI、TOCZ-9253、1995年)

▲ TOCZ-9253、インレーカード

1994年(平成6年)、東芝EMIが、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)の演奏で録音を開始。都合5枚のアルバムが世に送り出された「ウィンド・オーケストラのための交響曲」シリーズは、ウィンド・オーケストラ(吹奏楽)のために作曲されたシンフォニーだけにスポットをあてた画期的な交響曲シリーズだ。未完に終わったとはいえ、世界中のどの商業レコード会社にも類例を見ない超アグレッシブな企画となった。

プロジェクトの原案は、前々話《第144話:ウィンド・オーケストラのための交響曲》でお話ししたとおり、その前年の1993年(平成5年)5月に市音のオリジナル自主制作シリーズとして企画を立ち上げた“全集”プロジェクトで、発案者である筆者は、当時の市音団長で常任指揮者の木村吉宏さん(1939~2021)からシリーズ監修を委ねられていた。

とても名誉なことだった。

意気投合した木村さんとはすぐに中身の大筋で合意。氏の指示によって直ちに市音プログラム編成委員(当時のリーターは、竹原 明さん)による所蔵楽譜のチェックが始まり、その結果をもとに最初の企画会議が、6月24日(木)に市音練習場2階奥のアンサンブル室で行なわれた。

出席者は、木村さんのほか、プログラム編成委員とマネージャーの各位、そして言い出しっぺの筆者。当時の市音は、大阪市という行政の一組織だっただけに、やや場違いの筆者を除けば、さすがにみなさん会議というものに馴れている。テーブル上にはプログラム委まとめの楽器編成表付きの交響曲のリストが配られ、企画意図の説明、リストを通して課題の洗い出しなど、粛々と質疑が進められた。

しかし、なにしろ世界初企画である。制作費の予算請求という現実的課題だけでなく、マーケットの構築も課題のひとつになるかも知れなかった。分かりやすく言うと、狭い国内マーケットだけをたよりにするようなものであってはならず、あらゆるコンセプトに“大阪から世界に向けて発信”という基本理念が貫かれていた。国際交流事業は、役所の中でもコンセンサスを得やすい話であり、創作を掌る海外の作曲家と緊密なネットワーク作りなど、同時進行的あるいは双方向の協力関係を得ることが必要不可欠だと思えた。

当然、海外通販も視野に入れていたのである。

幸い、この直後、筆者は、東芝EMIによる「吹奏楽マスターピース・シリーズ」のオランダ録音ほかの目的の渡欧があり、現地では、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の最新作『交響曲第4番(Forth Symphony)』がセット・テストピース(指定課題)として使われる“世界音楽コンクール1993(Wereld Muziek Concours 1993)”の会場も訪れることにしていたので、現地で出会う作曲家や演奏家、出版社と情報交換するので、帰国後の7月8日(木)の次回会議では成果を報告すると約し、この日の会議は終わった。(参照:《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》)

そして、オランダ到着初日の6月26日(土)の夜、交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』の作曲家ヨハン・デメイ(Johan de Meij)らに誘われるままついていったオランダ王国陸軍バンド(Koninklijke Militaire Kapel / KMK)のコンサートではじめて聴いたユリアーン・アンドリーセン(Jurriaan Andriessen、1925~1996)の『交響曲第2番(Symphonie No.2)』から、渡欧最初の音楽的衝撃を受けた。演奏も凄かったが、作品も凄かった!(参照:《第70話 オランダKMK(カーエムカー)の誇り》)

なぜこんないい曲が普通に演奏されているのだ!

早速、ヨハンからこのシンフォニーの版権をもつ出版社モレナール(Molenaar)の社長、ヤン・モレナール(Jan Molenaar)を紹介されたが、氏に質問を投げると、『この曲は、高度なためあまり演奏されないと思うので出版予定はない。リクエストがあればレンタルするが…。』とそっけない回答に正直失望。手続きも面倒そうなので、残念ながら構想上の優先順位を下げざるを得なかった。モレナールと言えば、かつてヨハンが売り込みのために持ち込んだ『指輪物語』のスコアを見て、『こんな長い曲はゼッタイ売れないので…』といって曲のサイズだけで自社での出版を断った人物だ。ひょっとして、他にも優れた作品が眠っているのでは、と思わせる残念な出会いとなった。

一方、世界音楽コンクール(WMC)で聴いたお目当てのリードの『交響曲第4番』もまた、充実したすばらしい作品だった。たまたま聴いたバンドは、すべてオプションのチェロを入れた演奏だったが、楽譜を見ると仮にそれを省いても支障ないように書かれていたので、これは収録すべき作品だと直感し、帰国後もそのように報告させてもらった。

話はどんどん前に進む。

残るはマネージメント部門、大阪市教育振興公社の予算化の報を待つばかりだ。

しかし、ちょうどこの頃、公社では市音初の自主制作CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801、1994年2月27日頒布開始)の制作にゴーサインが出たばかりで、その結果が出ない内からいきなり次の新企画の稟議を上げるのはかなり難しそうだった。(参照:《第64話 デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話》)

ここでしばし、予算上のペンディングとなった訳だ。

そこへ白馬の騎士のように現れたのが、東芝EMIだった。

当時の市音は、東芝EMIの様々な部門から依頼録音を受けていたが、その中から“ぜひ、ウチでやらせてください”と手を挙げたのは、ヒット街道驀進中だった「大栗裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195、1993年)の録音を手がけたチームだった。

早く企画を始めたかった市音が、申し出を喜んで受けたことから、シリーズは、市音の自主制作盤から、東芝EMIのカタログ商品(商業CD)へと立ち位置が変った。マーケットの反応がまったく読めない中、商業レコード会社としてはかなり勇気ある決断だった。

一方の市音側としても予算面の心配をしなくてもよくなった反面、企画の自由度は後退せざる得ない局面もあることが予想された。

例えば、第1弾には、市音が最近手がけ、手の内にあるものから選ぶのがベストという点と話題性から、ヨハン・デメイの交響曲第1番『指輪物語』と同2番『ビッグ・アップル』のカップリング盤(2枚組)を当初提案したが、東芝は『録るんだったらどちらか一方ですね。』と提案を持ち帰り、森田一浩さんをはじめ、東芝関係者の意見を集約し、『ビッグ・アップル』にもう1曲をカップリングしたものにしたい、と返してきた。白馬の騎士のクライアントの意向には逆らえない。その結果、第1弾は、テーマをニューヨークに装いを改め、フランスのセルジュ・ランセン(Serge Lansen)が作曲し、デジレ・ドンデイヌ(Desire Dondeyne)がオーケストレーションを施した『マンハッタン交響曲(Manhattan Symphony)』をカップリングした「ウィンド・オーケストラのための交響曲[1]」(東芝EMI、TOCZ-9242、1994年)となった。

『指輪物語』については、前記の自主制作CD「大阪市音楽団 NHKライヴ 指輪物語 ─ 本邦初演 At the Symphpny Hall」(大阪市教育振興公社、OMSB-2801)が市音事務所からの通販だけでアッという間に1500枚を売り切ったというニュースも伝わっていたので、東芝の関心度は薄かったのかも知れない。

また、この結果を受け、大阪方は、東芝EMIとタッグをくむシリーズの今後は、在京の専門筋をも納得させる選曲でないと企画が通らないということを学習した。

そんな訳で、『つぎ(第2弾)はどうすんのや?(どうするんだ?)』という木村さんの問いに対し、筆者は、ややオーソドックスながら、アメリカのバンド界の顔というべきアルフレッド・リード(Alfred Reed)の『交響曲第3番(Third Symphony)』に、ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager)の『交響曲第1番(Symphony for Band No.1)』、ジェームズ・バーンズ(James Bernes)の『交響曲第2番、作品44(Second Symphony, Opus 44)』を加えた3曲を提案。

リードの“3番”については、最新の“4番”もありと話したが、木村さんからは『“4番”やと、チェロをどうするかで、アレコレ言い出しよるかも知れんしな(言いだされるかもわからんしな)、ここは“3番”にするわ(決めるわ)。』と返って来た。

もちろん異存はなかった。

その後、この曲案は市音からそのまま東芝に提示され、今度はすんなりOKとなった。

しかし、好事魔多し。運命の1995年(平成7年)1月17日(火)午前5時46分52秒、京阪神地方を激しい揺れが襲った。阪神・淡路大震災の発生である。

筆者も、その直前に“バチッ”という電気がショートするような音がして眼が覚め、立ち上がったところにズドーンときた。近所でも教会の塔が倒れたり家屋損壊があり、淀川の堤防が崩れるような大地震だったので、正直何がどうなっているのかさっぱりわからなかった。何日かたってやっとのことで市音に行くと、木村さんが大きなジェスチャーで『ええとこ(いいところ)に来た。録音、どうする?』と声がかかる。話を聞くと、第2弾の録音に予定したホール(尼崎のアルカイックホール)の舞台装置が落ちて立ち入り禁止となり、他のホールも被害点検中で代わりが見つからないのだという。

木村さんからはまた、脳味噌を含め身体全体が強烈に揺さぶられたせいか、プレイヤーの音にも潤いがなくなって、音楽感を取り戻すにはかなりの時間が必要だという見立ても聞いた。大きな余震も続き、楽団のスケジュール上も、ほぼ1ヵ月後の録音予定だけに、仮に代わりの録音会場が見つからなかった場合、早急にバラシ(キャンセル)を考えないといけないという状況だった。

ここでも大変なことが起こっていた。

ところが、そんなふたりの大騒ぎに割り込むように、元市音クラリネット奏者でマネージャーの小梶善一さんの『ここ、どうです?』というやたら落ち着いた声が響いた。『ちょうど2ヵ月前(1994年11月)にオープンしたばかりの真新しいホールで、連絡したら、被害は無く、今やったら、偶然、録音予定日と同じ日が空いているそうです。』

ふたりで小梶さんのPCを覗き込むと、ホールは、大阪狭山市のSAYAKAホール。映し出された大ホールは1200名のキャパ。大きさは申し分ないが、新装開店というのが気になった。ホールの各部材が完全に乾く前は、設計上の音響が発揮されないというケースに遭遇した過去の苦い経験があったからだ。周囲に確認しても、誰もホールの音を知らない。

“苦労するかも知れない”と思いながらも、その場は『東芝さんに現状を話し、当初予定したホールが地震で使用禁止になって、新装のSAYAKAホールだけが同じ日程で録音を組めるが、一旦バラすか、予定どおり進めるか判断を仰ぎましょう。』と言うしかなかった。

東芝と市音の協議の結果、録音はゴーサイン。1995年(平成7年)3月1日(水)~3日(金)、SAYAKAホールでの第2弾のセッションでは、初日ジェイガー、2日目リード、3日目バーンズの順の録音が決まった。

しかし、いざ始まってみると、これが想像を絶するたいへんな現場となった。いつものと同じステージ配置なのに音が自然に流れ出さないのである。なぜかプレイヤー間の連携も取りづらく、マイク乗りもよく無かった。

ステージ上では、録音ディレクターの佐藤浩士さん、エンジニアの小貝俊一さん、アシスタントの本間 篤さんだけでなく、市音スタッフやプレイヤーまで、関係者総出で楽器や椅子を何度も移動、オケピットを動かし、その高さを調整してはまたポジション移動と、なんとか良好なプレゼンスを得ようと懸命の試行錯誤が繰り広げられた。

結果的に、CD「ウィンド・オーケストラのための交響曲[2]」(東芝EMI、TOCZ-9253)は、1995年6月21日(水)にリリースされ、斯界の高い評価を得た。

しかし、それはこの現場で注がれた全員の情熱があったればこその成果だった。

今あらためて、関係者すべてに大きなブラボーを贈りたい!!

ブラボー!ブラボー!ブラビッシモ!!

大地震のニュースのたびに想い出す、遠い記憶の1ページである!

▲▼セッション風景(1995年3月3日、SAYAKAホール)

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください