▲LP – 第50回選抜高等学校野球大会記念 センバツ行進曲集](毎日新聞社、W-945、1978年)
▲W-945 – A面レーベル
▲W^945 – B面レーベル
▲辻井市太郎(1978年)
『観衆は胸を躍らせつつ開会前スタンドの大半を埋めた、その数およそ十万、戦争が終わってはじめての壮観である、あの大鉄傘はなくとも外野の内壁に描かれた大正十四年以来の優勝十八校の名は古いファンに往時を想い出させ興趣を深める、午前八時四十五分、大阪市音楽隊の奏する行進曲「槍と刀」の勇壮なメロディの中に紫紺の大会旗を先頭に出場二十六校三百名の選手は踏む足どりも力強く堂々と入場、色とりどりの出場旗と校名板を掲げてグラウンドをまわれば拍手は波濤となつて迎える、青空に打揚げられた花火の白煙から出場校名をくつきり浮かばせた旗が春風にのつてゆるやかにスタンドに舞い下りる。選手一同、センターポール前に整列、各校主将の手により大会旗が掲揚されるや、あのなつかしい“陽は舞い踊る甲子園……”の大会歌が大阪市音楽隊演奏、毎日音楽教室合唱でスタンドにとどろきわたる、…(後略)…。』(原文ママ)
1924年(大正13年)4月1日(火)、名古屋・山本球場で第1回大会が行なわれた「全国選抜中等学校野球大会」が、戦争による中断をへて戦後初の大会となった第19回大会の開会式(前日の3月30日)の模様を伝える毎日新聞社(大阪)、1947年(昭和22年)3月31日(月)1面からの引用である。
おそらくは、ベテラン記者の筆と思われる臨場感あふれる名文で、「選抜高校野球大会三十年史」(毎日新聞社大阪本社、非売品、1958年)や「選抜高校野球大会35年史」(毎日新聞社大阪本社、非売品、1963年)にも引用されている。
ただ、第19回大会が行なわれた1947年は、大会期間中の4月1日に学校教育法(六・三・三・四制)が施行されたことにより、それまでの中等学校が高等学校に変更された年であり、それが社会的にはまだ完全に浸透していない時期だったため、大会では、毎日の社告も大会名も校名も敢えて旧称が使われた。文中登場する“大阪市音楽隊”(市音)も同様で、実は、市音は、前年の1946年(昭和21年)6月22日(土)に“大阪市音楽団”に改称されていた。以上は、この当時はそれで十分通っただろうが、21世紀の現時点からみると、少々紛らわしい。
また、当時わが国を占領統治していた連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)の民間情報教育局(CIE)が、当初この開催に難色を示し、開幕まで1ヶ月を切った時点で、文部省から“大会中止”が通達される一幕もあった。関係者の奔走で“一回に限り開催許可”となったが、いったん開催が決まると、アメリカ軍の支援は積極的で、開会式で、ホームベース付近に椅子を並べて66名編成の米陸軍第25師団軍楽隊が12曲のコンサートを行なったり、飛来した米軍機が始球式のボールを投下するなど、大会を盛り上げた。前記の毎日2面には演奏中の写真も掲載されている。
さて、そういう微妙な話題もあるにはあったが、「第19回全国選抜中等学校野球大会」に登場した“市音”(当時40名)は、ドイツのヘルマン・シュタルケ(Hermann Starke)作の入場行進曲「剣と槍(With Sword and Lance)」を演奏しながら、球児の先頭に立ってグラウンドに入場。開閉会式の大会歌の演奏のほか、各試合の勝利校の校歌もナマ演奏する大活躍をみせた。
そして、その演奏をとりまとめたのが、大会期間中の4月1日に市音第3代団長に就任した辻井市太郎さん(1910~1986)だった。(参照:《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》)
その後、大会名が「選抜高等学校野球大会」と改められ、1948年(昭和23年)以降も継続が決まったとき、辻井さんは、毎日から思いがけないユニークなオファーを受けた。それが、選手入場時に既存のマーチを使うのではなく、世相を反映した曲や映画音楽などを新しく入場行進曲へ編曲することだった。
それを受けて、辻井さんが最初に手がけた曲が、NHKラジオの連続放送劇の主題歌『鐘の鳴る丘』(古関裕而作曲、第20回大会、1948年)で、入場行進曲の編曲はその後も継続(辻井さんの海外出張中の第31回大会の『皇太子のタンゴ』(ロタール・オリアス作曲)だけは、永野慶作さんが編曲)して行なわれ、1962年(昭和37年)の『上を向いて歩こう』(中村八大作曲、第34回大会)からは、若い人を意識して前年のヒット曲を中心に選曲されるようになった。
そして、この『上を向いて歩こう』がたいへんな評判を呼んで、早速、音楽之友社が楽譜を出版。全国的に演奏されることとなった。
その後、辻井さんは、定年までの間に、『いつでも夢を』(吉田 正作曲、第35回大会、1963年)、『こんにちは赤ちゃん』(中村八大作曲、第36回大会、1964年)、『幸せなら手をたたこう』(アメリカ民謡、有田 怜編曲、第37回大会、1965年)、『ともだち』(いずみたく作曲、第38回大会、1966年)、『世界の国からこんにちは』(中村八大作曲、第39回大会、1967年および第42回大会、1970年)、『世界は二人のために』(いずみたく作曲、第40回大会、1968年)、『365歩のマーチ』(米山正夫作曲、第41回大会、1969年)、『希望』(いずみたく作曲、第43回大会、1971年)、『また逢う日まで』(筒美京平作曲、第44回大会、1972年)を入場行進曲に編曲。毎日新聞社は、これらを市音の演奏でソノシートにして参加球児に贈り、また、多くが音楽之友社や全音楽譜出版社から出版され、市音のパブリックなコンサートでも大阪市民の人気を博した。(参照:《第30話 ソノシートの頃》)
東京佼成ウインドオーケストラの元ユーフォニアム奏者で、日本吹奏楽指導者協会(JBA)副会長の三浦 徹さんから、自身の明星中学校(大阪)時代を振り返って、『辻井市太郎先生が出来上がったばかりのセンバツのマーチの楽譜を持ってこられて演奏したことがありました。たぶん、試奏だったんでしょうが、当時はこれらの曲をいち早く演奏できることを誇りのように思っていました。“いつでも夢を”や“こんにちは赤ちゃん”など、よく覚えています。』と伺ったことがある。
また、いろいろお世話になった鈴木竹男さんが隊長・指揮者をつとめる“阪急少年音楽隊”の毎年恒例の定期演奏会でも、アンコールは、決まって辻井さんが編曲したその年の最新のセンバツ・マーチで、それは、『愉しみにしていました。』という、大阪音楽大学教授の木村寛仁さんの記憶にもしっかりと刻み込まれていた。(参照:《第77話 阪急少年音楽隊の記憶》)
そして、辻井さんのセンバツ・マーチの編曲は、市音退職後も続いた。筆者が、日本ボーイスカウト大阪連盟から“音楽章”という技能章の考査員を委ねられていた1977年(昭和52年)の第49回大会では、開閉会式で校名のプラカードを持つスカウトたちの行進指導を甲子園球場などで行なったが、そのときのマーチは、『ビューティフル・サンデー』(ダニエル・ブーン、ロッド・マックイーン作曲)だった。
明けて1978年(昭和53年)の1月30日(月)、31日(火)の両日。毎日新聞社は、大阪北区の毎日ホールで、第50回記念大会に向け、「第50回選抜高等学校野球大会記念 センバツ行進曲集」という記念アルバムのレコーディング・セッションを行なった。演奏は、辻井さんのあとを継いだ永野慶作さん(1928~2010)が指揮する市音で、曲目は、『上を向いて歩こう』をはじめ、編曲者自身が選んだ全10曲だった。
このセッションを客席に誰もいないホールでただ一人、聴く機会を与えられた。
録音は、テープ編集を嫌うディレクター、日本ワールド・レコード社の靭 博正さんの意向を受けて、すべて通し演奏というハードワーク。しかし、市音のテンションは下がらない。マーチ10曲とこの当時の大会歌(旧陸軍戸山学校軍楽隊作曲)がしっかりと時間をとって録音された。その結果は、センバツ開会式の臨場感ただよう溌剌としたマーチ・アルバムに仕上がった。
辻井さんの他界後、センバツ・マーチの編曲・録音は、前記の永野さんに受け継がれ、その後も、酒井 格さんと市音から民営化したOsaka Shion Wind Orchestraが担っている。
“春はセンバツから”という大会コピーを見るたびに血が騒ぎ、興奮が脳裏を駆け巡る若き日の一章である!!
▲自筆スコア – 鐘の鳴る丘(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)
▲自筆スコア – 上を向いて歩こう(Osaka Shion Wind Orchestra所蔵)
▲楽譜表紙 – いつでも夢を(全音楽譜出版社)
▲楽譜表紙 – こんにちは赤ちゃん(音楽之友社)
▲楽譜表紙 – 幸せなら手をたたこう(全音楽譜出版社)
▲楽譜表紙 – ともだち(音楽之友社)
▲楽譜表紙 – 世界の国からこんにちは(音楽之友社)
▲楽譜表紙 – 三百六十五歩のマーチ(音楽之友社)
▲楽譜表紙 – 希望(音楽之友社)
▲毎日新聞(大阪)、昭和22年3月31日(月)1面