■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第130話 ミャスコフスキー「交響曲第19番」日本初演

▲チラシ – 第5回大阪市音楽団特別演奏会(1962年5月8日、毎日ホール)

▲プログラム – 同

▲同、演奏曲目

▲「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)

『今までの多くの作曲家を交響曲の作品数でランキングをつけると、第1位がハイドン、第2位がモーツァルト、そして第3位がミアスコフスキーということになります。ミアスコフスキーはこのように交響曲の数の多さでよく知られていますが、作品そのものは殆どといつていいくらい知られておりません。大変美しく感動的な曲もあるということですが、日本での紹介がおくれているのは何としても残念なことです。』(一部異体字の変更以外、原文ママ / 作曲者カナ表記“ミアスコフスキー”は演奏会プログラムどおり)

1962年(昭和37年)5月8日(火)、旧ソヴィエト連邦(現ロシア)の作曲家、ニコライ・ミャスコフスキー(Nikolai Myaskovsky、1881~1950)の『交響曲第19番 変ホ長調』(作品46)の日本初演が行なわれた「第5回大阪市音楽団特別演奏会」(於:毎日ホール、開演:18時30分)のプログラムに、辻井英世さん(1934~2009)が書いた同曲の解説文冒頭の引用である。氏は、吹奏楽作品もある在阪の現代作曲家として知られ、当夜の指揮者、大阪市音楽団団長の辻井市太郎さん(1910~1986)の長男でもある。後年、会食をともに愉しんだこともあった。

ロシア語の人名を我々が普段使っているラテン文字のアルファベットに変換する手法には、いくつかルールがある。それぞれ一長一短があり、今のところ決定打はない。今回の話の主人公ニコライ・ミャスコフスキーのケースだと、筆者が実際にこの目で確認したスペルだけでも、ファースト・ネームに“Nikolai”や“Nikolay”、ファミリー・ネームにも“Miaskovsky”や“Myaskovsky”、“Myaskovskii”がある。さらにロシア人の名前の“v”を“w”と表記するケースも結構あるので、現実にはまだまだあるかも知れない。また、それらのスペルを見ながら考案されてきた日本語カナ表記に至っては、問題はさらに複雑だ。辻井さんは“Miaskovsky”に従い、筆者は“Myaskovsky”あるいは“Myaskovskii”に従っている。そして、ロシア人が喋るのを聞いていると、たとえ日本で使われているカナ表記を意識しながらヒヤリングしても“ア”や“ャ”は案外聞こえない(筆者の耳が悪いだけかも知れないが)ので、あるいは“ミスコフスキー”が近いのかも知れない。逆に英米人は我々に近い。ただ、文字としてのカナ表記“ミャスコフスキー”は、アルファベットのスペルを想像しやすいという利点もあるので、一応OKだと思う。

我々が何の疑いもなく使っているチャイコフスキーやムソルグスキーの横文字表記にも、実は同じような課題が存在する。

出版社などから、ときどき『ネット検索できないから、なんとかまとめてくれ。』というリクエストがくるが、そんな場合は『それならロシア文字で表記したら?』と笑いながら答えるようにしている。すると、相手はたいてい音を上げる。恐らくは、“こいつ使えない!”と思われているだろうが…。

話を元に戻そう。

1962年5月8日、ミャスコフスキーの『交響曲第19番』の日本初演を行なった“大阪市音楽団(市音)”は、21世紀の民営化後、“Osaka Shion Wind Orchestra (オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”の名で活躍を続けている。“大阪市音楽団”は、大阪市直営当時の名称だ。

当夜の演奏会は全国的な注目を集めた。吹奏楽専門誌「月刊 吹奏楽研究」1962年6.7月合併号(通巻79号、吹奏楽研究社)は、表紙に当日のステージ写真をあしらい、「最高レベルのシムフォニックバンド 大阪市音楽団 第5回特別演奏会」という題する2頁記事(12~13頁)を入れた。現場取材の同記事が伝える出席者の顔ぶれも次のようにひじょうに多彩だ。

『この日、この音楽団の多くの固定ファンや関西方面の好楽家、吹奏楽関係者で会場が埋り、一曲ごとに感激の拍手がをくられた。大フィルの指揮者朝比奈隆氏、NHK西川潤一氏、毎日新聞渡辺佐氏、大阪新聞中田都史男氏、音楽新聞佐藤義則氏、評論家上野晃氏、松本勝男氏、滝久雄氏や大阪府警音楽隊の山口貞隊長、大阪府音楽団小野崎設団長、阪急少年音楽隊の鈴木竹男隊長や、関西吹奏楽連盟の矢野清氏、得津武史氏など地元の人たちの外、東京から、芸大の山本正人、小宅勇輔、大石清の諸氏、東京都吹奏楽連盟の広岡淑生理事長、前警視庁音楽隊長山口常光氏、広島から広島大学の佐藤正二郎氏、岡山の前野港造氏なども来朝、この音楽団の発展を祝福した。』(原文ママ)

関西一円の吹奏楽関係者だけでなく、記事の中にやがて全日本吹奏楽連盟理事長に就任する朝比奈 隆さんや、「東京吹奏楽協会」のアーティスト名でレコードやソノシートにマーチをさかんに録音していた東京藝術大学の山本正人さん(指揮者)、小宅勇輔さん(打楽器)、大石 清さん(テューバ)の諸氏の名があることも目をひく。これは、当時の東西の人的交流の様子や、市音が1960年にはじめたコンサート・ホールでの定期演奏活動がいかに注目を集めていたかを如実に物語っている。山本さんが創立指揮者となる「東京吹奏楽団」が1963年に立ち上がる以前の話である。(参照:《第122話 交響吹奏楽のドライビングフォース》《第129話 東京吹奏楽団の船出》

メイン・プロとなった『交響曲第19番』について、「吹奏楽研究」はこう記している。

『ソヴィエトの作曲家として、新しいソ連の音楽…大衆と密着した音楽という理念にもとづいて数多くの交響曲を作っているミアスコフスキーの、輝やかしいすぐれた交響曲の四つの楽章全曲が本邦初演された。』(原文ママ / “ミアスコフスキー”はプログラム表記どおり)

ニコライ・ミャスコフスキーは、生涯を通じて27曲の交響曲を作曲した。『交響曲第19番』は、その中で唯一吹奏楽編成で書かれた作品で、作曲者がモスクワ音楽院の院長をしていた当時、友人のモスクワ騎兵軍楽隊の隊長イワン・ペトロフの依頼を受け、1939年に作曲された。初演は、1939年2月15日、ペトロフ指揮の同軍楽隊のラジオ放送の中で行なわれ、公開演奏は、一週後の赤軍記念日にモスクワ音楽院で催されたコンサートで同軍楽隊によって行なわれた。評者も称賛!大成功を収めた。

ドイツ式楽器編成をルーツとする旧ソ連のミリタリー・バンドの楽器編成は、サクソフォンを使わない代わりに、アルト、テノール、バリトン、バスのサクソルン系の金管楽器を含んでおり、この交響曲もその特徴的な編成で書かれていた。初演はひじょうに好評で、たちどころにソ連のミリタリー・バンドのレパートリーとなった。その後、ゲンナジー・ロジェストヴェンスキーやエフゲニー・スヴェトラーノフといったクラシック畑で活躍する指揮者もレコーディングを行なっている。スヴェトラーノフは、ミャスコフスキーの交響曲全集を録音した指揮者だ。

この作品を日本人が知ったのは、1959年にアメリカでリリースされ、日本にも少数が輸入されてきたLP「MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND」(米Monitor、MC 2038、モノラル録音)だった。このレコードは、間違いなく、旧ソヴィエト国営レーベル“メロディア”がオリジナル原盤で、演奏者は、イワン・ペトロフ(Ivan Petrov)指揮、モスコー・ステート・バンド(Moscow State Band)とあった。また、ジャケットには、“A First Recording(初録音)”の小さな文字も印刷されていた。

後年、筆者がこのレコードを手にしたとき、指揮者が初演を振ったペトロフであることはすぐに気がついた。だが、バンド名の“モスコー・ステート・バンド”がどうしても謎だった。当時、共産党政権下のモスクワにミリタリー・バンド以外に民間吹奏楽団ができたというニュースはついぞ聞いたことがなかったからだ。“モスコー”が“モスクワ”、“ステート”が“ソヴィエト連邦”を意味していそうだとはおぼろげに想像できたが、実際にこれを日本語にするとなると、一体どう訳せばいいのだろうか。また、録音のための臨時編成なのか、常設のバンドなのか。それによっても日本語訳はかなり変わってくる。

この謎が解決したのは、その後、何十年も過ぎてから、AB両面のカップリング曲こそ違うが、同じ『第19番』の演奏が入っているメロディア盤を中古市場で手に入れたときだった。もちろん、レーベルに印刷されているロシア文字はチンプン・カンプンだったが、一文字ずつ照らし合わせていくと、レーベル最下部に指揮者のイワン・ペトロフ(ファースト・ネームはイニシャルのみ表記)の名が印刷され、その上に演奏者名があるらしいことが分かってきた。また、演奏者名は2行で構成され、最後の文字は“CCCP(ソヴィエト社会主義共和国連邦)”だった。ということは、それは間違いなく“公”の楽団であることを示していた。そして、その時点で“民間楽団説”は泡のように消えた。

同時に、外貨獲得目的で海外輸出用に製造されたメロディア盤のジャケットには、ロシア語名のほかに“ちょっと怪しい英訳”が印刷されていることが多いことを思い出した。そこで、30枚程度ある手持ちのメロディア盤を片っ端からあたっていくと…。

ハイ、ハイ、ほぼ同じ演奏団体名が、英訳付きでゾロゾロ出てきた!

文字化けの可能性もあるので、ここにロシア名は記さないが、英訳の方は、“ORCHESTRA OF THE USSR MINISTRY OF DEFENCE(ソヴィエト国防省吹奏楽団)”とあった。彼らはモスクワを本拠とするソヴィエト連邦最優秀、最大編成のミリタリー・バンドだ。さらに調べると、指揮者イワン・ペトロフは、初演の後、着実に昇進し、1950年から1958年までソ連邦最高峰のこのバンドの楽長をつとめていた。階級が少将とあったので、最高位の楽長だったことは間違いない。

以上のペトロフの履歴から、オーディオ好きの人は、ひょっとするとピンときただろう。

そう。アメリカでステレオ用カッティング・マシーンが実用化され、ステレオ録音のレコードがプレスされるようになったのが、実は1958年だった。それまでリリースされたレコードがすべてモノラル盤だったので、ペトロフが指揮したミャスコフスキーの『交響曲第19番』の世界初録音盤がモノラル録音であることも見事に辻褄が合った。

当時は、折りしも米ソ冷戦下。厚いベールに包まれたソヴィエトの国内情報のディティールに欠ける恨みはあるが、ここで追加情報をまじえて時系列的に整理すると、『交響曲第19番』の楽譜がソヴィエト国営の出版社から出版されたのは1941年。エドウィン・フランコ・ゴールドマン指揮、ゴールドマン・バンド(参照:《第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの》)が全曲のアメリカ初演を行なったのが、1948年7月7日(部分初演は、同年1月3日)。その後、ペトロフ指揮の世界初録音が1950~1958年の間に行なわれ、そのアメリカ盤がリリースされたのが1959年だったという流れとなる。

この間、作曲者のミャスコフスキーは、1950年8月8日、モスクワで亡くなっている。

それにしても、西側初のレコードで作品情報に接してから、僅かな年月で日本初演にまでこぎつけた市音の情報収集力とモチベーションはすごい!!

ウィンド・ミュージックにかけるこの楽団の情熱がひしひしとして伝わってくる1つのエピソードだ!

▲Nikolai Myaskovsky

▲LP – MIASKOVSKY / SYMPHONY FOR BAND(米Monitor、MC 2038、1959)

▲MC 2038 – A面レーベル

▲MC 2038 – B面レーベル

▲〈露語記号略〉5289-56 – A面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)

▲〈同〉5289-56 – B面レーベル(ソヴィエトMelodia、無地ジャケット入り)

“■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第130話 ミャスコフスキー「交響曲第19番」日本初演” への1件の返信

  1. 今でこそガブリエル・パレスの「リシルド」はポピュラーになりましたが、日本初演は全日本吹奏楽コンクールの今津中学だと思っていました。
    ところが、当時の生徒だった方と知り合いになって、彼が言うには大阪市音楽団から楽譜を借りたのだそうです。

    ふと思い出しました。

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