【コラム】富樫鉄火のグル新 第278回 余分なきマスクの余聞

 1935(昭和10)年の映画『乙女ごころ三人娘』(PCL映画製作所)は、名匠・成瀬巳喜男監督による初トーキー作品。浅草を舞台にした、流し芸人三姉妹の物語である。原作は川端康成の『浅草の姉妹』。音楽監督は、のちに占領軍専用ホール「アーニーパイル劇場」の楽団長をつとめる紙 恭輔(1902~1981)である(この楽団から、岩井直溥や河辺公一が巣立ち、戦後の吹奏楽全盛時代を築くのだ)。
 この映画に、しばしば、芝居小屋や、音楽小屋(いまでいうライブハウス)の場面が登場するが、なかに「マスク」を着用している観客がチラホラといる。
 そういえば、ほぼ同時期の、おなじ浅草を舞台にした映画『浅草の灯』(島津保次郎監督、松竹、1937年)にも、マスク姿の観客が映っていたような記憶がある(浅草オペレッタのバックステージもので、映画デビューの杉村春子がカルメンを歌い踊っている)。

 日本で、マスクは、炭鉱や建築現場労働者の防塵具として、明治初期から使用され始めたという。それが風邪の予防具として注目を浴びたのは、1918~20(大正7~9)年のスペイン風邪だった。世界中で5000万人、日本でも約40万人の命を奪った(諸説ある)、インフルエンザのパンデミックだ。日本銀行や東京駅丸の内駅舎で知られる建築家・辰野金吾や、劇作家・島村抱月などが、この風邪で亡くなっている。その後、1923(大正12)年に発売された「壽マスク」が商標登録品第1号となって、さらに一般市民にも知られるようになった。

 そんなマスクが、日本人の生活に完全に定着したのが、1934(昭和9)年のインフルエンザ大流行だった。

【この続きを読む】

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください