
▲チラシ – 英国近衛兵軍楽隊 アイリッシュ ガーズ〈訪日第2陣〉(1972年10月25日、大阪市中央体育館)]

▲プログラム – IRISH GUARDS 1972 IN JAPAN

▲「バンドジャーナル」1972年12月号(音楽之友社)
1972年(昭和47年)10月から11月の1ヶ月間、イギリスからアイリッシュ・ガーズ・バンド(The Band of the Irish Guards)が来日した!
来日時の音楽監督は、1968年に就任したエドモンド・G・ホラビン少佐(Major Edmund Gerald Horabin、1925~2008)。
バンドは、バッキンガム宮殿の衛兵交代でもおなじみの5つある“近衛兵軍楽隊”(当時は、各65名編成)の1つで、1952年、BBCのラジオ番組を通じて、パウル・ヒンデミット(Paul Hindemith)の『交響曲変ロ調(Symphony in Bb for Concert Band)』を国内初放送するなど、イギリスの音楽界ではその実力者ぶりはよく知られていた。
また、1966年に英EMIからリリースされ、アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、ブラジル、日本など、各国でロングセラーとなったアルバム「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ(Marching with the Beatles)」(英EMI-Columbia Studio 2、TWO125)が何週にもわたってヒット・チャートを賑わし、そのワールドワイドな大ヒットで、吹奏楽でセンスのいいポップスをお洒落に聴かせるバンドとして世界的人気を誇った。
《第96話 スコッツ・ガーズと1812年》でお話した、2年前の1970年(昭和45年)に大阪・千里丘陵で開催された日本万国博覧会の“英国ナショナルデー”のために来日し、東京公演も行なったスコッツ・ガーズ・バンド(The Band of the Scots Guards)につづく、“英国近衛兵軍楽隊”の訪日第2陣である。
招聘元は、スコッツ・ガーズ東京公演を行なった東京・新宿のコンシエルタ。
プログラム掲載の公演日程は、以下のとおりだった。
・10月10日(祝) 東京:上野駅前パレード、日本橋パレード
・10月11日(水) 横浜:文化体育館
・10月12日(木) 東京:皇居・宮殿東庭
・10月13日(金) 川崎:市体育館
・10月14日(土) 東京:都体育館
・10月15日(日) 東京:都体育館
・10月16日(月) 宇都宮:栃木県体育館
・10月19日(木) 佐世保:市立体育館
・10月20日(金) 長崎:国際体育館
・10月21日(土) 熊本:市立体育館
・10月23日(月) 福岡:九電記念体育館
・10月24日(火) 北九州:新日鐵大谷体育館
・10月25日(水) 大阪:中央体育館
・10月26日(木) 京都:府立体育館
・10月27日(金) 富山:市体育館
・10月28日(土) 福山:市体育館
・10月30日(月) 広島:県立体育館
・10月31日(火) 姫路:厚生会館
・11月1日(水) 静岡:駿府会館
・11月2日(木) 名古屋:愛知県体育館
・11月3日(祝) 名古屋:愛知県体育館
・11月5日(日) 宇部:俵田翁記念体育館
・11月6日(月) 神戸:中央体育館
2019年(令和元年)に来日し、わずか1週間という短い滞日期間中に5回ものコンサートを行い、最終日には、ソロイストのひとりがリップ・アクシデントのため出演不能になったブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)も“口アングリ”になってしまいそうなハード・スケジュールだ。(《第103話 ブラック・ダイク弾丸ツアー2019》参照)
大阪ネイティブの筆者が聴いたのは、もちろん、大阪市中央体育館で開催された10月25日の夜の部の公演だった。
鈴なりに近い中で披露された演奏は、とてもエキサイティングで、アイリッシュ・ガーズ・ファン待望の「マーチング・ウィズ・ザ・ビートルズ」からも、“ミッシェル(Michelle)”と“キャント・バイ・ミー・ラヴ(Can’t Buy Me Love)”の2曲が演奏され、“余は大満足じゃ!”とひとり御満悦!!
さすがは、ロンドンのミュージシャンたちだ!
レコードと寸分違わぬブリティッシュなサウンドとセンスのいいキリリとしたパフォーマンスに大感激した。
アイリッシュ・ガーズは、また、10月17日(火)午後3時から9時まで、ビクターの第1スタジオでレコーディングも行なった。
ちょうどレコード各社が競うように4チャンネルに取り組んでいた時期だったので、録音はスタジオ内に衝立を立ててセクションごとに音を拾うセパレーションのいいCD-4方式の4チャンネル録音!
互いの顔が見えないだけに、スタジオ慣れしているはずのアイリッシュ・ガーズの面々も面喰う、彼らにとっては未知の録音方式だった。(《第94話 エキスポ ’70と大失敗》参照)
他方、昔から頑なに“吹奏楽はマーチ”と思い込んでいるふしがあるビクターらしく、普段アイリッシュ・ガーズがどんなレパートリーを得意にしているかとか、公演曲目にどんな曲を準備してきたかについてはまるでお構いなしで無関心!
スタジオに用意された楽譜は、すべてマーチだった!
しかも、イギリス人である彼らが普段演奏する機会がないアメリカのジョン・フィリップ・スーザ(John Philip Sousa)の『星条旗よ永遠なれ( The Stars and Stripes Forever )』や『雷神(The Thunderer)』『ハイ・スクール・カデッツ(The High School Cadets)』『忠誠(Semper Fidelis)』、フランスのルイ・ガンヌ(Louis Ganne)の『勝利の父(Le Pere la Victoire)』、日本の瀬戸口藤吉の『軍艦マーチ』などをズラリと並べて….。
一方で、ビクターは、このとき、イギリスでリリースされたばかりの最新アルバム「At Ease with the Band of the Irish Guards」(英RCA Victor、LSA 3111)を来日記念盤「ポップス・イン・マーチ/アイリッシュ・ガーズ」(ビクター音楽産業(RCA)、RCA-5023)としてリリースしていた。
だが、ここで初来日のアイリッシュ・ガーズにわざわざお決まりのマーチをやってもらう必要が本当にあったのか。あるとすれば、4チャンネル録音のカタログ化の拡大だが、《第94話》でお話したように、それはアメリカのポール・ヨーダー(Paul Yoder)を指揮者として起用。多くのマーチがつぎつぎと録音されていた。
やはり、ビクターとしては“吹奏楽はマーチ”という呪縛(固定概念)から逃れられなかったのだろう。
また、公演のほとんどが、招聘側の希望で、アイリッシュ・ガーズが母国ではほとんどやらない体育館のフロアを使ったドリル形式のものとなった。一から準備し、特別に練習してきたのだという。しかし、公演各地では、逆に“なぜ、コンサートをやらないのか”という声が多く聞かれたという。
当然だろう!
帰国後にBBC放送のクラシック・チャンネルで演奏することになっていたのは、アルノルト・シェーンベルク(Arnold Schonberg)の『主題と変奏、作品43a(Theme and Variations, Op.43a)』だった。
自信をもって実力バンドを送り込んできた英国側に対して、姿かたちの外見上のカッコ良さだけに目を奪われたような演芸路線の日本側。
皇居での御前演奏に際しては、当初“外国の軍隊が皇居に入ったことはないので、制服は脱いでお越しいただきたい”と言われたとの逸話もある。
何かが微妙にずれていた。
そして、その後発覚するのが、招聘元の倒産による演奏料の未払い!!
全員がミュージシャン・ユニオンに加入するプロの音楽家だけに、事は大問題となり、英国国防省が、“今後日本へのバンドの派遣を禁止する”と通達するほどの事態にまで発展した。
演奏は本当にすばらしかった。
公演を取り上げた「バンドジャーナル」1972年12月号(音楽之友社)も表紙だけでなく、カラー・グラビア2頁、モノクロ・グラビア6頁、記事3頁の大特集を組み、民放FM局も東京公演の模様をオンエアした。
しかし….。
あってはならない事件だった!

▲LP – On Guard(英MCA、CKPS 1004、1970年)

▲CKPS 1004 – A面レーベル

▲CKPS 1004 – B面レーベル

▲LP – At Ease with the Band of the Irish Guards(英RCA Victor、LSA 3111、1972年)

▲LSA 3111 – A面レーベル

▲LSA 3111 – B面レーベル

▲LP(4チャンネル) – Marches on Parade(ビクター音楽産業(RCA)、R4J-7018、1973年)

▲R4J-7018 – A面レーベル

▲R4J-7018 – B面レーベル

▲LP – 来日記念盤 ポップス・イン・マーチ/アイリッシュ・ガーズ(ビクター音楽産業(RCA)、RCA-5023、1972年)