■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第104話 ハインツ・フリーセンの逝去

▲「いちょう並木」1995年8月号(大阪市教育振興公社)

▲CD – 「シンフォニエッタ~水都のスケッチ~」(Fontec、FOCD9204、2004年)

▲同 – インレーカード

2019年(令和元年)10月23日(水)、ヨーロッパから一通のメールが届いた。

差出人は、ハルムト・ヴァンデルヴェーン(Garmt van der Veen)。かつて、ヤン・デハーン(Jan de Haan)とともに、音楽出版社のデハスケを立ち上げ、現在もハル・レナード・ヨーロッパの役員をつとめる人物だ。

メールは、“今朝、指揮者ハインツ・フリーセンが、入院先のブレダ(Breda)の病院で息をひき取った”という悲しい知らせだった。

享年は85歳。

日本における指揮活動が、唯一、大阪だけだったため、彼の名は、他の地域に住まいする方には、あまりなじみがないかも知れない。

しかし、筆者にとって、彼の音楽との出会いはあまりにも衝撃的で、失ったものの大きさは、本当に計り知れない。学んだことも多かった。

彼とはじめて言葉を交わしたのは、《第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い》でお話した1993年6月のアムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)のレコーディングのときだった。

彼とはすぐに打ち解け、リハーサルやセッションを通じてすっかり意気投合!

帰国後、そのセッション映像を見た大阪市音楽団(現Osaka Shion Wind Orchestra)団長(当時)の木村吉宏さんがほれ込んで、1995年からの3シーズン、市音首席指揮者として招聘。首席指揮者退任後も、2003年11月21日(金)の「第87回大阪市音楽団定期演奏会」(フェスティバルホール)の客演指揮者としてアンコール招聘された。(参照:《第69話 首席指揮者ハインツ・フリーセン》

その“第87回定期”で、作曲者を客席に招き、世界初演された委嘱新作が、ヤン・ヴァンデルロースト(Jan Van der Roost)のシンフォニエッタ『水都のスケッチ(Suito Sketches)』だった。

履歴を紐解くと、フリーセンは、1934年7月16日、オランダ南部、リンブルフのブリュンスム(Brunssum)の生まれ。

デンハーフ(Den Haag)音楽院で、オーボエをヤープ・ストテイン(Jaap Stotijn)に、オーケストラ指揮法をロークス・ヴァンイーペレン(Rocus van Yperen)、ピート・ケッティング(Piet Ketting)、ヴィレム・ヴァンオッテルロー(Willem van Otterloo)に師事。

ブラバント管弦楽団(Brabants Orkest / 現在の南ネーデルラント・フィルハーモニー管弦楽団 Philharmonie Zuidnederland)をへて、ロッテルダム・フィルハーモニー管弦楽団(Rotterdams Philharmonisch Orkest)のソロ・オーボエ奏者となり、アムステルダムのロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団(Koninklijk Concertgebouworkest)とも何度も競演した。古巣ブラバント管弦楽団や自ら立ち上げた室内楽団のコンセルト・ロッテルダム(Concerto Rotterdam)の指揮者としても活動。母校デンハーフ音楽院のオーボエの主任教授を20年間つとめた。ウィンド・ミュージックのフィールドでは、オランダ初の民間プロ・ウィンドオーケストラであるアムステルダム・ウィンド・オーケストラの創設者、音楽監督であり、コミュニティーのウィンド・オーケストラであるトルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn、参照:《第99話 トルン聖ミカエル吹奏楽団訪問記》)、オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz、参照:《第98話 アルプス交響曲とフリーセン》)などを率い、輝かしい成果を残している。

意外なところでは、1991年4月27日(土)、ロッテルダムで開催された「ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1991」のガラ・コンサートに出演したブラック・ダイク・ミルズ・バンド(John Foster Black Dyke Mills Band)を客演指揮したこともあった。

シンフォニー・オーケストラからウィンドオーケストラ、さらにはブラスバンドまで、プロとアマを分け隔てることなく、真正面から音楽と向き合ったフリーセン。

その彼が、自らのバンド・ミュージックの関わりについて語ってくれたことがある。

1995年(平成7年)7月4日(火)、大阪夏の風物詩、大阪城音楽堂で開かれる「たそがれコンサート」に向けての練習後、フリーセン御用達の近くの居酒屋「与作」でだった。

彼の夕食のメニューは、大阪で覚えたマグロの刺身とビールのみ!!

そのとき聞いた話によると、ブリュンスムの彼の実家の裏には、村のバンド(ファンファーレ・オルケスト)の練習場があり、小さい頃は、いつもその練習場の入り口に座ってマーチの練習を聴いていたそうだ。当然、音楽のレッスンもそのバンドに参加した8歳のときに始まり、最初に与えられた楽器はホルンだった。やがて、そのバンドがファンファーレ・オルケストからウィンドオーケストラに編成替えされることになると、つぎに受け持たされたのがクラリネット。しかし、あるとき、ラジオから聞こえてきたオーケストラのオーボエの音に魅せられ、11歳のときにオーボエに転向する。

ところが、オーボエを勉強するとなると、地元には先生がいなかったため、どうしてもデンハーフまで長い時間をかけてレッスンに通わねばならなかったという。

やがて、オランダ国民の義務として、徴兵を迎える。

短い履歴にはほとんど出てこないが、オーディションにパスしたフリーセンは、音楽院に学ぶ傍ら、1954年から1960年までの6年間、世界的に有名なあのオランダ王国海軍バンド(De marinierskapel der Koninklijke marine)に、第1オーボエ奏者として在籍。ブラバント管弦楽団のソロ・オーボエ奏者になったのは、兵役明けのことだ。

当時を振り返って、彼は、海軍にいたこの時期は、ものすごい勉強と練習ができたし、実地も体験できたとてもいい時だったという。

今もヨーロッパ最高水準と謳われる吹奏楽を肌身をもって体験したわけだ。

(余談ながら、オランダ王国は、冷戦終結後、召集を停止しているが、制度としての徴兵は今も廃止されていない。)

フリーセンは、、ウィンド・ミュージックへの顕著な業績により、オランダ女王から“シャブリエ級”文化勲章”を授けられた。

アメリカのフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)やアルフレッド・リード(Alfred Reed)も一目置く存在だった。

人と人とのつながりは、本当に不思議なものだ。ちょっとした縁と偶然の重なり合いが何かを生み出す原動力になったりする。

『水都のスケッチ』の世界初演をナマで聴いて感動したヤンは、帰国後、デハスケに働きかけ、すでに国内リリース(CD:「シンフォニエッタ~水都のスケッチ~」、Fontec、FOCD9204、2004年)が決まっていた当日のライヴからこの曲だけをピックアップし、オランダでCD付きスタディー・スコアとして発行されたことがあった。

そのプロジェクトを担ったのが、冒頭のメールを送ってくれたハルムトと筆者だった。

何もかも懐かしい。

フリーセンの訃報が伝わると、その日の内に、ロッテルダム・フィルをはじめ、彼と縁のあった多くの楽団や団体がホームページで大きくそれを伝えた。

ハルムトのメールを受け取ったその日は、ヤンや海外の友人たちと故人を偲んで想い出を語り合う一日となった。

▲スタディー・スコア – Sinfonietta~Suito Sketches(蘭de haske、2004年)

▲同附属CD

▲▼プログラム – 創立80周年記念 第87回大阪市音楽団定期演奏会(2003年11月23日、フェスティバルホール)

「■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第104話 ハインツ・フリーセンの逝去」への1件のフィードバック

コメントを残す

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください