■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第99話 トルン聖ミカエル吹奏楽団訪問記

▲レターヘッド – Harmonie St. Michael van Thorn

▲CD – Highlights WMC 1993(蘭Mirasound、399154~399155、1993年)

▲399154~399155 – インレーカード

▲WMC 1993 プログラムから(7月25日、Rodahal, Kerkrade)

『今から行くところは、車をつける場所を間違えると、“何しに来た”と睨まれて、ちょっと面倒なことになるかも知れません。』(笑)

1995年12月3日(日)の朝、指揮者ハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)の奥さん、マリアーンさんは、車を運転しながら、冗談っぽくこう切り出した。

この日、我々が向かっていたのは、オランダ南部、リンブルフ(Limburg)州の村トルン(Thorn)。オランダの吹奏楽に関心がある者にとっては、一度は訪れてみたい場所だ。

同行者は、マリアーンさんと筆者のほか、大阪市音楽団(市音:現Osaka Shion Wind Orchestra)団長の木村吉宏夫妻、同マネージャーの小梶善一さん。

市音の首席指揮者(当時)をつとめていたフリーセンが、“オランダ・オープン選手権コンサート部門(Open Nederlands Kampionschap Concertafdeling)”で、「オランダ王国ボホルツ・フィルハーモニー(Koninklijke Philharmonie Bocholtz)」を指揮してリヒャルト・シュトラウスの『アルプス交響曲』(全曲)を演奏するという話を聞き、勇み足でオランダに飛んだ面々だった。(参照:《第98話:アルプス交響曲とフリーセン》

この日は、その“オランダ・オープン”の2日目。フリーセンが指揮する「ボホルツ・フィルハーモニー」の出番は、夜の20時30分で、彼はその準備に余念がなかった。そこで、かねてからトルン行きを熱望していた我々のために、代わってマリアーンさんが道案内を買って出てくれたのだった。

我々がめざした“トルン”は、ベルギーと国境線を接する小さなコミュニティ。2007年1月1日、へール(Heer)、マースブラハト(Maasbracht)と統合されてマースハウ市(Maasgouw)の一部となるまでは、独立した自治体だった。小さなエリアだが、かつては“公国”で、中心部の家々の外壁が白く塗られていることから“白い町”とも呼ばれる。また、“トルン大聖堂教会”とも呼ばれるローマカトリック教区教会の“聖ミカエル教会(De Sint-Michaelskerk)”も有名な存在で、同地を訪れる観光客も多い。音楽関係者には、有名な楽器メーカー、アダムス(Adams)の所在地と言った方が分かりやすいかも知れない。

そのトルンが近づいてきたところで、マリアーンさんが放ったのが冒頭の言葉である。

マリアーンさんの説明によると、当時、トルンの人口はおよそ5000人!

そんなコミュニティに、オランダを代表する100名クラスのコミュニティー・ウィンドオーケストラが2つも存在する!!

一方が、1971~1975年と1983~2015年の間、フリーセンが音楽監督をつとめた「トルン聖ミカエル吹奏楽団(Harmonie-Orkest St. Michael Thorn / Harmonie St. Michael van Thorn)」であり、もう一方が「オランダ王国トルン吹奏楽団(Koninlijke Harmony van Thorn)」だった。

前者が“聖ミカエル(St. Michael)”を、後者が“オランダ王国の(Koninlijke)”を冠(かんむり)とする吹奏楽団である。

遠く離れた日本からは、そんなトルンの事情など窺い知ることはできないが、マリアーンさんの話によると、トルンには、200年くらい前から村を二分する勢力争いがあり、彼らは今も別々の教会の信徒として互いに結婚することもないほどの関係にあるとか。その結果、当然バンドも2つ存在し、両者はシリアスなライバル関係にあるのだという。

マリアーンさんの話はつづく。

『ある年、両者がケルクラーデ(Kerklade)で行なわれた同じ日のコンクールに揃って出場したことがありました。一方の演奏が終わったとき、誰もが“優勝者はこのバンドに決まった”と思ったそうです。しかし、その後ステージに上ったもう一方がそれを上回るパフォーマンスで逆転してしまったのです。結果は、後者が“優勝者”となり、前者が“第2位”に。直後、トルンの村は、お祭り騒ぎになるどころか、約半年もの間、一触即発のたいへん険悪なムードに包まれることになりました。』

このとき優勝したのが、今から訪れようとしている「トルン聖ミカエル」であり、優勝指揮者はもちろんハインツ・フリーセン!!

優勝を逃した側の「オランダ王国トルン」からみると、フリーセンは彼らの偉業を阻んだ憎っくき“仇(かたき)”の総大将だ。奥方のマリアーンさんの面も割れている。

もちろん、マリアーンさんが行き先を間違えるなど、ある訳ないが、冒頭の『車をつける場所を間違えると…。』という言葉の意味が、ここではじめて明らかとなった。

まるで、“ロメオとジュリエット”に出てくる話のようだ。

帰国してから記録を調べると、この話にあてはまるのは、1993年7月25日(日)に行なわれた“世界音楽コンクール(Wereld Muziek Concours)”のコンサート部門決勝のようだった。

日本でも少し知られるようになった、1つのバンドに許されるステージ上の持ち時間が出入りを含めて1時間半という同コンクールの最上位グレードの選手権で、指定課題が、アルフレッド・リード(Alfred Reed)の『交響曲第4番(4th Symphony)』だった年だ。

我々は、それからわずか2年後、その大事件がまだ人々の記憶に新しい時期にトルンに向かっていたのだ。

他の町のバンド関係者は、トルンの両バンドを“牡ヤギ”“牝ヤギ”と呼ぶ。理由を訊ねると、“オスとメスは永遠に理解し合えない”という理由からだそうだ。

なんとも奥の深い話ではある。

その後、さすがに両バンドは、同じコンクールにはエントリーしないことを申し合わせたのだという。

「トルン聖ミカエル吹奏楽団」の練習場は、聖ミカエル・ハーモニーザール(Harmoniezaal St. Michael)と呼ばれる前年完成したばかりの真新しい専用の建物だった。

オランダ語のザールには英語のホールと同じ意味があるが、この合奏場も座席さえ設えればコンサートができるようになっていた。地下には、個人練習ができるスタジオを完備している。カフェも備え、休憩になると、シャッターが開いてバーがオープンする。飲み物はすべて無料。大人の社交場というイメージだ。

出迎えてくれたプレジデントのケース・ハウケス博士(Drs. Kees Halkes)によると、実際にここでサポーターのためのコンサートも開かれるそうで、この日もバンドの元メンバーと思しき年配者が三々五々集まってきては、あーだこーだと言いながら、練習を愉しんでいた。創設は、1863年。まさに“おらが村のバンド”だ。

そんなバンドが世界を揺るがす演奏をする。

1993年の“世界音楽コンクール”で演奏された『交響曲第4番』のライヴCD(蘭Mirasound、399180、1993年)を聴いた作曲者のリードも、手放しで賛辞を贈っていたし、同じCDに入っている同じ日のリヒャルト・シュトラウスの『死と変容(Tod und Verklarung)』も圧倒的な演奏だった!

我々が訪れたこの日は、フリーセンが不在のため、副指揮者の棒だったが、リハーサルで聴かせてもらった曲は、フリーセンが編曲したカール・オルフの『カルミナ・プラーナ(Carmina Burana)』(独唱、コーラス入りの全曲)とヨハン・デメイの交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』(全曲)の2曲。聞けば、この2曲は、近く開かれるコンサートのプログラムだそうだ。FMラジオでもオランダ全土にオン・エアされるという。

まるで、プロのようなプログラミングだ!

歴代音楽監督にも、フリーセンのほか、ヴァルター・ブイケンス、ノルベール・ノジ、イヴァン・メイレマンスなど、一流どころの名がズラリ!

ヨーロッパで地に足を着けて活動する、コミュニティ・ウィンドオーケストラの地力の凄さをまざまざと見せつけられた思いがした!!

▲ Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(指揮:Heinz Friesen)

▲CD – Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(自主制作(蘭Mirasound)、399180、1993年)

▲ 399180 – インレーカード

▲ Heinz Friesen サイン

▲ CD(再リリース盤) – Harmonie-Orkest St. Michael Thorn(蘭World Wind Music、WWM500.107)

▲WWM500.107 – インレーカード

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