■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第88話 「大阪俗謡による幻想曲」ベルリンへ

▲「朝比奈 隆 音楽談義」(朝比奈 隆、小石忠男共著、芸術現代社、1978年)

▲「朝比奈 隆のすべて~指揮生活60年の軌跡」(朝比奈 隆ほか著、芸術現代社、1997年)

▲「朝比奈 隆 回想録 楽は堂に満ちて」(朝比奈 隆著、音楽之友社、2001年)

1956年(昭和31年)5月29日(火)、指揮者・朝比奈 隆は、自身2度目の渡欧のため、国鉄「大阪」駅、12時30分発の東海道本線の特急「はと」で上京。翌30日、羽田空港から、20時50分発のスカンジナビア航空(SAS)機でウィーンへと旅立った。

新幹線が走る21世紀の現時点からみるとおよそ信じられない話かも知れないが、当時の特急「はと」は、先に登場した特急「つばめ」とともに、大阪~東京間を8時間という“最速”で結ぶ国鉄の花形列車だった。東京発の「つばめ」は、映画「つばめを動かすひとたち 」(日映科学映画製作所、1954年、モノクロ)に描かれ、日本テレビ系列で放送されたドラマ「鉄道100年 大いなる旅路」(1972年、カラー)でも、女性乗務員の“つばめガール”“はとガール”がフィーチャーされ、人気を博した。

ただ、朝比奈渡欧のこの頃は、まだ東海道本線が全線電化される以前の話であり、両特急は、大阪~米原間を蒸気機関車の“C62”が牽引し、米原で機関車を交換。米原~東京間を電気機関車の“EF58”が牽引する客車特急だった。

また、スカンジナビア航空は、戦後いち早く1951年に日本便を開設したヨーロッパの航空機会社で、日本からヨーロッパに向かうには利便性が高かった。

大阪からヨーロッパへの旅は、文字どおりの“大旅行”だった。

さて、朝比奈さんが大阪を出発した前日の5月28日、まるで壮行演奏会のように開かれたコンサートがある。

第75話“大栗裕「大阪俗謡による幻想曲」こぼれ話”でお話した「関響グランド・コンサート」(指揮:朝比奈 隆、演奏:関西交響楽団、会場:神戸新聞会館大劇場)がそれだ。

そして、この演奏会で初演されたのが、その後、関西交響楽団(のちの大阪フィルハーモニー交響楽団)のレパートリーとしてしばしば演奏され、大阪市音楽団の委嘱で吹奏楽バージョンも作られることになる大栗 裕の“大阪俗謡による「幻想曲」ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に捧ぐ”(新聞発表タイトル)だった。

周知のとおり、この作品は、朝比奈さんを客演指揮に招いたベルリン・フィルから、演奏レパートリーの中に“日本人作曲家の新作”を入れるようにリクエストがあったことがそもそもの出発点で、氏の委嘱で作曲された。

作曲者の大栗さんは、「関西芸術」紙の48号1面(関西芸術KK、1956年5月20日発行)への寄稿“大阪俗謡による幻想曲について”の中でつぎのように語っている。

『音楽を書くという私の二十年来の願望は昨年六月遂に「赤い陣羽織」となり、又今年一月「管弦楽のための幻想曲」となって実現された。これだけでも私の喜びは、はかり切れないものだったのに、今度「大阪の俗謡による幻想」が朝比奈先生の再渡欧に際、所もあろうにベルリン、フィルハーモニィの人達によつて演奏されるに至っては、作曲家冥利に尽きるといふか、私の感激は一寸やそうとで云ひ現はす事が出来ないのは当然だろう。此の云うなれば私の生涯に於ける最良の機会を与えて下さった朝比奈先生始め関係者の皆さんに心からなる感檄を捧げると共に、今度の作品を完成するに当たって、大きな精神的重圧が私を長い間苦しめ、遅々として筆が進まなかった理由であることを告白しなければならない。』(原文ママ)

第75話でお話した「大阪の祭囃子による幻想曲」の後、初演近くに至っても「大阪の俗謡による幻想」という曲名のアイデアが存在したらしいことを匂わせる記述も実に興味深い。

ついで、寄稿は作曲の核心にせまっていく。

『今度の作品は先づ異国の人々に日本の固有の音楽の一端を紹介したいという目的で書かれてある。近時前衛音楽と称してミュージック・コンクレート、或いは電子音楽などと、作曲界に新しい運動が起りつつあるけれども、私は私なりに日本の伝統音楽に対して限りない愛着を感じ、それを理論づける為の努力に異常に興味を覚えている私の「赤陣」及び二月に宮本武雄氏と関西管楽器協会の特別な好意によって演奏された「管楽器と打楽器の為の小組曲」において、日本の音楽に対する私の考え方を幾分盛り込んではみたものの、実際のところ模索しているといった方が当たっていたかも知れない。今度の大阪俗謡(これは大阪の人なら誰もが知っている夏祭りの囃子であるが)を主題にした作品を書きながら、私は漸くにして日本音楽の作曲技法に関する種々の問題がやや明確な形となって私の頭の中に現われ始めた。人は「五音音階」の単調さを云々するけれども、我々が現在残されている数知れない沢山の民謡やその他の音楽を少しでも興味を持って見るならば、そこには西洋の十二音音階に劣らない美的感覚と論理的必然性を発見するだろう。例えば日本の音階における転調法の巧妙さ、それは私の曲で第三主題となって現れる僅か十二小節の旋律に過ぎないがその間に三度も調を転換するのみならず旋法までが変化する。』(原文ママ)

歌劇「赤い陣羽織」は、1955年6月1日(水)、関西歌劇団の創作歌劇第1回公演として、大阪・三越劇場で、朝比奈 隆の指揮で初演された全3幕のオペラだ。その成功で作曲家・大栗 裕の名は広く知られることとなり、作曲者自らも“赤陣(あかじん)”と愛称で呼ぶほどの、関西歌劇団の定番の1つとなった。

「大阪俗謡による幻想曲」は、「赤い陣羽織」の成功翌年の作品だけに、文章の随所に作曲家としての高揚感と強い意志が窺える。

そして、寄稿は、つぎのように締めくくられる。

『私は新しい人々からは保守反動と呼ばれることも敢えて辞さない古臭い陳腐な祭囃子を使ったことに私は私のささやかなレジスタンスと、日本の伝統音楽に対する深い尊敬と愛情をも含めているのだ。』(原文ママ)

1956年、こうして完成した「大阪俗謡による幻想曲」だったが、作曲の経緯からベルリン・フィルで初演されると思いきや、前述のとおり、5月28日に関西交響楽団によって神戸で初演されている。

神戸新聞会館落成のこけら落としとして行なわれた初のクラシック・コンサートだったこの日に“大阪俗謡”が組み入れられたのは、もちろん朝比奈渡欧の話題性もあったが、“ベルリン前にしっかり準備したい”という朝比奈さんの意向を受けてのものだった。

しかし、当時の記録を紐解くと、朝比奈さんは、ベルリンの前に立ち寄ったウィーンでも、6月5、6日、ウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団を客演指揮してこの曲を演奏。放送も行なわれている。(於:ムジークフェラインザール、ウィーン)

実は、筆者がこの事実を知らされたのは、作曲者の没後10年にあたる1992年、大阪市音楽団演奏のCD「大栗 裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195)のプログラム・ノート執筆のためのリサーチをしていたとき、大阪フィルの小野寺昭爾さん(現大阪フィルハーモニー交響楽団 顧問、元事務局長)に、“ベルリン前の神戸での初演日”について照会したときだった。

大栗作品の資料がまったくまとめられていなかった当時の話だ。

このウィーンの話は、“ベルリンまで来るなら、その前にウィーンにも立ち寄ってほしい”という後からの依頼があったため、離日を前倒しにし、ベルリンの前に組み入れられたと聞いた。また、当初予定されたウィーンのプログラムには、「大阪俗謡による幻想曲」は入っていなかった。

これについては、渡欧の少し前に発行された「ミュジク&バレエ」紙の47号(関西芸術KK、1956年5月10日発行)1面の「タクト片手に欧州行脚 邦人作品を紹介 大栗 裕の幻想曲など ウィーン・トンキュンストラー交響楽団 6月5・6日」という記事から事情が窺える。(見出し:原文ママ)

「ミュジク&バレエ」と前記の「関西芸術」は、今の「関西音楽新聞」に繋がる月刊のタブロイド紙だ。同紙によると、以前、全紙をデータ化したそうだが、サーバーが吹っ飛んで、完全にデータを失ってしまったという。編集部にはオリジナルはなく、原紙をあたるのは至難の業だそうだ。

それはさておき、「ミュジク&バレエ」の前記記事を要約すると、例年6月上旬、ウィーン国立放送局が行なっている音楽祭の特別放送の指揮を朝比奈さんが依頼されていたが、当初予定された戸田邦雄の「ピアノ協奏曲」(ピアノ:室井麻耶子)が都合でキャンセルされたため、邦人作品が「大阪俗謡による幻想曲」ほかに差し替えられたという内容だった。

“ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団に捧ぐ”ために作曲された新曲がそれ以前にウィーンで他の楽団によって演奏されることなど、ふつうは有り得ない。この差し替えは、渡欧寸前に起こったあまりにも急な事情によるものだった。

そんな差し迫った事情はさておき、ベルリンに入った朝比奈さんは、ベルリン・フィルの面々には初見となる「大阪俗謡による幻想曲」の最初のリハーサルをいきなり“通し演奏”で行なった。

そのときの模様は、「朝比奈 隆 音楽談義」(朝比奈 隆、小石忠男共著、芸術現代社、1978年)や「朝比奈 隆のすべて~指揮生活60年の軌跡」(朝比奈 隆ほか著、芸術現代社、1997年)など、多くの書物や記事で語られている。

“終わったあと、「この曲をみなさんにささげたい。」というと、楽団員がみんな立ち上がり拍手かっさいです。”

朝比奈さんは、前記の著作「朝比奈 隆のすべて~指揮生活60年の軌跡」の中でこう語っている。

「大阪俗謡による幻想曲」は、こうして、1956年6月21日、22日の両日、高等音楽院ホールで行なわれたベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサート「5. Konzert der “Symphonischen Zwischensaison”」で、ベルリンの地を揺らすことになった。

▲CD – 大阪フィルハーモニー交響楽団創立50周年記念(自主制作、LMCD-1524 / 1997年)

▲同、インレーカード

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