■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第69話 首席指揮者ハインツ・フリーセン

▲ハインツ・フリーセン(1995年5月12日、ザ・シンフォニーホール)

▲「第70回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲同、演奏曲目

東芝EMIのCD「吹奏楽マスターピースシリーズ」のためのオランダ録音を終え、ヨーロッパから帰国して一息ついていた1993年の秋、筆者は、突然掛かってきた一本の電話に急かされるように、大阪城公園内にあった大阪市音楽団(市音)事務所へと向っていた。

電話の主は、ヨーロッパでセッションをご一緒した東芝EMIのプロデューサー、佐藤方紀さんで、その日の朝の電話は、『帰朝報告を兼ね、今から市音さんの木村団長(指揮者の木村吉宏さん)をお訪ねしますので、ご都合がよければ来られませんか?』という内容だった。

当時、市音は、東京佼成ウインドオーケストラ、シエナ・ウインド・オーケストラなどと、同シリーズの国内新規録音の一翼を担っており、ヨーロッパ録音の3作を録り終えた佐藤さんにとっては、今後の展開に向けてのスケジュール調整を兼ねての来訪であった。

市音の団長室に入ると、佐藤さんはすでに到着済で、事務的な打ち合わせも終えていた。

そして、筆者の顔を見るなり、上気した顔の木村さんから声がかかった。

『今、見せてもろたで。これなぁー、なんとか呼ばれへんか?(東京弁に翻訳:今、見せてもらったよ。(彼を)なんとか呼べないものだろうか?)』

このいきなりの展開が、一体、何の話なのかさっぱりわからない筆者は、その隣でニコニコしている佐藤さんの方に視線を投げかけた。すると、

『イヤー、すいません(笑)。ヨーロッパではたいへんお世話になりました。今、オランダでやったアムステルダム・ウィンド・オーケストラ(Amsterdam Wind Orchestra)の収録模様のビデオをお見せしていたところなんです。樋口さんのおかげでいい音楽家と出会えました(笑)。』(第54話:ハインツ・フリーセンとの出会い、参照)と氏からフォローが入る。

木村さんは、さらに続ける。

『こいつら、うまい。(東京弁に翻訳:この楽団は、優れている。)』

『今のウチには、こういう“外国人の血”を入れなあかんのや!(東京弁に翻訳:今のウチには、こういう“外国人の血”を入れる必要があるんだ!)』

木村さんが、関西流のリスペクトを込めながらも狙いを定めた相手は、指揮者のハインツ・フリーセン(Heinz Friesen)だった。

“ははぁー、さては惚れ込んだな”

何でもハッキリものを言う木村さんの言葉だけに、瞬間的な思いつきには違いなかったが、これは“限りなく決定”に近い発言であることがすぐわかった。一方、フリーセンとの別れ際、“日本への関心”はすでに確認済みだったので、その点も問題なかった。

しかし、当時の市音は、大阪市という行政組織の一部門だった。

ちょうどその頃、取り組んでいたNHKが放送した市音演奏のヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語』(Symphony No.1 “The Lord of the Rings”)日本初演のライヴCD作り(第64話:デメイ「指輪物語」日本初CD制作秘話、参照)でも、行政の高いハードルにはさんざん苦労させられていた。

木村さんの発言は、へたを打つと、同時並行的に“呼び屋業”まで開業させられ、行政と丁々発止のやりとりをさせられるハメになりそうな勢いだったので、この場はひとまず、以下のような“課題”を提示して凌ぐことにした。

・招聘主体は、誰になるのか

・興業ビザの取得は、誰がするのか

・単なる客演指揮者なのか、それとも別のかたちをとるのか

・いつ、どのタイミングで招聘するのか

・旅費や滞在費、指揮者報酬など、予算面は担保されているのか

などなど、部外だからこそ気づく課題が盛りだくさんだった。

氏の師にあたる朝比奈 隆さんも、かつてベルリン・フィルで日本人作品のリハーサルをやったときに彼我の音楽の差、とくに圧倒的なサウンドの違いに気づかされ、以降、自分のオケの音作りが大きなテーマとなったと語られたことがあった。この日の木村さんも“自分の編曲が予想できない姿で演奏されているビデオ”を見せられ、おそらく同じような衝撃を受けられたのだろう。

『よし、わかった。なんとかする。』と、氏は提案を引っ込めなかった。

“これは本気だ!”

それでも、この提案が具現化するまでには、かなり時間を要した。

事情がわかっているこちらは、フリーセンには、最初“市音が関心をもっている”旨をFAXで打診した後、CDや紙資料を送ったりしながら、正式招聘決定までの間、継続的なアップデートをするよう心掛けた。

その後、大阪市の最終的な決定が下ったのは、1994年の夏で、それは、以下のような内容だった。

・1995年度、ハインツ・フリーセンを市音首席指揮者として迎える

・“首席指揮者就任披露演奏会”を、1995年5月12日(金)、ザ・シンフォニーホールにおける「第70回定期演奏会」とする(最初、連絡を行なった当時は、5月か6月かは未決定だったが、その後、5月12日に確定した)

・就労ビザ申請など、招聘事務は、大阪市中央区の(株)音楽文化・事業センターが行う

行政の中で相当なやりとりがあったことは容易に想像できるが、何よりも“市音の熱意”が全面に出たすばらしい提案だった。よーし、これでOKだ。

この提案に対して、フリーセンから同意のFAXが送られてきたのは、1994年8月1日だった。

続いて、就任披露の第70回定期のプログラムが、以下のように決定する!

・歌劇「ルスランとリュドミラ」序曲
(ミハイル・グリンカ、木村吉宏編曲)

・交響曲第19番 変ホ長調 作品46
(ニコライ・ミャスコフスキー)

・交響曲第3番 ハ短調 作品78 「オルガン付」
(カミーユ・サン=サーンス、マーク・H・ハインズリー編曲)

プロらしい、いかにもパンチの効いたプログラムだ。

結果、ハインツ・フリーセンは、1995年4月から1998年3月まで市音の首席指揮者をつとめ、在任中、前記の第70回、1996年11月1日(金)、フェスティバルホールにおける第73回、1997年6月10日(火)、ザ・シンフォニーホールにおける第74回の各定期演奏会だけでなく、大阪夏の風物詩である“大阪城音楽堂”における“たそがれコンサート”、3月の“青少年コンサート”のほか、市音の重要な役割であった“音楽鑑賞教室”を含めた数多くのコンサートで指揮をとり、大阪市民に愛された。

大阪で覚えた“まぐろの刺身”が大好物となり、来日するたび、居酒屋でそれを肴にビールを呑み交わすのも筆者の密かな愉しみとなった。

市音は、その後、民営化され、楽団名を“Osaka Shion Wind Orchestra(オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラ)”と変えた。しかし、その音楽だけでなく、人間性もすばらしい人物だったフリーセンの名は、今も楽団内のベテランにはレジェンドとなっている。

首席指揮者退任後も、アンコール招聘として、2003年11月21日(金)、フェスティバルホールにおける第87回定期演奏会定期演奏会の客演指揮者として指揮台にあがったが、それも当然の成り行きだった。

オランダの主要オーケトラのオーボエ奏者たちがこぞってリスペクトするフリーセン。

木村さんからその市音首席指揮者就任を聞いたフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)も、『市音は、いい指揮者を招聘したね!』と称賛したと聞いた。

コンサートは、いつも沸きに沸いた!

筆者にとっても忘れ得ぬ音楽家の一人である!

▲来日同意の1994年8月1日付けFAX

▲市音指揮者プロフィール(1995年当時)

▲第24回 大阪市音楽団 青少年コンサート(1998年3月15日、森ノ宮ピロティホール)

▲首席指揮者送別会(1998年3月15日、アピオ大阪)

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