■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第65話 朝比奈隆:吹奏楽のための交響曲

 ▲LP – 吹奏楽のための交響曲(日本ワールド、WL-8319)(リリース:1983年11月)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

▲第25回大阪市音楽団定期演奏会チラシ

▲第25回大阪市音楽団定期演奏会プログラム

『樋口くん、まだ正式発表前やけど、こんどのフェスの定期、朝比奈さんに振ってもらうことにほぼ決まったよ。』

大阪市音楽団(市音)のトランペット奏者、そして解説者だった奥村 望さんから、そう伺ったのは、1972年(昭和47年)春のことだった。

“フェス”とは、大阪・北区中之島のクラシックの殿堂フェスティバルホールのことだ。

当時、市音は、春は毎日ホールを、秋はフェスティバルホールを会場に定期演奏会を行なっており、“フェスの定期”と言えば、秋の定期を意味した。

話の核心は、大阪フィルハーモニー交響楽団常任指揮者(後の音楽総監督)の朝比奈 隆さん(1908~2001)を秋の定期の客演指揮者に招くことになったということだった。

第35話:保科洋「パストラーレ(牧歌)」の事件簿、でお話ししたとおり、奥村さんは、恩師の一人だ。後年、関西フィルに移られた後も、筆者の書いた音楽解説を読んでは、適確なアドバイスをいただいた。

市音の団長(兼指揮者)が辻井市太郎さん(1910~1986)だった頃は、音楽ホールにおける日本初の吹奏楽コンサートとして始められた“定期演奏会”(当初は“特別演奏会”と呼ばれた)を含む市音全体のプログラミングを担う中心的人物だった。

パウル・ヒンデミットの『吹奏楽のための交響曲 変ロ調』やポール・フォーシェの『吹奏楽のための交響曲 変ロ調』、エクトール・ベルリオーズの『葬送と勝利の交響曲』、ヴィットリオ・ジャンニーニの『交響曲第3番』、モートン・グールドの『ジェリコ』、パーシー・グレインジャーの『リンカーンシャーの花束』など、多くのオリジナル作品の日本初演を市音が手がけたのも、辻井-奥村コンビの入念なリサーチとプランニングの成果だった。

個人的には、マーチ以外のイーストマン・ウィンド・アンサンブルの輸入盤のレコードをはじめて聴かせていただいたのも、実は、京橋にあった奥村さんのご自宅でだった。

1972年といえば、長年、市音の指揮をつとめられた辻井さんが4月に定年を迎え、楽団内部の体制がガラリと変わった年だ。

その後、正式に秋の定期の客演指揮者に朝比奈さんを迎えることが発表されると、それは衝撃波となって関西の楽界に広がっていった。

そして、プログラムも以下のように発表された。

■第25回大阪市音楽団定期演奏会
(1972年11月29日、フェスティバルホール)

・吹奏楽のための序曲「飛鳥」
(櫛田てつ之扶)

・序曲「リシルド」
(ガブリエル・パレス)

・二つの交響的断章
(ヴァーツラフ・ネリベル)

・ピアノと交響吹奏楽のための祝典協奏曲
(ルドルフ・シュミット)

・歌劇「ローエングリン」から“エルザの大聖堂への行列”
(リヒャルト・ワーグナー / ルシアン・カイリエ編)

・交響詩「ローマの松」
(オットリーノ・レスピーギ / 木村吉宏編)

オーケストラの大指揮者がはじめて“吹奏楽の定期演奏会”の指揮をするにふさわしい重量感のあるプログラムだった。

少し話がそれるが、この内、「ローマの松」は、当初、阪口 新の編曲と発表されていた。その後、コンサートマスターの木村吉宏さんが新たにトランスクライブをすることになり、この演奏会ではそちらが使われた。

後年、『“これはなかなかいい”と、このときの編曲を先生から褒められてな。ちょっと驚かれたみたいやった。』と、木村さんから何度も聞かされたことがある。その後、オランダのデハスケから出版されたこのトランスクリプションの妙を、朝比奈さんが認めた瞬間だった。

この演奏会を会場でナマで聴いた筆者も、もちろん大興奮!!

好評を得て、その後、市音定期には、森 正、石丸 寛、福田一雄、山田一雄、山本直純、フレデリック・フェネルなど、錚々たる顔ぶれが客演指揮者として登場するようになった。

『中には“予算を掛け過ぎや”というヤツもいるけど、プロは魅力的なコンサートを提供しないとな。』と、奥村さんの意志は、まったくブレなかった。

その後、朝比奈=市音の顔合わせの定期は、以下のように都合3度行われた。

■第29回大阪市音楽団定期演奏会
(1974年11月1日、フェスティバルホール)

ロシアの領主たちの行列
(ヨハン・ハルヴォルセン / クリフォード・バーネス編)

アポロ行進曲
(アントン・ブルックナー)

交響曲第19番 変ホ長調 作品46
(ニコライ・ミャスコフスキー)

吹奏楽のための神話 ─天の岩屋戸の物語による─
(大栗 裕)

歌劇「ローエングリン」から“第三幕への序奏と婚礼の合唱”
(リヒャルト・ワーグナー / フランク・ウィンターボトム編)

歌劇「ラインの黄金」から“ワルハラ城への神々の入場”
(リヒャルト・ワーグナー / チャス・オニール編)

歌劇「タンホイザ―」序曲
(リヒャルト・ワーグナー / ヴィンセント・サフラネク編)

■第33回大阪市音楽団定期演奏会
(1976年10月26日、フェスティバルホール)

吹奏楽のための組曲第一番
(グスターヴ・ホルスト)

吹奏楽のための交響曲
(ロバート・E・ジェイガー)

歌劇「運命の力」序曲
(ジュゼッペ・ヴェルディ / 木村吉宏編)

交響詩「レ・プレリュード」
(フランツ・リスト / コンウェイ・ブラウン編)

交響吹奏楽のための頌歌と祝典行進曲
(菅原明朗)

■創立60周年記念 第47回大阪市音楽団定期演奏会
(1983年11月15日、フェスティバルホール)

吹奏楽のための「大阪俗謡による幻想曲」
(大栗 裕)

幻想序曲「ロメオとジュリエット」
(チャイコフスキー / 木村吉宏編)

葬送と勝利の交響曲 作品15
(エクトール・ベルリオーズ)

朝比奈さんが市音定期を指揮したのは、以上の4回だけだった。

だが、驚くべきことに、両者の結びつきは昭和のはじめに始まっている。

朝比奈さんがリストの交響詩「レ・プレリュード」を客演指揮した「大阪市音楽団創立50周年記念演奏会」(1973年9月26日、大阪市中央体育館)のプログラムに寄せた祝辞では、氏はこう述べている、

『それは驚くべき年月であり、偉大な足跡である。まだ学生であった私がよく天王寺音楽堂に林亘隊長(はやし わたる。市音初代指揮者)をお訪ねした昭和の初め、…(中略)… 市音楽団(当時の正式名は“大阪市音楽隊”)は既に多くの新人団員を加えて充実発展の途上にあり林隊長を中心にそうそうたる陣容を示していた。吹奏楽だけでなくその頃メッテル先生が指揮をとる大阪や京都の交響楽運動も市音楽団員の参加、協力なしでは考えられなかった。』(原文ママ。カッコ内注釈は、筆者)

ここには、氏の師である亡命ウクライナ人指揮者、エマヌエル・メッテルが推進した交響楽運動に市音の存在が欠かせなかったこと。さらに、京都からメッテルのメッセージを携えて、よく市音を訪れ、吹奏楽だけでなく管弦楽もやった林 亘さんの返答を携えて京都まで戻ったことが書かれているのだ。

年齢が近く、戦後、市音団長となる辻井市太郎さんとも知己を得ていた。

明治生まれの朝比奈さんは義を重んじた。きっと、市音定期への客演には、恩義を返す意味合いも込められていたのだと思う。

また、関西交響楽協会が主催した「朝比奈 隆 音楽生活40周年記念演奏会」(1973年5月25日、フェスティバルホール)のような記念イベントにも、しばしば大阪市音楽団と大阪府音楽団が顔を揃えて出演し、ときには、大フィル + 市音 + 府音の合同演奏も行なわれた。

まさしく、関西の楽界のそろい踏みだ!

これも、その中心に朝比奈さんがいたからこそ、可能になった成果だと言えた。

その他、阪急百貨店吹奏楽団や西宮市立今津中学校吹奏楽部などの練習にも、しばしば顔を出されるなど、関西の吹奏楽界が受けた恩恵は計り知れない。

さらに言うなら、1965年(昭和40年)から1969年(昭和44年)の間、朝比奈さんは、全日本吹奏楽連盟理事長でもあった。

これほど深く吹奏楽と向き合ったオーケストラ指揮者はいない。

筆者の手許には、1983年の市音60周年を祝う意味で限定制作した1枚のレコードが残っている。

当時の市音団長、永野慶作さんと日本ワールド・レコード社の社長、靱 博正さんの2人を口説き落として、朝比奈さんが客演指揮をした第25回、第29回、第33回の市音定期のライヴ・テープから作っていただいたLPレコードだ。選曲は、なんと筆者に一任された!

2018年(平成30年)は、朝比奈生誕110周年のアニヴァーサリー・イヤー!

そして今、このLPレコードを取り出すたび、当時フェスで聴いたライヴが脳裏に鮮やかに甦ってくる!

朝比奈=市音。正しくそれは、わが青春の一頁だった!!

▲「朝比奈 隆 音楽生活40周年記念演奏会」プログラム

▲同、演奏曲目

▲「第29回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲「第33回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

▲「創立60周年記念 第47回大阪市音楽団定期演奏会」プログラム

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