■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第63話 U.S.エア・フォースの再来日

▲ソノシート – 空飛ぶマーチ(朝日ソノラマ、E-41、ステレオ、リリース:1963)

 ▲同、A面

▲同、B面

▲「月刊 吹奏楽研究」1957年5月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)

▲「月刊 吹奏楽研究」1957年6月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)

1956年(昭和31年)4月、アメリカ合衆国ワシントンD.C.から初来日した“アメリカ空軍交響楽団(The United States Air Force Symphonic Band)”(公演名)(指揮:ジョージ・S・ハワード大佐)は、全国7都市での演奏会やNHKのテレビ、ラジオのナマ放送を通じて、日本の聴衆、そして吹奏楽界に大きな衝撃を与えた。

当時、全国で5万人以上の聴衆がナマで耳にしたという、その演奏に対する興奮ぶりは、新聞各紙の報道を見ても明らかだ。

前々話(第61話:U.S.エア・フォースの初来日)や前話(第62話:U.S.エア・フォースの残像)でお話ししたように、当時、唯一の吹奏楽専門誌だった「月刊 吹奏楽研究」(月刊 吹奏楽研究社)の誌面でもその初来日は大きく取り扱われ、バンドの離日後も、「再びアメリカ一流軍楽隊の招聘を望む」という記事を同誌1956年10月号(通巻35号)に書かれた音楽評論家の赤松文治さんらを中心に、再来日に向けてのキャンペーンが展開されている。

今、それを“キャンペーン”と呼ぶのは、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効したとは言え、当時、東京には、それまでの占領政策を遂行してきた“国連軍司令部”や“アメリカ極東軍司令部”がまだ置かれており、一方で、それらの撤収が間近にせまっていたという裏事情もあったからだ。

実は、1956年の突然の初来日も、アメリカ政府や司令部の意向で決定された。当然、再来日を実現させるためには、日本側からの更なる働き掛けや司令部の同意が必要だと考えられた。交渉の窓口が身近にある間に、という訳だ。

“AMERICA’S AMBASSADORS OF MUSIC(アメリカの音楽大使)”というニックネームをもつこのバンドの大きな活動目的に“国際親善”が挙げられる。

同じ敗戦国のドイツや日本で“アメリカ空軍バンド”が商業レコード各社のリクエストに応じてレコーディングを行なったという事実も、極めて例外的な扱いと言えた。アメリカにとって、戦争当事国のドイツや日本との関係改善は、当時もっとも重要な政治課題の1つだったからである。

そんな事情も知ってか知らずか、「月刊 吹奏楽研究」のこのバンドの再来日に関する報道は、かなり“前のめり”のものとなった。

消息筋から情報をキャッチした同誌は、まず、1957年2・3月合併号(通巻39号)で、「本年も来日決定 ワシントン空軍バンド」と速報を入れた。しかし、それが実は“フライングの誤報”だったとわかると、次号の4月号(通巻40号)で、「米空軍バンド 来日未決定 実現すれば六月か」と一旦修正。その後、来日がいよいよ確定すると、5月号(通巻41号)で、「ワシントン空軍交響吹奏楽団 本年も来日公演 各地スケジュール」と日程を発表、といった具合だった。

ツアーの詳細は、以下のようなものだった。

6/4(火) 府中飛行場到着

6/5(水)または、6/6(木) NHKホールで放送

6/7(金)~6/18(火) マニラ、香港、台湾、沖縄各地巡演

6/19(水) 東京へ再び到着

6/21(金) 名古屋公会堂(昼・夜2回公演)

6/23(日) 東京体育館(昼・夜)

6/25(火) 福岡スポーツセンター(昼・夜)

6/28(金) 広島公会堂(昼・夜)

6/29(土)- 6/30(日) 松山、高松の予定(詳細未決定)

7/1(月) 大阪産経ホール(夜)

7/2(火) 大阪体育館(昼・夜)

7/3(水) 京都アリーナ(昼・夜)

7/4(木) 神戸国際会館(夜)

7/5(金) 新潟高校講堂(夜)

7/6(土) 札幌野外競技場(昼)

7/7(日) 仙台公会堂(または、デジャーセンター)(夜)

7/9(火) 横浜フライヤージム(昼・夜)

7/10(水) 東京産経ホール(夜)

入場料は、すべて“無料”で、各地のNHKが主催。場合によっては、東京は追加公演もあるかも知れないと書かれていた。

演奏プログラムは、つづく1957年6月号(通巻41号)で、「ワシントン空軍交響吹奏楽団 予定曲目」として、以下のように紹介されている。(カナ使いは、ほぼ原文ママ)

■第一プログラム

フィンガルの洞くつ序曲(メンデルスゾーン)

ハワード大佐行進曲(ペキン)

神社の夜明け(渡邊浦人)

オアシス(ケプナー)

交響組曲(ウィリアムズ)

皇帝円舞曲(シュトラウス)

カリビア幻想曲(モリセイ)

星条旗よ永遠なれ(スーザ)

■第二プログラム

ファンファーレとアレグロ(ウィリアムズ)

アリオーゾ(バッハ)

アルザスの風景組曲(マスネ)

祝典(アンフォンテ)

交響曲二短調 第一楽章(フランク)

組曲仮面舞踏会 円舞曲(ハチャトリアン)

マラカイボ(モリセイ)

■第三プログラム

リエンチ序曲(ワグナー)

日本の若人の舞曲(陶野重雄)

英雄の生涯(シュトラウス)

シエヘラザードよりバグダットの祭り(リムスキー・コルサコフ)

ヴァルス・ブルーエッテ(ドリゴ)

サーカス(グリーンウッド)

■第四プログラム

凱旋行進曲(ローザ)

マサニエロ序曲(オーベル)

ロシアの水夫の踊り(グリエール)

子供のバレエ(ハーマン)

交響曲「フィスタ・メキシカーナ」(リード)

少女の踊り(リチャートソン)

バティック・ファンタジア(オクティアヴィノ)

各演奏会場で“どのプログラムが実際に演奏されたかは不明”という恨みは残るが、1957年の2回目の訪日時に用意されたレパートリーがどういうものだったかは、とてもよくわかる。

また、21世紀の現時点から振り返ると、クリフトン・ウィリアムズ(Clifton Williams)の『ファンファーレとアレグロ(Fanfare and Allegro)』と『交響組曲(Symphonic Suites)』、H・オーウェン・リード(H. Owen Reed)の『メキシコの祭り(La Fiesta Mexicana)』などが、すでにこのツアーで演奏されていたということは、日本の吹奏楽演奏史上、たいへん重要な事実の再発見である。

前記スケジュールにあるNHKホールからの生中継は、1957年のこのツアーでも、6月6日(木)午後8時から、ラジオとテレビの同時中継、1時間の放送枠の番組として行われた。

図書館で繰っていたその日の新聞の番組欄に、“ファンファーレとアレグロ”という文字を見つけたとき、自分が知らない過去にタイムマシンに乗って舞い戻ったような“感動”を覚えたのも事実だ。

何しろ、1957年(昭和32年)の話だ!

周知のとおり、当時のこのバンドの標準編成には、サクソフォンは無かった。

それなら、これらのオリジナル曲をどのようにして演奏したのだろうか。

それに対するヒントは、1963年にリリースされたソノシート「空飛ぶマーチ」(朝日ソノラマ、E-41)に、赤松さんが書かれた「空飛ぶシンフォニー“アメリカ空軍軍楽隊”」のノートの中にある。

そこには、『とくにサクソフォンがソロ楽器として必要な場合のみ、クラリネット奏者がもちかえて使われている』と確かに書かれている。筆者がその現場を実際には見たわけではないが、コンサートではサクソフォンを使わないと決めた指揮者のハワードも、実際には、音楽家として臨機応変の対応をとっていたのである。

その後、ワシントンD.C.の“アメリカ空軍バンド”は、日米修好100周年を記念して1960年1月に3度目の来日を果たした。

NHKの生中継だけでなく、日本のレコード各社からのオファーにも気安く応じ、アメリカでは発売されていない曲目が入ったレコードやソノシートが、ビクターやコロムビア、クラウン、朝日ソノラマからリリースされた。それは、かなりの数になる。

しかし、それらについて、ここまでかなりのデータを蒐集、整理できたが、残念ながら、筆者も、そのすべてを自分の眼で確認できたわけではない。

そして、あらためて実感!

日本ほど、過去の記録を大切にしない国はない!

かくて“未知との遭遇”は、今もって続行中だ!

たいへんなテーマに足を踏み入れてしまった!!

▲朝日新聞、昭和32年6月6日、朝刊、12版6頁、東京版

▲EP – 世界マーチ集 アメリカ・マーチ(11)(日本コロムビア、ASS-10018、リリース:1964)

▲同、A面レーベル

▲同、B面レーベル

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