▲「月刊 吹奏楽研究」1956年5月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)
▲「月刊 吹奏楽研究」1956年6・7月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)]
▲「月刊 吹奏楽研究」1956年9月号(発行:月刊 吹奏楽研究社)
『この前、言うてはった(言われていた)“吹奏楽研究”、天理にありました。』
“吉報”が、全日本学生吹奏楽連盟理事長の溝邊典紀さんから電話で飛び込んできたのは、2018年7月17日(火)のことだった。
“吹奏楽研究”とは、第39話「ギャルド:月刊吹奏楽研究が伝えるもの」でお話しした第二次大戦後に日本で初めて発行された吹奏楽雑誌「月刊 吹奏楽研究」(発行:月刊 吹奏楽研究社)のことだ。
今では、その存在自体、ほとんど忘れられているが、国立情報学研究所の書誌番号(NCID)があるれっきとした月刊誌で、1956年から1964年まで発行されていた。
ただ、日本一の蔵書数を誇る国立国会図書館にも1冊の所蔵もなく、筆者も、2018年5月7日、ユーフォ二アム奏者の三浦 徹さんのご自宅にあった1冊を偶然拝見して、現物をはじめて視認。その翌日の5月8日、東京文化会館音楽資料館に出向いて、所蔵されている25冊を直接チェックすることができただけだった。
しかし、実際に見たら、その面白さは、時間をワープする“タイムカプセル”級の生き証人だと思えたので、その後、知人、友人に“ウオンテッド(WANTED)”を連発!!
在京の旧友、山岸 誠さんを通じても、“吹奏楽研究”編集主幹の三戸友章さんと縁が深かった共同音楽出版社の社長、豊田治男さんに確認をお願いしてもらったりしたが、前記以外の“生息情報”は、まったく掴めなかった。
そんな中、『ひょっとしたら、天理にあるかも知れません。訊いてみましょうか?』と言って下さったのが、溝邊さんだった。
すぐにお願いすると、氏は、早速、奈良県田原本の“たわらもと吹奏楽団”の団長、藤本義則さん(近畿大出身)を通じて、天理大学の学務部長、佐々木孝幸さん(天理高出身)に照会。その結果、天理高校吹奏楽部に、2冊(64号、75号)をのぞいた大部分が所蔵されていることが判明し、溝邊さんが車を駆って天理まで行き、同部の吉田秀高さんから借用してきていただく段取りとなった。
筆者が、溝邊さんのご自宅で、55冊の「月刊 吹奏楽研究」と対面したのは、8月9日と14日の両日の午後だった。
まず手に取ったのが、初号の1956年5月号(通巻31号)。
通巻が“1号”でないのは、“吹奏楽研究”がそれ以前から、もっと簡素な同人紙のような体裁で発行されていた前史があるからだ。
しかし、この初号が実に面白かった。
表紙に“東京藝術大学吹奏楽研究部”、目次ページに4月に初来日したばかりの“アメリカ空軍バンド”のステージ写真があしらわれており、やる気満々!
記事ページは、有名な音楽評論家で、全日本吹奏楽連盟理事長でもあった堀内敬三さんの雑誌刊行への祝辞「吹奏楽研究誌の発展に寄す」、東京藝術大学吹奏楽研究部長の山本正人さんの「わが国最近の吹奏楽」、関東吹奏楽連盟常任理事の広岡淑生さんの「学校バンドに教えるもの」、著者不明(おそらくは三戸友章さん)の「くりひろげられた米国軍楽の精華 – ワシントン空軍音楽隊」という、いずれもモチベーションの高い4つの記事でスタート。
つづく2頁にも、音楽評論家、赤松文治さんが“アメリカ空軍バンド”の記者会見(1956年4月17日、午後2時、青山会館)と、その後のインタビューをまとめた「ハワード大佐との会見記」というひじょうに内容の濃い記事が掲載されていた。
“アメリカ空軍バンド”関連記事は、次号の1956年6・7月号(通巻32号)にも続き、指揮者ハワード大佐のほか、須磨洋朔(陸上自衛隊中央音楽隊隊長)、山本正人(東京藝術大学助教授)、ロバート・アレン(東京アメリカ文化会館館長)の各氏が出席した「ハワード大佐を囲んで – 有意義な座談会」という2頁記事が掲載され、はじめてやってきた“アメリカ空軍バンド”の実際のパフォーマンスが、当時どれほどのインパクトをもって迎え入れられたかが、とてもよくわかる構成となっていた。
以上の“アメリカ空軍バンド”の関連記事から、興味深い事項をピックアップしてみると….。
まず、来日したバンドは、ワシントンD.C.の“アメリカ空軍バンド”で、指揮者は、ジョージ・S・ハワード大佐(Colonel George S. Howard)だった。
そのシンフォニック・バンドとしての編成は、赤松さんの記事(通巻31号)によると、以下のようなものだった。
5 Piccolo & Flute
2 Oboe
1 English Horn
2 Bassoon
16 Bb Clarinet
1 Alto Clarinet
1 Bass Clarinet
0 Alto Saxophone
0 Tenor Saxophone
0 Baritone Saxophone
5 Cello
7 Trumpet & Cornet
7 Horn
5 Tenor & Bass Trombone
3 Euphonium
4 Bass
3 String Bass
1 Harp
1 Timpani
3 Percussion
[計:66名]
サクソフォンが全くなく、チェロを使う編成だった。また、ユーフォニアムは、フロントベル・タイプのもの、バスは、レコーディング・バスが使われていた。
「くりひろげられた米国軍楽の精華 – ワシントン空軍音楽隊」(通巻31号)によると、コンサートは、以下の各都市で行われた。
4月18日(水)、東京産経会館(招待者演奏会)
4月19日(木)、横浜市
4月20日(金)、東京都体育館
4月22日(日)、東京都体育館
4月23日(月)、名古屋市
4月24日(火)、京都市
4月25日(水)、大阪市
4月26日(木)、広島市
4月27日(金)、福岡市
また、東京で行なわれた4回の演奏会の合計で約3万人、その他の都市のコンサートでも約2万5千人の聴衆が押しかけたと記載にある。実際それがどれほどのものだったかについて、演奏側のハワード大佐も対談記事(通巻32号)の中でつぎのように述べている。
『どこでも皆同じように力強い熱意で聴いてくれた。京都では六千人の収容能力の会場へ一万五千人が詰めかけ、京都市長が開演十分前に来られたが、席がないのでステージに上がってもらった。そのうち混雑のため事故が起こりそうになったので、警官百名の来援を頼んで、やっと演奏ができるようになった。婦人や子供がおしつぶされそうになったので、市長はマイクでその人達をステージに上げて裏口から出てもらって家へ帰した。聴衆が非常に熱心で、どこでも午後六時半からの開演に早い人は一時頃から来て待っている。私たちは諸外国でも、いつも熱狂的な聴衆を相手にしていますが、とくに日本の聴衆は熱心であり程度も高いと思った。』(句読点以外、原文ママ)
ハワードは、編成上、サクソフォンを使わない理由について、赤松さんや須磨さんなどから、たびたび質問を受けている。これについては、赤松さんへのインタビュー(通巻31号)でこう答えている。
『できるだけオーケストラに近い表現が出来るようにしたいと思い、異種族のサクソフォンの音色が入る事は好ましくなくチェロを使っている事でもあるし、サクソフォンはほとんど使わないことにしている。またオーケストラ同様ホルンに重きを置いているので、サクソフォンを使用するとホルン固有の美しい響きを引き立たせる上に於いて妨げになる恐れがあるので使いたくないのである。』(一部、現代かな使いに変更。ほぼ原文ママ)
また、須磨さんとの対談(通巻32号)では、こう語っている。
『私のバンド以外では皆使っているが、サクソフォンは他の楽器全体のトーンカラー(音色)と融合しない ── その音色がシムフォニック・バンドとして何か異質なものがあるように私は思うのでコンサートの場合は使いません。しかしパレードのときは勿論使います。 』(原文ママ)
周知のとおり、現在の“アメリカ空軍ワシントンD.C.バンド”の編成には、サクソフォンは含まれている。1950年代半ばのハワードの考え方がわかってとても興味深い。
当時のレコード・ジャケット等の記述をみると、ワシントンD.C.の陸軍、海軍、海兵隊の各バンドは、パレード等の仕事に重きを置いているが、純然たるコンサートを目的に編成されたシンフォニック・バンドだと自負するハワード指揮のこのバンドは、1400名の既成のプロ奏者の中からオーディションで選ばれた100名のメンバーで構成されていたと書かれてある。フィラデルフィア交響楽団やシンシナティ交響楽団の元メンバーもいた。
また、来日当時、イギリスBBC放送から毎週“イギリスに敬礼”という30分番組が2年以上にわたってオンエアされていたこのバンドは、ビクターやコロムビアといった日本のレコード会社からの録音のオファーも気安く受け入れた。
「月刊 吹奏楽研究」1956年9月号(通巻34号)の赤松さんの「吹奏楽レコード展望」には、1956年4月初来日時に、東京・青山にあった青山会館で録音された2枚のEPレコードが紹介されている。
■コロムビア、AA-75(モノラル)
野人(渡邊浦人)
ラテン・ラメント(ケプナー)
ハワード大佐行進曲(ペキン)
■ビクター、EP-1163(モノラル)
アメリカ国歌
星条旗よ永遠なれ(スーザ)
米国軍歌集(クレー編)
サーカス・ビー(フィルモア)
アンダルシア(レクオーナ)
クマーナ(アレン)
調べると、録音会場となった青山会館には、2000名収容の大講堂があり、アメリカの極東空軍バンド(Far East Air Forces Band)の練習場としても使われていた。そこでのレコーディングでは、さぞかしゴージャスなサウンドが響き渡ったことだろう。
コロムビア盤に収録された渡邊浦人の『野人』は、ハワードのお気に入りで、このバンドのアレンジャーが編曲したものだった。
また、ビクター盤を確認すると、来日時のバンド名の英語表記は、“The United States Air Force Symphonic Band”で、日本語表記は、“アメリカ空軍交響楽団”だった。これは“誤植”ではない。しかし、この日本語表記のために、前記した記者会見には、管弦楽団と思ってやってきた記者も結構いたという“笑い話”もあった。アメリカと戦争が終わり、まだ10年ちょっとの頃の話だ。これ以外にもいろいろ“抱腹絶倒”の英語の和訳がまかり通っていた。そんな時代だった。
「月刊 吹奏楽研究」最終号は、1964年3月号(通巻87号)で、その時、出版社も役割を終えた。
雑誌としての著作権もすでに消滅!!
しかし、紙の上に印された歴史の重みは不滅だ。
これは、U.S.エア・フォース・バンド初来日を今に伝えるアーカイブだ!!
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