■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第59話 デメイ:交響曲第1番「指輪物語」日本初演

▲「指輪物語」原作者の朗読入りのLP(米Caedmon、TC 1478、リリース:1976年)

▲「指輪物語」のサドラ―賞受賞を伝えるチラシ

▲ブルジョワ時代のアメリカ海兵隊バンドのパンフレット(1990年)

1992年8月16日(日)、午後3時から午後6時30分まで、3時間半をぶっちぎりでオンエアされたNHK-FMの特別番組「生放送!ブラスFMオール・リクエスト」は、局の予想をはるかに超える大きな反響を呼んだ!

中でも、メイン・プロとして準備され、番組スタートから1時間10数分を過ぎたあたりからオンエアされたヨハン・デメイ(Johan de Meij)の交響曲第1番『指輪物語(The Lord of the Rings)』日本初演ライヴは、センセーショナルな大成功を収めた。

ヨハン・デメイは、オランダの作曲家。1953年生まれで、当時、まだ38歳。

筆者が彼の名を知ったのは、1989年12月、アメリカのシカゴで催された恒例のミッドウェスト・クリニックで、サドラ―国際ウィンド・バンド作曲コンペティション1989(The 1989 Louis and Virginia Sudler International Wind Band Competition)の受賞曲として、曲名と作曲者名が発表され、翌年の1990年4月11日(水)、ワシントンD.C.のジョン・F・ケネディ・センター(John F. Kennedy Center)で、“授賞セレモニー”とジョン・R・ブルジョワ(Colonel John R. Bourgeois)指揮、アメリカ海兵隊バンド(“The President’s Own” United States Marine Band)による記念演奏が行われることを聞いたときだった。

“サドラ―賞”の審査委員長が、指揮者サー・ゲオルグ・ショルティ(Sir Georg Solti)であり、エントリー143作品、賞金1万ドルというのもインパクトがあった。

とにかく、ウィンド・ミュージックの世界で稀に見るこのニュースは、それを耳にした時、とても印象に強く残ったことをよく覚えている。

もちろん、この時は、それがどんな曲なのか、まったく知らなかった。

しかし、その後、ブリティッシュ・アソシエーション・オブ・シンフォニック・バンズ・アンド・ウィンド・アンサンブルズ(British Association of Symphonic Bands and Wind Ensembles)の季刊誌「ウィンズ(Winds)」の1991年春(SPRING 1991)号に掲載された4ページにわたる譜例附きアナリーゼを読み、すでに2枚のCDがリリースされていることまでわかってしまうと、もういけない。いつもの好奇心というか、これは何か特別なことが起こっているのではないかと、筆者の中に棲みついている“音楽の虫ども”がザワザワと騒ぎだしたのである。

こういうときは、即行動あるのみ!!

ヨハンとの交友は、1991年3月14日に筆者が投函した1通のエアメールから始まった。彼によると、それは、日本人からのはじめてのコンタクトだったという。

後に使われなくなったが、当時は“Opus 1”という作品番号が与えられていたこの交響曲は、小品を除き、ヨハンが本格的に作曲に取り組んだ初の作品だった。

題材は、イギリスのジョン・トールキン(John Ronald Reuel Tolkin、1892~1973)原作の同題の冒険ファンタジーで、全5楽章のシンフォニー。

世界初演は、1988年3月15日(火)、ベルギーの首都ブリュッセルのベルギー国営放送(BRT)のグローテ・コンサートスタジオで催されたコンサートで、ノルベール・ノジ(Norbert Nozy、第55話:ノルベール・ノジとの出会い、参照)指揮、ロワイヤル・デ・ギィデ(Royale des Guides)吹奏楽団のコンサートで行なわれ、そのライヴは同放送からFMステレオでオンエアされた。

ヨハンにとって、この“ロワイヤル・デ・ギィデ”による初演は、たいへん名誉なことだったという。

1993年夏、アムステルダムの彼の自宅を訪れた際、そのコンサートのポスターがまるで宝物のように壁に飾られているのを目のあたりにして、実際そう感じた。

一方、日本では、大阪市音楽団(市音)が、1990年のミッド・ウエスト・クリニックにプログラム委員を派遣し、この交響曲の情報をゲットしていた。

この当時、アメリカでこの作品の楽譜を取扱っていたのは、指揮者フレデリック・フェネル(Frederick Fennell)夫人のエリザベスさんが社長をつとめるLudwig Musicだった。

フェネル自身は、この作品に好意的ではなかったが、市音のプログラム委員は、クリニックで第1楽章を聴いた後、日本のディーラーを通じて直ちに全楽章の楽譜セットを発注。この結果、1991年4月27日(土)、森ノ宮ピロティホール(大阪市中央区)における「大阪市音楽団 吹奏楽フェスタ’91」で、その年の注目曲として紹介され、市音団長、木村吉宏の指揮で、第1楽章のみの本邦初演が行なわれた。

当時、筆者は、東芝EMIの「吹奏楽マスターピース・シリーズ」(第54話 ハインツ・フリーセンとの出会い、参照)の企画が始まった1990年以降、打ち合わせのために大阪城公園内にあった市音の事務所をたびたび訪れていた。

そんな1991年のある日、木村さんから、突然『来年5月の定期でやるプログラムに、なんぞ(何か)エエ(いい)アイデアないか?』と尋ねられた。

反射的に『今このタイミングでやるんだったら、“指輪”全曲の日本初演しかないでしょう。楽譜もあるんだし。』と答える。

当時なぜか“20万円”もした超話題曲の“指輪”の楽譜がせっかく揃っているのに、第1楽章を演奏しただけで楽譜庫に眠らせてしまうのは、正しく宝の持ち腐れ。大阪市民の1人としても、それはあってはならないことと思えた。

木村さんのメガネの奥の目がキラリと光った。

しかし、ここからが大変だった。木村さんが会議で持ちだしたこの提案に対し、“定期で40分を超える曲をやるなんて…”と団員から猛反対の声が巻き起こったのだ。

しかし、独特の嗅覚から、このプランに過去の市音のプログラムにはない何かを嗅ぎ取っていた木村さんは、諦めなかった。団員を説き伏せ、ついにはこの大曲へのアタックを決めてしまったのだ。

決定後すぐに電話があった。もちろん大阪流の言い回しだが、『決まったでー。無理やり決めたった。』と話す木村さんの声は、とても愉快そうだった。

しかし、イザやると決まると、ぜひとも実り多きものにしなければならない。

NHK音楽番組部ディレクターの梶吉洋一郎さんから、『何か面白い話はない?』と電話がかかってきたのは、それから少したった頃だった。

前話(第58話 NHK – 生放送!ブラスFMオール・リクエスト)でお話ししたように、作品の概要を説明すると、彼は『それは、面白い!』とすぐ喰いついてきた。

だが、話をしながらも、一方で、以下のようなハードルの高さも感じていた。

・NHKの音楽制作では、大阪市音楽団がまるで認知されていないこと

・大阪市音楽団が、東京ではなく、一地方都市の楽団であること

・ヨハン・デメイの作品が過去に放送されたことがないこと

・受賞曲とはいえ、『指輪物語』が未知の作品であること

・吹奏楽にシンフォニーがあることが認識されていないこと

などなど、ネガティブな要素だらけだった。

権威主義で鳴るNHKが受け入れることができるのは、唯一、『指輪物語』が受賞した“サドラ―賞”の審査委員長が、世界的指揮者サー・ゲオルグ・ショルティだったことぐらいしか見あたらなかった。

しかし、持ち前のバイタリティーで、梶吉さんは、中継車を東京から大阪まで運んできてしまった。

こうして、1992年5月13日(水)、ザ・シンフォニーホールで開催された「第64回大阪市音楽団定期演奏会」で日本初演された交響曲第1番『指輪物語』の収録は、NHKのスタッフによって行われた。

いいライヴだった!!

だが、実際には、8月16日の放送当日、番組が始まって“指輪”の演奏が流れる寸前まで、NHKの局内では、いきなり市音の演奏を全国放送に出すことについて、まだアレコレ雑音が渦巻いていた。

しかし、坪郷佳英子アナウンサーが曲名などの“ワク”をつけ、盛大な拍手につづいて、冒頭のファンファーレが鳴り響き、ワグナー調の雄大なテーマが流れると、それまで煩かった百戦錬磨の音楽のプロたちも一様に聴き耳をたて始めたのである。

梶吉さんもホッと胸をなでおろしたことだろう。

この日、大阪市音楽団とヨハンの交響曲は、NHKを沈黙させた!

 ▲大阪市音楽団のパンフレット(1995年頃)

▲第64回大阪市音楽団定期演奏会、プログラム

 ▲同、演奏曲目

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