■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第52話 ウィンド・アンサンブルの原点

 ▲Roger E. Rickson著、ffortissimo – A Bio-Discography of Frederick Fennell – the first forty years 1953 to 1993(Ludwig Music/ 出版:1993)

 ▲同、自筆サイン

▲LP – American Concert Band Masterpieces(米Mercury、MG 40006)(初回盤)]

佼成出版社の音楽出版室が、録音や制作から完全に撤退してから、かなりの時が流れた。

新しいものを広く発信しようとする意欲に燃えた彼らがリリースした東京佼成ウインドオーケストラ等のレコードやCDが、日本の、いや全世界のウィンド・ミュージックに及ぼしたプレゼンス、そして音楽界全体への貢献は、ちょっと簡単に比較対象が見つからないほど、大きなものだった。

彼らは、また、1枚1枚のレコードやCDを“作品”と位置付け、とても大切に扱ってきた。完全撤退後、配信だけが残されたとき、それは“127作品”という途方もない数字に達していた。

誰かがもう一度やろうと試みたとしても、およそ再現不可能な、わが国吹奏楽レコード史上空前絶後の金字塔だったわけだ!

第47話「ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動」でお話ししたように、佼成出版社が制作した東京佼成ウインドオーケストラのレコーディングは、基本的に2つの制作方針にもとづいて作られていた。

1つが、常任指揮者など、楽団サイドからの希望や提案で制作されたもの。

もう1つが、客演指揮者を起用する“ゲスト・コンダクター”シリーズだった。

1989年、東京佼成ウインドオーケストラ初の海外録音としてリリースされた2枚のCDなら、常任指揮者のフレデリック・フェネル(Frederick Fennell)が指揮した「フランス組曲」(佼成出版社、KOCD-3101)が前者、エリック・バンクス(Eric Banks)の客演指揮による「ドラゴンの年」(同、KOCD-3102)が後者に当たる。

この2タイトルの制作過程は、第41話「フランス組曲」と「ドラゴンの年」、でお話ししたとおりだ。

その後、佼成出版社では、常任指揮者フェネルが指揮したCDだけは、他とは一線を画して“ffシリーズ”と呼ばれるようになった。フェネルに対するリスペクトから、彼の名前のイニシャルからとったネーミングだった。

フレデリック・フェネル(1914~2004)は、エドウィン・フランコ・ゴールドマン(Edwin Franko Goldman)やリチャード・フランコ・ゴールドマン(Richard Franko Goldman)、モートン・グールド(Morton Gould)、ウィリアム・D・レヴェリ(William D. Revelli)、A・オースティン・ハーディング(A. Austin Harding)、マーク・ハインズリー(Mark Hindsley)、ハリー・ビジオン(Harry Begian)、レナード・ファルコーニ(Leonard Falcone)らと並び称される、20世紀アメリカのウィンド・ミュージックに大いなる足跡を残した指導者、指揮者の1人である。

この内、フェネルの音楽的功績を最も特徴づけているのは、1952年、米ニューヨーク州ロチェスターにあるイーストマン音楽学校(Eastman School of Music)に、世界初のウィンド・アンサンブルとなった“イーストマン・ウィンド・アンサンブル(Eastman Wind Ensemble)”を誕生させ、多くの作曲家たちにこの新しい合奏体のために新作を書いて欲しいと手紙を差し出したこと。その後、アメリカのマーキュリー・レーベル(Mercury)に合計22タイトルのLPレコードをレコーディングしたことだった。

イーストマン音楽学校は、ロチェスターの地に1850年に創立された私立大学、ロチェスター大学(University of Rochester)の音楽専門学校だ。1921年、ロール・フィルムの発明者、そして、フィルム・メーカーであるイーストマン・コダックの創業者として知られるジョージ・イーストマン(1854~1932)の私財で創設された。日本流に考えると“大学の音楽学部”あるいは“音楽大学”にあたる存在ながら、大学から独立した名前が冠せられているのには、創設時のこうした経緯による。

音楽とはまったく関係のない話ながら、ロチェスター大学の医歯学部を創設したのもジョージ・イーストマンだった。

さて、フェネルのウィンド・アンサンブルの着想は、かいつまんで説明するなら、この種の管楽の音楽を演奏する場合、最大編成でやるより、最少の編成でやる方がより効果が上がるという観点から、クラリネット以外は、作曲家がスコアに書いたパートを各1人のプレイヤーで演奏させるというスタンスのものだった。これは、およそ、シンフォニー・オーケストラの管楽器セクションをそっくり取り出し、クラリネットだけを重複させた姿の合奏体だった。

無論、このアンサンブルを実現するためには、各奏者にソロイスト級の実力があることが前提としてあった。

イーストマン・ウィンド・アンサンブルのメンバーは、選抜されたイーストマン音楽学校の学生で構成された。

フェネルが、この新しいグループに、伝統的な“バンド”という呼び方ではなく、“ウィンド・アンサンブル”という呼称を使ったのは、内外にひじょうに鮮烈な印象を与えた。

イーストマン・ウィンド・アンサンブルの最初のレコードは、1953年5月14日、イーストマン音楽学校のイーストマン劇場で収録された「アメリカン・コンサート・バンド・マスターピーシーズ(American Concert Band Masterpieces)」(米Mercury、MG40006、モノラル録音、30cm LP)というアルバムだった。

収録されたレパートリーは、以下の各曲だった。

・ジョージ・ワシントン・ブリッジ  
(ウィリアム・シューマン)
George Washington Bridge(William Schumann)

・ディヴェルティメント・フォー・バンド
(ヴィンセント・パーシケッティ)
Divertiment for Band(Vincent Persichetti)

・バラード・フォー・バンド
(モートン・グールド)
Ballad for Band (Morton Gould)

・古いアメリカン・ダンスによる組曲
(ロバート・ラッセル・ベネット)
Suite of Old American Dances(Robert Russell Bennett)

・タンブリッジ・フェア
(ウォルター・ピストン)
Tunbridge Fair (Walter Piston)

・コマンド・マーチ
(サミュエル・バーバー)
Commando March(Samuel Barber)

佼成出版社のレコーディングで泊ったホテルで、フェネル夫妻と朝食をご一緒し、このアルバムのことやウィンド・アンサンブルについて話す機会があった。

1991年10月25日(金)、京王プラザホテル多摩でのことだ。

短い時間ながら、いろいろな話ができたが、“アメリカでリリースされたオリジナル・マーキュリー盤をすべて持っている”と話す筆者に、『あら、この人あなたのお得意さんじゃないの。』というエリザベス夫人(“ブラザー・ベティ”のニックネームで知られた音楽出版社Ludwigの社長)の反応に、フェネルもご機嫌で、録音やウィンド・アンサンブルの話をしてくれた。

その多くは、イーストマンに学んだ秋山紀夫さんや三浦 徹さんが雑誌記事や解説の中で紹介されてきたことで、すでに知識にあったことばかりだったが、それをあらためてフェネルの口から直接聞けたことは、本当に大きな収穫だった。

その際、ちょっと不躾かなとも思いながらも、若気の至りで突っ込んだ質問もしてみた。

“イーストマン後、日本では、あなたが提唱したコンセプトとはまるで異なる名ばかりの“ウィンド・アンサンブル”だらけで、少々ガッカリしているんですが…”と言う筆者に、『そんなにガッカリすることはない。世界には、オランダ・ウィンド・アンサンブル(Netherlands Wind Ensemble)のようなグループも出てきたし..。』と、かつて彼が提唱した“ウィンド・アンサンブル”が、管楽合奏の世界に確かな変革をもたらしたことを優しい口調で語ってくれた。

米マーキュリーが、フェネルが指揮した世界初のウィンド・アンサンブルのアルバム「American Concert Band Masterpieces」をリリースした時代は、LPレコードが登場して間もない頃だった。

当然、カッティングやプレス技術、さらには写真のカラー印刷技術も日進月歩で改良が進んだ。マーキュリーもそれらをいち早く取り入れて規格を変更。「American Concert Band Masterpieces」も、ジャケットをハドソン川にかかる有名な吊り橋“ジョージ・ワシントン・ブリッジ”のカラー写真に変更して再リリース(米Mercury、MG 50079)された。

1961年にマーキュリー・レーベルがオランダのフィリップス(Philips)に買収されると、マスターもすべてオランダへと渡ったため、しばらくマーケットから姿を消したが、その後、オランダ・フィリップスの技術で電気的に疑似ステレオ化されたオランダ・プレスが登場。マーキュリー・ゴールデン・インポーツ盤(Mercury Golden Imports、SRI 75086)として、アメリカへ逆輸入された。

日本では、イーストマン・ウィンド・アンサンブルのレコードは、最初、キングから登場。1961年以降は、日本ビクターからリリースされたが、当初はレコード会社好みの“景気のいい派手な演奏をするマーチ・アーティスト”の扱いだったので、1968年までマーチ以外のレコードは一切発売されなかった。

結局、「バンド・コンサート珠玉集」というタイトルでこのアルバムがリリース(Mercry、PC-1621(M))、モノラル)されたのは、マーキュリーのレーベル契約が1970年に日本フォノグラムに移行した後の、1975年のことだった。

1953年のレコーディング後、22年後の出来事である。

▲Mercury、MG-40006 A面レーベル

▲Mercury、MG-40006 B面レーベル

 ▲LP – American Concert Band Masterpieces(米Mercury、MG 50079)(再発盤)

 ▲LP – American Concert Band Masterpieces(Mercury – Golden Imports、SRI 75086)(オランダ・プレス/疑似ステレオ)

 ▲LP – バンド・コンサート珠玉集(Mercury(日本フォノグラム)、PC-1621、モノラル)

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