▲CD – 交響詩「スパルタクス」(佼成出版社、KOCD-3901)
東京佼成ウインドオーケストラが、1989年6月29日(木)~7月23日(日)の日程で行なったヨーロッパ演奏旅行は、楽団初の海外公演というだけでなく、ヨーロッパ各国で大きな反響を巻き起こし、音楽的にも多くの成果をあげた。
その最大の“お土産”ともいうべきものが、ロンドンのエンジェル・レコーディング・スタジオで、常任指揮者フレデリック・フェネルと客演のエリック・バンクスの2人の指揮で各個にレコーディングされ、帰国後の10月25日に同時リリースされた「フランス組曲」(佼成出版社、KOCD-3101 / 指揮:フェネル)、「ドラゴンの年」(同、KOCD-3102 / 指揮:バンクス)の2枚のCDだ!
レコーディングに至るプロセスは、第41話:「フランス組曲」と「ドラゴンの年」、でお話ししたとおりだ。
時代を振り返ると、1980年代が終わりを告げようとするこの当時、日本の音楽産業は、ちょうどレコードからCDへ移行する過渡期にあった。各社の新譜リリースも、LPレコードだけだったり、CDだけだったり、あるいはLPレコードとCDの両方だったり、カセットもあったりと、まるではっきりしなかった。
ソフトをリリースする側にメディア選択の迷いがあり、どのメディアの製品がマーケットで支持されるのか、皆目見当がつかなかった訳だ。
しかし、佼成出版社のこの2枚のマスターは、当時最先端のDATテープで作られ、デジタル録音の特質を生かす意味でも、リリースは“CDのみ”と決定!
勇気あるこの決断は、今後は完全にCDにシフトすると見切った先見性からだった。
当然、リリースされたCDは、多方面の注目を集めることになる。
その後、プロジェクトのリーダー役だった同社の柴田輝吉さんから電話が入ったのは、明くる1990年の春のことだった。
ちょうどこのとき、筆者は、6月2日(土)~3日(日)、東京・普門館で催される“第10回 ’90普門バンドフェスティバル”に出番があり、東京に出る予定があったので、柴田さんとは、フェス終了後にミーティングを持つことにした。
ミーティングでは、まず、2枚のイギリス録音盤のリリース後の動きが報告された。
その後、元々“ウインド”(柴田さんは、東京佼成ウインドオーケストラのことをいつもこう呼んでいた)から出たアイデアのレコード化からスタートした同社吹奏楽レコード事業の制作コンセプトについて、あらためて説明を受ける。
掻い摘んでいうと、これまでに制作したレコードやCDには、基本的に2つの流れがあるという話だ。
1つは、楽団や常任指揮者のアイデアによるもの。
もう1つは、客演指揮者によるもので、アルフレッド・リード(1981年録音)に始まり、フレデリック・フェネル(1982)やロバート・E・ジェイガー(1983)、アーナルド・ゲイブリエル(1983)などのレコードがこれに該当した。同社では、それらを〈ゲスト・コンダクター・シリーズ〉と呼んでいた。
ロンドン録音にエリック・バンクスを起用できたのも、この基本コンセプトが社内で認められていたから実現したという話だった。
一方で、CD「ドラゴンの年」に収録されたレパートリーは、“ウインド”になかった曲ばかりで、とても新鮮だった、とも言われた。
そう言えば、レパートリーは、すべてイギリスの作品だった。
そして、これが肝だったが、佼成出版社としては、さらなるラインナップの充実のために、これまでどこも手掛けておらず、できればシリーズ化できるようなアイデアが欲しい、と求められたのだ。
『何か、アイデアをお持ちですか?』と。
一瞬、間を開けた後、筆者は、80年代半ばから暖めていた2つのアイデアを披露した。
・ウィンドオーケストラのための交響曲全集
・ヨーロッパのオリジナル作品を体系的に取り上げるシリーズ
前者は、“吹奏楽を見下ろす空気”が充満する管弦楽優位の日本の音楽界に一石を投じるアグレッシブな企画であり、後者には、オリジナルといえばアメリカという“盲従的な空気”を一度シャッフルし、リフレッシュさせる狙いが込められていた。
いずれも、これまでの日本の商業レコードには存在しないシリーズで、プロのウィンドオーケストラが先頭をきって取り組んで欲しい企画だった。
幸い、レパートリーには困らない。
柴田さんのメガネの奥がキラリと光る!
実はこの時、すでに頭の中では、具体的な曲名が浮かんでは消え、消えては浮かびを繰り返していたが、この日は、大枠の提案だけにしておき、一度、社内や“ウインド”でもアイデアを揉んでいただくことにした。
その後、幾度か擦り合わせを重ねた後に実現したのが、後に大ブームを巻き起こすことになる「ヨーロピアン・ウィンド・サークル」シリーズだった。
“ウインド”としても、客演指揮での企画なら異存がないという話だった。
後から振り返ると、この佼成出版社からのオファーは、まるで計ったように絶妙のタイミングで出た話だった。
ちょうどこの頃、イギリスのフィリップ・スパーク、ベルギーのヤン・ヴァンデルロースト、オランダのヨハン・デメイ、スイスのフランコ・チェザリーニなど、個性的な作曲家の活躍が始まっていたからだ。
シリーズの選曲は一任されていた。
そこで、第1弾CDの交響詩「スパルタクス」では、先行リリースされたCD「ドラゴンの年」とも関連を持たせつつ、後につづくCDへのガイド的役割も与え、ヨーロッパで新しい潮流を巻き起こしつつあったフレッシュな顔ぶれをできるだけ多く登場させた。
最終的に決めたのは、
・序曲 2000(Ouverture 2000)
Henk van Lijnschoten
・エル・ゴルぺ・ファタル(El Golpe Fatal)
Dirk Brosse
・ノルウェーの海の情景(A Norwegian Sea-Pictures)
Johan Halvolsen / Jan Eriksen
・シアター・ミュージック(Theatre Music)
Philip Sparke
・バンドのための間奏曲(Interlude for Band)
Franco Cesarini
・交響詩「スパルタクス」(Spartacus – symphonic tone poem)
Jan Van der Roost
というラインナップ。
日本では、ほぼ“知名度ゼロ”の作曲家の作品ばかりだった。
しかし、このプログラムでは、レパートリーを単に並べた“~~音源集”のようなカタログ的性格ではなく、コンサートのようなストーリー性をもたせることで、オープニングからフィナーレまで一気に聴けるよう、最初から曲順にこだわった選曲を試みている。
客演指揮は、この種の録音をいくつも手掛けているオランダのヤン・デハーン(Jan de Haan)にオファー。声を掛けたら、二つ返事でOKしてくれた。
また、初期段階から、第2弾にフィリップ・スパーク、その後にヤン・ヴァンデルローストを客演指揮で招くことを提案。こちらも、概ね了解を得ていた。
とは言うものの、当時、日本では、“吹奏楽のオリジナル曲”と言えば、すなわちアメリカの作品を意味した。
一方のヨーロッパ作品は、伝統的クラシック音楽と同じ土壌の中で育まれてきた作品だけに、メロディアスだが、演奏現場では“キャラ”としてまるでなじみがなかった。
中身には大きな手ごたえを感じていたが、最初からいきなりの爆発的ヒットなど、期待してはならないことも分かっていた。
シリーズは、時間と手間をかけて熟成させ、先行の「ドラゴンの年」から4枚のCDが出揃ったあたりで、はじめて成果を問えるような、そんな長期プロジェクトだった。
シリーズ初の録音セッションは、1991年9月26日(木)~27日(金)の両日、普門館において行なわれた。
ディレクター&エンジニアは、録音界の大御所、若林駿介さん。
初顔合わせの指揮者と東京佼成ウインドオーケストラは、限られた時間の中でベストを尽くすべく、ホットな音楽的バトルを繰り広げる!!
言葉のやりとりも含め、正しく異文化交流の真剣モードだった!
そして、ヨーロッパのオリジナルが初めて日本の空気に触れたこの瞬間!!
何かが、確かに起ころうとしていた!
「■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第47話 ヨーロピアン・ウィンド・サークルの始動」への4件のフィードバック