■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第44話 朝比奈 隆と大栗 裕

▲大栗 裕

▲歌劇「赤い陣羽織」(日本オペラ協会 / 1971)

▲歌劇「夫婦善哉」(関西歌劇団)

関西に根ざした作曲家、大栗 裕(1918~1982)さんのご自宅は、大阪と京都のちょうど中間点にある枚方市樟葉にある。

京都女子大学の教授をつとめる一方、大阪音楽大学でも教鞭をとり、大阪フィルハーモニー交響楽団や関西歌劇団、大阪市音楽団などと密接な関係をもっていた氏には、両都市を結ぶ京阪本線「樟葉」駅周辺に広がるこのニュータウンは、とても利便性の高いロケーションにあった。

そして、没後10年にあたる1992年、のちに「大栗 裕作品集」(東芝EMI、TOCZ-9195)としてリリースされることになる大阪市音楽団(市音)の演奏によるレコーディングやプログラム・ノートの整備にかかわって以降、筆者は、大栗夫人の芳子さんから生前のお話を伺おうと何度か電話で連絡を試みていたが、何故かいつもご不在。結局、お会いすることが叶ったのは、その年の暮れ、12月2日(水)のこととなった。

そんな経緯もあり、「大栗 裕」と表札がかかる樟葉のご自宅でお話しを伺うことができたときには、作品集CDのプログラム・ノートはすでに出稿後で校正を待つばかりという段階にあった。このため、残念ながら、そのとき伺った興味深いお話をCDブックレットに盛り込むことは叶わなかったが、それでも、作曲家・大栗 裕の人となりについて、見識をさらに深めることができた。

中でも興味深かったのは、ホルン奏者として鳴らした氏が、ピアノではなく、得意だったハーモニカで曲を書かれていたという話だった。

あの独特のハーモニーの秘密も、どうやらハーモニカにあったようなのだ。

『作曲に息詰まっていたとき、窓の外の電線にとまる雀たちを指さして、“あれなんかはどう?” なんて話しましたら、とたんに筆が進みだしたこともありましたよ。』と話される夫人は、そんな話をとても愉しげに話して下さる。

そして、『これらは、あなたに預かっていて欲しい。』と言われ、書き込みのあるオペラの進行台本や写真など、多くの遺品を手渡されることになった。(さすがに想い出の詰まる写真だけは、後日、返却した。)

また、指揮者の朝比奈 隆さん(1908~2001)とは、10歳違いながら、誕生日が同じ7月9日であることから、誕生日には、いつも神戸の朝比奈家に両家族が集まってお祝いをしたという話も伺った。

大栗さんは、両親の強い反対で音楽学校への進学を一度は断念したものの、音楽への情熱は絶ちがたく、単身上京。アルバイトで生活を支えながら、1941年に旧東京交響楽団(現在の東京フィルハーモニー交響楽団の前身)のホルン奏者となった。大戦後の1946年には当時の日本交響楽団(現在のNHK交響楽団)の首席ホルン奏者に迎えられたが、その後、活動を関西に戻し、1949年に宝塚管弦楽団に入団、1950年に朝比奈さんに請われて関西交響楽団(現在の大阪フィルハーモニー交響楽団)に入団した。

以降、2人の親密な関係は終生続き、誕生日の件だけでなく、人間味あふれる2人の愉しいエピソードは、関西の楽壇では今も語り続けられている。

他方、水を得た大栗さんは、1955年に関西歌劇団のために書いた『赤い陣羽織』や1956年の朝比奈渡欧に際し、ベルリン・フィルによって演奏された『大阪俗謡による幻想曲』など、いくつものすばらしい作品を後世に残すことになった。

こんなことがあった。

大阪市音楽団(市音)演奏の大栗作品の録音プランが浮上したとき、2人の関係を知る筆者は、なんとかこの録音に朝比奈さんにも参画していただこうと市音団長の木村吉宏さんに提案した。

『樋口君なぁ、なんちゅうこと(なんということを)言い出すんや!』と仰天した木村さんだったが、自宅でこの話を聞いた朝比奈さんは、『これ、やるからな。あれこれ言うな。』とその場で事務所に電話を入れ、即断していただいた。

市音のコンサート・マスターをつとめていた木村さんは、指揮をしなくてはならない立場になったとき、楽団の了解を得た上で、1年間、朝比奈さんのかばん持ちをした時期がある。直接、指揮法を指導してもらう機会はなかったというが、練習~本番を通じて指揮をする姿や演奏家とのやりとりを真近かで見せることで、多くを吸収させようとされたようだった。なので、木村さんのプロフィールには、「朝比奈 隆氏の薫陶を受け…」というくだりが出てくる。

そして、一見無鉄砲に見える筆者の提案も、こういうバック・グラウンドを知っての発言だった。確証は無かったが、大栗さんとの信頼関係からきっと受けていただけるのではないかという、ボンヤリとした自信はあった。(怖いもの知らずの若気の至りだったかも知れないが…。)

そして、ついに録音日、1992年4月16日(木)がやってきた。

ときは、兵庫県尼崎市のアルカイックホールで行われたセッション2日目の午後。収録曲は、『吹奏楽のための“大阪俗謡による幻想曲”』と『吹奏楽のための小狂詩曲』の2曲で、セッション前2日の練習で、木村さんが下棒をつけ、録音本番だけが朝比奈さんの棒。そういう進行のセッションだった。

モニタールームに現われたマエストロは、『トーンマイスター、よろしく。』とだけ挨拶をかわし、定刻まで誰とも顔を合わせず、楽屋に籠ったきり出てこない。

録音スタッフは当然、ステージ上にスタンバイした市音のプレイヤーのモチベーションも次第に高まっていく。

そして、定刻。マエストロは、わざわざステージ側版のドアを大きく開けて登場。それに気づいた市音のプレイヤーは、演奏家の性というか、この予想外の展開にまるでコンサートのようにザッと鋭い音をのこして全員が一斉に起立。指揮台に歩を進めたマエストロは、プレイヤーを席につけ、勢いよく“大阪俗謡”のタクトを振り下ろした。

“完璧な音の出だった”と、木村さんも含め、その場に居合わせた全員がそう思った。

だが、つぎの瞬間、演奏をサッと止めたマエストロは、『なぜ、合わないんだ!』とステージ上を一喝!

明治生まれの大指揮者は、眼光鋭くプレイヤーと対峙する。

その後、ベルリンで演奏した当時を少し振り返った後、セッションが始まった。

あとはもう、まるで全員が煙に巻かれるように、朝比奈ワールドが炸裂!!

セッションのはずなのに、まるでライヴのような演奏となった。

この当時、“ライヴ以外の録音はしない”と巷では言われていたマエストロのセッション録音は、こうして残されることとなった。

後にも先にも、こんなセッションは見たことない!

終生忘れられない想い出の1つである。

▲CD – 大栗 裕作品集、セッション・シーンから(1992年4月16日、アルカイック・ホール)以下2枚も同じ

 

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