■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第42話 ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990

▲プログラム表紙 – ブラック・ダイク・ミルズ・バンド日本ツアー1990

▲日本ツアー1990の3人の指揮者

▲日本ツアー1990時のバナー

1984年、イギリスの“ブラック・ダイク・ミルズ・バンド(Black Dyke Mills Band)”が初来日した!!

そのときのフィーバーぶりは、第17話「ブラック・ダイク・ミルズ・バンド初来日」でお話ししたとおりだ。

だが、その際、さまざまな反響の中で、筆者が個人的に驚いたのは、普段“所詮ブラスバンドなんか…”と高を括り、うそぶいていたクラシック評論の大先生方が、実際に目の前でナマを聴かされ、“これは一体なんなの!?”と、まるで手のひらを返すように、一様に“驚嘆”するという、予想外の反応を示したことだった!

NHKの年末FM番組でも絶賛された!

“日本の常識は海外の非常識、海外の常識は日本の非常識”と言ったらいいのか、“井の中の蛙、大海を知らず”と言ったらいいのか。おそらくは、未知との遭遇!!

生まれてこの方、気の毒にも“ブラスバンド”というジャンルの音楽をお聴きになったことがおそらくなかったのだろう。

とにかく、この時、音楽評論の世界で“ブラスバンド”という言葉を簡単に口にできない空気が生まれたのは、紛れもない事実だった。

また、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドが、クラシックの評論家に評価の高い英シャンドス(Chandos)レーベルの専属バンドだったため、先生方の“専門外”である“ブラスバンド”のレコードやCDがこのレーベルからつぎつぎリリースされる状況も、実は微妙な影を投げかけていた。

有名クラシック・レーベルの新譜だけにむげに無視はできない…ということで。

一方のブラスバンド・ファンは、イギリスでつぎつぎリリースされるブラスバンドのLPレコードやCDを個人輸入したり、週刊のブラスバンド紙「ブリティッシュ・バンズマン(The British Bandsman)」を定期購読して、最新の音楽と情報に接していた。

プロが“知ったかぶり”をしておかしなことを書こうものなら、ファンからモロに反撃を喰らう、そんな時代が始まろうとしていた。

さて、そんなブラック・ダイク・ミルズ・バンドの再来日が実現したのは、初来日から6年たった1990年のことだった。

実は、この6年という年月の間に、ブラック・ダイクの方でも実に大きな変化があった。

まず、1975年からこのバンドのプロフェッショナル・コンダクターをつとめ、1984年の初来日時も指揮をつとめたピーター・パークス(Major Peter Parkes)が、1989年にバンドを去ったことだ。ライバルである“ウィリアムズ=フェアリー・バンド”のプロフェッショナル・コンダクターに就任するために。

在任14年の間、メジャー・タイトルで18度(全英6度、全英オープン5度、ヨーロピアン7度)の優勝!“ブラック・ダイク史上、最も成功を収めたプロフェッショナル・コンダクター”と謳われ、1985年には、全英、全英オープン、ヨーロピアンの3大タイトルを総なめにする“グランド・スラム”まで達成した指揮者がバンドを離れた影響は大きかった。

前記のシャンドス・レーベルも、ブラック・ダイクとの専属契約を解き、パークスが移動した先のウィリアムズ=フェアリー・バンドと新たな専属契約を結んだ。

メンバーの移動も多く、1984年来日時のプリンシパル・コルネット奏者、フィリップ・マッキャン(Philip McCann)が1988年にバンドを去り、その跡にロジャー・ウェブスター(Roger Webster)が入った。

ソロ・ユーフォ二アム奏者、ジョン・クラフ(John Clough)も同じ1988年にバンドを離れ、代わってロバート・チャイルズ(Robert Childs)が加わった。

ソプラノ・コルネット奏者のケヴィン・クロックフォード(Kevin Crockford)も1989年にバンドを去り、ナイジェル・フィールディング(Nigel Fielding)が加わった。

この時期、スター級だけでこれだけのプレイヤーが入れ替わっているが、その後しばらくの間は移動も激しく、ウィリアムズ=フェアリーに移るプレイヤーも結構いて、後にこのバンドが“ブラック・フェアリー”と呼ばれる要因の1つになった。

このようにバンドの新陳代謝が進む一方で、1980年代はまた、その後の世界のバンド界に大きな影響を及ぼす若い世代の作曲家が台頭し、それまでの楽曲のスタイルとは明らかに一線を画す、魅力的な作品を発表し始めた、そんな時代でもあった。

今やメジャーとなったフィリップ・スパーク(Philip Sparke)、エドワード・グレッグスン(Edward Gregson)、ピーター・グレイアム(Peter Graham)らの作品や編曲が、この時期につぎつぎと発表され始めたのだ。

正しくブラスバンド・レパートリーの変革期だった。

そんな1989年、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドは、驚くべきアナウンスを行なった。

それは、若干32才のオーストラリア生まれ。フィリップ・マッキャンの隣の席で長年アシスタント・プリンシパル・コルネット奏者をつとめたデヴィッド・キング(David King)のプロフェッショナル・コンダクター就任の発表だった。

無論コルネットのオーストラリア・ソロ・チャンピオンだったキングの音楽性は、誰しも疑うところではなかった。マイナーなバンドでの指揮活動も始めていたが、まだ大きな舞台での実績はなかった。

他方、ブラック・ダイク史上、プレイヤーからいきなり指揮者になった例は過去にはなく、この就任はサプライズというだけでなく、ギャンブルにも写った。当然、一部プレイヤーの反発も招き、バンドを去ったものも出た。

キングは、この逆境を、1990年5月5日(土)、スコットランドのファルカーク・タウン・ホール(Falkirk Town Hall)で開催された“ヨーロピアン・ブラスバンド選手権1990(European Brass Band Championships 1990)”の場で見事に跳ね返した。

スコットランド開催ということもあり、セット・テストピース(指定課題)は、スコットランド生まれの作曲家ピーター・グレイアムの「エッセンス・オブ・タイム(The Essence of Time)」だった。

キング指揮、ブラック・ダイク・ミルズ・バンドは、この曲の演奏で、満点が100ポイントの中で、99ポイントという得点でトップに立ち、つづくオウン・チョイス・テストピース(自由選択課題)で演奏したフィリップ・スパークの「ハーモニー・ミュージック(Harmony Music)」でも、99ポイントをゲット!!

合計198ポイントという信じられないハイスコアで見事優勝を飾ったのだ!!

イギリスのバンドとしては、3年ぶりの王者復帰だった!

その直後の1990年6月の日本ツアーは、その勢いのままの来日となった。

ツアーを主催したのは、この時も東京のブージー&ホークス社。

公演は、6月10日(日)の米子に始まり、大阪、福岡、広島(非公開)、松戸(非公開)、東京(非公開)、厚木とつづき、6月19(火)の東京に至る全8公演。

当時、筆者は、同社代表取締役の保良 徹さんの意を受け、企画当初からバンド(つまりキング)と公演演奏曲の曲目の擦り合わせを行った。

そのため、今も手許に多くの資料が残っているが、キングは、このとき、それまでのトラディッショナルなレパートリーを一新!

日本ツアーのプログラムにも、ピーター・グレイアムの「エッセンス・オブ・タイム」と「日の出」(ツアー委嘱作)、フィリップ・スパークの「ハーモニー・ミュージック」と「山の歌」、ジョン・ゴーランドの「瞑想」(ツアー委嘱作)など、ブラスバンドの当時の最新オリジナル曲を積極的に盛り込んできた。

そして、これらがコンサートで大当たり!

スパークやグレイアムの作品が、わが国でこれだけ多く演奏されたのは、間違いなくこのツアーが初めてだった。

リフレッシュされたブラック・ダイクによる最新オリジナル!

新しい時代が今そこに花開こうとしていた!!

▲大阪国際交流センターのステージ(1990年6月11日)

▲CD – European Brass Band Campionships 1990(Heavyweight、HR005/D)

▲同、インレーカード

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