▲25cm LP – On the Mall(米Decca、DL 5386)モノラル
▲LP – I Love to hear a Band!(米Decca、DL 8445)モノラル
▲The Wind Band – Richard Franko Goldman著(Allyn and Bacon、1962)
20世紀アメリカの吹奏楽史において、エドウィン・フランコ・ゴールドマン(1878~1956)とリチャード・フランコ・ゴールドマン(1910~1980)の父子がのこした功績は、アメリカのバンド指導者が例外なく広く認めるところだ。
父エドウィンは、1911年に誕生したニューヨークの有名なプロ吹奏楽団“ゴールドマン・バンド”の創設者であり指揮者で、作曲家としてもおよそ150曲の作品をのこした。アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(A.B.A.)の初代会長としても知られる。
わが国では「木陰の散歩道」という邦題で親しまれる「オン・ザ・モール(On the Mall)」も、エドウィンの代表作の1つで、曲名は、ゴールドマン・バンドがしばしばコンサートを催した野外音楽堂ナウムブルク・バンドシェル(Naumburg Bandshell)が建つニューヨーク・セントラル・パーク最大の並木道“ザ・モール(The Mall)”をさしている。
鋳鉄作りの小さなバンドスタンドに代わって、ナウムブルク・バンドシェルが建設されたのは1923年のことだ。ニューヨーク市民がパーク内にオーケストラも演奏可能なステージを求めたことがきっかけだったと言われている。
第20話でとりあげたノーマン・スミス(Norman Smith)とアルバート・スタウトミアー(Albert Stoutamire)の共著「Band Music Notes」(Revised Edition、Kjos、出版:1979年)の表紙写真のバンドシェルがそれで、名称は、建設資金を提供した銀行家エルカン・ナウムブルク(Elkan Naumburg)の名からとられた。
マーチ「オン・ザ・モール」は、このバンドシェルの完成年と同じ1923年の9月29日、エルカン・ナウムブルク氏を称えるためにバンドシェルに迎え、オーケストラ指揮者フランツ・カルテンボーン(Franz Kaltenborn)の指揮、ゴールドマン・バンドの演奏で初演された。
トリオで、“ラララ”と歌ったり、“口笛”を吹いたりする箇所があるこの曲は、ゴールドマン・バンドのお気に入りとして繰り返し演奏され、レコードがLP時代になった後も、ズバリ曲名をタイトルとするアルバム「On the Mall」(米Decca、DL 5386、モノラル、リリース:1952年)のほか、有名なノーマン・ロックウェル(Norman Rockwell)のイラストがジャケットに使われたアルバム「I Love to hear a Band!」(米Decca、DL 8445、モノラル、リリース:1957年)など、何度もレコード化され、ヒット曲となった。
「木陰の散歩道」という邦題は、吹奏楽にも造詣が深かった音楽評論家、堀内敬三さんの作だと言われている。
一方、息子リチャードは、コロムビア大学卒業後、パリに渡り、ナディア・ブーランジェ(Nadia Boulanger, 1887~1979)に作曲を師事。帰国後、1937年から1956年の間、ゴールドマン・バンドの副指揮者をつとめ、1956年の父の死後、そのあとを受けて正指揮者となった。
音楽博士としてリスペクトされる存在であり、1961年に執筆し、翌年出版された代表的著作「ウィンド・バンド(The Wind Band)」は、吹奏楽の歴史から、編成、レパートリー、オリジナル作品、編曲とスコアリング、課題まで、幅広いテーマを豊富な資料(スコアや写真など)を使いながら解説した、当時としては類例を見ない書物で、世界中の多くのバンド関係者に大きな影響を及ぼした。もちろん、筆者も多くのことを学んだ。
書名を“ウィンド・バンド”としたことも画期的だった。
この“ウィンド・バンド”というワード、それ自体は、日本にもちょくちょく顔を出すようになったイギリスのブラスバンド“ブラック・ダイク・バンド(Black Dyke Band)”の歴史にも、19世紀に“ウィンド・バンドとして創設”(ラフに和訳すると、木管楽器も入った吹奏楽編成で創設)というくだりがあるので、別段新しいものでも何でもない。
しかし、1980年代に筆者が音楽解説の中で使い始めると、各方面から(まるで“潰してやろう”とでもいうような意図さえ感じられる)陰口に晒された。まるで鼻つまみもの扱いだ。おそらく、それまでの日本の音楽界の常識にはなかった“おかしな新語”を作りだした田舎出の解説者がそれを振りかざして生意気だということだったのだろう。
旧態依然とした体質から抜け出せないレコード会社の編成担当者の、音楽上の事象を深く理解したり時代の移り変わりをタイムリーに捉える能力の無さも呆れるばかりだった。
もちろん、筆者が使う以前から、CDのオビに“WIND BAND”という文字を入れてリリースする佼成出版社のような新進気鋭の会社もあったが….。
一方で、鈴木竹男さんのように、自身が指導・指揮をするバンドの愛称を“阪急少年音楽隊”から“阪急商業学園ウィンドバンド”(後の“向陽台高等学校ウィンドバンド”。現在の“早稲田摂陵高等学校ウィンドバンド”)と改名する理解者も現れ、当時このバンドがよく登場した朝日放送(大阪)の番組でも、看板アナウンサーの道上洋三さんが“ウィンド・バンド”というワードを使った。
話を元に戻そう。
エドウィン、リチャードのゴールドマン父子の業績の中で今も輝きをまったく失わないことの1つが、バンドのために書かれたオリジナル・レパートリーの開発だった。
今から1世紀以上も前の1910年代の話である。
オーストラリア出身のすばらしいピアニストで作曲家のパーシ―・グレインジャー(Percy Grainger、1882~1961)とエドウィンの親交が始まったのもこの時代で、直接的には、エドウィンが応募作の審査をグレインジャーに依頼したことがきっかけだった。
1937年3月7日、ウィスコンシン州ミルウォーキーで開催されたA.B.A.年次総会の最終日に作曲者の指揮で初演された「リンカーンシャーの花束(Lincolnshire Posy)」もまた、A.B.A.会長のエドウィンの委嘱で生まれた作品だった。(興味深いことに、この作品のスコアの曲名のすぐ下にある短い説明文には、“set for Wind Band”というくだりが出てくる。)
ロシアの作曲家セルゲイ・プロコフィエフ(Sergei Prokofiev、1891~1953)とも親交があり、作曲者から送られてきた新作「スパルタキアード行進曲(Athletic Festival March)」(作品69-1、1935年)をアメリカ初演したのもエドウィン指揮のゴールドマン・バンドだった。
そして、父のエドウィンもしくは子のリチャード、あるいは特別なゲストが指揮をつとめたゴールドマン・バンドは、ナウムブルク・バンドシェルを含む各会場のコンサートで、委嘱作の初演や海外オリジナルのアメリカ初演あるいはニューヨーク初演をつぎつぎと行った。
ジャケットにナウムブルク・バンドシェルでのゴールドマン・バンドのコンサートの写真が使われている「Band Masterpieces」(米Decca、DL 78633、ステレオ、リリース:1958年)と管楽器の写真をあしらった「The Sound of the Goldman Band」(米Decca、DL 78931、ステレオ、リリース:1962年」のフランコが指揮した2枚のLPは、父子の成果の集大成といっていい。
曲目を見ると、フランソワ=ジョセフ・ゴセック(Francois-Joseph Gossec、1734~1829)の「古典序曲(Classic Overture)」やフェリックス・メンデルスゾーン(Felix Mendelssohn Bartholdy、1809~1847)の「吹奏楽のための序曲(Overture for Band)」、シャルル・シモン・カテル(Charles Simon Catel、1773~1830)の「序曲ハ調(Overture in C)」のアメリカ初演も、ウィリアム・シューマン(William Schuman、1910~1992)の序曲「チェスター(Chester)」のニューヨーク初演も、すべてゴールドマン・バンドが行っていたことがわかり、とても興味深い。
また、ジャケットには、曲名、作曲者名、ゴールドマン・バンドの初演日、指揮者名などの詳細が整理されて載っており、さすがは音楽博士の仕事だとうならせる。
例えば、グレインジャーの「子供たちのマーチ“丘を越えてかなたへ”(Children’s March“Over The Hills And far Away”)」の項には、こう書かれてある。
For Band and Piano. The Composer at the Piano. Composed in 1918. First Performance: The Goldman Band, June 6, 1919, Percy Graingerconducting, Ralph Leopold, piano.
(バンドとピアノのための。(このレコードでは)作曲者がピアノを担当。1918年に作曲。初演: ゴールドマン・バンド。1919年6月6日。パーシ―・グレインジャーの指揮。ラルフ・レオポルドのピアノ。)(カッコ内の注釈は、筆者)
時を超える第一級の資料とはこういうものを指す!
当時、米Deccaレーベルと契約関係にあった日本のレコード会社は、テイチクだった。演歌でおなじみの老舗レコード会社だ。
もちろん、米Decca音源のゴールドマン・バンドのレコードもつぎつぎ国内リリースされた。しかし、いわゆる“マーチ黄金時代”の話だ。テイチクが関心が寄せ、発売されたのはすべてマーチだった!
吹奏楽のレコード史上けっして見逃すことのできない「Band Masterpieces」と「The Sound of the Goldman Band」の両盤は、テイチクには見向きもされなかった。
幸いにも、これら収録曲の多くは、その後、およそ15年ほどの時間をかけて、日本国内で新たに録音されるなどして紹介され、今も演奏されるわが国のバンドのレパートリーとなった。
しかし、ゴールドマン・バンドの両盤を見るたび、それらのレパートリーが“ずっと以前からまとまって収録されていた”という衝撃的事実にいつも突き当たる。
これをいったい何と表現したらいいのだろうか。
1960年代初頭といえば、アメリカから“アメリカ空軍交響吹奏楽団”(公演名)、フランスから“ギャルド・レピュブリケーヌ交響吹奏楽団”(同)が来日し、日本の音楽界の“吹奏楽”に対する認識に大きな衝撃を与えた時代だ。間違いなく何かが変わり始めていた。しかし…。
我々は、間違いなく遠回りをしている!
▲LP – Band Masterpieces(米Decca、DL 78633)ステレオ
▲LP – The Sound of the Goldman Band(米Decca、DL 78931)ステレオ
「■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第33話 ゴールドマン・バンドが遺したもの」への2件のフィードバック