■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第24話 ギャルド1961外伝

▲赤松文治著「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」

フランスのギャルド・レピュブリケーヌの1961年の初来日は、今なお日本の音楽ファンの記憶に残る大成功をおさめた。

そのフィーバーぶりは、前々話(第22話)と前話(第23話)でお話ししたとおりだが、1つの吹奏楽団の来日が、これほどの社会現象と化したことは、かつてなく、その後もなかった。

それは、招聘の中心となったのが新聞社というメディアであり、東京エリアを中心とした全日本吹奏楽連盟の全面的サポートがあったことも無論ではあるが、それらとともにけっして見逃せないのは、第2次大戦前から、ギャルドのことは遠く離れたこの日本でも多くの著名人によって語られ、サクソフォーン・カルテットも含めるなら、戦前だけでもおよそ40枚ものSPレコードがビクターやコロムビアから発売され、人気を博していたことだろう。

我が家にも、何故か、パリ・オペラ座の名テノール、ジョルジュ・ティル(Georges Thill、1897~1984)が独唱し、ピエール・デュポン(Pierre Dupont、1888~1969)指揮、ギャルド・レピュブリケーヌがバックをつとめた「ラ・マルセイエーズ(La Marseillaise)」(Rouget de Lisle)と「往時の夢(La Reve Passe)」(Georges Krier & Charles Helmer)がカップリングされたコロムビアのSPレコードがあったことを覚えている。

指揮者のデュポンは、ギャルド来日時の楽長フランソワ=ジュリアン・ブランの前任者で、1927年から1944年まで楽長のポストにあった。

戦前から音楽解説をされていた赤松文治さんの労作「栄光のギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団」(自費出版 / 1988 / 制作:音楽之友社)の序文には、この吹奏楽団がわが国でも注目を集めるようになったのは、“1930年代にコロムビアが発売した数々のレコード”と同じ年に陸軍委託楽長候補者としてパリに留学し、デュポンが楽長をつとめるギャルドに5ヵ月間勤務した山口常光さん(戦後は、警視庁音楽隊初代隊長)が、帰国後に音楽雑誌「月刊楽譜」に詳細な体験記を発表されたことによると書かれてある。

また、雑誌「ブラスバンド」(主幹:目黒三策)も、山口さんを含め、フランス音楽評論家の松本太郎、管楽器研究家の平林 勇、レコード評論家の近江屋清兵衛の各氏の執筆で、当時の情報のすべてをまとめた50ページの特集を組んだことがあった、とも書かれてある。

ともかく、ギャルド・レピュブリケーヌは、日本でも戦前から多くのファンがその名を知る吹奏楽団だった訳だ。そのナマ演奏がはじめて日本で聴けることになった訳だから、盛り上がらない訳がなかった。

そして、その初来日については、吹奏楽専門誌の「バンドジャーナル」が大きく取り上げる一方、来日直前の「音楽の友」1961年11月号(音楽之友社)も前記の松本太郎さんの紹介記事を掲載。来日後の1962年1月号でも、滞在中に撮影された6枚の写真(内1枚は、昭和天皇と皇后の両陛下が国立博物館の庭で演奏を聴かれている場面)を割り付けた2ページのグラビアのほか、東京藝術大学作曲科教授の池内友次郎(いけのうち ともじろう、1906~1991)さんが筆をとった「偶然なめぐり合わせ ギャルド・レピュブリケーヌ隊長ブラン – 池内友次郎」という、とても痛快な寄稿が掲載された。

池内さんは、俳人の高浜虚子(1874~1959)の二男。1927年にフランスに渡り、パリ音楽院でポール・フォーシェ(Paul Fauchet、1881~1937)やアンリ・ビュッセル(Henri Busser、1872~1973)のクラスに学んだ。日本にフランス流の作曲技法を持ち帰った日本作曲界の牽引者の1人だった。

和声法や対位法などの著作も多いが、師のピュッセル著を訳編した「パリ楽壇70年」(1966年 / 音楽之友社)は、当時のフランスの作曲家の活動がまるで日記帳のように細かく語られ、写真もふんだんに盛り込まれていることから、筆者のお気に入りの1冊となっている。

また、フォーシェは、日本では、ギャルド・レピュブリケーヌが初演した「吹奏楽のための交響曲(Symphonie pour Musique d’Harmonie)」(1926)の作曲者としても知られる。

そして、池内さんが学んでいたフォーシェのクラスに新入生として入ってきたのが、かのフランソワ=ジュリアン・ブランだった。

寄稿では、2人の出会いに始まり、机を並べて学んだ学生時代、戦後デュポンのあとを受けてギャルドの楽長になったブランとのパリでの再会、ギャルド来日時の数々のエピソードなどが語られている。

バリでのくだりでは、『今の君の地位は立派だと思う』という池内さんに対し、ブランはそれには答えないままに『全員を連れて日本に行ってみたい、とそのことだけをくりかえし私に念を押していたのであった。』(原文ママ)と書かれてある。

筆者の知る限り、ギャルドとブランについて、これほど私的で愉快なサイドストーリーはない。和服姿の池内さんと制服姿のブランがどこかの食堂のテーブルで親しげに語り合っている写真も貴重だ。(状況から、この写真は、11月2日、国立博物館での美術展開催のための儀礼演奏を終え、東京文化会館の食堂で昼食をとったときのものと思われる。)

大阪芸術大学教授で作曲家の田中久美子さんとこの話題で盛り上がったことがある。

そのとき、田中さんから『東京の池内先生のご自宅に月2回のプライベート・レッスンで伺っていたとき、先生がふいに“「ボレロ」の吹奏楽での初演をギャルドの演奏会でラヴェル自身の指揮で聴いた”と話されたことがあった。』と聞いて驚いた。

慌てて赤松文治さんの本を読み返すと、当時のフランスの作曲家たちは自作がギャルドで試奏されるのを聴くためにしばしば練習場を訪れていて、そこでデュポンが編曲した「ボレロ」の試奏を聴いたラヴェルが満足の意を表したこと、そして、1931年6月9日の演奏会でラヴェルが「ボレロ」を指揮したことが書かれてあった。時期もピッタリ符合する。池内さんが聴かれたのはこの日の演奏会だったと思われる。

ブランの前任者デュポンも、実は同じフォーシェのクラスで和声法、対位法、フーガを学んでいる。そのポジションを親友のブランが引き継いだのだから、池内さんにとってこれほど痛快な出来事はなかった。

話は少し跳ぶが、来日プログラムには、音楽評論家の堀内敬三さんをはじめ、前記の山口常光さん、陸上自衛隊中央音楽隊初代隊長の須磨洋朔さん、東京藝大の山本正人さんが熱筆を振るわれている。

その中の須磨さんの寄稿には、来日1年前の1960年秋にローマ・オリンピックの視察も兼ねて渡欧した須磨さんが、9月30日にギャルドの練習場を訪れたとき、ビシッと正装で身を固めた楽員に迎えられ、自作の行進曲「大空」を示されて、ブランから指揮を所望されたというくだりが出てくる。

楽譜は、ギャルドと交流のあった赤松文治さんが1959年に贈呈したもので、ギャルドはこれをレパートリーにとり入れていた。1961年の来日で、この曲が唯一日本の曲として正プロで取り上げられ、11月11日の東京文化会館における演奏会で作曲者の須磨さんが客演指揮者としてステージに上がったのにも、こんな背景があったからだ。

須磨さんによると、ギャルドの練習場の壁には、戦前ギャルドに勤務された山口常光さんの写真も掲げられていたという。そして、自作のあと、ドヴォルザークの「新世界交響曲」の指揮も所望され、それを振り終えた後、須磨さんはこう訊いた。

『日本で、ギャルドを招待する計画がありますが、来てくれますか?』(原文ママ)

すると、“全員まるで子供のように飛びあがったり、足ぶみしたりしたりして、「ブラボ―」の連続”だったそうだ。

これだから、バックステージはおもしろい。

いつか忘却の彼方へ忘れ去られるかも知れないギャルド1961の外伝である。

▲アンリ・ピュッセル著、池内友次郎訳編、「パリ楽壇70年」

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