■樋口幸弘のウィンド交友録~バック・ステージのひとり言 第20話 ジェイガー:交響曲第1番

▲ロバート・E・ジェイガー(1990年代、作曲者提供)

日本が初の東京オリンピック開催に向かって邁進していた1963年、アメリカでは、ウィンド・ミュージックの新時代到来を確かに告げる1曲のシンフォニーが産ぶ声をあげようとしていた!

ロバート・E・ジェイガー(Robert E. Jager / 1939~)の『交響曲第1番(Symphony No.1 for Band)』(発表当時の原題:Symphony for Band)がそれだ。

後に、この曲が入った3種のレコーディングと関わり合い、事あるごとに作曲者とやりとりを交わすことになった筆者としてもたいへん縁の深い作品だ。

交響曲は、4つの楽章で構成される。

第1楽章:Andante espressivo – Allegro – Andante

第2楽章:Alla Marcia

第3楽章:Largo espressivo

第4楽章:Allegro con fuoco – Andante – Allegro molto vivace

“徴兵制度”があった時代のアメリカの音楽家には似たような例が山のようにあるが、ジェイガーも、徴兵によりミシガン大学での音楽教育学の勉強を一時中断し、アメリカ海軍にいた時代がある。(1966年1月に復学し、1968年8月に修了。)

『交響曲第1番』は、アメリカ海軍音楽学校(The U.S. Naval School of Music)で音楽理論のインストラクターをつとめていた頃に書かれた作品で、結婚したばかりの1963年2月から11月にかけて作曲された。

作曲者は、この頃、プロコフィエフやショスタコーヴィチの音楽に傾倒しており、この交響曲からもそんな匂いがプンプン漂ってくる。

余談ながら、アメリカ海軍音楽学校は、もとはワシントンD.C.にあったが、1961年からアメリカ海軍ノーフォーク海軍基地にほど近いヴァージニア州ヴァージニア・ビーチ、リトル・クリークへの移動が始まり、1964年8月に移動を完了。アメリカ陸軍のミュージシャンも受け入れていていた事情もあり、アメリカ軍音楽学校(The U.S. Armed Forces School of Music)と改称した。どちらかと言えば今も後者の名で広く知られているが、改称は移動と並行して行われたので、2つの校名が同じ時期に存在した。

ジェイガーの近年のプロフィールでは、“アメリカ海軍の一員としてアメリカ軍音楽学校のスタッフ・アレンジャーとして従事した”という記述が使われている。

この交響曲が完成した時点では、ジェイガーが配属されていた部署は、すでにリトル・クリークに移っていた。

完成後、この作品は、アメリカン・バンドマスターズ・アソシエーション(American Bandmasters Association)のオストウォルド作曲賞(Ostwald Award)に応募され、エントリー70曲の応募作の中から第1位に選ばれた。

この応募に際しては、A.B.A.会長で作曲賞委員会の委員長でもあったポール・ヨーダー(Paul Yoder)に電話を掛けて“応募の締切がいつか”を訊ねたところ、“その日の夜”ということを知り、ワシントンD.C.まで車をとばして試奏をするアメリカ陸軍バンド(The United States Army Band “Pershing’s Own”)にまで楽譜を届けたというエピソードがよく知られている。また、応募に必要な推薦人にも、同じく“締切がさし迫っている”という理由からヨーダー自身が引き受けてくれるという幸運にも恵まれた。

受賞の報せは、年を明けた1964年2月、アメリカ陸軍バンドの隊長サミュエル・R・ロボダ(Colonel Samuel R. Loboda)から電話でもたらされ、発表は、同年3月6~9日、テキサス州サン・アントニオで開催されたA.B.A.のコンベンションの席上、行われた。

その場に臨んだジェイガーは、作曲賞のスポンサーであるアドルフ・オストウォルド(Adolph Ostwald)から賞金750ドルを贈られるととともに、初演を聴きに行くための費用一切を保証された。蛇足ながら、本人に少し突っ込んで質問したところ、『その時、賞状や認定書の類いは一切なく、手元には何もない。』という返答が返ってきた。わかりやすく言うと、受賞はアナウンスによる発表だけだったということだ。

公式初演は、1964年6月9日(火)、ワシントンD.C.の“ザ・ウォーターゲート(The Watergate)”で催されたアメリカ陸軍バンドの火曜恒例のイブニング・コンサートで、ギルバート・ミッチェル(Captain Gilbert Mitchell)の指揮で行われた。翌日のワシントンポスト(The Washington Post)紙で批評家ポール・ヒューム(Paul Hume)が、イブニング・スター(The Evening Star)紙でウェンデル・マーグレープ(Wendell Margrave)が賞賛。大成功を収めた作品は、初演指揮者のミッチェルに献じられた。

▲初演プログラム(作曲者提供)

▲The Washington Post、1964年6月10日(作曲者提供)

この受賞は、当然ジェイガーの音楽学校内の立場にもいい影響をもたらした。音楽理論のインストラクターからスタッフ・アレンジャーになれたのも、この成功のおかげだったとのちに語っている。

『交響曲第1番』の日本初演は、アメリカでの初演の3年後の1967年6月8日(木)、東京文化会館大ホールで開催された「東京藝術大学音楽学部第31回吹奏楽定期演奏会」で、山本正人の指揮で行われた。

当時のプログラムには、「バンドのための交響曲」(R. E. ジャガー)と印刷されていたが、この頃は、自国アメリカでも自分の名前をちゃんと呼んでもらえたことはほとんどなかったという。それこそ“ジャガー”とか“イェーガー”とか。

▲「東京藝術大学音楽学部第31回吹奏楽定期演奏会」プログラム

その後、1968年5月28日(火)、大阪・毎日ホールにおける「大阪市音楽団第17回定期演奏会」でも、辻井市太郎の指揮で演奏されており、このあたりが、日本における第一次演奏ブームだった。

しかし、4楽章構成で演奏時間が20分を超える当時としては規模の大きな作品だ。

全曲が収録されたアメリカ初の商業レコードについては、残念ながら正確な情報を持ち合わせない。有名なシュワン(Schwann)など、1960年代のカタログ類などを精査してもアメリカのメジャー・レーベルがレコード化した形跡はどこにもなかった。

インディーズとしては、ノーマン・スミス(Norman Smith)とアルバート・スタウトミアー(Albert Stoutamire)の共著「Band Music Notes」(Revised Edition / Kjos、1979)に掲載されているジェイガー自身のブログラム・ノートに付属データとして載っているウェイン・ぺグラム(Wayne Pegram)指揮、テネシー工科大学バンド(Tennessee Tech University Band)のものが、最初期の録音の1つだと思われる。

▲Band Music Notes – Revised Edition(Kjos)

“テネシー・テック”の通称で知られるテネシー工科大学(Tenessee Technological University)は、ジェイガーが1971年から2001年まで30年にわたり教鞭をとった大学だ。指揮のウェイン・ぺグラム(1938~2010)も、1968年から35年間、同大学のバンド・ディレクター(Director of Bands)をつとめ、1970年代には、アメリカの出版社ハル・レナードの録音を手掛けている。

前記「Band Music Notes」には、レコードの問い合わせ先として、大学バンドの住所が明示されている。筆者自身は入手に失敗したが、作曲者が関係した録音だけに、21世紀の今頃になって、もっと粘り強く頑張っていればよかったと大いに反省している。

人生の痛恨事の1つである。

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